「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」を拝聴して(一)

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(当日の手書き資料、西尾メモ)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
NPO法人 日本易学研究指導協会理事長。坦々塾会員

 3月6日(土)の坦々塾に出られなかった私に、西尾先生のご講義(音声記録)を聴く機会を与えてくださいました。「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」という題には大いに惹かれ、予告に「日本列島は半鎖国をしながら深呼吸をしてきた」とありましたから、『江戸のダイナミズム』に通じる先生の“眺め方”に興味は尽きません。期待どおりじっくりと先生の文明史的な日本観をうかがうことができました。

 以下は、私自身がご講義のここが急所だと感じて書き留めたメモと先生にご送付した自由感想文です。先生が語り、刺激されたら自分の考えを走り書きするといった断片で、起承転結は欠いています。

 現実に起こっている物事の底面にふれ、虚と実、本流と支流を教えて下さる先生の仕事にハッとさせられますが、それとは異なる仕事、目前の対象からすっと離れて眺めた後、文明や民族を思惟される世界に静かな興奮が沸いてきます。

 一時間二十分、漏らさず拝聴しました。日本民族は童心が過ぎるのでしょうか。それとも単細胞で運命の舟にまかせて、小さな田園と山村で四季を生きることが何より好きなのでしょうか。外界に接触し緊張するときは過呼吸に陥り、生命も簡単に捨てますが、本来は「できるなら放っておいてほしい」という内向きの世界遮断を感じます。「沈黙とためらい」を楽しく思考致しました。
 
 私が思った先生のご講義の急所

1.「礼」は政治そのもの
  新年の「恭賀の儀」というもの。それは単なる豪華絢爛なお祝いごとではなかった。国家意志の表現であった。「礼」は「政治」そのものであり「政治」が「礼」であった。こういう捉え方があるのかと驚く。内外の賓を迎え、文武百官、律令官人といった群臣が朝庭を埋めつくして色の波となる。唐における朝賀も荘厳だが、平安宮大内裏の元旦も引けをとらない。「礼の張り合いをしていた」という先生の説明がすっと入ってくる。

2.苦難を経たのちの頂上の安定期
  権力と権威を集中していたのは天武天皇。7世紀後期に「潜龍体元存雷応期の徳を以ち給ふ」と仰ぎ見られた帝。古事記を阿礼に口授した人皇天四十代天皇であり、四世紀以降の対外緊張と進出を経て、壬申の乱を戦い抜き、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を確立している。苦難を乗り越えて迎えた“頂上”の御代。先生の説明にあったように帝室のターニングポイントに当たる。「大王(おおきみ)は神にしませば」の歌は天武天皇を讃えたものとされる。偉大な天皇を仰いだ幸福な時代。

3.「国際社会」の喪失
  天武天皇以降、この対外緊張感は希薄になってくる。唐の崩壊は決定的で、大がかりな元旦儀礼は完全になくなる。ふつう、彼我の緊張がなくなれば周囲を気にせずに元旦から大宴会を開いて楽しむのでは、と考えるのはあさはかな現代人の頭か。やはり先生のいわれる「礼」は「政治」そのものということになる。国際社会に生きているという感覚の喪失がはじまる。

4.沈黙とためらい
  西洋が近づいてくるのが15世紀から16世紀。近づいてきたから開く、積極交渉に出るというものではないので先生のいう「沈黙とためらい」が続いていくことになる。対外関係・対外意識というものが、こちら側を変える。(こういう認識が今に至るまでわが国の歴史家には乏しい)。

5.皇位継承は苦肉の策の連続
  天皇はどうして続いてきたか。「偶然」と「必然」の両方を認めなければならない。万策尽きた後の一策。女性天皇もその一つである。その恃みとする最後の一策がまたつけ込まれる。例外的継承の失敗(道鏡事件)を学んで、「幼帝」という一策を立てる。柔軟構造にする。さらに(天皇が)世を乱すということがあっても出家すればセーフという収め方まで認める。泣き叫ぶ赤ちゃんにお菓子(干し柿など)を与えての「即位の礼」のお話を初めてうかがう。これほどの綱渡りなのか。とても意味深く興味深い。

文責:伊藤 悠可

つづく

第17回坦々塾勉強会講演要旨(五)

平成22年3月6日(土) 第17回坦々塾勉強会 報告文

講師 西尾幹二先生
演題 「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」
浅野正美文責

 講義の冒頭、続漢書に描写されている九世紀唐の元会儀礼(新年元旦の宮中儀礼)の部分が西尾先生によって読み上げられた。続けて「日本古代朝政の研究」(井上亘著)から、我が国の同様の祭祀である、平安宮大内裏における元旦儀礼について書かれた部分が朗読された。当時の日本は中国に対抗して礼の競争をしていた。政治は形式化し、律令国家にあっては形式が政治そのものであった。礼は政治であるとともに戦いでもあり、諸国から使者を宴に招待する国家意思の表明であった。この時代の両国政治が、パノラマ化、劇場化していたことを表している。

 この時代の古代日本と東アジアを振り返ると、4世紀に朝鮮出兵しミナマに日本府が置かれる。百済と新羅を助けて高句麗と戦った。5世紀、倭の王が宋に使者を送り、世紀を通じてこれは10回におよぶ完全な朝貢国であった。6世紀589年、隋の統一がなり、7世紀大化の改新が成り、白村江の戦いでは唐・新羅連合軍に敗れ国内に大きな衝撃が走る。唐の攻撃を避けるために、都を近江に移すなど、国際社会との張り合いが必要な時代であった。

 天武天皇は中国皇帝にもっとも近い権力を掌握し、その存在は神そのものであった。壬申の乱を制して即位すると、中央豪族の政治干渉を廃し、大臣も置かず専制君主制を確立した。こうして唐に倣った立派な儀式を行う体制が整ったが、それは東アジアに我が国の国家意思を表明し、大国を標榜するためにも不可欠な行為であった。当時の日本は紛れもなく国際社会の一員であった。にもかかわらず、やがてこうした国家権力を目に見える形で表現する必要性を失っていく。

 894年、遣唐使を廃止、907年唐が崩壊する。これは東アジア社会にとって劇的な出来事であった。これ以降国家間の緊張を失い、大国たる威儀を誇る必要がなくなっていく。

 10世紀前半、我が国は事実上の半鎖国状態となり、王権は小さな世界に変化し、中国文明からも離脱する。これは中国文明からの離脱であり中国を中心とする東アジア世界を不要とする流れであった。これ以降、我が国は深く静かに国風文化を熟成させていくという見方もできるが、それは、この間の我が国が国家の体をなしていなかったということでもある。

 平安から明治維新にいたる10世紀前半から19世紀は、国際社会のない列島文化であった。日本の歴史、文化を考える上でこのことは非常に大きな意味を持っている。元寇、秀吉の朝鮮出兵も、国際社会がないゆえの事件ということもできるのではないか。国家間の緊張と軋轢のない、また必要としない時代であった。

 我が国の歴史において、平安末期から応仁の乱にいたる時間は、歴史のブラックホールであった。天皇家は武家と手をつなぎ、宗教的権威となっていった。

 我が国は大化の改新と明治維新において、外国から文明の原理を輸入した。古代中国と近代西洋はこの国を大きく揺さぶった。

 日本語には千年に近い沈黙の歴史があった。漢字が入ってきてから、それを受容するまで800年の時間を要している。これは我が国が無知蒙昧だったせいではない。新しく入ってくるものに対するためらいと、ひそかな抵抗がそうさせた。15世紀末から16世紀には西洋と触れ合うが、19世紀までためらい続け簡単には近づけなかった。長い沈黙とためらい、それが列島の文化であった。半鎖国状態のままに深呼吸している文明であった。二つの文化原理の輸入によって革命的な変動が起こったが、長い時間をかけて違うものに変えてしまった。

 こうした歴史を経験しながらも、天皇家という歴史の連続性だけはつながっている。なぜ天皇家は生き延びたのか。

 道鏡危機のとき女帝の危うさが刻印された。それ以降幼帝が即位するということが起きた。皇統断絶の危機に対しては、女帝よりも幼帝を立てた。幼帝が即位すると摂政の家柄が必要となり、後の藤原家の台頭を招く。幼帝が大嘗祭をお勤めになる際には、摂政が抱きかかえて殿中を回り、むずかるときには当時のお菓子であった干し柿をしゃぶらせたという記録がある。これはとりも直さず天皇が権力から離れて宗教的権威になっていったことをあらわしている。なぜ、そんなことが可能であったのか。

 武家と天皇家は持ちつ持たれつの関係にあった。この時代の権力構造を見ると天皇、武家、寺社、公家という四つの勢力があり、武家の権力だけでは国は治まらなかった。幼帝が成り立つということは権威と権力が分離していることを表す。国際社会の中で、東アジアの嵐の中で張り合っていた儀礼は国の威信をかけた戦争であった。唐が崩壊した10世紀以降、その必要がなくなった。幼帝の存在、権・権分離という二重構造が許されたのは、鎖国に関係があるのではないだろうか。

 西洋も大陸も戦乱につぐ戦乱の歴史であった。それは強力な国王が国家を統一し、強力な国王と国王が戦うものである。戦争に敗北するということは王権の消滅であるとともに、民族の消滅でもあった。仮に我が国がこうした国際社会の争いに巻き込まれていれば、幼帝を戴いて戦うことはできず、武家から王を出さざるを得なかっただろう。ところが我が国は鎖国状態にあったために、外国との戦争には巻き込まれなかった。国内では激しい内戦が続いたが、天皇家はそうした争いの外にあって、信仰と権威によって武家に対して官位を授けていた。武家はこの官位を後ろ盾に戦を戦った。天皇家に対する信仰、鎖国という必然があったために天皇家は残ったのであろう。

 また、足利義満による皇統簒奪の企みもあったが、彼が若くして病死するという偶然にも恵まれた。このように天皇家が残った所以には偶然と必然があったにせよ、この間わが国が半鎖国状態にあったということが何よりも幸いした。国際社会の軋轢に巻き込まれていれば、強い国王の下で外国の軍隊と戦わなければならなかったであろう。常に強い天皇が即位しているとは限らず、その場合武家の棟梁が王位について戦争をした可能性もある。 
 
 天壌無窮の神勅、天照大神から天孫降臨の御子孫としての天皇の御位を繋ぎたもうた、という日本人の神話への信仰へのためらいは、すでに大正、昭和の知識人も持っていた。戦後の歴史思想と同じ思想が、すでに戦前に出ていた。明治国家は支配の正統の根拠を、古代日本神話に置いた硬直史観で押し通した。戦前の日本は西洋思想との葛藤にあった。合理主義、開明主義、科学主義に基づく神話解釈はそうした明治国家の崩壊を意味する。神話に根拠をおいた歴史観に基づいて「国体の本義」は書かれたが、昭和になると国民が忠誠を尽くすに値する道徳観、倫理観を高める意識を強めない限り戦争は戦えないという考えの下、国体に関する激しい論争が沸き起こった。

 今日の講義は序論である。次回以降この国体論の出現を巡る論及を深めていきたい。

文責:浅野正美

第17回坦々塾勉強会講演要旨(四)

「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」  (2)粕谷哲夫

 60万人の日本将兵を不法に拘束しシベリアの移送し、捕虜として自由を奪い過酷な強制労働を課し、さらに参謀、憲兵、通訳などは国際ブルジョワジー援助の罪など戦時刑事犯人に仕立て20~25年の重刑を課し囚人とした、シベリア抑留という大罪は、スターリンないしはスターリニズムの責任である。これは議論の余地はない。

 事実、スターリンの死によって、遅ればせながら抑留者は日本に帰還している。また、スターリンはソ連共産党にとって正式に否定されたし、赤の広場から遺骸も撤去されている。ゴルバチョフは、シベリア抑留を遺憾とし、エリツインは謝罪している。さらにペレストロイカ以後の情報公開で、シベリア抑留の悪夢の内情が、ソ連側資料で、徐々に知られるようになってきた。いかに弁護しようともシベリア抑留にソ連にいささかの正当性はない。むしろこのことは、この事件に心得のある日本人より、ロシア人自身が認めているところである。

 問題は、このような残虐非道、暴虐のスターリンと共産主義を賛美、崇拝したインテリ階層がいかに多かったかである。同調、理解する幅広い支持者が、日本の知識社会を支配したということである。スターリンの大粛清は、細部はともかく、子供の私でもある程度匂いは嗅いでいたし、共産主義とスターリンに心酔してソ連に行っていた日本共産党員すらも多数、スターリンの毒牙の犠牲となった。そんな事実は 当時の共産党員なら誰でも知っていたはずである。

アンドレ・ジイド 『ソヴィエト紀行』から

 アンドレ・ジイドは、1936年にソ連訪問した。僚友ゴーリキイの病篤しという報に接して、モスクワにジイドが到着した翌日ゴーリキイの生涯は終った。ジイドは「赤い広場」での葬儀に出席する。その後、二ヶ月間、ソ連各地を訪問し、観察を記録したのが、『ソヴィエト紀行』である。

 ジイドが書いた、革命後のソ連の実情の描写は、国内外に異常な反響を呼んだ。当時世界の知識社会をほぼ席巻していた、革命礼讃の政治家、学者、文化人、ジャーナリストの、あるものを当惑させ、あるものを震撼させた。そしてあるものは激しいジイドに批判の矢を向けた。

 『ソヴィエト紀行』を読むと、ジイドは決してソ連で行われている諸悪や誤謬を暴露するために行ったのではない。ジイド自身、ロシア革命が人類のユートピアに至るファイナルアンサーであると心から信じており、その成功をこころから祈っていたのである。今流にいえば、共産主義革命にコミットしていたのである。

 ジイド自身の言葉をいくつか引用しよう。

ソ連は一つの「人類の模範」であり、「先導者」であり、われわれのユートピアが現実のものになりつつある国がであった。

 「われわれのユートピアが現実のものとなりつつある国」としてソ連に憧れていた。ジイドにとって、彼らの大きな成功は、われわれの心の中にさらに多くの要求を注いだのである。

 

すでに最も難事とされていたことが成就していた。そして我々は、すべての悩める民衆の名においてソビエットとともに契った誓約の真っただ中に隠然として突き進んでいったのである。

 アンドレ・ジイドはロシア的なものをこよなく愛し、ロシアの文士たちと友好を温め、ロシア革命に大きな夢を膨らませていた。ところが、実際にソビエットに来てみるとどうも様子が違う。その違う様子を少し長いが、そのまま引用する。

あふれるような人間愛、少なくとも正義を欲する烈しい欲求が、人々の心を満たしてくれればと、そのことを私たちはどんなに希ったであろう。が、一度革命が成就し、勝利を得、さらに革命の業が固定してから、そうしたものが問題にならなくなった。そうした革命の先駆者たちの心を動かしはげましていた感情は、次第に五月蠅くなり、厄介者となってしまった。あたかも最早役に立たなくなったもののように。

(中略)

今日ソビエットで要求されるものは、すべてを受諾する精神であり、順応主義 (コンフォルミズム) である。そして人々に要求されているものは、ソビエットでなされているすべてのものに対する賛同である。のみならず、為政者たちが獲得しようとして努めているものは、この賛同が諦めによって得られた受動的なものではなく、自発的で真摯なものであり、さらにそれが熱狂的なもののように望まれているのである。そして、何よりも脅威に値することは、この要求が達せられていることである。

また他方、ほんのわずかな抗議や批判さへも最悪の懲罰を受けているし、それに、すぐに窒息させられているのである。

私は思う。今日いかなる国においても、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間がこのようにまで圧迫され、恐怖におびえて、従属させられている国があるだろうか。

 スターリンおよびスターリニズムの人権侵害、人民抑圧は、悪名高きヒットラーのそれをしのぐ!とすら言っているのである。当時とすれば驚くべき発言であると見なければなるまい。

 ジイドは、万が一にもその共産主義の理想が幻想に終わるとすれば、それにコミットした自分たちの責任はきわめて大きい。しかし、ロシア革命の希望まだ捨てない。

 ソ連の現実に完全に絶望して、フランスに帰国したのなら、ジイドはこの『ソビエット旅行記』など書くことなく沈黙を守ったであろうとすら言う。希望があるから、ソ連に誤謬を改めてほしいという、祈るような気持ちで期待をつないだのである。

 この辺の事情は、訳者の小松清の、ジイドは誠実な人で、黒いものを白いということは言えない誠実な人である。いまのスターリンの誤りは誤りとして、いずれ改善するだろう。自分もジイドのようにロシア革命の完全成功を祈っている・…というホンネを披歴している。

 ロシア革命の完全成功とそこからのユートピア実現を祈った、フランス文学者はじめ、われわれの青春時代の文学全集に名を連ねる学者や知識人に共通のものであろう。桑原武夫などその最たるものである。それは後述する。

 ジイドの観察した内容は、ソ連時代のロシアから北朝鮮他共産国に、そのまま残り続けた。ジイド批判を得意げに書いた、宮本百合子はそれのンの崩壊をどう弁明するのか? シベリア抑留も彼らの信じたものの、典型的な被害例である。

ジョージ・オーウエル 『動物農園』の序文

 スターリンとスターリニズムの内情に警告を発したもう一人のジョージ・オーウエルを見てこう。

 彼が 『動物農園』の序文で述べた文章は、ジイドから遅れること約十年、1945年ごろのイギリスの、知的空間を支配していた共産主義幻想を的確に描写したものである。そのようなものは早晩、消滅するであろうと、鋭いメスを入れて渓谷としている。オーウエルはジイドのように共産主義への期待も希望も抱くことはまったくない。

Orwell’s Preface to Animal Farm の要点

 1945年、無批判なソ連賛美は、イギリス国民の常識になっている。
 ほとんどの国民はこの「常識」に基づいて、行動している。
 ソ連邦批判の文章や、ソ連の嫌がる真実の暴露本は、印刷してもらえない。
 ソ連批判は許されないのに、英国を批判するのは当たり前のこととして、自由なのである。
 このソ連に対する寛大さは、決して圧力団体によって強制されたものでなく、イギリス人の内発的なものである。
 1941年以来、イギリスの知識人が、無批判にソ連の政治宣伝受け入れるという、卑屈な態度は驚くばかりでありだ。
 現在のイギリスのソ連崇拝熱は、西欧自由主義の伝統が全般的に衰弱したことの一つの現れである。
 ソ連への無批判の忠誠こそが正しく、ソ連の利益になる事なら検閲はおろか、故意の歴史の歪曲も大目に見るしまつである。
 このような態度は、ロシア礼讃以上に重大なことである。
 ロシア礼讃の流行は長くは続くまい。
 おそらく動物農園が出版される頃には、私の見方は、広く社会に認められるのではないか。
 400年間のわれわれの文明は、思想と言論の自由のない体制を認めない。われわれの文明はこの考えの上に築かれたものである。
 わたしは、ソ連の体制は基本的に「悪」であると、この10年間信じてきた。
 たとえ戦争でソ連が同盟国であっても、わたしのこの信念は変わらない。
 ミルトンかいみじくも言った「古くからの自由の よく知られた 習わしによって」のように。「古くからの」を強調するのは、知的自由が深く伝統に根ざすものであるからである。これが否定されれば、西欧文明は存在さえ危うい。
 イギリスには、あれだけ雄弁な平和主義・非戦論者がいながら、ソ連の軍国主義賛美に対して抗議の声は聞かれない。
 イギリスの戦争は大罪であるが、ソ連には自衛権があるからソ連の戦争は問題ないと考えているらしい。そのような考えは、イギリスよりソビエット社会主義共和国連邦のほうに愛国心を抱いている大多数の知識人、その彼らの臆病な欲望のもたらすものである。
 イギリスの知識人が、かくも臆病で不正実を自己正当化する理由は、(よく聞くので)私の口からも簡単に言える。だが、そういう口実を言うのなら、少なくともナチのファシズムに対して自由を護るというなどというナンセンスは止めようではないか。
 いやしくも自由というものに意味があるとすれば、それは相手が聞きたがらないことをあえて相手に言う権利だからなのである。
 一般国民は、知識人とは違って、いまでも、漠然とではあるが、そのような考えで、行動しているのである。
 自由を恐れているのは自由主義者たちであり、知性にドロを塗りたがるのは、知識人自身である。というのがわが国の状況である。
 私がこの序文を書いたのは、このことをイギリス国民に注目してもらいたいからである。

 この文章の「1945年のイギリス」を「2010年の日本」に置き換え、「ソ連」の代わりに「◎◎」を入れ替えても、そのまま通用する。

 20世紀の歴史は、ジイドのソ連観察もオーウエルのソ連批判もまことに正しかったことを証明されている。この事実を受け入れたくない人は、想像よりはるかに多く、この歴史に目をつむって死んでいった著名人の1945年当時の考えで書かれた「名著」の多くは、現在でも聖書として、学界、思想界には脈々と生きている。共産主義の本山ではすでに廃棄されたカビだらけの思想も・・・・。

 ジイドもオーウエルの観察、警告はシベリア抑留と無関係ではない。それどころか、シベリア抑留の90%以上同じ文脈の中にある。

第17回坦々塾勉強会講演要旨(三)

 去る6月5日に第18回坦々塾が開かれたのに、いろいろな事情でいまだに第17回(3月6日)の坦々塾勉強会の報告が遅れがちに行われているのをお詫びしなければならない。

(1) 佐藤松男氏 福田恆存の思想と私
(2) 粕谷哲夫氏 ナホトカ日本人墓地墓参の余韻
         ――抑留の思想戦と知識人の妄言
(3) 西尾幹二 「鎖国」の流れと「国体」論の出現

 以上三つが報告された。(1)と(2)は各講演者のご自身による要約文が提出され、すでに(1)はここのブログに掲示され、修了した。今日から(2)が掲載される。

 (3)は浅野正美氏が上手にまとめて下さったもので、粕谷さんの掲載が終ったら、それにつづけて提出するようにしたい。

 第17回の報告についてはもうすこし時間をいたゞきたい。

「ナホトカ日本人墓地墓参の余韻-抑留の思想戦と知識人の妄言」  (1)

粕谷哲夫

 昨年(平成21年)8月、宮崎正弘さん、高山正之さん、鵜野幸一郎さんと極東ロシア(ウラジオストック、ナホトカ)の旅をした。 その余韻はなかなか消えないどころか、ますます膨れる。

■ナホトカの哀愁

 極東ロシア、沿岸部の中心はウラジオストックである。ウラジオはソ連の極東艦隊の基地で長く外国人の立ち入りは禁止されていた。その時期には、ナホトカは極東ロシアの入口として、そして商港として重要な役割を果たしていた。日本からの旅行者はナホトカのお世話になった。

 東西冷戦の終結で、1992年にウラジオストクが対外開放されると、ロシアの極東地域への投資や開発は、ウラジオストック地域に集中して行われるようになった。極東ロシアの最大のイベントAPEC2012もウラジオストックの先端にあるルースキー島で行われる。

 韓国の現代グループのやっているウラジオストックの<ホテル現代>はまずまずの賑いを見せていたが、ナホトカの<遠東大飯店(ユンドァン)>は、建物は立派で、ナホトカ港を一望する素晴らしい立地にもかかわらず、泊り客はほぼゼロで、営業しているのかいないのかもわからない。

 いまのナホトカにはほとんど見るべきものはほとんどない。うら寂しさだけが残されている。

 ナホトカは狭い町で展望台に登ると港湾全体が見下ろせる。港には、材木輸出船が接岸していた。ナホトカはこの湾を囲む約15kmの湾岸道路が走り、そこから内陸に向かう道路に沿って住宅が展開する構造である。

 湾岸道路から丘側にゴルヤナ通りを登っていくとナホトカの日本人墓地があるはずである。ガイドはこの辺に間違いないというが、墓地はなかなか確認できない。

 在ウラジオストック日本領事館のHPによると、ナホトカの日本人墓地について、「ナホトカ市の日本人墓地(同市ナゴルナヤ通り)では、2004年6月から8月まで4回に亘り厚生労働省が同地にて遺骨収集作業を実施し、524柱が収集された。2004年8月、谷畑厚生労働副大臣(当時)がナホトカ市を訪問し、厚生労働省による遺骨収集作業現場等を視察した。区画内には日本国政府により石碑が建立されている」とある。

 遺骨はすでに3年前に収拾を終わっていたためか、墓地は草ぼうぼうのまま放置され、しかもせっかく建てた石碑も台座も荒らされ、チェーンは切られ、信じられない荒廃ぶりだった。廃墟のようであった。これは一同にとって、大変なショックだった。このショックは長く尾を引いた。

 ナホトカは、シベリアに抑留されていた60数万人の日本将兵が日本へダモイ(帰還)する最終関門である。すべての生存者はここに集められた。ここから舞鶴に帰還した。ナホトカにきてもなお帰国の保証はないが、ナホトカに来られなければ、帰国は絶望的である。ナホトカはいわばダモイという漏斗の先端のような港である。

 岡崎渓子氏の 『シベリア決死行』 にはこうある。「・・・日本人捕虜たちが憧れ続けて果たせなかった夢、『ナホトカから船で日本に帰る!』。ナホトカは凍土に踏み込んだ日本人全員の希望の地であった。あのネーベルスカヤラ、ノボチェンカの墓場もなく草むらに無念の思いで眠る日本人の霊たちに私は約束したのだ。「私について来て! 必ずナホトカに行き、日本海を見せてあげる」と。死霊が相手でも約束は必ず守る・・・」。

 彼らにとってナホトカは、地獄の出口にして天国への入口であった。ナホトカは世界中で最も重要な港であり、もっとも重要な地名なのである。シベリア抑留記を読めば読むほど、単なるナホトカではない。ナホトカの意味は膨らんで哀愁は強まるばかりである。

 ナホトカの最終帰国審査で病気とされた兵士は強制的に入院させられる。ナホトカ日本人墓地はその病院で亡くなった兵士たちの墓地である。百里の道を九十九里まで来てあと一里が足りずに帰国が果たせなかった者たちの痛恨の墓である。目前に日本海を見ながら、船に乗れなかった無念の兵士たちの墓である。

■丸山国武氏のナホトカ590病院の追想

 そういう地獄を生き抜いて日本に帰ることが出来た、丸山国武という、大正15年生まれの小学校出の当時22歳の若者のナホトカでの体験記録を偶然ネットで見つけた。ナホトカの事情をよく書いているのでエッセンスを引用する。

* ナホトカには日本人捕虜を集団帰国させるための業務を扱う四分所あり、帰国審査の第一分所から、週国体木の第四分所に移される。第四分所までくれば帰国は保証される。

* 民主化されていないと判定されれば、ここには入れず、反動としてシベリア再送になる。

* この収容所の勤務員は、いわゆる日本人積極分子(アクチーブ)でソ連の虎の威を借りる狐で、威張り散らしていた。

* ナホトカに来る直前のウオロショフの零下20度以下の作業で両手両足が凍傷にかかった。シベリアでの凍傷は手足を切断しないと助からないケースもあった。それでも日本に帰りたい一心で凍傷そのものは恐れなかった。ソ連兵の監視を逃れるために戦友と戦友の間に肩を借りながら十一文半の大型編み上げ靴をはいて各分所をごまかして通過できた。

* 第一分所、第二分所と通過して第三分所に移されたとき、ソ連憲兵の調査が入った。「凍傷患者がここに紛れ込んでいる」「そんな患者を帰国させたら米国にいい口実を与えてしまう」「早く患者を探せ」「見つからなければ全員帰国取りやめだ」と拳銃をかざしながらわめきたてた。

*自分の問題で、隊全体の帰国が遅れてはいけないと思って、「凍傷患者は自分だ」と丸山は名乗った。戦友たち全員は乗船帰国が出来た。

* 自分は第一分所に逆送され、そこで診察の結果、即刻、市内の第五九〇病院に入院させられた。病院はナホトカ港から10キロ離れた丘陵地帯のふもとにある。病院といっても建物も古く、医療施設というより収容所の一種であった。

* 戦勝国である旧ソ連は何をするか、わかったものではない。国際条約を無視して殺されることもある。

* ここで死んではならない。 「死んではならない。何としても生きて祖国の土を踏まねばならない、何とか生きよう」

* 病院は人手不足で、病人にも使役が命じられた。足が痛く作業に出されたらたまらない。両足腐敗で切断の可能性もある。軍医の診察のたびに「イタイ イタイ」と大声をあげて使役や作業は回避することができた。

* その甲斐もあって、退院できた。退院後ハラを決めて、この病院で働くことを決心する。どんなに嫌な仕事でも積極的に先頭に立った。おもに死体運搬埋葬に従事した。

* 同病院では開院以来約500人の日本人捕虜が死亡したそうだが、ほとんどが栄養失調、赤痢、下痢、肺結核などで、作業中の転落事故死体もあった。

* 墓地は、病院から2キロの丘の中腹にあり、ナホトカ港がよく見えた。海が見えれば望郷の念が募るが、戦友の供養にもなると困難な埋葬作業にがんばった。

* 墓は、死んだ同僚が安らかに眠れるように、自分が実際に横になって苦しくないか試しながら、掘っていった。

* 病院で死者が出ると、かならず解剖が行われた。午前中の墓掘りを終わって、待機している自分に埋葬指示がくる。

* 死者は丸裸のまま埋葬するが、これはソ連という国の習慣なのか、捕虜だからなのか?病院長と交渉して、旧軍隊の軍衣袴を分けてもらって着せて埋葬することが出来るようになった。遺体を担架で墓地まで運ぶ途中で、よくソ連の市民と出逢ったが、われわれが泣きながら担架を担ぐのを不思議そうに見ていた。なぜ泣くのか?と聞かれた。こちらの説明には納得いかないふうだった。「死んでしまえば強制労働から解放されるので泣くことはないではないか、なにも君たちが泣くことはないではないか」ということだった。何事もなかったように彼らは知らぬ顔で通り過ぎて行くだけだった。

* 「たとえ肉体は滅びても、魂だけは日本に飛んで帰って肉親のもとに傍に行ってください」と祈るのである。

* ソ連兵にも信頼されるようになり、港まで生活物資の受け取りに行くこともできた。監視も緩んだ。「お前は若いのでソ連の女性と結婚してはどうか」と勧められたりもした。ナホトカ港には多数の日本人捕虜が岸壁や道路で作業をしていた。

* 平和なこの病院にも民主グループの一団が乗り込んできて共産主義の学習が始まったことにも嫌気がさし、許可を得て病院船・高砂丸で帰国した。昭和23年9月11日に舞鶴に到着した。

 ナホトカの哀しさは、ウラジオストックに「繁華」を奪われただけではない。60万人のあってはならない苦しみは凝結しているからである。

 丸山国武さんが遺体を運んだという日本人墓地は、われわれが墓参に訪れた、ナホトカ港を見下ろす丘の中腹にある、ナゴルナヤ通りのもののことであろう。

 ナホトカの日本人墓地はたとえ遺骨が回収された後でも、スターリンの暴虐と日本人の受けた史上最大級の不条理な恥辱を、そしてシベリアの極限状況で起きた日本人による日本人いじめを、そして日本海の身に危険のまったくない、安全な此岸で抑留者たちを当然の報いといって冷淡な視線を浴びせた、今は亡き学者や進歩的文化人の無知と誤謬を忘れてはならないのである。

 極東ロシアの旅から帰って、ナホトカを考えることは、いつの間にかシベリア抑留を考えることと同義になってしまっていた。

(つづく)
 

日本をここまで壊したのは誰か(四)

宮崎正弘氏の書評

 最新刊の拙著『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)について、宮崎正弘さんがメルマガで次の書評を寄せて下さいました。謝して掲示させていたゞきます。

西尾幹二『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)
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 『犯人』を逐一列挙せずとも西尾ファンなら明瞭である。それにしても日本をひどく劣化させ、国家の体をなさないほどに破壊し尽くした政治家とは福田赳夫、中曽根康弘、後藤田正晴、宮沢喜一、河野洋平、小泉純一郎、鳩山由紀夫、小沢一郎ら。

 財界人は奥田トヨタ元会長にして経団連会長、御手洗富士夫前会長、小林陽太郎に北城格太郎もリストにのぼる。

 いずれもささいな目先の利益のためには北京への土下座も辞さない、こざかしい商人(あきんど)らである。かれらのうちの何人かは「商売の邪魔になるから靖国神社へ行くな」と首相に進言したりもした。
 
 平林たい子は生前に中曽根康弘を評して「鉋屑(かんなくず)より軽い」と言ったか「鉋屑ほど軽い」と言ったか。

 ただしくは「鉋屑のようにぺらぺら燃える」と言ったらしい。

 青年将校として青雲の志を抱いて政治家となり「改憲」に政治生命をかけると放言した中曽根は、やがて左翼とくんで構造改革なる日本破壊をやってのけた。
 
 ともかく中曽根大勲位は中国に巧妙に脅されるや、ある日突然、靖国神社参拝をやめた元凶であり、その権力中枢にいた後藤田は日本破壊謀略まがいの政策を実践し、外国を裨益させた極左官僚である。後藤田を『カミソリ』とかなんとか、ほめるやすっぽい評論家もいるが、いい加減にしろ、と怒鳴りたくなる。

 保守陣営がともすれば誤解しがちな、高い中曽根評価を根底からひっくりかえす著者の抜刀した白刃は、河野洋平などの雑魚はともかくとして、やはり保守陣営に人気が高い小泉政治をばっさりと切って捨てる。

 西尾氏は小泉純一郎を「狂人宰相」と比喩した。保守期待の安倍晋三への評価も低かった。

 それぞれ具体的にどこが、どうおかしいかは本書に当たっていただくにして、本欄では次の紹介をしておきたい。

 「私が小泉政権時代に一番おそれていたのは、日本人の金を積んで北朝鮮の開国に突っ走るのではないかということでした。核開発の可能性を捨てない国家に巨額援助をするのではないかということでした。彼は皇室の祭祀も『行政改革』の対象と考えていた節があり、女系天皇にも平然と道を開こうとした」、まるで「デタラメな人物でした。それが強権を発動することができた。同じことがいま、小沢を中心におこっているのです」(本書97p)。
 
 「(ながい歴史を通じて培われてきた日本人の)アイデンティティが徐々に徐々に無自覚の形で失われてきている。現在の権力喪失状態、さきほどいった砂の真ん中から穴があくような、何となく活性化しない無気力状態になった。物を考えなくなってしまった。戦おうとしなくなった。自分たちのアイデンティティを本当の意味で政治権力まで高めなければ自分たちが守れなくなる、自分を守れなくなるという自覚がなくなってきた」(226p)。
 
 したがって、現代日本は「清朝末期」のごとし、と西尾氏は比喩する。
 
 そうなった時限爆弾はいつ仕掛けられたか。それはGHQが置きみやげの焚書、占領政策の洗脳により、日本人が日本人としてのアイデンティティが徐々に徐々に喪失したのである、と分析されるのである。

第17回坦々塾勉強会講演要旨(二)

第17回坦々塾勉強会講演要旨 平成22年3月6日(土)

講師 佐藤 松男
演題「福田恆存の思想と私」
(年号はすべて昭和で記載してゐます)

Ⅲ 国家を超える価値―T.S.エリオットとの出会ひ

 55年、清水幾太郎「日本よ国家たれ 核の選択」の国家論は、個人を超えるものとしての集団を認めるが、集団を超える個人を認めない単なる戦後の個人暴走の反動でしかないと清水氏を批判。

 エリオットは1939年に「クリスト教社会の理念」の中で、国家に対する忠誠と教会に対する忠誠は、後者がいつも優位にあるとしてゐる。また、「文化の定義に対する覚書」の中で展開した教育論を補充するため、エリオットは1950年にシカゴ大学で「教育の目的」と題する連続4回の講演を行ひ、「善き国民は、必ずしも善き個人(人間)ではない。善き個人(人間)は、必ずしも善き国民ではない。」と述べてゐる。かうしたエリオットの考へを援用し、国家を超える価値を我々読者に対してなんとか解らせようと訴へかけてゐる。我々は、軍人でなくても善き国民として個人を超えるもの、すなわち国家に忠誠心を持たなければならない。善き個人(人間)として、国家を超えるものすなわち良心、歴史、自然の源泉に忠誠心を持たなければならない。善き個人は、良心に賭けて国家に反抗する自由がある。たとへその自由が認められてゐない制度の下に於いても。このことを考へるにあたつては、ソポクレスの「アンティゴネ」が我々にヒントを与へてくれる。国家を超える価値の模索は、福田先生の終生のテーマであつたが、29年の「平和論の進め方についての疑問」をきつかけとした平和論争の際にも、既に明確に主張されてゐた。「個人が国家に反抗する制度ではなく、さういふ哲学が最も必要であると思ひます。私の平和論争の発想の全てはそこにあります。」(「個人と社会」)福田恆存が世の保守主義者、現実主義者とは明確に異なる所以である。

Ⅳ 文民統制といふこと

 福田先生にとつては、日本の近代化といふ問題が物を書き始めて以来、終始、心のうちに蟠り続けてきたのであり(全集第五巻の覚書)、38年「軍の独走」等を緒として、55年の「日本よ、汝自身を知れ< 軍事政権といふこと>」に至るまで、日本近代化達成における軍の役割と戦後最大のタブーである軍事政権について、執拗に論じ続けた。以下自説を交へつつ、その骨子を紹介する。

 駐日大使ライシャワーが、明治憲法下において、軍が文民政府から独立してゐなければ、日本は実際に歩んだ道と異なる道を歩んでゐたらう、つまり満州事変も大東亜戦争も起こらず、したがつてその敗北もなかつたであらうと言つてゐたことに対し、福田先生は、軍が文民政府から独立した、所謂軍事政権でなかつたら、ヨーロッパ列強の侵略にあひ、シナのやうに半植民地化されるか、ロシア革命が飛び火し、日本は共産化されてゐたかもしれないと批判した。軍が日本の近代化に果たした役割は極めて大であり、同時にその即物的生き方と過酷な訓練のため、軍こそが日本の近代化の代表選手でもあつた。

 54年の森嶋通夫との論争に於いても、わけの解らぬ西洋からの「借り物の言葉」の最たるものとして、「文民統制」を取り上げ詳述してゐる。戦後日本は文民統制ではなく、軍排除の文民独裁であり、その証拠に安全保障会議には、首相、副総理をはじめ主要各省大臣が構成メンバーであるが、制服組のトップである統合幕僚長がメンバーから除外されてをり、首相が必要と認めた時だけ出席し、意見が述べられるにすぎない。ヨーロッパでは、大統領または首相のもとに制服組のトップである統合幕僚長は国防大臣と対等で直属してをり、閣議や国防会議に出席する権限と責任があり、時には直接大統領(首相)に意見を具申し得る。アメリカに於いては、オバマ就任翌日に安保会議が開かれたが、メンバーは国防長官、統合参謀本部議長、中央軍司令官、駐イラク司令官等、ほとんどが制服組で占められてゐる。日本に於いては、制服組が排除されてゐるだけでなく更に、防衛省には制服組に対する目付役、監視役として、警察庁・財務省などの出向官吏でほとんど占められてゐる内局が存在してゐる。

 文民の容喙が軍政だけでなく軍令まで及べば、楠木正成の故事にもあるやうに、湊川の敗北に繋がることになる。

 福田先生は孤立を怖れず、空疎な言葉と観念の氾濫する時代風潮を常に批判し続けてきた。昭和55年、その時既に論壇の主流になつてゐた浮薄な保守的論調に対しても、「同じことが言へるやうな風向きになつたからそれに唱和するといふのが、私の嫌ふ戦後の風潮である。」(「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」)と斬り捨てた。

資料 西尾先生と福田先生の対談抜粋が過去の日録で読めます。

http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=20041111

文責:佐藤松男

第17回坦々塾勉強会講演要旨(一)

 第17回坦々塾勉強会講演要旨 平成22年3月6日(土)

講師 佐藤 松男
演題「福田恆存の思想と私」
(年号はすべて昭和で記載してゐます)

Ⅰ 評論―D.H.ロレンスのアポカリプス論との出会ひ

 福田先生は「私に思想といふものがあるならば、それはこの本によつて形造られたといつてよからう。」(57年 中公版「黙示録論」訳者あとがき)と述べてをり、卒論もロレンス論であることから、先生にとつてロレンスは教祖であり、「アポカリプス論」はバイブルであつたと言つてよい。従つて、先生の考へをより深く識るためには、ロレンスの「アポカリプス論」を解剖する必要がある。
アポカリプス(新約聖書「黙示録」)は弱者の歪んだ自尊と復讐の書といはれる。世には二つのキリスト教があり、一つはイエスに中心を置くもので、互ひに愛せよと無我の同胞愛を説く愛他思想である。

 もう一つは、ヨハネの黙示録に中心を置くもので、強きものを打倒せよ、貧しきものをして栄光あらしめよとの教へであり、弱者の支配欲、権力欲等の我意(エゴイズム)である。

 権力欲は金銭やパンより人間にとつてアダム以来の根源的な欲求であり、決して消滅することはない。しかし、イエスはこのやうなエゴイズムを絶対に認めようとはしなかつた。だが、エゴイズムはいくら否定されても消滅することはないため、否定されれば地下に潜り、しかも、死に絶えることなく、大義名分といふ美名に覆はれ、地上に再び姿を現す。かうして、エゴイズムを大義名分に擦り替へる自己欺瞞が生まれることになる。

 福田先生の評論における自己欺瞞を衝く視点は、かうしたロレンスのアポカリプス論から学んだものと言へる。

 自己欺瞞の具体例と脱却について
(1) 「文学と戦争責任」(21年11月15日)
戦争を否定するイデオロギー(大義名分)と個人生活を破壊していく戦争への不平(エゴイズム)と、ぼくはぼくのうちのこの二つの要素にあくまで同席を許すまいとした(擦り替へ、混同)。

 他に、「一匹と九十九匹と」、「現代の悪魔」、「平和の理念」等で自己欺瞞の具体例を紹介

(2)福田先生は、自己欺瞞からの脱却方法として44年、「諸君」創刊号に「利己心のすすめ」を著し、「利己心に徹したらどうか、さうして初めて人は利己心だけでは生きられないといふ事実を痛切に感じるであらう。」と説いた。

Ⅱ 芸術論、人間の生き方―O・ワイルドとの出会ひ

 「芸術とは何か」の中で初めて論じた「演戯論」は「汝自身たれ」といふワイルドの言説に基づいて展開されてをり、更に、福田先生の最高傑作である「人間・この劇的なるもの」に於いても、「舞台ではハムレットがハムレット役を演じてゐるが、現実の人生では、ローゼンクランツやギルデンスターンがハムレット役を演じさせられてゐる。」とのワイルドの考へを基に、現実の人生は、ままならぬが故に、我々が欲してゐるのは、自己の自由ではなく、自己の宿命である。自分が居るべき所に居るといふ実感―宿命観とはさういふものであるとの福田人間観の集約が語られてゐる。

 「日米両国民に訴へる」に於いても、「結婚の第一の基盤は相互の誤解である。→結婚の最大の障害は理解である。」とのワイルドのエピグラムを引用し、日米関係といふ結婚においても、相手を理解したとは思はず、自己の貧弱な理解力の中に相手を閉じ込めず、相互に相手方を「敵」以上に始末に負へぬ「敵」と見做し、その実情に関する知識、情報の収集に努めなければならないとした。

 このやうに見てくると、福田恆存へのワイルドの影響は、決して小さくはない筈だが、ワイルドとの関連について言及した福田論を未だ寡聞にして知らない。

つづく

日本をここまで壊したのは誰か(三)

 「経済大国」といわなくなったことについて―――あとがきに代えて

 ここでわれわれがなすべきは何がなされたかの苦い現実を正確に知り、希望的観測などで自分をごまかさないことである。

 日本人は自分をごまかしてきた古い記憶がある。昭和20年(1945年)の敗戦の際にわが国に起こったことは米軍による「解放」ではなく「占領」であり、しかも米軍は一時的な短期の「占領軍」ではなく「征服者」であった。また日本に起こったことは、一国による「征服」であった。その後アメリカは戦争を世界各地でくりかえしたが、朝鮮戦争でも、中東戦争でも、湾岸戦争でも、日本に対してなされたような戦後の社会と政治まで支配する征服戦争は一度もなかった。ドイツに対してもなかった。ドイツに対しては連合軍の勝利であり、戦後は四カ国管理であった。

 軍事占領下の日本において戦争は終わっていなかったといっていい。大東亜戦争ではなく「太平洋戦争」という名の戦争が仕掛けられ、戦争はひきつづき継続していたのだが、誰もそのことを深く自覚しなかった。史上最も温健な占領軍という評価だった。だからそれを「進駐軍」と呼び、敗戦を考えたくないので「終戦」と言った。そして経済復興にだけ力を注ぎ、さらに反共反ソの思想戦にだけ熱心だった。後者はアメリカと手を携えての共同行動だった。それが保守とよばれた勢力の主たる関心事だった。私もその流れに棹さしていたことを否定するつもりはない。

 日本人はこのように戦後ずっと苦い現実を見ないで、希望的観測に身を委ね、自分をごまかしつづけてきた。1989年から91年の「冷戦の終結」という新しい事件を迎えても、また同じ自己韜晦をくりかえしてこなかっただろうか。それが江沢民とクリントンに仕掛けられた新しい「戦後の戦争」に再び敗れて、今日この体たらくに陥っている所以ではあるまいか。

 2009年に自民党から民主党への政権交替が行われた。鳩山内閣は沖縄の基地問題で、日米の政府間交渉の手続きも何も踏まずにいきなり変革を求めたことで、幼い不始末を天下にさらした。その愚かさは罰せられなければならないが、しかし、国内に外国軍による「征服」の証しがいつまでも存続することへの疑問にいっさい蓋をしてきた自民党にも責任がある。鳩山由紀夫氏が総理になった直後に「日米対等」を口にしたのは何の用意もない学生風の出まかせとはいえ、この小さなナショナリズムが国民をして民主党を勝たせた理由の一つでもあることに、保守側も謙虚でなければいけない。

 基地問題を旧に復し放置することはもはや許されなくなった。民主党の間違いは、沖縄の基地に何らかの変革を加えたいのなら、まずは憲法を改正し、名実ともに国軍の位置を確立し、アメリカ軍から信頼の得られる軍事力を備えることから着手すべき点である。いけないのは順序を間違えていることである。

 私はアメリカ軍を日本列島から排除したらいいなどと言っていない。それは軍事技術上からみて現実的ではないだろう。日本艦隊がアメリカ軍と共同して太平洋を管理するというような成熟した両国の関係が生まれるのが理想で、今のような一方的依存関係から徐々に脱することが目標とされるべきである。

 政治、経済、外交、軍事の四輪がほぼ同じ大きさでバランスをとってはじめて車はうまく回転し、スムーズに前進する。経済だけが大きく、経済に外交と軍事の代行役を押しつけるような「経済大国」でなくなっていくことは、むしろこれからの日本にとって幸いと見なすべきではないかと思っている。

 本書のまとめと出版に当たっては草思社の木谷東男氏からお世話いただいた。各論文を最初に掲載してくださった各雑誌の担当者とともに、諸氏に感謝申し上げたい。

2010年4月20日

西尾幹二

追記

 本書の「トヨタ・バッシング」の教訓――国家意識のない経営者は職を去れ」には、補記(65-76ページ)が加えられている。これは雑誌には書かれなかった新稿である。「アメリカ・オーストラリア・シーシェパード」とでも補記にも題をつけた方がよかったかもしれない。イルカ・鯨問題の根は深い。白人植民地主義の人種差別感情が関係している。補記は第一次世界大戦をめぐる日豪間の外交衝突と、第二次世界大戦を誘発した米豪接近の怪しい歴史を描いている。

日本をここまで壊したのは誰か(二)

「経済大国」といわなくなったことについて―――あとがきに代えて

 最近日本人は「経済大国」という言葉を気羞しくて使えなくなっているような気がする。いい傾向である。世界には「大国」と「小国」はあるが、「経済大国」などという概念は存在しない。

 あんなに貧しかった中国が経済力を外交や政治に使い始めるようになって以来、日本人はこの言葉を用いなくなった。それまで長い間、日本は経済力があるというだけでそれを国際社会の中で政治力と誤認してきた。外交も防衛も経済力に肩代わりさせてきた。しかし経済力がそのまま何もしないで政治力になるわけがない。そう錯覚する時代は終わった。それを終わらせたのも中国の台頭である。

 ずっと以前からアメリカの経済は政治力であった。経済が「牙」を持っていた。経済で戦争もしていた、と言いかえてもよい。日本の経済には牙がなかった。軍事力を使えないからカネを出す。アメリカとは逆だった。しかし貧しかったはずの中国の経済には、貧しい時代の最初から「牙」があった。中国は日本から援助を受けながら、アフリカなどに援助して、着々と政治力を育てていた。

 最近クロマグロの禁漁か否かを決める国際会議で、中国がアフリカの票をとりまとめて政治力を発揮し、日本に協力した一件は記憶に新しいが、日本も永年アフリカに援助していたはずなのにいっこうに政治力を身につけていない。

 経済で外交や防衛の肩代わりをするのではなく、経済が国家の権力意志を表現し、自己を主張して他国を支配する手段としての役割を日本は果していない。しかし経済が「牙」を持たない限り、経済それ自体もうまくいかなくなるのだ。すなわち経済が自分を維持することさえ難しくなる、そういう状態に日本は次第に追いこまれつつあるように思える。そのことにいまだ気がつかないのは、外交官や政治家だけではない、経済は経済だけで翼を広げられると思っている現代日本の能天気な企業家たちである。

 ボーダレスとかグローバリズムとか多国籍とかいって、国家意識を失っているのが今の経済人である。トヨタ事件は日本側の技術や経営の問題では決してない。トヨタの油断や新社長の失策の話でもない。アメリカという国家が発動した政治的行動である。軍事力を使わない軍事行動であった。

 これを契機に私は永年抱いていた経団連や日経連を代表する人々への疑問、彼らが政治を動かし外交を捩じ曲げてきた十年来の言動の問題点を、本書で初めて取り上げ、明らかにしようと思った。

 十年より前には、私の考える国家像と政治観は、いま挙げた経済団体の代表者の方々との間でそう大きなへだたりはなかった。それどころかむしろ財界には知友も多く、私の読者と考えられる支持者も少なくなかった。

 歴史教科書と靖国と拉致は三つの象徴的タームである。重要なキーワードとしての役割をここ十数年の日本人の政治意識の中で果している。左翼がこれに反対するのなら分かる。そうではなく財界人をはじめ保守的な階層の人々が承知で問題の所在をあえて知らない振りをするようになった。日本社会は急に変質し始めた。中国の台頭と自民党の崩壊は並行して進んだ。

 なにか新しいことが始まっている。

 本書第一部はその問題を考えた。四篇の評論は平成22年(2010年)の二月初旬から四月半ばまでの間に集中的に書かれた最新の文章である。

 なにか新しいことというのは大元に根があり、原因がある。しかも新しい事態、この変質は突き止めておかずに放置しておくと取り返しのつかない国家の衰弱につながりかねない。

 近い原因は1993年から中国とアメリカに江沢民とクリントンの反日政権が生れたことである。両政権は「経済大国」日本を解体させるというはっきりとした戦略的な攻撃を開始していたのに、日本人はぼんやりしていて、最近まで気がつかないか、あるいは今も気がついていない。そしてそのことは勿論80年代またはその以前に遡って原因があり、歴史的に考察するべき根を持っている。旧戦勝国による日本の「再敗北」、もしくは「再占領」という事態が進行しているといっていい。本書はその流れを示唆的に解明しようと心掛けた。

 日本は本来あるべき方向、国家としての自立自存とは逆の方へ向かって変化し始めている。しかもどこへ向かうのか明確な国家像もなく、茫々たる海洋を諸国に小突き廻されながらただひたすら漂流している幽霊船のようである。

 昭和43年(1968年)頃ハーマン・カーンは21世紀に日本は名実ともに世界一位の国になり、「日本の世紀」が訪れるだろうと予言した。わが国はそれに近い所まで登りつめて、そのあと腰が折れて実際にはそうならなかった。

 外からの激しい破壊工作(ボディブロウ)に、何がなされているかも気がつかずに打撃され、ぐらっぐらっと揺れて倒れかかっているのである。

つづく

日本をここまで壊したのは誰か

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 新刊が店頭に出始めましたので、ご紹介します。

日本をここまで壊したのは誰か(草思社 1680円)

   第Ⅰ部

江沢民とビル・クリントンの対日攻撃になぜ反撃しなかったのか
―――自由民主党の罪と罰

トヨタ・バッシングの教訓
―――国家意識のない経営者は職を去れ

左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり
―――EU幻想と東アジア共同体幻想

外国人地方参政権 世界全図
―――なかでもオランダとドイツの惨状

  第Ⅱ部

アメリカの「中国化」 中国の「アメリカ化」
―――日本の鏡にはならない両国の正体露呈

私の人生と思想
―――中学一年生のときの恩師との論争から

「世界で最も道義的で公明だといわれる日本民族を信じる」(フランス紙)
―――日本が「列強」の一つであった時代

日本的王権の由来と「和」と「まこと」
―――『国体の本義』(昭和12年)の光と影

日本民族の資質は迎合と諂(へつら)いにあるのか
―――シベリア抑留者のラーゲリ体験より

  第Ⅲ部

講演 GHQの思想的犯罪

「経済大国」といわなくなったことについて
―――あとがきに代えて

初出一覧