『GHQ焚書図書開封 7』の刊行(二)

宮崎正弘さんの書評より

 現代日本はなにを甘っちょろいシナ観察をして敵性国家を誤断しているのか
  戦前の長野朗は、国益の視点、鋭敏な問題意識と稀な慧眼でシナを裁断していた
  ♪

西尾幹二『GHQ焚書図書開封7
 戦前の日本人が見抜いた中国の本質』(徳間書店)
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 戦前の陸軍には「シナ通」が沢山いたが、大方は軍のプリズムがあるため観察眼がねじれ歪んでいた。「シナ通」は現代日本のマスコミ用語でいえば「中国学者」か。

 これという快心の中国分析は戦争中も少なかった。満鉄調査部のそれはデータに優れ、しかし大局的戦略性におとり、誤断の元にも成りかねなかった。そもそも草柳大蔵の『満鉄調査部』を読めば分かるが、かのシンクタンクには社会主義者が多数混入していた。
 
 当時、あれほどの日本人がシナの各地にありながら、中国を冷静かつ冷酷に客観的にみていたのは長野朗、大川周明、内田良平ら少数の学者、インテリ、ジャーナリストだけであった。
 
 芥川龍之介の江南旅行記(『上海遊記』『江南遊記』(講談社学術文庫))もじつに面白いが、上海から南京までを駆けめぐった、地域限定であり、滞在も短く、しょせんは現象的観察という側面が否めない。しかし芥川の観察眼は作家の目であり、鋭い描写力があった。

 さて本シリーズは七冊目。

 いよいよこうなると全体で何冊になるのか、想像もつくようになるが、本巻はほぼ全巻が戦前の中国観察の第一人者、長野朗のシナ分析につきる。付け足しに内田良平があるが、本巻ではほぼ付録的である。

 長野の著作は膨大で合計二十作品もあって、ほぼ全てが焚書図書となり、戦後古本屋からも消えた。好事家か、個人蔵書しかなく、それも戦後67年も経てば長野朗の名前を知っている人は中国特派員のなかにさえ稀である。

 評者は、ところで長野の著作を一冊保有しており、それも某大学図書館にあったもののコピィである。もっと言えば、それがあまりにも面白いので、某出版社に復刻を推奨したら、編集者の手元へ移り、そのまま五年か六年が経ってしまった。それが『シナの真相』、しかもこの本だけは焚書にならなかった。だから某大学図書館にあったのである。

 というわけで、このシリーズで西尾さんがほかの参冊をさっと読まれて重要部分を抜粋された。
まずは『シナの真相』のなかに長野朗が曰く。

 「かの利害打算に明らかなシナ人も、ときに非常に熱してくる性質も持っている。シナ人の民衆運動で野外の演説等をやっているのを見ると、演説して居る間にすっかり興奮し、自分の言っていることに自分が熟してくる。その状態はとても日本人等には見られない所である。彼らは興奮してくると、血書をしたり、果ては河に飛び込んだりするのがある。交渉をやっていても、話が順調に進んだかと思っている時に、なにか一寸した言葉で興奮して、折角纏まりかけたのがダメになることがある。シナ人の熱情は高まり易いが又冷めやすいから、シナ人は之を『五分間の熱情』と呼び、排日運動等のときには、五分間熱情ではいけない。この熱情を持続せよといったようなことを盛んに激励したものである」。

 ▼「シナ人の五分間の熱情」と「気死」

 この文言をうけとめて西尾氏は、

 「思い当たる節があります。日本にきている中国人のものの言い方を見ていると、口から泡を吹いているようですね」と指摘されている。

 つい先日の尖閣問題でも、「五分間の熱情」でデモ行進をやり、「日本人を皆殺しにせよ」(殺光)と横断幕に掲げ、シナ人の所有する「日本車」を打ち壊し、シナ人が経営する「日本料理店」を破壊し、シナ人が経営するラーメンやのガラスを割った。

 そして、「五分間の熱情」は、かの尖閣へ上陸した香港の活動家らの凶暴な風貌、掴まっても演説をつづける興奮気味のパフォーマンスに象徴される。以前の尖閣上陸のおりは、海に飛び込んで死んだ反日活動家もいた。

 この自己制御できない熱情を長野朗は「気死」と定義し、次のように言った。

 「日本人は憤って夢中になるくらいのことはあるが死にはしない。シナ人の興奮性から見れば、或いはその極心臓麻痺くらい起こして死んだかもしれない」

 西尾氏は、これを『愛国無罪』とひっかけて興奮する中国製デモの興奮的熱情に見いだし、「日本レストランを襲撃したり、日本大使館に投石したり、やることが非常にヒステリックです。尖閣諸島の騒ぎの時も同じでした。国中が湧きたって、それこそ『気死』していましそうになる。じつに厄介な隣人たちです」
と指摘される。

 また長野朗は『支那の真相』のなかで、こうも言う。

 「しかしシナの混乱した状態を治めるには、最も残忍を帯びた人が出なければダメだと言われている。或るシナの将軍は、いまのシナには非常な有徳者か、それとも現在の軍閥に数十倍する残酷性を帯びた者が出なければ治まらぬと言ったが、シナが治まるまでには、莫大な人間が殺されて居る」

 そう、そうして残酷性を数十倍おびた毛沢東が出現して軍閥のハチャメチャな群雄割拠の凄惨な国を乗っ取った。

 ほかにメンツの問題、衛生の問題、歴史観、人生と金銭感覚などに触れ、シナ人を裁断してゆくのである。

 この長野朗こそ、現代日本人はすべからく呼んで拳々服膺すべし。しかし長野の著作はまだ復刻されていないから、本書からエッセンスをくみ取るべし。

文:宮崎正弘

         西尾幹二全集刊行記念(第4回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第4回配本「第3巻 懐疑の精神」の刊行を記念して、下記の要領で講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。 なお、本講演会は、事前予約不要ではございますが、個々にご案内申し上げる皆様におかれましては、懇親会を含め、事前にご出席のご一報いただけますなら、準備の都合上、誠に幸甚に存じます。ご高配の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
            記
 
演 題: アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか?(戦争史観の転換)
 
日 時: 9月17日(月・祝) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
                  (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)
     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円

 
お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
         FAX 03-5970-7427
          E-mail: sales@kokusho.co.jp

『天皇と原爆』の刊行(十三)

『撃論』(4月28日刊)
書行無情 GEKILON-PLUS ブック・レビューより

 杉原志啓・評
『天皇と原爆』

センセーショナルなタイトルの真意とは

 西尾幹二氏がとびきりの多作家なのはひとしなみに了解のことだろう(そのあらわれの一端が、つい最近公刊開始の全22巻の全集となる)。で、どんな量産タイプのライターであっても、いつしか老いの影とか衰えの兆しをみせるものなんだが、かれには不思議なほどそれがうかがえない。それどころかむしろ、どんどん読者の知的好奇心をわしづかみにしてくるというか、美しい狂気――といって悪ければ、滾るような精神的なマグマとでもいうべき迫力噴出のフレッシュな著作頽廃みたいなのだ。

 評者のみるところ、本書もまた、ビブリオと付論をプラスの比較的近著の新版『国民の歴史』(上下巻の文春文庫)や『江戸のダイナミズム』、さらに一連の『GHQ焚書図書開封』シリーズ同様、その種の熱気と新鮮な問題意識のみなぎる好著となっている。たとえばなんだが、そのポイントにつき、西尾氏はいう。明治以来日本ではクリスチャンの数がいまでも百万をちょい超えるくらいで、けっしてキリスト教化されない。なぜか?これは「面白い、根の深いテーマ」なんだと。というのも、日本という国は、外からの文化をなんでも無差別に受け入れる国のように考えられているけれど、実はどうしても受け入れないものが幾つかあって、それがすなわち「原理主義的なもの」「一神教的なもの」なんだとか(ちなみに、この点は右の『国民の歴史』等でも言及されている)。

 つまり、いささかセンセーショナルな(とわたしはおもう)書題『天皇と原爆』の意味は、こういうことだ。この本は、さきの「日米開戦は宗教戦争であって、ピューリタニズムの国アメリカが、天皇を中心にしたもうひとつの神の国であるわが国に仕掛けた戦争の、原爆使用も辞さなかった破壊性から、われわれ日本人はどのようにして立ち直るべきか」を論じているということ。すなわち、一方の宗教国家アメリカは、建国以来西へ西へと勢力を伸ばし、やがてハワイ、サモア、ミッドウェー、ウェーク、フィリピンを取る。かくてついに中国に入ろうとしたところが、なんとそこに日本がいる。しかもこれが日露戦争直後で、「一等国の名乗りを上げたばかりか、なんと『神の国』を標榜する日本は、アメリカにとって憎むべきサタンであって、邪魔でしょうがない。だからこそマニフェスト・ディスティニーの最大の対象とならざるを得なかった」。別言するならこのマニフェスト・ディスティニーの最終的帰結が原子爆弾だったということだ。

 そして、このメイン・テーマにそって、この著者ならではの出来たての生ビールみたいに爽快なあと味の痛棒を、半藤一利、加藤陽子らの相変わらずのGHQ肯定史観に彩れた「歴史」へ振るっている。アメリカという国が、現在でもどんなに宗教的な国家かという内実を詳述している。わが国における仏教および儒教と神道の関連を――「時代の変化に合わせて変身した」日本独特の神の構造と姿を描いている。そうして、近代日本の「国体」観念(ナショナリズム)へダイレクトにつらなる国学や、ある種の「革命の狼煙をあげた」前・後期水戸学の果した役割を思想史的に説きつつ、これまた西尾氏ならではの促迫力をもって現今の日本人へ警鐘を鳴らしてくるのである。

 すなわち、幕末の会沢正志斉の『新論』における対外的危機感に当時の「幕閣をはじめ朝野」はあげて無関心。「何があったってケロッとして先に延ばす。そのうちとんでもないことが起こりますよ。最後にドーンと来るまで分らない」。それがまさしく今のわれわれの姿なんですよと!

『天皇と原爆』の刊行(十)

書評 文芸評論家 富岡幸一郎 「正論」平成24年7月号より

「脱東京裁判史観」探求の新たな到達点

 「アメリカは一種の『闇の宗教』をかかえているとみています」と著者が雑誌『諸君!』の討論会で発言し周囲を驚かした話が出てくるが、「大東亜戦争は宗教戦争だった」という本書を貫く主張に驚く読者もいるだろう。

 しかし日米戦争を世界史の潮流のなかで捉え直すとき、著者の洞察はきわめて本質的な問題提起となる。「闇の宗教」とは、アメリカのキリスト教がヨーロッパでの宗教戦争に敗れたピューリタンたちが、新天地で建国を果たした経緯による。彼らの「神の国」信仰は宗教原理主義を色濃く抱え込んでいるからだ。著者は直接にそのような言い方はしていないが、米国のキリスト教は16世紀宗教改革の異端は(再洗礼派のような過激性)を起源としているからこそ、その「正義」の言動は破壊性と倒錯性を孕む。インディアンの虐殺、南北戦争、そして太平洋をホワイトパシフィックと化し日本に原爆を投下した歴史を辿れば(近くでは予防的先制攻撃なる概念の捏造によるイラク攻撃など)枚挙に暇がない。

 日本はなぜアメリカと戦争したかではなく、「なぜアメリカは日本と戦争したのか」が問われなければ日米戦争の本質は永遠に封印されたままになる。その封印を解く鍵は米国の根っこにあるその宗教的ラジカリズムなのである。西へと膨張する「神の国」と衝突せざるをえなかった日本もまた、もうひとつの「神の国」であり、西洋列強の強圧のなかで「国体」を歴史的伝統の天皇信仰により形成した日本人は、この“文明の衝突”を不可避のものとするほかはなかった。本書の最終章「歴史の運命を知れ」は『江戸のダイナミズム』で日・中・欧の壮大な比較文明論を展開した著者ならではの説得力のある一文であり、情緒的な宿命論ではない。

 もうひとつ本書で看過してはならないのは、昭和天皇の「戦争責任」に言及している個所である。左翼が欺瞞的な平和主義からいうのとはむろん異なり、開戦の詔書は天皇の名によって記されており、それは日本が「神の国」であり、その「国体」によって宗教戦争を戦い抜いたことの歴史的証言だからである。天皇に責任はなかった、悪いのは陸軍だ軍人だといった議論はいわゆる保守派のなかにもあるが、それは大東亜戦争の本質を見ようしないばかりでなく、「戦争は悪である」という典型的な戦後レジームの言辞に過ぎない。これは別の形で、著者の平成の皇室に向けた発言の真意にも重なるのである。

 紙幅がなく詳述できぬのが残念だが最後に、日米の全く異質な「神の国」の激突を国学者として洞察した折口信夫が敗戦後に「神やぶれたまふ」と語ったことに対して、本書は否「やぶれた」のはどちらかという歴史への、日本人への究極の問いを未来に向けて孕んでいることを指摘しておきたい。

文芸評論家 富岡幸一郎

『天皇と原爆』の刊行(七)

産経新聞4月14日 書評倶楽部から

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中島誠之助 古美術鑑定家
昭和13年生まれ。東京・青山の骨董通りの名付け親。著書に『骨董やからくさ主人』『句集 古希千句』ほか。

長い世界史たどってみる必要

 かなり難解な本である。そのくせ一気に読み終えることができる。ということは内容の深さを理解しようとしなければ通読するだけで終えてしまうという安易さに陥る。

 要は歴史というものは、振り返ってあの時ああすればよかったとか善悪の基準だけでは決め付けることが出来ないといっているのだ。そして現在おかれた絶対安全な環境の中で、口先だけの危機感を述べることの間違いと危うさを指摘しているのだ。

 歴史を語ることの尺度を50年や100年ではなくて数世紀いや数十世紀のスケールで計って、現実の動きが必然的な結果として起きるとしたところに本書の新鮮さがある。

 日米開戦はなぜ起こらざるを得なかったのか。戦争の非は決して日本だけにあるのではなくフロンティア精神を掲げて西進したアメリカ側にもあるのではないか。アメリカ人の思想と歴史観は日本に対してどのように働いたか。それを知ることがわが国のこれからの進路を決めるうえで必要なのだと説いているのだ。

 迫害を逃れて新大陸に上陸した清教徒たちが国是としたキリスト教国家アメリカ、その西進を拒んだ日本神話に表現される神の国日本との宗教戦争が日米の戦いであったとする著者の持論は、昭和史という新語で一方的に日本を悪人扱いする世間の論調に警告を発している。

 現代社会の中で一部の人はなにか言うことが許されないもやもやとした気持ちを持っている。なぜ原爆を落とされなければならなかったのだ。そこに至る長い世界史をたどってみる必要があるのではないか。

 日本の敗戦直後、アメリカは皇太子の家庭教師としてクエーカー教徒の婦人を派遣してきた。あれから60有余年の後、アメリカの意図がどのような結果を我が国にもたらしたか。ここらで確(しっか)りと考えて見る必要があるようだ。

『天皇と原爆』の刊行(六)

 内田さんは出版者として私の『江戸のダイナミズム』を出して下さった人で、『諸君!』終刊号の編集長でした。

 

謹啓

 なお寒い日が続きます。ご新著有難うございました。誠に面白く拝読いたしました。

 「天皇と原爆」とは、読者に謎をかけ、しかもどことなくベネディクトを連想させて、秀逸な題名でした。テーマは壮大で深遠ですが、語り口調がよく活きており、大変読みやすく感じられました。新潮社の担当の方も、良い仕事をされたのではないかと拝察します。

 「江戸のダイナミズム」以後、仲小路彰など「GHQ焚書」の研究を通じて、西尾日本史論は一層の深化発展を遂げました。ご新著はそのことを端的に物語る一冊といえるのではないでしょうか。

 焚書など驕れる戦勝国の暴挙であることはもちろんですが、語るに足る良書をきちんとえらんで槍玉にあげていることに、妙な感心もさせられます。日本側協力者とおぼしき金子、尾高らが、それなりに“具眼の士”であったとかんがえていいのでしょうか。今回、重要な役割をはたしている和辻哲郎とは、ゆかりの深い人々のようですが、そのあたりを含めた、西尾先生の総合的評価を知りたいと感じました。

 終盤、国の「運命」をめぐる考察は、一巻の山場を感じます。小林秀雄畢生の名啖呵「利口な奴はたんと・・・・・」が、西尾先生の記述によってはじめて腑に落ちた気がしました。

 水戸学の変容を的確に要約して、アメリカ建国史との共時的展開を指摘された一節も、鮮やかです。欧州と日本の並行発展は斬新です。この部分もさらに掘り下げていただきたいものと思いました。

 全集第一巻は、途中まで読んでしばし中断していましたが、これから続きにとりかかりたいと思います。第三回配本も楽しみに致しております。

 何卒ご自愛ください。取り急ぎお礼とご挨拶まで
                 
                     敬具
平成24年2月12日            文藝春秋内田博人

西尾幹二先生

『天皇と原爆』の刊行(五)

「週刊新潮」3月22日号より 匿名

 なぜ著者はここまで忌憚なくこの国の本質を鋭く衝くことができるのか。それは「我々は何か大きくすり替えられて暮らしている。頭の中に新しい観念をすり込まれて、そこから立ち上がることができなくなっている」という危機感があるからだ。

 本書を貫いているのは歴史を正しく見ることの重要性である。特に、現在の視点で過去の出来事を捉えることの危うさが説かれる。たとえば「侵略国家」「侵略戦争」という言葉は、戦後の日本人が自分の国を誹謗するための自虐的なもの。勝者である占領軍の歴史観でものごとのすべてを見ようとする姿勢は誤りだと著者は言う。

 またアメリカの西進政策の背後には「東洋開拓を競う英米対決」があったこと、自国の利己主義に基づく戦略は、昔も現在も変わらないことを明らかにしている。アメリカは、常に人類を裁く法廷を司りたがる「神の国」だとの指摘は多くの示唆に富む。(新潮社・1680円)

『天皇と原爆』の刊行(三)

 『天皇と原爆』の出版には、私なりの思い入れがあるが、じつは初めての試みが内容面ではなく、本の造りにおいてもおこなわれている。この本には、著者の年齢・経歴・業績などがいっさい書かれていない。私の名前が記されているだけである。

 私の著作家人生において初経験である。かねてこういう本を出したいと思っていたが、今の出版界の常識に反するので、実行できなかった。

 この案を最初に言い出したのは私ではなく、新潮社の担当者の富澤祥郎さんだった。私は渡りに船だった。これは前からの願望だったが、自分からは言い出せなかった。言い出しても実現されないと思っていたからである。

 戦前の本はたいてい著者名だけだった。本の奥付あたりに、ごたごたと著者の来歴を書く習慣は戦後に始まったのである。何故だろう。理由はわからない。

 何でもシンプルが一番いい。今回は『WiLL』4月号の堤堯さんの書評をお送りする。ストレートな書評である。

 本書は、著者がCS放送(シアターTV)で行った連続講話をまとめた。小欄は毎回の放映を楽しみに見た。これを活字化した編集者の炯眼を褒めたい。

 著者は日米戦争の本質を「宗教戦争」と観る。アメリカは「マニフェスト・ディスティニー(明白な使命)=劣等民族の支配・教化」を神から与えられた使命として国是に掲げ、それを「民主化」と称して世界に押しつける。ブッシュの「中東に民主化を!」にも、それはいまだに脈々と受け継がれている。

 かつて第十代の大統領タイラーは清国皇帝に国書を送り、 「わがアメリカは西に沈む太陽を追って、いずれは日本、黄海に達するであろう」と告げた。西へ西へとフロンティアを拡張した先に、これを阻むと見えたのが「現人神」を戴く非民主主義国(?)日本だ。これを支配・教化しなければならない。

 日露戦争の直後、アメリカはオレンジ・プラン(対日戦争作戦)を策定した。ワンシントン条約で日英を離反させ、日本の保有戦艦を制限する。日系移民の土地を取り上げ、児童の就学を拒否するなど、ことごとに挑発を続けた。

 日中衝突を見るや、いまのカネに直せば十兆円を超える戦略物資を中国に援助する。さらに機をみて、日本の滞米資産凍結、くず鉄、石油の禁輸で、真綿で首を絞めるがごとくにして日本を締め上げる。着々と準備を進めて挑発を重ね、日本を自衛戦争へと追い込んだのは他ならぬアメリカだ。それもこれも、神から与えられた使命による。

 彼らピューリタンからすれば、一番の目障りは日本がパリ講和会議で主張した「人種差別撤廃」の大義だった。大統領ウィルソンは策を用いてこれを潰した。彼らの宗教からすれば、劣等民族は人間のうちに入らない。かくて原爆投下の成功に大統領トルーマンは歓喜した。

 ニューヨークの自然史博物館に、ペリー遠征以来の日米関係を辿るコーナーがある。パシフィック・ウォーの結果、天皇システムはなくなり、日本は何か大切なものを失ったといった記述がある。インディアンのトーテムを蹴倒したかのような凱歌とも読めるが、一方で、わがアメリカへの抵抗の心柱となった天皇を、なにやら不気味な存在と意識する感じも窺える。

 戦後、アメリカはこの不気味な存在を長期戦略で取り除く作業に取りかかる。憲法や皇室典範の改変のみならず、いまではよく知られるように皇室のキリスト教化をも図った。日本の心柱を取り除く長期戦略はいまだに継続している。このところ著者がしきりに試みる皇室関連の論考は、それへの憂慮からきている。

 従来、戦争の始末に敗戦国の「国のかたち」を改変することは、国際社会の通念からして禁じ手とされてきた。第二次大戦の始末で、はじめてそれが破られた。改変の長期戦略は、日本人でありながら意識するしないにかかわらず、アメリカの「使命」に奉仕する「新教徒」によって継続している。

 むしろ「宗教戦争」を仕掛けたのはアメリカだとする主張──それが本書全編に流れる通奏低音だ。いまだに瀰漫する日本罪障史観に、コペルニクス的転換をせまる説得力に満ちた気迫の一書である。

堤堯『WiLL』4月号より

『天皇と原爆』刊行(二) ・チャンネル桜出演のお知らせ2

宮崎正弘さんの書評

 

この馬鹿馬鹿しくて、だれた世の中に号砲一発、保守論壇も揺さぶる
  西尾式爆発力をともなった問題提議、史観の再確立を呼びかける問題作

  ♪
西尾幹二『天皇と原爆』(新潮社)
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 いきなり近代史の総括的整理を西尾氏は次のように叙する。
 西安事件から廬講橋事件、そして「スペインの内戦から第二次上海事変(1937年8月)まで歴史を動かしていたのはコミンテルンとユダヤ金融資本です。突如として英ソが手を結んだ欧州情勢はヒットラーの憎々しさだけでは説明できません。当時アメリカ大統領がコミンテルンの思想に犯されていたことは判明しましたが、英仏の政治中枢も同様であったかもしれません。スペインの赤化政府を応援し人民戦線に簡単に味方した欧米の知識人、アンドレ・マルロォやヘミングウェイ等の動きはやはり簡単には理解できない謎です。あの時代を神秘的に蔽ったコミンテルンの影響史と、それを裏から手を握った金融財閥の影を決定的要因と見ない歴史叙述は、やはり現実を反映しないフィクションにすぎない」
 
 そうだ。スペイン内戦になぜマルロォは飛んでいって『希望』を書き、ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書いたのか、不思議でならなかった。名状しがたいムードに流されたか、あるいは日本でもマルクス主義が猛威を振るったように流行現象、知識人にもっとも伝染しやすい病気であったのか?
 本書は日本の空疎な論壇やアホな「政治ごっこ」に明け暮れるぼんくら政治家、それを許容している大半の日本人にしかけられた凄まじい破壊力をもつ爆弾である。

 しかし多作で多彩なテーマを追う西尾さんが、またまた瞠目すべき題名の本書を書かれたわけだけれど、いったい何時、このような新作を構想され、準備し、執筆されているのかと訝しんだ。傍らで全集を出されている時期にもあたり、執筆の時間がよくおありになったなぁ、と。
本書の「あとがき」から先に読んで納得、これは二年がかりでテレビのシリーズで論じられた草稿に手を加え、TPPも話題の中にでてくるほどに時宜を得た政治的哲学的な装飾を施した新刊なのである。
読み始めて評者(宮?)はなぜか脈絡なく歴史家ポール・ケネディの『大国の興亡』という仮説を類推し、ついでポールの息子と日本に滞在中になした会話を思い出した(息子は日本に一年ほど研修できていた)。
そのとき、評者は或るラジオ番組をもっていたので、かれに出演を促し、英国人としての意見を聞いたことがある。
ちょうどパパ・ブッシュの湾岸戦争が米国の大勝利に終わって、ブッシュ政権は「ニュー・ワールド・オーダー」(世界新秩序)なる新戦略を盛んに吹聴していた。後にもイラク戦争に大勝利したブッシュ・ジュニアのときにネオコンが「リバイアサンの復活」を獅子吼したような戦捷の雰囲気があった。
しかし中東と南アジアでの米軍の結末はどうだろう。米国の栄光はすぐにペシャンコになり、イラクはシーア派にもぎ取られる勢い、アフガニスタンは宿敵ビン・ラディンを殺害した途端に撤退を始める。連続する無惨なる敗北、あのベトナム戦争のときの精神的トラウマが米国の輿論を覆い尽くし、イランが核武装するのを拱手傍観、経済制裁でお茶を濁しつつ、ホンネではイスラエルの空爆奇襲を待望しながらも、表向きは「イスラエルの空襲には協力しない」などと綺麗事を言いつのる。
やけっぱちの米国は口舌の徒=オバマを選んだ。彼の外交は素人であり、敗北主義であり、猪突猛進の米国が内向期の循環をむかえたかのようだ。
そのことはともかくとして、湾岸戦争の勝利直後、ポール・ケネディの息子に「世界新秩序なんて聞いて、どう思うか?」と尋ねると、「いやな感じですね。なんだかヒトラーみたい(に米国は傲岸である)」。

 さて本書で西尾さんが力点をいれて論じるテーマのキー・ワードは「闇の宗教」(米国)と「神の国」(日本)である。
米国は「マニフェスト・ディスティニィ」などという呪術的な闇の信仰にとりつかれて奴隷解放の名の下の南北戦争以後、西へ西へとインディアンを撲滅しつつ西海岸から太平洋に進出し、その際に最大の障害だったスペインに戦争を仕掛けてプエルトリコを奪い、キューバにスペイン艦隊を追い込んで殲滅し、運河を建設するためにパナマを奪い、ハワイを巧妙に謀略で合併し、そしてサモアの半分を奪い、フィリピンを奪い、その果てしなき侵略性を剥き出しにしつつ日本との戦争を準備したのだ。
日米戦争は始めから終わりまで米国が仕掛け、日本にとってみれば理由の分からないまま、米国の横暴に挑戦した。やむにやまれぬ大和魂の発露でもあった。
米国は最終的にシナの権益を確保するために満州を奪おうとして、日露戦争では日本を便宜的に支援したものの、日本が満州を先取りするや、猛烈に日本に攻撃を仕掛け、つまり『太平洋戦争』なるものは、米国の謀略で日本を巻き込んだ結末にほかならない。
米国が「正義、フェア」などと表面的には綺麗事を並べるが、その基本にある潜在意識は闇の宗教、やってきたことは正反対、おぞましいばかりの殺戮と侵略と世界覇権だった。
 この文脈から推論すれば次なるシナリオとは、米国に楯突く中国といずれ米国は対決せざる得なくなり、その準備のために在日米軍の効率的再編を行い、日中離間をはかっていることになる。
 こうした歴史観からすれば、対米戦争は日本が悪かったとか、シナへは侵略戦争だったとか、正邪が逆転している、いまの日本を蔽う自虐史観がいかに視野狭窄で政治的謀略に基づく利敵行為であるかが理解できる。
 本書で西尾さんは「懇切丁寧」ともいえるほど平明で、しかし執拗に半藤一利らに代表される左翼似非(えせ)史観を糾弾しつつづける。
 評者にとっては半藤とか、丸山真男とかは「正真正銘のバカ」という一言で、詳しく論ずるのも馬鹿馬鹿しいと思っている。「正真正銘のバカ」というのは「たらちねの母」のように枕詞である。しかし西尾さんは、これらの似非歴史家への批判を通じて、わかりやすい、正しい歴史観を説明されるのである。加藤某女史への適切にして舌鋒鋭き批判の展開も、国学の復活と視座からパラレルに揶揄される。

 西尾さんはこうも言われる。
 「まだ国家が生まれていない十三、四世紀のヨーロッパ世界において、教会が『神の国』であったのと似た意味で、この列島で意識されていた『神の国』とは、一貫して天皇だった」、日本では「儒仏神という三つの宗教があって織りなす糸のように混じり合い絡み合い、とりわけ神仏が二つに切り離せないほどに一体化してしまったところに儒教が出てきて、仏教に支配されていた神道を救い出すというドラマもおこ」った。これが「江戸末期の水戸学、『国体論』の出現でした」

 ともかく一神教の「神の国」である米国は、「日本にサタンを見て、この国の宗教をたたきつぶそうと意識していたんですよ。ためらわずに原爆まで落とすくらいに。こっちは『菊と刀』みたいなことは全然考えてなくて、(当時の日本の論客らの総括では)アメリカは統計と映画の国と書いてあるだけ」で、「そんなことで勝てっこない」
 だから言い訳がましくも強弁を張る米国の政治家とて、原爆投下は後ろめたいのであり、日本は米国に執拗にそのことを糾弾すべきであると西尾さんは言う。
しかも米国は日本に復讐されると恐れるがゆえに日本の核武装を防ぐために核拡散防止条約を押しつけ、NPT体制の構築でひとまず安心、しかしインド、パキスタンに続いて北朝鮮の核武装で「核の傘」が破れ傘になるや、日本が米国の核の傘は信用できないと言えば、おどろき慌てて「核の傘は保障する」とだけを言いにライス国務長官が日本へ飛んできたこともある。
 西尾さんは本書の掉尾を藤田東湖の『正気の歌』を掲げて筆を擱いているが、本書を通読したあとだけに理由が深く頷ける。西尾さんは子供の頃、この正気の歌を暗誦していたというのも驚きだった。 
         ○△ ○△ □○

番組名  :「闘論!倒論!討論!2012}

テーマ  :「キャスター討論・漂流する戦後日本を撃つ!」

放送予定日:平成24年2月18日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
       インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)
       「Youtube」「ニコニコチャンネル」オフィシャルサイト
     
パネリスト:(50音順敬称略)
      井尻千男 (桜プロジェクトコメンテーター)
      小山和伸 (桜プロジェクト・報道ワイド日本Weekendキャスター)     
      鈴木邦子 (報道ワイド日本Weekend」キャスター
     西尾幹二 (GHQ焚書図書開封)
      西村幸祐 (報道ワイド日本Weekend・桜プロジェクトキャスター)
      三橋貴明 (報道ワイド日本Weekend・桜プロジェクトキャスター)
      三輪和雄 (桜プロジェクトキャスター)
      
          
司 会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

『天皇と原爆』刊行(一)

 私の新刊『天皇と原爆』(新潮社¥1600)が2月初旬に刊行されました。目次を掲げます。

  目 次
第一回   マルクス主義的歴史観の残骸
第二回   すり替わった善玉・悪玉説
第三回   半藤一利『昭和史』の単純構造
第四回   アメリカの敵はイギリスだった
第五回   アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか
第六回   日本は「侵略」国家ではない
第七回   アメリカの突然変異
第八回   アメリカの「闇の宗教」
第九回   西部開拓の正当化とソ連との未来の共有
第十回   第一次大戦直後に
      第二次大戦の裁きのレールは敷かれていた
第十一回  歴史の肯定
第十二回  神のもとにある国・アメリカ
第十三回  じつは日本も「神の国」
第十四回  政教分離の真相
第十五回  世界史だった日本史
第十六回  「日本国憲法」前文私案
第十七回  仏教と儒教にからめ取られる神道
第十八回  仏像となった天照大神
第十九回  皇室への恐怖と原爆投下
第二十回  神聖化された「膨張するアメリカ」
第二十一回 和辻哲郎「アメリカの國民性」
第二十二回 儒学から水戸光圀『大日本史』へ
第二十三回 後期水戸学の確立
第二十四回 ペリー来航と正気の歌
第二十五回 歴史の運命を知れ

あとがき

【付録】帝國政府聲明(昭和16年12月8日午後零時20分)

天皇と原爆 天皇と原爆
(2012/01/31)
西尾 幹二

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 今日は二つの書評をお送りします。

 最初は都留文科大学教授・文芸評論家の新保祐司さんが新潮社の『波』(2012年・2月号)に書いて下さいました。もうひとつは私の高校時代の友人の、関東学院大学名誉教授・経済学者の星野彰男さんからの私信です。星野さんは私の竹馬の友で、アダム・スミスの専門研究家です。

 このお二人の論評は対照的で、星野さんは批判的読み方をしています。これらの書評に触れてでもよく、拙著を読んだ方の評文をコメント欄に期待します。

歴史哲学者の衷心からの直言

――西尾幹二『天皇と原爆』  新保祐司

 西尾幹二氏は、世間では保守派の論客ということになっているが、本書の中に天皇の戦争責任をめぐって「私は左翼の議論も、いわゆる保守の議論も、どちらも容認できない」と書かれている。この問題に限らず、氏は「いわゆる保守」の人ではないので、本書にあらわれている精神の相貌は、深い憂国の情をたたえた一人の歴史哲学者のものであるといっていいように思われる。

 時事的な問題についての発言も氏は積極的に行っているが、それも単なる時事評論家の解説の類ではなく、「歴史の運命は、私たちのこの目の前で今も起こっているんだということを、片ときも忘れてはいけないのだ」との、自らに課している戒律に基づいているのである。

 私たちの国は今、再び国体論をきちんと考え直さなければ切り抜けられそうにない時代にさしかかっている」という危機感から、本書の歴史哲学は生まれているが、その眼目は、日本とアメリカが戦った大東亜戦争とは、宗教対宗教の戦争であったとするところにある。

 これは、世界や人間を考えるときに、宗教という視点をほとんど考慮しない今日の日本人の盲点を鋭くついた議論である。「これまで日米戦争をめぐっては、政治的、外交的、経済的にはたくさんの説明がなされてきましたけれども、宗教との戦いが大きく背後にあったことは、あまり論じられておりません」と氏が指摘される通りであり、本書の歴史哲学の画期的な意義はそこにあるであろう。今日必要なのは、実証的な事実の検証を誇る歴史学ではなく、日本人に日本人であることの意義と誇りを回復させる歴史哲学であり、それは歴史の宿命を明らかにするのである。「外務省の文書館にそんな記録があるのか。ありませんよ。証拠はなくったって、まさにそれが歴史なんです。歴史とは、細かな実証的事実にとらわれてどうだこうだの閑話ではまったくないのだということを、よく理解していただきたいと思います」と語るのは、まさに信念に溢れた歴史哲学者に他ならない。

 「神のもとにある国・アメリカ」の章で詳しく論じられているように、アメリカとは「神の国」なのである。「進化論を信じられない人が極めて多く、現在でも神を信じる人が92パーセントにのぼるアメリカ」とあるように、アメリカは極めて宗教的な国といっていい。

 そして、次の章は「じつは日本も『神の国』」と題されている。日本思想史、あるいは日本宗教史に関する該博な知識と深い考察により展開されている日本の精神的本質についての議論は、今日の日本の危機的状況を鑑みるとき、極めて重要なものであり、日本の歴史と文化について考えるに際しての豊富なヒントを与えてくれるであろう。

 昭和の戦争を満州事変あたりから昭和20年の敗戦に至る期間に限定して論ずる今日の一般読書界に広く読まれている著者たちの言説に対する厳しい批判は、この昭和の戦争をもっと尺度の長い世界史の視野から見ることが必要だからである。期間をその15年ほどに区切れば、日本は「侵略」国家にされてしまうのである。17、18世紀から始まる西洋のアジア侵略がまず先にあったことを頭に入れようとしない。

 「日米戦争は、アメリカの強い宗教的動機と日本の天皇信仰とがぶつかり合った戦いにほかなりません」と結論づけられていて、「向こうは日本にサタンを見て、この国の宗教を叩きつぶそうと意識していたんですよ。ためらわずに原爆まで落とすくらいに」と、日本への原爆投下という最も恐るべき行為も宗教的動機があったからこそ可能だったとしている。この見解をはじめ、本書には苛烈な発言が多い。しかし、「我々は何かに大きくすり替えられて暮らしている。頭の中に新しい観念をすり込まれて、そこから立ち上がることができなくなっている。その現実を、しかと見ていただきたいと思います」とは、そういう発言をせざるを得ない著者の衷心からの直言であろう。

関東学院大学名誉教授(経済学)星野彰男

 このたびは、ご新著『天皇と原爆』をご恵贈下さり、まことにありがとうございます。表題からは、こういう内容であるとは想像できませんでした。日米間の宗教比較論や水戸学などこれまでに無い新しい見解が満を持したように披瀝され、大いに学ばせていただきました。これほど徹底した議論はこれまで触れてこなかったので、これをどう受け止めたらよいのか、正直のところ大変戸惑っています。

 M.ウェーバーの宗教社会学に近い面もありますが、内容的には正反対のようです。彼は、宗教改革→合理化精神→資本主義精神→「精神なき専門人」というテーマで、ヒンズー教、儒教、道教等と比較分析しましたが、基本は「合理化」論ですから、丸山真男や大塚久雄のような見方になりましょう。その点、本書はむしろ非合理的な情念、伝統、共同性、ナショナリズム、国家、祭事等を内容とした日本宗教論ですから、ウェーバーでは捉えきれない面を捉えています。その点は『江戸のダイナミズム』と同様です。むしろ、ウェーバーが批判したドイツ歴史学派の見方に重なると言えるかもしれません。

 ただしその分、アメリカの建国経過の否定的面が強調されました。そういう議論はわれわれの分野でも時々提起されますが、「今さらそれを言っても」という雰囲気です。土地所有観念の無い狩猟族に労働所有観念を所有する文明人(ホッブズでなくロック)が鉢合わせすれば、仮に日本人が殖民しても同じ結果になるはずです。したがって、われわれはこれを暗黙裡に「歴史の宿命」として黙認してきたようです。

 それと土地所有観念を有する国に殖民して現地人と争いになることは、かなり次元の違う問題でしょう。それらを混同したところに日本の殖民の無理筋がありましょう。日本、ドイツ、ロシア等にとって、もはや狩猟族の大地が残されていなかったことも、「歴史の宿命」ではないでしょうか?

 和辻哲郎にそういう客観的な見方があったでしょうか?あの状況下では無理でしょう。満洲殖民にそういう無理があったとすれば、そこにアメリカの投資を認めていれば、それで済んだかもしれません。その上で、欧米列強の植民地の門戸開放を主張すれば、アメリカもこれを認めたかもしれません。それがアダム・スミス路線で、矢内原忠雄はそれに近かったようです。しかしすべてが「宿命」であれば、言っても無駄なことで、敗戦も東京裁判もそうでしょう。だとすれば、ご説のようにこれからどうするかだけが問題となるでしょう。

 ご指摘のホッブズから、ロック(ルソー)→ヒューム→スミスに至り、宗教や政治を含む歴史を動かす動因は経済力にあることが解明されてきました。ウェーバーはその逆作用をも捕らえましたが、いずれにしても経済がポイントです。今はそれが金融過剰化によって危機的状況を迎えていますが、それは明らかにスミス路線から余りにも逸脱した結果です。したがって、そこにいかに戻すかに成否がかかっています。それを充分勘案した上での宗教や国のあり方が問われるのではないでしょうか?それらの極端な原理主義は経済にとっての妨げになり、自滅します。なお、これに関わる「書評」を発表しましたので、同封します。上記と多少か関わりのある議論があります。  不一

全集書評

宮崎正弘さんによる書評 
 これは現代日本の思想界の“事件”だ

            西尾幹二全集、刊行開始! 特集号

西尾幹二『西尾幹二全集 5 光と断崖、最晩年のニーチェ』(国書刊行会)

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 ▲ニーチェの多岐にわたる全貌、知のダイナマイトが爆発

 西尾幹二全集の第一回配本はニーチェ。単行本になおして五、六冊分を収録している。

 まずは造本、装丁のみごとさにうたれ、じっと本棚において観ていた。二、三日のあいだ、ただ眺めていたのである。

 これを読み徹すために、今後、いかなる読書時間を配分するか、毎日すこしずつ読んでいくしか方法がないだろうけれども、それをどう工夫するかという形而上学以前の思考に明け暮れる始末だった。

 本棚のもう一つの棚には福田恒存全集(麗澤大学出版版)が鎮座ましまし、ともかく全巻がそろっているが、ようやく半分を読んだに過ぎない。福田さんの書き方は平明だから速読出来るが、それでもあの膨大な作品群をぜんぶ読むとなると、それはそれは大変な作業である。もうひとつ余計なことをつけくわえると私の本棚に三島全集はない。全作品をばらばらで持っており、文庫版にいたっては同じ本を3冊も四冊ももっているけれど。

 村松剛は全作品もっているが、江藤淳は一冊しかない。小林秀雄と保田輿重郎もほぼ全作品をばらばらに持っている。

 さて、わたし自身、西尾さんの良い読者とは言えない。

  『ヨーロッパの個人主義』『ヨーロッパ像の転換』など学生時代に夢中になって読んだし、衝撃的デビュー作以後の西尾作品をほぼ全部読んだつもりでいたのは、じつに浅はかな錯覚で、というより思い違いだった。全集の作品一覧をみて、西尾さんはこれほど多作だったのかと感嘆したのだ。

 ▲これほどの多作家だったとは

 西尾幹二全集の概要を見渡せば、冷戦終結以後の東欧のルポや『国民の歴史』『江戸のダイナミズム』などを鮮明に記憶するのに、初期の作品群と翻訳は『この人を見よ』いがいに読んでいないことに気がついて、やや茫然とする。

 ただし新潮文庫にはいった西尾幹二訳の『この人を見よ』は三回か四回読んでいる。そうでありながらまだ咀嚼できない。

 ニーチェは難しい。

 ニーチェは日本で最も人気のある哲学者・思想家だが、これほど広く誤解されている、あるいは完全にまちがって人口に膾炙された思想家もいないだろう。またナチスの魁だとか、『権力への意思』は未完成だったが、その死後の真実も殆ど知られていない。トーマスマンが批判したニーチェ解釈が、まだ日本の読書界の一部に蔓延している。

 そもそもニヒリズムを「虚無主義」と日本で翻訳されたところが誤解の出発ではなかったのか。キリストを否定した一点で毛嫌いされた読書家も多いらしいが、虚無だけの観点なら中里介山『大菩薩峠』という仏教の無を表した作品がある。

 「ニヒリズム」とは何か。西尾さんは簡潔に言う。

 「ニーチェは二千五百年に及ぶプラトン以来の形而上学の歴史が意味を失ったことともってニヒリズムとしている」(479p)。

▲三島由紀夫とニーチェ

 さて小生にとってのニーチェとは、文学青年時代に濫読した思想家のワンノブゼムでしかなく、熱狂したこともなければ、すみずみまでを舐めるように全作品を読み通した体験もない。

 そうはいうもののサルトルやラッセルなど途中で本を捨てた哲学者とは異なって、何となくニーチェに関心を抱いたのは、じつは三島由紀夫が触媒である。

 三島が『豊饒の海』に取り組む前までに、もっとも影響を受けた思想家はニーチェである。断定的に聞こえるかもしれないが、三島の『宴のあと』『絹と明察』はまことにニーチェ的であり、『美しい星』の主人公達はディモーニッシュであり、三島がニーチェをよくよく読みこなしていたことは研究者のあいだにも知られる。そして三島が好んだ音楽はワグナーだった。

 さすがに西尾さんは、この点に重々ふれて、次の文言を挿入されている。

 「萩原朔太郎が表現と情緒において感性的影響を受けた孤独は漂泊者の姿、斎藤茂吉の作歌の隅々に反響している生命観のリズム、小林秀雄が歴史の客観的学問に懐疑を寄せた際の、美と生の模範としての概念拒否の姿勢、三島由紀夫が認識と行為の矛盾した軌跡に示したパトスの源泉としての意味」。

 つまり三島とニーチェの結びつきは、「最初からなんとなく予感されるある内的緊密生」(529p)を保有している、と。

 三島がニーチェを卒業し、神道から仏教思想へいたる過程が『奔馬』『暁の寺』である。

 わたしはニーチェが仏教について次のように書いていたことを、西尾幹二全集を通して、じつは初めて知った。

 ニーチェの仏教のとらえ方とは、

 「仏教は、幾百年とつづいた哲学的運動の後に出現しているのだ。<神>という概念は、出現当時すでに、始末がついている」

 「仏教は、もはや<罪に対する戦い>などを口にしない。その代わり、どこまでも現実というものを認めた上で、<苦悩に対する戦い>を言う。仏教はーーこの点でキリスト教からは深く区別されるのだがーー道徳概念の自己欺瞞をとうに脱却している」

 そしてこうも言う。

「仏陀は、心を平静にする、あるいは晴れやかにする理念だけを要求する」

「仏教の前提をなすものは、きわめて温暖な風土と、風俗習慣に観られる大いなる柔和さ、暢びやかさといったものであって決してミリタリズムではない」

 もっとも『この人を見よ』には次の記述があった。

 「(ルサンチマンが御法度と知っていたのは仏教であり)、仏陀の『宗教』は、むしろ一種の衛生学と読んだ方が、キリスト教のようなあんな哀れむべきものとの混同を避けるためにもかえって良いのだが、この『宗教』はルサンチマンに打ち勝つことを持ってその功徳としていた。つまり、魂がルサンチマンによって左右されないようにすることーーこれが病気からの回復への第一歩なのである」(西尾訳)

▲ニーチェの翻訳は岩魂を鑿で彫り刻むような仕事

 西尾氏のニーチェへの取り組みは全生涯かけての学問的要求と執念に満ちている。

 その凄まじいまでの取り組み姿勢は留学中のドイツでイタリア人のニーチェ研究家に会い、膨大な文献、未整理の資料に圧倒され、また西ドイツのニーチェ研究がむしろ遅れていること、ワイマールのニーチェ蔵書が手つかずのまま残っていることなどを知る。

 訳業にあたっては精読に精読を重ね、ドイツ留学時代にもあらゆる関連文献を探し、あるいは目処をつけ、幾多の資料を買い込み、マイクロフィルムにも特注し、私製の海賊版をつくり、そして書斎に寝かせて“熟成させる“歳月も必要だった。

 西尾さんは翻訳の苦労に関してこういう。

 「ニーチェの文章を翻訳するのは岩魂を鑿で彫り刻むように仕事である。一語一語が緊密に詰まって、内容が圧縮されているからである。しかも語と語のあいだに意味上の空隙があり、飛躍があり、従って訳語の選択にはきわめて大きな自由の幅が与えられている。訳者の解釈力がそのつど強力に問われる」

 そしてできあがったニーチェ研究の集大成にはドイツにおける研究成果の検証、日本における高山樗牛からかれこれ百年になろうというニーチェ研究の来歴を総括されるという、あきれるほどの労力が濃縮されて第一回配本に集約されたのである。

 一週間かけて、ようやく初回配本を(ドイツ語論文をのぞいて)読み終え、呑んだ珈琲のおいしかったこと!

全著作を収めた初の決定版全集!!  西尾幹二全集

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全22巻(年4冊刊行)

 ―  ニーチェ研究で衝撃のデビューを果たし、日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた「知の巨人」西尾幹二の集大成。

― ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、文学評論、教育論、日本の歴史、世界史観、さらにはヨーロッパ留学から病気体験を経て、自己の少年期までを語る自分史を通じ、自由とは何か、人生の価値とは何か、日本の根本問題とは何かを問うてきた思想家の、そのひたむきな軌跡を辿る。

第一回配本 第五巻(六〇九〇円(税込) 発売中

 『光と断崖──最晩年のニーチェ』 ~発狂直前のニーチェ像を立体化し、未刊行の・西尾のニーチェ・を集成する

(全巻の内容)

西尾幹二全集 全二十二巻(巻数順に年四冊配本予定)

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第 一 巻 ヨーロッパの個人主義 平成二十四年一月刊行予定

第 二 巻 悲劇人の姿勢

第 三 巻 懐疑の精神

第 四 巻 ニーチェ

第 五 巻 光と断崖―最晩年のニーチェ(発売中)

第 六 巻 ショーペンハウアーの思想と人間像

第 七 巻 ソ連知識人との対話

第 八 巻 日本の教育 ドイツの教育 

第 九 巻 文学評論

第 十 巻 ヨーロッパとの対決

第 十一 巻 自由の悲劇

第 十二 巻 日本の孤独

第 十三 巻 全体主義の呪い

第 十四 巻 人生の価値について

第 十五 巻 わたしの昭和史

第 十六 巻 歴史を裁く愚かさ

第 十七 巻 沈黙する歴史

第 十八 巻 決定版 国民の歴史

第 十九 巻 日本の根本問題

第 二十 巻 江戸のダイナミズム

第二十一巻 危機に立つ保守

第二十二巻 戦争史観の革新

内容見本ご希望の方は、下記へお問い合わせ下さい。

株式会社 国書刊行会

電話:03-5970-7421 Fax :03-5970-7427

Email:nakagawara@kokusho.co.jp

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 <西尾幹二全集刊行 記念講演会>

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西尾幹二先生の全集刊行が開始されました。これを記念して氏の講演会が開催されます。ふるってご参集下さい。入場無料です。

         記

とき  11月19日(土曜) 午後六時開場 六時半開演

ところ 池袋「豊島公会堂」http://www.toshima-mirai.jp/center/a_koukai/

演題  西尾幹二「ニーチェと学問」

入場  無料

主催  国書刊行会(http://www.kokusho.co.jp)

    問合せ先03‐5970‐7421