池田俊二氏へ

「日録への池田俊二氏の投稿について」

池田俊二さんの「日録」への投稿の件、一応目を通しましたが、陰湿で執拗な個人攻撃が綴られており、読むに堪えない内容でした。

 このような事態に至ったキッカケや経緯はわかりませんが、結論を先に申し上げますと、この問題は西尾先生が直々に池田さんに対し注意勧告をしなければ収まらないのではないかと思います。

察するに池田さんは、下記のような精神状態に陥っているのではないでしょうか?
① 自分は西尾先生の最側近の長老格であるとの自負(思い上がり)がある。
② 西尾先生が施設に入られた今、会の運営に就いては、長老格の自分に相談があってしかるべきであるが、自分の知らないところで、西尾先生と一部の人間により何かが行われているようであり怪しからん。
③ また最近、元編集者である自分に相談もなく知らないところで(差し置いて)、西尾先生と一部の会員により全集の編集作業が行われているようであり、許せない。
④ 長老格である自分の「日録」への投稿を長谷川さんごときがブロックすることは許せない。
※西尾先生が事前確認できなくなった今、管理人である長谷川さんが内容不適切と判断した投稿をブロックするのは当然。
⑤池田さんはあのような投稿を行うことが「日録」を汚し、西尾先生、加えて自分の顔にも泥を塗ることになることが分からない程精神状態が劣化している。

 以上、思いつくままに記しました。

                          令和5年5月8日

                             中村敏幸 拝

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「あまり寂しいことをしないでくれよ、池田俊二さん」

 私は坦々塾の懇親会では何とはなしに自然と、池田俊二さんの傍に引き寄せられるのです。パーティ形式では隣の椅子に、テーブル席でも同じ輪の中にいることが多いのです。
 安心するんです。自分のつまらない話でもよく聴いてくれるし、また言葉を発しないでもそのまま水割りのグラスをかたむけ時間を過ごせます。こちらを預けてしまってかまわないと甘えて大先輩のふところに潜っているわけです。
 
 また池田さんが日録に綴られた文章の数々を私はよく味わい愛読してきました。最近の渡辺望さんのある感想に対して丁寧に応じておられるものなど、お二人の文にはうかうかと読み落としたら勿体無い貴重品が含まれています。

 更めて発見したのですが、池田さんは西尾幹二先生のことが好きで好きでたまらないのですね。敬愛して敬愛してなお余りあるという程のです。いや、その思いなら人後に落ちないという人は坦々塾の中に他にもおられるかもしれません。

 それでも私は池田さんの文章を読みかえしていて、先生思いの強さ、熱心さの正真の本物を感じ取るのです。行住坐臥、寝ても醒めてもというと、もう西尾幹二という道の修行者であります。池田さん、否定してもダメですよ、先生の「高貴さ」「大きさ」「深さ」を看取して日々を過ごしておられることでしょう。四国参りの法被には「同行二人」とあって、常にいつでも空海と二人なのだ。そこまでいかないと本物ではないのだ、と。

 そう言うお前はどうなんだ、と聞かれると困りますが、私は残念ながらそうではない。ついていくだけで息切れすることもある。先生がとどんどん先を行き、背中が遠く小さくなる。

 池田さんの文章の端々には信仰に似た〈覚悟〉があり、あえて求道心と表現しますが、これほど真剣に道を求めていながらなにゆえに、一つのことで大きく道をはずしてしまうのか。それが不思議でならないのです。先生を敬愛すればするだけ、その分、誰かを蔑まないと気が済まないか。愛情と憎悪はシーソーにならないといけませんか。ルターは「敵のあるほうが燃える」といったが、本質を衝いているとしても人間としてルターの長所とは言い切れないのではないか。

 ここまで来れば、池田さんに左翼も糞もないではありませんか。進歩的文化人も糞も捨ておけば好いではありませんか。後世に託せば良いのです。後世がダメならダメになるしかないのです。

 さて、池田さんはしつこい。管理人、長谷川真美さんに対する罵言はしつこすぎる。相手は子女ではないか。多少、年代をかさねておられるが子女ではないか。子女に向かっての口一杯の罵りは、たとえば池田さんのご母堂はお許しになりますか。お盆になりましたから、胸に手を当てて仏壇でも御霊舎の前にでも座ったらどうですか。

 それに、長谷川さんは日比谷公園には居たが、セクトなんかではないときっぱり否定しているではありませんか。それを「過去に触れるのはよろしくない」などと何文字ほど曲げて引用するのは清潔ではない。長谷川さんは左翼ではないと言っている。それで十分ではないか。

 長谷川さんは長きにわたって、ときには昼夜を厭わず日録を管理運営してきてくれた功労者です。犬馬の労をとって奉仕されたのであって、誰にでもできることではない。ずっと池田さんも彼女から恩恵を被っているのですよ。

 私は今回のことで、ふと晩年の小林秀雄と河上徹太郎のことを思い出したのです。新潮社か文藝春秋かは忘れたが、大事な対談の場が設定されていて、編集者たちと小林が先に到着し、風邪を引いたという河上が遅れてやってきたのだが、さあ始めようとすると、河上は手ぶらで何の準備もしてこなかった。資料やノートが対談に必需とはいえないとしても、河上はテーマさえ要領を得ない。分厚い資料を包んだ風呂敷をほどくまでもなく、小林は「いいよ、今日のは俺が一人でまとめておいてやる」と言って河上を家に帰した。小林は編集者たちの前で泣きながら、「風邪じゃないんだ、あいつはもう終わりなんだ。不治の病にかかっているんだ」というような場面があり、雑誌を探せばみつかるが、たしかそんな編集者の手記を読んだ記憶がある。

 最愛の人が斬られる話はわが神話にも、支那の五丈原にも残っています。池田さんは「出禁になるかもしれないが」と書いておられたが、池田さんだけでなく、誰もかも全員がこれで出禁になってしまった。あまり寂しいことをしないでくれよ、敬慕してきた池田俊二さん。

                    令和5年7月15日

                       伊藤悠可 

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「阿由葉秀峰から池田俊二氏への手紙」

浅学菲才の私が、池田様の「生涯のテーマ」(2023年6月23日「西尾幹二のインターネット日録の愛読者の皆様へ」の池田様の7月7日のコメントより)とされていることについて、物を申すのは恐縮ですが、「近代日本の栄光と悲惨が反映してゐる」からといって、管理人様への中傷のコメントを執拗に続けられるのは、とても拙いことと思います。

池田様のコメントは、言論界に生きている訳ではない管理人様を、不特定多数の人々に一方的に晒して、傷つけ続けています。管理人様が平静を保つのは容易ではないだろうと、心配でなりません。

僭越ながら私も、「私が強い愛着を持つてゐるのは、人生論ものです。人の心の襞を分けて、深部に這入り込み、そのありやうの仔細を洞察して、先生ほど緻密に、活き活きと描いた作品が、世界中に、他にあるのでせうか。私は知りません。」に強く共感を持つ者です。

「歴史や政治に関するものだけが先生の本領では、決してない。」と池田様は確信され、再度私もそこに大きな共感を持っているだけに、この件は残念でなりません。

                   令和5年7月14日

                      阿由葉秀峰 拝

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「池田俊二氏の書込みについての批判」

 日録の書込み記録の回数を正確に数えた訳ではないが、その回数の最も多い方は池田俊二氏ではないだろうか。
 その氏が書込みの中で日録管理人の長谷川真美さんに対して執拗に異常なほど、非難・攻撃・バッシングを一方的に繰り返すのは、一体どうしたことか。
 不思議に思い、或る機会にそのことを長谷川さんにお尋ねしたところ、氏の書込みをシステムのトラブル以外で没にしたことは一切なく、また嘗て中核派に属したことなど全くない、全共闘運動が盛んだった学生の頃、野次馬的に日比谷公園へ行ったその時にたまたま松本楼が焼き討ちされるという事件に遭遇してしまったことがあるだけだという。
 管理人としての長谷川さんは反論が出来ない、まさにサンドバッグ状態だ。それにしても池田氏の長谷川さんに対する人格否定的な書込みには目に余るものがある。
 西尾先生の高校時代からの御親友であるあの紳士的な河内隆彌氏までが、私が別件で連絡を取った折り、お話が日録の話題になり、「最近の池田俊二氏の日録管理人に対する非難は酷いね」と仰有っておられます。
 坦々塾等の会合でよくお目に掛かる池田氏は、はっきりとした物言いの人格者とお見受けするが、こと日録管理人に対しての書込みは、甚だ常軌を逸している。
殆どヴォランティアと言っていい日録管理の仕事をすることはかなり大変なことに違いないが、長谷川さんはその仕事を長い間続けて来られた。その管理人に対しての氏の感謝・労いの念は片鱗すら窺えない。
 これはもう日録の主宰者たる西尾幹二先生に断固たるご処置をお願いするしかないのではなかろうか。

                       令和5年7月10日

                            松山久幸                     

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「池田氏へ先日出したメール内容です」

 この個人的メールを出して後、池田さんの出方を待っていました。最後まで池田さんのやり方は変わりませんでした。それで、今回の投稿をすることになりました。

池田俊二様
西尾日録管理人長谷川です。

 直接メールを書くのは久しぶりです。

 さて、今回私が池田さんにメールを書いているのは、西尾先生とも相談してのことです。西尾先生も周りの方々も、池田さんのコメント欄の一部の内容に大変危惧をされています。

 私を名指しの内容は、もちろん私にとってとても不愉快なものとなっています。
 私が学生の頃、日比谷公園で松本楼が燃えた場に居合わせたことをもって、中核派だと断じておられますが、中核派として行動をしたことは一度もありません。個人的に野次馬根性があり、あの場に居たことは事実で、心情的に確かに左翼的思考をしたことはあります。でもあさま山荘事件や、松本楼への放火などを見て、目的のためには手段を選ばないやり方は間違っていると思い、きっぱりと左翼的な思考とは縁を切りました。転向と言われればそれまでですが、そのことをことさら大勢の方に、管理人への批判として何度も何度もお書きになるのは、日録のコメントとしては不適切だと思います。

 また、コメント削除の件についてもそうですが、以前に申し上げたように、池田さんのコメントを故意に削除したり、投稿不可としたことはありません。そのたびに申し上げたように、ブログ更新時期後の器械の不具合や、本文削除の為のコメントの一体的不掲載でした。池田さんの表現の自由を束縛したことはありません。もし私にそのような下心があるなら、私への罵詈雑言をそのまま掲載しているはずはありません。その部分のみをカットすることもできるのです。

 それから、新しくコメントを書いて下さる方に対して、もう少し寛容に接していただきたいと思います。
せっかく読者になってくださっているのに、怖い常連に文句を言われるのは嫌で、再度書き込むのをためらわれるのではないかと恐れています。西尾先生は新しい読者を歓迎されています。

 最後に池田さんの表現の自由について、どうしても申し上げたいと思います。日録のコメント欄はあくまでも西尾先生の日録内容に関しての意見の場です。そこへ何度も私への攻撃や、その他ご自分が思っておられる他の人への不満を書かれることは大変に困るのです。西尾日録の品位を損なうものとなるのです。今回のような書きぶりは大歓迎ですが、先に申し上げましたように、他人への攻撃は不適切だと思います。

 今後、このメールの内容を不快に思い、今までの書き方を踏襲されるようでしたら、 管理人として、そういった部分を編集削除かあるいは全文掲載拒否とさせていただきます。西尾先生にも了承していただいています。池田さんがご自分の場を設定し、そこで何をお書きになっても自由ですが、ユーチューブでもどこでも、他人が主催し管理するサイトにおいて、管理の方針上表現の自由がある程度制限されることはご承知おきください。

                        長谷川真美

                                           

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「西尾幹二先生から池田俊二氏への手紙」

前略
        (一)
 貴方にこのような手紙を書くのはまことに遺憾ですが、私は病気で、筆を持つ指が自然に動かず、読みにくいのは勘弁して下さい。私はブログへの貴方の出稿にはだいぶ前から心配していました。

 第一に量が多すぎる。第二に相手非難の無遠慮な表現に抑制が失われている。第三に若手育成への配慮が足りない。例えば若い人が新しいことを書き出そうとするとそれを見守るのではなく、貴方は自分の言いたいことに夢中になり、若い人がもち出しているテーマなんかはそっちのけで、自分のテーマを長々と、冗長に、勝手気侭な論理で押し被せるように書くので、若い人はたまらなくなり、ブログから退散してしまうのです。

 こういうことが何度あったでしょう!貴方ご本人は気がつかないのですが、それはさながら大型トラックが自転車をはねとばしてシャーシャーとしているトラック運転手の様子に似ています。

 われわれはこれに交通整理に立ち上がらねばなりません。
今度ご苦労にも手をあげた方々は、今までにも仲介の労をとろうとなさって、見るに見かねて整理役を買って出て下さった方々と私は理解しています。

      (二)
 さてここで私の小さな体験をお話しします。
はじめは小さな過呼吸に始まり、朝服装を替えるころは何でもなく、外出して一駅目に向かうころに呼吸が乱れ、酸素を多く吸うことが必要となり、不安を覚えたのが始まりです。ガンの手術をした(2017年3月31日)より後に少しずつ顕著になりました。

 ガン研有明の呼吸器の先生の門を叩きましたが、手の打ちようがありません。呼吸には(一)自分の意思で自由にできる呼吸、(二)睡眠時の無意識の呼吸、の二つがあります。しかし私には第三の呼吸があって苦しんでいます。自分の意思ではどうしようもなく 眉、舌、歯茎、鼻、が勝手に動いて、口腔内が自由気侭な運動を始めてしまうのです。これに対し西洋近代医学を学んだ医師たちはどうにも答えられません。ガン研有明もお手上げです。

 「心療内科」の領分だ!と言われ私は吉祥寺の有名な精神科の門を叩きました。そこから先のことは詳しくなるので申しません。

 要するに思い切って今までと違う自分に挑戦することが必要だということを言いたいのです。私のように不規則な過呼吸に苦しみ「心療内科」の門をくぐる人はこの病院に来る人の何パーセントくらいでしょうかと尋ねると、20人に12人くらいだ、と聞いて数の多さに驚きました。

 池田さん、貴方も「心療内科」に通うべき人です。誰が見たってそうです。遠慮して周りの人は何も言わないでしょうが、長谷川さんその他に当てた貴方の文章、あなたのブログ(コメント)の常識外れの長文、措辞、形容詞、罵倒語に特有の独特のはずみ、などを症例として診察してもらい、分析の対象としてもらって下さい。

 貴方の今後の老後の安定と幸せのためにこそ必要な決断ではないでしょうか。
私も一度は「心療内科」の門をくぐったのです。何で貴方がためらう理由があるでしょうか。

     (三)
 次に「西尾幹二のインターネット日録」の今後の扱いについて断を下します。
これは私のブログです。私の思想、意見、社会的見解などを訴えるのを目的とした電子板です。いわゆる「コメント欄」を今後いっさい閉鎖します。
                               草々

                   二〇二三年七月十二日
池田俊二様    
                       西尾幹二

西尾幹二のインターネット日録の愛読者の皆様へ

雑誌「正論」8月号(7月1日刊行)に

西尾幹二の幸運物語

――膵臓ガン生還記――

が掲載されます。ガン研究会有明病院で大手術が行われたのは2017年3月31日でした。あれから六年の歳月が流れました。ガンは克服されましたが、体重を17キロ落とし、脚力減退し、正常な歩行が出来なくなりました。今必死にリハビリに励んでいます。かたわら全集の完結と、新しい大著『日本と西欧の五〇〇年史』の仕上げにいそしんでいます。後者は「筑摩選書」として700枚を一巻本で出版される予定です。これから私の三大代表作は『国民の歴史』『江戸のダイナミズム』『日本と西欧の五〇〇年史』の三作といわれるようになるでしょう。よろしくお願いします。

ある旅の思い出

                      西尾幹二

 あれはいつ何処でしたでしょうか 山陰地方のとある城下町でしたね 武家屋敷と旧い商家の並ぶ町でした 行けども行けども同じような軒の深い屋並がどこまでも続いていて 街道沿いの溝には鯉が泳いでいました 

 先生と私は屋並が途切れた所にある一つの門をくぐりました 同行の女の子たちもがやがやとくぐりました 門の内側は床几というか木組みの坐席になっていて そこにみんなで坐りました 先生も私も坐りました 中庭には人影もなく飾りもなくがらんとしていました しかし何もない庭が良くて私たちはぼんやり眺めていました 誰も出てこない庭が良くて 私たちは眺めていました 戸口に人の動きはなく シーンと静まり返っている そんな時間が良くて じーっと眺めていました あれはいつ何処でしたでしょうか 山陰のよく知られた町であることは確かであって つい先頃までは町の名も形ももっとはっきり覚えていたはずですのに

 先生と一緒に歩いたたくさんの町がありました 足が悪いからという先生を置き去りにして 若い者が先にどんどん行ってしまう失礼を笑って見ている先生を私も遠慮なく置き去りにして 自分が見たい名所旧跡を先に見たくてどんどん行ってしまいました そうです 本当に一時間も二時間も置き去りにしてしまったのでした 銅像の並ぶ中央広場も 旧商家の豪邸をぐるりと一周する回遊式の庭園も 先生はご覧にならなかったのではないでしょうか それとも女の子たちに囲まれて賑やかに背後からついて来られたのでしょうか 先生はとある公園の中で 絵ハガキを売っている小さなキオスクの椅子の上に置かれたままにされていて 長い時間笑って待っておられました 先生はお菓子の袋をひとつぶら下げていました そういうたくさんの町がありました そんな旅が私たちの好きな旅でした その頃私は普通に歩けて 先生はほとんど歩けませんでした しかし今は私が歩けず 先生はほんの少し歩けるご様子です 天と地の違いです

 こういう旅をもう一度やりたいですね 夢に浮かんでは消える懐かしい旅の一景です

 時間は二度とめぐって来ません 今私は 閑雑な午後のひとときを 東京の老人ホームの日の射す一室でウツラウツラしながらこれを書いています 無責任な時間です 人生は空に流れる雲のようですね 一瞬たりとも止まりません 一瞬たりとも同じ形になりません しかし 明日になると 同じような似たような形を繰り返すことも間違いありません 「おーい雲よ!」と山村暮鳥のように叫びかけたくなります 子供のときのように声をかけたくなります 「何処へ行くのか?」と

 私の人生はついに終りに近づきました 「何処へ行くのか?」とたえず自分に呼びかけつづけ答のないまゝついに終りに近づきました 先生! 先生は「何処へ行くのかが分っておられるようにお見受けしました それは強みです 人生の強みです けれども ご自身はいつも人生の弱みであるかのようにお振舞いになってきましたね 先生は雲をしかと摑まえているようにお見受けしてきましたというのに 先生と私は残された時間は同じです 先生は迷いなく充実した時間になさるであろうことを私は祈り かつ確信しております

                  (二〇二三年六月七日)

朝まで生テレビ

若いころ「朝まで生テレビ」に出演した映像を、たまたまインターネットで拾った。

日付もわからないけれど、文字起こししました。

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 ドイツの話が出ているから申し上げますとね、ドイツはその五十年後の前の話はもう忘れて、あるいは許されてというけれども、おそらくドイツは千年後も許されないだろうと私は思いますね。つまり、ドイツのやったことというのは、日本のやったことと根本的に違う。ひとつの民族を地上から抹殺するために、600万700万の人間をですね、強制収容所に入れてガス室で殺したというその犯罪はですね、おそらくスターリンが似たようなことをやっているかもしれないけれど、おそらく全く日本の軍国主義なんかと比肩できるような問題じゃないんですね。

 でそこでですね、日韓という関係でよく言われるのは、ドイツとポーランドの関係なんです。みなさんはね、ドイツのやった犯罪についてはユダヤ人とかジプシーのことばっかりを考えているかもしれないけれど、ドイツのやったポーランドに対する犯罪というのはすさまじくてですね、ドイツ人はポーランドの占領時代に小学校四年生以上の教育は許さないと、百まで数え、五百まで数えられるべく自分の名前が書ければ良いと、あとはドイツ人に従順な奴隷を作るために高等教育を受けたものは粛清されるべきだと言って、実際に占領地時代に百万人の指導階級が虐殺されているんですよ。百万人ですよ。そしてたとえば学校の教師とか弁護士とかってのは軒並み理由もなく連れ去られて虐殺されているんですね。

 そうしてですね、そのようなことをやったポーランドとドイツの関係は複雑ですけれども、そのポーランドですらも露助よりは良いと言っているんです。ドイツには文化があるからと。ロシア人よりはまだいいと、ドイツには文化があるからと。それが世界の歴史のすさまじい現実なんですよ。

 そこで比較して比較で申し上げますよ。小学校四年生以上の教育を与えないといったドイツと日本が朝鮮民族の絶滅を考えたことが一度でもありますか?夢に見たことさえないでしょう、そんなこと。それどころか、日本人になってくれと言ったんじゃありませんか。いいですか、小学校四年どころか、京城には京城帝国大学を作ったんですよ。京城帝国大学は大阪帝国大学よりも前に作っているんですよ。台北にも帝国大学を作りましたが。そしてそれはどういうことを意味したかというと、日本の優越感だったでしょう。高等教育を与えてやっているんだぞという類の、優越感があったことは間違いありません。しかし、それがその後に韓国に切り開いた近代化の道になんにも役に立たなかったなんていうことは絶対にあり得ないはずです。それを素直に認めなければ、日韓関係は正常なものにはならないだろうと、私は思います。

よく時々変なことを言う人がいるんですよね。ユダヤ人に対して十分な償いをしたドイツ人の百万分の一も日本人は韓国にやっていないと。そりゃあやったことが違うんですから。例えばエコノミストというのが七月に日本人が外国からもうとやかく言われるのはもう時代が終わりだと、五十年前の歴史は政治家が議論すべき問題ではなくて、歴史家に委ねるべきだというよう発言がありました。

友人からの応援歌

 WiLL新年号に久し振りに少し力の入った評論を書いた。「トランプよ、今一度起ち上れ」という檄文のようなタイトルの文章である。

 小石川高校時代の友人・河内隆彌君からこれに同意し、応援する趣旨の手紙をもらった。河内君は元銀行員、70過ぎてか友人からの応援歌ら国際政治の名作を次々翻訳して、喝采を浴びた巨才である。その彼から誉められたのでうれしくなって、ここに掲示させてもらう。

 拙論については、他の方々からの論評も出始めているので、各自参考にして、考えをまとめて書きこんでいただけるとありがたい。

 勿論トランプへの批判があってもそれは自由である。

西尾幹二大兄

WiLL1月号読みました。西尾幹二ここにあり、西尾節の復活嬉しく拝見。電話だとうまく会話が続かない懸念あり、お手紙にします。本信のお返事は気になさらないで結構です。

 

 で、大論文ですよね。現代世界の病理、不条理の根源である2020年のアメリカ大統領選挙の不正を糺す内容ですが、雑誌編集部は表紙には出さない、目次の扱いも小さい、ほかのクダラナイものは(岸田とか木原とか)鳴り物入りの扱いが」不満ですが、これがいまの日本なのでしょうか?それでも、貴兄の言論活動復帰は、大いに驚きであり、内容の分量、充実度はいまさらながら敬服しております。

 思えば、トランプの二期目は当然、という空気で、これから彼氏がディープステートや中国とどう戦ってくれるのか、楽しみにしていたユメはあの不正で絶たれてしまいました。しかしこの中間選挙で少なくとも下院を確保、2024年本選挙にユメの復活を賭けたいと思っています。

 木魚の会などで、貴兄が馬淵睦夫氏らに批判的であることは承知していましたが、今度の論文で馬淵氏をいささか評価されていますね。背後にどのような「闇」や「謎」があるのかわかりませんが、何かがなければこういう世の中になるはずはありません。

 「闇」といえば、日本ではやはり安倍さんの暗殺事件だと思います。物事本質の矮小化、焦点すり替え化(?)の典型だと思いますが、この事件はわざと別の方向に誘導されているのでしょうか?容疑者の鑑定留置が切れる11月には検察の態度が決まり、裁判が始まれば少しは真実に近づけるのか、と期待していましたが、鑑定留置期間が来年1月に延長されました。その筋は、何かあいまいに片づけたいと思っているのでしょうかね?

 ウクライナ戦争にしてもトランプが二期目をやっていれば起こらなかっただろうし、すべてがあそこから始まっている気がするけれど、これは「陰謀論」になるのですかね?

 取りあえず本日は大論文の感想まで。 

              河内隆彌   令和4年11月26日

高原あきこ氏について

<西尾幹二より高原あきこ氏あての手紙の説明文>

 「二〇二二年の参議院選挙に当たり、私は元熊本大学教授高原あきこ氏の立候補を支持し、日録にも掲載の推薦文を書いた。この一文は、投票日に先立ち、旗揚げの会場で坦々塾事務局長の浅野正美氏が朗読して会衆はシーンとしづまり返ってご静聴下さったと聞いている。残念乍ら同氏は落選した。その後、同氏はWiLL誌に発言し、これに関連して私あての私書簡でも大変に遺憾な内容の文言を表明している。公開の表現に関わるので、高原氏あての私の私信の一部を以下ブログにも掲示することにした。」

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拝復
 お手紙拝見しました。
 貴女はWiLL十一月号でわざわざ私の名を挙げ、私と交流があると知られると、仲間が離れて行くと冒頭に書きました。「こんな恐ろしい教科書を作っている人」だと言わぬでもいいことも書いています。

 直接私やつくる会を誹謗した表現としてではないけれど、こういう不用意な非難の罵倒語が文中にあると、書き手の認識にも同じ動機があると思われがちなのです。

 まるで貴女が選挙に惨敗したのは西尾のせいだと言わんばかりですね。

 貴女は私あての最新の手紙(二〇二二年十月五日付)で次のように書いています。WiLLの「同記事は九月初めにWiLL編集者(40代くらいの男性)にインタビューを受け、もともとは選挙の話や統一教会の話しなどを聞かれたのですが、安倍晋三元總理の追悼号ということであのようにまとめられたものでございます。あの文自体は私自身の生の声の逐語、私の作文ではなく、編集者の手によるものでございます。時間がなかったとはいえ、ゲラの校正を丁寧にできておりませんでした。」

 貴女は選挙に敗けたのは西尾のせい、WiLLにまずいことを書いたのは若い編集者のせいで自分ではないと言わんばかりの言い分です。

 すべての不始末は他人(ひと)のせいにして、自己責任ではないと言っています。

 貴女の正体が見えました。

 旧統一教会の問題をすべて他人(ひと)のせいにして逃げ回っている自民党議員とよく似ています。お似合いですね。

 しかし私は知っています。貴女は口が軽く、いわゆるゴシップ好きで、「チャッカリ屋」さんです。そういう性格の軽さが現地選挙民に見抜かれたのではないですか。

 さようなら
                                 西尾幹二
       二〇二二年十月十八日

病中閑あり

「九段下会議」から「坦々塾」へ

                     西尾幹二

 私は「路の会」と「坦々塾」という二つの勉強会に関与していた。二つとも政治や社会問題や歴史研究に関心のある方々から成り、月一回の会合に進んで参加して来られた方が多い。「路の会」はプロかセミプロの言論人で、「坦々塾」は私の愛読者が主だったが、やがて噂を聞きつけて集まって来た一般人もおり、会社勤めを終えたいわゆる定年組が多かった。日本では今この層が一番本も読み深く知識を求めている人々で、頼りになる階層である。

 二つの会はどちらも会費を頂かず、会員名簿も作らない。熱心に来て下さる方は歓迎され、去るものは追わず、この自由がかえって会を長続きさせた原因だった。「路の会」は二十年余の歴史があり、この内部から「新しい歴史教科書をつくる会」(以後「つくる会」と略称する)が誕生した。西尾幹二全集第17巻の後記にその経緯が説明されている。「路の会」のメンバーの中心の座にいたのは宮崎正弘氏で、この会から新人として世に出てその後存在感を示した馬渕睦夫氏のような例もある。

 ここでは「坦々塾」成立の経緯とその政治的背景を語っておきたい。私は「つくる会」の会長を2001年9月に退任し、それから2006年1月まで名誉会長の位置にあり、現場の指導は田中英道会長に委ねていた。

 時代は小泉純一郎政権(2001年4月~2006年9月)下にあり、私が「つくる会」名誉会長の名において最も激しく時代に挑戦した最後のこの局面は、小泉首相が世間を騒がせていたあの時代とほぼぴったりと一致することになる。野党の党首菅直人までが、腹を立て私に直接電話を掛けて寄越し、そんなに大きな影響力を発揮したいなら、大学教授を辞めて代議士になって発言せよ、と腹立ちまぎれに言って来たこともある。野党から見ても私の発言はよほど目障りだったに違いない。自民党が箍の外れた水桶のように締まりのない緩んだ状況であったことは今と変わらない。自民党にはより保守的な右の勢力からの批判や攻撃が必要だった。嘗ての民社党のような勢力が必要であった。自民党は左からの批判や攻撃には十分に耐えて来たが、右からの圧力が無く、風船玉のようにフラフラと左右に揺れて来たのはそのためだろう。右からの要求は或る力が代わりをなしていて、自民党を背後から操っていた。それはアメリカだった。アメリカが右からの圧力を省いてくれ、自民党を身軽にしたということは、自民党を甘やかし無責任政党にしたということだ。それがアメリカの政策だった。

 二次占領期が訪れていた。私は思い立った。伊藤哲夫、中西輝政、八木秀次、志方俊之、遠藤浩一、西尾幹二、以上6名を代表代理人にして急遽、「九段下会議」と名付けた保守決起のグループ活動を始め、その先頭に立った。九段下にあった伊藤氏の事務所会議室を借りて運営し始めたので、この名を採用したのである。そして皮切りに月刊誌『Voice』(2004年3月号)に「緊急政策提言」という初宣言を私が書いて発表した。勿論代表代理人の討議を経て、内容は外交、国防、教育、経済ほかの各方面を見渡したものである(西尾幹二全集第21巻Aの630ページ参照)。しかも特徴的なのは、この提言を読んで関心を喚起された一般の方々の文章を募集し、独自のオピニオンを持つ方々を同会議のメンバーに加えるという会の方針を明記した。人数は忘れたが、選ばれて集まった方々は数十人を数え、会議室はいつも満杯だった。

 会議は何度も開かれ、これを聞きつけて安倍晋三、中川昭一を始め、当時勉強熱心で知られる「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」などに参集していた自民党内の若い保守勢力が次第に関心を高めるようになった。安倍晋三に会議の情報を伝えたのはたぶん伊藤哲夫氏と八木秀次氏だったが、とくに伊藤哲夫氏は政治的フィクサーの役を演じ、安倍政権の成立に情熱の全てを注ぐ立場の人だった。八木氏は安倍とは妻同士が親しく昭恵夫人とツーカーの仲であることが自慢で、周囲にも吹聴していた。

 伊藤哲夫、八木秀次に中西輝政を加えた三氏はやがて安倍政権成立の前後に、「ブレーン」の名でメディアに取り上げられ、関係の近さは秘密でも何でもなく公然の事実だった。政治家も不安で、よりはっきりした思想上の拠点が欲しかった時代だった。
 
 「朝日」が後日これを嗅ぎつけて、私と安倍との繋がりを調べに来た。調査は公平で、好意的ですらあったが、出た記事内容は私にも「つくる会」にも悪意に満ちたものだった。

 この頃、小泉純一郎は靖国にこれ見よがしに参拝し、またこれを止めたり、また近づいたり、私には靖国を愚弄しているようにさえ見えた。首相と名の付く人が来て下さるだけで有難いと、靖国側の人々が卑屈に耐えているのがまた哀れで、腹立たしかった。小泉の姿勢が不誠実であり、「自民党をぶっ壊す」との暴言は知性を欠き、政策は郵政民営化一本槍で、五分もスピーチすれば話の種子は尽きるほど、郵政問題にすら深い省察を欠いている虚栄の人、から威張りの無責任男に対する不信感は、心ある人々の間で次第に高まっていた。ただ大衆は逆に小泉の煽動に操られ易く、大言壮語に付和雷同した。

 そのピークは2005年9月の「郵政選挙」だった。党内の至る所の選挙区に刺客を立てるなど、徒に恐怖を煽る小泉の手口は社会全体を不安定にした。日本は国家としてあの時少し危うかったと思っている(西尾幹二全集第21巻A461~538ページ参照)。私が『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』(2005年12月刊)という思い切ったタイトルの本を刊行したのはこの時だった。

 私には恨みもあった。「新しい歴史教科書」をダメにしたのは小泉だった。検定までは容認するが採択はさせない、という腹積もりで彼は韓国を訪問し、立ち騒ぐ韓国政府との妥協を図ったと私は見ている。また教科書採択に当たった全国の教育委員たちが、波打つように小泉政府の無言の指令を忖度して、同一行動をとった動きを私はソフトファシズムの徴候と見て、そう書きもした。「民主主義の危機」と左翼が使うような表現をすら私はついに書いた。
 
 しかし日本は習近平やプーチンのように自分の任期を勝手に無期限にする独裁国家ではなかった。「郵政選挙」から1年後の2006年9月に小泉は安倍に政権を禅譲して、国民は明るい性格の安倍に新たな期待を抱くようになった。私も千代田区立公会堂で「安倍晋三よ、『小泉』にならないで欲しい」と題した市民公開講演を行い、満席の会衆を迎えた。
 
 それに先立つ少し前、まだ小泉時代が続いていた末期に、私は小泉から「ただでは済まさない」という脅迫のメッセージを受け取った。メッセージを私に伝えたのは何と八木秀次氏だった。知らぬ間に何か異変が起こっていた。私の権力を恐れない性格をはた迷惑と冷たい目で見ている人々が私の周辺を脅かし始めていたのに、私は気づかなかった。権力に媚びてでも利益を得たい―それが人間の本性である。勿論誰もそれを非難することは出来ない。

 私はその頃、十日ほどの予定でニュージーランドに観光旅行に出かけた。短い留守中に異変は拡大していた。安倍政権擁立のための運動が具体的に進んでいて、伊藤氏はもとより水島総氏なども旗振り役に加わり、保守運動家たちの大同団結が企てられていた。その後安倍も集会などを主催し、私も一、二度呼ばれて顔を出したこともあった。そのとき分かったのは、安倍は嘗ての政治家に例のないほどに知識人や言論人を必要とし、彼らから知識や統計上の数字を知ろうとしていた。当時南京虐殺事件が国難の一つだった。事件はなかったという主張が保守側に渦巻いていた。安倍は専門家に何度も問い質し、反論のロジックの筋道や数字上の事実確認を繰り返し聞いている場面を私は目撃している。伊藤哲夫氏がその頃役に立つアドバイザーであったことは間違いない。

 その間に「九段下会議」は何処かへ行ってしまった。同じ会議室を使って伊藤氏や八木氏が密議を凝らしていたに違いない。安倍のために全てを投げ打って一致団結する人々から私は敢えて距離を置いていた。「九段下会議」で唱えた理想が継承されるという保証は何処にもなかったからだ。

 ある講演で伊藤哲夫氏は、従軍慰安婦問題について国際社会で日本が抗弁する情勢にはなく、「日本が悪い」の圧倒的な声に我が国は頭を垂れ、謝罪し続ける以外にないと語ったことがあり、私は心密かに反発していた。

 その間に「つくる会」の周辺や内部に不穏な空気が漂い始めた。理事たちの一部が藤岡信勝排斥運動を始めた。藤岡氏は「つくる会」の柱だった。これを倒そうという動きは、理事たちの一部が「日本会議」に通じている面々であることが次第に明らかになったが、それは「日本会議」による「つくる会」乗っ取り事件の様相を呈し始めた。私は慌てた。この場面でも伊藤哲夫氏は暗躍している。
 
 間もなく「つくる会」そのものも分裂した。内紛が起こった。いまさら内紛の歴史を語るつもりはない。しかし外から大きな力が働いたことは間違いない。「つくる会」運動の内部に、力ある人が外から手を突っ込んだのだ。それは小泉ではなく安倍晋三だったと私は今は考えている。あるいは小泉に命じられて安倍が動いたのか、いろいろな推論が成り立つ。しかしその後保守系言論人は雪崩を打ったように安倍晋三シンパになりたくて、一斉に走り出した。今まで黙っていた人の名も、急に安倍、安倍、安倍と叫び出した。小田村四郎氏を筆頭に、岡崎久彦、櫻井よしこ、西部邁、渡部昇一 ……の各氏。

 その頃書いた私の文章「小さな意見の違いこそが決定的違い」(西尾幹二全集第21巻A580~609ページ)を見て頂きたい。当時の保守系言論人の心の動きが手に取るように分かるだろう。

 最初のうち私も安倍を否定していなかった。むしろ肯定していた。「文芸春秋」の次の首相に誰がいいのかのアンケートに私は安倍と書き、巻頭に揚げられた。安倍自身があるパーティで私にそのことのお礼を述べたほどだ。私は安倍に媚びていたのだろうか。そう言われれば言われても仕方がない。しかし「小さな意見の違いこそが決定的違い」なのだ。私は安倍シンパではない。

 「日本教育再生機構」とやらを作って安倍のブレーンとして名を連ねたのは八木秀次氏であり、中西輝政氏、伊藤哲夫氏も含めて三人である。「九段下会議」が見事に分断されたわけだ。「九段下会議」に参集した総勢60人の一般人のうち、分派活動をした安倍シンパの側に回った者は少なく、約八割が私の側にとどまった。

 そこで彼らをどう遇するのかに迷い、「坦々塾」がこの残った反安倍勢力を中心に形成された。政治活動ではなく歴史や政治思想をもっと勉強したいとの声につられて、講演会形式の勉強会として始められ今日に至っている。その活動の実際を伝える講師・演目の一覧表(伊藤悠可氏作成)をここに掲示する。
 
 安倍政権が実際に開始されてしばらくの間異様な動きがあった。「真正保守」とか「保守の星」と呼ばれていた安倍が期待に反し、村山談話や河野談話をすぐに認めると公言し、祖父の岸信介の戦争犯罪も認めると言い出した。「安倍さん、いったいどうなったのだろう?」と世間は首を傾げたものだった。
 
 「左に羽根を伸ばす」が伊藤氏たちブレーンの差し金による戦略であったらしい。政権の座に就く何か月か前に安倍は靖国に参拝していて、首相になった時には「靖国に行ったとも行くとも言わない」というあいまい戦術を展開した。不正直で姑息なこういうやり方に私は首を傾げた。ブレーンという名の謀略家たちは得意だったかも知れないが、安倍は評判を落とした。
 
 保守は正直で率直であることを好む。安倍は本当に自分の頭で考えているのだろうか、そういう疑問を抱くようになったのは、むしろ長期政権と言われるようになってからだった。

 2017年5月3日に、安倍は憲法九条の二項温存、三項追加という後に大きな問題を招きかねない加憲案を提起した。しかもこの案は安倍が自ら考えたのではなく、これまた伊藤哲夫氏の発案によるアイデアだった。伊藤氏自身がこれを告白している(「日本時事評論」(2017年9月1日号)。ブレーン依存はまだ続いていたのである。国家の一大事であり、安倍の存在理由でさえあった憲法改正の肝心要の発想の根源が他者依存であり、借り物であり、首相になる前から同じ一人の人間の助言に支えられているとは! 安倍ほど評価が二つに大きく分かれる政治家はいない。

 「九段下会議」の「緊急政策提言」については先に見た通りで主に私の筆になるものであるが、これを今読み返すと、如何に安倍政治にこれが反映されたか、安倍晋三の政治はむしろ彼が後日「九段下会議」の立案を下敷にして政治を行っていたのではないかと邪推したくなるほどである。「朝日」の記者が後日密かにさぐりに来たのも正にむべなるかな
である。

 例えば「外交政策」の「開かれたインド・太平洋構想」は言葉まですっかり同じ内容を踏襲している。安倍は私たちから如何によく学んだかが今にして分かるのである。しかし彼は政権を得てからほどなく、「九段下会議」の精神とは全く逆行する行動を繰り返すようになるのである。その最も早い行動は、安倍が従軍慰安婦問題で米国大統領ブッシュ(子)に謝罪するという筋の通らない見当外れな行動に討って出たことだった。これは私がこの「確信なき男」の行方に不安と混迷とを予感し始めた決定的な出来事だった。
(令和4年9月12日 記)

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 私西尾幹二は入院中ですが、二つの勉強会を振り返って「『九段下会議』から『坦々塾』へ」を綴りました。その足跡をたどるようにして、伊藤悠可氏が私の文に対して感想を寄せてくれました。読者諸氏に読んでほしい一文です。(コメント欄への皆様の投稿を希望しています)

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西尾幹二先生の「『九段下会議』から『坦々塾』へ」を読んで

伊藤悠可

 「九段下会議」は、若い頃から一度は会ってみたいと願っていた西尾幹二先生に、実際に会うことが出来た場所という点で、自分にとって大変、意義深い集いでした。また、著作や記事を通じて遠くから見ていた中西輝政さん、福田逸さん、西岡力さん等もいて、その他に各方面の専門家としてときどき媒体に登場する知識人も揃っていて、こういう席に座らせてもらうのかと胸が躍りました。

 一躍有名になられた馬渕睦夫さんの初の講義を自分は聴いています。

 先生の『voice』の「緊急政策提言」が2004年3月とありますから、自分の初参加はもっとあとの2005年の秋か冬ころだったと記憶しています。ちょうど、小泉純一郎の慢心ぶり、悪ふざけに腹が立っていたおりで、前後して『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を先生が出されたことを知って、誰か小泉を諫めてくれないのか、と思っていた自分の気分が晴れました。小泉の奇態をゆるしているのは、自民党議員であり、国民である。拍手喝采する国民はどうしようもないが、国民をちょろいと見下しながら煽動し踊らせている小泉は嫌いなタイプでした。子ブッシュの前で、プレスリーの物真似をしてふざけて帰って来た日本国の宰相は品位を貶めた罪が深い。

 書いておられるように小泉が「ただでは済まさない」と間接的に先生に言ってきたことは、あの性格なら、さもありなんと思いました。彼なりに現代版の信長になったつもりでいたのかもしれない。たぶん図星だと思う。本で急所を突かれたから、信長だから、相手を恫喝くらいしないといけない。そう思って使いを出した。その役割を果たしたのが八木氏だったと思います。

 個人的体験や記憶だとお断りしますが、八木という人は、挨拶する人と、全く挨拶しない人とに人間を分けていると国民文化研究会の友人から聞いていました。九段下の事務所に向かうとき、彼と信号待ちで出くわし、挨拶したところ、無視されたことがある。一言も返さなかった。ああ、本当だと思いました。彼は大学時代、国文研を退会するとき、先輩諸氏を前にして「あなたたちと付き合っていても自分(の將來)に何の価値もない」と言い放ったことは有名で今でも酒の肴になっているようです。

 一方で当初、伊藤哲夫さん、それからすぐ下の名前は忘れましたが、後輩のなんとかさんの二人は親切で、非常に気持ちのよい人たちだと思っていました。部屋のテーブルをカタカナの大きな「コ」の字でかこむようにして、垣根は低く自由な空気感があって、どこからだれでも発言できる会議場、討論場で、物怖じしやすい自分も、最初から何度か気軽に発言できたことをおぼえております。そのころ先生が、「伊藤哲夫さんは無私の人だ」と褒められたことをよく覚えています。

 当時、〈国家解体阻止宣言〉というスローガンもあって、自分もある種、高揚感を味わっていました。テレビでも流された「つくる会」発足の記者会見に次いで、この人たちが、ひどい国に成り下がっていた日本に覚醒の檄をとばすだけでなく、政治、外交、行政、教育、文化の他方面の領域にわたって数々の提言を行っていくのだろうと思いました。

 小泉から安倍晋三に政権の禅譲がおこなわれた2006年9月は、自分はいろいろと鮮明な記憶がある時期です。15日には、悠仁親王の誕生がありました。前年の暮れには、小泉が面倒臭そうに皇位継承に関する有識者会議をつくって、さっさと女系でも何でも決めてしまえばいいんだと、彼は考えていたと自分は見ています。政権最後のお土産程度に感じていたと自分は見ています。有識者会議のメンバーにロボット工学の博士なんかが居るのですから。

 予算委員会の中継で、安倍晋三が小泉にそそと近寄って耳打ちをしたのをおぼえています。同年2月に紀子さまご懐妊のニュースがありました。ちょうどその第一報が安倍官房長官に届けられ、小泉に知らせたのです。小泉は一瞬、息をとめて驚いたような表情をしました。安倍の功績のうち、あまり取りあげられないが、進行中の皇位継承の議論を中断せよと、きっぱり小泉に迫ったことは評価されてよいと思っています。このときの電光石化の安倍の動きは偉いと感じたものです。あの頃の小泉は、ふんぞりかえって我が世の春を謳歌していましたから。

 しかし、小泉から禅譲される前後から先生が感じておられたように、保守系言論人はそうです、雪崩を打ったように安倍、安倍と言うようになりました。政界の現場、自民党内部の求心力というものではなく、まさに外部の、それも言論人、知識人の側から、安倍大合唱が始まったのではないかと思います。

 中西輝政、伊藤哲夫、八木秀次の諸氏はご指摘どおり首相のブレーンを自他ともに認めていたと思います。公然の事実で、産経以外の大手紙や雑誌も、首相と距離が近く、重要なブレーンであると当たり前に報じていた。そのほかにも、安倍を応援する保守論壇で名の通った人々、岡崎、桜井、田久保といった人は、いくらでも数えることができます。

 「首相動向」に登場する人たちのほか、安倍晋三と会った、安倍さんが事務所に来てくれた、安倍さんの誕生会に出席して祝った、安倍さんの自宅に呼ばれた、銀座のステーキ屋で歓談した……。金美齢さんという人はテレビでしかしりませんが、熱烈なファンであることを公言していましたね。しかし、アグネス・チャンなども夫人の親友として自宅に呼ばれているというのだから、それなら、芸能人、学者に似たタレントも何人もたくさんサロンにいるのだろう。我れ先にと安倍さんとの距離を自慢していた感があります。

 そんな中で、清潔でいいな、と思ったのは曾野綾子さんでした。この人は実際安倍氏と親しかったのかどうか知らないが、大事はそっと一人でやる。フジモリ元大統領が窮しているとそっと助けてやっている。家にかくまってやったと思う。フジモリ氏が正しいか正しくないかは私は知らない。でも、だいたい、曾野綾子という人はこういう時の所作は気持ちがよい。何にも伝わってこない。曾野さんは上坂冬子さんとの開けっ広げの親交も、ユーモアと清潔感があって好ましかった。「私はこの間、安倍さんとああしてこうして」などとは、節操の問題として口にしない人であろう。

 立ち戻りますが、九段下会議が崩壊してゆくなかで、伊藤哲夫さんはなぜ、西尾先生とあらためて肝胆相照らすというか、はらわたを見せて、語るという機会を持たなかったのか、とうとうそれが謎として残っております。政治的な助言者としてやりがいや義務を感じているなら、会議よりそちらが重いというなら、その道に行きたいと打ち明けることもできたはずです。

 安倍が生きがいだと言い放っている小川榮太郎のような人もいるわけです。なんで文芸評論家を名乗っていながら、安倍を応援することが精神の仕事になるのか。どうバランスがとれるのか。そこは理解できないとしても、伊藤哲夫さんなら西尾幹二の心の中に訴えることもできたはずです。

 それとも、やはり総理大臣の相談相手となって、単に舞い上がってしまったということなのでしょうか。たとえば田崎史郎を見ていると、何でも首相の毎日をよく知っているが、首相が日本を良くしているのか、日本を損なっているのかについては、一般の人より眼識は劣っているのではないかと思うことがある。「日本は中国に刃向かってはいけない。勝てるわけがないんだから」とテレビで言っていたことがあるが、その程度なんだと認識しました。

 会議を存続するか否かという判断は別にして、伊藤さんには自分はこういう考えであるから、先生とはこのまま一緒にやっていけない、という割り切りもあるのです。
わかりませんが、それとも出自母体とされている生長の家、その脱退後の有力な人々との見えにくい絆、日本会議との距離間のような彼にとって大事な価値観までさらしたくない何かがあったのでしょうか。

 おそらく、この場面では、私などにはわからない“雪だるま”が出来ていたのだろうと想像するのです。最初はチラチラと小雪が降っていた。小さな問題(この場合、前を向くと官邸、後ろを向くと西尾先生)も巻き込んで、拳ほどの雪玉を転がしていた。放っておくと、大きく重くなるので、その前に溶かしておくか潰しておくか、しておかなくてはならない。が、ついつい腹のうちを見せる機会を失って、雪玉は大玉転がしの大きさに育ってしまった。

 もっと勝手な邪推をすると、八木氏は八木氏で自分が安倍の最も重要な右腕だと思いたいし、自負もしている。伊藤哲夫とはまたちがう。一緒にされたくはない。しかし、政治家安倍にとっては、皆同じ大切な人くらいに、みえるし、またその形で頼りにしている。優劣はない。中西輝政氏はそういうタイプではないから、そこまで個人的交際はしたくないと考えていた。こんな関係性を肩に背負っていると、結構煩雑である。

 安倍晋三には子供がいない。子供がいない人は歴史がわからない。歴史というより、本当の歴史がわからない、と言いかえた方がいいかもしれない。歴史がわからない人は、「次代を担う子供たち」「後世を託す子孫たち」と叫ぶとき、熱い何かが欠けてしまう。或いは、熱い何かの半分が欠けてしまう。従軍慰安婦問題で、さあこれが一番大事だというとき、安倍はアメリカで間違ってしまった。これは取りかえしがつかない。決して譲ってはならない態度と言葉。それを冒してしまった。謝罪するべきは韓国であって、日本ではないのに。

 なのに、彼は謝ってしまった。彼は、「もう後世の子供たちに謝罪を繰り返させたくない」というような演説を行った。辻褄が合わない。

 日本国内では、そうとうに安倍という保守シンボル像が建立されていたため、このとき自分のように驚いたり怒ったりしている人は少なかった。みんな、安倍にすがっているんです。信じているわけではない、すがっている。

 「子供たちに謝罪を繰り返させたくない」といいながら、日本も悪かったと言って頭を下げてしまった。彼の心の中には、想像の上でも、子供たちの表情や姿は映らなかったんだと思う。将来の子供たち、というとき、彼には教科書の挿絵のような印刷の子供がうかんでいたのかもしれないと思う。子供のいない人を差別しているのではありません。ひりひりした心配は理解できないだろうと言っているのです。子供のいない人は歴史を半分しか感じないでいる。

 西尾先生は麻生太郎が首相の折りにも、手紙で大事を進言されたことがあると聞いたことがあります。具体的なことは忘れましたが、麻生は大事な一点を守れなかった。それで退陣してしまった。安倍はたくさん人を回りにつけながら、西尾先生は敬して遠ざけていたのだと思います。それは苦いからですし、恐いからだと思います。それでもって、少し甘い、心地のよい、やさしい伊藤哲夫、中西輝政を近づけたのかな、と思います。八木に関しては、なんだかわかりません。

 ほんとうは政権なんて短命でいいのに、短命だから言いたいことが言えるのに、だいたいは、長期だけを目指す。こういうことも先生は言っておられました。

 また尻切れ蜻蛉の感想になりましたが、ここに書きつらねました。

参議院議員選挙立候補予定者 高原朗子さんへの激励メッセージ

 第26回参議院議員選挙全国区 に立候補を予定している自民党公認候補の元熊本大学教授の高原朗子(あきこ)氏に対し、6月7日靖国会館で開かれた「高原あきこを励ます会」に西尾幹二が寄せた激励のメッセージです。当日の代読者は坦々塾幹事長の浅野正美氏です。

 「高原さんと私の出会いは、もうかれこれ22年になります。
 私が歴史教科書改善運動を始めていて、高原さんは有力な協力者の一人でした。
 私が長崎で講演をした折、聴衆の一人として前に座っておられたのが最初の出会いでした。

 その時は確か長崎大学の助教授だったと思いますが、国立大学の教官で、しかも政治文化運動の協力者であったのはありがたく、女性であってきっぱりとした意思の持ち主であることもたのもしく、何かと力になっていただき、貴重なご存在でした。

 専門は心理学、特に臨床心理学と聞いています。これは、直接人の為に役立つ学問です。

 弱い立場にある個人への心理学的支援というのが目的の学問でしょう。そういう専門知を目指す人が、いつの間にか国家社会の安全保障を考えるまでに大きく変貌かつ成長されました。それは、必然的な変化でもあったのです。

 どちらも危機救済という点で根は一つだという彼女の思想の深さに私は感動しています。

 自分が関わっている障害者の救済、その背後にある家族、郷土、ひいては国家社会の問題、その存立と安全を考える国防というところまで手を伸ばした開かれた姿勢とパワーに敬意を表します。さらに、日本を守るためには今の憲法を変えていくことが重要ですが、その点も高原さんは深く認識し、すでに精力的に行動を始めています。

 さて、ロシアがウクライナに突如侵攻してから三ヶ月が過ぎました。

 現代日本の今後の運命をどう考えるべきかという課題は、あれ以来ロシアのこの戦争と切り離して論ずることは出来なくなりました。

 端的に言います。日本が大切にし、あの戦争が露骨に奪ったものは、一体何でしょうか。たくさんありますが、最大なものは「自由」と「民主主義」だったと思います。日本は、自由の度合いが行き過ぎたくらいに自由の国であり、議会制民主主義も守られています。もし、ロシアが日本に侵攻したら、日本人は「自由」でなくなり、民主主義も奪われます。空気や水のように、当たり前に思っているわれわれの自由、われわれの民主主義的諸制度が失われることを考えてみて下さい。

 それなら自由と民主主義の産みの親、母体をなすものは何でしょうか。

 国際主義でしょうか。外国から来た理想の言葉でしょうか。国連などの日本の外の組織でしょうか。そう言うものも、無関係ではありませんが、自由と民主主義を生み出し、育てて来た発展の泉をなしてきたもの、それは、外にあるものではなく、国の中にあり、歴史が育んできたものであり、自分自身に発したものです。

 私はあえて次の四つの言葉を強調します。

 すなわち、(一)家族、(二)民族、(三)国民国家、(四)ナショナリズム(この四番目の言葉は、「愛国主義」と言い換えても構いません)

 この四つは戦後久しく自由と民主主義の敵であるかのように言われてきました。それは完全な間違いです。

 四つをもう一度言います。

 家族、民族、国民国家、ナショナリズム、これら四つは自由と民主主義の敵ではなく、むしろ自由と民主主義の側にあり、自由と民主主義を守り育ててきた母胎があったものと敢えて言いたいのです。

 アメリカナイズされた第二次世界大戦後の日本ではなく、明治の開国以来の日本の姿を思い浮かべて下さい。家族制度は健全に守られ、日本人は民族一丸となって誇りを持ち、恐らく幕藩制下に確立されたいち国家の意識も高く、そしてナショナリズムはすべての文化、教育、社会活動の隅々まで行き渡っていました。それが、今のわれわれの自由と民主主義を培ってきたのです。

 日本は、もう一度あのレベルまでよみがえらせなくてはなりません。

 それには、人材が必要です。高原朗子が、今、私の述べたすべてを理解し、体現されている方です。

 今の時代、女性で国家観がある政治家が必要です。その代表格は、高市早苗自民党政調会長でしょうが、高原朗子さんも彼女を支える有力な同志として国政に行くべきであります。こういう理念を体得した高原さんこそが今の日本の政界に特に必要な人材です。

 高原さんは、国立大学の教授だった第一線の知識人であり、3年半前にその地位を投げ打って、今までの知識や技能を国民のために役立てようとしています。

 その人が女性であることは、女性の活力の拡大が期待されている自民党には求めても簡単に得られない人材でありましょう。

 自民党にとってもチャンスなのです。

 保守政界は、こういうチャンスをあだおろそかにしてはいけません。

 政界の知的レベルの向上は日本の政治にとって今や焦眉の急です。時代はまさに人を得たというべきではないでしょうか。

 ご健闘を祈ります。」

                         令和4年6月7日

                     

                             西尾幹二

領土欲の露骨なロシアの時代遅れ

令和4年5月24日 産経新聞正論欄より

 ロシアのウクライナ侵攻から日本人が得た最大の教訓は何だろうか。重要な教訓は単純な形をしているのが常だ。もし日本が侵攻されたら、日本人はウクライナ人のように勇猛果敢に戦えるだろうか。そのような疑問が私の心を離れない。

≪≪≪ 「平和主義」を振りかざすだけ ≫≫≫

 5月1日のNHK朝の各党党首出演の政治討論会を聴いていて驚いた。自民党から共産党までまったく同じ論調なのである。日本列島がウクライナのようになったらどうしようという国民が抱いたに違いない不安を予感させる言葉はだれの口からも出てこない。それどころか日本は輝かしい平和主義の国、平和主義を振りかざしていれば無敵、不安なし、平和主義こそが強さの根拠、と居並ぶ各党党首が口を揃えてそう語っているのだ。

 私は心底たまげた。ここまで口裏を合わせたかのような一本調子の同一論調、ロシアが再び北海道侵攻を言い出している時代だというのに、首相以下我が国を代表する政治家たちのこんな無防備、不用意な討論会を公共放送が放映する必要があるのだろうか。

 雑誌や新聞にロシアに好意的な見方が予想外に数多く見られることにも驚いている。北大西洋条約機構(NATO)が壁をつくったことにも責任があり、ロシアの反発もやむを得ないという同情論である。たしかに孤立したロシアを一方的に追い込むのは危険だという指摘はジョージ・ケナンやキッシンジャーの警告でもあり、人類が歴史に学ぶことがいかに少ないかの例証の一つではある。

 けれども現在のロシアが旧ソ連とどれほど違った新しい国に生まれ変わったかにはむしろ大きな疑問がある。スターリンとヒトラーは気脈を通じ合った同時代人であった。ネオナチは今のロシアを指す言葉だと言った方がいい。

≪≪≪ 19世紀型植民地帝国主義 ≫≫≫

 今度の侵略で目立つのはロシアの領土欲である。クリミアを手始めに露骨だった。同じことは公海に囲いをつくった中国にも言える。この両国は体制の転換期(1990年前後)に何も学習していない。対して第一次大戦後のアメリカの支配方式は「脱領土」を特徴とする。アメリカも帝国主義的支配を決して隠さなかったが、遠隔操作を手段とし、主として「金融」と「制空権」を以てした。

 第二次大戦まで国家の勢威の指標は領土の広さであったから、英仏蘭は戦後すぐ再び植民地支配に戻ったが、アメリカは国内総生産(GDP)を指標とし、世界はそれに従って今日に及ぶ。

 世界の覇権には軍事力と経済力以外に独自の文明の力を必要とする。科学技術や人文社会系の学問に秀で、映画など娯楽やスポーツ、農業生産力でも世界をリードすることが求められる。アメリカはそれをやってのけた。戦後世界を支配したのは当然である。

 今、覇権の交替を求めている中国には世界を納得させる新しい文明の型を打ち出す力はない。核大国・為替の支配・宇宙進出などアメリカの模倣である。ロシアはそれにさえ及ばない。かくて共産主義の過去に呪われた両国は今では「領土」にこだわる。19世紀型植民地帝国主義を再び演出する以外に手はないようだ。

 勿論アメリカの独自路線も少しずつ後退し、誇らしかった月面初到達も今や昔話だ。そして地球の問題を決めるのに少しずつ国際的民主化が進んでいる。

≪≪≪ いわれのない妄想捨てよ ≫≫≫

 民主化は良いことのようにみえるが、それは自由の幅を広げ、その分だけ不決断ないし無秩序が広がることを意味する。だからバイデン大統領はプーチン大統領が核に一寸でも手をつけたら、アメリカは断固モスクワを核攻撃しますよ、とは決して明言しない。ただ独裁国家の悪を道徳的に非難するばかりで、ロシアへの経済制裁とウクライナへの追加支援を積み重ねていくばかりである。誰しもが全体の状況を読み切れず一般的不安の中にいる。もし大戦争に拡大したら「貴方がこうすれば私もこうします」とはっきり言わないアメリカ大統領に半ば以上の責任がある。世界の政治はだんだん日本の政治に似てきている。「バイデン」は「岸田」に似てきている。

 5月10日、フィンランドのマリン首相が突如、日本にやってきた。訪日目的も明確ではない。フィンランドから見て、日本政界の太平天国の暢気さ、平和主義こそが自国の強さの根拠だという、いわれのない日本人の妄想が不思議でたまらず、現場に行って問い質し確かめたいと思ったのではないだろうか。岸田文雄首相は二言目には「自分は広島の出身だから」と言う。首相が広島県人であることが国の安全保障にどう関係があるというのか。できの悪い高校生みたいなことを言うな。

 日本は被爆国であるからこそ同じ体験を二度と味わわないためにはりねずみのように外敵が手を出したら直ちに同程度の報復をする準備体制を完備することがノーモア・ヒロシマの意味ではないか。今のままでいけば日本が3度目の被爆をする可能性は決して小さくはない。  (にしお かんじ)