川田正子さんが急逝され、しばし言葉もなかった。今年も年賀状の交換があった。
平成14年8月3日につくる会・夏の祭典の第一部にコンサート「教科書から消えた唱歌・童謡」が企画され、川田さんと森の子児童合唱団にご出演いただいた。子供の頃ラジオで毎日のようにその歌声を耳にしていた、私には懐かしい人だ。五十数年をへて実際にお目にかゝれる人になるとは夢にも思っていなかった。
あの日の出来事を通じて川田さんを回想する文章を日録に記していたので、その一部を追悼の意をこめて再掲示する。
舞台の上に緑の服に、白い帽子を冠った20名の可愛い森の木児童合唱団の子供たちが「待ちぼうけ」「故郷を離るる歌」を、それから「おぼろ月夜」を歌った。さらに「夏は来ぬ」「われは海の子」「村祭」がメドレーで歌われた。
そこで川田正子さんが登場、「みかんの花咲く丘」を歌った。
川田さんがデビューしたのは昭和18年だが、戦時中も疎開せずにJOAK(今のNHK)のマイクの前で歌いつづけた。終戦前でも「空襲のない日はあっても川田正子の歌声の聞こえなかった日はない」とまで言われたほどである。
戦後最初にヒットしたのは「里の秋」で、つづいて昭和21年「みかんの花咲く丘」(加藤省吾作詞・海沼実作曲)が空前の大ヒットとなった。あの前奏のメロディーも私は口をついて出てくるほどに愛唱したものだ。
ラジオの二元放送というのがあって、伊東市の国民学校の講堂で、8月25日彼女が歌う予定の前の日になってもまだ歌ができていない。作詞の加藤は故郷の静岡のみかん畑を思い浮かべながら原稿用紙をうめた。作曲の海沼は歌詞を受けとるや、曲を作るより前に、大急ぎでCIE米民間情報局とCCD米民間検閲部が陣取っていたJOAKへ、まだ幼い川田さんの手を引っぱって連れて行った。当時出版物や歌などは、発表する前に必ずGHQの審査を受けなければならなかったからである。
勿論「みかんの花咲く丘」の歌詞に問題はなく、すぐ許可が下りた。大急ぎで二人は電車に乗ったが、当時伊東行きは一日に一本しか出ていなかった。海沼は車中必死に想をねって、音楽学校でよく弾いたオペラの曲を思い出していると、ワルツのようなあの前奏が閃いた。川田さんはすやすやと眠っていたという。
こうして電車が伊東に着く頃にメロディーはできあがった。伊東の旅館で海沼は川田さんといっしょに風呂に入り、背中を流してやりながら、明日歌うことになっている新しい歌を教えたという。
一度限りの放送用と考え、あわただしく作られたこの歌は予想を越え、空前の大ヒットとなり、童謡歌手川田正子の人気は大人のスター歌手をも圧倒するほどとなった。
昭和21年は大量の餓死者が出ると予想されたほど、国内の食糧が完全に底をついた暗い年であった。
あの年の夏、私は国民学校の五年生で、茨城県の那珂川上流の寒村に疎開していた。農家から畑を借りて、父母が慣れない手で芋をつくり、野菜を育てていた。
歌の祭典が始まる前、私は楽屋に川田さんを訪ねて挨拶した。昭和21年から、56年の歳月が流れている。私とほぼ同世代の彼女はまだ若々しく、美しかった。小学生のときラジオで毎日聞いていたあの歌声の持ち主に、67歳にして出会えたのである。
舞台の川田さんは声に張りがあり、艶もあり、衰えを感じさせない。「赤い靴」「十五夜お月さん」「この道」「浜千鳥」そして「月の砂漠」が次々と歌われた。
川田さんには私のリクエストで「冬の星座」を歌ってもらった。私も舞台に上って「みかんの花咲く丘」と「ふるさと」を会場も含め皆で合唱したのを思い出す。この後書簡の往復もあった。
川田さんの音量のある艶やかな声と若々しいお姿を思い出すと、急逝がにわかには信じられない。人の命の儚さと無常の思いはありふれた言葉ではあるが、今はただそうとしか言いようがない。同じ年齢の彼女の死はわが身に近づくものの跫音の響きをしかと感じさせる。
昨日高校時代の私の友人の一人がガンで入院したとの報せを受けた。人が去るだけでなく、私の生きた「時代」が去って行く。
『諸君!』3月号に「誰がホリエモンに石を投げられるのか」(18枚)を書いた。動いているニュースなので、容易でなく、ホリエ逮捕のあった23日の夜中に加筆校了とした。
人は生きている限り、生の法則に従い、自分の仕事に忠実に従事する。しかし人の世の争乱と紛糾を人の世を超えた視線で突き離して見ることも必要で、この論文の題名は期せずして私の心境を反映していたように思える。題名は勿論、三日も前に決定されていたのではあるが・・・・・・。