在日韓国・朝鮮人の問題は、日本の犯した過去の罪の遺産だから、われわれ日本人はこれを末代まで耐え忍んでいかねばならないだろうし、その点のコンセンサスはほぼ出来ていると思う。ただ、文化や行動様式の面でも日本人と近いだけに、かえって微妙な差が厄介な対立になる在日韓国・朝鮮人の苦しみについて、実態をよく知っている大沼氏は、普通のセンスの持ち主なら、もう二度と同じ過ちを他の民族においては繰り返したくないと考えるのが人間としての常識であろう。
フィリピンやパキスタンやバングラデシュから何十万何百万の移民を新たに受け入れて、在日韓国・朝鮮人と同じ憂(う)き目を彼らに味わわせることは何としても避けたい、だから労働者導入には反対だ、そう判断するのが、人間としてごく普通の感情の動きであろう。ところが大沼氏はそうではないのである。
座談会に同席したブリティッシュ・コロンビア大学の鶴田欣也氏が、「ただ大沼さんの話を伺っていて私が分からないのは、そういう問題(在日韓国・朝鮮人問題)に取り組まれながら、どうしてこの国を開き、同化の方向を望まれるのかということです」と疑問をぶつけられたのは、至極当然であった。私も同じ疑問を抱いていたので、「そうそう、普通なら逆になるはずなんだ」と、相槌を打っている。
外国人受け入れの具体的是非は私にはもはやどうでもよい。ある説明のできない観念の妄執に取り憑かれた、大沼保昭という一人の人間――日本の近代文学が本来ならその観念の内部を腑分(ふわ)けし、構造究明をしておくべき型の人間なのに、残念ながらまだなされていない――に、私は尽きせぬ興味を覚えた。
在日韓国・朝鮮人は文化と行動様式の面で日本人と近いだけに、かえって微妙な差が厄介な対立になる、と私は先に書いた。最も近い者同士の橋は最も懸け難い、という古人の言葉は、常識ある人間には自明の真実と思われようが、大沼氏はまったく逆に考える。日本人とそんなに変わらない人間に就職差別や婚姻の差別を強いる日本社会の道義責任を繰り返し激しく問責し、日本人に社会教育を施すことで、民族的体質を変えていかなければならない、とあくまで自分の考え方のみ潔癖かつ純粋という主張を展開する。
その際韓国人社会の側にも若干問題があるのではないか、とはまったく考えない。悪いのはすべて日本人である。また就職差別や婚姻差別はだんだんに減っているではないか、という現実の変化も認めない。悪いのは日本人の不道徳である。私は生まれて初めて、想像はしていたもののまだ見たことはない異質の人格、硬直した単純観念への信奉者を目の前に見て、信じられない思いだった。
氏は物腰の穏やかな紳士だが、そのことと頭脳の中のファナティズムとは別である。毎年5万なり10万なりの移民を実現せよ、と氏はいうが、氏のような人格が言論界に一定の発言権を持っている限り、日本の門戸はますます強固に鎖(とざ)さなければならないとの確信を私は強めた。
なぜなら氏は、日本の社会に少数民族問題が一つでも多く殖(ふ)えることを今か今かと待っていて、在日フィリピン人問題、在日バングラデシュ人問題、在日パキスタン人問題、等・・・・・・・が新たに発生すると途端に元気づき、自分のファナティックな正義の旗を振り回す機会到来とばかりに、あちこちで大活躍をするに相違ないからである。
在日韓国・朝鮮人問題の底深い困難を氏は知っており、西ドイツのトルコ人労働者の惨状も研究していて、その点での私の報告文を評価に値すると公言しながら、なおかつアジアからの移民導入に賛成であるというのなら、氏の主張が自己の単純正義感を満たすための、人類愛の仮面を被った倒錯心理だと規定されても、反論の余地はあるまい。
座談会に関する限り、氏は自分が石川好氏風の乱暴な開国論者ではなく、入国管理法をどんなに厳しくしても外国人が流入する現実は残り、一定枠の合法化を認めないと労働法上の保護が働かないことを問題にしている。不法入国者の増加の既成事実に乗った、最近よく指摘される論点である。いかにも少数民族擁護派らしい議論といえるが、ここで日本の読者によく立ち止まって考えてもらいたい観点が一つある。
外国人単純労働者に対し今正式に門戸を開くとどうかという国家百年の計に関わる高度に政治的な決断を要する問題と、現に流入した人間をどう扱うかという既成事実処理問題とは、問題の本質を異にするのである。前者は日本の国家的運命に関わる政治政策論であり、後者はあくまで道徳論ないし技術論である。
政治と道徳・技術は別である。大沼氏はそこを混同している。われわれ言論人が今責任をもってこの件で広く討議を尽さなければならないのは、前者であって、後者ではない。少なくとも後者は単独に、切り離して、別個に討議さるべきである。
念のため私は大沼氏の思想的原点ともいうべき著書『単一民族社会の神話を超えて』を拝読した。指紋押捺制度の撤廃等を主題にしている、この方面の重要文献であろうが、たった一つの正義の感情が全文を蔽(おお)っていて、単調で、専門家以外には、あるいは信条を同一にする人以外には、読むのに気骨が折れる本である。
要点は、在日韓国・朝鮮人を日本社会に同化するのではなく、彼らの「朝鮮民族的なるもの」を承認し、育成し、なおかつ日本の国内で日本人と同等の権利資格を彼等に保証せよ、ということらしい。一種の「国内国家」是認論である。日本の歴史的罪過に問題が起因している以上、私はこの点に関する限り、大沼氏の主張の正当性を否定しない。だからといって、最近の新しい不法入国者にまで「国内国家」論を認めよ、というのは自虐的誤謬だということを付け加えて置く。
それはそうとして、私は以下、氏がその人生で恐らく今まで出会ってもいなかったであろう氏への道徳批判を披瀝(ひれき)することとする。わが国の歴史に責任のある朝鮮人問題は、日本人の誰もが抗弁できない、有無を言わせぬ性格の問題である。
朝鮮人の立場に立ってこれを論ずる人は、つねに安心して、「絶対善」の中に身を置くことが出来る。
自分の立脚点が脅かされることはないからだ。
自分は永遠に安全地帯の中にいる。
そして、他人の不足や欠陥をあれこれ批判する裁き手の快楽に安んじて身を委ねることが出来る。大沼氏の本は350余ページことごとくこの快楽に満ちている。読むに耐えないほど単調なのはそのゆえである。氏には自分が安心して正しいことを語っていることへの羞恥心がない。氏の正義感は幼児性の域を出ない。はっきり言って、在日朝鮮人の立場に立って、日本人を論理的に倒すのは、幼稚園の子供にも出来るのだ。そのことへの自己懐疑がない。従って、氏の立脚点は道徳以前である。氏は道徳的感情に浸(ひた)って論を張っているが、善悪に関する成熟した、繊細で微妙な感情が氏にはまったく育っていない。