宮崎正弘氏による書評

憂国のリアリズム 憂国のリアリズム
(2013/07/11)
西尾幹二

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いまや東京裁判の議論をやめよう、日本は大目標を抱け
  安倍政権に欠けているのは世界的展望をもつ思想的哲学的主張である

   ♪
西尾幹二『憂国のリアリズム』(ビジネス社)
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 「こうなることは分かっていた」
 こうなる、とはどういうことか? それは米中の狭間に立たされる日本が「頼りにしていたアメリカがあまりアテにならないという現実が、やがてゆっくり訪れるだろうとは前から思っていた」と保守論壇の重鎮、西尾氏が述べる。
 その通りになった。
アメリカは「尖閣諸島に日本の施政権が及んでいることを承知しているが」としつつも「尖閣の帰属に関しては関与しない」と言ってのけた。つまり中国がもし尖閣諸島を軍事侵略しても、アメリカは日本のために血を流さないと示唆していることになる。(もっとも、その前に日本が自衛しなければ何の意味もないが)。。。

しからば、なぜこういう体たらくで惨めな日本に陥落したのか。
「そもそも原爆を落とされた国が落とした国に向かってすがりついて生きている」からである。日本は「この病理にどっぷり浸かってしまっていて、苦痛にも思わなくなっている。この日本人の姿を、痛さとして自覚し、はっきり知ることがすべての出発点、何とかして立ち上がる出発点ではないか」(49p)とされる西尾氏は、東京裁判史観の克服をつぎのように言われる。
「今さら東京裁判を議論する必要などない。東京裁判がどうだこうだと議論し、東京裁判について騒げば騒ぐほど、その罠に陥ってしまうからである。日本国民全員がより上位の概念に生きているのだという自己認識さえ持てば、それで終わるのである」。
「上位の概念」とは日本の伝統的思想、その宗教観である。

西尾氏は現下の危機の深化に関して次のように続ける。
 「中国が専制独裁国家のままであり続けていて、しかも金融資本主義国家の産業形態をも取り入れるというこの不可解なカメレオンのような変身そのものが、厄介なことに『ベルリンの壁の崩壊』のアジア版ということだった」と或る日、西尾氏は気がついた。
 そして氏の認識は嘗ての歴史のパターンを連想させる。
 すなわち「『ベルリンの壁の崩壊』から『ユーゴスラビアの内戦』へのドラマがやっと危険なかたちで極東にも及んできたのだ。私は昨今の情勢から、あり得る可能性をあれこれ憂慮を持って観察している」
その憂慮の集大成が、この論文集となって結実した。
 日本が直面する未曾有の危機を克服するために如何なる道筋が日本に残されているのか。奇跡のようにカムバックした安倍政権は、「歴史的使命」を帯びて、「中国共産党の独裁体制の打破」に挑むべきであり、そのために憲法改正は必須であると説かれる。
 ついでながら評者(宮崎)は「アジア版ベルリンの崩壊後のユーゴ」は、中国が仕掛ける尖閣戦争の蓋然性よりも、むしろ中国内部の大騒擾、すなわちウィグル、チベット、蒙古の反漢族騒乱が活火山化することだろう、と見ている。

 安倍政権で前途に明るさが見えてきたことは確かである。しかし「何かが欠けている」と西尾氏は嘆く。
強靭化プログラムは良いにしても、なにが欠けているのか?
 すなわち日本の深い根に生い立った、「思想的哲学的主張が見えない」。日本には「世界史的な大目標が必要なのである」。

 こうした基調で貫かれた本書の肯綮部分は、評者(宮崎)の独断から言えば第三章である。
つまり日本の根源的致命傷に関しての考察で、第一にGHQが消し去った日本の歴史である。氏は過去数年、GHQの焚書図書を発掘し、それらがいかに正しい歴史認識の元に日本の国益を説いてきたかを縦横に解説されてきた労作群があるが、日本人のDNAから我が国の輝かしい歴史が消えてしまえば、GHQの思い通りに「敗戦史観」『日本が悪かった』「太平洋戦争は悪い戦争だった」ということになり、まして「旧敵国の立場から自国の歴史を書く」という恥知らずな日本の歴史家が夥しく登場し、負け犬歴史観で武装し、「日本だけの過ちをあげつらう『新型自虐史観』に裏打ちされた、面妖なる論客がごろごろと論壇を占拠し、テレビにでて咆える惨状を呈したのだ。
 ようするに「戦後日本は『太平洋戦争』という新しい戦争を仕掛けられている」のだ、と悲痛な憂国の主張が繰り返されている。
 一行一行に含蓄があり、いろいろと考えさせられた著作である。

『自ら歴史を貶める日本人』評(三)

宮崎正弘氏のメルマガから

このまま外国人労働者を放置しておくと、日本は確実に破壊されるだろう    警鐘を乱打する西尾氏の古典、中国に絞っての改訂バージョンが登場  ♪西尾幹二『中国人に対する「労働鎖国」のすすめ』(飛鳥新社)

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 このまま外国人移民を、とくに労働移民を無造作に受け入れていけば、日本の精神の紐帯はかくじつに破壊される。いや、現実的にはすでに多くの場面で日本が破壊されている。会社の会議を英語でおこなって得意がるバカ企業が目立つが、そのうち中国語でやるようになるだろう。 我が国の税金で東大に中国人が千名も留学しており、やがて日本国籍を取る者が増えれば、数十年先に官僚トップ、国会議員は隠れチャイナで横溢する日がくるだろう。中国はおそるべき対日侵略を、この移民問題に潜ませ、気がつけば日本国家は朦朧として足場を失い、日本文化の独自性を喪失、日本の精神陥没という凄まじき惨状に陥っていたことがわかる。目先の労働不足のために国を売った政治家、官僚。その旗振りを演じた堺屋太一、石川好らの軽薄無国籍言論人の責任が問われる。

 本書はEUの労働問題ならびにアメリカの不法移民を論じて、これが明日の日本の姿だと警鐘を乱打した『労働鎖国のすすめ』(1989年カッパブックス)に、中国の一章を書き足された増補改訂バージョンである。加筆の一章分だけでも82ページ分の分量がある。とくに表紙のデザインにおもわずゾッとさせられる。イナゴの大群が美田を食い尽くす。 イナゴの羽の裏は五星紅旗、それが日ノ丸を食いちぎり、穴を空けてボロボロにしているという、いやにリアリスティックは構造である。  このイナゴの大群の典型的な事件がふたつ、現実に日本でおきた。

 西尾氏はつぎを指摘する。 第一は北京五輪直前の聖火リレーが日本国内で行われたが、とくに長野。「中国の巨大は五星紅旗がコース周辺を埋め尽くし、ささやかな抗議をしていた日本人や在日チベット人に、中国人が巨大な旗竿をふりかざして殴る、蹴るの乱暴狼藉を働き、重傷まで負わせた」ところが日本の警察は中国人の横暴を無視した。この大量動員は「中国大使館と密接に繋がっていた」のだった。大使館の指導の下、五千人の中国人がバスを仕立てて長野にやってきたのだ。 第二は逆に「東日本大震災時には、中国人が我先にと大挙して、日本を逃げ出すということがおこった。これも中国大使館が数十台の大型バスを東北四県に派遣し」、ネットや携帯電話網を通じ空港などにあつめての集団脱走劇。つまり何かが起こると、「在日中国大使館が司令塔になり、統一行動をする」という「不気味な行動」ぶりが露呈したことである。

 今後、このイナゴの大群をいかにして日本から排斥するか、いやそんなことが出来るのか。深刻な問題が示された。    
 
文章:宮崎正弘
  

 宮崎正弘氏の上記書評(3月29日付)に対して、5月31日の同氏のメルマガの読者の声の欄に、次のようなオピニオンが載った。ここに出てくる(FK氏)の私への批判を私は観ていないし、これがいかなる人物かも予想がつかない。ただ拙著を読まないで書いた感情論にすぎないことが判明した、と書かれてもいる。

(読者の声2)いささか旧聞ですが、貴誌3月29日の、西尾幹二氏著の書評(『中国人に対する「労働鎖国」のすすめ』(飛鳥新社)に対し、ドイツ在住の(FK生)氏から「西尾さんのような発言はもうすでに時代遅れだ」とする、氏を少々揶揄するような投稿文を目にし、(FK生)氏はもう読まれてあるのか、書評が遅かったかなど内容が気になり馴染みの書店に即発注をかけました。
何故か日にちを要し、先々週やっと届いた。
仕事の合間に読んでいたため完読に日を要しましたが(FK生)氏の評は些か解せませんので少々異見を述べさせてください。
著は(FK生)氏が卑下されるような内容ではなく、帰化人が種々齎している悪しき現状から、日本国の将来を危惧しての警鐘であり、至極ご尤もな見解の著であった。(FK生)氏の評はどうもおかしいと想い、発売日を確認したら4月8日が初版と成っていた。(FK生)氏は著を読まず、又、警視庁が調べた「外国人犯罪検挙状況」等の実情もご存知なく、西尾幹二氏を只管に攻撃の論評をされている。
と言うことは常日頃より氏と対立軸にある人のような気がします。(FK生)氏が本当にドイツ在住ならドイツの実情も良く分かっておられるはずなのに何故氏を揶揄されるのですか。
国の成り立ちも歴史の長さも違いうし、属性も違う(FK生)氏の見解は解せません。祖国を捨て日本のために心から貢献してくれた支那人といえば、759年に唐招提寺を建立した鑑真和上くらいしか想い浮かばない。
偉大な革命家と勘違いされている孫文は、日本人から莫大な活動資金を集めて裏切った単なる詐欺師。周恩来も、蒋介石も皆裏切り者。
帰化の有無は知らないが「社団法人世界孔子協」会会長の孔健などは生活の基盤を日本国に持ちながら、孔子とは蓮根の糸程度の繋がりでしかなく、人格も別物なのに臆面もなく末裔を売り物にし、「営業同志」宜しく堂々と反日活動を行っている。こんな人物をちやほやする日本人も馬鹿といえば馬鹿だが。
中国吉林省延吉市出身の張景子に至っては、自己活動の利便性だけで日本国籍を取り、臆面もなく涼しい顔で反日活動を行っている。在所の教育委員会の中にも帰化人がいるが、「尖閣諸島は中国のもの」との認識を示し物議を醸している。過去に、態々帰化して日本国発展のために尽してくれた支那人がいただろうか。
 中には日本文化に心酔して帰化され、嘘、詭弁を平気で突き通す拡張主義「中共」の本 質を伝え、日本国民に警鐘を鳴らしておられる石平氏や鳴霞氏のような例外もおられるが、他は百害 あって一理無しの奸物ばかりではありませんか。
 殺人、騙しに嘘かっぱらいが常道の中国人。西尾幹二氏ならずとも、此の侭では日本が危ない、と多くの日本人が感じているは当然のことではないでしょうか。
 (FK生)氏は、日本人になりたがる人に快くとめてもらわないと一旦日本を見捨てれば、もう帰ってこないものだ。そうすると日本はますます困ってしまう」とされているが、元々留学とは、自国発展に貢献するために諸々の、技術、文化等々を他国から学ぶのであって、帰化するために留学するのではないと想います。
 卒業すれば帰って当然。留学と帰化は別問題ではないでしょうか。
中国人に対する「労働鎖国」をしても、日本国が困ることは何もありません。東大の件のご指摘は仰言る通りで、実に愚かなこと想います。
  (TK生、佐賀)

『中国人に対する「労働鎖国」のすすめ』評(二)

 アマゾンの書評を掲示します。「閑居人」さんのご自身の体験に基く論評をまことにありがとうございます。この本がよく読まれ、日本の外国人政策が変わることを期待しているのですが、さてどうでしょうか。こういう現実的なテーマになると、私が痛切に感じるのは言論の無力ということです。悲しいかな、益々その感を深くしているのは私が老人になったからであろうか。いつまでも晴れない濃霧の中を歩いている思いがしている毎日です。

閑居人

1980年代、ヨーロッパを何度か旅行したとき、強く印象に残ったのは「アフリカ・アジア系移民」の問題だった。「多民族共生社会」というものが生半可なものではないということを実感した。バックパッカースタイルで安宿を泊まり歩いていたこともあるかも知れない。特にドミトリースタイルの雑居ルームで外国人と一緒になると文化の相違に戸惑うことが多かった。身の危険を感じて一晩まんじりともしなかったこともあった。そのため、当時、「ストロベリーロード」でデビューした石川好氏と著者との外国人労働者を受け入れるか否かという議論は、特に興味深かった。本書の後半部は、1989年に公刊されたものの再録であるが、今、読み返して見ると、石川好だけではなく、堺屋太一、高畠通敏等より広範な議論であったことを再認識させられる。

元北京語通訳捜査官だった板東忠信氏が「正論」5月号に書評を寄せている。普通の中国人が犯罪を犯したときに取り調べに対してつく「虚言」に通暁した氏は、端的に問う。「あなたは、商道徳や衛生観念の違う異民族が握る回転寿司を食えるか?」その通りである。中国では、下水の汲み上げで再生される「地溝油(ドブ油)」が日常生活の50%に及ぶ。毒餃子事件もあった。中国人が食べない猛毒食品が日本のスーパーやコンビニ弁当、総菜で出回っている。その中国人が日本で働いたらどうなるか。中国人研修生の殺人事件を見れば、彼らと関わること自体危険であることが分かる。長野での聖火リレーにおける中国大使館がらみの傍若無人、不法な集団生活保護申請。民主党政権が崩壊したからいいものの、もうしばらく続いたら日本は崩壊するところだった。

本書は、そういった危険性を具体的に指摘する。
ここで考えたいことは、そのことに対する具体的な対応策である。外国人による不動産取得の制限。既に売買が成立した新潟の中国公使館用地の登記阻止。これまで売買された外国人所有土地で不法行為が行われていないかの監視。中国人留学生の制限。(著者が経験しているように奨学金を中国大使館がピンハネしている)日本での「就学・労働ビザ」、「日本永住権」審査の厳格化。(これは鳩山政権で大幅に緩和された。元に戻すべきだ)出入国管理の厳格化。「対中国」に関する様々な制限立法を正面から行い、半官半民で「外国人労働者の就学就労と滞在の適正化を図るための検討委員会」を設置して積極的に提言させたらいい。この議論が高まるほど、中国の反発も出てこようが、一方で目先の利益を失いたくない妥協も出てくるはずである。対外関係とは、こういった「力」のやりとりであろうし、その際、世論は最大の武器になるはずだ。

なお、著者は「あとがき」で河添恵子「豹変した中国人がアメリカをボロボロにした」(産経新聞出版2011)を取り上げ、「本当に怖いのは、その国の『幸福=価値観』が内側から破壊されることだ!」という河添氏の指摘を強調している。「多民族共生国家」といった観念的な言葉に日本人が安易に同調することは、危険である。なぜなら、中国、韓国に代表されるように、日本に対する屈折したコンプレックスと攻撃衝動を持つ国家がそのねらいを隠そうともせず存在するからである。

 また「ダニエル」さんも拙文の中の本題から外れたエピソードに目を向けて下さいましてありがとうございました。

ダニエル (東京都)

刺激的なタイトルが目につき書店で購入。凄い本でした。
日本の移民問題について日ごろ自分が漠然と思っていたことが的確な言葉で解説されていて、痒いところに手が届く論述が快感。一晩で一気に読んでしまいました。

いつの頃からか「新しい歴史教科書をつくる会」について聞かなくなったと思っていたのですが、中国人スパイの李春光と中国当局の謀略で壊滅させられたという驚愕の事件の顛末が記されています。
まるで物語のような話ですが著者自身が代表を勤めていた団体の話ですから事実でしょう。
内容に説得力もあります。

中国が移民を使って計画する日本侵略の最先端は想像以上に厳しいものでした。
読むことで知見がぐんと拡がりました。

『中国人に対する「労働鎖国」のすすめ』評(一)

中国人に対する「労働鎖国」のすすめ 中国人に対する「労働鎖国」のすすめ
(2013/04/02)
西尾幹二

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『正論』5月号 坂東忠信氏の書評

労働力確保を移民に頼るなかれ

 本書は、20年以上前に出版された原著に一部加筆するなどしたリニューアル本だが、その先見性故に、少子高齢化が本格化して移民政策が具体性を帯びてきた今の日本にこそ鋭利に突き刺さる。本書が提示する選択肢は三つ。一つは、国民保護のため外国人労働者の権利を非人間的に規制する厳格な労働階級社会。二つ目は、日本人が外国人の引き起こす社会問題を受忍し、国民主権の割譲をも覚悟する多民族平等社会。三つ目は、労働者受け入れを拒否する「労働鎖国」。本書は選択肢がこの三つしかない理由を各国の実例と歴史を挙げて説明したうえで、日本が国家として人間社会の理想を目指すなら労働鎖国しか道はないことを示している。

 そもそもなぜ「国際化」「開放」「共存」が正しく、「鎖国」「規制」「保護」は悪とされるのか?「国際化」とは何なのか?外国人を受け容れることが本当に「国際化」なのか?日本に「国際化」を迫る国が本当に国際化しているのか?単に「自国化」要求ではないのか?そもそも誰が日本に「国際化」を迫っているのか?あなたは本書の問いにハッとするだろう。それでもピンとこないなら、在日華人の実生活に踏み込んだ元刑事なりの直球表現であなたに聞きたい。

 あなたは、商道徳や衛生観念の違う異民族が握る回転寿司を食えるか?

 日本で多民族が「平等」に「共存」する「国際化」社会の実現は、あなたの命に直結する大問題だ。どの家庭も大量の油を台所に流す中国では、下水の汲み上げで再生される「地溝油(ドブ油)」の流通が50%にも達し、死者も出て社会問題となっている。他国の空まで汚しながら、被害者ヅラで環境暴動を起こし毎日死者が出ている。こうした民族と、あなたは同じ土地で共存できるか?いや、そんな社会で生存できるか?

 国際化や人権意識などのコンプレックスを逆利用した負の想念で良心を形作る日本の偽善が、幸せを不幸に変えている。労働を「搾取」「階級闘争」と捉える労組が支配する学校で教育を受けた結果、社会に出ても仕事に感謝も喜びも見出せない精神的幼児の日本人が、職業に貴賎の別をつけ苦役を外国人にあてがって、人種差別社会を生み出そうとしているのだ。

 本書読了後、私なりの結論がすでに出ていることに気が付いた。少子高齢化社会における労働力確保の決め手は、外国人移民では決してない。国民個々が仕事を通して喜びを味わい、喜ばれる存在になるという幸せの再認識である。そして真の国際化とは、虹色の世界に一角を占め日本色を鮮やかに発光させる、日本の日本化であり、日本の深化である。

 会社で部下から「国際化していない」となじられ、悩む社会中核年代層に本書は必読である。

元北京語通訳捜査官 坂東忠信

『自ら歴史を貶める日本人』評(二)

自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット) 自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット)
(2012/12/20)
西尾 幹二、福地 惇 他

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 アマゾンの書評を掲示します。

By閑居人
レビュー対象商品: 自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット) (新書)

表題は刺激的であるが、西尾幹二氏と現代史研究会の三人の論者が主張していることは、基本的にはきわめてまともなことである。それは、日本の近現代史を評価するには、その背景にある欧米、ロシア・ソビエトの外交政策とアジア諸国の当時の社会状況、中国国民党やコミンテルンと共産党の動向を、日本の政治外交軍事との関係でバランス良く見ていくことが大切だという観点である。
本書で、四人の論者が、具体的に取り上げて批判しているのは、加藤陽子「それでも日本は戦争を選んだ」、半藤一利「昭和史」、北岡伸一「日中歴史共同研究」である。
加藤氏と半藤氏の場合は、日清日露戦争以来、近代日本が戦った戦争の原因を主として国内的要因に求めて、日本の外交的選択を追い詰めていったアメリカやイギリス、ロシア、ドイツといった帝国主義諸国のアジア政策を十分に理解していない。また、コミンテルンの策動や中国国民党の宿痾にも関心がない。言われたくないだろうが、「東京裁判史観」のフレームから解き放たれていないということである。
また、西尾と福井雄三氏は、アメリカの宗教的動機が「文明の衝突」をもたらす根底にあることを指摘する。ウィルソンはアメリカの精神医学界の言葉を使えば「自己愛性人格障害」としか呼びようのない特異な人物だが、F・ルーズベルトの独特の人種差別意識、選民思想が対日戦争への強固な意志やソビエトを同志とみなす倒錯した世界観に変化していくことに注意が必要だ。
日米戦争の本質は、現代アメリカの政治学者ミアシャイマーに言わせれば「既に経済戦争を仕掛けられた日本はアメリカと戦って降伏するか、戦わないで降伏するかしかないところまで追い詰められていた。名誉を守るために戦ったことは、唯一の合理的な選択だった」ということなのだ。しかし、加藤、半藤は、日本には平和勢力もあったが、陸軍統制派と海軍艦隊派、それに日本国民のナショナリズムに引きずられて悲惨な戦争に突き進んで行ったと結論づける。日米で当時の様々な政府文書が公開されても、「それでも日本は戦争を選んだ」としか言えない歴史学者には失望するしかない。
北岡氏の場合は、中国や韓国の歴史学者と論争して「共同研究報告書」を作成する場合、それは「国益」とからむ「外交戦」の一環として位置づけられることをよく理解していたはずである。一番良いのは「これではまとまらない」と言って解散しその理由を世間に公表することである。しかし、北岡はそうせず、長文の報告書を「成果」として誇ってしまった。そのおつりはいずれ日本国民に投げつけられることだろう。
中韓の学者や識者と議論するときによくあることだが、反論されると怒って怒りまくる輩がいる。これはいつもの手である。また、途方もないことを主張して、絶対に譲らないという論者も現れる。これもいつもの手なのである。
北岡がまとめ役の一人となったこの研究では、「辛亥革命と五・四運動の影響で日本でも大正デモクラシーが起きた」と主張した中国人がいたそうである。日本側が唖然としたり、毒気を抜かれたりすれば、それは彼らの思うつぼである。日本側は、比較的穏やかな、まだまだまともと言える見解の学者に近づき、まとめようとする。このとき、日本側の妥協は、まだ僅かである。しかし、まともと見えた中国人学者を頼りに「報告書をまとめる」ことが決定されてしまえば、最終稿が完成するまでに、果てしもないハードルの上げ下げが続く。この戦いは通常日本側の一方的な妥協で終わらざるを得ない。相手は始めから譲る気などなかったからである。西尾が意外感を持って指摘する、篤実で実証的な研究で知られた一部の日本人学者の無残な敗北はその結果に他ならない。
多分、日本人の人間的魅力の一つなのだろうが、日本人は他国の悪意に無頓着すぎる。しかし、豊かな美しい国、誇り高い歴史を持つ国が、周辺諸国や世界のあちこちから挑戦を受けないことはあり得ない。
なお、この本で展開された四人の論者の近現代史についてのそれぞれの立場からの立論は、熟読吟味に耐える知的魅力に満ちたものである。文部省教科書調査官時代、日教組と外務省チャイナスクールに射された経験を持つ福地惇氏の近現代史への深い洞察。インテリジェンスに詳しい柏原竜一氏の視点。魅力的な書物である。

「閑居人」さんの行き届いた批評に感謝します。

By スワン
レビュー対象商品: 自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット) (新書)

本書の概要についていえば、「閑居人」さんが記しているとおりである。
付け加えるべきことは、ほとんどない。

ただし、わたしは本書の議論の進め方に不満を感じた。
それは、加藤陽子、半藤一利、北岡伸一各氏の著書を俎上に載せ、話を進めることに由来する読みにくさだ。

1)ややもすると、上記3氏の論を批判するのが<主>で、歴史的事件および出来事の解説が<従>になってしまうため、ある程度以上、近現代史の知識をもった読者でないと<日本の主張>のディテールが伝わらないのではないか、という怖れがある。
その一例。
《西尾 西安事件を抜きにして昭和史は語れませんよ》(108ページ)
とあるものの、あの奇妙な西安事件の謎めいた影やコミンテルンの暗躍が詳しく語られていないため、「?」と思う読者も少なくないのではあるまいか。

2)また、3氏への批判が、彼らの記述に沿ってなされるため、時系列的な流れが攪乱される。
満州事変のあとに日露戦争が語られたり、ノモンハン事件のあとにロシア革命が話題にされたり……と、頭に入りにくい。

3)上記3氏の論は、いずれも、つぎのような同じ欠陥をもっている。
・日本を取り巻く当時の世界史を視野に入れていないこと
・いわゆる「東京裁判史観」ないし「コミンテルン史観」に毒されていること
・戦前の日本は悪玉で、侵略された側は善玉だという紙芝居的な見方……
そのため、各章で、似たような批判が繰り返される。
批判はまったくそのとおりなのだが、それでも、「あ、またか」と食傷気味になってしまう。

戦前の世界史のなかで日本が置かれた歴史的立場、そしてそこから発する<日本の主張>を前面に打ち出した本書の意義は大きい。
それだけに、上のような議論の進め方が残念でならないのだ。

願わくば、この四氏で、<真正・昭和史>ないし<真正・近現代史>を語り尽くしてもらいたいものである。
リベラル左派的な議論など相手にせずに――。

 「スワン」さんの「議論の進め方に不満あり」はまことに尤もなご批判で、その通りと存じます。私ども四人の討論も先行きの見えない闇夜を四人それぞれが懐中電灯を照らしながら歩いたかのような手探りでした。一冊の本にまとめることが出来たのがじつは奇跡でした。

 今年再開します。加藤康男氏と福井義高氏の二人が加わり、六人の討論会になります。まとまりが悪くなるかもしれませんが、時代順に追求していく新プランで、満州事変→支那事変→ノモンハン事件→日米開戦の順序で辿る予定です。2-3年かかるでしょう。「スワン」さんのご批判を参考にさせていただきます。ご批評ありがとうございました。

 再開第一回目はたぶん『WiLL』8月号からで、「柳条湖事件が日本人の犯行だというのは本当か?」という、あっと驚く、ショッキングな主題をひっ提げて再登場します。ご期待下さい。

『自ら歴史を貶める日本人』評(一)

『WiLL』5月号 堤堯の今月の一冊より

 本書は、本誌に11回にわたって連載された討議のまとめで、連載中から次回を待ちかねて愛読した。こうして一冊になって通読すると、討議の意味合いが一段と迫力を増す。なにしろ目次が食欲をそそる。

第3章 加藤洋子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は青少年有害図書
第4章 半藤一利『昭和史』は紙芝居だ
第5章 北岡伸一『日中歴史共同研究』は国辱ハレンチの報告書
第6章 日中歴史共同研究における中国人学者の嘘とデタラメ
 
 といったメニューで、四人の料理人による味付けは、これでもかと激辛に徹する。

 小欄は加藤洋子の『それでも・・・・』の背文字を書店で見かけたとき、一瞬、「それだからこそ・・・・」の間違いではないかと疑った記憶がある。

 かつて本欄で、加藤氏の『戦争の論理』を取り上げたことがある。象牙の塔で育った27歳の「女学生」のメス捌(さば)きに、なるほど戦争を知らない世代はこうも解釈できるのか、ある種の新鮮味を感じて、結語に「若い女の歯科医に脳髄を刺激されるような思いを味わった」と書いた。

 その「女学生」が、いまや近現代史の「大家」と目され、半藤氏とともにNHK御用達となった。両氏のベストセラーの読後感をひと言でいえば、「歴史は善人には描けない」――つまりは「悪人にしか描けない」という言葉を思い出したというしかない。本書はその「善人ぶり」をこれでもかと剔抉(てつけつ)する。

 それ以上に問題なのは、北岡の報告『日中歴史共同研究』だ。5章と6章は、その論理矛盾、偽善、知的怯懦(きょうだ)をこれでもかと衝く。北岡は「日中戦争は侵略戦争であり、南京虐殺は事実だ、それを否定する歴史学者は一人もいない」と断じる。この前提で中国側と「共同研究」を行えば、結果はハナから見えている。

 歴史の「歴」は歴然の「歴」。歴然とは「明らかな証拠がつらなる様」をいう(広辞苑)。「史」とは記録の意。よって、「歴史」は「明らかな証拠をつらねた記録」となる。ところが、これほど明らかでないものはない。見る人、見る角度によって違う。第一、真の資料は50年から100年を超えてから表出する。

 北岡は「張作霖爆殺事件がコミンテルンの陰謀だったと言う説は、それこそ虚偽のデマゴーグだ」とする。しかし、ロシアで出版された『GRU百科事典』(08年刊行)は、「日本軍の仕業に見せかけた工作の成功例だった」とハッキリ記している。GRUはKGBの前身だ。これを北岡は何と説明する。

 小欄が南京の「屠殺紀念館」で購入した大部の写真入の解説書は、表題に「鋳史育人」とある。つまりは歴史を鋳型に嵌(は)めて鋳造し、これをもって人を宣撫するという意味だ。

 これを見ても「南京虐殺」、従軍慰安婦、尖閣問題・・・・中国側の意図は明らかではないか。ちなみに、教科書誤報事件をスクープしたのは、小欄が編集長をつとめた雑誌『諸君!』だったことを付記しておく。

 歴史認識こそは思想戦、心理戦、宣伝戦の中核だ。米中共同の製作になる「鋳型」からの脱却――これこそが本書の狙い・願いだ。是非にも多くの人に読んで欲しい。パール判事は言った。「罪の意識を背負わされたままの民族に明日はない」と。

武田修志さんのご文章

 今日ご紹介する文章の書き手 武田修士さんは、前にもここで取り上げたことがあります。私と同じドイツ文学の専攻で、鳥取大学の先生です。

 いつもお書き下さるのは名文で、書かれた私はうれしくて、全集の編集担当者についお見せしました。彼も深い感銘を受けたようです。

 ご自身の体験に即して書かれていて、しかもどこか無私なところに味わいがあるのです。私は自分のことを書かれているから言うのではなく、武田さんはいつも素直に自分を出していて、しかも必要以上には自分を出さないのです。

 彼の手紙はファイルして秘匿しておきたいと思います。それでいて矛盾していて、いろんな人に読ませたいとも思うのです。

 また前回の「コメント5」の佐藤生さんのように、「宣伝」といわれるかもしれませんが、いわれてもいいから、お見せしましょう。

 新年もすでに今日は六日ですが、西尾先生におかれましては、ご家族ともども、良きお正月をお迎えになったことと、拝察申し上げます。今年もお元気でご健筆をふるわれますよう、心よりお祈り申し上げます。

 年末年始に「西尾幹二全集 第二巻」に収められた三島由紀夫関連の御論考を再読いたしました。単行本『三島由紀夫の死と私』は、この本が出版されました平成20年12月に一読していましたが、今回全集が出るに及んで、「文学の宿命」「死から見た三島美学」「不自由への情熱―三島文学の孤独」等の評論と合わせ読むことができ、三島事件について理解を深めることができました。『三島由紀夫の死と私』は、先生の「三島体験」の詳しい報告、という控え目な体裁をとっていますが、三島事件と三島文学を理解する上で、最良の導きの書になっていると思います。これから三島文学を論じたり、三島事件に言及する者は、必ずこの書と先生の三島論考を読まなければならないことになるのであろうと思います。

 三島事件が起きた昭和45年(1970年)に、先生はすでに35歳の気鋭の新進批評家であり、私は20歳になったばかりの大学二年生にすぎませんでしたので、体験の質が違い、比較はできませんが、しかしそれにもかかわらず、三島事件から受けられた先生の「衝撃」は、私があの事件から受けた衝撃と非常に似かよったものではなかったかと、正直感じました。

 私はちょうどその年、それまで一度も読んだことのなかった三島由紀夫の作品を少しまとめて読んでみようと、「金閣寺」「潮騒」「永すぎた春」「春の雪」と続けて読んでいるところでした。「潮騒」には少し心動かされたような記憶がありますが、先生もお書きになっているように、「三島さんの作品に、感動するものがあまりなかった」――そういう感想を持ちました。マスコミの伝える「楯の会」のパレードといったものにも、さしたる関心を持っていませんでした。

 ところが、11月25日のあの事件に遭遇して、私は心から震撼させられたのです。第一報は、午後の第一時間目のドイツ語の先生からでした。「三島由紀夫が割腹自殺したみたいだ」、そういう短い言葉でした。その授業が終わって、独文研究室に立ち寄ってみると、何人か人がいて、三島事件について話をしていました。よく覚えているのは、そのとき、30歳に近い独文助手の左翼の女性が「三島由紀夫は何という馬鹿なことをしたのか」というような批判的なことを言ったとき、私の中に激しい怒りが湧いて、「こいつは何も分かっていない!」と私が腹の中で叫んだことです。そのとき三島事件について私は詳しいことは何も知らなかったはずなのですが、確かに、その女性の発言に憤激したのです。たぶん「文化防衛論」をすでに読んでいて、三島由紀夫が何を主張してその事件を起こしたのか、分かったような気がしたのではないかと思います。

 そのまま大学からバスに乗って、市内のバスターミナルへ向かいました。わが家へ帰るためです。そのバスターミナルではすでに「号外」が張り出されていて読むことができました。また、待合室のテレビでは事件の報道を流していました。この事件が何のために引き起こされたのか、そのことについて、自分の予測は的中していました。自宅に帰りついてからも、家族と黙ってテレビを見ました。私は何か大きなショックを受けて、しばらく物も言えなかったように記憶しています。衝撃を受けたのは、三島の主張に私が同感したからでもありますが、何と言っても、自分の信じる政治的主張のために、本当に命を掛ける人間がいるのだ――そのことを目の前で見せつけられたからです。

 三島氏がバルコニーで自衛官たちへ呼びかけたときに下品なヤジを飛ばしていた者たちがいましたが、彼らに対して「なんという卑劣」と猛烈に腹が立ちましたが、しかし、もし自分があのバルコニーの下にいてあの演説を聞いていたとしたら、「お前は立ち上がって、三島氏の元へ駆けつけることができたか」と自問すれば、百パーセント「否」でした。そういう決断も勇気も自分にはないということはごまかしようもありませんでした。まだ本当の大人ではありませんでしたから、先生のように「三島さんに存在を問われていると感じ」たということではありませんが、自分の日ごろの生き方が全く口先だけのものだというようなことは感じたのです。

 先生は三島氏があの事件を決行するに至った経験や動機を、様々な面から解明しようとしておられて、私にはどれも参考になりましたが、私が第一に説得されたのは、やはり、全集48ページからの「思想と実生活」の考えです。「思想が実生活を動かすのであって、実生活が思想を決定づけるのではない」ということです。三島氏は多面体の天才でしたから、彼があのような行動に出たことについていろんな理屈をつけることができるでしょうが、私には、三島氏の「日本の運命への思い、憂国の情」が決定的な動機であったことは、一点の疑いもないように思われます。

 そして、その「日本の運命への思い、憂国の情」は三島氏やそれを取り巻く少数の右よりの人々だけが共感するようなものではなく、実のところは、もっと多くの日本国民の心に眠っていた思いであり、憂国の情であったと考えられます。ここで思い出すのは、野坂昭如という作家が、しばらくのち何かの雑誌に発表したエッセイのことです。そのエッセイの中で、このどちらかと言えば左よりかと思われる人が、「あの事件の日は、日本中があるしんとした思いに心を一つにした」というような意味のことを書いていたのです。昭和24年生まれの私には経験がありませんが、これは先生が書いておられる終戦の日の「沈黙」と同じものではなかったでしょうか。三島由紀夫の決起の呼び掛けは功を奏しませんでしたが、何もかもが無意味だったわけではありません。我々は一瞬にせよ、彼が求めたところへ心を致したのであり、その瞬間の思いを今も忘れてはいないのです。

 今回、先生の三島論を拝読して、この作家について教えられることがたいへん多かったのですが、特に印象の残っていることを一つ上げてみますと、三島氏が、縄目の恥辱を受けた総監は、自決する恐れがあると考えて、自首した学生に総監を護衛するように命じたというエピソードです。先生のご指摘通り、「いかに自衛官でもそんなことが決して起こりえないことは、われわれ今日の日本人の一般の生活常識」です。しかし、三島氏がそんなふうに考える人だったということを知って、私には何か感動させられるものがあります。こういうふうに考えることのできる人だったからこそ、自分の「思想」というものを持つことができたのだと、納得のいくものがあるのです。

 御論考「不自由への情熱」の中にこういうご指摘があります、「だが、多くのひとびとがこれまで試みてきた美学的解釈も、政治的解釈も、偏愛か反感か、いずれかに左右され過ぎている。この作家の少年期からの孤独な心、外界と調和できず自他を傷づけずにはすまぬ閉ざされた心、そういうものが見落され勝ちである。外見とは相違する裏側には驚くほど正直な、幼児にも似たつらい率直な心が秘められていた。私はそう観察している。」この評言を、三島由紀夫に関してあまりに少ない知識しか持ち合わせていない私は正確に判定できませんが、しかしそれにもかかわらず、直感的にはまさにこの通りであろうと私には思われました。作家三島由紀夫の生の秘密を最もよく見抜いた人こそ西尾先生であると、今回、関連の御論考をまとめて拝読して再認識したことでした。

 いつものようにまとまりのない感想になりましたが、今回はこれにて失礼いたします。
 
 お元気で御活躍ください。

  平成25年1月6日

                       武田修志

西尾幹二先生

読者へのご挨拶

 今年の「謹賀新年」に付けられた「コメント5」に次の意見があった。

5.いつも、この日録とかネット番組:「GHQ焚書図書開封」を拝読・拝見いたしております。

ですが、先の総選挙における「阿倍政権」の誕生については、何の言及もありません。ひたすら、ご自分が関わられた著書の宣伝にこれ努めているという感じです。

西尾教授は、「反原発」のお立場の様ですから、この視点でも反駁されて然るべきかと思います。(尚、私めは「原発推進」・「核武装しかるべし」・「靖国分祠検討すべし」という立場です。)

何か、深い深いお考えがあっての「日録でのご発言」かとは推察いたしておりますが、少しく寂しく感じております。

コメント by 佐藤生 — 2013/1/6 日曜日 @ 16:37:01 |編集

 これを読んで私は少し当惑しています。深い考えなどありません。当ブログは私の思想活動のごく一部、しかも小さな一部で、全体の思想活動を一冊の本にたとえると、ちょうど「目次」のような役割を果していると思います。そう思って見て下さい。

 私は尖閣問題、女系天皇問題、原発問題、TPP問題について、また日米問題、総選挙とその結果についても、書物もしくは雑誌その他で大抵どのテーマであろうと洩れなく私の考えを述べています。雑誌は今は「正論」「WiLL」「言志」(チャンネル桜の電子言論マガジン)です。そのうちの幾つかは許される限り当ブログに掲示するようにしています。「脱原発」では書物を二冊出しています。

 「コメント5」の佐藤生さんにおねがいします。書物や雑誌などの活字言論をきちんと見て下さい。そちらの方が私の本筋です。ブログだけ見て私の思想を判定しないで下さい。ブログは「目次」か「表紙」なのです。宣伝めいたものと思われても仕方ありません。読者の方はこれを手掛りにして下さい、と言っているだけです。ブログで全思想を表現している人もいますが、それとはやり方が違うのです。

 『第二次尖閣戦争』について、アマゾンに書評がのっていましたので、紹介しておきます。

第二次尖閣戦争(祥伝社新書301) 第二次尖閣戦争(祥伝社新書301)
(2012/11/02)
西尾 幹二、青木 直人 他

商品詳細を見る

「尖閣」でアジア近現代史の虎の尾を踏んだ中国, 2012/11/12
By 閑居人

 「尖閣諸島」という南海の小島の帰趨は、単なる領土紛争を超えて、「近代日本」という国家の政治的経済的アイデンティテイと表裏一体繋がっている。明治維新以来、弱肉強食の帝国主義の世界を生き抜き、敗戦による「帝国解体」も経験して、尚かつ「皇室」の伝統と民主的な諸文化に立脚する「日本」という民族国家。その近現代史と「国家主権」という一点で切り離すことができない問題だからである。
 それにしても、中国人という人種は一体何者なのか。西尾が言うように「一度も国政選挙をしたことが無い国、近代法治国国家でない国、他国を威嚇し脅迫する(無法国家)」(233p)であることは疑えない。
 この対談の中で西尾は繰り返し「中国人とは何者なのか」と問う。そして最近西尾自身が「GHQ焚書図書開封7」で紹介した戦前のシナ通、長野朗が指摘する「ウィルスのように侵入し、シロアリのように食い荒らし、エゴイスティックであるにもかかわらず、集合意志を持つ民族」といった表現に共鳴する。
本書の中で、西尾は怒りを隠さず過去の歴史から説き起こし、青木は冷静に中国、アメリカ、朝鮮半島等日本を取り巻く状況を分析する。西尾が説くように「尖閣戦争」は、近代以来の歴史問題を背後に潜まさせている。そしてそれは、これからの日本という国家の在りようと不可分の関係を持つ問題なのだ。この重大な問題に、石原慎太郎のトラップに乗った中国は、不覚にも多くの日本人を目覚めさせてしまった。
 官製デモの連発は、振り返って1919年「五・四運動」や1920年代の「五・三十事件」等戦前の反日運動が巧妙に仕組まれた官製デモであり、しかも英米大使館やドイツの教唆、コミンテルンの策動と絡んだ事件であったことを改めて想起させた。1945年以来、GHQや共産中国、岩波・朝日が浸透させた「敗戦史観」は、学会で率直にその是非を論じたり、自由に批判したりすることがタブー視されていた。しかし、その呪縛は確実に解けている。
 本書で、二人の論者が説くことは、「尖閣」という南海諸島の一角にある小島が、アジア近現代史において日本が引き受けざるを得なかった歴史の謎を解くと同時に、今後の日本国民の対応が21世紀アジア地域の平和と安定の鍵を握るという、国際政治の現実である。

日本政府よ、覚醒せよ! と訴える一冊。言うべきことははっきり主張すべきだ。, 2012/12/9
By あらフォーティー “Z”

尖閣問題を起点に、中国の現状、米国の立場、そして
日本がとるべき態度と戦略を示す一冊。

ひとつ驚いたことは、尖閣5島のうち、すでに2島は
米国に貸し出されていて、うち1島は国有だということ。

新聞やTVはこのことを報道したか?
そもそも調べてもいなかったのではないか?

そして何よりも、「問題を起こしたくない」「とりあえず穏便に」という害務省の態度と、
中国に誘い込まれて進出し、人質となって逆に政府の足かせとなった経済界。
これが大きな問題だということがわかった。

中国と米国の思惑をしたたかに利用して、日本の国益をしっかりと
守って欲しい。そういう知恵のある政治家の登場が待たれる。

なぜジュンク堂の特集コーナーには置いていないのか, 2013/1/14
Bymt –

尖閣諸島問題・中国問題を取り上げた本の中では最高のものと思われる。以下、いくつか本書で取り上げられた衝撃の内容を書き出してみる。

・小泉首相の靖国神社参拝をめぐって中国で反日暴動がおこったとき、トヨタ自動車の奥田碩(会長)が胡錦濤と極秘に会談し、次期首相は絶対に参拝させないと約束し、実際に安倍首相は参拝しなかった。
・中国の対日経済制裁で困るのは日本国民ではなく、個別の進出企業である。
・最初から永住することを目的とした中国人が大量に来日しており、その連中が日本の福祉を享受している。
・国内問題で困った習近平が、大量流民を放出し、沖縄が占拠され、それが「人権」の名のもとに正当化され、日本侵略がすすんでいく可能性。尖閣問題はこうした破局に至るかどうかの一里塚である。
・2012年の暴動で日本企業が多大な被害を蒙ったその数日後に、野中広務・河野洋平・田中真紀子・高村正彦らは経団連会長の米倉弘昌とともに北京詣でをして、早々と膝を屈した。日本政府が抗議のために、公式行事を中止するようなことはいっさいなかった。
・日本からの中国向けODAは合計3兆6461億円で、2012年も無償援助と技術協力は42.5億円。さらに国民のまったく知らない、財務省の資源開発ローンが3兆円もある
・アジア開発銀行の出資は日本がトップであるが、総裁の黒田東彦は「中国は覇権国家ではない」と公言するほどの東アジア共同体論に染まった官僚で、日本からのODAが減っても、黒田からの対中出資は減っていない。
・アメリカはかつて尖閣の主権が日本にあると認めていた(ケネディとアイゼンハワー)が、その後態度を曖昧にしている(ニクソンから)。アメリカは日中紛争の火種を残しておきたいのである。久場島と大正島は米軍管理下にあり、少なくともこの2島についてはアメリカは中立の立場は取れないはず。それをマスコミも報道しない。
・中国は世界銀行人事をめぐってアメリカと対立はしていない。米中の経済相互依存関係は深く、米中が対立することは不可能となっている。
・中国とアメリカの石油メジャーは非常に仲がよい。クリントンの日中の共同油田開発論
・中曽根は、中韓の圧力に屈してすでに検定にとおった教科書を4回も改定させて。それ以降続く中曽根内閣の呪い。

まだまだ、引用したい部分がある。ほかのレビューワーが西尾幹二氏の日本は三流国家となっている、という発言を敵視しているが、自分で自分を守れない日本はまさに三流国家になろうとしていると言えるだろう。
ところで、ジュンク堂の尖閣諸島特集コーナーにはこの本は置いていない(少なくとも大阪の3店舗では)。極左の孫崎亨の本は置いてあるのに、である。ジュンク堂の政治的偏向が伺われる。

『WiLL』現代史討論ついに本になる(二)

宮崎正弘の国際ニュース・早読みから(平成24年12月26日号より)

西尾幹二ほか『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店)
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 本書は月刊誌『WILL』に連載された四人の座談会をまとめたもので、西尾幹二、福井淳、柏原竜一、福井雄三という四人の論客が近・現代史を縦横に語り尽くしながらも偽歴史家、偽学者等の出鱈目な所論を俎上に載せて、ふたたび立ち上がれないほどに批判している。

 ノモンハンは日本が勝利していたのに、ソ連の謀略宣伝と敵のプロパガンダに内通した日本側の利敵行為などにより、ソ連が勝ったと長く信じられてきた。

 すでに南京大虐殺も、三光作戦もでっち上げであることは120%証明されたが、まだ左翼のプロパガンダを鵜呑みにして、意図的に中国に都合の悪い事実を伏せる売国的学者、それも東京大学あたりに蟠踞しているから始末が悪い。
 
 本書では主に加藤陽子、北岡伸一、それから「長屋の歴史講釈師」として、まだ命脈をもっている半藤一利の三人を批判するが、ほかにも大勢の左翼作家(司馬遼太郎とか)や学者が批判の対象となって登場している。

 小誌の読者にとって、おそらく内容の紹介は多言を要せずだろう。

 そこで本書のなかでふたつ気になった個所をのべてみると、第一は文明の衝突、あるいは宗教の衝突だったとする日米戦争という解釈において(その論旨には賛成であるが)、蒋介石は宋美齢にいわれて敬虔なキリスト教徒になったため米国の支援を受けたという流れ。 

 この指摘はまことにその通りだが、評者(宮崎)は一貫して蒋介石は偽キリスト教徒だったと考えている。

 蒋介石の生まれ故郷は浙江省寧波郊外にある。かつて寧波のホテルからクルマを雇って二時間ほどで着いた。生家は観光客用に解放されているが、この家には礼拝室がない。

 他方、南京、廬山、杭州などにある宋美齢の別荘を見学したが、かならず立派な礼拝室があり、大きなマリア像が客間に飾られ、いかにも意味深であり、そして不思議なことに夫婦のベッドルームは別々、風呂も別々だった。

 蒋介石は積極的に聖書から引用しての演説をしていない。つまり礼拝室を意図的につくるなど、米国向けの演技の舞台装置である。

 張作霖爆殺人も河本大作犯人説は覆った。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC

 真犯人は張作霖の子、張学良か、あるいはロシアの謀略機関、もしくは両者の共同謀議であり、これも伊藤博文暗殺の真犯人が安重根でなかったことと同様に謀略の仕掛けは、ソ連式であることに留意しておきたい。

 これらはともかくとして本書は中味がぎっしり詰まって左翼史観への反撃集となったが、装丁も親しみやすく、価格も廉価に抑えられていて、願わくは大ベストセラーとなって世の迷妄を晴らしてほしい。

『女系天皇問題と脱原発』書評

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宮崎正弘の国際ニュース早読み(メルマガ)より

西尾幹二&竹田恒泰『女系天皇問題と脱原発』(飛鳥新社)
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 これは論壇への爆弾、コントロバーシャルな問題提議の書である。
 いきなり竹田氏がこう切り出した。
 「(女系天皇をすすめている左翼系や反体制文化人が多いが)もしかすると彼らは最終的に皇室の廃絶まで考えているのではないかと思うんです。と言いますのは、彼らの言う、いわゆる女系なる天皇が成立したら、それはもはや天皇ではないと言えるわけですから。女系天皇の誕生で、万世一系の皇統はこれで終焉を迎えたのであって、もはや国民と同じ血筋だ、という話になって、皇室をなくすための先鞭をつける」。 
 対して西尾さんは、『正論』や『WILL』での議論を踏まえて、
「天皇家に基本的人権を持ち込むのは、戦後民主主義的な一連の破壊主義の思想と切り離せないものがある」とずばり本質を抉る。
 ふたりの議論は白熱し、永田町と官界と皇室関係者のあいだで、如何なる「暗闘」があったかを紹介しているが、その凄まじき陰謀的な動きを知ると、ここまで日本の中枢が腐っているかが具体的に人名もでてくるので、手に取るようにわかり愕然となる。
 この二人は或る問題では論敵だったが、こと女系天皇と原発では奇妙に意見の一致を見る。
「不安と希望の間を行ったり来たりしながら深まる考察」と銘打たれた本書は、いずれにしても論壇に仕掛けられた紙の爆弾である。