「決定版 国民の歴史 上・下」 感想文

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

 ちょうど一週間で読了した。お腹をすかせた子供がご飯をかき込むようにして読んだ。本当は、上等なお酒をじっくり味わうような読み方があってもよかったと思うが、それはできなかった。

 文庫本を読むのに先立って、あのずしりと重たい単行本の奥付を見て、この本が世に出されて早くも10年の年月が流れたことを改めて感じた。この間、無作為を繰り返すばかりだった自民党はついに自壊した。「冷戦の推移に踊らされた自民党」の章で指摘されているように、理念なき政党は国民から見放された。

 「国民の歴史」は私が30代の最後の最後に読んだ本である。若い頃、きちんとした読書をしてこなかった私は、その頃になってあせりのような気分を抱いていた。それ以降、何ら系統立った目的もなく、雑然と本を読み散らかして来た。

 私の読書は、中学時代の北杜夫「幽霊」が原体験となっている。北杜夫からトーマス・マンを知り、マンからワーグナーとショーペンハウエルを知り、西尾先生が翻訳された「意志と表象としての世界」を読んだときは、すでに26歳になっていた。私はその哲学書にまったく歯が立たなかった。ただ、こんなにも難解な書物を翻訳してしまう知の巨人がこの世の中にはいるのかという、恐れとも驚きともつかない当時の感情は今もはっきりと思い出すことができる。それ以来私の中では、「西尾幹二」という名前は特別な響きを持っている。それからほぼ四半世紀が経った。

 単行本から10年、私に起こった最大の変化の一つは、坦々塾の会員として西尾先生から直接教えを受けるという僥倖に恵まれたことである。若いとき、知の巨人と仰いだ人から、名前を覚えていただく日が来るなどということは、夢想だにできないことであった。

 大著を再読するということは滅多にない。読まなくてはならない本がたくさんある、という強迫観念から未だ脱することができないからだ。
 今回再読して感じた初読との一番の違いは、文章が以前より明瞭に理解でき、すんなりと頭に吸収される感覚を味わったことである。10年で利口になるわけはないから、これは間違いなく、坦々塾の勉強会の成果である。

 西尾先生の主張は一貫して揺るぎがない。私は前回この本を、恐らく多くの読者がそうであったように、自国の歴史の失地回復、名誉挽回の本として読んだ。いわば知識の吸収を目的として読んだ。

 西尾先生は歴史に向かう姿勢として、「事実に対する認識を認識する」という哲学的な態度の重要さを説かれた。また、人間の織りなす歴史を認識するということは、文学、哲学、宗教といった人間の本質を究明する教養が基礎にあって初めて可能なことであるともいった。また、歴史とは各国が相互に影響し合い、利害を衝突させながらそれによって翻弄されるものである以上、日本史もまた、世界史の視野をもって考察されなければならないという視点も示された。

 そういった西尾先生の、哲学、史学感を直接耳にしてきたことで、私の歴史に対する向き合い方が、坦々塾以前と以降とでは明らかに違った。もちろんまったくの勉強不足ではあるが、単なる年代記としての歴史、実証主義に呪縛された歴史、洗脳され修正された歴史、こういった我が国にはびこっている歴史観からは決別できた。10年前には、こうした視点から読むことはできなかった。そういう意味で、今回の文庫化は私にとって、大変いいタイミングであった。単行本を再読するという方法もあるが、今回は「決定版」である。迷わず買った。

 本書の上巻では中国に関する記述が多くを占める。我が国では、国の成り立ちの根本を成す多くの要素を、中国から学び、受容してきたとされている。漢字、仏教、儒教、稲。そういった中華大文明に対する負い目が、いかに幻想であるかが、圧倒的な筆致をもって描かれている。特に、文字を持たなかった縄文一万年の、記録に残らなかった歴史に言及する部分は圧巻である。先生は縄文語という言葉を使い、その当時間違いなく話されていた言葉があったという。今も我が国に残る意味不明な日本語の中にもそういった縄文時代から語られてきた言葉があるのではないかと思う。

 私の故郷、信州諏訪には、古事記に登場するタケミナカタノミコト(オオクニヌシの子)を祀る諏訪大社が鎮座するが、この地にも国譲り神話があり、諏訪から見たタケミナカタは征服者であり、土着の神は「ミシャグチ」と呼ばれている。

 この「ミシャグチ」が何を意味するのか、今ではまったく解らない。室町初期、すでに解らなかったという。私は密かに、縄文時代、諏訪の古神道によって信仰されていた、何か偉大な存在を昔から伝えてきた言葉でないかと考えていた。余談だが、諏訪では国譲りの際、権権二分を採用することで、両者の存続を計った。

 タケミナカタは地勢権を譲渡され、政治の実務を担当し、その血を受け継いだ人間が後の諏訪藩主となった。
土着神ミシャグチは祭祀権を継承し、幼い童に神霊を憑依させて祭祀を執り行う。

 現在大方の日本人は、中国に対して愛憎相半ばする感情を抱きつつ、こころの奥底の部分では、偉大なる師、文明の先達といった憧憬と、ある種抜きがたい劣等感を併せ持っているのではないかと思う。彼の国は歴史が古く、面積は広大であり、大事なことはほとんど中国から教えてもらったと漠然と考えている日本人が多い。

 我が国は教義の確立した大宗教も、文字も発明しなかったが、それらを受容して発展させていく過程において、偉大なる事跡を残した。現在の中国では近代概念を書き表すのに多くの日本語を使わなくては成り立たなくなっている。国名「中華人民共和国」も、中華以外は日本語である。
 また、稲を宗教的シンボルとした。各地に伝わるお田植え祭りや、豊饒祈願、秋の感謝祭に見られるように、日々の糧である米を、単なる食料の一つではなく、霊性をもった神からの献げものであるとして大切にしてきた。

 伊勢や宮中の新嘗祭がそれを端的に象徴している。私が子供時代の祖母は、天皇陛下が新米を食べるまでは口にしてはいけないといって、新嘗祭(勤労感謝の日)がすぎるまで新米を買うことを許さなかった。東北の農家に産まれた彼女は、そういったしきたりの中に育って来たのであろう。

 本書に稲妻についての言及がある。雷が田んぼの稲と交合することによって、稲穂が実るという思考は、とてつもなく壮大で、ロマン的である。雷を、天が稲の受胎のため使わす鳴動と捉えた。光と音による神の使い。その想像力とスケールの大きさには、ただ圧倒されるばかりだ。梅雨明け間際にはよく雷が鳴る。ちょうど稲が実り始めるころである。

 古神道の解釈を巡って、神はまれ人信仰か、祖先崇拝か、といった論争があるが、そのどちらでもあって構わないと思う。我が国の宗教観は、祖先崇拝、先祖慰霊を最も大切に考える。先生がおっしゃったように、この神道的な慰霊の心が、仏教においても取り込まれ、我が国独自の信仰を生み出した。我々の仏教儀礼といえば、葬式、法事、墓参りに尽きる。現世利益は、どちらかというと神道が担う。

 さて、キリスト教に関して、なぜ日本では信者が国民の1%以下にとどまっているのか、といった問題に、先生は一神教の持つ原理主義にその原因を求める。日本人は基本的に大まかで、何でも受け容れては加工することで自家薬籠としてしまい、肌に合わないとなれば放り出してしまうといった国民性を持つ。一つの神しか認めず、聖書に書いてあることを絶対の教義とするキリスト教はまったくなじまない。戦争に敗れた占領期は、アメリカにとって日本人を改宗する絶好の機会であったにも関わらず、成功しなかった。

 我が国の巨大構造物についての記述も、興味を引いた。仁徳天皇陵とエジプト・クフ王のピラミッドを同縮尺で図解し、我が国が模倣と精密加工に特化した縮み思考の国であるという通念を覆す。出雲の巨大空中神殿は、近年地下から巨木を三本束ねた柱の遺構が発掘されて、その実在が証明されたが、大林組によると縄文時代の土木技術で建立は可能であるということである。大林組では、出雲神殿再現プロジェクトチームを発足させて、現代土木技術・機械を一切使わないで、建築が可能かどうかのシミュレーションを行い、出版した。そこには、必要日数、人足、工法、現在価値に換算した必要経費も算出されている。大社裏山の中腹にロクロ(柱を建てるために、回転させながらロープを巻き付ける装置)を設置して、縄を結わえることで、このような巨大な柱を建てることも可能であるという。

 諏訪の御柱祭では、最後の御柱曳き建てを今でも重機を使わず、ロクロと人力だけで行っている。出雲と諏訪は親子神なので、お互い巨木信仰に対する親和性があるのではないかと思う。ある本には、古代日本に巨大建造物が多いのは、文字を持たなかったからではないかという推定が書いてあった。偉大な人物の事跡を文字で残せなかった時代には、その存在を古墳の大きさで表したのではないかというものである。4世紀を境に、巨大古墳は姿を消していくという。

 西尾先生は6月の坦々塾で、「思想的に明治以前に用意されていた国学が、明治の自覚とともに疑うことを不必要とした」、というお話しをされた。先生のこの短い言葉の中に、大河の奔流のような、我が国近代の歴史の悲劇と栄光がぎっしりと詰まっていると思う。それは運命でもあり、歴史の必然でもあった。白人による世界分割統治の最終局面において、日本は敢然と立ち上がり、防波堤となり、彼らの壮大な野望を挫いた。日本は神国として、世界と対峙した。江戸時代の国学者達は、よもや自らの思想が後の世で我が国が世界と戦う上でのバックボーンになろうとは思いもしなかったに違いない。

 時代の必要が、人材を輩出した。しかも、江戸中期という早い段階から周到に用意され、時間と共に思想は深化し、明治の自覚を待った。開国維新から、大東亜戦争敗北にいたる百年の歴史の何というダイナミズム。
「江戸のダイナミズム」があってこそ初めて成し遂げた偉業であった。まるで細い支流を幾本も呼び込むことで、大河が形成されるように、ゆったりと、静かに、そして着実に、明治の自覚を待った。肇国以来の危機がこうして回避された。

 下巻では近代世界が語られる。明治以降三つの大きな戦争を戦い、最後に破れた日本。そこに至るまでの世界の動きと、各国のエゴイズムは凄まじいの一言である。ナイーブな日本人は、そういった荒波に翻弄され続けた。

 アメリカの中国に対する幻想も災いした。蒋介石を支援しつつ、結果的に毛沢東を勝利させることで、人類に大きな厄災をもたらした。後に数千万人の人間が、命を奪われた。それは確かに結果論かもしれないが。

 日系人収容所に関しては今夏、「東洋宮武が覗いた世界」というドキュメンタリー映画が上映されている。

 その中に大変印象深いシーンがあった。インタビュアーが日系2世、3世に「収容所に入れられたことについて父母や祖父母はどんなことを話していたか」とたずねる。2世、3世はもはや日本語を話さないため、質問は英語である。その質問に対して、彼らの両親や祖父母が語った中に「仕方がない」という言葉が何度も出てきた。しかもこの「仕方がない」だけは日本語で発音していた。英語にはそれに相当する言葉がないのだろうかと思った。地道に働き、やっとその土地に生きる場を見つけ、結婚もし、あるいは小商店の主となってささやかに生きていこうとしていた彼らにとって、日本人であるというただそれだけの理由で、キャンプに収容される。ナチスのように殺さなかったから、アメリカの方が人道的であるという理屈は通用しまい。まったくの理不尽な仕打ちである。そういった運命に対して、「仕方がない」といって従容と受け容れる日本人。ここに我が同胞の民族性がよく表れていると思う。

 映画では、写真館主として成功していた宮武の、キャンプ内での撮影の様子が再現され、職業がこの方面に近い私は、そういった面での感動もあった。カメラの持ち込みは厳禁であったが、アメリカ人の中にも、協力者がいたようである。若い青年が年老いた父親(祖父?)に向かって、「どうして父さん達は、抗議の声を上げなかったのだ。広く国民に訴えれば、必ず賛同者を得られたはずだ。アメリカは自由と民主主義の国ではないか。」といって食ってかかるシーンがあった。記憶は曖昧だが、そんな息子に対して父は「人種差別というものが確かに存在した時代があった」、という意味のことを語ったように思う。

 建前として、人種差別は現在の地球上には存在しないことになっているが、そんなことは真っ赤な嘘である。

 一人我が国だけが、こうした偽善を信じている。政治家も官僚もマスコミも教師も、建前を本音と信じ、偽善を真実であると信じて疑わない。この極端なナイーブさはまったく変わっていない。我が国の大きな弱点、宿痾ですらあると思う。一定の品格を求められる大新聞が、ある程度建前をいうのは仕方ないのかもしれない。それは我々も、日々の社交という場面で繰り返している。ただしその裏にある、真実を見抜くもう一つの目を持たなくては、いいように手玉にとられてしまうであろう。人は善悪を共に内包する存在である。そのことをきちんと認識しない限り、我が国はこれからも世界の孤児として蹂躙され続けるであろう。

 商人は、卑屈に頭を下げて、無理難題もごもっともと聞いて、利のあるところに群がるが、最後は財布を開かせて金を受け取る。我が国は、卑屈に頭を下げて、無理難題もごもっともと聞いて、さらにお金も払っている。

 敗戦以降、精神の荒廃は止まず明治の光輝は完全に否定された。神話は忘れられ、歴史は貶められ、祖国は悪いことばかりしてきた、どうしようもない国だと定義されてしまった。丸山昌男の8.15革命説のように、原爆の光によって、戦後日本という新しい国が誕生したという錯覚に陥っている。

 アメリカ占領期の洗脳工作が、戦後64年を経てもなお一向に溶けないのはなぜであろうか。すでに世代は、占領国民の2世、3世の時代になっているにも関わらず、状況は悪化するばかりである。

 こんなにも、きれい事で現実を糊塗するような風潮は、一体いつから染みついたのであろうか。大衆が、大きな流れに漂ってしまうのは、これは仕方がないのかもしれない。ただし、一定のエリートや指導者には確乎とした人間洞察力がなくてはならない。これを養うためには、先生が言うように、文学、哲学、歴史、宗教に触れ、そこから学び、自らの血肉とする以外にない。私の回りにも、かつての偏差値秀才が、中学生レベルの正義感のまま、大人になったとしか思えない人間が何人もいる。先生はこうした現象を、福島瑞穂現象と喝破した。辻元ほど騒々しくなく、土井ほど憎たらしくなく、発言は一応正論。こういった人間は、民主党の多数をなし、やがて自民党の多数にもなろうとしている。驚くべきことに、実利を何よりも重視する実業界においても、こういった人間が多くなったように思う。私の先輩世代にあたる戦後創業者達は、皆一様に欲望に正直で、脂ぎった体質と強面の風貌をしており、風圧すら感じさせた。そういった人達が一線から去り、あるいは亡くなっていって、二代目が後を継ぐケースが増えている。彼らはおしなべて高学歴で、留学経験があったり、外国語を習得したりと、父親に較べて上品ではあるが、気迫には欠ける。何か日本人全体を象徴しているように思えてならない。行き着くところは、「唐様で売り家と書く三代目」であろうか。我が子の世代には、日本は売りに出ているのかもしれない。

 今の体たらくを見ていれば、これがあながち冗談とも思えない。

 勤勉、優秀、山紫水明、規律的、倹約、忍耐。日本を定義するこれらの美徳の、一体どれだけがその時残っているだろうか。

 戦後、金科玉条として来たスローガンに、平和、憲法遵守、民主主義、人権尊重と並んで平等という観念があった。偽悪的な言い方になってしまうが、私は人間のどうにもならない不平等をこそ教えるべきではないかと思う。少なくとも中学生ともなれば、そういったことは自らの人生を通して経験して来ている。

 私はこの10年間で通史と呼ばれるものを、日本史(16巻)、明治開国100年(10巻)、世界史(23巻)、古代ローマ史(28巻)と読んできた。二種類の日本史はどちらも階級闘争史観、マルクス主義史観で書かれている巻も多く、その部分は楽しくない読書であった。西尾先生の大著二冊「国民の歴史」と「江戸のダイナミズム」は、これらの通史とは明らかに違う。何よりも読んでいて楽しい。江戸のダイナミズムに関しては、難解であったという感想を何人かから聞いた。確かに易しい本ではないが、先生のいう、読みやすいことが良書の条件という基本は外れていなかったと思う。今回、感想を書くつもりが、ほとんどそれ以外の個人の世迷い言になってしまった。

 「決定版 国民の歴史」は、これ一冊を読めば、コンパクトに我が国の通史が理解できるという便利な本ではない。そもそも、そんな本は存在しない。私は今回この本を、歴史の本質とは何であるかということを、考えながら読み進んだ。そして先生がいつも講義で話し、ご著書で書かれている人間洞察のない歴史理解は、不可能であるという点にも注意した。さらに、人間はそれぞれ異質であるということを、異質には異質の正義があるということにも思いを馳せた。善意、正直といった価値観は、普遍でも真理でもない。ヨーロッパにもアメリカにも中国にも、それぞれの価値があり正義があり利害がある。ただ、それだけである。

 私達は日本に生まれた。特に私のように戦後(昭和34年)に生まれた世代は、歴史上誰も経験したことのないような、平和で豊かな生活を送って来た。ただし、わずかな時間をさかのぼれば、我が国もまた大きな国難に何度も見舞われて、必死に戦って来た。総力戦を戦うためには、軍備だけではなく、国学、思想といった知をも総動員した。先生はこの本で、何が何でも日本を礼賛しているわけではない。そう、歴史もまた是々非々で見るべきだと思う。先生の視点は、我が国の長い歴史を語りながら、つねに現在へのまなざしを忘れていないのではないだろうか。歴史に学ぶということを、我が国では過去の悪を繰り返さないと定義してしまったが、そこに大きな不幸があったと思う。本当に歴史から学ぶということは、人間が起こした歴史から、人間の本質を探り、現在のあるべき姿に反映させることではないかと思う。異質を理解するということは、その異質を育んだ文化の基底を知ることでもある。日本人も海外から見たら異質であろう。それで構わない。すぐれた点も、どうしようもない欠点もある。それらをすべて受け継ぐかたちで今の日本人がいる。近代文明を生み出し、文理にわたる近代学問を確立したと自負するヨーロッパにも、歴史の暗部はある。より多くあるといってもよい。歴史といわれているものの多くが、実は戦争の記述である。古代の英雄譚も戦史であり、NHKの大河ドラマも半分くらいは、内戦の物語ではないだろうか。権力闘争は、人間のどうにもならない本能であろう。現在はたまたま経済による代理戦争を戦っているが、戦争もまた、権力闘争であり、かつ経済闘争でもあるという側面を持つ。これも古代から変わらない原則ではないかと思う。

 人間のみがつねに過剰への欲求を持つ。蕩尽への飽くなき渇望がある。これがある限り、争いがなくなることはないであろう。

      文責:浅野 正美
(坦々塾のブログより転載

日本のダイナミズム 放送日のお知らせ

■放送:スカイパーフェクTV! 262ch 「シアター・テレビジョン」

■配信:シアター・テレビジョンHP http://www.theatertv.co.jp/movie/
※上記頁内にて動画配信中

シアター・テレビジョンホームページのトップページ右端にございます

番組検索で「西尾幹二」と検索すると、全番組が出てきます。
■お問合せ:シアター・テレビジョン03-3552-6665(平日10時~18時)

■チャンネルURL:http://www.theatertv.co.jp
■番組名:西尾幹二監修「日本のダイナミズム」(各20分番組)

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り

#21 「日本国改正憲法」前文私案
#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
#23 仏像となった天照大御神
#24 皇室への恐怖と原爆投下
#25 神聖化された「膨張するアメリカ」

●シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」
#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
#28 後期水戸学の確立
#29 ペリー来航と正氣の歌
#30 歴史の運命を知れ

●各話一挙放送

#21~#25 一挙放送

#26~#30 一挙放送

【放送日 放送時刻】

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#21 「日本国改正憲法」全文私案

放送日
放送時刻

11月02日
07:30  25:40 

11月04日
25:00 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#22仏教と儒教にからめ取られる神道

放送日
放送時刻

11月03日
07:30  25:40 

11月04日
25:20 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#23 仏像となった天照大御神

放送日
放送時刻

11月04日
07:30  25:40 

11月05日
25:20 

●シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#24 皇室への恐怖と原爆投下

放送日
放送時刻

11月04日
27:30 

11月05日
07:30  25:40 

● シリーズ:か弱き日本の神の怒り/#25 神聖化された「膨張するアメリカ」  

放送日
放送時刻

10月30日
07:30  25:40 

11月04日
27:50 

11月06日
07:30  25:40 

●シリーズ: か弱き日本の神の怒り/#21~#25 一挙放送

放送日
放送時刻

11月01日
17:00 

11月07日
10:20 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#26 和辻哲郎「アメリカの国民性」

放送日
放送時刻

11月09日
05:30 

11月16日
05:30 

11月23日
05:30 

11月30日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#27 儒学から水戸光圀『大日本史』へ

放送日
放送時刻

11月10日
05:30 

11月24日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#28 後期水戸学の確立

放送日
放送時刻

11月11日
05:30 

11月18日
05:30 

11月25日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#29 ペリー来航と正氣の歌

放送日
放送時刻

11月12日
05:30 

11月19日
05:30 

11月26日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代/

#30 歴史の運命を知れ

放送日
放送時刻

11月13日
05:30 

11月20日
05:30 

11月27日
05:30 

● シリーズ:日本の国体論はアメリカ独立宣言と同時代

/#26~#31 一挙放送

放送日
放送時刻

11月14日
05:20 

11月21日
05:20 

11月28日
05:20 

『決定版 国民の歴史』の加筆された新稿から(二)

 出版後数年にもわたり歴史学者たちから反論や批判が相次いで、わざわざそのために誹謗本を書く人までが何人も現れたのには驚きましたが、それは『国民の歴史』にとって名誉なことであり、どうぞもっと激しくやってくださいという気持ちでした。私を当時落着かなくさせたのはむしろこの本の評価でした。心外に思ったことが二つほどあります。広告文面などに日本人の誇りを確立させるために書かれた本だ、というような文言が飛び交っていたことでした。

 日本人に誇りを与えるとか自虐史観に打ち克つとか、そんな言葉が当時流行っていて、一緒にされるのは迷惑だなと思いました。私でなくても誰であろうと、簡単な心理的動機で大きな本を書くことはできません。

 もうひとつ心外だったのは、戦後の歴史観に挑戦している本だというような言葉遣いです。これは広くこの本に与えられた通説でした。しかし違うのです。私の目的はもっと大きいのに、なぜ読み取れないのか、と不満に思いました。

 上巻付論「自画像を描けない日本人」に書いた通り、「日本から見た世界史のなかに置かれた日本史」が私の構想であり、私がそれを実現したと言っているつもりはなく、そのための試論、基礎的理念の提供の書であることが本書の狙いでした。

 戦後の歴史観の否定というのは大きな目的のうちの一部にほかなりません。自分にとって不本意な言葉が飛び交っていることに落着かない思いを抱くのはどの著者でも同じでしょう。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 

 地球上のありとあらゆる民族の興亡の歴史を念頭に置いた場合、この列島の住人の歴史は比較相対的にみて、一言語・一民族・一国家の特性を示していると言ってもさほど間違いではないのではないかと私は考えます。七世紀半ばという日本の国家的自覚は、ヨーロッパの各国より七百年ほど古く、ヨーロッパの「契約国家」とは異なり、いわば「自然発生国家」でした。長い未完成な国家以前の国家の経過を前提としています。もちろん厳密なことをいえば網野善彦氏が言う通り「列島全域をおおった国家」ではなかったでしょうが、だから「日本」はまるきり存在しなかったと目鯨を立てるのは、比較相対的にみて、大雑把にいってそう言えるという物事を判断する際の「常識」に反します。

 加えて、網野氏は『「日本」とは何か』の第三章で、「日本」という国号は中国から見て東の方向を指す意味であり、中国という「大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマトの支配者の姿勢をよくうかがうことができる」といい、「唐帝国にとらわれた国号であり、真の意味で自らの足で立った自立とはいい難い」と述べ、この国号を大嫌いと言った江戸の国家神道家の例を挙げて、「日本」という国号に思う存分に罵言誹謗を浴びせた気になっています。

 しかし何というわからず屋の無知蒙昧のご仁でしょう。古代のわが国が大陸の大文明にとらわれた時代から国の歩みを始めたことは自明であって、それは不幸でも敗北でもありません。大文明から少しずつ独立に向かった歴史の歩みこそが貴重であり、創造的です。独立への心をやれ空威張りだとか、やれ対抗心にとらわれているとかいって嘲ける網野氏のような人間の存在こそが不幸であり、敗北なのです。

 そもそも「真の意味で自らの足で立った自立」を達成した国など何処にもありません。中国の各王朝も治乱興亡の歴史の波間にあり、近代西洋の各国もまた同様です。しかし本書の読者にはもうこれ以上申し上げる必要はないでしょう。「日本」にとらわれているのはむしろ網野氏や同類の日本史学者たちであって、『国民の歴史』はこのうえもなく広大な視野で、文明の興亡を展望し、わが国の歩みをその中に位置づけるべきとした新しい歴史記述のための試論を心掛けたのでした。日本史学者の視野の狭さにはほとほと手を焼きました。通説となっている極西(ヨーロッパ)と極東(日本)の相似性と同時勃興の歴史に関する基礎知識さえ彼らは持っていません。世界史のことは何も知らないのです。言語学や哲学や神話学など他の学問分野のことも何も知らないのが日本史の学者たちです。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 さて、『国民の歴史』の方法論の一つが「比較」にあることは前に述べましたが、もう一つの特色として私が多少の自負をもっているのはどのテーマも可能な限り「根源」を目指していることです。縄文土器文明、日本語の起源、中国と日本の王権、中国の文書主義、古代専制国家、儒家と法家、世界史の概念、そして西欧の地球占有。最後のテーマは普通スペインとポルトガルを起源としますが、本書は十字軍、それも北の十字軍を示唆しています。北の十字軍からニュルンベルク裁判まで一直線につながるものがあると判断しています。

 縄文土器文明については、従来の考古学と異なり、地下層の花粉探査をはじめ数々の大規模科学調査に基づく安田喜憲氏の研究成果を知ったのは幸運でした。氏はその後も東アジア全域に調査を広げ、縄文文明の意味を確認しつづけています。

 日本語の起源問題は現代で最も信頼度の高い松本克己氏の論文に依拠しました。氏は世界言語を視野に収めた言語類型地理論の手法で、袋小路に陥った日本語系統論に、壮大で緻密な論考を展開して活路を見出してこられました。私が参考にしたのはまだ雑誌論文でしたが、平成十九年に氏の『世界言語のなかの日本語』(三省堂)が刊行され、新地平を拓きました。本書は安田喜憲氏の縄文と松本克己氏の日本語論が柱をなしたと言っても過言ではありません。

下巻付論「『国民の歴史』という本の歴史」より

 最後の一文は、私がなぜ神武東征から書き始めなかったかの根拠を示しています。しかし、神武東征を含む神話と歴史をめぐるテーマの理論分析が本書の上巻で徹底的に扱われたことは周知に属します。第6章の「神話と歴史」、第7章「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」、第8章「王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝」の三つの章にわたる展開をご覧下さい。

 気になっていた第8章の文章の不分明や混迷を今度かなり修正し、整理しました。よみ易くなったはずです。

『決定版 国民の歴史』の加筆された新稿から(一)

 『決定版 国民の歴史』上巻には「まえがき 歴史とは何か」と付論「自画像を描けない日本人」、下巻には付論「『国民の歴史』という本の歴史」と「参考文献一覧」が新しい内容として追加加筆されました。全部で150枚を越える分量です。

 版元の許可を得たので、この中から面白そうな個所、大切な指摘と思われる個所を若干抜き出して二回に分けて掲示してみます。

 私たちは高い山を遠くに望みながら歩けば、角度により、近景のいかんにより、季節により、時刻により山が異なった印象を与えることを経験している。歴史はわれわれが歩くことによって異なって見える高い山の光景に似ている。

 日本史に起こった客観的な諸事実、その年代記的な諸事実は紛れもなく動かずに存在するものである。それが高い山であるとしたら、それが歴史なのではなく、歩くことで現在の私たちの目に新しい光景として映じている山の映像こそがまさに歴史である。

 本書には、葛飾北斎の富嶽三十六景の中から三枚の絵を掲示している。思い切った譬(たと)えを申し上げるなら、富士山は動かない存在、歴史上の客観的な事実である。しかしそれを知ることは誰にもできない。遠望できるだけである。北斎は現在の自分の置かれたポジションの条件を幾重にも組み替えることで、すなわち自分を相対化することで、富士の姿の絶対化を図ろうとした。それは数限りない冒険であり、知的実験であった。

 セザンヌも同様に何の変哲もない、ただの岩塊から成るサント・ヴィクトワール山を三十六枚も描いた。季節により、時刻により、山は絶え間なく変容して見えた。しかし山の形姿そのものが大きく動くわけではない。同一の山をくりかえし描くなどということは西洋美術の伝統になく、セザンヌは北斎からこの実験のヒントを得たに相違ないが、二人に共通するきわどい、執拗で大胆な試み、届き得ない不動の山に、自分をばらばらに解体させる視点の多様化で接近しようとした実験精神こそ、ほかでもない、歴史家が歴史に立ち向かう際のあるべき精神に相似した理想の比喩なのではないだろうか。

 歴史という定まった事実世界を把握することは誰にもできない。歴史に事実はない。事実に対する認識を認識することが歴史である。

 それは私たちが絶え間なく流動する現在の生をいったん遮断し、瞬間の決定を過去に投影する情熱の所産である。相対性の中での絶対の結晶化である。

 今私たちに必要なのは、日本文明を歴史の時間軸と世界の空間軸の上にのせ、全体を俯瞰し、多用な比較を介して新しく位置づけるための認識の決断である。

「まえがき 歴史とは何か」より  

 荻生徂徠という人物がいて、徹底した中国主義者でありますが、古文字に遡っていく徂徠と宣長の精神構造がよく似ているのです。宣長は徹底した日本主義者です。そして、徂徠が逆転して宣長になったとも言える。これは中国文化というものが入ってきたときの古代日本に起こった文字獲得の原初のドラマが江戸を舞台として再演されたことを意味するように思います。私が5「日本語確立への苦闘」の章で書いたあの古代史の戦い、古代日本人が中国語を学んで、さいごに中国語の文字だけを利用して日本語を確立したというドラマが江戸時代にもう一度繰り返されたのです。それがある意味で徂徠から宣長への逆転のドラマではなかったか。いわば言語文化ルネサンスです。

 私の『江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋』の中心モチーフがまさにこれでした。古代の言語の再獲得は、民族の神の再認識のドラマでもあります。江戸時代の儒学というのは、学問や教養としては入ってきたけれども、儒教そのものは日本人の生活の中に入ってこなかった。朝鮮は、徹底した儒教の国です。しかし日本には儒教が生活基盤にまで入ってこないで、国学誕生の言語文化ルネサンスを引き起こし、神の国復活に役立ったことが最良の貢献であったと私は思っています。

 儒教が本当に入ってきたら、必ず科挙が入ってくるはずです。科挙が入ってきて、中国や朝鮮のような文民官僚国家が成立しているはずです。武士階級というものは成立しなかったはずです。そういうことを考えますと、江戸時代の儒学ブームというのは、民族の精神の復活劇として吟味し直す必要があると私は思っています。合理主義としての思考訓練と道徳の教本としての儒学の役割はたしかにありました。合理主義はやがて西洋のそれに取って代わられ、儒教の道徳は現代社会に生きていません。われわれは今どんどん中国文明から離れています。江戸時代の儒学の習得が生活に根ざして本物なら、こんなにかんたんに消え去ることはないでしょう。結局儒学は日本人の信仰に寄与するというまったく別の役割を補佐したのだと思います。

 大陸に対する対応は、べったりするか、距離を取るかしか方法がありませんでした。外から入って来るもう一つの足場がなかったわけですから、日本に西洋が入ってきたときには、一転して中国に対して距離を持つことができるようになったのです。

 逆に言うと、この列島には何が訪れても自分の内部が壊れることはないという例の安心感があります。一見して原理のない、規範を持たない国ですが、すべてを包括し同化し、貯蔵する巨大なタンクのような文化は現代でもなお存続しています。それが結果として、独自文化としての自己主張を、もちろん言えば言えるものがあるのに、それをあえて言わないことをもって強さとする国になっていると言っていいかもしれません。そういう構造を生み出して今日に至っているのではないかという気がします。

上巻付論「自画像を描けない日本人」より

『決定版 国民の歴史』の刊行

 10月10日にようやく『決定版 国民の歴史』(上・下)が刊行されました。文春文庫の棚は全国のほとんどすべての書店にありますので、そこにご覧のような表紙絵の文庫本が二冊横積みに置いてあるはずです。もの凄い勢いで売れた今から10年前のフィーバーよもう一度甦れ、と期待していますが、さてどうなることやら分りません。

『決定版 国民の歴史』上
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『決定版 国民の歴史』下ketteikokumin2.jpg

 過去、当日録にこの本の紹介文章を記しました。もう一度みて下さい。

 ここには目次のみを再度掲示しておきます。新たに加筆した赤文字の個所にご注目下さい。何人かの友人がこの追加部分を早くも読んで、面白いと言ってくれました。

上巻目次

 まえがき 歴史とは何か
1・・・・一文明圏としての日本列島
2・・・・時代区分について
3・・・・世界最古の縄文土器文明
4・・・・稲作文化を担ったのは弥生人ではない
5・・・・日本語確立への苦闘
6・・・・神話と歴史
7・・・・魏志倭人伝は歴史資料に値しない
8・・・・王権の根拠―日本の天皇と中国の皇帝
9・・・・漢の時代におこっていた明治維新
10・・・奈良の都は長安に似ていなかった
11・・・平安京の落日と中世ヨーロッパ
12・・・中国から離れるタイミングのよさ―遣唐使の廃止
13・・・縄文火焔土器、運慶、葛飾北斎
14・・・「世界史」はモンゴル帝国から始まった

 上巻付論 自画像を描けない日本人
――「本来的自己」の回復のために――

下巻目次

15・・・西欧の野望・地球分割計画
16・・・秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
17・・・GODを「神」と訳した間違い
18・・・鎖国は本当にあったのか
19・・・優越していた東アジアとアヘン戦争
20・・・トルデシリャス条約、万国公法、国際連盟、ニュルンベルク裁判
21・・・西洋の革命より革命的であった明治維新
22・・・教育立国の背景
23・・・朝鮮はなぜ眠りつづけたのか
24・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その一)
25・・・アメリカが先に日本を仮想敵国にした(その二)
26・・・日本の戦争の孤独さ
27・・・終戦の日
28・・・日本が敗れたのは「戦後の戦争」である
29・・・大正教養主義と戦後進歩主義
30・・・冷戦の推移におどらされた自民党政治
31・・・現代日本における学問の危機
32・・・私はいま日韓問題をどう考えているか
33・・・ホロコーストと戦争犯罪
34・・・人は自由に耐えられるか
原著あとがき
参考文献一覧
下巻付論 『国民の歴史』という本の歴史

 今回「決定版」と名づけたのには幾つかの理由があります。余りにも短い時間に1700枚もの大著を書き上げたので、文章に粗い所や乱れがあり、若干の誤値もありました。それらの修正はもとより、古代史その他に研究上補説の必要な個所も生じ、かなりの書き加えも起こりました。徹底的に見直して、後顧の憂いをなくしたいと思ったのは、私の死後何十年かたってもう一回改版される可能性があるものと信じているからです。テキストの完成はそのためにどうしても必要です。

 テキストを正確にするには私の地の文の精査に心を尽くすのは当然ですが、引用文にも書き間違いや写し間違いがあってはなりません。今度文芸春秋の校閲部は数百点にのぼる多種多様な引用書の原書の引用個所にすべて当って、過ちを正し、正確を期することになりました。これには私も驚きました。約400点はある引用書の原本の8割はわが家の書庫にあります。しかし、10年たっているのでどこかの図書館を利用したり人から借りたりして、いま手元にない本も少くありません。

 日本の出版文化はなお校閲部を有する大手出版社に関する限りじつに頼りになるものだと思いました。新潮社や中央公論社で本を出したときにもほゞ同じ経験をしました。文藝春秋の編集担当者は校閲部を手助けするために、普通に手に入らない本や文献――私の自宅にはいま存在しない――をさがして図書館や他の出版社を走り回ってくれました。引用文の正誤を正すためにたった一冊も見逃すまいとしてです。それは血のにじむ努力で、しかも誰も気がつかない目立たぬ努力です。

 文藝春秋と扶桑社とでは出版に対する心がけがまるで違います。扶桑社には校閲部がありません。だから誤植の多い本を平気で出します。その他でも、校閲部のない出版社はざらにあります。「決定版」はやはり文芸春秋レベルでないと出版できないことを確認しました。

 もとより私の『江戸のダイナミズム』のときの同社の校閲班の努力はこの比ではありませんでした。今思うと、不景気の時代によくあんな規模の本を出してもらえたものと思います。

 『国民の歴史』に引用した本の8割は私の書庫に所在しますが、10年経って、どこの位置にあるか書庫は広いし混乱しているのですでに分らなくなっていました。かりに本を見つけても、引用個所がどのページだったか忘れていて、これまた捜すのに一苦労です。一日、担当編集者と共同で作業し、本の必要個所をみつけてコピーし、コピーを校閲部に運んでもらう準備をしましたが、一日では足りませんでした。

 そんなわけで書庫をかき回す作業が何日もつづきました。次第に10年前の熱闘の記憶が甦りました。忘れかけていた内容、読みかけのテーマ、追求途中で放棄した課題――古代から現代に及ぶ日本史・中国史・西洋史のさまざまな問題が心の中に復活し、そうだ、もう一度しっかり勉強し直そうという気にもなってきました。

 『決定版 国民の歴史』の下巻に、「参考文献一覧」が小さい字で12ページにわたりびっしり、各章ごとに分けて提示されています。これはこの新版の新しい特徴です。私はこの文献一覧を作成するために大学ノートを用意し、混乱した書庫を整理してから各種各様の本を読んだり、閉じたり、思案したりしつつ、新しい分類表をつくりました。これは楽しい作業でした。また次への新しい仕事のプランが湧き出てくる心躍る充実した時間でもありました。

 いかに世界には私の思い及ばない知らないことが多いか。この歳までいかに学ぼうとして学び得ないできたか。文章を書くよりも、もっとたくさん読まなければいけない。書くことには時間を要し、つい学ぶことが疎かになる。いつもその反省が私を苦しめます。あまりたくさん書く仕事をしない学者は、私よりもよく勉強し、多くをよく知っている。その事実もたしかにあって、私を焦らせてきました。

 今年の6月と7月は書庫をかき回して必死でした。心に惑いが生じ、不安が芽生え、勇気も湧いてきました。「参考文献一覧」はとても思いの多い仕事となりました。読者の利便に供しただけでなく、読者の興味をも十分にそそる書名と著者名の開示になっているように思えます。ぜひ注目して読んでいたゞきたい。

 しかも普通の参考文献表と違って、ところどころに私の自由なコメントが入っていて、型破りであり、担当編集者をこの点でも面白がらせました。

 上下巻についている各付論とまえがきは併せて150枚はあり、当然語るべきことはたくさんありますが、これは読んで頂くしかありません。今日は普通には目立たない「参考文献一覧」について、あえて一言しました。

SAPIO9/30号より

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以下はSAPIO9/30号からの抜粋です。

私の理想だった「深窓の令嬢」が目の前に現れた

東大の学生たちがみなボーッとしてしまった ミッチーブームとは?

「世紀の御成婚」から50年――民間出身の初の皇太子妃となった美智子妃への熱狂と現象は、いまも語り草となっている。そのミッチーブームを、同時代人はどう見ていたのか。舌鋒鋭い評論で知られる西尾幹二氏が、当時を語る。
              
 ※

 私が「正田美智子」という名前を知ったのは、実に半世紀ほど前、東京大学文学部独文科を卒業し、独文専攻の大学院修士1年に在籍していたころであった。

 昭和33年11月27日、皇太子明仁親王とのご婚約記者会見が行なわれた。以後、新聞はもちろんのこと、創刊ラッシュに沸いていた週刊誌や、グラフ誌、あるいはモノクロのテレビなどで、皇后陛下の「画像」が世に溢れかえることになる。

 それを見て、私は正直大変に驚いた。「本当にこんな人がいたんだ」と。

 それはまさに「深窓の令嬢」を絵に描いたようなお姿であった。ちなみに、私は昭和10年生まれで当時23歳。美智子妃は昭和9年、明仁親王は昭和8年のお生まれだから、まさに同世代の出来事であった。

 現代と違って男女の付き合いは簡単ではなかったし、文学青年というのは幻想肥大で、頭の中だけで「ノーブルな女性」に憧れる傾向がある。当時の東大でも多少は女子大との交流もあったものだが、出会った女性を仲間内で品定めをして騒ぐといった程度で、その意味では私もこの時代の平均的な若くて普通の男児であった。とはいえ、現実には、正真正銘の「深窓の令嬢」などなかなか存在せず、結婚相手として頭の中で想像するだけで、憧れは憧れに留まっていた。

 そんなとき、若かりし美智子妃を見たのである。私は東京出身であるが、まず聖心女子大学なるものが存在することを知らなかった。日本はまだ貧しく、戦後の混乱の只中にあり、食糧不足はつづいていた。何より、軽井沢の別荘や「テニス」など、自分の人生に関わることなどと想像したことすらなかった。

 この時代、大半の学生は貧しいのが当たり前であった。昼飯は生協で買ったコッペパンと牛乳があれば上等という「コッペパンの青春」なのだ。

 ゆえに皇太子殿下と美智子妃殿下のラブロマンスは、当時の若者たちにとって夢物語のようであり、美智子妃殿下が記者会見で語った「ご誠実でご立派な」という発言は流行語にもなった。

 この報道の後、私だけでなく、いつも一緒にいた生意気な文学青年たちも美智子妃のことを話題にしては、みながみな、ボーッとしていたことをよく覚えている。大学院には年上の同僚や結婚していた者もいたが、みな、同じような憧れの目で見ていた。

 私はといえば、美智子妃殿下とご結婚なされる明仁親王に「負けた」と思いつつ「皇室なら仕方ないな」と思ったものである。

 昭和33年末からご成婚のあった昭和34年は、60年安保を控え、左翼学生が幅を利かし、学内は殺伐とした空気に満ちていた。共産党は当時、「天皇制打倒」を謳っていたはずだが、考えてみれば、学内で「ご成婚」に反対する動きは不思議とまったくなかった。

 左翼学生も同じ気持ちだったのだろうか。

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ブームの背景にあった美智子妃の「覚悟」

 ともあれ、婚約記者会見から以後、世に言う「ミッチー・ブーム」が巻き起こった。次々と創刊された週刊誌により、やれファッションがどうだ、どこで何をしたといった情報が巷間に氾濫し、一般家庭ではご成婚パレードを見たさにテレビが売れに売れ、200万台を突破した。そのご成婚のパレード当日、皇居から渋谷までの8.18kmの沿道に53万人が集ったというのだが、私はさすがに見に行っていない。

 こうした熱狂は、天皇と国民の距離が最も近かった良き時代だったことも要因の一つであろう。昭和天皇に気さくな「天チャン」という愛称が奉られ、みんながなれなれしく天皇について語り、批判も含めた皇室への言論は今よりはるかに自由で、のびのびしていた。そうした空気が一変するのはご成婚の2年後(昭和36年)に起こった「*風流夢譚」事件以後のことである。

 だが、あれほど国民が熱狂したのは、メディアのいうところの「昭和のシンデレラ」的な甘い夢物語とは違う。ブームの最中、皇后陛下の楚々とした態度のなかにお見せになられる、大変な緊張というか、「覚悟」のようなものを、どこかで国民が感じていたからであろう。

 ちょうど60年代は、「革命」が現実味を帯びていた時代だった。私のような保守学生は、左翼学生から「お前をいつか人民裁判で死刑にしてやるぞ」などといわれていたものだ。革命が起きれば皇室がどうなるかは天皇陛下も十分ご理解していたはずである。婚約前の昭和33年7月、イラク国王ファイサル二世が軍部のクーデターと民衆蜂起により暗殺されたその日、学友の橋本明氏に「きっと、これが僕の運命だね」とこぼされたという。陛下自身、革命が起こりうるかもしれない時代の空気を察していたであろうし、その皇室に嫁ぐことがどういう意味を持つか、この時代を生きてきた皇后陛下も十分にご承知なされていたと思う。

 もちろん、それも一端であったとして、それだけが皇后陛下の「ご覚悟」のすべてであったということはあるまい。

 もっと別な理由があった。それを私が理解する契機になったのが、ご母堂の冨美(のちに富美子に改名)夫人の記者会見であった。

正田家と皇后が理解していた「カミ」という概念

 ミッチー・ブームの最中、「深窓の令嬢」としての皇后陛下の優雅さに惹かれる一方で、冨美夫人の皇后陛下とはまた別な明治の貴婦人のごとく凛とした美しさに感嘆した記憶がある。

 それにもまして興味深かったのは、冨美夫人が記者会見で「娘には天皇は神であるとは教えてこなかった」といった趣旨の発言をされたことだ。

 当時の私は、それを言葉通りに受け取った。戦前の時代背景を考えれば、随分としっかりした考えを持った家族なのだな、という程度の認識である。

 しかし、その後、正田家は、この発言とは正反対の行動を取り続けることになる。ご夫君正田英三郎氏は日清製粉の社長であったが、ご成婚後、会社の代表を退かれ、極力、表舞台には出ないようにしてきた。皇室の外戚に当る会社で何かあれば迷惑がかかるというのが理由であったという。また、よほどのことがなければ皇后陛下の里帰りさえ許さず、常に遠くから見守るだけであった。英三郎氏が逝去した時、皇后陛下は将来天皇になられる方であるという理由で、わが子浩宮殿下の弔問をお避けになったのは語り草である。正田家は、娘を皇室に嫁がせた瞬間、一切の私的な交流を絶ってきたのである。

 ここにあるのは、平等であるとか人権であるとか民主主義であるといった近代の理念がまったく立ち入ることのできない「界域」としての「皇室」である。天皇家に嫁することは、同時に俗世間との境を超越することを意味していることを皇后陛下はご理解なされていた。

 巨樹にしめ縄を張って、それをカミとして祈るように、日本人は、自然の中に我々とつながる命をみて、そこにカミが宿るという宗教観念を持っている。天皇が「カミ」であるとは、そんな日本人の信仰世界、神道の祭祀役という意味においてのことであり、西洋的な絶対神とは明らかに違うご存在としてである。それゆえ天皇は、あらゆる「俗世間」から切り離される。その境を越えて「カミ」になる覚悟、いや、畏怖の念といっていいお気持ちを皇后陛下は持たれていた。それを肌で感じたからこそ私を含めて国民が、「ご成婚」に熱狂したのだと、今では思う次第なのである。

 私は、昭和50年ごろ、中軽井沢の駅のホームで、当時は皇太子であった天皇ご一家のお振舞いをそば近くで目撃する幸運に恵まれたことがあった。

 まだ新幹線ができる前で、同じ車輌に偶然、乗り合わせたのだ。天皇皇后両陛下に、秋篠宮殿下、紀宮内親王の4人が歩いておられた(皇太子殿下は留学中だったのであろう)。ちょうど、そのところに私たち家族も車輌を降りて、一緒に駅のホームを歩くことになったのだ。格別の警備も警護も見当たらず、一家は自由に一般市民と立ち交じっておられた。私は天皇陛下の斜め横2mの位置で後ろをついて行った。

 階段の下には、地元の女子高生が数名、居合わせて黄色い声をあげて固まって座っていると、陛下は彼女たちの前で、身を屈めて、一人一人に握手をなさった。少し後ろにいらっしゃった皇后陛下は、やはり少し腰を屈め、優しい、そして静かな笑顔を彼女たちに投げかけられていた。

 実に自然なお姿と仕草で、私はきっと天皇ご一家は日ごろ、国民とこんな風に接しておられるのだな、と想像することができたし、事実、今現在でも全国いたるところで似たような光景が繰り返されていることであろう。

 だからこそ私は、こう思うのだ。

 ここに至るまで、皇后陛下が、どれだけのご苦労を、強い意志で乗り越えられてきたのかということを。戦後間もないあの時代に、ごく普通の女性が、皇室に入り「カミ」となるのだ。並大抵のご苦労ではなかったことであろう。皇后陛下は、一生をかけてその答えを出そうと、すべてを捧げてこられてきたに違いない、と。

 若かりし頃に憧れた「深窓の令嬢」の面影ではなく、また、ご母堂の冨美夫人のような貴婦人のような美しさでもなく、そこに私が見たのは、国民の中心として平成という時代を天皇陛下と共に支え「国家の魂」となられたご存在だった。

 それを昔の人は「神」と呼んだのである。

*「中央公論」1960年12月号に掲載された作家・深沢七郎氏の小説「風流無譚」の中で、天皇ご一家が革命家らに襲われる描写が不敬であるとして右翼が抗議。61年2月には右翼団体に所属する少年が中央公論社社長宅に押しかけ、社長夫人が重傷を負い、家政婦が射殺された。

シアター・テレビジョンの歴史講座

 以前から私が「日本のダイナミズム」というやゝ大袈裟な題でテレビの歴史講座を開いていることは、若干知られているだろうが、スカパーのシアター・テレビジョンの配信なので、容易に近づけない人もいたに違いない。

 9月末から(株)シアター・テレビジョンのご好意で、スカパーの手続きなしでインターネットにおいて無料公開されることになった(ただし、WEB会員登録をする必要有り)。この「西尾幹二のインターネット日録」(サイドバー)からも直接クリックして、自由に開いて見ることができる。(株)シアター・テレビジョンの寛大な措置に感謝したい。

 私の放送はすでに5回分(1回が各100分)、録画されている。第5回の10月分はまだこれから放送になるが、最初の4回は今日からでも見ることができる。

 1回が小さく20分づつ5題目に分かれているのも、テレビ放送のつごうによる。20分づつ同じ放送を何度も繰り返して流すのがCSテレビの通例だそうである。したがって、20分づつ題目の変わる小話が5つで一つのくゝりになり、それがすでに5くくり分できていることになる。

 ご覧になると20分で切れて、何度も私が開始の口上を述べるのは多分見ていてわずらわしいかもしれないが、テレビの性格上そういうことなので我慢していたゞきたい。どうかよろしく。

*************************

西尾幹二監修「日本のダイナミズム」(各20分)
ウェブ動画視聴方法

■配信サイト
シアター・テレビジョン ホームページ
http://www.theatertv.co.jp/movie/
※シアター・テレビジョンホームページのトップページ右端にございます
番組検索で「西尾幹二」と検索すると、西尾先生の全番組が出てきます。

●シリーズ:現代史を考える
#1 マルクス主義的歴史観の残骸
#2 すり替わった善玉・悪玉説
#3 半藤一利『昭和史』の単純構造
#4 アメリカはなぜ日本と戦ったのか
#5 日本は「侵略」していない

●シリーズ:現代史を考える/再び問う「アメリカはなぜ日本と戦争したのか」
#6 いい子ぶりっ子のアメリカの謎
#7 ヨーロッパの打算的合理性、アメリカの怪物的非合理性
#8 中国はそもそも国家ではなかった
#9 日本を徒に不幸にした「中国の保護者」アメリカ
#10 ソ連と未来の夢を共にできると信じたルーズベルト政権

●シリーズ:現代史を考える/日米戦争の宗教的背景
#11 アメリカの突然変異
#12 アメリカの「闇の宗教」
#13 西部開拓の正当化とソ連との共同謀議
#14 第一次大戦直後に第二次大戦の裁きのレールは敷かれていた
#15 歴史の肯定

●シリーズ:現代史を考える/二つの「神の国」の衝突
#16 神のもとにある国・アメリカ
#17 じつは日本も「神の国」
#18 政教分離の真相
#19 「国体」論の成立と展開
#20 世界史だった日本史

●シリーズ:現代史を考える/か弱き日本の神の怒り
#21 「日本国改正憲法」前文私案
#22 仏教と儒教にからめ取られる神道
#23 仏像となった天照大御神
#24 皇室への恐怖と原爆投下
#25 神聖化された「膨張するアメリカ」

シアター・テレビジョンのご案内

シアター・テレビジョンは「世界は舞台、人生すべてシアターです」をキーワードにニュース・政治から歴史・文化・教養・アートまで今のTVに飽き足らない人の欲求に応えるコンテンツを提供しております。
シアター・テレビジョンでしか観られない監修・出演陣によるメディアのタブーを破る直言が満載!

【番組例】
■中曽根康弘『定点観測』 毎週月曜21:00~ほか
中曽根康弘元総理が現在の日本を鋭く斬る!/聞き手:松本健一
■笹川陽平『地球を歩く~世界のコンフィデンシャル~』 毎週木曜7:00/15:00~ほか
行動範囲は地球!あなたの知らない現実を暴く!
■堤 堯『時代を創る』 毎週月曜7:00/15:00~ほか
日本再生の糸口を求めて全国行脚!
■『江戸千家~家元の所作に学ぶ~』 毎週月水金曜11:00/23:00~ほか
家元直伝!自宅にいながらにしてお茶のお稽古が学べます
■宮脇淳子『世界史はモンゴル帝国から始まった』 毎週土曜7:00~ほか
■このほか、オペラ(ロイヤル・オペラなど)・バレエ(パリオペラ座、ロイヤル・バレエほか)・ドキュメンタリー(新富座こども歌舞伎、ミュージカル「葉っぱのフレディ」)なども放送中!

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日本文化チャンネル桜出演

タイトル:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今…」

テーマ:「路の会」スペシャル「この国の行方」(仮)
 自民党大敗、民主党政権発足といった大きな変革を迎えた日本のあり様と今後について、議論していただきます。

放送予定日:平成21年9月25日(金曜日)
        一部 20:00~21:28
        二部 23:00~23:30
        日本文化チャンネル桜(スカパー!217Ch)
        インターネット放送So‐TV
パネリスト:(50音順敬称略)
       北村良和 (愛知教育大名誉教授)
       新保祐司 (文芸評論家・都留文科大学教授)
       高山正之 (ジャーナリスト)       
       西尾幹二(評論家)
       藤岡信勝 (拓殖大学教授・「つくる会」会長)
       山口洋一 (元ミャンマー大使)
       
司 会:  水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

坦々塾(第十五回)報告(三)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

道元禅師『正法眼藏』と私        水島 総

「道元との出会いで人生を生きられた」。水島氏は今回の講義をこういって語り始めた。

 氏の多方面にわたる行動は、改めて紹介するまでもない。一日本人として、祖国の名誉回復を願い、歪んだ歴史観に果敢に挑み、心ある多くの国民を共に行動に駆り立てて来た。そんな、情念的な行動家ともいえる水島氏であればこそ、人間としての深い苦悩があったのであろう。学生時代はドイツ文学から学び、トーマス・マンに傾倒する。やがて日本に、そして道元禅師の正法眼藏にたどり着いたという。

 キリスト教、浄土真宗は空間的意識の宗教である。禅とは、鎌倉仏教とは何か。禅の本質は時間の宗教である。ここでいう時間の感覚はヨーロッパとは違う。キリスト教徒は、つねにより良い場所を求めてさまよう。ここではないどこかにいいところがあるという意識をつねに持ち、拡げようとする。その意識は宇宙にも向けられている。

 氏はカール・ブッセの有名な詩「山のあなた」がそれをよく表しているという。

山のあなたの空遠く
幸住むと人のいふ 
噫われ人ととめゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く 
幸い住むと人のいふ

 易姓革命もまた、空間の移動と拡大同様に、時間が断絶する。禅はまったく軸が違う。空間的な拡大や移動を求めない。氏は台湾の少数民族を訪ねて、そこに漂う感覚に禅に通じるものを見た。彼らは母系社会を形成し、山を隔ててそれぞれが違う文化を継承している。そこには、自然、時間、祖先を共有する生活があった。決して山を越えて領土を拡張しようという意志はない。あるいはより良い新天地を求めようとは考えない。

 般若心経における色即是空の色とは物質であり、空とは時間であり悟りである。自分が時間になりきることである。日本人が失った時間、日本の禅、空解釈を変えなくてはいけない。

 以下はテキストからの引用である。

「苦集滅道」 四諦(したい) これまでの仏教の教え。「苦」この世は苦しみ「集」欲望があるから「滅」それを滅すれば「道」悟りへの道が開く

禅の教え 「苦」頭で考えた思想・イデオロギー、理想・価値 「集」感覚でつかもうとするが、ものであり物質を基礎に考える(科学的見方・唯物論)価値の喪失 「滅」現実の物と心を双方認め、行為によってそれを示していく。(中道)正しい行いが人間生活の中心 座禅への道 この場所 現在の瞬間の行為 人間本来の姿に戻る 「道」宇宙全体の時空との関連・連動 悟りへの道が開く(時間軸に生きることへの移行)

「集」をヨーロッパでは唯物論や観念論からアプローチするも、未だに解決できない。

「滅」プラグマティズム(行為)、座禅につながる。

「道」行為に時間が入ってくる。物事すべてに時間を入れる。

となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして 一遍

 ここでは結句に「声ばかりして」とあるため、聞いている自分がそこにいて、「仏も我もなかり けり」が嘘になってしまう。未決。

 となふれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

 これが悟り(空)である。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

空間と時間を融合し、岩を擬人化している。ここに日本の非合理がある。

日本人の心に肉体化していた時間(もののあわれ)が減少していった。座禅はそれを再発見する道ではないか。

神道の禊ぎ、祓いも大乗の本覚に通じるものがある。本覚の悉有仏性(ことごとくに仏性はある)とは、あらゆる存在は仏性で、そのまま仏のいのちであり、仏のいのちでないものはない。道元の解釈では、過去、現在、未来という時間もまた同じである、というものである。

存在(物質)と時間は一緒である。存在が時間の上に乗っているのではない。これは近代合理主義では理解できない。

幕末における廃仏毀釈とは、近代合理主義に基づく、我が国が継承してきた時間制の喪失であった。

明治維新において我が国は空間を導入した。これは日本にとって、時間と空間による股割き状態であった。

明治の日本人は夕焼けを夜明けと勘違いした。やがてやってくる長い夜に気がつかなかった。日本人が失ったものは、自分と他者を差別しないという意識である。日本人が時間を取り戻すことができるか。できなければ、欧米キリスト教、中国の物質世界に圧倒されるであろう。

皇位の継承を水と皿(肉体)で捉える。皿は水を受け取った。この水こそ時間である。神武天皇から受け継いだ時間である。時間軸を失った国体論は、形としてとらえられた。

インディアンの特徴として、時間が自由であるということがあげられる。そこには死んだ人間も一緒にいる。日本でも、先祖霊がお盆に帰る、仏壇に仏様がいると考える。仏性は過去、現在、未来が一緒であり、いつも輝いて、瞬間瞬間を生きている。時間を取り戻すとは、大らかさを取り戻すことである。近代の流入によって失ったものがあるが、日本人には、DNA、基礎があることを思い出す必要がある。日本人がそれを世界に発信する必要がある。台湾のパイワン族も、インディアンもそういう時間を生きている。広がりを求めず、過剰を求めない。そこで自足している。一匹の猪をみんなで分け合い、次に食べる人のためにも、余分な狩りはしない。蕩尽は空間が産み出す。皇室が持っているのは時間。時間は自足している。

 ここから水島氏は、トーマス・マンを通して近代ヨーロッパについて語る。19世紀リアリズム小説である「ブッテンブローク家の人々」は、作者が鳥の目を持って俯瞰的に描いた小説である。ここでは、登場人物も物語も作者の掌中にある。その後第一次世界大戦が起き、兄のハインリッヒとの論争を行い、この戦争を文明と文化の戦いであると意識する。三島由紀夫の文化防衛論は、この論争に影響を受けているのではないかと指摘があった。

 「魔の山」「ヴェニスに死す」になると明らかに文体が変わる。登場人物と一緒に歩くようになるのだ。

 「ヴェニス」では、ヨーロッパ近代の終わりを感じた。ここに登場するギリシャの美少年とは、ギリシャ文明の象徴、外見は完璧な美を保ちながら、一点だけ歯に欠陥があった。内側は腐っている。そのことにより彼は、にせ者となる。内部に病を持つことが、近代ヨーロッパを象徴している。主人公の老作家は、少年に魅せられ、厚化粧をし、付きまとう。このさまよい歩く姿こそ、空間に呪縛されたキリスト教世界の比喩である。水島氏はこの様子を、みっともないヨーロッパの姿、と非情に辛辣に表現した。村上春樹が同じことをやっている。こっちが駄目ならあっちと、本質的にはまったく同じである。ただし、水島氏は村上春樹は民主主義者の中では現代最高の作家であるという。意識的なコスモポリタンではあるが、最高でありしかも限界でもあるという。

 冒頭触れたように水島氏は果敢な行為の人である。そんな氏を突き動かす座右の銘が最後に披露された。

典座教訓 生死事大 無常迅速 私がやらねばだれがやる。いまやらねばいつできる。

石はいつでも石。しかし、磨いて磨いてぶつけ合わせれば火花となり、遼火となって野を焼き尽くす。泥石では火花は出ない。自分を磨くことがすなわち行為である。

 講演後、西尾先生から「私も火花を散らす存在でありたい」、という感想があった。さらに、もう一度「時間」を取り戻そうとしたのが大東亜戦争ではなかったか、不合理そのものが日本の過去だった、ともいわれた。

 この言葉については、是非皆さんも一緒に考えていただければと思う。特に、散らした火花が遼火となって野を焼き尽くす、その炎を起こすために必要なことは、言葉(火花)を受けた私達が、それをどう受けとめるのかにかかっていると思うからだ。

 三人の先生方の講義は西尾先生の言葉通り「ずっしり重く坦々塾ならではの集中した時間」でした。私のつたない記録ではあの臨場感はとても伝え切れておりません。理解や表現に講師の真意と異なる点も多くあると思いますが、それらすべての責任は私にあります。特に宗教の問題に関しては基礎的な素養がなく、私にとっては困難な作業でしたが、このような機会を与えてくださった西尾先生に深く感謝申し上げます。

 なぜ御皇室は存続し続けたのか、日本にはなぜキリスト教が根付かなかったのか、ということが私の最近の関心事となっておりますが、今回の講義でその問いに対する一つの方向性を見出していただいたと思っております。本当にありがとうございました。

 今回の記録作成にあたって、過去の諸先輩方の文章を拝読し、その構成力、文章力、そして何よりも文章の土台となっている教養の深さに改めて圧倒された次第です。

文責:浅野 正美

坦々塾(第十五回)報告(二)

ゲストエッセイ 
浅野 正美 
坦々塾会員

 開会にあたり西尾先生から短いご挨拶があった。「自民党は滅びるだけ滅びよ。つぶれるだけつぶれよ」。

 世界金融資本の陰謀と日本の近現代史   福地 惇

 最初に新しい歴史教科書の採択率が前回の0.4%から今回は1.6%へと、四倍に大飛躍したことが報告された。

 現在世界の歴史で常識とされていることの多くは、作為を持って捏造されたものである。例えば、一般的な日本人の自国に対する歴史観をざっと書けばこうなる。明治日本は戦争好きで、総増上慢となり、朝鮮は36年間苦しめられた。東亜と中国を支配しようという野望に燃え、真珠湾をだまし討ちした卑怯な国家であった。そんな卑怯で極悪な日本人を懲罰するためにアメリカはやむなく戦った。原爆の投下は、双方で数百万人の命を結果的に救うこととなった。坦々塾の塾生は、自ら学び考えることができるので、こんなことは信じないが、大方の国民は、これがまさしく歴史の真実だと信じている。ただし、常識は真実に非ず。歴史は常に歪曲と偽装に満ちている。

 そもそも、現代の欧米の歴史認識が異常であり、それが日本にも反映している。公認の歴史、物語の本筋は国際金融資本が作成し、それにつながる御用学者が「正史」を書くという仕組みになっている。

 国際金融資本の陰謀、詐欺、策略は隠されており、都合の悪い資料は破棄され、決して表に出ることはない。

 第一級の資料は隠されるため、実証史観はできない。残されるのはきれい事ばかりで、そうして残された一次資料を都合よく使って、歴史が改竄される。コントロールセンターは国際金融資本の黒幕で、ロンドン、ニューヨークに本拠を置き、全世界の都市に拠点と支部を持つ。世界銀行、IMF、各国中央銀行、政府も支配下にある。組織はユダヤ人が中心となる。ユダヤ教の教えでは、非ユダヤ人は禽獣の類であり、ヒツジやラクダの方が、清い。全分野に支配力を発揮し、目的のためには手段を選ばない。そのために歴史を改竄する。日本も被害者である。

 第一次・第二次大戦は国際金融資本が作り出したはめられた戦争であった。国家を弱体化させる方法は、言語、儀礼、歴史の記憶を消すことである。文化的に破壊された跡には生きる屍としての肉体のみが残り、やがて国家は消滅する。地域、家族を形骸化することで、これらが常識を育てる場ではなくなり、学校、巨大メディアがそれに変わった。教育とメディアを掌握する者が真の権力者となる。こうして世間の常識と大衆社会の歴史認識を作っていく。

 力(パワー)は武器である。独裁権力(パワー)による政治的実験が共産党国家の建国であった。また、パワーの源泉はマネー、資源、金融である。日本人は、好意には好意で応えるが、ユダヤ人に恩返しの概念はない。ユダヤ人には、ユダヤ人を救った美談は通用しない。まさに人間にあるまじき民族である。ユダヤの秘典、聖典タルムードには、「非ユダヤ人の最良の部分を抹殺せよ」とある。また、目的のためには手段を選ばないため、異教徒は殺しても構わない。ヨーロッパの歴史は、ユダヤ対キリスト教徒の歴史であった。ユダヤは政権中枢や王家にまで寄生し、搾取を繰り返した。最初寛容であったものが、我慢の限界を超えてユダヤ人を迫害する。外国で文化や慣習になじもうとせず、中世のヨーロッパは、ユダヤへの抵抗記といってもよい。ユダヤ教の基本が、選ばれた民、世界を支配する民である。目的達成のためのスパンは、二世、三世、百世、と非情に長い。現在の日本はユダヤにとって、物を作る奴隷である。

 好況、不況といった経済の振幅は、コンドラチェフの波で説かれるように、経済の予定調和と思われがちだが、金融、財政をコントロールすることで作り出している。戦争、革命もまた然り。

 反歴史、反国家を他国、他民族においては画策するが、それらはユダヤの本意ではない。自分たちだけが最後の勝者として生き残るのが最終目的である。

 ユダヤ人は地球人口の一握りであり、コントロールしているのはわずかに数千人である。第一次大戦のベルサイユ条約で、ウイルソンのブレーンはユダヤ人であった。ドイツに天文学的な賠償金を課し、いじめの反動を読み込んでいた。支払い不能な賠償金にドイツは我慢できるはずもなく、第二次大戦のシナリオがここで書かれていたと考える方がわかりやすい。

 ロシア革命も、ロマノフ王朝の圧政があったとするのは嘘であり、事実は善政であった。首都の情報が入らない地方の農民を攪乱し、農奴解放、奴隷解放を説いて内乱状態を誘発した。

 安定した国家はつぶす、こうしてロシア、ドイツ、日本をつぶしてきた。政治の不安定化、弱体化が目的である。現在も、英米有名大学、財団に巨額の資金を提供して、まじめで愚鈍な英米人に対していいことをしていると見せかけて、捏造を繰り返している。

文責:浅野 正美