開催日:平成28年4月24日
場所:豊島区医師会館
主催:日本の伝統と文化を語る集い
企画・運営:「新しい歴史教科書をつくる会」東京支部
【<歴史・公民>東京塾・第30回研修会】
(一/六)
今日はすこし細かい話になると思います。私たちにとって重大な歴史の概念である鎖国を『国民の歴史』で「鎖国は本当にあったのか」という一節で表現しました。そうしたら歴史学者たちから、そんなことはもう言われていることだと頻りに言われました。ところが歴史の教科書その他における「鎖国の見直し論」というのはその後、だいたい15年くらいなのです。最近になると、全ての歴史教科書から鎖国という言葉は消えつつあります。「江戸時代に鎖国は無かった」と・・・。私が「果たして鎖国はあったのか?」と言ってそれに影響された、ということは口が裂けても言いたくないのですよね。(笑)でも鎖国は複雑な概念で、私は再び「鎖国はあったのだ」ということを言おうと思っています。
「鎖国は無かった」という議論のおおむねは、日本は自分を守ったわけでもなければ、何となく余裕があったのだ、ということが言いたかったわけです。通例「鎖国論」のおおむねは「鎖国得失論」から始まります。代表的な一人は徳富蘇峰。日本は鎖国をしたために植民地獲得競争に敗れて損をしたのだという議論。得失の「失」のほうで、損をしたという議論です。もう一人は戦後になって出た和辻哲郎。これも「失」のほうで、日本は鎖国によって科学の精神を持たなかったから、科学の発展が遅れてしまい戦争に負けたのだ。分かり易く言えばそういう概念で論じて、暗いイメージで鎖国をとらえています。それに対して「得」をしたという議論もあります。その間に日本の文明が成熟する時を持ち得たのだから得をしたのだ、という議論です。しかし損とか得とかいう議論がそもそも成り立つのか、ということが大きな問題です。
17世紀の後半にはポルトガルやスペインの衰退に続いてオランダも衰退し、代わりにイギリスとフランスが登場します。それでも日本の海域が両国に脅かされることはありませんでした。イギリスとフランスは本国でも戦争ばかりしていて、インドやカナダにおいても事々に激しい争奪戦を重ねて、日本は暫しの間高みの見物を楽しんでいればよかったのです。日本は鎖国していたのではなく、海外へ敢えて出ていく必要が無かっただけではないか? というのがもう一つの観点です。つまり損得とは違うもう一つ別の歴史の観念を受け入れてみてはどうか? ということです。
日本は金銀銅の埋蔵に恵まれていて、無理して海外に出かけて行って危険な貿易をしなくても国内から産出する富によって、十分に外国の商品を買付けることが出来ました。日本は決して眠っていたのではありません。本の出版点数は、少なくともヨーロッパに関するものは江戸時代に入って急激に増えていて、日本の輸入した最大の商品は絹織物に次いで漢籍つまりシナの本であったことも一つの判断材料になります。しかし国内から産出する金銀が底をつく時がすぐにやってきました。八代将軍吉宗の代になると輸入を抑制して、むしろ海外から生産技術を手に入れて色々なものの国産化を急ぐようになりました。
ヨーロッパと争って東南アジアの物産を買い入れたりしていた、といっても日本が船で出掛けて行って買付けるのではなく、オランダ船に持ってこさせていたのです。当時のヨーロッパの船はヨーロッパから「ヨーロッパの製品」を運んでアジアに売っていたのではないのです。売る物なんて大して無かったのです。ヨーロッパは貧しくアジアは富んでいたという情勢を頭の中に置いてみてください。ヨーロッパに何も無かったわけではありませんが、しかし価値のある物はシナから日本に運び、日本からシナに運ぶ・・・。オランダ船の役割は海運業だったので、ヨーロッパの人たちはそうやって稼いでいた可哀想な人たちだったのです。
いつ頃からそれが変わり始めたかというと産業革命です。後でその話をしますが、18世紀の中頃から大きく変わり始めるのです。日本は国内に東アジアの物産を移植して、それを自ら生産するシステムを確立します。言い換えればアジアから輸入していた砂糖や他にもいろいろな物産を日本人が自家生産するようになって、だんだん国内の生産力が高まってそれによって経済的に輸出入から独立するようになります。これもヨーロッパと歩調を共にしています。ヨーロッパはイスラムと争っていて、そのイスラムを打倒するまでは行きませんが、とにかく抑えて大西洋経済圏をつくります。カリブ海から砂糖を運んできたり、アメリカ大陸で綿花の栽培をする。そういうものによって近代世界システムが生まれてきてアジア、東南アジアの物産から解放されるのです。
それとパラレルだったのが日本における鎖国体制で、アジアの物産からの解放という点でヨーロッパと極めて合似た歴史的展開をしていました。ヨーロッパはそれをほとんど奴隷貿易で行っていました。奴隷を使っていたヨーロッパですが、日本の場合は欧米と違い国内の勤勉によってそれを保持しました。ですから近代化が始まったときの、資本の蓄積という点では、欧米は奴隷による物産の生産と交易によって資本を蓄積しましたが、日本は主に農村に貯まっていたお金によって資本主義が離陸するという経験をしているのです。日本の農村は貧しかったのではなく勤勉で、蓄積をしていた農本資本主義でした。皆さんご存知の第一勧銀という銀行がありましたが、それは昔第一銀行があったからで、第一銀行と日本勧業銀行が一緒になったからです。今はみずほ銀行ですね。軽井沢に行くと八十二銀行というのがありますし、幾つかまだ残っていますね。農村の銀行はみんな番号が付いていたのです。そして東京には第一銀行があったのです。渋沢栄一の発案で出来た銀行制度です。それによって何が言えるかというと、「農村に貯まっていたお金を基本に作られた銀行」ということです。日本は貧しいながらに独立して孤独に立ち上がった資本主義です。明治以降のことは皆さんご存知でしょうけれど、江戸時代、幕藩体制のなかで日本の近代化は少しずつ出来上がってゆきました。
「外国を締め出す」「行ってはいけない」「人に移動の自由を否定する」ということを海禁政策といいますが、これについては東アジア共通の問題で、シナも朝鮮半島も海禁政策をとっていました。ですから徳川日本の時代は自分が諸外国から締め出されている、という閉塞感はあまりありませんでした。つまり、ごく自然なことをしていただけで「別に努力しなくともいいじゃないか。最初はお金があって、そのうち自立するようにもなって、外国からとくに滋く出入りする必要は何も無いではないか・・・」ということです。「鎖国」という言葉がそもそもなかった。国を閉ざすという意識もなかった。意識が無いのだから鎖国という言葉があるわけないのですね。オランダの通使がエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』を翻訳したとき、“to keep it shut up”という“shut up”という言葉を遣ったから翻訳されたときに「鎖国」という言葉が出たのですが、それはそういう文字が「翻訳された」というだけであって、日本人には自分の国を閉ざしているという自覚は無かったのです。
ところが他国意識が生まれ、自分で自分を閉ざしていてはいけないのではないか、という認識が出てくるのは、実際に海外渡航が可能になってから、すなわち明治に入ってからです。それも明治の末年から大正期にかけてからなのです。進歩に反するとか、世界の体制から立ち遅れる・・・、というような暗いイメージが一斉に付き纏いはじめたのはこの頃から、大正文化の影響なのです。江戸時代の人はそんなことを考えていなかったのです。閉ざしているという自覚も認識も無かったのです。明治時代だって無かったのです。例えば内田銀蔵という人は、明治36年の『明治近世史』に「江戸時代を鎖国としたものの、貿易は当時むしろ盛んになり諸国との外交を閉ざしたわけではない。」ということを寧ろ強調しています。また中村孝也という人が、『江戸幕府鎖国史論』という大正3年の本でも「鎖国は幕末に出た言葉で、17世紀の用語ではなく国政の若干部分に対して自ら封鎖したのに過ぎざるなり。孤立独在に近づけるものに非ず」、ようするに「鎖国は無かった」ということをちゃんと言っているのです。
先ほど言った徳富蘇峰と和辻哲郎の「鎖国は損をした」という得失論が出てくる背景というのは、江戸時代には意識も認識も無かったし、現実においてそんな暗いイメージは何も付き纏っていない。それが明治になって、国を開いて始めて彼方此方(あちこち)みんなで行けるようになってみたら、急にそういうことを言い出す空気になる。そして戦争に勝つか負けるかという話になったとき、徳富蘇峰は「鎖国していたから損をした」と言い、和辻哲郎は「鎖国していたから負けたのだ」という議論になりました。そのことについては今から15、6年前、ちょうど私の『国民の歴史』が出た頃から、歴史学会も鎖国を批判して、鎖国は海禁という言葉に取り換えられて歴史の教科書もそうなりつつあるかと思います。
つづく