「斬」の解説(五)

 作者・綱淵謙碇氏は大正13年樺太の登富津(とうふつ)という漁村に生まれた。旧制新潟高校から敗戦の年の2月に陸軍に入隊し、9月に復員した。学籍はすでに東大に移っていたので、昭和21年4月から翌年3月まで大学に通ったが、学資がつづかず東京生活をやめ、新潟でそれから数年の間職を転々とし、物心両面の苦労がつづいたと聞く。

 昭和26年に大学に復学して英文科を卒業し、中央公論社に入社して、20年近くベテランの編集者として活躍した。編集者時代に谷崎潤一郎全集やエリオット全集を手がけたというが、前者は氏の作風に影響を与えているに違いない。出生の地が樺太であるせいもあって、幕末の樺太や千島といった北方の日本人の暗いロマンチシズムにも氏は強い関心を寄せていると聞くし、樺太を舞台にした大型の歴史小説『狄(てき)』(文藝春秋刊)もすでに書かれている。

 さて、本書を最後まで読んだ読者は、土壇場における死刑囚の血しぶきの匂いに、一方ではやり切れない思いを抱くのではないだろうか。

 さらにまた現代人の多くはこの本に少なからぬ現代的な疑問を抱くかもしれない。まるで殺人機械のように事務的に人間を斬首する山田家の人々は、彼らの日々の仕事に疑いをもつことはなかったのだろうか、というような疑問である。

 ことに幕藩体制が崩壊してから以降は、昨日の正義が今日の犯罪になるこの世の有為転変を、山田家の人々も目撃していた筈である。

 人の世の正義の相対性を、殺すも殺されるも時の運という政治の尺度のはかなさを、痛切に身に染みて経験する立場に彼らはいた筈である。

 とすれば、斬首が刑罰であるからといって、とくに国事犯の場合に、自分が直接に手を下して人を殺すことにいかなる道徳的な根拠もない。山田家の人々はそのことに苦しまなかったのだろうか。

 彼らは立派に死んでいく政治犯につねに最大の敬意を表している。彼らは死に場所での態度いかんが、志士や反逆者の器量を決めることを実際に目撃していた人々である。

 吉亮の斬った人の中には、斬るには惜しいと彼が思う人すらいたと述べられている。それなのに、山田家の人々を苦しめたのは、道徳的な根拠を求めての抽象的な煩悶ではなく、家業を奪われ、社会的地位を失いはしないかというきわめて即物的な不安でしかなかった。そこに現代人の多くはまず大きな疑問を抱くことと思う。

 さらにまた、斬る相手が、国事犯でなくても、人が人を殺すことを職業とすることへの、根源的な不安といったことが、浅右衛門一族に存在していないのはおかしい、とわれわれ現代人は考えたくなるであろう。

 斬られる罪人は勿論それなりの罪を犯している。しかし単なる性格の弱さが、凶悪犯罪を犯させる例があるし、動機の善良が、結果の悪行を生むという例もある。

 実際にこの本の、斬られた罪人の逸話の中にはそうした例が語られている。現代人は、だから当然のことだが、悪とは何か?絶対悪ははたして存在するか?といった抽象的な道徳論議を、法理論に重ね合わせて考える傾向をもっているのである。

 なるほど悪とは何か?という疑問に悩んでいてはおよそ首斬り刑の執行吏は務まらない。したがって浅右衛門一族に抽象的な道徳論、あるいは役人に関する宗教的な煩悶がなかったのは当然であるにしても、しかし作者にそういういわば形而上的な問題意識が欠けているのでは困ると考える人もいるかもしれない。人が人を殺すという主題を扱いながら、作者が人間の存在に関する根源的な問を提出していないのは、文学としてのこの本の最大の欠陥ではないだろうか、と。

 しかし前にも述べたとおり、以上のような抽象的な諸疑問は、この小説を成り立たせている領域の外にあり、これら諸疑問をきっぱり閉め出したところに、この小説の小説としての成立の根拠があるのである。

 勿論、読者が以上のような疑問を抱くのも一方では当然であるが、それはこの小説に対する最初からの「ないものねだり」である。むしろ作者がこうした疑問にかまけていたなら、この小説のもつ本来の長所は死んでしまうことにもなりかねなかったであろう。

 現代人が巻きこまれている思想的・道徳的・政治的なさまざまな反省、そういうものこそがかえって月並みで、ありふれていると、著者はおそらく確信しているに違いない。

 現代的な反省を拒否するところに、小説のリアリティを賭けてみようという思いが、おそらくこの著者の、題材に斬を選んだ最大の動機ではないかと思う。

 したがって浅右衛門一族は、政治によってどうにでも変わる正義の観念にも、、悪とは何かという宗教的な問にも疑問をもたない存在として設定されている。それがこの小説の強みである。

 人間をこのように単純な存在として限定することが、直接的な行為を描くこの小説の本来の目的である。

 私がこれは一種の「観念小説」であると先に述べたのは以上のような意味合いにおいてである。そのため小説『斬(ざん)』は、間接的・抽象的な生き方しか知らない現代のわれわれの文明を裏側から批評している小説になり得ているのである。

つづく

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より

「斬」の解説(四)

 幕末から明治にかけての歴史小説はこれまでも無数に書かれてきたが、その多くは英雄や志士の立場から書かれている。そうでない場合でも、時代の動向に対する正邪の判定が、すなわち歴史への評価が、なんらかの形で書きこまれていない小説は稀であろう。

 しかしこの小説にはそういう視点がまったくない。体制を譲るにせよ壊すにせよ、時代へのなんらかの価値判断がありうるわけだが、それを切り捨てたところにこの小説の独自の立脚点がある。

 体制がいかようであれ、斬刑を執行する精密な機械に徹することが、山田浅右衛門一族に課せられたプロとしての職業モラルであった。

 職業選択の可能性の閉ざされていた封建的階級制度下では、誰かが引き受けなければならないこのおぞましい家業を、ともあれ世襲として守り抜くことは一つの倫理ですらあったと思う。一族は社会的な屈辱に耐えながら、しかしプライドをもってこの仕事を守った。それは封建的体制下における一つの役割であったに違いない。役割に徹することにはなんらかの自足があり、安心がある。枠の固定した社会の中では、たとえ卑しまれた立場であれ、自分の分を守るということが、一番尊敬され、それなりの誇りをもちうるよすがにもなりえたのである。

 が、やがて新しい時代が来て、この一族を支えていた精神的支柱が崩れ去る。山田家が〈徳川家佩刀御試御用〉という役割を失い、明治に入って新政府の指示通りに、〈東京府囚獄掛斬役〉になるほかなくなったときに、この一族に荒廃の影がしのびこむ。

 小説を一読した方ならどなたにも明らかなことだが、この荒廃は外と内の両方からやってくる。すなわち廃刀令以来しだいに斬刑が時代遅れの刑罰とみられて、絞首刑にとって代わられていく外側の変化がその一つである。これにより一族が精魂こめて修業した、罪人に苦痛を与えない立派な斬り方という彼らの道徳はナンセンスになっていくからである。

 さらに加えて山田家の内側からひろがる荒廃は、父親の後妻となった素伝(そで)という若い女の存在によって引き起こされる。四人の兄弟はそれぞれ彼女によって感情の混乱の渦の中に置かれる。長男は不倫と放蕩に走り、次男は父に殺意をもって迫ったあげくに父に殺され、四男は家出をして、反政府運動の匂いのある強盗の集団に入る。一族はこうして外と内からしのびこむ荒廃の犠牲となり、運命に翻弄されて、四分五裂の状態に陥るのである。

 この崩壊の感覚が小説全体の主調音である。

 ところで素伝という女の特異な役割であるが、これはおそらく作者の小説的設定であろう。素伝は魔性あるこわい女として設定されているのに、肝心のこの女の描き方が不十分だという批評をある人が述べているのを読んだが、それは尤もな意見だと思う。

 素伝はたしかに魅力と魔性をかねそなえた女としては十分に描かれていない。作中の重要な位置に女を配することで、時代の変化による運命悲劇というこの小説の本来の主題がぼやけてしまうのではないだろうか。つまりこの点でありふれた小説の類型に近づいてしまう部分があることを私も読みすすみながらやはり残念に思った一人である。

 なるほど素伝という女を設定しないかぎり、小説はばねを失い、これだけの分量の長編小説にはなりえなかったかもしれない。しかし女の魔性をもち出すというあまりにも小説的な着色は、男性的な行為の極限を描く小説にはかえって不向きではなかったかと私は思う。

 吉亮の恋愛感情や個人的心理を、少なくとも刑執行の場面などからはできるだけ省いて、即物的な冷淡な描写に終始した方が、文学としての純度は高まったのではないだろうか。つまり歴史の重さの前で、個人の心理などはなにほどのものでもない。吉亮が女囚を斬るとき、母・素伝の幻影を斬っているというような心理的な説明が、私には小説的な空想でありすぎるように思えて面白くなかったのである。

 しかし、それはともかく、この小説は封建体制から近代社会への移行期を、いいかえれば人間が血や行為に直接的であった時代から、すべてが間接化していく文明社会への移行期を、特異な題材と視点をもって描き出した力作である。その功を買われ、この作品は昭和47年度上半期の第67回直木賞を受賞した。同じときに井上ひさし氏も受賞し、直木賞を分けあったが、選者からほぼ満票に近い圧倒的支持を受けたのはこの作品の方であった。

つづく

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より

「斬」の解説(三)

 江戸の元禄の頃から明治14年の廃刑まで、死罪における斬首の刑を執行した山田浅右衛門一族は、七代この仕事をつづけた。しかし斬首はこの一族の正式の仕事ではなく、二世吉時の代に〈徳川家御佩刀御試御用〉という役職、いいかえれば試刀家としての最高の地位に着いて、七代の間に富を築いた。

 試刀は徳川家にとってはなくてはならない重要な仕事でありながら、浅右衛門の一族は幕藩体制の内部に組みこまれることなく、終始一貫して「浪人」の地位でありつづけた。

 この不思議な地位についての著者の推理にはなかなか鋭利な観察が秘められている。斬首の仕事はもともと町奉行同心の業務であったが、山田家が彼らのいやがる仕事の代役をなし、その代わりに斬刑後の屍を試し切りに使用する自由と、生肝を抜き取り薬剤として売買する自由を、役得として思うままにしていたというのである。われわれの想像を絶した異様かつ凄絶な業務に、七代にわたり倫理とプライドを賭け、社会的屈辱に耐えながら携わってきた一族の孤独が、この小説の中心を流れている基礎低音である。

 まだ12歳の吉亮が、慶応元年(1865年)最初の斬首の刑を執行する日からこの小説は始まる。

 父親吉利が家職を伝えるために、まだほんの子供といってよい年齢の吉亮に、道場でねずみを斬る訓練をさせるところも印象的な描写である。そしてついに12歳の少年は、最初の日を迎え、儀式に従って堂々と罪人の首を落とす。失効後、吉利は屍体から生肝を抜き、二つ胴の試し切りをする。この一場の描写を最初に読む人には、心にある衝撃なしでは、読み通すことができないだろう。

 この小説のここの描写を読んだ福原麟太郎氏が「そのとき私は、こわいという感情を感じた。それ以外に何という言葉をもってその感情を言い表せば良いか知らない。私の用いる日本語の語彙(ごい)の中では、おそろしい、とも、悲しいとも全く違う、こわいである。(中略)私はそこでその小説を読むのをやめ、すこし神経の昂ぶりを感じながら、本を閉じた。とてもさきへ読み進む気にならなかった。」(『文藝春秋』昭和48・3)と語っているのは率直な感想として注目してよいと思う。

 こわい、あるいは嫌悪を感じる、そういう感想をもつ読者がいて少しも不思議ではないのだ。この小説はもっぱらそういう世界を描いているからである。異常な世界を正常な冷静さでもって、抑制のきいた重厚な文体でまじろぎもせずに叙述している。

 小説は吉亮の最初の刑執行の日から17年間、明治14年の最後の斬刑の日まで――この日をもって刑法史上に「斬」の刑罰はなくなるのであるが――を描いている。いうまでもなく幕藩体制の崩壊と近代国家としての日本の出発という動乱の一時代が小説の背景をなしている。したがって処刑される罪人たちも親殺しや夫殺しばかりではない。

 父吉利が処刑したものには吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎といった安静の大獄の志士たちがあり、維新後の吉亮の処刑者には、今度は逆の立場に立つ犯人たち、横井小楠、大村益次郎、岩倉具視を暗殺した犯人たち、国事犯としては雲井龍雄、そのほかには夜嵐お絹、高橋お伝らの名前がみられる。

 すなわち時代の大きな波のうねりを、この一族はもっぱら小伝馬町の囚獄から眺めていた。体制が変わっても彼らは変わらず、どんな体制下でもつねに同じ刑の執行者として振舞うという、幕末を扱った小説としては今までにない新しい視点を提供したといえる。

つづく

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より

「斬」の解説(二)

 先日友人たちと雑談をしていて、三木首相が暴漢に襲われた瞬間をNHKのカメラが偶然に捉えた一件に話が及んだ。事件当日のテレビのスロービデオで、私は三木首相が眼鏡をとばされ、ゆっくりと路上に倒れていく一瞬の動きを目にした。

 首相は恐らく不意をつかれたのであろう。不謹慎な感想かもしれないが、私がそのとき感じたのは、単なる殴打によって人間の身体がじつにあっけなく倒れることの驚きであった。しかし屈強な青年でも、不意をつかれればやはり同じような倒れ方をするのかもしれない。

 身体への直接の危害に対し現代人は普通心の用意を怠っているからである。流血に対しつねに備えている緊張した生き方を、文明社会に生きる私たちは平生にはしていない。

 テレビ劇や映画の中では殴ったり殴られたりする場面があれほど氾濫しているのに、大多数の人間は、実際の生活で、他人を殴った経験も、他人から殴られた経験ももっていないのではないだろうか。

 雑談の席にいた数人の私の知友たちに聞いたら、勿論、誰一人そういう経験がないと言っていた。不意に、予期していない場面で他人から殴打されれば、私たちも首相と同じようにあっけなく倒れてしまうことだろう。

 刑罰に対する考え方についても昔と今とでは大きな違いがみられる。幕末から明治初期を描いたこの小説の中で、勅任官に手傷を負わせたというだけで斬罪の刑になる男の話が出てくるが、現代では首相を殴り倒した男はどのくらいの刑になるのだろうか。

 見せしめや報復という考えは今では必ずしも刑罰の中心観念ではない。一般に現代では、犯罪を個人の責任に帰するというよりも、社会的あるいは病理学的要因に還元して、犯罪人の個人責任をできるだけ軽くするという考えが支配的になっているからである。

 先日テレビの報道番組で見たのだが、アメリカのある刑務所では――おそらく凶悪犯は除いてあるのだろうが――塀をはずし、門をなくし、社会との往来を自由にし、囚人は刑務所の中で個室をもらって、音楽を楽しみ、趣味に生き、女囚はお洒落を存分に味わえるという特殊な試みを実験的におこなっている例を見た。この小説の中で展開されている苛酷な刑罰の世界とはまた何という相違だろう。

 私たちは一杯の水を飲んでそれが直接死につながるかもしれないという不安をもって日々の生活を送ってはいない。たいていの病気からは医業によって守られていることを知っているからである。

 私たちはよほど特殊な例外を除いては、他人から肉体上の直接の危害を加えられることはない。ましてや血ぬれの身体、人間の切断した四肢や首を目撃するような機会はない。いな身内の臨終の床以外は、屍体を目にする機会すらほとんどないといっていいだろう。

 文明とは何だろうか。あらゆる残酷と直接の危害からわれわれの感覚が遠ざけられることが文明なのだろうか。

 したがって文明の発達した産業社会では、人間と人間との関係はどんどん間接的になっていくほかはない。そしてその分だけ映画・テレビ・小説といった映像や情報の世界には直接的な場面がふえていくのである。

 現代では人間が互いに間接的に交わり、自分ではなにひとつ行為せず、行為の世界を抽象的にしか意識できなくなっている。そしてそれにほぼ比例して、交通事故などによる大量の死、高度の戦争技術による組織的な破壊が、この地上のどこかで休みなくくりかえされていることをわれわれは知っている。それに対してわれわれ現代人はただ不感症になっていくばかりである。

 つまりこの現代では死もまた物体の消滅のように機械的・物理的な現象としか感じられなくなっているのと並行して、生もまた間接的な、なにか曖昧な性格のままに進行していく。

 この『斬(ざん)』という小説の世界は、あらゆる点でこうしたわれわれ現代人の生きている状況とは正反対のところに位置づけられている。少なくともこの小説の出発点はそうである。

 ここには人間が人間の首をはねるという――文学の題材としてははなはだ危険な――戦慄すべき場面がくりかえし描写されている。だが、読者が気をつけなければならないのは、ここには血への嗜虐的趣味が語られているのではなく、人間が人間に対しておこなう直接的な行為のいわば極限が提出されていることである。そしてそれが明治の文明化・西欧化の波の中でしだいに解体していくプロセスが語られているともいえる。

 いいかえれば、この小説はわれわれの今日の文明とは逆の立場から歩き出し、今日の文明をしだいに裏返しに映し出していく批評的な小説であって、首斬りという特殊世界に題材を限定していることが、すでに作者にとってはかなり意図的な設定であるといえよう。つまりこの作品はある種の観念小説であるといってもいいのである。

つづく

文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より

「斬」の解説(一)

 今から33年前の私の文庫本解説、綱淵謙錠の『斬』の解説を紹介する。

 ある時期から以後、単行本には解説や書評の類は収録しなかった。

 著者綱淵謙錠氏から懇請されて書かれた解説文だが、迂闊にしていて著者のご面識を得ないでいるうちに故人になられた。お目にかかっておくべきであった。どんな動機で私に依頼してこられたのか分らない。

 著者はそのころ51歳。私は40歳の若輩批評家だった。会わずに終ったのは今思うと残念でならない。

 文中に作品の唯一の欠点と見なした女性の扱い、過度の小説的技巧の指摘を著者がどう思ったか、聞かずに終ったのが心残りである。

 文庫本の裏表紙に作品の短い紹介があるので、それを先に記しておく。

“首斬り浅右衛門”の異名で天下に鳴り響き、罪人の首を斬り続けた山田屋二百五十年の末路は、維新体制に落伍したのみならず、人の肝をとり、死体を斬り刻んだ家門内に蠢く暗い血の噴出であった。豊富な資料を駆使して時代の流れを描き、歴史小説に新領域を拓いたと絶賛を博した第67回直木賞受賞の長篇大作。解説・西尾幹二

読書の有害について(三)

 しかし今ニーチェを離れて考えて、われわれが数少ない、自分で筆を執る創造の瞬間を思い浮かべてみると、誰にしても経験があると思うが、たしかに他人の思想や言葉はまったく役に立たない。研究論文を書く場合でさえ、自分の内心のざわめきに形を与えようとする衝動がわれわれに筆を執らせるのである。

 内発の声がすべてである。他人の思想や言葉は、そういうとき、たとえ大詩人のそれであろうと、邪魔であり、よそよそしい代物だ。ニーチェはそのような創造行為の不安定を突きつめた形で実行したまでである。

 午前中に執筆するある日本の作家は、早朝決して新聞を読まないと書いていた。動き出す前の自分の思想が新聞の汚れた文章で濁ることを怖れるからである。

 また、作品を書き出す前に、少なくとも数日は他人の小説は読まない、と言っていた作家もいる。否、作家でなくても、その程度のことは、物を書く人間は誰でも自分の生活の智恵として実践している。

 早朝に本を読むのは「悪徳」だというニーチェの戦術の言葉は、だから格別珍しい体験から出ているようには思えない。

 ただ彼のように「読むこと」は精神の怠惰だという意識の緊張感の持続を生涯一貫して維持しつづけることが、誰にも容易に出来ないだけの相違である。そして、この相違は小さいように見え、現実には大変大きい。

 従って、そのような彼を日本の外国文学流に翻訳する私の今の行為が、最初からいかに矛盾した破綻を孕んでいるかという本稿の問題の核心は、読者にはもうすでに十分にお分りであると思う。

 なぜなら「翻訳」はわれわれにとって「読むこと」の最も現想的な形態であり、われわれはそれを疑わずに、翻訳を最重要の仕事と看做すことにもっぱら安住してきているからである。

おわり

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

読書の有害について(二)

 ニーチェはもともと「読書」をすら軽蔑している人だ。

 「私は読書する怠け者を憎む」と『ツァラトゥストラ』の中で書いている。彼にとって他人の思想はすべて自分の思想を誘発するための切っ掛けでしかない。自分の内心のざわめきに耳を傾けること以外に本質的に関心のない彼には、他人の思想に身をさらす「読書」は自分の思想の展開にとっての邪魔であり、自分の思想を持たない「怠け者」のやる行為にすぎないのである。

 そういう彼が、他人の思想のテキストの精読に生命を賭けた文献学という学問と最初に出会ったのは大変な矛盾であり、皮肉であるが、しかし彼は元来が眼も悪く、予備知識もあまり準備しないで、他人の思想の中心部を鷲摑みにするタイプだった。

 こういう彼にとっては、たしかに他人の思考や知識は自分の思索の妨害物であり、せいぜい自分の思索を休止しているときの暇つぶしか慰み程度のものでしかなかったという事情はよく分る。『この人を見よ』の一節に次のようにある。

 「読書」とは私を、私一流の本気から休養させてくれるものである。仕事に熱心に没頭している時間に、私は手許に本を置かない。つまり私は自分の傍で誰かに喋ったり考えたりさせないように、気を付けている。……第一級の本能的怜悧さの中には、一種の自己籠城ということが含まれている。私は自分に無縁な何かの思想がこっそり城壁を乗り越えて入ってくることを、黙って許せるだろうか。そして、ほかでもない、読書とはこれを許すことではないのか。」

 本を読むことで何か仕事をしたような幻想に陥り勝ちなわれわれ書斎型の人間に対する痛烈な批判の一語になっているともいえるだろう。

 他人の言葉や思想を手掛りにしてしか物を考えられない(従って物を書けない)われわれ末流の時代の知識人は、研究とか、学問とか、評論とか称して、何か創造的に物を考えた積もりになっているが、果たしてそうか。簡単にそう言ってよいのか。ニーチェはわれわれにそういう鋭い原理的な問いをつきつけているように思える。

 「学者は要するに本をただ〈あちこちひっくり返して調べる〉だけで、しまいには、自ら考えるという能力をすっかりなくしてしまう存在である。…本をひくり返していないときに、彼は何も考えていない。学者の場合は考えるといっても、なにかの刺激(――本で読んだ思想)に答えているだけである。結局、何かにただ反応しているだけである。学者はすでに誰かが考えたことに対し Ja だと言ったりNein だと言ったりするだけで、批評することに力の全てを使い果たし、――自分ではもはや何も考えていない。」

 耳の痛い言葉である。

 さらにもう一つ、学者とは「火花――つまり<思想>を発するためには誰かにこすってもらわなければならない単なる燐寸(マッチ)である」とまでニーチェは言っている。彼一流の奇抜な言い方である。

つづく

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

読書の有害について(一)

 「早朝、一日がしらじらと明け染める頃、あたり一面がすがすがしく、自分の力も曙光と共に輝きを加えているとき、を読むこと――これを私は悪徳と呼ぶ!――――」と、ニーチェは『この人を見よ』の中で言っている。だが私のように最近、時間があれば早朝であろうと真夜中であろうと、急がされて翻訳という読書に追い立てられている昨今では、彼のこの高度に自分の意識のみを透明に集中化して行く瞬間の存在が、ただもう羨ましい。

 白水社版のニーチェ全集(全24巻)の中で、『偶像の黄昏』『この人を見よ』『アンティクリスト』の三作を担当した私の一巻の出版だけが、まったく私の個人的事情から遅延し、版元と他の翻訳参加者に大変にご迷惑をお掛けしたため、今、あらゆることを犠牲にして、ひたすらこの課題に打ち込んでいる。そのため、他の案件に頭が回らないので、訳し了ったばかりの『この人を見よ』の中から、二、三の短い言句を引例して、この稿の責めを果たしたいと思う。

 が、それにしても、われわれ日本の外国文学者ほどに翻訳という手仕事に多大の時間と労苦を捧げる者は他におるまい、と最近つくづく考えさせられるので、その点について先に一言しておきたい。

 日本でも哲学者や社会科学者はそれほどでもない。何といっても外国文学者が翻訳の仕事を最も尊重する。それにはそれ相応の理由があると思う。われわれの仕事の起点はテキストの精読だからである。加えて、主として外国産の他人の思想や作物を手掛かりにしてしか物を考えない、というのがわれわれのほぼパターン化した思考の習性となっているから、ますますその前提は疑われない。

 また、外国文学者でなくても、一般にわれわれ書斎の人間は、本を読んでいると何となく時間を充実させたような錯覚に陥り勝ちな存在である。読書がそのまま仕事だと本気で信じている人さえ少なくないほどだ。

 読書は他人の思考に自分をさらし、そこで得た体験で自分を豊かにすることだといえば聞こえはいいが、実際には、他人の思考に自分を侵害され、食い荒らされて、自分を失ってしまう例も稀ではない。

 真摯な読書家にかえって多い事例である。そして、われわれ外国文学者にとっての「翻訳」とは、緻密に、正確にテキストを読む努力の実践課題でもあるのだから、他人の思考に自分をさらすこの「読書」の延長線上にある活動、あるいはその誠実な理想形態ともいえるだろう。

 そう思えばこそ私もまた、振返ってみると、案外にエネルギーの多くを翻訳に注いできた。私の達成した訳業は量的にも質的にも乏しく、この道の諸先輩の多くの偉業を前にすると翻訳がどうのこうのと言えた義理ではないのだが、ただ、翻訳の相手が今日話題にしているニーチェのような場合であると、私は大変に奇妙な感慨、自分のやっていることがどだい極端に矛盾した行為なのではないかという思いにすら襲われるのである。今日はそのことを少し考えてみようと思う。

つづく

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

非公開:私のうけた戦後教育(六)

観念教育のお化け

 私はここに一つの実例を提供しよう。

 「ぼくが谷間の村の新制中学に、最初の一年生として入学した年の五月、新しい憲法が施行された。新制中学には、修身の時間がなかった。そして、ぼくらの中学生の実感としては、そのかわりに、新しい憲法の時間があったのだった。

 ぼくは上下二段の『民主主義』というタイトルの教科書が、ぼくの頭にうえつけた、熱い感情を思い出す。(中略)『民主主義』を教科書に使う新しい憲法の時間は、ぼくらに、なにか特別のものだった。そしてまた、終身の時間のかわりの、新しい憲法の時間、という実感のとおりに、戦争からかえってきたばかりの若い教師たちは、いわば敬虔にそれを教え、ぼくら生徒は緊張してそれを学んだ。ぼくはいま、《主権在民》という思想や、《戦争放棄》という約束が、自分の日常生活のもっとも基本的なモラルであることを感じるが、そのそもそもの端緒は新制中学の新しい憲法の時間にあったのだ。

 このように憲法と、都市から山村にいる日本のさまざまな地方の子供たちとのあいだの、一種ハネ・ムーンの時期はきわめて短かったのかもしれない。ぼくは自分より数年だけ若い人たちに、たびたび『民主主義』という教科書のことをたずねてみたが、おおむね、かれらの記憶に、それが重要な書物としてのこっているということはなかった。しかし、ぼくより一歳だけ年下の、友人の編集者は、かれの最初の息子に、憲介という名前をつけた。それは、かれにとってもまた、少年期の教室で憲法がどのようなものであったか、そしてそれがどのように、彼の青春のモラルの核心として残りつづけてきたかをあきらかにしている。かれにとっても僕の場合と同様、《主権在民》や《戦争放棄》は、ひとりの戦後の人間としての自分の肉体や精神とおなじく、根本的なモラルの感覚をかたちづくるものなのだ」(大江健三郎『戦後世代と憲法』)

 符牒や暗号を一度頭に叩きこまれたら、もう二度と疑うことのできない人間改造の見本のようなものである。これはまた子供はどのようにでも教育できるし、大衆の意識はどのようにでも改造できるという、現代のデマゴーグを勇気づける実例である。興味ぶかいことは、大江氏が別のエッセーで、「天皇は、小学生のぼくらにもおそれ多い、圧倒的な存在だったのだ」と戦時中の自分の姿勢を書いていることである。

 昨日まで戦争をしていた若い先生に、修身の代りに平和憲法を教えられたということを後年まず矛盾と考えるのが正常な感覚だと私は思うが、三十才になるいまに至るまで「日常生活のもっとも基本的なモラル」としてこれを信奉しているという大江健三郎氏には、《主権在民》や《戦争放棄》はモラルではなく鰯の頭、疑ってはならない護符、呪文、要するに天皇と同じように「おそれ多い圧倒的な存在」であったということでしかあるまい。

 大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよく分るのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておく方が都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。「戦後青年の旗手」とかいう世間の通年に乗せられて、新世代風の発言をしていれば、新生活、新解釈が得られるような気がしているだけである。

 大江さん、子供の時のことを素直な気持ちで思い起こして欲しい。子供の生活は観念とは関係ない。あるいは大人になって行く過程で、幼稚な観念はぬぎ棄てて行くものだ。貴方の評判のエッセー集『厳粛な綱渡り』の中から一例――「終戦直後の子供たちにとって《戦争放棄》という言葉がどのように輝かしい光をそなえた憲法の言葉だったか」。こんなことをこんな風に感じた子供があの時いたとは思えないし、今も決していないだろう。

教師は生徒の規範たれ

 民主主義は政治上の、相対的な理想であって、決して教育理念にすべきではない。私の言いたいことはそのことに尽きる。目的意識のあまりに明確な教育理念は、結果として頭のかたい、原則を立ててしか物を考えない青年たちを急造するだけである。事実そういう弊害は今日歴然と現われている。民主主義の名において民主主義のために戦いたがる青年たちが、民主主義を事実上許さない政治体制につねに従順であるのは、戦後日本の七不思議の一つである。民主主義がふたたび抑圧されはしないかとたえず警戒し、いきまいている青年たちは、間接に自分たちの自分というものが抑圧されやすいことを告白しているようなものである。そういう自主性のない青年たちを生み出して来たのは、自主性を意識的に育てようとしてきた戦後の温室教育であった。

 いま教育者にとって必要なこと、あるいは明日からでもなし得ることが一つあるように思う。教師と生徒との人格的対等といった偽善を排し、生徒と共に考えるのではなくあくまで師表となって教えるのだという自信を回復することだろう。教師は未完成な生徒にとって一つの規範であるべきだし、「権威」ですらなければならないと私は思う。規範のない所には模倣もない。規範や権威があるからこそ、ときにそれに納得し得ない自分というものに気づき、眼ざめる生徒の自主性というものであり、それがまた本当の民主主義を成り立たせる土台となるべきものだろう。

おわり

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

非公開:私のうけた戦後教育(五)

教育におけるペシミズム

 教育が問題になるということは、あるいは教育の危機が論ぜられるということは、すでに教育が自分一人の力では手に負えない現実に直面している証拠であろう。教育がさほど問題にならない時代には、教育者はいかにして子供に知識や技術を能率的に伝授するかという方法に腐心していさえすればよかった。

 あとのことは社会が引き受けてくれる。そういう時代には教育上の特定の理想などはなくてもよい。信仰が生きている時代とは、進行を意識化、計量化する必要のない時代なのである。

 教育の問題を真剣に考える人は、かならずあるペシミズムに突き当たるはずである。「教育」とはけっして「学校教育」のことではない。学校教育は教育のごく一部分、しかもさほど本質的でない小部分を代表しているにすぎず、早い話が学校がどのように立派に完備したところでどうにもならない現実があり、教育学者、教育理論家の全部とはいわない、その大多数がこの事実に気がついていない。いや、気がついてもできるだけ影響を小さく見ようとする。さもないと学としての教育学の存在理由――理想としての教育の自律性という観念が破壊されるからだろう。

 戦前戦後をつうじ日本の教育が政治に従属し自律性を失ってきたのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、教育がこの自律性という観念を過信してきたためである。教育の危機は日本の文化の危機である。あるいは近代文明そのものの危機にかかわりがある。教育だけで解決できる問題はなにひとつないし、教育だけが自己の能力を過大視してはならないはずだ。にもかかわらず日本の教育学者、教育理論家は、戦前だけではない。戦後の「民主教育」においても、《教育を通じて》人間を改変し、現実を動かし、危機を克服しようとする理想にのみ自己の存在理由を賭けてきた。

 彼らの言う教育の自律性とは、要するに教育万能論でしかない。そこには一片のペシミズムもなく、教育とは救済手段の別名にほかならない。しかし、現実を早急に救い、困難をたちどころに解決するような力は教育にはないし、そんな使命もない。目的実現に急な日本の教育が、現実の困難に向い合うことを避けた必然の帰結として、教育の外からの安易な理想、出来合いの政治理念を借りてきて己れの楯としたことは、蓋し当然の結果と言うべきだろう。

 「忠君愛国」の政治教育から解放された戦後の教育は、あの時期に、一切の政治原理、原則からの独立を覚悟するべきではなかったろうか。目標がなければない方がよい、それ位の意志力が必要ではなかったろうか。「主権在民」や「戦争放棄」があの時いかに切実なものであったとしても、それはあくまでも政治上の要請であって、教育上のモラルや理想になすべき性格のものではない。にもかかわらず私が受けてきた戦後の教育では、とくに昭和23~6年頃の少年期に、こうした政治用語が道徳上の価値観念として「上から」与えられてきたのであった。

 子供は国際平和に寄与するような役割を演ずることができない。従って毎日の生活に生かすにはあまりに無形で、とらえどころのない「平和」というようなモラルは、子供の感覚や思惟に一種の麻酔作用を及ぼすことになる。子供は平和と戦争との複雑な関係に思い及ぶ前に、平和を絶対善、戦争を絶対悪と単純に割り切る思惟様式に次第に馴れて行くのである。尤も子供のうちはまだいい。子供は観念に動かされない。「平和を愛する民主的な人間」は、ただただ有難い本の中の言葉、符牒か暗号のように受取る以外に手がなく、実際には運動や喧嘩の能力が切実なものとして子供の現実を支配している。

 問題なのは、他愛のない政治用語を教育上のモラルとして繰返し耳に吹込まれているうちに、成人に達するころ人間が馬鹿になってしまうことである。私はそういう人達を沢山見てきた。頭が観念的になる年頃、慣れ親しんだ政治用語がいつしか固定観念と化し、たった一つの言葉を中心に形作られるもやもやした感情を思想のように錯覚して、知能のお化けが生まれるのである。今日そういうおめでたい人はじつに多い。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく