ドイツ大使館公邸にて(一)

 雨の降る寒い夜(1月12日)、広尾にあるドイツ大使館公邸の夕食会に招待された。ベルリン自由大学日本学科のイルメラ・比地谷=キュルシュネライト教授が来日したので、引き合わせたいというシュタンツェル大使じきじきのお招きであった。お名前から分る通り、教授は日本人と結婚したご婦人である。大使は2年前まで駐中国大使を務め、本省に戻って、昨年10月に駐日大使として赴任したばかりである。やはり日本学や中国学を学んで、若いころ京都大学に留学したこともある文学博士である。

 キルシュネライトさんは日本文学研究家として関係方面では有名な方で、『私小説――自己暴露の儀式』(平凡社)という日本語訳の単行本も存在する。残念ながら私はまだ読んでいない。だが彼女の活躍は前からいくつかの論文を通じ知っていた。訳書の題名は魅力的である。私の一昨年に出した本、『三島由紀夫の死と私』とテーマが重なっている可能性もあると見て、献呈用に一冊持っていった。

 有栖川公園沿いの大使館のある辺りの風情は久し振りで懐しかった。私が公邸に着いたときには他の客人、キルシュネライトさんは勿論、早大の日本人教授と上智大のドイツ人教授がすでに来ていて、控えの広いホールで杯を傾けながら談笑していた。

 キルシュネライトさんは厚さが15センチもある赤い表紙の大型の『和独大辞典』をかかえて、その意義をしきりに説明していた。この大辞典は全3巻で、目下第1巻のみ刊行され、iudicium というミュンヘンの出版社から出ていて、一冊278ユーロもする。「日本での定価では多分3万円でしょうね」と彼女は言った。代表執筆者は Stalpf 、 Schlecht 、上田浩二、それに Hijiya-Kirschnereitの四人である。

 ドイツ語や英語を学ぶ日本人はご承知の通り『独和大辞典』や『英和大辞典』を必要とする。明治以来の一世紀半の努力があって日本におけるドイツ語や英語の辞書の世界は非常に発達している。しかし日本人の作った「和独」や「和英」は充実しているだろうか。これはやはりドイツ語文化圏の人、英語文化圏の人が担当し、日本語の世界を知ろうと研鑽を重ねてくれないと精緻なものを作るのは無理なのではないだろうか。

 私は目の前の部厚い「和独」の一冊を手に取って、パラパラめくりながら、ドイツにおける日本研究、日本語研究、日本文化研究は相当レベルが高くなり、これほどの量感のある辞書を必要とし、それの作れる段階にやっと到達したのだなと思った。勿論、これを日本人も自由に利用することができる。日本人にとってもありがたい辞書には違いない。だから赤い表紙には推薦人として岩崎英二郎氏(ドイツ語学者)、吉田秀和氏(音楽評論家)という著名人の名がのっていた。

 私は雑談のあいまに大急ぎで、和独を見るたびにいつもするある実験をした。「評論家」という文字を出した。そこには Kritiker、Rezensent、Publizistなどの語が並んでいた。しかしどうもしっくりしない。日本のマスコミが私などを「評論家」と呼ぶときのニュアンスはここにはない。だから「ぴったり一致しないんです(nicht entsprechend)」と私は言った。

 「例文を見て下さい、そこで解決できるでしょう」とキルシュネライトさんは言った。「いや、違うんです」と私は言った。私が「評論家」と自分で自分の職名を表現するのは日本のマスコミ一流の流儀、妙な習慣に合わせているからで、他に言いようがない場合に用いる微妙さがこの語の使われ方にはあり、「まぁ、そうですね、評論家というのは乞食と言っているのと同じようなことですね」とつけ加えた。

 彼女は私のアイロニーがすぐには分らなかったかもしれない。少し当惑したような、困ったような表情をなさったからである。しかし日本のマスコミの実情はきっと恐らくかなりご存知ではあるだろう。だから当惑したような表情のあとですぐに笑顔に戻った。

平成22年1月27日  産経新聞「正論」欄より

小沢氏の権力集中は独裁の序章

 東京地検特捜部による小沢一郎民主党幹事長に対する事情聴取が終わって、世間の関心は今、刑事責任追及の展開や鳩山由紀夫内閣に与える政治的激震の予測を占う言葉で騒然としているが、ここでわれわれは少し冷静に戻り、小沢問題とは何であったか、その本当の危うさとは今なお何であるのかを顧みる必要があると思う。

《《《 国民の声を地方から封じる 》》》

 小沢氏は最大与党の幹事長として巨額の政党助成金を自由にし、公認権を握り、地方等からの陳情の窓口を自分に一元化し、年末には天皇陛下をあたかも自分の意の儘(まま)になる一公務員であるかのように扱う無礼を働き、近い将来に宮内庁長官の更迭や民間人起用による検事総長の首のすげ替えまで取り沙汰(ざた)していた。つまりこれは、あっという間に起こりかねない権力の異常な集中である。日韓併合100年における天皇訪韓をソウルで約束したり、問題の多い外国人地方参政権法案の強行採決を公言したりもした。一番の驚きは、訪中に際し自らを中国共産党革命軍の末席にあるかのごとき言辞を弄し、民主党議員140余人を中国国家主席の前に拝跪(はいき)させる服属の儀式をあえて演出した。

 穏やかな民主社会の慣行に慣(な)れてきたわれわれ日本国民には馴染まない独裁権力の突然の出現であり、国民の相談ぬきの外交方針の急変であった。この二点こそが小沢問題の危険の決定的徴表である。恐らく彼の次の手は―もし東京地検の捜査を免れたら―地方議会を押さえ込み、国内のどこからも反対の声の出ない専制体制を目指すことであろう。

《《《 頼りは検察だけという皮肉 》》》

 まさかそこまでは、と、ぼんやりゆるんだ自由社会に生きている一般国民にはにわかには信じ難いだろうが、クーデターは瞬時にして起こるものなのである。今の「権力」のあり方を考えれば、危うさ、きわどさが分かる。

 鳩山首相が小沢氏に「どうか検察と戦って下さい」と言ったことは有名になった。小沢対検察の戦いのはずが、これは政府対検察の戦いになっていることを意味する。民主党は検察の「リーク検証チーム」を作り、反権力を演じた。民主党は政府与党のはずである。自らが権力のはずである。権力が反権力を演じている。とてもおかしな状態である。いいかえれば今の日本は政府が反政府を演じている「無政府状態」になっていることを意味するのである。

 しかもこの反権力は小沢氏の後押しがあって何でもできると勘違いをしている。天皇陛下も動かせるし、内閣法制局も言うことを聞かせられると思っている。逮捕された石川知裕代議士は慣例に従えば離党することになるが、小沢氏の離党につながるので誰もそうせよと言い出すことができない。小沢氏も幹事長職を辞めない構えである。つまり民主党だけが正しく、楯(たて)突く者は許さないという態度である。こんな子供っぽい、しかも危険な政治権力は今まで見たことがない。

《《《 外交方針の暴走に不安 》》》

 小沢民主党のここさしあたりの動きを見ていると、独裁体制がどうやって作られるのかという、さながらドキュメンタリー番組を見ているような気さえする。一種の「無政府状態」を作ってそこでクーデターを起こした。それが今展開されている小沢=鳩山政権である。そのようなファッショ的全体主義的体質の政権を、今まで民主主義を金科玉条としてきたはずのマスコミが何とかして好意的に守ろうとするのはどういうわけなのか。今の日本で唯一の民主主義を守る頼りになる「権力」がじつは検察庁であるというのは決して望ましいことではないにしても、否定することのできない皮肉な現実ではないか。以前にもライブドア事件という似た例があった。裁判所が処罰せずに取り逃がしたホリエモンや村上ファンドを公序良俗に反するとして裁いて自由主義の暴走を防いだのは検察庁だった。

 平和で民主的な開かれた自由社会はつねに「忍耐」という非能率の代償を背負って成り立っているが、自由の余りの頼りなさからときおりヒステリックに痙攣(けいれん)することがある。小泉内閣が郵政選挙で大勝したときも自民党の内部は荒れ果てて、首相の剣幕(けんまく)に唇寒しで物も言えない独裁状態に陥った。自由はつねに専制と隣り合わせている。今度の小沢氏の場合も政権交代の圧勝がもたらした自由の行き過ぎの暴走にほかならぬ。

 ただ今度は自由が専制に切り替わったとき、中国や朝鮮半島の現実を無媒介、無警戒に引き受ける外交方針の急展開を伴って強引な政策として推し進められる恐れを抱いている。それが米国に向いた小泉内閣の暴走とまた違った不安を日本国民に与えている。

 農水大臣は韓国民団の新年会で外国人地方参政権の成立を約束した。幹事長代行は日教組支持を公言し、教職員に政治的中立などあり得ないとまで言っている。もし小沢氏の独裁権が確立されたなら、日本は例を知らない左翼全体ファッショ国家に急変していくことを私は憂慮している。

平成22年1月27日  産経新聞「正論」欄より

半藤一利批判

ゲストエッセイ 
柏原 竜一 
インテリジェンス研究家・坦々塾会員
 
 人様の歴史観を批判すると言うことは、ある意味で恐ろしいことだと思います。批判というのは、両刃の剣で自らにも降りかかるものだからです。ですから、歴史を語るにあたっては、細心の注意が求められているといえるでしょう。
 
 例えば、戦前の日本はいいこともした、台湾ではダムを造り、はげ山だらけだった朝鮮半島に植林を行なったといった事績は有名ですが、こうした日本の光の側面ばかりを取り上げていても、それは保守による一つのイデオロギーへと堕落してしまいます。我々が気をつけなければならないのは、日本人はすばらしい、日本の伝統は素晴らしいといってふんぞり返ってしまうことなのです。自らの正しさに酔っては、歴史には永遠に手が届かないのです。かといって、半藤さんのような一連の昭和史家皆さんと同じように、軍部の暴走で日本は悲惨な戦争に巻き込まれたとする通俗的解釈も、また別のイデオロギーと堕落することでしょう。というか、その腐敗の最たるものが、半藤さんの一連の著作であるといってかまわないでしょう。
 
 歴史を語ると言うことは、光と闇の狭間の薄暗い道を、心細く歩んでいく孤独な旅に喩えることができるでしょう。ある説が正しいと思っていても、それと反する証拠(あるいはその証拠に見えるもの)も同じように見いだされるからです。ですから、歴史家は、多くの史実を、自分の良心に忠実に再構成しなければなりません。
 
 とはいえ、この「良心」こそが厄介なのかもしれません。というのも、自分の良心に基づいて事前に決定した結論をひたすら展開するという良心もあり得るからです。しかし、歴史学という営為から考えてみれば、こうした良心はなんと歪んだ良心でしかありません。結論を事前に設定できる良心とは、傲慢もしくは独善の仮の姿ではないでしょうか。自分のわずかな資産にしがみつく小市民的心性といっても良いでしょう。歴史家にとっての良心とは、経験主義の垢にまみれた小市民のそれであってはならず、なによりも事前の予断を抜きにして史実を眺め、再構成する必要があるのです。
 
 しかし!事前の予断を持たない人間というのもこれまた存在しません。それは歴史家といえど例外ではないのです。ですから歴史を学ぶものにとって、傲慢や独善の誘惑から自らをいかにして遠ざけるかが根本問題なのです。歴史を語るものの自己に対する批判意識の鋭さが、提示される歴史の、ある意味での真実味(あえて真実とは言いません)を保障しているといえるでしょう。
 傲慢に陥らないためには、幾つかの心構えが必要です。まず第一に、新たな資料には常に注意をはらうことでしょう。例えば、西尾先生は「焚書図書開封」という本を出版されていますが、江藤淳の「閉ざされた言語空間」とならんで、戦後流布した歴史観のいかがわしさを明らかにしています。問題は、焚書された書物が半藤さんの主張する歴史観と真っ正面から完全に矛盾していることでしょう。可能性は二つしかありません。半藤さんの主張する歴史観が正しく、焚書された書物が「間違っている」のか、あるいは半藤さんの主張する歴史観が正しく、焚書された書物が「間違っている」のか?答えは言わずともわかりますね(笑)。

 問題は、半藤さんの歴史観が誤っているか否かという点よりもむしろ、半藤さんが「焚書図書開封」という書物に前向きに対応できたかという点なのです。しかし、寡聞にして、半藤さんが衝撃を受けたという話は聞かないわけです。本来であれば半藤さんは、それこそ良心があれば、過去の著作全てを絶版しなければならないはずです。しかし実際には、ますますお盛んに著作を怒濤の勢いで刊行なさっています。西尾先生の著作も、保守反動のパンフレット程度にしか考えておられないのかもしれません。しかし、ここで私が問題にしたいのは、自分の見解を批判する資料に対して反応しない、あるいは反応できない半藤さんの精神の、信じがたい、そして救いがたい硬直性なのです。

 これと似た光景を我々は最近目にしました。それが一昨年前の諸君紙上での西尾泰対談でした。私が問題だと思ったのは、泰氏が、自分の見解に矛盾する資料は全力で否定しながら、自分の主張が崩されている、もしくは崩されているかもしれないと言うことを、知って知らずか、遮二無二否定していた事実でした。私は、改めて読者の皆様に伺いたいと思います。泰氏は、張作霖暗殺事件で、中西輝政先生が示された英国情報部の見解の是非には答えられませんでした。これは、泰さんの論争の敗北を意味しているのではないですか?私が見る限りでは、あの論争は泰さんの一方的な敗北でした。実際、デクスター・ホワイトのアメリカ政府内部での働きに関しても何もご存じないのです。歴史家にしては、無知が過ぎると思いました。ある見解を否定するためには、その見解を知らなければなりません。しかし泰さんには、「信じられない」の一言で終わりです。これって、アリですか(笑)?あの場で提示された議論に反論するためには、何らかの新資料を泰さんは提示しなければならないはずです。しかし、泰さんにはそれだけの気力も能力もないようです。泰さんは、この対談で言論人としての生命を終えられたのだと私は思いました。

 泰さんといい半藤さんといい、なぜ新たに発見された資料を貪欲に自分の思索の中に取り入れられないのでしょうか。なぜ自分の読んだ資料や自分が人から聞いた話だけが真実だと思えるのでしょうか。この視野の偏狭さ、そして自分の見解だけが正当であるとして譲らない、腐敗しきった精神の傲慢さの醸し出す”すえた臭い”に、ご本人方はどうして無自覚のままいられるのでしょうか?理由は簡単で、あの年代特有の名誉心を満足させたいからでもあり、自分の過去の精神的傷を正当化したいからでもあるでしょう。あるいは、単に内容よりも本を売りたいという経済的動機が重要なのかもしれません。さらに付け加えるならば、困ったことに、こうした人ほど「自分こそは良心の固まりである」と信じ切っているものなのです。おそらくは、これら全てが鼻持ちならない傲慢の原因なのでしょう。しかし、自己への批判意識のない精神の産物は、社会に害毒しかもたらしません。日本の言論界の貧困があるとすれば、こうした思考の硬直性、鈍感、傲慢にあるのではないでしょうか。
 
 興味深いことに、思考の硬直性、鈍感、傲慢といった一連の悪口は、半藤さんが旧日本軍に投げかけている悪口と全く同じなのです。これもある意味では当然のことなのかもしれません。自らの視点を絶対視するあまり、そして、自己に対する批判意識の欠如から、半藤さんは「昭和史」をかたっていながら、実は自らを語っているに過ぎないのですから。

 もう一つ付け加えておかねばならないのは、歴史観それ自身が歴史的産物であるという論点です。時代が移れば、歴史観も代わります。フランス革命の評価も約60年ほどの時代が立つと、全く逆転したこともよく知られています。歴史とは、固定的なものではなく、歴史が編み出され、そして読まれる時代とともに変動していくものなのです。その理由は簡単で、我々が歴史書を読むときに、歴史的事実を読むと同時に、その歴史を通じて、かならず今生きる現在を考えているものだからです。あるいは、歴史的事実に流れ込んだ現在を我々は歴史書の中に発見しているという言い方もできるでしょう。つまり、我々は歴史を通じて未来を予感しているのです。過去と現在は決して分離しているのではなく、二重に重なって存在しているものなのです。現在が変化すれば、過去のあり方が変わるのは当然の道理です。現在の条件が変われば、予見される未来も、その経路となる歴史観も移り変わります。むしろ、それが社会としての活力であるとも言えるでしょう。
 
 冷戦が終結して20年が経ちました。従来の歴史観が新たな歴史観に移り変わっていくのは、むしろ当然のことでしょう。逆に従来の歴史観に固執することは、日本という国家の沈滞、長期的没落を招くということになります。昭和の平和だった時代を懐かしみ、ただ昭和の時代のように過ごせばよいのだというのは、昭和生に生まれて平成に生きる人間にありがちの誤りです。そこには、未来への意欲も、自ら運命を切り開く覚悟も欠如しているからです。半藤さんは、陸軍のように野心的になってはいけない、外の動きには目を閉ざし、平和におとなしく暮らしていけばよいのだという自分の価値観を読者に押し売りしているだけです。残念なことに、自分のことはわからない半藤さんですから、念仏平和主義という自分の歴史観の害毒には徹底的に無自覚です。
 
 ここで一つ例を挙げましょう。私は占領終結後もっと早い時期に日本は憲法を改正し、国軍を備えるべきであったと考えています。しかし、残念ながらそれはかないませんでした。半藤さんにしてみれば、まさに喜ぶべき時代であったといえるでしょう。しかし、憲法を改正し、自ら軍事力を整備できなかったツケは、日本を徐々に蝕んでいきました。竹島の不法占領を初め、東シナ海における油田の帰属問題、そして北朝鮮による日本人拉致問題です。日本政府に、国民を守る覚悟があれば、このような事件が次々と生じることはなかったはずです。横田めぐみさんこそ、こうした念仏平和主義の犠牲者なのではないですか?北朝鮮に拉致されている日本人の皆さんは、半藤さんの本質的に反知性的な念仏平和主義の犠牲者なのです。

エントリー削除の件について

 1月16日付で、ある方の「保守の怒り」の読後感想のエントリーを掲載しました。文中でリンクを貼った場所はご本人のものではなく、その文章は会員向けの勉強用資料として作成したものとの指摘を受け、ご本人のご希望により全文削除しました。

謹賀新年 平成22年元旦

 私の研究論文の処女作は「ニーチェと学問」だった。つづいて「ニーチェの言語観」だった。26歳の頃の話である。研究論文とは別に、「私の戦後観」を29歳のときに書き、時代批判、社会批判を始めた。それからドイツに留学して『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』の二冊を処女出版とした。

 ドイツ文学畑だったはずだが、ドイツ文学研究にさして興味がなく、文学が研究の対象にならないのは漱石以来の宿命だなどと思っていた。ドイツにではなくヨーロッパ全体に関心があると言っていたのも、ただの若さの傲慢ではない。人間は全的存在だという教えはゲーテにもニーチェにもある。何かの専門家でない生き方があるはずだ。文学研究ではなく、文芸批評を志し、実際にひところ新聞で文芸時評を書いたのも、研究がつまらなかったからである。人は誰も知るまいが、新劇の舞台時評を書いていた時期もあるのである。

 私は若い頃自我が分散していたのだともいえる。自我の不安にも陥っていた。学問論にも古代論にも関心があり、ヨーロッパを普遍文明として捉えるべきだと考え、他方マルクス主義に汚染された知識人への軽蔑から時代の政治に批判的関心を抱いていた。といっても政治学者のようにではなく、文学的自我の問題として抱いていた関心である。

 二度目の訪欧の頃から教育論に関心が移った。紀行文をもとにしたソ連論を書いたのも、食料安全保障から外国人労働力の制限論まで、各種の「国際化」批判を展開したのも、時代の問題に積極的に関わろうとしたからともいえるが、そういえば聞こえはよく、実際は学者ではなくなり、ますますジャーナリストになり、時流に流され始めていたためともいえるだろう。時流に逆らうという形式で時流に流されるということもあり得るのである。

 以上は私が「歴史」に関与する前の閲歴である。私は自己再発掘のために自分の昔の著述を順番に全部読破してみたいと思うようになっていた。『ニーチェ』二部作から『国民の歴史』を経て『江戸のダイナミズム』に至る流れが私の処女作「ニーチェと学問」「ニーチェの言語観」の延長線上にある研究上の系譜だが、そこにヨーロッパ・コントラ日本の主題が重なり、さらに現代政治批判が絡み合って私の思想全体が構成されていると自分なりに漠然と考えている。

 10月に京都の学術出版社ミネルヴァ書房から期せずして自叙伝執筆の依頼を受けた。人文科学・社会科学・自然科学から数名づつ人を選んで研究自叙伝を書いてもらう企画を立てたという。すでに第一期として、来春にも5人の学者のポートレートが世に問われる。幼少期から現在までの生涯を描くことを通じて、現代日本の学問状況を明らかにするシリーズだというのである。

 こういう自己総括を内心必要としていた私にはこの仕事は渡りに舟だが、しかし大体私は必ずしもいわゆる「研究者」ではない。私は文学的自伝なら書いてみたいと思っている。『わたしの昭和史』少年篇1、2がすでに書かれていて、これは17歳までの詳しい自伝であり、この延長を書きつづけたい思いは当然あるが、研究者自叙伝にはならない。

 私はミネルヴァ書房に返事を認めた。私の自己形成の物語、私の「詩と真実」なら書けると思います。内面のテーマ、すなわち自我の不安と外部の社会との葛藤の物語を展開してみたいという気は十分にありますと書き送った。

 すると返事がきた。先生のお書きになる自叙伝が「詩と真実」であり、自己形成の物語であるというのは大変魅力的で、拝見するのが楽しみですが、たゞし今回の企画は自叙伝の中に三つの意味をもたせたいと考えています。すなわち「個人史」はもちろんですが先生をとり巻く時代の「社会史」、そしてご専門の学問全体を鳥瞰していたゞく「学問史」の視点もぜひ組込んでいたゞければと存じます・・・・・・。

 私はこれに再び返事した。私はドイツ文学を専攻したことになっているが、文学研究は学問にならず、外国研究も学問になり難いことを痛感してきました。私の26歳の処女論文は「ニーチェと学問」という題で、既成の学問の概念を破壊したニーチェの抱いた学問論は、学問論としてすでに矛盾で、私も同じ矛盾を抱いて生きつづけたつもりなので、「学問史」は既成の安定した専門風学問史に立脚していないのです。学問の概念を問い直すことがむしろ求められた私の知的営為でした、と。

 これに対してあらためて送られてきた編集者からの手紙はじつに素晴らしい内容だった。

文学研究と学問、これはとても興味深い主題です。
既成のディシプリンを超えて、さまざまな問題を提起なさってきた西尾先生だからこそ、力をもつ「学問論」「学問史」があると思います。
そのあたり、先生がぶつかられた葛藤、日本における学問の風土、さまざまな論争などなど、ぜひこの機会にお書きいただきたいと思います。リアリティある自叙伝になるとともに、貴重な「一時代の記録」となります。
なにとぞよろしくお願いいたします。まずは、構成案を楽しみにしております。

 私はこれを読んでミネルヴァ研究自叙伝の一冊を引き受ける意を決した。以上はとてもいい言葉、ありがたい言葉だった。この出版社の、この方を相手にするなら、安心して仕事が出来るように思えた。まだお目にかかっていないが、女性の編集者だった。

 私のニーチェやショーペンハウアーに関する研究は『江戸のダイナミズム』までつながって一体をなしており、それはまた私の内部では歴史や文明をめぐる各種の論争とも構造的に連関していることは自分なりに判っている。それをここであらためて分解して、学問と論争、認識と行為の関係を読み解き直してみることは自分に必要であり、次の仕事への転回点に恐らくきっとなるであろう。

 今年7月に私は「後期高齢者」になる。しかし意欲も体力も衰えていない。新年に当り決意を新たにしている。じつはこの自叙伝の執筆が開始される夏以後に、ほゞ並行してある雑誌に歴史に関する長篇連載を掲載する契約がつい年末に決定したばかりである。時間的、体力的に大丈夫か、とても不安ではあるが、嵐の時間は刻々と近づき、いずれは頭上をとび越えていくであろう。

ある哲学者の感想

 12月12日に『保守の怒り』をめぐって坦々塾で3時間もかけて討論した。みな異口同音に認めたのは平田文昭氏の、思いもかけない発想に満ち溢れた強靭な思索力と鋭い現実分析力だった。新しい思想家の誕生を見る思いがした。しかし討論会は「保守」概念をめぐってやゝ迷走し、肝心な論題になかなか踏みこめなかった。

 数日後に坦々塾の会員ではない人で、昔からの友人の山下善明さんから『保守の怒り』の読後感が届いた。山下さんは明星大学教授、哲学がご専攻である。ドイツの出版社から、ドイツ語で書かれた立派な哲学書を出されている方だ。

 以下に、いかにも哲学者らしい独特な解釈に基く読後感を紹介する。「保守」概念に一石も投じている。平田さんがどう思うかは聞いていないが、私はこの考え方に共感している。

西尾幹二先生へ

前略失礼します。
『保守の怒り』読了しました。

 私は先回の総選挙でも自民党に投票しました。ところが鳩山新首相によりますと、今度の選挙は「民主党の勝利ではなく国民の勝利である」のだそうです。自民党に投じた私は、非国民、反国民ということになります。そしてこの度御両名の「怒り」に触れました。正に踏んだり、蹴ったりです。

 農家の次男坊として田舎を離れてしまった私は、ずっと「農家の長男」に頼らんとして、自民党に投票して来ました。その一代目が岸~佐藤、二代目が三角大福中でした。竹下、小渕、森はまだしも二代目の名残りでした。そして三代目が安倍、福田、麻生でした。鍬も鋤も持ったこともないこの三人。(鈴木、小泉は漁師の息子ですが、小泉は博奕打ちに身を俏しました。海部、宮沢などは養子の一言でいいでしょう)

 平田氏も同じ考えのようです。氏は言う「自民党に言いたい。共産主義を退治したのは成長と分配に配慮した経済政策と智恵のある政治であって、つまり民に飯を食わせ、その家族に墓、正月とお彼岸を守ったからです。・・・勝利は堅実な政策と国民の常識と勤労によって勝ち取られたのです。」(P.270)

 「国民の常識と勤労」は敗れて、今や非国民、反国民となりました。「墓、正月とお彼岸を守る」ものとて無く、今やそれらは打ち捨てられました。守る「長男」はいなく、荒れるがままになりました。西尾氏は自分よりはるかにラディカールだと言うが、平田氏は決してラディカリストではない。そのradixを農にもつ氏が、どうして急進主義者でありえよう。平田氏が「もの言わぬ、しかし堅実な日本人生活者こそ、そしてそれこそが保守ですが、ぎりぎりのところで皇室を支えているのです。」(P.234)という時、堅実な日本人生活者と皇室を余りに短絡したか。いいえ。氏も言うが如く「この瑞穂の国を治める君主たるべきものであるという神勅によって皇室は存在している」(P.153)のですから、堅実な日本人生活者、「墓、正月とお彼岸」を守る農民民草は、まっすぐ天皇に絡がっているのです。

 「万世一系」とは、「国土」が万世一系ということです。天皇は「領土」の皇帝emperorではなく「国土」の天皇なのです。しかし「国民が勝利した」今、日本の国土は「日本国民だけのものではない」んだそうです。つまり、「国土」はなくなりました。皇室も民営化されると思います。「旧郵政省のある霞ヶ関の土地。あれは普通だったら絶対手に入らないですけど、民営化してしまえば手に入ります」(P.43 )、皇居のあるあの超一等地も。

 どうして、こうなったのか。

 平田氏は語る、「靖国史観では全戦没将兵は忠勇無双で陛下の万歳を唱えて死んでいった。そこに功績の優劣はない。従軍した戦争はすべて聖戦です。しかし参謀本部や外務省であれば、作戦の得失、用兵の成否、政略の巧拙など、冷酷な検証がなされてしかるべきでしょう。この両者は並存し得るし、しなければならない。左右ともこのことがわかっていない。」(P.241)

 この両者とは何か。それは「戦争」の「戦」と「争」の両者のことです。左は「争」だけ見て「戦」を見ない。右は「戦」だけ見て「争」を見ない。だから「左右ともこのことがわかっていない」。左はただの「争い」反対でしかないのに、平和主義の使徒だと思っている。争いを避けて「相手のいやがることをしない」小心卑劣な「親(シン)」が「和」だと思っている。「国土」の和人が再び倭人になってしまっていることにも気付かずに。

 右はどうなのか。確かに戦は平田氏の言う如く必ず聖戦です。しかしその戦いの美しさに、美談に見惚れてしまっている。左が平和主義の自分に自惚れているのよりは少しはましでしょうが。

 農民なら知っています、自然との「戦い」においてすら自然との「争い」を避けえないことを。平田氏が「保守の人は経済を語らず、語れず、政治の人は経済に疎く」と言うのなら、私は言いたい「保守の人は鍬も鎌も握らず握り得ず」と。

 『江戸のダイナミズム』への私批評(傍線)でも申しましたことを図にしますと。

  自然B(ジネン)「善悪の彼岸」(P.321)
線b________________________宿命「運命」(P.122)

       戦い
歴史・・・・・・・・・・・・・・善悪の渦流
       争い

線a_________________________
  自然A(シゼン)善悪の此岸

 左の人は、争いしか見えませんから、争いを避けて、自然Aに落ちます。そこは善悪の此岸として対立なきところですから、「善人」となれます。中曽根元首相は鳩山を評して「政治は形容詞ではなく動詞でやるもの」と言ったそうですが、「善人」鳩山は、政治家としてどころか、その人生そのものに動詞がありません。

 右の人は折角の「戦い」も、争いなく、従って自然Aもなく宙に浮いています。西尾氏は「60年間論争疲れしているのですが、どうしても最後の一歩が踏み出せないのです」(P.118 )と言いますが、最後の一歩も何もない、そもそも踏み出す脚がないのです。自然A(シゼン)に立脚していないから、自然B(ジネン)に出る動力をもたないのです。勿論自然B(ジネン)は出るところではありません。

 親鸞の言葉で言えば、「善からんとも悪しからんとも思はぬ・・・・・形もましまさぬ故に自然(ジネン)と申し候ふ」でありますから、「ある」ともいえませんから、出るところではありません。しかしそこに出でんとする動力があってのみ、線a,即ち運命、宿命があります。「ゲーテが見た、神と自然が調和した秩序」(P.325)があります。「歴史はすべて肯定、善も悪も含めて肯定されるべきもの」と西尾氏が言う所以のものがあります。線aが見えない限り、「歴史の内側ばかりみて」(P.115)いることになります。思想が見えず、現実が見えず、「現実が見えないから現実と戦う(傍線)こともできない」(P.73)

                                 敬具 
山下善明

 なかなか難しい言葉遣いだが、「戦争」の「戦」と「争」の両者は並存し得るし、しなければならないのに、ばらばらに分離して、左の人も右の人もそれぞれ線aと線bの外に出してしまって宙に浮いている。日本人がこれを克服しまともになるには「農」に立脚した自然への回帰が必要だと仰有りたいのだろうか。少し単純化して分り易く私なりに読み直すとそういうことかと考えてみたが、山下さんは平田氏の思想に一つの哲学的な解釈の図解を示して下さったのである。

 もう一度読み直していただきたい。いろいろ含みのある、山下さん一流の、現代日本批評になっているように思える。

坦々塾(第十六回)報告

 12月12日に坦々塾が開かれ、最初に会員の柏原竜一さんの「日本のインテリジェンスの長所と弱点」と題する講演があった。以下に同会員の浅野正美さんによる要約文を掲げるが、その前にひとこと申し上げたい。

 浅野さんの聴き取り理解能力の高さに私は舌を巻いている。彼は録音機も用いず、メモはすると思うが、講演を耳で聴いてたちどころに理解し、記憶し、これだけの再現、復元を果たす能力は何処から来るのだろう、と私はかって私の講演のときにも感じた驚きを書き添えておきたい。私なんかは人の話を集中して聴く力がなく、注意力散漫でどうにもならないのが実態だから尚更感心するのである。 

第16回坦々塾

 12月12日(土)に第16回坦々塾が行われました。

 第一部は「インテリジェンスの長所と弱点」という演題で、柏原竜一さんにお話いただき、後半の第二部は西尾先生と平田文昭さんの対談集「保守の怒り」を読んでの討論会を会員全員で行いました。

 参加人数は46人です。

 今回は、第一部の報告文を浅野正美さんが書いてい下さいましたのでご紹介いたします。

       坦々塾事務局 大石 朋子

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

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  坦々塾勉強会報告

第一部

「インテリジェンスの長所と弱点」 

    発表者 坦々塾会員 柏原 竜一

 「世紀の大スパイ 陰謀好きな男たち 洋泉社刊」は、デザイン、装丁が良くできており大変気に入っている本である。

 出版にあたり、「明日への選択」に掲載した原稿に変更を加えた。コミンテルンに関する記述を、あっさりしたものから大幅に増強した。

 ゾルゲ、GRU、赤軍情報部、といった防諜機関が活躍した1920年~30年代ロシアでは赤軍情報部が大本にあった。トロツキーが作った赤軍の、革命前後における活動を描いた。

 当時ニューヨークに滞在していたトロツキーは、祖国への帰国をアメリカ側に知られ、一時身柄を拘束される。そのときウィルソンの腹心であるカーネル・ハウスは、イギリス情報部員ワイズマンの工作により、トロツキーをロシアに帰す。帰国したトロツキーは、ロシアで革命を起こす。

 トロツキーはなぜニューヨークにいたのか。彼は当地でユダヤ人社会のネットワークを利用して資金集めを行っていた。

 当時イギリスのファビアン協会は「共産主義こそ明日の世界」という認識を持ち、イギリス国民の間にも、トップから大衆にいたるまで、そういった考えがかなり広く浸透していた。イギリスにおいてGRU研究が少ないのは、当時のそうした状況が露呈することを避けるためではないかと思われる。

 東京でゾルゲが拘束されることになった原因の一つに、無線の傍受があげられる。おかしな無線通信をキャッチした日本側は、その無線を追いかけることでゾルゲの居場所を捉えることに成功した。オランダも同様の手口でナチスを摘発していたが、イギリスにはそういう体制がなかった。イギリスはドイツに内部侵食されており、ドイツにとって不都合な書類の改竄が行われていた。

 「インテリジェンス入門 PHP刊行」は、時間的な制約もあり、各章立てがうまく繋がっていない。また、結論があいまいで、最後の数ページで展開しただけという不満があったが、その後、Willに掲載された加藤洋子氏の論文を読んで、自著にはある日本人のかつての理想がなく、私の本が良い本だということを、改めて感じた。

 フランスは、ドイツ(プロイセン)がビスマルクの時代に、普仏、仏墺という二つの戦争を戦い敗れた。フランスはこの反省に立って、プロイセンに対抗するためのフランスインテリジェンスを創設、本格的なスパイ養成が始まる。

 フランスの弱みは、歴史的に政治がしっかりしていないことにある。第三共和制以降、首相が頻繁に交代し、議会も不安定であった。その弱点を陸軍が支えたが、情報が陸軍に集中することで、ねじが外れて(軍の暴走)しまう。政治がしっかりしていれば防げたことである。フランスの暗号解読技術には一日の長がある。また、世界で始めて郵便制度を発明したフランスは、郵便局に世論調査、政敵のチェックの機能も持たせた。19世紀後半には通信傍受が盛んになる。

 イギリスは、情報大国というイメージがあるが、それは日本人の思い込みであり、19世紀後半から第一次世界大戦までは大したことはなかった。戦時のインテリジェンス能力は、フランス>日本>イギリスという状況であった。ただし、イギリスは政治がしっかりしていた。植民地であるインドの反乱がないことが前提条件であったが、情報の使い方は上手だった。イギリスは植民地に対する求心力が優れており、情報をいかに賢明に使うかということに関して非常に長けていた。

 わが国は第一次世界大戦を陸運中心に戦い、日清、日露までは立派な情報収集体制があった。その日本のことも本には書きたかった。インテリジェンスの問題は国際比較でやらないと意味がないのである。フランス、イギリス、日本はそれぞれに、インテリジェンスに対する取り組みが違う。特にわが国の特徴として、国龍会、玄洋社といった民間団体が活躍した例は珍しく、同様の組織はイギリスにもあったが、その規模、質において他国をはるかに凌駕するものであり、誇るべき内容である。

 そこに見られるのは、高邁な理想、天下の義に突き動かされる志である。地位も名誉も求めず、海を越えて大陸浪人となり、本気で中国を良くしようと行動した。自分の理想を中国革命で達成しようとした。これが当時の右翼であった。

 良しと考えたことを発言し、行動することが必要である。日本のために行動することが必要である。

 加藤陽子、半藤一利に共通して見られることは、国内事情だけをミクロに観察し、こいつが悪い、あいつが悪いと犯人探しをしていることである。驚くべきことに、彼らは三国干渉の内容を知らない。思考がドイツ外交のたちのわるさにまで敷衍しない。ドイツの政治哲学はマキャベリズムである。日本の近代史を、外国の事情を無視して語るという愚を冒している。

 日英同盟の崩壊は、中国を巡る問題だけが原因ではなかった。中村屋のボーズはインドで総督暗殺未遂事件を起こした反政府活動家であった。こともあろうにそうした男を同盟国である日本人はかくまった。当然イギリスは何事だと考える。このときすでに日英の対決は始まっていたといえる。当時の日本人は植民地を持つ西洋か、アジアかと悩んだ末にアジア(ボーズ)を取った。歴史に向かうときには、こうした観点から見つめることが必要である。また、人種偏見に対する視点がない。ルーズベルトはロシア嫌い、新中国とフランクリンは日本が嫌いであった。さらに蒋介石はキリスト教原理主義者であった。

 こうしたキリスト教原理主義+人種偏見というものが、世界史の流れにあり、1920年~30年のアメリカのおかしな行動も、こうした背景によって公式の意見となったと考えると理解しやすい。

 テロ対策で遅れをとっているイギリスの専門誌に、「インテリジェンスとはグローバリズムの犠牲だ」という記事が載った。過去の大きなテロ事件は、アメリカ、イギリス、スペインで発生しているが、インテリジェンスが確立したフランスでは起きていない。個人管理の徹底さは、この国にプライバシーというものがないといっていいほどである。人は簡単に逮捕される。

 今後の方向性として、21世紀はどの分野を重視すべきか。

① 経済インテリジェンス

② IT、暗号

③ 対テロリズム

 これらの命題をわが国は具体的に、どのように取り組んでいったらよいであろうか。

 経済インテリジェンスにおける日本の在り方。今後わが国は人口が減少し、経済は停滞することが予想される。ただし潤沢な資金がある。

 過去、19世紀末から1930年にかけてのフランスは、次第に台頭するドイツという問題を抱えながら、露仏同盟を結んでロシアに投資をした。当時のフランスは投資大国であった。

 同じように日本も投資立国を目指してはどうか。投資情報を収集、分析することは政治力、外交力を必要とする。

 世界の重要課題である環境問題では、植生の減少が挙げられる。現在わが国は国内に市場はない。第三世界の開発は、乱伐を引き起こしている。そこで、わが国は植林を行い底から利益を得る。満州の歴史とは、インフラを整備し、近代化を進め、教育を普及した。

 同じことを他国に対してもやってよいのである。他人を豊かにして、自分も豊かになるのである。アングロサクソンの海賊的強奪とは手法を変えるのである。

 日本に必要なものは、帝国主義的経営ではなかろうか。

 海外旅行をすると気がつくように、国によって発展の度合いはまちまちである。マレーシアはイスラム文化の国ではあるが、高速道路をはじめとしたインフラは日本とそっくりである。香港の近代化、東京以上の発展は大陸からの膨大な投資によって成った。

 ジャパン・インデックスは、日本に近い国に順位を付けて、その順番に従って投資をすれば良い。日本的なものを世界に広めないと世界は真っ黒になる。今こそ世界を日本にするときである。

 今までの日本は、おとなしくアメリカについていった。わが国の犠牲の上にアメリカの繁栄があり、日本国民は損をする方向にしか動かない。また、それに対して「No」といえない。あえて暴論を言えば、民主党はもっとアメリカに抵抗して、普天間も、もっともめたらいい。民主党が二、三年引っ掻き回してわが国が国際的に孤立したら、そのときこそ日本人が一人で立ち上がるチャンスである。今までがアメリカに頼りすぎていた。そういう意味では、今はいい状況ではないか。逆説的ではあるが、民主党に期待したい。

        文責:浅野 正美

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お知らせ

 今夜放送される以下の番組で、始めの方に、小沢一郎の韓国の某大学における講演の中から、日本を貶める暴言の数々の録画が数分間放映されます。

番組名:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今...」

テーマ:民主党政権と解体する日本

放送予定日:平成21年12月19日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)

パネリスト:(50音順敬称略)
      潮 匡人(評論家)
      石 平 (評論家)
      川口マーン惠美(作家)
      永山英樹(台湾研究フォーラム会長)
      西尾幹二(評論家)
      西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
      藤井厳喜(国際問題ジャーナリスト)
      山村明義(ジャーナリスト)

司 会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

マスコミ人「松本重治氏」の疑惑的な証言

ゲストエッセイ 
 溝口 郁夫
坦々塾会員


  南京大虐殺派の笠原氏は『南京大虐殺否定論13のウソ』(225頁)の中で、マスコミ人の松本重治氏を取り上げている。

 そこでは「南京にいた従軍記者の中に捕虜虐殺や強姦、暴行などを目撃見聞していた人がいたことが紹介されている」と記述するだけである。

 なぜか、「従軍記者」ではなく「同盟通信社上海支局長」であった松本氏のみを取り上げた理由が薄弱である。

 そこで、笠原氏が取り上げた松本氏の過去を調べてみよう。

 昭和五十年、松本氏は『上海時代』(上・中・下)を本多勝一著『中国の旅』発行の三年後に出している。山本七平氏や鈴木明氏から『中国の旅』の出鱈目さが指摘されていた頃である。

 本多氏支援なのか、発行のタイミングが良すぎる。

 南京には十二月十八日から十九日にかけ二日しか滞在したにすぎない松本氏は、回想録で次のように書いている。
(この二日間滞在も疑問であると推測しているが、ここでは不問)

 「・・・私は、本多氏、洞教授、鈴木氏のものを心苦しさを覚えつつも、通読したが、事件の正確な全貌は、なかなかつかめなかった。だからといって、私は反論しようとは思わない。
・・・(同盟通信社)同僚の新井正義、前田雄二、深沢幹蔵の三氏から、参考のため、直接話を聞いた。とくに深沢氏はずっと従軍日記をつけていたので、それも読ませてもらい、大いに参考になった。」(下巻251~252頁)。

 松本氏は大虐殺が進行している筈の二日間滞在したのであれば、自分でも詳しく当時の様子を書ける筈であるが、それを回避している。何故だろう。

 ここで笠原氏がとりあげなかった前田氏の回想を紹介する。

「また占領後、難民区内で大規模な略奪、暴行、放火があったという外電が流れた。(中略)私たちは顔を見合わせた。新井も堀川も中村農夫も、市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も十四日には終っていたのだ。もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」(『戦争の流れの中に-南京大虐殺はなかった』(昭和57年、125頁)。

 松本氏と前田氏のそれぞれの回想のどちらがマスコミ人としての姿勢であろうか。

 なお、松本氏は「ゾルゲ事件」で死刑となった尾崎秀實も関係した「昭和研究会」の世話人である後藤隆之助と上海で会っている(『昭和研究会』86頁)。松本氏も「昭和研究会」のメンバーであり尾崎氏とも上海で接触はあったであろう。

 松本氏が南京事件虐殺派に理解を示す萌芽は、戦前の松本氏の行動からも納得でき、笠原氏が松本氏を取り上げた背景もなんとなくうなずけるのである。   以上

       文責:溝口 郁夫  坦々塾ブログより

松本重治について

 

文末にチャンネル桜のお知らせがあります。

足立氏の前記の文中に、松本重治『上海時代』(上・中・下三巻、中公新書)のことが書かれている。仰る通り不可解かつ不審な知識人のひとりが松本重治だった。私はずっと怪しいと思いながら、正体不明な存在で、丁寧に読む気にはなれなかった。足立さんが書いている通り、彼は自らをアメリカ寄りとみせていた、「左翼に入らない左翼」だった。

 私たちの世代にとって中央公論社から出ていた「世界の名著」は、余り左に片寄らない知識人、岩波型共産主義者からは一定の距離を置いている大学知識人を責任編集者に据えている、中庸のとれたシリーズとみられていた。松本重治はその中で『フランクリン、ジェファソン、マディソン、トクヴィル』の一巻を担当していた。

 自分の身にひきつけた長い解説文がこのシリーズの特色であった。松本はその中で東京帝大法学部で米国講座の担当の高木八尺(やさか)教授の下で昭和3年から大学助手としてつとめてきたいきさつから説き起こしている。彼がジェファソンやリンカーンに関心を寄せたのはそのころで、翻訳も始めていた。

 その後、高木先生のご諒解を得て、私はジャーナリズムに身を投じ、上海(シャンハイ)に赴任した。在勤6年、日米関係の癌(がん)ともいうべき中国問題を現地で考える機会をもったが、従軍記者としての過労から病を得て帰朝。健康を回復すると、やがて同盟通信本社の編集の責任をとるようになった。その職場において日米相戦うことを回避しようと微力ながらつとめたが、大勢いかんともなしがたく、日本は太平洋戦争に突入、敗戦、占領、そして私は裁かれることなくパージとなった。

 しかしそれは、私にとって天恵であった。パージされたものにも、学問研究の自由が許されていたからである。われわれアメリカ研究者たちは、戦前、アメリカの事情につき、世論の啓発に努力が足りなかったことを痛感した。私は再び高木先生の膝下(しっか)に馳せ参じて、昭和22年(1974)秋、藤原守胤(ふじわらもりたね)氏、中屋健一氏、清水博氏その他と相はかって、先生を初代会長とするアメリカ学会を結成した。そして一方、アメリカについて、占領下の日本国民の啓蒙に資するために「アメリカ研究」という入門雑誌を発行するとともに、他方、『原典アメリカ史』の本格的な共同研究を分冊刊行する仕事をはじめた。

文:松本重治  アメリカ民主主義思想の原型より

 どうもこのあたりの研究に問題がある。日本の戦後を再検討するにはこの時代のアメリカ研究の甘さ、「左翼に入らない左翼」を吟味する必要があろう。松本の『上海時代』は、私は食わず嫌いでよく読まなかったが、キーポイントになるのかもしれない。

 近刊の『保守への怒り』の55-56ページで、私は本多勝一の裏返しのアメリカべったり派の名を列記した。宮沢元首相、都留重人、坂西志保、入江昭、鶴見和子・俊輔から竹中平蔵、中谷巌をへて寺島実郎にいたるアメリカ左翼の系譜、日本では親米派とみられるので左翼には入らないが、しかしじつは最も厄介な、戦后を歪めた正体不明者の系譜である。今にして思えば、松本重治はそのトップに位置する人であると思う。

 加えて、「世界の名著」の『ウェーバー』の巻の責任編集者は尾高邦雄である。尾高といえば私がGHQ焚書図書開封の最初の巻でGHQ協力者として名を挙げた二人のうちの一人である。戦後知識人の世界がどのようにして形成されたかは、このシリーズの責任編集者の名前をじっとみといるといろいろ分ってくる。

 彼らのほとんどすべては鬼籍に入ってもういない。まさか『ショーペンハウァー』の巻の責任編集者がまだ生き残っていて、GHQ協力者の系譜に厳しい猜疑のを向けつづけているというようなことが起こっているとは、冥府の彼らもよもや考えておるまい。

 「左翼に入らない左翼」の親米派の行動の謎はわが国の独立のために今必要である。なぜならルーズベルトと蒋介石が手を結んだあの悪夢の時代がまた東アジアを襲っているからである。

 さしあたり松本重治の『上海時代』を今の新しい実証の光に照らしてよみ直すのは新しい課題になるだろう。北京勤務時代をもつ足立誠之さんあたりにやっていたゞけたらありがたいと思った。

番組名:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今...」

テーマ:民主党政権と解体する日本

放送予定日:平成21年12月19日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)

パネリスト:(50音順敬称略)
      潮 匡人(評論家)
      石 平 (評論家)
      川口マーン惠美(作家)
      永山英樹(台湾研究フォーラム会長)
      西尾幹二(評論家)
      西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)
      藤井厳喜(国際問題ジャーナリスト)
      山村明義(ジャーナリスト)

司 会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)