阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十二回」

(8-54)人間は努力し向上を目指す一面を持つ存在だが、それと同時に何もしない安逸と現状への満足に埋没する一面を持つ存在である。

(8-55)私学の中からなぜ早慶を凌ぐ有力大学が出現しないのか。〝私学の時代〟の到来を叫ぶ今日にしては矛盾した話である。

(8-56)本当の意味での学問は、明日必ずしも実利に結びつくとは限らないものを、楽しみながら熱愛する一種の貴族的精神、あるいは遊戯(ゲーム)の精神を必要とするはずだが、

(8-57)最高度の天才にしても、この自己の限界に対する自覚がなければ、決して創造的にはなり得ない。自己の置かれている不平等―神に対する不平等も含む―との戦いが、始めて人間を創造的にする。

(8-58)いわゆる有名大学は優秀な学生が集まるから、悪い教育をしても許され、学生たちは〝競争の精神(アゴーン)〟を忘れ、知らぬ間に、日本の学問は無間地獄に堕ちて行く、

(8-59)教え子の出口の義務さえ負わないで、無限の自由の中に生きている組織は、自らの生産物(学問)の質にまで腐食が及ぶ。

(8-60)大学が世界に例のないタテ並び序列構造を示したままなので、現実には幼い子供たちにまで迷惑をかけている。大学の衰弱が日本の教育全体の生産性を引き下げている。大学と大学教授が現状の温室暮しを自ら壊し、自己改革しない限り、「教育」は先細りし、明治以来日本が誇りにしてきた教育主導の国造りはいったい何処の話かということになろう。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-54) P629 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-55) P634 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-56) P636 下段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-57) P649 下段から650上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-58) P656 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-59) P658 下段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より
(8-60) P661 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十一回」

(8-48)順位の高い大学は入学者選抜においてはじつに大幅な自由を楽しむことが出来る。序列順位トップの大学は100パーセント完璧な自由―他の業界では存在しない自由、この世のものとも思えぬ自由を握りしめている。この自由が、とりも直さず、大学間の無競争状態をもたらすと同時に、高校以下の日本の学校教育を著しく不自由にしている。

(8-49)東大を母艦にし他の有力大学が周りを取り巻いて、東大の追い落としを決して考えないで、利益を分ち合うもたれ合い、馴れ合いの〝護送船団方式〟を組み、明治以来今日まで進んできた序列構造。「大学の自治」でガードが固く、文部省もひたすらこれの温存維持に手を貸す以外に智恵がない。

(8-50)真実の認識、絶望的な困難に面と向かわないでいる限り、半歩の前進もじつは望めまい。壁の硬さを知る者だけが、たとえ小さな穴でもよい。実際に穴のあく鑿(のみ)の振るい方を心得ている。

(8-51)自治とは何をやってもいいということでは勿論ない。自分で自分をちゃんと管理できて、世の中に責任を問えるということでなくてはならないであろう。それに耐えるだけの行動をしなければ、自治の名に値しない。

(8-52)人間は余りに自明な、はっきりと目に映る、不合理な社会意識に、理由もなく自分が縛られ、支配されている事実をなるべく見たがらない存在である。言っても仕方がない。だから言葉にしたくない。そういう感情も働いているであろう。
 けれども、逆にいうとこれは、不合理な社会意識の圧倒する力の存在を認めてしまうことである。

(8-53)しょせん受験生の偏差値、入学試験の難易度で競争の勝敗が決められる。そうして出来上がった序列にむしろ教授たちが無反省にぶら下がっているのが実情である。教授が学生に、大人が子供に依存している構図である。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-48) P567 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-49) P581 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-50) P582 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-51) P585 下段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-52) P604 下段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-53) P626 上段「第三章 すべての鍵を握る大学改革」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十回」

(8-43)教育界は真実を見まいとする病いにかかっている。

(8-44)何か一つを権威として祭り上げる者は、その何か一つを批判されると、自分自身の権威までが脅かされたように感じるのであろう。侵すべからざる自分の聖域に土足で踏み込まれたかのように感じた苦痛は、一時的に人を興奮させ、わけのわからぬ怒りに駆り立てる。

(8-45)九十九匹を救済した理想案は、理想的であればあるほど、それにさえも参加できない迷える一匹の小羊の不幸と苦悩を倍化させる。

(8-46)百人のうち九十九人を満足させようとする制度より、五、六十人を満足させる制度の方が、じつは百人全員の幸福につながる、

(8-47)日本には西欧的な意味での自由がない。封建社会の遺風がまだ残っているからだ、と。しかし、私はそうは考えない。そうではなく、自由を維持するにはそれなりの努力を要すること、ある自由を守るためには別の自由を犠牲にする必要があること、この認識が日本の社会には欠けているのである。

出展 全集第八巻 
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-43) P534 下段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-44) P546 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-45) P554 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-46) P555 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より
(8-47) P563 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十九回」

(8-38)世界と人生において、われわれの出会う問題のすべては複雑だが、解決の手口がすべて複雑だとは限らない。否、単純な解決を目指して一直線に進む情熱がなければ、どんな問題も解決には至らない。そのためには問題の形態が単純にみえてこなくてはならない。

(8-39)いわゆる教育の世界では、人間性の暗い側面や、社会の発展に逆行する価値に権利を与えるという考えがそもそもない。死への心構えも近代の教育学のテーマにはならない。悪の魅力にも正面から目を向けることはしない。これでは人間性の半分に目をつむっているにも等しいのだ。教育という言葉に信頼が寄せられない所以である。

(8-40)教育学者や教育官庁や教育関係者に失望してもいいが、日本の子供たちに失望してしまうわけにはいかない。日本の学校教育に絶望してもいいが、子供の未来に絶望するわけにはいかない。日本の社会をみすみすそうと分っている病理の淵から救い出さないでおくわけにもいかない。
 ここにある意味でわれわれのディレンマがあり、問題の発端がある。

(8-41)文部省は、実際には、「明日にも」対応し解決しなくてはならない課題に取り巻かれているはずなのである。ただその課題を見ていないだけである。

(8-42)十八歳以下の子供たちも、できるだけ他人と同じ学歴を得ようとして受験競争をするのだとしたら、それはじつは競争心理ではない。他の存在と同じでありたいと思うのは、要するに競争回避心理だからである。

出展 全集第八巻
「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-38) P495 下段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-39) P496 下段から497上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-40) P497 下段から498上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-41) P518 上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」うpろ
(8-42) P534 上段「第二章 自由の修正と自由の回復」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十八回」

(8-33)要するに知能指数の高い高度能力の所有者を、十八歳段階で、幾つかの特定の大学(最近では有力私大もこの中に入りますが)がほぼ完全に独占してしまう構造に、日本の教育組織の最大の難点があるのです。だからこそ予備校や塾は繁昌し、進学競争が幼稚園児からスタートするという日本の最悪の教育環境が国民を苦しめつづけているのです。

(8-34)競争を鎮めるために、学校の数を増やせば増やすほど、「格差」は逆に大きくなり、ヒエラルヒーの上下の差は広がり、上を不必要に押し上げ、下を無意味に押し下げるという力学が働くように思えます。

(8-35)日本の教育から自由競争はすでに完全に消え失せているのである。大学の固定した序列構造に群がる非生産的な競争はみられるが、真に公平で、健康な自由競争はすでに存在していない。

(8-36)例えば、私は否定でしか語らない。否定しなければ現実を明確に捉えることが出来ないからですが、同時に、ある事を否定することで私は何か別のことを肯定しています。私の肯定の仕方はいつもそういう性格のものです。従って最初からストレートに希望や期待を語ることを好みません。

(8-37)学問は認識の世界だが、教育は認識の対象で終わって良いのだろうか。教育は文献学や歴史学と違って、一歩行動に踏み込んで初めて分かってくる世界ではないだろうか。教育についていくら正しい認識を持ち得ても、現実を少しでもその正しい認識に近づけなければ意味がないともいえるのではないか。

出展 全集第八巻
「Ⅳ 第十四回中央教育審議会委員として」
(8-33) P424 下段から425上段「飯島宗一氏への公開状」より
(8-34) P447 下段「日本の教育の平等と効率」より

「Ⅴ 教育と自由―中教審報告から大学改革へ」
(8-35) P469 下段「中教審答申を終えて」より
(8-36) P478 下段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より
(8-37) P491 上段「第一章 中教審委員「懺悔録」」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十七回」

(8-27)先生に殴り掛かって来るような子は、じつは先生を頼りにしているとも言えるのであって、少なくともそこには指導の取掛かりがまだある筈なのである。問題のない子がかえって問題だとも言える。子供は問題行動を起こすものなのである。そういう基本的な考え方から出発する教師が少ないことに、校内暴力発生の主要原因の一つがあるのではないだろうか。

(8-28)災いだけを取り除いて、長所の部分だけを残すなどという器用なことが、人間に果たして出来るだろうか。社会人を含めた日本人全体の生き方が改まらなくて、教育だけを良くしようというのは虫がいいし、不可能なことだ。

(8-29)日本人がいい学歴を身につけたがるのは、個人の競争を避け、企業という集団内部に身を隠し安心したいがために外ならない。逆に言えば企業社会人の全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争のすべてを高校三年生に押しつけているのではないだろうか。

(8-30)他人より抜きん出るためではなく、他人と同じような資格を得たいがために進学熱が高まっているのが一般的な実情だが、そもそも他人と同じような存在でありたいと思うのは競争心理では決してなく、むしろ競争回避心理である。

(8-31)けれども他人と同じ存在になろうとして競争し、その揚句、微妙な差別に悩まされるくらいなら、他人と違う存在になろうと最初から決意し、微妙な差別から逃れようとするのではなく、むしろそれを逆手に取って、差別される存在にむしろ進んでなるという決意でそれを乗り超えていく生き方だってあり得るのではないだろうか。また、子供たちに接する折の先生の態度もまたここに極まるのではないだろうか。

(8-32)視野が鎖されていたとき人間は強かった。情報の拡大が地球を透明にしていくこの時代に、情熱の高揚は難しい。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」

(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-27) P341 下段「校内暴力の背後にあるにがい事実」より
(8-28) P348 上段「「教育の自由化」路線を批判する」より
(8-29) P353 上段「「競争」概念の再考」より
(8-30) P367 下段からP368上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-31) P376 下段から377頁上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-32) P400 上段「「自由化」論敗退の政治的理由を推理する」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十六回」

(8-21)教育は教育を受けること自体を自己目的とする行為であって、他の目的に奉仕する行為ではないのだ。

(8-22)教育とは他人に教えたり教えられたりする行為では必ずしもなく、自分で自分を発見する行為である。その妨げとなる障害や困難を取り除く諸対策は「教育問題」ではあっても、教育それ自体ではないのである。

(8-23)現代では、空想家ほど理想家のポーズをとりたがるものである。

(8-24)つまり、日本では目に見える範囲の同級生や仲間の間で差別されることには異常なまでに敏感なのである。しかし目に見えない処で、自分の知らない集団から差別されても気が付かないし、それどころか、自分も目に見えない集団に対しては残酷なまでに冷淡な扱いをして、さして恥じる処がない。抽象能力の弱い国民性に由来するのかもしれない。だから日本では学校単位の仕切りがごく自然な形態となったのであろう。学校間「格差」が発生して以来、重宝がられた所以である。

(8-25)しかし考えてみるまでもないが、一国の学問水準を高度に維持する大学院の数はそう多い必要はない。末端大学までが大学院を設置するのはナンセンスである。

(8-26)人間はみな同じという形式平等が進めば人間は多様さを失い、同類は頂点を目指して競い合うのが常であるから、横に拡がらず、垂直の単純な物理的な運動が始まる。下位は自分よりさらに下位のものをその存在の必要上欲求する。自分の優越感を正当化するために、つねに自分より下位のものを押し下げると共に、自分より上位のものを無意味に権威づける。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」より

(8-21) P294 下段「自己教育のいうこと」より
(8-22) P297 上段「自己教育のいうこと」より
(8-23) p299 上段「自己教育のいうこと」より
(8-24) P310 上段から下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-25) P317 下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より

坦々塾 呉善花先生講義(三)

 ここでこの精神状況というものを、少し詳しく紐解いておきたいと私は考えます。

 日本を訪ねた韓国人はすなおに日本のすごさ、すばらしさを認めます。料理に限りません、例に挙げると「ものづくり」。これもあらゆるものが精緻で美しく機能的で、かつ伝統に裏打ちされている。あらゆる分野での工芸品の水準の高さは目を見張ります。また、先端技術が生かされた高度な社会システムが構築され、秩序は乱れない。
 
 世界の人々が驚いた東日本大震災のときの日本人の姿。極限の自然災害に遭遇しても、人に譲って自分をあとにするという道徳心をまざまざと見ました。韓国人も衝撃を受けました。なぜ、あんなことができるんだろうと。こうして敬意をはらうと同時に、頭が混乱するのです。「日本人とはいうのは全くわからない国民だ」ということになるのです。

 日本人の精神の軸。そう呼べるものがいったい何なのか。全くわからない永遠の謎なのです。

 韓国は基督教社会です。一神教の社会というのはその点でわかります。勿論、朱子学の儒教社会はわかります。韓国の軸と言えるでしょう。日本人は何が軸と言えますか?神道ですか、または武士道ですか。ある人はそれではなく仏教だというでしょう。ほかにもあるかもしれません。韓国人はそこで戸惑ってしまうのです。

 つまり軸が一つではない。日本には至る所に神社がある、寺もある。その神社というのも八百万の神々を祭っているので同じではない。太陽であったり樹木であったり自然をうやまうアフリカの人ならわかる。日本人も自然をうやまいますがわかりにくい。バラバラなんです。もしかしたら悪魔を信じているのではないか。そのように韓国人は思うわけです。

 正月には初詣に神社に行って、その足で寺にお参りするような日本人だってざらにある。

 どういう精神性なのかと頭が混乱するのです。ほとんどの韓国人はここで困ってしまう。そして、混乱するだけではなく、許せないということになるのです。私も長い間、そうしたどこか許容できないという気持ちをもっていた。

 韓国の人は先祖以外は拝んではいけません。いろんなものを拝むのは迷信の部類です。韓国はちょうど日本が鎌倉時代のころ、仏教を棄ててそれから陽明学も弾圧して、朱子学だけを大切にするという転換を行いました。朝鮮における文治主義の徹底です。日本は鎌倉時代以降も野蛮な武士の戦いがいっこうにおさまらない。どうにもならない国だと、私たちの先祖は思っていたわけです。

 日本人にはひとつの価値とか道徳がない。なんだかわからない。韓国人の善はわかりやすいのです。一つだけある。儒教に説かれている聖人君子がその善を体現している。金正日一人が善を実現できる人で、それ以外は悪である。一番偉い人が一番正しい。朱子学の教えはこれであると。

 そしてデタラメな基準で生きている日本人はこれが理解できないから、いつも頭を叩いておかないと彼らは何をするかわからない。考えを変えてしまう。常にきちんと教え込んでおかないといけない。韓国人が言うところの「歴史認識」とはこれであって、双方の国民がそれぞれ意見を主張しあって互いに歩み寄る、というものでは決してないのです。日本人がやることは韓国が主張するものを受け取るだけ。反論や異論等とんでもない。繰り返し繰り返し、韓国の言うことを日本人は心して聞けということです。

 日本人にしてみると実に不可解なことだと思うでしょうが、現在の韓国の朴政権は戦後いちばん外交で成功しているという評価を国内ではしています。

 普段は日本人はぼおっとしている。けれど何か一つ掴んだときの集団主義は怖しい。韓国人はそういう恐怖心で見ています。事あれば、いつ軍国主義になるか知れない。震災のときもそうでした。ここから日本人はさっと変質していくのではないか。軍国主義に走るのではないかと心配しています。

 日本人と韓国人の価値観について、もう一つお伝えしておきたいと思います。

 「もののあわれ」というものを日本人なら感覚的に、情緒的に知っています。一方、韓国人は「恨」の国民だと自他共に認めています。二つの国民性は大きく異なっています。もののあわれというのは何でしょう。秋になると日本人は物悲しいと言ったりします。虫の声が聴こえると、ああ秋だと言います。木の葉が紅く染まってくるとこれも秋を感じますね。
 
 韓国人は日本人ほど虫の音が聴きわ分けられません。日本人は敏感なのです。柿の木に実が成っていたが、秋も深まり三つしか残っていない。こうした情景も日本人は美しい感じたりします。しかし韓国人がこれを見たら美など感じません。三つしかない、これは不吉なのです。韓国人は花が咲き、木が生い茂っているなら、永遠に咲いて永遠に繁っていてほしいと思うのです。「なぜ枯れて(衰弱して)いくのか?」。この感情も「恨」なのです。枯れること、弱ること、衰えること、すべてあってはならないのです。

 私は昔、日本の茶道をまなぶ機会がありました。茶室に招かれて、お点前を待っていました。部屋の一角の花筒に今にも落ちてしまいそうな枯れ葉がありました。私はこれがイヤで「生き生きとした花ならまだしも」と思って質問したのです。すると先生は、「この瞬間にしかみられない生命の儚さ」というものがあるのです、と説明してくれました。初めてそんなことを知りました。

 日本の人たちは桜をこよなく愛します。桜の花といっても僅か三日か四日。長くて七日くらいで散ってしまいます。雨風が来てたった一日で花が終わることもあります。けれど日本人はこの儚い花を観るために花見に繰り出します。散り際が美しいとも感じます。韓国人にはこの感覚がわからないだけでなく、怖いのです。潔いという美意識が怖い。日本人は親切なときは親切。ですが、あまとはぱっと斬ってしまう。朝鮮人はそう思うのです。日本人はわがままも聞いてくれるが、桜の花のようにさっと態度を変えるかもしれない。

 恋愛の話をすると、日本の男性は好きな女性に告白して、受け入れられないなら、大抵、さっと身を引きます。ところが韓国の男性はそうはしない。好きな女性に対してはいつまでもどこまでも未練がましく追いかける。女性が結婚してもまだ告白している。韓国人は自ら、それを「情が深い」と自讃しているのです。韓国人は水に流すことはできない。過去をずっと携えて言う。相手が、相手である日本人が水に流すのは許せない。だから、善である韓国人は、善でない日本人に対してずっと言いつづけなければいけない。そう思っているわけです。

 永遠に咲いている花なんてこの世にありません。しかし、韓国人はそれを望んでいるのです。だから、韓国には至るところに造花を飾ってあります。公の場所、ホテルのフロントなどでも見かけるでしょう。造花はいつまでも枯れない、萎れない。したがって韓国の国花は「むくげ」なのです。華やかとはいえないけど、散らないからです。

 韓国人はユダヤ人が大好きです。私たちは一度も侵略したことがない。善なる民族である。同じく受難がありながらユダヤ人のように優秀で強くありたい。朱子学の教えでは、善なるものは枯れたり、萎れたりしてはいけない。つまり死んではいけない。だから息子を産むことです。そうすれば遺伝子が代々継いでくれ、明るい未来になる。若いときに勉強するのは将来、苦しみが少なくて済むと思うからです。「私には苦しみがあってはならない」。そう深層にはそういう意識があるのです。
 私には苦しみがあってはならないはずなのに、日本人のせいでこんな苦しみを負わされている。こうした偏った性向が嵩じたのか、「火病」という世界で韓国人にしか罹らない珍しい病気があります。「火病」の症状は体の片方に熱がこもって、もう片方が冷たくなる。原因はストレス。嫁と姑の間で葛藤が生じて、女性に多かったが最近は男性患者も増えている。ストレスの内容ですがやはり「恨」、恨みつらみと関係があるとされています。

 日本人が韓国人に話し合いましょうと言ってもうまくいかない。当面は、日本人の知恵であります「間」をおくこと、それから立ち向かっていくことが大切だと私は思っています。                    (了)

坦々塾 呉善花先生講義(二)

 もう多くの日本人が気づいていることですが、韓国の歴代の大統領は支持率が落ちると反日をあらわにしてきました。毎回、同じことを繰り返しています。

 李明博前大統領も竹島で品のない反日発言、反日パフォーマンスをしましたね。がっかりしますが、この傾向は直りません。経済発展を遂げたら、多少は反日意識が変わるかとも思いましたが、教育によってつくられたものですから根が深い。日本のことがわからないまま、韓国では反日感情が沸き上がってしまうのです。韓国人が叫ぶ「正しい歴史認識」とは何ですか?いったい何が正しい認識だというのでしょう。

 ここから大事な話をしていきたいのですが、ふつうは「正しい歴史認識」という場合、互いに立場が異なるのですから、「正しい」とそれぞれみなしている問題について話し合いをはじめましょう、というのがあるべき順序ですね。ところが反日だけしか頭にない韓国人は「なぜ話し合いをする必要があるのか」と言います。未来に向きましょう、という意味は、「韓国は正しい」「日本は間違っている」ということを日本が理解すること、それ以外には話し合いもへったくれもないというわけです。そんなふうに感情が沸き上がっている。

 したがって日本統治時代の評価は一切できません。親日イコール売国奴なのです。もう既に、彼らは教え込まれている段階ではなく、すっかり頭がそうなってしまっている。じわじわと根付いてしまっている。

 さらには、韓国のマスコミは日本の評価が全くできない。マスコミが立ちあがらなくてはならないのに、何も言えないという状況になっています。

 私について言えば、親日派の代表であり、イコール売国奴という烙印を押されています。

 日本統治時代は良いことも悪いこともあったなどと言ったなら、韓国では袋叩きに会います。私は韓国人でありますが日本の国籍を持っています。真実を言わなければならないと思ってやってきましたが、去年入国拒否になって、私は韓国に入れません。

 朝日新聞の誤報というより捏造で明らかになってきた慰安婦問題。このことは皆さんが注視しておられることですが、たとえ捏造されたということがわかってきても、反日韓国の態度は一向にかわることなく、慰安婦と歴史問題を携えて日本憎悪を強めていくことでしょう。そんな中で、最近、新しい事実がわかってきました。韓国における米軍のための慰安婦、つまり米軍兵士のための従軍慰安婦問題がこれこそ確実な証言、証拠を揃えたうえで立ちあがっています。基地で何があったのか、韓国はどう協力したのかといった核心がこれから明らかになってきます。

 韓国は自壊していくのではないでしょうか。けれどもそんな危機感もなく、一本調子で日本人に対する憎悪と侮蔑を募らせています。韓国は何があっても日本人を貶めたい、賤しい存在であるかということを世界に広めたい。とにかく謝って謝って日本人は一生過ごすべきなのだというふうに思っているのです。朝日の捏造記事で曲げられてきた真実が是正されてきました。しかし、韓国はそんなことは関係ない。女性を卑しめた日本人はあくまでいやらしいのだ、と世界に喧伝します。そして原発事故を起こした日本の食べ物はすべて汚染されているのだ、とこれもまた世界に流布します。日本の産品はスーパーから消えてしまいました。日本の食品を食べるとからだが溶けてしまう、日本の若者が草食動物みたいにくねくねしているのもそのせいだと言っています。とにかく貶めたいのです。

 彼らは矛盾しています。こうして軽蔑していながら韓国から日本へ観光に押し寄せている。観光客は増えているのです。「日本はいいね、温泉がいっぱいあって」と全国各地の名所を訪ねたりしている。もともと韓国にはお風呂の文化はないのです。日本統治時代に日本式の銭湯をたくさんつくってもらった。そこからお湯の文化が始まったのです。

 温泉地に限らず、日本人の〈おもてなし〉の姿勢には感動します。懐石料理は韓国人には味が薄く刺激が少ないけれど、見ているだけでうつくしい。韓国では料理は大抵、大皿にどーんと盛ってまいります。食器も樹脂製だったり味気ない。日本は違います。旅館ではお小皿にこまごまと一品料理が色とりどりに並びます。これだけ芸術作品のような調理をするのは手間もかかるでしょう。一人にひとつずつ鉄鍋を用意してくれたり、ほんとうにすばらしいなあと感じます。

 意外とお思いになるかもしれませんが、韓国の人が日本に来て何が食べたいかというと、焼き肉なんです。焼き肉というと韓国の十八番でしょう。しかし、日本の牛肉、例えば松坂肉の美味しさといったら格別で、こんな口のなかでとろけるような肉は食べたことがないと感動して帰ります。勿論、国内でも和牛はあるんですよ。和牛といっても豪州産和牛ですけれども。やはり味が落ちます。日本の牛の旨さにはかなわない。私の友人もおいしい、おいしいと言って感激しておりました。
料理の美味しさ、おもてなしのすばらしさ、これを体験して韓国人は日本はすごい、日本人は親切だと感じて帰ります。なのに、帰国すると彼らはまた反日に戻るのです。

坦々塾 呉善花先生講義(一)

日本人にはわからない「韓国人の精神性」

 私は来日して三十年になります。これまでの間、常に日本を知りたい理解したいとつとめて学んできました。日本人についても相当わかるようになりました。けれど、理屈でわかっているつもりでも、ついていけないもの、慣れないものが三十年を経た今でもたくさんあります。

 その一つが言葉の発音です。日本語にあって韓国に無いもの、それが濁音です。韓国人は濁音が苦手でしゃべることも聞き取ることもむずかしい。話に夢中になっていると、濁音なのか半濁音なのか、判別できないことがよくあるのです。「今のはテンテン(濁り)ありますか?」と私はよく訊くものですから、私は〈テンテン病患者〉だと言われてしまいます(笑)。ですから今日の私のお話も流れから内容を掴んでいただきたいとお願いしておきます。

 日本では、「敬語」の使い方でも大いに戸惑います。世界で一番敬語が多いのが日本語と韓国語。ところが、日本と朝鮮とでは、敬語の使い方がまるで逆なのです。韓国は儒教社会で、身内を大事にいたします。そこで父親が留守という場合、「うちのお父さんにはいらっしゃいません」と言わなければなりません。日本では「只今、父はおりません」です。正反対なんです。今でも私は、どう言うべきかと迷うことがあります。ある会社の社長に電話をかけたら「鈴木は席を外しています」と返事をする。韓国の人なら「鈴木社長は舐められているのではないか」と思うに違いありません。

 外国に行って韓国人と日本人は似ているので、すぐ仲良くなります。互いに言葉が通じないときは英語で会話します。通じていくと互いに異国人であることさえ忘れてしまうほどです。しかし、だんだん相手の中に入っていくと、全然違う。最初は通じていても利害が生じると、小さな違いが大きくなります。

 同じ東洋人で顔も似ている。九割は似ている、しかし一割が違う。この一割がとても大きいのです。ここを見つめておかないと本格的な付き合いはできない。徹底的に見つめて目をつぶらず俎上にあげていくこと。これは大事です。

 十年くらい経つでしょうか。韓流ブームが日本に起きました。『冬のソナタ』を皮切りにたいへん盛り上がりました。あの〈冬ソナ〉のドラマを観た日本人は、昔の日本に出会ったような懐かしさを感じたと言います。確かに、そういをところがあるのでしょう。あっという間に主役のペ・ヨンジュンが大人気になりました。とくに「ヨンさま、ヨンさま」と中高年の女性の間ではたいへんな熱中ぶりでした。しかし、ヨンさまは商品として日本で売れたのです。

 あの頃、私は韓国に行きまして中高年女性達に聞いてみたことがあります。当然のように返ってきます。「なぜ、あんななよなよした男がいいんだろ。ほんとにわからない」と不思議がっていました。一般に韓国ではああいった軟弱な男は魅力がないのです。むしろイ・ビョンホンのほうがいい。ここにも韓国人と日本人の感じ方、男女に対する意識、価値観が大きく違っています。

 日本でいうと、鎌倉時代に当たりますか。朝鮮では、朝鮮時代に入り、仏教を排除、弾圧して儒教の朱子学だけを重んじる社会になります。国の統治から人々の礼儀作法まで、徹底した朱子学の価値観を敷いてゆきます。朝鮮半島は男権社会。女性にとっても完璧で強い男がいいのであって、慕われ、尊敬されるのは強そうな男性です。つまり、イ・ビョンホンのようなタイプ。よりによって、ヨンさまが騒がれること自体、自国の女性にはわかりにくい。

 では、なぜ日本でヨンさまが受けたのでしょうか。日本という社会は一見、男尊女卑に見えます。韓国人も「日本は韓国以上に男尊女卑だろう」と言います。イメージとして武士の夫婦があります。主人が勤めに出るとき、玄関先で「いってらっしゃいませ」と三つ指をついて妻が見送る。これが頭にあるので、男尊女卑だと私も思っておりました。

 しかし、日本におりますと、実は男性は表面だけで威張っていることがわかってくる。この社会は実は女性によって支えられていると思いました。この精神性は何なのか。〈かかあ天下〉と言ったり〈亭主関白〉と言ってみたり。けれど大抵は〈かかあ天下〉と女性を上に置いて、巧くいくんだという家庭が多い。

 韓国は違う。結婚したわが夫が絶対的なのです。女は夫を絶対唯一の神様のように支えなければならない。妻の役目がそうです。したがって〈かかあ天下〉に相当する言葉が無くて、逆はたくさんある。「雌鳥が鳴くと家が亡ぶ」と言い、「三日殴らないと女は天にのぼる」とも言います。男からいえば女は厳しくしつけておかないといけない、ということになります。

 一方、私は日本には母系社会が底辺に流れていると思っています。

 やはりここに母系社会と感じられるものがあるのです。もっと幅広くとらえると、日本には女神の存在が大きい。大の男たちが大勢、伊勢参りに行きます。富士山の祭神も女神です。それほど魅力があるわけです。

 拝む存在として女性を、男が拝むということは韓国ではありません。韓国の女性は完璧な男に憧れますが、日本の女性は、ちょっと物足りない男に魅力を感じる(笑)。それでやすらぎが感じられるみたいですね。

 けれど韓国では、自信がなくっても男は「俺は完璧だ」というところを見せます。そうして女性を口説く。日本の女性にとってわかりにくいでしょうね。韓国男性は嘘っぽくても強くなければいけないと思う。中国もそうですね。習近平も強く見せるでしょう。それに比べると、安倍さんでもどこかナヨナヨしているように見えてしまう。

 韓国ブームでキムチも定着しました。けれど、雲行きが怪しくなってから、両国の実情は少しずつ変わってきています。李明博前大統領が竹島に行って岩に登って日本を批難した。すると、日本人の韓国行きが減ってしまった。私が生まれた済州島も観光地です。日本からのお客が激減しました。半面、中国人の観光客が増えているが、現地は嘆いています。日本人はマナーが良くてお土産文化があるけど、中国人は土産を買わない。