坦々塾報告(第八回)

 伊藤悠可
坦々塾会員 記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 坦々塾(第八回)が二月二十四日に開かれました。この日は朝から春嵐が吹き荒れ、首都圏の多くの鉄道が運休するほどの強風で、会場にたどりつけない遠方の方々もおられました。二カ月に一度お目にかかる機会を失い、残念です。

 渡辺望さんが前回、坦々塾の由来を詳しく書いて下さいました。今回は、実質的にはことし最初の坦々塾のご報告を申し上げます。

 思いがけない季節風の到来で、この日の予定は変更を余儀なくされました。前半前段に予定していた西尾先生の「徂來の『論語』解釈は抜群」(第三回)はお休みし、約一時間半、サブプライム問題に端を発するアメリカの金融不安と中国、日本の運命について、同先生の講義をいただき自由討議を行いました。このテーマは、『Voice』四月号の[特集 日本の明日を壊す政治家たち]のなかで『金融カオスへの無知無関心』と題する論文で詳しく書かれ、まもなく本質的な課題を世に問われます。

 後半二時間は、宮脇淳子先生が「モンゴル帝国から満州帝国へ」という壮大なテーマで講義下さいました。宮脇先生は『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』『モンゴルの歴史』『中央ユーラシアの世界』などを著された方で、従来の東洋史の枠組みを越えて中央ユーラシアの視点に立った遊牧民の歴史と、総合的な中国史研究で知られています。

 西尾先生の講義は、私たちに新たな課題を投げかけられました。私たちが有している日常の糟粕的知識のかたまりをここで捨て去って、もう一度、世界を日本を凝視してみなさい、という意味での新しい課題です。むしろ態度と言って良いかもしれません。

 西尾先生が最近、「金融は軍事以上に軍事ですよ」と口にされているのを私たちは知っています。政治、外交、軍事、教育、その他先生の視野はどこにでも及びますが、先生は経済という漠然とした対象ではなく、いわゆる企業経済人が商売の範囲で語っている経済・市場各分野の部品的知識の集合ではなく、現代の金融というものを論じられました。私には「国家の生殺与奪を握る金融」という重大な意味で迫ってきました。

 米国に端を発した「サブプライムローン問題」があります。それが世界に金融不安の波紋を広げていることは、私のように新聞的常識しか持たない人間でも関心が及びます。けれど、こうした問題に深く潜んでいる真実の像をとらえようとはしません。サブプライム以降に生じているさまざまな世界の変化には、当世のエコノミストが相変わらずその場しのぎの安心・不安両面からの批評や観測をしています。日本は上から下まで無定見を自ら許して気にかけることはないように見えます。

 米国の危機は本当なのか、ドルの基軸通貨の地位は存続するのか転落するのか、〈デカップリング理論〉なるもので中国は安定を続けるのか、バブル崩壊は間近なのか、そもそも米国という国が仕掛け動かしているのか、それともいわゆる国際金融資本という存在が後ろから揺り動かしているのか……。これらについても単眼的な一つの常識的技術の按配でみることはできないし、予見もまたむずかしい。

 しかし、複雑でむずかしい現実に対して、私たちはどのような見方をしているのかというと、日頃私たちが批判しているテレビ画面のエコノミストたちの世界把握とさして違わない。

 私自身も、サププライム禍は欧州を襲ってひどいことになっているが、日本は偶然手を出していなかったから助かっているという記事を読んで、どこかで安堵していたり、また中国のような国の繁栄を決して歓迎しないが、中国経済が一瞬に崩壊すると、アメリカの足腰はもう立てないだろうから、日本はさらに困るというふうに連想ゲームのように心配してみたりしている自分に気がつきます。つまり、米国が駄目なら中国がある、中国が駄目なら米国があるという大変無責任で甘い観測をしていることになります。

 先生は、それがダメだと言います。どうして世界を現実を堂々と見つめないのかと言うのです。金融や経済に限りません、われわれは好きな一つの現実を取って、現実そのものを見ないという誤りをしている。それを指摘されました。

 先生は八十年代に立ち寄られた英国で、英国人が抱く勤労感や立身のすえの自己理想像から、この国の〈金融優位〉というべき生き方を看破する体験を話されました。産業革命の発祥地の人々が、実は非産業資本主義を骨の髄から嗜好し標榜していることを私は初めて知りました。驚きです。驚きと同時に、わかったつもりでいる常識的見地がどれほど当てにならないものかと考えさせられます。

 毒ギョーザ事件から私たちはスーパーでまじめに商品を選択します。けれど、その他のことはたいがい無防備無定見になりがちです。過去に遡って原因を疑ってみることもしません。不愉快な事を回避、忘れたいという傾向が働くのです。知的にも勇気のない態度だから、「日本はこんなふうにさせられてしまったのか」と地団駄踏んでいる。私も地団駄ばかりです。

 日本人は貿易立国だと胸を張っていましたが、今では所得収支が貿易収支を上回ってこの国はファンド化への道を皆で歩いています。これは言い換えると「ものづくり」は「ファッド」に勝てないということでしょうか。構造改革というのは先生によると、日本人の人体の強制的解剖にも似た暴虐な行為なのですが、なぜか詐術的手術で冒された患者のほうがアメリカに協力し、もっと真剣にやろうと掛け声をかけています。

 日本を内部から壊してこれまでと違う日本をつくろうと米国が動き出したのは八〇年代に遡る。抵抗するどころか率先してそれに協力し、その後、日本と日本人がどうなるのかについて一瞥もしなかった政治家がいたという地点から、すでに日本の自己喪失が始まっていたということに気づかされます。

 「金融は軍事以上に軍事」というからにはそこに国家が生きていけるかどうかという生殺の岐路がかかっているということです。世界がとっくに戦略兵器とみなしている。この金融と経済を論じなければいけないと先生は諭されます。私たちは習慣的に「それは経済の問題だから」と言いながらそれはその領域の問題として取り扱っています。以前にも先生は「経済を正面から論じられない知識人が多すぎる」と嘆かれたことがありました。

 一つの好きな現実を見て現実そのものを見ない態度。それでは戦えないということである。講義のなかで幾度か「われわれ自身の眼に問題がある」と先生が指摘されたことは極めて重要なこととしてわれわれ自身が受け止めなければなりません。

 金融は軍事、それは軍事以上の軍事。一度、身震いしてみることが大切な言葉であるとさえ思っています。

 帰って翌日、私はこんな昔の記事が自宅の書棚にあったのを思い出しました。昭和四十七年の文藝春秋十月号「中華民国断腸の記」で紹介されている蒋経国(当時、中華民国行政院院長)の発言です。

 「共産党はコトバをわれわれとまったく違った解釈で使います。わたしたちには戦争、平和、協力、対話、文化交流、相互訪問、親善、そういったコトバがいろいろありますが、かれらの解釈は、戦争は戦争である。平和も戦争である。対話も戦争である。友好訪問、これも戦争で親善もまたしかり、これを総称して、わたしたちは『統戦』と呼んでいます。目的は一つ。すべてはいろいろな策略、方式をもって自由国家に入り込み、浸透、転覆、社会体制をひっくりかえし、経済を攪乱し、最終的にその国を赤化するという唯一の目的からきているのです」

 この文中の「赤化」というところを今、「支配」「操縦」「隷属化」と変えてみれば、今でも全然、文章が色褪せているとは感じられません。「その国」というのを「日本」に置き換えて見ると、そのまま自然に当てはまってしまう。米国は、中共ではないが、ほとんどこの「コトバの解釈」は同じであろう。日本だけは「戦争」以外は全部「平和」もしくは「平和のため」と言ってきました。おそらく「金融も平和である」と考えてきたのです。

 

 後半は「モンゴル帝国から満州帝国へ」と題して宮脇淳子先生からお話をいただきました。

 壮大でスケールの大きい視野でモンゴル論を展開されました。「世界史はモンゴル帝国から始まった」という題名がそれを示唆していると思います。刺激的で新鮮で、場面転換の速いスペクタクルを見せられているようなお話でした。想像力を駆使しました。

 私自身、高校までの世界史の雑知識しかありません。今でも内陸の貧しく広い国、朝昇龍の国といった一般のイメージを脱しません。モンゴル帝国が東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸を一つにした。そこまではわかりますが、歴史的にはモンゴル帝国を〈親〉とし、その〈子孫たち〉が中国やロシア、トルコなどであると説かれたので驚きました。先生が作成された継承図をつぶさに見て納得がいきます。

 冒頭から高校生以前の知識で素朴な疑問を発したくなりました。それを次々と説明のなかで氷解させてくださったので大変面白い。遊牧各部族には系図がない。チンギス・ハーン一族だけが大事であって、それ以前はない(無視されている)ということになっている。十三世紀以前は、旧世界とされているそうです。確かにユーラシアの国々はチンギス・ハーン一家と呼ぼうと思えば呼べるわけです。先生が仰った「チンギス統原理」という一族の男系だけが皇帝になれるという掟が働いています。

 欧州の考え方は「世界は移転する」「興亡がある」というものだが、中国はよく言われるように「天命」が支配し、「皇帝は天命が決める」ものです。先生はこうも言われます。「マルクスは内在的要因から世界は変化を起こす」と言ったが、ユーラシアの視点では「外からの刺激によって世界は変化した」というべきだと。

 遊牧民に土地所有の観念がない。大草原があって常に移動する。坪当たりの地価など思いつくはずもありません。財産は家畜と人間。私は途中で、どのように戦争をしかけ征服し続けられたのか、というまた素朴な問いが起こりました。ふつう戦争で勝利しても次には統治という永続的課題に悩まされるからです。しかし、ここでもモンゴル帝国の大雑把に見えて、実に有効な決めごとがありました。君主は掠奪品(戦勝品)の公平な分配を実施すること、部族内の紛争処理能力を持っていることが求められる。

 ところで、彼らはなぜ強いのでしょうか。征服をしたその土地の部族を支配下に置く。彼らは次の戦争でその部族を率いて戦う。フビライが発令した日本征伐、蒙古襲来のいわゆる「元寇」のときも征東軍には満洲生まれの高麗人が多く含まれていたと『世界史のなかの満洲帝国』で説いておられます。私はもとへ戻って、なぜ戦争が上手なのかということに興味を持ちました。ヨーロッパまで押し込んで勝った「遊牧民の兵法」といった研究があるのでしょうか。個人的興味です。

 先生によると、彼らにとって戦争は「儲け仕事」であります。「勤務」として理解すると、彼らの強さも磨かれるだろうという想像が成り立ちます。また遊牧民は自然、天候を他の誰よりも掌握し、活用する知識や勘を持っていたのかもしれません。

 掠奪した品を山分けする。また戦後はきっちりと取り分の税金を徴収する。統治と交易面では、幹線道路の一定距離ごとに「駅站」を置き、ハーンの旅行為替(牌子)を持たせて「駅伝制」を敷いたというお話でした。また、征服しても宗教に対して優劣をつけず、平等に扱っていたということも、なるほどという気がする。集団への内政干渉から生まれる新しい葛藤を引き起こさないで済みますから。

 モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻し、陸上貿易の利権を独占してしまいましたが、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人だけが活路を求めて海上貿易に進出したとされます。スペイン、ポルトガル、イギリスなどが侵されなかった海洋帝国とみると、世界はモンゴル帝国を指し、そのほかに例外の国があっただけになります。日本は例外の国で、世界と関係がなかったというところに、当時の思いを馳せてしまいます。

 元朝の中国支配、北元と明朝について触れられ(講義時間の都合もあり)、最後に日本人とって密接な「満洲」についての基礎的講義がありました。満洲はもともと地名ではないということ(「洲」の字のサンズイに着目)、清の太祖に諡号を贈られたヌルハチが、女直を統一した際に「マンジュ・グルン」と名付け、彼の息子ホンタイジが女直(ジャシェン)とい種族名を禁止し「マンジュ」(満洲)と解明したのがはじまりだと教えてくださいました。

 満洲(マンジュ)は文殊菩薩の原語「マンジュシェリ」から来ているというのを聞いたことがありますがそれは誤りだそうです。歴史の上では、転訛というものとは関係なく、風聞が固まるという意味での発明もあるという一例かもしれません。

 満洲という地名は高橋景保がつくった地図(1809~1810)にはじめて登場し、これがヨーロッパに伝わり「マンチュリア」になったと言います。日清日露の背景を語られ、辛亥革命から清朝崩壊、ロシア革命と中国のナショナリズム誕生から満州事変、満洲国建国、そして満洲帝国の成立までを説かれましたが、「満洲」だけでも別に集中講義を所望したいほどのボリウムでした。私自身、歴史の基礎的な素地を欠く〈生徒〉であり、基礎勉強を怠ってお話を受けるのは申し訳ないことである、と率直に感じ入りました。

 宮脇淳子先生は著作『世界史のなかの満洲帝国』のはしがきでこう書いておられます。

世界史のなかの満洲帝国 (PHP新書) 世界史のなかの満洲帝国 (PHP新書)
(2006/02)
宮脇 淳子

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 「歴史学は、政治学や国際関係論とは違う。歴史は、個人や国家のある行動が、道徳的に正義だったか、それとも罪悪だったかを判断する場ではない。また、それがある目的にとって都合がよかったか、それとも都合が悪かったかを判断する場でもない」。眼睛に清涼を覚えさせられる言葉だと思います。

文:伊藤悠可

生存と繁栄への資本主義転換のロードマップ

足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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  ――MFICとサブプライム問題の教訓

<ある日本人が西半球で投じた一石>

 その青年は銀行から語学研修生としてラテンアメリカのある街に派遣されていた。
 街の物売りと親しくなりその家に招待されることになった。

 質素だが心のこもった夕食と楽しい会話のひとときが過ぎ、辞去する時間になった。その時、その家の小さな子供が青年に話しかけてきた。「お兄ちゃん今度はいつきてくれるの?」「お兄ちゃんが来てくれたので今晩お母さんが半年振りにお肉の料理を作ってくれました」と。肉料理らしいものが出てきた記憶はない。ふと思い出したのは、スープの中にそれらしい小さな破片が浮かんでいたことであった。このときのことは青年の心に刻まれ、その後も消えることはなかった。

 青年はその後、四半世紀の銀行員生活を国内勤務を挟みラテンアメリカ諸国、そして米国で過ごした。

 2003年、彼、栃迫篤昌氏はワシントン駐在員事務所長を最後にその銀行を辞した。同年、彼は米国で働くラテンアメリカからの移民のための金融機関、Micro Finance International Corporation (MFIC)を設立した。

 米国にはラテンアメリカからの移民5千万人が働いており、彼等の母国の家族への送金額は年間合計で530億ドルに達している。ところがそこには多くの問題が内包されていた。その一つは、一般の金融機関が課している送金手数料が送金額に比して著しく高いものになっていることである。それは彼等移民の送金一件当たりの送金額の12~16%に及んでいた。

 それよりもっと深刻な問題があった。それは5千万人の移民のうち3千万人が銀行口座を持たない(持たせてもらえない)”unbanked”の人々であったことである。日本人にはピンとこないが、小切手社会、カード社会の北米で銀行口座を持たないことは致命的である。ホテルのチェックインもカードなしにはままならないのである。”unbanked”の移民は受けとった賃金の小切手を現金に換えるために手数料を取られてしまう。”unbanked”の移民が働いて得た賃金200ドルを故国の家族に送金するとなると、賃金小切手の現金化手数料に20ドル程度の送金手数料が差し引かれ、国で家族が送金を受け取る際にまた手数料が取られる。

 それやこれやで、当初の200ドルが家族の手に渡るときには130ドルになってしまう。実に70ドルが失われてしまうのである。

 MFICは、この移民にとってはとうてい納得できない情況を是正することをビジネスの中心に据えていた。そこには彼、栃迫氏の長年の経験から、真面目に働き、定期的にきちんと郷里送金する人々は信用出来るという理論をベースとしていたのである。彼等移民はMFICの顧客になることで、小切手現金化の必要もそれに伴う手数料支払いも不要になった。

 送金についても情報通信技術の進歩を活用したコスト削減により、1件当たりの手数料を一律9ドルとし、150ドル以下の送金については一律6ドルとした。こうしたことで移民の送金手数料負担の軽減を実現させた。MFICの移民顧客の多くは定期的にきちんと郷里送金する人々であり、それは貴重な情報として蓄積される。

 こうした情報をベースにMFICは、愈々こうした顧客に対するローン即ちマイクロファイナンスを開始した。

 従来彼等移民が借りることの出来る先は高利貸しくらいしかなく、その高金利は彼等の生活を圧迫し、貧困からの脱出の障害となっていたから、MFICによるマイクロファイナンスの実施は大きな恩典となった。真面目に働き、きちんと故国の家族に定期的に送金する。そしてきちんとマイクロファイナンスの利払いと返済を履行する。そうした一連のビヘイビアは,顧客である移民の経済的な向上のみならず社会的信用の向上につながる。こうしたことは、ラテンアメリカからの移民の個人のintegrity(誠実さ) 規範意識を育み、ラテンアメリカ移民の米国社会における社会的経済的な地位の向上につながることになろう。

 こうしたことを考えれば、MFICは貧困からの脱出の道を提供していることになるのではないだろうか。

 MFICは更にラテンアメリカの国々においても地元の金融機関とタイアップしてマイクロファイナンスを開始している。MFICの顧客となった移民達からは、「初めて人間らしい扱いをうけた」と言う声が上っているという。

 MFICの活動は注目され始めており、ビジネスウイークが採り上げた他、米政府機関OPICが4百万ドルのクレジットの提供を決め、オランダの政府開発機関FMOも総額4百万ドルの投融資を2007年12月に実施している。近代、現代の最大の問題の一つは貧困の解消であろう。革命は解消策の答えにはならなかった。先進国や国際機関からの援助も十分満足すべき成果は得られていない。

 そんな中MFICのうごきは瞠目すべきものがあろう。

 マズローの法則から考えると、MFICは単に最低限の生理的欲求を満たさせているだけではなく、より高次元の自己実現を満たすロードマップを提供している点が、目先の生理的欲求の解消に力を入れがちな援助とは異なるのではないか。そして、ラテンアメリカの移民のため「経世済民」に寄与する一方、市場メカニズムによる資源の最適分配機能を十分生かし、利益を確保し事業を存続発展させようとしているからではないだろうか。

 勿論この事業を推進している栃迫氏を、その仲間が自己実現の動機として燃えていることは言うまでもない。

<サブライム問題の本質>

 MFICが米国でラテンアメリカ移民のための事業を展開していた同じ時期、米金融界は、サブプライム・ローン債券を作り大量に販売していた。それはやがて米国と世界に災厄をもたらすことになる。

 サブプライム問題が内包するものは、以前に起きたエンロン、ワールドコム事件の持つものよりも遥かに深刻である。両事件は共に企業による虚偽の財務内容開示により投資家、市場に損害を与えた事件であるが、当局は直ちに規制強化を行い再発防止策をとっている。

 これに対してサブプライム問題での様相は全く異なる。

 サブプライム・ローンは、低所得者層向けの住宅ローンで、当初2年間だけ金利条件、返済条件を緩めたローンである。その条件緩和経過後の金利、返済条件は借入人の所得では賄えないのもである。ただ当該ローンの担保価値に余裕がある場合には「追い貸し」で表面的には利払い、返済が行なわれる形を取る。あくまで不動産価格が上昇することを前提にしているローンで不健全なローンである。即ち借入人の収入で利払い返済が成り立たないこの様なローンは、会計原則からも当局の銀行検査査定でも正常債権とは認められない性格の筈のものである。投資銀行(investment bank)や銀行など米金融機関はこのようなローンを証券化し大量に投資家に売りさばいていたのである。

 これは不動産価格上昇のストップによるデフォルトのリスクを常に内包するマルチ商品にも類似した点のある商品なのであり、「ババ抜き」ゲームの性格を有する。実際に破綻が起き、先物で大量に売り予約を結んでいたGoldmansachsは膨大な利益を受け、一方多くの投資家、金融機関(日本の金融機関も含まれる)は損失を蒙った。又この証券を組み込んだ金融商品など派生商品の規模は不明である。

 投資家、金融機関は大きな打撃をうけている。しかし最大の被害者は、このローンを借りた低所得者層ではなかったのか。

 一時的な豊かさを享受した後、債務不履行(デフォルト)により彼等の生活はローン借り入れ前よりも苦しい生活を余儀なくさせる。デフォルトは彼等の信用を失墜させ経済的にもならず、社会的な面でも打撃を与えよう。それは米国社会の基盤を弱体化させることにつながるだろう。

 このように、債権化の対象となるローン自体に不正常さを内包し、経世済民にも反する商品を米金融界が生み出し、大量販売し、米国のみならず世界の経済を揺るがしている。この様な商品が、会計制度、銀行監査制度、連邦準備制度理事会、連邦政府、議会で問題になることなく大量販売されてきたことは極めて深刻である。

 サブプライムローン債券を生みだした米金融界の発想はMFICの理念と対極にある。市場原理逸れに基づくボーダレス経済は米国においても無制限に許容されているわけではない。2005年中国石油会社CNOOCは米国の石油会社UNOCALの買収にのりだした。これに対して米議会は反対の決議を行い、買収は断念されたのである。外国企業の米国内投資、米企業買収に係わる審査委員会CFIUSについても米国の国益の観点から審査の厳格化へ向けての動きが強まっている。

 本来サブプライム・ローン債券は、経世済民、公序良俗の観点から規制されたとしてもおかしくなかったのである。

<生存と繁栄へのローフォマップ>

 サブプライム問題が衝撃を与えた理由の一つは、この様な性格の商品が金融界で考案され販売されたことにある。

 洋の東西を問わず、金融機関は融資の基本を、公共性、安全性、収益性に置いてきた。公序良俗は総てに優先するものであった。米金融界はその対極にまで来てしまっていたのである。

 Max Weberは近代資本主義の担い手である経営者の精神を神への信仰、奉仕に求めた。日本の近代化の担い手であった企業家達にも同様なものが窺えた。企業家だけではなく、一般庶民の大層も、職業、生業を金だけではなく、「世のため人のため、国家・社会のため」であるとの思いがあった筈である。
 
 この企業の社会的責任、使命感という点が失われつつあるのは日本も同様である。企業の不祥事が社員の内部告発で明らかにされる。従業員が企業、経営者を告発することには公序良俗の観念が従業員に保たれ経営からは失われていることを示している。そこには次の様な背景があろう。

 資本と経営の分離、資本の経営に対する優越が大きく進んだ今日、企業と経営者の評価は収益のみで計られる。株主は絶対であるのであるから。かつての日本企業は、株式持合い、銀行による株式保有による安定株主にすることで株主の関与を排除してきた。それが、グローバルスタンダーンダードの掛け声で持ち合いや銀行の株式保有が解消され、資本の絶対優位が確立し、企業、経営の評価は収益だけが基準となった。その面でもグローバル化したのである。

 後述の通り日本では個人が株式投資を敬遠することもあり、株式投資の6割以上が外国人になることになる。このことを含め、資本市場の高度化で、機関投資家、各種ファンド、投資顧問業などの当事者は益々増加し、資本市場、経済の共通言語は企業の収益のみになり、企業経営から国益、公共性、公序良俗は失われる危険が高まったことは否めまい。

 更にここへ来て重要な問題が生じつつある。

 市場原理は資源の最適配分には最も有効な機能を有する。だが、それは前に述べた通り「一定条件の下で」と言う前提があり、市場原理以上に重視されなければならない要素つまり問題があることが明らかになりつつある。

 それはCO2問題に代表される地球環境問題である。

 米議会の諮問機関USCC(米、中国経済安全保障レビュー委員会)の2006年2月開催公聴会で中国のエネルギー効率は米国の1/3、日本の1/10であると証言されている。日本や米国が市場原理に則り、自国製品の購入を中国製品にシフトしてきたことは、CO2、環境の面で地球環境をそれ以前に比べ格段に悪化させていることにもなる。輸送に要するエネルギーを加えると逸れは更に悪化していることになる。市場原理のみに任せておくことはもうできなくなりつつあり、卑近な例では近郊で栽培される野菜と海外で大量生産される野菜は価格だけが決め手とはならないのである。

 自動車の排気ガス規制が各国で導入されているが、地球的規模で産業に於けるCO2の排出規制は喫緊の課題である。

 ヨーロッパでは、商品の表示に価格以外に店頭にもたらされるまでの消費されたCO2消費量を表示するようになってきているとのことである。市場メカニズムに総てを委ねる経済では人類は滅亡しかねない。この様な時代、現代としてこの環境問題をどう克服していけるか、ごく限られた身近なテーマからアプローチしてみたい。
 
 日本人は預貯金志向が強くリスクへの大きい株式投資は好まないとされるが、本当にそれだけなのだろうか。

 前述の栃迫氏がMFICの設立に当たり最大の難関となったものは、金融機関設立の要件を満足させるだけの資本金を集めることであったことは間違いなかろう。栃迫氏はこの事業が収益だけではなく、ラテンアメリカの移民のための、「世のため」の事業であることを説明し、且つ収益計画を持ってプロスぺクタスとし、各方面に説明したのである。かくして多くの日本人は出資によりこの事業に参加する意思を示し、資本金は予定通り集まったのである。

 これは、彼等が金だけではなく「世のため」になると言う明確な事業を支援することで、自己実現を図れるからであろう。栃迫氏は、その後も株主に対して、事業の展開と収益状況、将来の展望・計画を定期的に報告し説明し、コミュニケーションの徹底を期している。

 株式投資や金融資産での運用は「儲け」だけを目的とする意味しか持たない今日、仕事を金だけではない「世のため」であるべきという気持ちを抱く一般の日本人がこれらを敬遠してもおかしくはないであろう。

 上述のごとくCO2問題に集約される、環境・エネルギー問題は、人類存亡に係わる問題である。そのためには資源分配を市場メカニズムのみに頼ることは出来なくなった。またそれと同様に、環境・エネルギー問題のために産業、インフラ、生活様式などあらゆるところで抜本的な転換が求められるようになった。要する資金も膨大なものとなり、株式などエクィティー(自己資本)ファイナンスによるものが求められるとともに市場原理だけに依存していては上手くいかない状況になった。これからは人々が儲けだけではなく、「世のため人のため」「地球のため、後世のため」に出資することで事業に参加し、自己実現を図る事のできるロードマップを提供されなければなるまい。

 今日日本を覆う「閉塞感」は、利益だけで自己実現の場が失われていることに起因するのである。

 産業界、金融・証券界、そして政府の向かうべき方向は明らかであろう。そこに日本再生の鍵が存在している。

文:足立誠之

坦々塾・新年の会

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渡辺 望 35歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

  この日録でも幾度か紹介されていますが、西尾先生を囲む坦々塾という研究会が年に4回のペースで営まれています。

 西尾先生が参加されていた「九段下会議」が解散した後、最後まで会議に残ったメンバーの中で、西尾先生の周囲で志を同じくする13人の有志が、これからも先生を囲み勉強研究を続けたいと希望しこの坦々塾は結成されました。その後、西尾先生とその有志の努力によって会は大きく拡大し、私のような者も、その末端に加えていただくことができました。現在、メンバーは50人を数えるに至っています。

 休日の午後の早い時間に集まり、まず西尾先生の講義、そしてその後、外部から講師の先生をお呼びして講義していただき、それをもとにして討議を重ね、いったん散会したのち懇親会に移行して夜遅くまで談論風発する。これが、坦々塾の会の毎回の基本的なスケージュールです。
 
 1月12日の坦々塾の会は、当初、新年会のみをおこなう予定でした。しかし新年会のみをおこなうというのはいかがなものか、新年会の前に勉強・討論の時間を入れようということになりました。西尾先生以外の講師を坦々塾の中から選んで、諸氏が取り組んでいる問題について報告・そしてその報告に基づいて坦々塾の皆さんで討議するということになりました。

 当初は40人以上の参加が見込まれていましたが、予定変更などで残念ながら参加できない方もあり、参加者は35名ということになりました。  

 一言で言うと坦々塾は「混成部隊」と言っていいように私は思います。19世紀のイギリスの思想家J・S・ミルを評して「・・・J・S・ミルという人は何々学者と呼ぶのが困難な人であった・・・」という加藤尚武の言葉があり、私は加藤のこの言葉がとても好きなのですが、坦々塾という「混成部隊」 について考えるとき、いつも加藤のミル評を私は思い起こします。

 加藤の言わんとするところは、各分野に旺盛な関心をもちそれらを凌駕していたミルにとって、「専門」というものはついになかった、自分の好奇心と世界とのかかわりだけがあり、ミルはそのかかわりを一般化する能力に生涯長けていた、ということなのでしょう。坦々塾には、原子力問題の最先端の専門家がいらっしゃるかと思うと、金融問題の専門家も多数いる、あるいは、政治党派集会について緻密に調査していらっしゃる行動家、私のように西尾先生の哲学書や文芸評論を敬愛していることがきっかけで参加させていただいている人間もいます。

 びっくりするのは、これだけ違う各分野の人物が、討論会や懇親会で全く違和感なく話しあうことができて、充足感と次回への会の期待感をもって、いつも必ずその日を終えることができる。皆さんが自分の専門について、一般化して語る言葉の術をもたれていること、そして相手の専門に対して好奇心と敬意を絶やさないこと、それを失わないことによって、坦々塾という「混成部隊」は、不思議なまとまりをもって、国内でも稀にみるマルチな「総合部隊」になっていく実力を醸成しつつあるように思えます。

 もちろん、坦々塾がカバーする知識のこうした幅の広さは、西尾先生の知性の幅の広さに基づいてデザインされているものだ、といえるでしょう。西尾先生とミルをだぶらせるのは西尾先生にとって不本意かもしれませんが、実質が似ているという意味ではなく、「何々学者」という言葉でおさまりきらないような、いろんな分野をすばやくしっかりと渡り歩いているという加藤のミルへの形容は、西尾先生の思想のスタイルへの形容として相応しく、また坦々塾全体のこれからの可能性を形容するにも相応しい形容でもあると私は思うのです。

 さて、1月12日の坦々塾の新年の勉強会は西尾先生の、「徂徠の『論語』解釈は抜群」という坦々塾の会で毎回連続している講義から始まりました。その後、坦々塾 のメンバーの方々の「反日左翼勢力の動向」「ディーリングルームの世界」「エネルギー危機と日本の原発」の各テーマについて発表討論がおこなわれました。

 西尾先生の徂徠の解釈論は、坦々塾の会で毎回内容的に連続しているもので、また言うまでもなく「江戸のダイナミズム」の最重要のテーマの一つでもあります。儒学の文献を解釈することは中国の社会構造を理解することと、あまりにも密接不可分であって、従来の日本の大半の儒学の文献学者はこのことを見落としており、そしてそのことが、日本の中国へのあらゆる誤解を誘引していったということを西尾先生は徂徠以外の学者と徂徠のさまざまな対比の中で指摘されます。

 毒にも薬にもならないような儒学解釈を展開してきた数々の解釈者と、本物の解釈、すなわち中国社会の想像もつかないような構造を見極めた徂 徠の解釈を比較される西尾先生のお話は毎回ユーモアにも富んでいて、伝統的解釈と徂徠の斬新な解釈の比較に、講義の最中、和やかな笑いの雰囲気が絶えません。徂徠の「論語」解釈は本当に,私達の意表をつきながら,いつのまにか中国社会の真実に私達を連れていってくれる、刺激の連続なのです。坦々塾の皆さん は先生の講義を楽しまれながら、現実の中国の表層を批判することはもちろん大切だけれども、その表層の下の深淵を見据えること、現実への「批判」を確かな 「全体的批評」としていってほしい、という先生のメッセージをしっかりと感じられているように思われます。

 講義の本旨からはややずれてしまうことかもしれませんが、徂徠を語る上でよく叩き台にされる伊藤仁斎について語りながら、西尾先生が仁斎と山本七平をなぞらえて、両者がビジネス文明に追随した形でしか孔子の文献を解釈していない、存在論が欠如している、つまり浅い、ときっぱりとおっしゃるあたり、たいへん面白いと私は思いました。司馬遼太郎や山崎正和に対しても西尾先生は批判的ですが、要するに、ビジネス文明に受けがよい形で、儒学に対してにせよ歴史に対してにせよ、薄められたことしか語らない思想家を先生は概して非常に嫌われているのだなあ、と妙に納得する思いを感じました。

 「反日左翼勢力の動向」についての報告討論に参加しながら私は「左翼とは何であるか?」ということについて改めて思いを張り巡らさざるをえませんでした。 たとえばかつて江藤淳は「ユダの季節」という論文で、「左翼とは何であるか?」という問いについて、「徒党」と「私語」という言葉を使い、人格論から「左翼とは何であるか?」を説明しましたが、私はその「ユダの季節」の「左翼」の基準をその日の報告討議を通じて改めて考えました。

 何でもかんでもかまわないので、日本という国を否定するテーマを選び「徒党」を組む。そして「徒党」の中でもちあげあい、かつ相互検閲して、彼らの中だけしか通用しない「私語」を語り合う。やがてその「徒党」と「私語」を国民的に拡大しようとする陰謀ならぬ陽謀をたくらむ。江藤はキリストを裏切ったユダがこの「徒党」と「私語」のロジックによる人格論としての「左翼」だったといいます。江藤の論旨に疑問もないわけではありませんが、「左翼」は実は「人格」の問題である、という指摘は現在の日本の現状からすればかなりの正当性をもっているのではないでしょうか。

 この国には、江藤が「ユダ」と喩えた左翼は依然驚くほどの数、形を変えて延命しているようです。なぜ延命できるのかといえば、結びつくはずのないテーマを「私語」でお互いを結んで、「徒党」を組むがゆえに、なのです。たとえば、本当は矛盾した論理関係にあるはずの「護憲」と「反皇室」の主張に、同じ人物が多数集うというような醜悪な現象が続いています。

 次は「ディーリングルームの世界」と題された金融についての抽象性と流動性に富んだ金融の世界というものについて、一般には理解しにくいことを、なるべくわかりやすく噛み砕いて説明してくださる報告でした。私のような金融の素人にも理解しやすいものであったのはありがたい説明でした。

 「資本主義」というものを、金融という面から考える思考法に私達はなかなか慣れていません。歴史なり時間なり国家なり、いわば「安定した」概念を使い考えがちです。
  しかしたとえば、「何でもお見通しの相場のプロ」というものは古今東西絶対に一人もいない、そういう人間がいるという思考法自体を、相場の世界を知らない証拠だ、という報告説明は、私のような金融の素人の頭脳にビシリと矢を射込むものでした。金融相場の事情を左右する諸要素はあまりにも多岐に渡り、しかもその影響がどう動くかは経験則からも不明としかいいようがない。歴史や政治を語るようには金融を語れない根本がここらあたりにある、といえましょう。そういう「何でもお見通しのプロ」がいるとすれば、戦争や天災その他、人間社会に起こりうるあらゆるリスクまで見通す神のような人間がいる、と想定しなければならないのでしょう。政治の天才がいるようには金融の天才はいないのに、私達はつい金融の世界に独自の論理があることに気づかないでいろいろな失敗をしてしまいます。

 金融面からみた資本主義というものはそういうものでありつつ、しかし、アメリカのヒビだらけのドル体制がアメリカの軍事力によってかろうじて担保されているにすぎない、それは明日にでも急激な崩壊を来たすものなのかもしれない、というような生々しい政治的現実にも関係している、ということが この日の報告と討議で実によく認識されました。

 ・・・この新年会から数日後、アメリカの株値崩壊が起きましたが、報告討議を思い出して、不思議なほどにあわてる気持ちなく、事態を冷静に考えることができらのも、この日の報告討議に拠るものが大きかったといえるでしょう。  

 「エネルギー危機と日本の原発」での日本のエネルギー問題の報告は、悲観面と楽観面の双方からの緻密に指摘に始まり、日本のこれからにおける原子力エネルギー供給増大の不可避を熱心に説かれました。私に関して言えば、今まで意外に曖昧であった原発問題への姿勢が、この日の報告討論で、完全に肯定派に定まるほどの説得力を、この報告から感じるほどでした。

 エネルギー価格の変動が私達の生活全般にかかわっていること、食料自給率も実のところはエネルギー自給率から大きく影響を受けざるをえないことは、最近の原油価格の変化が思いもかけない食料品の価格に影響を与えていることからしてあまりにも明白というべきです。食料自給率に関しての観念的・農本主義的な議論でなく、エネルギー自給率に関しての実質的な議論をこれからの日本人は厳しくしていかなけばならないのでしょう。

 報告では、原油の残存埋蔵量や産出量のデータにさまざまな誤謬やカラクリがあること、そしてそれに代替する原子力エネルギーというものがどういうものであって、また原子力の安全性を「安全」の意味をわかりやすく説明することによって論証されていました。

 論証の中で、日本のエネルギー問題への意識は呆れるほど低い、しかし日本の原子力エネルギーの技術は突出するほど優秀である、という奇妙な二面性への苛立ちが幾度もあらわれ、私は実にしっかりと共有できたように思えます。そしてこの奇妙な二面性は何処となく日本人らしいという匂いも私はふと感 じました。現状への認識対応の全国民的鈍感さと、その現状にありながら世界的に突出した技術力をもてあましているという二面性は、日本が幾度も直面してきたことであるのでしょう。あるいは「もてあまさせられている」のかもしれませんが。

 苛立ちが共有できたのは、切迫している現実(原油価格)とあまりにも近接している問題であったせいもあるでしょう。ただ、多くの貴重な資料を丁寧に説明されたせいもあり、時間が不足してしまい、幾つかの説明を省かざるをえませんでした。報告検討はこれからも続きます。 

 儒学思想の受容の在り方、左翼政治集会の現状、金融市場の問題、そしてエネルギー自給率の問題と、新年早々、いかにも「混成部隊」の坦々塾ら しい幅の広い、しかし日本という国のこれからを模索する上で、どこかでしっかりとつながっている幾つかのテーマが語られて、少なくとも私には、たいへん刺激的な時間でした。

 報告者の講演を終えた後、会は懇親会に移行しました。先輩諸氏は酒杯を傾けながら、新年会の勉強の成果、今年のこれからの日本の展望、各々の抱負などを遅い時間まで楽しく過ごされていました。懇親会の時間もあわせて、私にとって新年早々、忘れられない一日となりました。

文:渡辺 望

小林秀雄に腰掛けて物言う人々(二)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

 ところで、武田先生の指摘に対しては、間髪をいれず小冊子で著者自身が、宣長について小林秀雄から格別に新しい知識を得たものではなく、方法論もアプローチの仕方もこの本は全然別ものであることを説明しており、真に師匠とあおぐ人に対する生きかたの厳しさも論じていて、これ以上、『江戸のダイナミズム』批評のズレを第三者がただす必要はないのだが、もうひとつだけ気になるところがある。

 著者は第一章「暗い江戸、明るい江戸」(二十五頁)で「私は『近代的なるもの』それ自体が今の二十一世紀初頭に崖っぷちに立たされているという認識に立っています」と重要な姿勢を表明している。これについて、武田先生は「どうして著者がこういう認識を持っているかと言えば、学問するとは、単なる認識の獲得ではなく、同時に、学問するというこの人間的営為には、必ず自己の魂の救いと言うことがなければならないと考えているからでしょう」と学問に立ち向かう著者の基本的態度を想像し、「『近代的なるもの』は、人間の生において、無価値ではないけれども究極的には人の魂の救いには無力です」と、示唆に富んだ評価をしている。

 私はたいそう意地悪な読み方をしているのかもしれない。が、聞いて下さるなら私の見解はこうである。

 西尾幹二という思想家は「学問するという人間的営為」でこんなものを書いているのではなく、また「自己の魂の救い」を無意識のうちにも意識して、ということでもないだろうと思う。『諸君!』連載当初からこの仕事は当人の著作行為の中でも格別な仕事の部類に入ると感じていたし、今でも感じているのだが、私は『江戸のダイナミズム』の読者の筆頭は実は、荻生徂徠その人だったのではないか、という気がしている。書き終えられて、どこか秘められた愉悦さえ感じられる。今はさしづめ読者なんか要らない、徂徠との対話を至深所の麓で行う。それは楽しいものだった、と。

 つまり、「自己の魂の救い」という近代的懊悩の課題などはそっちのけで、人類史の本源的な神秘を嗅ぎながら、人間存在と世界の始原に向かって、徂徠が佇んでいるすぐ隣にまで著者は行き着いて、深淵なる蒼古の宇宙を二人して並んで眺めていたのではないだろうか。著者を突き動かしたのは、おそらく遙かなる憧憬である。

 百年の書物は百年かかり、二百年の書物は二百年の生命を看取することのできる後学を要する。つまり、著者は或る統一感のもとで世界を飛翔して廻られ、人間世界が希求しながら獲得し、また獲得しえなかった根源なるものの全体を確かめられた。時代に起伏してあらわれた各民族の「精神の事件」をきちんと選り分けて、それぞれ処(ところ)と役割を得さしめたが、筆をはこんでほとんど最終行まで無私無雑ではなかっただろうか。

 思想家・西尾幹二は、私かに徂来に語りかけたにちがいない。そんな気がしているのである。この書物には「人の魂の救いに無力な近代」に対する歎きもすでに消えている。それを感じるとき、少なくとも私たちは西尾幹二より五千年くらい若い近代人であることを思い知らされる。

 書物は今いる人間のために書かれるとは限らない。そういう行為こそ大きな提示だとわかるような素地をもっていたい。

文・伊藤悠可

小林秀雄に腰掛けて物言う人々(一)

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、伊藤悠可氏によるゲストエッセイです。『江戸のダイナミズム』に触発されての論文「小林秀雄に腰掛けて物言う人々」です。

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

 本居宣長を知るのに小林秀雄を必要とするであろうか。われわれは古事記を知るには本居宣長を必要とする、というならそれは認めなければならない。しかし、宣長を読むために小林秀雄という通路を行き、門をくぐらなければならないか。

 あらたまってこのような問いかけをしたくなるのは、小林秀雄の影響下にあると自認している人が少なからずいて、その人たちが自分の思想や知見を語るつもりでいながら、実は小林秀雄をなぞっているばかりでなく、価値基準を小林秀雄という定規にあてて、思想と現実と人とを測ろうとしているのではないか、と言いたくなる場面に出くわすからである。

 その人にはおそらく自覚はない。自分で考え自分で語ったり書いたりしているつもりなのだが、その人自身、そこに不在であるという感じさえする。小林秀雄の真髄を知らない人間はまだ半人前だといいたげでもあり、こちらはあなたより(小林を)読んではいない、またあなたの指摘するところまでは読者として気がつかなかったという気持ちで「そうですか」と応えるしかないのだけれども、場違いな〈小林秀雄〉の割り込みということもありうるのだ。

 小林秀雄をこよなく愛しあがめて〈絶対教師〉のように信じている人は、多分、私より少し上の昭和二十年初頭の生まれから、下って十数歳くらいの間までの人々に多いと勝手に想像している。最近、或る機会に長く比較文学をなさってきた大学教授にこのことを伺ったら、同感だと仰言る。時代思潮を読むうえで、こんご昭和文学史における小林秀雄の位置づけと彼が風靡した世代の風向きをとらえる確認が分野の専門家によってなされるであろう。

 小林秀雄を〈絶対教師〉としてあがめて、何事につけても思考や思索の通路とする。私は仮にこれを「小林秀雄への盲目性向」と名付けおきたいが、尊敬した人間に対する問題、尊敬してやまない人間を他者に伝えるときにわきまえるべき作法の問題を投げかけており、意外と文学や思想の問題ではなく、行儀にかかわることだからやっかいでもある。

 或る物にふれておきながらその物の本質を味わうことをせず、小林秀雄という定規からはずれているものは価値がないという転倒的判断をしてしまう。或いは、小林秀雄はつねに最も高峰の、それも頂上に座していなければならず、そこから眺めてこの人は小林よりもこれだけ低い、かの人は頑張ってはいるけれどもせいぜい中間辺りの山を登っている最中である、といった品定めをしてしまう。たくさんの研究をしたであろう専門家や大学教官といった知識人の中にもこうした雰囲気を持っている人がいて、どうも二の句がつげないで背中をむずかゆくさせられる。

 小林秀雄に腰掛けて物を言うからである。

 『江戸のダイナミズム』出版記念会で配られた小冊子で、鳥取大学助教授・武田修志先生の寄稿文を読んだときの私の印象は、残念ながら「著者の思索の跡はたどらずに、はなから小林秀雄という秤を持ち出している」という心酔者の手つきであった。おそらく著者があとがきでふれた「名だたる文藝評論家」という表現が口惜しく思われたのかもしれない。

 「この名だたる文藝評論家が小林秀雄であることは、先生の読者なら、大抵の人には分かるのではないでしょうか。僅かにこれだけ書いただけで、小林の方法論を、正面から批評しなかったというのは、この著作をいささか軽いものにしている――」という妙に感情に傾いた辛い批評をつけている。しかし、なぜ『江戸のダイナミズム』の世界的本源的テーマにおいて、決してそこの住人ではない小林秀雄を論究しなければならないと著者に要求できるのだろうか。

 小林秀雄で頭がいっぱいになっている人々。告白すれば、私にもそういう一時代があって、その人々のうちに所属したかもしれない。インターネット日録で私は武田先生の名前を記憶していた。西尾幹二先生があるとき山陰に講演旅行かなにかに出かけられ、その夜久しぶりに歓談の機会を得られたという話が載っていて、また別の機会に「小林秀雄についてめっぽう詳しく研究している学人がおられてね」ということも伺ったことがある。 

 小林秀雄を研究している、と聞いただけで、私にはとても難題でありすぎて、あとずさりしてしまいそうだが、純粋に敬意をもってその御仕事(研究論文)を読んでみたいと思う。酒場のカウンターに小林秀雄が訳した「ランボー」を持っていって、一人でしこたま飲んでみたいといった青首ダイコンのような無頼派ぶった小林愛好家も居るには居たが、小林秀雄がどのように捉えられているのか、本筋の研究家の仕事を垣間見てみたいという思いがある。

 それゆえに、「小林秀雄の『本居宣長』が先行作品として存在しなかったら、この本は現在のものと相当違ったものになったのではないか」というような〈小林秀雄という定規〉を持ち出されると、ちょっと待ってほしい、専門家も大丈夫だろうか、という心細い気持ちになってくるのだった。

 一昨年の初夏の頃だったか、日比谷にある美術館で、めずらしく全国の秘蔵家が名作を持ち寄ったという「鉄斎展」を觀に行った。畳何枚にもなるほどの「富嶽」の大作の前には親切にも大きなベンチをしつらえてくれ、私は何十分でもそれを堪能することができた。ところが、ふと小林秀雄の『鉄斎』の文章が浮かんできたものだから、とたんに雑音が入り込んできたようでしばらく困惑し面白くなかった。小林秀雄が絵をみるときの邪魔になるのだった。

 私は鉄斎をみたいとおもって来たのに、小林秀雄が絵から受けた心の動きをたどらなくてはならない。小林秀雄の眼を借りて、一回切りの鉄斎を見たいとは思わない。それは自分が神経症的な癖をもっているからだろうか。或いは、世の中には小林秀雄に感化されて「鉄斎」を楽しく見る人もあるだろうし、あっても差し支えはない。それはそのとおりだが、私は先行知識というものはときどき人を困らせるものだという気がしている。

 『宣長』の先行作品が小林秀雄だというなら、国学者の蓮田善明のものも先行している。神道方面の遠い過去からの注解書においては、まだたくさん先人を見い出すことができる。小林の『本居宣長』をただ一つの鑑とすることは、文字なき時代の言語生活の完全さについて、「これらの洞察を深い理解をもってひろく我々に伝えてくれたのはやはり小林秀雄であった」と、武田先生が感謝をもって讃えることに異論はないとしても、「『江戸のダイナミズム』の中で取り上げるべきだった」というのは不必要な拘泥でしかないと言わざるを得ない。

 つまりこういうことである。本居宣長を語るには小林秀雄をまず読まなければならない、と思っている人を私は何人か知っている。「小林を読まずして宣長を語るなかれ」と直截的に言われたことはないが、ラストワークの『本居宣長』を読んだという人の中には、宣長を論じたいのか小林を論じたいのか、こちらには弁別がつかないまま、とにかくこの書物の賛辞を聞かされるだけという図式があり、こちらは「A」の話をしているのに相手は「小林が書いたA`」の話しか返して来ないというありさまとなる。それは少なくとも対話ではない。

 早い話、これは対話を拒否する態度の開始である。知的論議ではなく排他の表明でもある。「尊敬」ということばにしても、あまり出し抜けに人前で使うものではないと同時に、「尊敬の念」の表明の仕方も厳密にいえば、ある程度人間をやってみた人でないと美しく始末をつけられない六ケしい人間わざなのである。

 「尊敬」は勿論、美徳かもしれないが、時として「臭気」を発する恥ずかしいことを私たちが知っているからであろう。おそらく、「褒める」ことと同じで、「劣悪なるものはプラトンを褒めることは許されない」といったアリストテレスの忠言に含まれる羞恥や謙譲など繊細な感情を用意して、はじめて発せられる真っ裸の言葉だからであろう。私たちは師を褒める前に、私たち自身が向上しなければならないものである。昨今の学生が「尊敬する人は父です」とハキハキ応えて、なかなか素直な青年だと大人から讃えられる気持ちの悪い時代にあっても、やはり「尊敬」というものは用心深く扱われなくてはいけない、と私は思っている。

 実際、小林秀雄の『本居宣長』の正確な評価はまだなされていないのではないだろうか。「本論は物足りず、『補記』をもってようやく眼睛の開かれる一境地を得る」という批評もあるのである。もう一つ、小林秀雄は多分、自分に寄り掛かる人がやがて出てくることを知っていたと思う。定規にされて困っているのは小林秀雄自身であろう。彼はよく「自分で発明したまえ!」と叱咤していた人だった。

文・伊藤悠可
つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(十二)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 考証学というと何となく象牙の塔のイメージがありますけれど、価値観を拒否して実証主義に徹底する精神というのも、異民族支配という「原理主義」の押し付けの危機意識の中で生まれた「自由」への志向の中で当初は生まれたものだったわけです。西尾先生の指摘される考証学者への清の血みどろの弾圧と、考証学者の側からのすさまじいレジスタンスにみられるように、「原理主義」も「自由」も、日本人の考えるような穏やかなイメージとは遠く隔たるものなわけですね。或る意味、考証学は、明の「本土決戦」の中で生まれた精神や学問方法だったように思われます。    

 これは西尾先生が繰り返し正しく指摘されてきていることなのですが、日本文化(日本文明)がオリジナルなものをもっていないという俗論は、恐ろしく間違った意見といわなければならないでしょう。しかしこの俗論がどこから生じるのか、といえば、「原理主義」と「自由」の格闘があまりにも穏やかに展開されていることを「オリジナルな思想の不在」というふうに錯誤することろから生じている、といわなければならないでしょう。錯誤は錯誤で、俗論は俗論なのですが、しかし反面、坂口や三島のような意識的な言葉の使い手にとっては、戦後民主主義の空虚な猛威を目の当たりにして、「原理主義」と「自由」の格闘の曖昧さが、どうしても「日本」の不在と同一なものに思えて、つい、本土決戦についての逆説をいわなければならないような気持ちに追い詰められたのではないでしょうか。 

 では日本人のこうしたあまりの幸運ということを、不運に裏返して考えて、日本人は中国文化やヨーロッパ文化のような激しさをもっていないか、というふうに考えるべきなのでしょうか。そうではないと私は思います。西尾先生が指摘される、日本文明の様々な先進性や優越性という結果的事象を知れば知るほど、こうしたものが「原理主義」と「自由」の格闘という普遍的プロセスと実は全然別のプロセスで生まれたのではないか、と、ひっくりかえして考えるということが、西尾先生や小林秀雄の立場ということなのではないでしょうか。

 先進性や優越性を「先進」や「優越」ということへの自足的感情でなく、「違うもの」という分析的感情においてとらえる必要、ということですね。思想においては特に然りです。早い話、血みどろの悲劇がなければ本当の思想家が生まれない、ということでしたら、江戸時代にかくも大勢の普遍的境地に到達した思想や論争が生まれた、ということ自体が説明不能になってしまいます。    

 つまり、西尾先生が「ヨーロッパの個人主義」「ヨーロッパ像の転換」の頃から「国民の歴史」の最近に至るまで一貫して主張されてきているように、ヨーロッパや中国が普遍的であるという保証は実は何処にもなく、日本が普遍的である可能性もある。あるいは「普遍的」ということ自体がフィクションなのかもしれない、ということを、文明事象的な指摘だけでなく、文明内の思想形成においてもとらえなければならない、ということがいえましょう。「江戸の先進性」ということを「江戸の独自性」というふうに読み込んでいくことが、ちょっと大袈裟な言い方ですが、「江戸のダイナミズム」の主題の絶対的スタートラインということになる、と思い、今晩もまた少し、再読を進めていくことにします。  

 手がかりはやはり「言葉にならない何か」ということを日本的精神とした宣長的な精神ということではないか、と思われます。三島も坂口も、「言葉になる何か」を日本人の精神探求において膨大に探求し、ついには、徒労感に行き着いたように思われます。しかし「江戸のダイナミズム」の読後感は、こうした三島や坂口の日本論の徒労感とは完全に別のものです。「言葉にならない何か」を穏やかに、しかし必死にとらえようとしていることを感じることができるからですね。何回の読み返しを通じて、それをますます感じていけるのではないかな、と思っています。

おわり

江戸のダイナミズムに寄せて(十一)

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
西尾 幹二 (2007/01)
文藝春秋

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guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 西尾先生の画像説明にあわせて、再び、「江戸のダイナミズム」をゆっくり読みはじめています。読書というのは忙しく読んだ一度目に比べ、二度目、三度目と速度を落として読むと、いろんなことが思い浮かんできて、自分でも驚くくらいなのですが、主に顧炎武たち考証学者のことについて論じられている、日本人は自由すぎて「自由」を知らない、というくだりを読んでいるとき、不意に私は、三島由紀夫や坂口安吾の「本土決戦」論を思い浮かべました。

   三島や坂口は、日本は終戦の時点で、本土決戦という破滅的選択をするべきだった、というような逆説を繰り返し言っています。かつて三島や坂口の言説を読んで、私は終戦工作に奔走した鈴木貫太郎をはじめとする人達の物語を日本の政治史でもっとも美しい物語として考えているせいもあって、何をぬかすか、と感情的に反発したくなりました。しかし三島や坂口の考えというのは、私の感情的反発と別の次元で、私達が受け止めていかなければならない指摘なのだ、と最近は段々と思いを修正するに至っています。  

 原理主義の不自由があってこそ「自由」の意味を知ることができる、という意味において、日本人は「自由」を知らないのだ、という西尾先生の指摘は、異民族支配や宗教上のタブーを知らない、という別のところでの先生の指摘と同一のものです。私達は「原理主義」というと宗教や教条的学問を思い浮かべがちですが、異民族支配もまた、すさまじいほどの「原理主義」である、ということがいえましょう。  

 本土決戦を行えば、完全な焦土と完全な敗戦という「悲劇」が間違いないのは当然として、国土分割さらには皇室の存続の危機という破滅的事態の先に、少なくとも「北日本」へのソビエトの衛星国化・異民族支配という日本民族最大の「悲劇」が待ち受けていたのは明らかで、アメリカ側にしても、「南日本」への、現実の戦後日本に数倍するアメリカ化の原理主義の洗脳行為をおこなったのは間違いありません。日本人の幸運は昭和天皇の聖断や鈴木貫太郎たち賢人の奔走でそれを避けられたことにあることは間違いないのですが、しかし長所が短所に裏返るのと同様、最大の幸運は最大の不運に裏返るのですね。 

 坂口は戦後直後のなし崩しのアメリカ化を「自由」と勘違いする日本人の多くのあまりの浅さに、激しい懐疑を抱いていたに違いありません。また三島が、1960年代以降の日本人の、精神崩壊にすら意識的でなくなってしまった精神崩壊に、日本人の「自由」の認識のあまりの脆さにあきれ果てていたのは周知の通りです。だからこそ坂口や三島は、逆説的な歴史論として、「本土決戦をするべきだった」ということをいうわけで、私は「思想としての本土決戦」という主題が、日本人の「自由」の問題を考える上で存在するのではないだろうか、というふうにいつも考えています。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(十)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 私が平川先生を拝見するのは実は初めてだったのですが、こんなことを言うと恐縮かもしれないのですが、いろんな人から伝え聞いていた「平川節」というものをそのまま感じさせるような、とても個性的なスピーチで、当日スピーチされた諸先生の中では、そのまま著作の一部になっても全然おかしくないような、一番濃い内容のスピーチだと思いました。  

 「平川節」というのは、たとえば、平川先生がこのスピーチであげられている、マードックと漱石に関する平川先生の「新潮」での論文についての西尾先生の批評の文章の中で、西尾先生の「勉強家の平川氏」という言葉に集約される学者・思想家としてのスタイル、といっていいでしょう。思いもかけない資料や文献の発見を展開しながら、野太い一つのロジックが大河のようにびっしりと隙なく悠然と流れていく。  

 平川先生の世界というのは「この人は、或る主題をきちんと据えて、徹底的に時間を使ったんだなあ」としみじみ感じさせる、重く規則正しく流れていく「勉強家」の世界です。「音楽的」でなく「大河的」なのですね。しかし「勉強家」の平川先生が実はなかなかユーモアの才能もある方だなあとも思いました。スピーチの最後の方の「丸山真男の弟子筋云々」というくだりは、丸山さんの江戸思想史の杜撰な儒教理解を西尾君(西尾先生)は遥かに超えているね、という褒め言葉のユーモラスな言い換えで、私はおかしくて、その後、飲みながら、何度も思い出し笑いばかりしていました。本当の「勉強家」というのはユーモアという余裕も体得しているんだなあと思いました。  

 平川先生のあげられている西尾先生の、平川先生のマードック・漱石論への批評文というのは、読み返してみると、ほとんど「批判」になっているとさえいえる文章です。この「批判」には、平川先生の世界の個性が、表と裏返しで伝えられていて、西尾先生と平川先生の接点という以上に面白い文章ですね。   

 平川先生の文章が載った「新潮」も西尾先生の批評文が載った「文学界」も、私が古本屋街で古本漁りしていた頃に入手したもので、今となっては懐かしい記憶の本です。西尾先生はこの文章で、平川先生が漱石が様々な面においてみせた「断念」を、漱石の西洋への劣等意識によって説明しようとする平川先生の考えは間違いで、漱石は「一般的の開化」を心得ていた人物であるということ、そして漱石は漢籍の抜群の素養を通して、異文化を理解するという「断念的」な行為、西尾先生の言葉をかりれば、「不完全を完成させるという瞬間的な決意」、そうしたギリギリの精神的ドラマが漱石にはあった、というふうに展開されています。「江戸のダイナミズム」からひけば、漱石もまた、徂徠や宣長の精神性の地点にいた、ということができるわけです。 

 もちろん平川先生の漱石理解が浅いということでは全くありません。平川先生の「和魂洋才の系譜」を紐解けば、漱石という人間が、大和魂や武士道を、劣等感の裏返しとしてのナショナリズムの一種として警戒していたことを指摘しています。「大和魂はそれ天狗の類か」という言葉が漱石にあることを、私は平川先生の著作を通じて知りました。言い換えれば漱石は、劣等感に陥るような凡庸なナショナリストではない。では平川先生の漱石理解はどういうことなのでしょうか。ここに私は実は平川先生と西尾先生の世界の相違点というものを感じます。   

 「和魂洋才の系譜」や「西欧の衝撃と日本」・小泉八雲伝やマテオ・リッチ伝をはじめとする平川先生の著作の最大の醍醐味でもあり、実は私のような人間に肌があわない面だなあと思ってしまうのは、平川先生の著作の流れは比較史という「史」的考察が優先している、と思うのです。たとえば「和魂洋才の系譜」などにに典型的に現れているのですが、日本的なものへの回帰の諸問題を扱った人間として、萩原朔太郎・西田幾多郎・阿部次郎が並列されていますが、この全く立場の異なる三者を整然と並列できるのは、比較史的考察、が優先するからではないでしょうか。

 たとえば平川先生はその少し後で、フランスにも日本と同様の回帰の問題が生じたとして、デュ・ベレーやロンサールをあげ、彼らが「詩人」であった点を重視しますが、では、萩原・西田・阿部のうち詩人でない後二者をどう考えるべきかは、論じられていない。私の素人感覚からすれば、「比較史」の「史」という必然性に解消してしまっているかのようにみえます。

 漱石にしても同じで、漱石という人間が文化的ナショナリズムを懐疑していた人間であるということと、漱石が文化的ナショナリズムの大きな根源である劣等意識を有していたことは比較史的考察の優先においては成立しますが、漱石という人間にこだわれば、それはおかしいということが前提になるはずです。しかし、漱石が漱石にしか判明しなかったことをいつまでも問題にしていたのでは比較史なんて成立しません。漱石に文化的ナショナリズムを巡る特定の思想的立場というある種の分類を施さなければ、「系譜」というものは成立しないのです。   

 私はこういう読み方はしないというか、全然できない人間なのです。比較史という安定構造に表現者がいるのではなく、全くバラバラな表現者が比較史という不安定なものを形成するというふうに考えます。比較史や文学史を読むより、何年もかかって漱石だけを読む人間です。では平川先生の世界が劣るものかというと、さにあらず、著作や表現者を巡る膨大な情報量が、大河という比較史の「史」の流れになる世界であり、その視点からしか判明しないこともたくさんあるのだ、と思います。「大河」は「音楽」ではない、といいましたが、「音楽」というのはその瞬間、そこにとどまるようでとどまらないような、個というものへの人間の拘り、と言い換えてもいいようなものです。

 西尾先生の著作というのは、どちらかといえば、「大河」的でなく、「音楽」的で、平川先生の本の魅力とは違うものだなあ、と私は思います。そういう意味で私は西尾先生の本は思想書であっても、比較史・比較思想の書では決してない、といつも考えています。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(九)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 深田祐介さんの「大東亜会議の真実」という本を私は読んで以前、深い感銘を受けたことがあります。1943年冬の東京で開催されたこの会議は、戦後左派が言うようなアジア各国の売国奴の集結であったわけではない。反面、盲目的な親日派の集会であった、ということでもないのです。 

 どの出席者も、正真正銘、日本の国力と国民文化に、深い敬意を抱いている。しかし戦局が不利になった日本の行く末も認識している。そしてこれまたどの出席者も、自分の国(民族)の独立運動に日本がどこまで利用できるかという判断も怠っていない。チャンドラ・ボースという人物は疑いようもなく偉大な人物ですが、彼の足跡を追えば、日本に依存する前はドイツを頼り、日本降伏直後、ソビエトを頼ろうとして事故死したわけです。「敵の敵は味方」ということがボースの論理だったといえば容易いですが、ボースはたとえば、東条首相からのインド国民軍への軍事援助の申し出に対して、それを「援助」でなく「貸与」にして欲しいと粘りました。  

 日本側とすればボースの拘りの意味がわからない。日本人にとって善意は善意に過ぎないからです。しかしボースの拘りの意味は、二次大戦終了後、イギリスの裁判のとき、インド国民軍の無罪ということに貢献するのです。無罪ということだけでなく、日本の協力を、日本と対等の立場で得た、ということを証しした、ということでもある、ということなのです。ここにボースの深謀遠慮があるというべきでしょう。

  ボースをはじめ、バー・モーやラウレルなど、みな同じくとてもしたたかな人間です。しかし「したたか」と「ずるい」は全く異なります。ボースの日本への賞賛は本当の気持ちだったし、バー・モーは日本軍の純粋な精神に何度も号泣し、ラウレルは敗戦直前の日本に来てまで日本という国に期待を賭けていました。つまり、「親日」は「追随」ということでは決してなく、矛盾した言い方になってしまいますが、「日本」と「親日」いうことは別個独立した一つの立場だと考えなければいけないことを、彼らの「日本」とのかかわりのドラマは示しているのではないでしょうか。戦前戦後を通じてずっと、日本人の大半は実は「親日」ということの本当の意味を理解できていないのではないか、と私は考えます。

 西尾先生がいろんなところで指摘されてきたことで、実は「江戸のダイナミズム」の最大のテーマの一つでもあるのですが、私達は西欧や中華世界に憧れることはできても「なりきる」ことはできないのですね。このことを裏返せば、いくら日本に正しく親しい弁護者でも、その人は「日本人」ではありません。当たり前のことかもしれませんが、そこらあたりのことをゴタマゼにして、アジア全域を日本共同体にしようとしたことろに、大東亜共栄圏というお人よしの情念的思想があったように思います。しかし、「日本人」と「親日」が無縁というかというと、そうではありません。やはり、「親日」を節度をもって育てるということも、日本人として、とても大切な任務だ、ということもいえるのです。それは戦略的思考の一つですらある、と思います。

  アメリカやドイツは、実に巧妙に「親」派を育てる。もちろんアメリカやドイツほど巧妙であるのはなんとなく違和感がありますが、私達が「親」派を育てる必要性ということを、「大東亜会議の真実」の読後感の一つとして、強く感じました。そしてこの読後感は、自分が日本という国家意識を実践形成していく上で、実に不可欠なことではないか、と日増しに強く思いはじめています。 

 黄文雄さんも石平さんも呉善花さんも、皆さんでなければできないようなたいへん優れた思想展開をもち、これからの日本にとってなくてはならない方だと私は思います。知識的にも見識的にも、どれだけ私の読書に貢献してくださったかわかりません。ただ皆さん、著作の写真で観たときよりも少し齢をとられたかな(笑)。私達にとって大切なことは、大東亜会議で不完全に終わらせてしまった、「親日」の節度ある育成ということを、これらの方々との付き合いで実現していくこと、そのことで、「日本」と別な意味空間に、「日本」でない「親日」という場を形成することだといえるのではないか、と当日の親日派知識人の皆さんの話を伺いながら思いました。 

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(八)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 西尾先生の「ニーチェとの対話」でモンテーニュの「私は非常に単純な歴史家か、または群を抜いた歴史家が好きだ」を引用されたくだりがあったと記憶します。モンテーニュの言いたいことは、歴史観における健全な主観主義と客観主義は、歴史家において稀少な両者にしか生まれず、歴史観を破壊してしまうのは、この三流と一流の中間にあって、客観主義を装いながら凡庸な主観主義を駆使している二流の歴史家だ、ということなのですが、大学時代の知己で、少なくない同年あるいは同年に近い出版業の人間と話すとき、私はいつも、このモンテーニュの言葉を苦々しく思い浮かべます。 

 大概の私の出版業者の知己は「こういう本もあってもいいのではないか」という私の見解を素人呼ばわりし、出版不況の現状を知らない空論だというふうに言われてしまいます。私の見解が素人なのは事実だとして、では、出版者としての彼らの職人意識に、マーケットメカニズム以外のどういう見識が存在しているのか、というと、実に情けないものしかもっていない場合がほとんどです。大体、不況といいながら、出版不況の原因が、自分達出版人であるかもしれないという謙虚さが全く感じられない。さらに不思議なのは、純粋にマーケットメカニズムに徹しているかというとそういうことでもなくて、こういう友人に限って、どう考えてもおかしな出版計画や雑誌企画を思い描いていたりするんですね。 

 もちろん、モンテーニュが言ったのは歴史認識の問題であって、出版業界の話とは全く関係ありません。しかし、認識における「主観」と「客観」の図式に拘りすぎて、「客観」主義の立場を「マーケットメカニズム」主義に一致させつつ、その内実はいろんな主観主義の悪戯をして出版界を疲労させている、というのがこの日本の言論界の現状なのではないだろうか、と私はお門違いを承知で、モンテーニュの言葉を飛躍させて考えます。歴史家と出版人において、共通点を見出してしまうくらいに、私は認識における職人意識が嫌いで仕方ないのです。

 モンテーニュが言う「単純な歴史家」は、自分達のできる範囲で読者に誠実に良書を提供しようとする地味だけれども忍耐強い出版人、「群を抜いて優れた歴史家」は、絶えず斬新で的確な出版計画や雑誌企画を有しつつ、むしろそうした斬新さがマーケットメカニズムを変えてしまうような、実は評論家としても一流な出版人、そういうふうに平行移動して私はモンテーニュの言葉を理解しています。    

 言うまでもなく文藝春秋は「群を抜いて優れた歴史家」に該当する出版社です。1930年代という難しい時代の「文藝春秋」のバックナンバーを読むとそのことがよくわかります。世論がドイツとの同盟賛成に急傾斜しているとき、「ナチスは日本に好意をもつか」という鈴木東民氏の論文を掲載し、あるいは近衛文麿に対するこれまた世論の急傾斜に対し、近衛の革新思想被れを厳しく指摘する阿部真之助氏の論文を掲載したりしています。もちろん、これらは、反体制というイデオロギー依存の形での懐疑から生じたものではなく、この日本にあって、この日本でしか生きられないという前提を決して動かさない上での懐疑主義ということであって、その良心はずっと文藝春秋において、維持されているということができるのでしょう。

 そういう意味で、乾杯の音頭を文藝春秋の社長氏がとられることは、西尾先生の今回の著書の出版元であったという以上に、西尾先生の著作の良心を象徴することに相応しいことだったように私には思われました。  

 二次会のレストランで、私の隣席だった方は、一般的にみて、あまり有名でない出版社の社長氏でした。しかしとても腰の低い見識豊富な人物で、私の知己に多いような二流の職人意識をひけらかしたりする出版人とは正反対の人物でした。「単純な歴史家(出版人)」か「群を抜いて優れた歴史家(出版人)」のいずれかはわかりませんが、モンテーニュが賞賛する人物であることは間違いないように思われました。「西尾先生の本を私のようなところでもいつか出版して、いろんな方に読んでいただきたいのですよ」と繰り返し言っていらっしゃいました。

 私は西尾先生がかつての著作で「自分の本当の姿はさほど有名でない哲学誌や文芸誌に載っていたころにこそある、とさえ思っている」という言葉を思い出して、「そのうち必ず、その機会がやってきますよ」と、だいぶ酔いのまわってしまった口で話したら、その社長氏は本当に嬉しそうな顔で頷いておられたので、ちょっとだけいいことしたかな、と当日の楽しい宴の小さな満足感の記憶になりました。

つづく