阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十回)

(2-38)ドイツ人、フランス人、イギリス人は、ドイツ人、フランス人、イギリス人であることを超えることはできるけれども、ヨーロッパ人であるというもう一つの外枠があるからこそ自国民を超えることができる。しかし日本人にそれはない。日本人が日本人であることを超えることができるような枠が、日本の外にあるだろうか。

(2-39)歴史の中には「狂人の愚行」としか思えない完璧なまでの生気の行動があるのです。

(2-40)私小説は小学生が家庭や学校で起こった出来事をできるだけ正直に表現する「綴方(つづりかた)」の世界に似ているのではないかと思ったこともあります。そして、秀れた書き手の手にかかる綴方や作文は「文学」の域に達するのです。日本文学の伝統に根ざす随筆の分野はそれでしょう。

(2-41)日本人は過去に立ち戻る必要があります。過去における皇室と国民との関係を再興する義務があります。
 再び戦争をせよ、ということではなく、なぜ戦争に至ったのか、日本人のあの開戦の日の解放感の独自性、緊張と恍惚とのこもごものあの不可解な安堵感をあらん限りの知的想像力をもって蘇生させるべきであります。そこを通過しないと日本人は自分を取り戻すことはできません。それには先立つ歴史の研究だけでなく、皇室が持っていた国民に対する位置、皇室の威厳というものの回復が図られなくてはなりません。

出展 全集第2巻 「Ⅴ 三島由紀夫の死と私」
(2-38) P429 上段 「第二章 一九七〇年代前後の証言から」より
(2-39) P489 下段 「第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する」より
(2-40) P496 下段 「第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する」より
(2-41) P508 下段 「第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十九回)/お知らせ

日本人よ、歴史を取り戻せ!
―米国の日本永久占領 
   イデオロギーの根源―

日時:9月26日(金)午後6時30分~
(会場 6時)

場所:アイムホール ファーレ立川・女性総合センター1F
   JR立川駅北口徒歩7分
   立川市明保野町2-36-2
   Tel 042-528-6801

主催:日本会議(立川・国立・国分寺支部)

後援:新しい歴史教科書をつくる会(東京三多摩支部)

協賛:頑張れ日本!全国行動委員会

問い合わせ: 小町 090-8080-5588
         斉藤 090-6310-0354

(2-34)日本列島に住む住民とその文化を愛し、日本の国の歴史を正道に戻そうとする全体的な意思というものを重んじる、その一翼を担い、その一端に列しているということは主人持ちですね。いいじゃないですか。主人持ちでけっこうではないのか。主人のいない純粋芸術派の弱さ、純粋学問の虚しさになぜ彼らは目を醒まそうとしないのか。

(2-35)芸術の純粋性や学問の自立性などというようなものは、薄っぺらな紙切れみたいなものであって、そんなものは全体とか、国家とか、共同体とか、あるいはそれらを越えた歴史というものの前では勝ち目はないんですよ。ましてや全体主義が登場したらさらにも勝ち目はない。

(2-36)われわれが和魂をもって戦い取らねばならないのは洋魂だったんですよ。そして西洋には文明だけしかないのでなく。それを生み、その発展を必然ならしめた文化があるはずだというのです。

(2-37)「知識人」はつねに弱者のねじれた卑屈な復讐心理につき動かされてきています。そして閉ざされた自己英雄視の内部で鬱屈し、健全な一般社会に毒ある言葉を偉そうに上からまき散らしてきましたし、今もなおそうです。

出展 全集第2巻 「Ⅳ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学」より
(2-34) P374 下段より
(2-35) P375 上段より
(2-36) P380 下段より
(2-37) P388 上段より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十八回)

(2-30)かくて、歴史は「思い出」だということになる。人間が何かを思い出す。まさしく何かを思い出すのであって、何でもかんでもを思い出すのではない。一番思い出す価値のあるものだけを思い出す。

(2-31)現代は神なき時代である。人間の権力感情は野放しであり、それにけりをつける神が存在しない以上、俗物とそうでないもの、すなわち贋物と本物の区別をつける判定者はどこにもいない。自分の価値は自分で証明しなくてはならない。これは不可能にきまっている。誰もが俗物に陥らざるを得ない所以である。

(2-32)福田恆存においては文学と政治が一体化していた。だから政治と文学を混同するなと言いつづけることも可能だったのである。ある意味で時代が一体化を許していたことは否めない。

(2-33)鋭敏な知性の持主であればあるほど知性の限界というものを知っている。

出典 全集第2巻 「Ⅱ 続編」
(2-30) P278 上段 「行為する思索」より
(2-31) P291 下段 【福田恆存小論六題】「福田恆存(二)」より
(2-32) P311 下段 【福田恆存小論六題】「高井有一さんの福田恆存論」より
全集第2巻 「「Ⅲ 書評」より
(2-33) P341 下段 「竹山道雄『時流に反して』」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十七回)

(2-26)天才の恋愛の仕方は凡人とは異なっていても、恋愛の感情そのものはなんら凡人と変るものではありえない。天才の自殺もまた、要するに一つの自殺であって、その仕方は凡人とは異なるけれども、その相違は主として死に関する省察の質と分量からくるものなのである。
(236頁下段「「死」からみた三島美学」)

(2-27)自由とはそもそも不自由をめざす瞬間にしか自由たり得ない矛盾概念である。これは自由や解放がアナーキーと境を接する外ないわれわれの生きているこの現代社会が孕んでいる矛盾そのものを示している。
(248頁下段「不自由への情熱」)

(2-28)あらゆることが許され、解放されている自由な世界では、自由であることこそが最大の不自由である。人は自由によって生きているのでは決してなく、実際には、適度の不自由と制限によって生の安定と統一を得ている。しかし、自由があり余れば、人間は中心を喪い、自分を不自由であると空想的に設定することに被虐的快感を覚え、その瞬間の熱病によって生を支えようとするものである。
(253頁上段「不自由への情熱」)

(2-29)現代人は幸福の原理を喪ったのである。幸福とは制限のなかの自足であり、不自由のなかの自由である。
(258頁下段「不自由への情熱」)

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十六回)

(2-21)現実を改変する力を文学はもともと持っていないし、また、持つ必要もない。文学は現実に支配される宿命のうちにある。

(2-22)作家は文明の位置の変動の波に乗せられているだけでは駄目である。変動の波に乗せられている自分の位置を対象化して眺めるもう一つの目が必要なのである。

(2-23)作家は社会の裡(うち)に生きているある無言の思想に言葉を与えるのみである。そのために、作家の自己はつねに自分より大きな犠牲を要求されているとさえ言える。

(2-24)かりに今の私たちの生活の場が極度に悪い条件のうちにあると仮定しても、私自身はそこからの脱出は考えない。なぜなら、脱出という行為への情熱は、ただ脱出という行為そのものに終わるからである。いい社会ができてしまって何をするか、という問題はそこには初めから含まれていない。

(2-25)生活人の日常には、文学などに携わっている人の及びもつかないほどの強靭なものが秘められているのが普通なのである。

出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-21) P184 下段 「文学の宿命」より
(2-22) P199 上段 「文学の宿命」より
(2-23) P206 上段 「文学の宿命」より
(2-24) P218 上段 「文学の宿命」より
(2-25) P223 上段 「文学の宿命」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十五回)

(2-16)文章の書き手が言葉をもって言い表したものを、読み手が指示されたとおりに受けとるだなどということは全くあり得ない。読み手は書き手の指示するものを読むのではなく、自分自身の欲するものを読む。同様に書き手は読み手のために書くのではなく、自分自身を生かしいいように書く。良いとか悪いとかいうことではない。言葉とはそういうものなのだ。
 いかなる言葉にも読み手の、または書き手のそれぞれの下心、経験、欲望、自意識からまったく自由になりきれないなにものかが介在している。

(2-17)たといどのように深い政治的洞察から書かれた作品であっても、それがどうしても文学でなければ表せない現実を表現していると納得がゆかない限り、私は文学化されたあらゆる種類の政治主義には猜疑(さいぎ)の目を向ける。

(2-18)どんな文学表現も作家の現在の日々の生活意識から切り離すことはできない。

(2-19)死への情熱によってはじめて人間は生への情熱に触れることもある。

(2-20)人間にとって完全な自由、完全な自律はありえない。私は現代に生きる私自身の「自己」などというものを信じていない。私は自己の外に、もしくは自己を超えたところに、奉仕と義務の責めを負わねば「自己」そのものが成り立たぬことを考える。

出展 全集第2巻  「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-16) P153 下段 「ニーチェ」より
(2-17) P168 上段 「政治と文学の状況」より
(2-18) P170 下段 「政治と文学の状況」より
(2-19) P174 下段からP175頁上段 「政治と文学の状況」より
(2-20) P180 上段 「政治と文学の状況」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十四回)

(2-11)誰しも他人を理解しようと思っているばかりでなく、自分を理解させようと思い、あるいは理解させることが出来ると思っている。つまり、自分で自分を理解しているように、他人に自分を理解してもらおうという欲望をもたないものはない。論争において、味方の理解を期待するのはそのような欲望と無関係ではあるまい。しかし、ここでよく考えてみる必要がある。それは、実は、他人が自己を理解しやすいように自己を仕立て上げる欲望でしかないのではないか。その弊害は、自分で自分が理解できるように思いこむことにある。

(2-12)認識への直線的な道を示す「科学的方法」は、それを硬化させるあらゆる信仰を打ちくだくが、信仰にとじこもって、認識への道をさまたげているものは、じつは科学そのものではないのか。

(2-13)神を信じなくとも神の影を信じている。かくして逆転された真理の座に、神の代わりに科学がとって代っているからといって、もはや何の
不思議もあるまい。人間には、つねに、なにかの真理が必要だからである。真理の得られないときには幻覚さえも欲するからである。

(2-14)一冊の小説を三人が読めば、そこにあるのはすでに三冊の小説である。作品のなかにめいめいが別のものを読みとっている、というだけのことではない。読者は作品のなかに、作者の意図とさえかかわりのない自己自身の映像をみる。読者は作品を読むのではない。己れを読むのである。

(2-15)「平和」とか「階級」とか「ヒューマニズム」とか「学問の自律」とか・・・・・・こうした言葉が理窟らしい理窟でこね上げられ、意味ありげな内容に仕立てられると、書いた本人とはかかわりなしに、言葉だけが独りでに動き出す。言葉は個人から離れ、個人とはかかわりのない所で、別個の個物としての存在を主張しはじめる。言葉が人間を支配し、人間は言葉に操られる。

出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-11) P113 上段「福田恆存(一)」より
(2-12) P125 上段 「ニーチェ」より
(2-13) P135 下段 「ニーチェ」より
(2-14) P152 上段から下段 「ニーチェ」より
(2-15) P152 下段からP153 上段 「ニーチェ」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十三回)

2-6)本当に懐疑する心とは、とどまるところを知らぬ執拗な、忍耐強い自己批判力である。

(2-7)選択の自由の可能性があり余っているために、ついに行動の自由を奪われた近代人の懐疑癖は、疑っているのではなく、はじめから信ずる力を持っていない、というに過ぎまい。

(2-8)人間に過去は知り得ないが、歴史体験とは、知り得ないという事実を確然と知る、その瞬間、瞬間の知を信じるということである。

(2-9)なんらかの安全な立場からなされる他者批判ほど容易なものはない。それは自分を善とし、他を悪となすことで終わるからである。事実、現代はそういう批判力ばかりが旺盛になっている自己正当化の氾濫する時代である

(2-10)一人の人間の自由は他の人間の不自由の上にしか成り立たない。自由の理念は原理的に平等の理念と一致はしないのである。そのことが自明の前提とされていた時代には、人間の価値はその人を超えている普遍的ななにものかによって保証されていたのであって、自分の価値を自分で定立し、主張するような力技を個々人が強いられることは起こらなかった。自由と平等がともに主張される近代に入ってから矛盾とデカダンスがはじまった。

出展 全集第2巻 「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-6) P69 上段 「小林秀雄」より
(2-7) P71 下段 「小林秀雄」より
(2-8) P84 上段 「小林秀雄」)より
(2-9) P97 下段からP98上段 「福田恆存(一)」より
(2-10) P102 下段 「福田恆存(一)」より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十二回)

阿由葉秀峰 坦々塾会員

(2-1)確かなものはなに一つないという懐疑のただ中でこそ、人は確固とした信念に、瞬間の生命を賭けうるのである。認識と行動との間にはつねに紙一重の差しかない。人は自分を疑いつつ、自分を信ずるしかない。そして、その瞬間を信じた行為だけが言葉となる。

(2-2)言葉は、事実を事実どおりに指し示すのに少しも便利なようには作られていない

(2-3)歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。

(2-4)専門の研究家はたいてい視点ということを重視するが、視点の卓抜などというものは、時代が変われば、すぐ滅びる。

(2-5)批評とはまず対象を壊すことだが、対象は消えた、しかし自分は何かの立場に立って対象を壊しているのではないか、と気がついたときに、今度は自分のその立場をも壊さずにはいられないのが強い批評精神の必然的に赴かざるを得ぬ方向だろう。はげしい否定の精神は一切を消す。自分の拠り所をも消す。そのとき批評ははじめてクリティック(危険)なものとなる。まず、なによりも、自分にとって危険なものとなる。

出展 全集第2巻「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-1) P20 下段 「アフォリズムの美学」より
(2-2) P25 上段 「アフォリズムの美学」より
(2-3) P36 下段 「小林秀雄」より
(2-4) P46 上段 「小林秀雄」より
(2-5) P47 下段 「小林秀雄」より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十回)

(8-26)日本では落第が恥しいのは、日本の社会がドイツより階層差も少なく平等だからである。能力の判定が人格の判断にまで関わってくる。

(8-27)革命を経験しなかったドイツは、近代史において立遅れ、未熟と後進性に悩みつづけた。しかし歴史を多少振返ってみると皮肉な進行に気がつく。教育や学問は奇妙なことに、かえって国家による近代的な支配と制縛から解放された自由を享受しつづけることが可能になった。……中略……19世紀のドイツでは、大学こそ自由で、無拘束で、「真理のための真理」を追究し得る貴族主義的な精神の王国であった。

(8-28)彼ら(ドイツ人、村山注)
はいい意味で教育の限界を知っている。教育に対するペシミズムを持っている。教育によってなにもかもを善くしようとするような思い込みがない。適当にずぼらで、大雑把である。

(8-29)しかし個としての、実存としての私は、平均的な処理全体に抵抗せずにはいられない。高い学問を求める人間がすべて権力志向、功利主義的志向であるとは限らないからだ。

(8-30)世の中が豊かになって、例外的人間は殖えている。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-26) p114 下段より 日本の教育 ドイツの教育
(8-27) P116 上段より
(8-28) P122 下段より
(8-29) P124 上段より
(8-30) P124 下段より