パールハーバー七〇周年記念出版

 私は一年も前からパールハーバー七〇周年を意識して出版の計画を立てていたが、マスコミの反応は鈍かった。ようやく12月8日が近づいてきた二、三週間前から、動きが出て来た。パールハーバーに関連する企画への私の参加内容と記念出版についてお知らせする。

①『正論』(今の号、12月号)論文「真珠湾攻撃に高い道義あり」
11月27日講演「日米開戦の由来を再考する」於靖国会館、1時30分開始。主催二宮報徳会、参加費¥1000。参加自由。
③『歴史通』(次の号)、対談、高山正之氏と日米戦争前史をめぐって
④『SAPIO』(次の号)題未定、論文掲載。
⑤日本文化チャンネル桜「闘論!倒論!討論!」
大東亜戦争開戦70周年記念大討論、日本はどうする!」放送12月10日(土)20:00~23:00

 さて、私の記念出版(徳間書店)は既報のとおり、次の二冊である。

 『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ、満洲、支那の排日』

 『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』
 
 5、は既刊、6は刊行されて約一週間で、今店頭に出ている。新聞広告はこれからである。どちらも¥1800。

 二冊はこの日のために準備してきた決定版である。くどいことは言わない。この二冊を読まずして今後、戦争の歴史を語るなかれ。

 本日は内容紹介として、目次だけでなく、あえて冒頭書き出しの3ページを引用紹介する。

GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜 GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜
(2011/11/17)
西尾幹二

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GHQ焚書図書開封 6

第一章 アメリカの野望は日本国民にどう説明されていたか
第二章 戦争の原因はアメリカの対支経済野望だった
第三章 アメリカの仮想敵国はドイツではなく日本だった
第四章 日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた
第五章 アメリカ外交の自己欺瞞
第六章 黒人私刑の時代とアメリカ政治の闇
第七章 開戦前の日本の言い分(一)
第八章 開戦前の日本の言い分(二)
第九章 特命全権大使・來栖三郎の語った日米交渉の経緯
第十章 アメリカのハワイ敗戦を検証したロバーツ委員会報告
第十一章 世界史的立場と日本
第十二章 総力戦の哲学
 あとがき

アメリカに対する不安と楽観

 日本の一般国民は戦前においてアメリカに悪感情を抱いていませんでした。小説『風と共に去りぬ』はすでにベストセラーでしたし、アメリカ映画は『キングコング』を始め愛好され、アメリカ映画の上映禁止はやっと開戦二日後になってからでした。アメリカの国内向け対日悪宣伝のほうがはるかに先を行っていたはずです。

 一般の日本人はアメリカの実力を知っていましたので、本当に戦争する相手国になるとは永い間思っていませんでした。むしろシナ大陸に介入しているイギリスやソ連はけしからぬと考えていて、その力の排除が必要とは考えられていました。イギリスとアメリカはどこまでも別の国でした。イギリスは超大国であり、アメリカは日本と並び立つ新興国であるという19世紀以来の歴史の流れの中にありました。アメリカはドイツや日本を倒す前に、まずイギリスを抑えないと先へ進めません。戦前はそういう時代でした。アメリカが超大国であることはいまだ自明の前提ではありませんでした。

 戦争直前に「近代の超克」が論じられました。文学者や哲学者がさし迫る戦時への覚悟を文明論として討議したものですが、ここでいう「近代」は「西洋近代」であり、意識されていたのはアメリカではなくヨーロッパでした。日本はヨーロッパ文明と対決するつもりでいたのです。アメリカはどこまでもヨーロッパから派生した枝葉の文明にすぎないと見られていました。

 私見では日本政府は昭和十四年(1939年)あたりまで「英米可分」で行けると踏んでいた節があります。大陸をめぐる争いの中にアメリカは出遅れていて、欧州各国の進出地に簡単に手出しはできませんでした。太平洋の島々の奪取とフィリピンの征服までは遠慮なく武力侵略をしていたにも拘わらず、大陸にはいきなり軍事介入はせず、南の方の陣固めをしていました。フィリピンやグアムを據点に、イギリス、オーストラリア、オランダと組んで日本を包囲する陣形をつくり上げ、時の到来を待っていました。アメリカは蒋介石を傀儡(かいらい)として利用することにおいてイギリスと手を組みました。

 蒋介石に手を付けたのは勿論イギリスが先です。共産党(コミンテルン)と北方軍閥と国民党(蒋介石)とが入り乱れて争うシナ大陸の内乱の中で、「排日」から「抗日」の気運が高まるのはイギリスとアメリカにとってもっけの幸いでした。日支両国が手を結ぶことを恐れていた彼らは、両国の離反のために謀略の限りを尽くします。支那の学生の抗日デモに経済支援したり、キリスト教の宣教師を動員したり、支那を味方につけようと必死で排日・抗日に協力します。このプロセスの中でいつしか「英米不可分」の情勢がかもし出されていました。それなのに、日本はずっとアメリカは対日参戦してこないと思いつづけ、「英米可分」でやって行けると信じつづけていました。ですから突如としてアメリカが正面の敵として襲いかかってきたという印象が日本人の記憶から拭(ぬぐ)えません。

 しかし少しずつ日本に圧力を加えるアメリカの黒い影は、それよりはるか前から日本国民に意識されていないはずもありません。まさかアメリカは日本に戦争するはずはないし、そんなことをしてもアメリカにとっても利益はないと日本人は信じていた反面、心の中で「日米もし戦わば」の不安な予感のストーリーがはぐくまれてもいたのです。それはそれなりの長い期間つづいていて、十数年はあったでしょう。

 つまり日本人の心の中では、アメリカとはひょっとして戦争になるかもしれないと思いつつ、従って油断大敵、準備怠りなく、などと声を掛け合いながら、どう考えてもそんなことは起こりそうもないと信じてもいたのでした。

アメリカの東洋進出――最初の一歩

 そこで、開戦の十年あるいは十五年ぐらい前に、日本がアメリカをどのように意識していたのか、またアメリカを中心とする太平洋の動き全体をどんなふうに展望していたのか、そして当時の識者たちは日本国民にどう説明していたのか、これは今検討する価値があります。

 戦争が本当に近づいたら、これはもう「敵国」という意識がはっきりするわけですが、それ以前の段階でアメリカにたいしてどんな考えをしていたのか。本書では最初にこの関心から、昭和7年4月20日に刊行された『日米戦ふ可きか』という本を取り上げてみたいと思います。満州事変から一年、日米双方の国民の感情も険しくなりはじめていましたが、まだまだそれほど敵対的ではない、そんな時代に出た本です。

 当時はこの類の本がたくさん刊行されました。『日米戦争物語』『日米不戦論』『日米果して戦ふか』『日米戦争の勝敗』『日米開戦 米機遂に帝都を襲撃?』『日米はどうなるか』『日米決戦と增産問題の解決』『日米百年戦背負う』『日米危機とその見透し』『日米もし戦はば』『日米十年戦争』『日米開戦の眞相』『日米交渉の經緯』……。

 昭和三、四年ごろから刊行されはじめ、昭和十五、六年あたりまでこうした本はつづきます。とにかく、たくさんありますから、いったいどの本が代表的で、どの本がいちばんすぐれているのか、比較調査もできないまま、たまたま入手できたこの『日米戦ふ可きか』をご紹介しようと思います。

浅野正美さんの感想

西尾幹二全集刊行記念講演
「ニーチェと学問」
講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427
 

 当ブログ「西尾幹二のインターネット日録」はいささか手前味噌の内容、ナルシズムの傾きがあることはよく承知している。出版物ではできないことだ。前回の鈴木敏明さんの文章を紹介したように、他の人が私を誉めて下さる文章を好んで掲示する自己抑制の無さをお見せすることがよくあることは本人が心得ている。それがブログというものの有難さかもしれない、と勝手に解釈してもいる。

 友人の鈴木敏明さんにつづいて、同じく友人の浅野正美さんが私の全集について、西法太郎さんが私の脱原発論について、それぞれ二度づつご自分の体験を書いて下さっている。今日は浅野さんの文章をご紹介する。私は拝読して大変にうれしかった。実はこれを読んで、11月19日(土)の講演「ニーチェと学問」のある方向を決めたほどだ。

西尾幹二先生
全集刊行誠におめでとうございます。本日版元から送られてきて、そのずしりと重たい大冊を手にして、我がことのように喜びをかみ締めています。何という立派な装丁、そして先生の筆になる題字の美しさも際だっております。
書棚に置いたときに、輝くような存在感を発揮する書物をほとんど目にすることがなくなった昨今ですが、先生の全集にはその佇まいにも内容に劣らない気品を感じることができました。
今年1月8日のお正月、坦々塾の新年会で先生の個人全集刊行のことを初めてお聞きしてから、この日の来ることを長く待ち続けておりました。
これから足かけ6年、季節の巡りに合わせて先生の全集が届くということが、何よりの楽しみになるものと思います。
平成19年4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念パーティーの折りに配られた西尾先生の「謝辞」をここに引用させていただきます。
『私は28歳のとき、ドイツ文学振興会賞という学会関係の小さな賞をいただいたことがあります。「ニーチェと学問」と「ニーチェの言語観」の2篇が対象でした。もうこれでお分かりと思います。「学問」と「言語」は『江戸のダイナミズム』の中心をなすテーマです。若い頃の処女論文のあの日から一本の道がまっすぐに今日にまでつづいて、そしてそのテーマを拡大深化させたのが、今日のこの本だといっていいのかもしれません』

こうした言葉を読み返して見ると、全集の刊行をあえて第五巻のニーチェ論から始められたのも、納得することができます。
思想家としての西尾先生は、難解な事象を解りやすく伝える名人でもあります。言葉は伝わらなければ意味がない、という先生の思いがそうした表現に繋がっているのだと思います。上等なお酒を味わうように、じっくりと堪能させていただきます。浅野正美

 19日の講演「ニーチェと学問」について東京新聞に間もなく予告広告が出る。新聞にスペースがあって、短くまとめたその中味をのせてくれるというので、次のようにまとめた。

ニーチェは古代ギリシアの言語と思想を研究する古典文献学者でした。緻密な言葉の検証と言葉では捉えられない過去との乖離(かいり)に引き裂かれる体験は、「神の死」の自覚に直結します。古代の価値が不安定になり、把捉不可能になる17-19世紀の問題の発見は、西洋だけでなく、中国にも日本にもあり、荻生徂徠や本居宣長らの古代の復権への悲劇的認識はニーチェに先がけてさえいます。「ニーチェと学問」のテーマを世界史の広い相で再考するという新しい試みです。

 「ニーチェと学問」は話せばきりのない専門的テーマである。そこで日本人にとってそれが何であるかを語ることがむしろ必要な時代になっていると判断してのことである。

 浅野さんの次の感想文は、「坦々塾のブログ」11月9日付からの転載である。

西尾幹二全集 第五巻 感想文

<光と断崖 最晩年のニーチェ>    

         坦々塾会員 浅野 正美

 西尾先生の個人全集がついに刊行されました。私も宮崎先生と同じように、しばらくはただ眺めていました。10月21日に届いてから10日間、毎日背表紙を眺め続けて気持ちを集中していきました。時間をかけてゆっくり読もう、ドイツ語論文以外はすべて読もう、と決意して11月に変わった日から読み始めました。1頁の文字数が原稿用紙3枚になる大判にして600頁近い大冊です。果たしてどれだけの時間がかかるのか、計算すると14時間と出ました。毎日2時間で一週間と予定を立てて読み始めてから一時間後、進んだ頁数はやっと30でした。

 決して急がず、時には前に戻りながら目の前にある文章の理解に努める、という読み方で毎日朝夕1時間をこの本のためだけに費やすこと8日、やっと読了することができました。不思議なことに、この間他の文章を読むという気分にならず、新聞や週刊誌を始め、本業に関する報告書や業界紙にもほとんど目を通すことがありませんでした。一切の夾雑物を廃して挑まねば、この高峰には登れないという意識が働いたのではないかと思っています。読み進んでいるときに感じたのは、若い頃に多少遊んだ北アルプスの雪山登山の経験と似通っているということでした。雪山であれば、夏道と呼ばれる曲がりくねった登山道も雪に埋もれているため、一直線に頂を目指すことができます。その分勾配は急になり、呼吸も荒くなります。確実にいえることは、一歩一歩の歩みは苦しくとも、確実に頂上に近づいているという事実です。ただしこれだけでは頁を繰ることの集積で登頂が果たせるということになってしまいます。

 若い頃の私にとって、西尾先生は里から仰ぎ見る霊峰のごとき存在でした。ただし「光と断崖 最晩年のニーチェ」を読み終えた今、その山に登頂したという気持ちはまったくありません。里からアプローチにたどりついてみたら、里からながめているたおやかな峰が、峨々たる岩肌も露わな、かくも巨大な岩稜であると知り途方に暮れてしまった、といった表現が正直なところです。思想の核心に一歩でも近づくことができなかったならば、それはただ単に本を読んだという事実があるに過ぎません。

 この巻にも収録されている西尾先生訳の「この人を見よ」は、過去に新潮文庫で二度、筑摩文庫のニーチェ全集で一度読んだことがあり、今回で4回目の挑戦になりました。私にはニーチェに強く惹かれたという経験はなく、それでも筑摩の文庫全集は全部読みましたが、時々はっとする短い箴言に共感することはあっても、全体を通した理解には遠く及びませんでした。正直に言えば、日本語で読んでいて、こんなにもわからない本はない、というのが私の偽りのない実感でした。

 西尾先生が何度か強調されているように、「言葉と学問」を糸口に、改めて主要作品を読み返してみようと思っています。ニーチェに対しては、猛毒を帯びた危険な存在、悪書、というイメージが一般にはあるのではないかと思います。神を殺した野蛮人であり、ナチズムの思想的バックボーンとなった誤った思想家、あるいは最後には狂人と化した怪物。ナチズム云々に関しては本書で、トーマスマンの誤解が後年通説化して一般に広まってしまったという歴史的な事実を知ることができました。

 ニーチェの思想を勝手に解釈して自己の政治的正当性の根拠にしようという試みや、ナチズムが胚胎する元になった、ドイツ民族優越論は、ニーチェにその萌芽を見ることができるといった曲解はニーチェには何の責任もないことであり、意味合いは違うのかもしれませんが、日本が軍国化した基層には神話と神道、そして天皇制にその原因があるという、戦後抜きがたく定着してしまった我が国の不幸に通じるものを感じました。

 ニーチェに惹かれるレベルまで理解の及ばない私が、仮にも文庫全集を読もうと思ったのは、この人が後生に与えたあまりに大きな影響が導火線になっています。引き合うにせよ反発するにせよ、多くの人がこの巨人の磁力に巻き込まれて多くの言葉を残しています。R・シュトラウスは、冒頭のメロディーだけならだれもが知っている交響詩「ツアラトストラ」を作曲し、現在でもオーケストラの演奏会では主要な演奏レパートリーとして盛んに取り上げられています。

 ワーグナーとニーチェとの関係は、当初の賞賛から一方的な決裂という破局まで180度の転換を見せますが、この極端な変化の原因を私は何度か人に尋ねたことがありました。大方の答えは「似たもの通しだから」、「磁石の同極が反発し合うようなもの」というありきたりの答えで、充分納得できるものではありませんでした。西尾先生はこの両者の関係を、ニーチェの文体とワーグナーの音楽の構造に見られる類似性から説き起こし、凡百の解説とは雲泥の差をもって明快に説いておられます。

 残念ながら私には、ワーグナーの聖地バイロイト劇場で彼の作品を鑑賞したという経験がありませんが、本書には若い日の西尾先生がそこに一週間滞在し、ワーグナーが理想的な上演を目指して建てさせた独特な構造を持つ劇場で音楽を体験した日のことが書かれています。多分「リング四部作」を始めとして、代表的なオペラの内のいくつかを聴かれたのではないかと思います。きっとそこでは東京の一般的な劇場やレコードでは味わうことのできない音楽が鳴り響いていたことと思います。この箇所を読みながら、最後までワーグナーに耽溺し国庫を空っぽにしてまで理想の城を造り続けたバイエルンの国王、ルートヴッヒ二世のことを思い浮かべていました。ヴィスコンティの耽美的な映画を観た方も多いのではないかと思います。彼は晩年にいたって幽閉され、癈人同様となり、発狂するか絶望して入水自殺したといわれています。

 ルートヴッヒ2世が建てた城の中でももっとも有名なノイシュバンシュタイン城(別名白鳥城)には、新婚旅行で一度だけ行きました。観光客が見ることができるのは宏大な建物の内のごく一部に限られますが、若き国王がこの城にワーグナーの作品世界を贅沢に再現したその情念には、ただただ圧倒されるばかりでした。

 フュッセンという南ドイツの田舎町にこの城はあり、城の建つ丘の上からは市街を一望に見渡すことができます。緑の中に建物が点在するのどかな田園風景に暮らす人の多くが、狂王の遺産である観光資源によって幾ばくかの糧を得ているのは間違いのないことだと思います。黄葉の森に囲まれた城と下界の街を見ながら、「ルートヴッヒさん、100年かけてあなたは充分に元を取りましたね。」と心の中でつぶやいていました。

 西尾先生には何としても200歳か300歳まで仕事をしていただいて、個人全訳ニーチェ全集を出版していただきたい、という妄想とも夢想ともつかない願望をこの一巻を読んで痛切に感じました。まずは未だ未読の西尾先生の訳になる「アンチクリスト キリスト教呪詛」を必ず読もうと思います。
今ニーチェを読み返せば、今までよりは多少理解できることがあるのではないか、というのは根拠のない錯覚かもしれませんが。

 私は西尾先生を巨大な山に例え、いくら読んでも登頂することが叶わない永遠の未踏峰であると感じました。山男は登頂することを征服するともいいますから、当然のことですがそんなことができるはずがありません。先生は今年の夏、駆け足で上高地と飛騨高山の旅をされたと書かれていました。上高地では、梓川の向こうに穂高連峰が連なって見えますが、先生が行かれたときにはその姿を目にすることができたのでしょうか。私も上高地には、山登りをしていた頃に何度も通い、ここで半年間働いていたこともあります。麓の安曇野からも見える北アルプスの山々は、上高地まで来るとぐっと近く、大きく、迫力を増して見えますが、この山の本当の大きさと厳しさは、上高地からさらに20㎞以上歩いた先でないと実感することはできません。樹林帯を進むとき、山は一端視界から消え、森林限界を超えて空が広くなった時に初めてその全容や岩の荒々しさが目の前に飛び込んできます。

 全集22巻を通読したときに、果たして私の視線はどの位置から西尾幹二という巨峰を仰ぎ見ているのかというのは、今の私にとって楽しみでもあり恐怖でもあります。願わくばアルピニストのベースキャンプでもある個沢(からさわ、標高2500メートル地点にあり穂高連峰へはここから本格的な山登りが始まる)まで到達していたいと思いますが、ひょっとしたらそのときもまだ安曇野の田園風景の遠くに連なる山を仰いでいるかもしれません。象徴的なことですが、安曇野から見える山々は前山といって、穂高の主砲群ではありません。この前山は燕岳、常念岳、蝶ヶ岳、霞沢岳、六百山と連なっていますが、上高地から上流を見たときには右手、川の左岸に連なる山々で、右岸に連なる槍ヶ岳から焼岳にいたる山脈とは遠く隔たっています。里からはこの前山が衝立の役割をはたしてしまい、槍、穂高の峰々の目隠しになっているのです。前山を見て、「穂高を見た!」と叫ぶことだけはしたくないと思います。

浅野正美

全集書評

宮崎正弘さんによる書評 
 これは現代日本の思想界の“事件”だ

            西尾幹二全集、刊行開始! 特集号

西尾幹二『西尾幹二全集 5 光と断崖、最晩年のニーチェ』(国書刊行会)

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 ▲ニーチェの多岐にわたる全貌、知のダイナマイトが爆発

 西尾幹二全集の第一回配本はニーチェ。単行本になおして五、六冊分を収録している。

 まずは造本、装丁のみごとさにうたれ、じっと本棚において観ていた。二、三日のあいだ、ただ眺めていたのである。

 これを読み徹すために、今後、いかなる読書時間を配分するか、毎日すこしずつ読んでいくしか方法がないだろうけれども、それをどう工夫するかという形而上学以前の思考に明け暮れる始末だった。

 本棚のもう一つの棚には福田恒存全集(麗澤大学出版版)が鎮座ましまし、ともかく全巻がそろっているが、ようやく半分を読んだに過ぎない。福田さんの書き方は平明だから速読出来るが、それでもあの膨大な作品群をぜんぶ読むとなると、それはそれは大変な作業である。もうひとつ余計なことをつけくわえると私の本棚に三島全集はない。全作品をばらばらで持っており、文庫版にいたっては同じ本を3冊も四冊ももっているけれど。

 村松剛は全作品もっているが、江藤淳は一冊しかない。小林秀雄と保田輿重郎もほぼ全作品をばらばらに持っている。

 さて、わたし自身、西尾さんの良い読者とは言えない。

  『ヨーロッパの個人主義』『ヨーロッパ像の転換』など学生時代に夢中になって読んだし、衝撃的デビュー作以後の西尾作品をほぼ全部読んだつもりでいたのは、じつに浅はかな錯覚で、というより思い違いだった。全集の作品一覧をみて、西尾さんはこれほど多作だったのかと感嘆したのだ。

 ▲これほどの多作家だったとは

 西尾幹二全集の概要を見渡せば、冷戦終結以後の東欧のルポや『国民の歴史』『江戸のダイナミズム』などを鮮明に記憶するのに、初期の作品群と翻訳は『この人を見よ』いがいに読んでいないことに気がついて、やや茫然とする。

 ただし新潮文庫にはいった西尾幹二訳の『この人を見よ』は三回か四回読んでいる。そうでありながらまだ咀嚼できない。

 ニーチェは難しい。

 ニーチェは日本で最も人気のある哲学者・思想家だが、これほど広く誤解されている、あるいは完全にまちがって人口に膾炙された思想家もいないだろう。またナチスの魁だとか、『権力への意思』は未完成だったが、その死後の真実も殆ど知られていない。トーマスマンが批判したニーチェ解釈が、まだ日本の読書界の一部に蔓延している。

 そもそもニヒリズムを「虚無主義」と日本で翻訳されたところが誤解の出発ではなかったのか。キリストを否定した一点で毛嫌いされた読書家も多いらしいが、虚無だけの観点なら中里介山『大菩薩峠』という仏教の無を表した作品がある。

 「ニヒリズム」とは何か。西尾さんは簡潔に言う。

 「ニーチェは二千五百年に及ぶプラトン以来の形而上学の歴史が意味を失ったことともってニヒリズムとしている」(479p)。

▲三島由紀夫とニーチェ

 さて小生にとってのニーチェとは、文学青年時代に濫読した思想家のワンノブゼムでしかなく、熱狂したこともなければ、すみずみまでを舐めるように全作品を読み通した体験もない。

 そうはいうもののサルトルやラッセルなど途中で本を捨てた哲学者とは異なって、何となくニーチェに関心を抱いたのは、じつは三島由紀夫が触媒である。

 三島が『豊饒の海』に取り組む前までに、もっとも影響を受けた思想家はニーチェである。断定的に聞こえるかもしれないが、三島の『宴のあと』『絹と明察』はまことにニーチェ的であり、『美しい星』の主人公達はディモーニッシュであり、三島がニーチェをよくよく読みこなしていたことは研究者のあいだにも知られる。そして三島が好んだ音楽はワグナーだった。

 さすがに西尾さんは、この点に重々ふれて、次の文言を挿入されている。

 「萩原朔太郎が表現と情緒において感性的影響を受けた孤独は漂泊者の姿、斎藤茂吉の作歌の隅々に反響している生命観のリズム、小林秀雄が歴史の客観的学問に懐疑を寄せた際の、美と生の模範としての概念拒否の姿勢、三島由紀夫が認識と行為の矛盾した軌跡に示したパトスの源泉としての意味」。

 つまり三島とニーチェの結びつきは、「最初からなんとなく予感されるある内的緊密生」(529p)を保有している、と。

 三島がニーチェを卒業し、神道から仏教思想へいたる過程が『奔馬』『暁の寺』である。

 わたしはニーチェが仏教について次のように書いていたことを、西尾幹二全集を通して、じつは初めて知った。

 ニーチェの仏教のとらえ方とは、

 「仏教は、幾百年とつづいた哲学的運動の後に出現しているのだ。<神>という概念は、出現当時すでに、始末がついている」

 「仏教は、もはや<罪に対する戦い>などを口にしない。その代わり、どこまでも現実というものを認めた上で、<苦悩に対する戦い>を言う。仏教はーーこの点でキリスト教からは深く区別されるのだがーー道徳概念の自己欺瞞をとうに脱却している」

 そしてこうも言う。

「仏陀は、心を平静にする、あるいは晴れやかにする理念だけを要求する」

「仏教の前提をなすものは、きわめて温暖な風土と、風俗習慣に観られる大いなる柔和さ、暢びやかさといったものであって決してミリタリズムではない」

 もっとも『この人を見よ』には次の記述があった。

 「(ルサンチマンが御法度と知っていたのは仏教であり)、仏陀の『宗教』は、むしろ一種の衛生学と読んだ方が、キリスト教のようなあんな哀れむべきものとの混同を避けるためにもかえって良いのだが、この『宗教』はルサンチマンに打ち勝つことを持ってその功徳としていた。つまり、魂がルサンチマンによって左右されないようにすることーーこれが病気からの回復への第一歩なのである」(西尾訳)

▲ニーチェの翻訳は岩魂を鑿で彫り刻むような仕事

 西尾氏のニーチェへの取り組みは全生涯かけての学問的要求と執念に満ちている。

 その凄まじいまでの取り組み姿勢は留学中のドイツでイタリア人のニーチェ研究家に会い、膨大な文献、未整理の資料に圧倒され、また西ドイツのニーチェ研究がむしろ遅れていること、ワイマールのニーチェ蔵書が手つかずのまま残っていることなどを知る。

 訳業にあたっては精読に精読を重ね、ドイツ留学時代にもあらゆる関連文献を探し、あるいは目処をつけ、幾多の資料を買い込み、マイクロフィルムにも特注し、私製の海賊版をつくり、そして書斎に寝かせて“熟成させる“歳月も必要だった。

 西尾さんは翻訳の苦労に関してこういう。

 「ニーチェの文章を翻訳するのは岩魂を鑿で彫り刻むように仕事である。一語一語が緊密に詰まって、内容が圧縮されているからである。しかも語と語のあいだに意味上の空隙があり、飛躍があり、従って訳語の選択にはきわめて大きな自由の幅が与えられている。訳者の解釈力がそのつど強力に問われる」

 そしてできあがったニーチェ研究の集大成にはドイツにおける研究成果の検証、日本における高山樗牛からかれこれ百年になろうというニーチェ研究の来歴を総括されるという、あきれるほどの労力が濃縮されて第一回配本に集約されたのである。

 一週間かけて、ようやく初回配本を(ドイツ語論文をのぞいて)読み終え、呑んだ珈琲のおいしかったこと!

全著作を収めた初の決定版全集!!  西尾幹二全集

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全22巻(年4冊刊行)

 ―  ニーチェ研究で衝撃のデビューを果たし、日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた「知の巨人」西尾幹二の集大成。

― ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、文学評論、教育論、日本の歴史、世界史観、さらにはヨーロッパ留学から病気体験を経て、自己の少年期までを語る自分史を通じ、自由とは何か、人生の価値とは何か、日本の根本問題とは何かを問うてきた思想家の、そのひたむきな軌跡を辿る。

第一回配本 第五巻(六〇九〇円(税込) 発売中

 『光と断崖──最晩年のニーチェ』 ~発狂直前のニーチェ像を立体化し、未刊行の・西尾のニーチェ・を集成する

(全巻の内容)

西尾幹二全集 全二十二巻(巻数順に年四冊配本予定)

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第 一 巻 ヨーロッパの個人主義 平成二十四年一月刊行予定

第 二 巻 悲劇人の姿勢

第 三 巻 懐疑の精神

第 四 巻 ニーチェ

第 五 巻 光と断崖―最晩年のニーチェ(発売中)

第 六 巻 ショーペンハウアーの思想と人間像

第 七 巻 ソ連知識人との対話

第 八 巻 日本の教育 ドイツの教育 

第 九 巻 文学評論

第 十 巻 ヨーロッパとの対決

第 十一 巻 自由の悲劇

第 十二 巻 日本の孤独

第 十三 巻 全体主義の呪い

第 十四 巻 人生の価値について

第 十五 巻 わたしの昭和史

第 十六 巻 歴史を裁く愚かさ

第 十七 巻 沈黙する歴史

第 十八 巻 決定版 国民の歴史

第 十九 巻 日本の根本問題

第 二十 巻 江戸のダイナミズム

第二十一巻 危機に立つ保守

第二十二巻 戦争史観の革新

内容見本ご希望の方は、下記へお問い合わせ下さい。

株式会社 国書刊行会

電話:03-5970-7421 Fax :03-5970-7427

Email:nakagawara@kokusho.co.jp

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 <西尾幹二全集刊行 記念講演会>

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西尾幹二先生の全集刊行が開始されました。これを記念して氏の講演会が開催されます。ふるってご参集下さい。入場無料です。

         記

とき  11月19日(土曜) 午後六時開場 六時半開演

ところ 池袋「豊島公会堂」http://www.toshima-mirai.jp/center/a_koukai/

演題  西尾幹二「ニーチェと学問」

入場  無料

主催  国書刊行会(http://www.kokusho.co.jp)

    問合せ先03‐5970‐7421

全集刊行開始

 平成23年(2011年)10月13日、刊行予定日に西尾幹二全集第五巻(第一回配本)が無事に刊行されました。大手書店の店頭には17日に現われます。ご予約いただいている方には17日の週より宅送されます。地方は遅れますが、月末までには届くとのことです。ありがとうございました。

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 多数の方々からご予約いたゞけたことは大変に嬉しく、光栄に存じております。

 内容見本は版元に電話(03-5970-7421)して下されば送ってもらえます。まだの方はどうかよろしくお願いします。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース (5)

 『正論』11月号に「ニーチェ研究と私」が出ている。全集第5巻(第一回)の内容を示唆するだけでなく、ニーチェについて私がした仕事、し残した仕事を整理して述べている。

 『WiLL』12月号のために明日遠藤浩一さんと私の全集発刊の意義をめぐって対談をする。雑誌面で読めるのは今月の末になる。この両雑誌の全面的支援はまことにありがたい。

 全集の新聞広告は10月末に朝日、読売、日経、産経等に出るときいているが、広告のキャプションづくりで国書刊行会の編集部は大変に苦労したようだ。

 やっと決まったというその内容を少し恥しいがご紹介する。

予約受付開始 善著作を収めた初の決定版全集!!

西尾幹二全集  全22巻 年四冊刊行

ニーチェ研究で衝撃デビューを果たし、
近代日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた
「知の巨人」西尾幹二の集大成。
ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、
文学評論、教育論、日本の歴史、江戸の学問論を展開。
世界の知識人との対話や
日本の言論界での苛烈な論戦を経て、
自由とは何か、人生の価値とは何か、
日本の根本問題は何かを問うてきた
思想家の半世紀を超える軌跡を辿る。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

西尾幹二全集発刊にからむニュース (4)

光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集) 光と断崖: 最晩年のニーチェ (西尾幹二全集)
(2011/10/12)
西尾幹二

商品詳細を見る

 私がいま振り返って辛うじて他人に見せられるような文章を残しているのは25歳以後である。誰でも出発点をどう踏みしめてスタートしたかを確かめてみたくなる。30歳から40歳ごろまで私はこのうえなく多産だった。爆発的といってもよいくらいの活動をしている。

 主に三つに分類できる。全集を編集する前からそう思っていた。第一巻『ヨーロッパの個人主義』、第二巻『悲劇人の姿勢』、第三巻『懐疑の精神』の三巻に分けたのには理由がある。

 第一巻はドイツ留学体験記で、処女出版であり、文明論であり、言論界への出発点である。第二巻は私が師表として仰いだ東西の思想家小林秀雄、福田恆存、ニーチェを軸とし、三島由紀夫の悲劇的な死のテーマにつながる。

 それに対し第三巻は混沌として形をなさない。私は星雲状の嵐の中にいる。しかし意思は一番明確でもあった。私の批評の原型がこの「懐疑」ということばの中にある。

 第三巻『懐疑の精神』とは、出版という形になる前の私自身の思考の渦、外の現実の世界への触覚によるタッチから始まり、ゆっくりと転身し、静かに展開し、40歳台の安定期に入る軌跡を辿っている。もし将来私に関心を持つ解明家がいたら、この第三巻が私を解く鍵というだろう。

 第三巻の編集には大変に時間がかゝり、手間取った。ようやく「目次」が完成したのでお目にかけたい。非常に長い目次であるが、まずは説明の前に全体をお示しする。

第三巻 懐疑の精神

Ⅰ 懐疑のはじまり(ドイツ留学前)

私の「戦後」観
私のうけた戦後教育
国家否定のあとにくるもの
知性過信の弊(一)
私の保守主義観

「雙面神」脱退の記
一夢想家の文明批評――堀田善衛『インドで考えたこと』について
夏期大学講師の横顔――福田恆存先生
民主教育への疑問
知識人と政治

Ⅱ 懐疑の展開

大江健三郎の幻想風な自我
状況の責任か、個人の責任か――ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』
老成した時代
短篇思想の国
帰国して日本を考える
 反近代」論への疑い( )日本人論ブームへの疑問( )読者の条件( )
 比較文化の功罪( )節操ということ( )前向きという名の熱病( )
 変化のなかの同一( )江戸の文化生活( )物理的な衝突( )現代のタブー( )
個人であることの苦渋
実用外国語を教えざるの弁
わたしの理想とする国語教科書

Ⅲ 反乱の時代への懐疑(ドイツからの帰国直後)

国鉄と大学
喪われた畏敬と羞恥
知性過信の弊(二)
文化の原理 政治の原理
二つの「否定」は終わった
ことばの恐ろしさ
見物人の知性
 見物人の知性( )外観と内容( )ネット裏の解説家( )
紙製の蝶々
自由という悪魔
高校生の「造反」は何に起因するか
生徒の自主性は育てるべきものか
大学知識人よ、幻想の中へ逆もどりするな
ヒッピー状況と教養人

Ⅳ 情報化社会への懐疑

言葉を消毒する風潮
マスメディアが麻痺する瞬間
テレビの幻覚
現代において「笑い」は可能か
日本主義――この自信と不安の表現

Ⅴ 地図のない時代

哲学の貧困
権利主張の表と裏
はじかれるのが恐い日本人
ソルジェニーツィンの国外追放
韓非子を読む毛沢東
ノーベル平和賞雑感
オリンピック・テロ事件に思う

Ⅵ 古典のなかの現代

知的節度ということ――サント・ブーヴとゲーテの知恵

人は己れの保身をどこまで自覚できるか
  ――ピランデルロと教養人の生き方

富と幸福をめぐる一考察
  ――ベーコン、ショーペンハウアー、ニーチェ
古典のなかの現代
  ――ベーコン、ニーチェ、ルソー、ヴォルテール、
パスカル、吉田兼好、マキアヴェリ

Ⅶ 観客の名において――私の演劇時評

序にかえて――ヨーロッパの観客
第一章 文学に対する演劇人の姿勢
第二章 解体の時代における劇とはなにか
第三章 『抱擁家族』の劇化をめぐって
第四章 捨て石としての文化
第五章 ブレヒトと安部公房
第六章 情熱を喪った光景
第七章 シェイクスピアと現代

Ⅷ 比較文学・比較文化への懐疑

東大比較文学研究室シンポジウム発言(司会芳賀徹氏)
東工大比較文化研究室シンポジウム発言(司会江藤淳氏)

追補 今道友信・西尾幹二対談「比較研究の陥穽」

後記

 以上の長い目次のⅠのブロックを「懐疑のはじまり(ドイツ留学前)」として区切ったのは、これが私の20歳台の文章であることを示している。ドイツ留学が29歳から32歳であったから丁度区切りがいいのである。

 私は20歳台後半に『雙面神』という同人誌に属していた。同人には小田実、饗庭孝男などがいた。戦後派作家特集が組まれた。堀田善衛特集号で私が彼の『インドで考えたこと』を批判する文章を書いたところ、同人会を牛耳っていた幹部Sが私に無断でこれを掲載しなかった。小田も饗庭もこの件には関与していない。

 同人会の幹部Sは、戦後派を批判してもいいが、「大きく救う」ところがなくてはいけないと言った。私はその言い分に疑問をもち、そこにまた当時の文壇を蔽っていた不健全な政治主義的空気を感じ、脱会した。

 この一件をどういうわけか文芸誌『新潮』が嗅ぎつけ、私は「『雙面神』脱退の記」という短文を書くことになった。これは私が公刊雑誌に最初に書いた文章で、しかも『新潮』との長い、重要な関係はこの時をもって始まる(1962年4月号)。

 このころ言論誌『自由』が懸賞論文を募っていた。私は「私の『戦後』観」をもって応募し、第一席に入った(1965年2月号)。選考委員は竹山道雄、林健太郎、福田恆存、木村健康、武藤光朗、平林たい子、関嘉彦の諸先生だった。

 「私のうけた戦後教育」は受賞第二作として同誌(1965年7月号)に掲載された。この中で私は芥川賞作家大江健三郎――大学の同期であった――のエッセイ集『厳粛なる綱渡り』をとり上げ、「戦後世代と憲法」という平和と民主主義を信仰のように崇める教育論に異議を唱えた。私の大江批判はこのときに始まる。29歳だった。

 「私の『戦後』観」は文藝春秋の池島信平氏の目に留まり、『文藝春秋』から依頼が来た。「国家否定の後にくるもの」(1965年8月号)がそれである。

 そのころお教えをいたゞいていた福田恆存先生から、身に余る大役を仰せつけられていた。インターネットにすでに明らかにされている通り、筑摩書房刊の現代日本思想大系第32巻『反近代の思想』(福田恆存編)の100枚解説文の下原稿を頼まれた。先生は発表に当たり手を加えたが、事実上代筆だった。

 これは永い間秘事として伏せられていたが、先生は公明正大で、末尾に私の名を付記し、かつ月報(1965年2月)の原稿を私の名で書かせた。業界関係者ならこれで何が起こったかは分る。ここに挙げた「知性過信の弊」というのはその月報の文章である。

 月報は一巻に二人だった。私のほかにもうひとりいて、
そのもうひとりは何と保田與重郎氏だった。『反近代の思想』は彼の「日本の橋」を収録していた。

 他に収録された著作家は夏目漱石、永井荷風、谷崎潤一郎、亀井勝一郎、唐木順三、山本健吉、小林秀雄だった。

 作者と作品の選定はもとより福田先生だった。ただ唐木順三「現代史への試み」だけは私がお願いして入れてもらった記憶がある。

 私は先生の文章を用い、口真似をしてその解説文を書いた。完全なエピゴーネンだった。それでも文体まで似せることはできない。意は似せられるが姿は似せられない、は誰かの有名なことばだった。

 同解説文は二人のどちらの全集にも入れることのできない奇妙な文章に終った。福田先生は昔から「解説」ごとき仕事をいっさいなさらなかった。小林秀雄もしなかった。

 同解説文は福田先生の名で出されたが、若いエピゴーネンが猿真似をして書いた、ということを証言しておくことが、先生の名誉のためにもなると思う。

 以上の出来事は私のドイツ留学前だった。『反近代の思想』解説は私自身の思想形成には役立ち、『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』を目に見えぬかたちで支えている。福田哲学は私の処女作に乗り移っている。

 「夏期大学講師の横顔――福田恆存先生」は先生が高知に講演に行かれた際、私に短いポートレートを書いて現地の求めに応じて欲しいとたのまれ、必死に書いた。わずか二枚程度だが、私の最初の福田恆存論である。高知新聞(1963年7月15日)に掲載された。

 私の福田関係諸論はすべて第二巻『悲劇人の姿勢』に集めてあるが、この一文だけは20歳台の文章なのでここに残した。

 「私の保守主義観」は清水幾太郎編『現代思想哲学事典』(講談社現代新書)の「保守主義」の項が私に託された折の一文である。清水先生からのご指名であった。

 「民主教育への疑問」「知識人と政治」は自民党の新聞『国民協会』(1965年2月21日及び7月11日)に頼まれて書いた。自民党に文章を出したというので悪評紛紛と湧き起こり、ドイツ文学の仲間や先輩たちの顰蹙を買った。自民党は人間の皮を被った悪魔の集団と思われていたからである。60年安保騒動から5年目である。私はその後も自民党の新聞に二度ほど寄稿し、ドイツからも送稿している。全集には記念として20歳台の最初の二篇のみを収録した。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
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西尾幹二全集発刊にからむニュース(3)

 全集刊行は10月12日に第1回配本がなされる。段取りは順調で、丸善丸の内本店が30冊も申し込んできた知らせに版元は喜んでいる。全国の書店からも問い合わせや申し入れが相次いでいる。

 第2回配本『ヨーロッパの個人主義』は来年1月刊行の予定で、校正も完了し、早い準備が進んでいる。目次がきまったので、まずそれをお知らせする。

第一巻 ヨーロッパの個人主義

Ⅰ ヨーロッパ像の転換
    序 章  「西洋化」への疑問
   第一章  ドイツ風の秩序感覚
   第二章  西洋的自我のパラドックス
   第三章  廃墟の美
   第四章  都市とイタリア人
   第五章  庭園空間にみる文化の型
   第六章  ミュンヘンの舞台芸術
   第七章  ヨーロッパ不平等論
   第八章  内なる西洋 外なる西洋
   第九章  「留学生」の文明論的位置
   第十章  オリンポスの神々
   第十一章 ヨーロッパ背理の世界
   終 章 「西洋化」の宿命
   あとがき
 
Ⅱ ヨーロッパの個人主義
   まえがき
   第一部 進歩とニヒリズム
    < 1>封建道徳ははたして悪か
    < 2>平等思想ははたして善か
    < 3>日本人にとって「西洋の没落」とはなにか
   第二部 個人と社会 
    < 1>西洋への新しい姿勢
    < 2>日本人と西洋人の生き方の接点
    < 3>自分自身を見つめるための複眼
    < 4>西洋社会における「個人」の位置
    < 5>日本社会の慢性的混乱の真因
    < 6>西欧個人主義とキリスト教
   第三部 自由と秩序
    < 1>個人意識と近代国家の理念
    < 2>東アジア文明圏のなかの日本
    < 3>人は自由という思想に耐えられるか
    < 4>現代日本への危惧―一九六八年版あとがき
   第四部 日本人と自我
    < 1>日本人特有の「個」とは
    < 2>現代の知性について――二〇〇七年版あとがき
 
Ⅲ 掌篇

  【留学生活から】
    フーズムの宿
クリスマスの孤独
ファッシングの仮装舞踏会
ヨーロッパの老人たち
ヨーロッパの時間
ヨーロッパの自然観
教会税と信仰について
ドイツで会ったアジア人
  【ドイツの悲劇】
確信をうしなった国
東ドイツで会ったひとびと

  【ヨーロッパ放浪】
ヨーロッパを探す日本人
シルス・マリーアを訪れて
ミラノの墓地
イベリア半島
アムステルダムの様式美
マダム・バタフライという象徴
  【現代ドイツ文学界報告】
ヨーゼフ・ロート『物言わぬ預言者』()マルティン・
ヴァルザー 『一角獣』()ギュンター・グラスの政治参加
()ネリー・ザックス『エリ』()ハインリヒ・ベル
『ある公用ドライブの結末』()シュテファン・アンドレス
『鳩の塔』()ペーター・ハントケ『観衆罵倒』()
ロルフ・ホホフート『神の代理人』()批判をこめた私の総括
()ペーター・ビクセル『四季』()
フランツ・カフカ『フェリーチェへの手紙』()
スイス人ゲーテ学者エミール・シュタイガーのドイツ文壇批判()
言葉と事実――ペーター・ヴァイス小論()

Ⅳ 老年になってのドイツ体験回顧
   ドイツ大使館公邸にて

追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」

後記
(9月下旬更新の最新の目次です)

 色替えの個所は、私の若い頃の単行本にも収録しないできた置き忘れられた文章群である。

 二冊のヨーロッパ論はドイツ留学に取材した私の処女作であり、言論界へのデビュー作である。『ヨーロッパ像の転換』は三島由紀夫氏から、『ヨーロッパの個人主義』は梅原猛氏から推賞の辞をいたゞいている。後者の名は意外であろう。

 二冊は入試問題にひんぱんに用いられ、国語の教科書にも採用され、永い間私の著作はこの二冊だけのように思われていて、少し心外だった。

 今読み返してみて、若書きだとは思うが、文章に緻密さもリズムもあり、はっきりした問題意識もあり、自分で言うのも妙だが、私自身が論理的に説得されて読み進めることができたので、成功を収めた処女作であったのだと自己納得している。

 『ヨーロッパ像の転換』のほうが多面的な内容で、私にとっては本来の処女作である。けれども不思議なもので、初版から40年経って、『ヨーロッパの個人主義』のほうが私の代表作の一つのようにいわれ、有名になっている。世間のその評価に全集第一巻の題名を合わせた。今は『個人主義とはなにか』(PHP新書)の改題の下に継続して刊行されている。

 この二冊のヨーロッパ文明論と近代日本の具体的テーマについては、今日は論述しない。ドイツに留学したのに、なぜ私はドイツではなく、ヨーロッパを振りかざしたのか。

 西洋文明を受け入れ近代化した明治以来の日本の大先達の驥尾(きび)に付すのが私の留学の目的で、ドイツ一国を相手にするために渡航したのではない、との秘かな自負が私にはあった。『ヨーロッパ像の転換』の第九章が「『留学生』の文明論的位置」と名づけられている処にすべてが現われている。

 それにこの二冊に当時の東西分裂下のドイツ問題が語られていないことを、その後の私の活動から推して不思議に思われる人もいるであろう。関心がなかったのではない。書いているのである。

 Ⅲ掌編に「ドイツの悲劇」とある。「確信をうしなった国」は極右政党NPDの台頭に揺れる政情報告文であり、「東ドイツで会ったひとびと」は文字通り私の東ベルリン訪問記である。今よむと当時のドイツの政治情勢が生き生きととても良く書けている。しかし私は自分の本にこれらを入れなかった。

 私は政治報告文屋さんと見られるのを潔しとしなかったのである。そのころベルリン留学の報告文で名を挙げていたドイツ文学の先輩西義之という人がいた。私は彼のような「もの書き」には絶対にならない、と心に誓って渡独した。私の行き先がベルリンではなくミュンヘンだったのも幸いだった。私は「ヨーロッパ文明」と対話するのが留学の目的であって「ドイツの政治」などという一時的な小さなテーマを主な相手にはしない、という考えでほゞ一貫していた。

 ものを書く動機の基本に「他と違う」ということがなくてはならない。先人に学ぶことはあっても「先人と同じ歩き方はしない」ということがなくてはならない、と思っている。いやしくもジャーナリズムで生きようとするならそれは不可欠である。

 けれどもドイツの政治に対するドイツの知識人、ドイツの文学者の偏向した意識に私は無関心になることはできず、抑えていてもどこかから爆発する思いが出てくる。

 Ⅲ掌編の中の「現代ドイツ文学界報告」は、人からみれば全集に入れるべき文章ではあるまい。文芸誌『新潮』にある期間月ごとに送っていた「世界文学マンスリー」という見開き2ページのドイツ文壇紹介文にすぎない。

 けれどもこれはある意味で私が専攻していた「ドイツ文学」の世界から決別する切っ掛けとなる仕事でもあった。私は文学情勢をていねいに調べ書き送った。けれどもギュンター・グラス、ハインリヒ・ベル、ロルフ・ホッホフート、ペーター・ヴァイスといった一連の政治主義的作家たちの非文学性、あるいは凡庸な反ヒットラー反ナチ単一志向性がまことにばからしく、次第に腹が立ってきて、「批判をこめた私の総括」という否定文を掲げた。

 この一文だけでも全集に入れた意味がある。またスイスのゲーテ学者エミール・シュタイガーが私と同じように批判を展開していたのがうれしくなって、これも掲げて、『新潮』編集部に言ってドイツ文壇報告を打ち切りにした。

 間もなく、同じようなドイツ文学報告文を『文学界』で書いていた東大の神品芳夫助教授から私の批判を「はた迷惑」ということばで攻撃する文章が掲げられた。現代ドイツ文学研究の業界全体にとって「迷惑」だというのである。

 私は笑った。読者も恐らく笑うだろう。40年経って誰が本当のことを見抜いていたかは明らかになった。例えばギュンター・グラスは大江の後を追うようにノーベル文学賞をもらったが、60年代のこのときの「政治参加」が欺瞞であったことは、彼が若い時代にナチ協力者であったのを隠していたことが暴露されて権威を失い、失脚したことからも明らかである。

 追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」はドイツ問題のこんな騒ぎとは関係なく、老大家竹山先生の戦前からのヨーロッパ体験のお話を伺う、静かな心愉しい示唆に富む内容である。

『原子力村の大罪』の刊行

次のような出版に参加しました。

『原子力村の大罪』(KKベストセラーズ刊、¥1500)

原子力村の大罪 原子力村の大罪
(2011/09/01)
小出 裕章、西尾 幹二 他

商品詳細を見る

目 次

原子力村への最終警告   小出裕幸
福島で生きる(8・5緊急講演録)   小出裕幸
脱原発こそ国家永遠の道   西尾幹二
本丸は、東京電力ではなく経産省だ!   佐藤栄佐久
東電からもらったのは被害だけだ!   桜井勝延
騙し騙され50年、悲劇的結末を迎えた東京電力と城下町   恩田勝亘
このままでは棄民にされてしまう   星 亮一
人牛同病   玄侑宗久
跋 最初の数日間の感想   西尾幹二

編集後記

 かつて私は「最悪を想定しない『go』の社会の病理」という論文を書き、雑誌では「原子力保安員の未必の故意」と題されました。「原子力村」の「村」への批判には私も共鳴しています。

 尚掲載論文は『WiLL』5月号、6月号、7月号からです。9月26日発売11月号『WiLL』に新しい論文を発表する予定です。

『GHQ焚書図書開封 5』の刊行

GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日 GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日
(2011/07/30)
西尾幹二

商品詳細を見る

 7月31日に『GHQ焚書図書開封 5』(徳間書店、¥1800+税)が刊行されました。副題は「ハワイ、満州、支那の排日」で、表紙絵をご覧の通り、帯に「パールハーバー70周年!」と銘打たれています。今年の12月8日は真珠湾攻撃の70周年記念日に当たります。

 この件については「あとがき」をすでに掲示しました。

 今日は目次を紹介しておきます。

第1章 米国のハワイ侵略第一幕
第2章  立ちつくす日本 踏みにじる米国
第3章 ハワイ併合に対する日本の抗議
第4章 アメリカのハワイ・フィリピン侵略と満洲への野望
第5章 長與善郎『少年満洲讀本』その一
第6章 長與善郎『少年満洲讀本』その二
第7章 長與善郎『少年満洲讀本』その三
第8章 支那の排日の八つの原因
第9章 排日の担い手は英米系教会からロシア共産主義へ
第10章 支那の国民性と黄河決壊事件
第11章 現実家・長野朗が見た理想郷・満洲の矛盾

〔巻末付録〕標題に「満洲」と入った焚書図書一覧(作成・溝口郁夫)

 以上の通りです。

 日本人がなぜアメリカと戦争をするという判断の間違いを犯したかではなく、なぜアメリカは日本と戦争をするという無法に走ったのかと問うべきだ、というかねての私の主張はこの本でかなりはっきりするでしょう。

 敗戦の負の感情を返上し、正の意識を回復しましょう。日本が前向きになるのはすべてそこからです。

アマゾンのレビューより

By スワン – レビューをすべて見る

レビュー対象商品: GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満州、支那の排日 (単行本)

本書は<逆転の発想>に立っている。
「日本はなぜアメリカと戦争したのか」ではなく、「アメリカはなぜ日本に牙をむいてきたのか」と問うているからだ。

取り上げられる<GHQ焚書図書>はつぎの三冊。
・吉森実行『ハワイを繞る日米関係史』(昭和18年)
・長与善郎『少年満洲読本』(昭和13年)
・長野朗『日本と支那の諸問題』(昭和4年)

最初の本では、アメリカがハワイを併合したのが1898年と知って少々驚いた。たった100年前の出来事なのだ!
18世紀に独立を果たして以来、西へ西へと領土を広げてきたアメリカは、メキシコとの戦争でカリフォルニア一帯を奪うと、今度は、太平洋上にあって戦略的に重要な位置を占めるハワイに目をつける。
そこで軍隊を上陸させると、女王を脅かし、強引に退位させ、ハワイを併呑してしまう。

米東海岸→米西海岸→ハワイ→フィリピン、という具合に領土を広げてきたアメリカが、そのつぎに目をつけたのは満州だ。
ところが、そこには日本が陣取っていた。
……といっても、日本は満州を不当に侵略したわけではない。
満州と日本の歴史、あるいは日本人移住者たちの姿は『少年満洲読本』に活写されていて、とても参考になる。

なかなか満州に進出できないアメリカは中国と手を組み、シナ大陸で<排日>の嵐を巻き起こす。
日本・中国・アメリカ間の諸問題に関しては、三番目の本で詳しく語られる。

以上のような流れを追いながら著者は、<西へ向かうアメリカ>と<その進路に立ちはだかっていた日本>という地政学的な構図をあぶりだし、日本に対するアメリカの<戦意>を見事に描き出す。

本書を通読して強く印象に残ったのは、つねに変わらないアメリカや中国の<体質>だ。

一例を挙げれば――日本軍の追撃を受けた蒋介石軍は、その進軍を阻むため、なんと黄河の堤防を爆破して大洪水を引き起こし、十万人以上の同胞を犠牲にしたのである。
先ごろの<中国版新幹線>の事故処理を見ても、中国人の体質は戦前の本に描かれた<暴虐>とまったく変わっていない。

アメリカも同様。
メキシコやスペインに戦争を吹っかけ、キューバ、米西海岸、ハワイ、フィリピン……をつぎつぎに奪い取ってきた<横暴>は、すべてに我意を押し通そうとするアメリカ外交のひな型となっている。

いまなお、そんなアメリカと中国と付き合わざるをえない日本はどうふるまうべきか?
本書には、それを<考えるヒント>がいろいろちりばめられている。

西尾幹二全集発刊にからむニュース(2)

 全集というと著者の昔の本をたゞ集めて並べるだけと思われがちだが、それは誤解である。たゞ集めて並べるだけなのは著者の死後に作られる全集である。

 著者がまだ生きている生前全集はいろいろな作品を再編集し、未発表稿なども入れて、作り直して出すのである。少くとも私の場合はそうなっている。

 第一回配本の『光と断崖――最晩年のニーチェ』は翻訳がひとつ入っているが、それを除けばすべてまだ本に収録されていない、未刊行の文章から成り立っている。筑摩書房が一冊にまとめる計画が私のつごうで延び延びになっていた。最重要な刊行予定がたまたま残っていたのである。だからこれを第一回配本とした。

 自分としてはこんな大切な仕事がまだ本になっていなかった、これは勿怪の幸いだと思った。

 そういうわけで整理も大変だったが、「後記」にも力を入れ、60枚も書いている。渾身の一冊なのである。

 現在少しづつ他の巻の目次も確定し、印刷も進行している。第一巻と第二巻の目次が定まり、すでに校正中である。以下に示す第二巻の目次は、「内容見本」(カタログ)よりさらに進化している。

 色変わりの文字の部分は「内容見本」には出ていない。これらは最後に加えられて、目次が確定した。

I 悲劇人の姿勢
   アフォリズムの美学
   小林秀雄
   福田恆存 (一)
   ニーチェ
     ニーチェと学問
     ニーチェの言語観
     論争と言語

   政治と文学の状況
   文学の宿命-現代日本文学にみる終末意識
   「死」から見た三島美学
   不自由への情熱―三島文学の孤独

Ⅱ 続篇
行為する思索―小林秀雄再論
    福田恆存小論 五題
     福田恆存(二)
     “大義のために戦う意識”と戦う
     現実を動かした強靭な精神―福田恆存氏を悼む
     時代を操れると思う愚かさ
     三十年前の自由論

   高井有一さんの福田恆存論
   田中美知太郎氏の社会批評の一例
   田中美知太郎先生の思い出
   竹山道雄先生を悼む

Ⅲ 書評
   福田恆存『総統いまだ死せず』 三島由紀夫『宴のあと』 三島由紀夫
   『裸体と衣装』 竹山道雄『時流に反して』 竹山道雄『ビルマの竪琴』
   吉田健一『ヨオロッパの世紀末』 中村光夫『芸術の幻』 佐伯彰一『
   内と外からの日本文学』 村松剛『歴史とエロス』 江藤淳『崩壊から
   の創造』

Ⅳ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学
   
   一 知識人の政治的言動について
   二 「和魂」と「洋魂」の戦い
   三 ロレンスとキリスト教
   四 「生ぬるい保守」の時代
   五 エピゴーネンからの離反劇
   六 「真の自由」について

Ⅴ 三島由紀夫の死と私

   一 三島事件の時代背景
   二 一九七〇年前後の証言から
   三 芸術と実生活の問題
   四 私小説風土克服という流れの中で再考する

Ⅵ 憂国忌

   三島由紀夫の死 再論 (没後三十年)
   三島由紀夫の自決と日本の核武装 (没後四十年)

追補 福田恆存・西尾幹二対談「支配欲と権力欲への視角」

   
   後 記
     

 「悲劇人の姿勢」ということばは私の第一エッセイ集の標題である。Ⅰはそのときの目次を踏襲している。最も初期の私の思索の結晶である。

 小林秀雄、福田恆存、ニーチェを並べたのは私の若さである。若書きの未熟な作かもしれない。しかしこの三人が、私の掲げた旗なのである。不遜にも自分もこの人たちのように生きようと宣言したも同じである。そうこうしているうちに三島由紀夫が自決した。

 Ⅰのさいごの二篇「『死』から見た三島美学」「不自由への情熱――三島文学の孤独」は、第一エッセイ集には入っていない。第一エッセイ集『悲劇人の姿勢』は三島の自決直後に出されたのだが、この二篇はあえて入れていない。

 「論争と言語」というのは同人誌に書かれたもので、本邦初公刊である。1962年、27歳の執筆の奇妙なニーチェ論である。

 Ⅱの「“大義のために戦う意識”と戦う」も「田中美知太郎氏の社会批評の一例」も、ともに私の本には収録されていない未公刊の文章である。後者は田中美知太郎全集の月報である。

 巻末に追補として掲げた福田恆存先生との対談は貴重な記録で、未公開である(一度当ブログに出したことはある)。いま福田恆存対談・座談集全7巻が玉川大学出版部から刊行中で、その中にも収められる予定である。私の36歳の折の、理想視していた先生との対談であるから、貴重な記録なのである。

 私はこの巻に名を挙げた諸先生から注目され、期待され、希望に溢れて生きていた。その唯中へ、三島の自決事件が起こった。

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(追記・内容見本は国書刊行会03-5970-7421に電話すれば送ってもらえます。)