西欧の地球侵略と日本の鎖国(六)

六/六)
 その次に何がつながるかというと、フランスは力を失っていたのですが、イギリスとロシアにしてやられているのが悔しくて、1785年にフランス政府はジャン・フランソワ・ド・ラペルーズを派遣します。フランスは日本に重大な関心を示して、日本を調べてくるよう命じます。まず南太平洋に入ったラペルーズはハワイ諸島、北アメリカ大陸を巡った後、日本列島の日本海側を通っています。その前に台湾、琉球や済州島を測量して日本海側に入って能登半島を徹底的に測量します。東北地方はすでにクック隊が測量しています。

私が感心するのは、ヨーロッパは「国際社会」で、ベーリングやクックの測量の数値やデータが全部公表されていたことです。だからクックは日記の中でベーリングがやった海洋探検について「素晴らしい。だいたい正確だ」と褒めています。同じようにラペルーズは、クック隊の太平洋側と日本列島の測量も公表されているので、日本海側のデータを揃えて日本列島の「幅」を測量して数値の計算をしています。つまり争っている国同士、競争し合って、時には戦争もする国同士だったにもかかわらず、国際社会の約束やデータを尊重しあう。そういう事で協力し合う、という近代性が備わっていた。これは当時のアジア人には考えられないことでした。なんのかんの言ったって負けているのです。ヨーロッパはこれだけの規模のことをやっていたのです。日本に「鎖国が無かった」などと言えますか! これだけのことをやられていたということで、暗黒の鎖国の中にいたのではないでしょうか。

 1784年にはジェームズ・クックの航海記が刊行されます。クックの死後5年後です。航海記はオープンなので、これが大変に読まれます。ここでラッコの生息地のデータが公開されますが、ロシアは一人儲けをしていたので危機感を覚えます。フランスもクックの航海記を見てから、1785年にラペルーズが出てくるのです。しかしあと4年後に何が起こるか分かりますね。フランス革命です。ですからフランスは国内が混乱してしまい、もう北太平洋の争いに参加することが出来なくなります。フランスはここで退場しますが、イギリスと、そしてアメリカが登場します。そしてロシア。オランダは端からここに入っていません。前にも話しましたがそこが大事なのです。日本はオランダだけを頼りにしていたのですから、ほとんど片肺思考だったのです。

先ほどベーリングの話をしましたが、別働隊を二つ連れていっています。そのうちの一つは千島列島を下って日本列島に来ています。1741年にアメリカ大陸(アラスカ)を発見する2年前の1739年のことで「元文(げんぶん)の黒船」と呼ばれています。1回目は宮城県に来ています。日本の役人が船に乗り込んで、丁重な挨拶をしてロシア側は船上でご馳走やお酒で彼等をもてなして楽しい談話をしたあと、きれいに別れたというだけのことで、ロシア船もこれで満足して帰っていったそうです。2回目は千葉県で、陸上にあがってきて農家を訪ねて軒先で大根と水を貰って(笑)(壊血病があるから大根は必要ですよね)それからお茶を飲んで煙草を呑んで帰って行った。言葉は通じないけれど楽しい話をたくさんして帰って行った。そのとき律儀にも銅の貨幣を置いていきました。それは直ぐに長崎奉行に届けられて初めてロシアの貨幣と分かったのです。そのあとレザノフとかいろいろ出てきますが、日本にロシアが来たのはこれが最初でしょう。これはおそらくラッコの貿易で来たのだと思います。すでにラッコは乱獲されすぎたということで、教科書には捕鯨船がたくさん来たことは書いてあります。

ヨーロッパに物産を持って帰るのではありません。ラッコはシナの貴族に売ってそれが儲かるという話がワーッと広がって次々と船が来たという話です。いかにアジアが富んでいたかということです。有名な話に、イギリス人が清朝の皇帝に会ったら「清朝は何でもあるから貿易などする必要ない」と言って三跪九拝させられて帰ったという話もあります。それくらいアジアは豊かで、日本もまたそうでした。それにしても日本がその当時ラッコの毛皮を買って使ったか、ということになると寒さの度合いも違うしあまり聞いた話ではありません。だからといって日本からラッコの話が消えるのはおかしなことです。

ペリーは日本に捕鯨船で来たといいますが、これは当時の産業に微妙な変化が起こっていて、機械の潤滑油に鯨油が必要になったということが基本にあります。女性のコルセットに鯨髭を使うこともありました。そうなるとラッコはその多くがシナで大金を得るためが目的でしたが、クジラは全部ヨーロッパかアメリカで消費されました。

ここに貿易の質と内容に大きな転換があったと考えられますが、それは間違いなく産業革命です。それによってヨーロッパが力をつけてゆきます。それと、これまでお話してきた情報量です。世界を制覇せんとした勢いです。これはなんのかんの言っても、科学と冒険心と愛国心と、そして経済的な動機と・・・。こういう物が一体となった情熱はどの国にもあり、そして我々の今の時代にももちろんありましたけれど「限界点へ向けての限りなきパッション」これは優れてヨーロッパ的で、それは少し前の時代まではインド洋と南太平洋であったのが、地理的空間の大規模な移動への熱情が北太平洋に変わった、北極海経由の海路に取替わったということです。それは18世紀人からの夢でした。ロシアとイギリスがその夢を牽引したのです。アメリカはその後についてきたのです。

ロシアとイギリスこそがユーラシア大陸を二分したこの後の政治的、次の世紀の軍事的対立のドラマ。すなわち「グレート・ゲーム」とよばれる中央アジアを巡る争い。皆さん知ってのとおり、日本も明治になってそのドラマに参加しますね。関岡英之さんが『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略』という本を書きました。その「グレート・ゲーム」はこの北太平洋を巡る争いから始まっているのです。日本周辺の海域から始まっているのです。そしてそれは東アジアをも引き裂いて、開国して間もない我が国が英露の代理戦争である日露戦争に引きずりこまれた根本的な背景です。

つまりこれまでの地球を二つに引き裂くドラマは、アメリカが次の時代に登場するまでの世界史だったのです。そしてそれは我が国の目の前で起こっていたラッコから始まっていたということです。ラッコは笑い事ではありません。当時としてはすごいお金だったのです。しかし産業革命が起こって機械文明になってから規模が大きくなり額も跳ね上がりますね。それでいつの間にかみんなラッコのことを忘れてしまいます。帆船は蒸気船になってゆきます。蒸気船が出来るのはやっと明治維新の頃です。ペリーの来航は帆船で、アフリカを回って来ているのです。太平洋航路が無く太平洋を渡れなかったのだから当然です。こんな大きなドラマさえも「外から歴史を見る」ということをしないから分からないのです。

「外から歴史を見る」というのは、私の『国民の歴史』の精神であったことを皆さんご存知かと思います。「外から日本史を見る。そして日本史を中心に外の歴史を見直す。また外から日本史を見直してから、日本史を中心にもう一度外の歴史を見直す」この往復運動こそ歴史の正しい精神ではありませんか? 日本の歴史をやる人は日本の中をごちゃごちゃやるばかり。また世界の歴史、西洋史などをやる人は皆自分の専門をやるばかりで、全体を統合して見ようとしません。だからこんな重大なことが見落とされるのです。何が「鎖国は無かった」ですか?(笑)

1791年にはイギリスやアメリカの毛皮交易船が堂々と博多と小倉に来ます。ラッコの毛皮で一攫千金を狙う外国船はフランス、スペインと後相次ぎます。ジェームズ・クックの航海記が情報に火をつけたと考えられます。ロシア使節アダム・ラクスマンも1792年に日本に漂流者の大黒屋光太夫らを連れて軍艦で日本に来たのですが、本当は国を開いてラッコの貿易をしたいと言ってきたのです。清朝との貿易で認められていたのは内陸ばかりだったので、遠く広東での貿易に手を広げたいから毛皮を運ぶその中継地としても日本が必要でした。さらに毛皮の新しいマーケットとして、我が国の開国を求めたのです。

 私の作った年表に「1789年 ヌートカ湾事件」というのがあります。皆さんあまり聞いたことが無いでしょう。これはたいへん大きな地球的規模の危機だったのです。その前に、1494年のトルデシリャス条約はご存知でしょう。スペインとポルトガルがお饅頭を二つに割るようにしてローマ法王の勅許によって、大西洋の上に線を引いて地球を二つに分割するというもので、それに従ってコロンブスはどんどん西に渡って、これからどんどん西へ行ったところは全部スペインの領土だと言いました。同じようにポルトガルは、アフリカの海岸を南にどんどん下って東に進んでこれは全部ポルトガルの領土だと言いました。その真ん中はどこでぶつかるかというと、ご存知のようにモルッカ海峡よりももっと東で、だいたいオーストラリアの真ん中を貫き西日本の上を通るのです。それが半分なのですから勝手な話です。『国民の歴史』でもヨーロッパはなにを考えているのだろうと強調して、『新しい歴史教科書』にも入っているかと思います。考えることが凄いですね。怪しからんですね。この地理的情熱がどこから来るかといえば、ガリレオとデカルトの幾何学精神です。だから地球を全体として、子午線を引いたり赤道を引いたり、勝手にやったのです。なぜグリニッジ天文台が出来たのかといえば、あれはイギリスの政治戦略なのです。「なぜロンドンにあるのか?」とパリもベルリンも反対したのです。そしてグリニッジ天文台が中心になっちゃった。それと同じことで、これはスペインとポルトガルがやったことをイギリスが後追いしたのです。そして次の時代にはイギリスは勝ったということで、そのドラマの中にまだわれわれがいるということです。

ヌートカ湾事件というのは、オレゴンの海岸の北西部分にスペインの植民地がありました。そこを巡るイギリス、フランス、ロシア、アメリカ(アメリカはほぼ自分自身の土地でしたが)との争いです。スペインは1494年の古証文を持ち出して「ローマ法王が言った通り。北アメリカ大陸も南アメリカ大陸も全部スペインのもの」と言い出します。しかしアメリカは独立戦争の後、フランス革命の年にそういうことを言って抵抗したのです。それでイギリスを中心に衝突するのです。それはスペインの時代遅れの最後のあがきだったのかもしれませんが、実はそうではなかったのです。スペインは太平洋の西側を全部押さえていたのですから・・・。たとえば硫黄島は日本領で日本政府が日本領と宣言しますが、ダメだと言った国はスペインです。スペインはサイパンやテニアンを領土としていました。米西戦争でドイツに渡って、第一次世界大戦で日本領になるのですが、スペインは大変大きな影響力をアジアに持っていたのです。オランダではないのです。オランダの特徴は何かというとインドネシアに拘り過ぎたのです。他の国はどんどん動いたのですが、オランダはインドネシアにペッタリで足を取られて動けなかったのです。ヌートカ湾事件は、一つの地球上の大きな危機を表明して同時にそこで局面が動いたということがお分かりかと思います。

このヌートカ湾事件も全く歴史の教科書には書かれていません。でもやがて書かれるようになります。今日私がお話ししたことは「新しい歴史研究」ですから、やがて書かれるようになります。20年くらい遅れるでしょうけれど、日本はそういうものでしょう。だけど、このヌートカ湾事件もラッコの話も書かなければ歴史にならないからね。ラッコって可愛いのにねぇ。(笑)ということで終わりにします。

 文書化:阿由葉 秀峰

御厨貴座長代理への疑問

 私は天皇御譲位をめぐる問題については発言しないことに決めていて、今までのところこれを実行している。

 以下に示すのはやはり同問題そのものへの発言ではない。
御厨貴氏は有識者会議の座長代理である。座長はたしか経済界の有力者で、従って「代理」が事実上の座長であることは他の同種の有識者会議の例にもみられる通りである。
御厨氏は果してこの重要なお役目の座に坐るにふさわしい思想の持主であろうか。

NHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー 第二回 “天皇と憲法”」
2009年5月3日放送

東京大学・御厨貴教授:
「で、問題はだからやっぱり、僕は、天皇条項だと思っていて、この天皇条項が、やっぱり、その、如何に非政治的に書かれていても、やっぱり政治的な意味を持つ場合があるし、そういう点でいうと、あそこをですね、やっぱり戦前と同じように、神聖にして犯すべからず、あるいは、不磨の大典としておくのは、やっぱり危険であって、そこに一歩踏み込む勇気を持つことね。天皇っていうのは、だから、その主権在民の立場から、どう考えるかってことを、本格的にやってみること、これね、みんなね、大事だと思いながらね、絶対口を噤んで言わないんですよ、危ないと思うから、危ないし面倒臭いし、ね。だから、ここを考えないと、21世紀の日本の国家像とかいった時に、何で天皇の話が出て来ないってなるわけでしょ、そういう、やっぱり、やっぱり、天皇って、そういう意味では、国の臍ですから、この臍の問題を、つまり日本国憲法においても臍だと思うな、考えないと、もういけない時期に来ている、と僕は思います」

 以上はどう読んでも、皇室の存在は「主権在民の立場」にとっては障害になっている、ということを言っているのではないだろうか。「21世紀の日本の国家像」は共和制がふさわしいという意見の持主ではないだろうか。
こういう先入観をもっている方が今回の有識者会議の事実上の代表であることは果して許されることであろうか。

西欧の地球侵略と日本の鎖国(四)

 太平洋を中心とした世界地図を見てください。他の海と比べて太平洋は異様に大きいと思いませんか? 大西洋もインド洋も大きいけれど、太平洋の大きさは凄まじいですね。そして太平洋の南の国々、フィリピン、ジャワ海、インドネシア、セレベス海、パプア・ニューギニアそしてオーストラリア・・・。この辺り一帯の海域はなんと全体の南西に片寄っていると思いませんか? そして東側はなんと巨大でしょう。日本とアメリカの間には何も無いではないですか。ポツンとあるのはハワイです。太平洋の南はとても大きいのですが、これは島々が連なっています。メラネシアやポリネシアは群島で繋がっているので、南太平洋は島伝いに航海できるのです。しかし北太平洋の航海はどうしようもありません。今でも大変なことで、20年くらい前までは衛星を使ったGPSも無かったので星を計測して航行していたのです。北太平洋航路は現代の大型汽船の航行でも大変な緊張があったそうです。今はこのあたりはゴミの通路になっています。巨大ゴミが漂っているのです。東日本大震災の漂流物もここを渡ってカナダに行ったのですね。とにかく巨大だったのです。

 これを江戸時代の日本人に理解できなかったのは分かるでしょう。そしてヨーロッパ人にも全く分からなかったのです。太平洋は二つあるというのがヨーロッパの通説でした。それを覆したのがジェームズ・クックです。1770年から1780年の間に初めてクックが北太平洋に入ってハワイを発見して、この海域が南太平洋と続いているということが理解されるようになります。それまでは巨大な海が二つあると理解されていました。いかに江戸時代の日本人には手に負えない海であったかがお分かりいただけるかと思います。私はこの事実から「江戸時代の歴史」はすべて書き直されるべきだと思っております。今度また『新しい国民の歴史』で言わなければいけないと思っていますが、その理由をこれから証明します。
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 フェルディナンド・マゼランの航海した軌跡はどうであったか。世界一周を成し遂げますが一人で成し遂げることはできなかったのです。マゼランの航海はスペインが出発点です。そこから南アメリカ大陸南端の「マゼラン海峡」を通って太平洋の南、南太平洋に出てゆきます。それからずうっと行ってフィリピンに辿り着きますが、そこで不慮の死を遂げてしまいます。そして弟子たちが後を引き継いでスペインまで戻るのです。この大航海の間、マゼラン一行を苦しめたのは南太平洋が広かったということ。食べるものが無くなり、マストに付いていた牛革を食べたとか、黄色くなって腐った水を飲んだとか、船員は次々と壊血病に斃れて死んでいった。やっと辿り着いたフィリピンでは、島民の戦争に巻き込まれてマゼラン自身は弓矢に撃たれて死んでしまう。マゼランの弟子たちが1522年にスペインに戻って、初めて「世界一周」という名誉がマゼランの名につきました。

 フランシス・ドレイクはイギリスで海賊の親分のような人で、実際に世界一周を成し遂げました。ドレイクはエリザベス一世の申し子のような人で、スペインと勇猛な戦いをした人です。スペインを倒すための情熱に燃えた当時の代表的なイギリス魂を現した海賊です。後の1588年にスペインの無敵艦隊(インヴィンシブル)を打ち破ったアルマダの海戦によってドレイクは、敵の船団にどんどん火を点けて燃やしてしまうというそれまで考えつかない海賊ならではの戦術で、小国イギリスは大国スペインを打ち破り、エリザベス一世の名を上げた有名な海戦の覇主でした。そのため彼は海賊の身でありながら貴族に列せられました。そうは言っても元々イギリスは海軍で成り立っていたような国で、今でも海賊的な国です。ずっとそうだったので驚くようなことではありません。 

 ドレイクの世界一周の航路はイギリスから出港して、南アメリカ大陸の南端、マゼラン海峡の先、南アメリカ最南端のホーン岬をずうっと回って南太平洋に入り南アメリカ大陸を北上してゆきます。南アメリカはスペインの領土でその植民地を襲撃して財宝を略奪するためです。さらに北アメリカにも上ってゆき、オレゴンのあたりまで北上して植民地基地を次々と襲撃して、大量の財宝を奪い取って船に乗せて1580年に堂々とイギリスへ帰還したのです。そのときの財宝は当時のイギリスの国家予算の三倍でした。エリザベス女王をして狂喜至らしめたということで、海賊の女王ということですね。これがドレイクのドラマです。この時代の日本は戦国時代で、秀吉が1590年に天下統一。歴史的には驚くことではなく日本も似たようなものだったのです。
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北極点を真ん中あたりに置いて太平洋を上にした地図を見てください。右上にカムチャッカ半島があります。下にイギリスがあって、少し右上にノルウェー、スウェーデンのスカンジナビア半島があります。左上にグリーンランドがあって、その上にはカナダとアラスカがあります。右側に細長く見えるカムチャッカ半島のその右に日本列島があります。
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 また北アメリカ大陸を真上にして日本列島を右端に置いて、ユーラシア大陸を見渡せる地図を見てみると、カムチャッカ半島の上にベーリング海があります。北極海に入って左に行けばヨーロッパ。上に行けばアラスカ、カナダです。
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 さらに分り易い地図として、太平洋を真ん中として北を上にした絵解きの様な「マッカーサー地図(1979年)というものがあります。イギリスを出港すると北の海をくぐりぬけてカナダを通ってアラスカからベーリング海峡を抜けられる理屈です。同様にロシア、サンクトペテルブルクから陸路カムチャッカ半島に行って、そこから日本列島に行くこともできるし、ベーリング海峡に入って北の海からヨーロッパに戻ることも理屈上はできます。

 これが18世紀の夢だったのです。つまり17世紀までは西洋人の夢はインド洋と南太平洋で如何にして新しい領土を発見するかという話でしたが、スペインとポルトガルにしてやられたイギリスとロシアはどうしても自分たちの力で新しい海路を発見して、これをもって科学上の国家的栄誉を打ち立てなければならない。打倒スペイン、ポルトガル。そしてオランダはとうの昔に消えています。

 年表を見れば分かるように、18世紀になるとオランダは影も形も無くなっています。オランダは貿易上の争いからも退いてしますのです。ということは、日本はそのオランダ一国にぶら下がっていたのですからいかに半分しか分からなかったか、ということです。これからお話しする北太平洋を巡る激しい争奪戦から一国だけ脱落しているのはオランダなのです。スペインはまだ頑張っています。イギリス、ロシア、フランスそしてアメリカが順に登場します。そして初めて日本列島の周りが騒がしくなります。ですから、江戸時代は二つに分けて考えなければいけません。

つづく

年賀状の公開

今年出した年賀状は650枚、全部印刷文で、私の直筆は加えていない。本当は一行でも直筆を加えればよろこばれるが、この枚数ではとても対応できない。

私の同年か少し上の世代で、今年をもって賀状を止めます、と書いてきた人が3~4人いた。十分に理解できる。私もいつまでつづけられるか。

当ブログの管理人から、賀状に刷られた短文を公開してほしい、と連絡があった。公開に値する文章でもなく、賀状の個人性をますます失うことにもなるので望ましくないが、少し時間もたったので、要請に応じ以下に公開する。

賀正 私は年を経て複雑なものよりも平明なものを次第に好むようになりました。暗鬱なものより快活なものを見るのが好きになりました。複雑で暗い世界になにか深い精神性をしきりに求めたのは、若さにあふれていた青春時代の心の働きだったのかもしれません。

 私は同じことは二度書かない、同じ型の仕事は繰り返さないを、厳密には難しいのですが、ある程度モットーにしてきました。しかしやはり年を経て、自分で自分の過去を模倣していると思うことがあります。「精神は同じ階段を決して二度昇らないものだ」は古人の言葉ですが、とすると、平明で快活なものを好むようになったのは精神の衰えなのでしょうか。否、そうではなく、鳥も虫も羽根を休めるときがあり、海に吹く風にも凪の瞬間があるのが常です。そう考えることで安心したい自分も一方に存在しています。

平成29年 元旦 西尾幹二

DHCシアター(堤 堯氏司会)にたびたび出席しているが、1月5日(木)の「安倍外交で世界はこうなる!迫るチャイナリスク」をここに掲示する。出演者は、阿比留瑠比、福島香織、志方俊之、馬淵睦夫、関岡英之、日下公人、西尾幹二他である。

以下に掲示する。『やらまいか~真相はこうだ!~』

新保祐司さんの出版記念会

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 去る11月17日に新保祐司さんの『「海道東征」への道』(藤原書店)の出版記念会が銀座ライオンズビル5Fで開かれ、私は求められて次の挨拶を行った。

 新保さん、本日はおめでとうございます。いつの頃でしたか、もう10年以上も前になりましょうが、美の概念の中には「崇高」の美というのがあるとしきりに言っている人がいると知って、今どき珍しいし、得がたいことを言う人がいるものだと思ったのを覚えております。それが新保さんとの出会いでした。

 日本人の美の概念は調和のとれた、日常的世界、具体的で私小説風の小じんまりした、つつましい小世界を映し出した例が多く、それに対し「崇高」は偉大や雄大に境を接し、悲劇的概念でもあります。いわゆる普通の美が個人の範疇にとどまるのに対し、「崇高」は個人を超え、超個人的なものに関わる概念です。今の時代にこういうことを言える人は本当に限られた貴重な方だと思いました。

 そういう方向に関心を寄せている新保さんが産経新聞のコラム「正論」にたびたび登場するようになりました。すると小林秀雄についての言及が多いんですね。たびたび小林さんが取り上げられ、引用され、尊敬されている。それはいいんですが、私なんかの世代には絶対にできなかった。小林秀雄に託してものを言うことは難しいし、なぜか恥しい。余り小林さんのことは口にしない。〝小林秀雄に腰かけてものを言う人″と思われたくないという意識が強く働いていました。

 私より上の世代のことを言うと、これはもっと面倒だった。福田恆存氏が小林さんに最初に会ったとき、いきなり「貴方ほど邪魔な人はいない」と言ったといいます。さすが私の世代では小林さんの前でそこまで言った人はいないし、聞いたこともありません。けれども「邪魔」という意識は私にもあります。痛いほどこの一語はよく分る。

 皆さん、それはそうではありませんか。小林さんは時代の精神のほとんどすべての問題の問題点を語っています。全部彼に言われてしまっている。20世紀のヨーロッパの知識人がすべての問題の問題点をニーチェに言われてしまっている、というのにも似ています。
 
 小林さんは「尺度」として扱われてきました。物を書いている評論家の多くが、私を含めてですが、永い間あなたは小林の「尺度」に従えばどのあたりに位置し、今のところまだ頂上からほど遠く、何合目あたりを歩いているようにみえる、といった風な意識でみられてきました。これほど「邪魔」な存在はないではありませんか。

 ところが新保さんにはそういう意識はまったくないみたいなんです。あっけらかんとして小林の名を持ち出す。尊敬の対象として何のけれんみもなく平然と小林秀雄をもち上げる。私はそれが久しく気になってならなかった。でも、彼はびくともしません。

 で、だんだん気がついたんです。あゝ、そうか、これでいいのかもしれないな。私と新保さんとの年の差は18歳もあります。小林さんは私の世代には余りにも生々しかった。しかし、今小林の名はついに歴史になった。福沢諭吉や乃木将軍と同じ歴史上の人物になったのであろう、と。

 でも、私にとってはそうではありませんでした。小林と同じ道を歩んではいけない。小林と違うことをしなければいけない。小林と同じテーマでも違う型にしなければならない。一口でいえば、小林と戦わなければいけない。「邪魔だ」と言った福田恆存だけではありません。中村光夫も、江藤淳も、吉田健一も、小林を意識した同時代人はみなそこからの「脱出」を企てなければなりませんでした。けれども、新保さんはその必要がないみたいです。時代が動いたんですね。この問題意識そのものが「歴史」になってしまったんです。私の世代まであった苛立ちは誰ももう理解してくれないでしょう。

それにはこういうこともあるようです。私の時代には小林のエピゴーネンがわんさといた。だから自分はそうでないというために、小林を無視した風をしていなければならなかった。しかし今のこの時代では、小林秀雄をきちんと読む人さえも少なくなっている。エピゴーネンなんかいない。この環境の違いもあるのかなと考えるようになりました。

 新保さんのお書きになっているテーマでもうひとつ心に響くのは先の戦争の問題、「開戦」をめぐるテーマ、日本は無謀な戦争を始めた、勝ち目のない戦争を始めた、という戦後を蔽いつくした俗耳に入り易い言い方にきちんと疑問を呈しておられることです。

 加藤陽子の例の本に反論して、勝ち目のない「にもかかわらず」、それでも日本は短期決戦の方針で開戦に踏み切った。この「にもかかわらず」が大切なのではないかと論じています。「戦わなければ、戦わずして敗戦後の日本と同じ状態にさせられていた」(209ページ)と新保さんはお書きになっている。これは現実を正確に見ている表現です。こういうことを今明言する人が少なくなったので私は嬉しいのです。

 勝ち目のない戦争を戦ったというのなら、日露戦争だって同じだったのではありませんか。結果的に勝ったといっても、薄氷を踏む思いの辛勝だったじゃないですか。ロシアが内政で倒れた面がかなり大きい。とにかく二つの戦争は日本が愚かだとか、間違えていたとかいう前に、あっという間に襲ってきた運命の襲来でした。

 私は日本の近代化が短すぎた無理が祟った、とは思っていますが、道徳的に非難する気にはなれません。今はその話はこれ以上止めましょう。

 ともあれ、新保さんの新しいこのご本は静かな決意と勇気を与えてくれるもの言いや分析に数多く出会え、貴重なご本と拝察しました。ありがとうございました。

全集第16巻『沈黙する歴史』の箱の帯の文章

私は12月中ごろに全集第16巻の『沈黙する歴史』を出します。全集編集部から文中より選ばれたなにかいい言葉があったら、箱の帯に用いたいので、といわれて、以下のイからトまでの七つの短文を本文のテキストから拾い出しました。実際に用いられたのは最初の四つでしたが、ここでは七つ全部をご紹介しておきます。これらの短文集で「沈黙する」歴史という言葉の意味はお察しいただけるでしょう。

イ 今はもう終わった自分の戦争を是認することと、未来の戦争一般を忌避することとは、少しも矛盾しない。(62ページ)

ロ 終戦の日から二週間たってなお、日本の新聞は公然と「戦意」を表明していた。(69ページ)

ハ たいていのことに関し米国に調子を合わせ利益を損なうようなへまをしない戦後日本が、「謝罪問題」にだけはこだわり、抵抗するのはなぜだろうか。平成七年夏の戦後五十年国会謝罪決議に五百万人もの反対署名が集まったのはなぜだろういか。(77ページ)

ニ われわれはたしかに戦争をした。しかしなぜ戦争もしたと考えることができないのだろう。(97ページ)

ホ あらゆる国が自国の利益を第一にしている。「自存自衛」のために戦うのが戦争の第一目的であって不思議はない。さりとて他方、日本が「アジア解放」という戦争目的を心に秘め、一部にそう公言して戦ったことも紛れもない事実なのだ。そこには当然、二重性がある。戦後の日本人がおかしくなったのは、この意識の二重性を失ってしまったことである。(96ページ)

ヘ 過去の行為の間違いを正すことにおいて、現在の人間は果てしなく自由であるが、現在の行為の間違いを正すことに、それがほんの少しでも役立つと考えるのは、ほろ苦い自己錯誤であろう。(186ページ)

ト 日本人は戦闘に負けたが、戦争に負けたわけでは必ずしもない。その自覚が戦後なおつづいている間はまともだったが、戦勝国が占領政策を通じて仕掛けてきた功名で粘り強い戦後における戦争にやがて敗れることになるのである。」このほうがずっと影響は大きい。(71ページ)

目 次
序に代えて 歴史には沈黙する部分があり、沈黙しながらそこから声を発している

Ⅰ 沈黙する歴史
歴史は道徳の課題ではない
限定戦争と全体戦争
不服従の底流
日米を超越した歴史観
『青い山脈』再考
日本のルサンチマン
ニュルンベルク裁判の被告席に立たされたアメリカ
焚書、このGHQの思想的犯罪(講演)
全千島列島が日本領

Ⅱ 世界史の中に大東亜戦争を置いて見る
日本人の自尊心の試練の物語
日本人は運命の振り子を自ら動かせたか
二つの世界大戦と日本の孤独
オレンジ計画について
イラク戦争が「人道への罪」を変質させた
そもそも「世界史」は存在しない

Ⅲ 内と外からの日本の幽愁
あらためて「終戦の日」に思うこと(二〇〇〇年八月十五日)
日本人が敗戦で失ったもの
「第二占領期」に入った日本
健全な民主主義は権力の集中を必要とするワイマル時代のドイツと今の日本
日本人の自己回復(講演)
中国の無法と米国の異例な法意識
一〇〇パーセントの「反米」も一〇〇パーセントの「親米」もない
『沈黙する歴史』新版まえがき(二〇〇七年)

Ⅳ 台湾の精神的自立を信じればこそ
わたしの台湾紀行
「わたしの台湾紀行」補説

Ⅴ 公開日誌(二〇〇二年七月十五日~二〇〇三年五月十八日)私は毎日こんな事を考えている
Ⅰ ノルウェーの森と峡江フイヨルド
Ⅱ みかんの花咲く丘
Ⅲ 「小泉訪朝」終日テレビ・ウォッチング
Ⅳ 韓国人の対日観は変わるのか
Ⅴ 拉致家族五人の帰国とその後
Ⅵ 嗚呼、なぜ君は早く逝ったのか
Ⅶ 日日是憂国
Ⅷ 元旦・朝まで生テレビに意味ありや
Ⅸ アメリカ政府に問い質したきこと
Ⅹ 靖国会館シンポジウムでの私の発言
ⅩⅠ クラウトハマーとブキャナンとイラク戦争
ⅩⅡ 世界は安定を捨て次の局面に入った
あとがき

Ⅵ 「路の会」合同討議 日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか
第一章 「静かなる敗戦」の衝撃
大島陽一 井尻千男 高森明勅 遠藤浩一 尾崎 護 田中英道 西岡 力 宮崎正弘
片岡鉄哉 小浜逸郎 藤岡信勝 黄 文雄 萩野貞樹 西尾幹二
第五章 失われた「国家意識」
萩野貞樹 小浜逸郎 宮崎正弘 田中英道 藤岡信勝 東中野修道 小田村四郎 
黄 文雄 高橋史朗 西尾幹二

追補一 『沈黙する歴史』解説(徳間文庫)・西岡 力

追補二 『沈黙する歴史』解説(WAC文庫)・高山正之

追補三 富岡幸一郎・西尾幹二対談 林房雄『大東亜戦争肯定論』をめぐって

後記

お知らせ

「坦々塾 秋季特別研修会」を、11月26日(土)に、四ツ谷地域センターにおいて、下記の要領で開催することとなりました。
 皇室・宮中祭祀等に関する研究の第一人者とされ(葦津珍彦先生の没後の門人でもある)斎藤吉久先生をお招きし、「今上陛下の「譲位」の思召し、その御真意と国民の責務」と題してご講演をいただき、質疑応答・相互の意見交換をいたします。お一人でも多くの皆様のご参加をご期待申し上げます。

 また今回は、一般(非会員)聴講希望者のお席も「30席」設けて、先着順にご参加を申し受けます。是非奮ってご参加下さい。
 そして、研修会終了後に、近傍のホテルで、講師斎藤先生と西尾先生を囲んでの懇親会も開催いたします。(一般聴講者のご参加も歓迎いたします。)

 以上、会員の皆様、一般聴講者の皆様の奮ってのご参加とご高論を大いにご期待申し上げます。

1.研修会・懇親会の日時・会場
(1)研修会 日 時 : 11月26日(土)16:00~18:45 (受付: 15:30~)
  16:00~16:30 挨拶・講話(西尾幹二先生)
  16:30~18:00 講 演(斎藤吉久先生)
            18:10 ~18:45 質疑応答・相互意見交換
(2)会 場 : 四ツ谷地域センター12階 「多目的ホール」
(東京メトロ 丸の内線「新宿御苑前」下車 徒歩5分 )
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(3)懇親会 日 時 : 同日 19:00~21:00
会 場 : ホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷
(四ツ谷地域センターから 徒歩5分 アクセス 別添)

(4)会 費: 研修会 1.000円  懇親会(立食パーティー) 6.000円
 
(5)お申込み: 「研修会・懇親会ともに出席」 又は 「研修会のみ出席」をご明記の上、11月25日(金)までに、事務局(小川)(℡ : 090-4397-09087 FAX:03-6380
         -4547  E-mail : ogawa1123@kdr.biglobe.ne.jp) までお申し込み下さい。
(ただし、一般聴講者の皆様につきましては、30席受付が満員となり次第 〆切とさせていただきます。)

                       西尾幹二坦々塾事務局 小川揚司 拝

 追 伸 : 恒例の坦々塾新年会(西尾先生のご講演と懇親会)を、来年1月21日(土)午後に、水道橋の「内海」で開催する予定でおります。詳細につきましては、西尾先生の
 「年頭メッセージ」に添付させていただきますが、先ずは斯く予告申し上げます。

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オバマ広島訪問と「人類」の概念(二)

戦後を代表する評論家の嘘

 加藤周一といえばすでに他界されて久しく、死者に鞭打つつもりはありませんが、戦後を代表する最も知的な評論家として国語の教科書にも掲載され、高い評価を得ている人です。ベルリンの壁が落ち、ソ連が消滅した冷戦の終結時に、共産主義をなんとなく応援していた人はあれこれいろんなことを言ったものです。加藤氏も「資本主義が勝ち、社会主義が失敗したわけではないと弁明し、「解体しつつあるのは、スターリン型の社会主義である」と限定し、その後、とんでもない発言をしているのです。

 「政治的には政権交代の制度化において、あきらかに西欧や北米が先行し、ソ連・東欧・中国・日本がはるかに後れていた。ソ連や東欧は今その後れをとりもどそうとしているが、東北アジアの将来は、あきらかでない。1990年1月現在の日中両国には、一党支配が続いている」(連載「夕陽妄語」『朝日新聞』1990年1月22日)

 これも「体制の相違」ということがまったく分かっていないか、または分かっていないふりをして日本の政治を嘲弄しようとしているのです。私は反対意見として、次のひとことを呈しておきました。

 「日本と中国の『一党支配』が原理を異とする、別次元の性格のものであり、この点で氏のように、『ソ連・東欧・中国・日本』と並べるわけにいかないことは、加藤氏よ、13歳の中学生でも弁えている現実である。かつて知性派と目された評論家が、こういう子供っぽい出鱈目を書いてはいけない」(「ロシア革命、この大いなる無駄の罪と罰」『新潮45』1990年3月号)

 この時点で、加藤氏はもちろんご存命でした。

 加藤氏の間違いは、議会制民主主義の上に成り立つ西欧の民主社会主義と一党独裁と私有財産権否定のソ連・東欧・中国のマルクス=レーニン主義とは似て非なるものであり、」完全に原理を異とした別個の体制であって、両者の間に明確な一線を引かなくてはいけない、という最も初歩的な「体制の相違」という観点を曖昧に誤魔化していることです。

 そして、後者が完全に破産していること――すなわちロシア革命の失敗!――から目を逸らすために、西欧の民主社会主義にあくまで「本物の社会主義」を追い求めることで、マルクス=レーニン主義を救えるかのような、少なくともこれを奈落につき落とさないでも済むかのような幻想に取り縋っていたことです。

 いまの日本ではようやくそういう幻想は消えたかもしれませんが、習近平の中国が克服さるべき「スターリン型の社会主義」であることは、どこまで明敏に意識されているでしょうか。「日中両国の一党支配」を一つに見立てるというような、国民の99%が首を傾けるに違いない言葉が大新聞の文化欄に載ったのも、日本人に特有の知覚の欠陥に由来することでなくて何でありましょう。

つづく

Hanada-2016年7月号より

オバマ広島訪問と「人類」の概念(一)

(一)

わが目を疑った新聞記事

 日本人が外の世界を見る眼には、一種の知覚の欠陥に由来するような何かがあるのではないかと思うことが何度もあります。そういえば、日本人を褒めるのがやたら流行っている昨今の情勢では、何を?と目を剥いて叱られそうな雲行きです。

 で、はっきり証拠の出ている少し以前の話を致します。2002年9月の小泉首相の電撃訪朝により、同年10月15日に蓮池さん、地村さん、曽我さんが帰国され、彼らを北朝鮮にいったん戻すか否か、彼らの子供の帰国をどうするか等がしきりに論じられたときのことです。

 まずは、2002年10月末から11月にかけてのお馴染みの朝日新聞投書欄「声」からです。

「じっくり時間をかけ、両国を自由に往来できるようにして、子どもと将来について相談できる環境をつくるのが大切なのではないでしょうか。子どもたちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」(10月24日)

「彼らの日朝間の自由往来を要求してはどうか。来日したい時に来日することができれば、何回か日朝間を往復するうちにどちらを生活の本拠とするかを判断できるだろう」(同25日)

 そもそもこういうことが簡単にできない相手国だから苦労していたのではないでしょうか。日本政府が五人をもう北朝鮮には戻さないと決定した件については、次のようなオピニオンが載っていました。

 「24年の歳月で築かれた人間関係や友情を、考える間もなく突然捨てるのである。いくら故郷への帰国であれ大きな衝撃に違いない」(同26日)

「ご家族を思った時、乱暴な処置ではないでしょうか。また、北朝鮮に行かせてあげて、連日の報道疲れを休め、ご家族で話し合う時間を持っていただいてもよいと思います」(同27日)

 ことに次の一文を呼んだときに、現実からのあまりの外れ方にわが目を疑う思いでした。

「今回の政府の決定は、本人の意向を踏まえたものと言えず、明白な憲法違反だからである。・・・・憲法22条は『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない』と明記している。・・・・拉致被害者にも、この居住の自由が保障されるべきことは言うまでもない。それを『政府方針』の名の下に、勝手に奪うことがどうして許されるのか」(同29日)

 常識あるいまの読者は、朝日新聞がなぜこんなわざとらしい投書を相次いで載せたのか不思議に思うでしょう。あの国に通用しない内容であることは、おそらく新聞社側も知っているはずです。承知でレベル以下の幼い空論、編集者の作文かと疑わせる文章を毎日のように載せ続けていました。

 そこに新聞社の下心があります。やがて被害者の親子離れが問題となり、世論が割れた頃合を見計らって、投書の内容は社説となり、北朝鮮政府を同情的に理解する社論が展開されるという手筈になるのでした。朝日新聞が再三やってきたことでした。

 何かというと日本の植民地統治時代の罪を持ちだし、拉致の犯罪性を薄めようとするのも同紙のほぼ常套のやり方でした。

 それにしても、いったいどうしてこれほどまでに人を食ったような言論が、わが国では堂々と罷り通っていたのでしょうか。「体制の相違」ということをはなから無視しています。五人の拉致被害者をいったん北朝鮮へ戻すのが正しい対応だという意見は、朝日の「声」だけでなく、マスコミの至る処に存在しました。

犯罪国の言い分を認める

 

「どこでどのようにして生きるかを選ぶのは本人であって、それを自由に選べ、また変更できる状況を作り出すことこそ大事なのでは」(『毎日新聞』12月1日)

 と書いたのは、作家の高樹のぶ子氏でした。彼女は

「被害者を二カ月に一度帰国させる約束をとりつけよ」

などと、相手をまるでフランスかイギリスのような国と思っている能天気は発言をぶちあげています。彼女は

「北朝鮮から『約束を破った』と言われる一連のやり方には納得がいかない」

と、拉致という犯罪国の言い分に理を認め、五人を戻さないことで

「外から見た日本はまことに情緒的で傲慢、信用ならない子供のように見えるに違いない」

とまでのおっしゃるようであります。

 この最後の一文に毎日新聞編集委員の岸井成格氏が感動し(『毎日新聞』12月3日)、一日朝のTBS系テレビで

「被害者五人をいったん北朝鮮に戻すべきです」

と持論を主張してきたと報告します。同じ発言は評論家の木元教子さん(『読売新聞』10月31日)にもあり、民主党の石井一副代表も

「日本政府のやり方は間違っている。私なら『一度帰り、一ヵ月後に家族全部を連れて帰って来い』と言う」(『産経新聞』11月21日)

と、まるであの国が何でも許してくれる自由の国であるかのような言い方をなさっている。

 一体、どうしてこんな言い方があちこちで罷り通っていたのでしょう。五人と子供たちを切り離したのは日本政府の決定だという誤解が、以上見てきた一定方向のマスコミを蔽っています。

 「体制の相違」という初歩的認識が、彼らには完全に欠けています。

 日本を知り、北朝鮮を外から見てしまった五人は、もはや元の北朝鮮公民ではありません。北へ戻れば、二度と日本へ帰れないでしょう。強制収容所へ入れられるかもしれません。過酷な運命が待っていましょう。そのことを知って一番恐怖しているのは、ほかならぬ彼ら五人だという明白な証拠があります。

 彼らは帰国後、北にすぐ戻る素振りをみせていました。政治的に用心深い安全な発言を繰り返していたのはそのためです。日本政府は自分たちを助けないかもしれない、とずっと考えていたふしがあります。北へ送還するかもしれない、との不安に怯えていたからなのです。

 日本政府が永住帰国を決定した前後から、五人は「もう北へ戻りたくない」「日本で家族に会いたい」と言い出すようになりました。安心したからです。政府決定でようやく不安が消えたからなのでした。これが、「全体主義国家」とわれわれの側にある普通の国との間の「埋められぬ断層」の心理現実です。

 五人の親だけを帰国させたのは、子供を外交カードに使う北の最初からの謀略でした。蓮池さんや地村さんに子供を日本に連れて行ってもいい、と向こうの当局が言ったという話がありますが、彼ら両夫妻がきっぱり断ったそうです。もし連れて行きたい、と喜んで申し出を受け入れれば、その瞬間に忠誠心を疑われ、申し出を受けた夫妻の日本行きは中止となる、と彼らはそのときに直観したというのです。それほど徹底して異質な社会なのです。

 あの国の政府が何かをしてよいと言っても表と裏があり、それを安直に信じるわけにはいきません。筋金入りの朝鮮労働党の信奉者を演じきることのできる心理洞察力の持ち主だったから、彼らに帰国のチャンスがあり得たのでした。

 日本では小説家や評論家のような立場の人に、国家犯罪とか全体主義体制の悪とかについての認識があまりに低く、ナイーヴであり過ぎるのが私にはまことに不可解であります。スパイ養成を国家目的としている国の心理のウラも読めないで、よく小説家や評論家の看板をはっていられるものと思います。

 「朝日」や「毎日」がおかしいというのはたしかですが、それだけではない、ここまでくると日本人そのものがおかしいのではないか、とつい思わざるを得ません。

 これらの言葉を当時、私はむろん否定的に読んでいましたが、読者としてまともに付き合っていたのであって、狂気扱いはしていません。現実の国際的常識から外れていて変だとは思いましたが――だから念のために記録しておいたのです。しかし、いまからみれば私だけではない、「朝日」の記者だって自分たちが作っていた言葉の世界が精神的に正気でなかったと考えざるを得ないでしょう。

 日本人は自国の外を見るとき、やはりどこか知覚に欠陥があるのではないでしょうか。

月刊Hanada―2016年7月号より

つづく