百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(三)

わしズム 文明批評より

(三)行き詰る略奪資本主義

 アメリカが中国大陸でしたことは商品経済ではなく、鉄道や橋や工場を作って、高利の利ざやを稼ぐ投資経済だった。ベストは鉄道建設だが、有利な路線はすべてイギリスが押さえていたし、満洲は日本とロシアが握っていたので、アメリカがしたのは金融による間接システム支配だった。が、必ずしも成功したとはいえない。あれほど大きな援助を惜しまなかった蒋介石政権を、戦後あっという間に見限って、大陸を毛沢東支配に委ねて知らん顔をしてしまった。このアメリカの行動の不可解さは、ひとえに「領土」に関心がないという動機に由(よ)るのではないだろうか。反共という政治の原理からは説明できないし、理解もできない。

 他国の領土と住民を支配するのは容易ではなく、コストもかかるし血も流す。1945年以後も世界はその不合理にしばらく気がつかなかった。フランスやオランダは植民地支配の継続にこだわった。しかし金融資本主義の道をひた走っていたアメリカは脱領土的なシステム支配の方式をもって世界に範を示し、GNPやGDPといった経済指標が領土の広さに代わる国力の表徴であることを証明してみせた。

 スペインを皮切りに、オランダ、イギリス、フランスへと展開した資本主義は、基本的に「領土」に執着し、そのためにたびたび戦争が起こった。それは低開発地域で少しでも安い資源を手に入れ、先進国が加工して高く売ることに、狙いがあったからだ。イギリスがインドを統治し、綿花を作らせ、本国で加工して植民地に高く売りつける等は露骨な直接支配だった。資源だけでなくマーケットもまた囲いこまれた略奪のシステムだった。「略奪資本主義」が資本主義というものの本来の姿なのかもしれない。そしてそれは今に至るまでずっとつづいているのは石油の争奪に現われている。

石油産出国の反乱と先進諸国の巻き返し

 永い間石油生産国には価格決定権がなかった。価格はいわゆるメジャーが決めていた。1945年以後ごく最近までは石油の時代、石油を支配したアメリカの時代がつづいた。石油に関しても他の資源と同様に産出国に自主決定権のない「略奪資本主義」が成立していたのである。

 1973年に石油危機が起きた。産油国が価格決定を自分たちの手で握ろうとして結集し、OPEC(石油輸出国機構)を建ち上げた。先進国にとり「領土」はなくてもよいが「資源」が重大であることは変わらない。資源の中の資源ともいうべき石油が必ずしも先進国側の自由にならなくなり始めた。OPECの成立は略奪資本主義の歴史の中で革命的なことであった。

 スペイン帝国からこのかたずっと、イギリス、フランス、オランダの東インド会社を経て五百年間も、遅れた国や地域から先進国が安い資源を買い上げて、これを加工して、付加価値をつけて高く売ることで成り立っていた資本主義の支配構造に初めてNO!をつきつけたのがOPECであった。歴史をゆるがすような出来事なのだ。

 日本を含む先進国側はこれに対し巻き返しを図ってきて、一定の歯止めをかけているが、あの頃から資源国はたしかに有利になっている。世界の先進国の企業は次第に儲らなくなっている。資源の高騰した分だけ従業員の賃金がしぼりこまれているこの二十年間の統計表を見たことがある。日本の長期低落傾向もこの必然の流れに沿っている。

ユーロによる支配からドルを守るためだったイラク戦争

 日本が戦後六十年、モノづくりの総力を結集してせっせと勤勉に働いてためた資産は15兆ドル、仮に分り易く1ドル100円とすれば1500兆円である。これだけあるから、政府が赤字国債を積み上げて1000兆円を越えても、民間資金がまだそれを上回っているから何とか辛うじて破局にいたらないで済むのだとしばしば説明されるあの額、ひところ世界からたいへんに羨ましがられた国民の血と汗の結晶の総額である。

 ところがモノづくりで勝てないアメリカは金融資本主義の道をひた走って、今度は何とか新たに脱資源的システム支配を目指し、EUもまきこんで過去十三年間の短い期間で何と100兆ドル、1ドル100円とすれば1京円、しかもレバレッジをかけて倍増させ200兆ドル、2京円の根拠なきカネを空(くう)につくり出した。七十年前にアメリカ通の山本五十六司令長官にも見えなかったアメリカの暴走が、歳月を経てまたまた急転回している。

 今度もまたしてもアメリカと西欧諸国との間では歩み方に微妙な違いがある。イラク戦争はユーロとドルの通貨戦争の趣きがあった。イラクの石油の直接支配は必ずしもアメリカの戦略の中になかった。アメリカの中東石油依存度は10パーセントぐらいで、決定的な大きさではない。中東の石油売買がユーロ建てになって、基軸通貨としてのドル支配が壊れるのは破局だという危機感がアメリカにはあった。これがイラク戦争の原因である。ユーロからドルを守るために、戦争を起こしながら、世界を間接支配しようとするアメリカ一流の戦略であったと考えられる。

 七十年前とは異なり、アメリカは今度はイギリスと組んで、ドイツやフランスが主導するEUをゆさぶる戦法に出ているかにみえる。また石油産出国による「略奪資本主義」に対する革命的挑戦にどう対応するかが、目下のあだ疎(おろそ)かにできない焦眉(しょうび)の急である。いったん産油国に握られかかった価格決定権は、知恵ある金融資本家たちの手に再び取り戻され、「先物取引」という手が用いられて、先進国に押さえられ、価格はニューヨークとロンドンが決めるという金融支配のシステムがさしあたり確立している。

実態からかけ離れ以上の膨張したカネ

 しかし地道なモノづくりから離れた金融資産はどんどんふくらむ一方で、数字的に異常な規模になっていることは先に見た通りである。これは2008年のリーマンショックを招いた。EUはアメリカ以上に空虚なカネづくりをしたので、ついに2011年のギリシアに端を発する現下の崩落寸前の危機に至った。

 実態経済からかけ離れた空虚なカネが足許に逆流し、アップアップして溺れかかっているのはアメリカも同様である。むしろアメリカに始まったのである。五百年の歴史を持つスペイン帝国以来の「略奪資本主義」は間違いなく行き詰っている。現代は近代以前からの歴史の大転換期といっていい。日米戦争よりすでにあったアメリカの病的な膨張拡大志向がこのままつづくか途絶えるかの屈折点である。

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(二)

わしズム 文明批評より

(二) 領土を必要としないアメリカ

 話題はとぶが、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロで、一極集中を誇っていた超大国アメリカがにわかに浮き足立つ事態から21世紀は始まった。2003年3月にイラクで戦争が始まり、五年後の2008年にリーマンショックと呼ばれた金融危機が起こった。このごろ中国の台頭が目立つ一方、2011年にEUに金融不安が飛び火した。目まぐるしい現代史のこのわずか十年間の動きが、山本五十六の生きたあの時代の世界史の動きとどこでどう関連していたかを大胆に推理し、考察してみたい。

 19世紀のアメリカはまだ一等国ではなく、産業資本主義国家としてもイギリスやフランスに遅れをとっていた。アメリカがイギリスに追い迫ったのは1898年に米西戦争でスペインを打ち破ってフィリピンを領有し、ハワイを併合して以来だった。イギリスは西太平洋に艦隊を撤退させてアメリカに太平洋の覇権を譲った。日本は日清戦争で台湾をかち得ていたので、このとき早くも日米対決の序幕が切って落とされたかたちだ。けれどもアメリカが若いエネルギーで成し遂げようとしていたことは、さし当りまずイギリスを追い越すことであり、そのためにイギリス、ロシア、フランス、ドイツが分割を開始していた中国大陸への進出を果すことだった。アメリカは中国大陸への関与に出遅れていた。大陸へ向かう途中にあってみるみる実力をつけ台頭していた日本の海軍力がともあれ目障りだった。はじめ軽く考えていたが、容易ならざる相手であることに気づいた後も、インディアンやフィリピンを掃蕩(そうとう)してきた遣(や)り方と同じ方針を根本的に変えるつもりはなかった。

なぜアメリカは中国大陸を目前にして侵略しなかったか

 とはいえこの点で興味深いのは、フィリピン支配まではストレートに武力にもの言わせたアメリカの侵略行動は、中国大陸をいよいよ目の前にしたときに、あるためらい、というより方針変更を余儀なくされたことだった。主にロシアとイギリスが西方からすでに大きく進出していた大陸では、武力を用いるのに有効な時期を失していた。アメリカはここで屈折し、足踏みした。で、三つのルートから大陸に迫ることとなる。(一)満洲進出を手掛かりとする北方コース、(二)上海を中心とする中国の中央部に文化侵略するコース、(三)フィリピン、グアムを拠点にイギリス、オーストラリア、オランダとの合作による南太平洋の制覇を通じて南方から軍事介入するコース、いずれのコースでも邪魔な障害物は日本であった。(三)がもちろん日米衝突の最終局面である。

 白人文明はスペイン、ポルトガルの覇権時代から、自国の外に略奪の土地、奴隷的搾取の領土を求めることを常道とする。これをもって最初は重商主義国家として、オランダ、イギリス、フランスの覇権時代には産業資本主義国家として勢威を確立した。植民地主義とはそういうものと理解できるが、アメリカは例外で、自国の外に奴隷の地を確保する必要がまったくなかった。下層労働力は国内で充当されていた。それにアメリカはすでに最初から領土広大で、資源豊富、しかも人口は西欧や日本に比べてなお稀薄で、そもそも膨張する必要のない国であった。

アメリカによる新しい支配の方式とは

 膨張する必要がないのに「西進」という宗教的信条に基いて膨張する国だった。西へフロンティアを求めて拡大するこのことは「マニフェスト・ディスティニー(明白なる宿命)」という神がかりのことばで呼ばれていたが、これは厄介で危険な精神である。列強が中国大陸で争って根拠地を占めようとすることに、アメリカは冷淡だった。その必要がなかったからで、列強同士の競争はアメリカには不便だった。そこでこの国は独自の対中政策を割り出し、脱領土的支配の方式、ドルの投資による遠隔統治の方針を考え出した。

 アメリカは20世紀の前半に三回、国際社会にこの方式を訴えて、軍事力で威圧しつつ、外交的勝利を収めた。第一回目が1899年の国務長官ジョン・ヘイによる三原則、中国における領土保全、門戸開放、機会均等の、日本を含む六カ国への提案である。第二回目は第一次大戦後のパリ講和会議における民族自決主義の提唱、第三回目は第二次大戦直前のルーズベルト=チャーチル船上会談で結ばれた大西洋憲章の締結である。ひとつひとつは事情を異とし、日本に與影響もそれぞれ異なるが、面白いのはイギリス潰しということで一貫して共通していたことが、今のわれわれの時代になってはっきり見えてきたことだ。すなわち西欧列強の植民地主義を不可能にしていく有効な「毒薬」だった。しかもアメリカ一流の正義に基く「きれいごと」でこれを宣伝し要請した。

 イギリスを倒すのに武力を用いる必要はない。アメリカは自分が必要としない「領土」「下層労働力」「直接的搾取」を西欧各国に美しいヒューマニズムの名において封印することにより、にわかに「いい子ぶり」を示す明るいアメリカニズムの旗の下(もと)に、西欧各国を弱体化させることに成功した。西欧諸国が二つの大戦で疲弊したという事情もある。ユダヤ金融資本がイギリスからアメリカに『移動したという条件の変化があり、これが決定的だったかもしれない。

 大戦前日本の指導者にイギリスの行動は理解し易かったが――少し前まで同盟国で、互いに利にさといギブ・アンド・テイクで結ばれていた――、アメリカの出方がまったく先読みできなかったのは、利害関係で判断できない、覇権願望国の「心の闇」が見えなかったからである。イギリス人にも読めなかったアメリカの「心の闇」が日本人に読めるわけがない。日露戦争のあと、1907年頃から日米関係が悪化したことはよく知られている。ワシントン会議(1922年)からロンドン軍縮会議(1930年、35年)を経て、日本は正義のきれいごとを唱えるアメリカ、そのじつ武力と金融力とで世界を遠隔操作する新しいシステム支配を目指すアメリカに翻弄されつづけることになる。

つづく

百年続いたアメリカ独自の世界システム支配の正体(一)

わしズム 文明批評より

(一) はじめは、互いに戦争するつもりのなかった日米

 『聯合艦隊司令長官山本五十六』という映画を見た。いくたびも映画になった人物であるが、今回は原作本(半藤一利氏)のせいもあって、平和をひたすら願っていたが果たせなかった悲運の将として描かれていた。画像の全体に日本の戦争を歪(ゆが)めて描くようなわざとらしい自虐的解釈がなかったのはせめてもの救いだった。

 気になったのは、一貫して山本は歴史の悲劇的結末を見通していたと言わんばかりの、時代を超越した自由な人物のように扱われていた点である。そんなことはあり得ない。日独伊三国同盟に対する彼の反対がくどいほどに強調され、英米支持の平和派だったのが心ならずも開戦の鍵を托(たく)された、という筋立てに描かれていたが、それならなぜパールハーバー襲撃だったのか。彼以外の海軍中枢は日本列島周辺をがっちり固める守りの陣形を考えていたはずである。それなのに、大空のような広い太平洋に日本の主要兵力をばらまいてしまうあんな無謀な戦略を考えつき、国家の破局を早めてしまったのは山本ではなかったか。

 詳しい戦史に通じていない私でも、納得できないのはアメリカに留学し海軍随一のアメリカ通として知られていた山本が、かの国の久しい戦意、かねてから日本の狙い撃ちを図っていた殲滅戦(せんめつせん)への意志を見落としていたことである。それからもう一つは、日本はどうせ火蓋を切ったのならなぜハワイ占領を考えなかったのか。あるいはパナマ運河の破壊までやらなかったのか。当時アメリカ側にも日本軍の行動の予想をそこまで考えていた記録がある(拙著『GHQ焚書図書開封』参照)。山本のやったことは気紛(きまぐ)れで、衝動的で、不徹底であった。私が遺憾とするのはその点である。しかも太平洋を攪乱しておきながら「平和」を願っていたなどというのは噴飯ものである。

イギリスとは戦争になるかもしれない

 山本の失敗といえば、その後のミッドウェーやガダルカナルの惨敗もあり、私は彼を名将とも英雄とも考えることはできない。しかし、本稿は山本五十六論ではない。彼のようなアメリカ通にも当時の日本人がアメリカの出方を読むことはできなかったのが私の目を引くのである。短期決戦の「限定戦争」でできるだけ早期に講話にもちこむつもりで開戦したのがあの頃の大半の日本人の予測である。しかし日本人がそう思わざるを得ないような(迷わざるを得ないような)理由が当時の国際情勢にはそれなりにあった。日本人は昭和14年(1939年)くらいまで、アメリカが対日戦争に本気で踏み込んで来るとは思っていなかった。

 あるいはイギリスとは戦争になるかもしれない、と考えていた人は多かったであろう。アメリカとイギリスとは今とは違い、まったく別の国だった。イギリスのほうが超大国だった。日米間には貿易などの数量も大きく、アメリカが経済上の利益を捨てて、さして理由のない対日戦争(今考えても目的や意味の見出せない日米戦争)に敢えて踏み込むとは考え難(にく)かった。『日米もし戦わば』というような不気味な題名の書物が両国でもよく出版され、売れていたが、半ば面白半分であって、両国ともに「まさか・・・・本当に?」と疑わしい気持ちだったのが現実である。

つづく

名古屋市長発言と日中歴史共同研究

 3月26日に発売される『WiLL』5月号に、私ほか三人の名の共同討議「虐殺を認めた『日中共同研究』徹底批判」が出ます。これは名古屋市長の南京発言を支援する内容です。

 昨年の今頃まで福地惇、福井雄三、柏原竜一、西尾幹二の「シリーズ現代史を見直す」が断続的に『WiLL』に連載されていました。東日本大震災が起こり、これが中断しました。
「日中歴史共同研究」徹底批判は四回を予定し、三回で途切れました。今回四回目を掲載いたします。

 掲載に際し、四回目の冒頭に私の次のような新しい発言が付加されました。名古屋市長発言を意識してあらためてこれを支持する目的の付言です。

 雑誌が出たら是非これにつづく「徹底批判」の内容をお読み下さい。

 名古屋の河村たかし市長が「南京事件はなかった」と率直に語ったことに対し、例によって左翼偏向した特定のマスコミと民主党藤村官房長官が待ったをかけました。

 「日中の大局を忘れるな」式の見え見えのことなかれ主義で、彼らが中国側にすり寄ったことはご存知のことと思います。その際、マスコミが錦の御旗に掲げたのは、北岡伸一氏が座長を務めた例の日中歴史共同研究です。

 「朝日新聞」は社説(二〇一二年三月八日)で、「南京大虐殺については、日中首脳の合意で作った日中歴史共同研究委員会で討議した。犠牲者数などで日中間で認識の違いはあるが、日本側が虐殺行為をしたことでは、委員会の議論でも一致している。」と早速にもあそこでなされた政治的取引きめいた決着を利用しています。

 「中日新聞(東京新聞)」も「河村市長発言、なぜ素直に撤回しない」と題した社説(二〇一二年二月二十八日)で、「南京で虐殺がなかったという研究者はほとんどいない。日中歴史共同研究の日本側論文も『集団的、個別的な虐殺事件が発生し』と明記する。」と共同研究を主張の根拠にしています。そして「市長は共同研究を『学者の個人的見解』と批判するが、国や政治レベルで埋まらぬ歴史認識の溝を、少しでも客観的に埋めようとの知恵であった」と、北岡氏らのあの見えすいた非学問的決着を唯一の拠り所としています。
 
 そもそも民族間の「歴史認識の溝」は埋まらないときには永久に埋まらないのであって――英米間にだって溝はあるんですよ――それを強引に埋めさせようとした当時の自民党首脳の取り返しのつかない政治判断の誤りであると同時に、乗せられて学問の真実追究を捨て、政治外交世界の一時の取引きの道を選んだ北岡伸一氏がそもそもおかしいとは、われわれ四人の当研究会でもさんざん論じてきました。

 なぜか常に中国側に立つ日本のマスメディアに、いつの日にか必ず日中歴史共同研究は政治的に悪用されることが起こり得るだろうと私は思っていましたら、河村市長発言でその通りになりました。私たちはこの日があるのを予知していました。
 
 それほどにも、日本を傷つける可能性のある日中歴史共同研究のテキストはほとんど誰も読んでいないのです。翻訳ともども部厚い二冊本になる本文テキストを手に取る機会に恵まれた者は今のところ恐らく非常に限られた少数者でしょう。私たち四人は、その機会を得て、これを読破し、すでに三回の討議をもって、中国側代表の型にはまった恐るべき無内容と、日本側学者たちの日本国民を裏切るこれまた型通りの妥協の数々を追及し、批判してきました。
 
 かくて「日中歴史共同研究徹底批判」は本誌で今回をもって四回目となり、これをもって完結篇といたします。今回は南京事件を取り上げていますが、それに先立つ他のテーマから入っていきます。

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その七)

 三島が見ていた「敵」

 北朝鮮が韓国・大延坪島への砲撃を行った。その前には韓国の哨戒艦を撃沈させた。にもかかわらず、韓国は憤激もぎりぎりのところにきていながら、忍耐している。それはアメリカが忍耐させるからである。アメリカは東アジアで戦争する気がない。アメリカは逃げている。

 北朝鮮の行動は中国と組んで行われている。だから、韓国の島が攻撃された事件と尖閣の事件は全く同じで、一体化していると見たほうがいい。中国は北朝鮮に制裁を加えるどころか、韓国への攻撃以来、両国間の輸出入が増えている。中国はだんだんのさばってきて図々しいことを考えているが、もし何かが起こっても、アメリカは日本に対しても、韓国にしたように何もしない可能性が高い。

 こういう状況がきたときに、はじめて今の民主党政権に対して国民の声は「自衛隊よクーデターを起こせ」との気持ちが高まるだろう。実際にするかどうかはわからない。クーデターをするような勢いのある中心の人物、田母神空将は追い出されてしまった。

 クーデターは現実的ではないが、しかし三島由紀夫が40年前にクーデターということを自衛隊に呼びかけ、そして先程示したように、NPT体制に対する不安を明確に檄文の中で述べ、あと二年しかないと叫んでいたのを思うと、時を経て三島の絶叫はにわかにリアリティを帯びてきたようにさえ思う。

 明確な敵がいたのではないか。hostile enemyはいなかったというドイツのシュタンツェル大使の解釈はいかにもそうと思えていたが、しかし、実ははっきりと敵がいた。

 内省的、内面的、自虐的な三島では決してなかった。敵は日本をたぶらかそうとしているアメリカ。広島長崎がトラウマになって核武装後の日本の復讐に内心おびえ、日本にたしかな現実の道を歩ませることを封じ込めている。

 そして、そのアメリカに乗せられっぱなしの死んだような日本。具体的にはソ連や中国ではなく、大きな轍(わだち)の中に閉じ込められている今の日本の、そして今日まで動かないこの世界の状態、核状況の現実ということではなかったろうか。

 死をもって現実を動かす

 文学と国家のことが三島の問題であった。国家のことを先に考え、文学のことなど疑えと言い出した文学者は、三島の前に二葉亭四迷がいた。二葉亭四迷は文学を疑え、国家が先にある、文学を疑わないような文学は文学ではないというようなことを高い批評意識をもって語った人だが、二葉亭の場合には常にロシアという具体的な脅威が目の前にあった。そういえばすぐ国士、二葉亭の意気込みがわかる。

 三島と二葉亭がよく似ているのは、国家という意識が文学よりも先にあるべきだというこの自覚に加えて、小説の中に国家や国民をいれない。小説はあくまで市井のささやかな男女の心のひだを描くという点では両作家は同じであり、小説の中に政治や国家の問題をストレートに入れず、現実と美を切り離す。

 その点で非常に近代小説的で、三島と二葉亭は似ている。違うのは、二葉亭の場合は国家を語るときにロシアという具体的なものが目の前にあったのに、三島の場合は具体的なものがなく、戦後という米ソの谷間にあって、敵がはっきり見えない、まるで霞のような、あるいはまたぼんやりして正体不明なふわふわしてよく見えない現実の中で、文学は二の次だという二葉亭と同じような現実への覚醒の意識を維持するために、困難が倍化していたように思う。

 それが、三島のあがいて穴の中に入っていく形で、最後は文学が政治と一体化して錐(きり)もみのような形になっていた所以であり、シュタンツェル大使に外敵もいないのに戦ったと言われた所以である。

 そういう意味での現実が捉えにくかった時代に生きたのが、三島由紀夫の運命だった。それゆえ、多くの人があの檄文を読んで、なんだろう、なんで自決したのかわからないと言ったのであるが、非常にはっきりと彼には世界の現実が見えていたんだと、私は本論でそのことを論じたのである。

 世界と日本の中に置いてみてこのことがわかった。彼には現実がすぐには見えなかった。わからない、二葉亭のようにロシアと簡単にいえなかった時代を生きた。それでも国軍の創設ということを言い、皇室への信仰の復権という具体的な政治のテーマを掲げ、しかし実際の小説はそういうものに感情的に紛らわされることなく、しっかりした明晰(めいせき)な輪郭のある小説を書く。文学と現実を切り離していた。

 しかし現実というものはロシアのようにはっきりしていなかった。それが三島の苦しいところであったし、彼の文学を規定している背景であったと私は思うのだが、しかし三島は全く空想を現実にしていたのではない。現実に立っていた。NPT体制を見ていた。

 三島は日本の現実的な政治をしっかりと見て、それを突き破り、死をもって現実を動かそうとしたリアリストであった。


(『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その六)

 周到な受賞工作

 私は、日本の保守政権を堕落させてきたのは靖国参拝とり止めの中曽根内閣からだと言ってきたが、佐藤栄作からなのではないか。彼から国家の「第二の敗戦」は始まった。彼はノーベル平和賞をもらう代わりに、アメリカに日本国を売ったのではないか。これは決して空想を述べているのではなく、論証が可能なのである。

 ノーベル平和賞自体を佐藤本人は寝耳に水だと驚きのポーズをみせたが、周到な受賞工作の結果であった。その功労者のひとりが、前年に同賞を受賞したキッシンジャー国務長官であった。佐藤はキッシンジャーにこの点で頭が上がらない。

 1974(昭和49)年にフォード大統領が来日した際、国務長官が同行団の中にいて、佐藤栄作は日本国内に彼を訪問した。総理の座を離れて二年半経っていた。訪れた理由は、ノーベル平和賞授賞式におけるスピーチの草案について、キッシンジャー国務長官の了承を取ることであった。

 佐藤は核保有五大国(米、ソ、英、仏、中)に対し、核兵器全廃を訴えようと立案していたが、キッシンジャーの了解は得られなかった。当時西側は、通常ミサイルに関してソ連に後れをとっていたので、ソ連を牽制するには核兵器の抑止力が不可欠だった。

 「何をとぼけたことを言い出すのか」と、キッシンジャーは憮然たる面持ちだったそうだ。ノーベル平和賞をもらったとたん核廃絶論者、絶対平和主義者づらをするのが許せなかったのだろう。

 国務長官に一蹴され、佐藤は文言を削った。彼はスピーチを報じる新聞の報道を後日キッシンジャーにわざわざ送り、約束どおり核廃絶を訴えることはしなかったと、身の証を立てたそうだ。キッシンジャーは彼の前に立ち塞がるアメリカの「意志」そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具であることがここからもいえる。

 佐藤が五大国の核廃絶を訴えたのは大江健三郎の平和主義からではなく、日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない。切ない抵抗だったのかもしれない。真意は分らない。

 沖縄返還後の核再持ち込みの密約の存在、「核抜き本土並み」返還がウソだった事実が、後にアメリカの公文書公開で明らかになったように、佐藤が核廃絶論者であり得るはずはないのである。

 キッシンジャーに会った半年後、佐藤栄作は脳溢血で倒れ、この世を去った。

 以上はミシガン州にあるフォード大統領図書館の機密公文書の公開によって明らかにされた史実で、これの発見と報告は春名幹男元共同通信ワシントン市局長(現名古屋大学教授)の月刊『現代』(2008年9月号)の論文に負うている。

自壊に近づく日本

 いろいろ忖度(そんたく)してみても、佐藤栄作の核をめぐる安全保障観はどこまで合理的かつ現実的であったのかは本当のところは分らない。しかし彼の内心の思いが何であれ、日本の核開発放棄とNPT調印が評価されての平和賞受賞であり、そのとき「持たず、作らず、持ち込ませず」が平和日本の国家的標語として高らかに打ち上げられ、内外に広まり、国是になったことは疑えない。

 広島で毎年8月6日に行われる平和記念式典に登壇する総理大臣は、たとえ保守志向の総理であっても、世界の人類の永遠の核廃絶をバカの一つ覚えのように口にする。私は、安倍元総理がこの常套句(じょうとうく)を語ったときにエッと驚いた。ひとりぐらい違うことを言う人があってもいいはずだ。「北朝鮮や中国の核脅威には核でしか対抗できない。諸君!われわれは坐して死ぬわけにはいかないではないか!」と、広島の壇上で語りかける総理が出てきてもいいはずだ。

 非核三原則がいけないのは、汚いもの怖いもの臭いものは全部国の外にしめ出して、目を伏せ耳を塞いでいれば外からは何も起こらずわれらは幸せだ、自分の身を清らかに保ってさえいれば犯す者はいない、という幼稚なうずくまりの姿勢のほかには、いっさいをタブーとする迷信的信条の恐ろしさである。

 NPTに署名するに先立ち、これをためらい、唯々諾々(いいだくだく)と従っていては国が危ないと苦慮していた声がたしかにあったはずなのに、それに蓋をしたのが佐藤首相であることは紛れもない。

 それなら、国連などで核廃絶提案がたとえばスウェーデンあたりから出されたとき、日本政府は賛成案を投じるかといえば必ずしもそうではなかった。記憶に残る562件の国連決議において、日本の賛成派冷戦時代で40%、その後も平均55%となっている。

 なぜ、唯一の被爆国日本が核廃絶に関する決議に賛成できなかったのか。二hんの国連大使がネバダの核実験場にアメリカから呼ばれて、スウェーデンなどの提案に賛成するな、と説得を受けたこともあるという。

 日米安保という「核の傘」の下にあるのだから仕方ない、と日本政府はそのつご棄権と反対を繰り返し、なぜ日本が?と不思議がられた。佐藤栄作がキッシンジャーに一蹴され、文字を削ったのと同じケースである。

 それなら日本は逆にアメリカとしっかり組んで、西ドイツのような現実的な道を選べばよかったのではないだろうか。1960年代のNATOにおいて開始された「核シェアリング」のような合意が、日米間でどうして可能ではなかったのだろうか。ソ連の巨大な通常戦力の陸上での攻撃に、射程の短い核兵器の発射をアメリカから任せてもらうのである。この企てに参加したのは西ドイツのほかにイタリア、オランダ、ベルギー、およびトルコであった。

 射程の長い核兵器、砲、ミサイル、航空機の爆弾の三種はアメリカが保有している。ソ連による攻撃が核なくしては防げない事例にのみ、西ドイツの場合には150発を上限に核弾頭がアメリカから譲渡され、アメリカに頼らず自らの判断のみでこの爆弾を使用することが許されていたのである。

 核廃絶は空想である。旧社会党や大江健三郎の思想である。だから、これにアメリカが同意しないというのは十分に理に適っている。キッシンジャーが佐藤栄作の受賞のスピーチの内容に異を唱えたのは、むしろ当然であった。

 しかし、それなら日本の保守政権は60年代のNATOで始まっていたこの「核シェアリング」のような現実的な方策をなぜ取り入れようとしなかったのだろうか。なぜ空想に走るか、さもなければ不承不承のアメリカ追随に逃げるか、この二軸の間をウロウロ揺れ動いただけで、自らこうするという政策なしに終わっているのか。

 国連で他国が核廃絶の提案をすると、棄権する日本は何をやっているんだと見なされるらしい。つまり、左翼にもなりきれない。旧社会党のようなことを口では言っておきながら、それにもなりきれず、現場ではアメリカに調子を合わせる。そしてそれなら西ドイツのように「核を持ち込ませる」方針を積極的に選ぶのかといえば、そんな空気もないし、議論もしない。つまり何もしない。

 このぶざまな二分裂が今までの日本であり、今の日本でもあり、そしてその揚げ句、ついに民主党政権を誕生させてしまったのである。

 もうこれ以上待てるか。はたして大丈夫か。日本はじりじりと後退し、自壊に近づいているように思える。

 国是となった佐藤栄作の「持たず、作らず、持ち込ませず」に依る自縄自縛は、次第に自己硬直の域に達したといっていいだろう。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その五)

 核を持ち込ませた西ドイツ

 その発見を説明する前に、NHKが2010年10月3日夜「スクープドキュメント“核”を求めた日本」で報じられた、佐藤政権で密かに日本の外務省が西ドイツ外務省に、アメリカから離れ、両国共同で核開発を行うべきではないかと相談を持ちかけ、西ドイツに退けられたという話について、私の知るドイツの政治的並びに心理的実情とあまりに違うので、一言述べておく。

 番組は核開発を嫌った西ドイツ政府は平和主義で、秘密にこれを画策した日本政府を悪者のように扱っていたが、とんでもないことである。

 西ドイツは戦後NATOに加盟する際、核を開発しないことを約束させられた。しかし、核の保有を断念したわけではない。ことにアデナウアー首相が強い意志で核を持つという政策を掲げていて、圧倒的多数の国民に支持されていた。アデナウアーの流れの保守政権から社会民主党系の政権に移っても、基本の姿勢は変わらなかった。

 日本が非核三原則と言っている間に、西ドイツは核は作らなくても、持ちたい。それがダメなら、せめてアメリカの核を持ち込ませたい。切実にそう願っていた。自国の安全のためである。非常に強いリアリズムとしてドイツ人はそう考えていた。

 冷戦時に、西ドイツ国防軍には有事に際しアメリカの核弾頭が提供される仕組みになっていた。NHKの番組が取り上げた一件で西ドイツ外務省が日本提案を断ったのは、日独共同で開発することの拒否にすぎない。西ドイツが日本風の平和主義であったからでは決してない。

 ドイツ人が一貫して、何とかしてアメリカの射程の短い戦術核を持ち込ませたい、そうしなければやっていけないという危機感を抱いたのは当然である。そう考えない日本人が異常なのである。

 保守政権から交代したシュミット政権になったときに周知のとおり、ソ連が配備したSS-20という中距離核弾頭に対応してアメリカのパーシングⅡと巡航ミサイルを西ドイツが率先して受け入れ、かつヨーロッパ各国にそれを説得して配備させることで末期のソビエトと対決し、これを屈服させるという一幕があった。はらはらさせたが、しかし断固とした措置であった。これに似た対応がなければ、日本はおそらく、中国と北朝鮮の連合軍による核の威嚇をはねのけて、自由で平和な今のような祝福された国土と国民生活をこのまま維持し続けることはできなくなるだろう。その意味で60-70年代の佐藤政権が「持ち込ませず」まで宣言したのは、どう考えても大失策であった。

 原因は、単なる彼の性格的ひ弱さだろうか。唯一の被爆国というマスコミへの媚(こ)び諂(へつら)いだろうか。アメリカの政策にすり寄りたい点数稼ぎだろうか。それとも、結局は彼の頭脳も旧社会党型平和主義者のそれなのだろうか。

 日本を売った佐藤栄作

 三島由紀夫の自決は、もとより半分は文学的動機によるものであり、政治的動機であの事件のすべてを説明はできない。文学者としての思想的理想がなければ、あのような極限的行動は起こらなかった。しかし、ドイツ大使シュタンツェル氏が言ったように、国の外にhostile enemyを見ない、自閉的で幻想的な行動、世界の政治現実をいっさい映し出していない、リアリティから隔絶した自虐的な行動だったのだろうか。

 私は過日、「檄」を読み直してアッと驚いた。三島由紀夫はNPTのことを語っているのだ。今まで気がつかず読み落としていた。彼が自衛隊に蹶起(けっき)を促すのは、明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵を意識しての話なのである。このままでよいのかという切迫した問いを孕(はら)んでいる。

「この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこかへ行かうとするのか。

 繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停止条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。・・・・・・(以下略)」

 六年前に中国が核実験に成功し、核保有の五大国として「核停止条約」(NPTのこと)で特権的位置を占め、三島が死んだこの年に台湾を蹴落として国連に加盟、常任理事国となるのである。「五・五・三の不平等条約」とは、ワシントン会議における米英日の主力戦艦の保有比率であることは見易い。

 三島は、NPTに署名し核を放棄するのは「国家百年の大計にかかはる」と書いている。NPTの署名を日本政府が決断したのは1970(昭和45)年2月3日で、同じ年の11月25日に三島は腹を切った。

 そして、NPTの署名と核武装の放棄を理由に、佐藤栄作はノーベル平和賞の名誉に輝いた。佐藤は三島の最期を耳にして「狂ったか」と叫んだ。政治家の穏健な良識がそう言わせたのではなく、自らの虚偽と欺瞞と頽廃と怠惰と痴愚と自己愛とが三島の刃に刺されたがゆえに、全身を襲った恐怖が言わせた痛哭(つうこく)の叫びだったのだ。

 文中にある「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である」は、すごい一言である。私もずっとそのように認識し続け、またそのように書き続けてきた。

 親米保守に胡坐(あぐら)をかく自民党の軍隊は「村山談話」に屈服して、田母神空将を追放し、ついに民主党の軍門に下った。今の自衛隊を風水害対策班にし、別の新しい「真の日本の自主的軍隊」を創設すべき秋(とき)は近づいている。

 「あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう」の「あと二年」とは1972(昭和47)年を指す。沖縄返還が72年に実現した。その頃から準備と工作を続け、74年にノーベル平和賞である。三島の死んだとき防衛庁長官は中曽根康弘だった。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その四)

 アメリカに保護された平和

 最近の政治家、官僚、学者言論人が、いつ終わるかもしれないぬるま湯のような“アメリカに保護された平和”に馴れ、日本はIAEA(国際原子力機関)に事務局長も送り出しNPTの優等生ではないかなどと呑気な顔をしているのは愚かもいいところで、自国の置かれた最近の一段と危険な立場が見えていない証拠である。

 たしかに、その後今日までにイスラエル、インド、パキスタン、そして北朝鮮が核保有国になり、NPTは半ば壊れているかもしれないが、中国と北朝鮮が日本列島にミサイルを向けている情勢は変わっていない。それどころか、近年にわかにキナ臭くなっている。中国と北朝鮮の対日敵性国家としての連帯は次第に年ごとに露骨になってさえいる。

 三島由紀夫が自決したのは周知のとおり、1970年11月15日であった。右に見てきた諸情勢のちょうど真っ只中において起こった事件だった。

 佐藤栄作が日本に対する核攻撃に対し、必ず日本を守ると言ってほしいとジョンソン大統領に頼み、口頭の確約を得たのが先述のとおり1965(昭和40)年1月であった。この日米会談に先立って、佐藤は沖縄の本土復帰を強く意欲していた。同年8月には那覇空港で、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国の戦後は終わらない」という有名な声明を発した。

 核実験の成功から国連加盟へ向けて国家的権威を高める共産中国の動向を横目に見ながら、アメリカから不確実な「核の傘」の約束をとりつけ、沖縄の早期返還を目指した佐藤長期政権の政治的評価は、今日的意味が非常に高いと思われる。

 論評も数多くあることを私は知っているが、その詳しい跡づけをするのがここでの私の課題ではない。返還までの過程で、佐藤は例の非核三原則、有名な「持たず、作らず、持ち込ませず」を言い出した。1967(昭和42)年のことである。

 そして72年には沖縄の完全返還も達成し、7年8ヶ月に及ぶ首相の座を退いた後の1974年秋にノーベル平和賞を授与されたことはよく知られている。授賞の理由は「日本の核武装に反対し、首相在任中にNPTに調印したこと」などとされている。

 しかし、彼はもともと核武装論者であったはずである。沖縄の合意の際に、返還後の核再持ち込み密約交渉があったことは、佐藤の「密使」とされた若泉敬氏の著書の中で明らかにされている。私はこのような密約の存在は、なんら驚くに値しないことと思っている。

 民主党の岡田前外相のように、軍事問題で密約そのものの存在を追及し、暴露するなどはまったくナンセンスなことである。そうではなく、核武装の必要を知っていた佐藤が「持たず、作らず」はともかくなぜ「持ち込ませず」のような、日本を反撃力の完全な真空地帯にしてしまう愚かな宣言に走ったのか、そこが不透明で分らないと言っているのである。否、「持たず、作らず」を含め、非核三原則など自ら言い出す必要はまったくなかったはずだ。

 すべてを玉虫色にしておくのが、国家安全のための知恵である。NPTの署名から批准に至るまで、6年間もためらい続けたあのフリーハンドへの関係者のこだわりは、なぜ見捨てられ、まるで旧社会党か学生が喜ぶような単純な三原則が掲げられたのか。

 三島由紀夫が自決した報を聞いて、佐藤栄作の第一声は「狂ったか」であった。私は若い時分にそれを聞いていて、政治家が文学者の行動に理解が及ばないのは普通のことで、政治家らしい反応だと思い、深く考えることはなかった。佐藤首相を責める気持ちもなかった。責任ある立場であればそのように考えるのは当然だろうと思った。しかし、三島の「檄」を最近読み直してそうではないことに気づいた。今の時代が新しい読み方を私に教えた。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その三)

 口約束で終わる「核の傘」

 三島由紀夫が市ヶ谷台で自決した1970(昭和45)年を境に、その前後の国際情勢と日本の位置を考えてみると、アジアに急激な変化が訪れていたことがわかる。ソ連軍のチェコ侵入は1968年で、世界の眼は共産主義体制の脅威と衰弱のあせりとを見ていたが、中国が別様に動き出していた。ちょうど同時代の文化大革命のことだけを言っているのではない。核実験の成功である。

 1964(昭和39)年の東京オリンピックの開催中に、それに当てつけるかのように中国から核実験成功のニュースが飛び込んだことはわれわれの記憶に鮮やかである。やがて、1971年に北京政府は国連に加盟することにも成功した。台湾政府は追放された。これらはアジアにおけるきわめて大きな出来事である。

 核実験から3ヶ月後の1965(昭和40)年1月12日に、佐藤栄作首相はホワイトハウスで行われた日米首脳会談でリンドン・ジョンソン大統領に対し、「中国が核兵器を持つなら日本も核兵器を持つべきだと考える」(米側議事録)と述べたといわれる。

 しかし、アメリカは日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づき核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の保障を与え、日本の核武装を拒否した。日本とドイツには核兵器を持たせまいとしたのが当時のアメリカの政策だった。佐藤が日本の核武装に大統領の前でどれくらいこだわり、どれくらいその主張を現実に言葉にしたかは明らかではない。

 翌1月13日に、佐藤はマクナマラ国防長官との会談で「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えたということである。

 さりとて「核の傘」は当時も、そして今も明文の形で保証されてはいない。アメリカの要人が「核の傘」の原則を語り、その都度つねに口約束で終わって、日本に核のボタンを自ら握らせる立場には絶対につかせないという方針があったようで、1965(昭和40)年の佐藤・ジョンソン会談でそれが最初に表明されたのである。

 NPTの目的

 当時、核保有国は中国が入って五カ国になった。そしてそのころ、同時によく知られている通りNPT(核兵器不拡散条約)が進められていた。旧戦勝国の五カ国が核を独占する不平等条約である。1963(昭和38)年に国連で採択され、今でこそ190を超える国々が加盟しているが、1968年の段階では調印したのは62カ国で、1970年3月に発効している。

 日本は2月にしぶしぶやっと署名に踏み切った。西ドイツが1月に署名したのを見きわめて、ぎりぎりまでねばって滑りこんだ。しかし署名はしたものの、なお釈然としなかったといわれる。理由はNPTの目的にある。村田良平元外務事務次官がその回想録で述べているとおり、NPTの七割方の目的は、経済大国になり出した日本とドイツの二国に核武装の途を閉ざすことにあったからだ。

 当時日本はアメリカ、イギリス、ソ連だけでなく、カナダやオーストラリアなどからも、NPTにおとなしく入らなければウラン燃料を供給してやらない、つまり原子力発電をできなくさせてしまうぞと脅しをかけられていた。

 それでも日本が署名をためらったのは、将来日本独自の核戦力を必要とするときが来るかもしれないので、自らの手足を縛るべきではなく、フリーハンドを維持するのが国の未来のためであるというまっとうな考え方に立っていたからである。当時の外務事務次官はそう公言していたし、自民党内にもそういう意見が少なくなかった。

 したがって、1970(昭和45)年1月に日本はNPTに署名を済ませた後も、えんえん6年間も批准を延ばし、条約の批准を果たしたのは、やっと1976年であった。

 この6年間という逡巡と躊躇の意味は、今の日本人には忘れられている。当時の日本はまだ国家を守るという粘り強い、健全な意志があったということだ。二流国家になってはいけない、いつの日にか軍事的に蘇生しなければ将来、国家の存続も危ぶまれるというまともな常識が働いていた証拠である。今は過渡期であり、敗戦国はいつまでも敗戦国に甘んじてはいけない、という認識がはっきりあった。

 1970年2月3日のNPT署名に際しての日本国政府声明のⅠ「軍備および安全保障」第五項に、次のように記されている。

 「日本国政府は、条約第十条に、『各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認めるときは、その主権の行使として、この条約から脱退する権利を有する』と規定されていることに留意する」

 必死の思いで念を押している切ない感情が伝わってくるような条項だ。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その二)

ドイツ大使の三島由紀夫論

 ちょうど一年前になるが、2010(平成22)年の1月12日に東京広尾にあるドイツ大使館公邸の夕食会に招待された折に、フォルカー・シュタンツェル大使と私との間で、三島由紀夫のことが話題になった。

 大使は日本学を研究する哲学博士で、70年代に京都大学に留学していた経歴を持つ。大使が三島の死から11年後に書いた英文の論文Traditional Ultra-Nationalist Conceptions in Mishima Yukio’s Manifesto が後日私に送られてきた。ここでいうManifestoとは三島が自衛隊市ヶ谷基地で自決した際に、手書きで何枚も準備してバルコニーからばら撒いたあの「檄」のことである。

 論文の内容は非常に穏当な捉え方をしていて、三島の生涯はなんらultra-nationalismに捧げられたものではないけれども、しかし彼はなんといってもultra-nationalistであったということを書いている。

 全体として書かれていることは概(おおむ)ね知られていることで、現代日本の空虚と腐敗を排撃し、国軍の復活を三島は激越に求めていたと理解していて、誰しもが承知している「檄」の内容の理解の仕方だといっていいのだが、読み進めていくうちに私が面白いと思った個所があった。

「三島は自国の外になんらの敵のイメージをも創り出さない。自国の悲惨がその国のせいだと言い立てるスケープゴートを国外に見ていない。日本がアメリカの政治的リーダーシップに従うあまり独立を失っているのは嘆かわしいと見ているけれど、それはアメリカが日本に敵意を持つ国だからではない。

 しかもアメリカ以外の国はどこも言及されていない。三島が主に苦情を申し立てているのは、自国の国内の状態に対してであって、敵対感情を投げかけてくるような外部からのいかなる脅威に対してでもない」

 そういえばたしかにそうである。

 三島由紀夫は、精神的にも政治的にも国内の日本人に向かって訴えたのであって、国外の世界に向かって格別なにも主張していない。

 考えてみると、1970年前後というのは日米関係が最も安定していた時代であった。日米安保条約は自動延長されている。ドイツ人外交官の眼に、外敵の恐怖も脅威もない時代に、あのような苛烈なナショナリズムを燃え立たせる三島由紀夫の情熱はどうにも理解できない、不可解なものに見えたというのはいかにも分かり易い。

 三島の予見の正しさ

 けれども、大使は学者外交官らしく、もう少し奥深いところにも踏みこんでいる。他国に対し敵意を持ったり持たなかったりするのは普通のnationalismで、それに対し、ultra-nationalismはそういうレベルを超えて、伝統文化や民族文化に遡って歴史の奥からnationの概念をつかみ出し、これを強固にするイデオロギーであって、三島を理解するには江戸幕末期の「国体」の概念と比較することが必要であると説いている。

 三島の思想と行動に、江戸幕末の志士の「国体」論を結びつけて考える人はこれまで多くはなかった。ドイツ人がこの観点を引き出したことは興味深い。

 ただ、私が一読してハッと目を射抜かれたのは歴史の解釈ではなく、三島が自国の外にいかなるhostile enemyをも見ていないと述べたあの個所なのだった。

 そうだ、そういわれてみればたしかにそうだ、と私は思った。あれほど激越な行動が、つまるところ「敵」を欠いていた。内省的で、自閉的で、ある意味で自虐的行動にほかならなかった、そう外国人に指摘されていささか虚を突かれる思いがしたのだった。

 この指摘は、しばらく私の心の中に小さくない衝撃の波紋を投げかけていた。ひょっとすると三島事件は本当に、完全に終わったのかもしれない。文学者の個人的事件となり果てて、政治の次元での現実性はもう問われる必要はないのかもしれない。

 今年、私が三島由紀夫への新しい認識や思い出、関連する体験というのはシュタンツェル氏の論文が唯一だったので、ずっと私の心はその一点に止まっていた。

 けれども、三島の行動はたしかに戦後の日本人らしく内向きだったかもしれないが、その洞察と予見の力はつねに大変に大きく、誰しも知るとおり自由民主党が最大の護憲勢力だ、と喝破した40年前の彼の言葉は、まさに今深く鋭く私たちの目の前の現実を照らし出し、予見の正しさを証明しているのである。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)