「吉本隆明氏との接点」(三)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 四度目の接点は、最近の原発事故をめぐってである。吉本氏の発言はいわゆる保守派を喜ばせた。さすが吉本さんだ、偉いの声もあった。これに反し、私の脱原発発言はいわゆる保守派の中で孤立し、今も孤立している。ここで保守派というのは石原慎太郎、櫻井よし子、渡部昇一、中西輝政、西部邁、小堀桂一郎、森本敏、田母神俊雄などまだまだたくさんいる国家主義的保守言論人のことで、名の無い、無言の保守的一般社会人のことではない。

 私は「現代リスク文明論」(『WiLL』2011年11月号に次のように書いている。

 過日、NHKのテレビ討論で原子力安全委員の奈良林直さんという方が「使用済核燃料の再処理の技術は、人類の2500年のエネルギー問題を一挙に解決する道である」と、胸を張って高らかに宣言するように語ったのを、私は呆気にとられて見守った。大きく出たものだと思った。プロジェクトが現に目の前で行き詰っているというのに、あまりに楽天的なもの言いに、他の発言者たちからただあちに反論がなされていたが、この言葉は私には、戦後ずっと原子力の平和利用にかかわってきた人々の、幻想的進歩信仰をさながら絵に描いたような空言空語に思われた。これこそまさに、中国の鉄道官僚にどこか通じる、足許を見ないで先を急ぐ前進イデオロギーの抽象夢にほかならないと私は思った。

 私が本稿で語った「現代リスク文明」は、工業社会の失敗なのではなく、その成功ないし勝利の帰結としての自己破産にほかならない。現代はいろいろな分野で「進歩の逆転」ということが起こっている。便利なものを追い求めた結果、便利が不便に、自由が不自由に転じるケースは無数にみられる。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞になった。「脱学校」という解放の理念からの解放が求められる逆転が起こっている。

 同じようなことが多数ある。原子力の平和利用も鉄腕アトムの時代には解放の理念だったが、自己逆転が生じた。発達が自己破壊をもたらした。

 1938年に『「反核」異論』を書いた吉本隆明氏は最近、「技術や頭脳は高度になることはあっても元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発はやめてしまえば新たな核技術も成果もなくなってしまう。事故を防ぐ技術を発達させるしかない」(毎日2011年5月27日)と語った。これは正論である。

 かつて、文学者が集団で反核運動を行い、アメリカのパーシングⅡ配備には反対しつつ、ソ連のSS-20には何も言わなかった中野孝次氏らの単眼性を戒めた吉本氏らしい言葉であり、私も「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍(わざわい)はその技術のより一層の進歩でしか解決できない」と書いたことがあり、原則的に同じ意見ではある。鉄道や航空機等の事故はたしかにこの範疇(はんちゅう)に入り、失敗は進歩の母であり得るが、しかし原子力技術はそういう類の技術ではないのではないか。

 どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がつきまとう。失敗のない実験はない。失敗から学んで次の進歩に繋ぐ。しかし、唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術は技術ではないのではないか。吉本氏は、「進歩の逆転」が起こり得る現代の特性にまだ気がついていないのではないか。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ――そんな確立はあり得ないが――リスクは無限大に等しい。それが原発事故なのである。

 私は宇宙開発にも、遺伝子工学にも、生体移植手術にも疑問を抱いている人間である。今詳しくは述べないが、人類は神の領域に立ち入ることを許されていなかったはずだ。制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に墜ちていうるのを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない。

           記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

吉本隆明氏との接点(二)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 二度目の氏との接点は私からの依頼原稿であった。白水社版ニーチェ全集の『偶像の黄昏』『アンチクリスト』が全集から切り離してイデー選書という名でやはり白水社から1991年3月に刊行された際に、私は吉本氏に解説をお願いした。

 解説「テキストを読む――思想を初源と根底とから否定する」は約25枚の分量のしっかりした内容の評論であった。この機会に氏に直にお目にかかっておけばよかったのに、と思うが、編集者を介しての挨拶で終わり、私から接近しようとあえてしなかったのはいつもの私の悪い癖、いずれそのうち機会があるだろうと先送りする怠惰なためらいのせいだった。

 氏のこのニーチェ論に対する私の評文は残されていない。ただ今一読して、問題を孕んだ、深い内容の充実した一文であることを証言しておく。異見は紙幅がないのでここでは述べられない。

 吉本氏と私の三度目の接点は、オウム真理教事件をめぐってで、「『吉本隆明氏に聞く』への意見(上)」と題した短文(『産経新聞』1995年9月25日夕刊)である。新聞記事だから、麻原被告に対する「理解の表明は不要」「麻原の混乱に手貸すだけ」の見出しがついていた。全文を紹介する。

 詩人・評論家の吉本隆明氏が四回にわたって麻原被告の思想を産経新聞紙上で分析したことに対し、同紙から意見を求められた。

 吉本隆明氏は麻原彰晃について、その「存在を重く評価している」「マスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないか」とさえ言っている。これに多くの新聞読者が愕然とし、いらだっているようだ。私は愕然とはしていないが、三点ほど氏に申し上げてみたい。

 麻原が氏の言う仏教の系譜上、「相当重要な地位を占める」「相当な思想家」であるなら、氏が新聞という公器を使ってあえて評価し、応援しなくても、麻原の思想はいつか必ず蘇るだろう。邪教でなく本物の宗教なら、十年後にでも二十年後にでも発掘する者が出て、再生するだろう。

 しかし麻原は今は、史上例のないテロリストの首謀者として裁かれようとしている。吉本氏も「彼の犯罪は根底的に否定する」と言っている。だとしたら、今はすべて法の裁きの必然に任せ、果たして彼が法的に否定された後でイエスのようの宗教的に蘇るか否か――誰の助けを借りずとも蘇るときはそうなる――黙って判断を未来に委ねれば良いのではないか。

 吉本氏のように、麻原に裁判の過程中に宗教的世界観を語って欲しいなど願望を述べる必要はないのではないか。語るべき世界観が麻原にあるなら、彼は確然と語るであろう。なければそれまでであろう。外野席で応援する必要はない。つまり外から理解を示してやる必要はないということだ。理解の表明は彼の犯罪行動の規模から見て、彼のこれからの覚悟の形成にも本物の宗教であるか否かの論証にも、有害でさえある。

 私自身は麻原の宗教上の教義に立ち入る関心を持っていない。大半の国民は私と同じだと思う。吉本氏が思想家として、教義内容に関心を持つのは自由だが、それを公表するか否かには、時宜と所を得なくてはならない。麻原には「本当はまだ不明なところはたくさんある」と氏自身が留保をつけている以上、関心と関心の表明とは別でなくてはならない。新聞紙上の氏の関心の示し方は、明らかに麻原の肯定であり、評価であり、礼賛でさえある。留保の程度をはるかに超えている。

 次いで、吉本氏は親鸞の造悪論を取り上げ、「善人より悪人のほうが浄土に行ける」という言葉を重視しているが、しかし親鸞は弟子たちに次々に殺人の実行を勧めたわけでも、自ら殺人計画の立案者になったわけでもないだろう。弟子達が悪を犯したほうが浄土に行けるのかとストレートな疑問を述べたとき、「良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう」と親鸞がたしなめた、と吉本氏自身が過日述べている。つまり親鸞は、自らの内部に問いを立て、その問いの前に立ち尽くしている。一つの答を出してもそれは直ちに否定される。罪を犯したほうが救われるのではないか。これはどこまでも問いであって、安易な答などあろうはずがない。答えが新たな問いを誘発し、果てしなく繰り返される。それが真の信仰者の態度ではないだろうか。そして吉本氏自身がそのように親鸞を語っているのではないのか。

 一体どうして殺人は悪なのかと疑問に思い、そういう問いを問い続けていくことは哲学的にも大切だが、そのことと実際に殺人を犯すこととの間には無限の距離がある。ラスコーリニコフはついに実行してしまうが、実行後にも果てしない問いが彼の後を追いかけてくるのは周知の通りである。いとも簡単に他人の生命を次々ほいほい葬るよう命じたと伝えられる麻原の行動は、親鸞にも、ラスコーリニコフの誰にも似ていない。ここには宗教上の自覚的行為とは別の問題がある。

 最後に「開いた」社会、自由な文明にはつきものの、現代テロリズムの恐怖について一考しておきたい。

 現代はあまりにも自由で、ぶつかっても抵抗の起こらない無反応社会、声をあげても応答のない沈黙社会である。人はあえて、意図的に違反に違反を重ね、自ら「抑圧」を招き寄せようともする。そうでもしなければのれんに腕押しで、自分をしかと受け止めてくれるいかなる「仕切り」にもぶつかりそうにない。としたら、自ら平地に波乱を起こして、敵のない世界に敵を求め、「仕切り」に突き当たるまで暴れてみるしかない。オウム真理教の出現した背景はこれである。そのような社会で、吉本氏のように、テロリストに対してやさしい理解、心ある共感を示すことは、ひたすら彼らと当惑させるだけであろう。彼らは固い、強い「仕切り」をむしろ欲しているのだ。「地下鉄サリン」をやってさえも理解を示す知識人のいる甘い社会に彼らは実は耐えられない。その甘さがついに「地下鉄サリン」を誘発したのではなかったか。吉本氏の発言は、逆説的な言い方だが、麻原を理解しているのではなく、彼の混乱に手を貸しているだけである。

つづく

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
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吉本隆明氏との接点(一)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 私は吉本隆明氏の必ずしも熱心な読者ではなかった。書棚に『共同幻想論』や『自立の思想的拠点』などを置いているが、若い頃、食い入るように読んだという記憶がない。

 それでも、長い評論生活で吉本氏をときに賞賛し、ときに批判するという接点があった。そのまま幾例かを紹介する。要約ではなく、引用する。

 私が文芸雑誌に初めて書いた評論は、「政治と文学の状況」(「文学界」1968年9月号)で、ドイツ留学を終えて帰国した一年後、33歳であった。

(前略)政治の文学化という「政治主義」の立場ではなく、文学の政治化という「政治」の立場をいま一度文学化へと逆転するパラドックスをくぐり抜けない限り、政治を主題にしたあらゆる文学は所詮空しい政治主義文学に転落するであろう。という意味は、現在の日本で政治はここ当分文学の素材になりえないという意味に解してもよい。

 この点で、最近の雑誌の記事のなかで私が興味深く読んだのは、吉本隆明氏と高橋一巳氏との対談(「群像」昭和43年5月号)である。両者の間に微妙なズレがあって、最後まで平行線を辿っているのは、このパラドックスの自覚の有無にかかっている。

 端的に言えば、吉本氏にとって「政治」は自分自身の問題であって、他人の問題ではない。60年安保のときの氏の身をもってした「実行」と比して著しく目立つ最近の氏の政治的沈黙は、それがすでに無言の行動になっているのだが、氏によれば、ベトナムという他国の戦争は「原理的な関心をひかない」のである。日本では「他人の国で起こっていることについては、大いに関心を働かせ、かつ行動をするけれども、自分の国家権力のもとで起こっていることについては、あまり関心をもたなかったり、よく戦えなかったりという、伝統的な苦々しさがある」ためで、それを「自分がどうやって主体的に克服していくのかという問題」以外氏にはあまり興味がなく、「自分ができないならやるなということなんですよ」という以上、ベトナム反戦などは「あんなものはアブクみたいなもの」という揶揄にさえなる。

 ここの所が高橋氏にはどうしても解らないらしい。氏は反戦の動機に賛成なら、自分はなにも出来ないでもせめて応援の言葉をもって協力すべきだという文字通り、「政治主義」の態度を暴露しているからである。これでは政治をただ戦術的に顧慮しているだけであって、政治は自分の問題にはならないであろう。文学の原理に関わってこない。こういう態度は作品に必ず反映するものである。従って、高橋氏の『邪宗門』は、吉本氏によれば、「高度なインテリ向けの大衆小説じゃないかというような面白さなんです」という、まさしく適切な、「政治主義文学」の定義を与えられることになるのである。高橋氏にせよ、大江(健三郎)氏にせよ、誠実を売り物にし、思想と実生活の不一致に無自覚である点では精神のパターンはどこか共通しているように見える。

 むろん作品には手のこんだ複雑な意匠がほどこされている。知識人の苦悩をさながら検察官のように冷やかに追及する高橋氏はいかにも苦しんでいるようにみえるが、そのじつ作者はいささかも傷ついていない。むしろ作品の人物の苦悩で、作者が自分の誠実を正当化し、救済しようとする手付きが私には先に見えてしまう。が、詳細な作品分析は後日に譲りたい。

 いわゆる教養人の偽善に対して吉本隆明氏にはそもそも自分の苦悩に対する感傷はなく、はるかに男性的で、ひたむきである。非寛容であっても、不誠実ではない。国家という原理を超えようとする氏の自由への無限の意志は、中途半端な、曖昧な立場をことごとく破壊して進む。が、政治と個人道徳とを同次元に置く吉本氏には、ただ無を意志するのでないのなら、どこかやはり政治の「善」を信じているところが感じられる。氏がどんな「体制」をも信じないというのは勝手だが、「体制」に規定され、拘束されている氏の実生活のある部分を信じないわけにはいくまい。従って吉本氏における個人の完全自律への意志は、論理的に見れば、革命か、さもなければ自己分裂か、に行き着くほかないだろう。

 今日、希薄化した日本の空洞文化の中で、「政治」に激突しり生命感を文学化しようとすれば、かように論理的には初めから破綻している以上、自己錯乱に直面するか、共同社会にフィクションとしての神話空間を仮構するか、道は二つに一つであるように思える。吉本氏の最近の沈黙がこの前者になにほどか関係があり、三島由紀夫氏の神格天皇制の提出がこうした自己矛盾を克服するための必要に発しているのではないかという問題がある。芸術の政治化を「実行」しなければ、政治の芸術化もあり得ないという生の逆説に突き当たっている人は、戦時に青年期を送った世界の中では、ともあれこの二人を置いていないのである。

 人間にとって完全な自由、完全な自律はあり得ない。私は現代に生きる私自身の「自己」などというものを信じていない。私は自己の外に、もしくは自己を超えたところに、奉仕と義務の責めを負わねば「自己」そのものが成り立たぬことを考える。「体制」としての左翼を痛罵して止まなかった吉本氏が、今直面している困難は、絶対自我の追求者であった氏を支えているものはそもそも「敵」であり、身をもって孤立の代償を覚悟してなし得た実際行動であったことだ。その意味では「他」に抗して自分を支えるものである以上、それは消極的であることを避けられない。

 個人の完全自律への意志などは可能なことだろうか?それはほとんど狂気に境を接し兼ねぬ。(以下略)

 私は吉本氏における自立への悲劇的意志に感銘すると共に、その目指す方向の空漠たる無目的性に不安を抱いているのである。

つづく

『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(二)

宮崎正弘さんの書評より

 現代日本はなにを甘っちょろいシナ観察をして敵性国家を誤断しているのか
  戦前の長野朗は、国益の視点、鋭敏な問題意識と稀な慧眼でシナを裁断していた
  ♪

西尾幹二『GHQ焚書図書開封7
 戦前の日本人が見抜いた中国の本質』(徳間書店)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 戦前の陸軍には「シナ通」が沢山いたが、大方は軍のプリズムがあるため観察眼がねじれ歪んでいた。「シナ通」は現代日本のマスコミ用語でいえば「中国学者」か。

 これという快心の中国分析は戦争中も少なかった。満鉄調査部のそれはデータに優れ、しかし大局的戦略性におとり、誤断の元にも成りかねなかった。そもそも草柳大蔵の『満鉄調査部』を読めば分かるが、かのシンクタンクには社会主義者が多数混入していた。
 
 当時、あれほどの日本人がシナの各地にありながら、中国を冷静かつ冷酷に客観的にみていたのは長野朗、大川周明、内田良平ら少数の学者、インテリ、ジャーナリストだけであった。
 
 芥川龍之介の江南旅行記(『上海遊記』『江南遊記』(講談社学術文庫))もじつに面白いが、上海から南京までを駆けめぐった、地域限定であり、滞在も短く、しょせんは現象的観察という側面が否めない。しかし芥川の観察眼は作家の目であり、鋭い描写力があった。

 さて本シリーズは七冊目。

 いよいよこうなると全体で何冊になるのか、想像もつくようになるが、本巻はほぼ全巻が戦前の中国観察の第一人者、長野朗のシナ分析につきる。付け足しに内田良平があるが、本巻ではほぼ付録的である。

 長野の著作は膨大で合計二十作品もあって、ほぼ全てが焚書図書となり、戦後古本屋からも消えた。好事家か、個人蔵書しかなく、それも戦後67年も経てば長野朗の名前を知っている人は中国特派員のなかにさえ稀である。

 評者は、ところで長野の著作を一冊保有しており、それも某大学図書館にあったもののコピィである。もっと言えば、それがあまりにも面白いので、某出版社に復刻を推奨したら、編集者の手元へ移り、そのまま五年か六年が経ってしまった。それが『シナの真相』、しかもこの本だけは焚書にならなかった。だから某大学図書館にあったのである。

 というわけで、このシリーズで西尾さんがほかの参冊をさっと読まれて重要部分を抜粋された。
まずは『シナの真相』のなかに長野朗が曰く。

 「かの利害打算に明らかなシナ人も、ときに非常に熱してくる性質も持っている。シナ人の民衆運動で野外の演説等をやっているのを見ると、演説して居る間にすっかり興奮し、自分の言っていることに自分が熟してくる。その状態はとても日本人等には見られない所である。彼らは興奮してくると、血書をしたり、果ては河に飛び込んだりするのがある。交渉をやっていても、話が順調に進んだかと思っている時に、なにか一寸した言葉で興奮して、折角纏まりかけたのがダメになることがある。シナ人の熱情は高まり易いが又冷めやすいから、シナ人は之を『五分間の熱情』と呼び、排日運動等のときには、五分間熱情ではいけない。この熱情を持続せよといったようなことを盛んに激励したものである」。

 ▼「シナ人の五分間の熱情」と「気死」

 この文言をうけとめて西尾氏は、

 「思い当たる節があります。日本にきている中国人のものの言い方を見ていると、口から泡を吹いているようですね」と指摘されている。

 つい先日の尖閣問題でも、「五分間の熱情」でデモ行進をやり、「日本人を皆殺しにせよ」(殺光)と横断幕に掲げ、シナ人の所有する「日本車」を打ち壊し、シナ人が経営する「日本料理店」を破壊し、シナ人が経営するラーメンやのガラスを割った。

 そして、「五分間の熱情」は、かの尖閣へ上陸した香港の活動家らの凶暴な風貌、掴まっても演説をつづける興奮気味のパフォーマンスに象徴される。以前の尖閣上陸のおりは、海に飛び込んで死んだ反日活動家もいた。

 この自己制御できない熱情を長野朗は「気死」と定義し、次のように言った。

 「日本人は憤って夢中になるくらいのことはあるが死にはしない。シナ人の興奮性から見れば、或いはその極心臓麻痺くらい起こして死んだかもしれない」

 西尾氏は、これを『愛国無罪』とひっかけて興奮する中国製デモの興奮的熱情に見いだし、「日本レストランを襲撃したり、日本大使館に投石したり、やることが非常にヒステリックです。尖閣諸島の騒ぎの時も同じでした。国中が湧きたって、それこそ『気死』していましそうになる。じつに厄介な隣人たちです」
と指摘される。

 また長野朗は『支那の真相』のなかで、こうも言う。

 「しかしシナの混乱した状態を治めるには、最も残忍を帯びた人が出なければダメだと言われている。或るシナの将軍は、いまのシナには非常な有徳者か、それとも現在の軍閥に数十倍する残酷性を帯びた者が出なければ治まらぬと言ったが、シナが治まるまでには、莫大な人間が殺されて居る」

 そう、そうして残酷性を数十倍おびた毛沢東が出現して軍閥のハチャメチャな群雄割拠の凄惨な国を乗っ取った。

 ほかにメンツの問題、衛生の問題、歴史観、人生と金銭感覚などに触れ、シナ人を裁断してゆくのである。

 この長野朗こそ、現代日本人はすべからく呼んで拳々服膺すべし。しかし長野の著作はまだ復刻されていないから、本書からエッセンスをくみ取るべし。

文:宮崎正弘

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
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『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(一)

戦前の日本人が見抜いた中国の本質

目次

第一章 シナの国民性あれこれ(1)
第二章 シナの国民性あれこれ(2)
第三章 シナ軍閥の徴税・徴兵・略奪
第四章 シナ政治の裏を描くほんとうの歴史
第五章 大正年間のシナ――民衆の生活様々
第六章 今日の反日の原点を見る――蒋介石時代の排日
第七章 歴史を動かしたのは「民族」ではないか
第八章 移住と同化 シナ人の侵略の仕方
第九章 満州事変前の漢民族の満洲侵略
第十章 いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか
第十一章  支那事変――漢民族が仕掛けてきた民族戦争
付論 戦後ある翻訳書に加筆された「南京」創作の一証拠
あとがき
文献一覧

あとがき

 本書は長野朗(1888-1975)のいわば特集号である。といっても、『支那の眞相』(昭和5年/1930年)、『民族戦』(昭和16年/1941年)、『支那三十年』(昭和17年/1942年)のわずか三冊に光を当てたにとどまる。事実の衝撃性と分析の鮮烈性ゆえにもっぱら後の二書に焦点を絞って、本書ではできるだけ多くの彼の文章を提示したいと考えた。

 どのページも目を奪う驚くような事実指摘に溢れているが、わけても本書の第九章「満州事変前の漢民族の満洲侵略」は現代の東アジアの情勢を予言していて、本書制作の途中で私は深く考え込まされてしまった。

 満州事変はいまなお続いているし、これからも起こり得ると読めるのである。満州事変といえば日本があの地域の混乱を力づくで解決しようとした出来事と解されているが、長野朗はそういう見方をしていない。満洲の地にしたたかなパワーをもって侵入したのは漢民族(シナ人)であった。このことを彼は最重要視している。しかも清王朝の時代に大勢は決していたという。蒙古人、朝鮮人、ロシア人、日本人が入ってくる前に、彼らは白アリが建物の土台を食い尽くすように満洲の大地に入り込み、住みつき、事実上そこを支配していた。彼らは生存するためには何でもする生命力を持っていて、利己的で、愛国心などひとかけらもないが、不思議な集合意思を持っていた。

 ロシアが鉄道でカネを落とせばそれで肥り、日本が産業近代化を進めれば利益の大半は自分たちに落ち、やがてできあがった成果は横取りできると最初から踏んでいる。満洲人、蒙古人、朝鮮人はいじめ抜き迫害し搾取する対象でしかない。漢民族(シナ人)と他の民族とでは頭数が桁外れに違いすぎる。マンパワーは恐ろしい。満州事変はこの彼らの民族主義と日本の民族主義とが衝突した事件と長野朗は考えている。支那という国家の意思が発動されて衝突したのではなく、白アリ軍団の集合意思が外にはみ出し、摩擦を重ね、やがて日本と衝突したのである。

 漢民族にとって満洲は東方である。今なお日本も彼らから見れば東方にある。同じである。膨張し拡大する白アリ軍団の進出には理窟も何もない。いわば盲目の意思があるのみである。満州事変はまだ終わっていない。まだまだ続くし、これから違った形で勃発する可能性があるというのが長野の予言に違いない、と私は読みながらしきりに考え、恐怖を覚えた。

 当時の日本人は支那は独力では近代統一国家にはなれないと見ていた。日本の協力なしでは治安もままならないし、貨幣経済ひとつ思うに任せない。日本人は「上からの目線」で大陸を見ていた。しかし1911年から三十年間この土地を自分の足で歩き、つぶさに現実に接していた長野朗は、一貫して「下からの目線」で日本と支那の関係を見ていた。日本の軍人や指導階級とは異なる見方が自ずと確立されていた。長野は愛国者だが、祖国に幻想を持たない。はっきりは言っていないが、日本の大陸政策には知恵がなく、白アリ軍団を統御できずに、バカを見る結果になるだろうと考えていた節がある。昭和16年~17年の時点でこのような内容の本の刊行が許されていたわが国出版界の懐の深さ、あるいはわが国軍事体制のある種のしまりのない暢気(のんき)さが偲ばれる一件である。

 『GHQ焚書図書開封5』の第八章、第九章は長野朗『日本と支那の諸問題』(昭和四年/1929年)を、また第十一章は「世界知識」という当時の雑誌の増刊号(昭和7年)に収められた長野の一論文「満蒙今後の新政権」をとり上げていることに、あらためて注意を促したい。したがって本書は二度目の扱いであり、内容的にはある程度重なっている。ただ、本書との兼ね合いで読者に新しい観点を与えるのは論文「満蒙今後の新政権」のほうである。これはたった今述べた、軍人や指導階級とは異なる満洲への長野の思い入れ、日本の政策への不安がさながら彼の溜息のように聞こえる、人間長野の心の奥深さを垣間見せてくれる論考である。ぜひこれも併読していただきたい。

 長野朗は陸軍士官学校の出身で、石原莞爾と同期であった。陸軍大尉で中国の地に派遣され、いわゆる国民革命軍の動向、民衆の抗日行動を現地で観察した。中国問題の研究に専念するために1921年に軍を辞め、共同通信や国民新聞の嘱託になったり、『中央公論』や『改造』に寄稿したりした。大川周明らと交わり、猶存社、行地社に加盟した。しかし路線の相違に気づき、ここを離れ、農村運動に打ち込むようになった。1938年(昭和13年)に大陸の戦場を視察し、シナ人避難民の悲惨さを見て心を痛めたと伝えられる。彼の思想上の立脚点は農本主義で、国家主義とは異なる道を歩んだ。のちに農本連盟、自治農民協議会を組織した。彼は戦後もずっと活動をつづけ、昭和28年に全国郷村会議委員長になった。1975年(昭和50年)に87歳で没した。

 伝記的事実については以上の略史を伝え得るのみで、私は多く知る者ではない。

(後略)

ある友からの手紙

 西尾幹二先生

 先日、西尾幹二全集第三回配本の『悲劇人の姿勢』ちょうど読み終えた、まさにそのときに、第四回の『懐疑の精神』が配本されてきました。冒頭25~36頁の「私の受けた戦後教育」、身につまされる思いで読みふけりました。

 「要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行われていたのである。先生は教えるのではなく生徒とともに考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。どうもそういうことだったらしい。終始先生は私たちの考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行ったが、子供に確固とした考えがあるわけでなく、私たちは教師の
暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。私たちは決して一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。
 
 子供はそんなに単純ではない。ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能かもしれない。しかし大人が大人らしくなく振る舞えば、それが何を意味するかはわからないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。そこには不自然さがある。というより嘘がある。先生が先生らしくなく
振る舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒の間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があるのを誰よりもよく知っているのは子供である」

 私がこの一文になぜそれほどの衝撃を受けたかというと、実は私自身の受けた教育と大きな関係があるのです。私は昭和41年4月~44年3月、私の故郷鳥取県の某中学校で学びました。この中学校は自主学習という世にも珍しい教育法で全国にその名を知られた有名校であり、日本全国津々浦々から教育関係者がひきもきらず参観に訪れていました。自主学習というのは生徒の主体性を最大限に
尊重し、授業は原則として生徒の自主運営に任せる、というやり方です。生徒たちが自分で主体的に学習カリキュラムを作成し、それに従ってグループごとに黒板に板書し、発表する。生徒たちで選んだ司会や委員の主導の下にクラス全員による質疑応答が行われ、討論し合う。教師はそれを傍観しながらときたま口をはさみ適切なアドバイスを行う。教師のアドバイスは必要最小限に限られ、極力口
をはさまないのが望ましいとされる。
 
 これは戦後しばらくたった昭和三十年代初頭、地元のある校長が発案し、有志の教師たちを巻きこみ、PTAを説得して、半ばゴリ押し的に強行し実現してしまったものなのです。このような現実を無視した、常軌を逸した教育が(志を同じくする者が集まって結成した私塾や新興宗教教団ならいざ知らず)義務教育の公立中学校で成り立つはずがないのです。その不自然さは誰が見ても一目瞭然で
す。これを発案した校長はおそらく、自分の名を後世に残したいという功名心に駆られていたのでしょう。
 
 私は中学に入ったとき、この教育方法に対して子供心におどろおどろした違和感を感じ、この違和感は薄らぐどころか強まる一方で、中学三年間は苦痛以外の何ものでもありませんでした。主体性どころか、これほど生徒の個性を無視したやり方はなく、これは教育に名を借りた精神の暴力、一種の拷問だったと言ってもよい。かつて文化大革命で十代の少年紅衛兵たちが、自己批判せよと迫りなが
ら、大衆団交という名の人民裁判で被告をつるしあげる、あの方式を彷彿とさせるものがあります。私はふてくされ、反抗的になり、浮き上がってしまいました。不良で成績の悪い落ちこぼれの生徒ならいざ知らず、私のようないわゆる勉強のよくできた生徒からそのような反抗的な態度をとられると、教師の立場はなく、教師から見れば私は扱いにくい、憎たらしい生徒だったことでしょうね。

 先生の指摘されるごとく、子供ほど敏感なものはないのです。小学校に入ったばかりの六歳の児童ですら、教壇に立つ教師の人間性を本能的に直感で見抜いています。私は中学校には不快な思い出しかないが、小学校時代は無性に懐かしい。なぜならそこには秩序と権威があったからです。威厳と慈愛に満ちた教師の指導のもとで、思考力と感性の基礎がしっかりと育まれました。
 
 35頁の、大江健三郎に対する先生の批判は胸のすく思いでした。

 「大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよくわかるのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておくほうが都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。「戦後青年の旗手」とかいう世間の通念に乗せられて、新世代風の発言をしていれば、新思想、新解釈が得られるような気がしているだけである。大江さん、子供の時のことを素直な気持ちで思い起こしてほしい。子供の生活は観念とは関係ない。あるいは大人になっていく過程で、幼稚な観念は脱ぎ捨てていくものだ。貴方の評判のエッセイ集『厳粛な綱渡り』の中から一例。「終戦直後の子供たちにとって戦争放棄という言葉がどのように輝かしい光を備えた憲法の言葉だったか」。こんなことをこんな風に感じた子供があのときいたとは思えないし、いまも決していないだろう」

 大江のあののっぺりとした顔が、これを読んで目をぱちくりしている光景を想像すると、溜飲が下がります。
 
 先生がこれを書かれたのは昭和40年7月、30歳のときだったのですね。私が小学六年で、中学に入る前年の年です。私がもしも当時この論文を読んでいれば、精神的に救われていたかもしれません。それにしても先生の文体というか論理展開のスタイルは、30歳のときと現在と寸分変わっていませんね。50年近く前に書かれた先生の文章が、現在読み返しても新鮮さをまったく失っていない
ばかりか、ますます説得力を増しているのはどういうわけなのでしょうか。 

                                    
   平成24年8月3日
                                    
 東京国際大学教授  福井雄三
 

西村幸祐放送局

 「西村幸祐放送局」という、西村さんが主催する個人広報のYou Tube中心のブログが立ち上がり、すでに活動を開始しています。今度そこに「西尾幹二の世界」という新しい企画が始まり、第一回が放送されました。このような取り組みがなされたことに対し、謹んで西村さんに感謝します。

お知らせ

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」 の刊行を記念して、下記の

要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。

 

                        記

 

演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)

日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分

                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加

     いただけます。 (事前予約は不要です。)

     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 

お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421

         FAX 03-5970-7427

          E-mail: sales@kokusho.co.jp

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(三)

わしズム 文明批評より

(三)行き詰る略奪資本主義

 アメリカが中国大陸でしたことは商品経済ではなく、鉄道や橋や工場を作って、高利の利ざやを稼ぐ投資経済だった。ベストは鉄道建設だが、有利な路線はすべてイギリスが押さえていたし、満洲は日本とロシアが握っていたので、アメリカがしたのは金融による間接システム支配だった。が、必ずしも成功したとはいえない。あれほど大きな援助を惜しまなかった蒋介石政権を、戦後あっという間に見限って、大陸を毛沢東支配に委ねて知らん顔をしてしまった。このアメリカの行動の不可解さは、ひとえに「領土」に関心がないという動機に由(よ)るのではないだろうか。反共という政治の原理からは説明できないし、理解もできない。

 他国の領土と住民を支配するのは容易ではなく、コストもかかるし血も流す。1945年以後も世界はその不合理にしばらく気がつかなかった。フランスやオランダは植民地支配の継続にこだわった。しかし金融資本主義の道をひた走っていたアメリカは脱領土的なシステム支配の方式をもって世界に範を示し、GNPやGDPといった経済指標が領土の広さに代わる国力の表徴であることを証明してみせた。

 スペインを皮切りに、オランダ、イギリス、フランスへと展開した資本主義は、基本的に「領土」に執着し、そのためにたびたび戦争が起こった。それは低開発地域で少しでも安い資源を手に入れ、先進国が加工して高く売ることに、狙いがあったからだ。イギリスがインドを統治し、綿花を作らせ、本国で加工して植民地に高く売りつける等は露骨な直接支配だった。資源だけでなくマーケットもまた囲いこまれた略奪のシステムだった。「略奪資本主義」が資本主義というものの本来の姿なのかもしれない。そしてそれは今に至るまでずっとつづいているのは石油の争奪に現われている。

石油産出国の反乱と先進諸国の巻き返し

 永い間石油生産国には価格決定権がなかった。価格はいわゆるメジャーが決めていた。1945年以後ごく最近までは石油の時代、石油を支配したアメリカの時代がつづいた。石油に関しても他の資源と同様に産出国に自主決定権のない「略奪資本主義」が成立していたのである。

 1973年に石油危機が起きた。産油国が価格決定を自分たちの手で握ろうとして結集し、OPEC(石油輸出国機構)を建ち上げた。先進国にとり「領土」はなくてもよいが「資源」が重大であることは変わらない。資源の中の資源ともいうべき石油が必ずしも先進国側の自由にならなくなり始めた。OPECの成立は略奪資本主義の歴史の中で革命的なことであった。

 スペイン帝国からこのかたずっと、イギリス、フランス、オランダの東インド会社を経て五百年間も、遅れた国や地域から先進国が安い資源を買い上げて、これを加工して、付加価値をつけて高く売ることで成り立っていた資本主義の支配構造に初めてNO!をつきつけたのがOPECであった。歴史をゆるがすような出来事なのだ。

 日本を含む先進国側はこれに対し巻き返しを図ってきて、一定の歯止めをかけているが、あの頃から資源国はたしかに有利になっている。世界の先進国の企業は次第に儲らなくなっている。資源の高騰した分だけ従業員の賃金がしぼりこまれているこの二十年間の統計表を見たことがある。日本の長期低落傾向もこの必然の流れに沿っている。

ユーロによる支配からドルを守るためだったイラク戦争

 日本が戦後六十年、モノづくりの総力を結集してせっせと勤勉に働いてためた資産は15兆ドル、仮に分り易く1ドル100円とすれば1500兆円である。これだけあるから、政府が赤字国債を積み上げて1000兆円を越えても、民間資金がまだそれを上回っているから何とか辛うじて破局にいたらないで済むのだとしばしば説明されるあの額、ひところ世界からたいへんに羨ましがられた国民の血と汗の結晶の総額である。

 ところがモノづくりで勝てないアメリカは金融資本主義の道をひた走って、今度は何とか新たに脱資源的システム支配を目指し、EUもまきこんで過去十三年間の短い期間で何と100兆ドル、1ドル100円とすれば1京円、しかもレバレッジをかけて倍増させ200兆ドル、2京円の根拠なきカネを空(くう)につくり出した。七十年前にアメリカ通の山本五十六司令長官にも見えなかったアメリカの暴走が、歳月を経てまたまた急転回している。

 今度もまたしてもアメリカと西欧諸国との間では歩み方に微妙な違いがある。イラク戦争はユーロとドルの通貨戦争の趣きがあった。イラクの石油の直接支配は必ずしもアメリカの戦略の中になかった。アメリカの中東石油依存度は10パーセントぐらいで、決定的な大きさではない。中東の石油売買がユーロ建てになって、基軸通貨としてのドル支配が壊れるのは破局だという危機感がアメリカにはあった。これがイラク戦争の原因である。ユーロからドルを守るために、戦争を起こしながら、世界を間接支配しようとするアメリカ一流の戦略であったと考えられる。

 七十年前とは異なり、アメリカは今度はイギリスと組んで、ドイツやフランスが主導するEUをゆさぶる戦法に出ているかにみえる。また石油産出国による「略奪資本主義」に対する革命的挑戦にどう対応するかが、目下のあだ疎(おろそ)かにできない焦眉(しょうび)の急である。いったん産油国に握られかかった価格決定権は、知恵ある金融資本家たちの手に再び取り戻され、「先物取引」という手が用いられて、先進国に押さえられ、価格はニューヨークとロンドンが決めるという金融支配のシステムがさしあたり確立している。

実態からかけ離れ以上の膨張したカネ

 しかし地道なモノづくりから離れた金融資産はどんどんふくらむ一方で、数字的に異常な規模になっていることは先に見た通りである。これは2008年のリーマンショックを招いた。EUはアメリカ以上に空虚なカネづくりをしたので、ついに2011年のギリシアに端を発する現下の崩落寸前の危機に至った。

 実態経済からかけ離れた空虚なカネが足許に逆流し、アップアップして溺れかかっているのはアメリカも同様である。むしろアメリカに始まったのである。五百年の歴史を持つスペイン帝国以来の「略奪資本主義」は間違いなく行き詰っている。現代は近代以前からの歴史の大転換期といっていい。日米戦争よりすでにあったアメリカの病的な膨張拡大志向がこのままつづくか途絶えるかの屈折点である。

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(二)

わしズム 文明批評より

(二) 領土を必要としないアメリカ

 話題はとぶが、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロで、一極集中を誇っていた超大国アメリカがにわかに浮き足立つ事態から21世紀は始まった。2003年3月にイラクで戦争が始まり、五年後の2008年にリーマンショックと呼ばれた金融危機が起こった。このごろ中国の台頭が目立つ一方、2011年にEUに金融不安が飛び火した。目まぐるしい現代史のこのわずか十年間の動きが、山本五十六の生きたあの時代の世界史の動きとどこでどう関連していたかを大胆に推理し、考察してみたい。

 19世紀のアメリカはまだ一等国ではなく、産業資本主義国家としてもイギリスやフランスに遅れをとっていた。アメリカがイギリスに追い迫ったのは1898年に米西戦争でスペインを打ち破ってフィリピンを領有し、ハワイを併合して以来だった。イギリスは西太平洋に艦隊を撤退させてアメリカに太平洋の覇権を譲った。日本は日清戦争で台湾をかち得ていたので、このとき早くも日米対決の序幕が切って落とされたかたちだ。けれどもアメリカが若いエネルギーで成し遂げようとしていたことは、さし当りまずイギリスを追い越すことであり、そのためにイギリス、ロシア、フランス、ドイツが分割を開始していた中国大陸への進出を果すことだった。アメリカは中国大陸への関与に出遅れていた。大陸へ向かう途中にあってみるみる実力をつけ台頭していた日本の海軍力がともあれ目障りだった。はじめ軽く考えていたが、容易ならざる相手であることに気づいた後も、インディアンやフィリピンを掃蕩(そうとう)してきた遣(や)り方と同じ方針を根本的に変えるつもりはなかった。

なぜアメリカは中国大陸を目前にして侵略しなかったか

 とはいえこの点で興味深いのは、フィリピン支配まではストレートに武力にもの言わせたアメリカの侵略行動は、中国大陸をいよいよ目の前にしたときに、あるためらい、というより方針変更を余儀なくされたことだった。主にロシアとイギリスが西方からすでに大きく進出していた大陸では、武力を用いるのに有効な時期を失していた。アメリカはここで屈折し、足踏みした。で、三つのルートから大陸に迫ることとなる。(一)満洲進出を手掛かりとする北方コース、(二)上海を中心とする中国の中央部に文化侵略するコース、(三)フィリピン、グアムを拠点にイギリス、オーストラリア、オランダとの合作による南太平洋の制覇を通じて南方から軍事介入するコース、いずれのコースでも邪魔な障害物は日本であった。(三)がもちろん日米衝突の最終局面である。

 白人文明はスペイン、ポルトガルの覇権時代から、自国の外に略奪の土地、奴隷的搾取の領土を求めることを常道とする。これをもって最初は重商主義国家として、オランダ、イギリス、フランスの覇権時代には産業資本主義国家として勢威を確立した。植民地主義とはそういうものと理解できるが、アメリカは例外で、自国の外に奴隷の地を確保する必要がまったくなかった。下層労働力は国内で充当されていた。それにアメリカはすでに最初から領土広大で、資源豊富、しかも人口は西欧や日本に比べてなお稀薄で、そもそも膨張する必要のない国であった。

アメリカによる新しい支配の方式とは

 膨張する必要がないのに「西進」という宗教的信条に基いて膨張する国だった。西へフロンティアを求めて拡大するこのことは「マニフェスト・ディスティニー(明白なる宿命)」という神がかりのことばで呼ばれていたが、これは厄介で危険な精神である。列強が中国大陸で争って根拠地を占めようとすることに、アメリカは冷淡だった。その必要がなかったからで、列強同士の競争はアメリカには不便だった。そこでこの国は独自の対中政策を割り出し、脱領土的支配の方式、ドルの投資による遠隔統治の方針を考え出した。

 アメリカは20世紀の前半に三回、国際社会にこの方式を訴えて、軍事力で威圧しつつ、外交的勝利を収めた。第一回目が1899年の国務長官ジョン・ヘイによる三原則、中国における領土保全、門戸開放、機会均等の、日本を含む六カ国への提案である。第二回目は第一次大戦後のパリ講和会議における民族自決主義の提唱、第三回目は第二次大戦直前のルーズベルト=チャーチル船上会談で結ばれた大西洋憲章の締結である。ひとつひとつは事情を異とし、日本に與影響もそれぞれ異なるが、面白いのはイギリス潰しということで一貫して共通していたことが、今のわれわれの時代になってはっきり見えてきたことだ。すなわち西欧列強の植民地主義を不可能にしていく有効な「毒薬」だった。しかもアメリカ一流の正義に基く「きれいごと」でこれを宣伝し要請した。

 イギリスを倒すのに武力を用いる必要はない。アメリカは自分が必要としない「領土」「下層労働力」「直接的搾取」を西欧各国に美しいヒューマニズムの名において封印することにより、にわかに「いい子ぶり」を示す明るいアメリカニズムの旗の下(もと)に、西欧各国を弱体化させることに成功した。西欧諸国が二つの大戦で疲弊したという事情もある。ユダヤ金融資本がイギリスからアメリカに『移動したという条件の変化があり、これが決定的だったかもしれない。

 大戦前日本の指導者にイギリスの行動は理解し易かったが――少し前まで同盟国で、互いに利にさといギブ・アンド・テイクで結ばれていた――、アメリカの出方がまったく先読みできなかったのは、利害関係で判断できない、覇権願望国の「心の闇」が見えなかったからである。イギリス人にも読めなかったアメリカの「心の闇」が日本人に読めるわけがない。日露戦争のあと、1907年頃から日米関係が悪化したことはよく知られている。ワシントン会議(1922年)からロンドン軍縮会議(1930年、35年)を経て、日本は正義のきれいごとを唱えるアメリカ、そのじつ武力と金融力とで世界を遠隔操作する新しいシステム支配を目指すアメリカに翻弄されつづけることになる。

つづく

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(一)

わしズム 文明批評より

(一) はじめは、互いに戦争するつもりのなかった日米

 『聯合艦隊司令長官山本五十六』という映画を見た。いくたびも映画になった人物であるが、今回は原作本(半藤一利氏)のせいもあって、平和をひたすら願っていたが果たせなかった悲運の将として描かれていた。画像の全体に日本の戦争を歪(ゆが)めて描くようなわざとらしい自虐的解釈がなかったのはせめてもの救いだった。

 気になったのは、一貫して山本は歴史の悲劇的結末を見通していたと言わんばかりの、時代を超越した自由な人物のように扱われていた点である。そんなことはあり得ない。日独伊三国同盟に対する彼の反対がくどいほどに強調され、英米支持の平和派だったのが心ならずも開戦の鍵を托(たく)された、という筋立てに描かれていたが、それならなぜパールハーバー襲撃だったのか。彼以外の海軍中枢は日本列島周辺をがっちり固める守りの陣形を考えていたはずである。それなのに、大空のような広い太平洋に日本の主要兵力をばらまいてしまうあんな無謀な戦略を考えつき、国家の破局を早めてしまったのは山本ではなかったか。

 詳しい戦史に通じていない私でも、納得できないのはアメリカに留学し海軍随一のアメリカ通として知られていた山本が、かの国の久しい戦意、かねてから日本の狙い撃ちを図っていた殲滅戦(せんめつせん)への意志を見落としていたことである。それからもう一つは、日本はどうせ火蓋を切ったのならなぜハワイ占領を考えなかったのか。あるいはパナマ運河の破壊までやらなかったのか。当時アメリカ側にも日本軍の行動の予想をそこまで考えていた記録がある(拙著『GHQ焚書図書開封』参照)。山本のやったことは気紛(きまぐ)れで、衝動的で、不徹底であった。私が遺憾とするのはその点である。しかも太平洋を攪乱しておきながら「平和」を願っていたなどというのは噴飯ものである。

イギリスとは戦争になるかもしれない

 山本の失敗といえば、その後のミッドウェーやガダルカナルの惨敗もあり、私は彼を名将とも英雄とも考えることはできない。しかし、本稿は山本五十六論ではない。彼のようなアメリカ通にも当時の日本人がアメリカの出方を読むことはできなかったのが私の目を引くのである。短期決戦の「限定戦争」でできるだけ早期に講話にもちこむつもりで開戦したのがあの頃の大半の日本人の予測である。しかし日本人がそう思わざるを得ないような(迷わざるを得ないような)理由が当時の国際情勢にはそれなりにあった。日本人は昭和14年(1939年)くらいまで、アメリカが対日戦争に本気で踏み込んで来るとは思っていなかった。

 あるいはイギリスとは戦争になるかもしれない、と考えていた人は多かったであろう。アメリカとイギリスとは今とは違い、まったく別の国だった。イギリスのほうが超大国だった。日米間には貿易などの数量も大きく、アメリカが経済上の利益を捨てて、さして理由のない対日戦争(今考えても目的や意味の見出せない日米戦争)に敢えて踏み込むとは考え難(にく)かった。『日米もし戦わば』というような不気味な題名の書物が両国でもよく出版され、売れていたが、半ば面白半分であって、両国ともに「まさか・・・・本当に?」と疑わしい気持ちだったのが現実である。

つづく