『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(五)

 ここで私のかつての時評(昭和59年8月号)を、もうひとつお読みいただきたい。

 〈七つの短編から成る上田三四二氏の連作「惜身命」(文学界)が今月の「天の梯(はし)」で完結した。一編ごとに異なる、死病に襲われた知友の悲痛な運命の転変を叙し、この地上に暫時(ざんじ)生をつないだ人間のはかなさに静観の目を注いでいる。

 医師であり歌人である作者は、この両方の世界に仲間がいて、いずれも中年から初老へかけての年齢なので、重病に襲来されることは珍しくない。死という「遁(のが)れぬ客」の到来を悟った病人の心は揺れる。

 文学、学問、思想、政治、信仰……これらはある程度の健康が保証された者がやる遊戯にすぎない、死に追い詰められた人間には無関係だ、と叫んでやけくそになる心境も真実なら、医者も女房もありがたい、今日生きていられたことがありがたいのだ、という生をいとおしむ心境になるのももう一方の真実である。

 上田氏はこのように動揺しながら死のふちにのぞむ者のそば近くに、自分の気持ちを寄り添わせていく。

 氏は慈愛の気持ちを片時も放さないが、しかし宗教家のような無理な構えはない。医者らしく死を見詰める客観性を保持している。それでいて、自分が出会った一人一人の人間の運命を大切にする思いはつねに深く、篤(あつ)い。感傷的では決してない。自然なやさしさが、作者の人格そのものから発している。この自然さこそが作品の魅力のすべてである。

 氏は医師として「大勢の患者に接しながら、自分が病気になってはじめて、死という亀裂(きれつ)の淵(ふち)の深さを覗(のぞ)いた」と書いているように、氏自身の八年間の大患の経験が、死者に寄り添うこのやさしさの根源を成していることは言うまでもないが、しかし、果たしてただそれだけがすべてだろうか。

 自ら病気をしても、そこから何も学ばない者は学ばないのだ。

 上田氏が自然に振舞っているのは患者に対してだけではない。文学に対してもそうである。否(いな)、氏は自分自身に対して自然に振る舞っている。あるいはそうあろうと努めている。そこにこの作品の、他者に対するやさしさがいやみにならず、命を惜しむ病人の執着の強さに女々しさも悲惨さも感じさせない、独特な視点の取り方がある。

 作者に宗教的意図はないが、地上のこの生は無常であろうとする超越的な目がどこかに生きていることを感じさせる作風である。

 最近氏が上梓(じょうし)したばかりの「夏行冬暦」と並んで、本作は本年度最も注目すべき成果の一つとなるに相違ない。〉

 事実、昭和59年は、駈(か)け急ぐかのような多産な年だった。故磯田光一氏と私とがその頃何年か担当した『東京新聞』の年末回顧「文壇この一年」でも、上田三四二『夏行冬暦』『惜身命』『この世 この生』の三作が59年度の特筆すべき成果として取り上げられ、私はベスト5の一つに選んでいる。一年に力作が三冊も上梓されたスピードぶりにもわれわれは目を見張っていたのである。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(四)

 いうまでもなく著者は科学者である。現代人である。客観的にすべてを見ている。

 本書の最初のほうに、人生の時間を「滝口までの河の流れ」と捉(とら)える著者の比喩(ひゆ)と、歴史を見る目とはつながっている。

 昭和41年に著者は結腸癌(がん)で入院手術した。予後のむつかしいこの病気で、再発を恐れつつ、死と向き合って15年以上を経過した。が、だからといって、死後の世界の救済は決して求めない。魂の存続は信じない。身をはなれた心の永続も認めない。

 「身体の消滅のときをもって私という存在の消滅するとき」と観じている。

 「死はある。しかし死後はない。死の滝口は、そこに集った水流をどっと瀑下に引き落とすと見えたところで、神隠しにでもあったように水の量は消え、滝壷(たきつぼ)は涸(か)れている。それが死というもののありようだ。」

 「死を避けることは出来ないが、死後はないと思い定め、思い定めた上は死後の救済に心を労することなく、滝口までの線分の生をどう生きるかに思いをひそめればよい。」

 この決然たる覚悟が、本書において西行、良寛、明恵、道元の四者を選ばせたそもそもの理由であったように私には思える。

 彼岸に救いを求めず、しかし此岸において超越を決せんとする精神、神の死を確認し、いっさいの神の影をも拒否しつつ、しかもなお神の探求者であることをもついに止(や)めなかった精神――それを西洋の歴史においてわれわれは例えばニーチェにおいて知るのであるが、したがって必然的に、本書もまたニーチェの提出した問題――永劫回帰(えいごうかいき)の説などの時間論に現われる――ときわめて近い距離にあるさまざまなテーマを展開させている。

 しかし、私に興味があるのは、上田三四二が四聖を扱うときの、ニーチェなどとはまったく異なる控えめなある種のやさしさ、柔和さである。それは一体どこからくるのだろう。

 四聖はいずれも靭(つよ)い精神である。それなのに、「〈無能〉に良寛の自意識があり、言いかえれば後ろめたさのあることはすでに見たとおりである。和みわたる心の底に、身をよせる悲しみと世界によせる感謝がある。」と彼が書くとき、良寛にではなく、そこに彼は自分の日常の心のあり方をそのまま自然に映し出しているようにみえるのである。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

近況報告

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 Voice 10月号 (9月10日発売)に、ご覧のように、「時計の針が止まった小沢一郎」(32枚)を書きました。これを書いているときにはまだ福田内閣総辞職にはいたっていませんでした。

 政変は秋になるので、それとは関係なく、早手回しの民主党特集だと編集部は言っていました。

 ところがそれから間もなく総辞職となり、私の小沢論は偶然にもタイムリーな論文となりました。

 1989-91年の海部内閣の幹事長の時代と、1993年の細川政権の成立時(自民党長期政権の終焉のとき)が、小沢一郎が世間の脚光を浴びたピーク時であって、あとは発想が固定化して、国際的な現実の動きを見ていない、国民に有害な政治家になっているということを論及しました。

 吉田茂と鳩山一郎とを合同させて自由民主党をつくりだした1955年の保守合同(政界再編)の影の舞台回しに、三木武吉という戦略政治家がいました。小沢一郎をこの三木になぞらえる見方がよくありますが、似ているのは国会対策の戦略家というだけで、三木には岸信介という保守の巨魁がついていましたが、小沢には左翼がついているだけで、小沢自身が保守ではありません。

 小沢も政界再編を目論むでしょうが、目的も理念も彼にはなく、「ぶっこわす」ことだけが彼の狙いで、合同を目指すとしても「左翼全体主義」以外のなにももたらさないだろう、ということを当時と今の政局から占いました。国連中心主義、外国人参政権、移民国家論など、いずれを見ても危険な存在です。

 話変わりますが、新刊『皇太子さまへの御忠言』は発売一週間目で、増刷ときまりました。

 もうひとつついでにご報告しておきますと、10月7日発売で、『真贋の洞察』という360ページの評論集の整理が完了し、私の手を離れて、すでに校了となりました。この本の副題は「保守・思想・情報・経済・政治」となっており、14本の評論がおさめられております。文芸春秋刊、税込み¥2000 です。

 これらの仕事で夏は瞬くまに終わりそうです。しかし基本的に夏男で、体調はすこぶるよいです。以上ご報告申しあげます。

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(三)

 本書の主役である西行、良寛、明恵、道元それにしばしば言及される吉田兼好と本居宣長は、西行ひとりを例外として、死のむこう側の世界、後世を信じていないひとびとである。いわゆる神秘家ではないひとたちだ。

 「彼(明恵)は彼岸に浄土を求めていない。現世に浄土を願っている。」

 「明恵は〈いま〉という現在の時間を生きた。また〈ここ〉という現在の場所に身を置いた。」

 「道元は現世の悲惨に砕かれない。現世の悲惨はあやまった現世のありようであり、真実現世は浄妙国土、仏国浄土であることは疑いようがないのである。彼は他力門の現世穢土(えど)と彼岸浄土との二分割を虚妄として退ける。」

 「道元はつねに、〈今〉である。存在にとって〈今〉とは、また〈此処〉である。そして存在の第一意義は〈我〉である。道元の生、道元の時空は、今、此処、我あり、である。」

 「兼好は明日死ぬと思えと言う。思うだけでなく、真実、明日死ぬのが人間のいのちだと言う。さいわい明日死ぬことをまぬがれたものも、明後日(あさって)を期することは出来ないだろうと言う。そんなふうに言いながら、彼が後世を頼んだふしは見当たらず、……死後に何の関心も寄せていない。先途ちかき思いはひしと彼をせめているが、後世は……彼の視野に入っていない。」

 「死ねばみな黄泉(よみ)にゆくとはしらずしてほとけの国をねがふおろかさ……ここで彼(宣長)は死後に何の期待も寄せていない。極楽浄土なぞ、絵そらごとだと言っている。」

 西行だけが例外的に死後にまで自己の時間を延長しているとされるが、それも極楽を信じていたという明確なはなしではない。彼にとって死後は死の瞬間に及ばないとされる。死をすらも輝かしいものとする月と花への憧(あこが)れが、花火のように尾を曳(ひ)いて、闇(やみ)に懸かり、闇を照らし渡る――そういう詩的イメージが西行の思い描いた、死のむこう側の世界の表象であるらしい、と作者は考える。

 いずれにしても現世を穢土と見立て後世に望みのすべてを託す「後世者(ごせもの)流」は、西行を含む本書の登場人物のすべてから退けられている。

 現世に生きることに価値を見出(みいだ)さないひとびと、現世は死後のためにのみあり、今生(こんじょう)はただ極楽往生のための準備期間にすぎず、此岸(しがん)のいっさいはもっぱら彼岸のためにしかないと信じるひとびとは、中世から近世へかけての宗教世界に決して珍しい存在ではない。上田三四二はそのような宗教的精神に関心を向けなかった。ここに、この本の著者が選択した第一の前提がある。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(二)

 著者上田三四二は医師であり、歌人であり、文芸評論家であるが、ある時期から小説をも書く作家であった。昭和56年の初め頃(ごろ)に私は文芸各誌に氏の小説が並び始めたのを覚えている。構えのない随想的作風に好感を持った。

 たまたま私は昭和56-59年の四年間、共同通信社配信の文芸時評を担当した。この時評は私の少し前に上田氏自身も担当していたはずだが、『信濃(しなの)毎日新聞』や『熊本日日新聞』など約15の地方紙に毎月掲載された。

 私の時評担当の四年間は上田文学の円熟期で、本書所収のほぼすべての論考がこの期に書かれ、本書は59年9月に一冊にまとめられている。

 幸いにも私は、氏がこのように小説にも手を染めた暢(の)びやかで豊かな時期の文学活動に、時評家として触れる幸運に恵まれたのである。

 氏はなるほど小説を書いたのではあるが、およそ小説らしい小説を書こうという下心がなかった。本書所収の「遊戯良寛」が『新潮』に載った昭和57年の同じ4月号に、『海』に「たまもの」、『すばる』に「『月光』ほか」の二短篇が同時発表されている。

 良寛を論じた評論とテーマはつながり、例えば「たまもの」は、ラジオの人生読本という番組で三回の講話をした体験を、録音時の風景もそのままに再録したもので、講話もそっくり小説の内容に仕立てている。これは小説ではないといわれればそうかもしれないが、ちゃんと文学として読ませる。そこに鍵(かぎ)がある。

 自分の講話の内容をそのまま小説にするのは一歩間違えれば嫌味(いやみ)だが、それが少しも嫌味ではない。言葉に味わいもあり、深さもある。その秘密は何であろうかと私は考えた。

 作者には死線を越えた大患の体験がある。歌も評論も医師活動もすべてそれ以来の、生死の境に思いをひそめた無常の意識、宗教の救いを拒否しつつも宗教的精神活動を求める一点に収斂(しゅうれん)し、そこから光を発しているせいではないかとも考えられた。

 次は昭和59年2月号の私の時評文からの引用である。

 〈上田三四二氏の中篇「冬暦」(文芸)も作者の余裕のある精神の所産で、創(つく)った作風ではなく生活記録風の地味な体裁をとっているが、心の及ぶ範囲は広く、深い。

 東京の某診療所に勤める医師香村は、二ヶ月交代で内科医が出張する佐渡の診療所に、真冬の出張を自ら進んで引き受け、家族と離れた二ヶ月間に、自作歌集の選歌と良寛の読書研究をして、文学者として自分の仕事に転機をもたらそうとしていた。

 彼は医師としては消極的で、小さなつまずきの度に身を引きたがり、また人には言えない心の闘いを抱えていた。思いがけず島の療養所には歌を詠(よ)む看護婦ら三女性が待ち構えていて、毎土曜に歌会を開くこととなり、また真野御陵をめぐり、国分寺を訪れ、病院経営の下手な老所長の、子供のまま大人になったような柔らかい性格に触れたりした。香村は孤独を覚悟で来たのに、彼を待ち受けていたのは島の思いやりであった。

 寒さの厳しい佐渡の雪景色を叙しながら、これらの出来事を淡々と語っていく作者の筆は、歌人らしく風雅だというようなことだけではすまない。優しい看護婦の一人を目で追うといった、抑制されたエロスが文章に厚みを添えているし、何よりも読み手の心をくつろげ、次第にしずめていく文体の独特な静寂への効果は、作者が他人へのいたわりと自分への正直さを程よくつり合わせている心の動きにあるといえよう。

 他人へのいたわりは不正直を招くこともあるからである。また逆に正直になり過ぎて、他人に迷惑を掛けることもある。

 上田氏は心のやさしさが嫌みにならない稀有(けう)の人である。……読後の静かな生への感謝のような思いには、深さが宿っている。〉

 小説というのは直(じ)かにその人の生前の情景のなかに浮かび上がらせてくれるのに役立つジャンルである。そしてその人柄(ひとがら)を偲(しの)ばせてくれるジャンルでもある。恐らくご自身の経験を作為なしにそのまま綴(つづ)ったに相違ない右の作品は、本書のような思想的著作が形成されていく前後の作者の生活風景を髣髴(ほうふつ)させてくれるように思える。

つづく

上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』
(昭和59年9月新潮社)の文庫化の解説より 平成8年3月

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(一)

 上田三四二『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』(昭和59年9月新潮社)の文庫化に伴い、解説を頼まれた。解説を書いたのは上田三四二が昭和64(1989)年に病歿して8年たった平成8年のことである。

 上田は何度もガンの発病を経て18年の歳月を病気とともに生きた。私は生前何度かお目にかかっているし、文通その他交流もあった。

 解説を依頼して来たのは新潮文庫編集部である。通例の解説よりも長くなった。私ものめりこむような思いで通読して、書いた。

 私は上田の私小説が好きで、丁寧に読んでいた。『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』は『新潮』に連載され、小説とは違った宗教評論なので、新鮮な思いで愛読したものだった。

 周知の通り私もガン患者だった。私が舌ガンにかゝりラジウム針刺入手術を受けたのは昭和58年である。それよりも前に私は上田の私小説を愛読し、評価していたから、私の病気と直接のつながりはない。

 私の体験は『人生の価値について』(新潮選書、ワック文庫)の中でごく小さく書きこまれている。

つづく

講演会お知らせ・新刊紹介

TLF初秋の講演会

講 師  西尾幹二氏
テーマ   「国家中枢の陥没」

と き   9月2日(火)午後6:30~8:30
ところ   東京ウィメンズプラザ・視聴覚室(1F)
参加費  男性2000円、女性1500円
申込み  予約不要(当日、会場にてお申込み下さい)

主催   “非営利&非会員制”の〔知的空間〕
     東京レディスフォーラム 03-5411-0335 

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今年の夏は、この本を出すために、他のあらゆる仕事が押しのけられ、スケジュールが乱れてたいへんな思いをしています。

 目次はご覧のとうりです。

まえがき
Ⅰ部 皇太子さまへの御忠言
  
  第一章  敢えて御忠言申し上げます
  第二章  根底にあるのは日本人の宗教観
  第三章  天皇は国民共同体の中心
  第四章  昭和天皇と日本の歴史の連続性

Ⅱ部 皇位継承問題を考える

  第一章 天皇制度の「敵」を先に考えよ
  第二章 「かのようにの哲学」が示す智恵
 
 「WiLL」連載で言い残したこと
     ――あとがきに替えて

  初出誌一覧
Ⅰ部の主な参考文献

 29日ー30日の朝まで生テレビで、冒頭にこの本も紹介されました。31日に読売新聞に、3日に産経新聞に、この本の広告が出るそうです。

 当ブログ管理人の長谷川真美さんがご自身のブログで、次のように朝生の感想と、この本の精神的位置を解説してくださっています。仲間ぼめではない内容なので、以下に掲載してもらいます。

朝生見ました
徹夜はきついですねぇ。

番組が終ったあとは、頭が暴走していて、なかなか寝付けず、
寝付いたら寝付いたで、夢の中で続きを見ていました。
(番組終了後に講演会が始まり、上杉氏が横からメモを渡してくれて、
眠いので帰ります・・・という夢だった)

番組冒頭で、田原総一郎氏がリベラルな人達から出演を断られた・・・とのこと。

それほど皇室問題に言及することは、
左右両方からの攻撃にあう可能性があり、
深夜番組とはいえ、生なので危険すぎる・・・・ということでしょうか。

そういう意味では、西尾先生は常に危険なことに敢えて言及するタイプです。

WiLL誌では西尾先生は今回珍しく一般の方から理解されています。
通常の先生の論文の指摘は、最先端を行くことが多く、なかなか理解されません。
人気絶頂の時の小泉首相批判も当然受け入れられなかった。

「皇太子殿下へのご忠言」、西尾先生、やはり左右どちらからも批判されています。
・・・・両方とも「言うな、騒ぐな、直るまで待て」というような内容。
案外に左の方も、真っ向から天皇制度がなくなればいい、という本心は言えないようでした。

売文だとか、ののしられながら、
最初に口火を切ることの危険を敢えて犯し、
攻撃の矢を一身に受けている先生がおっしゃりたいことは、
日本の天皇制度が危機に瀕しているから、
なんとかそれを救いましょう・・・ということ。
日本の国が大切であるからこそ、日本の究極の伝統である天皇制度が
風前の灯であると心配なさっている。

その意味では猪瀬さんも高橋さんも同じ認識でした。

それにしてもやはり戦後の日本は、
歴史認識の再構築から始めなくてはならないんですね。

坦々塾報告(第十回)(二)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 71歳

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(4)
 さて、冒頭に、あえて2年前の坦々塾の発足時と、今回の「つくる会」総会とを対比したのは、2年前は、ちょうど西尾先生の「『小さな意見の違いは決定的』ということ」という文章が「日録」で進行中であり、今回の勉強会の「保守運動の再生と日本の運命」というテーマは、西尾先生のこの文章にまで遡ってみる必要がある、と筆者は考えたからである。

 西尾先生のこの文章は、60年安保時代の印象的な場面から始まって、今日の「保守主義者」の政治行動を、当時の「左翼」の政治主義になぞらえて非難するところに繋がってゆく。その論旨は、西尾先生ならではの鋭さに満ちているが、今一歩、真の病巣に論理のメスが届いていないのではないか、というような歯痒さをも心底に残してきたのである。

 それは、安倍政権成立に向けて権力にすり寄ろうとする傾向と、安倍氏の側からの教科書問題等に対する介入については、多くの批判が割かれているのに対して(ただし、そのうち後者については過大評価といわざるをえない。)、当時、西尾先生は、安倍政権を待望すること自体にも批判を向けられていたのだが、それにしては、安倍政権を積極的に形成しようとする動きそのもの(それは、権力に「すり寄る」こととは区別されるべきものである。)に対する批判が不明瞭であったことによるのではないだろうか。

 先生は、右派の「政治主義」に対しては、「もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党を作る方が、筋が通っている。」という根本的な批判をされているが、その批判は、政権獲得に類する安倍支援の活動にこそ、最も厳しく向けられるべきではなかったか、と考えるのである。

 しかし、ここで先生のこの文章の検討に立ち入ろうとしているのではない。それでは坦々塾勉強会の報告という範囲を逸脱してしまうからである。ここでは単に問題を提起しているに過ぎない。

 ただ、今までそれほど特別視することなく読んできた次の文章も、先に岩田氏の「保守主義」論を肯定的に捉えるとすれば、いやが上にも眼に突き刺さるように飛び込んできて、改めて考えざるを得なくなる。(勿論、岩田氏の「保守主義」が「政治的集団主義」を意味するものでないことは自明である。)

引用――

「どうも保守主義と称する人間にこの手の連中(引用者注:「大同団結主義者」)が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。」(「『小さな意見の違いは決定的』ということ」)

(5)
 平田氏の話の中で、日本においては、権力やシステム論が必要なときに、道徳論に入り込んでしまう傾向がある、という例として、藤原正彦「国家の品格」がベストセラーになったことを挙げていた。そこで、念のため、同書に目を通してみた。

 その結果分かったことは、「国家の品格」は、道徳論の本というより、どちらかというと、むしろシステムを論じている本なのである。近代的合理主義を批判して、論理唯一の立場を否定し、情緒の重要性を強調している。結論として、武士道・道徳論を説いているのである。

 藤原氏は、5ページ以上にわたってデリバティブを説明・批判し、今日のサブプライム問題のような金融破綻の發生を予言している。とても「天皇・靖国・大東亜戦争」の3点セット保守などの及ぶところではないのである。

 「国家の品格」に強いて難点を挙げれば、民主主義を支える「真のエリート」の必要性の説明があまりに直接的で、もっとフィクショナルな説明をすべきだ、ということを感じる。第二に、中国との戦争について、スターリン・毛沢東の策謀を認めた上になお、日本の道徳的誤り(侵略)を批判していることであろう。

 平田氏の論点を否定するものではないが、「国家の品格」が売れて読まれたことは、とてもよいことだと思う。坂東真理子「女の品格」などと比較されるべきものではない。(後者については、西尾先生の批判しか読んでいないのであるが。)

(6)
 平田氏の、昭和30年代のシステムの改革に失敗したことが、今日の大きな問題である、という指摘は、今後の最も根本的な研究課題であろう。政治的にはいわゆる55年体制ということになるが、経済的には高度成長を支えたシステムを、国民生活の向上や社会構造の変化、国際化・グローバル化などに応じて、適切に転換できなかったことが、幾多の負の遺産を抱える結果になってしまった。

 安倍内閣の成立から退陣に至る過程の総括は、保守運動にとって喫緊の課題であろう。(筆者は、安倍政権は、本質的に「期待すべき保守政権」というより、「小泉後継政権」としての意味が大きいと考えてきた。)

 「日本会議」的保守の問題は、その全貌が私にはよく分からないところがある。「つくる会」の活動にとってのみならず、平田氏の人権擁護法案反対の活動の前にも、日本会議が立ちはだかっているようであり、保守運動にとっての存在の大きさを感じるが、充分な議論と研究が必要であると思う。

 今回は、挫折した保守運動が再生に至る中間点、踊り場に相当するところに位置するのであろう。再生に向けての諸問題の坩堝とも言うべき会であって、その全体を鳥瞰することさえ、筆者には手に余る。断片的な感想に止まったことをお許し頂きたい。

 最後に、広い視野と厚い知識、豊富な情報量を基礎に、縦横に刺激的な問題提起をして下さった、平田文昭氏に、改めて感謝申し上げます。

(了)

お知らせ

朝まで生テレビ

放送日:8月29日(金)25:20~28:20
       (8月30日午前 1:20~ 4:20)
■ 8月のテーマ・パネリスト

 皇太子さまが結婚されて15年、以来、皇位継承問題、雅子さまのご病状、ご公務についてなど、世間の関心も高くなっています。
 そこで今回の「朝まで生テレビ!」では、「これからの皇室」はどうあるべきなのか、等を討論する予定です。

司会: 田原 総一朗
進行: 長野 智子・渡辺 宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)

パネリスト: 猪瀬直樹(作家、東京都副知事)
上杉 隆(ジャーナリスト)
小沢 遼子(評論家)
香山 リカ(精神科医)
斎藤 環(精神科医)
高橋 紘(静岡福祉大学教授)
高森明勅(日本文化総合研究所代表)
西尾 幹二(評論家、電気通信大学名誉教授)
平田 文昭(アジア太平洋人権協議会代表)
森 暢平(成城大学准教授)
矢崎 泰久(ジャーナリスト)

坦々塾報告(第十回)(一)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 71歳

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坦々塾第10回勉強会報告(平成20年8月9日)
                                     
 坦々塾最初の集まりは、約2年前、平成18年9月10日だった。安倍内閣成立の前夜で、「つくる会」の騒動もほぼ大勢が決していた。八木秀次氏を会長とする、教育再生機構が発足しており、以後しばらく「つくる会」と「機構」との間の人事・組織の混乱はなお続いていたように思うが、ことの「正邪」については、既に決着していた。

 今回の勉強会の1週間前に「つくる会」の総会が終わったところで、そこでは、自由社版「新しい歴史教科書」の検定本が文科省に提出済みであり、対して「教科書改善の会」の新教科書の編集は検定に間に合わず、つまり教科書編集に関する限り、「つくる会」の「勝利」が明白になったのである。

 しかし、大会での質疑を見ても、保守運動全体における混迷はなお残ることは当然予想されるところではある。

 そのような状況下、坦々塾の勉強会のテーマと講師は次の通りであった。(敬称略)

    国家中枢の陥没      西尾 幹二
    保守概念の再考      岩田 温 (坦々塾メンバー)
    保守運動の挫折と再生  平田 文昭(外部招待講師)

(1)
 福田内閣の姿・その所作自体が、国家中枢の陥没を表しているようなものだが、西尾先生の話の中心は、保守言論の閉塞状況である。

 マスメディアの広告主・上位数千社が中国ビジネスに関わっており、従って、そこでは本質的な中国批判はできない。

 「文藝春秋」は、かつては「朝日新聞」に対抗する主要メディアだったが、知らず知らずのうちに「左方」に移動し、中性化・無性格化しているように見える。「諸君」さえもそれに引きずられている。「正論」、「WiLL」、「Voice」、「SAPIO」、「月刊日本」などが保守メディアとして存在しており、「激論ムック」のような新しいメディアも登場しているが、果たしてそれらは、ガス抜きとして許される以上のものなのだろうか。

 最大の問題は、政治家による然るべき発言が全く途絶えていることだ。北朝鮮の核武装をほとんど容認するが如き6カ国協議が進展しているにも拘わらず、わが国の安全保障や日米同盟の前途についての議論は、寂として起こらない。それは、言ってもどうにもならないと諦めているのか、何らかの圧力に屈しているのか、そもそも無関心なのか。――筆者には、その三つの全てが当たっているように思われるのだが。

(2)
 平田文昭氏は、一年ほどドバイに滞在し、帰国してみると、日本は何と情報閉鎖空間であることか、という。国内にいる我々にとって耳の痛いところだが、日本に入ってくる画像情報は、ほとんどアメリカからタイまでの空間のものであり、シンガポール以西の情報は少ない。しかも、それらはもっぱらアメリカによって提供・管理されている。

 中近東からシンガポールまでの、西アジア世界における日本の存在感は、希薄である。一方そこでのインドの存在感は巨大だが、そのような情報は日本にはほとんど伝わってこない。この地域の情報を圧えているのは、旧宗主国イギリスであり、BBCの影響力が大きい。もしお金があって、アルジャジーラの提供する画像情報をそのまま日本に流すことが出来たら、そのような情報の壁を破れるのだが、というのが、平田さんの壮大な感慨である。

(3)
 岩田温氏の話には、思わず聞き耳をたてるところがあった。

 西尾先生は、保守的態度、というものはあるが、保守主義というものはない、といわれるが、岩田氏の立場はそれに反対だ、というのである。西尾先生は、岩田氏達の発行する「澪標」に寄稿してそう述べておられるのだが、岩田氏の主宰する団体は、堂々と「日本保守主義研究会」を名乗っている。一体どうなっているのだろうと、気になっていたところではある。

 保守主義とは、たんなる現状維持ではない。それは現状維持を超えた、あるいは岩田氏は保守イデオロギーを超えた、という言葉を使っていたと思うが、そういう思想、超越的な何ものかが必要であり、保守主義とは、それによって国体を守ることである、という。

 そして続ける。――そう考えることによって、保守主義は、融通の利く、柔軟なイデオロギーとなる。――何となれば、国体についての考え方は、唯一絶対ではなく、多様だからである。

 この考え方は、筆者にとっては、極めて得心のいくものであった。

 天壌無窮の詔勅によって直接形成された国体、という考え方もあり得るが、近代的な国体論ならば、神話に淵源を持つ天皇が歴史的にその立場を確立し、またその天皇を中心として、さらに統治制度が発展してきたと考える。近代国民国家は天皇の名の下に形成され、それは立憲君主制として民主化の道を歩むが、一時期戦争によって、その歩みは停滞し後退する。しかし、占領下においては、その歴史の連続性は強制的に断絶され、戦後民主主義が導入された。――従って、歴史と伝統に立脚し、国家の意義を尊重する保守派ならば、その歴史の継続性を回復し、国体を保守することをもって、自らの任務と捉え、保守主義を名乗る。――筆者は、そのように解釈する。

 いつの時代にも通ずる、万国共通の保守主義なる概念はあり得ない。そのような概念は、具体的な歴史・伝統を尊重する保守的態度とは、相容れないからである。それに反して、上記の保守主義は、今日・現代、この日本の保守主義として、全く相応しいものと考える。

(3-2)
 たまたま、本日8月15日付「産経新聞」『正論』欄に、櫻田淳氏が、高坂正堯氏を引用して、「自分の過去の実績に基づく安らぎと自信」こそが、保守主義の基盤である、という趣旨を述べている。それは、現状維持主義とは言わないが、完全に現状肯定主義以外のものではない。

 特に、戦前を体験したことのない若い世代にとって、戦前の歴史は、それが自ら経験し達成した結果ではあり得ないから、それへの回帰を主張することは、観念論のレッテルを貼られ、否定される。すなわち、戦前の歴史との継続性を回復する経路は閉ざされてしまうことなのである。

 それは決して保守主義ではなく、ただの戦後民主主義礼賛ということになろう。

 真の保守主義者が、主権回復といった実際的課題に立ち向かう場合には、上のような自称保守の戦後民主主義者よりも、むしろ常識的な範囲での伝統や歴史を尊重する進歩主義者の方が、よりよき政治的同盟者になりうるだろう。

つづく