もうひとつのポピュリズム

 大学教養部時代の友人のY君(西洋史学科へ進んでテレビ会社に勤務した旧友)から6月9日に学士会夕食会の講演会でEUに関する講演を聞いたといい、そのときのペーパーと講師の論文を送ってきた。講師は北大の遠藤乾さんという国際政治学者で、最近中公新書で『欧州複合危機』という本を出しているらしい。私はその本を読んでいないが、Y君には次のような感想を送った。一枚の葉書の表裏にびっしり書くとこれくらいは入るのである。

 拝復 欧州新観察のペーパー及論考一篇ありがとうございます。フランスの選挙結果は、私には遠藤氏と違って、健全のしるしではなく、フランスのドイツへの屈服、ドイツと中国(暗黒大陸)との野心に満ちた握手、反米反日の強化、等々でフランスには幸運をもたらさないように思えてなりません。

 フランスは衰弱が加速している国です。それなのに自由、平等、博愛のフランス革命の理念に夢を追いつづける以外に「ナショナルアイデンティ」を見ることのできない今のフランス国民は、ルペン支持派とは別の、もう一つのポピュリズムに陥っているのではないでしょうか。マクロンもまたポピュリズムの産物だと私は言いたいのですが、いかがでしょうか。

 フランスは三つに分裂している国です。(A)ドイツに支配されてもいい上流特権階層(B)反独・国境死守のルペン派(C)共産党系労働者階層の三つで、この三分裂は欧州各国共通です。一番現実的なのは(B)で、(A)(C)はフランス革命前からずっとつづく流れです。

 (A)が勝ったので、イスラム系移民が増大し、フランス経済は悪化し、マクロンは早晩窮地に立たされるのではないでしょうか。

                           以上 勝手ご免

endou

目ざとい「朝日」の反応

  私は産經新聞6月1日付(前掲)記事において、次のような文章を最後に加えておいた。勿論これは削除されたが、文章の分量が完全にはみ出ていたので、この件の削除に私は異論はない。たゞそこで示唆していた内容がメディアのその後の小さな動きに関連していたので、再録しておく。

 安倍氏は第一次内閣のとき、左翼へ「翼(ウィング)」を広げると称して野党やメディアに阿り、かえってそこを攻撃の対象とされ、他方、味方である核心の保守層からは愛想を尽かされた。今またまったく同じことが始まっている。

 読者は次のようなことを思い出して下さるだろうか。第一次安倍内閣のころ安倍氏は、目立たぬ時期にあらかじめ靖国に行っておいて、「靖国に行ったとも行かなかったとも自分は言わない」と煙幕を張り、間もなく村山談話、河野談話を自分は認めると発言し、祖父の戦争犯罪をまで認知してしまった。いったい安倍さんはどうなっちゃったんだろう、と保守の核心層はひどくびっくりもし、がっかりもしたことを皆さまは覚えておられるだろうか。

 これが「ブレーン」と称する5-6人の取り巻き言論人のアイデアに基づく戦略的発言であったことは後日だんだん分ってきた。こんな姑息なことはしなければ良いのに、と第一次安倍内閣を歓迎していた私などは落胆したものだった。5-6人の取り巻きの名前なども新聞その他に公表されるようになった。天下周知の事柄になった。

 そこで、私の今回の産經発言だが、これにただちに反応したのは朝日新聞(6月4日付二面)で、私からの引用の後に、期せずして次のような内容が記されているの知った。私は新たな発見に目を見張った。

 一方、首相を支えてきた保守論壇にとっては、9条2項削除を含む抜本改正が主流で、今回の提案は「禁じ手」(荻生田光一官房副長官)だった。論客の一人、西尾幹二氏は6月1日付の産経新聞で、首相の9条改正案を「何もできない自衛隊を永遠化するという、空恐ろしい断念宣言」「腰の引けた姿勢」と批判した。だが、首相には、戦後70年談話、慰安婦問題での日韓合意に続き、反発は自身が抑えられるという読みがある。事実、首相提案の環境整備ともいうべき動きが進んでいた。

 「憲法改正には2年ほどしか時間がない。公明にも配慮することにもなるが、現憲法に欠けた言葉を挿入するだけで、目的をある程度達成することができる」

 参院選後の昨年7月末、首相のブレーンと言われ、日本会議の政策委員でもある伊藤哲夫氏が講演で語った言葉が、関連団体のフェイスブックのページに残る。

 この時、一緒に講師を務めた西岡力・麗澤大客員教授は翌月、新聞紙上で9条1、2項を残し、3項に自衛隊の存在を書き込む案を例示した。

 伊藤氏は9月、自身が代表を務めるシンクタンクの機関紙に「『三分の二』獲得後の改憲戦略」とする論考を発表。「改憲はまず加憲」からと前置きしたうえで、9条に、3項として自衛隊の根拠規定を加える案を提言。「公明党との協議は簡単ではないにしても進みやすくなるであろうし、護憲派から現実派を誘い出すきっかけとなる可能性もある」と説いた。

 伊藤氏とかつて全共闘に対抗する学生運動を共にした仲間で、首相側近の衛藤晟一首相補佐官はこのころ、太田氏にささやいた。「9条は(自衛隊の)追加ということでお願いします」

 憲法9条1項、2項を残して3項を新設するという5月3日の安倍発言にはまたしても、ブレーンと称する人々の入れ智恵があったのである。安倍さんは自分で考えたのではない。他人にアイデアを与えられている。「今まったく同じことが始まっている」と私が産經論文の結びに書いた一文は証拠をもって裏付けられた形である。

 森友学園も加計学園もそれ自体はたいした事件ではないと私は思う。けれども思い出していたゞきたい。第一次安倍内閣でも閣僚の事務所経理問題が次々とあばかれ、さいごに「バンソウ膏大臣」が登場してひんしゅくを買い、幕切れとなったことを覚えておられるだろう。野党とメディアは今度も同じ戦略を用い、前回より大規模に仕掛けている。

 同じ罠につづけて二度嵌められるというのは総理ともあろうものが余りに愚かではないだろうか。しかも同じ例のブレーンの戦略に乗せられてのことである。

 憲法改正3項新設もこの同じ罠の中にある。

 安倍さんは人を見る目がない。近づいてくる人の忠誠心にウラがあることが読めない。「脇が甘い」ことは今度の件で広く知れ渡り、今は黙っている自民党の面々も多分ウンザリしているに相違ない。

 保守の核心層もそろそろ愛想をつかし始めているのではないだろうか。櫻井よしこ氏や日本会議は保守の核心層ではない。

北朝鮮の脅威が増す中、9条2項に手をつけない安倍晋三首相の改憲論は矛盾だ

seironnishio
平成29年6月1日 産経新聞 正論欄より
 評論家・西尾幹二

 北朝鮮情勢は緊迫の度合いを高めている。にらみ合いの歯車が一寸でも狂えば周辺諸国に大惨事を招きかねない。悲劇を避けるには外交的解決しかないと、近頃、米国は次第に消極的になっている。日本の安全保障よりも、自国に届かないミサイルの開発を凍結させれば北と妥協する可能性が、日々濃くなっているといえまいか。

 今も昔も日本政府は米国頼み以外の知恵を出したことはない。政府にも分からない問題は考えないことにしてしまうのが、わが国民の常である。が、政府は思考停止でよいのか。軍事的恐怖の実相を明らかにし、万一に備えた有効な具体策や日本独自の政治的対策を示す義務があるのではないか。

≪≪≪防衛を固定化する断念宣言だ≫≫≫

 そんな中、声高らかに宣言されたのが安倍晋三首相の憲法9条改正発言である。しかしこれは極東の今の現実からほど遠い不思議な内容なのだ。周知のとおり、憲法第9条1項と2項を維持した上で自衛隊の根拠規定を追加するという案が首相から出された。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」が2項の内容である。

 この2項があるために、自衛隊は手足を縛られ、武器使用もままならず、海外で襲われた日本人が見殺しにされてきたのではないだろうか。2項さえ削除されれば1項はそのままで憲法改正は半ば目的を達成したという人は多く、私もかねてそう言ってきた。

 安倍首相は肝心のこの2項に手を触れないという。その上で自衛隊を3項で再定義し、憲法違反の軍隊といわれないようにするという。これは矛盾ではないだろうか。陸海空の「戦力」と「交戦権」も認めずして無力化した自衛隊を再承認するというのだが、こんな3項の承認規定は、自ら動けない日本の防衛の固定化であり、今までと同じ何もできない自衛隊を永遠化するという、空恐ろしい断念宣言である。

 首相は何か目に見えないものに怯(おび)え、遠慮し、憲法改正を話題にするたびに繰り返される腰の引けた姿勢が今回も表れたのである。

≪≪≪政治的配慮の度が過ぎないか≫≫≫

 「高等教育の無償化」が打ち出されたのも、維新の会への阿(おもね)りであるといわれるとおり、政治的配慮の度が過ぎている。分数ができない大学生がいるといわれる。高等教育の無償化はこの手の大学の経営者を喜ばせるだけである。

 教育には「平等」もたしかに大切な理念だが、他方に「競争」の理念が守られていなければバランスがとれない。国際的にみて日本は学問に十分な投資をしていない国だ。とはいえ大学生の一律な授業料免除は憲法に記されるべき目標では決してない。苦しい生活費の中から親が工面して授業料を出してくれる、そういう親の背中を見て子は育つものではないか。何でも「平等」で「自由」であるべきだとする軽薄な政治的風潮からは、真の「高等教育」など育ちようがないのである。

もう一つの改憲項目に「大災害発生時などの緊急時に、国会議員の任期延長や内閣の権限強化を認める」がある。趣旨は大賛成だが、真っ先に自然災害が例に掲げられ、外国による侵略を緊急事態の第一に掲げていない甘さ、腰の引け方が私には気に入らない。

 明日にも起こるかもしれないのは国土の一部への侵略である。憲法に記載されるべきはこの事態への「反攻」の用意である。

 ちなみにドイツの「非常事態法」は外国からの侵略と自然災害の2つに限って合同委員会を作り、一定期間統率権を付与するということを謳(うた)っている。ヒトラーを生んだ国がいち早く“委任独裁”ともいうべき考え方を決定している。

≪≪≪2項削除こそが真の現実的対応≫≫≫

 今の国会の混乱は政府が憲法改正の声を自ら上げながら、急迫する北朝鮮情勢を国民に知らせ、一定の覚悟や具体的用意を説くことさえもしようとしないため、何か後ろめたさがあるとみられて、野党やメディアに襲いかかられているのである。中途半端な姿勢で追従すれば、かえって勢いづくのがリベラル左派の常である。
 
 現実主義を標榜(ひょうぼう)する保守論壇の一人は『週刊新潮』(5月25日号)の連載コラムで「現実」という言葉を何度も用いて、こう述べている。衆参両院で3分の2を形成できなければ、口先でただ立派なことを言っているだけに終わる。最重要事項の2項の削除を封印してでも、世論の反発を回避して幅広く改憲勢力を結集しようとしている首相の判断は「現実的」で、評価されるべきだ-と。
 だが果たしてそうだろうか。明日にも「侵攻」の起こりかねない極東情勢こそが「現実」である。声を出して与野党や一部メディアを正し、2項削除を実行することが、安倍政権にとって真の「現実的」対応ではあるまいか。憲法はそもそも現実にあまりにも即していないから改正されるのである。

 日本の保守は、これでは自らが国家の切迫した危機を見過ごす「不作為加憲」にはまっているということにならないか。(評論家・西尾幹二 にしおかんじ)

施線部分は、私の書いた原文では、
 「櫻井よしこ氏は五月二十五日付『週刊新潮』で、『現実』という言葉を何度も用い、こう述べている」と書かれていました。櫻井氏の名前は出さないで欲しい、という新聞社の要望に従い前記のように改めました。要望は、同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくないからだ、という理由によるものでした。周知の通り私は批判する相手の名を隠さない方針なので、少し不本意でした。名を伏せるとかえって陰険なイメージをかき立てるのではないかと憂慮するからです。

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十九回」

 (5-1)本を読むことは、何事かを体験するための手段であり、ある意味では最も効率の低い媒体であって、それ以上でも以下でもない筈なのに、どういうわけか端的にわれわれの自己目的とさえなってしまう。それほどにもわれわれを取り巻いている言葉の世界は層が厚く、われわれは現実から無言の裡に距てられているためだともいえよう。

(5-2)教養主義こそが今日の教養の衰弱の原因である。

(5-3)私たち末流の時代の知識人は、ともあれ他人の言葉を手掛かりにしてしか物事を考えることができない(従って物事を書くことも出来ない)ことに慣れ切ってしまっている。私たちは研究とか、学問とか、評論とか称して、何か創造的に物事を考えた積りになっているが、所詮は古書と古書の間隙を逍遥しているだけである。今日に遺されているのは所詮古人の言葉にすぎまい。しかし言葉は何かの脱け殻であって、実体ではないのだ。しかもこの頼りない、表皮でしかない言葉をあれこれ吟味するのは、言葉の分析それ自体が目的ではなく、言葉の届かない、その先にある何かに接近することが本来の目的だということに、いったい今日の学者、批評家、知識人はどれだけ気がついているだろうか。

(5-4)歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。

(5-5)私たちはヨーロッパ近代を自分の前方に見据えながら、同時に自分の背後に克服していかなくてはならないという二重の芸当を演じて来たし、今なお演じつつある。

(5-6)ヨーロッパ的な味附けだけをしただけの日本の古典論とか、自分が近代的教育を受けて来たにも拘わらず、近代ヨーロッパからの「異世界」への問い掛けにあまり敏感でない自閉的な日本文化論などが、いささか無反省に流布しているのが、当代の知性の特徴であるように私には思える。

(5-7)ニーチェの本は何処から読み始めてもよいし、何処で読み終わってもよいのではないか。丁度音楽は何処から聴き出してもわれわれを引き摺り込んでしまうように、ニーチェの著作はあらゆる処に入口があり、出口があるのだ。論述的な著作の場合でも、文の構造が基本においてアフォリズムだということを物語っていよう。

(5-8)現在を否定し、批判する行為が、とりもなおさずそのまま理想への道だということが凡庸の徒にはどうしても分からない。代案は何か。具体的な方策を示せ。万人が歩める道を教えよ。彼らは必ず目的でなく手段を聞きたがる。(中略)自分で道を試すのではなく、人に道を教えてもらわなくては安心しない。

(5-9)現代はいわば価値の定点がどこにもない。すべての要素が同時に存在し多様化し、開放され、前進型のあらゆる試みがたちどころに古くなるような時代です。なにかの観念や、特定の視点というものは大抵相対化して、普遍的なものとしては成り立ちにくい。が、その反対に、いかなる視点も不可能になったという、いわば近代史を通じてくりかえされてきた自己解体の主題でさえが、ルーチンとなり、妙に安定した意匠となって、再検討を要求されている時代だともいえます。あらゆる問が並立しているのが、まさしくこの現代の姿なのです。

(5-10)虚偽なしで人は生きられない。その限りで虚偽は真理である。しかし真理はまた束の間に過ぎ去り、次の瞬間には虚偽に転ずる。

(5-11)真理は体系化できない。真理は容易に伝達し得ないし、認識し得ないなにかである。真理は認識するものではなく、わずかに接触することが出来るにすぎない。真理はときに言葉になり得ないものから、沈黙から、瞬間的に発現する。平生人は真理にあらざるもので表象し、行動する。真理とは生きるために人が時に応じて必要とするイルージョンである。

(5-12)歴史的教養で頭を一杯にして、自分が何をしたいのか、そして何を言いたいのかさえ分らなくなっている現代知識人の懐疑趣味、もしくは自己韜晦癖

(5-13)近世に確立した人間の主体的自我は、やがては自然を、世界を自己の外に客体化し、ねじふせ、加工し、利用する近代科学の自己絶対化をもたらすに及んだ。十九世紀は無反省なまでにその危険が増大した時代である。世界に存在するいっさいのものが主体的学問の対象となり、対象化できない心の暗部や信仰や芸術までをも解剖し、分析した。

(5-14)ギリシア人はつねに超時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が意識されたことはなかった。

(5-15)思想は今や趣味の問題でしかなく、人間は生きるために生きる以外にどんな生の課題ももち得ず、またもち得ないことに疑問すら抱かなくなっている。それでいて世間は少量の毒ある刺激をたえず求めるが、しかし本気で毒を身に浴びる者はどこにもなく、なにごとにつけほどほどで、人々は怜悧(れいり)になり、あるいは歴史書に慰めを求め、あるいは永生きするための健康書にうつつを抜かす。
 こうした状況を「成熟」とか称して現状肯定する思想家がもてはやされ、その分だけ時代の文化は老衰し、活力を失っていく。だが、にぎやかな鳴り物入りの漫画のような思想は、時代の無目標をごまかすために、人々に一時の快い夢をみさせてくれる。

(5-16)なにもかもが煩わしいからわれわれは差別を恐れ、福祉を唱え、健康を重んじているのであろう。

(5-17)日本にはキリスト教がないからニーチェの言う「神の死」はわれわれの問題ではないという日本人がよくいる。しかし明治以来、近代化の洗礼を受けて、日本人をつつんでいた江戸文化の有機的統一体が失われ、今や国家にも個人にも目的がなく、「彼岸の世界」への信仰ももち得なくなっているのは、まさに現下のわれわれの問題ではないだろうか。「神の死」とはなにも西洋だけの問題ではない。われわれ近代文化全体をつつみこんでいる宿命である。

(5-18)いっさいの現象の仮面を剝いで、裏側の真実を見ようとすること自体が、ひとつの嘘になり、自己欺瞞を招きやすい。

(5-19)本当の不安のうちに生きるとは、ときに仮面を剝いでその裏を覗き見、ときに仮面をそのまま素朴に愛するということを交互にくりかえす以外にはない。いいかえれば、ときにあらゆる真理を疑い、いかなる信念をも使い捨てて、懐疑の唯中に立つかと思えば、ときに嘘と承知でなにかを信じ、いわば手段としての信念を気儘に用いる立場へと転ずる。立場は次から次へと瞬時に変わっていく。どこにも定点はないのかもしれない。

(5-20)一切の価値意識を排除して、純粋に科学的な、厳密に客観的な認識は不可能であるばかりでなく、真の学問にとって有害でさえある。認識には価値観が必要である。と同時に、行動を伴わない単なる認識はけっしてなにかを認識したことにはならない。行動や価値は過去の研究を通じてもなお現在に作用していなければならない。

(5-21)そんなことを言っても、もとより音楽の理解にはなんの助けにもならないが、音楽が一種の文学性(あるいは近代的な感傷性)をもつことによって、かえって音楽自身のために演奏されるようになり、他の従属物でなくなっていったということは、まことに不思議な逆説といえるかもしれない。

(5-22)実人生に敗れた弱い人間、社会の落伍者、失敗者に限って、自分の敗北にも意味があることを別の論理で拡大解釈しようとして、救済を自分以外の世界に求め、自分の弱さから目をそらし、弱点の正当化を試みようとしたがる。これは生命力の衰退のしるしであるが、しかしまた、この自己欺瞞は群をなして、集団力に危険な力として伝播して行く傾向がある。いわば「伝染的な作用をする」のである。

(5-23)デカダンスとは自分で自分を瞞して、眠らせる、麻薬のような世界である。当然、大変に心地良い世界だと言える。そして近代人ほど、幸福の原理でなく快適の原理を求めて倦み疲れている存在もないと言ってよいだろう。

(5-24)真理と名のつくものはことごとくフィクションではないだろうか?物という「概念」が発生したのは、到達できるたしかな「物」が存在しているからではなく、むしろ「物」が存在していないからではないだろうか?同じように、真理という「言葉」が発生したのは、「真理」が認識可能であるためではなく、むしろ逆に、「一つの」真理が必要から捏造(ねつぞう)されたせいではないだろうか?

(5-25)言葉の及ばぬ部分に、言葉を用いることで、なにかの真理が得られたためしはなく、多くの場合には、むしろ逆に、真理(16頁上段から下段「光と断崖」)

にあらざるものに真理という「言葉」を与えただけに終わってしまう(中略)それくらいならむしろ、嘘を嘘としてはっきり自覚した方がよい。言葉の及ぶ部分がどこまでであるかをよくわきまえていることが必要であろう。

(5-26)理解とは理解し得ない自分にまず直面することから始まる、という問い

(5-27)狂気の淵のそば近くまで歩み寄ることによって、正気はかえって明晰になり、洞察の目はますます深く、ますます鋭く物事の核心を捉える

出典 全集第五巻
光と断崖― 最晩年のニーチェ より
「Ⅰ 最晩年のニーチェ」より
(5-1)(9頁下段から10頁上段「光と断崖」)
(5-2)(11頁上段「光と断崖」)
(5-3) (16頁上段から下段「光と断崖」)
(5-4) (24頁下段から25頁上段「光と断崖」)
(5-5) (60頁下段「光と断崖」)
(5-6) (62頁上段「光と断崖」)
(5-7) (97頁上段から下段「幻としての『権力への遺志』」)
「Ⅱ ドイツにおける同時代人のニーチェ像」より
(5-8) (319頁上段)
「Ⅳ 掌篇」より
(5-9) (396頁下段「人間ニーチェをつかまえる」)
(5-10)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-11)(429頁上段「私にとって一冊の本」)
(5-12)(453頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-13)(472頁上段「「教養」批判の背景」)
(5-14)(474頁下段「「教養」批判の背景」)
(5-15)(478頁下段「ニーチェと現代」)
(5-16)(479頁下段「ニーチェと現代」)
(5-17)(481頁下段「ニーチェと現代」)
(5-18)(486頁上段「実験と仮面」)
(5-19)(487頁上段「実験と仮面」)
(5-20)(493頁上段「批評の悲劇」)
(5-21)(496頁下段「ニーチェのベートーヴェン像」)
(5-22)(501頁下段から502頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-23)(504頁上段「自己欺瞞としてのデカダンス」)
(5-24)(516頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-25)(522頁下段「言葉と存在との出会い」)
(5-26)(532頁上段「和辻哲郎とニーチェ」)
「後記」より
(5-27)(559頁)

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十八回」

(4-26)現代では他人の信念は好んで疑うが、事実と名づけられてあればなんでも簡単に信じる人がふえているように、私には思える。語っているのは事物それ自体で、人間は介在していないという主張は俗耳(ぞくじ)に入り易いが、しかしそのようにして主張された事実もまた一個の観念であり、厳密に考えれば主張者の表象であることを免れることはできないのである。事実ほど曖昧で、無限の解釈を許すものもないからである。

(4-27)過去は現在に制約され、未来への意識とも切り離せない。

(4-28)過去を見る立脚点が、一般に十九世紀ほど安定していた時代はなかった。歴史とは何か、過去とは何かに関し共通の了解があり、人はその前提を疑うことを知らなかった。従って歴史に対する素朴な客観主義への信仰が十九世紀全体を蔽っていた。

(4-29)「先入見」を除いて人は過去を認識しうるというが、正確な客観性というような観念も、すでに一つの「先入見」ではないか。

(4-30)いかなる過去も、ついに正確に把握されることはなく、いかなる事実も、ついに完全に再現されることはない

(4-31)過去とは固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。文献学者の客観性への信仰は、過去を既に固定して考えているが、過去の事実とはニーチェが言う通り、「際限のないものであり、完全に再生産することのできないもの」である。と同時に、過去を認識する人間もまた、たえず動いている動態であり、なんらかのフィルターなしではなに一つものを見ることはできない。

(4-32)過去とはわれわれの目に見える光景なのであり、われわれがそれに問を発する限りにおいて存在するものである。しかしだからといってその問いは、単なる主観の反映として歴史を静的に捉えるのではない。そのような安定した構図は最初からわれわれには拒まれている。歴史に関する認識は所詮相対性から脱却することはできないが、われわれは自ら動かずして、同じような動かない過去を認識するのではない。認識するとは、生きながら、行動しながら認識することにほかならず、われわれの情熱は一定地点に立ち止まることを決して許さないだろう。

(4-33)言葉で表現し得ないなにかにぶつかって、初めて言葉は真の言葉となる。言葉では伝達しえないなにかが表面の言葉を支えている、

(4-34)結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。

(4-35)われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。

(4-36)行動とは、たとえいかように些細な行動であろうとも、およそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることに外ならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより、人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われるものだ。

(4-37)人はなんらかの行動を起すためには、そのつど仮面を必要とする。仮面と承知で素面(すめん)を演じるのではなく、素面であると信じ切ることなくしては、それが後で仮面であったと判明する事態も起こらないだろう。そのかぎりで人は騙されること、幻惑されることを自ら欲する瞬間もある。

(4-38)歴史の研究とは、過去を厳密に扱うだけでなく、自ら哲学的に過去の中へ思索するのでなければならない。しかしその思索は観照ではなく、観照する安定した立脚点は現代に生きる人間には与えられていないのであるから、たえず自分の立つ足場を取り外して歩んで行くようなことでなければならない。いいかえれば極度の不確定性の中に立ちつくすことである。

(4-39)ヨーロッパでは、天地創造から最後の審判に至るまでの有限な時間の内部の、くりかえしのきかない(後戻りできない)事象の連鎖であると考えられる限り、歴史は反自然的である。なぜなら自然は永遠にくりかえす世界、悠久無辺、永劫回帰の世界である。歴史の基本は、自然と対立した、人間の一回的な行為の連鎖にある。一回的であるがゆえに、その都度の行為が等価値で、記録に値する。

(4-40)ギリシア人はつねに長時間的なもの、永遠なもののみを考えた。現在の瞬間に生きることが、同時に永遠につながる。自然は同一のものの周期する世界であり、悠久無辺である。時間には発端もなければ、終末もない。キリスト教世界のように、終末の目的が歴史に意味を与えるのではない。ギリシアにも歴史家はいたが、有限な時間が一つの目的へと向かう多くの人間的出来事の連続として、歴史が認識されたことはなかった。

(4-41)日本の近頃かまびすしい教育論争に一番欠けているのは、この理想の観点である。すなわち教育は無償の情熱に支えられるべきで、生活向上のためにあるのではないこと、定まった訓練や修行を経てはじめて真の自由が得られるのであり、青年に無形式の自由を最初から与え、自主性を育てるという考えはなんら自由でも自主性でもない(中略)ニーチェの言葉は現代日本の教育の弱点を的確に指摘している

(4-42)ニーチェが言葉化していることだけが彼の思想ではない。彼がある局面でなにも語っていないこと、つまり彼の沈黙の部分も彼の主張の一つである。

(4-43)人間の体験というのは、言葉になる以前のものを孕んでいるのが常で、後からそれを言葉で再現するのはどだい矛盾をはらんだ作業です。

(4-44)言葉の天才であればあるほど、言葉には及びがたいものがあるということを予感している

(4-45)学問研究は「物語」でなくてはいけない、

出典 全集第四巻
「第三章 本源からの問い」より
(4-26)(459頁上段)
(4-27)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-28)(461頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-29)(468頁下段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-30)
(4-31)(469頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-32)(470頁上段「第一節 歴史認識のアポリア」)
(4-33)(489頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-34)(495頁上段から495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-35)(495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
(4-36)(517頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-37)(518頁上段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
(4-38)(519頁下段「第三節 フランス戦線の夢と行動」)
「第四章 理想への疾走」より
(4-39)(609頁下段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-40)(609頁下段から610頁上段「第三節 歴史世界から自然の本源へ」)
(4-41)(616頁上段「第四節 十九世紀歴史主義を超えて」)
(4-42)(678頁下段「あとがき」)
(4-43)(733頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-44)(737頁上段「渡邊二郎・西尾幹二対談「ニーチェと学問」」)
(4-45)(778頁「後記」)

 

WiLL4月号・ 「岸田外相、御厨座長代理の器を問う!」を読んで(三)

ゲストエッセー
坦々塾塾生 池田 俊二

失態をくりかへす外務大臣

一昨年(2015年)12月の日韓合意。先生が事前に豫想されたとほり、ほぼ反故になりましたね。先生の「日本の公的機關のなすべきは」「二十萬人もの無垢な少女が舊日本軍に拉致連行され、性奴隸にされたと國際社會に喧傳されてきた虚報を打ち消すことであり」、韓國を論理的に説得することでも、經濟カードで威嚇することでもありません」といふ御指摘を當局が理解できず、殆ど何もしなかつたのですから、當然の成り行きですね。

「合意の記者會見で、岸田外相は『當時の軍の關與』をあっさり認める發言をしました。そして再び『謝罪』をし、十億支拂うことを約し、慰安婦像撤去については合意の文書すら殘さず、曖昧なままにして歸國しました。それでも安倍首相はこれをもって完全決着した、と斷定しました」。先生とともに、私も呆氣にとられました。「なぜこんな失態をくりかえす岸田外務大臣の進退が問われないのか不思議」「人間がすべてなのです。『勇氣の欠落』がものごとのすべてをおかしくしている」ーーあの腑が拔けたやうな表情を見ると、なるほど全く「欠落」してゐますね。

「韓國を論理的に説得」? 何度煮え湯を飮まされれば、そんなことは不可能だと分るのでせうか。などと、私がもつともらしい言ひ方をすることはない。日本人が根本的に變らない限り、永久に分らないだらうと觀察されてゐるに違ひない先生の苦いお顏が目に泛びます。

軍艦島

  軍艦島の世界遺産登録に關聯して、韓國に騙されたのは同年(2015年)7月、つまり「日韓合意」の僅か5ヵ月前!のことだつたのです。かうなると健忘症などといふ生易しいものではなくて、學習能力皆無、完全な病氣です。地球上で、今の日本人に固有の症状でせう。やはり「人間」の問題で、先生にはさらに研究していただく價値がありさうです。

 あの時、 遺産登録は成りましたが、「また韓國に瞞され」「日本はありもしない『強制勞働』をあっさりと認めさせられました」ーーこの次第について、先生は直後に論じられましたが、いま再び觸れざるを得ないとは! お氣持は察するにあまりあります。たしかに瞞されたのですが、こちらから進んで瞞されたやうにも見えました。

  ユネスコで、日本の女大使が演説しましたが、明瞭に、” They (Korean people)were forced to work” と言ひました。下線部分は私など高校英語で、「力づくで~させられる」」と教はりました。 韓國が主張する「銃劍の威嚇の下で」にピッタリの表現です。岸田外相は、これは強制勞働(forced labour)とは違ふと言つた由。バカバカしくて、議論になりませんね。

 演説する女大使ののつぺらとした顏は無表情で、自分が何を言つてゐるか分つてゐないやうでした。まして、それが國の名譽や利害にどう影響がするかなんて・・・。
要するに、なにも考へてゐないのでせう。つまり、上司の岸田大臣と全く同じです。

無表情・無思考の人々出現の淵源

 先生の洞察・分析は明快で、ことの筋道がはつきりとしますが、登場人物が安倍さん以下まつたく の ワン・パターンの顏・姿勢・言動しか見せてくれませんので、それに續く私の感想は同じことの繰り返しになつてしまひます。そこで、恐縮ですが、少し脱線させていただきます。

以前、如上の如き近代日本に固有な新人類ともいふべき人たちの、發生状況・生態などについて、少し考へました。その一部に觸れたことがあります。昨年、高校の同級生 關野通夫さんの『いまなほ蔓延る WGIPの嘘』(自由社)を同窓會の文集に紹介すべく、著者宛私信の一部を原稿として送りました(幹事の檢閲によりボツになりました)が、關野さんの岸田外相批判にこと寄せて、固有新人類論を展開しました。

その一節をここにーー

「御著の一節『 岸田外務大臣が稲田防衛大臣の靖国神社参拝を控へろと発言し
たそうです。この岸田という人は、東京裁判史観に骨の髄まで冒され、靖国の英霊を冒涜する国賊です』には完全に同感です。國賊であり賣國奴であるのは、外務大臣だけではありません。總理大臣以下ほとんどみな然りです。彼等は平氣で國を賣ります。何度外國から瞞されても懲りることがなくて、瞞されつづけます。二階にゐるといふ自覺もない上に、WGIPの猛毒を注射されたのですから、そのなれの果ての非・日本人が超低能なのは當然です。惡意で國を賣つてゐるわけではないのです」。

 この「二階」は、前後しましたが、下記からの續きです。

「マッカーサーが、日露戰爭の時の日本の軍人と大東亞戰爭の時のそれを比較
して 『 とても同じ國の軍人とは思へない。前者は、 たとへ教育のない者でも、肝腎な點は きちんと判斷するだけの常識があつた。それが後者にはまるでない』と言つたのは有名ですが、明治以來の歩みを的確に言ひ當てられましたね。私には、日本人・日本といふ國の大變化(墮落) が、そこに如實に現はれてゐると思はれます」。

「 戰前に東北帝大で教鞭をとつた、ドイツの哲學者カール・レーヴィットの『日本人は二階建ての家に住んでゐるやうなもので、階下では日本的に考へたり感じたりし、二階にはプラトンからハイデッカーに至るまでのヨーロッパの學問が紐に通したやうに 竝べてある。ヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き來する梯子はどこにあるのだらうかと 、疑問に思ふ』といふ批判は、圖星です」。

「明治維新を成し遂げた世代にとつて、二階はお神樂ではあつても、その増築工事は自分が擔當したものだつたので、一階からの梯子の位置は勿論、全てが分つてゐた。日露戰爭時の軍人は、普請には參加しなかつたものの、先代を通じて學んだり、見聞きしておほよその樣子は知つてゐたので、二階に上つて 、一階にゐる時の感覺で行動しても、大きな誤りはなかつた。ところが、大東亞戰爭の時の軍人は、工事も先人の苦心も知らないので、二階、一階の區別もつかず、二階については書物による斷片的知識のみ。何がどこにあるかも頭に入れてゐないので 、どう振舞ふべきか分らず、右往左往するだけーーまあ、別の天體に紛れ込んだやうなものでせう。本來の日本人としての智慧や能力を一切發揮できなくなつてしまつたのです」。

そして 僭越ながら、次のやうに結論を出しました。

「(日清戰爭時の)外務大臣陸奧宗光は私にとつて、理想的日本人です。陸奧外務大臣⇒岸田外務大臣は日本人の消長・變質を典型的に示す好例ですね。ここまで墮ちて
は、もはや・・・」。

 入口だけの雜駁な議論で、恐縮です。

  近代日本の目も暈むばかりの榮光と、そのあとの悲慘・滑稽。後者のすべてを體現してゐるのが、この非・日本人でせう。さいはひなことに、彼等は完全に一つの種から生れたのですから、複雜なことはなにもありません。安倍、御厨、北岡、岸田、女ユネスコ大使etcなどを個別に研究する必要はないでせう。十把ひとからげに觀察した結果に基いて、その増殖防止の手立てを考へれば、それが亡國への歩みの齒止めになるのではないでせうか。

西尾先生の關心・テーマの一つは、さういふところにありさうだと、先生のお若い頃から屡々感じました。先生に、個別診斷のほかに、綜合的處方箋をお願ひしたら、叱られるでせうか。實は、先生のお嫌ひな大正教養主義の位置づけについても考へましたが、御本尊の前では恥かしいので、それには觸れません。

ただ先日、乃木神社に吟行した際、白樺派の志賀直哉、武者小路實篤をふと思ひ出したことを申し添へます。二人は、その學習院時代に院長たりし乃木さんの殉死を、揃つて嘲つたのです。あの二人はもう新人類だつたなあといふ感慨に捉はれました。そして、この殉死に對する鴎外や漱石の反應を想ひ、乃木さん自身を含めて、三人とも、日本の將來に絶望してゐたのではないかなどと想像しつつ、棗の木を仰ぎました。

だいたい、我等日本人が、世界から蔑まれたり、揶揄されるやうな存在になり果てたのは開闢以來初めて、非・日本人的新人類が主流を占めるやうになつてからのことでせう。

中國製博士號と 「高度人材」

「國内にはすでに大陸からの人の波が限界を越え始めている。韓國人や中國人の近年における急速な増加は半島の内亂、大陸の經濟破綻が起こればそれに伴い國内に收拾のつかない動亂を引き起こす呼び水になりかねない」。『高度人材』などといつても、「米國の三流大學の基準でも99%がはねられるようなレベルの人が中國では博士號を與えられてい」て、「永住外國人の拔け道になっていはしないか」。「そういうことも考えないで中國人移民の急増を默って看過ごし、むしろ推進派の主役にさえなっている安倍總理に根本的疑問を提したい」。

先生の御心配、お腹立ちが痛いほど感ぜられます。何十年も前から、この問題に取り組んで、提言されたり、警告を發したりしてこられた(しかも、それを政府が聞いた、つまり世の
中が動いて、國が救はれたこともありました)先生は、安倍政權になつてからも、何度か忠告
されましたね。安倍さんはそれに耳を傾けたのでせうか。

 どうもこの人は、何度も申すとほり、自分の頭で考へることがなく、自身の尺度も持つてゐないやうです。すべて出來あひの物差しで測るので、新しい現象や考へに獨自に反應することができません。先生の齒痒さ・苦衷はいかばかり。

不愉快な話題で終り、申し譯ありません。でも、かういふ苦い現實に先生は永年堪へてこ
られたのだと思ひ、そのままにしました。

(以上)

WiLL4月号・ 「岸田外相、御厨座長代理の器を問う!」を読んで(一)

ゲストエッセー
坦々塾塾生 池田 俊二

 簡單な感想の斷片をいくつか竝べさせていただきます。
先生の高い志は十分に感じとつてゐるつもりですが、言外の意圖(作戰?とも言ふべきものを正しく理解できないせゐで、その邪魔をする結果にならないやう、 自ら祈るのみです。

政權周邊の動脈硬化

 「政權内部でも周邊でも、いかに動脈硬化が進んでいるかを具體例をもって示しておきました」が先生御自身による總括でせうね。ここまで「進んでいる」のかと驚きつつ、完全に納得させられました。しかし、世の「保守」はほとんどが現政權支持です。さうでなくては、生きてゆけない、商賣も成り立たないと思つてゐるかのごとくです。先日、保守系のシンクタンクの機關誌が送られてきましたが、嘗てゴリゴリの保守、度しがたき反動として、進歩派から目の敵にされてきた會長が「一強多弱と言われる自民黨政權は安定し、安倍晋三氏はまだ5年の任期が殘っている。9年間の安定政權の時代に、日本の内政や外交・防衞政策の方向が固まると期待している。安倍氏は自民黨の ”右派 ”と言われているが、これが”保守本流 ”の考え方」と書いてゐます。

 これが、今の「保守言論人」の典型的もの言ひです。この會長の場合、本氣ではなくて世間の風向きに合せてゐるやうな節もみえますが、結構本氣と思はれる、安倍長期政權待望論も多い。御厨さんを座長にしたり、中國人移民を推進する安倍さん(この點についての、先生の御批判はあとで引用させていただきます)がどうして ”右派 ”とされるのか理解できません。時に、威勢のいいことを口走ることがありますが、それは發作的で、事前の準備も、あとの履行も皆無であることは明かです。數年前、日本人二人がイスラム國で斬首された時は、「罪を償はせる!」と叫びました。

 そのあたりが世間の目には頼もしいと映るのでせうか。私自身、先生に紹介された先輩から、安倍さんを批判して村八分にされるとつらいから、愼めと忠告されたことがあります。私には無縁の世界ですが、そんな雰圍氣もあるやうですね。

オスプレイ事故と尖閣保障

名護市沿岸でのオスプレイ事故の際、「『やつぱり落ちた』・・・待つてましたといわんばかりの騷然たる怒號に氣押されて、日本側では誰ひとり何も發言 しません」「搭乘員がとつさにとつた”囘避行”に、」「日本の立場から」「ひとことの感謝の言葉が出」なかつたことと、後に、マティス國防長官による尖閣の保障を、「右から左まですべてのメディアが ” あなうれしや、ありがたや ” ”ホッとしたよ、良かったね ” というムードで報道していた」とは、一對のものですね。

 それは先生の論述により氣づきましたが、一言でいへば、卑怯者の兩面ですね。「原因は勇氣の缺如です。自信、平常時における自己確信、それが缺けていることが物事のすべてをおかしくしているのです」「日本全體をすつぽりと包み込んでいる不安、ないし恐怖が、ひとびとの人間らしい自由な發語を封じてい
るのです」とは、前者についての分析ですが、後者にも通じますね。

 後者は支那から、「定心丸」(精神安定劑?)とからかはれましたか。さういふ心理をあつさりと見透かされてしまつたのかもしれません。

今年 佐藤松男さん(現代文化會議主宰)からいただいた賀状には、福田恆存の「アメリカは日本を國家とは見てゐない。アメリカの一州程度にしか考へてゐないし、いざとなれば一州ほどにもカバーしてくれない」といふ言葉が印刷されてゐました。今も基本的にはこのとほりでせう。

しかし、さういふ實も蓋も無い現實を見据ゑた上で、同盟國に對しては、最低限の禮が必要です。菅官房長官や稻田防衞大臣にはそれが分つてゐないのでせう。のみならず、如上の現實を見て、覺悟を決めてゐる(それが、先生のおつしやる「平常時における自己確信」に通じるのでせう)とはみえません。「いざとなれば」アメリカさんが・・・と甘つたれてゐるのでせう。勿論二人だけではなくて、筆頭は安倍總理大臣でせう。

日米首腦會談

「オバマ政權の時代までアメリカは自らのナショナリズム・エゴイズムをグローバリズムの名において隱していました」ーーといふ先生のかねてからのお説には、久しく親しんできましたが、オバマが去り、 樣相が一變しましたね。

 アメリカが、「ついに自ら牙を剥きだしたことを隱そうとし」ない今、(他國のことはさておいて)日本國内の現象には、おやおやと思はされることが多い。トランプを見下さなければ沽券にかかはると思つてゐるらしい、壞れたレコードのやうなトランプ報道には、ここでは觸れませんが、 安倍總理大臣の渡米の際、正に仰せのやうに、「まるで救世主を送りだすような空氣」でしたね。そして、 「2017年2月日米首腦會談において、安倍總理は迷ふことなく新大統領トランプ氏の許に他國に先んじてはせ參じ、固い握手を交しました」「安倍總理の最初から確信に滿ちた對米對應が功を奏した成果といってよく、賞讚すべき外交努力でした」。

 このとほりなのでせう。しかし、私は「賞讚すべき」とまでは感じず、「確信に滿ちた」とも見えませんでした。考へるまでもなく、選擇肢は他に殆どなかつたのではないでせうか。オートマティックな感じで、鳩山由紀夫總理大臣でも、同じやうにしたのではないかといふ氣がしました。

 お言葉を返すやうで、申し譯ありませんが、 安倍さんに對する不信感は、先生よりも私の方が根深いのかもしれません。プラス評價は殆どできません。一つ前の日露首腦會談をみても、總理は明かに自らの不見識、讀み違へ、失敗をごまかし、國民の目を逸さうとしました(その件はこの後述べます)。

 「米中の關係がどう動くかがすべてを決める。半島の情勢もそれ如何です。日本の態度決定はさらにそのあとです」は廣い視野からの的確な見立てですが、それだけに、日米の直前に、トランプ大統領が習近平主席との電話會談で、「一つの中國」の原則を尊重すると、態度を急變させたことが氣になります。しかも、そのことを、大統領が安倍首相と竝んだ記者會見の場で傳へ、「これは、日本のためにもいいはずだ」と述べたのはどういふ意味か分りませんが、油斷がならないと感じました。大統領の意圖は知りませんが、これまでのことからして、安倍さんなら、その邊も讀み切つた上で、ぬかりなくやるだらうと樂觀することはとてもできません。

北方領土の行方

昨年末プーチンとの會談後の安倍總理のテレビ出演を少し見ましたが、必死に言ひ繕はうとするさまがありありとみえました。プーチンと昨年會つたのは4~5囘でせうか。支那への備へためにも、ロシアとの關係が大事なことは、他の場所で、西尾先生のおつしやつたとほりですが、安倍總理が初め、領土を主にしてゐたことは明かです。

 そして、①5月には「これまでにない新しい發想によるアプローチ」⇒②9月には「手應へを強く感じる」(この發言を山際澄夫さんは後に顧みて、「なんであんなことを言つたのか謎」と言はれましたが、私には少しも謎ではありませんでした。「今は少し風向きがいいのだな。本來、そんなことは、引退してから、囘想録にでも記すべきなのに、自慢したくて、我慢ができなくなつたのだ。未だ決着してゐないのに輕率だ。最後には泣きつ面を見せることになりさうだ」と、單純に想像しました)⇒③11月には「これまで動かなかつたものを動かすのは簡單ではない」と著しく調子が變り(この時は、私でさへ、トランプが勝つたためにプーチンの態度が變つたのだと察しがつきました)⇒④12月の山口でのあの結果。「經濟の共同經營により相互信頼を釀成」にすり變へて、本人は國民を瞞くつもりだつたのでせうが、オバマのレームダック化ぎりぎりの時を選んだ姑息さと合せて、笑止なことでした。すべては、プーチンの掌の上でしたね。「強い手應へ」とは、なんのことだつたのでせうか。

 しかし、テレビの安倍さんに對するオベッカは尋常ではありませんでした。宮根誠司とかいふ人は(日曜夜だつたので、8チャンで)「總理、發表は未だできないのでせうが、島は何年何月何日に返すとプーチンとの間で話がついてゐるんぢやないですか。ずゐぶん充實した話し合ひだつたやうですね」と言ひだす始
末。安倍さんは滿更でもないらしく、「そんなこと」はあつても、あつたとは言へないよと言はんばかりの、思はせぶりの表情でした。なんとも淺ましい景色で、お追從もきはまれりですね。

 脱線序でに恐縮ですが、「ウラジーミル、君と・・・」 ーーこんなせりふに、普通の日本人は寒氣を催すのではないでせうか。あるいは、 飛行機からタラップを降りる時、夫人と手をつないでーー。あの2點だけでも、そんなことをする人の感覺を疑ひたくなります。

左翼政黨が一番右に位置する不思議

「世界各地で政界再編成の機運があ」るのに、「日本には政權政黨の外に目立つ新しい有力な政治潮流は浮かび上がつて來ていません」ーーこれは、日本の特殊現象と言へるかもしれませんね。

 以前、先生は「自民黨は左翼政黨」とおつしやいました。最近は「自民黨の右の勢力が必要」とおつしやいました。左翼政黨が一番右とは、奇妙・異常な姿で、不自然のきはみですから、お言葉には全面的に贊同します。私も前からふしぎに思つたり苛立つたりしてきました。そして、その理由を考へましたが、せいぜ
い、「WGIPにより、右翼的勢力は2度と芽を吹くこともできないほど、根絶やしにされたのだ」といふ程度のことしか思ひ浮びません。たしかに、「全體が無氣力で」「波風の立つほうがよほど生産的で、未來を動かすということが分つていない」と感じます。どうしてさうなるのかを、次の機會に更に分析していただきたいものです。

御厨座長代理の胸のうち

御厨さんの「天皇と憲法」の中の發言は、「どう讀んでも、皇室の存在は、『主權在民の立場』にとっては弊害になっている、ということを言つている」としか思へません。そして、「『二十一世紀の日本の國家像』は共和制がふさわしいという意見の持主ではないでしょうか。少くとも皇室護持の氣持、ないしは意思は小さい。できれば皇室はこの儘置いておくと危險な存在だから國民の未來のためにどんなに面倒でもなくした方がよいと言つているのではないでしょうか。なにか言い淀んではいますが、要はそういうことです」ーー私も全く同じやうに受け取りました。これは、「日録」の勇馬眞次郎さんによる次のコメントと完全に符合します。

御厨氏は大学同期で、彼の思想が形成される環境や雰囲気を共有しますので彼が宮沢や芦部、その 他多くの敗戦利得者の系譜につながる先生方の話を聴いて育ち、主権在民というより寧ろ 国民平等の理念から、21世紀の日本の国家像を考えるとき、本音では「何で天皇の話が出てこないってなるわけでしょ」となることは、私も嘗てそうでしたので、よく分かります。公務員試験や司法試験に合格して官僚や法曹に
なった連中も、企業幹部も知識人の多くも、日本の伝統や歴史を自助努力で学ばない者は、理論にまじめであればあるほど、「みんな大事だと思いながらね、 絶対口を噤んで言わない」だけで、心中で天皇は平等原則に 反すると思っているはずです。

専門家委員会や有識者会議などの会議の結論や方向はキーパーソンの人選でほぼ決まります。御厨氏に 将来の皇室護持に向けた配慮を期待できないとして、他に主要大学の誰が適任でしょう。人選した側にも、内閣にも、この手の輩が多く、尊王」の立場は現在危うい状況であり、「国の臍」などという発想も天皇を外 国人の目から眺めている証拠です。

これでほぼ盡きてゐると思はれます。つまり、御厨さんは同世代のほとんどの人々と同樣に、敗戰利得者.から、天皇を否定するのが正しいと教へられ、そのまま信じ込んだ。そして、それは今でも基本的には變つてはゐない。ーー完全に、先生のお見立てのとほりです。

 更に、今の日本は、内閣を初め、あらゆる分野を「この手の輩」が占めてゐるので、他に人を見つけるのは難しいのではないか(この點、我々が安倍總理大臣を批判した場合、「ほかに人がゐますか」と反問され、沈默させられたのと似てゐる氣がします)と勇馬さんは考へてをられるのでせう。

たしかに、御厨さんは「この重要なお役目の座に坐るにふさわしい思想の持主で」はないし、「彼を選んだ官邸の責任は免れない」のですが、世の中が「この手の輩」ばかり(選ぶ側も選ばれる側も)では、どうしやうもないのでせうか。

安倍流人事

安倍さんが總理大臣としてふさはしいのなら、御厨さんも同程度に、座長代理としてふさはしいと言へるのではないでせうか。とにかく、典型的な官邸=安倍人事です。

 私が初めて知つた、同樣の例は黒田日銀總裁です。この人に對する安倍さんの執心ぶりについて、決定前に新聞で讀みました。しかし、そこには黒田さんの人となりについては殆ど書かれてゐませんでした。就任一ヵ月後くらゐだつたでせうか、産經に大物記者古森さんの記事が載りました。古森さんは、總裁の經歴を列擧して曰く「これを見て驚いた。終始一貫して中國・朝鮮の擁護者、支援者なのだ。日本の利
益とどちらを大事に考へてゐるのかも分らない。こんな人でいいのだらうか」。 古森記者が驚いたのですから、私も驚きましたが、安倍總理大臣がその經歴を知らない筈はありません。それどころか、かういふ「思想の持主」こそ、安倍さんの好みなのかもしれません。

 「中國の囘し者みたいに『日本は侵略國家』と叫びつづける北岡伸一氏を繰り返し重用してきたのが安倍政權です。今また皇室問題で御厨氏を起用するのが・・・安倍氏」ですね。そして、安倍・御厨・北岡のいづれにも代りがないとは!? 私も先生の驥尾に附して「ほとんど日本の未來に絶望」せざるを得ません。

つづく

ジャパン・ファースト精神の原点は歴史教科書運動にあり

 この文章は、「新しい歴史教科書をつくる会」創立20周年記念集会(2017年1月29日)の挨拶文です。加筆修正したものが正論4月号に掲載されました。表題の一部「歴史教科書運動」のはずが「歴史教育運動」に間違って掲載されました。注:管理人

 私はつくる会の20年にわたる努力を思い起こし、私が辞任した後の皆様の固い意思と熱い情熱に敬意を抱きつづけています。本日は体調不良で、皆様にお目にかかれないのは大変に残念であり、申し訳なく思っております。

 さて、半年ほど前から、世界は大きく変わろうとしている、日本はこれから大変だ、という言葉が盛んに聞こえるようになりました。いったい何が変わり、日本にとって何が大変になるのでしょうか。防衛費を増やすことでしょうか。ひと昔前のような日米貿易摩擦が再来するのをどう防ぐかということでしょうか。アメリカは国防長官を最初に送り込んできて、防衛問題で日本のアキレス腱を押さえ、次に経済問題の追い打ちを掛けて、ゆっくり日本からカネをむしり取ろうといういつもの手を再び使おうとしているのでしょうか。

 それらを心配し、政府が対応策をいろいろ打ち立てるということは当然なされるでしょう。けれどもそういう心配や対策は全部受け身の話であって、日本がアメリカからの攻撃に備えどう身を防ぐかの話にすぎません。それはそれで今は大切ですが、単にそれでいいのでしょうか。

 「トランプ大統領の出現は日本再建のチャンスだ」ということが、一方で言われますが、われわれとしてなすべきは、トランプとアメリカ国民に次のように言うことです。「トランプさん、あなたの言うアメリカファーストはよく分かりました。それならこれから我々日本人も、ジャパンファーストで行きますよ。」

 さて皆さん、私だけでなく、すでに多くの方がジャパンファーストで行こうと叫んでいます。しかしどれだけの人がこの語の持つ本来の意味について考えているでしょうか。日本人はもう受け身ではいけない、という困難で危険なこの言葉の重みについて、思いを至しているでしょうか。

世界史を日本中心に見直す

 ほぼ20年前に、ジャパンファーストで行こうと声をあげたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」にほかなりません。例えば私はつくる会機関紙「史」創刊号にこれを「自己本位主義」との名で呼びました。1930年代のナショナリズムと混同されるのを恐れたからです。

 「自己本位主義」とは、われわれが日本の歴史を敗北史観から取り戻す、というようなレベルの話ではありません。戦前の歴史を回復すればよい、という単純な話ではないのです。日本を中心の視座に据えて世界史を見直すということです。その世界史の中に日本を位置づけ、受け身の日本の歴史記述を止めることです。歴史学者の多くが陥っている内に籠った視野狭窄症をまず打破することです。国内政治史をこと細かに語るばかりで、世界史から自分を見ていない内向的歴史観の弊害を排除することです。次に世界の中で日本がどう鼓動しているか、どう対応し、結果としてどういう作用・反作用を地球上に引き起こしているかを見て、日本が外から受ける波だけでなく、外へ働きかけている目に見えない波をも見逃さず、世界史における日本の主体性の物語りを創造することです。これは明治日本もやっていません。

 そのプロセスで日本の弱点、宿命的な「孤独」の運命をも見失わないことが大切でありましょう。孤独であることの自覚、すなわち孤立感の自己認識は、自閉や閉鎖性を引き起こすものではありません。自覚はむしろ自閉や閉鎖性に陥る弊害から人を解放してくれるはずのものであります。

 このような「自己本位主義」で語られた世界史の中の日本史はいまだ存在しません。しかし少なくともわれわれはそれを理想として教科書を作成し、採択にまで手を拡げ、子供たちに渡して、日本と世界の関係を変えようとしました。

 教科書採択の成果は乏しかったのですが、そこから流れ出したジャパンファーストの精神運動はさまざまな方面の人々に引き継がれました。いま、5,6冊の保守言論界を代表する雑誌が出ていますが、そこに集結した人々の文章のみが、今では唯一の国論をリードするパワーです。そしてここに「新しい歴史教科書をつくる会」の精神は流れ込んでいます。外国に日本の言論を英訳して紹介する運動も起こりました。中国や韓国にやられっぱなしの「歴史戦」に必死に風穴を開けようとしてきたつくる会中心の努力も見事です。「新しい歴史教科書をつくる会」の運動本体の声は小さくなりましたが、その声は八方に飛び広がり、影響を与えつづけてきました。本当は政府がやらなければならない仕事を代りに実行したのが「新しい歴史教科書をつくる会」です。そしてそのジャパンファーストの精神的課題はさまざまな人の手に渡り、拡大し、今も続いています。

 グローバリズムはその当時は「国際化」というスローガンで色どられていました。つくる会は何ごとであれ、内容のない幻想めいた美辞麗句を嫌いました。反共だけでなく、反米の思想も「自己本位主義」のためには必要だと考えたし、初めてはっきり打ち出しました。私たちの前の世代の保守思想家、例えば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。国家の自立と自分の歴史の創造のためには、戦争をした相手国の歴史観とまず戦わなければならないのはあまりにも当然ではないですか。三島由紀夫と江藤淳がこれに先鞭をつけました。しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは「つくる会」です。われわれの運動が曲り角になりました。反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということをわれわれが初めて言い出したのですが、これは単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではないというわれわれの理想の表われだったということが今忘れられています。

日本の近現代は江戸時代から

 「新しい歴史教科書をつくる会」が設立記者会見を開いたのは1996年12月でした。その翌年私は産経新聞社の故住田良能社長に呼ばれ、保守系知識人を糾合した歴史に関する大型連載を主宰してくれないかと頼まれました。藤岡信勝氏主宰の『教科書が教えない歴史』がベストセラーになった直後のことでした。新聞社は二匹目のドジョウを狙ったのかもしれませんが、「私はベストセラーは出せません、私がやらせていただけるのなら、日本を軸とする世界500年史です。」とお答えしました。即答したのです。年来暖めていたテーマです。自分ひとりではできません。『地球日本史』という題の連載とその後同じ題の五巻本が刊行されたことを皆様覚えておられるでしょう。

 『地球日本史』第1巻「日本とヨーロッパの同時勃興」、第2巻「鎖国は本当にあったのか」、「第3巻」「江戸時代が可能にした明治維新」、そして少し間を置いて、『新・地球日本史』第1巻「明治中期から第二次大戦まで」、第2巻も同じく「明治中期から第二次大戦まで」として全五巻が出版され、うち最初の三巻は扶桑社文庫にもなりました。

 全五巻に書いて下さった執筆者は総数で七十人に及びました。お名前を全部ここに掲げることができたら、歴史の専門家からジャーナリストまで含むその多彩な顔ぶれに驚かれるでしょう。そしてあのとき、ジャパンファーストの歴史観が言論界の一角に、初めて立ち現われたのです。専門の歴史学界と歴史学者たちを嘲笑うように、一定数の有力な知識人の賛同を得て、わが国の歴史を500年遡って世界史の中に位置づけ考察するものの考え方が初めておぼろげながら姿と形を表わしたのでした。

 なぜ500年でなければいけないのか。100年や200年ではいけないのか。100年や200年を遡るだけなら、明治維新が近現代史の中心の位置を占め、決定的な意味をもったということになりかねません。しかし日本史の現実が告げるものは果してそうでしょうか。私は江戸時代に日本の近代史は始まったと考えています。

 欧米とはまったく別の根幹から、独自の主体的な歴史が展開されていたと考える者であります。世に広がっている通説はご承知のようにそうではありません。明治に日本が世界に向け閉ざしていた窓を開け、欧米模倣国として文明開化したことからすべてが始まり、今日に至るというのが一般的な考え方です。あらゆる教科書はその通念に従っています。

 しかし他方、こう仰有る方もいるでしょう。江戸時代は最近「初期近代」として歴史学会でも尊重され始めていると。私はそれとも少し違う考え方をしています。世の中にはマルクス主義の影響がまだ残っていて、歴史を古代、中世、近世、近代というように時代区分する単純な発展段階説にとらわれている人が圧倒的に多いのです。そのため江戸時代を「初期近代である」とか「近代準備期」であるなどと呼ぶ人が少なくないのですが、少し違う考え方をしてみて下さい。私は「近代」はヨーロッパやアメリカに典型があるのでもなければ、われわれが「目的」として意識するような性格のものでもなく、そもそもどこかに「完成品」が存在するものではないと考えています。いわば固定されていない動く概念であるといっていいでしょう。

 例えばアメリカの歴史を一例として考えて欲しい。アメリカ史はひところ明るい「近代」の実現のモデルのように思われたかもしれませんが、よくみると野蛮な暗闇、「前近代」の暗黒を今に至るもいかに深く宿した国の歴史であるかということを痛感させられます。一方、イスラム世界は「前近代」の代表のように扱われてきましたが、そんな簡単なことがいえるでしょうか。キリスト教徒の偏見の面もあるのではないでしょうか。

 「近代」という心の現実、ないしは精神の秩序はたしかにあると私も信じています。ただしそれは「古代」との緊張関係のもとで初めて捉えられているものであって、ヨーロッパがアラブ世界と「古代」を奪い合ってきたように、日本は中国と「古代」を張り合って来た歴史があり、そのことと「近代」の自我の確立が無関係であるとは思えません。つまり「近代」はカミの概念、自己の歴史の根幹にある「神格」の追求と更新、その破壊と再創造の微妙な精神活動と無関係ではないと思えるのです。

 ですから江戸時代は「前近代」でも「初期近代」でもないのです。「近代」そのものなのです。むしろ明治以後においてわれわれは「近代」を再び失っているのかもしれません。そういうとびっくりされるでしょうが、「近代」は動く概念です。

 ともかく単純な発展段階説を止めましょう。例えば、漢唐時代の中国の官僚制度に私は「近代」を認めるのにやぶさかではありません。歴史を大きなスケールで相対化し、複眼で捉え直しましょう。そして、そういう目で見た世界史の中に日本史を置いて、既成の観念を取り払いましょう。それが「新しい歴史教科書をつくる会」が精神運動としてもっていた本来の意味だったのです。

今の議論に欠けているもの

 けれども、実際には世の中はどんどん動いています。最近ではジャパンファーストの歴史論は別のいろいろな形で次々とどぎつい姿で出版されています。例えば日米戦争で悪かったのは日本ではなくアメリカの方だった、という言い方が最近はやりになり出して、それにイギリス人ジャーナリストやアメリカ人学者が動員され、参加しています。中国や韓国を批判するのに中国人や韓国人を登場させるあざとい商法が、欧米人にまで応用されだしていることに私は驚くとともに、隔世の感を抱いています。

 東南アジアでわが国将兵が残留し現地解放の任を果たした事はよく知られています。比較的若い世代の中に、今この事実をあらためて調査し、感謝して下さる現地の人々のストーリーを日本に紹介して下さる方がいます。われわれが勇気づけられる有難いお仕事ですが、16世紀のスペインやポルトガルの却掠以後のあの地の仮借ない歴史が総合的に反映されていないと、なにとはなく不足感を感じさせられます。

 日本を主張することと日本を褒めることとは別です。中国や韓国はなぜいつまでも日本のように近代文明を手に入れることができないのかを、単に自国を自慢するために説きたてるのだとしたら、その本の魅力は始めから半分失われています。

 歴史の根っこをつかまえるのだとしていきなり『古事記』に立ち還り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、神話と歴史は別であります。神話は解釈を拒む世界です。歴史は諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ側の人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません。ですから神話を今の人の心にも分かるように無理なく伝えるのは至難の技です。多くの哲学的・神霊学的手続きが必要です。たいていの『古事記』論はそういうことをやっていません。

 以上私はいくつかの例をあげ、最近メディアに登場している日本万歳論を取り上げてみました。どの本も力作ですが、何となくムード的です。理論を欠いています。歴史とは何かを問う哲学的思索に裏付けされていません。日本は素晴らしいという、ばくぜんとした情緒にのせられています。これではだめなのです。長持ちしません。

 皆さん、トランプ米大統領が出現してから、今までグローバリズムの名で自らのナショナル・エゴイズムを隠していたアメリカが、にわかに牙を剝きだして来た姿にわれわれはいま驚いています。アメリカはそれだけ余裕がなくなり、没落しかけている証拠かもしれません。これからひと波乱もふた波乱もあることが予想されます。対抗するにはジャパンファーストで行くしかないのです。それには歴史がポイントです。自国の歴史に主体性の物語を見出すことがいかに大切かがあらためて実感されます。「新しい歴史教科書をつくる会」の創設と活動がこの点で今あらためて振り返られ、再認識され、どこに真の問題の鍵があったかが再発見される必要が今こそ高まっているのではないかと感じる次第です。

「新しい歴史教科書をつくる会」創立二十周年記念集会の挨拶(2017.1.29)

韓国が国際社会に喧伝するウソ「20万人」「軍関与」 日本は「国際的恥辱」払拭する努力してきたか

 産経新聞 平成29年1月19日正論欄より

 私はつねに素朴な疑問から始まる。日本の外交は国民が最大に望む一点を見落としがちだ。何かを怖がるか、安心していい気になるかのいずれかの心理的落とし穴にはまることが多い。今回の対韓外交も例外ではない。

≪≪≪ウソを払拭しない政府の怠慢≫≫≫

 米オバマ政権は慰安婦問題の真相を理解していないので不当に日本に圧力を加えていた。心ならずも妥協を強いられたわが国は、釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置されたことを受けて、大使らを一時帰国させるという強い措置に出た。日本国民はさぞ清々しただろうといわんばかりだ。が、日本外交は米韓の顔を見ているが、世界全体の顔は見ていない。
 
 慰安婦問題で国民が切望してやまない本質的な一点は、韓国に“報復”することそれ自体にはない。20万人もの無垢(むく)な少女が旧日本軍に拉致連行され、性奴隷にされたと国際社会に喧伝(けんでん)されてきた虚報の打ち消しにある。「20万人」という数も「軍関与」という嘘も、私はふた昔前にドイツの宿で現地新聞で知り、ひとり密(ひそ)かに憤怒したものだが、あれ以来変わっていない。ますます世界中に広がり、諸国の教科書に載り、今やユネスコの凶悪国家犯罪の一つに登録されかけている。

 日本政府は一度でもこれと本気で戦ったことがあるのだろうか。外交官が生命を賭して戦うべきは、事実にあらざる国際的恥辱の汚名をすすぐことであって、外国に報復することではない。

 女の子の座像を街角に建てるなど韓国人のやっていることは子供っぽく低レベルで、論争しても仕方がない相手である。敵は韓国人のウソに乗せられる国際社会のほうであって、日本の公的機関はウソを払拭するどんな工夫と努力をしてきたというのか。

 ≪≪≪なぜミサイル撤去を迫らないか≫≫≫

 実は本腰を入れて何もしなかった、どころの話ではない。一昨年末の日韓合意の共同記者会見で、岸田文雄外相は「当時の軍の関与」をあっさり認める発言をし、慰安婦像の撤去については合意の文書すら残さず、曖昧なままにして帰国した。しかるに安倍晋三首相はこれで完全決着した、と断定した。
 まずいことになったと当時私は心配したものだが、案の定1年を待たずに合意は踏みにじられている。国際社会にわが身の潔白を示す努力を十分に展開していたなら、まだ救いはあるが、「軍の関与」を認めるなど言いっぱなしの無作為、カネを使わない国際広報の怠惰はここにきてボディーブローのように効いている。

 軍艦島をめぐるユネスコ文化遺産登録の「強制労働」を強引に認めさせられた一件の致命傷に続き、なぜ岸田外相の進退が問われないのか不思議でならない。

 私はもう一つ別の例を取り上げる。対ロシア外交において、プーチン大統領来訪の直前、択捉島にミサイルが設置された。

 日本政府はなぜ抗議しなかったのか。せめて平和条約を語り合う首脳会談の期間中には、ミサイルは撤去してもらいたいと、日本側から要請があったという情報を私はただの一度も目にし耳にすることはなかった。

 私は安倍政権のロシア接近政策に「合理性」を見ていて、対米、対韓外交に比べていいと思っている。北方領土は放っておけばこのままだし、対中牽制(けんせい)政策、シベリアへの日本産業の進出の可能性などを考えても評価に値するが、ミサイル黙認だけはいただけない。昔の日本人ならこんな腰抜け外交は決してしなかった。

 ≪≪≪感情的騒ぎを恐れてはならない≫≫≫

 もう一例挙げる。オスプレイが沖縄の海岸に不時着する事故があった。事故機は住宅地を避けようとしたという。駆けつけた米国高官は、日本から非難される理由はない、と憤然と語ったとされるが、私もそう思う。いわゆる沖縄をめぐる一切の政治情勢からとりあえず切り離して、搭乗員がとっさにとった“回避行動”に、日本側からなぜ感謝の言葉がないのか。県知事に期待できない以上、官房長官か防衛相が一言、言うべきだ。これは対米従属行為ではない。礼儀である。

 感謝の言葉を聞かなかったら、米兵は日本をどうして守る気になるだろう。日本は武士道と礼節の国である。何が本当の国防のためになるのかをよく考えるべきだ。
 プーチン大統領には来てもらうのが精一杯で、ミサイル撤去の件は一言も口に出せなかった。沖縄の件はオスプレイ反対運動の人々のあの剣幕(けんまく)をみて、何も言えない。岸田外相が「(当時の)軍の関与」を公言したのも、韓国の感情的騒ぎが怖かったのである。

 何かを怖がるのと、安心していい気になるのとは同じ事柄の二面である。今度、韓国に「経済断交」に近いカードを切ったのは、ことの流れを知っている私は当然だと思っているが、日本人がこれで溜飲(りゅういん)を下げていい気になってはならない。日本人も本当に怖い国際世論からは逃げているので、情緒的韓国人と似たようなものだと思われるのが落ちであろう。(評論家・西尾幹二 にしお・かんじ)

西欧の地球侵略と日本の鎖国(六)

六/六)
 その次に何がつながるかというと、フランスは力を失っていたのですが、イギリスとロシアにしてやられているのが悔しくて、1785年にフランス政府はジャン・フランソワ・ド・ラペルーズを派遣します。フランスは日本に重大な関心を示して、日本を調べてくるよう命じます。まず南太平洋に入ったラペルーズはハワイ諸島、北アメリカ大陸を巡った後、日本列島の日本海側を通っています。その前に台湾、琉球や済州島を測量して日本海側に入って能登半島を徹底的に測量します。東北地方はすでにクック隊が測量しています。

私が感心するのは、ヨーロッパは「国際社会」で、ベーリングやクックの測量の数値やデータが全部公表されていたことです。だからクックは日記の中でベーリングがやった海洋探検について「素晴らしい。だいたい正確だ」と褒めています。同じようにラペルーズは、クック隊の太平洋側と日本列島の測量も公表されているので、日本海側のデータを揃えて日本列島の「幅」を測量して数値の計算をしています。つまり争っている国同士、競争し合って、時には戦争もする国同士だったにもかかわらず、国際社会の約束やデータを尊重しあう。そういう事で協力し合う、という近代性が備わっていた。これは当時のアジア人には考えられないことでした。なんのかんの言ったって負けているのです。ヨーロッパはこれだけの規模のことをやっていたのです。日本に「鎖国が無かった」などと言えますか! これだけのことをやられていたということで、暗黒の鎖国の中にいたのではないでしょうか。

 1784年にはジェームズ・クックの航海記が刊行されます。クックの死後5年後です。航海記はオープンなので、これが大変に読まれます。ここでラッコの生息地のデータが公開されますが、ロシアは一人儲けをしていたので危機感を覚えます。フランスもクックの航海記を見てから、1785年にラペルーズが出てくるのです。しかしあと4年後に何が起こるか分かりますね。フランス革命です。ですからフランスは国内が混乱してしまい、もう北太平洋の争いに参加することが出来なくなります。フランスはここで退場しますが、イギリスと、そしてアメリカが登場します。そしてロシア。オランダは端からここに入っていません。前にも話しましたがそこが大事なのです。日本はオランダだけを頼りにしていたのですから、ほとんど片肺思考だったのです。

先ほどベーリングの話をしましたが、別働隊を二つ連れていっています。そのうちの一つは千島列島を下って日本列島に来ています。1741年にアメリカ大陸(アラスカ)を発見する2年前の1739年のことで「元文(げんぶん)の黒船」と呼ばれています。1回目は宮城県に来ています。日本の役人が船に乗り込んで、丁重な挨拶をしてロシア側は船上でご馳走やお酒で彼等をもてなして楽しい談話をしたあと、きれいに別れたというだけのことで、ロシア船もこれで満足して帰っていったそうです。2回目は千葉県で、陸上にあがってきて農家を訪ねて軒先で大根と水を貰って(笑)(壊血病があるから大根は必要ですよね)それからお茶を飲んで煙草を呑んで帰って行った。言葉は通じないけれど楽しい話をたくさんして帰って行った。そのとき律儀にも銅の貨幣を置いていきました。それは直ぐに長崎奉行に届けられて初めてロシアの貨幣と分かったのです。そのあとレザノフとかいろいろ出てきますが、日本にロシアが来たのはこれが最初でしょう。これはおそらくラッコの貿易で来たのだと思います。すでにラッコは乱獲されすぎたということで、教科書には捕鯨船がたくさん来たことは書いてあります。

ヨーロッパに物産を持って帰るのではありません。ラッコはシナの貴族に売ってそれが儲かるという話がワーッと広がって次々と船が来たという話です。いかにアジアが富んでいたかということです。有名な話に、イギリス人が清朝の皇帝に会ったら「清朝は何でもあるから貿易などする必要ない」と言って三跪九拝させられて帰ったという話もあります。それくらいアジアは豊かで、日本もまたそうでした。それにしても日本がその当時ラッコの毛皮を買って使ったか、ということになると寒さの度合いも違うしあまり聞いた話ではありません。だからといって日本からラッコの話が消えるのはおかしなことです。

ペリーは日本に捕鯨船で来たといいますが、これは当時の産業に微妙な変化が起こっていて、機械の潤滑油に鯨油が必要になったということが基本にあります。女性のコルセットに鯨髭を使うこともありました。そうなるとラッコはその多くがシナで大金を得るためが目的でしたが、クジラは全部ヨーロッパかアメリカで消費されました。

ここに貿易の質と内容に大きな転換があったと考えられますが、それは間違いなく産業革命です。それによってヨーロッパが力をつけてゆきます。それと、これまでお話してきた情報量です。世界を制覇せんとした勢いです。これはなんのかんの言っても、科学と冒険心と愛国心と、そして経済的な動機と・・・。こういう物が一体となった情熱はどの国にもあり、そして我々の今の時代にももちろんありましたけれど「限界点へ向けての限りなきパッション」これは優れてヨーロッパ的で、それは少し前の時代まではインド洋と南太平洋であったのが、地理的空間の大規模な移動への熱情が北太平洋に変わった、北極海経由の海路に取替わったということです。それは18世紀人からの夢でした。ロシアとイギリスがその夢を牽引したのです。アメリカはその後についてきたのです。

ロシアとイギリスこそがユーラシア大陸を二分したこの後の政治的、次の世紀の軍事的対立のドラマ。すなわち「グレート・ゲーム」とよばれる中央アジアを巡る争い。皆さん知ってのとおり、日本も明治になってそのドラマに参加しますね。関岡英之さんが『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略』という本を書きました。その「グレート・ゲーム」はこの北太平洋を巡る争いから始まっているのです。日本周辺の海域から始まっているのです。そしてそれは東アジアをも引き裂いて、開国して間もない我が国が英露の代理戦争である日露戦争に引きずりこまれた根本的な背景です。

つまりこれまでの地球を二つに引き裂くドラマは、アメリカが次の時代に登場するまでの世界史だったのです。そしてそれは我が国の目の前で起こっていたラッコから始まっていたということです。ラッコは笑い事ではありません。当時としてはすごいお金だったのです。しかし産業革命が起こって機械文明になってから規模が大きくなり額も跳ね上がりますね。それでいつの間にかみんなラッコのことを忘れてしまいます。帆船は蒸気船になってゆきます。蒸気船が出来るのはやっと明治維新の頃です。ペリーの来航は帆船で、アフリカを回って来ているのです。太平洋航路が無く太平洋を渡れなかったのだから当然です。こんな大きなドラマさえも「外から歴史を見る」ということをしないから分からないのです。

「外から歴史を見る」というのは、私の『国民の歴史』の精神であったことを皆さんご存知かと思います。「外から日本史を見る。そして日本史を中心に外の歴史を見直す。また外から日本史を見直してから、日本史を中心にもう一度外の歴史を見直す」この往復運動こそ歴史の正しい精神ではありませんか? 日本の歴史をやる人は日本の中をごちゃごちゃやるばかり。また世界の歴史、西洋史などをやる人は皆自分の専門をやるばかりで、全体を統合して見ようとしません。だからこんな重大なことが見落とされるのです。何が「鎖国は無かった」ですか?(笑)

1791年にはイギリスやアメリカの毛皮交易船が堂々と博多と小倉に来ます。ラッコの毛皮で一攫千金を狙う外国船はフランス、スペインと後相次ぎます。ジェームズ・クックの航海記が情報に火をつけたと考えられます。ロシア使節アダム・ラクスマンも1792年に日本に漂流者の大黒屋光太夫らを連れて軍艦で日本に来たのですが、本当は国を開いてラッコの貿易をしたいと言ってきたのです。清朝との貿易で認められていたのは内陸ばかりだったので、遠く広東での貿易に手を広げたいから毛皮を運ぶその中継地としても日本が必要でした。さらに毛皮の新しいマーケットとして、我が国の開国を求めたのです。

 私の作った年表に「1789年 ヌートカ湾事件」というのがあります。皆さんあまり聞いたことが無いでしょう。これはたいへん大きな地球的規模の危機だったのです。その前に、1494年のトルデシリャス条約はご存知でしょう。スペインとポルトガルがお饅頭を二つに割るようにしてローマ法王の勅許によって、大西洋の上に線を引いて地球を二つに分割するというもので、それに従ってコロンブスはどんどん西に渡って、これからどんどん西へ行ったところは全部スペインの領土だと言いました。同じようにポルトガルは、アフリカの海岸を南にどんどん下って東に進んでこれは全部ポルトガルの領土だと言いました。その真ん中はどこでぶつかるかというと、ご存知のようにモルッカ海峡よりももっと東で、だいたいオーストラリアの真ん中を貫き西日本の上を通るのです。それが半分なのですから勝手な話です。『国民の歴史』でもヨーロッパはなにを考えているのだろうと強調して、『新しい歴史教科書』にも入っているかと思います。考えることが凄いですね。怪しからんですね。この地理的情熱がどこから来るかといえば、ガリレオとデカルトの幾何学精神です。だから地球を全体として、子午線を引いたり赤道を引いたり、勝手にやったのです。なぜグリニッジ天文台が出来たのかといえば、あれはイギリスの政治戦略なのです。「なぜロンドンにあるのか?」とパリもベルリンも反対したのです。そしてグリニッジ天文台が中心になっちゃった。それと同じことで、これはスペインとポルトガルがやったことをイギリスが後追いしたのです。そして次の時代にはイギリスは勝ったということで、そのドラマの中にまだわれわれがいるということです。

ヌートカ湾事件というのは、オレゴンの海岸の北西部分にスペインの植民地がありました。そこを巡るイギリス、フランス、ロシア、アメリカ(アメリカはほぼ自分自身の土地でしたが)との争いです。スペインは1494年の古証文を持ち出して「ローマ法王が言った通り。北アメリカ大陸も南アメリカ大陸も全部スペインのもの」と言い出します。しかしアメリカは独立戦争の後、フランス革命の年にそういうことを言って抵抗したのです。それでイギリスを中心に衝突するのです。それはスペインの時代遅れの最後のあがきだったのかもしれませんが、実はそうではなかったのです。スペインは太平洋の西側を全部押さえていたのですから・・・。たとえば硫黄島は日本領で日本政府が日本領と宣言しますが、ダメだと言った国はスペインです。スペインはサイパンやテニアンを領土としていました。米西戦争でドイツに渡って、第一次世界大戦で日本領になるのですが、スペインは大変大きな影響力をアジアに持っていたのです。オランダではないのです。オランダの特徴は何かというとインドネシアに拘り過ぎたのです。他の国はどんどん動いたのですが、オランダはインドネシアにペッタリで足を取られて動けなかったのです。ヌートカ湾事件は、一つの地球上の大きな危機を表明して同時にそこで局面が動いたということがお分かりかと思います。

このヌートカ湾事件も全く歴史の教科書には書かれていません。でもやがて書かれるようになります。今日私がお話ししたことは「新しい歴史研究」ですから、やがて書かれるようになります。20年くらい遅れるでしょうけれど、日本はそういうものでしょう。だけど、このヌートカ湾事件もラッコの話も書かなければ歴史にならないからね。ラッコって可愛いのにねぇ。(笑)ということで終わりにします。

 文書化:阿由葉 秀峰