ドイツ大使館公邸にて(五)

 やがて話題は日本のアニメ文化がドイツにも広がっているというテーマに移っていった。これは私にはついて行けないし、どういうことか具体的イメージが湧いてこない話題だった。名前がいくつも飛び出したが、私は詳しくは知らないし、分らない世界である。

 勿論そういうニュースは前から耳にしている。フランスの子供たちが日本のマンガに夢中で、悪影響をあの国の文部省が心配しているというようなニュースを聞いたのはもうかれこれ20年も前になるだろうか。今ではそのレベルをはるかに越えているらしい。ベルリンで日本のオタク文化がはやっていて、コスプレやキャラクターの名前まですでに定着し、有名になっているんですよ、という話だった。

 そういえば過日私は上野の東京国立博物館に『土偶展』を見に行って、これに関連するある興味深い現象に出会った。縄文のヴィーナスから始まり、みみずく土偶やハート形土偶など、あのどこかおどけた古代日本のおゝらかで、明るい形象がびっしり展示されていた。

 『土偶展』はロンドンの大英博物館で開催されたのを機に日本でも開かれた帰国記念の行事らしかったが、ロンドンの会場やそれを伝えるイギリスの新聞記事が掲示されていて、そこに日本の土偶はわれわれ西洋人にたゞちにアニメの数々のキャラクターを思い起こさせた、という言葉があった。

 数千年の時間を軽々ととび越えてしまうこのような連想にはそもそも無理がある、などとこと荒立てて言うには、西洋人のこの思いつきにはなぜか微笑ましいものがあり、私はどことなく納得させられている自分に気がついて可笑しかった。少なくとも1980年代のドイツ人が日本人は自動車を「禅」の精神で作っているのか、と私に尋ねた、あの前に書いた話よりもずっと自然だし、唐突ではないように思えたのである。

 産業に「禅」を結びつけるのは、ヨーロッパでは80年代が宮本武蔵の『五輪の書』に日本企業の成功の秘密を見ると論じられていた時代だったからである。今はこんなことを言う西洋人はもういないと思うが、それでも「土偶」に日本アニメの秘密を見ているのである。

 ドイツ大使館公邸で交した対話のうち、これとやゝ似たおやっと思うドイツ人の日本観察の幾つかを忘れぬうちに挙げておきたい。

 憲法九条の改正の必要を私は敢えて話題にした。そのとき座にいた上智大ドイツ人教授は「日本が九条を改正しないことはドイツの東方政策に匹敵するんです。」と言った。東方政策が近隣諸国に対する戦後ドイツの代表的な外交上の和解政策であったことはよく知られている。私は異論があったが、言い出せばきりがなく、日独の戦争の相違論になり、テーブルマナーに反するから黙っていた。たゞドイツ人が九条問題を自国の東方政策になぞらえたことには多少とも意表を突かれた。私に言わせれば九条問題は日本の無能と怠惰の表現で、決して積極的な外交政策ではないと思われるからである。

 これに関連してシュタンツェル大使も、たとえ九条を改正しなくても日本の安全に不安はないと言った。「自分は日本に暮らしているが、北朝鮮の核はこわくない。中国が発射を北に許さないからだ。中国の核もこわくない。今の中国は経済中心だから、問題を起こさない。」

 また私が日本はアメリカから真の意味で独立していないので、日本の富がアメリカから毟り取られている、と言ったら、「毟る」という単語が面白いという話に少しなった後で、大使は「逆に日本がアメリカから富を毟り取って来たように思うけど」と仰った。これもおやっと思わせる意外な発言に私には聞こえた。

 以上日本側が遠慮のない考えを述べると、思いがけない答がもどって来て、なにかと発見のあるのは外国人との付き合い方の一つと私は心得ている。

 このことに関連してもう一つ面白い重要なことが起こった。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(四)

 シュタンツェル大使は2011年に日独交流150周年を迎えるので、その記念行事の準備にいま余念がない、という新しいニュースを披露された。

 1860年秋に訪れた「ドイツの黒船」という言い方をなさった。私はすっかり忘れていた。「黒船」といえば1853年のアメリカのぺルリ来航のそれと、大半の日本人は考えるし、私も迂闊だった。プロイセンの東方アジア遠征団が1860年に江戸にやって来て、翌年幕府と修好通商条約を結んだ。これが、日独の交流の始まりだった。

 どうやら記念行事を盛り上げるための各種の相談ごとがあってのこの夜の食事会であるらしかった。私は余計な雑談を交してきたが、大使がわれわれを集めた理由の一つはここにあったらしく、座の皆さんは色めきたった。

 キルシュネライト教授は「日本の若い層にアピールするドイツがないのです。それが頭の痛いところです。」としきりに仰った。「日本の若い人の人気度において、ドイツはイタリアにもフランスにも負けているのです。」

 成程そういうことかと私は思った。たしかにお料理やワインでも、ファッションでも、観光地でも、イタリアとフランスは日本における人気でドイツをしのいでいる。しかし、音楽があるではないか。哲学があるではないか。ベートーヴェンやカントのような巨人文化が日本の若い人にも知られている、ドイツのドイツたる所以ではないか。

 私がそう言うと、「西尾先生はドイツで演奏会にいらしたことがありますか。」「最近は行っていません。」「聴衆は老人ばっかりです。クラシック音楽を若いドイツ人は聴かなくなりました。」

 でも、日本の演奏会場が老人ばかりということは決してない。「それに」と彼女はつけ加えた。「カントは誰もいま読みません。私も読みません。」

 「日本で記念切手を出してもらいたいですね。働きかけて下さい」と大使は早大の日本人教授にしきりに訴えていた。「ドイツで記念切手を出させるのは至難の業ですが、日本ではそれほど難しくなさそうですから。」

 私は日本で先年初めて行われた世界ゲルマニスト学会の開催に際して記念切手が発行されて、絵柄が森鴎外だったことを思い出して、そう言うと、この件はみな知っていた。

 大使は「皇太子殿下ご夫妻をベルリンにお招きする計画を秘かに立てています」と仰った。私は「ヨーロッパならご夫妻はきっと喜んで行かれると思いますよ。」と観測を述べた。トンガやブラジルなら行きたがらなかったけれど・・・・・・とは余計なことなので、敢えて言わなかった。

 イタリアやフランスに負けないドイツのアピール度はたしかに大使館側の頭痛の種子らしかった。しかしなぜ若い人にばかり受けることを考えるのだろう。しかも日本人にとってドイツといえば必ずしもプロイセンがすべてではなく、バイエルンもオーストリアも含まれる。ミュンヘンとウィーンは感覚的にとても相互に近いのだ。

 私は昨秋六本木の国立新美術館でハプスブルク展が行われ、若い人で一杯だったことを告げた。毎年正月一日のヨハン・シュトラウスを聴くニューイヤーコンサートは日本では絶大な人気を博す。ウィーンの会場の楽友協会大ホールからのテレビ中継には日本人の姿も数多く映し出されている。「中国ではこんなことはないでしょうね。西洋名画の美術展は毎年日本のどこかでたえず開かれています。これも他のアジア諸国では考えられないことでしょう。」

 十九世紀のオーストリアの名宰相、ウィーン会議の立役者の浩瀚な伝記『メッテルニヒ』(塚本哲也・文藝春秋刊)は、今のヨーロッパでだって出ていないような素晴らしい業績だが、昨年11月に出版されたばかりである。西洋化された日本の文化、学術水準はともかく高いのである。「中国人は西洋文化をくぐり抜けていません。日本人は子供の頃からグリム童話とかアンデルセンに馴染んでいます。これは決定的に大きな差です。」と私は言った。つい先年まで駐中国大使だったシュタンツェル氏は「中国には中華思想があるからそれが妨げとなっている」と答えた。

 私が言いたかったのは、若い人に受けのいい流行現象でイタリアやフランスと競うのではなく、ヨーロッパ文化全体の中のドイツの魅力、EUの事実上の力の源泉であるドイツを堂々とけれんみなく訴えてほしいということだった。

 ドイツの犠牲と忍耐なくしてEUはない。フランスはそれを良く知って用心深く行動している。イタリアはEUのお荷物でしかない。そんなことは日本人はみんなよく承知しているのですよ、と私は言いたかったのだ。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(三)

 私たちは用意されていた食卓を囲んだ。私はシュタンツェル大使の右隣りに、キルシュネライト教授は大使の前に座を与えられた。席にいた方々がみな私より若いひとびとであることに気がついた。

 冒頭、大使が敢えて私に会いたかった理由は、むかし私が書いた「留学の本」が原因であると分った。『ヨーロッパ像の転換』か、あるいは『ヨーロッパの個人主義』かのどちらかだが、どちらであるかは聞き落としたものの、1969年刊のこれらの古い本の話が出てくるのをみると、私とドイツとの関係がつねに40念前のあの時代に立ち還るのを避けることはできないのだと、ことあらためて再認識したのだった。

 しかし私はあの懐しい歳月からすでにはるかに遠い処に生きていた。留学生試験官をつとめたのも1970年代末の出来事である。私は今もなおドイツの思想や歴史に研究目的の一つを置いているが、いわゆる日本のドイツ研究家(ゲルマニスト)の世界からはどんどん離れた表現世界に生きるようになって、60歳を迎えた1995年には、形骸化した関係を切って、ドイツ語学・文学の学会の会員であることも退いてしまった。だから大使館に招かれると懐しさの余りつい思い出に耽ってしまったのである。

 キルシュネライトさんは日本のある所で講演をして、とかく型にはまった文化比較がはやっていることに疑義を唱えたことがある。すなわち欧米人の個人主義と日本人の集団主義、狩猟民族の文化と農耕民族の文化といった類型的観念を歴史などの説明に持ち込むのは無意味だと彼女が語った、という話を私はインターネットを通じて知っていた。そこで、私からそれへの賛意をあえて持ち出して座を盛り立てようとした。

 「集団主義と個人主義の対比を言うのを好むのは、ドイツではなくアメリカからの見方です」と彼女は思いがけないことを言った。そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた80年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると難渋されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。

 私は1982年に日本の外務省の依頼でドイツの八つの都市を回ってわれわれの競争の公正を主張する目的の講演をして歩いたことがある。思い切って座談でその話をした。簡単な説明なので分ってもらえたかどうか不明だが、19世紀末から20世紀初頭のドイツはイギリスやフランスから同じように「集団主義」を非難されていた話をした。当時ドイツの鉄鋼生産はイギリスを追い抜き始めていた。

 「フランスの詩人ポール・ヴァレリーはいまわれわれはドイツの『集団主義』を非難しているが、ドイツの後には必ず日本が台頭し、その『集団主義』の力を示すだろう、と予言していたことがあるのですよ。日清戦争の後のことです。」と私はつけ加えた。「イギリスやフランスがドイツを恐れ、ドイツが日本を恐れた歴史の順序を踏んで『集団主義』がタームになったいきさつを考えると、キルシュネライトさんが仰るように狩猟民族は個人主義、農耕民族は集団主義というような文化類型論はたしかに成り立たないですよね。そして、今の時代はアメリカもヨーロッパも日本もみんながこぞって中国の『集団主義』を恐れ、非難する順序に立たされています。」

 するとキルシュネライトさんは、「中国への期待と恐怖は今に始まったことではなく、19世紀からあり、今お話の順序通りに歴史が流れたわけでもないでしょう」と仰った。それからこれを切っ掛けに、中国論があれこれ座を賑わせた。多くの人の関心が中国に向けられている時代にふさわしい展開だった。皆さんのそのときの話の大半をいま私は思い出せない。これらの会話の大部分は日本語で交されたことをお伝えしておく。

 八都市をめぐるドイツ講演の折に、キールの会場で手を上げ質問に立ったあるドイツ人老婆が私を叱責したエピソードを私はあえて話題にした。この老婆は外交官の夫と共に滞在した戦前の日本を知っていた。「今日のあなたの講演は日本がドイツに匹敵する国だというようなお話でしたが、私はそんな話をとうてい信じることができません。私の知る日本の都会は見すぼらしい木造の不揃いの屋並みで、夜になると提灯がぶらさがっていましたよ。いつ日本人はそんな偉そうな口がきけるようになったんですか。」伺えば彼女の記憶は1920年代、大正時代の滞日経験に基いていた。

 キルシュネライトさんは「今のドイツにはたとえお婆さんでも、そんな認識の人はもうひとりもいませんよ。」と応じた。勿論それはそうだろう。私の講演旅行は1982年で、老婆は80歳を越えた人にみえた。

 一般のドイツ人がどの程度いまの日本を認識しているかはやはり気になる処だったが、キルシュネライトさんが語った一つの小さな事柄が印象に残っている。「一般大衆も日本のことは相当知るようになっています。タクシーの運転手でも富士山の形を知っているかと聞いたら、指で正しく描いてみせたことがあって、いろんなことが広く知られるようになっていることが分ります。」

 この例話は必ずしも日本認識の発展でも深化でもなく、いぜんとしてフジヤマ・ゲイシャの類の詳細な知識の普及の一例にすぎないように思える。80年代に私にドイツのタクシーの運転手が「日本人は禅の精神で自動車を造っていると聞いたが、本当ですか」と真顔で尋ねたことを思い出させた。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(二)

 「ドイツ大使館には今までにおいでになったことがありますか」と大使が私に尋ねた。私は若い頃必要があって大使館を訪れたことは勿論あった。たゞ今日のように「公邸」に来たことはなかった、そう申し上げた。「留学生でしたから文化部長は会ってくれましたが、大使にお目にかゝる機会はありませんでした。」

 そう言いながら私はカーテンの外の暗い庭を見つつ思い出すまゝ遠い歳月の彼方をまさぐるように往時を振り返った。そうだった。私は自分が留学生であったときには大使館にたびたびは訪れる必要がなかった。留学生ではなくなってからむしろ日参した日々があったことをふと思い出した。さりとてその場でシュタンツェル大使に詳しくお話するようなことでもなかった。

 私が最初の留学から帰国したのは1967年だった。それより10年くらい後のことになるが、ドイツ政府交換留学生(Stipendiat des DAAD)の試験官を頼まれて、数年にわたり、春になると大使館に赴いた。試験で選ばれる人々は35歳以下の日本のドイツ語学・文学関係の大学の先生たちで、上は助教授クラスから下は大学院修士在籍中の学生までが含まれていた。

 試験官はドイツ側からと日本側からとがそれぞれ数人づつ出て、受験者は30-35人くらいいただろうか。ドイツ語学・文学専攻の留学生を選ぶ厳正な試験だった。音楽や哲学や自然科学の関係の選考は私たちとは別の試験官によって日時を違えて行われていた。日本側は私より5年ほど先輩の早川東三氏(後に学習院大学学長になった)がリーダーで、他の選考委員は私のほかには東大や阪大の先輩たちだった。日欧文化比較についてなにかと考えさせられることの多い面白い体験だった。

 あの頃はドイツ語学・文学専攻の研究者志望の人は多数にのぼった。日本独文学会も3000人を超える盛況だった。ドイツに留学するのはまだまだ困難な時代だった。私が留学した60年代半ばにはドイツに来ている日本人はまだ少数で、珍しがられた。ビヤホールでドイツ人から「日本には大学がないから勉強しに来たのかね」などと言われたこともある。

 当時国立大学の私の初任給は1万5300円で、日本より早く高度経済成長をとげたドイツで留学生として暮らす月額給付金は500ドイツマルク、約5万円だった。しかも航空運賃がべら棒に高く、ヨーロッパまで片道68万円もした。月額給付金はドイツ政府が負担し、往復航空旅費は文部教官に限って日本政府がもった。私のケースはこれだった。

 よほどの財産家でもない限り、自費で留学するのは難しい時代だった。だから政府交換留学生制度のこの枠に人が殺到するのは当然だった。両政府が関係したのだから、選抜試験官も日独両サイドから出て、試験はドイツ大使館で行われたのである。そのために文化比較の面白いテーマにいくつも出会った。

 試験は日独別々の部屋で異なる方法で行われた。どちらの側でも筆記試験と口頭試問の両方が課された。日本側は筆記試験を特に重視し、ドイツ側はその逆だった。日本側の筆記試験は独文和訳で、これに70点を与えた。ドイツ側の筆記試験はドイツ語で自由に書く課題作文で、口頭試問との比は多分50点対50点ではなかったかと思う。(このあたりは少し記憶が確かではない)。

 面白いことが起こった。今日お話ししておきたかったのはこのことである。

 日本側試験官はどなたも口頭試問に点数をつけるのを迷い戸惑った。試験官ひとりに10点づつの持ち点が与えられ、各受験生に10-20分程度の応対をするのだが(それだけでも大変な時間である)、いざ採点となると、おうよそ真中あたり、5点か6点か7点かのだいたい三つに集中し、うんといい点をつける人も、うんと悪い点をつける人もいなかった。いかにも日本的な曖昧さにみえるが、会話を交しただけで人を評価することなんてできないというペシミズムが日本人にはあった。だから合計100点に換算しても、点差がつかない。

 それに対してドイツ側は0点から100点まで劇的に大きな点差を与えていたので、合否をきめる決定権はドイツ側に握られてしまう結果になる。

 筆記試験はどうかというと、日本側で出す独文和訳には大きな点差が開いた。私たちはドイツ語の難しい文章を読解する能力を最も重視していた。受験者は大学の先生でも能力はそう高くはなかった。なんでこんな語法や用法を知らないのだろう、と、私たち試験官は採点しながら口々に嘆き声をあげたものだった。(最近は当時よりもっと力が落ちているという話を聞く。)

 ドイツ側の筆記試験は与えられた課題について好きなように書く独作文だった。ある年に「貧困について」という題目が与えられた。受験生はみな知識人である。当然ながらマルクスがどうだとか、日本社会の矛盾がどうだとか、難解なことを書きたがる。当然である。それはそれでよいと思う。

 ところが最高点を取ったのはある私大の大学院修士課程の二年生の女子学生だった。彼女は東京の家賃が高いことについて書いた。世界の他の都市に比べての東京の生活困難の原因はここにある、といったレベルのテーマを、文法の誤りのない平明な長い文章で書き綴った。日本に暮らすドイツ人は身につまされる話題であって、これを喜んだ。そしてとび抜けて高い点を彼女に与えた。

 合同判定会議でこの事実を知って日本側試験官は反論した。彼女の独文和訳の点数が低かったからだ。口頭試問でも学者としての資質の片鱗をうかがわせるものに乏しい、と日本側では判定されていたからである。

 けれどもドイツ側は反論を認めなかった。議論は平行線を辿った。そして合計点により彼女は上位で選に入った。その後彼女がどういう留学生活を送り、今何をしているかを知らない。

 日本の外国語教育は昔から読む能力を最重要視していた。私たちの世代は今でもそういう考え方の人が圧倒的に多い。だから大学が使うドイツ語のテキストは昔は教養主義的だった。しかしあの頃からすっかり変質し、だんだん会話や生活説明のような文章が多くなった。私はドイツ語の文法や読本をかなりの点数出版している。私の作った大学一年生用のテキストにはゲーテやカフカやハイデッガーの文章まで取り入れている。ほとんど例外である。

 東京の家賃の話を平明なドイツ語で綴った女子学生は賢いかもしれないが、この一件は彼女を評価したドイツ側試験官とわれわれとのメンタリティーの違いを強く意識させた出来事だった。

ドイツ大使館公邸にて(一)

 雨の降る寒い夜(1月12日)、広尾にあるドイツ大使館公邸の夕食会に招待された。ベルリン自由大学日本学科のイルメラ・比地谷=キュルシュネライト教授が来日したので、引き合わせたいというシュタンツェル大使じきじきのお招きであった。お名前から分る通り、教授は日本人と結婚したご婦人である。大使は2年前まで駐中国大使を務め、本省に戻って、昨年10月に駐日大使として赴任したばかりである。やはり日本学や中国学を学んで、若いころ京都大学に留学したこともある文学博士である。

 キルシュネライトさんは日本文学研究家として関係方面では有名な方で、『私小説――自己暴露の儀式』(平凡社)という日本語訳の単行本も存在する。残念ながら私はまだ読んでいない。だが彼女の活躍は前からいくつかの論文を通じ知っていた。訳書の題名は魅力的である。私の一昨年に出した本、『三島由紀夫の死と私』とテーマが重なっている可能性もあると見て、献呈用に一冊持っていった。

 有栖川公園沿いの大使館のある辺りの風情は久し振りで懐しかった。私が公邸に着いたときには他の客人、キルシュネライトさんは勿論、早大の日本人教授と上智大のドイツ人教授がすでに来ていて、控えの広いホールで杯を傾けながら談笑していた。

 キルシュネライトさんは厚さが15センチもある赤い表紙の大型の『和独大辞典』をかかえて、その意義をしきりに説明していた。この大辞典は全3巻で、目下第1巻のみ刊行され、iudicium というミュンヘンの出版社から出ていて、一冊278ユーロもする。「日本での定価では多分3万円でしょうね」と彼女は言った。代表執筆者は Stalpf 、 Schlecht 、上田浩二、それに Hijiya-Kirschnereitの四人である。

 ドイツ語や英語を学ぶ日本人はご承知の通り『独和大辞典』や『英和大辞典』を必要とする。明治以来の一世紀半の努力があって日本におけるドイツ語や英語の辞書の世界は非常に発達している。しかし日本人の作った「和独」や「和英」は充実しているだろうか。これはやはりドイツ語文化圏の人、英語文化圏の人が担当し、日本語の世界を知ろうと研鑽を重ねてくれないと精緻なものを作るのは無理なのではないだろうか。

 私は目の前の部厚い「和独」の一冊を手に取って、パラパラめくりながら、ドイツにおける日本研究、日本語研究、日本文化研究は相当レベルが高くなり、これほどの量感のある辞書を必要とし、それの作れる段階にやっと到達したのだなと思った。勿論、これを日本人も自由に利用することができる。日本人にとってもありがたい辞書には違いない。だから赤い表紙には推薦人として岩崎英二郎氏(ドイツ語学者)、吉田秀和氏(音楽評論家)という著名人の名がのっていた。

 私は雑談のあいまに大急ぎで、和独を見るたびにいつもするある実験をした。「評論家」という文字を出した。そこには Kritiker、Rezensent、Publizistなどの語が並んでいた。しかしどうもしっくりしない。日本のマスコミが私などを「評論家」と呼ぶときのニュアンスはここにはない。だから「ぴったり一致しないんです(nicht entsprechend)」と私は言った。

 「例文を見て下さい、そこで解決できるでしょう」とキルシュネライトさんは言った。「いや、違うんです」と私は言った。私が「評論家」と自分で自分の職名を表現するのは日本のマスコミ一流の流儀、妙な習慣に合わせているからで、他に言いようがない場合に用いる微妙さがこの語の使われ方にはあり、「まぁ、そうですね、評論家というのは乞食と言っているのと同じようなことですね」とつけ加えた。

 彼女は私のアイロニーがすぐには分らなかったかもしれない。少し当惑したような、困ったような表情をなさったからである。しかし日本のマスコミの実情はきっと恐らくかなりご存知ではあるだろう。だから当惑したような表情のあとですぐに笑顔に戻った。

謹賀新年 平成22年元旦

 私の研究論文の処女作は「ニーチェと学問」だった。つづいて「ニーチェの言語観」だった。26歳の頃の話である。研究論文とは別に、「私の戦後観」を29歳のときに書き、時代批判、社会批判を始めた。それからドイツに留学して『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』の二冊を処女出版とした。

 ドイツ文学畑だったはずだが、ドイツ文学研究にさして興味がなく、文学が研究の対象にならないのは漱石以来の宿命だなどと思っていた。ドイツにではなくヨーロッパ全体に関心があると言っていたのも、ただの若さの傲慢ではない。人間は全的存在だという教えはゲーテにもニーチェにもある。何かの専門家でない生き方があるはずだ。文学研究ではなく、文芸批評を志し、実際にひところ新聞で文芸時評を書いたのも、研究がつまらなかったからである。人は誰も知るまいが、新劇の舞台時評を書いていた時期もあるのである。

 私は若い頃自我が分散していたのだともいえる。自我の不安にも陥っていた。学問論にも古代論にも関心があり、ヨーロッパを普遍文明として捉えるべきだと考え、他方マルクス主義に汚染された知識人への軽蔑から時代の政治に批判的関心を抱いていた。といっても政治学者のようにではなく、文学的自我の問題として抱いていた関心である。

 二度目の訪欧の頃から教育論に関心が移った。紀行文をもとにしたソ連論を書いたのも、食料安全保障から外国人労働力の制限論まで、各種の「国際化」批判を展開したのも、時代の問題に積極的に関わろうとしたからともいえるが、そういえば聞こえはよく、実際は学者ではなくなり、ますますジャーナリストになり、時流に流され始めていたためともいえるだろう。時流に逆らうという形式で時流に流されるということもあり得るのである。

 以上は私が「歴史」に関与する前の閲歴である。私は自己再発掘のために自分の昔の著述を順番に全部読破してみたいと思うようになっていた。『ニーチェ』二部作から『国民の歴史』を経て『江戸のダイナミズム』に至る流れが私の処女作「ニーチェと学問」「ニーチェの言語観」の延長線上にある研究上の系譜だが、そこにヨーロッパ・コントラ日本の主題が重なり、さらに現代政治批判が絡み合って私の思想全体が構成されていると自分なりに漠然と考えている。

 10月に京都の学術出版社ミネルヴァ書房から期せずして自叙伝執筆の依頼を受けた。人文科学・社会科学・自然科学から数名づつ人を選んで研究自叙伝を書いてもらう企画を立てたという。すでに第一期として、来春にも5人の学者のポートレートが世に問われる。幼少期から現在までの生涯を描くことを通じて、現代日本の学問状況を明らかにするシリーズだというのである。

 こういう自己総括を内心必要としていた私にはこの仕事は渡りに舟だが、しかし大体私は必ずしもいわゆる「研究者」ではない。私は文学的自伝なら書いてみたいと思っている。『わたしの昭和史』少年篇1、2がすでに書かれていて、これは17歳までの詳しい自伝であり、この延長を書きつづけたい思いは当然あるが、研究者自叙伝にはならない。

 私はミネルヴァ書房に返事を認めた。私の自己形成の物語、私の「詩と真実」なら書けると思います。内面のテーマ、すなわち自我の不安と外部の社会との葛藤の物語を展開してみたいという気は十分にありますと書き送った。

 すると返事がきた。先生のお書きになる自叙伝が「詩と真実」であり、自己形成の物語であるというのは大変魅力的で、拝見するのが楽しみですが、たゞし今回の企画は自叙伝の中に三つの意味をもたせたいと考えています。すなわち「個人史」はもちろんですが先生をとり巻く時代の「社会史」、そしてご専門の学問全体を鳥瞰していたゞく「学問史」の視点もぜひ組込んでいたゞければと存じます・・・・・・。

 私はこれに再び返事した。私はドイツ文学を専攻したことになっているが、文学研究は学問にならず、外国研究も学問になり難いことを痛感してきました。私の26歳の処女論文は「ニーチェと学問」という題で、既成の学問の概念を破壊したニーチェの抱いた学問論は、学問論としてすでに矛盾で、私も同じ矛盾を抱いて生きつづけたつもりなので、「学問史」は既成の安定した専門風学問史に立脚していないのです。学問の概念を問い直すことがむしろ求められた私の知的営為でした、と。

 これに対してあらためて送られてきた編集者からの手紙はじつに素晴らしい内容だった。

文学研究と学問、これはとても興味深い主題です。
既成のディシプリンを超えて、さまざまな問題を提起なさってきた西尾先生だからこそ、力をもつ「学問論」「学問史」があると思います。
そのあたり、先生がぶつかられた葛藤、日本における学問の風土、さまざまな論争などなど、ぜひこの機会にお書きいただきたいと思います。リアリティある自叙伝になるとともに、貴重な「一時代の記録」となります。
なにとぞよろしくお願いいたします。まずは、構成案を楽しみにしております。

 私はこれを読んでミネルヴァ研究自叙伝の一冊を引き受ける意を決した。以上はとてもいい言葉、ありがたい言葉だった。この出版社の、この方を相手にするなら、安心して仕事が出来るように思えた。まだお目にかかっていないが、女性の編集者だった。

 私のニーチェやショーペンハウアーに関する研究は『江戸のダイナミズム』までつながって一体をなしており、それはまた私の内部では歴史や文明をめぐる各種の論争とも構造的に連関していることは自分なりに判っている。それをここであらためて分解して、学問と論争、認識と行為の関係を読み解き直してみることは自分に必要であり、次の仕事への転回点に恐らくきっとなるであろう。

 今年7月に私は「後期高齢者」になる。しかし意欲も体力も衰えていない。新年に当り決意を新たにしている。じつはこの自叙伝の執筆が開始される夏以後に、ほゞ並行してある雑誌に歴史に関する長篇連載を掲載する契約がつい年末に決定したばかりである。時間的、体力的に大丈夫か、とても不安ではあるが、嵐の時間は刻々と近づき、いずれは頭上をとび越えていくであろう。

今年の夏の「戦争」の扱い(二)

 「樺太1945年夏 氷雪の門」という上映されなかった貴重な映画が8月9日九段会館大ホールで公開された。樺太の真岡の電話交換手9人の女性の悲劇のドラマである。彼女たちのことは知られているし、靖国に祀られているとも伝え聞いている。しかし私は映画を見て、悲劇の実態をほとんど知らなかったことに気がついた。

 この映画が訴えているのは「戦争の悲惨さ」一般などでは決してない。ソ連軍の野蛮と卑劣と非道と極悪そのものである。8月15日に日本側が停戦していた状況を踏み破って、ソ連兵は白旗を掲げて即時停戦を訴える日本側の丸腰の使者たちにその場で銃弾を浴びせてこれを射殺した。そして、無防備の小さな町に砲火を浴びせ、蹂躙する。

 この映画は昭和49年(1974年)に完成し、丹波哲朗や南田洋子なども熱演している十分に商業価値のある作品だったが、大手配給会社による劇場公開が突然中止された。そしてほとんど日の目を見なかった「幻の名画」で終っている。それを今夏、特別に試写する企てが催された。

 ときは田中角栄内閣の時代である。モスクワ放送の「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対し非友好的」という非難に屈した結果である。

 「戦争の悲惨さ」一般を描いた映画なら公開がゆるされる。過去の日本が間違っていた、日本が悪かったのだ、の意図の伝わる映画なら公開可能だった。しかし、どこかの国(旧敵国)の非道をありの侭に描いた映画を上映することは、たとえ相手が冷戦下の仮想敵国のソ連であってもできなかった。恐らく日本側がこわがってひるんだのだろう。自己規制したのであろう。

 ここに、問題のすべてがある。今年夏の戦争を語ったNHKその他のテレビ番組が例外なく、旧日本軍が悪く、まるで敵国がいなかったかのごとく描く(戦争は相手あっての話なのに相手の悪が語られない片面性の不具!)内容に終始したのは、日本人自身のこの病理、自己規制の病理の帰結にほかならない。

 今年も特攻が取り扱われ、フィリピンから出撃した若者の映像が流れた。例によってアジアの各国に被害をもたらした日本の戦争というナレーションだ。アジアを支配していたのは英、米、仏、蘭の各国で、アジアの国々は独立していないのだから、日本軍は欧米支配者の掃蕩戦争をしたわけだが、NHKはこの前提を決して言葉にしない。

 「樺太1945年夏 氷雪の門」を見ていて、ふと思った。

 そういえば、真岡の9人の乙女の悲劇に匹敵するのは沖縄のひめゆり部隊である。こちらの映画は上映禁止のうき目に会っていないばかりか、有名にもなった。私の記憶では『ひめゆりの塔』は恐らく旧敵国アメリカの悪を告発していなかったように思う。「戦争の悲惨さ」一般をしか描いていなかったように思う。従って戦争の現実は半分しか描かれてなかったともいえる。

 雑誌『正論』が主催した九段会館の上映会には、当時『氷雪の門』に助監督として参加し、また同映画を破損から守って修復保存した新城卓氏がトーク出演をして、いくつもの証言を残した。氏によると、真岡の女性たちを凌辱し殺害したソ連兵は、生き残りの日本人男性たちをシベリアに強制連行したが、連行前に彼らにやらせた仕事は、穴を掘って、日本人女性の遺体を埋めさせる酷薄な労働であったという。それらのむごたらしいシーンは映画では映像化されていない。その点では抑制されていて、不徹底でもあって、それでなぜ上映禁止に追いこまれたのかよく分らない。

 恐らく当時の政治情勢その他によるところの、いかにも尤もらしい理由は探せば見出せるのであろう。しかし根本はやはり日本人の心の弱さが原因だろう。自己規制が原因だろう。これがすべての鍵だろう。64年たった今年の夏のテレビの映像とナレーションの歪みと屈折と自分隠しに直接つながる問題である。

今年の夏の「戦争」の扱い(一)

 今年の夏もテレビでは戦争の主題がくりかえしとり上げられていた。秋田の土崎という小都市が終戦の日の午前中に猛爆を受けたことがNHKニュースの時間帯で回想された。

 初めて聞く話だった。B29が編隊で日本海側の小さな町を襲った経路がテレビに映った。経路には白いB29の機体のデザイン画像が数秒間列島を北上するように移動した。石油の出る唯一の町だったらしい。そのため狙われて、市民多数が殺傷された。そしてほとんど間を置かず天皇の終戦詔勅の時間がきた。運の悪い町だったのだ。

 私とほゞ同じ年齢の小学生がこの日に死んだ。そのとき受けた弾痕もまだ残る黄ばんだ上着が紹介された。母親が大切に保存していたが、その母親ももう今はいない。ゆかりの人が戦争の悲惨を訴えるためだと言って上着を町の小学校に持って行って、子供たちに披露していた。胸のところに穴のあいたその上着を見せられても、今の子供たちには何のことかピンと来なかっただろう。

 テレビのナレーションは「戦争の悲惨さ」と言った。そのゆかりの人も同じ言葉を語った。アメリカ軍の非道とはいわなかった。アメリカ軍が憎いともいわなかった。戦争の終結がわかっていて、その直前に、やらないでもいい爆撃をした勝ち誇る米軍の民間人殺傷の空爆の無法を語る言葉はテレビからは聞こえてこなかった。

 いつもそうだった。NHKでも民放でも、「戦争の悲惨さ」としてすべてを一般論のように語る。戦争一般の悲惨さなのであって、日米戦争の米軍空襲による悲惨さなのではない。8月15日の正午まで、全国いたる処で、田舎道を歩いている老婆でも、学校に行く途中の小学生でも(この年日本に夏休みはなかった)、しらみつぶしに機銃掃射を浴びせたアメリカ空軍の戦争のやり方の卑劣さなのではない。どこまでも「戦争の悲惨さ」なのだった。

 そう言いつづけるテレビのもの言いは今年も昨年と同じに変わらなかった。聞いている日本国民はいつしか悪いのは戦争そのもので、戦争をひき起こした日本が悪いのだ。当時の日本が悪いのだ。日本は間違っていた。日本は反省しなくてはいけない。・・・・・・・・そういう誘導の文言に引きづられて、戦争には敵と味方がいて、日本の敵はアメリカだった、という余りにも当り前の事実を忘れてしまうのである。

 8月にテレビに映った戦争ものはみなそういう調子だった。特攻隊を作戦した海軍軍令部に対するNHKの連夜の告発シリーズも、90歳の生き残り兵の口を借りて語らせる各種の最前線物語も、大本営発表のウソを放送したNHKの当時を反省・懺悔してみせる自局告発の番組も、日本は間違っていた、日本は悪だった、日本は愚かだった、の一本調子で、アメリカという相手が何をしたかということはいっさい語られない。相手があって初めて日本はこうしたのだ、がまったく語られない。戦争が終って60年たったとはとても思えない。いまだに米占領軍の検閲におびえているような内容のオンパレードである。そうではないもの、それを打ち破った異色の番組はひとつもない。

 このまま同じ調子がずっとつづいて「戦後100年」になっても多分こうなのだろうなァ、と近頃私は憂鬱な気分を通り越してやゝ諦めムードに陥っているのだが、その恐らくは分岐点になったであろう映画を最近見た。

私は知りたがり屋(一)

 この間当ブログで、伊藤悠可さんが5回にもわたるゲストエッセイで、私が「専門家嫌い」であることを論題としてとり上げてくださった。この問題は、私が若い頃ニーチェに惹かれたのが彼の「学者嫌い」にあることも関連していて、語ればきりがないほどいろいろなことがある。

 伊藤さんは幸田露伴を引いて「雑学好み」ということを対概念として語っていた。たしかに世にはスケールの大きい雑学の大家がいる。私の友人にも舌を巻くようなそのタイプの人がいる。概して歴史家に多い。『歴史通』という雑誌が出始めたが、多方面な知識に通暁した「通」は歴史家に向いている。

 残念ながら私はそのタイプではなく、歴史を書いていて、最初から歴史家失格である。歴史家は私の書くものを歴史ではないというだろう。私は専門家嫌いだが、とりわけ歴史の専門家は一番好きになれない。料理の専門家や、薬の専門家や、犬の専門家のほうがよほどましである。

 歴史の専門家は過去の一時代の一地域の一家族のことを詳しく調べあげてそれで満足するというようなところがある。その知識が時代と文化の全体とどう関係するかに余り関心がない。これは西洋でも同じであるようだ。ドイツ史を志した友人がドイツで学位を取った。聞けば、ドイツのある地方の農業共同組合の歴史を丹念に調べたものらしい。何でそんなことをするのか関心の由来を尋ねたが、要領を得なかった。知的関心ではあるが、思想的関心ではのだ。アナール学派というのかなにか知らないが、今の歴史学は妙である。

 私の「専門家嫌い」はいわゆる「雑学好み」というところから出たタイプとはどうやら異なるようである。ならばどういうタイプかといわれると、説明は難しい。ある事柄を詳しく正確に知ろうとする努力は貴重だが、そのことだけに満足している人を見ていると、それはあなたの人生とどういう関係があるのですか、という質問をつねに浴びせたくなるのである。

 人間は何をするにも知識を必要とする。知識を基礎にする。しかし私は知識は手段である、と若い頃からずっと思っていた。どんな知識も人生の目的にはなり得ない。知識自体に価値はない。知識は何か価値あることをするための階段にすぎない。

 知識は人間を歪めることがある。豊かな知識は人の判断を迷わせることがある。知識は行動力を鈍らせる。人から生気を喪わせる。それでも、なにをするにしても目的を達成するには知識を必要とするであろう。知識は要するに必要悪にすぎない。

 例えば、ソクラテスからわれわれが学ぶのは、今この現代社会で生きているわれわれの生の現場に当てはめて、何が知(ち)であり、何が無知(むち)であるかの直接の教えでなくてはならない。直ちに実行できる体験でなくてはならない。

 ところがソクラテスに関する現代の専門家が教えてくれるのは、ソクラテスが知と無知について何を考えていたかということの知識にすぎなくなっている。それはギリシア語のできる専門家の調査結果報告であって、彼ら自身は自らの出した結論のなにひとつとして、今の生の現場で、実行できていない。彼らは知識を示すが、その知識を信じていない!

 例えば万葉集の専門家の本を読むと、われわれが万葉集の時代の古人と同じように生き、同じような心を持とうとすることは途方もなく難しいはずなのに、それがどんなに不可能なほどに難しいか、その絶望が語られていない。万葉集の古人も現代のわれわれと共通する関心と意識を抱いていたから、これを読めばわれわれの感性も豊かになるだろう、といったたぐいの世迷いごとに満ち溢れている。それが現代の文学教養書の古代へのアプローチの習性である。

謹賀新年 その二

 正月早々墓の話を掲げたのは死期を意識しているからではありません。まるきりそんなことはないのです。

 毎月一度必ず主治医に血液を採られています。そして前月の結果を知らされる。もう何年ほとんど「異常なし」です。中性脂肪もコレステロールも尿酸値も肝機能も腎機能もつねに正常の範囲内です。血糖値がやゝ境界領域にありますが、犬の散歩のおかげでこれも少しずつ改善されているようです。

 主治医はこう言います。「今は毎日のご生活が充実していることがなによりも大切です。医者はあなたの身体の逸脱を警戒し、注意を喚起するだけで、それ以上のことはできません。」

 私がそこで「大きな異常にはなにか予兆のようなものがあるのでしょうか」と問えば、「たいていドスンと来るのです。」と怖いことを言うのです。「加齢と遺伝は誰しも避けることができません。」

 私は昨年、当ブログの右側に並ぶ五冊の本を相次いで上梓し、働き過ぎでした。平成18年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」の名誉会長を退任し、拘束から解放されたことが、著作家としてのここまでの単独行動を可能にしました。今しみじみと辞めて良かったと思っています。

 「ものを書く」という仕事は団体行動にはなじまないのです。あの立場は私から言論の自由を奪うことがたびたびありました。昨年の皇室問題に対する私の発言は、あの立場にいたら会の主張と誤解されてはいけない、という思惑から出来なかったでしょう。

 事実、皇室無謬派(皇室に対してはたゞ弥栄を祈っていればよいという無条件崇敬派)がいわゆる保守言論界の一方にいるらしく、「つくる会」の元理事で分派して去った人たちが威丈高に私を叱責し、声を荒げて意趣返しをしていたのは昨年のひとつの光景でした。ですから、昔の侭のあの会にかつての立場で私が今もいれば、私は自由ではなかったでしょう。

 私がいま手にした自由はことのほか貴重だと分りましたが、しかし自由はそれ自体ではなにほどの価値もありません。むしろ物事を危うくすることがあります。皇室という環境が皇太子妃殿下の病気の原因であるという認定、主として齋藤環氏等医師たちの認定ですが、これが天皇陛下の大御心を深く傷つけている、との昨年末の宮内庁長官の公式見解は、妃殿下にもっと自由を与えよ、というリベラル・サヨク派の思想の危うい破壊性をはっきりと印象づけました。

 これから天皇・皇后になろうとする若いお二人にもっと自由を認めたらいいというのは何を考えているのかと私は思いました。皇室という環境が妃殿下を病気にした、という医師たちの認定ほどに恐ろしい天皇制度否定論はないと思います。なぜなら皇室という環境が人権侵害をしていると言っているのと同じだからです。

 正月六日の産経コラム「正論」に加地伸行氏が次のように仰っていました。

 昨年、西尾幹二氏に始まり、現在の皇室について論争があった。その詳細は十分には心得ないが、西尾氏は私より一歳年長であり、〈勝ち抜く僕ら小国民〉の心情は同じであろう。皇室への敬意に基づく主張である。

 その批判者に二傾向、(1)皇室無謬(むびゅう)派(皇室は常に正しいとするいわゆるウヨク)、(2)皇室マイホーム派(いわゆるリベラルやサヨク)がある。

 私は皇室の無謬派こそ皇室を誤らせると思っている。

 その理由として氏は、『孝経』が歴代皇族の学問初めの教科書であるが、その中に、臣下の諫言(かんげん)を受け入れることを述べる「諫争章」がある。

皇室は無謬ではない。諫言を受容してこそ安泰である。そのことを幼少より学問の初めとして『孝経』によって学ばれたのである。諫言―皇室はそれを理解されよ。

一方、皇室のありかたをわれわれ庶民の生活と同じように考え、マイホーム風に論じる派がいる。

だいたいが、皇室の尊厳と比べるならば、ミーハー的に東大卒だのハーバード大卒だのと言ってもそれは吹けば飛ぶようなものである。まして外交などというのは、下々の者のする仕事である。

にもかかわらず、そのようなことを尊重するのが問題の解決になると主張するマイホーム人権派もまた皇室を誤らせる。

 仰る通りである。私も氏と同じような考え方である。そして、皇室は「無」の世界に生きる処に本来性があり、幼少からの教育によってそれを培い、マイホーム主義と絶縁するのである、と氏は述べた後、一文を次のように結んでいます。

陛下御不例が伝聞される今日、皇太子殿下の責任―〈無〉の世界の自覚が重要である。もしそれに耐えられないとすれば、残る道は潔い一つしかない。『考経』に曰く「天下に争臣(諫言者)七人有れば・・・・天下を失わず」と。

 「もしそれに耐えられないとすれば」以下は、随分きっぱりと暗示したものです。

 じつは何を暗示しているのかは分りません。すべての人は今ここで立ち停まっています。私もそうです。天皇陛下も恐らく同じでしょう。

 『諸君!』12月号で私は雑誌ジャーナリズムのあり方を問う評論を掲げました。言論界が各種の固定観念に囚われ、透視力や洞察力を失っている諸相を分析し、指摘したのですが、そこで最後に、私が皇室発言をしてからというもの皇室無謬派=無条件崇敬派と皇室マイホーム派=リベラル・サヨクの二方向に言論が割れていることを述べて、加地氏と同様に肝心の問題はそのどちらでもない、真中にあることを示しました。

 どちらか一方は固定観念、つまりイデオロギーであって、左右ともに人をそこで安心させ、思考を停止させ、現実的でなくなり、悩みもなくなるのです。人は現実に向き合うときだけ苦悩があります。

 年末の宮内庁長官発言は、陛下の苦悩がやはりこの真中にあることを示しております。

 年末に出た『週刊文春』の記事が気になっています。皇太子殿下がご幼少からすばらしく温良に、従順に、弟君のように腕白になることもなく、いつも模範生として、周囲の期待に沿うように良い子でありつづけたことが物語られています。そこに問題がある、という危惧の念をこめてです。「潔い」ご性格、果断さは恐らくそこからは出てこないでしょう。

 すべてこれから起こることは憂愁につつまれたままである可能性がきわめて大きいように思います。