今日は個人的感情を隠していない「応援歌」のような二人の友人のメールをご紹介する。こういうのを頂くのも有難いし、うれしい。
その前に冒頭に出てくる『諸君!』の廃刊については、ただただ驚いているだけだということをお伝えし、後で感想を述べる。最初のメールレターの主は元『逓信協会雑誌』編集長の池田俊二さん、私の『人生の深淵について』の生みの親であり、洋泉社親書の『自由と宿命・西尾幹二との対話』の相手をして下さった方だ。旧友の一人といっていい。
『諸君!』(近く廢刊になるさうですね)での對論についての、尾方美明さんと足立誠之さんの感想、實にいい點を突いてゐますね。
秦といふ人については、尾方さんのおつしやる「愛情が決定的に不足」が全てでせう。何故さうなるのか、私からすれば、單なるバカだからとしか言ひやうがありません。
足立さんの「秦氏は木っ端微塵に碎けた」にも、完全に同感です。まともな眼で見れば、それ以外に評しやうがないでせう。しかし、本人も、多くのジャーナリズムも「碎けた」とは感じないのではないでせうか。そして、今後もイケシャーシャーと、「西尾さん、本來の持ち場にお歸りなさい」などと言ひ續けるのではないでせうか。
先生が「相手として戰はなければならない今の時代の典型的な『進歩的文化人』」5人の一人として、秦氏を擧げられる所以でもありませう。
「今の時代」にあつては、連中と「戰ふ」ことが、先生の責務とされるのでせう。それは否定出來ません。しかし、私としてはまことに悲しい。最高の知性が、あのやうなゴミを相手にせざるを得ないとは! ゴミは我々大衆が處分すべきです。そして、先生は『江戸のダイナミズム』のやうな、ゴミとはかかはらないお仕事に專念されることを願つてきましたが、大衆がかくも怠惰・魯鈍では、さうは問屋が卸しませんね。
「後世に遺る」といふことが、私の念頭にありますが、一方、少しでも時代の要請に應へる――時の風潮を匡す――ことも大切ですから。「朝まで生テレビ」にお出にならざるを得ないのと同じことですね。
まあ、この世も、人生も思ひどほりにはゆかないものですね。折角御健鬪を祈り上げるのみです。
ありがたい「応援歌」でもあるが、大切なことを要請されてもいるのである。『ツァラトゥストラ』に「市場の蠅」という一節がある。
市場においてだけ人は「賛成」とか「反対」とかの問いに襲われるのだ。市場と名声とを離れたところで、すべての偉大なものは生(お)い立つ。
およそ深い泉の体験は、徐々に成熟する。何が己れの深い底に落ちてきたかがわかるまでには、深い泉は長い間待たねばならぬ。
逃れよ、私の友よ、君の孤独の中へ。私は君が毒する蠅どもの群れに刺されているのを見る。逃れよ、強壮な風の吹くところへ。
君は小っぽけな者たち、惨めな者たちの、余りに近くに生きていた。目に見えぬ彼らからの復讐から逃れよ。君に対して彼らは復讐心以外の何者でもないのだ。
彼らに向かって、もはや腕をあげるな。彼らの数は限りがない。蠅たたきになることは君の運命ではない。
池田さんは私に「蠅たたきになるな」と言って下さっているのである。肝に銘じたい。
『諸君!』編集長の内田さんは私の『江戸のダイナミズム』を総力を挙げて編纂し、出版してくださった担当編集者である。二年前『諸君!』のチーフになったとき、私たちは私の仕事について相談し、私はなんらかの形での十八世紀論を連載することを彼に提案し、了承されていた。しかししばらくは現代との格闘をして欲しい、とも彼は言って、その間に準備を進めることになっていた。
私の準備は遅れがちであるが、今でもこの計画を変えていない。『江戸のダイナミズム』は言語論、宗教論だったので、今度は十八世紀の中国と西欧に対する江戸の政治論、外交論を書きたいのである。私の「鎖国論」でもある。
西欧にではなく中国に対する「鎖国」が問題の中心であったことを今までの人は見ていない。また、大東亜戦争につながるイギリス、フランス、オランダ、ロシアのアジア侵略は江戸時代に完了していた。江戸の研究家は江戸文化にばかり目が向いて、中国と西欧に対する当時の日本の静かな対応、拒絶と憧憬のもつ意味を見ない。
私はデッサンだけしか書けないかもしれない。書きたいのは、十八世紀の西欧の成熟した文化は江戸の文化と呼応していて、日本人は中国文化とは江戸を通じてどんどん距離が出来ていたということなのだ。清朝時代の中国は秩序というものを知らない。
それが明治以後に複雑に波動している。大東亜戦争の由来も、そしてその積極的意義も、ここから考えなければいけない。
しかし、残念ながら『諸君!』の廃刊は私のこの仕事の連載を不可能にした。私にとっては打撃である。内田さんも恐らく残念に思っているだろう。三日前に私にかけてきた報告の電話の声は興奮していた。
私の上記の企てを引き受けてくれる雑誌は当分の間見つかりそうもない。昔は文芸誌『新潮』が対応してくれたものである。今の文芸雑誌はさま変わりしている。
大型の充実した連載が可能な雑誌は見当たらない。それが簡単に見つからない情勢だから、雑誌の廃刊が相次ぐのである。今の時代の文化が重い荷物を担うことができなくなったためである。左傾とか右傾とかいう話ではない。文化のパワーの衰弱の結果に外ならない。
さて、もう一人の「応援歌」はパリのFさんが寄せてきた次のメールレターである。当「日録」がコメント欄を開いていた当時、たくさん書き込んで下さった方である。『諸君!』3月号論文に向けて書かれている。
西尾幹二先生
ご無沙汰いたしております。
お元気でいらっしゃいますか。
先生の日録は精力的で、毎日クリックする楽しみがあります。
お忙しい中、次から次書いておられる勢いに、なんかこう、若さを先生から感じます。諸君の3月号『米国覇権と「東京裁判史観」が崩れ去るとき』を拝読いたしました。
先生はとても大事な難しい事柄を、主婦の私にも何とか理解できる文章で表現されることに、真贋の真を感じます。次を待ちたい気持ちになります。
市販本「新しい歴史教科書」が発売されてすぐに買ったつもりが、2001年6月10日の第1刷発行より10日遅い2刷発行でした。
6~7ページの『「歴史を学ぶとは」・・・・過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。・・・歴史によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない。個人によっても、時代によっても、歴史は動き、一定ではない。しかしそうなると、気持ちが落ち着かず、不安になるだろう。だが、だからこそ歴史を学ぶのだともいえる。』を読み、歴史というものを年代暗記ではなく、物語として捉える楽しみがあるのだと。
私もこんな教科書で学びたかったと思いました。
昔この教科書に出会っていたならもっと歴史を勉強したかもしれないと、ないものねだりの自分がありました。
この「歴史を学ぶとは」が現行の教科書では、中学生に難しいということで削られたということですが、大人は子供を見くびっていますね。この言葉がこの教科書のダイヤモンドなのに・・・。 一番いいものを子供に触れさせない大人は、精神の怠け者です。
そしてふっと、山本夏彦氏の言葉も蘇ってきました。故人とも旧知の仲になれると読書の醍醐味を語っていました。小説の作家やその本の中に出てくる人々とも友に似たものになれると。
先生が論文で挙げておられる歴史家の先生方は、歴史の勉強は沢山したのでしょうが、その時代に生活していた人々を忘れた勉強の仕方だったのではないかしらと。
また、「人生の価値について」の中で、先生が大学生の時の教授のことを書いておられましたが、デパートのような内容の教授には人間的な魅力が感じられなかったということも、なぜか思い出しました。
先生が今なさっておられる「GHQ焚書図書開封」の仕事こそ、歴史家がよだれを出しそうな仕事だと思うのですが、果たして自称昭和史家の彼らはこの仕事に取り組んでいるのでしょうか?
昭和16年12月8日の開戦の報を聞いた、何人かの著名人の言葉を数年前に読んだのですが、先生が書いておられるように「・・・必ずしも不安や恐怖ではなくある説明のつかない安堵感であったといわれています」と同じような内容でした。いまになって、その本をきちんととって置けばよかったと悔やんでいます。
先月法事で日本へ帰国していた友人が、フランスに帰ってきて私への第一声は、「日本のテレビは朝から晩まで、社会面のニュースばかり、それも同じことを取り上げていて、どうして今問題になっているガザのニュースをしないのか?」でした。その頃のフランスの夜8時のテレビのトップニュースは、ガザでした。
また先日フランスで大規模のデモがあり、そのことについて、サルコジ大統領が各局のニュースキャスターや新聞記者の質問に答えるテレビ番組がありました。チャンネルを変えても変えても同じ画面。6チャンネルあるうちの3つのチャンネルが同じ放送をしていました。
フランス人は、大統領の所信演説などの放送はよく見ます。
他人のフィルターを通した解説より、自分の耳で聞きそして自分なりの判断をする。3つのチャンネルがサルコジ大統領の番組を放映したことについて、後日友人にフランス人は政治に関心があるね、日本では考えられないことだと言いますと、サルコジ大統領はテレビ局を手中に収めたから、これも注意していないとね、という鋭い答えが返ってきました。
今年の1月5日から(夜の8時~朝の6時まで)2チャンネルと3チャンネルから宣伝がなくなりました。
テレビの見方の日仏の違いを考えてしまいました。良くも悪くもフランス人にとっては、「レゾンデートル」が一番の関心事なのだろうが、私なりの結論です。
それだけに利己主義、国粋主義の多いこと、うんざりしてしまいますが、私は反面羨ましくも思います。まず自分が大事、自国が大事、フランスが一番、がフランス人の思考です。
これを堂々と言葉に出すフランス人。「レゾンデートル」を思う人間にとっては普通のことだと思うのですが、日本人の私はやはり羨ましい。
フランスの子供はませています。起こった事柄に現実的に判断をするということです。自分のことの責任は自分にあるということを小さい時から躾けられています。フランス人は自分の国は自分たちで護る。国連に自分の国を護ってもらおうとは考えません。ちょっと賢い高校生は、国連は自国の利益になるように使うものだということを大人を見て知っています。ここら辺が、フランスという国のすごいところです。
これも私はとても羨ましい。
つい先日、息子の友人のアメリカ人が遊びに来た時、我が家にある戦争映画(DVD)の話題になり、私は「これらは日本人を悪者に描いてあるから見たくない」というと、彼は解説の制作年、1943年、44年を指差し「よく見て制作年を、まだ終戦前だよ。政府がハリウッドに作らせたプロパガンダ映画なんだよ」と。
それにしても日本人は、沢山の映画をうっかり見てきたのだなぁ、とその時思い知らされました。
先生のお姿を、チャンネル桜の討論会やGHQ焚書図書開封で楽しみにして拝見しています。先生のお仕事で私達日本人に真贋を見分ける眼を与えてください。
どうぞお体大切になさってお元気で過ごしください。
取り留めなく書いてしまいました。お読みいただきありがとうございました。
パリのご家庭の様子が目に浮かぶようである。帰国された折、東京で一度お目にかかっている。
今の日本には激変が近づいている。政治の枠組みがガラッと一変するかもしれない。それを見ないようにしているのが新聞・テレビ・出版社の大手マスコミである。パリではそんなことはないと仰っているわけだが、そのことに日本で気がつき、言うべきことを言って警鐘を鳴らすのはだからとても大切な仕事である。けれどもその役を引き受けることは、端的に言って、「市場の蠅たたき」になることに外ならない。
「彼らに向かって、もはや腕をあげるな。彼らの数は限りがない。蠅たたきになることは君の運命ではない。」という声も、地鳴りのように私の耳には響いているのである。