――拙著『人生の価値について』と10年前の自分――
振り返ってみるとあんな難局を我ながらよく乗り切れたものだ、と思うことが人生にはよくある。体力のことを言っている。私の場合は10年前のことを言っている。これから10年先になると、今私が乗り切っているそれなりの現下の難局を思い出して、よくやったものだと思うようになるのかもしれない。
『人生の価値について』は約10年前に、2年間に及ぶ北海道新聞の、毎日曜日3枚の連載を一冊にまとめたものだが、この2年の期間中に、私は死の淵に近く立つ二度目の大患をくぐり抜けている。その間に連載を中断してはいない。そのことをある人から葉書をいたゞくまですっかり忘れていた。
記録によると不整脈悪化で榊原記念病院に緊急入院したのは、1994年12月12日である。連載は94年4月3日に始まっている。病気は過密スケジュールによるストレスが原因である。連載中の2年間は5冊の単行本を出している多産の歳月であった。そして入院はその中間で、「新しい歴史教科書をつくる会」を始める2年ほど前にあたる。
1994年11月20日に福田恆存先生が逝去された。私は朝日新聞に追悼文を書いた。そして、月刊誌『新潮』からもより長文の追悼文を依頼されていた。先生の青山斎場での本葬儀は12月9日だった。私はその翌日から苦しみだし、12日に病状がにわかに進み、入院した。心室頻拍症という診断を受けた。心電図のモニターでしばしば脈の停止があった。メキシティールが注射された。すんでのところで心臓が止まる危機的状況だったと後で知った。
私は『新潮』の追悼文を書くつもりだった。先生の訳業のイプセン『ヘッダ・ガーブラー』から書き出す野心的な組み立ての小論にする予定で、必要な本と原稿用紙を病院に運びこんでいたが、医師に制止され、諦めざるを得なかった。
それでも産経新聞の正月用に予定される「正論」欄を、これは短文だということで、12月15日に完成させている。12日に入院して15日に書いている。よく気力と体力があったなァ、というのは一つにはこのことである。福田先生に関するエピソードの一つを紹介し、「私に踏み絵をさせる気か」という題で発表している。そして19日に退院し、私は自宅療養に入っている。
わずか一週間の入院生活だった。が、心臓はこわい。あぶなかったのだ。それから2年ほど不整脈に悩んだ。血圧計を日に何度も使用していたが、いつしか完全に不整脈は治った。エパデールという、今も常用している青い魚のエキスの薬のせいかもしれないし、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動――1996年12月2日に始まる――がストレスの解消に役立ったのかもしれない。(当時はそうだったが、最近は逆につくる会がストレスになっている。だから手を引いたのである。)
『人生の価値について』の原稿は札幌の北海道新聞本社へ送るのに、ある通信社の手を経て、送付されていた。二年間お世話になった通信社のB.Hさんに今度出た再刊本をお送りしたら、次のような好意的な葉書のご返書をいたゞいた。
謹啓。御著『人生の価値について』の新刊を御恵贈いただき、謹んで御礼申し上げます。思えば10年以上も昔、電通大の先生のもとにこの連載原稿を頂戴に通いました。毎週いただく原稿を帰りの電車でむさぼるようにして拝読していたことが鮮やかに蘇えります。当時の私の仕事を離れた大きな楽しみであり、思索の羅針盤でもありました。新潮選書で一冊の本になったとき、一人でも多くの日本人にこの名著が広まるように念じたと同時に、読んだ人は必ず己の迷妄を振り返り、少し利口になったような気になるだろうと自身を棚に上げて思ったことであります。新版は廉価であります。さらに読者の輪が拡大して行くことだろうと信じております。日曜日、拝読し直しておりましたら、いつの間にか夜中近くになっていました。まさしく〈巻を措く能わず〉そのものでした。取り急ぎ御礼のみにて失礼いたします。敬具
私は嬉しかった。かつて何度も読んだはずの方がまた読んで、また引きこまれて、つい夜中近くまで面白くて読んでしまったという、こういう率直なことばが、いつの場合にも作者を何よりも喜ばせる。
あの本は読みだしたらじつは筋があって、次々と面白くて、先を読みたくなる構成になっている。じつはそうなのだ。そういう文章の組み立てになっている。B.Hさんがその点を再体験したと報告して下さったことが私には感激だった。
再刊本を決定し、出版して下さったWACの編集者M.Mさんが「三分の二くらいまでは〈面白い本だな〉という印象でしたが、最後の三分の一に入るとオヤという印象で、〈感動させる本だ〉と分りました」と、出版前にわざわざ電話を掛けてこられた。私はこれも嬉しかった。
「人を感動させる」は、ものを書く人間が密に心に期する最大の願望で、しかもそういう本は滅多に創り出せない。
ある人が短章集なので一日一篇ずつ読みます、などと葉書をくれたのにはガッカリした。そういう本ではない。一気に読める推理小説のような仕掛けになっている本なのである。一日一篇ずつ読むなどという人は結局読まないでやめてしまうだろう、と思った。
なぜ最後の三分の一は人の心を摑むのか。1981年のガン体験を15年たってやっと筆にできたのである。それもストレートではない。終りのほうにちょっと出しただけである。しかも書いている最中に二度目の大病を患っていた。
とはいえこの本は病気がテーマではない。古代中国あり、ヨーロッパ論あり、インドの不可触民あり、オウム真理教あり、宗教・歴史あり、人生に評価はありや、のテーマがあり、母の死への思い出があり、内容は多方面にとぶ。読み直してみて、文章には暗い翳りはないことを再確認した。筆者の気力は充実していた。
B.Hさんからお葉書を頂くまで、この連載の期間中に入院していたのだということを忘れていた。連載は中断されなかった。そういえばB.Hさんは病院にお見舞いに来て下さったな、と思い出した。病院で一回分の原稿を渡したのかもしれない。
すっかり忘れていた。何でも忘れてしまう。とくに病気のことを忘れる。時期を忘れる。連載の苦しかったことと楽しかったことは覚えている。私が言いたかったのは「忘れる」というこのことである。10年をつと他人に言われて年号を合わせてみない限り、もう自分の歴史、二つの事件の重なりをすっかり忘れている。
忘れたいのである。きっとそうだ。心の中から追い払ってあれから10年を生きてきた。だから今、私は生きているのだ。そうなのだ。そうだったのだ。とあらためて生と忘却の不思議について考える。
生は未来を必要とする。だから忘れるのだ。私は次の10年に向けてまた走り出しているのである。きっと今日このことを書いたことをすっかり忘れるであろう。それでよいのだと思う。