花冷えの日に(一)

 公園の桜はまだ咲きかけたばかりで、今日は一日雨模様で寒い。しばらく語っていなかった日本をとり巻く政治情勢についてゆっくり考えてみよう。

 政権交代以後わが国の外交が中国に傾いたことは民主党の既定の方針と思われているが、アメリカがそれよりも先に中国に急傾斜したことも無関係ではないと思う。アメリカが余りにも露骨に中国サイドに立った時期があった。日本をないがしろにした。そうなると日本は従来の対米従属の侭では米中両国からもてあそばれる危うい立場になる。中国に接近することでアメリカを牽制する必要があったに相違ない。

 政権交代後の日本の対中接近は不徹底で、動機も不明確だったが、アメリカを警戒させるには十分だった。このところ逆にアメリカの中国離れが目立つ。台湾への武器輸出、ダライラマと大統領の会見、そしてGoogleの中国からの撤退。急に風向きが変わった。日本の対中接近がなんらかの作用を及ぼしていないとはいえない。

 これには経済的動機が大きいことは分っている。人民元を値上げさせ、アメリカの輸出力を回復させる必要もある。2兆ドルを越える中国の外貨準備高は問題である。中国の不動産バブルは崩壊寸前である。アメリカは昔日本に課したような「プラザ合意」を中国にも押し付けようとしている。日本の「マネー敗戦」を知っている中国は今そうさせまいと必死である。

 アメリカと中国が綱の引き合いをしているのが経済的動機にあることは分っているが、日本の政権交代後の対中接近もまったく無関係ではなかったと思う。アメリカの中国離れは日本を眺めながら行われている。

 Googleの撤退が示すアメリカの反共意識の回復はいま日本を安堵させている。やはりアメリカは自由と民主主義のイデオロギーを尊重する国だ。そうなればこれ以上無制限に共産中国に傾くことはあるまいと。

 しかし、90年代のクリントン政権の無節操、中国接近と日本叩きを覚えているわれわれは、同じ民主党のオバマ政権が何を仕掛けてくるか分らない不安をも忘れるわけにはいかない。あっという間にまた風向きが変わるかもしれない。そしてアメリカは日本に不利益を与えるのを平然と承知で中国と手を結ぶかもしれない。米中が共同で日本いじめをする政策がわれわれの悪夢である。

 いずれにせよ風向きはたえ間なく変わっている。昔の米ソ対立時代のような「鉄のカーテン」を向うに回している状況とは違う。アメリカもしたたかで猫の目のように態度を変える。中国と日本が手を組んでうまく行った黒マグロ国際会議のようなケースもあるにはある。アメリカと日本が手を組んで中国やロシアを押さえるケースもきっとあるに相違ない。

 だからいちいち気をもんで一喜一憂しても仕方がなく、日本はこれから薄氷を踏む時代を肚を据えて乗り切っていかなくてはならないのだが、それにしては日本政府が場当り的で、方針が不明確で、CO2-25%減などという国益無視のきれいごと一点張りなのはまことに寒心に耐えない。

 およそ政府に国家理性というものがない。内向きでドメスティックである。そしてオバマ政権も歴代アメリカ政府の中ではやはり同じように内向きで、ドメスティックなほうである。財政破綻も省みず、国民皆保険制度を強行したりした。子供手当てでバラマキの小沢・鳩山政権と似ている処がある。

 私が心配しているのは、日米両政府の非国際的自閉的傾向のこういうときもとき、運の悪いときは重なるものだから気になるのだが、いま北朝鮮の政情が風雲急を告げているのである。今度こそ本当に危ないのかもしれない。デノミが失敗し、韓国の反共政権の援助も途絶えた北朝鮮財政はもうどうにもならないらしい。デノミは上層階級の財産を奪った。軍人が飢えている。暴動が起こったら、今度という今度は軍が金正日を守らないだろう。

 北朝鮮の動乱は周辺のどの国もが望んでいない。だから金正日は延命できたのだった。日、米、中、韓、露のどの国も心の用意がない。日本政府が一番なにも考えていない。こういうときに何か起こったら、まさに天下大乱である。

 実際、日本で話題となっている普天間基地の問題をみていると、議論の中に、国土の安全のためにどうするのが最もよいのか、という観点がない。最重要の観点がない。まったく異様な国である。

 こういうときに北朝鮮で何か起きたら、朝野をあげて周章狼狽するだけだろう。見ていられないし、われわれは本当に身の危険を覚える事態になるかもしれない。

 それでもどこか心の中で、アメリカへの期待がある。依存心理がある。正直、私にもある。情ないが(そしてある意味恥しいが)、北沢防衛大臣によりも、交渉しているアメリカの軍人のほうに国家理性を感じる。これは困ったことだ。私の「反米」思想と一致しない。あゝ、何とも耐えがたい矛盾だ。

 というのも、過日トヨタ自動車に向けられたアメリカの対日反感、情念の爆発、衝動的余りに衝動的な攻撃は、私には紛れもなくアメリカという国が引き起こした国家的行動の一つだと思ったからである。腹立たしくもあるあの反日行動は、イラクやアフガニスタンでまき起こされている野蛮の嵐と同じである。

 私はそれを是とはしない。しかし単純に非とはしない。むしろトヨタの奥田碩会長、日本経団連会長が説きつづけてきた「地球企業」の構想、国籍不明のボーダレスの経済行動よりも筋が通っているとさえ考えているからである。

 この話を明日またしよう。明日もまだ桜は咲いている。

つづく

河添恵子『中国人の世界乗っ取り計画』推薦文

 河添恵子さんが産経新聞出版から『中国人の世界乗っ取り計画』という本を出すので推薦文を書いてほしい、と頼まれ、送られてきたゲラ刷りの原稿を読んだ。河添さんには直接お会いしたことはないが、『正論』などでその健筆ぶりは拝見している。

 一読して驚いた。中国人の世界進出のすさまじさはかねて聞いていたし、先週号の『週刊新潮』でもどこかの公団住宅で起こったルール無視の生活態度、ゴミ出し・掃除の仕方で日本人社会に迷惑をかけっぱなしの中国人の暮らし方はすでに読んでもいたが、河添さんの筆は世界中に及んでいて、その比ではない。じつに驚嘆すべき実態レポートである。

 昨夜書きあげた私の推薦文をまずはご覧に入れる。

 ある移民コンサルタントが移民の相談をしに来た中国人に「卒業証明書は?」と尋ねたら、「どこの大学がいいか?明日準備するから」と言われて絶句したという話が書かれている。偽造書類作成は朝飯前のツワモノぞろいの中国人世界である。中国国内では人民元の偽札問題が日常化している。銀行のATMからも偽札が出る。銀行は回収してくれない。中国の全通貨発行量の20%は偽札だと囁かれている。

 賄賂による無税の収入と不動産と株売買で得た不労所得がメインとなった中国バブル経済で突如成金となった一部富裕層は、先進国に永住権を求めて世界中に飛び出した。彼ら中国人は中国人を信用していないし、中国を愛してもいない。あらゆる手段で他国に寄生し、非常識と不衛生と厚顔無恥な振る舞いのオンパレード。納税してもいない先進国で、教育も医療も同等の待遇を得ようと、がむしゃらな打算で欲望のままに生きようとする。自国との関係は投資目的だけ。自国の民主化なんかどうでもいい。

  私は非社会的な個人主義者である中国人がなぜ現在世界中から恐れられているようなまとまった国家意志を発揮できるのか今まで謎だった。しかしこのレポートの恐るべき諸事実を読んで少し謎が解ける思いがした。法治を知らない民の個々のウソとデタラメは世界各地に飛び散って、蟻が甘いものに群がるように他国の「いいとこどり」の利益だけしゃぶりつくす集団意志において、一つにまとまって見えるだけである。

 「ウソでも百回、百ヶ所で先に言えば本当になる」が中国人の国際世論づくりだと本書は言う。すでに在日中国系は80万人になり、この3年で5万人も増えている。有害有毒な蟻をこれ以上増やさず、排除することが日本の国家基本政策でなければならないことを本書は教えてくれている。

 本は4月8日発売予定だそうである。なによりも事実のもつ説得力には有無をいわせぬものがある。カナダはもとよりイタリアからアフリカまで世界各地の中国人の狂躁ぶりが余す所なく描かれている。

「ドイツ大使館公邸にて」の反響(二)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

  ドイツ大使公邸にて 感想文

 西尾先生が日録に連載されていた随筆、「ドイツ大使公邸にて」が完結した。

 この随筆は、大使館での魅力的な会話と、先生の若い頃からのドイツとの触れ合いが交互に展開し、最後にドイツ大使が書かれた三島由紀夫論の紹介と、その感想で閉じられている。

 先生の随筆で来年が日独交流150周年にあたることを知った。私は何一つきちんと勉強したものはないが、若い頃からドイツ・オーストリアの音楽を聴き、少しばかりのドイツ文学を愛読してきた。新婚旅行の行先もドイツ・オーストリアを選び、人気抜群のイタリア、スイス、フランスは訪れなかった。旅程を定めない旅だったのでその街が気に入れば連泊し、次の行き先は宿泊先で地図を拡げて決めるという呑気な旅であった。

 どうしても訪れたかったのは、フュッセンとウィーンだった。フュッセンで、ルートビッヒ二世が建てたノイシュバンシュタイン城をこの目で見たかった。

 フュッセンの地に立ったとき、「ルートビッヒ、貴方は壮大な浪費をしてバイエルンを困らせましたが、100年かけて充分元を取りましたね」、とこころの中でつぶやいた。

 夕食に入ったレストランでは、となりのテーブルで家族連れが食事をとっていた。突然小さな女の子が泣き出して、母親がどんなになだめても一向に泣きやまない。そこで私達が折り鶴を折って女の子に手渡すと、ピタリと泣きやんだ。 「これは飛びますか?」と母親に聞かれ、「飛べないけれど、日本では幸福のシンボルです。」と説明した。作り方を教えて欲しいといわれ、周囲の客も交えて即席の折り紙教室を開いた。

 幸運にもウィーンではウィーンフィルの演奏会を一回と、国立歌劇場のオペラを二回鑑賞することができた。

 オペラの演目は「ボリス・ゴドノフ」と「トロヴァトーレ」で、今でも我が家にはその時持ち帰ったボリスの演奏会ポスターがパネルにして飾ってある。

 もう30年ほど昔、赤坂の東京ドイツ文化センターでドイツオペラのフィルム上映会があった。8㎜と16㎜のフィルムでドイツオペラの名作を上映するという催しで、入場料は一作品500円であった。

 ボツェック・薔薇の騎士・天国と地獄・魔笛・タンホイザー。魔弾の射手、これがその時観た作品である。

 C・クライバー指揮によるバイエルン国立歌劇場の「薔薇の騎士」では、上映終了後満員の観客から盛大な拍手がわき起こった。この作品はそれから15年後、同じ指揮者によるウィーンオペラの来日公演でも観ることができた。カーテンコールの東京文化会館は、ホールの壁が吹き飛ぶのではないかと思えるほどの拍手と歓声に包まれた。帰りにアメ横の居酒屋に入ると、オペラ座のメンバーが先客として飲んでいた。私は彼らに冷や酒をおごった。

 今さらベートーヴェンやカントでもない、という大使館側の教授の言葉は私には少し悲しかった。それは日本が、フジヤマ・ゲイシャによってイメージされることとは違うかも知れないが、ドイツの若者にとっても自国の偉大な文化は過去のものとなってしまったようだ。

 ドイツ人が土偶の造形に現代日本のアニメキャラクターを連想したというのは、驚きであった。土偶の持つカリカチュアは、信仰と切り離せないものだと思う。誇張されたセクシャルな部位には、命を宿すことへの限りない感謝があり、それは豊饒への祈りにも通じるものであろう。縄文の土偶や火炎土器は、最古でありながら前衛的であり、弥生のスマートで均整のとれたものに較べて、一段と新しいイメージがある。

 弥生の均整がバッハであるとするならば、縄文の過剰はワグナーかストラビンスキーに近いように思う。あるいは能と歌舞伎といってもいいかも知れない。とこんな妄想を縄文人が聞いたら、私達がドイツ人の発想に驚いたように、びっくりするだろうか。

 ケルンでは一年おきに世界最大のカメラと写真用品の展示会が開かれる。私はカメラ店に勤務しており、15年程前、運良くこの展示会を見学する機会に恵まれた。ただ、その当時も今も世界のカメラのほとんどは日本が原産国であり、そういった意味ではわざわざ日本からドイツまで「Made in Japan」のカメラを見に行く必要性はまったくないといってよかった。ドイツが小型カメラを発明した聖地であることは揺るがないのだが。

 初日に展示会の見学が終了したところで許しをもらい、私はツアーから離脱した。こうして二度目のドイツと、東欧の短い一人旅をする機会を得た。

 この時は旅程のほとんどを東欧に割き、チェコ、ハンガリー、ルーマニアを駆け足で回った。数年前に冷戦が崩壊し、旧共産圏にも簡単に旅行ができるようになっていた。私はこの時、共産主義の墓参りをするような気分でいた。

 ベルリンの壁が崩れて間もなく、新宿の路上でベルリンの壁の破片が売られていた。何の変哲もない石の混じったコンクリートのかけらで、偽物かも知れないが私はそれを1,000円で買った。今でも書棚に置いてある。

 この時L・バーンスタインがフロイデをフライハイトに替えて演奏したベートーヴェンの9番シンフォニーは、CDやDVDにもなったが、いつかいつかという内に聞き逃してしまった。

 当時テレビ番組で聞いて今でも大変印象に残っている言葉がある。それは旧東独の老婆がインタビューに答えたもので、彼女は「自分が生きている内に壁が壊れるなどということは考えたこともなかった。もうこの先の人生で何が起きようと、私は驚くということはないであろう。」と語った。

 来年の日独交流150周年の催事が、実り多いものになることを願う。私もその内のいくつかに是非足を運びたいと思う。そして西尾先生がおっしゃったように、ドイツが生んだ偉人についてもきちんと紹介されることを祈りたい。職業に関係することでいえば、今から170年前にフランスで発明された写真術は、ドイツで小型カメラが開発されたことで、大衆の手に行き渡った。この時生み出された要素は、基本の部分では現在も変化していない。85年前のデファクトスタンダードが今も通用する珍しい分野ではないかと思う。

 かつてある仏文の教授が、「日本人はドイツを拡大鏡で見ている」、と話されたことがあった。少なくとも私はそうなのかも知れない。それでも、ほんの少しであれ、若い頃からドイツの芸術に親しんだことが、私の人生に大きな彩りを与えてくれたことは間違いない。

   浅野正美

「ドイツ大使館公邸にて」の反響

 「ドイツ大使館公邸にて」と題し六回にわたって書いた拙文は、久し振りにのんびりした随筆スタイルで記したせいか、評判が良かった。あれは面白かったですよ、と声をかけてくれる人が何人もいた。友人たちからもメールの感想文が届いた。ドイツ大使の三島由紀夫論がとりわけ一番関心を持たれた。

 眼のご不自由な足立さんもいつものように音声器で読んでくださっていて、次のような感想を寄せてこられた。

 私が最も興味を持った点は、西尾先生がご指摘されたこと、すなわちドイツ大使が、”ナショナリスト””ナショナリズム”には”敵”としての外国が存在するものであるのに三島由紀夫にはそれがそんざいしていないという指摘でした。

 実は私は2月に二つのグループが別々に拙宅を訪れ、酒と食事をともにして議論したことを思いだしたからです。

 一つのグループは北京時代の部下達でありもう一つはジャカルタ時代の部下達でした。

 その中で、戦後の占領軍の”検閲”や”焚書”について話が及んだ際に、この問題を我国自身の問題であることを放擲して、「アメリカが悪かった。」として今日の状態をアメリカの責任にして終わるならば、そのことは韓国人や中国人が総てを日本の責任にしてしまうことに等しいのではないか、という議論が出てきたことです。

 これは重要なことであり、我国が本当に自立してこれからも予想されるあらゆる困難に立ち向かうためには必要なことであると感じた次第です。

 三島のナショナリズムに特定国を”敵”としていないことはそれ自体日本の”国体”につながることであると私には思えるのです。

    足立誠之

 足立さんのいつものお言葉には感服するのが常だったが、今回は一寸違うのではないかと私は思った。銀行時代のお仲間は反省好きの日本人の典型で、自分を道徳的に清廉に保てば国際社会に生きる上でも支障はない、まず自分の誠実を起点にせよ、と日本社会に自省を求める「あぶない善意の人」ではないかと私は思った。自分を主張できない日本人の弱さの代表例ではないかとさえ思ったが、いかがであろうか。

 アメリカ占領軍の「検閲」や「焚書」は比較を絶した悪であり、ナチスや旧ソ連の一連の外国政策に匹敵するレベルである。また戦後韓国人や中国人が総てを日本の責任にして責め立てる慣例も、やはり世界に例の少ない戦略めいた政治謀略の匂いがある。不正直とか嘘つきとか恥知らずといったモラルの問題では必ずしもないことにわれわれは気がつき出している。

 最近のアメリカや中国の行動は日本をかつて苦しめたルーズベルトと蒋介石が握手した時代の再来を思い起こさせるものがある。日本人の善意や誠実で立ち向かうことは泥沼にはまった戦前の失敗をかえって繰り返すことにならないだろうか。

 同じ坦々塾のメンバーの池田俊二さんの次のコメントに私はむしろ説得されている。

 三島が外なるhostile enemyを見てゐないといふ大使の説が先生の「心に一つの衝撃の波紋を投げた」のはもつともです。私も意表を突かれました。

 たしかに三島はあまりにも内省的、自閉的、自虐的であつたかもしれません。しかし彼に外のenemyが見えてゐなかつたとは思はれません。アメ公、露助、チヤンコロ、鮮公、その他のあらゆる惡意は自明の前提だが、そんなことに言及する暇がないほど、、あらゆる現實を見ようとしない「現代日本の腐敗と空虚」に對する彼の怒りがあまりに強かつたのではないでせうか。

 但し「腐敗」といふやうな高級なものがあるとは、私には思へません。「空虚」もあまりぴったりしません。これまた適切な言葉でないかもしれませんが、一言でいへば日本人の「劣化」の方がいくらか當つてゐるのではないでせうか。

 怒りを忘れた日本人の「劣化」があまりにひどく進行しているので、三島由紀夫は怒りの持って行き場がなく自決したのだという考え方は大筋において当っていると思う。日本民族に向けられた「諫死」である。

 三島には敵がいなかったのではない。敵は自明の前提であった。彼が死んで40年近くになり、敵はようやくはっきりとその姿をわれわれの前に見せ始めているように私には思える。トヨタ問題といい、捕鯨妨害問題といい、中国人流入問題といい、外国の対日心理をめぐる情勢は第二次世界大戦前とそっくり同じになってきている。

 たゞそれに気がつかないのが、池田さんが言う日本人の「劣化」である。その劣化の原因について、彼は福田恆存の言葉を引いて次のようにつづけている。

 

 その原因は、「漱石のうちにはヨーロッパ的な近代精神と日本の封建意識と兩方がせめぎあつてゐて、前者がけつして後者と妥協しなかつたことに大きな苦しみがあつたのです」「兩者がめつたに妥協できぬといふことこそぼくたち日本人の現實なのであります」(福田恆存による角川文庫版「こころ」の解説)と言はれてゐる、その「現實」に妥協どころか、少しも向合はず、全て曖昧に、だらだらと過して來たことではないでせうか。

 先生の、日本と西歐の近代はパラレル、むしろ、多くの點で日本の方が先んじてゐたとの御説には教へられ、共感しました。しかしながら、世界を制霸したのは西歐の近代で、日本のそれではありませんでした。そこに遲れて參加した日本の、向うさまに合はせんが爲の努力は眞に涙ぐましいものでした。ところが、2代目、3代目に至ると、合はせる、合はせないといつた意識すらなくなり、萬事ずるずると來た結果が今の日本のていたらくでせう。その根本を深く憂ひたのが、福田恆存であり西尾幹二である――私はそのやうに考へてをります。

 「自民黨が最大の護憲勢力だ」(三島由紀夫)、「今の自民黨は左翼政黨である。その代議士の大部分は福島瑞穂なみ」(西尾幹二)、どちらも、根本を見失つた、あるいは見ようといふ氣力さへない現状を見事に言ひ當ててゐる
と思ひます。

 世の中には福田恆存の弟子と言いたがる評論家がごまんといて、最近新全集が出てまた増えているので、私をそう呼ばないで欲しいと池田さんにあえてお願いしておくが、それはともかくここで言う「劣化」、現実と向き合わずに全て曖昧に万事ずるずるときた日本人のていたらくの正体について、最近『正論』4月号で、私は多少とも新しい分析をほどこした。45-46ページにかけての「日本の保守とは何であったか」について語った部分である。興味のある向き注意を払ってほしい。

 三島の1970年のクーデターに「敵」がいなかったという例のテーマをめぐって、平田文昭さんがさらに一歩踏み込んだ展開を示唆して下さった。

 ドイツ大使公邸にて六 の簡単な感想です。

三島は、自民党以上に昭和天皇こをそ最大の護憲勢力、と考えていたでしょう。
彼はクーデターの成功を考えたでしょうか。
成功するということは、昭和天皇が認めるということです。
それが可能と彼は考えたでしょうか。
もし三島に、絶望のかなたの「夢」がもしありうるとしたら、
自衛隊の決起以上に、天皇が認めることが、それなのではないか、とさえ思えます。
こういうことを世の三島論はいいませんね。

先生の『三島由紀夫の死と私』をまた読み返しました。

 三島が死によって覚醒を求めた相手は自衛隊でもなければ自民党でもなく、むしろ昭和天皇であったのではないかという大胆な見方である。『英霊の聲』をみればそのことは明らかだが、たしかに誰も触れようとしない。そしてそのことは日本人が万事だらだらと曖昧に生きているうちに少しづつ予想もしなかった不気味なかたちになって国民の前に姿を現わしつつある。GHQの蒔いた種子(皇統を断絶させようとする)が大きく育って皇室をゆさぶっている不安については、ついにテレビでさえ公然と語られるようになった(3月7日テレビ朝日のサンデープロジェクト)。

 加えて亀井静香金融大臣が「天皇は京都にお住いになったら」と言い出した。平田さんは先の文につづけてこんなことも言っている。

このところ、皇室の京都還幸論が言われだしています。
発信源はおそらく佐藤優です。
佐藤優が最初というのではなく、彼が影響力をもつ議論を展開した、
或いは、
佐藤優という伝道者を得ることで、この論が影響力を持ち出した、
という構図とみています。
これは偶然か企図されたものかはわかりませんが、
(私は国際的な状況の反映の可能性は捨てきれません)
妙な政治状況があって、これがこの論に幸いしています。
この論をなすものは、みな南朝派です。これも興味深いところです。
このところ、私のなかでは
南朝擁護論、皇室の京都還幸論、唯祭祀主義ともいうべき考えかた
への疑義がどんどん大きくなっています。
これらの思想との対決は、日本の歴史の過去にも、形を変えて
(という意味は南北朝以前からということですが)
ずっと続いてきたようにも考えております。

 私は必ずしもよく分らない内容にまで筆が及んでいるので、いつかもっと明確に書いてもらいたいが、われわれは『保守の怒り』においてすでにこのテーマを取り上げている。天皇を文化の象徴化に限定する幸福実現党の京都遷都論への批判を私もあの本で語っているが、佐藤優氏には言及していない。

 平田さんは最後に次のように書いている。

ウルトラナショナリズムが、きわめて極端な種類のナショナリズムというのは
考えさせる指摘でした。
ナショナリズムというと、どちらかと言えば、ナチズムを連想させるような観念になった観があります。
パトリオティズムでなく、ナショナリズムの語を使ったときに、
三島とナチの対比が現ドイツ大使の念頭になかったはずはないと思います。
だからこそ、外敵なきナショナリズムが奇異にみえたのではないでしょうか。

まとまりませんが、取り急ぎしたためました。
坦々塾では日録の先をうかがえるのではないか、と期待しております。

平田 拝

 3月6日(土)に坦々塾が行われ、私はそこで「『鎖国』の流れと『国体』論の出現」と題した報告をした。いづれここでも紹介されるであろう。

ドイツ大使館公邸にて(六)

 最初に話ししたように、私はキルシュネライト教授とシュタンツェル大使に、文学に関する最新の自著を差し上げたいと考え、『三島由紀夫の死と私』を二冊持って行って帰りしなにお渡しした。

 教授は日本文学の専門家だし、大使も日本文学と中国文学の研究歴があり、若い頃に三島について論文を書いていることが大使館から予め送られて来ていた大使の略歴書に載っていたからである。

 公邸を辞して十日ほど経ってから、大使はご自身の二篇の論文のコピーを私に届けてくださった。その中に1981年に英文で発表された三島論があった。題してTraditional Ultra‐Nationalist Conceptions in Mishima Yukio’s ‘Manifesto’となっていた。ここで Manifesto というのは、三島が楯の会隊長の名で1970年11月25日に市ヶ谷台の自衛隊基地で切腹前に提示したあの「檄」のことである。

 「われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ」で知られる有名な文章だ。「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。」

 シュタンツェル大使は「檄」の内容をきちんと正確に捉えていた。「三島の生涯はなんらultra-nationalism に捧げられたものではなかったが、しかし彼は何を措いてもまず ultra-nationalist であった。」

 「檄」は主要な四点から成ると捉えられている。すなわち、(一)現代日本の腐敗と空虚、(二)それに対決されるべき真の日本(天皇によって支えられる)、(三)その真の日本を実現する真の人間(ここでいう man は human ではなく male 、すなわち samurai )、そして(四)としてはsamurai の孤独死ではなく共同体の同志によって達成される行為、すなわち「軍」の果す犠牲的行動がなによりも高く評価されていると、彼は解釈している。

 経済的繁栄にうつつを抜かして自分自身を失っている堕落した現代日本に対する三島の憤りを、この論文はその文脈においてとりあえず正確に捉えている。そして、天皇に体現されるところの「真の日本」の実現をこそ三島が目指していた目的であると見て、その実行の要として国軍の復活を激越に求めていたと理解している。このシュタンツェル大使の「檄」の読み方は、概して誰しもが承知している理解の仕方といえるだろう。たゞなぜそれなら、三島のあり方を ultra-nationalism と呼ぶのであろうか。

 私が面白いと思ったのは次のような強調点だった。「三島は自国の外になんらの敵のイメージをも創り出さない。自国の悲惨がその国のせいだと言い立てるスケープゴートを国外に創らない。日本がアメリカの政治的リーダーシップ に従うあまり独立を失っているのは嘆かわしいと見ているけれども、それはアメリカが日本に敵意をもつ国だからではない。しかもアメリカ以外の国はどこも言及されていない。三島が主に苦情を申し立てているのは、自国の国内の状態に対してであって、敵対感情を投げかけてくるような外部からのいかなる脅威に対してでもない。」

 三島が死んだ1970年を考えれば、日米関係は最も安定していた。ドイツ人外交官の眼に、外敵の恐怖も脅威もない時代に、苛烈なナショナリズムを燃え立たせる三島の情熱は不可解なものに見えたのではなかろうか。「真の日本」などというものは今までどこにも存在しないとか、三島のいうsamurai の概念は道徳的であっても社会的ではない、等と野次をとばしているのも、浮世離れした行動に見えたからであろう。

 けれどもシュタンツェル大使はもう少し奥深いところを見ていた。ナショナリズムは他の国に対して敵意を持ったり持たなかったりするが、それは自国に対する外の世界の反応のいかんに応じてそうなるのである。それに対し ultra-nationalism は伝統的で民族的な文化の諸要素に頼ることで市民意識の中に nation の概念を固める目的を狙いとするようなイデオロギーであって、きわめて極端な種類のナショナリズムである、という言い方をしている。そして、三島を理解するのに江戸幕末期の「国体」の概念と比較することの必要を説いているのが興味を引く。

 古代以来の神話の伝承、天照大神の子孫としての万世一系の天皇家の統治に由来する「国体」の観念が、あの righteousness(義)とか truth(真)の概念を保証してきたのであって、三島がもち出したさまざまな概念と「国体」の概念との類似性は明瞭である、と断定している。そして吉田松陰は三島が「真」の日本人として心に抱いていた人物であった、と。

 しかしここから論旨は急に一転する。物事はだからすっきり明瞭になっているわけでは決してない、と彼が言い出しているのが私には面白かった。三島の概念も、また明治から昭和にかけての各種の「国体」の概念も、どれもとらえどころがなく、把握しがたいと彼は言う。はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されていない、と。天皇といい、侍といい、義といい、真といい、どれも巾広い含蓄のあるシグナルめいた言葉であって、あらゆる種類の具体的な政治的解釈を許してしまう恐れがある、と述べている。

 「(三島の檄に出てくる)典型的に urtra-nationalist の諸概念は、日本の国粋思想の伝統から真直ぐに由来している。それらは伝統主義者のカテゴリーにさかのぼって関連している。同時に、それらは漠然とした観念連合から成る信号めいた単語を多用しているので、巾の広い異なる政策の一連のつながりを理解することを許してしまうのである。」

 三島の思想と行動に江戸幕末の志士の「国体」論を結びつけて考える人はこれまで多くはなかった。ドイツ人がこの観点を引き出したことは興味深いし、評価できる。

 三島が南朝の支持者であったことを思えば光圀の水戸学とその幕末への影響と彼とを結びつけて考えることは少しも不自然ではない。また、江戸の国体論と昭和前期の国体論はつながっていても、大使の言うように、われわれ日本人にも「はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されない。」

 その意味で論文は私にも納得のいく内容であった。ただ、私が一読してハッと目を射抜かれたのはこの点ではなく、三島が自国の外にいかなる hostile enemy をも見ていないというあの個所だった。

 あれほどの激烈な行動が「敵」を欠いていたのだ。内省的、自閉的、ある意味で自虐的行動だった。外国人にあらためてそういわれた。そのことがいろいろな関連事項を私に考えさせ、私の心に一つの小さくない衝撃の波紋を広げたのだった。

 たしかに三島の行動は戦後の日本人らしく内向きだったといえるかもしれない。しかしその洞察と予見の力は大きく、「自民党が最大の護憲勢力だ」と言った彼の当時の言葉は、いま深く鋭く私たちの目の前の現実を照らし出しているのである。

(了)

『GHQ焚書図書開封 3』感想

 「ドイツ大使館公邸にて」(六)がまだ書かれていないのですが、必ず完結させます。少し待って下さい。その前に次を掲示します。

 未知の方から『GHQ焚書図書開封 3』に対してこれまでもたくさんのお手紙をいたゞいています。あの本の中の「空の少年兵と母」に言及されていることが私にはうれしく、ご本人の承諾を得て感謝をこめてご紹介します。

『GHQ焚書図書開封 3』感想

兵庫県芦屋市 山村英稔

 西尾先生はじめまして。

 「GHQ焚書図書開封3」読ませてもらいました。
当シリーズは1、2作目も読ませてもらいましたが、今回の三作目は戦前の我が国の人たちが堂々と生きていた事に非常に感銘を受けました。

 特に第三章の「空の少年兵と母」では、19歳の少年が国のために命懸けで戦っていたのに対し、今の自分は社会の何の役にも立たず何と情けないと、今までの自分の自堕落な生き方に反省しきりでした。

 「侵略」という言葉の使用時期や焚書の実態について書かれた第十章は知らない事ばかりで非常に勉強になりましたが、中でも「国体」についての焚書に関する内容が印象に残りました。

 「国体」という言葉については、自民党政権の森総理の時代に、総理が記者に対し「国体」という言葉を使い発言したところ、朝日新聞が、総理が少し前に「我が国は天皇中心の国」という発言をしていた事と結びつけて「『国体』は戦前の天皇主権の時代に使用されていた言葉で、その言葉を今使うという事は、戦前の天皇主権時代に戻りたいという、総理の復古主義的考え方の現われだ」と激しく非難をしていたのを覚えています。

 GHQが「国体」に関する本を多く没収していた事を考えると、森総理が「国体」という言葉を使っただけで激しく総理を批判した朝日新聞の姿勢は現在もGHQの教えを律儀に守っている事の証明だと思います。

 「あとがきに代えて」で西尾先生は、昨年8月のTVの戦争特集番組が「戦争の悲惨さ」しか言わず、アメリカ軍の非道について全く触れなかった事への不満を書かれていましたが、僕も全くの同感です。

 少し前になりますが、「東京大空襲」で被害に遭われた方が裁判に訴えるというニュースがあったので詳しく内容を調べたところ、訴える相手は空襲を行った加害者のアメリカでなく、当時の我が国政府であったので、この様な訴えをしても加害者のアメリカは全く反省しないので、全く無意味な裁判だと憤慨した事を覚えています。

 訴えた人は自分が経験した被害を公式の場で訴えたかったという様な発言をされていましたが、これでは残虐非道の無差別爆撃で大虐殺を行ったアメリカは悪くなく、悪いのは戦争を起こした我が国の政府であるという広島の原爆碑と全く同じ考え方になってしまいます。

 訴えた方も恐らく、被害に遭われてから暫くはアメリカを憎んだと思いますが、戦後TV・新聞等がアメリカの非道には触れずに、戦争が悪で、その戦争を起こした我が国が悪いという内容の発言を繰り返し見聞きしているうちに、段々と影響を受けて、TV・新聞等と同じ考え方になったのではと思います。

 現在、TV・新聞等の我が国における影響力は絶大で、多くの人々はTV・新聞の発言内容を信用しており、戦争についても、戦争未経験者は戦争についての知識を自分で調べる事なく、TV・新聞のみから得る人も多いと思います。

 そのTV・新聞が戦争について反日、自虐的な発言に終始していれば、世論もその影響で反日、自虐的になる事は避けられません。今のTV・新聞が反日・自虐的なのは、GHQの政策、特に言論の自由を奪った検閲と出版の自由を奪った今回、西尾先生がシリーズで書かれている焚書が大きな影響を与えている事は言うまでもありません。

G HQの検閲・焚書についてはGHQの占領終了後に、その政策の全容や我が国に与えた影響について徹底的に調べあげた上で、我が国の立場から戦争や戦前の諸政策を評価する事が必要不可欠であったと思います。しかしながら、その様な研究を本格的に行ったのは僕が知る限りでは江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」が最初で、江藤氏の後を継ぐ様な著作は今まであまり出ておらず、GHQの占領政策については、まだ本格的な研究がなされていないというのが現実だと思います。

 僕は江藤氏の著作を20代前半に読んで大きな衝撃を受けましたが、そのおかげで、その後、TV・新聞等の反日・自虐的な発言を見聞きしても、彼らがGHQの代弁者として発言していると理解できたので、発言に惑わされず反日・自虐的な考え方にならずに済みました。

 今回の西尾先生のシリーズを読んで僕と同様の経験をする人が一人でも増えれば少なくともその人たちに関しては今後、反日・自虐的にならないと思うので、その意味においても、今回、西尾先生がGHQの焚書についてシリーズで書かれたのは非常に価値がある事だと思います。

 今後、我が国が自尊心を取り戻すだめには、我が国の歴史を我が国の視点で書いていく事が必要で、そのためには、GHQの占領政策の全容を明らかにし、我が国のマスコミが今までいかにGHQの立場で発言していたかを明らかにする事が必要不可欠だと僕は思います。

 今回の西尾先生の当シリーズに刺戟されてGHQの占領政策全体についての研究が進み、その実態と我が国に与えた影響が明らかになる事により、GHQの占領政策についての著作がより多く出版され、その事により少しでも多くの人々が、その内容について理解する様になれば、自然と我が国の自尊心も少しずつ回復していく事が出来ると思います。

 今回は、当書の「あとがきに代えて」を読んで、僕も普段からTV等の戦争番組を観るたびに同じ事を考えていたので、どうしても西尾先生に一筆書きたいという気持ちになったので、こうして手紙を書かせてもらいました。長文で乱筆、乱文になってしまいましたが読んでもらえれば幸いです。

ドイツ大使館公邸にて(五)

 やがて話題は日本のアニメ文化がドイツにも広がっているというテーマに移っていった。これは私にはついて行けないし、どういうことか具体的イメージが湧いてこない話題だった。名前がいくつも飛び出したが、私は詳しくは知らないし、分らない世界である。

 勿論そういうニュースは前から耳にしている。フランスの子供たちが日本のマンガに夢中で、悪影響をあの国の文部省が心配しているというようなニュースを聞いたのはもうかれこれ20年も前になるだろうか。今ではそのレベルをはるかに越えているらしい。ベルリンで日本のオタク文化がはやっていて、コスプレやキャラクターの名前まですでに定着し、有名になっているんですよ、という話だった。

 そういえば過日私は上野の東京国立博物館に『土偶展』を見に行って、これに関連するある興味深い現象に出会った。縄文のヴィーナスから始まり、みみずく土偶やハート形土偶など、あのどこかおどけた古代日本のおゝらかで、明るい形象がびっしり展示されていた。

 『土偶展』はロンドンの大英博物館で開催されたのを機に日本でも開かれた帰国記念の行事らしかったが、ロンドンの会場やそれを伝えるイギリスの新聞記事が掲示されていて、そこに日本の土偶はわれわれ西洋人にたゞちにアニメの数々のキャラクターを思い起こさせた、という言葉があった。

 数千年の時間を軽々ととび越えてしまうこのような連想にはそもそも無理がある、などとこと荒立てて言うには、西洋人のこの思いつきにはなぜか微笑ましいものがあり、私はどことなく納得させられている自分に気がついて可笑しかった。少なくとも1980年代のドイツ人が日本人は自動車を「禅」の精神で作っているのか、と私に尋ねた、あの前に書いた話よりもずっと自然だし、唐突ではないように思えたのである。

 産業に「禅」を結びつけるのは、ヨーロッパでは80年代が宮本武蔵の『五輪の書』に日本企業の成功の秘密を見ると論じられていた時代だったからである。今はこんなことを言う西洋人はもういないと思うが、それでも「土偶」に日本アニメの秘密を見ているのである。

 ドイツ大使館公邸で交した対話のうち、これとやゝ似たおやっと思うドイツ人の日本観察の幾つかを忘れぬうちに挙げておきたい。

 憲法九条の改正の必要を私は敢えて話題にした。そのとき座にいた上智大ドイツ人教授は「日本が九条を改正しないことはドイツの東方政策に匹敵するんです。」と言った。東方政策が近隣諸国に対する戦後ドイツの代表的な外交上の和解政策であったことはよく知られている。私は異論があったが、言い出せばきりがなく、日独の戦争の相違論になり、テーブルマナーに反するから黙っていた。たゞドイツ人が九条問題を自国の東方政策になぞらえたことには多少とも意表を突かれた。私に言わせれば九条問題は日本の無能と怠惰の表現で、決して積極的な外交政策ではないと思われるからである。

 これに関連してシュタンツェル大使も、たとえ九条を改正しなくても日本の安全に不安はないと言った。「自分は日本に暮らしているが、北朝鮮の核はこわくない。中国が発射を北に許さないからだ。中国の核もこわくない。今の中国は経済中心だから、問題を起こさない。」

 また私が日本はアメリカから真の意味で独立していないので、日本の富がアメリカから毟り取られている、と言ったら、「毟る」という単語が面白いという話に少しなった後で、大使は「逆に日本がアメリカから富を毟り取って来たように思うけど」と仰った。これもおやっと思わせる意外な発言に私には聞こえた。

 以上日本側が遠慮のない考えを述べると、思いがけない答がもどって来て、なにかと発見のあるのは外国人との付き合い方の一つと私は心得ている。

 このことに関連してもう一つ面白い重要なことが起こった。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(四)

 シュタンツェル大使は2011年に日独交流150周年を迎えるので、その記念行事の準備にいま余念がない、という新しいニュースを披露された。

 1860年秋に訪れた「ドイツの黒船」という言い方をなさった。私はすっかり忘れていた。「黒船」といえば1853年のアメリカのぺルリ来航のそれと、大半の日本人は考えるし、私も迂闊だった。プロイセンの東方アジア遠征団が1860年に江戸にやって来て、翌年幕府と修好通商条約を結んだ。これが、日独の交流の始まりだった。

 どうやら記念行事を盛り上げるための各種の相談ごとがあってのこの夜の食事会であるらしかった。私は余計な雑談を交してきたが、大使がわれわれを集めた理由の一つはここにあったらしく、座の皆さんは色めきたった。

 キルシュネライト教授は「日本の若い層にアピールするドイツがないのです。それが頭の痛いところです。」としきりに仰った。「日本の若い人の人気度において、ドイツはイタリアにもフランスにも負けているのです。」

 成程そういうことかと私は思った。たしかにお料理やワインでも、ファッションでも、観光地でも、イタリアとフランスは日本における人気でドイツをしのいでいる。しかし、音楽があるではないか。哲学があるではないか。ベートーヴェンやカントのような巨人文化が日本の若い人にも知られている、ドイツのドイツたる所以ではないか。

 私がそう言うと、「西尾先生はドイツで演奏会にいらしたことがありますか。」「最近は行っていません。」「聴衆は老人ばっかりです。クラシック音楽を若いドイツ人は聴かなくなりました。」

 でも、日本の演奏会場が老人ばかりということは決してない。「それに」と彼女はつけ加えた。「カントは誰もいま読みません。私も読みません。」

 「日本で記念切手を出してもらいたいですね。働きかけて下さい」と大使は早大の日本人教授にしきりに訴えていた。「ドイツで記念切手を出させるのは至難の業ですが、日本ではそれほど難しくなさそうですから。」

 私は日本で先年初めて行われた世界ゲルマニスト学会の開催に際して記念切手が発行されて、絵柄が森鴎外だったことを思い出して、そう言うと、この件はみな知っていた。

 大使は「皇太子殿下ご夫妻をベルリンにお招きする計画を秘かに立てています」と仰った。私は「ヨーロッパならご夫妻はきっと喜んで行かれると思いますよ。」と観測を述べた。トンガやブラジルなら行きたがらなかったけれど・・・・・・とは余計なことなので、敢えて言わなかった。

 イタリアやフランスに負けないドイツのアピール度はたしかに大使館側の頭痛の種子らしかった。しかしなぜ若い人にばかり受けることを考えるのだろう。しかも日本人にとってドイツといえば必ずしもプロイセンがすべてではなく、バイエルンもオーストリアも含まれる。ミュンヘンとウィーンは感覚的にとても相互に近いのだ。

 私は昨秋六本木の国立新美術館でハプスブルク展が行われ、若い人で一杯だったことを告げた。毎年正月一日のヨハン・シュトラウスを聴くニューイヤーコンサートは日本では絶大な人気を博す。ウィーンの会場の楽友協会大ホールからのテレビ中継には日本人の姿も数多く映し出されている。「中国ではこんなことはないでしょうね。西洋名画の美術展は毎年日本のどこかでたえず開かれています。これも他のアジア諸国では考えられないことでしょう。」

 十九世紀のオーストリアの名宰相、ウィーン会議の立役者の浩瀚な伝記『メッテルニヒ』(塚本哲也・文藝春秋刊)は、今のヨーロッパでだって出ていないような素晴らしい業績だが、昨年11月に出版されたばかりである。西洋化された日本の文化、学術水準はともかく高いのである。「中国人は西洋文化をくぐり抜けていません。日本人は子供の頃からグリム童話とかアンデルセンに馴染んでいます。これは決定的に大きな差です。」と私は言った。つい先年まで駐中国大使だったシュタンツェル氏は「中国には中華思想があるからそれが妨げとなっている」と答えた。

 私が言いたかったのは、若い人に受けのいい流行現象でイタリアやフランスと競うのではなく、ヨーロッパ文化全体の中のドイツの魅力、EUの事実上の力の源泉であるドイツを堂々とけれんみなく訴えてほしいということだった。

 ドイツの犠牲と忍耐なくしてEUはない。フランスはそれを良く知って用心深く行動している。イタリアはEUのお荷物でしかない。そんなことは日本人はみんなよく承知しているのですよ、と私は言いたかったのだ。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(三)

 私たちは用意されていた食卓を囲んだ。私はシュタンツェル大使の右隣りに、キルシュネライト教授は大使の前に座を与えられた。席にいた方々がみな私より若いひとびとであることに気がついた。

 冒頭、大使が敢えて私に会いたかった理由は、むかし私が書いた「留学の本」が原因であると分った。『ヨーロッパ像の転換』か、あるいは『ヨーロッパの個人主義』かのどちらかだが、どちらであるかは聞き落としたものの、1969年刊のこれらの古い本の話が出てくるのをみると、私とドイツとの関係がつねに40念前のあの時代に立ち還るのを避けることはできないのだと、ことあらためて再認識したのだった。

 しかし私はあの懐しい歳月からすでにはるかに遠い処に生きていた。留学生試験官をつとめたのも1970年代末の出来事である。私は今もなおドイツの思想や歴史に研究目的の一つを置いているが、いわゆる日本のドイツ研究家(ゲルマニスト)の世界からはどんどん離れた表現世界に生きるようになって、60歳を迎えた1995年には、形骸化した関係を切って、ドイツ語学・文学の学会の会員であることも退いてしまった。だから大使館に招かれると懐しさの余りつい思い出に耽ってしまったのである。

 キルシュネライトさんは日本のある所で講演をして、とかく型にはまった文化比較がはやっていることに疑義を唱えたことがある。すなわち欧米人の個人主義と日本人の集団主義、狩猟民族の文化と農耕民族の文化といった類型的観念を歴史などの説明に持ち込むのは無意味だと彼女が語った、という話を私はインターネットを通じて知っていた。そこで、私からそれへの賛意をあえて持ち出して座を盛り立てようとした。

 「集団主義と個人主義の対比を言うのを好むのは、ドイツではなくアメリカからの見方です」と彼女は思いがけないことを言った。そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた80年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると難渋されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。

 私は1982年に日本の外務省の依頼でドイツの八つの都市を回ってわれわれの競争の公正を主張する目的の講演をして歩いたことがある。思い切って座談でその話をした。簡単な説明なので分ってもらえたかどうか不明だが、19世紀末から20世紀初頭のドイツはイギリスやフランスから同じように「集団主義」を非難されていた話をした。当時ドイツの鉄鋼生産はイギリスを追い抜き始めていた。

 「フランスの詩人ポール・ヴァレリーはいまわれわれはドイツの『集団主義』を非難しているが、ドイツの後には必ず日本が台頭し、その『集団主義』の力を示すだろう、と予言していたことがあるのですよ。日清戦争の後のことです。」と私はつけ加えた。「イギリスやフランスがドイツを恐れ、ドイツが日本を恐れた歴史の順序を踏んで『集団主義』がタームになったいきさつを考えると、キルシュネライトさんが仰るように狩猟民族は個人主義、農耕民族は集団主義というような文化類型論はたしかに成り立たないですよね。そして、今の時代はアメリカもヨーロッパも日本もみんながこぞって中国の『集団主義』を恐れ、非難する順序に立たされています。」

 するとキルシュネライトさんは、「中国への期待と恐怖は今に始まったことではなく、19世紀からあり、今お話の順序通りに歴史が流れたわけでもないでしょう」と仰った。それからこれを切っ掛けに、中国論があれこれ座を賑わせた。多くの人の関心が中国に向けられている時代にふさわしい展開だった。皆さんのそのときの話の大半をいま私は思い出せない。これらの会話の大部分は日本語で交されたことをお伝えしておく。

 八都市をめぐるドイツ講演の折に、キールの会場で手を上げ質問に立ったあるドイツ人老婆が私を叱責したエピソードを私はあえて話題にした。この老婆は外交官の夫と共に滞在した戦前の日本を知っていた。「今日のあなたの講演は日本がドイツに匹敵する国だというようなお話でしたが、私はそんな話をとうてい信じることができません。私の知る日本の都会は見すぼらしい木造の不揃いの屋並みで、夜になると提灯がぶらさがっていましたよ。いつ日本人はそんな偉そうな口がきけるようになったんですか。」伺えば彼女の記憶は1920年代、大正時代の滞日経験に基いていた。

 キルシュネライトさんは「今のドイツにはたとえお婆さんでも、そんな認識の人はもうひとりもいませんよ。」と応じた。勿論それはそうだろう。私の講演旅行は1982年で、老婆は80歳を越えた人にみえた。

 一般のドイツ人がどの程度いまの日本を認識しているかはやはり気になる処だったが、キルシュネライトさんが語った一つの小さな事柄が印象に残っている。「一般大衆も日本のことは相当知るようになっています。タクシーの運転手でも富士山の形を知っているかと聞いたら、指で正しく描いてみせたことがあって、いろんなことが広く知られるようになっていることが分ります。」

 この例話は必ずしも日本認識の発展でも深化でもなく、いぜんとしてフジヤマ・ゲイシャの類の詳細な知識の普及の一例にすぎないように思える。80年代に私にドイツのタクシーの運転手が「日本人は禅の精神で自動車を造っていると聞いたが、本当ですか」と真顔で尋ねたことを思い出させた。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(二)

 「ドイツ大使館には今までにおいでになったことがありますか」と大使が私に尋ねた。私は若い頃必要があって大使館を訪れたことは勿論あった。たゞ今日のように「公邸」に来たことはなかった、そう申し上げた。「留学生でしたから文化部長は会ってくれましたが、大使にお目にかゝる機会はありませんでした。」

 そう言いながら私はカーテンの外の暗い庭を見つつ思い出すまゝ遠い歳月の彼方をまさぐるように往時を振り返った。そうだった。私は自分が留学生であったときには大使館にたびたびは訪れる必要がなかった。留学生ではなくなってからむしろ日参した日々があったことをふと思い出した。さりとてその場でシュタンツェル大使に詳しくお話するようなことでもなかった。

 私が最初の留学から帰国したのは1967年だった。それより10年くらい後のことになるが、ドイツ政府交換留学生(Stipendiat des DAAD)の試験官を頼まれて、数年にわたり、春になると大使館に赴いた。試験で選ばれる人々は35歳以下の日本のドイツ語学・文学関係の大学の先生たちで、上は助教授クラスから下は大学院修士在籍中の学生までが含まれていた。

 試験官はドイツ側からと日本側からとがそれぞれ数人づつ出て、受験者は30-35人くらいいただろうか。ドイツ語学・文学専攻の留学生を選ぶ厳正な試験だった。音楽や哲学や自然科学の関係の選考は私たちとは別の試験官によって日時を違えて行われていた。日本側は私より5年ほど先輩の早川東三氏(後に学習院大学学長になった)がリーダーで、他の選考委員は私のほかには東大や阪大の先輩たちだった。日欧文化比較についてなにかと考えさせられることの多い面白い体験だった。

 あの頃はドイツ語学・文学専攻の研究者志望の人は多数にのぼった。日本独文学会も3000人を超える盛況だった。ドイツに留学するのはまだまだ困難な時代だった。私が留学した60年代半ばにはドイツに来ている日本人はまだ少数で、珍しがられた。ビヤホールでドイツ人から「日本には大学がないから勉強しに来たのかね」などと言われたこともある。

 当時国立大学の私の初任給は1万5300円で、日本より早く高度経済成長をとげたドイツで留学生として暮らす月額給付金は500ドイツマルク、約5万円だった。しかも航空運賃がべら棒に高く、ヨーロッパまで片道68万円もした。月額給付金はドイツ政府が負担し、往復航空旅費は文部教官に限って日本政府がもった。私のケースはこれだった。

 よほどの財産家でもない限り、自費で留学するのは難しい時代だった。だから政府交換留学生制度のこの枠に人が殺到するのは当然だった。両政府が関係したのだから、選抜試験官も日独両サイドから出て、試験はドイツ大使館で行われたのである。そのために文化比較の面白いテーマにいくつも出会った。

 試験は日独別々の部屋で異なる方法で行われた。どちらの側でも筆記試験と口頭試問の両方が課された。日本側は筆記試験を特に重視し、ドイツ側はその逆だった。日本側の筆記試験は独文和訳で、これに70点を与えた。ドイツ側の筆記試験はドイツ語で自由に書く課題作文で、口頭試問との比は多分50点対50点ではなかったかと思う。(このあたりは少し記憶が確かではない)。

 面白いことが起こった。今日お話ししておきたかったのはこのことである。

 日本側試験官はどなたも口頭試問に点数をつけるのを迷い戸惑った。試験官ひとりに10点づつの持ち点が与えられ、各受験生に10-20分程度の応対をするのだが(それだけでも大変な時間である)、いざ採点となると、おうよそ真中あたり、5点か6点か7点かのだいたい三つに集中し、うんといい点をつける人も、うんと悪い点をつける人もいなかった。いかにも日本的な曖昧さにみえるが、会話を交しただけで人を評価することなんてできないというペシミズムが日本人にはあった。だから合計100点に換算しても、点差がつかない。

 それに対してドイツ側は0点から100点まで劇的に大きな点差を与えていたので、合否をきめる決定権はドイツ側に握られてしまう結果になる。

 筆記試験はどうかというと、日本側で出す独文和訳には大きな点差が開いた。私たちはドイツ語の難しい文章を読解する能力を最も重視していた。受験者は大学の先生でも能力はそう高くはなかった。なんでこんな語法や用法を知らないのだろう、と、私たち試験官は採点しながら口々に嘆き声をあげたものだった。(最近は当時よりもっと力が落ちているという話を聞く。)

 ドイツ側の筆記試験は与えられた課題について好きなように書く独作文だった。ある年に「貧困について」という題目が与えられた。受験生はみな知識人である。当然ながらマルクスがどうだとか、日本社会の矛盾がどうだとか、難解なことを書きたがる。当然である。それはそれでよいと思う。

 ところが最高点を取ったのはある私大の大学院修士課程の二年生の女子学生だった。彼女は東京の家賃が高いことについて書いた。世界の他の都市に比べての東京の生活困難の原因はここにある、といったレベルのテーマを、文法の誤りのない平明な長い文章で書き綴った。日本に暮らすドイツ人は身につまされる話題であって、これを喜んだ。そしてとび抜けて高い点を彼女に与えた。

 合同判定会議でこの事実を知って日本側試験官は反論した。彼女の独文和訳の点数が低かったからだ。口頭試問でも学者としての資質の片鱗をうかがわせるものに乏しい、と日本側では判定されていたからである。

 けれどもドイツ側は反論を認めなかった。議論は平行線を辿った。そして合計点により彼女は上位で選に入った。その後彼女がどういう留学生活を送り、今何をしているかを知らない。

 日本の外国語教育は昔から読む能力を最重要視していた。私たちの世代は今でもそういう考え方の人が圧倒的に多い。だから大学が使うドイツ語のテキストは昔は教養主義的だった。しかしあの頃からすっかり変質し、だんだん会話や生活説明のような文章が多くなった。私はドイツ語の文法や読本をかなりの点数出版している。私の作った大学一年生用のテキストにはゲーテやカフカやハイデッガーの文章まで取り入れている。ほとんど例外である。

 東京の家賃の話を平明なドイツ語で綴った女子学生は賢いかもしれないが、この一件は彼女を評価したドイツ側試験官とわれわれとのメンタリティーの違いを強く意識させた出来事だった。