江戸のダイナミズムに寄せて(三)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

 宣長論の後の後半部分、更に読み進んで、昨晩までに、最終章まで読み終えることができました。長編の思想書や文学書を交響曲的な音楽になぞらえる評がよくあり、クラシック音楽好きの私からしてみると、言葉と音楽というものは全然違うものなのだから、そういう類の評というのは通俗的だなあと思ってきたのですが、そんな私が、今度の先生の著作は、実に交響曲的な読後感を感じることができました。交響曲というのは、鮮やかな序曲の印象、そして正しくクライマックスに向かい展開しているようにみえながら、途中で、序曲の印象がいったん何処かに隠れたりして、この曲はいったいどこに向かって進むのだろう、というハラハラ感を感じさせながら、最終章で、見事に、途中抱いていた色んな感情を、清涼感としかいいようのないものに結んでいくのですね。
  
 たとえば、伊藤仁斎の、儒教へのヨーロッパ有神論的解釈の存在の意義を説かれるあたり、序章から宣長論までの展開があまりにも鮮やかだったため、理解はできても、「この曲(本)はいったい何処に向かい進むのだろう」という印象を抱かれた方は少なくないと思います。いったい、伊藤仁斎あるいは、ヨーロッパの有神論的な儒教・孔子解釈を登場させる必要がここであるのだろうか、という印象ですね。しかし、それは、最終章の認識の味わいのための巧みな前段階というふうに思われる。交響曲というのもそういうもので、一見するとあまり意味のないような中途の何処そこのメロディが、最終章の感動と密接になっている場合が少なくないのです。ヨーロッパの有神論的な孔子・儒教解釈というのは、最終章での「ヨーロッパの不安」という主題に、裏道から結実していくものなのですね。
  
  西尾先生の著作によってはじめて知ったフェヌロンの安直なソクラテスと孔子の創作対話、あるいは意外に有名なヘーゲルの杜撰な孔子批判、そういうものを私達はヨーロッパ中華思想、として片付けてしまいがちで、結論的にいえば確かにそれはそうなのですが、中国の中華思想が実に複雑なプロセスを経て成立したのと同様、ヨーロッパ人の中華思想も、ただ単に成立したのではないのです。大体、孔子を有神論的に解釈する必要など、ヨーロッパ人が正真正銘に傲慢だったら、行う必要はないものです。

 私はずっと以前の西尾先生の著作で、先生に執拗に、日本人の近代の成功を、五輪書その他を、ヨーロッパ的解釈によって、強引に説明しようとするドイツ人のエピソードを思い出しました。日本人からすれば喜劇的にさえ思えるような、異世界の成功や栄華を自分流に理解しようとする彼らの一貫した精神背景には、自分達は原典というものから切り離されているものだ、というヨーロッパ人の不安感があるのですね。たとえばドイツ人に典型的な、原理を異常に重視する思考法も、原理と現実の間が引き離されているという「不安感」があるからこそ固執するわけで、日本人のように、現実世界に原理が内在すると考える民族には、カントの定言命法のような道徳的形式論は実際的にはほとんど理解できない、ということになるのでしょう。
   
 不安感というものは乖離感でもあり、たとえば私達は、こういうヨーロッパ人の不安感を、存在と実存の乖離など、哲学史論に置き換えて考えたりします。しかし先生のこの著作は、そうした従来の知的戦略をあえてとらず、「文献学解釈」というものの存在を通じて、いわば巧みに裏道から描き出そうとされたわけなのですね。哲学書も文献の一部ですから、ある意味、文献学の方が哲学よりも深いというふうに、論理が裏返ることがありえます。たとえば私はこの著作を読むまで、エラスムスの聖書原典への情熱を、文献学的な偏執の一種で、単に謎めいているものだ、としか考えていませんでした。しかしあの謎めいた情熱こそに、ヨーロッパ人の中華思想的排他主義の根源を説明しうるものがあった、ということがほとんど衝撃的なくらいにわかりました。考えようによっては、「文献学解釈」は最も根源的なのです。

 そして、最終章のこのエラスムスのことを読んでいるときに、伊藤仁斎のところで触れられたヨーロッパの有神論的な孔子・儒教解釈ということの意味も、私には、より理解できるようになります。仁斎の章ではヨーロッパ人の「不安」が読者にはまだ明確でなかったので、煙に巻かれたような気がしてしまったのですけれど、「不安」という解釈をはさんで考えると、このヨーロッパの有神論的解釈の詳述が、ボディブロウのように、ジワジワ意味をもってきます。そして更に掘り下げると、そうした有神論的孔子像にクロスした伊藤仁斎という思想家の存在も、不思議なくらいに存在感が大きくなってきます。なぜかといえば日本人には「不安」がないにもかかわらず、仁斎のような人物が現れたからですね。

 仁斎は宣長に比べれば、思想家としての偉大感は少ないような気がしますが、しかしヨーロッパのような精神的背景がないのに、仁斎のような人物が現れたこと自体が、私達に、江戸時代のおそろしいくらいの幅を示してくれます。いろんな意味で、最終章まで読み進んで、後で以前の章を読み返す、ということが多かったのですけれど、読書というのは繰り返しすることができるので、歴史よりずっと音楽に近く、やはり書を交響曲にたとえるのは、決して俗的なことでないな、とも段々思えてきました(笑)。これも先生の著述の巧みさによるものでしょう。

 最終章の展開で、最終章の結論ともいうべき点、中国の文献学は自己否定を内包していないがゆえに「自足」しており、原典の不安定さを有している「不安」なヨーロッパはニーチェのような文献学破壊の徒を持つことができたのだ、という点は、ニーチェの実際の激しい生き方を熟知していらっしゃる先生が言われることを思うと、感動的ですらあります。「破壊」が決して安易にできる行為でなく、ニーチェは全身が粉々になるよな精神行為を通じて、その破壊を実践しえたことを、西尾先生はよくご存知だからですね。

 しかし、交響曲を聴き終えた私達に、何も課題がない、とはいえないとも思います。ニーチェと同等に評価しうる宣長のような人物を生み出した私達、日本人の精神原理には「不安」も「自足」も明確にあるわけではないのです。もちろん宣長的にいえば、「何か」と実体的概念を求めた瞬間に、すでに私達は日本人の精神原理の考察のダイナミズムから離れてしまいます。しかし何か得体のしれないものがあるからこそ、私達は江戸時代の驚くべき幅をもったたくさんの先哲を持ちえたのでしょう。日本人の不思議さを解くことができるのは日本人だけで、考えることはむしろこの著作を読んで後に始まるのだ、ということを、先生の見事な作曲を聴き終えて、私は強く思うことができました。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(二)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

 昨晩、今日、と本居宣長論など、「江戸のダイナミズム」の中盤部分を拝読いたしました。私の期待していた通りのボリュームが充分に味わえて、本当にとても感謝しています。私はせっかちな人間なので、思想論文も小説も、雑誌連載時は読まないようにしているのです。面白ければ面白いほどイライラしてしまうからですね(苦笑)。

 私自身、本居宣長はだらだらと読んだことが何回かあるのですけれど、西尾先生が宣長論で最初に触れられている、本居宣長の兼好法師嫌いについて、ほとんど意識せずに宣長を読みすすんでしまっていた自分に気づかされました。この点に関してまず、私達に実にいろんな自省が可能だと思われました。私達は日常、兼好法師的な修辞学で、「日本」を語っていると錯誤している面が多い、ということにもっと自覚的であるべきなのでしょう。

 私達の少なからずが、松竹系の映画を観て「人情」を日本的人情といい、花の美しさや季節の食事の美味しさを語るときの「風情」を日本的風情といいます。しかしそれらを語るとき、「日本的」はすでに一種の固定的観念に化しています。固定的観念というものは、固定されていた枠が崩れれば、いずれは退化してしまうものです。裏返せば、「人情」や「風情」を復活させることが、「日本」なるものへの復活だという錯誤になりかねないといえましょう。もっと奥深い、言葉になりえないものに、「日本」的なるものは潜んでいると考えなければならない。宣長は兼好法師の修辞学が通俗的日本論に転落しかねないことを指摘していたのですが、ここらあたりも、現在的関心から読み込んでいける宣長の普遍性の出発点があるわけですね。
   
 宣長が、「常識」論にせよ「自然」論にせよ、呆れるくらいに一貫しているのは、西尾先生の言葉を借りれば、「何かがあるが、何であるかはわからない」ものを絶えず意識対象にしていた、ということなのでしょう。だから、兼好法師批判と、「猿と争う阿呆もいる」という漢意批判には、観念化する思想や思念に対しての拒絶という意味において、しっかりとした結びつきの地脈が存在しているのだ、といえるでしょう。ですから、宣長が「皇国イデオロギー」という形式的思想を受容したなどとはとても考えられないのは当然であるというべきなのですね。「文学」という言葉がそれを発するときに一個の概念に化してしまうことに生涯嫌悪を向け続け、「行為」の意味に激しくこだわった小林秀雄が、まさに反解釈的な解釈という宣長的修辞学を通じて、宣長を晩年に多く語ったことが、西尾先生の宣長論を通じて、改めて実によく認識できたような気がします。

 小林秀雄の宣長論と西尾先生の宣長論の相違は、前者が読者に対して反良心的に書かれ、後者が良心的に書かれている、ということだと思います(笑)。宣長の神話への「反解釈」ということは西尾先生がおっしゃるように、ニーチェのアナクシマンドロスたちギリシア哲学の空想的哲学者への自然理解に共通するものがあるのは確かですが、ハイデガーもまたこの空想的哲学者の一群の修辞に「存在」探求の在り方を見出していますし、あるいはキルケゴールも宗教学者を「哲学銀行の出納係」といっていたことなどを思い出しました。ハイデガーにせよキルケゴールにせよ、「近代」の硬直性に大変敏感であった思想家であったわけで、宣長は、これらの近代懐疑論者の一群に加わる世界的思想家といっていいのでしょう。
   
 ですから、常識的なインターナショナリストであり、実は私達が通俗に使う「近代」という意味での「近代人」であった上田秋成との論争は大変興味深いと同時に、よってたつ土壌が全く違っている、と考えなければならないわけですね。そこで、私達がどういう在り方を宣長あるいは宣長周囲に起きた論争から学ばなければならないのか、という問題が大きく生じてきます。私達は保守革新を問わず、とりわけ論争的な場で、秋成のようなロジックに親しまなければならないことはどうしても避けられないのではないか、と思うのです。

 たとえば中国や韓国が非常識的な政治主張をしてくるとき、私達が「近代」の「常識」で応酬しなければならないときはたくさんあったし、これからもある、と思います。しかしこの場合の「近代」も「常識」も、宣長の精神とはほとんど無縁と考えなければならないでしょう。使いわければいいというほど単純な話はないし、あるいは戦後の小林秀雄のように、いろんな意味での「放棄」を巧みに行って引きこもりに転じた生き方が大きく正しいとも、どうも思えません。実はここに、ナショナリズムの修辞学の展開の一番の難しさが、明晰に描かれているのではないでしょうか。答えは決して近くにはないのですね。近くにあると思いすぎてしまうことに、ここしばらくの保守派陣営のいろんな混乱の源があったともいえます。西尾先生の宣長論の読後のボリューム感には、この点がしっかりと存在しているように思えて、それが他の日本論・ナショナリズム論にはないすばらしい幅になっているように私には思えました。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(一)

 現在西尾先生の筆による、日録は休載しています。お知らせ参照のこと。
 西尾先生の許可を得て、秀逸なコメントをエントリーとして挙げていきます。

(文・長谷川)

guestbunner2.gif渡辺 望 年齢(34歳、1972年生まれ)坦々塾会員、最終学歴(早稲田大学大学院法学研究科終了)

 
 前半部分、本居宣長のところの少し前まで、読ませていただきました。私なりの考えでは本居宣長論の部分が本著のクライマックスと思いますので、まずはそれ以前の部分に関して、考えた感想を記したいと思います。
  
 非常に面白いと思ったのは、荻生徂徠に関しての評価の部分です。「なりきる」と「かぶれる」ことは思想実践において全然違うのだ、ということですね。徂徠は気が触れたかと思われるくらい、異常なほどに中国の儒学世界に接近した。これを「かぶれる」ことと評価する人間が多いのですが、しかしこの異常な接近はどうも「なりきる」ことだったようです。「なりきる」ということは、実はギリギリの追求地点において「なりきれない」ことを知ることですね。徂徠は訓読み否定運動などを通じて、「儒学を身につける」とは何か、ということをほとんど死にもの狂いで追求したのだ、ということが西尾先生の指摘からよく伝わってきました。

 多くの儒教専門家が指摘するように、儒教は本来、中国の伝統的社会構造と密接なもので、他国人がそう易々と受容できるものではない。徂徠の知的冒険というのは、裏返しの意味において、そうした儒教の性格を伝えるものであったわけです。それを指摘ということにとどめず、ニーチェのギリシア文献理解と鮮やかに対比展開するところが、さすがというか、「西尾学」の「ダイナミズム」ですね(笑)。和・漢・洋を読みこなす人でなければ日本人の自画像は描けないのだ、と私は日頃から思いますが、西尾先生はその一人だということを改めて感じる著作なのだな、と私は思いました。
  
 文献学と歴史学の相違という冒頭近くの指摘は、気づいているようで、なかなか私たちが意識的になれないことです。徂徠をはじめ、数々の文献学者を筆致豊かに語られる前半部分の中で、私が思い浮かべたのは、私たちの実際の生き方の中で、「文献学」的な生き方と、「歴史学的」な生き方ということが、いろいろと混在しているんだろうなあ、ということです。どちらが優劣ということではないのですが、私自身は文学や思想書を、時間蓄積的に読むことをあまり好まない人間で、テキスト自体の不安定さとの直接対決を読書の本質と考える人間です。「歴史学的」な視点が強すぎると、何でもかんでも理解して、実は何も理解していないということが起こりうると思うのです。もちろん、これは文献学や歴史学そのものの評価とは別のことですけれど。

 西尾先生がかつての著作で、(世界観が全く異なる)ガブリエル・マルセルとサルトルを平然と並行して語れる学者というのはおかしい、といわれていたと思いますが、こういう理解は、私からしてみると、過剰に「歴史学的」なのです。そう考えると、江戸期におけるわが国の文献学評価を通じて歴史評価を再考するという西尾先生の知的戦略はなかなか面白いものであるように私には思われます。

つづく

最近の西尾先生の仕事

 こちらが日録新館です。  
 西尾先生の近況を尋ねましたら、以下のようなお返事があり、 日録に掲載してもよいとの許可を得ましたので報告します。(文・長谷川)

 5月22日、毎日新聞から「安倍政権と知識人」という題で、取材を受けます。

以下は活字の仕事

1、「個人主義とは何か」 PHP新書
  最終章「日本人と自我」約50枚を加筆。
  すでに書店に出ています。

個人主義とは何か 個人主義とは何か
西尾 幹二 (2007/05)
PHP研究所この商品の詳細を見る

2、朝日新聞「社説21」を嗤う 『WiLL』 7月号 15ページ
  6月25日発売

3、なぜアメリカに許しを乞うのか
  ――二つの世界大戦と日本のつつましい孤独――
  『諸君!』 7月号 60枚  24ページ  7月1日発売

4、教育再生会議の議論を吟味、批判する
  『Voice』 7月号  7月10日発売

5、GHQ焚書図書開封  チャンネル桜
  2週に一度 各1時間出演
  すでに9回が放映されている
  (いずれ複数冊の本にまとめる予定)

6、復刊「沈黙する歴史」
  改題して「日本人はアメリカを許していない」
  ワック文庫 月末までに「まえがき」5-6枚
  7月15日 店頭発売  解説 高山正之

7、新刊評論集 表題未定
  「国家は謝罪しない」(仮題) 徳間書店
  論文選定は終了 補論がまだ
  6月10日まで  7月なかば刊行

8、「あなたは自由か」 ちくま新書  6割完了

9、「三島由紀夫の死と私」 PHP新書
  インタビュー記事完了 修正加筆がまだ着手されていない

管理人による出版記念会報告(二十一)

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 中締めのお言葉をもうひと方、田中英道先生お願い申し上げます。

支倉常長―武士、ローマを行進す 支倉常長―武士、ローマを行進す
田中 英道 (2007/05)
ミネルヴァ書房この商品の詳細を見る

 
田中英道氏のご挨拶

 今、北斎とセザンヌを引用してくださって大変光栄に思っております。広い範囲で、いいものをいいという、率直な批評家の姿をいつも拝見してですね、先生は日本のある意味でのするどい部分を持っておられると、私はこういう風に思っているわけです。

 一つだけ言わせていただくと、先ほど、仏像なんか、これは見せているだけですなんておっしゃっていましたが、私に言わせれば、これは日本人が文字を使わない民族であると、長い間そうだったわけですが、それに比べて形を作ってきた民族だったということなんですね。

 ですから、縄文から弥生を含めてですね、古墳から、私はこれから天平時代のダイナミズムを書こうと思っているわけなんですけれど(拍手)、もうその辺からすでにすごい日本の文化がある。それは形があるからなんですね。西尾先生はそれをちゃんと、察知しておられておりまして、『国民の歴史』で、ずらりと素晴らしい彫刻の顔をお見せになったわけです。

 そして、仙台までわざわざいらしていただいて、写真を一緒に見た記憶もありますし、奈良や京都を一緒に歩いた記憶があります。最近では、私がちょっと倒れたときに、さっとお見舞いに来てくださって、その優しさが、怖い感じを持っている西尾先生ですが、日本人の非常に優しい面をお持ちである。それが日本人の思想のある種の根拠だろうと私は思っています。

 それから最後にですね、私は季刊芸術で、江藤淳と一緒にやったことがあるのです。江藤淳は自殺したんですが、文芸評論というもののきつさというものはですね、文芸評論では食っていけないという、その中で孤軍奮闘されているわけです。今回の本がある種の学者的なといいますか、広い視野がもう一回深くなったという感じで、これなら江藤さんみたいに自殺しなくてもいいなと思って、ほっとしているところです。

 どうもありがとうございました。

 田中先生ありがとうございました。 これをもちまして西尾幹二さん『江戸のダイナミズム』出版記念会を滞りなく終了します。御協力有り難うございました。 お帰りの際に書籍をお持ち帰りいただきます。なお、大変恐縮でございますが、ご夫婦でお見えの方は一冊で御願いもうしあげます。また既にお持ちの皆さまは同じ本ですのでご遠慮いただけるとありがたく、御願い申し上げます。 また会場に飾られた生花をご希望の方には、これから小さな花束をおつくりしますので、しばらくお待ち下さい。記念に生花をお持ち帰り下さい。 本日はご参集、まことに有り難う御座いました。

 (歓送の音楽)


今回、「江戸のダイナミズム」出版記念会のほんのひとときの出来事を、文字に起こし、画像を添付し、そこに居なかった人にもわかりやすいように掲載してきたつもりだ。
 事実としては、4月4日、場所は市谷グランドヒルホテルの三階瑠璃の間、6時半から約2時間半の出版記念会である。それが21回という回数のエントリーになり、一ヶ月半も要してしまった。一つの出来事を再現することはこんなにも大変なことなのかと、しみじみと思っている。 歴史の事実もそれを体験した人の位置から語れば、人間の数だけ異なった角度からの情景が描かれるのだろう。今回のことと照らし合わせて、一人一人の視点とは、それが確かに第一級の資料価値はあるけれど、実は狭く、局所的なものでもあることを痛感した。 こうして全体像を掲載してみると、私があの場で見、聞いたことが、私自身にとっては100パーセントであっても、実は全体のほんの数パーセントの内容でしかないことがよくわかる。大勢の名だたる先生方のご挨拶も、聞き取れなかった言葉がほとんどで、内容をちっとも理解していなかったこともわかった。 また、西尾先生の画像説明のときは、所用で席を外していたから、申し訳ないが私は全然聞いていなかった。テープを起こしながら、画像をじっくりと見ながら味わうことが出来たので、あの辺りの作業はとても楽しかった。

 こういった出版記念会は、ほとんどのマスコミは報じないらしい。例外的に今回の会のことが月刊誌THEMISの5月号に載っていた。月も過ぎたので、全文紹介させていただく。

『江戸のダイナミズム』西尾幹二氏の大著は?

 西尾幹二氏の新著『江戸のダイナミズム』出版記念会が4月4日、東京・市ヶ谷にあるグランドヒル市ヶ谷で行なわれた。

 参加者は400人ほどで、会場は満員。井尻千男氏、工藤美代子氏、田久保忠衛氏、宮崎正弘氏ら各界の言論人らが集まった。

 西尾氏は挨拶に立って「私はいままで出版記念パーティーなどやるべき立場ではないと考えて固辞してきた。しかし、ある人に『先生、受けてください。先生は明日お亡くなりになっても不思議ではない年齢です』といわれ、考えを変えました。」とユーモラスに語った。

 『江戸のダイナミズム』は古代と近代の架け橋としての江戸の重大性を書いた異色の日本文明論。地球上で歴史認識が誕生したのは地中海とシナと日本の三つだけだと断じ、ニーチェと本居宣長を比較分析する手法は西尾氏ならでは。

 西尾氏は「思想史には関心はない。偉大な思想家のみ関心がある」といって次回はもっとスケールの大きな作品を手懸けるつもりだ。

 今回で出版記念会の報告は終わりとする。次回から先生の許可を得たので、会場の入り口で全員に配られた小冊子の中身を紹介するエントリーを上げさせていただく。

 (文・長谷川)

おわり

管理人による出版記念会報告(二十)


(上映がおわって)

 西尾先生ありがとうございました。皆さんの御協力により、大変盛会となりました。本日の参加者は380名を越えたと思います。有り難うございました。 本日、埼玉大学の長谷川三千子先生は別のシンポジウムに出ておられるので残念ながらご欠席となりましたが、月刊誌『Voice』五月号、つまり4月10日発売号で、長谷川先生と西尾先生とが、『江戸のダイナミズム』をめぐる徹底討議を行っていますので、一週間後に雑誌がでたら、ご注目下さい。月刊誌『Voice』でございます。 さて、あっという間に時間が流れてしまいました。

 ここでお二人から中締めのご挨拶を一言ずつ頂きます。拓殖大学日本文化研究所所長、評論家の井尻千男(いじり・かずお)先生、東北大学名誉教授、田中英道先生、ご登壇よろしくお願い申し上げます。

 井尻先生と西尾先生は古い友人でもあり、「文学と政治」という、かつて時代を画(かく)したテーマを、ともに語り合える数少ない友人のおひとりだそうです。
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 それでは井尻先生、御願いします。

男たちの数寄の魂 男たちの数寄の魂
井尻 千男 (2007/04)
清流出版この商品の詳細を見る

 井尻千男氏のご挨拶

 ご紹介いただきました拓殖大学の井尻でございます。

 あっというまに中締めの挨拶ということでございますが、この会場に西尾先生とお付き合いの古かった方は当然、学生時代からの友人も沢山きていらっしゃると思います。私はジャーナリストとしてかなり早く、西尾先生のヨーロッパ像の転換でしたかね、その頃、椎名町の木造アパートに新婚所帯を持っておられた西尾先生、その頃からおそらく40年くらいになりましょうか、ずっと西尾先生の仕事を下の方から眺めていた人間にすぎません。

 しかし、私なりにこのニーチェの研究家である西尾先生が、いつどういう形で、日本の方に回帰してくるのかということに関心がありました。ニーチェ伝上下二巻の大著を出した、これでニーチェを卒業して、これからが西尾先生の日本回帰といったら単純すぎますが、ヨーロッパと日本を繋ぐ、あるいは今度のように、シナ文化を三つの拠点から眺めた大きな仕事、その中心がまさに文献学です。ニーチェが非常にこだわっていた、古代ギリシャのディオニソス、そういう形で西尾先生が日本回帰といいますか、回帰というよりも、もっともっと大きな比較の中で、日本文化が如何に突出していたかということを示してくださいました。

 あの大変大事な年表と、人の文献考証学の始まった年代の比較なぞ、表を見ただけでも、ぞくぞくするようなものでした。そういうことで、私は西尾幹二先生を中心にしながら、新しい日本学、新日本学が今、勃興しつつある、そんな風に思っております。私自身も裏方として、この新日本学の勃興に、少々でも関われることが出来れば幸いと思っております。そういう意味で、西尾先生の永年の業績に感謝すると共に、これからの日本学の一大拠点を作ることで、西尾先生のこれからの人生を送っていただきたいという私のお願いで、中締めの言葉とさせていただきます。

 どうも今日はありがとうございました。西尾先生、本当におめでとうございます。
みなさん、ありがとうございました。

 井尻先生、ありがとうございました。

つづく

管理人による出版記念会報告(十九)

西尾幹二氏による画像説明(4)

つづく

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 次は清朝考証学者の三人をご紹介いたします。最初は「こうそうぎ」、この「ぎ」という字は、果してパソコンで出てくるかどうかというのが、本日の画像をこしらえて下さったスタッフの最大の問題で、やってみたら、出てきたぞ~と、みなさん大変な苦労をしてこの画像を作っているんですよ。で、この「ぎ」は出たんです。実はこの「こうそうぎ」は、明の滅亡に対して援軍を求めて来日、将軍家光は兵3万の出動を計画をした。本当なんですよ。鎖国していたなんて、大嘘です。日本軍が堂々とあそこで中国に上陸して、清を滅ぼす可能性があったのですが、ところが、南明の軍隊が日本の襲来を恐れたとか、いろんなことがあって、そのうち明軍が亡びてしまって、結局大陸進出はなしに終ったということであります。こういうこと、知られていないですね。

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 「こえんぶ」という清朝考証学者でありますが、二頭の馬と二頭のろばに書物を満載して、生涯放浪の旅を続けた。放浪の旅を続けて、どうして偉大な著作ができたのか。非常に不思議でありますけれど、本当にそうなんですね。この「こえんぶ」という人は、本当に悲劇的な運命をたどった人で、そして、すこぶる片意地で誇り高い歴代伝説上の人物で、おもしろい、おもしろい、伝記を書いたら本当におもしろい人物ですが、次にいきましょう。

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 清朝考証学者「たいしん」。「たいしん」は体制漢学を支えた文字の学者、哲学者、天文学者。左は弟子の「だんぎょくさい」に送った手紙ということでありますが、戴震と段玉裁という名前を覚えておいてください。どちらも漢字の大家でございまして、戴震は先ほど話題に出たヴィラモービッツ・メレンドルフに匹敵するような、漢学アカデミックの学者でありまして、しかし、今日の漢字の世界を切り拓いたのは、この人です。

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 さて、これは田中英道先生からお教えいただいているテーマでございまして、セザンヌは全部北斎を真似したというお話。北斎のモチーフを盗んだ、富岳三十六景が北斎ですが、セザンヌの連作も36枚であったと。これは田中先生が発見してですね、フランスの雑誌に堂々と発表して、向うは沈黙を守っているそうでございます。何かあるんですね。きっと。

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 セザンヌが模倣した北斎のモチーフ。わぁ~これじゃあ間違いないね。セザンヌがまねしたんですよ。逆じゃないですからね。こういうものがあるということを覚えておいてください。

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 これが先ほど、吉田先生が出されたドイツのウルリッヒ・フォン・ヴィラモービッツ・メレンドルフというドイツ近代文献学の完成者で、ニーチェの『悲劇の誕生』を学問の邪道といって指弾し、ニーチェをついに学会から追い出した男です。後にベルリン大学教授、きっといやらしい男だったにちがいない。かのテオドール・モムゼンという有名なローマ史を書いた歴史家がおりますが、そのひとの娘婿です。要するに権力者ですね。僕はこういうのを文学官僚と言っている(笑)。おわります。

図表出展

〔1〕〔3〕 林己奈夫 「中国古代の神がみ」 吉川弘文館
〔2〕 平川南・他篇「文学と古代日本」第2巻 吉川弘文館
〔4〕 L・D・レイノルズ、N・G・ウィルソン 「古典の継承者たち」 国文社
〔5〕〔6〕〔7〕 世界文学選集1「ホメーロス オデッセイア」 河出書房新社
〔8〕 平川南編 「古代日本の文学世界」 大修館書店
〔9〕 安本美典 「日本神話120の謎」 勉誠出版
〔10〕〔11〕〔12〕 ジャン・イヴ・アンプレール 「甦るアレクサンドリア」 河出書房新社
〔13〕 宮内庁 (「江戸のダイナミズム」395p.)
〔14〕 お茶の水図書館蔵 (「江戸のダイナミズム」395p.)
〔15〕 〔8〕に同じ
〔16〕 「東大寺 法華堂と戒段院の塑像」 奈良の寺16 岩波書店
〔17〕 興福寺 国宝館
〔18〕 「黄宗羲」 人類の知的遺産33 講談社
〔19〕 「顧炎武集」 中国文明選7 朝日新聞社
〔20〕 「戴震集」 中国文明選8 朝日新聞社
〔21〕〔22〕 HIDEMICHI TANAKA Cézanne and Japonisme,artibus et historide no.44,2001
〔23〕 西尾幹二 「ニーチェ」第二部 中央公論社

管理人による出版記念会報告(十八)

西尾幹二氏による画像説明(3)

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 皆さんに万葉集の話をするのは、私みたいな外国文学屋が言うのも変な話なんですけれども、万葉集というのは言うまでもなく、万葉仮名で書かれている。万葉仮名というのは、全部漢字でございます。従って、一番左に書いてあるのは万葉仮名なんですね。したがって万葉仮名で書かれた漢字ばっかりの本があったはずですよね。しかし、それは消滅して存在しません。

 それじゃあその次に、951年に村上天皇が宣旨を下して、訓み下すようにという命令を下したものがあるのですが、それを「古点」。点というのは訓点を打つということです。こういうことをやるのをそういう。一番古いのを「古点」、古い点というのですが、その「古点」というのも歴史上知られているようだけど、存在しません。何が存在するのかというと、古点本を移した次の写本にした「次点」、次の点という、次の訓点が唯一これが残っている最古のもので、これがわずか巻4の一部が残っているだけなのですよ。これが最古のものです。

 そして、万葉仮名を真ん中で平仮名にして、要するに訓点を打っているわけです。しかし、これも本当にわずかな中のわずかが残っているだけだと今もうしあげました。はい次

つづく

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 そうしてここに書いてあるように、これは鎌倉後期の書写、全巻を完備する最古の写本です。全巻を完備した最古の写本は「新点」といって、ご覧のように、カタカナでルビがふってあるのです。カタカナでルビがふってあるのが、鎌倉時代の「新点」というのです。こうして三段の変化を経ていますが、これは全部写本です。全部写本で、原典というのは、ギリシャの古典と同様に、一つとして残っていない。

 ギリシャもそうですよ、。ギリシャ・ローマの古典というのは、全部中世の写本なんですからね。如何に途中で間違いが発生しているか。われわれは如何にあやふやなものをたよりにして、過去の歴史と闘っているか、そういうことなんです、歴史というのは。どうぞ

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 これは藤原定家が書いたものですが、ご覧のように漢字がちらほら見えます。このように漢字がちらほら見えるのは、読みやすくするためなんです。つまり、もともと平仮名で書くんだけれども、漢字をちらほら、わずかばかり入れてる。ところが、現在の日本語は、漢字と仮名の混在率は最高度に多くて45パーセントなんです。漢語が45パーセント。これは古代に行くほど少なくて、定家の時代は10パーセントから15パーセントとか、そのぐらいなんです。それがだんだんだんだん増えて、江戸時代では30パーセントや、35パーセントくらいになって、現代は45パーセントが漢語なんですね。

 ということは、仮名の果した役割がどんどん小さくなってる。それと比例して、仮名遣いの問題がはげしく発生してくるわけです。それが私の本の一つのテーマでもありますね。はいどうぞ

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 これは有名な東大寺の戒壇院の邪鬼の像なんですが、神様の話が私の本で問題になっているのですが、カミという言葉は、ゴッドではありません。しかし神でもないんです。カミが神だと思ったら間違いですよ。神は中国語ですから。従ってカミという発音上のものが、カミだったわけですが、カミが何であるかはさっぱりわからないわけですよ。現代の国語学者、有名な国語学者の大野晋さんが新潮文庫に日本のカミの本というのを出しています。丁寧にしらべ、いろいろやっているいい本ですけれど、それでもカミが何だったかわからないんじゃないかと思っているのですが、カミはわからないけれど、鬼はわかっているのです。鬼の出典はわかっているんです。鬼は全部外来のものなんです。そして、鬼はこれは東大寺の戒壇院の鬼であります。四天王に踏み潰されている鬼。はいどうぞ

 鬼はしかし、そういう憎憎しいものだけではなくて、ユーモラスなものもあった。これは興福寺のユーモラスなほうの鬼です。はいどうぞ

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管理人による出版記念会報告(十七)

西尾幹二氏による画像説明(2)

つづく

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 次はモローです。モローっていうのは、装飾的な非常に前衛的な、なんていうか、細密画的で、モローのことは皆さんご存知だと思いますが、審美的な歴史画家。これは残虐なシーンですね。オデッセウスの一シーンです。私の本にとっては何の意味もありません。絵がおもしろいから出しただけでありまして、しかも近代の絵画がホメロスの、イリアスとオデッセウスをこんな風に描いているという、皆様の目を楽しませるためにだけ出したのでございます。

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 これはちょっと珍しいんですね。弥生時代に絵文字があったということです。絵文字が出現していた。しかし絵文字が出現してから、実際の文字が誕生するまでに、通例1000年から1500年ぐらいかかっているそうですから。そうなりますと、これ、吉野ヶ里遺跡の発掘ですから、約2100年前ということになりますと、それから1000年から1500年といったらもう、源氏物語も超えちゃって、そのあとになっちゃうんで、日本で絵文字が出現するまもなく外から文字が入って来ちゃったというのが解りますね。でも、日本にも文字の端緒があったということで、これは面白い話ではないでしょうか。どうぞ

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 日本の神話というのは、どういうわけだか、映像というものがありません。日本の神話には映像といったら変ですけれど、表象の世界がないわけですね。画像がないわけです。伊勢神宮のご神体というのは、剣であったり、鏡であったりするわけでしょ。要するに、神様の絵を描かないというのが、日本の神道の伝統だったんですね。そうなりますと、時代がずっと下って今、天照大御神の絵なんていうのがあるのは、みんな近代のまがい物ですから。ところがここに珍しいのがあって、北斎の描いた天のうずめのみことなんです。北斎がこんな絵を描いていたというのが、おもしろいから出しただけでございます。

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 さあ、その次は皆様に是非お話したい。アレキサンドリア、今はイスカンダーリアというエジプトの街で、ここに古代に巨大な図書館がありまして、それが海中に没したというのが、私の本の中で大きなテーマになっているのは、ご記憶にあると思いますが、このイスカンダーリアの街の東側のこれは俯瞰図、全図でございます。ヘリコプターで撮った写真でございます。

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 ところが、ここで巨大な遺跡が海の中に没したというのは信じられていなかった。嘘だという話が多かった。これは1995年の発掘の姿です。発掘したら、あった、あった。海中に没したのは嘘じゃなかった。それどころか、ダイバーがスフィンクスの前にいる面白い写真ですね。石像はラムセス二世だそうでありますが、とにかくこういうものをですね、発見したのです。

 絵の真ん中に筋がありますのは、これは大きな書物を開いて、写真にしたから筋があるので、他意はありません。写真は一枚でございます。見てください。こうやってダイバーが発見している、だからここに図書館は確かに眠っていたんだと、海中に沈没したんだと、これは間違いないですね。どうぞ

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 そして、イスカンダーリア、つまりアレキサンドリアには180メートルという高さの塔があったということが知られていて、鏡で映されて、それが大きな灯台になっていた、伝説上の建物があったわけですが、それはもちろん無くなっているわけですが、これは1995年の発掘現場で、塔の脚の一つであろうと、たぶん一部であろうと、今推定されているんですが、こういう断片が海底から拾われている。ところが今ここは、港湾工事がどんどん進められていて、どれぐらい遺跡が発掘され、保存されるかは謎であるといわれております。