村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十九回)

(8-21)予定通りうまく行くと思った合理的プランが裏切られる例は、人類の歴史に無数にある。マルクスは経済的不平等さえ取り除けば、人間は平等になると考えたが、経済的不平等がなくなると、人間はかえって新しい別の「人間分類」の欲求を抱き始めるものらしい。

(8-22)人間は自分で自分を教育する以外にない、・・・教えが誤っていようが正しかろうが、どのみちたいして影響はなく、他人の授ける教育とは関係のないところで、人間は教育され、成人として行くという意味でもある。

(8-23)知識や技術を超えたもの、すなわち教育家が最も教えたがっている人生の主要問題が、どこそこの学校の何々先生の教えといったきわめて偶然に与えられるものによって左右されるのだとしたら、これはかえって困ったことだと言えはしまいか。

(8-24)教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援(だす)けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。

(8-25)落第してもこの国では人生の決定的ダメージにはならない……(中略)ドイツの社会は多様性に富む。学者の国であると同時に職人の国でもある。能力を発揮する可能性はいろいろあるのである。

出展 全集第8巻 教育文明論 
(8-21) P50 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-22) p94 上段より 日本の教育ドイツの教育
(8-23) p94 下段より
(8-24) p94 下段より
(8-25) P114 上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十八回)

(8-16)自由と平等の理念を謳ったフランス革命の国が、このように「身分社会」を温存させ、しかも近年格差をいっそう際立たせているという新しい事態の出現は、じつに奇異と言わねばなるまい。これはひょっとしたら改革を必要とするフランスの恥部かもしれない。

(8-17)西ドイツは「職人」の国である。完備された職業教育には定評がある。一番低い学歴の持ち主の者にも、未来は袋小路に閉ざされていない。

(8-18)たかが入試などという、子供世界の行事の中に選抜の儀式を封じ込めて、実社会では露骨な淘汰を表立てて行わないという現行のシステムは、日本人の体質に合っているのだという考え方も成り立つのである。 だいたい不明朗で、曖昧であることが美徳にみえる奇妙な国民である。

(8-19)学校の外での露骨な淘汰を避けるために、18歳での一発勝負を、ある程度止むを得ない必要悪として承認している・・。(中略)・・・たまたまそのとき失敗し、選に漏れてしまった人間が、あと一生怨念を抱えて生きていくのは不健全きわまりない。

(8-20)評価する方も、される方も、正面切って、自分自身の責任で、相手を評価する、あるいは相手から評価される、という用意が欠けている。(のが日本の場合:村山注)

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-16) P37 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-17) P39 下段より
(8-18) P43 下段より
(8-19) P45p46段より
(8-20) P47 上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十七回)

(8-11)人間は貴重な閑雅や無為を愉しみつつ、ゆっくり成熟の時刻(とき)を待たなけれならない。

(8-12)ニーチェが『善悪の彼岸』の中で、「勤勉は宗教的な本能を破壊する」と書いたとき、ブルクハルトはこれに共感を表明した。

(8-13)私は教育をなにかのための手段とは見ない、能率や効果から解放された、理想的な状態のもとに認めたいという欲求を一方では持っている。けれども、そんなことをすれば、日本のような後進国はたぶん近代化から取り残されたであろう、とも他方では考える。

(8-14)けれども、日本は教育によって社会主義革命にも近いような階級の分解作業をなし遂げて来た国でもある、と私は考えている。

(8-15)しかしイギリスでは労働者階級の子弟は高い教育を受けることを必ずしも望まないし、親も決してそれを好まないのだ。高い教育を受けた結果、彼らの思考方法や生活の理想が中流階級的になって、家庭の内部で親兄弟との違和感を惹き起こすなど、同族集団の中に断絶と変化が起こるのを恐れるからである。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-11) P32 上段より  「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-12) P32 下段より
(8-13) P33 下段より
(8-14) P34 上段より
(8-15) P36 下段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十六回)

(8-6)教育熱心の父親にかぎって、利己的な態度をとりがちで、自分の子供を偏愛する・・・(中略)・・・敵をも公平に客観化する目は、男性の方がいくらかましだと思い、これは価値の上下ではなく、社会的機能の相違から来ると考えているが、最近の家庭では、この点に狂いが生じているのではないだろうか。

(8-7)ヨーロッパでは日本と違い、(中略)少なくとも学校と家庭との役割の違いだけは、はっきりけじめがついている。国家の成員を育てるための公教育は学校が引き受けている。しかし、道徳や宗教に関する指導は親の責任である。

(8-8)大学における教育内容の適否が論じられることはほとんどないし、寡聞にして私は、学問の理念が問われたという話も聞かない。

(8-9)つまり教育には本来、人間が怠惰であることが許されたり、時間をかけてゆっくり成熟することが許されたりする閑雅な側面があるはずである。

(8-10)教育は教育を受けること自体に目的を持つのであって、社会発展の手段ではない。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-6) P24 下段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-7) P25 上段より
(8-8) P31 上段より
(8-9) P31 下段より
(8-10) P32上段より

村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十五回)

村山秀太郎:昭和38(1963)年生。早大大学院修士、社会思想史専攻。大学受験「世界史」の予備校名物講師として知られる。

 16歳で単身ヨーロッパを回遊した。その後世界各国を100か国以上、紛争地帯を含めて踏破し、その知見に基くユニークな講義で名を高からしめた。著書は『わかりやすい世界史の授業』『よくわかる中東の世界史』『朗読少女とあらすじで読む世界史』(以上角川書店)、『世界史トータルナビ』(学研)

(8-1)平等と無差別とを取り違えてきた日本人のものの考え方が、しだいに教育の現場にまで歪んだ影響を及ぼしている証拠であろう。

(8-2)つまり一方に平等への無理強いの力が働く分だけ、他方に現実の必要からくる人間の能力の選り分けが、十八-十九歳というある一時期に集中的に、仮借ない形式でおこなわれざるを得なくなるのである。それが学校に対する明治以来の日本人の特殊な感情―抑圧とルサンチマン(復讐心理)に基く階級上昇の感情―に由来することはあらためて言うまでもなく、遠因は日本の近代化の構造にあるのだが、しかしそのことによって教育を本当に教育のために考え、学問が好きで高い知識を得ようとする少数の人間がどんなに迷惑をしているかということを言っておかなくてはならないのである。

(8-3)なにも学校だけが人生のすべてではないとどうして教えないのだろうか。手に技術をもち幸せに自信をもって生きてゆけるのだという国民教育を一方でおこなうことが必要であると同時に、他方では、高度の能力をもつ優秀な頭脳にとって張り合いのある競争体系を、教育組織のなかに作っていくべきではないだろうか。

(8-4)人間が人間を選別し、評価する行為は、当然冒険であり、賭けである。それがこわいのでできるだけ避けようとする逃げの姿勢が、日本の社会には明らかにある。その結果が学歴依存である。(中略)「学歴社会」は明らかに責任主体を欠いた日本社会の、このような逃げの姿勢が生み出した病いの一つである。

(8-5)男の子をしっかり自分の手の中に握っていることが出来ない最近の父親の弱さが、こうした事件(中学生殺人事件:村山注)の遠因をなしていることを反省する言葉はどこからも聞こえて来なかった。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-1) P10 上段より 「日本の教育 ドイツの教育」を書く前に私が教育について考えていたこと
(8-2) p14 上下段
(8-3) p16 下段p21,下
(8-4) P17 上段より
(8-5) P24 上段より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)

51)人間が生きるとは、目隠しされているようなことかもしれない。目隠しされつつ、人間は未来への明察を欲するのだ。もしもすべてが見透せてしまったなら、そのような未来は、もはや生きるに値しない未来であろう。すべてが見えるという自己過信と、なにも見えないという自己不信とは同じ事柄の表裏なのだ。どちらもともに、自己と自己を超えたものとのかかわり合いがはらむ緊張を忘れている。

52)一人の作家が何を求め、何によって生きているか、それは、初期も晩年も、意外に一貫しているものである。

53)豊富で複雑な言葉をいくら多様に用いても、言葉は事実を把えることは出来ない。ある事実に言葉を与えることで、われわれはその事実を規定するわけだが、規定した瞬間、「事実」そのものはとり逃しているわけなのだ。

54)おそらく自己同一性が非常に高い日本人にとって、日本人は表向きはたえず国家意識みたいなものに反発を感じているくせに、ほとんど無意識のうちに国家単位でしか、ものを考えることのできない民族だという気も致します。

55)思想を弄ぶ人間の存在の形式が私をつねに苛立たせてきたのである。

出展 全集第一巻 
51) P535上段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
52) P552上段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
53) P554下段より 掌篇 現代ドイツ文学界報告
54) P585上段より 老年になってのドイツ体験回顧
55) P598P599より 後記

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十回)

46)外国に長く生活しすぎて、日本が概念的にしか感じられなくなれば、それは日本人の経験であることを止めたことを意味するのだし、逆に、日本で考えていたヨーロッパ像を打ちこわすことをせずに、既成の観念の殻に閉じこもって、妙に安定した表情で外国をひとわたり経験することも、けっして経験したことにはならないだろう。

47)ニーチェは思想の表面に現われた民衆侮蔑の言辞とは裏腹に、実際の人間は謙遜で、センチメンタルで、ひどく純情でさえある。ニーチェの思想は、知識人・教養人のもつあらゆる種類の凡庸さ、馬鹿さ加減にこそ固く門戸を鎖しているが、民衆のこころにはもっとも近いところに立っている。だからこそニーチェは誤解を怖れず、むしろ誤解されることを誇りとさえしたのだともいえよう。

48)文化が荒廃していれば様式美は生まれない。私は裏側を勘ぐり、故意に内側を分析する知性にはなにか欠けたものがあるとつねづね考えている。表面よりも内面のほうが豊富だと信じたり、表面の安定の裏に頽廃を嗅ぎつけたがったりするのは、知性のさもしさの表現でしかない。

49)この雑然とした、ときに騒然とした外観を備えた日本の都会の姿そのものが、外来文化の流入に耐えているわれわれの抵抗の姿とも言えなくはないだろう。

50)政治とは、現実に与えられた条件下で、ときに自分の立場を棄ててでも何か具体策を打出すというリアルな精神をさす。政治とは道徳ではない。

出展 全集第一巻 掌篇
46) P479下段より ヨーロッパ放浪
47) P486下段より ヨーロッパ放浪 
48) P508上段より ヨーロッパ放浪
49) P512下段より ヨーロッパ放浪
50) P522下段より 現代ドイツ文学界報告

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第九回)

41)われわれはなにものかに、自然に、歴史に、共同体に支配されていることを予感する瞬間をもたないかぎり、われわれ自身が生活の支配者になることはできないであろう。

42)なにものにも拘束されない個人とは、要するに生物個人でしかない。束縛を打ち破って自由になったというだけでは、人間はけっして自由にはなれない。われわれは個人を超えたなにものかをもち、そのなにものかへの奉仕と義務の責めを負うたときにはじめて、われわれは自由になる、もしくは自由の何であるかに触れ得るのである。

43)自由主義体制は、自由の不在のままに、自由の探求を自由に任せている。共産主義体制は、自由の問題をすでに解決しているのではないか。解決してしまったから、それは真の解決になっていないというもう一つ別の側面があることを忘れてはならない。

44)だが、私はなぜニーチェを愛読しているのだろうか?ニーチェの文章を読んでいると、思想的にも、生理的にも、いや、慥(たし)かに頭の訓練としても快適だからである。私は快適なことをするのが好きだからである。そして私は、不快なことをするのが嫌いだからである。それならば、私は不快なことをするのが嫌いだから、バーゼルでニーチェの昔の下宿をさがしているのだろうか?それがなかなか見付からなくて苛々しているのは不快なことではないのだろうか?私には不快なことが結局、愉快なことなのだろうか?それとも愉快なことが、不快なことなのだろうか?

45)他人を笑うこころと、笑われまいとするこころとは同じ精神構造なのだが、・・・

出展 全集第一巻 
41) P410下段より 掌編 留学生活から
42) P463下段より 掌編 ドイツの悲劇
43) P464上段より 掌編 ドイツの悲劇
44) P472下段より 掌編 ヨーロッパ放浪
45) P477上段より 掌編 ヨーロッパ放浪

阿由葉秀峰の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第八回)

36) 懐疑とは決断である。既知のことばを警戒する行動力である。
信ずる力があるからこそ、信じまいとする意志が可能となる。懐疑の反対は信仰ではなく、むしろ軽信である。疑ってばかりいてなに一つ行動ができないのは、疑っているのではなく、はじめから信ずる力をもたないから、なんでも信じ、なんでもゆるせるふりができるのだ。できあいの思想への無防備、軽信ぶりが全土をおおう所以である。

37)美徳ということばがあるが、やはり日本人にとって美意識がすなわち道徳なのではないだろうか。それが日本人の強さでもあるが、美は政治的な批判力にはなりにくい。美を基本とする道徳は、どうしても戒律や原理を基本とする道徳よりは弱いのである。

38)現代は知力はあっても、知性がない時代だ。現代の知性には節度と倫理性と想像力が欠けているのである。

39)人間は自分ひとりで、自分を支配することができない存在なのだろう。そんなに強い存在ではないのであろう。

40)われわれは生活の支配者であるつもりで、結果的には生活に支配されている。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
36) P349下段より 
37) P364上段より
38) P369下段より
39) P402上段より 掌編 留学生活から
40) P410上段より

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第七回)

31)教会の道徳と、世俗社会の道徳と、この二つはいわゆる政教分離以来、相関関係にあり、一つの社会に、二つの道徳が同時に並行して存在することが、道徳の画一化を救う要因となっていることは確かである。人々はつねに、絶対の世界と、相対の世界と、この二つに同時にまたがって生きることを要請される。

32)世捨て人の、すね者の孤独は、結局は人恋しさの裏返しでしかないだろう。敗北者の孤独は、人一倍に権力欲が旺盛だということでしかないだろう。

33)不安や恐怖は、他のいっさいの善なる感情より、積極的な感情である。そして不安や恐怖が、敵意や復讎心をはじめとする不合理な感情の母胎である。そして不合理な感情は、いつの時代にも、理性より積極的である。

34)外交は自他双方の悪の是認からしか出発しようがない。自分の愚かさと弱さを知ることも、一つの強さである。他人の悪をおそれ、避けるためには、自分の悪の自覚をも深めておかなくてはならない。善を行なうこともまた、悪の一手段であり、ときには自覚的に悪を犯すことが、善となる
 外交の場には絶対善も絶対悪も存在しない。

35)人間は束縛や桎梏(しっこく)を打ち破っても、自由にならない。人は不自由にぶつかってはじめて、自由の何であるかに触れうるのである。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
31) P313下段より
32) P316上段より
33) P320上段より
34) P329上段より
35) P338下段339上段より