WiLL8月号「平和主義ではない脱原発」(三)

二国間原子力協定の真実

 NPTの他に日本を苦しめてきた厄介なしばりは、二国間原子力協定である。アメリカ、イギリス、フランスのほかにカナダ、オーストラリア、中国の六カ国との間に日本は協定を結んでいる。カナダ、オーストラリアからは原料のウランを売ってもらう。そのために「持てる国」の傲慢というか、横暴なまでのしめつけの各種のしばりがあるという。

 たとえば、大学の研究室が核爆発の研究を学問レベルでしたことが発覚すると、直ちに協定義務違反を追及され、外国から輸入したもの、原子炉、核燃料、技術などをすべて返還しなければならないという。これはひどい話で、純然たる学術研究における「自由」が侵害されているのである。しかし、核燃料の供給が止められると、日本の原子力発電は完全にストップしてしまうことになる。こうした事例を詳しく報告している外務省初代の環境問題担当官で、現エネルギー戦略研究会会長の金子熊夫氏の『日本の核 アジアの核』(朝日新聞社、一九九七年)から少し引用してみよう。

 ちなみに、日本が協定違反を犯したわけでもないのに、一九七四年のインドの核実験後、カナダは原子力輸出政策を大幅に転換し、一九七七年突如日加原子力協定の改定を申し入れ、日本政府がこれに直ちに応じないとみるや、一方的に加産天然ウランの持ち込みができず、多額の延滞金を支払わされるという異常事態が数カ月続いた。このような、かなり強圧的な状況下で日本政府はやむを得ず協定改正交渉に応じ、カナダの対日供給停止もようやく解除された。決してカナダの言い分に納得しているわけではないが、我が方がいくら頑張っても、モノを持っているのは向うで勝ち目はないのだから、結局妥協せざるを得なかった。

 アメリカの圧力だけが問題のすべてではないことが、ここからも分かる。日本が原子力発電をつづけるかぎり、技術後発国の日本、原料輸入国の日本の不自由はつづき、そして何といっても、軍事転用を他の国は認められ日本だけ認められていないための神経戦が二重三重に追いかけてくる。

 現在の二国間原子力協定がいかに複雑な仕組みで、しかも、いかに供給国(輸出国)側に有利にできているかを示す具体例をもう少し挙げておこう。日本の場合、石油と同じく、核燃料もすべて外国産で、天然ウランはカナダやオーストラリアからも購入することが多い。このため、カナダやオーストラリアは自国産天然ウランについて対日規制権(濃縮、再処理、第三国移転等についての事前同意権)を先々まで持つ。

 ところが、日本で運転中の原子炉は現在すべて軽水炉で、天然ウランをそのまま燃料として使えないので、日本の電力会社は、購入した天然ウランをすぐ米国やフランス等へ運んで高い料金を支払って濃縮(三%の微濃縮)してもらうのだが、その結果、米国、フランス等も濃縮国として新たに対日規制権を持つことになる。

 次に、その濃縮ウランを日本の原子炉で燃やして発電したのち、使用済み核燃料をフランスと英国に持っていって再処理してもらうと、そこで出来たプルトニウム燃料について、今度は英仏の対日規制が加わる。

 このように、一つの核燃料について二カ国ないし三カ国、ときには四カ国の規制権が重複してかかり、理論的には、それらすべての国々の事前同意なり許可を取りつけなければならない。それではあまりにも繁雑なので、新協定ではなるべく一括して、かつ長期間にわたって事前同意や許可が得られるような仕組みになってはいるが、将来、対日規制権を持つ複数の国の間で利害の衝突が起こった場合、もし一カ国でも反対すれば、日本の核燃料サイクルは重大な支障をきたす恐れがある。

 さらにもう一つ厄介なことに、最近の原子力協定では、米国で濃縮してもらった核燃料でなくても──例えばアフリカのニジェール産の天然ウランを日本の濃縮工場で濃縮した燃料でも──それを一度米国製の原子炉または米国の技術で出来た原子炉で燃やすと、その途端に米国産の核燃料と見なされ、米国の規制権の対象となる仕組みになっている。

 これは、かつてインドがカナダから輸入した研究用原子炉を使って、自国産の核燃料からプルトニウムをつくり、それでまんまと核爆発実験(一九七四年)を行ったようなケースを防ぐために考え出されたシステムで、専門家の間では「技術による汚染」──つまり米国の技術で、第三国の燃料までひっかけてしまう──と呼ばれているものである。モノよりも技術を持った国の方が有利だということを示す端的な例である。

 以上のように論じた後、金子氏は次のように断定している。

 要するに、日本の原子力開発は、過去四十年間と同じく現在、将来とも、米、英、仏、加、豪の五カ国、わけても米、加、豪の三カ国に最終的な「生殺与奪」の権利を握られているのであり、これら諸国の核不拡散政策を無視して、自分勝手な振る舞いはできないような仕組みになっているのである。

つづく

WiLL8月号「平和主義ではない脱原発」(二)

脱原発こそ国家永続の道

 一九六四年に中国の核実験が成功した。佐藤栄作首相は三カ月後の日米首脳会談でジョンソン大統領に対し、「日本も対抗上核兵器を持つべきだ」と述べたといわれる。しかし、アメリカ大統領はいわゆる「核の傘」の保障を与え、日本の核武装を拒否した。「核の傘」は当時も、そしていまも、決して明文の形で保証されたものではない。ことあるたびに、アメリカの要人による口約束で終わって、当てにもならないのに、核のボタンを自ら握る立場に日本をつかせない米政府の方針はその後も一貫していた。

 核保有国は、中国が入って五カ国になった。その後、旧戦勝国のこの五カ国が核を独占する不平等条約であるNPT(核兵器不拡散条約)が進められた。日本政府は署名をためらった。西ドイツが署名したのを見きわめて、ぎりぎりまでねばって滑り込んだ(一九七〇年一月)。

 しかしなお、釈然としなかった。村田良平元外務事務次官が回想録で述べているとおり、NPTの七割方の目的は、経済大国になりだした日本と西ドイツの核武装の途を閉ざすことにあったからである。佐藤首相はこの現実に全面的に敗北し、自ら言わなくてもいい非核三原則まで提唱して、退任し、代償としてノーベル平和賞を授与された(一九七四年)。しかし、日本政府は署名を済ませた後もえんえん六年間も批准を延ばし、条約を批准したのはやっと一九七六年であった。

 国を・守る・ためのフリーハンドを保持したい。さもないと、国家の存続が危ぶまれる事態がきたときに打つ手がなくなる。そういう切ない思いからである。当時の日本人にはまだ健全な国家意志が働いていた。敗戦国はいつまでも敗戦国に甘んじてはいけない、と。
 こうした動機を反核平和主義者たちはつゆ知らず、日本の保守派は戦前の「帝国」を夢みる愚かな大国主義に侵され、原発の運転維持にこだわるのはそのせいだ、などと言う人がいるが、そういう甘い保守主義者もなかにはいるかもしれないが、・脱原発こそ国家永続の道・を唱える私の立場はまったく違う。

日本からの報復への恐怖
 
日本が愚かにも非核三原則などと言っている間に、西ドイツは核をつくらなくてもどうしても持ちたい、せめてアメリカの核を持ち込ませたい、と粘り強い努力をした揚げ句、ついにソ連がSS─20を配備したときに、西ドイツ国防軍がアメリカの核弾頭を上限百五十発にかぎって自由使用できる「核シェアリング」を認めさせることに成功した。同じ旧敵国でも、アメリカはドイツ人に認めたことをなぜ日本人に認めないのか。

 われわれ日本人はその理由を心の奥底で深く良く知っている。問題は「核」であって、他のテーマではない。広島・長崎へのアメリカ人の贖罪とこだわり、人類史の汚点への自責、これがひるがえって日本人への怨念と嫌悪になり、そしてひょっとしてあり得るかもしれない日本からの報復への恐怖となっている。それが彼らを動けなくさせている。アメリカ人は自分の影に怯え、幻影に追いかけられているのだ。

 このことと日本の原子力発電のいまの問題、山積する問題がどうして無関係であるであろう。なぜ日本の原発は、諸外国が手を引いた高速増殖炉に危険を冒してでも突っ走らなければならなかったのか。なぜ燃え切った核燃料をもう一度使おうと再処理工場を建設し、次々と貯まって増えつづけるプルトニウムを、まるで追いかけられるかのように、沸騰して溢れこばれる薬缶のお湯をあわてて流すときのように、プルサーマル計画などという誰が見てもやらんでいいことに手を出さなければならなかったのか。

 日本政府がNPTの署名をしぶり、批准を遅らせていた七〇年代に、アメリカ、イギリス、ソ連だけでなく、カナダやオーストラリアからも、NPTにおとなしく入らなければウラン燃料を供給してやらない、つまり原子力発電をできなくさせてしまうぞと脅しをかけられていた。

 一九九三年七月の東京サミットで、五カ国に対する新たな核兵器開発の特権を追加したNPTの無条件・無期限延長が取り上げられたが、日本政府はこれに反対した。すると、アメリカの新聞、マスコミは一斉に日本に対する集中攻撃をはじめた。日本は核武装をする意図があるのだ、と。

つづく

WiLL8月号「平和主義ではない脱原発」(一)

村上春樹に失望した 

 人気作家の村上春樹氏が福島第一原発の事故に触れて、スペインでの受賞講演で、唯一の被爆国となった日本としては「核に対する『ノー』を叫び続けるべきであった」と述べたと報じられた。つづけて「私たち日本人自身がみずからの手で過ちを犯し」と重ねたが、事故は過ちだろうか。広島・長崎と福島とをこんな形で簡単につないでよいのだろうか。過ちを犯したのはアメリカではないのか。大江健三郎氏そっくりの言い方ではないだろうか。
 
 作家たる者は他人と同じようなことを言ったりしたりしないのが常道であるのに、またしても大江と同じように欧米人の願望に合わせた日本像を語り、ノーベル賞を狙う日本人作家の講演には失望を禁じえない。ノーベル賞から文学賞と平和賞はなくしてもらったほうが、公正さがより保てるのにと思っているのは私ばかりではないだろう。
 
 それはともかく、いましきりにいわれる「脱原発」という三文字から、これは「核に対する『ノー』を叫び続けるべきあった」という村上氏と同じことだと思い、・原水爆禁止運動・・反核平和運動・を反射的に思い起こし、福島瑞穂氏がにわかにはしゃぎ出すような状況を指していると考える人が、いまでも相変わらず少なくないのかもしれない。
 
 しかし、原発が地震国・日本に不向きだから段階的に止めて欲しい、と願うようになった最近の日本人の多くが彼らと同じ方向を向いているとはかぎらない。それは何でもかんでも「核」と名づけるもの、「核兵器」「核武装」を含むあらゆる原子力に関する危険なものは、世界のどの国がやろうがやるまいが、日本列島から追い払い、いっさい近づけさせない、「ノー」を叫び続けるべきだという村上氏の言うようなこととは決して同じではない。

 常識のある人は、「脱原発」と「反核」は必ずしもぴったり一致しない別の事柄だと考えられているはずだが、そこのところをあまり明確に分明できないで迷っている人も多いだろう。
 
 他方、これとは逆に、日本の原発でウランを燃やしてつくられたプルトニウムの量が、すでに長崎原爆の四千─五千発分に達したと聞いてなにやら頼もしいと思ったり、どことなく不安に思ったりするシンプルな情緒のうえに、思想や理論を築き上げている人が多い。原発が原爆と隣り合わせであり、プルトニウムをいつでも軍事転用できることは間違いないが、原発は核武装への階程の第一段階であると考える考え方に固執するのは、事実関係をよく調べてみるとまったく間違っている。
 
 原発を止めてしまったら核武装への道は永遠に絶たれてしまうと心配する保守派の論客も、また反対に、原発を止められない日本の政治はいつの日かの軍事大国への夢を捨て切れないからだと攻撃をしかける平和主義者も、それぞれ手にあまるほど増えすぎて困っているプルトニウムという燃料の山に、別方向から同じ幻像を投げかけているのである。どちらも、原発の存在が日本の軍事力の合理的強化を妨げ、国家の独立自存をむしろ阻害しているという、きわめて深刻なウラの事情を正確に見ていない。

原発に沈黙する保守

 いま、原発反対の高まる声に対し、保守系の言論人・知識人の多くは、著名なかたがたも含めて口を閉ざし、沈黙している。なかには、原発を止めたら産業が成り立たない、と叫ぶ人もいるが、慎重な人は様子を見ようとしている。福島第一原発の事故の行方が分からない不安がつづくので、迂闊に口は開かない。しかし、心のなかでは、原発は力であり、力は国家であるという固定観念をいったん白紙にもどそうとはしていない。だから時期がきたら、頭に刷り込まれた原発の「安全神話」が再び台頭し、言論界を覆うであろう。産経新聞は懲りずにすでにそうである。しかし、これは原発が国家の力の源ではすでに必ずしもなく、力の集中を混乱させている──必ずしも事故のことだけではない──明らかな「事実」を見ていない証拠である。

 他方、これに対し、私は最近、原発反対派の論文や講演録の秀れたもの──たとえば沢田昭二氏、小出裕章氏、ジョン・トッド氏、ウルリヒ・ベック氏のもの等──を選んで丁寧に見て、学ぶこと多いが、彼らは原発による被害の本質を衝いて正確かつ知的に誠実であるものの、ひとつだけ欠けているものがある。すなわち、加害の観点が欠けている。

 彼らは言う──原子力は利用価値があると思っていたが、死と破壊しかもたらさない。その力は人類の手にあまり、最後に残る猛毒の廃棄物は人類の歴史を越えて残存する。いかに制御したとしても、失敗したときには取り返しのつかないような技術は技術とはいえない。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ、リスクは無限大に等しい。それが原子力の事故であり、航空機の事故とは異なる所以である、と。この点を今度われわれもたしかに深刻に体験した。それは私も切実に良く分かった。
 
 しかし、原子力はそれゆえに「死と破壊」を他に向ける機能──兵器という機能によって世界の平和と秩序をぎりぎりのラインで維持している。そのことと切り離して原子力発電は誕生しなかった。すなわち、原発は原爆の歴史のなかから生まれ、それとともに発展生成した。日本の原発は非軍事に限定され、事故はそれゆえに生じる矛盾を直視しない単眼性から発生したのではないか。雑誌『世界』はこのところ、いい論文や座談会をいくつも載せたが、これまた懲りずに平和主義のままである。
 
 所持しても使用できない核兵器は、米ソ核軍縮もあって、兵器としてやや時代遅れともいわれるが、東アジアではいぜんとして唯一の抑止力である。核を持った国同士はもう戦争できない、という意味で、今や純粋な・守り・の武器である。
 
 アメリカの核の傘はすでに幻想であり、今後アメリカの軍事予算の削減とともに威嚇力さえ失う。核武装国家・中国と対峙するために、日本は決して大量でなくてよいが、少数の有効な核ミサイルを持つ原子力潜水艦を太平洋に遊弋させる必要と権利を持つ。それをアメリカその他に納得させなくてはいけない。日本がほんの少数の(数十の)核ミサイルを持つだけで、中国は日本と戦争ができない。沖縄海域を自由航行することなどできなくなる。これを放置すると、やがていつか大きな戦争になるのである。
 
 さて、これほど大切な、日本にとって・守り・のための最小限の手段である核武装を妨げつづけてきたのは、ほかでもない、原発である。四千─五千発の長崎原爆をつくれるプルトニウムを貯蔵している日本の原発が、日本の安全の最大の障害物である。

つづく

8月5日産経正論掲載西尾論文に想う

ゲストエッセイ 
足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

   

 やや旧聞に属しますが、産経新聞正論欄は8月に入り「震災下の8月15日」と冠した論文を掲載しました。そこにはこの震災を大東亜戦争、第二次大戦の敗戦とそれに伴う廃墟のイメージに重ねようとする意図が感じられ、そうした文脈で書かれたものもすくなくありませんでした。

 しかし、こうした設定は問い詰めなければならない問題を隠蔽してしまう危険を孕んでいます。重ねていうならば、産経新聞にはそうした隠蔽の意図すら感じられます。

 8月5日に掲載された西尾先生の論文はこの点をピタリと指摘されています。 先生は次のように喝破されました。

 「日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野蛮を問い質すことが必要だった。」と。

 話は私事になりますが、私は、パソコンに私なりの歴史年表を作っています。そのきっかけは、もう大分前になりますが、インターネットで「翼賛選挙」の検索結果を読んだことでした。

 そこには大東亜戦争開戦5か月後に行われた昭和17年4月30日の衆議院議員選挙の結果が掲載されていました。

 その内容は、それまで存在していた多くの政党が無理矢理解散され、翼賛連盟に統一されたこと。翼賛連盟を勝たせるために多くの干渉がなされ、選挙があやつられたこと。選挙結果は、翼賛連盟に推薦された候補者が381名と、非推薦のいわば無所属の85名の合計466名が当選したと書かれていたのです。

 選挙は妨害や干渉などがあったとも記されていますから、よくまあ85人もの非推薦候補が当選したものだと感心したものでした。そればかりか、驚いたことに、昭和15年に陸軍を名指しし批判する「粛軍演説」で問題となり議員を除名された斉藤隆夫までが当選者の中に名前を連ねていたのです。

 戦後の歴史教育では、戦前・戦中を「軍部ファシズム時代」として描き、斉藤隆夫はその被害者の典型例としての「粛軍演説」のみが記述されていました。然し斉藤隆夫が”翼賛選挙”で非推薦の立場で当選したとなると、戦時においてすら、完全には「軍部ファシズム」一色ではなかったのではないかと思えてくるのです。

 第二次大戦の連合国、米、英、ソ、中を民主主義陣営と言いますが、ソ連は共産党一党独裁であり、中華民国も国民党独裁であって、この両国とも民主的な選挙などおこなっていないのですから民主主義とは無縁でしょう。更に言えば米国ですら黒人には選挙権がなかったのですから、日本の方が民主的であったと言えないこともありません。

 要は年表の表記一つとっても一方的な考えのみが記され、事実が隠蔽されることはま まあることであり、そうしたことは占領時の米占領軍による検閲と焚書により歴史年表に深く埋め込まれ今日に至っているということが、1942年4月の”翼賛選挙”の年表表記から分かります。

 そんなことから、私は、自分の理解できる範囲で自分なりに「歴史年表」を作り始めました。作りながら感じたことは正に米国が特に日露戦争以降執拗な「対日挑発政策」を一貫して行ったことです。

 日露戦争終結間もなく、米瀋陽総領事ストレートは満州における日本の権益への干渉を行います。例えば満州銀行を設立の画策ですが失敗しています。1909年には米国務長官ノックスが満鉄中立案を画策しますが、日露の連携でこれも失敗しました。

 満州における我が国の権益は、日露戦争で戦死、戦傷、戦病計40万人の犠牲の上に得たものであり、そんなことにお構いなしに干渉してくる米国には「ナニサマダ」と言う気持ちが湧いてくるのは当然でしょう。

 以下、私の年表にある米国との関係を記します。

1906年:カリフォルニアで日本人移民取締り、移民学童排斥が問題となる
1907年:サンフランシスコ、日本人学童を公立学校から隔離。(シナ人学童は既に20年前に隔離)連邦政府これに反対するも加州政府受け入れず。―― 妥協、①メキシコ、カナダ、ハワイの三地域(これ等の地域からの移民が多かったため)の旅券を持った日本人、朝鮮人の米国本土へ入る事を禁ずる。②日本人、朝鮮人学童の公立学校への復学を認める。
1908年:米艦隊の日本周航。米国の意図は対日威嚇であったと想像されるが、日本側の大歓迎で関係改善へ。この機会にルート・高平協定(日本は移民旅券を発行せず、実質移民を送らないことにした。)
1909年1月:ノックス国務長官による満州鉄道中立案が各国に示されるが、日露の緊密な連携と反対で失敗する。
1911年:日米通商航海条約締結
同年4月15日:米英仏独の対清?借款成立(日露を牽制するもので、日露は反対したが結局参加を余儀なくされる)この年、陸奥条約の期限を迎え、各国との交渉を完了し此処に半世紀に亘る不平等条約は総て失効した。
1913年:カナダ、日本人渡航を制限。カリフォルニア州外国人土地所有禁止法(カリフォルニア州排日土地法――日本人の土地保有を禁止し、企業のマネージメント       になることを禁じ、日本人学童を公立学校から隔離する)
1914年:第一次対戦勃発 パナマ運河開通 
1917年2月13日:英国講和条件に関し、日本の要求を支持する旨言明(山東半島の旧ドイツ領、赤道以北の旧ドイツ領諸島の処分=米は反対)
同年12月2日:石井・ランシング協定――(国境を接する国の利益を容認する)
1918年11月11日:聯合国、ドイツ休戦協定
1919年:パリ講和会議、日本は連盟規約に「人種平等宣言」を提案、穏当な内容であり11対5の賛成多数を得るも議長であったウィルソン大統領が議長職権で、全会一致でなかったことを理由に廃案とした。実現は第二次大戦後。
1920年:今までより更に悪質な排日土地法――(米国臣民権を持った日本人にも土地所有を認めない。日本人が整備した農場を取り上げる。)
1924年:「絶対的排日移民禁止法(ジョンソン・リード法)これにより、連邦全体の排日法が成立した。大統領も署名し発効することになる」この排日法に関連して植原駐米大使の国務長官宛書簡の中の [grave consequence]の文言が問題となった。
1925年:アメリカ、オレゴン州で排日暴動。5月15日、排日移民条項を含む法律案が連邦議会を通過。

 さて、日米戦争は日本の過った選択であったのか、米国の仕掛けた不法な戦争であったのかを開戦の2年前から私の年表で見ていきます。

1939年7月26日:米ハル国務長官、日米通商航海条約の一方的破棄を通告
同年11月:米国の第一回エンバーゴー、航空機、航空機備品、航空機製造危機の対日輸出禁止
1940年1月26日:日米通商航海条約失効
同年3月:衆議院、斉藤隆夫を除名
同年5月:米国防諮問委員会設置。スター区案=海軍大拡張計画
同年7月:米国日本に対する屑鉄輸出の禁止
同年8月:米国日本に対する航空機用ガソリン輸出の制限
同年9月22日:日仏印軍事協定締結。翌23日、日本軍北部仏印に進駐
同年9月27日:ベルリンにおいて、日独伊三国軍事同盟を締結―英国ビルマルート再開。米国在極東米国人退避勧告、米国蒋介石への援助強化)
同年10月:ルーズベルト、デイトンで重慶政府支援を演説
同年10月:大政翼賛会創立
同年11月:汪兆銘南京政府樹立 英、アジア軍司令部を創設、司令部をシンガポールに置く。
同年11月30日:日本、汪兆銘政権と日華基本条約締結
同年同月:米国、蒋介石政権に5千万ドルの借款供与と、5千万ドルの通過案的基金拠出を用意、英国の1千万ポンドを拠出
同年12月:米太平洋艦隊主力をハワイに置く
同年12月:モーゲンソー財務長官、蒋介石政権に武器貸与法適用用意の旨演説
1941年:1月:ルーズヴェルト年頭教書で「四つの自由」
同年1月:ノックス海軍長官蒋介石政府に航空機200機の売却手続き完了を明かす。
同年4月:日ソ中立条約。日仏印経済協定
   マニラで英東アジア軍総司令官、米駐比高等弁務官、米アジア艦隊司令長官、蘭外相が会談
同年5月:米国国家非常事態を宣言。米国重慶政府に武器貸与法を適用
同年5月:オランダ外相、強行発言「挑戦にはいつでも応戦の用意あり
同年6月:シンガポールで英、重慶政府軍事会談
同年6月10日:我が国の蘭印(オランダ領インドネシア)との貿易交渉決裂、17日決裂の事実を公表
同年6月21日:米、日本に対する石油製品輸出に品目別許可制導入
同年6月22日:ドイツ軍、ソ連へ進攻。27日:ハンガリー対ソ参戦
同年7月2日:御前会議で南部仏印進駐を決定
同年7月25日:米国在米日本資産凍結、(その後26日、英、蘭も追随)
同年7月28日:日本軍南部仏印進駐開始
同年8月1日:米国対日石油全面禁輸(英国、オランダも実質追随)
同年8月14日:米英大西洋憲章
同年9月:御前会議において、交渉不首尾の場合の開戦を決意
同年10月18日:東条英機陸軍大将に大命下る。外相東郷茂徳氏
同年11月7日:野村大使甲案を提示
同年11月12日:ハル国務長官、共同宣言案方式?を提案
同年11月15日:来栖大使着任
同年11月26日:ハルノート
同年12月1日:御前会議において対米英蘭に宣戦を決定 
同年12月8日:米英に対し宣戦布告

 こうして見ていくと「日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野蛮を問い質すことが必要だった。」
という西尾先生の言葉こそあの戦争の本質をついていると思わざるを得ないのです。

 我が国の所謂”昭和史家”達の説明は日本の過去を誤りとしますが、それでは米国の行動は全て正しかったのか、例えば、開戦2年以上前に米国が一方的に日米通商航海条約の破棄を通告し、開戦3か月半前一方的に、在米日本資産の凍結をおこなったことをどう見るのでしょうか。因みに日本が南部仏印に進駐したのはその後のことなのです。

真珠湾攻撃70年にも思い馳せる震災下の8・15 

   @産経「正論」欄より 2011.8.5

 大震災後初の終戦記念日に続いて、真珠湾攻撃70周年記念日(今年12月8日)が近づいている。

 第二次世界大戦で、米国はドイツを主要な敵と見立て、対日戦はそのための手段だったと見る説があるが、19世紀からの歴史を考えるとそんなことは全く言えない。欧州戦線で米軍は「助っ人」を演じ切ったが、太平洋戦線では「主役」そのものだった。昭和14(1939)年まで、日本は米英一体とは必ずしも考えていなかったのに、あっという間に米国が正面の敵となった。かねて狙っていた標的に襲いかかる勢いだった。

 ≪≪≪日本に対する戦意の根深く≫≫≫

 米国内にはドイツ系市民が多数いて、ドイツに対する米国の戦意の形成は大戦直前の短期間だったのに対し、日本に対する戦意の歴史は根が深く、ハワイ併合時(1898年)にすでにあり、日露戦争(1906年)後に露骨に明確になった。日系市民の存在は、ドイツ系と違って、米国内の敵意の発生の場、人種感情の最もホットな温床であった。

 19世紀前半に、米国はメキシコと大戦争をしている。テキサスを併合し、アリゾナ、コロラド、ネバダ、ユタ、ワイオミングの各州に当たる地域を奪取し、ニューメキシコとカリフォルニアを買収、この勢いは西海岸をはみ出して西へ西へと太平洋にせり出した。

 南北戦争の内乱でしばし足踏みした後、明治維新を経た新興日本の急成長を横目に、米国はスペインと開戦してフィリピンを併合、用意していたハワイ併合も果たした。ハワイ併合に、大隈重信らが抗議してしつこく食い下がった日本外交の抵抗は知られていない。米国は余勢を駆って、グアム、サモア、ウェークなどの島を相次いでわがものとした。日本にとっては、脅威そのものだった。

 米国の西進というパワーの源には、非白人国家に文明をもたらすことを神から与えられた使命と考える身勝手な宗教的動機もあったが、英国、オランダ、フランスに加えてドイツまでもが太平洋に植民地を築き、中国大陸が西欧に籠絡されていることへの、遅れてきたものの焦りがあった。

 ≪≪≪遅れてきた焦りゆえの西進熱≫≫≫

 興味深いのは、フィリピンやグアムなどの領有には武力行使をためらわなかった米国が中国大陸を目前にして方針を急に変えたことである。米国は、大陸に武力を用いるのに有効な時期を逸していることに気づいた。ロシアと英国が早くから中国に介入していたからである。米国は「門戸開放」を唱えだした。俺にも分け前を寄越せという露骨なサインである。米国はそこで、中国大陸への侵攻を目指して、北方、中央部、南方の3方向から順次、介入を試みた。

 北方ではロシアが日本より先に満州を押さえ、朝鮮半島を狙っていた。そこで、米国はロシアを追い払うために日本を利用し、日露戦争で日本を応援して漁夫の利を得ようとしたが、誇り高い日本民族がこれを許さない。鉄道王ハリマンの野望は打ち砕かれた。それでも、米国は満州への経済進出の手をゆるめない。

 第一次大戦中に、アジア市場には日本の影響力が高まったので、米資本が進路を拡大するには武力に訴えたかったのだろうが、各国の力学が複雑に張り巡らされた大陸の情勢下では、それも難しく、米国は上海を中心とする中国の中央部に狙いを移し、文化事業、キリスト教の宣教などを手段とし、非軍事的方法で揺さ振りをかける道を選んだ。日中の離間を謀るさまざまな手が打たれた。米国はことごとく日本を敵視した。米国への中国人留学生迎え入れの予備校である精華学院などを創設、中国人の排日テロを背後から支援し続けた。キリスト教宣教師はしばしば反日スパイの役割を演じた。

  ≪≪≪なぜ米国が戦争したかを問え≫≫≫

 西進への米国の果てしない衝動は、他の西欧諸国とは異なる独特の、非合理的な熱病じみたものを感じさせる。満州へも、中国本体の中心部へも、思う存分介入できなかった米国は、とうとう最後に南方からの介入で、抵抗を一気に排除しにかかった。フィリピン、グアムを軍事拠点に、英国やオーストラリア、オランダとの合作により南太平洋を取り囲む日本包囲攻撃の陣形を組み、大陸への資本進出を実行する障害除去のための軍事力動員の道に突っ走った。

 かの真珠湾攻撃は、米国の理不尽で無鉄砲なこの締め付けに対する日本の反撃の烽火(のろし)であった。

 日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野蛮を問い質すことが必要だった。西へ向かうこの熱病は近年、中国を飛び越え、アフガニスタンから中東イスラム圏にまで到達し、ドルの急落を招き、遂に大国としての黄昏(たそがれ)を迎えつつある。真珠湾攻撃は、70年間かけて一定の効果をあげたのである。(にしお かんじ)

『GHQ焚書図書開封 5』の刊行

GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日 GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日
(2011/07/30)
西尾幹二

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 7月31日に『GHQ焚書図書開封 5』(徳間書店、¥1800+税)が刊行されました。副題は「ハワイ、満州、支那の排日」で、表紙絵をご覧の通り、帯に「パールハーバー70周年!」と銘打たれています。今年の12月8日は真珠湾攻撃の70周年記念日に当たります。

 この件については「あとがき」をすでに掲示しました。

 今日は目次を紹介しておきます。

第1章 米国のハワイ侵略第一幕
第2章  立ちつくす日本 踏みにじる米国
第3章 ハワイ併合に対する日本の抗議
第4章 アメリカのハワイ・フィリピン侵略と満洲への野望
第5章 長與善郎『少年満洲讀本』その一
第6章 長與善郎『少年満洲讀本』その二
第7章 長與善郎『少年満洲讀本』その三
第8章 支那の排日の八つの原因
第9章 排日の担い手は英米系教会からロシア共産主義へ
第10章 支那の国民性と黄河決壊事件
第11章 現実家・長野朗が見た理想郷・満洲の矛盾

〔巻末付録〕標題に「満洲」と入った焚書図書一覧(作成・溝口郁夫)

 以上の通りです。

 日本人がなぜアメリカと戦争をするという判断の間違いを犯したかではなく、なぜアメリカは日本と戦争をするという無法に走ったのかと問うべきだ、というかねての私の主張はこの本でかなりはっきりするでしょう。

 敗戦の負の感情を返上し、正の意識を回復しましょう。日本が前向きになるのはすべてそこからです。

アマゾンのレビューより

By スワン – レビューをすべて見る

レビュー対象商品: GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日 (単行本)

本書は<逆転の発想>に立っている。
「日本はなぜアメリカと戦争したのか」ではなく、「アメリカはなぜ日本に牙をむいてきたのか」と問うているからだ。

取り上げられる<GHQ焚書図書>はつぎの三冊。
・吉森実行『ハワイを繞る日米関係史』(昭和18年)
・長与善郎『少年満洲読本』(昭和13年)
・長野朗『日本と支那の諸問題』(昭和4年)

最初の本では、アメリカがハワイを併合したのが1898年と知って少々驚いた。たった100年前の出来事なのだ!
18世紀に独立を果たして以来、西へ西へと領土を広げてきたアメリカは、メキシコとの戦争でカリフォルニア一帯を奪うと、今度は、太平洋上にあって戦略的に重要な位置を占めるハワイに目をつける。
そこで軍隊を上陸させると、女王を脅かし、強引に退位させ、ハワイを併呑してしまう。

米東海岸→米西海岸→ハワイ→フィリピン、という具合に領土を広げてきたアメリカが、そのつぎに目をつけたのは満州だ。
ところが、そこには日本が陣取っていた。
……といっても、日本は満州を不当に侵略したわけではない。
満州と日本の歴史、あるいは日本人移住者たちの姿は『少年満洲読本』に活写されていて、とても参考になる。

なかなか満州に進出できないアメリカは中国と手を組み、シナ大陸で<排日>の嵐を巻き起こす。
日本・中国・アメリカ間の諸問題に関しては、三番目の本で詳しく語られる。

以上のような流れを追いながら著者は、<西へ向かうアメリカ>と<その進路に立ちはだかっていた日本>という地政学的な構図をあぶりだし、日本に対するアメリカの<戦意>を見事に描き出す。

本書を通読して強く印象に残ったのは、つねに変わらないアメリカや中国の<体質>だ。

一例を挙げれば――日本軍の追撃を受けた蒋介石軍は、その進軍を阻むため、なんと黄河の堤防を爆破して大洪水を引き起こし、十万人以上の同胞を犠牲にしたのである。
先ごろの<中国版新幹線>の事故処理を見ても、中国人の体質は戦前の本に描かれた<暴虐>とまったく変わっていない。

アメリカも同様。
メキシコやスペインに戦争を吹っかけ、キューバ、米西海岸、ハワイ、フィリピン……をつぎつぎに奪い取ってきた<横暴>は、すべてに我意を押し通そうとするアメリカ外交のひな型となっている。

いまなお、そんなアメリカと中国と付き合わざるをえない日本はどうふるまうべきか?
本書には、それを<考えるヒント>がいろいろちりばめられている。

心の琴線にふれた(る)西尾先生の言葉と私

ゲストエッセイ 

髙石宏典 

 「西尾幹二のインターネット日録」の愛読者の皆様、こんにちは。私は山形県の南部にある南陽市内の小さな街で、会計事務所を営んでいる髙石と申します。何度か「日録」のゲストエッセイ等に文章を掲載していただいたことがあり、もしかしたら覚えて下さっている方もおられるかもしれません。自分でこんな風に申し上げるのはちょっと変ですが、紆余曲折の平坦でない道をいつの間にか半世紀近くも歩いて参りました。西尾先生のご本とのご縁は大学生の頃ですから約30年前に『ニーチェとの対話』を拝読したことから始まり、それ以来今日まで先生のファン状態が続いています。

 いつかお会いして直にお話しできればと念願しておりましたが、先月の7月16日に稀有な幸運に恵まれ西尾先生と90分間懇談させていただく機会を得ることができました。その際に先生から「ゲストエッセイに書いて下さい!」とご依頼があり、まさか「すみません、お断りいたします。」とは口が裂けても言えない感じでしたので、拙い文章を綴らせていただくこととなった次第です。それなら何をどう綴っていくべきなのか少し迷いましたが、西尾全集の刊行が間近に迫りその全巻内容と「私を語る」というエッセイが公表されたことでもあり、私がこれまで先生のご本から感銘を受けた言葉を手掛かりにして話を展開してみようと考えました。そうすることが、「私を語る」で先生がお書きになっている私個人にとっての「自分の体験に基づく自己物語」に通じるとも思えたからです。

 さて、西尾先生のご著書の中から心の琴線にふれた言葉を敢えて一つだけ選ぶとしたら、私にとっては以下の言葉になるでしょうか。この言葉に私は大いに刺激を受け励まされ、大学卒業後5年半経った時点で「遅すぎた春」を何とか迎えることができたのです。

 「他人と同じ存在になろうとして競争し、その挙句、微妙な差別に悩まされるくらいなら、他人と違う存在になろうと最初から決意し、微妙な差別から逃れようとするのではなく、むしろそれを逆手にとって、差別される存在にむしろ進んでなるという強い決意でそれを乗り超えていく生き方だってあり得るのではないだろうか。」(『日本の教育 智恵と矛盾』134頁「教育改革は革命にあらずー臨教審よ、常識に還れー」より)

 この『日本の教育 智恵と矛盾』を私が通読したのは昭和63年の冬で、公認会計士第二次試験に合格する前年に当たっています。当時、私は公認会計士の資格を得ようと実家で家族に守られながら独りで受験勉強を続けておりました。私が就職活動を一切せずに公認会計士の資格取得を目指したのは、上の先生の言葉にあるように大学の序列という「微妙な差別」から少しでも自由になりたかったためです。また、受験専門校に頼らずに独りで勉強しようと考えたのは、大学受験時に高校のカリキュラムや課題に振り回されて結果を出せず結局失意のまま入れる大学へ入ってしまったことへの抵抗と反省があったからです。
こうした動機を胸に秘めながら来年こそはと悲壮な決意でかったるい受験勉強をしていた時に目にした上記の先生の言葉は、私にはまるで自分のために書いて下さった言葉そのもののように思えて深く激しく心を揺さぶられました。「誰かに分かってもらえなくてもいい。自分の考えは間違っていない。ただやり通せばそれでいいんだ!」と前向きな気持ちになれたことが、孤独な闘いをしていた自分にはどんなにありがたく、またどんなに試験突破の精神的支えになったか分かりません。

 私がこうして恥も外聞も捨てて単なる私的な昔物語を正直にお話しするのは、いわゆる学歴コンプレックスなるものがもはや自分にとってどうでも良くなったこともありますが、私が若い頃に悩まされた上記のようなことは今なお一部の例外者を除いて多くの人に当てはまる、結構深刻な問題ではないかと推察するからです。先生がおっしゃる「微妙な差別」をどう克服しあるいは緩和し、自分自身とどう折り合いをつけて社会との関係を築いてゆくのかということは、特に将来ある若者にとって人生上の重い課題の一つなのではないでしょうか。

 さらに、もう一つだけ西尾先生の同じご本の同じ論文の中から心にグッと迫ってくる言葉を挙げさせていただきましょう。

 「それぞれの道で果てしない競争が待っている。ただ他人と同じ存在になろうとする競争ではもはやなく、他人と違う存在に価値を見出す競争である。共存共栄を約束するのは後者の競争だけである。」(『前掲書』135頁)

 この言葉も実に温かく、過去の自分ではない今の私が前向きになれる言葉です。要するに、私は単に人と同じことをすることが嫌いなへそ曲がりに過ぎないのですが、そういう人間でも存在意義や生きる道はあると言われているようで少しだけ力が湧いてきます。実社会に出てからこれまで、監査法人と税務会計事務所(会計士等として約8年勤務)、大学院(一時研究者を目指し3年在籍)及び県立短大(講師として7年勤務)と職場や組織を転々としてきたものの、私は結局どこにも馴染めず今の自営スタイルでの会計士業・税理士業に落ち着きました。仕事は必ずしも順調とは言えませんが、建設的で健康的な競争は回避しないで様々な仕事に取り組んでいこうと思っています。

 ところで、上記で取り上げさせていただいた該当論文を含む西尾全集の目次内容を眺めていると、論じられている内容が余りにも広範囲に亘っていることに改めて吃驚させられます。文学、思想、教育、歴史、外交、防衛、政治、経済、文化そして人生など対象領域の広さを考えれば、西尾先生がお一人で全てお書きになられたとは俄かには信じられない程です。一方で、読者としての私の先生のご著作への関心領域はかなり限定的で、「このままならない人生をどう生きるのか?」という関心の範囲内で先生のご本とも関わりを持たせていただいて来たと一応言えるのかもしれません。そうした意味で先生のご本の中で印象深く私が好きなものは、『ニーチェとの対話』、『人生の価値について』、『人生の深淵について』及び『男子、一生の問題』等です。

 また、私の場合、独断と偏見で先生のご本の都合の良い箇所だけに着目しそのうえ誤読し誤解している可能性を否定はできませんが、一読者に過ぎない私にとってはそういう読み方で良いと思っています。たとえ誤読し誤解していたとしても、先生の言葉や文章が私の心の襞に触れ行動に影響が及んだことがあるというその事実がとても大事なことであるように思えます。これまでの経験上、心を揺さぶられるような言葉や文章に出合うことなど滅多にあるものではありません。西尾先生のご本は、私にとってそうした稀有な機会を提供していただける大切なものの一つであります。間もなく出版される『西尾幹二全集』を手にし拝読して、自己を再発見し生きる糧としていければこれほど有意義なことはないと思っています。

 西荻窪駅近くのお店で昼食をごちそうになって西尾先生と懇談させていただいた90分間は、本当にあっという間でした。ただ懇談と言っても、約1時間は先生から原発問題に関する水島総氏との討論と全集校正作業や『GHQ焚書図書開封5・6』の出版等に関するさわりを放映や「日録」掲載前に生真面目な学生のように拝聴し、残りの30分程で山形県出身の左巻き有名人のこと、大川周明とその全集のこと、著名な保守論客のベストセラー本に共感できないこと、未知だったヴォーヴナルグの古本を求めたこと、そして西尾全集見本の素敵なお写真のこと等をお話しさせていただいた感じだったでしょうか。

 先生が福島第一原発事故に関連して話された「宇宙開発や生体臓器移植など神の領域に挑戦することには理由がなく、後で必ずしっぺ返しを受けることになる。」(以上は髙石個人の回想による要約)というお話に私は瞬時に共鳴いたしましたが、原発問題を含めてこれらの事象に共通して私が感じたのは人間の傲慢さに対する生理的な嫌悪感であったように思います。諸外国人がどうであれ、日本人は本来もっと謙虚な国民であったはずなのではないのでしょうか。そうした日本人としての本性に立ち返ることが、今こそ求められているような気がしてなりません。何者かに糸を引かれ、その何者かに手を差し伸べていただいて、何とか私はこの半世紀を生きてこられたのかもしれないと時折ふと感じる、漠然たる神々への信仰心が私にこう直観させるのです。

 3年ぶりの上京でしたが、西尾先生には大変お世話になりました。ご多忙中にもかかわらずお仕事のご予定を変更されてまでこんな私のために貴重なお時間を割いていただき、恐縮したことこの上もありません。本当にありがとうございました。末筆ながら、猛暑の折、西尾先生、「日録」管理人の長谷川様、そして「日録」愛読者の皆様におかれましては、くれぐれもご自愛願います。また、東日本大震災で被災された皆様におかれましては、一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。それでは皆様お元気で。さようなら。  髙石宏典

特別座談会 日本復活の条件(1)の(三)

JAPANISM 02より 

NHKが歴史を解釈できないわけ
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富岡: 先程大事な話が出ました。要するに、アメリカに対しての日米戦争というのは近代対近代の戦争だったとおっしゃったことが非常に重要で、いわゆる保守派の中で、先ほどの九一一の問題と引っ掛けて言えば、イスラム原理主義的なものに対して、錯覚なんですけど、イスラム原理主義的なもの、それが反文明、反近代に通じ、どこかシンパシーを寄せてきた。実はあの大東亜戦争が近代文明たる西洋に対して日本が反近代的な戦いをしたという誤解がありそうです。

西尾: だから、ビン・ラディンに共感して、イスラム原理主義と日本を一緒にする。

富岡: ですから、それは戦前の、あるいは戦中のいわゆるアジア主義という問題から実は繋がっていて、必ずしも戦後だけの問題じゃない。そのことを戦争からもう一回、保守派としてどう捉え直すのかと。あれはまさに近代対近代の戦争であったという認識が重要です。林房雄と三島由紀夫が、昭和四十一年に対談して『日本人論』という一冊になっています。林さんは終戦時、四十歳を過ぎていた世代ですから、よく分かってたんです。日本が近代国家としての物量でアメリカという強大な物質国家と戦って、そこで負けたんだと。
 
 だけど、三島さんの場合は終戦が二十歳でしたから、どうしても反近代とか、そういうところへの愛着が非常に強いんです。だから、その問題は実は保守の側でしっかり腑分けされていないというか、議論が深められてないという問題があります。

古田: 私は歴史に善悪とか考えるのは嫌いなんですよ。世界はビリヤードの玉みたいなもんで、大きい玉もあれば小さい玉もある。そういうのがぶつかり合ってる、そういう世界だと私は思ってますよ、今も昔も。そこに善悪なんか介在する余地がない。

西尾: それは『善悪の彼岸』なんです。ニーチェのね。

富岡: そういう意味では、近代化した日本とアメリカという巨大な近代がぶつからざるを得なくなったのは、文学的にも歴史の宿命と言える。その宿命、運命と言ってもいいですが、なぜ戦後の日本人が深く味わえないのかと。

西尾: 間違ってたということしか言えない。

富岡: だから、日本人に大事なのは、今NHKが真珠湾七十年後に放送してる、こうしたら開戦を回避できたかという議論ではなく、あの太平洋というこの場所で、アメリカとぶつかるのは必然だったと。その歴史の必然に対して日本人が、どう思うのかということなんです。そこからしか、新しいものは出てこない。

西村: それはすごく重要な前提なんですが、なかなか一般的な認識がそこまで行かない。

古田: 歴史に必然なんかないですよ。僕はそう思ってます。過去から、結果から原因をさかのぼるから必然になるんであって、歴史に必然なぞない。

富岡: いや、だから運命でもいいし、宿命でもいいんだけれど。

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西村: 具体的に言いますとね、NHKが例のシリーズを始めたときに、僕がツイッターで書いたんですよ。「なぜ日本は戦争を防げなかったのか」というテーマで放送するとNHKの広報がツイッターで宣伝していたので、この問題設定が間違いではないか、「なぜ米国が戦争を防げなかったのか」というテーマの方が新しいと僕がツイッターで書いたら、半分の人は共感してくれました。ところが、全く理解できないっていう人も半分いるんですね。今、NHKが放送するなら、「アメリカはなぜ太平洋を侵略したのか」とか、「日本はどうすれば勝てたのか」というテーマなら、まだ分かる。

西尾: 勝てたという「if」も反省の裏返しだから・・・。

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古田: いいんです。負けてもいいんです。負けたんだったら、どうしてもっとアングロサクソンの研究しないのかと思う。戦後の日本は、なぜまたマルクスやったのか、どうしてまたフロイトやったのか。負け甲斐がないんです。負けたんだったら、どうして、もっとアングロサクソンの研究しなかったのか。ヒュームもいればバークリーもいるし、それから、食えないラッセルもいるしね。

西村: 食えないか(笑)。

古田: 戦後、またマルクスなんですよ。平気でマルクスなんです。(続く)

特別座談会 日本復活の条件(1)の(二)

JAPANISM 02より

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大東亜戦争は、近代と近代の戦争だった

古田: 要するに、おっしゃりたいことは日本がアジアという地域の地域保全を求めたので、アメリカとぶつかったということなんでしょう。

西尾: 満州ですね、基本的にはね。

古田: 地域覇権で成功したのはアメリカ一国なんですよ、歴史上。全部失敗してますから。日本はアジアの地域覇権を確立しようとしてアメリカとぶつかったと思うんですけど。

西尾: でも、アメリカは地域覇権を放棄しますね。つまり、地域覇権というのは植民地ですけど。

古田: 僕はそういう意味で言ってるのではなく、その地域の、要するに経済力・武力等の支配力を地域覇権と言っているんです。

西尾: アメリカ大陸のですか。

古田: そうです。

西尾: 南北大陸の覇権。

古田: はい。地域覇権を日本も確立しようとしたのに、それでぶつかってしまった。

西尾: なるほど。これはアメリカが南北アメリカ、ヨーロッパはアフリカ、ユーラシア、日本はインド・中国を含むアジアの覇権と。

古田: はっきり言えばそうです。

西尾: これは日本のある外務次官が主張しましたが、一種のモンロー主義だから、文句言うなということですね。日本が中国やアジアの諸国をコントロールすることを欧米は文句言うなと。それが失敗したわけです。

古田: はい。僕は地域覇権がぶつかったという意味で戦争を捉えています。それで、アメリカ兵を結局三万殺して、日本は民間人合わせて三百万人殺されます。要するに、百倍のしっぺ返しを食うわけですけども、随分、一所懸命、立派に戦ったと思うんです。アメリカ人を三万人も殺せないですよ。大したもんだなと、私は思ってるんです。ただ、地域覇権は失敗したということです。

富岡: だから、結局、今、西尾先生がおっしゃった大東亜戦争っていうものを、我々を含めた戦後世代が、保守も左派も、大東亜戦争とは何であったかっていうことを、文明史とか近代論とか、さまざまな問題から徹底的に検証できていないからだと思います。今年はパールハーバーから・・・

西村: 日米開戦七十周年なんです。

富岡: そうですよね。本来、それを、今、やらなければいけないし、それが全ての戦後の問題点の解決に繋がります。あの戦争を「総括」っていう言葉はよくないな。何かちょっと考えますが・・・

古田: 北朝鮮では「総和」と言います(笑)。

富岡: あの戦争を思想論的に日本人が当時の世界史の状況も含めて、今、おっしゃったような問題、地域覇権の問題を含めて、ほとんど思考をしてなかったということが問題だと思います。平成十八年(二〇〇六)に、朝日新聞だったと思うんですが、極東軍事裁判の内容を知ってるかというアンケートをしたときに、約六割以上、七割近い人が東京裁判の内実を知らないと答えた。二十代に至っては九〇%が東京裁判がどういうものかを全く知らない。戦争の結果、東京裁判があって、日本がどうなったかということすらも、知識としても知らない。だから、そういう状態の中で今の論点を一般の人が理解するのはかなり不可能ではないかという気がします。

西尾: 僕は東京裁判にこだわる保守派にも疑問なんです。東京裁判は間違いですと、それで問題にしなければいいわけです。だって、もう一回、裁判をひっくり返すことはあり得ないんだから。だとしたら、これは絶対に間違いだということを言えばそれでいいんです。国内的にそれを処理すればいいので、「東京裁判史観からの解放」とか言い過ぎることは、それに囚われているということで、結局、みんな反省なんです。自己反省に返っていく。

古田: おっしゃる通りだと思います。若い世代としてはね・・・。私、若い世代なんです(笑)。けれども、やはり戦後の左派のやったことの方がもっと大きいと思います。というのも、東京裁判史観に多くを引きずっていって、そして、日本の文化とかをみんなダメダメとはんこを押していったわけです。ダメ!日本人ばか、とずっとやっていって、それは丸山真男を読んだって、加藤周一を読んだってみんなそうです。加藤周一なんか、日本に碌な文化はないって言ってる(笑)。

西尾: 今や渡部昇一までそういうことを言うんだから。

古田: 丸山真男などは日本人には権利意識が芽生えない。なぜなら自然権という思想がないからだ、だから、いっそのこと各戸に一丁ずつ鉄砲を持たしちゃえと小冊子に書いてる。こういう、「日本の文化ダメ、日本人バカ」というのはずっと続いてきて・・

西尾: 今、半藤一利などはみんなその流れです。それから、保阪正康、加藤陽子、秦郁彦・・・。みんなそうです。福田和也もそう。

古田: 日本はダメということを、まるでインテリの証しのように言うと、若い世代が乗ってくるんですね。

つづく

特別座談会 日本復活の条件(1)の(一)

ジャパニズム02 ジャパニズム02
(2011/06/25)
安倍晋三、青山繁晴 他

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JAPANISM 02より 
   
 まず戦争の問題から歴史を考えよう

東日本大震災が戦後日本の敗戦なら、日本の再生は可能なのか?
あえて知の領域から挑む、思想的、文明論的アプローチ。
大震災前に収録した、危機の本質を歴史的文脈から解き明かすドキュメントを、
震災後四カ月を控えて断続連載として掲載。

西尾幹二+古田博司+富岡幸一郎+西村幸祐

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歴史の解釈が第一条件

西村: 日本を取り巻く環境と現在のわが国の中で起こっている様々な事象を考えると、相当危ない所に来ているのではないかと思います。もちろん、悲観論をことさら煽ってよしとするのが私たちの立場でないことを最初に明確にしておきたいのです。というのも、最近は短絡的反応をする読者の方もいて、ちょっと本質的なことに言及するとすぐ「悲観論」だとか、果ては「陰謀論」とか平気で言い出す人もいる。何でもデジタル的に+か-かでしか判断できない傾向の表れだと思います。そんなことでは考えることさえ不可能になってしまうからです。
 
 もちろん、日本には今でも素晴らしい可能性がたくさんあり、過去のそういう資産に支えれて日本人の生活があります。そんなことは百も承知で、私たちには素晴らしい歴史や伝統、それに技術、ソフトパワー、人材、知的資産に溢れていると言っても過言ではありません。でも、にもかかわらず、日本は危機的な状況だと言わざるを得ません。
 
 それは日本の政治状況がひたすら退嬰的になっていて、デフレで苦しむ経済も一向に解決しない。おまけに世界の動きに全く対応できないで、アジアの中ですら支那や南北朝鮮の攻勢の前で何もできないで手をこまねいているだけです。尖閣諸島や竹島問題、拉致問題などは、その一つの表れにしか過ぎません。だから、これを日本の危機と言わずして何というのか。この危機の淵から、日本はどうやって復活できるのか、というのが今回のテーマです。
 
 具体的には日米関係をどうするのか。アメリカを基軸にした日本の外交の見直し。ヨーロッパとの関係を見直すべきではないのか、などなど色々出てきます。そんなところから考えてみたいと思ってるんですけども。あとは、個々の例として、日本のオリジナルというか、日本のアイデンティティーをどこで、どう発揮していくのか? どこに求めていくのか。結局それがはっきりしないと、このままポストモダン状況の中でどんどん日本が埋もれていってしまう。そんな気がするんです。

西尾: 僕は最近、いつも同じテーマなんだけど、戦争の問題ですよ。

西村: 戦争ですか?

西尾: 先の大戦をどう解釈するかということができないからおかしなことになるんで、初っぱなに申し上げれば、二〇〇一年九月十一日の同時多発テロが改めて認識すべき重大な問題だと思ってるんですが、風化しちゃってね、アメリカの行動の虚妄が拡大されたために、知識人にとって、あるいは日本人にとってどう考えるかっていうことも終わったように思っています。あのとき一斉に上がった声は、私は忘れもしないんだけど、保守の多くの人々があの事件に日本の真珠湾攻撃と、ひいては特攻隊を重ね合わせて議論したんですよ。みんな忘れちゃってるでしょう。驚くような人たちがそういうことを言ったんです。

富岡: 立花隆です。「文藝春秋」に書いた文章ですよ。

西尾: 立花隆のような人が言うなら驚かないですけど、そうじゃない、そうそうたる保守が皆そのような発想で、つまり、わが国の過去の戦争をビン・ラディンのごときテロリストと同じように認識してるという。これには、僕はびっくりしたね。

西村: 逆の意味で、筑紫哲也などもそういうふうに言ってました。

西尾: だから広範囲の認識がそうだった。アメリカから真っ先にその声が出たけど、それは違いますっていう激しい反撥の声が起こらないんだよ。

古田: 反論がなかったですよね。

西尾: 私だけだよ、「ノー!」と言ったのは。つまり、日本はあの戦争を滅茶苦茶なテロリストのように戦ったのでは全くなく、近代国家の重装備の、ほとんど諸外国と何の遜色もない強大な組織と政治力と軍事力を以て四年間戦ったわけです。飛べない飛行機を作ったわけでもなければ、政治思想においてもマルクス主義の洗礼は受け、ほぼ同時にゾルゲのごときスパイに翻弄されることもあり、アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連、それらの国と対等以上の強大な意志力を以て戦った。ビン・ラディンのごとき半端ものでは全くなかった。
 
 しかし、大東亜戦争をイスラム革命とか反近代とか、西洋近代合理主義に対決するアジアの反抗とか、そんな解釈から、ビン・ラディンを出した人がいた。でも、それは全く間違いです。まともな人でもビン・ラディンと西郷隆盛と一緒に挙げたりね。
 
 つまり、何が問題かっていうと、自分たちの過去の実像が見えてないっていうことなんです。もっと分かりやすく言うと、わが国が戦争した場合に、どういうわけかみんなが内向きのことばかり言って、自分たちがいかに失敗したか。前はいかに犯罪を犯したかだったんだけど、最近は犯罪がなくなって、その代わり、いかに愚かだったかと。

西村: 失敗の話ばかりになってきましたね。

西尾: その話ばかりになって、昭和史と称して、その内側でそれを延々と論ずるということで。もっとびっくりしたのは、渡部昇一さんがこういうことを言ってるんですよね、ずっと一貫して。渡部昇一さんのワックから出てる昭和史で、昭和史の柱をたった一本でずっと書いてる。その中心のテーマが統帥権の失敗と暴走なんです。でもそれは、昭和史の伏線の一本にすぎないので、それだけで日本はリーダーなき迷走をしたと。そして、日本には主体がなかったと。これはどっかで聞いた話なんです。

富岡: 丸山真男ですね(笑)。

西尾: そう。保守の真ん中に丸山真男が突然として出てくる。その渡部さんの本は最後には、日本の迷走を食いとめたのは広島、長崎の原爆であったと書いてある(笑)。なぜ、そういうことが起こるかっていうと、パースペクティブを間違えてるんです。内側ばっかり見てるんです。自分の国のことばっかり。世界が日本をどうしたのかっていうことを考えないんですよ。今でもそうでしょう。

西村: NHKが今年になってその路線をやり始めている。

西尾: あの戦争を回顧するとき考えなくてはいけないのは、アメリカが日本を籠絡し、攻略することは作戦・策定の中に早くからあったということです。どうじたばたしても、日本は宿命として米国と戦わざるを得なかったので、最終的には武力とか科学の力に優れていた方が強かったというだけの話です。日本も同じように強い武力と強い科学の力を持っていて、近代が近代と衝突したのであって、前近代が近代に反抗して敗れたって話では全くないんですよ。

 アメリカの第二次大戦の仮想敵は決してドイツではないですよ。日本だったんですから。それから、アメリカの戦争の動機は満州を獲るという経済的乱暴に他ならなかったんで、ナチスを倒す英米の戦いは西洋における内戦ですが、日本に対する欧米の戦いは西洋の内戦ではないから戦う根拠も何もない。理由もないんです。

つづく