「誰も日本人の正体がつかめない」
過去三ヶ月の間に、私は右のような、他者の存在というものがおよそ見えない日本及び日本人に対して外国人から寄せられた大変に的確で、歯に衣を着せない批評の言葉を二つ読んだ。『中央公論』昭和63年12月号の座談会「日米同盟は本当に必要か」における米議会図書館館長特別補佐官ロナルド・モース氏、及び『This Is』平成元年2月号の「ソ連のアジア政策を読む」のミュンヘン大学教授ヨアヒム・グラウビッツ氏、このご両名の発言である。
前述の座談会同席者の岡崎久彦氏、田久保忠衛氏は、日本人の中では米国流の物の考え方が最もよく分かっている、米国の良き理解者である。その両氏がモース氏のさらけ出す本音の前に立ち往生している。岡崎氏は日米同盟の重要さを説き、そのための防衛力の増強が日本の民主的安定に寄与するといい、田久保氏も日本が軍事大国化する心配はないことを繰り返し強調している。
それでもモース氏とは完全に食い違っている。氏も日本が昔のように軍国化するとは思っていないものの、日本が「何時までも態度をコミットしないから、将来はどうなるかわからないという感じを与える」という米側の不安感、不信感を表明している。態度をコミットするとは「日本人の世界観や権力行使の方法についての発言」をすることである。
日本は非常な経済力、技術力をつけながら、「しかし、それは一体何のためなのか?それがはっきりわからない」。世界中が「日本人の発言を注意深く身構えて見守っている」のに、何時までたってもはっきりさせない。「誰も日本人の正体がつかめない」。もし日本が世界の大国になろうとするなら、権力行使の方式、すなわち一つの独特な統治のスタイルを示さなければならない。「民主的な平和を愛する国家」になる、などというのは何の声明にもならない。
「それらはすべて戦術的なものです。アメリカ人だって、テクノロジー、経済援助、相互交流、平和維持には賛成です。世界全体がそうです。ここには日本独自のものは何もないではありませんか」
「日本は、・・・・・・日本独自のものに基づいた独自の道を明確に打ち出すことが必要だと思うのです。・・・・・方向が明確ではないので、アメリカも日本とはっきりした関係をもてないのです。アメリカ人は依存関係を好まないし、それを大人同士の関係だとは思わない。アメリカ人はそうした関係に嫌気がさしています」
「アメリカは1945年以後、ソ連に対して自分で国を守ってきました。日本は助けてくれませんでした。ですから、それ(日米同盟)は必然から生じた同盟ではないのです」
「日本人がナショナリスティックでもかまわないんです。中国人だって韓国人だってアメリカ人だって、みんなナショナリスティックです。かれらは皆、傲慢です。それはそれでいいのです。しかし、韓国人はどうかというと、かれらは信じていることを発言します。中国人はどうかというと、かれらの立場は理解できます。・・・・・・日本人はどうかというと、はっきりしないのです」
「中国は一人前のプレーヤーですが、日本はまだ半人前です」
日本の防衛力の一掃の増強をもって応答している岡崎氏の意見に反対して、右のような見解が述べられているのである。だから軍事力の強化や整備それ自体がモース氏の主眼ではないことは明らかだ。私もまたこれからの世界では軍事力よりも経済力により大きな比重がかかると言われている趨勢(すいせい)の変化を、十分承知している。軍事力の急激な増強が不安定要因をなし、防衛の意図に逆行する場合があるという国際関係の微妙さについても、私はよく理解している。
それにも拘らず、モース氏の発言が、私には新鮮で、幾度も目を開かされる思いがした。問題は軍事力ではない。軍事力も含めた政治的意志の有無が問われているのである。日本は経済大国を自称しているが、一体何のための経済大国なのか。何をしようと欲しているのか。無目的、無計画に肥大化していくだけなのか。モース氏は結局、日本人にはあの自分というものが欠けているのではないか、と問責しているのだといえる。
現代の日本で政治権力の中枢が何処にあるのか、われわれ日本人にもさっぱり分からないのだから、外国から見ればなおのこと判然としないであろう。日本に何かを要求するにしても、誰に要求してよいのか、そこが摑(つか)めない。外からのそういう声はこれまでも何度も聞いた。
日本はODA(政府開発援助費)を増額させていけば、防衛力強化の代替にもなり、国際的責任も果せると考えている。そのような一面が勿論皆無ではない。しかし、いざというときの権力行使への意志が、国際的に広く認知されていなければ、膨張しつづけるODAの大盤振舞いも画餅(がぺい)に帰すであろう。
かりにフィリピンの米軍基地が脅威を受け、日本が逡巡(しゅんじゅん)している間に、中国がただ一艘の駆逐艦を派遣すれば、それだけで米世論はあっという間に中国を最大の同盟国と看做(みな)し、日本を見捨て、日本の対比援助の蓄積は空無に帰する、とは、これまでも、例えばペルシア湾事件のときなどの指摘されていた。問題の焦点がどこにあるかは、頭では日本人にも徐々に理解されてきてはいるのである。
問題は軍事力の量的増加にあるのではない。日本は世界の中で何をしたいのか、あの自分というものの意志は何処にあるのか、それが問題なのであり、それさえ判然としていれば、軍事的抑制もまた容易になる。
しかし、日本人の不明瞭さはペリーの黒船来航のときにすでに米側から指摘されていたし、日本は自分というもののこの意志を欠くばかりに、世界相手の無謀な戦争に走ったのだともいえる。モース氏もまた、日本は明治維新においても、第二次大戦においても、昨今の経済競争においてもアグレッシブである、と憂慮を表明している。アグレッシブとは「ある特定の事柄に精力を集中する」の意味だと注釈をつけてはいるが、勿論、原義は「侵略的」である。何処に行くのか行方も知れぬ巨船の漂流にも似た、日本人言う処の経済大国に疑問符が突きつけられているのだと理解していい。
右に似た日本像をソ連の側から眺めて分析したのが、西ドイツ人グラウビッツ氏の論考である。最近ゴルバチョフは日本の重要性について急速に認識を改めて来た、と日本ではしきりに観測されているが、彼にとって太平洋の大国は依然としてソ、米、中であって、日本は勘定の中に入っていない。
昨年10月のウラジオストック会議で、アジアの大国を意識したインド代表は、三大国の対話独占に異議を唱えたそうだが、こういう駆け引きからも日本は外されている。ソ連の対日接近のためらいが領土問題にあると日本人は思っているが、必ずしもそうではない。日本はソ連から見て「戦略的にアメリカのアジア政策の道具」であり、中国と違って、「東アジアの国際関係で独立したアクターではないとみなされている」と、グラウビッツ氏は分析している。
加えて、中国が日本の増大する軍事力を懸念するのは、昔の悪夢の再来を恐れているからではなく、「中国が将来アジアの指導者の役割を果そうとしており、他の国(日本)とこの役割を分かち合おうとは思ってもいないからである」。