阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十七回」

(8-27)先生に殴り掛かって来るような子は、じつは先生を頼りにしているとも言えるのであって、少なくともそこには指導の取掛かりがまだある筈なのである。問題のない子がかえって問題だとも言える。子供は問題行動を起こすものなのである。そういう基本的な考え方から出発する教師が少ないことに、校内暴力発生の主要原因の一つがあるのではないだろうか。

(8-28)災いだけを取り除いて、長所の部分だけを残すなどという器用なことが、人間に果たして出来るだろうか。社会人を含めた日本人全体の生き方が改まらなくて、教育だけを良くしようというのは虫がいいし、不可能なことだ。

(8-29)日本人がいい学歴を身につけたがるのは、個人の競争を避け、企業という集団内部に身を隠し安心したいがために外ならない。逆に言えば企業社会人の全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争のすべてを高校三年生に押しつけているのではないだろうか。

(8-30)他人より抜きん出るためではなく、他人と同じような資格を得たいがために進学熱が高まっているのが一般的な実情だが、そもそも他人と同じような存在でありたいと思うのは競争心理では決してなく、むしろ競争回避心理である。

(8-31)けれども他人と同じ存在になろうとして競争し、その揚句、微妙な差別に悩まされるくらいなら、他人と違う存在になろうと最初から決意し、微妙な差別から逃れようとするのではなく、むしろそれを逆手に取って、差別される存在にむしろ進んでなるという決意でそれを乗り超えていく生き方だってあり得るのではないだろうか。また、子供たちに接する折の先生の態度もまたここに極まるのではないだろうか。

(8-32)視野が鎖されていたとき人間は強かった。情報の拡大が地球を透明にしていくこの時代に、情熱の高揚は難しい。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」

(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-27) P341 下段「校内暴力の背後にあるにがい事実」より
(8-28) P348 上段「「教育の自由化」路線を批判する」より
(8-29) P353 上段「「競争」概念の再考」より
(8-30) P367 下段からP368上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-31) P376 下段から377頁上段「教育改革は革命にあらず」より
(8-32) P400 上段「「自由化」論敗退の政治的理由を推理する」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十六回」

(8-21)教育は教育を受けること自体を自己目的とする行為であって、他の目的に奉仕する行為ではないのだ。

(8-22)教育とは他人に教えたり教えられたりする行為では必ずしもなく、自分で自分を発見する行為である。その妨げとなる障害や困難を取り除く諸対策は「教育問題」ではあっても、教育それ自体ではないのである。

(8-23)現代では、空想家ほど理想家のポーズをとりたがるものである。

(8-24)つまり、日本では目に見える範囲の同級生や仲間の間で差別されることには異常なまでに敏感なのである。しかし目に見えない処で、自分の知らない集団から差別されても気が付かないし、それどころか、自分も目に見えない集団に対しては残酷なまでに冷淡な扱いをして、さして恥じる処がない。抽象能力の弱い国民性に由来するのかもしれない。だから日本では学校単位の仕切りがごく自然な形態となったのであろう。学校間「格差」が発生して以来、重宝がられた所以である。

(8-25)しかし考えてみるまでもないが、一国の学問水準を高度に維持する大学院の数はそう多い必要はない。末端大学までが大学院を設置するのはナンセンスである。

(8-26)人間はみな同じという形式平等が進めば人間は多様さを失い、同類は頂点を目指して競い合うのが常であるから、横に拡がらず、垂直の単純な物理的な運動が始まる。下位は自分よりさらに下位のものをその存在の必要上欲求する。自分の優越感を正当化するために、つねに自分より下位のものを押し下げると共に、自分より上位のものを無意味に権威づける。

出展 全集第八巻
「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」より

(8-21) P294 下段「自己教育のいうこと」より
(8-22) P297 上段「自己教育のいうこと」より
(8-23) p299 上段「自己教育のいうこと」より
(8-24) P310 上段から下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-25) P317 下段「「中曽根・教育改革」への提言」より
(8-26) P329 上段「「中曽根・教育改革」への提言」より

坦々塾 呉善花先生講義(三)

 ここでこの精神状況というものを、少し詳しく紐解いておきたいと私は考えます。

 日本を訪ねた韓国人はすなおに日本のすごさ、すばらしさを認めます。料理に限りません、例に挙げると「ものづくり」。これもあらゆるものが精緻で美しく機能的で、かつ伝統に裏打ちされている。あらゆる分野での工芸品の水準の高さは目を見張ります。また、先端技術が生かされた高度な社会システムが構築され、秩序は乱れない。
 
 世界の人々が驚いた東日本大震災のときの日本人の姿。極限の自然災害に遭遇しても、人に譲って自分をあとにするという道徳心をまざまざと見ました。韓国人も衝撃を受けました。なぜ、あんなことができるんだろうと。こうして敬意をはらうと同時に、頭が混乱するのです。「日本人とはいうのは全くわからない国民だ」ということになるのです。

 日本人の精神の軸。そう呼べるものがいったい何なのか。全くわからない永遠の謎なのです。

 韓国は基督教社会です。一神教の社会というのはその点でわかります。勿論、朱子学の儒教社会はわかります。韓国の軸と言えるでしょう。日本人は何が軸と言えますか?神道ですか、または武士道ですか。ある人はそれではなく仏教だというでしょう。ほかにもあるかもしれません。韓国人はそこで戸惑ってしまうのです。

 つまり軸が一つではない。日本には至る所に神社がある、寺もある。その神社というのも八百万の神々を祭っているので同じではない。太陽であったり樹木であったり自然をうやまうアフリカの人ならわかる。日本人も自然をうやまいますがわかりにくい。バラバラなんです。もしかしたら悪魔を信じているのではないか。そのように韓国人は思うわけです。

 正月には初詣に神社に行って、その足で寺にお参りするような日本人だってざらにある。

 どういう精神性なのかと頭が混乱するのです。ほとんどの韓国人はここで困ってしまう。そして、混乱するだけではなく、許せないということになるのです。私も長い間、そうしたどこか許容できないという気持ちをもっていた。

 韓国の人は先祖以外は拝んではいけません。いろんなものを拝むのは迷信の部類です。韓国はちょうど日本が鎌倉時代のころ、仏教を棄ててそれから陽明学も弾圧して、朱子学だけを大切にするという転換を行いました。朝鮮における文治主義の徹底です。日本は鎌倉時代以降も野蛮な武士の戦いがいっこうにおさまらない。どうにもならない国だと、私たちの先祖は思っていたわけです。

 日本人にはひとつの価値とか道徳がない。なんだかわからない。韓国人の善はわかりやすいのです。一つだけある。儒教に説かれている聖人君子がその善を体現している。金正日一人が善を実現できる人で、それ以外は悪である。一番偉い人が一番正しい。朱子学の教えはこれであると。

 そしてデタラメな基準で生きている日本人はこれが理解できないから、いつも頭を叩いておかないと彼らは何をするかわからない。考えを変えてしまう。常にきちんと教え込んでおかないといけない。韓国人が言うところの「歴史認識」とはこれであって、双方の国民がそれぞれ意見を主張しあって互いに歩み寄る、というものでは決してないのです。日本人がやることは韓国が主張するものを受け取るだけ。反論や異論等とんでもない。繰り返し繰り返し、韓国の言うことを日本人は心して聞けということです。

 日本人にしてみると実に不可解なことだと思うでしょうが、現在の韓国の朴政権は戦後いちばん外交で成功しているという評価を国内ではしています。

 普段は日本人はぼおっとしている。けれど何か一つ掴んだときの集団主義は怖しい。韓国人はそういう恐怖心で見ています。事あれば、いつ軍国主義になるか知れない。震災のときもそうでした。ここから日本人はさっと変質していくのではないか。軍国主義に走るのではないかと心配しています。

 日本人と韓国人の価値観について、もう一つお伝えしておきたいと思います。

 「もののあわれ」というものを日本人なら感覚的に、情緒的に知っています。一方、韓国人は「恨」の国民だと自他共に認めています。二つの国民性は大きく異なっています。もののあわれというのは何でしょう。秋になると日本人は物悲しいと言ったりします。虫の声が聴こえると、ああ秋だと言います。木の葉が紅く染まってくるとこれも秋を感じますね。
 
 韓国人は日本人ほど虫の音が聴きわ分けられません。日本人は敏感なのです。柿の木に実が成っていたが、秋も深まり三つしか残っていない。こうした情景も日本人は美しい感じたりします。しかし韓国人がこれを見たら美など感じません。三つしかない、これは不吉なのです。韓国人は花が咲き、木が生い茂っているなら、永遠に咲いて永遠に繁っていてほしいと思うのです。「なぜ枯れて(衰弱して)いくのか?」。この感情も「恨」なのです。枯れること、弱ること、衰えること、すべてあってはならないのです。

 私は昔、日本の茶道をまなぶ機会がありました。茶室に招かれて、お点前を待っていました。部屋の一角の花筒に今にも落ちてしまいそうな枯れ葉がありました。私はこれがイヤで「生き生きとした花ならまだしも」と思って質問したのです。すると先生は、「この瞬間にしかみられない生命の儚さ」というものがあるのです、と説明してくれました。初めてそんなことを知りました。

 日本の人たちは桜をこよなく愛します。桜の花といっても僅か三日か四日。長くて七日くらいで散ってしまいます。雨風が来てたった一日で花が終わることもあります。けれど日本人はこの儚い花を観るために花見に繰り出します。散り際が美しいとも感じます。韓国人にはこの感覚がわからないだけでなく、怖いのです。潔いという美意識が怖い。日本人は親切なときは親切。ですが、あまとはぱっと斬ってしまう。朝鮮人はそう思うのです。日本人はわがままも聞いてくれるが、桜の花のようにさっと態度を変えるかもしれない。

 恋愛の話をすると、日本の男性は好きな女性に告白して、受け入れられないなら、大抵、さっと身を引きます。ところが韓国の男性はそうはしない。好きな女性に対してはいつまでもどこまでも未練がましく追いかける。女性が結婚してもまだ告白している。韓国人は自ら、それを「情が深い」と自讃しているのです。韓国人は水に流すことはできない。過去をずっと携えて言う。相手が、相手である日本人が水に流すのは許せない。だから、善である韓国人は、善でない日本人に対してずっと言いつづけなければいけない。そう思っているわけです。

 永遠に咲いている花なんてこの世にありません。しかし、韓国人はそれを望んでいるのです。だから、韓国には至るところに造花を飾ってあります。公の場所、ホテルのフロントなどでも見かけるでしょう。造花はいつまでも枯れない、萎れない。したがって韓国の国花は「むくげ」なのです。華やかとはいえないけど、散らないからです。

 韓国人はユダヤ人が大好きです。私たちは一度も侵略したことがない。善なる民族である。同じく受難がありながらユダヤ人のように優秀で強くありたい。朱子学の教えでは、善なるものは枯れたり、萎れたりしてはいけない。つまり死んではいけない。だから息子を産むことです。そうすれば遺伝子が代々継いでくれ、明るい未来になる。若いときに勉強するのは将来、苦しみが少なくて済むと思うからです。「私には苦しみがあってはならない」。そう深層にはそういう意識があるのです。
 私には苦しみがあってはならないはずなのに、日本人のせいでこんな苦しみを負わされている。こうした偏った性向が嵩じたのか、「火病」という世界で韓国人にしか罹らない珍しい病気があります。「火病」の症状は体の片方に熱がこもって、もう片方が冷たくなる。原因はストレス。嫁と姑の間で葛藤が生じて、女性に多かったが最近は男性患者も増えている。ストレスの内容ですがやはり「恨」、恨みつらみと関係があるとされています。

 日本人が韓国人に話し合いましょうと言ってもうまくいかない。当面は、日本人の知恵であります「間」をおくこと、それから立ち向かっていくことが大切だと私は思っています。                    (了)

坦々塾 呉善花先生講義(二)

 もう多くの日本人が気づいていることですが、韓国の歴代の大統領は支持率が落ちると反日をあらわにしてきました。毎回、同じことを繰り返しています。

 李明博前大統領も竹島で品のない反日発言、反日パフォーマンスをしましたね。がっかりしますが、この傾向は直りません。経済発展を遂げたら、多少は反日意識が変わるかとも思いましたが、教育によってつくられたものですから根が深い。日本のことがわからないまま、韓国では反日感情が沸き上がってしまうのです。韓国人が叫ぶ「正しい歴史認識」とは何ですか?いったい何が正しい認識だというのでしょう。

 ここから大事な話をしていきたいのですが、ふつうは「正しい歴史認識」という場合、互いに立場が異なるのですから、「正しい」とそれぞれみなしている問題について話し合いをはじめましょう、というのがあるべき順序ですね。ところが反日だけしか頭にない韓国人は「なぜ話し合いをする必要があるのか」と言います。未来に向きましょう、という意味は、「韓国は正しい」「日本は間違っている」ということを日本が理解すること、それ以外には話し合いもへったくれもないというわけです。そんなふうに感情が沸き上がっている。

 したがって日本統治時代の評価は一切できません。親日イコール売国奴なのです。もう既に、彼らは教え込まれている段階ではなく、すっかり頭がそうなってしまっている。じわじわと根付いてしまっている。

 さらには、韓国のマスコミは日本の評価が全くできない。マスコミが立ちあがらなくてはならないのに、何も言えないという状況になっています。

 私について言えば、親日派の代表であり、イコール売国奴という烙印を押されています。

 日本統治時代は良いことも悪いこともあったなどと言ったなら、韓国では袋叩きに会います。私は韓国人でありますが日本の国籍を持っています。真実を言わなければならないと思ってやってきましたが、去年入国拒否になって、私は韓国に入れません。

 朝日新聞の誤報というより捏造で明らかになってきた慰安婦問題。このことは皆さんが注視しておられることですが、たとえ捏造されたということがわかってきても、反日韓国の態度は一向にかわることなく、慰安婦と歴史問題を携えて日本憎悪を強めていくことでしょう。そんな中で、最近、新しい事実がわかってきました。韓国における米軍のための慰安婦、つまり米軍兵士のための従軍慰安婦問題がこれこそ確実な証言、証拠を揃えたうえで立ちあがっています。基地で何があったのか、韓国はどう協力したのかといった核心がこれから明らかになってきます。

 韓国は自壊していくのではないでしょうか。けれどもそんな危機感もなく、一本調子で日本人に対する憎悪と侮蔑を募らせています。韓国は何があっても日本人を貶めたい、賤しい存在であるかということを世界に広めたい。とにかく謝って謝って日本人は一生過ごすべきなのだというふうに思っているのです。朝日の捏造記事で曲げられてきた真実が是正されてきました。しかし、韓国はそんなことは関係ない。女性を卑しめた日本人はあくまでいやらしいのだ、と世界に喧伝します。そして原発事故を起こした日本の食べ物はすべて汚染されているのだ、とこれもまた世界に流布します。日本の産品はスーパーから消えてしまいました。日本の食品を食べるとからだが溶けてしまう、日本の若者が草食動物みたいにくねくねしているのもそのせいだと言っています。とにかく貶めたいのです。

 彼らは矛盾しています。こうして軽蔑していながら韓国から日本へ観光に押し寄せている。観光客は増えているのです。「日本はいいね、温泉がいっぱいあって」と全国各地の名所を訪ねたりしている。もともと韓国にはお風呂の文化はないのです。日本統治時代に日本式の銭湯をたくさんつくってもらった。そこからお湯の文化が始まったのです。

 温泉地に限らず、日本人の〈おもてなし〉の姿勢には感動します。懐石料理は韓国人には味が薄く刺激が少ないけれど、見ているだけでうつくしい。韓国では料理は大抵、大皿にどーんと盛ってまいります。食器も樹脂製だったり味気ない。日本は違います。旅館ではお小皿にこまごまと一品料理が色とりどりに並びます。これだけ芸術作品のような調理をするのは手間もかかるでしょう。一人にひとつずつ鉄鍋を用意してくれたり、ほんとうにすばらしいなあと感じます。

 意外とお思いになるかもしれませんが、韓国の人が日本に来て何が食べたいかというと、焼き肉なんです。焼き肉というと韓国の十八番でしょう。しかし、日本の牛肉、例えば松坂肉の美味しさといったら格別で、こんな口のなかでとろけるような肉は食べたことがないと感動して帰ります。勿論、国内でも和牛はあるんですよ。和牛といっても豪州産和牛ですけれども。やはり味が落ちます。日本の牛の旨さにはかなわない。私の友人もおいしい、おいしいと言って感激しておりました。
料理の美味しさ、おもてなしのすばらしさ、これを体験して韓国人は日本はすごい、日本人は親切だと感じて帰ります。なのに、帰国すると彼らはまた反日に戻るのです。

坦々塾 呉善花先生講義(一)

日本人にはわからない「韓国人の精神性」

 私は来日して三十年になります。これまでの間、常に日本を知りたい理解したいとつとめて学んできました。日本人についても相当わかるようになりました。けれど、理屈でわかっているつもりでも、ついていけないもの、慣れないものが三十年を経た今でもたくさんあります。

 その一つが言葉の発音です。日本語にあって韓国に無いもの、それが濁音です。韓国人は濁音が苦手でしゃべることも聞き取ることもむずかしい。話に夢中になっていると、濁音なのか半濁音なのか、判別できないことがよくあるのです。「今のはテンテン(濁り)ありますか?」と私はよく訊くものですから、私は〈テンテン病患者〉だと言われてしまいます(笑)。ですから今日の私のお話も流れから内容を掴んでいただきたいとお願いしておきます。

 日本では、「敬語」の使い方でも大いに戸惑います。世界で一番敬語が多いのが日本語と韓国語。ところが、日本と朝鮮とでは、敬語の使い方がまるで逆なのです。韓国は儒教社会で、身内を大事にいたします。そこで父親が留守という場合、「うちのお父さんにはいらっしゃいません」と言わなければなりません。日本では「只今、父はおりません」です。正反対なんです。今でも私は、どう言うべきかと迷うことがあります。ある会社の社長に電話をかけたら「鈴木は席を外しています」と返事をする。韓国の人なら「鈴木社長は舐められているのではないか」と思うに違いありません。

 外国に行って韓国人と日本人は似ているので、すぐ仲良くなります。互いに言葉が通じないときは英語で会話します。通じていくと互いに異国人であることさえ忘れてしまうほどです。しかし、だんだん相手の中に入っていくと、全然違う。最初は通じていても利害が生じると、小さな違いが大きくなります。

 同じ東洋人で顔も似ている。九割は似ている、しかし一割が違う。この一割がとても大きいのです。ここを見つめておかないと本格的な付き合いはできない。徹底的に見つめて目をつぶらず俎上にあげていくこと。これは大事です。

 十年くらい経つでしょうか。韓流ブームが日本に起きました。『冬のソナタ』を皮切りにたいへん盛り上がりました。あの〈冬ソナ〉のドラマを観た日本人は、昔の日本に出会ったような懐かしさを感じたと言います。確かに、そういをところがあるのでしょう。あっという間に主役のペ・ヨンジュンが大人気になりました。とくに「ヨンさま、ヨンさま」と中高年の女性の間ではたいへんな熱中ぶりでした。しかし、ヨンさまは商品として日本で売れたのです。

 あの頃、私は韓国に行きまして中高年女性達に聞いてみたことがあります。当然のように返ってきます。「なぜ、あんななよなよした男がいいんだろ。ほんとにわからない」と不思議がっていました。一般に韓国ではああいった軟弱な男は魅力がないのです。むしろイ・ビョンホンのほうがいい。ここにも韓国人と日本人の感じ方、男女に対する意識、価値観が大きく違っています。

 日本でいうと、鎌倉時代に当たりますか。朝鮮では、朝鮮時代に入り、仏教を排除、弾圧して儒教の朱子学だけを重んじる社会になります。国の統治から人々の礼儀作法まで、徹底した朱子学の価値観を敷いてゆきます。朝鮮半島は男権社会。女性にとっても完璧で強い男がいいのであって、慕われ、尊敬されるのは強そうな男性です。つまり、イ・ビョンホンのようなタイプ。よりによって、ヨンさまが騒がれること自体、自国の女性にはわかりにくい。

 では、なぜ日本でヨンさまが受けたのでしょうか。日本という社会は一見、男尊女卑に見えます。韓国人も「日本は韓国以上に男尊女卑だろう」と言います。イメージとして武士の夫婦があります。主人が勤めに出るとき、玄関先で「いってらっしゃいませ」と三つ指をついて妻が見送る。これが頭にあるので、男尊女卑だと私も思っておりました。

 しかし、日本におりますと、実は男性は表面だけで威張っていることがわかってくる。この社会は実は女性によって支えられていると思いました。この精神性は何なのか。〈かかあ天下〉と言ったり〈亭主関白〉と言ってみたり。けれど大抵は〈かかあ天下〉と女性を上に置いて、巧くいくんだという家庭が多い。

 韓国は違う。結婚したわが夫が絶対的なのです。女は夫を絶対唯一の神様のように支えなければならない。妻の役目がそうです。したがって〈かかあ天下〉に相当する言葉が無くて、逆はたくさんある。「雌鳥が鳴くと家が亡ぶ」と言い、「三日殴らないと女は天にのぼる」とも言います。男からいえば女は厳しくしつけておかないといけない、ということになります。

 一方、私は日本には母系社会が底辺に流れていると思っています。

 やはりここに母系社会と感じられるものがあるのです。もっと幅広くとらえると、日本には女神の存在が大きい。大の男たちが大勢、伊勢参りに行きます。富士山の祭神も女神です。それほど魅力があるわけです。

 拝む存在として女性を、男が拝むということは韓国ではありません。韓国の女性は完璧な男に憧れますが、日本の女性は、ちょっと物足りない男に魅力を感じる(笑)。それでやすらぎが感じられるみたいですね。

 けれど韓国では、自信がなくっても男は「俺は完璧だ」というところを見せます。そうして女性を口説く。日本の女性にとってわかりにくいでしょうね。韓国男性は嘘っぽくても強くなければいけないと思う。中国もそうですね。習近平も強く見せるでしょう。それに比べると、安倍さんでもどこかナヨナヨしているように見えてしまう。

 韓国ブームでキムチも定着しました。けれど、雲行きが怪しくなってから、両国の実情は少しずつ変わってきています。李明博前大統領が竹島に行って岩に登って日本を批難した。すると、日本人の韓国行きが減ってしまった。私が生まれた済州島も観光地です。日本からのお客が激減しました。半面、中国人の観光客が増えているが、現地は嘆いています。日本人はマナーが良くてお土産文化があるけど、中国人は土産を買わない。

『中国人国家ニッポンの誕生』出版(二)

目 次

はじめに ……3

◆第一部 徹底討論(ト ークライブ)日本を「移民国家」にしていいのか

◎第一章 移民政策ここが大問題

 西尾幹二 日本人よ移民を徹底的に差別する覚悟はあるのか ……16
 関岡英之 技能実習生の約八割が中国人という実態 ……20
 河添恵子 世界に侵食する中国の「移民ビジネス」 ……23
 坂東忠信 「移民」以前に今ある中国人犯罪を直視せよ ……30
 三橋貴明 「人手不足」は経済成長の好機、中国人に頼ると安全保障の危機 ……34
 河合雅司 気づけば総人口の「三人に一人が中国人」 ……39

◎第二章 移民が絶対にいらないこれだけの理由

 移民問題の本質は「中国人問題」 ……46
 世界の国家中枢に中国人が並ぶ光影 ……51
 「投資移民」で富裕層も中国脱出 ……54
 表沙汰にならない来日(傍点フル)中国人の犯罪 ……56
 移民対策で天国と地獄のスウェーデンとデンマーク ……59
 人手不足が十分国内で解決できる理由 ……63
 特養の内部留保金二兆円を活用せよ ……67
 中共の反日教育をまともに受けた「ニューカマー」 ……70
 ニューチャイナタウンと「危険ドラッグ」 ……75
 「国防のための入国制限法」とは ……78
 じつは中国人も中国共産党の被害者 ……82

◆第二部 総力特集  世界も大失敗した移民幻想に惑わされるな

◎第三章 【経済】  世界の反移民とナショナリズムの潮流…三橋貴明
 移民政策でアメリカの政治家重鎮がまさかの落選 ……90
 移民先進国・シンガポールでも反移民感情 ……92
 まだ改善できる日本の「労働参加率」 ……94
 欧州議会選挙で“圧勝”した反EU政党 ……96
 移民に寛容なスウェーデンの惨状 ……99
 世界中でグローバリズムとナショナリズムが対立軸に ……101

◎第四章【中国問題】 隠蔽された中国人移民の急増と大量受け入れ計画…関岡英之
 外国人労働者受入れ論が急浮上 ……106
 必ず中国人問題になる ……109
 原発事故以降も定着化が進む在日中国人 ……112
 中国の情報戦は始まっている ……119
 自民党の大罪 ……121

◎第五章 【海外事例】中国系移民が世界中で引き起こしているトンデモ事態…河添恵子
 カナダが移民政策に急ブレーキ ……128
 富裕層の関心事は「五輪ではなく移民」 ……131
 「白豪主義」ではなく「黄豪主義」になる ……135
 住民登録簿の名字にミラノ市民がショック ……139
 日本が日本でなくなっていく ……143

◎第六章 【外国人犯罪】外国人「技能実習」制度で急増する中国人犯罪…坂東忠信
 国民不在の移民論議 ……148
 犯罪の減少ではなく検挙の困難化 ……149
 国ごとに違う外国人犯罪 ……151
 来日より在日の方が犯罪発生率の高い韓国 ……155
 すでに定着している実質移民制度 ……157
 「実習」制度は低賃金労働システム ……158
 将来に禍根を残す経営者視点のご都合奴隷制度 ……160

◎第七章 【人口政策】 移民「毎年二〇万人」受け入れ構想の怪しさ…河合雅司
 このままでは人口は激減するが……
 日本人がマイノリティーになると ……167
 大量移民が生み出す新たな社会的困難 ……170
 東京五輪決定でリベンジに出た黒幕・財務省 ……173
 後世の日本人に顔向けできるのか ……177

◎第八章 【総論】自民党「移民一〇〇〇万人」イデオロギー…西尾幹二
 国家権力が溶けた時代 ……182
 呆れた自民党幹部の移民構想 ……184
 本音は安い労働力 ……186
 人口減少で不安を煽る手口 ……190
 日本は対決型・欧米社会とは断じて違う ……193
 国家と国民を守るのが保守政党の本能 ……197
 保守の真髄を取り戻せ ……199
 移民問題関連著作 ……203
 執筆者一覧 ……204

『中国人国家ニッポンの誕生』出版(一)

中国人国家ニッポンの誕生~移民栄えて国滅ぶ~ 中国人国家ニッポンの誕生~移民栄えて国滅ぶ~
(2014/11/10)
西尾幹二責任編集

商品詳細を見る

正論移民問題シンポジウムが本になりました。

◆はじめに

 本書は平成二十六年七月六日、産経新聞社の月刊言論誌『正論』が主催したトークライブ「日本を移民国家にしていいのか」を基本に据え、それを発展的に拡大した書物である。トークライブは東京のホテルグランドヒル市ヶ谷で行われ、1000人になんなんとする驚異的な数の参会者が訪れ、大変な熱気であった。テーマに対する関心の高さは、だらだらと無原則に外国人が増えていく今の日本社会への不安と不満の表現でもあった、と考えている。

 私はトークライブに先立ち『正論』編集長の小島新一氏に相談して、同年三月二十四日に五氏に呼びかけ、急を告げる移民問題の現実に言論人として何らかの形で警告を発する必要があるのではないかと相談会を持ちかけ、その初会合をもって「移民問題連絡会」の結成を諮り、同意を得た。次いで四月十日に、文化ャンネル桜のテレビ討論番組で主として同じメンバーによる三時間自由討議を行い、問題意識の共有にかなり手応えを感じた。その間に私を除く五氏は本書所収の論文を『正論』五月号、六月号並びに八月号に発表した。七月六日のトークライブはこうした数々の準備行動を踏まえて開催されたものである。

 私を除く五氏は現代における移民問題、ことにその楽天的開放政策に強い懐疑を抱く代表的論客であり、エキスパートである。私が同テーマに近い外国人単純労働者導入への慎重論を熱心に論じ立てたのはおよそ四半世紀前(1988―92年頃)のことである。当時早くも同種の問題が生じていたが、当時と今とではデータも違うし、世界情勢も変わっている。それに反し五氏はそれぞれ分野を異にしているものの、私と違って、現下のこの日本と取り組んでいる。

 なかでも問題を最も総合的に捉え、現代日本の文化、政治、社会の深部を犯すこの問題の危険性について多角的考察を重ねて来たのは関岡英之氏である。

 河添恵子氏はヨーロッパ、アメリカ、カナダ等に夥しい群れをなしさながら蟻の大軍のように押し寄せ、蚕食する中国人移民の実体をそれぞれの現地で観察し、報告してこられた。ライブトークでも氏は欠かせない存在で、諸外国の具体的なエピソードにより中国人襲来後の日本の悲劇を予告している。

 
 その中国人の警察取り調べの現場の声を伝えてくれたのは元刑事の坂東忠信氏である。坂東氏は新宿歌舞伎町や北池袋などの中国人の実体を明かしてくれた。顔写真だけは本人で、名前や生年月日は他人のものという真正パスポート「なりすまし」犯人の手口など、驚くべき情報はわれわれの背筋を寒くさせる。

 三橋貴明氏は現代社会から広く迎えられている経済評論家の代表格の一人で、その彼が人手不足を理由に移民導入を企てる一部の経済界や政界の動向に、純粋に経済的合理性を根拠に反対している発言には強い説得力が感じられる。

 河合雅司氏はフリーな言論人の右の四氏とは異なり、産経新聞の論説委員である。私が移民問題連絡会の立ち上げを考えたのは、じつは人口問題の専門家である河合氏の新聞紙上の論説「毎年20万人の移民──やがて日本人が少数派に」(産経2014年三月十六日)を読んだときである。外国人の導入によって人口減少問題、少子化問題の解決を図ろうとする、いかにも俗耳に入り易い議論に、河合氏は統計表とグラフをもって疑問を表明している。私は説得され、心強く思った。人口問題もこのテーマには欠かせない観点の一つである。

 以上五氏がそれぞれジャンルを異にして日本の移民国家化に警鐘を鳴らしているので、幾つもの観点が重なって全体として本書の効果を上げていることがお分かりになるだろう。どの観点も重要であり、一回のトークライブではとうてい語り尽くせない論点が溢れだした。トークライブは最初とりあえず短縮して『正論』九月号に掲載された。本書第一部はこれを引き継いでいるが、雑誌はスペースの関係で会場のあの熱気までは伝えられていない。本書第一部がトークライブの全貌を示す正確な記録である。

 さらに本書の第二部をお読みいただければ、各氏の思いの熱さと課題把握の鋭さ、深さがお分りになると思う。第二部の各氏の論文はそれぞれ独立した論文で、第一部の討論の延長ではないこともお伝えしておく。内容的には勿論第一部とつながっているが、時間的には第一部よりも先に執筆されたものである。ことに私の一篇は2008年の作で、自民党が1000万人移民論を唱えたときに抗議した内容である。今でも自民党はこのレベルの甘い認識をつづけていると思う。本書に登場した六人の同テーマに関連する著作の一覧表も巻末に掲げておくので、さらに問題の追究を志す方はぜひとも各著作に当っていただきたい。

 トークライブは内容的にかいつまんで要約すると大略次のようになると関係者一同が確認しあったので、本文86ページでも出しておいた「まとめ」の文章を以下にも掲示しておく。ただ、これは読者の便宜のためであって、トークライブの主催者や新聞社の声明文でも宣言文でもないので、その点は誤解のないようにお願いしたい。
1  外国人受け入れ政策は、諸外国の事例を踏まえるべきである。国民的議論なく進めることは認められない。
2  外国人単純労働力の受け入れ拡大は、日本の移民国家化と同じである。国連においては一年間定住した外国人は移民として扱われる。
3  高度人材の受け入れこそ、その要件と審査の厳格化が必要である。
4  外国人労働力受け入れ拡大は、国内労働者の賃金を下げ格差社会を拡大するため、景気回復にはつながらない。
5  労働力不足は日本人だけで解決することができる。
6  日本在留者の犯罪検挙率、犯罪検挙数、犯罪検挙人口が国別で上位三カ国の出身者については、特に厳格なる受け入れ指針を設けるべきである。
7  移民政策は少子化対策、すなわち人口問題の解決にはならない。
8  移民問題は国防問題に他ならない。

 移民問題連絡会のメンバーは固定していない。さらに仲間を増やし、今後も広く国内に訴えていきたい。五氏、並びにご苦労をお掛けした『正論』編集長の小島新一氏には厚く御礼申し上げる。トークライブの会場整理のお手伝いをいただいた今回ご参加の『正論』関係のスタッフの方と坦々塾のメンバーの方々にも深謝申し上げたい。

平成二十六年十月               西尾幹二

◆リレー報告(西尾第一発言)

 日本人よ移民を徹底的に差別する覚悟はあるのか

 今からちょうど二十五年前になりますが、大量のベトナム人が中国人を粧(よそお)った偽装難民として日本に押し寄せてきたことがありました。あの当時、単純労働力としての外国人の導入問題も世の中を沸騰させていて、私は発言を始めました。今日私は司会なのですが、議論を始めるに当たり、まずは外国人労働者の受け入れや移民について当時の私が確認していたポイントを八点に絞って挙げてみたい。現在に通じるところが多々あると考えるからです。

 一番は、日本人は必ず加害者になるということです。外国人が入ってくれば被害者にもなるけれども、被害者以上に加害者になる。加害者になったとしても平然としている図太さがあればいいのですが、日本人はそうはいかずに、国際誤解を招くような事件が必ず起こる。うかつな日本人は国際的に誤解され、慰安婦問題と同じように大騒ぎされることになる。

 二番目は、労働者受け入れ国は送り出し国に依存するということです。ドイツは、トルコ人難民に巨額のお金を支払って母国に帰らせたけれども、同じ数の別のトルコ人が入ってきた。ドイツ人がやりたがらないクリーニングなどはトルコ人専属の仕事になっていって、彼らなしには成り立たなくなった。そうやってトルコのパワーに取り込まれてしまった。日本でも同じようなことが起るでしょう。大相撲をみれば分かります。

 三番目は、外国から入ってくるのは人間であって、牛馬ではないということです。当たり前のようですが、この認識は徹底しなくてはいけない。彼らに妻子を連れてくるなとは言えない。外国人も日本に来たら、日本での〝出世〟を望むでしょう。そして彼らも必ず老人になり、介護が必要になるのです。

 四番目は、在留期限を切っても、外国人労働者の半数は必ず定住化するということです。諸外国で、期限を切って帰れと言っても成功した例はない。安倍総理が期限を切ればいいと簡単に言っておられますが、甘い考え方で、期限を切っても相当数が、必ず定住化します。外国人単純労働力の導入は、即移民国家になるということです。

 五番目は、日本は緩やかな階級社会ではあるが、カーストのような永続的階級制度はないということです。今後も存在しないでしょう。ところが諸外国、たとえばパリでは、底辺に中近東、黒人、アルジェリア人、モロッコ人、チュニジア人、中間労働者にポルトガル人、スペイン人、イタリア人、その上部にフランス人がいる。そのことに彼らは何ら痛痒を感じておらず、冷然と人種的階級差別が成立している。アパートの管理人をするのは、イタリア人やスペイン人で、ゴミを拾うのはチュニジア人、モロッコ人だったりする。永い歴史でこうした構造が決められていて、誰も文句を言わない。日本はある種の凹み型社会です。攻撃型社会ではない。中国人がフィリピン人を支配するというような外国人同士の上下関係が、日本人のあずかり知らぬところで生まれるでしょう。すると日本人は受け身ですから、知らぬ間に日本の国民も階層化されて、悪い影響を受ける。この国が持っていた豊かな流動性や自由な創造性が失われてしまう。さらには、わが国は自ら発展のバネを捨ててしまうというようなことになりかねないのです。

 六番目は同じことになりますけれども、日本人は他の国々のように外国人に冷徹冷酷に対応できないということです。政府は現在、特区をつくって、メイドを外国から雇えるようにすると言っています。出稼ぎのフィリピン人メイドが多いシンガポールでは、半年ごとにメイドを検査して妊娠したら即帰国させます。シンガポールの雇い主の男性側に全面的責任があってもそうします。日本人にこんな冷酷なことができますか。日本人は「同じ人間なのだから」と、外国人メイドに「何々ちゃん、いっしょに御飯食べましょうよ」というような甘い対応をするでしょう。差別意識がシステム化している諸外国とは違うのです。冷酷な対応をできもしない国民が、外国からメイドを雇うようなことをしてはいけない。

 七番目は現在のことですが、世界は鎖国に向かっている。移民国アメリカ、カナダ、オーストラリアでも受け入れを拒否し始めている事実を指摘しておきます。

 最後に。石原慎太郎氏が『SAPIO』六月号で、「太古から世界の人材と文化を受け入れてきた日本の寛容を知れ」という文章を書かれました。これは2008年に自民党が一千万人移民受け入れを提唱したときのイデオロギーと同じで、日本人は宗教的な懐が深いから、外国人を十分に受け入れることができるという見解です。しかし、日本の二千年の歴史のなかで少しずつ技術者などが入ってきて帰化人になったことと、イスラム教徒と中国人の大量移動期の現代のケースとは意味が違う。宗教的に包容力のある日本文化も、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、韓国儒教などの原理主義は基本的に受け入れていない。型どおりに包み込むが、歴史の中に取り入れず、歴史の片隅に置き去りにしていくだけです。日本文化は選択しています。大量移民の原理主義の導入は、日本文化の包容力を壊す恐れがあります。石原氏に再考を求めたい。

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十五回」

(8-16)学問の世界は「目的から自由な競争」が活潑に行われることによって、なんら弊害を惹(ひ)き起こさないほとんど唯一の世界である。例えば経済の競争は、独占資本を生み、不自由と不平等を惹起(じゃっき)しかねないが、学問の活動は、競争によって他を制限する可能性に乏しい。学問の世界では一人の指導者に対するいわば防衛手段として、つねに新たな学説や論理の擡頭を必要とする。いかなる才能も能力も懐疑によって、いいかえれば既成の概念に対する闘いによって展開されなければならない。もし学問以外の力に基くヒエラルヒーに制限され、言葉の最も健康な意味における競争心がおおらかに肯定されずに、阻止されるようなことがあれば、それは学問の自己破壊に道を通じるだろう。

(8-17)言うまでもなく、知識の伝達だけが教育のすべてではない。けれども人はどうやって理解とか愛とか人間性とかを他人(ひと)に直(じか)に教えることが出来ると考えているのだろう。現代の教育家はいつからそんな大それた自信を抱くようになったのだろうか。

(8-18)受験勉強などというものを大仰に考える必要もないが、自分の生活を禁欲的に律し、ある一時期に若さの激情を怺(こら)える「修行」としての意味も若干はあるだろう。今の時代に青年が緊張した一、二年を送る修行期間が他にはないのだから、受験が人間性を蝕むというジャーナリズム特有の感傷語がなんと言おうと、そうそう悪い面ばかりがあるわけでもない。

(8-19)成程、教育家は知識を超えたなにかを他人に伝えることに成功しなければ、教育家の名に値しないのかもしれない。しかし、彼が最も教えたいと思っているそれらの価値こそ、厳密に考えれば、他人に教えることの出来ない当のものに外ならない。
 教育家は教育というものの本来のこの限界を弁えていなくてはなるまい。

(8-20)人間は誰でも、結局のところ、自分自身を再体験するだけなのである。

出展 全集第八巻
「Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育」
(8-16) P274 上段から下段「終章 精神のエリートを志す人のために」より
(8-17) P277 下段「終章 精神のエリートを志す人のために」より
(8-18) P281 上段「終章 精神のエリートを志す人のために」より

「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」より
(8-19) P293 下段から294頁上段「自己教育のいうこと」より
(8-20) P294 上段「自己教育のいうこと」より

宮崎正弘氏による全集第9巻 書評

 まだ日本文学が元気だった頃、西尾さんは時評にも精を出されて いた

   石原慎太郎、開高健を評価し、丸谷才一、山崎正和らを斬る

    ♪

西尾幹二『西尾幹二全集 第九巻 文学評論』(国書刊行会)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 昨師走、忘年会の席だった記憶があるが、西尾さんと飲み始めて最初は保守論壇の活況ぶりが話題だったのに、急に文学論に移行した。そして意外に も石原慎太郎の文学を高く評価したのである。たしか富岡幸一郎氏もとなりにいたが、そのとなりの人とお喋りに夢中だったので、この議論は聞いてい なかった かも知れない。

 西尾さんは政治家としての石原氏を評価されず、首相になりそこなっての都知事は「遅すぎてぶざま」と辛辣で、その原因は「持ち前の用心深さとい よいよとなると自分を捨てない非行動が災いした」。しかし石原慎太郎の小説は、「日本文学の中で誰もかけなかったテーマ」(本全集、795p)、 つまり肉体と暴力を執拗に追求していると、文学のほうは、やけに高い評価をするのである。

 西尾さんが文芸時評を過去におやりだったことは知っていたが、その活躍のさまを筆者は殆ど知らないで過ごした。その殆ど全てがこの集に入っているので、西尾さんの文藝評論家としての軌跡をふりかえることが出来る。1970年代の日本文学と言えば、三島由紀夫事件があり、驚天動地の衝撃を受けた私はその後の人生、三島研究会の結成やら憂国忌、数百回となる公 開講座の手配などが基軸で、ほかに余裕がなくなった。私は小説をまったく読まなくなり、いまこの全集に収められた作家群の、名前こそ知っている が、柏原兵三、阿部昭、辻井喬の三人以外は読んだことがない。高井有一、加賀乙彦、小川国夫、田久保英夫、黒井千次、綱渕謙錠の各氏、名前を知っているだけ である。

 辛辣に丸谷才一と山崎正和を斬っている。江藤淳も批判している。「便利すぎる歴史観」だとして司馬遼太郎と小田実を一刀両断、ついでに平野謙批判 にも容赦がなく、これらは私もまったく評価しない人たちだからそうだそうだと膝を叩きながら読んだ。

 わたしの文学青年時代、文芸評論といえば、まず『文壇の崩壊』を書いた十返肇、大江や倉橋由美子を発掘したと騒いだ平野謙の傲慢なようで文壇的 な批評の凹凸、地道な仕事をこなしていたのは山室静、中村光夫、奥野健男、『批評』に拠った佐伯彰一、村松剛、「朝日新聞」の文芸時評は、なんと 林房雄が書いていた。小林秀雄は時評には手を染めず、孤高としていた。福田恒存は政治論議に傾斜していた。

 そしてハッキリと佐伯、村松らは文芸批評をやめて政治、文化批評、あるいは戦略論へと居場所を変えていた。

 それは文学がじつにつまらなくなってしまったからで、万葉集の伝統も源氏物語のロマンも失われ、それこそ「芭蕉も西鶴もいない昭和元禄」〔『文化防衛論』〕「源氏物語で真昼を体験した日本文学はこれから夕方に向かう」(『日本文学小史』)。そしてその三島自身が文壇から不在となって、私も現代文学には背を向けていた。

 この時代に西尾さんはこつこつと時評をかかれ、文芸誌に発表された小説をすべて読まれ、多くの逸材の秀作をみつける仕事に没頭されていたとは、 知らなかった。

 ▼日本文学はかくも衰退した

 文学青年時代の私はと言えば、吉川英治、司馬遼太郎、松本清張など通俗作家から、大江健三郎、石原慎太郎、菊村到も野坂昭如も五木寛之も皆読ん だ。新潮社の日本文学全集にはいっていた作家の大半(漱石、鴎外、藤村、荷風、谷崎、川端から幸田露伴、正宗白鳥まで)ともかく濫読した。

 なぜあれほど夥しい量の本を読んだのか、憑かれたように濫読し、サルトルもカミュも読んだが、サルトルの印象は薄く(『自由への道』はやたら長いのに)、米国ではヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックの御三家が全盛の頃だった。ヘミングウェイはほぼ全部読んで、夢中になった。ところが期待して入学した英文科で龍口直太朗教授は『ティフェニーで朝食を』『冷血』を書いた変人作家、トルーマン・カポーティだけを論じたのでうんざりしてしまった。

 くわしく書く紙幅もないが、三島以後の日本文学でかすかに残るのは遠藤周作、日野啓三、阿部昭ていど。したがって70年代から80年代にかけて出てきた日本人作家に関して言えば、村上春樹も平野啓一郎も一作とて読んだことがなく、その意欲もなく、強いて一冊をあげるとすれば開高健の『夏の闇』と『輝ける闇』なのである。そして西尾さんは、やっぱりこの作品を高く評価しているのでナルホド、感性の鋭さが光るのである。しかも『輝ける闇』よ り『夏の闇』のほうが優れているという。開高健についてはなにからなにまで同感である。

 ▼収穫は開高健の『夏の闇』と『輝ける闇』

 両作品はきわめてニーチェ的である。

 

「私たちが今どれだけ並外れて異様な時代に生きているか。(中略)遠いところで起こっている(戦争や民族対立、殺戮などの)出来事の情報を次か ら次へと殆ど無差別に受け入れなければならなくなっている」(中略)。

 しかし、戦争など

 

「悲惨な出来事を伝える生々しい写真や報道記事をいっぱいつめた朝刊の横に、コーヒーとトーストを置いてあくびをしながらこの朝刊を読む」という安逸な日常生活に浸り、戦争は「所詮『紙の中』(いまならテレビ画 像のなか)に」

しかなく、

 「頭脳だけは刺激的な外的経験に関する豊富な知識によって水ぶくれに膨れあがっている。そういう人間が、戦争というものの中の人間の静かな呼吸、異常な中の日常を察知するなどということがどんなに困難になっているか」

 そこで開高健の『夏の闇』を読む西尾さんは次のように作品を解剖をする。

 「そういう現代人の抽象的な生活と意識の分裂を描くところに主題をもとめた」のが『夏の闇』であり、「日常の安定と戦場の熾烈さのどちらも現実であって、同時にどちらも幻覚であるという私たち現代人の置かれた生の二重構造と、自分の認識力の不確かさに眼が注がれている」

 

「何か酔えるものを男は探し続け、旅をし、戦に赴き、そこで見たものは傍観者としての自分の姿であり、戦争という熾烈な生の確かめの場もしだいに耐え難く、自分の内部から脆くも崩れ去っていく音を聞く外はない」

 殺伐とした日常生活の精神の希薄さに漂うニヒリズム。『夏の闇』は、開高健の最高傑作だと前から私は思っていたが、西尾さんは、この時評をはるか昔、1972年の『文学界』に書かれていた。そのことを、この全集第九巻で初めて知った。   

   (評 宮崎正弘)

福井雄三氏からの全集第9巻『文学評論』感想

ゲストエッセイ
福井雄三 歴史学者・東京国際大学教授

西尾幹二先生

 ご無沙汰いたしております。西尾幹二全集第9巻『文学評論』、第14巻『人生論集』、夏休みに時間をかけてじっくり熟読いたしました。
 
 先生の芥川龍之介に対する評価については、私もまったく同感です。私はなぜ芥川があそこまで巨匠ともてはやされ天才扱いされるのか、さっぱり理解できな
いのです。芥川はその古今東西に及ぶ希有の教養を土台にした創作活動を行いました。その批判精神に満ちた鋭い知性は、評論やエッセイ、あるいは短編小説の分野で多少見るべきものを生んだが、所詮は単なる教養人、物知りの域を出ることはなく、彼独自の思想・世界観を形成するまでにはいたっていません。私は芥川の作品に対して、清朝時代の訓詁学者のような枝葉末節の緻密さは認めるが、いわゆる芸術作品としての感動というものを感じません。世間で評価されているほどには、彼の作品に対して知性のきらめき、知的興奮というものを、さほど感じないのです。

 芥川は自尊心がきわめて強く、知的虚栄心も強く、マスコミの自分に対する評価を異常なまでに気にしていました。彼が自分の死後の名声にまで汲々としていたことは、遺稿集の中からも明白に見てとれます。先生の指摘されるごとく、彼は自殺したから死後も名前が残ったのです。彼のライバルだった菊池寛は、後年の大衆小説とその私生活のゆえに、ややもすれば通俗作家扱いされますが、そんなことはない。若き日の彼の作品は実に鋭い切れ味と冴えを示しております。私は芥川より菊池寛のほうが、はるかに作家としての天賦の資質を持っているように思います。

 先生は菊池寛の初期の戯曲『義民甚兵衛』をご存じですか。私は中学一年のときこれを読んで異常な衝撃に襲われました。人間のどろどろしたエゴイズムと醜
い姿を、ここまで赤裸々にえぐり出した菊池の才筆に圧倒されたのです。当時東大生で卓抜した秀才だった私の兄が「なに、これは村人たちのエゴイズムさ。最も醜悪なのは村人たちさ」と一刀両断してのけた口調が、いまも鮮明な記憶として残っています。私はこの戯曲にあまりにも衝撃を受けたので、高校の文化祭のクラスの出し物で、この演劇をやろうと提案したのですが通りませんでした。

 彼らの師匠であった夏目漱石についても私は疑問を抱いております。そもそも漱石の文学自体が、非常に通俗で低俗な要素に満ちているというのは、以前から
指摘されていたことです。ドストエフスキーの作品が実は意外にも駄作だらけであるのと同様に、漱石の通俗性についても、かつて昭和初期の新進気鋭の論客た
ちが喝破したことがあります。漱石が朝日新聞の連載小説の人気専属作家であり、締め切りに追われながら原稿を書きまくったこともあいまって、彼の作風が著し
く大衆的であり、一歩間違えば三文小説に転落しかねない、ぎりぎりのきわどい要素をはらんでいることは確かに事実です。この点、彼のライバルであった森鴎外の作風とは、明らかに一線を画す必要がありましょう。

 『こころ』の文学作品としてのできばえについても評価が分かれるところであり、これを駄作とみなす声もあります。Kと先生の二人の自殺が大きなテーマとなっていますが、はっきりいってこの二人が自殺せねばならぬ必然性は、作品の構成上どこにも見当たらない。最後の土壇場で乃木大将の殉死が登場し、先生が号外を片手にして「殉死だ、殉死だ」と叫びながら「明治の精神が天皇に始まり天皇に終わった」などと何やら意味深な言葉をつぶやいて死んでいく。このあたりなどは読者から見れば、はっきり言って三文小説にすらなっていない、ずさんな結末です。

 西尾幹二全集、早いものでもう半ば近くまで刊行されましたね。いつも先生の著書を読みながら、先生の生きてこられた人生を、私自身が追体験しつつ生きているような気持ちになります。私より18歳年長の西尾先生の生き様をたどりながら、私自身の18年後を思い描けるという意味で、これは私の人生の貴重な指針でもあります。それではお元気で、失礼します。

                                    
 平成26年10月7日 福井雄三