『国家と謝罪』新刊紹介(三)

 

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。コメント欄は膨大なスパムコメントのアラシのため、しばらく休止しています。

 今回は、新刊『国家と謝罪』の新聞広告についてです。この本は8月15日(終戦記念日)の前後の新聞広告に比較的多く取り上げられました。

 いろいろ調べてみたところ、下段半分の顔写真入りの大きい広告は、読売(8月15日)、産経(8月14日)、やや小さくしたのが日経(8月17日)で、朝日(8月15日)は顔写真なしの一面と四面の下段の二箇所に出ていたことがわかりました。

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 面白いのはそのキャプションで、全部同一文でしたが、朝日だけは同じ日に二箇所の広告となったので、四面のだけは文章が異なりました。

 ここに参考までに掲示しておきます。
 全紙同一の広告文は以下の通りです。

 日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!

 対日戦争の跫音が聞こえる

《靖国・南京事件・慰安婦問題》先の戦争の解釈が次の戦争の勝敗を決める!

 アメリカが中韓の歴史カードを後押しし、「つくる会」は政権にすり寄る勢力に蹂躙された。安倍政権の成立前後から漂流し始めた日本。日本にいま何が起こっているのか。米中に挟撃される日本の現実を透徹した目で見据えた予言的論考。

 朝日四面の異なる広告文は次の通りです。

 

 安倍首相就任と相前後して日本に吹きつける風は明らかに変化した。同盟国アメリカが首相の靖国参拝を否定し、従軍慰安婦問題を蒸し返してきた。次の戦争は静かに始まりつつある。安倍首相の謝罪は、新しい戦争に道を開く愚挙となるだろう。国家・歴史を見失い、世界の現実を直視する目を失って漂流する日本人に自覚と覚醒を促す警世の書。

 朝日一面の『国家と謝罪』の二つとなりに、『日本にも戦争があった』(731部隊元少年隊員の告白)・『あなたは「三光作戦」を知っていますか』があり、それも面白いと思いました。いえ、むしろ西尾先生の本が、朝日の「戦争と平和を考える」というキャプションの本の広告欄にあるほうが、珍しいのかもしれません。

文・長谷川真美

『国家と謝罪』新刊紹介(二)


現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 今回は以下の新刊に対する、宮崎正弘氏による書評の紹介です。コメントは現在受け付けていません。

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 (宮崎正弘氏のコメント)

 西尾幹二先生の最新作『国家と謝罪』(徳間書店)は、まさに力作です。大きな歴史的大局観に立って、すべての問題を鋭利な白刃で分析しつつ、民族とは何か、歴史とは? 伝統とは? 日米同盟とは? 

これら国家の根幹を織りなす、すべての疑問が、この一作によって解きほぐされ、久しく忘れていた日本人としての誇りを考えるしかけになっています。
 近く拙評をメルマガに掲載予定です。

*********************
宮崎正弘氏の国際ニュース・早読みより

 日本保守思想の原点が本書に集約されている。

 戦後、憲法の押しつけ、農地解放、教育改革等々。日本はアメリカの保護領のごとくに成り下がり、「独立」は主権回復後も、本当に達成されているのか、どうか。独自の神話も否定され、精神的営みも軽蔑される風潮がまだ続いている。
 
 日本はとうに国連に加盟したけれども、日本は本当に「独立」しているのか?
 歴史も国語もズタズタのまま、教科書を自ら作成できず、外国にお伺いを立てる始末。
 安保改訂後も、大店法の受け入れからM&Aの認可、ビッグバン、金融諸制度から郵便局まで。道路公団は民営化され、ついに日本はアメリカの法律植民地になってしまった。
 
 地方都市の景観が廃墟と化したのは大店法の悪影響だろう。
全国の酒屋さんが店を閉じた。これもアメリカの要求をやすやすと日本が受け入れたからではないのか。

 嘗てジャパン・バッシング華やかなりし頃、評者(宮崎)はパパ・ブッシュ時代に日本に「コメの自由化」を迫られたとき、これは日本の文化伝統を破壊する極めつけの愚行だとして、『拝啓 ブッシュ大統領殿、日本はNOです』(第一企画出版)を上梓したことがある。
 
 当時、日本の保守陣営といっても親米派が多く、小生のような議論への理解者は少なかった。随分と保守の側から反対が目立った。米の自由化でアメリカの怒りがやわらぐのなら開放しても良いじゃないか、と。
 
 天皇家の枢要な行事は新嘗祭。これを外国のコメでやるという発想は、かの皇室典範改悪論を奏でた偽「保守主義」の似非と通底している(座長のロボット博士は、ところで共産党の出身だった)。
 
 小泉前首相はひたすら「カイカク」と呪文を唱えたが、やったことはほぼ「カイアク」の類いだったろう。
 
 外交の責任者に、愚か者が多い日本でも最悪の愚か者に委ね、アメリカの理論を吹聴する「ガクシャ」に机上の空論による経済運営を任せた。株価は市場最低値を彷徨い、潰れなくてもいい銀行はアメリカに乗っ取られ、日本はどん底に陥った。そもそも日本の株式市場の株価形成を主導するのが外国人投資家。それも青い眼のファンドマネジャーになり、それが常態だと詐話を展開している日本の経済学界、官界。

 西尾氏は果敢にも小泉首相を「狂人」と呼んだ。
 そして本書でこう訴える。
 「日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!」
 「靖国、南京事件、慰安婦問題。アメリカにまで赦しを乞う必要などない」と。

 「勝者は歴史を掌握する。敗者は人類の敵であるという見方がとられる。戦勝国は敗戦国が二度と立ち上がれないように、道徳的にも精神的にも最後までこれを打ちのめしていまうという政策が戦後においても継承して行われる。占領期間に教育や文化が改造され、洗脳がなされる。それが経験上われわれの知っている全体戦争である」(本書18p)。

 しかし大東亜戦争以後の、朝鮮戦争もベトナム戦争もイラクも、勝った負けたがはっきりせず、「ドイツと日本のように国民の思想洗脳や国家改造にまで及んだ例はない。ドイツと日本だけが、例外的却罰を受けた。もとよりドイツはならず者の一団が国家を壟断したーードイツ人自身がそう認めているーー例外の戦争を起こしたのだから仕方がない」。
 
 だが「日本はそうではなかった」。 日本は「自存自衛」と「アジア解放」が二大動機」であって、大東亜戦争ははじめから終わりまで「受動的」だった。
 
 そして西尾氏は次のように続けられる。
 「二十世紀のならず者国家はナチス・ドイツだけだろうか。太平洋上で英、米、仏、蘭、独、豪のした陣取り合戦は、『侵略』の概念に当たり、『平和への罪』を形成していないのだろうか。英、米、豪は、日本に対して『共同謀議』の罪を犯していないか。広域にわたってあらゆる島々で起こった虐殺には、正確な記録はないが、ホロコーストの名で呼ばれるのがふさわしいのではないか」(本書29p)。

 しかし、日本はナチスと同列におかれ、「東京裁判の被告達は、全くヒトラー一派の側杖を食った」形となった。
 ナチスを退治するために、欧米はロシアと言う「悪魔」と握手した。

 その後、欧米はなぜかキリスト教がユダヤに謝罪し、カソリックは悔い改めたような態度を見せる。なにが後ろめたいのか。
 
 舞台はもう一度反転した。
 「ビン・ラーディンが出てきたために米国は中国という悪魔と手を組む方向へ走りだした。中国包囲網を固めつつあったイラク戦争までの戦略をわすれたかのごとくである(中略)。テロ自体の恐怖よりも、一極集中権力国家の理性を失った迷走の開始」は、じつに不安ではないか(本書38p)。

 日本はなにをなすべきか。「白人キリスト教文明では四世紀に及ぶ歴史の罪過を精算するために、新しい歴史の塗り替えが必要になっている」。

 西尾氏が「新しい教科書をつくる会」を立ち上げたのはいまさら述べることもないだろう。

 こういう重要なタイミングに「日本を代表する人物に必要なのは気迫である。安倍首相はなぜ、こともあろうに米国に許しを請うたのか。主権国家は謝罪しない。謝罪してはいけないのだ」。
 
 この激甚な訴えを読者諸兄はなんと聞くだろうか?

 評者はたまたま本書を持って中央アジアの旅に出た。
 キルギスという小国は僅か人口五百万。七十年もの長きに渡ってソ連の桎梏に喘いだ。独立してすぐ憲法を変え、「自国語(キルギス後)を喋れない人物は大統領に立候補できない」旨を謳った。
 
 アフガンのタリバン空爆のため、やむなく米軍海兵隊の駐留を受け入れたが、昨年から「役目は終わった。米軍は出て行け」の合唱が始まった。
 
 マナス国際空港で、米軍の取材をおえてタクシーでホテルにもどりつつ、運転手と会話がはずんだが、かれはこう言ったのだ。
 「日本に米軍が五万人もまだ駐留している? 日本って独立主権国家じゃないのかね」。
 日米同盟がもし対等であるならば、いったい日本軍のほうは米国のどこに駐在しているのだろう?

  ♪
(書評余話)西尾氏の言われる、「日本はいまこそ米中にとって厄介で面倒な国になれ!」
 卑近な例が小沢民主党でしょう。イラク特別措置法延期反対を表明しただけで、(小沢一流のはったりでしょうが)、米国大使が民主党へすっ飛んできました。
 
 たまたまワシントンへ入った防衛大臣は異例中の異例の「おもてなし」を受け、チェイニー副大統領から、ライス国務長官まで。小池大臣のカウンターパートはゲーツ国防長官だけの筈ですから。
 
 厄介な、面倒な国に徒らになる必要はないけれど、日本の怒りに米国が微かに「怯えた」事態が到来したのではありませんか。
  
 

文・宮崎正弘

 

日本人はアメリカを許していない』(その二)

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西尾幹二『日本人はアメリカを許していない』(株)ワック刊
解説 高山正之  ¥933

同書の目次は下記の通りです。

目 次

新版まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

沈黙する歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
近代戦争史における「日本の孤独」・・・・・・・53
限定戦争と全体戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・85
不服従の底流・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・124
日米を超越した歴史観・・・・・・・・・・・・・・・・163
『青い山脈』再考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・196
日本のルサンチマン・・・・・・・・・・・・・・・・・・247

解説 高山正之

 「『青い山脈』再考」と題された章から、文章の一部を抜き出し、ご参考までに紹介します。

 戦勝国にも軍国主義はあった。軍国主義は敗戦国の属性ではない。侵略戦争を是とする動機はイギリスにもアメリカにもあった。これまた敗戦国の歴史に特有のものではない。軍国主義や侵略戦争をこの地上から撲滅しようというわれわれの理想は大切である。私自身もこれを支持することに躊躇しない。ただ私はその理想を、今次大戦の勝敗から切り離せ、と言いたいのである。が、そのことが単に言いたいだけではない。軍国主義や侵略戦争がもし悪であるというのなら、戦勝国のその動機の悪を直視しなかったら、地上から悪を撲滅するという理想も片手落ちに終わり、最終的には実現すまい。敗戦国の悪にだけこだわっていては、戦勝国の悪を見逃すことになるのではないか。いかなる理想を口先で言おうと、いまの日本に茫々と漂っている敗北主義は、結局理想とは無関係なのである。こうした点に関して言えば、戦勝国も敗戦国もいまや完全に対等だということが分かっていないからである。(中略)

 第二次大戦はファシズムに対する民主主義の勝利であった、という定義をれ自体を考え直さなくてはならない時代に入っている。枢軸国に対する連合国の料理ではあったが、連合国のなかには明らかに民主主義国とはいえないソ連と、ファシスト党といってもいい蒋介石国民党政権――クリストファー・ソーンはそう定義している――が入っていた。日本が枢軸側を選んだとき、アメリカがどう思ったかは別として、日本ではそれがただちに日米戦争につながるものとは考えていなかった。三国同盟はソ連を加えて四国同盟にし、アメリカの参戦をこれで封じることが可能と考え、その政策に賭けたのである。同盟には蒋介石をも引きこむ説さえあった。日本は中国問題の「解決」を急いでいた。よもやドイツがソ連を侵攻するとは夢にも考えていなかった。

 日本は昨日の友は今日の敵という伝統的に老練狡猾な欧州外交ゲームにうかつに手を出し、引き返せなくなるや、いざ時来たれりと「オレンジ計画」を擁して待ち構えていたアメリカの軍国主義(傍点)の餌食となった。私はそう考えている。

 歴史は善悪の彼岸にある。

日本人はアメリカを許していない』(その一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

今回は新刊の紹介です。コメントは現在受け付けていません。

 次の新刊が8月1日に店頭に出ました。

日本人はアメリカを許していない (WAC BUNKO 67) 日本人はアメリカを許していない (WAC BUNKO 67)
西尾 幹二 (2007/08)
ワック

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 この本は『沈黙する歴史』(1998年)の改題新版です。「新版まえがき」がついており、高山氏のユニークな解説が付せられました。

 「新版まえがき」の冒頭部分を紹介します。

 アメリカは20世紀の歴史にとってつねに問題でありつづけた。この国は力であり、富であり、希望であり、悪魔でもあった。アメリカを理解し、抑止することに各国は政治力を振りしぼり、アメリカの方針を誤算したばかりに手ひどい傷を負う国も稀ではなかった。それでもアメリカを愛する人は少なくない。寛大で包容力のあるときのアメリカは魅力的だからだ。しかし利己的で判断ミスを重ねるときのアメリカはいくら警戒してもしすぎることのないほどに、恐ろしい。

 日本は隣国であり、アメリカとほぼ同じ1920年代に一等国として世界に名乗りをあげた競争国であることを忘れないでおきたい。史上において対等であったというこの観点をわれわれは見失ってはならない。アメリカがもて余すほどの力をもって安定しているときには、わが国は弱小国の振りをしていてもいいかもしれない。依存心理に甘えて居眠りをしていても許されるかもしれない。しかし国際社会におけるアメリカの政治力が麻痺しかけ、経済力にも翳(かげ)りがみえ始めている昨今、アメリカは手負いの獅子になって何をするか分からない可能性があり、そういう情勢に対して、わが国は十全の気力と対抗心をもって警戒に当たらなければならない。

 そのためには自国の歴史が劣弱だという意識を抱いていては到底やっていけない。本書はそのことを知っていただくために書かれた本である。

『国家と謝罪』新刊紹介(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

今回は新刊の紹介です。新刊に対するコメントは受け付けていません。

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7月31日徳間書店より、『国家と謝罪』(¥1600)が出版されます。
実際には20日過ぎには書店に並ぶ予定。

帯の裏に目次のいくつかが掲載されていますので、ご紹介します。

@二つの世界大戦と日本の孤独
@小さな意見の違いは決定的違い
@言論人は政局評論家になるな
@安倍晋三氏よ、「小泉」にならないで欲しい
@北朝鮮の核実験に対する鈍感さ
@「保守」を勘違いしていないか
@子供の「いじめ」と国家の安全保障
@慰安婦問題謝罪はやがて国難を招く
@「教育再生会議」無用論
@保守論壇は二つに割れた

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(七)

SAPIO続き

「手袋をはめた全体主義」とは

――では「ポスト小泉」はどうなりますか?

西尾 「ポスト小泉」は「小泉」です。小泉さんの政府内政府=“竹中(平蔵)政府”がやってきた市場原理主義は続くと思う。「規制緩和」とか、今までの弱者切り捨て政策。格差をよしとする成果主義のサラリーマン生活と、それが評価される社会。医療や農業、初等教育にも競争原理が入るでしょう。明治以来の日本は、「公正」「公平」が道徳だった。どんな貧しい家庭の子でも勉強して有利な学校教育を受けることが可能だった。そういうシステムがあった。ところが今は初等教育に地方と中央との落差ができてきている。医療もアメリカの保険会社に有利なようなシステムに切り替わってくる。日本の国民皆保険制度は公平という点で世界最良の部に属すると私は信じていますが、病院に競争原理を導入すれば、保険患者が粗末に扱われる「不公平」と「不公正」が始まり日本のモラルを破壊する。

――国民は、「次の首相は安倍晋三さん」というムードだが、それでも、何も変わらないということになる?

西尾 小泉さんが敷いた手法は残るでしょう。ポスト小泉は誰か分からないが、次の人は、外務省を叩くかもしれない。弱腰外交の外務省に国民の欲求不満がたまっているでしょ。叩いておいて、外務省のなかに自分のための“外務省”を作る。これが小泉型独裁の手法です。

 「手袋をはめた全体主義」という・・・・チェコ共和国のヴァーツラフ・ハヴェル大統領が言い出した言葉ですが・・・・・全体主義は必ずしもハードな軍国主義ではない。ソフトなファシズムがあり得る。高級官僚が事務机であれこれ計算しながらことを決め、国民もものが言えなくしてしまう。

 その傾向は、小泉さんのキャラクターが火をつけたのかもしれないけれど、小泉さんが辞めても、続きますよ。「抵抗勢力」が叩き潰されたときに私たちが戦後得てきた自由主義や民主主義も、一緒に叩き潰されちゃったんじゃないか。

 

.今までの自民党を知る人はこんなはずではなかったとホゾを噛むだろうが、もう後の祭りである。米中の谷間で国家意志をもたない独裁国家、場当たり的に神経反応するだけの強力に閉ざされた統制国家、つまりファシズム国家らしくない非軍事的ファシズム国家が波立つ洋上を漂流し続けるだろう

(了) 
     

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(六)

 SAPIO3月22日号に出た記事(書闘倶楽部)P.42~43を掲載します。

 かくて小泉首相は去り、残るのは意志をもたずに漂流する非軍事的ファシズム国家だ

  総理就任時の支持率は戦後最高。昨年9月の自民党の歴史的大勝によって、選挙後、衆参両院ともが郵政民営化法案を可決。「自民党をぶっ壊す」「変人」「抵抗勢力」「人生いろいろ、会社もいろいろ」「小泉劇場」・・・・そのパフォーマンスの多くが流行語となった小泉政権は、今年9月、佐藤栄作内閣、吉田茂内閣に次ぎ戦後3番目の長期政権として任期を終える。実質的にその政治使命を終え、“花道”を去る姿勢に入ろうとするこの首相は何者だったのか?そして、その長き政権を支えてきたこの国の気風とは?『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』の著書、西尾幹二氏に、小泉純一郎その人を語ってもらった。(構成/春日和夫)

――「狂気の首相」とは刺激的な挑戦的なタイトルですが。

西尾 「狂気の首相」と世間で呼ばれている人、というのがカッコをつける意味で、私が「狂気の首相」と断言しているのではない。昨夏、衆議院解散時の小泉さんの発言は「官のものを民へ」の、いつもと同じことを繰り返し、中身はわずか5分間程度のものだった。「あの迫力に打たれた」という人もいるが、何十年も郵政民営化を考えてきて中身となると5分しか話せない、この小泉さんの詩人のような政治運営は果たしてどこまで正気なのか、狂気を装う「佯狂(ようきょう)」なのか・・・・・本当のところは見えないのです。

――その選挙の結果は、自民党の大勝でした。「私の内閣の方針に反対する勢力はすべて抵抗勢力だ」に続けて、「改革を止めるな」。白黒つけよ、と迫り、勝ってしまった。

西尾 この間までホリエモンに拍手していた人が、ホリエモンの逮捕で、同じ手で石を投げているわけだよね。片山さつきや猪口邦子に浮かれて深く考えないで投票をした同じ人たちが今度はホリエモンは悪者だと言い立てる。大衆社会の劣化ですよ。

〈パンは満ち足りているので、サーカスが見たい。できれば高いブランコから転落する失敗者を見たい。今度の選挙ほど成功者と失敗者の色分けがはっきりし、失敗者をめぐる面白い話題が提供された例は少ない〉

――「サーカスが見たい」というのは我々国民のことですね。そして本書はこうも書く。

〈日本人の心は変わったか、今度変えさせられた〉。〈負ける者はとことん負けるがいい。どんな策を弄しても強い者は結局は勝つのであり、彼らには何でも許されている。勝つ者はボロ勝ちするのが正しい。というのが日本国民の反応だった〉。

――「刺客」を送るという非人間的な党本部のやり方に反発する心は、選挙結果に反映しなかった。

西尾 小泉さんはこの間都内の一等地の公務員宿舎をけしからん、つぶすといって人気を博した。表に目立つ官僚を叩いて、他方竹中のような自分の身近な特定の官僚に権力を与えて自分の政府内政府を作る。「官僚は悪者だ」と言いながら、財務省は守っている。

――そして、叩かれたのが、郵政だった。

西尾 財政破綻にしか道が通じていない郵政民営化を、「すべての改革の本丸」だと小泉さんは言った。郵政と簡保に、国民から330兆円が預けられている一方、国債や、財務省への預託金、つまり国家への貸し付けが304兆円。うち100兆円は不良債権化して、ほぼ償還不能。貸し手である財務省理財局の責任も、借り手である特殊法人の責任も追及されず、郵政省ばかりが目の仇にされた。構造改革をやるなら、財務省や特別会計の特殊法人にメスを入れるべきなのに、それはやらない。郵政なんて、叩く理由は何もなかった。この官僚叩きが、政治の目を逸らして財務省という官僚を守ったわけです。

――そして「官」から「民」への郵政民営化はどうなる?

西尾 日本の「官」からアメリカの「民」へ資金が流動するだけです。郵政民営化で、郵便局は、窓口ネットワーク会社、郵便事業会社、郵便貯金会社、郵便保険会社の4つの会社に分けられ、さらに4つの会社を子会社とする持ち株会社と、国民から預けられた330兆円を保有する「公社継承法人」ができる。持ち株会社が、郵便貯金会社と郵便保険会社を07年から10年で売却し、民営化することになった。公社継承法人は金を外部委託で安全運用するというが、外部とは、政府の管理外の民間会社で、運用権を外国に売れる。

 アメリカも深刻な財政状況のなか、日本から何が吸い取れるかを必死に考えているわけです。財政の基盤である郵貯・簡保を取り毀して政府から切り離し、アメリカの市場開放要求にそのままさらしてしまう。「第二の占領政策」と言われた89年~90年の日米構造協議からつながる、アメリカの標的になった日本の姿です。

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(一)()()()()はこちらです。

つづく

忘れることの大切さ

――拙著『人生の価値について』と10年前の自分――

 振り返ってみるとあんな難局を我ながらよく乗り切れたものだ、と思うことが人生にはよくある。体力のことを言っている。私の場合は10年前のことを言っている。これから10年先になると、今私が乗り切っているそれなりの現下の難局を思い出して、よくやったものだと思うようになるのかもしれない。

 『人生の価値について』は約10年前に、2年間に及ぶ北海道新聞の、毎日曜日3枚の連載を一冊にまとめたものだが、この2年の期間中に、私は死の淵に近く立つ二度目の大患をくぐり抜けている。その間に連載を中断してはいない。そのことをある人から葉書をいたゞくまですっかり忘れていた。

 記録によると不整脈悪化で榊原記念病院に緊急入院したのは、1994年12月12日である。連載は94年4月3日に始まっている。病気は過密スケジュールによるストレスが原因である。連載中の2年間は5冊の単行本を出している多産の歳月であった。そして入院はその中間で、「新しい歴史教科書をつくる会」を始める2年ほど前にあたる。

 1994年11月20日に福田恆存先生が逝去された。私は朝日新聞に追悼文を書いた。そして、月刊誌『新潮』からもより長文の追悼文を依頼されていた。先生の青山斎場での本葬儀は12月9日だった。私はその翌日から苦しみだし、12日に病状がにわかに進み、入院した。心室頻拍症という診断を受けた。心電図のモニターでしばしば脈の停止があった。メキシティールが注射された。すんでのところで心臓が止まる危機的状況だったと後で知った。

 私は『新潮』の追悼文を書くつもりだった。先生の訳業のイプセン『ヘッダ・ガーブラー』から書き出す野心的な組み立ての小論にする予定で、必要な本と原稿用紙を病院に運びこんでいたが、医師に制止され、諦めざるを得なかった。

 それでも産経新聞の正月用に予定される「正論」欄を、これは短文だということで、12月15日に完成させている。12日に入院して15日に書いている。よく気力と体力があったなァ、というのは一つにはこのことである。福田先生に関するエピソードの一つを紹介し、「私に踏み絵をさせる気か」という題で発表している。そして19日に退院し、私は自宅療養に入っている。

 わずか一週間の入院生活だった。が、心臓はこわい。あぶなかったのだ。それから2年ほど不整脈に悩んだ。血圧計を日に何度も使用していたが、いつしか完全に不整脈は治った。エパデールという、今も常用している青い魚のエキスの薬のせいかもしれないし、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動――1996年12月2日に始まる――がストレスの解消に役立ったのかもしれない。(当時はそうだったが、最近は逆につくる会がストレスになっている。だから手を引いたのである。)

 『人生の価値について』の原稿は札幌の北海道新聞本社へ送るのに、ある通信社の手を経て、送付されていた。二年間お世話になった通信社のB.Hさんに今度出た再刊本をお送りしたら、次のような好意的な葉書のご返書をいたゞいた。

謹啓。御著『人生の価値について』の新刊を御恵贈いただき、謹んで御礼申し上げます。思えば10年以上も昔、電通大の先生のもとにこの連載原稿を頂戴に通いました。毎週いただく原稿を帰りの電車でむさぼるようにして拝読していたことが鮮やかに蘇えります。当時の私の仕事を離れた大きな楽しみであり、思索の羅針盤でもありました。新潮選書で一冊の本になったとき、一人でも多くの日本人にこの名著が広まるように念じたと同時に、読んだ人は必ず己の迷妄を振り返り、少し利口になったような気になるだろうと自身を棚に上げて思ったことであります。新版は廉価であります。さらに読者の輪が拡大して行くことだろうと信じております。日曜日、拝読し直しておりましたら、いつの間にか夜中近くになっていました。まさしく〈巻を措く能わず〉そのものでした。取り急ぎ御礼のみにて失礼いたします。敬具

 私は嬉しかった。かつて何度も読んだはずの方がまた読んで、また引きこまれて、つい夜中近くまで面白くて読んでしまったという、こういう率直なことばが、いつの場合にも作者を何よりも喜ばせる。

 あの本は読みだしたらじつは筋があって、次々と面白くて、先を読みたくなる構成になっている。じつはそうなのだ。そういう文章の組み立てになっている。B.Hさんがその点を再体験したと報告して下さったことが私には感激だった。

 再刊本を決定し、出版して下さったWACの編集者M.Mさんが「三分の二くらいまでは〈面白い本だな〉という印象でしたが、最後の三分の一に入るとオヤという印象で、〈感動させる本だ〉と分りました」と、出版前にわざわざ電話を掛けてこられた。私はこれも嬉しかった。

 「人を感動させる」は、ものを書く人間が密に心に期する最大の願望で、しかもそういう本は滅多に創り出せない。

 ある人が短章集なので一日一篇ずつ読みます、などと葉書をくれたのにはガッカリした。そういう本ではない。一気に読める推理小説のような仕掛けになっている本なのである。一日一篇ずつ読むなどという人は結局読まないでやめてしまうだろう、と思った。

 なぜ最後の三分の一は人の心を摑むのか。1981年のガン体験を15年たってやっと筆にできたのである。それもストレートではない。終りのほうにちょっと出しただけである。しかも書いている最中に二度目の大病を患っていた。

 とはいえこの本は病気がテーマではない。古代中国あり、ヨーロッパ論あり、インドの不可触民あり、オウム真理教あり、宗教・歴史あり、人生に評価はありや、のテーマがあり、母の死への思い出があり、内容は多方面にとぶ。読み直してみて、文章には暗い翳りはないことを再確認した。筆者の気力は充実していた。

 B.Hさんからお葉書を頂くまで、この連載の期間中に入院していたのだということを忘れていた。連載は中断されなかった。そういえばB.Hさんは病院にお見舞いに来て下さったな、と思い出した。病院で一回分の原稿を渡したのかもしれない。

 すっかり忘れていた。何でも忘れてしまう。とくに病気のことを忘れる。時期を忘れる。連載の苦しかったことと楽しかったことは覚えている。私が言いたかったのは「忘れる」というこのことである。10年をつと他人に言われて年号を合わせてみない限り、もう自分の歴史、二つの事件の重なりをすっかり忘れている。

 忘れたいのである。きっとそうだ。心の中から追い払ってあれから10年を生きてきた。だから今、私は生きているのだ。そうなのだ。そうだったのだ。とあらためて生と忘却の不思議について考える。

 生は未来を必要とする。だから忘れるのだ。私は次の10年に向けてまた走り出しているのである。きっと今日このことを書いたことをすっかり忘れるであろう。それでよいのだと思う。

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(五)

 佐藤優氏は私の本に収録されている「ハイジャックされた漂流国家」を掲載当時の『正論』(2005.11)から引用しつつ、次のように自説を展開している。

 問題は小泉政権が新自由主義政策を軌道転換し「優しく」なる場合、もしくは来年(2006年)9月の自民党総裁任期終了後、小泉氏が党規約に従って総裁から退き、総理大臣の座から離れた後の与党が絶対過半数の議席を維持しながら国民に「優しく」なり、国民を束ねる新たな原理を見出そうとするときだ。この原理の内容如何によっては、日本にファシズムが到来する現実的危険が生じる。この点に関して、『世界』の読者は違和感をもたれるかもしれないが、小泉政権がファシズムに転化する危険性についての西尾幹二氏の指摘は傾聴に値する。少々長くなるが正確に引用しておく。

 〈(小泉総理は) 何をしでかすか分らない人である。国家観、歴史観がしっかりしていないから、この国は外交的に、政治的に、軍事的に、国際社会の荒波を右に左に揺れ動く頼りない漂流国家である性格を今以上に露骨に示すようになるだろう。しかも操舵席は暴走気味の人格にハイジャックされている。

 今までは政府内に右もいれば、左もいて、自由な発言や提案が飛び交い、首相の意志決定に一定の歯止めがかけられていた。しかしこれからはそうはいかない。首相の鶴の一声ですべてがきまる。党内に意見具申の勢力が結集すれば「親衛隊」に蹴散らされる。

 今までの自民党を知る人はこんなはずではなかったとホゾを噛むだろうが、もう後の祭りである。米中の谷間で国家意志をもたない独裁国家、場当たり的に神経反応するだけの強力に閉ざされた統制国家、つまりファシズム国家らしくない非軍事的ファシズム国家が波立つ洋上を漂流しつづけるだろう。

 世間はファシズムというとヒットラーやムッソリーニのことを思い出すがそうではない。それだけではない。伝統や歴史から切り離された抽象的理想、外国の理念、郷土を失った機械文明崇拝の未来主義、過度の能率主義と合理主義への信仰、それらを有機的に結びつけるのが伝統や歴史なのだがそこが抜けていて、頭の中の人工的理念をモザイク風に張り合わせたきらびやかで異様な観念が突如として権力の鎧をつけ始めるのである。それがファシズムである。ファシズムは土俗から切り離された超近代思想である。〉(西尾幹二「ハイジャックされた漂流国家・日本」『正論』2005年11月号)
 
 10月17日に小泉総理は靖国神社を参拝し、これに対して中国政府、韓国政府が激しく反発している。今後、マスメディアで現下日本のナショナリズム言説が、排外主義的傾向の言説を含め、結晶化する。その中で、近未来、国民を束ねる軸となる原理の萌芽が見られるかもしれない。今後、2、3ヶ月の総合誌、オピニオン誌に掲載される論文を精査した上で、連載最終回に再度ファシズムの誘惑についての情勢分析を行いたい。
 
 ファシズムの危険を阻止するためには、東西冷戦終結後、有効性を失っているにもかかわらず、なぜか日本の論壇では今もその残滓が強く残っている左翼、右翼という「バカの壁」を突破し、ファシズムという妖怪を解体、脱構築する必要がある。そのためには論壇人一人ひとりが少しだけリスクを冒して、「敵」陣営の有権者の言説でも評価できる内容はきちんと評価するという当たり前の対応をとることが重要だ。開かれた精神、私の理解では、新自由主義ではなく、他者危害排除の原則を唯一の例外として、個人の愚行を認めるという旧自由主義(オールドリベラリズム)的価値観の復活が重要だ。

 日本の論壇の悪弊、左だ右だという固定観念の「バカの壁」の打破が必要だという考えはまったくその通りと思う。いうまでもなく保守言論界にも「バカの壁」は張りめぐらされている。オピニオン誌の編集者が固定観念に囚われている。

 国民を「束ねる」方向として今はすでに道徳的秩序主義が強まる方向にあると思う。「個人の愚行を認めるというオールドリベラリズム」というのはいい言葉で「党議拘束」で反対を封じるなどは最低である。ポスト小泉に誰がなっても小泉の強権的手法へのしばりが強くのこり、小泉以前に戻らないであろう。東京都庁にまでそういう空気が及んでいる。精神的統制が強化され、ご清潔主義が横行するのはウンザリする傾向なのだ。

 他方、竹中やホリエモンの「新自由主義」はファシズムとは逆方向で、国家が「負け組」に配慮のある新政策を示すときにかえって危くなるという佐藤氏の指摘は新鮮で、面白い。それこそポスト小泉に誰がなっても、人気取りは必ず「負け組に優しく」の方向に転じざるをえまい。

 ナチスもたしかにドイツ民族の平等と福祉には特別の意を用いたのだ。国民の関心を買うために、ポスト小泉内閣は弱者保護に乗り出すかもしれないが、しかし、財政が果してそれを可能にするだろうか。

 次に「排外主義的ナショナリズム」の強化ということがくりかえし指摘され、ファシズムの要因として強調されている。佐藤氏は「日朝関係について言えば平壌宣言(2002年9月17日)の廃棄という形で、国交正常化を断念するという形で現れよう。」という大胆な予測を書いている。

 これはあり得ることかもしれない。また、「関係悪化という観点では、潜在力をほとんど用いていない日米関係が今後悪化するかもしれない」と言っている。基地問題や財政問題で気になる諸点が現存しているのは事実である。

 しかし「排外的ナショナリズム」の語で指摘されている内容は日本の独立自存への意志と切り離せない。精神的な日本の自立は私の目指す方向でもあり、ファシズムといわれても困る。

 米中の谷間にある日本の外交は財政面でアメリカに好き勝手されない防御法を身につけ、軍事面でアメリカに依存せざるを得ない現実を知った上で自存の道をさぐり、基本において「親米」、しかし歴史研究においては自国の戦争の正しさを再認するためにも基本において「反米」にならざるを得ないであろう。

 中国・北朝鮮・韓国のうち韓国への外交は関心のレベルが下がり、中国に対する最大限の警戒の必要はさらに強まるであろう。以上の情勢から、佐藤氏の言う「排外的ナショナリズム」がすぐ結晶するとも思えない。

 たゞ市民生活における道徳的秩序主義や官僚統制の外から見えない強化、表向きの弱者への「優しさ」を装った首相を取り巻く一部の人間の独裁というソフトファシズムの進行には、佐藤氏の言う通り注意しなくてはならない。次の政権においてさらにそうである。小泉内閣はやがてくるものの露払いの役割を果しつつあることは十分に考えられ得る事柄なのである。

近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(四)

 自民党は2月9日に来夏の参院選の候補者選びにいち早く着手した、という報道がなされた(「朝日」10日付)。予定を前倒しにする手回しの早さである。「小泉首相や執行部が昨年の総選挙の再現を狙って候補者の公募や現職優先の見直しを進める考え」とみなされている。

 小泉政権は果たしてファシズムの先駆形態か、という議論はじつは私だけでなく、言論界の一部ではすでにいろいろな形でなされている。統制の強化が著しいことがその徴候とみられている。参院選のこのような早めのしばりも前例がない。

 小泉政権を評価する人の中には、旧田中派に代表される自民党内の古い体質の大掃除が果された、という実績をあげる人が多い。この件は私も前回の参院選の直後に「評価に値する」と書いた覚えがある。しかし、前回の郵政選挙(衆議院解散)は大掃除の程度をはるかに越えていた。

 古い体質の改革ではなく、日本人の道徳の根幹にある地域の義理人情や保守政党としてのアイデンティティの元となる民族主義的愛国感情までをも破壊してしまった。そして、それを能率本位の市場競争の理念、アメリカニズムに取って替えようとした。

 あの頃から政界ではなく日本の一般国民生活に、さまざまな道徳主義的ご清潔主義がはびこりだしていることにお気づきだろうか。東京都が旗を振り出した迷惑防止条例というのがある。ポルノなどの性の自由を抑える規制も知らぬうちに強化されている。

 検察が何となく力をもち出し、国民感情をうまく利用して、秩序と道徳の先導役を果たして一般の人の喝采を浴びているというのもどことなく気にかゝる所である。小泉政権の大掃除は旧田中派だけでなく、大切なものをも一緒に掃き出してしまっていないか。

 ファシズムというと軍事パレードと独裁者の怒号のような演説を思い出す人が多いが、そういうものばかりではない。チェコの元大統領ハベル氏が、「手袋をはめた全体主義」と言ったように、高級官僚がソファーに坐って、事務机の前で手袋をはめたまゝ行うソフトな全体主義があり得る。国家統制だけ強まり、その中味は北朝鮮のイデオロギーだったりするのが一番恐ろしいのだ。

 『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』で私が抱いた未来への不安は果してただの杞憂だろうか。小泉政権は過渡期の政権、次の新しい体制への橋渡し役にすぎないといわれてきた。小泉政権はファシズムの露払い、その先駆形態ではないかという疑問を私は本書で述べているが、知友の多くは私の本の題名に首を傾げ、「どうせ9月にやめてしまう人だから心配ない」とか、「小泉さんはいささかクレージーだが、ファシズムとは思えない」などと反応を示す人が少くなかった。

 しかしここへ来て急に私の本に注目する人が出て来たようだ。SAPIOからの同書をめぐる一ページインタビュー記事の依頼があり、マスコミの人がこの題名に怖がらないことを証明した。来週にも会うことになった。

 さて、それに先立ち、昨年の暮のうちだが、『国家の罠』と『国家の自縛』の二冊で話題になった佐藤優氏が『世界』(2005.12)に私からの長い引用も含めて、小泉政権はファシズムか? をあらためて問う論考を掲げているが、さすがに見るべき人はちゃんと見ている。

 佐藤氏の短期連載の第6回しか私は読んでいないが、重要な判断が示されている。氏の考えを私なりに要約すると次のようになる。

 小泉政権がファシズムかという問いに対する佐藤氏の答えは「ノー」だが、しかしファシズムの前提条件は整いつつある。与党が議会で三分の二以上を占めているので憲法第58条の規定を援用すれば、与党が全議席を獲得することも理論的に可能である。

 しかも小泉首相への権力の集中も進んでいる。ファシズムの特徴は官僚支配の打破を唱えることによって、実際は官僚支配を強める結果をもたらす逆説にある。たゞし、支配力を強める官僚は総理に直接任命された新官僚である。例えば竹中平蔵のようなテクノクラートに代表される総理直属の官僚である。(過日も都内の一等地の公務員アパートの取りこわしを首相が命じたとの報があり、国民の人気を博しているが、このように外側から見える処で官僚打破を叫び、見えない処で官僚支配が強まる現象はファシズムの近さを暗示している。)

 そして既成の官僚が力を失い、新しい特定の官僚の元に外側からは見えにくい小政府が生まれる。しかし佐藤氏は、小泉政権にはファシズムに不可欠の要素、自国民に対する「優しさ」が欠けているという。ファシズムの語源となった「ファシオ」はイタリア語で「束ねる」という意味、国民を束ねる手段には二つあり、第一は排外的ナショナリズム、第二は社会的弱者、競争社会の「負け組」に対し国家が再配分を行う平等主義がそれである。

 ファシズムは「勝ち組」を国家の力によって抑えこむ傾向がある。竹中平蔵とホリエモンに代表される「新自由主義」はその意味でファシズムとは相容れないのだ、という注目すべき仮説を提起している。(そうなると今度のホリエモン逮捕はファシズムへの新しい段階ということになるのかもしれない。今回の皇室典範問題で小泉政権が露骨に示しつづけているのは君主制の廃止、共和制への指向である。これもファシズムに向かっていく薄気味の悪い徴候かもしれない。)

 天皇の制度は歴史概念で、ファシズムのような近代的概念とは一致せず、これをむしろ排除する役割を担ってきた。天皇の制度が廃止になったら、その次に異様な独裁体制が出現する可能性がなきにしも非ずと私は考えている。これは私の推理である。

 さて、佐藤氏によるとファシズム国家はその内側において国民の平等を担保するのが常であり、国民に対してのみ「優しい」のを戦略とする。この点において、「新自由主義」による競争肯定の小泉政権は「負け組」の面倒はみないのであるから、優しくなく、いまだファシズムとはいえないとの判定を下している。

 そして、私の論文からかなり長い部分の引用を含めて、思わぬ方向へ議論を次のように展開している。