夏から秋へ

 今日はいま具体的にどんな活動をしているか、また今後どんな予定を立てているかをお知らせしておきます。

 勤務はないけれど、毎月必ず規則的にめぐってくるのは「路の会」の主宰と「GHQ焚書図書開封」の録画です。三ヶ月に一巻の全集の刊行も規則的にめぐってきます。

 「路の会」のことはほとんど書いたことがありませんが、この数回の外部講師は中野剛志さん、藤井聡さん、河添恵子さん、竹田恒泰さん、そして今月は孫崎享さんです。

 「GHQ焚書図書開封」の録画は第113回を数えました。本になっているのは約三分の二です。いま戦時中に書かれた近現代史の通史のようなものといえる大東亜調査会叢書シリーズを追っていて、今月は第112回「満洲事変とは何か」、第113回「国際連盟とは何だったのか」を放映します。

 このところ『WiLL』は少しお休みしていますが、書きたい新情報がないのです。今月は『別冊正論』(18号)と『正論』11月号とに書いています。どちらも中国問題で、前者は中国人に対する労働鎖国のすすめがテーマであり、後者は尖閣暴動に対する私の最初の所見です。

 チャンネル桜が『言志』というメルマガを始めたので、お付き合いですでに1~3号に書きました。4号もたのまれているので書く予定です。第1号は「戦後から戦後を批判するレベルに止まるな」、第2号は「取り返しのつかない自民党の罪過」、第3号は長い題に取り替えられたので思い出せません。尖閣がテーマです。第4号はメディア論を書けと言われています。いずれも8枚~10枚の短文です。

 西尾幹二全集第四巻『ニーチェ』は間もなく刊行されます。夏からずっとこの校正に苦しんできました。「後記」は第三巻ほど長くありませんが、それでも往時の諸事実を正確に思い出し、記録するのは大変でした。二部作を一巻にしましたし、長い付録もついていますので772ページの大著になります。

 それからこの後お伝えするのが夏から秋へかけずっと取り組んでいた新しい課題で、主要な部分は夏の前半にまとめ、この9、10月に整理した3冊の新刊です。

1.青木直人氏との対談本『第二次尖閣戦争』祥伝社新書(11月2日発売、7日には店頭)
   2010年に『尖閣戦争』として出したものの続編です。これは版を重ねました。

2.竹田恒泰氏との対談本『皇室問題と脱原発』飛鳥新社(12月2日刊)
   皇室問題では女系天皇説の黒幕田中卓元皇學館大學学長を二人で彼の学問の危うさを突いて、根底的に批判しています。

3.『中国人に対する「労働鎖国のすすめ」』飛鳥新社(1月15日刊)
   1989年刊「労働鎖国のすすめ」の復刻が後半。前半は中国人定住者増加の現実とその政治的危険を戦前の中国ウォッチャー長野朗の洞察を取り入れて、私が書き下ろしたものです。

 以上三冊はほゞ作業の大変を終わっています。1.はあと2日で、2.はあと10日で校了となります。3.は整理に少しかかります。

 来月号になりましたら青山学院大の福井義高さんと行った日米戦争をめぐる対談を『正論』で二回掲載します。私の『天皇と原爆』(新潮社)を福井さんに論評してもらいつつ、彼のユニークなアメリカ観に耳を傾けます。

 そして恐らく3月号から私の長編連載『戦争史観の転換』が『正論』でスタートします。

 尚、11月11日に「小林秀雄と福田恆存の『自己』の扱いについて」と題した講演を行います。現代文化会議主催で、会場はホテルグランドヒル市ヶ谷。午後1時30分~5時、お申し込み予約は電話で03-5261-2753でお願いします。入場料¥2000です。

「吉本隆明氏との接点」(四)

 吉本氏はラディカルである。根源的である。しかしどこか閉ざされている。

 私は氏の戦争観がずっと気になっていて、今度、「文学者の戦争責任」(1956年)と、「文学者と戦争責任について」(1986年)の二編を取り寄せて、拝読した。ほぼ同じ内容だが、後者は三〇年経っている情勢の変化で、やや視野が広くなっている。

 氏は戦争に協力しなかった文学者なんか一人もいなかった。戦争に反対した文学者も、抵抗した文学者も皆無であり、厳密に考えれば戦争責任の告発は成り立たないという認識に立っていた。そこで左翼の文学組織に属さない文学者をもっぱら戦争犯罪として告発するたぐいの、戦後、氏が目撃した左翼の文学組織による、戦争責任の追及の仕方に、氏は激しく異議を申し立てた所以である。その自己欺瞞の摘発には説得力があり、胸を打つものがある。告発者自身は、自分たちは戦争下でひそかに抵抗していたとか、戦争そのものにじつは反対していたのだとか、手前味噌な評価をつねに用意していたものだった。吉本氏の追及は手厳しい。文学者の戦争責任は文学作品それ自体によってしか弁明ないし表白できない。文学作品はウソをつかない。氏のその方法態度も正しい。

 1986年の論文では、ファシズムとスターリニズムとの間にはわずかな相違しかないという認識にまで進んでいて、左翼の正義も否定されている。

 いまではもう昭和21年(1946年)に左翼の文学組織(民主主義文学運動)によって告発された文学者の戦争責任も、昭和30年(1955年)ころ、わたしたちによって提起されたそれに対する批判も、すべてそれ自体が無効になり解体してしまったというべきだ。ひとつの理由は、戦争責任を問うべき中心的な前衛理念、あるいは優位にたって戦争を裁く前衛理念が存在しないことが、誰の眼にも明確になってしまったことだ。もうひとつ理由をあげれば、「戦争」も「平和」も古典的な概念とまったく異なってしまったことだ。わたしが「戦争」を裁くとすれば、わたし自身のうちにある理念によるだけだし、「戦争」と「平和」について言及するとすれば、自身の定義した概念においてだけだ。

 それなら、吉本氏において戦争はどのように定義した概念として捉えられているだろうか。

 「戦争」は人間が直に砲弾を打ちあい、ミサイルをとばして、陣地や領土を併合することで、「平和」はときに、銃や凶器で殺しあうことがあっても、日常生活の繰り返しが中断したり、切断されたりすることがない状態のことだという考えは捨てられるべきだ。兵士は現在では補助機械であるにすぎない。戦争は米ソ両支配層の演じるボタン押しの電子ゲーム以外のものではない。「戦争」状態をシュミレーションしている平和もあれば「平和」そシュミレーションしている「戦争」状態もあるというように概念は変えられてしまっている。

 米ソ対立の極限状況にあった1980年代のいわゆる「ボタン戦争」の概念が吉本氏を支配していたことがここから伺える。現代戦争のこのニヒルな認識が文学者の戦争責任論など吹き飛ばしてしまったことはまず間違いない。しかしこの認識はまた、日本が米ソ冷戦の谷間にあって「安定」していた、束の間の幸運な時代に許された甘い特権であったことが氏に認識されていない。氏は左翼の党派的欺瞞に対してはたしかに倫理的に厳しかったが、氏の内部に巣くっていた左翼的イデオロギーの残滓が何となく世界を素直に、自然に見ることの邪魔をして、動いていく現代の中で、日本と自分の置かれた位置を冷徹に直視することを不可能にしている。

 現代ではすべての戦争が核戦争になるとは限らない。米ソ冷戦が終わって「不安定」になった世界では核兵器は使えない兵器となり、代わりに通常兵器を用いた戦争の可能性はずっと大きくなった。バルカン半島の戦乱以来明らかになったことである。そういう現実の世界の微妙な変化を吉本氏はどの程度意識していただろうか。

 そもそも先の戦争を意識するときにいきなり「戦争責任」という言葉につかまえられたということに問題があると私は考える。文学者のであれ誰のであれ、「戦争責任」などというものは初めから存在しない。この言葉は敗戦国を無力化するための一方的な宣伝語である。もし日本やドイツにこの語が当て嵌められるなら、それと同時に、同資格において、旧戦勝国の連合国にも当て嵌められなければならないのが「戦争責任」という語の本来の意味である。しかし吉本氏は「具体的に日本国の戦争は、ドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとの同盟による天皇制下の軍部の主導で推進された理念的な悪だから、これに参加したものに戦争責任がある」というようなことを書き記している思想家である。

 氏は歴史が善悪の彼岸にあり、戦争は地上から永遠になくならないだけでなく、明日にもわが国を襲わないとも限らない。それゆえ政治を防衛問題から考えるべきだという苦い認識に直面しないオプティミストの一面を持っている。先の引用につづけて氏は次のように言う。

 そこでは〈戦争〉の企ては不可能だし、〈戦争〉が悪だということは、現在まで存在するどんな体制や理念にも保留や区別なしに適用されるべきだ。〈平和〉が善であることも、どんな体制や理念にも、保留や区別なしに適用できるはずだ。現在の体制や理念の相違は、世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない。これははっきり言い切っておいた方がいい。

 ここで大切なのは、「世界中どこでも戦争行為に訴えるほどの意味をもっていない」と書かれている個所である。戦争は何らかの「意味」を訴えて初められているだろうか。意味は後から付けられはするが、わけが分からなく始まり、どうにもならない力に衝き動かされるのが常ではないだろうか。

 氏はつづけて「人間が地を這いつくばって戦い、銃器を手にし、血を流し、死を賭してやっていることは、現在では、どこでどんな崇高そうな理由が付けられていても、ただの暴力行為にすぎない。」と書いている。それはその通りである。私はそうであることを否定はしない。しかし「ただの暴力行為」はなくならないし、人類の愚劣は終らないし、それゆえにこそ国防問題を措いて政治は考えなれない。政治と文学などという暢気なことを言っても始まらない局面は、現代日本に迫っていると私は考えている。

 さりとて、思えばこれは吉本氏に限った話ではない。戦後の思想界は最初は圧倒的に文学者がリードした。知っての通り小林秀雄は戦争について利口なやつはたんと反省するがいいさ、私は反省なんかしないよ、と言った。この言葉は有名になり、戦後の保守思想界を動かす語り草となった。似たような発言は後の「政治と文学」(昭和26年12月)に出ていて、日本人がもっと聡明だったら、もっと文化的だったら、あんなことは起こらなかった、というようなことを言う知識人に向かって、小林は日本を襲ったのは正真正銘の悲劇であり、悲劇の反省など誰にも不可能だ、と喝破した。

 当時は「戦争責任」という言葉が吹き荒れていた。「反省」というのと同じ意味である。左翼の党派的欺瞞も横行していたのは先に述べた通りである。福田恆存「文学と戦争責任」(昭和21年11月)も、吉本隆明「文学者の戦争責任」(昭和31年)も、そこを正確に撃っているのは確かなのだが、しかしこれは小林とほぼ同じ認識でしかない。すなわち「反省」して歴史を変えられると思っている愚を戒めることにおいて三者はじつに峻厳だったが、そこに止まっていて、そこから先がない。あるいはそれ以前がない、と言ってもよかった。文学者の戦争に関するこれらの観念には何かが足りない。「反省」とか「戦争責任論」の虚妄を突いていることは確かで、間違った内容を述べているわけではないのだが、不足感が漂っているのである。すなわち、あの時代の日本の選択、開戦に至る必然性、戦争指導の理想的あり方が他にあったのではないかという可能性の追求、そういうことがなされていない。

 吉本隆明氏も他の同時代の保守系文学者も、日本の戦争の正しさの認識を歴史を遡って検証する意思を抱いていなかった。私は13歳、中学一年の昭和23年に東京裁判の判決文を新聞から切り抜いて日記帖にはりつけ、日本が勝っていたらマッカーサーが絞首刑になるはずだった、と書いていた。私は子供の言葉で歴史は善悪の彼岸にあり、敗北したがあの戦争は正しかったと言っていたのだ。その頃からずっと同じ認識でいる。「戦争責任」というような言葉は終戦まで存在せず、占領軍が持ち込んだ言葉だったことを子供心に知っていた。戦前戦中派はどうしても宿命的に「戦争責任」などという語に囚われるが、そこから先があるはずだ。そんな言葉はもうどうでもいい。私はそう認識していたし、今もそう考えている。

「吉本隆明氏との接点」(三)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 四度目の接点は、最近の原発事故をめぐってである。吉本氏の発言はいわゆる保守派を喜ばせた。さすが吉本さんだ、偉いの声もあった。これに反し、私の脱原発発言はいわゆる保守派の中で孤立し、今も孤立している。ここで保守派というのは石原慎太郎、櫻井よし子、渡部昇一、中西輝政、西部邁、小堀桂一郎、森本敏、田母神俊雄などまだまだたくさんいる国家主義的保守言論人のことで、名の無い、無言の保守的一般社会人のことではない。

 私は「現代リスク文明論」(『WiLL』2011年11月号に次のように書いている。

 過日、NHKのテレビ討論で原子力安全委員の奈良林直さんという方が「使用済核燃料の再処理の技術は、人類の2500年のエネルギー問題を一挙に解決する道である」と、胸を張って高らかに宣言するように語ったのを、私は呆気にとられて見守った。大きく出たものだと思った。プロジェクトが現に目の前で行き詰っているというのに、あまりに楽天的なもの言いに、他の発言者たちからただあちに反論がなされていたが、この言葉は私には、戦後ずっと原子力の平和利用にかかわってきた人々の、幻想的進歩信仰をさながら絵に描いたような空言空語に思われた。これこそまさに、中国の鉄道官僚にどこか通じる、足許を見ないで先を急ぐ前進イデオロギーの抽象夢にほかならないと私は思った。

 私が本稿で語った「現代リスク文明」は、工業社会の失敗なのではなく、その成功ないし勝利の帰結としての自己破産にほかならない。現代はいろいろな分野で「進歩の逆転」ということが起こっている。便利なものを追い求めた結果、便利が不便に、自由が不自由に転じるケースは無数にみられる。貧しい時代に「学校」は解放の理念だったが、いつしか抑圧の代名詞になった。「脱学校」という解放の理念からの解放が求められる逆転が起こっている。

 同じようなことが多数ある。原子力の平和利用も鉄腕アトムの時代には解放の理念だったが、自己逆転が生じた。発達が自己破壊をもたらした。

 1938年に『「反核」異論』を書いた吉本隆明氏は最近、「技術や頭脳は高度になることはあっても元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発はやめてしまえば新たな核技術も成果もなくなってしまう。事故を防ぐ技術を発達させるしかない」(毎日2011年5月27日)と語った。これは正論である。

 かつて、文学者が集団で反核運動を行い、アメリカのパーシングⅡ配備には反対しつつ、ソ連のSS-20には何も言わなかった中野孝次氏らの単眼性を戒めた吉本氏らしい言葉であり、私も「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍(わざわい)はその技術のより一層の進歩でしか解決できない」と書いたことがあり、原則的に同じ意見ではある。鉄道や航空機等の事故はたしかにこの範疇(はんちゅう)に入り、失敗は進歩の母であり得るが、しかし原子力技術はそういう類の技術ではないのではないか。

 どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がつきまとう。失敗のない実験はない。失敗から学んで次の進歩に繋ぐ。しかし、唯一回の失敗が国家の運命にかかわるような技術は技術ではないのではないか。吉本氏は、「進歩の逆転」が起こり得る現代の特性にまだ気がついていないのではないか。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ――そんな確立はあり得ないが――リスクは無限大に等しい。それが原発事故なのである。

 私は宇宙開発にも、遺伝子工学にも、生体移植手術にも疑問を抱いている人間である。今詳しくは述べないが、人類は神の領域に立ち入ることを許されていなかったはずだ。制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に墜ちていうるのを、まだこの程度で食い止めていられるのは、偶然の幸運にすぎない。

           記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

吉本隆明氏との接点(二)

飢餓陣営38 2012年夏号より

 二度目の氏との接点は私からの依頼原稿であった。白水社版ニーチェ全集の『偶像の黄昏』『アンチクリスト』が全集から切り離してイデー選書という名でやはり白水社から1991年3月に刊行された際に、私は吉本氏に解説をお願いした。

 解説「テキストを読む――思想を初源と根底とから否定する」は約25枚の分量のしっかりした内容の評論であった。この機会に氏に直にお目にかかっておけばよかったのに、と思うが、編集者を介しての挨拶で終わり、私から接近しようとあえてしなかったのはいつもの私の悪い癖、いずれそのうち機会があるだろうと先送りする怠惰なためらいのせいだった。

 氏のこのニーチェ論に対する私の評文は残されていない。ただ今一読して、問題を孕んだ、深い内容の充実した一文であることを証言しておく。異見は紙幅がないのでここでは述べられない。

 吉本氏と私の三度目の接点は、オウム真理教事件をめぐってで、「『吉本隆明氏に聞く』への意見(上)」と題した短文(『産経新聞』1995年9月25日夕刊)である。新聞記事だから、麻原被告に対する「理解の表明は不要」「麻原の混乱に手貸すだけ」の見出しがついていた。全文を紹介する。

 詩人・評論家の吉本隆明氏が四回にわたって麻原被告の思想を産経新聞紙上で分析したことに対し、同紙から意見を求められた。

 吉本隆明氏は麻原彰晃について、その「存在を重く評価している」「マスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」「現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないか」とさえ言っている。これに多くの新聞読者が愕然とし、いらだっているようだ。私は愕然とはしていないが、三点ほど氏に申し上げてみたい。

 麻原が氏の言う仏教の系譜上、「相当重要な地位を占める」「相当な思想家」であるなら、氏が新聞という公器を使ってあえて評価し、応援しなくても、麻原の思想はいつか必ず蘇るだろう。邪教でなく本物の宗教なら、十年後にでも二十年後にでも発掘する者が出て、再生するだろう。

 しかし麻原は今は、史上例のないテロリストの首謀者として裁かれようとしている。吉本氏も「彼の犯罪は根底的に否定する」と言っている。だとしたら、今はすべて法の裁きの必然に任せ、果たして彼が法的に否定された後でイエスのようの宗教的に蘇るか否か――誰の助けを借りずとも蘇るときはそうなる――黙って判断を未来に委ねれば良いのではないか。

 吉本氏のように、麻原に裁判の過程中に宗教的世界観を語って欲しいなど願望を述べる必要はないのではないか。語るべき世界観が麻原にあるなら、彼は確然と語るであろう。なければそれまでであろう。外野席で応援する必要はない。つまり外から理解を示してやる必要はないということだ。理解の表明は彼の犯罪行動の規模から見て、彼のこれからの覚悟の形成にも本物の宗教であるか否かの論証にも、有害でさえある。

 私自身は麻原の宗教上の教義に立ち入る関心を持っていない。大半の国民は私と同じだと思う。吉本氏が思想家として、教義内容に関心を持つのは自由だが、それを公表するか否かには、時宜と所を得なくてはならない。麻原には「本当はまだ不明なところはたくさんある」と氏自身が留保をつけている以上、関心と関心の表明とは別でなくてはならない。新聞紙上の氏の関心の示し方は、明らかに麻原の肯定であり、評価であり、礼賛でさえある。留保の程度をはるかに超えている。

 次いで、吉本氏は親鸞の造悪論を取り上げ、「善人より悪人のほうが浄土に行ける」という言葉を重視しているが、しかし親鸞は弟子たちに次々に殺人の実行を勧めたわけでも、自ら殺人計画の立案者になったわけでもないだろう。弟子達が悪を犯したほうが浄土に行けるのかとストレートな疑問を述べたとき、「良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう」と親鸞がたしなめた、と吉本氏自身が過日述べている。つまり親鸞は、自らの内部に問いを立て、その問いの前に立ち尽くしている。一つの答を出してもそれは直ちに否定される。罪を犯したほうが救われるのではないか。これはどこまでも問いであって、安易な答などあろうはずがない。答えが新たな問いを誘発し、果てしなく繰り返される。それが真の信仰者の態度ではないだろうか。そして吉本氏自身がそのように親鸞を語っているのではないのか。

 一体どうして殺人は悪なのかと疑問に思い、そういう問いを問い続けていくことは哲学的にも大切だが、そのことと実際に殺人を犯すこととの間には無限の距離がある。ラスコーリニコフはついに実行してしまうが、実行後にも果てしない問いが彼の後を追いかけてくるのは周知の通りである。いとも簡単に他人の生命を次々ほいほい葬るよう命じたと伝えられる麻原の行動は、親鸞にも、ラスコーリニコフの誰にも似ていない。ここには宗教上の自覚的行為とは別の問題がある。

 最後に「開いた」社会、自由な文明にはつきものの、現代テロリズムの恐怖について一考しておきたい。

 現代はあまりにも自由で、ぶつかっても抵抗の起こらない無反応社会、声をあげても応答のない沈黙社会である。人はあえて、意図的に違反に違反を重ね、自ら「抑圧」を招き寄せようともする。そうでもしなければのれんに腕押しで、自分をしかと受け止めてくれるいかなる「仕切り」にもぶつかりそうにない。としたら、自ら平地に波乱を起こして、敵のない世界に敵を求め、「仕切り」に突き当たるまで暴れてみるしかない。オウム真理教の出現した背景はこれである。そのような社会で、吉本氏のように、テロリストに対してやさしい理解、心ある共感を示すことは、ひたすら彼らと当惑させるだけであろう。彼らは固い、強い「仕切り」をむしろ欲しているのだ。「地下鉄サリン」をやってさえも理解を示す知識人のいる甘い社会に彼らは実は耐えられない。その甘さがついに「地下鉄サリン」を誘発したのではなかったか。吉本氏の発言は、逆説的な言い方だが、麻原を理解しているのではなく、彼の混乱に手を貸しているだけである。

つづく

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(三)

わしズム 文明批評より

(三)行き詰る略奪資本主義

 アメリカが中国大陸でしたことは商品経済ではなく、鉄道や橋や工場を作って、高利の利ざやを稼ぐ投資経済だった。ベストは鉄道建設だが、有利な路線はすべてイギリスが押さえていたし、満洲は日本とロシアが握っていたので、アメリカがしたのは金融による間接システム支配だった。が、必ずしも成功したとはいえない。あれほど大きな援助を惜しまなかった蒋介石政権を、戦後あっという間に見限って、大陸を毛沢東支配に委ねて知らん顔をしてしまった。このアメリカの行動の不可解さは、ひとえに「領土」に関心がないという動機に由(よ)るのではないだろうか。反共という政治の原理からは説明できないし、理解もできない。

 他国の領土と住民を支配するのは容易ではなく、コストもかかるし血も流す。1945年以後も世界はその不合理にしばらく気がつかなかった。フランスやオランダは植民地支配の継続にこだわった。しかし金融資本主義の道をひた走っていたアメリカは脱領土的なシステム支配の方式をもって世界に範を示し、GNPやGDPといった経済指標が領土の広さに代わる国力の表徴であることを証明してみせた。

 スペインを皮切りに、オランダ、イギリス、フランスへと展開した資本主義は、基本的に「領土」に執着し、そのためにたびたび戦争が起こった。それは低開発地域で少しでも安い資源を手に入れ、先進国が加工して高く売ることに、狙いがあったからだ。イギリスがインドを統治し、綿花を作らせ、本国で加工して植民地に高く売りつける等は露骨な直接支配だった。資源だけでなくマーケットもまた囲いこまれた略奪のシステムだった。「略奪資本主義」が資本主義というものの本来の姿なのかもしれない。そしてそれは今に至るまでずっとつづいているのは石油の争奪に現われている。

石油産出国の反乱と先進諸国の巻き返し

 永い間石油生産国には価格決定権がなかった。価格はいわゆるメジャーが決めていた。1945年以後ごく最近までは石油の時代、石油を支配したアメリカの時代がつづいた。石油に関しても他の資源と同様に産出国に自主決定権のない「略奪資本主義」が成立していたのである。

 1973年に石油危機が起きた。産油国が価格決定を自分たちの手で握ろうとして結集し、OPEC(石油輸出国機構)を建ち上げた。先進国にとり「領土」はなくてもよいが「資源」が重大であることは変わらない。資源の中の資源ともいうべき石油が必ずしも先進国側の自由にならなくなり始めた。OPECの成立は略奪資本主義の歴史の中で革命的なことであった。

 スペイン帝国からこのかたずっと、イギリス、フランス、オランダの東インド会社を経て五百年間も、遅れた国や地域から先進国が安い資源を買い上げて、これを加工して、付加価値をつけて高く売ることで成り立っていた資本主義の支配構造に初めてNO!をつきつけたのがOPECであった。歴史をゆるがすような出来事なのだ。

 日本を含む先進国側はこれに対し巻き返しを図ってきて、一定の歯止めをかけているが、あの頃から資源国はたしかに有利になっている。世界の先進国の企業は次第に儲らなくなっている。資源の高騰した分だけ従業員の賃金がしぼりこまれているこの二十年間の統計表を見たことがある。日本の長期低落傾向もこの必然の流れに沿っている。

ユーロによる支配からドルを守るためだったイラク戦争

 日本が戦後六十年、モノづくりの総力を結集してせっせと勤勉に働いてためた資産は15兆ドル、仮に分り易く1ドル100円とすれば1500兆円である。これだけあるから、政府が赤字国債を積み上げて1000兆円を越えても、民間資金がまだそれを上回っているから何とか辛うじて破局にいたらないで済むのだとしばしば説明されるあの額、ひところ世界からたいへんに羨ましがられた国民の血と汗の結晶の総額である。

 ところがモノづくりで勝てないアメリカは金融資本主義の道をひた走って、今度は何とか新たに脱資源的システム支配を目指し、EUもまきこんで過去十三年間の短い期間で何と100兆ドル、1ドル100円とすれば1京円、しかもレバレッジをかけて倍増させ200兆ドル、2京円の根拠なきカネを空(くう)につくり出した。七十年前にアメリカ通の山本五十六司令長官にも見えなかったアメリカの暴走が、歳月を経てまたまた急転回している。

 今度もまたしてもアメリカと西欧諸国との間では歩み方に微妙な違いがある。イラク戦争はユーロとドルの通貨戦争の趣きがあった。イラクの石油の直接支配は必ずしもアメリカの戦略の中になかった。アメリカの中東石油依存度は10パーセントぐらいで、決定的な大きさではない。中東の石油売買がユーロ建てになって、基軸通貨としてのドル支配が壊れるのは破局だという危機感がアメリカにはあった。これがイラク戦争の原因である。ユーロからドルを守るために、戦争を起こしながら、世界を間接支配しようとするアメリカ一流の戦略であったと考えられる。

 七十年前とは異なり、アメリカは今度はイギリスと組んで、ドイツやフランスが主導するEUをゆさぶる戦法に出ているかにみえる。また石油産出国による「略奪資本主義」に対する革命的挑戦にどう対応するかが、目下のあだ疎(おろそ)かにできない焦眉(しょうび)の急である。いったん産油国に握られかかった価格決定権は、知恵ある金融資本家たちの手に再び取り戻され、「先物取引」という手が用いられて、先進国に押さえられ、価格はニューヨークとロンドンが決めるという金融支配のシステムがさしあたり確立している。

実態からかけ離れ以上の膨張したカネ

 しかし地道なモノづくりから離れた金融資産はどんどんふくらむ一方で、数字的に異常な規模になっていることは先に見た通りである。これは2008年のリーマンショックを招いた。EUはアメリカ以上に空虚なカネづくりをしたので、ついに2011年のギリシアに端を発する現下の崩落寸前の危機に至った。

 実態経済からかけ離れた空虚なカネが足許に逆流し、アップアップして溺れかかっているのはアメリカも同様である。むしろアメリカに始まったのである。五百年の歴史を持つスペイン帝国以来の「略奪資本主義」は間違いなく行き詰っている。現代は近代以前からの歴史の大転換期といっていい。日米戦争よりすでにあったアメリカの病的な膨張拡大志向がこのままつづくか途絶えるかの屈折点である。

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(二)

わしズム 文明批評より

(二) 領土を必要としないアメリカ

 話題はとぶが、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロで、一極集中を誇っていた超大国アメリカがにわかに浮き足立つ事態から21世紀は始まった。2003年3月にイラクで戦争が始まり、五年後の2008年にリーマンショックと呼ばれた金融危機が起こった。このごろ中国の台頭が目立つ一方、2011年にEUに金融不安が飛び火した。目まぐるしい現代史のこのわずか十年間の動きが、山本五十六の生きたあの時代の世界史の動きとどこでどう関連していたかを大胆に推理し、考察してみたい。

 19世紀のアメリカはまだ一等国ではなく、産業資本主義国家としてもイギリスやフランスに遅れをとっていた。アメリカがイギリスに追い迫ったのは1898年に米西戦争でスペインを打ち破ってフィリピンを領有し、ハワイを併合して以来だった。イギリスは西太平洋に艦隊を撤退させてアメリカに太平洋の覇権を譲った。日本は日清戦争で台湾をかち得ていたので、このとき早くも日米対決の序幕が切って落とされたかたちだ。けれどもアメリカが若いエネルギーで成し遂げようとしていたことは、さし当りまずイギリスを追い越すことであり、そのためにイギリス、ロシア、フランス、ドイツが分割を開始していた中国大陸への進出を果すことだった。アメリカは中国大陸への関与に出遅れていた。大陸へ向かう途中にあってみるみる実力をつけ台頭していた日本の海軍力がともあれ目障りだった。はじめ軽く考えていたが、容易ならざる相手であることに気づいた後も、インディアンやフィリピンを掃蕩(そうとう)してきた遣(や)り方と同じ方針を根本的に変えるつもりはなかった。

なぜアメリカは中国大陸を目前にして侵略しなかったか

 とはいえこの点で興味深いのは、フィリピン支配まではストレートに武力にもの言わせたアメリカの侵略行動は、中国大陸をいよいよ目の前にしたときに、あるためらい、というより方針変更を余儀なくされたことだった。主にロシアとイギリスが西方からすでに大きく進出していた大陸では、武力を用いるのに有効な時期を失していた。アメリカはここで屈折し、足踏みした。で、三つのルートから大陸に迫ることとなる。(一)満洲進出を手掛かりとする北方コース、(二)上海を中心とする中国の中央部に文化侵略するコース、(三)フィリピン、グアムを拠点にイギリス、オーストラリア、オランダとの合作による南太平洋の制覇を通じて南方から軍事介入するコース、いずれのコースでも邪魔な障害物は日本であった。(三)がもちろん日米衝突の最終局面である。

 白人文明はスペイン、ポルトガルの覇権時代から、自国の外に略奪の土地、奴隷的搾取の領土を求めることを常道とする。これをもって最初は重商主義国家として、オランダ、イギリス、フランスの覇権時代には産業資本主義国家として勢威を確立した。植民地主義とはそういうものと理解できるが、アメリカは例外で、自国の外に奴隷の地を確保する必要がまったくなかった。下層労働力は国内で充当されていた。それにアメリカはすでに最初から領土広大で、資源豊富、しかも人口は西欧や日本に比べてなお稀薄で、そもそも膨張する必要のない国であった。

アメリカによる新しい支配の方式とは

 膨張する必要がないのに「西進」という宗教的信条に基いて膨張する国だった。西へフロンティアを求めて拡大するこのことは「マニフェスト・ディスティニー(明白なる宿命)」という神がかりのことばで呼ばれていたが、これは厄介で危険な精神である。列強が中国大陸で争って根拠地を占めようとすることに、アメリカは冷淡だった。その必要がなかったからで、列強同士の競争はアメリカには不便だった。そこでこの国は独自の対中政策を割り出し、脱領土的支配の方式、ドルの投資による遠隔統治の方針を考え出した。

 アメリカは20世紀の前半に三回、国際社会にこの方式を訴えて、軍事力で威圧しつつ、外交的勝利を収めた。第一回目が1899年の国務長官ジョン・ヘイによる三原則、中国における領土保全、門戸開放、機会均等の、日本を含む六カ国への提案である。第二回目は第一次大戦後のパリ講和会議における民族自決主義の提唱、第三回目は第二次大戦直前のルーズベルト=チャーチル船上会談で結ばれた大西洋憲章の締結である。ひとつひとつは事情を異とし、日本に與影響もそれぞれ異なるが、面白いのはイギリス潰しということで一貫して共通していたことが、今のわれわれの時代になってはっきり見えてきたことだ。すなわち西欧列強の植民地主義を不可能にしていく有効な「毒薬」だった。しかもアメリカ一流の正義に基く「きれいごと」でこれを宣伝し要請した。

 イギリスを倒すのに武力を用いる必要はない。アメリカは自分が必要としない「領土」「下層労働力」「直接的搾取」を西欧各国に美しいヒューマニズムの名において封印することにより、にわかに「いい子ぶり」を示す明るいアメリカニズムの旗の下(もと)に、西欧各国を弱体化させることに成功した。西欧諸国が二つの大戦で疲弊したという事情もある。ユダヤ金融資本がイギリスからアメリカに『移動したという条件の変化があり、これが決定的だったかもしれない。

 大戦前日本の指導者にイギリスの行動は理解し易かったが――少し前まで同盟国で、互いに利にさといギブ・アンド・テイクで結ばれていた――、アメリカの出方がまったく先読みできなかったのは、利害関係で判断できない、覇権願望国の「心の闇」が見えなかったからである。イギリス人にも読めなかったアメリカの「心の闇」が日本人に読めるわけがない。日露戦争のあと、1907年頃から日米関係が悪化したことはよく知られている。ワシントン会議(1922年)からロンドン軍縮会議(1930年、35年)を経て、日本は正義のきれいごとを唱えるアメリカ、そのじつ武力と金融力とで世界を遠隔操作する新しいシステム支配を目指すアメリカに翻弄されつづけることになる。

つづく

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(一)

わしズム 文明批評より

(一) はじめは、互いに戦争するつもりのなかった日米

 『聯合艦隊司令長官山本五十六』という映画を見た。いくたびも映画になった人物であるが、今回は原作本(半藤一利氏)のせいもあって、平和をひたすら願っていたが果たせなかった悲運の将として描かれていた。画像の全体に日本の戦争を歪(ゆが)めて描くようなわざとらしい自虐的解釈がなかったのはせめてもの救いだった。

 気になったのは、一貫して山本は歴史の悲劇的結末を見通していたと言わんばかりの、時代を超越した自由な人物のように扱われていた点である。そんなことはあり得ない。日独伊三国同盟に対する彼の反対がくどいほどに強調され、英米支持の平和派だったのが心ならずも開戦の鍵を托(たく)された、という筋立てに描かれていたが、それならなぜパールハーバー襲撃だったのか。彼以外の海軍中枢は日本列島周辺をがっちり固める守りの陣形を考えていたはずである。それなのに、大空のような広い太平洋に日本の主要兵力をばらまいてしまうあんな無謀な戦略を考えつき、国家の破局を早めてしまったのは山本ではなかったか。

 詳しい戦史に通じていない私でも、納得できないのはアメリカに留学し海軍随一のアメリカ通として知られていた山本が、かの国の久しい戦意、かねてから日本の狙い撃ちを図っていた殲滅戦(せんめつせん)への意志を見落としていたことである。それからもう一つは、日本はどうせ火蓋を切ったのならなぜハワイ占領を考えなかったのか。あるいはパナマ運河の破壊までやらなかったのか。当時アメリカ側にも日本軍の行動の予想をそこまで考えていた記録がある(拙著『GHQ焚書図書開封』参照)。山本のやったことは気紛(きまぐ)れで、衝動的で、不徹底であった。私が遺憾とするのはその点である。しかも太平洋を攪乱しておきながら「平和」を願っていたなどというのは噴飯ものである。

イギリスとは戦争になるかもしれない

 山本の失敗といえば、その後のミッドウェーやガダルカナルの惨敗もあり、私は彼を名将とも英雄とも考えることはできない。しかし、本稿は山本五十六論ではない。彼のようなアメリカ通にも当時の日本人がアメリカの出方を読むことはできなかったのが私の目を引くのである。短期決戦の「限定戦争」でできるだけ早期に講話にもちこむつもりで開戦したのがあの頃の大半の日本人の予測である。しかし日本人がそう思わざるを得ないような(迷わざるを得ないような)理由が当時の国際情勢にはそれなりにあった。日本人は昭和14年(1939年)くらいまで、アメリカが対日戦争に本気で踏み込んで来るとは思っていなかった。

 あるいはイギリスとは戦争になるかもしれない、と考えていた人は多かったであろう。アメリカとイギリスとは今とは違い、まったく別の国だった。イギリスのほうが超大国だった。日米間には貿易などの数量も大きく、アメリカが経済上の利益を捨てて、さして理由のない対日戦争(今考えても目的や意味の見出せない日米戦争)に敢えて踏み込むとは考え難(にく)かった。『日米もし戦わば』というような不気味な題名の書物が両国でもよく出版され、売れていたが、半ば面白半分であって、両国ともに「まさか・・・・本当に?」と疑わしい気持ちだったのが現実である。

つづく

ありがとうアメリカ、さようならアメリカ (五)

Voice6月号より 戦争へ向かう東アジア

同盟国を「最国家」へと向かわせる日

 ロシアのプーチン大統領が最近、核武装をしていない国は主権国家と認めない、という思い切った発言をしたが、不気味だが、真実の一面を言い当てて余りがある。北朝鮮はいったい何を目指して来たのか。日本ははたしてあの国を笑えるのか。4月13日のミサイル発射騒ぎの一件は日本の運命をいわば裏側から暗示し、喜劇を演じているのはそもそもどこの国かを通説に風刺した一光景であったといってよいであろう。

 明日アメリカが覇権の座を降りるわけでも、ドルが基軸通貨でなくなるわけでもないとしても、明日でなければ明後日、明後日でなければ次の日へと、現実の変化は少しづつじりじりと動いている。アメリカが中国をリベラルな民主制度に作り替えるだけの力がないことははっきりしている。韓国、台湾、トルコ、サウジアラビア等へのアメリカによる安全の約束に関してすでに信頼性に疑いが生じており、それらの同盟国を庇護するのではなく「再国家」へと向かわせる必要をアメリカ自身が認める日は近づいている。アメリカはNATOから抜けて、ヨーロッパから軍事力を撤退させ、EUを独立したパワーとして、その周辺の権益を自分たちで守れるように責任を委嘱する決断の日もそう遠くはないだろう。

 アメリカが日米安保条約を破棄し、独立した大国としての日本に進んで報復核抑止力を与え、海上輸送ルートや海上領土主権を守るための軍事力の充実に強力することが、アメリカの国益であるということに否応なく気づく時期は遅かれ早かれやってくる。われわれはそれをただ無為に待つのではなく、それには相応の準備、一年や二年ではできない心の用意と法制度の改変と整備が至急求められることは、改めて言うまでもない。

 超大国としてのアメリカが冷戦中、日本経済の再生のために尽くしてくれた功績は大きく、ヨーロッパも同様の感謝の念を抱いていよう。19世紀末以来つづいた一極集中の覇権構造は多くの災禍と破壊をもたらしたが、稔りある創造と繁栄をも招来した。それが終わりつつあることが世界にとっての新しい季節の到来であることを知り、転換に恙(つつが)なく、遅滞なく遂行されることを期待してやまない。

ありがとうアメリカ、さようならアメリカ (四)

Voice6月号より 戦争へ向かう東アジア

日本と中国が支えた「アメリカ国債本位性」

 これからまだ10年か15年くらいはアメリカに代わるスーパーパワーはすぐには出てこないだろう。今まで何かとアメリカの力に庇護され、利益を得て来た国々は――日本もその一つであるが――容易に頭を切り換えることはできないかもしれない。しかし、そう遠からずして徐々に世界は必然的に多極化し、平和を維持する方法は再び十九世紀ヨーロッパのように同盟と同盟が競合するかたちになるのか、あるいはまったく別の形式が模索されるのか、今のところ予想がつかない。

 ただ一つはっきり言えることは、晩かれ早かれ超大国であることを止めるであろうアメリカから日本はゆるやかな形で離れ、独立する準備をすることがいかに必要かということである。そしてそのことがまだ分からないのは親米保守と護憲左翼が手を組んでいる大手マスコミの、ものを考えない言論体制である。日本はアジア・アフリカ諸国の中で唯一欧米の植民地にならなかった例外国と称され、自らもそう任じてきたはずだが、事実はまったく逆であった。アジア・アフリカ諸国がすべて解放され、地上から植民地がなくなった時代が来たというのに、日本一国のみが政治的・外交的・軍事的・経済的にアメリカ一国に植民地のごとく服属している異様さは疑うことができない現実である。それはドイツと日本が冷戦の中段階で、NPT(核不拡散条約)が生まれた1970年代に、核を持たない国として特定され、封じ込められ、いわば「再占領」状態に陥ったことに由来しているといっていいだろう。

 中国が核実験に成功したのは1964年である。インドは1974年であった。イスラエル、パキスタン、北朝鮮と中小国にまで核保有国が広がるにつれ、大国独占が狙いのNPT体制は事実上、存在理由を失ったが、それでもアメリカはドイツと日本を保有国の仲間に誘いこもうとはしない。第二次大戦の勝敗が世界を呪縛する重い縛りは、戦後の平和が長くつづいたことも原因しているように思える。戦争と平和をめぐる世界中の人々の問題意識が戦後も早いある時期から以後、ピタッと動かなくなってしまったのである。それをいいことにアメリカは経済力を急速に落としているのに、覇権国の地位を脅かされないでいる。それも核の威力である。

 ドイツは今のところ直接の脅威を受けていないから比較的安全である。惨めなのはわが日本である。北朝鮮のミサイル騒ぎをバカバカしい子供の火遊びであるとアメリカや中国やロシアならば笑いとばすことができるが、日本はそれさえもできない。笑いたくてもその資格がないのだ。

 アメリカが覇権国でありつづけるのは軍事力だけではなく、基軸通貨発行権を保持している特権のゆえでもある。今までのところ米ドルに抵抗し、取って替わる勢いを一時的にでも示したのはユーロだけであった。2008年の金融ショックでドルの権威が揺らいだとき、ユーロ、円、ルーブル、ポンド、人民元、あるいはそれらを混合したバスケット方式が取り沙汰されたが、結局今までのところ他に代替はなく、基軸通貨が再びドルに戻ったのは、アメリカによって戦争をも辞さない並々ならぬ決意が示されたせいでもある。

 ギリシアを初めとする南欧諸国の財政危機でユーロがいま解体の不安にさらされている。EUには結局、一国家としての主権がなく、政治権力の所在が不明である。貨幣の信用を支えるのは権力である。権力は軍事力と切り離せない。NATOを握っているアメリカはヨーロッパ諸国が市場統合と通貨統合を果たすところまでは認めても、EUが国家になることを認めようとはしない。EUが揺らいでいるのは必ずしも経済が原因ではない。

 主権が相互にせめぎ合って乱立しているヨーロッパが容易に政治統合を達成されないことは、ユーロ不参加国イギリスが身をもって示しているように、EUのそもそもの最初からの運命であった。オランダのジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンが言っていたが、EUは官僚国家で、その官僚が国家意識を持たない烏合の衆である点で日本という国家に似ている、と。これは日本に対する痛烈な皮肉でもあるのである。

 基軸通貨ドルはさしあたり安泰なように見えるが、アメリカの実体経済が示すところは、先行き不安を告げている。そもそもアメリカ国内にドルへの不信が渦巻いている。金本位制に再び戻るのではないかという噂もあるほどである。そのせいかアメリカは着実に金の保有量を高め、2011年末において8133トンで、二位のドイツの3401トンをはるかに凌駕している。日本はわずか765トンで、やっと八位であり、世界最大の債権国の名が泣く不用意といっていいであろう。しかしアメリカがいくら金の保有量を高めても、世界中に乱発ドルが溢れ返っていて、新ドル紙幣に切り換え旧ドル紙幣の無効宣言でもしない限り――そういうことをすれば戦争になる――再び金本位制に戻るなどということが簡単に現実の話になるとは思えない。

 アメリカは金本位制を捨てた以後、いったい何を本位にしてドルの支えとしてきたかというと、煎じつめると「アメリカ国債本位制」に切り換えたといってよく、これは言ってみれば一種のペテン経済にほかならない。周知の通り、アメリカ国債は日本と中国がしこたま買い込んでアメリカ経済を支えている。中国はいつでもこれを売ることができるが、日本は売ることができない仕組みになっていて、アメリカの浮沈といわば運命を共にしている。

つづく

ありがとうアメリカ、さようならアメリカ (三)

Voice6月号より 戦争へ向かう東アジアシリーズより

EUより御しやすく、簡単に脅しがきく日本

 以上の事実から、アメリカの一極構造の優位性への意志は第二次大戦よりはるか前から、一説には1890年代に始まり、戦後の米ソ冷戦期間中にはソ連という競争相手がいたためにはっきりそれが見えなかっただけで、隠されていたのが今かえって見えだしているといえる。

 そう考えると、東アジアにおけるアメリカの支配意志の一貫性はむしろ戦前から明確だったことに思い至る。19世紀前半のメキシコ戦争など西へ進むこの国の本能的拡大志向については周知の歴史なのでここでは触れない。1898年の米西戦争の勝利でスペインからフィリピン諸島を奪って、太平洋はアメリカの海になった。日米戦争に至るすべての歴史はここから始まるので、日本人が自国の戦争の歴史を過度に反省的自虐的に解釈するのはまことに愚かである。アメリカは中国大陸を目指し、途中の邪魔な抵抗をことごとく抹殺しようとした。戦争を誘発したのはアメリカであって、日本ではない。が、いま戦争の歴史はここでの主題ではないのでこれ以上は論及しない。

 ソ連という悪役がいたために冷戦中アメリカの世界制覇の意志が日本人の目に隠されて、見えにくかったのはヨーロッパ人の場合とほぼ同様であるが、違うのはソ連が消えても、東アジアでは中国との冷戦がつづいていることである。冷戦後アメリカがドイツの復活を恐れ、抑えにかかっているのと同じように、東アジアでは日本を国際政治における「潜在的な敵性国家」(1990年、パパ・ブッシュ政権下の国家安全保障会議)と定義し、一貫して軍事的な自己決定権を持てない国に仕立てて、日米同盟を維持する目的をそこ見て、日本がアメリカに依存しつづける仕組みを作り上げてきたのはある意味でEUとの関係にも似ているが、EUより日本は御し易く、簡単に脅しがきく状況にあるのは、反日国家軍に取り巻かれた孤立した単一国だからである。

 ドイツは近隣諸国とスクラムを組んでアメリカに当たってきたが、東アジアはいまだにある意味で冷戦構造下にある。日本がアメリカへの依存を必要とする程度は、他のいかなる国にもみられないほどの悲劇的レベルであったし、今もなおあるので、日本国民は容易に自立自存の精神に立つことができない。それでも、アメリカがソ連や中国との対決姿勢を明確にしているときには日本は安定し、経済ナショナリズムを確立することができたが、そうでない場合には赤子の手が捻られるようにアメリカに翻弄される政治的外交的条件下にある。

 アメリカが悪魔的であるのは、表向き日米同盟を親和的関係のごとくリップサービスしながら、現実には冷戦の対象国と深く利害を共にする握手を交わしていることである。2003年に共産中国に江沢民政権、アメリカにクリントン政権が誕生した。クリントンは1200人の大型ミッションを引き連れて、北京に九日間も滞在し、ビッグビジネスを展開した。あれ以来、米中経済同盟が日米軍事同盟を空文化させた。衰弱するアメリカ経済が中国に首根を抑えられるような形に徐々に近づいているのは哀れむべき光景であるが、日本人はいま自らの政治的自立のために、この光景をしかと目を見開いて見つめなければならない。

 アメリカがこの十数年に日本にした仕打ちは、冷戦時代に日本を庇護し、米国市場を日本商品に開放した寛大さへの恩義をあっという間に忘れさせるほどひどいものであった。アメリカによる円高と人民元の安値固定化は、いくらアメリカ企業の必要に発していたとはいえ、まことにアンフェアな政策で、日本と中国の力関係をがらっと変えてしまった。そのことがアメリカの国益にも反するのではないかという疑いは今もつづく。中国と韓国の輸出気産業はだいたいが欧米系資本である。だからアメリカは自国の利益に目の色を変えて動いたのだと思うが、円高是正のための日本の為替介入にはいちいちクレームをつけ、中国や韓国の通過には寛大だった。日本は家電も車も円高でみるみる競争力を失った。

 ひところオバマ大統領は、G2と称して米中二カ国でアジアを支配しようなどと唱えた。中国は甘言に乗らなかった。オバマはその後ほどなく中国の脅威を再び言い出した。しかし習近平訪米に際し、型通り「人権」を俎上に載せたものの「人権」一般であって、チベットもウイグルも固有名詞はいっさい口にしなかった。

 オバマに限らず、冷戦後のアメリカの外交政策と軍事政策には、偽善性が著しく認められ、ダブル・スタンダードが目立ち、世界中至る処で大幅に信頼性を失っている。たとえ型通りであってもその昔アメリカの大統領は自由と民主主義を堂々と主張し、そこに独裁や共産主義の不正を排そうとする強い情熱が感じられたものだ。

 大戦と冷戦の両方が終わった今、一極構造の硬直した覇権意志を示しつづけた国はナチスでもソ連でもなくアメリカであったことが判明した。その明るさと公開性の裏に隠された一方的な独善性は、次第に世界を疲れさせ、飽きさせてきた。アメリカのある面での善さや強さや正しさはこれからいくらも回顧に値しようが、「世界政府」を自認した瞬間にあらゆる国は壁にぶつかるのである。

つづく