憂国のリアリズム (2013/07/11) 西尾幹二 |
いまや東京裁判の議論をやめよう、日本は大目標を抱け
安倍政権に欠けているのは世界的展望をもつ思想的哲学的主張である♪
西尾幹二『憂国のリアリズム』(ビジネス社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@「こうなることは分かっていた」
こうなる、とはどういうことか? それは米中の狭間に立たされる日本が「頼りにしていたアメリカがあまりアテにならないという現実が、やがてゆっくり訪れるだろうとは前から思っていた」と保守論壇の重鎮、西尾氏が述べる。
その通りになった。
アメリカは「尖閣諸島に日本の施政権が及んでいることを承知しているが」としつつも「尖閣の帰属に関しては関与しない」と言ってのけた。つまり中国がもし尖閣諸島を軍事侵略しても、アメリカは日本のために血を流さないと示唆していることになる。(もっとも、その前に日本が自衛しなければ何の意味もないが)。。。しからば、なぜこういう体たらくで惨めな日本に陥落したのか。
「そもそも原爆を落とされた国が落とした国に向かってすがりついて生きている」からである。日本は「この病理にどっぷり浸かってしまっていて、苦痛にも思わなくなっている。この日本人の姿を、痛さとして自覚し、はっきり知ることがすべての出発点、何とかして立ち上がる出発点ではないか」(49p)とされる西尾氏は、東京裁判史観の克服をつぎのように言われる。
「今さら東京裁判を議論する必要などない。東京裁判がどうだこうだと議論し、東京裁判について騒げば騒ぐほど、その罠に陥ってしまうからである。日本国民全員がより上位の概念に生きているのだという自己認識さえ持てば、それで終わるのである」。
「上位の概念」とは日本の伝統的思想、その宗教観である。西尾氏は現下の危機の深化に関して次のように続ける。
「中国が専制独裁国家のままであり続けていて、しかも金融資本主義国家の産業形態をも取り入れるというこの不可解なカメレオンのような変身そのものが、厄介なことに『ベルリンの壁の崩壊』のアジア版ということだった」と或る日、西尾氏は気がついた。
そして氏の認識は嘗ての歴史のパターンを連想させる。
すなわち「『ベルリンの壁の崩壊』から『ユーゴスラビアの内戦』へのドラマがやっと危険なかたちで極東にも及んできたのだ。私は昨今の情勢から、あり得る可能性をあれこれ憂慮を持って観察している」
その憂慮の集大成が、この論文集となって結実した。
日本が直面する未曾有の危機を克服するために如何なる道筋が日本に残されているのか。奇跡のようにカムバックした安倍政権は、「歴史的使命」を帯びて、「中国共産党の独裁体制の打破」に挑むべきであり、そのために憲法改正は必須であると説かれる。
ついでながら評者(宮崎)は「アジア版ベルリンの崩壊後のユーゴ」は、中国が仕掛ける尖閣戦争の蓋然性よりも、むしろ中国内部の大騒擾、すなわちウィグル、チベット、蒙古の反漢族騒乱が活火山化することだろう、と見ている。安倍政権で前途に明るさが見えてきたことは確かである。しかし「何かが欠けている」と西尾氏は嘆く。
強靭化プログラムは良いにしても、なにが欠けているのか?
すなわち日本の深い根に生い立った、「思想的哲学的主張が見えない」。日本には「世界史的な大目標が必要なのである」。こうした基調で貫かれた本書の肯綮部分は、評者(宮崎)の独断から言えば第三章である。
つまり日本の根源的致命傷に関しての考察で、第一にGHQが消し去った日本の歴史である。氏は過去数年、GHQの焚書図書を発掘し、それらがいかに正しい歴史認識の元に日本の国益を説いてきたかを縦横に解説されてきた労作群があるが、日本人のDNAから我が国の輝かしい歴史が消えてしまえば、GHQの思い通りに「敗戦史観」『日本が悪かった』「太平洋戦争は悪い戦争だった」ということになり、まして「旧敵国の立場から自国の歴史を書く」という恥知らずな日本の歴史家が夥しく登場し、負け犬歴史観で武装し、「日本だけの過ちをあげつらう『新型自虐史観』に裏打ちされた、面妖なる論客がごろごろと論壇を占拠し、テレビにでて咆える惨状を呈したのだ。
ようするに「戦後日本は『太平洋戦争』という新しい戦争を仕掛けられている」のだ、と悲痛な憂国の主張が繰り返されている。
一行一行に含蓄があり、いろいろと考えさせられた著作である。