日本は米国に弓をひいたのか

平成30年11月7日産經新聞正論欄より

≪≪≪ペンス演説は悲痛な叫びだ≫≫≫

 ペンス米副大統領の10月4日の演説を読んでみた。米国の対中政策の一大転換を告げていた。

 中国の国内総生産(GDP)は過去17年間で9倍に成長し、共産党政府による通貨操作、強制的な技術移転、知的財産の窃盗、補助金の不正利用などによるものだと演説は告発している。もちろん投資した側の米国にも責任があるが、中国はあれよあれよという間に膨張した。

 今はさらに図に乗って「中国製造2025」などといい、ロボットやバイオ、人工知能(AI)など最先端技術の90%を支配すると豪語している。今後もこの目的のために、米国の知的財産の全てをありとあらゆる手段を用いて取得する方針を宣言してもいる。

 いうまでもなく日本の技術もターゲットとされていよう。獲得した民間技術は大規模に軍事技術に転用されてきた。南シナ海の人工島があっという間に軍事基地化した背景である。

 ここまでくればペンス副大統領が悲痛な叫びを上げるのは当然である。中国政府によるウイグルの民族弾圧などは近年目に余るものがあるが、ペンス氏は中国が「他に類を見ない監視国家」になっていて、米国の国内政治にまで干渉の魔手を伸ばし出したことを最大限に警戒している。なんとハリウッドが中国政府の「検閲」を受けているのだ! 映画だけでなく米国内の大学、シンクタンク、ジャーナリストなどがあるいは脅迫により、あるいは誘惑により、反中国の思想を封じられ、中間選挙や次の大統領選挙までが中国によって動かされようとしている。

 米国は気づくのが遅かった。しかしここまでやられたので国防権限法を発動して、軍と政府のすべての機能をフル稼働させ中国の侵犯に対して自らを守り、全面的に対決することを宣言したのがペンス演説である。これは米国の国家意思といってもいい。

 ≪≪≪スワップ協定は果たして必要か≫≫≫

 日本人は米国のこの本気度をどの程度、理解しているだろうか。米中貿易摩擦が単なる経済問題でないことはみんな分かっているだろう。世界史に新たにわき起こった覇権争奪戦、人呼んで百年戦争の勃発であるともいう。

 米国は留学生の受け入れまですでに大幅に制限し出している。体制を等しくする同盟国には当然、同じ姿勢が求められるだろう。それが理解できないで、肝心なところで中国に同調する個人ないし企業は、米国に反逆する者として制裁を受けることになるであろう。

 このような折も折、わが国はとんでもないことを引き起こした。ペンス演説を政府の要人が読んでいなかったとはまさか思えない。強い警告が出されていたのを承知で、日本政府は安倍晋三首相訪中により対中接近を図った。3兆4千億円の人民元と円のスワップ協定を結んだ。外貨が底を尽きかけた中国でドルの欠乏をさらに加速させるのが米国の政策である。これは習近平独裁体制への攻撃の矢である。日本の対中援助は米国の政策に弓を引く行為ではないか。

 谷内正太郎国家安全保障局長が弁解に訪米したというが、詳報はなく、日米間に不気味な火薬を抱えたことになる。反トランプ勢力の中にも中国批判は強まっている昨今、「日本は何を勘違いしているのか」という声が米政府外縁から上がる可能性は高い。米中戦争の開始とともに日本が反米へのかじを切ったと騒ぎ立てるだろう。

 日本の財務省は、スワップ協定は日銀が人民元を使える自由を広げ、企業と銀行を助け、日本のためになる政策であって対中援助ではないと言っているが、詭弁(きべん)も甚だしい。そもそも人民元が暴落しかけているさなかに、しないでもいいスワップ協定を結ぶのは欠損覚悟なのか、不自然である。

 ≪≪≪対中接近は政治的な誤りである≫≫≫

 私はいま遠くに考えを巡らせている。尖閣が危うくなり南シナ海の人工島が出現してから、私はアジアと日本の未来に絶望し始めていた。米軍の力の発動をひとえに祈るばかりだったが、オバマ大統領時代には期待は絶たれていた。

 トランプ大統領がやっと希望に火をともした。しかし人工島を空爆して除去することまではすまい。半ばヒトラー政府に似てきた習近平体制を経済で揺さぶり、政権交代させるところまでやってほしい。ペンス演説はまさにそのような目標を掲げた非軍事的解決の旗である。日本経済はそのためとあれば犠牲を払ってでも協力すべきである。日本の国家としての未来がここにかかっている。

 朝鮮戦争のとき世論に中立の声(全面講和論)は高まったが、日本の保守(自民党)は米ソ間で中立の旗を振ることは不可能なだけでなく危険があると判断し、米国側に立つこと(多数講和)に決した。2大強国の谷間にある国は徹底して一方の強国を支持し、二股をかけてはいけない。今回の日本の対中接近は政治的に間違っている。ただしスワップ協定は条約ではないので、日本はすぐにでもやめれば、なんとか急場をしのぐことはできるだろう。(にしお かんじ)

渡部昇一氏との対談本

本書を読み始める前に当たって──西尾幹二
 

 この本は渡部昇一さんと私の行ったすべての対談──一九九〇年以来の八つの対談を収録したものです。ここにあるものでほとんどすべてだと思いますが、もうひとつ記憶にあるのは、NHK教育テレビが「マンガは是か非か」という題目を提出し、渡部さんが是、私が非という立場で、言葉を交わしたものがあります。最初の対談であり、半世紀ほど前のことなので、いま活字として再現するのは不可能です。これは見送りました。それ以外の対談をここに蒐集し、提示しました。

 われわれの意見はだいたいにおいて同じ方向にあり、共通の地盤でものを言っているように思われていたし、事実そうでした。しかし二人に微妙なズレがあるのもまた事実だし、互いに正反対を自覚して対立しあっている議論もございました。

 なかでも、二人の呼吸が非常に合って楽しく、かつ啓発的な対話となって読者を喜ばせたのは『諸君 』休刊をめぐるもので、今日の文藝春秋の「自滅」を早くも正確に予言している興味深い読み物となっております。二人の意見が気持ちよく一致したこの一篇を本書の巻頭にすえ、『文藝春秋』の言論誌としての無内容への転落と内紛の見せた悲喜劇を、わが国の思想界の運命の分かれ目として、まず検討したいと思います。

 二番目の対談は二人の意見が一致するのではなくて、さっき申したとおり完全に正反対でぶつかり合った臨時教育審議会(臨教審)──中曽根教育改革──と第十四期中央教育審議会との正面衝突をめぐるテーマ、「教育の自由化」をめぐるホットな教育論を第2章として展開しました。

 第3章はやはり西尾と渡部の意思が非常によく疎通してはいるものの、微妙に問題意識が食い違う例、いま読み返してみてこれは何だろうかと西尾自身が改めて考えさせられたテーマでございます。ドイツと日本との相克、対立、あるいは運命論的対比の問題です。渡部さんと私とは考え方が似ているようで根っこが根本的に違っていることがわかったこの一篇をとりあげたいと思います。

 それ以外のものは、五篇ありますが、大同小異、共通する地盤を得ています。主として共産主義批判では最早なく、東京裁判史観批判へと議論が主に移動しました。これが新しい共通する地盤ですが、文藝春秋がここから逃げ出しました。ということは、じつは文藝春秋が言論思想の企業として果たしていた役割が終焉したと思わせる事態と深く関係があるのであります。
 
 いまわが国が向かっている運命を検討するうえで、アメリカ文明のもつ位置──すなわち、ベルリンの壁が崩壊してソビエトがなくなった段階で次の時代に転じていて、テーマとしてはある意味で反米の問題です。冷戦終焉までは反共・親米で済んでいた保守言論界が、反共が終わってしまったため立ち位置を失ったわけですが、わが国の立場を正確にみていくためには、いまの時代はあの戦争の動機と目的を明確にすることによってもう一回自分たちのリアリズムを回復するという認識をもつかもたないかの分かれ目であって、じつはそれが『諸君 』という雑誌の目的でもあったはずです。ところが会社はテーマの重荷に耐えかねて『諸君 』を投げ出しました。『文藝春秋』は無思想・無目的な空中浮遊を始め、部数を落としました。

 この無思想・無目的の雑誌の空白状態はいまのわが国のメディアのトータルな姿でもあって、文藝春秋の運命は座視しがたいわれわれの言論の危機でもあります。

 最後にここでもうひとつ別のテーマが本書の終わりのほうで取り上げられるのを注目していただきたい。私と渡部さんは共通してともに歴史的時代認識をもっていました。ただ、やはりそこでも重要な違いが出てくるのは「中世」というものをどう考えるかという問題で、それは本書に留まらず、今後大きな論題となってくるであろうと思われますので、解説の最後にはその問題を少し展望したいと思います。

目   次
本書を読み始める前に当たって──西尾幹二
第1章 敗北史観に陥った言論界
第2章 自由で教育は救えるか
第3章 ドイツの戦後と日本の戦後
第4章 国賊たちの「戦後補償」論
第5章 日本は世界に大東亜戦争の大義を説け
第7章 「朝日」「外務省」が曝け出した奴隷の精神
第8章 人権擁護法が日本を滅ぼす
解 説    西尾幹二
一 文藝春秋の「自滅」を予言していた対談 
二 東京裁判史観批判と文藝春秋 
三 教育の自由化をめぐって
四 日本とドイツの運命論的対比 
五 「中世」をどう考えるべきか 
回想・父 渡部昇一    早藤眞子(渡部昇一長女)  

別冊正論 非常高齢社会

「最近の一連の仕事をまとめて」の(D)別冊正論が発売されています。

私も今早速読んでいます。

誰でも年は取ります。今高齢の人ばかりでなく、
もうすぐ高齢になる人、
また高齢になる近親者がいる人にも、
是非読んで欲しい内容ばかりです。

西尾論文は
「老いと病のはざまで―自らの目的に向かい淡々と生きる」です。

日録管理人長谷川

内部をむしばむ国民の深い諦め

 平成30年9月7日 産經新聞「正論」欄より

≪≪≪ 深刻さを増す組織の機能麻痺 ≫≫≫

 スポーツ界の昨今の組織の機能麻痺(まひ)は日本相撲協会の横綱審議委員会の不作為に始まった。横綱の見苦しい張り手や変化、酒席での後輩への暴行、相次ぐ連続休場。その横綱の品位を認め、人格を保証したのが横綱審議委員会なのだから、彼らも責任を取らなければならないのに、誰もやめない。
 
 モンゴル人力士の制限の必要、年間6場所制の無理、ガチンコ相撲を少し緩める大人の対応をしなければけが人続出となる-素人にも分かる目の前の問題を解決せず、臭い物に蓋をして組織の奥の方で権力をたらい回ししている。
 
 そう思いつつファンは白けきっていると、日大アメフト問題、レスリングのパワハラ問題、アマチュアボクシングの会長問題、そして18歳の女子選手による日本体操協会の内部告発と来た。止(とど)まる所を知らない。各組織の内部が崩壊している。
 企業にも言えるのではないか。東芝の不正会計問題、神戸製鋼の品質データ改竄(かいざん)問題、日産の排ガス検査改竄問題と枚挙にいとまがない。政界や官界や言論界も無傷なはずはない。財務省の国有地売却をめぐる公文書改竄はどう見ても驚くべき書き換えで、担当者が自殺までしている。その父親の手記は涙なしに読めなかった。事件の原因が安倍晋三内閣への忖度(そんたく)だといわれても仕方がないだろう。
 『文芸春秋』の内紛は左翼リベラルに傾いて内容希薄になっていたこの雑誌の迷走の結果であって、「自滅」の黄ランプを会社の門口にぶら下げた事件にも例えられよう。
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≪≪≪ 日本に蔓延する現状維持ムード≫≫≫

 このような状況下で、日本が何か外から予想もつかない大きな衝撃を受けて、外交的・軍事的に国家が動かなければならないような事態が起こったら恐ろしい。少しでも正論を唱えるとボコボコにやられる。オリンピックが終わった段階で何かありそうだ。

 世の中が祭典で浮かれている今こそ“オリンピック以後をどう考えるか”を特集する雑誌が現れなくてはいけないのに、そういう気配がない。この無風状態こそ、横綱審議委員会から自民党内閣をも経て、『文芸春秋』にまで至る、何もしない、何も考えない今日の日本人の現状維持第一主義のムードを醸す。自分だけが一歩でも前へ出ることを恐れ、他人や他の組織の顔色をうかがう同調心理の中で、時間を先送りするその日暮らし愛好精神のいわば母胎である。
 今の日本人は国全体が大きく動き出すことを必死になって全員で押さえている。仮に動き出すことはあっても、自分は先鞭(せんべん)をつけないことを用心深く周囲に吹聴している。世界の動きに戦略的に先手を打つことは少なく、世界の動きを見てゆっくり戦略を考えるのが日本流だ、といえば聞こえはいいが、戦略がまるっきりないことの表れであることの方が多い。

 国家を主導している保守政治とは残念ながら、そういう方向に落ち着いている(堕落しているともいえる)が、国防をアメリカに依存しているわが国の現実を見るならば仕方がない。これが、保守政権を支持する大半の国民の条件付き承認の本音である。問題は「さしあたりは仕方がない」の本音が国民から勇気を奪い、社会生活の他の領域、政治・外交とは直接関係のない生活面にまで強い影響を及ぼしてしまうことなのである。
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≪≪≪ 政府の行動に責任はあるか ≫≫≫

 今のアメリカは日本を守るつもりもないけれども、手放すつもりもなく、自由にさせるつもりもないという様子見の状態である。日本も様子見でいけばいいのだが、強い方は何もしないでも黙って弱い方を制縛する。弱い方はよほど意識的に努力しても、なかなか様子見しているほどの自由の立場には立てない。今の日米関係がまさにそれである。国民は諦めてこの現実を認めている。安倍政権支持はこの諦めの表現である。

 昔と違って今の日本人は政治的に成熟し、大人になっている。「さしあたりは仕方がない」は明日、自民党に代わる受け皿になる政党が現れれば、あっという間に支持政党を変えてしまう可能性を示唆している。国民は何かを深く諦めているのである。政府がアメリカに対して、国防だけでなく他のあらゆる分野で戦略的に先手を打てないでいる消極性は、国民生活のさまざまな面で見習うべき模範となり現状維持ムード、その日暮らしの同調心理を育てている。

 スポーツ団体から企業社会までそういう政府のまねをする傾向が強くなる。組織は合理性も精神性も失い、それぞれが表からは見えない「奥の院」を抱え、内部でひそかに一部の人々が権力をたらい回ししている。財務省の国有地売却に関する公文書改竄を見て、国民は「こんなことまでやっていたのか」と驚き、恐らく将来違った形で、似たようなことがもっと大規模に繰り返されるだろう。

 政府の行動は学校の先生が生徒に与えるのと同じような教育効果がある。だから怖いのである。今日の出来事は明日は消えても、明後日は違った形で蘇(よみがえ)るであろう。(にしお かんじ)

最近の一連の仕事をまとめて

 9月から10月にかけて、最近の私の一連の活動がまとめて公表されます。本の形になって刊行されるのは次の二冊です。

(A)渡部昇一・西尾幹二著「対話 日本および日本人の課題」ビジネス社
(二人の行った対談8本を収録。私の解説80枚が付く。)

(B)西尾幹二著「あなたは自由か」ちくま新書
(新書とはいえ400頁を超える、近年の私には少し無理だった力業である。)

 過去一年有余(B)の製作に意を注いできました。しかし目次が最終的に決まったのもやっと三日前であり、これから数日かけて本格的な校正者の手が入るので、まだまだ息が抜けません。(B)で苦しんでいる間に、(A)のほうが先に仕上がってしまった。(A)は9月初旬刊、(B)は10月中旬刊。

(A)に関係して、文藝春秋批判の問題が浮かび上がりました。そこで、
(C)『正論』10月号(9月1日発売)、に花田紀凱・西尾幹二対談「左翼リベラル『文藝春秋』の自滅」がのります。
(A)の私の解説80枚にも同じ方向の分析があります。(C)は政治的分析として明解です。(A)の解説はもっと巾が広く、裏話もあり、渡部氏と私の違いも分かります。

(D)「別冊正論」32号(次号です)に私の16ページ仕立ての写真入りインタビュー記事「老いと病のはざまで―自らの目的に向かい淡々と生きる」がのります。
(B)の私による解説もあり、病気、未来、生活、生き方等をめぐりかなりホンネを語っています。

(D)は(B)を知るのに役立つでしょう。(D)には渡部昇一氏関係は入っていません。

 私のこの秋の本命はいうまでもなく(B)『あなたは自由か』です。副題はありません。たまたま(A)と発効日が近づいたため混同しないで下さい。『あなたは自由か』には文藝春秋問題も直接関係ありません。私の一生をかけて語りつづけた本来のテーマがこの一冊に凝縮されています。どうかよろしく。