アメリカとグローバリズム(三)

―国際標準と「偏狭ならざるナショナリズム」  河内隆彌

 いまアメリカでウォールストリートは、右の方からのティーパーティ運動、左の方からOWS(オキュパイ・ウォールストリート)運動など左右から挟撃されている。極右とされるロン・ポールと極左とされるラルフ・ネーダーが反ウォールストリートでは共闘関係を組んだ。実はウォールストリートに対する抵抗運動?糾弾運動?は古くからある。その辺左翼であり、日本に関しては東京裁判史観から一歩も出ていない本ではあるが、映画監督、オリバーストーンの「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」に詳しい。しかしかれら左翼の批判は当然のことだがグローバリズムそのものの批判ではない。

 大変乱暴な結論だが、小生は、リンドバーグほかの当時の孤立主義者たちは、国民国家としてのアメリカの最後の愛国者たちだったのではないだろうか?かれらが負けたときに、アメリカは「モンロー宣言のアメリカ」であることをやめて、「グローバリズムのアメリカ」になったのではないだろうか?それを批判するリベラル左翼も、「建国の父」たちの自由・平等を謳いながら、アメリカン・ナショナリストとして批判するわけではなく、もう一つの普遍主義、ないし理想主義に基礎をおくグローバリズムから批判しているようだ。西尾氏は、「憂国のリアリズム」のなかで、「アメリカはいつからアメリカでなくなったのか?」と疑問を書いておられるが、この辺が一つの解答になり得るかもしれない。

 これから先の対立軸は、勝ち組、負け組(支配、被支配)の関係になるのではないか?1%対99%の世の中が修正に向かうことはあまり考えられない。遺伝子組み換え農産物で世界を席捲しようとする農産複合体、無人機などで挽回を図る軍産複合体、刑事逮捕率を上昇させて刑務所の安価労働で儲けようとする刑産複合体、公立学校を潰して教育産業で稼ごうとする教産複合体などなどビッグビジネス、コーポラティズムの脅威は、岩波新書の(やはり左翼陣営と思われる)堤未果「㈱貧困大国アメリカ」に詳しい。

 だれが損をして、だれが得をするのか、よく考える必要がある。

 ここへきて、アメリカの財政問題、どう収束されるのか、相変わらずわからない。債務上限引き上げが一時的に成功して、デフォルトが当面避けられたとしても、それは先延ばしにすぎず、すぐ同じ問題に逢着するはずである。何か起りそうな予感がありながら、とりあえずの安泰にその日暮らしをしているのが現代人の姿ではないだろうか?

 日本でも、TPP、原発、消費税、女系天皇、などなどのマルチ・イシューの時代となっている。単純に保守かリベラルの軸足では割り切れない。この前、最高裁で驚くべき判事の14名全員一致で、婚外子の相続2分の1が違憲とされた。国際標準にしたがう、というのが大義名分だった。気づかないうちに表面上のキレイごとがまかり通ってしまう。われわれも、本来キレイごとには弱い一面があるわけだが、本当の仕掛け人がどこにいるのか、充分見定める必要がある。保守かリベラルかの軸足とは別の次元で、グローバリストかアンチ・グローバリストかという基準もありそうである。

 アンチ・グローバリストとはナショナリストにほかならないが、いまナショナリストという言葉には、必ず「偏狭な」という形容詞がつけられる。しかしそうではない。意味するところは、単なる「日本の」愛国者ではない。各々の国民が、それぞれ自国を愛することは大いに奨励するものである。相互のナショナリズムは尊重する。そのような考え方が国際社会を作って欲しい、国際標準になって欲しい。いわば「孤立主義」、「不介入主義」の立場のすすめである。
                          (了)

アメリカとグローバリズム(二)

 ―グローバリズムの三つのベクトル?  河内隆彌

キレイごととしての理念的グローバリズムの裏側には、三つのベクトルがある、というのが私見である。

① 理想主義リベラル・グローバリズム
② 社会主義リベラル・グローバリズム
③ ウォールストリート・ビッグビジネス(コーポラティズム)グローバリズム

以下それぞれを説明する。

① 理想主義リベラル・グローバリズム
 キレイごとそのままの理念的グローバリズムで、一般大衆が希求してやまないグローバリズムである。要は、「戦争のない、平和な一つの世界(ワン・ワールド)」、「民主主義の自由で平等な一つの世界、人類の愛の世界」、「山のあなたの空遠く、あるのではないか、と信じられている世界」である。

 99%くらいの人がそう思っているだろうか?②③のダブルスタンダードに簡単に引っかかってしまう人たちのベクトルである。

 最近、適菜収という人が、著書で「B層」と名づける人々である。その定義は次のとおり:
グローバリズム、改革、維新といったキーワードに惹きつけられる層、単なる無知ではない、新聞を丹念に読み。テレビニュースを熱心に見て、自分たちが合理的で、理性的であると信じている。権威を嫌う一方で権威に弱く、テレビ、新聞、政治家や大学教授の言葉を鵜呑みにし、踊らされ、騙されたと憤慨し、その後も永遠に騙され続ける存在である。

② 社会主義リベラル・グローバリズム
 その淵源がマルキシズムにある、本当の?左翼のリベラリズムである。かれらはマルキシズムの普遍主義を化体して、社会主義ワン・ワールドをめざす。ロシア革命で成功しかかったが、統治の方法論を持っていなかったために、スターリンの独裁主義を呼び、その死後は単なる官僚主義に陥って冷戦に敗れた。そのあと中国が引き継いだが、これはもう相当変質してきている。むしろ③のウォールストリート・ビッグビジネスグローバリズムと相性が良くなってきているように思われる。

③ ウォールストリート・ビッグビジネス(コーポラティズム)グローバリズム
 むかしからそうであるが、金融には国境がない。改めてユダヤ人陰謀説を唱えるわけでもないが、ヨーロッパ文明における主たる金融の従事者は、国境を持たないユダヤ人であった。ウォールストリート・グローバリズムもあえて説明するまでもない。かれらは戦争そのものでも儲けるし、景気の上昇場面、下降場面双方でも儲けることができる。また1970年代以降の変動為替相場制、1980年代のいわゆる金融ビッグ・バン以降資本取引はほとんど制約なしに行われる状況となって、投資活動も国境を超えて行われることとなった。

 1950年代、経済の27%を占めていたアメリカの製造業は、2010年、11%となり、製造業労働人口は、非農業部門の9%にまで下がって、国民国家としてとらえた工業国アメリカ(地理的概念における)はブキャナンの嘆くように崩壊してしまった。しかし、いまウォールストリートと、アメリカを原点とする多国籍、無国籍ビッグ・ビジネスのグローバリズムは、「わが世の春」を謳歌している。

 かれらは、いっとき、「大きい連邦政府」の敵として、ニューディールに反対してきたが、タックス・ヘイブンというような税金を払わないで済む方法も編みだした。いまや、この③のグローバリズムは、税金を払わないで済むなら、むしろ「強い政府」は有利である。「回転ドア・システム」と呼ばれる、政権との人事交流を通じて、自らに有利な法制を設定しており、いまや一人勝ちの状況にある。

 以上三つのグローバリズムはお互いに複雑に絡み合っている。①はどちらかというと受動的な側面があるので、常に②と③のベクトルに引っ張られる側面がある。逆にいえば②と③に虎視眈眈と狙われているのである。

 以下極めて大胆というより乱暴な私見を述べれば、いま②はほとんど世界的に力を失ってきていて、むしろ③と重ね合わさってきている?猖獗を極めているのが、③のウォールストリート・ビッグビジネスグローバリズムである。これはまた、効率化という至上命題のもと、より安価な労働力を求める形で世界中に拡散している。

 アフリカ系のオバマがなぜ大統領になれたか?ある意味で、ポリティカル・コレクトネスというか、白人の黒人に対する歴史的な差別に関する贖罪意識のなせるわざ、という論評もあった。2012年は、2008年よりもかなり苦戦したが、ロムニーを破って2期目を獲得した。選挙前は「貧乏人の味方」のような顔つきだったが、いまオバマもウォールストリートの代理人であることがはっきりしてきた。

 オバマ登場のきっかけは、2004年の民主党党大会でケリーの応援演説をしたとき、ご他聞に洩れず「建国の精神に戻れ」と格差社会を批判して一躍名を挙げた。ふたを開けてみれば、オバマの大統領選には、かなりウォールストリートから資金が出ていたことがわかった。ノーベル平和賞の受賞演説では、「必要で正当な戦争はある」と断言した。アフガン戦争は継続して、ブッシュのネオコン路線を継承した。リベラル向けには「同性婚」への支持を鮮明にした。

 いま、共和党か民主党か、保守かリベラルか、という論議にはあまり意味がないようである。国内、国外政策ともに大差がなくなってきている。大きな二項対立があるとすれば、(アメリカだけではないが)グローバリストか、アンチ・グローバリストか、という視点が重要になるように思われる。

アメリカとグローバリズム(一)

 本年、私の友人河内隆彌さんがパトリック・ブキャナンの二冊の本を翻訳出版した。『超大国の自殺』(幻冬舎)と『不必要だった二つの大戦――チャーチルとヒットラー』(国書刊行会)の二冊である。永年銀行員だった河内さんの翻訳家への転身は一部で話題になった。何しろ高校時代の私の同級生だから、私と同年の78歳である。

 三冊目の翻訳書が彼の手で準備されている。Ian Kershawという人の、原題を直訳すれば『1940―1941年の世界を変えた10の運命的決断』で日本人の運命にも関係の深い内容である。英、独、日、伊、米、ソの各国のリーダーがどういう状況で、どういう決断をし、それが玉突き的に他の国のリーダーにどう影響をしたかを描いている歴史書である。白水社から刊行される予定であると聞いている。

外国の歴史家の大胆にして自由な発想に基く歴史の描き方が羨ましい。敗戦史観とマルクス主義に縛られて世界が見えない視野狭窄の日本の歴史学会の、余りといえば余りのていたらくぶりとつい比較してしまいたくなる。

 さて、河内さんは上記の仕事とは別に、10月某日ある会合で、ルーズベルトとリンドバーグの話をした。リン・オルソンという人の『憤怒に燃えたあの時代――ルーズベルト、リンドバーグ、アメリカの第二次大戦史』を読んで、その紹介と解釈をめぐる講和だった。長い話だったので、それはここに掲示することはできない。四冊目としての翻訳の出版もきまってはいない。

 ただ講和の終わりに河内さんが現代のアメリカ文明について、その歴史と日本との関係について、自由な感想をお述べになった。「アメリカとグローバリズム」と題して、ここに以下3回に分けてその日の彼の感想所見を提示する。

アメリカとグローバリズム(一) 河内隆彌

 以下、「まとめ」のような話に入るわけであるが、何せアカデミズムとまったく無縁の、アマチュアの話なので、「岡目八目」の話になると思う。

ブキャナンの本などを読みあわせ上で二三、意見というか、問題提起というか、感想というか、述べてみたい。それは違うよ、というようなところは多々あると思うが、お聞き流しいただければ幸甚である。

  ―アメリカ、「二項対立の国」?

 リンドバーグとルーズベルトの時代は、米国史上、南北戦争以来の対立の時代と申し上げたが、そもそもアメリカとは「二項対立」で成り立っている国、とも言い切れる。

 まず、日本人の多くが一種憧れを以て見ている、二大政党、共和党と民主党がある。
以下、
保守とリベラル
内陸部対沿岸部(東部/西部)
同じような意味で、レッド・ステーツ対ブルー・ステーツ(選挙ではっきり出ている)
州権尊重主義対連邦主義
国内優先主義(孤立主義)対国際主義(介入主義)
白人対有色人種
1%対99%(金持ち対貧乏人)
Tax-payer対Tax-eater(税金を納める人、消費する人)
同性愛反対派対賛成派
妊娠中絶反対派対賛成派
銃規制反対派対賛成派
死刑廃止反対派賛成派

 などなどである。いま先に出た方が、どちらかといえばいわゆる「保守」であとの方がいわゆる「リベラル」であるが、必ずしも一致はしない。イシューごとに人々はそれぞれの立場をとるからである。

 リンドバーグ対ルーズベルトの時代ならずとも、いまだに、というよりも、はた目には、これらの二項対立は実に激しくなっているように見られる。むしろ、参戦、反戦といった大きな、単純な対立ではなく、もっと細かな複雑な二項対立となっている。世の中がマルチ・プロブレム(イシュー)に時代に入っている。公民権運動以来、有色人種が(ヘンな言葉でいうと)「一人前」となってから様相はきわめて複雑にもなっている。

 しかしいずれにせよ、アメリカ社会がいかに人種的、経済的、社会的、文化的、宗教的に多様化しようと、そして銃砲が世の中に溢れていようと、流血事態で国が割れたり、南北戦争ではないが、州が分離してゆくこともかなり想像しにくい。(大きく、いわゆるブルー・ステーツ、レッド・ステーツの色分けはかなりはっきりしているが・・。)

 南北双方あわせて南北戦争では60万人余という犠牲者を出している。実はこれは手痛いアメリカの学習効果となったのではないだろうか?南北戦争というのは、奴隷制度をめぐっての、ないし工業の北部対農業の南部の戦争という理解よりも、「二項対立」、この場合、連邦優先か、州権優先かで、国家が分裂することもある、ということを血を流してでも防いだ戦争という理解も出来るのではないか?そもそも建国の父たちである、トマス・ジェファソンとアレクサンダー・ハミルトンの州権優先主義、連邦優先主義の「二項対立」を孕んだまま国が始まっている。その後紆余曲折があって、この二つの主義は、立場を入れ替えたりしながら、今日の共和党、民主党の二大政党につながっている。

 アメリカは議院内閣制ではなく、大統領制である。したがって、中間の党との連立政権といったシステムが存在しない。常に白か黒かとなる。もう一つはメディアである。
 
 リンドバーグとルーズベルトの対立も、メディアが率先して煽った嫌いがある。前述した現在の、もろもろのイシューに関する対立もメディアが騒ぎ立ている面が大いにある。何か、アメリカ人は、どんな問題でも、賛成か反対か、「プロ」か「アンチ」の立場をとることをあたかも強制されているかのように見えないでもない。要は一般にとって、右左以外の選択肢はあまり提示されず、世のなかはあたかも二択しかないように思わされているのではないかのように見える。換言すれば「二項対立」こそが、アメリカの特質であり、ダイナミズムの源泉になっているのではないだろうか?

 本日のテーマである、リンドバーグとルーズベルトの、孤立主義者と介入主義者の対立は、大雑把に保守とリベラルの対立だったといえる。政党の色分けでいえば、共和党の主流は孤立主義者、民主党はおおむね介入主義者だった。しかし、ウェンデル・ウィルキーのような共和党員もいた。かれは共和党員としては傍流だったのだが、ヒトラーの快進撃という警戒感の時の流れで、共和党大会で「ウィーウォント・ウィルキー」コールを引き出して指名された。

 ウィルキーは、ルーズベルトとの決戦となったとき、参戦についてルーズベルトとの対立軸を失った。共和党のメイン・ストリームの抵抗にもあって、本選挙では孤立主義者にくらがえして結局ルーズベルトの三選を許した。

 当時の保守、共和党は明白に反介入、反戦だった。戦後の、リベラルの専売特許と思われているようなベトナム反戦、イラク反戦、最近ではシリア介入反対などの反対行動とはちょっとニュアンスが異なるように思われる。軍幹部、上層部が孤立主義者寄りだったことは説明した。かれらは別に平和主義者として反戦をとなえたのではない。そうではなく、外に出て戦うのではなく、自分の国を防衛するのが先ではないか、と言う優先順位を大事にしたのである。そこには紛うことない愛国主義があった。「国民国家としてのアメリカン・ナショナリズム」というものについての、かれらなりの発露だった。

 いま同じ共和党のなかにいわゆるネオコン(新保守主義)と呼ばれる一派がいて、湾岸、アフガン、イラク戦争などの旗振りをした。おかげで、保守の共和党は戦争屋で、リベラル民主党が平和の守護人という見方が内外で定着しているようでもある。しかし第二次戦争を戦う指揮をとったのは民主党のルーズベルトとトルーマンであり、ベトナム戦争は民主党のケネディがエスカレートさせた。オバマもシリア介入のレッドゾーン(化学兵器使用の一線を越えたら攻撃するぞ)というようなことも言い出した。

 しかしどうも、いわゆるアメリカの戦争屋の戦争には、「国民国家としてのアメリカ」についての愛国主義の発露として見るには、何か馴染まないものがある。かつての「民主主義を守るため、戦争を終わらせるため」の戦争というウィルソンのレッテルには胡散臭さがあった。

 西尾氏もどこかに書いておられたと思う。ブキャナンもそう言っている。アメリカは結局枢軸国に対する勝利と同時に、宿願である大英帝国潰しに成功した。アメリカの戦争目的には、国民国家としてのアメリカのナショナリズムの発露というより、グローバル(ワン・ワールド)覇権の樹立にあったということがはっきりしたのではないだろうか?

 この勉強会の一つのテーマであるが、アメリカは、戦後、強大なソ連と共産中国を生み出してしまった。甘さがそこにはあったのかもしれない。そこで朝鮮戦争とか、ベトナム戦争などの代理戦争をやった。レーガン時代にやっと冷戦に勝って、ソ連は何とか片づけた。(近頃はシリアの問題などで、プーチンがまた何かと目障りなことを言っている。)中国とは「対決」か「妥協」か、さきのところはわからない。このところアメリカは内向きになっているように見えるが、グローバル覇権というのは「軍事優位」の世界だけにあるものでもなく、別な形で狙っているのではないだろうか?あとに触れることと関連する。

 リンドバーグたちの孤立主義は本来ナショナリズム、愛国主義であるにもかかわらず、孤立主義という何やら淋しげなマイナス・イメージを伴うレッテルが貼られるについては、ルーズベルトたちが、自分たちの側を愛国者とするために、そのグローバリズムを隠ぺいする方便だったのではないか?孤立主義者はナチ、ドイツのスパイであるなどと喧伝している。いずれにしても、国民国家としてのアメリカの愛国保守の勢力は、リンドバーグの時代で終わったのかもしれない。

 戦後、ベルリン封鎖、共産中国の成立、朝鮮戦争の勃発などでその反動が起こりかかった。マッカーシーが上手にやっていればアメリカン・ナショナリズムは盛り返すことが出来たかもしれない。しかしいま、アメリカの教科書で、マッカーシーは嘘つきで有名人になりたかっただけ、云々とケチョンケチョンである。その点、いま細々と?受継いでいるのが共和党の、真正保守(ペイリオコンサーバティブ)と呼ばれるブキャナンたちかもしれない。

 ブキャナンは、ネオコンを蛇蝎のごとく嫌っている。ネオコンの正体は、イスラエル・ロビーという左翼から発しているらしい。したがって、共和党もいまやリベラルのグローバリストに占領されている?ブキャナンのような真正保守は、アメリカで一定の支持はあるようだが、メディアからは大変に嫌われている。さきの本のおかげで、白人至上主義者(ホワイト・スプレマシスト)と烙印を押されて、MSNBCというTV(ケーブル?)のホストをおろされた。

 いま西尾氏が「正論」で、「そも、アメリカとは何ものか?」いう問題意識で議論を展開されている。まさにアメリカだから、そもそも何ものか、という設問が成り立つ。これがイギリスとは、とか、フランスとか、ないしロシアとは・・ですらも、わざわざ問うまでもなく見当がついてしまうように感じられる。

 南北戦争の30年くらい前に、同じような問題意識でアメリカを見てまわって、「アメリカの民主主義」という本を著したフランスの政治家、政治思想家、アレクシ・トクヴィルは、アメリカの例外主義という定義づけを行った。最初から人工国家として、理念の国家として人々が文字通り「創った」国家であるアメリカには、最初から抽象的な、キレイごとが独り歩きする特質がある。キレイごとと現実との折り合いをつけるためには、ダブル・スタンダードを常用してゆかざるを得ない。アメリカのわかりにくさとは、もろもろの事象に潜むダブル・スタンダードにあるのかもしれない。もちろん、日本にせよ、どこにせよ、どこにでも二重基準はあることはあるのだが・・。アメリカの場合はどこにあるのかわからない場面が非常に多いような気がする。

 もう一つ、アメリカの「国体」とは何か、という問題もある。伝統、歴史のないアメリカ人にとって唯一の神話となり得るのは、いわゆる「建国の父たち」である。独立宣言から始まって、独立戦争を勝ち抜いて、憲法と人権宣言などなどのキレイごとを創ったジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソン、アレクサンダー・ハミルトンなどなどのメンバーである。

 保守、リベラルを問わず、水戸黄門の印籠のように、「建国の父たち」の価値観を引き合いに出すとみな畏れ入ってしまう。この辺はいまさら小生如きが講釈しても始まらないが、要は、このご印籠が、ダブル・スタンダード隠しに魔力を発揮するのである。曰く、自由、平等、民主主義エトセトラ、エトセトラのいわゆるアメリカ的価値観である。

 表向きアメリカの理念そのものであるキレイごとの価値観は、きわめて「普遍的な」価値観である。この価値観が、西尾氏が「天皇と原爆」そのほかで説かれる、アメリカのキリスト教原理主義の持つ「普遍性」と結びついて、アメリカを建国の当初からグローバリズムの方向へ向かわせた。中村氏の資料にあるとおり、アメリカの国璽に「New World Order」「e pluribus unum」(out of many, one)(多数から一つへ)と書かれていることは偶然ではない。

台風一過

 今日も32度になり猛暑日がつづくとか、今夜も熱帯夜だとかいわれていたのはつい先日のことだった。あっという間に寒い季節に入り、不思議な気がしている。

 「戦争史観の転換」(正論連載)の5回目を書いた。第二章「ヨーロッパ500年遡及史」の①にあたる。この連載は学問ではない。歴史の叙述ではあるが、歴史学には関知しない。学問の手続きをいっさいとらない。好きなように自由に語りたい。

 このところ人の話をよく聴きに行く。10月19日、若い研究家柏原竜一さんがロシア革命の余波をドイツがどう受けとめたかをフランスの情報網がとらえた論究を語った。じつに詳細な学問的追究のレポートだった。10月23日、旧友の河内隆彌君がアメリカの拡張主義と孤立主義の二大潮流をその代表ともいえるルーズベルトとリンドバーグの活動のなかに追跡した研究発表をした。どちらも興味深い内容だった。どちらも良く勉強しているな、といたく感心した。

 私はいま岡田英弘著作集(全八巻)の第三巻の月報を書いている。当ブログのコメント欄のどなたかが岡田先生を故人のように扱っていたので吃驚した。岡田先生は健在である。11月4日(月)午後2時半から山の上ホテルで岡田英弘著作集発刊の記念シンポジウムが行われ、先生も出席される。

 私は聴衆のひとりとして、シンポジウム「岡田史学とは何か」の話を聴きに行こうと考えている。話をして下さる方々は木村汎、倉山満、杉山清彦、田中克彦、司会宮脇淳子の諸氏である。ご関心の向きは会場に出向かれたらよいかと思うので、ご案内申し上げる。主催藤原書店(Tel,5272-0301)。

 「内村剛介著作集」(全7巻・恵雅堂出版)がこのほど完結し、10月26日、高田馬場のロシア料理店でお祝いの会があり、招待された。顔見知りはいなかったが、短い挨拶をした。内村先生は1920年生れ、15歳上であり、88歳で亡くなられた。革命と反革命が身体の中で一体化しているような個性的な思想家だった。

 10月27日、持丸博(正しくは松浦博)さんの追悼偲ぶ会があり、彼が三島由紀夫邸に私を昭和43年秋に連れて行ってくれた思い出を綴った昔の拙文「一度だけの思い出」を挨拶代りに、私は朗読した。持丸さんは三島さんの片腕で、楯の会を支えた人物だ。その人生は三島さんの死で燃え尽きたかに見える。しかし4人のまぶしいくらい立派なお子さんたちを残された。奥様は杉並区議で文化チャンネル桜役員の松浦芳子さんである。ご冥福を祈る。
 
 韓国の問題に目下日本人は苦慮している。私はいま、「北朝鮮よりももっと平和を乱す国・韓国」と題して少しまとまった論文を書こうと着手している。韓国の度が過ぎた対日侮辱には怒りや軽蔑の言葉が投げつけられているが、われわれは米中の谷間で自国の安全保障を守る見地から考えなければならない。

 韓国の中枢の指導者はいくら日本を侮辱してもいざ救いが欲しくなり、困ったときには日本は必ず助けてくれるという根拠なき確信をもっているように思える。その責任の一半はもちろん日本にある。これが問題を考える起点、基本のポイントである。

 さて、私の全集は第9巻「文学評論」の初校が出て、三人の校正の方々が見てくださっている。刊行は少し遅れ気味で、一月にずれこむかもしれない。

 私は次の巻のテキストの蒐集、整理編成、校正、関連雑務、今の巻の後期の執筆と相次ぐ作業に追いまくられている。

 ゆっくり自由な読書ができない。仕事の作業のための読書に限定されてくる。次々と送られてくる新しい雑誌も、新刊本もなかなか読めない。それが辛い。

 新聞にもあまり目が向かない毎日である。が、日本シリーズは気になっている。マー君は往年の稻尾のような巨人いじめをするのだろうか。

本の表題

本の表題  追想40年 『正論』」創刊40周年記念号より 

 1973年はまだ私がかけ出しの文藝評論家だった時代である。処女作にあたる二冊のヨーロッパ論のあとの三年間に私が出した単行本は、『悲劇人の姿勢』(1971年、新潮社)、『情熱を喪った光景』(1972年、河出書房新社)、『懐疑の精神』(1974年、中央公論社)、などだった。どれも大まじめに付けた表題で、これで通用したのだから、今思うと不思議である。

 不思議と言ったのは私ではなく、最近ある編集者が今どきこんな題では本は出せない、まして若い評論家の自己主張の本にしては余りに否定的なトーンの表題で、読者受けしない、と言われてそんなものかと思った。しかし、世界や日本を否定するトーンの表題を私はその後もいっこうに改めなかった。『地図のない時代』(1976年、読売新聞社)、『智恵の凋落』(1989年、福武書店)、『日本の不安』(1990年、PHP研究所)、『自由の悲劇』(1990年、講談社)、『日本の孤独』(1991年、PHP研究所)、『確信の喪失』(1993年、学研)・・・・といった具合である。世界を否定的に語ることで自己を主張し、同時にそれが私の世界肯定の思想になるという逆説は、私にとっては生得的な何かであるのかもしれない。

 問題は私がそうした題を掲げるのを好んだことではなく、それが広い読書界で広く迎えられたかどうかは別としても、少なくとも許されたということである。否定がじつは肯定になるというアイロニーを理解し、愛好する一定数の読者に私が恵まれたことである。

 1979年に小林秀雄氏が『感想』という表題の評論集を出されて、私は日本経済新聞に頼まれてこの本の書評を書いた。内容よりも、表題に私はど肝を抜かれた。老年になっても私はおそらくこんな堂々たる題を付けた本は出せないだろうな、と予想したが、その通りになった。私がかりにいま『感想』という書を出せばどことなく滑稽にみえるだろう。で、私が本年出した評論集の題は『憂国のリアリズム』(2013年、ビジネス社)ということになる。世界と日本を否定するトーンの表題は行き着くところついにこういう仕儀に立ち至った。否定だけで肯定を含意した今までの打ち出し方はもう出来ない時代に面し、「憂国」という否定語に、「リアリズム」という肯定的主張語を組み合せざるを得ないことになったのだ。

 ものを書き始めた1960年―70年代初頭に、私は『新潮』『自由』『文学界』『季刊藝術』『批評』などに依拠していたが、丁度そのころ新左翼の出現と学生の反乱に危機感を深めた保守系知識人が日本文化会議を立ち上げ、その流れで1969年5月に『諸君!』が、73年10月に『正論』が創刊された。私も自然にそこに名を列ねるライターの一人となっていくが、当時世界や日本を否定するトーンの表題を自著に好んで付けたのは、この政治的流れと無関係ではないものの、それと必ずしも一致するものではない。私以外の世の多くの保守系論客は世界と日本を最初から力強く肯定的に語っていた。私が否定的に語ったのは、自分を否定することにつながり、自分を否定する契機を経ずして、世界や日本を簡単に肯定的に語っても、私の精神は伝えられないと考えたからである。

 当時の言論界は、何を語るかではなく、どう語るかつまり語り手の倫理的動機がたえず読者に意識され、共有されていた。政治や世相を語っても、単に政治や世相を事柄として語るのではなく、語り手の精神の高さがどの辺にあるのかが同時に問われていた。そういうことを気にしないで、乱暴に、人生の安易な生き方、面白い考え方を説いて読者を喜ばせる一方の人もいるにはいたが、政治や世相をどう考えどう論じたかではなく、論じた人の精神の高さがある意味で勝負だった。文章に現れた人品が問われることを書き手はつねに知っていなくてはならなかった。読者は本能的に人格を嗅ぎ分けていた。語り手や書き手の人間が問題だった。当時の言論界はまだ小さく、書き手と読み手の間の交流が感じられ、ある意味で関係は「私小説的」だった。小林秀雄が『感想』というほぼ無題のような評論集を出すことが可能だったのは、この精神的空間のゆえである。

 小林は自己表現の「自己」をいつも問題にした。自分を生かそうと敢えてしたときに自分は生きない。小林はだから「無私」ということを言った。福田恆存は自我の芯を剥き出しにして戦ってはならないとつねづね語った。自己の「隠し場所」が必要である、と。自己ほど手に負えないものはない、は福田の口癖だった。私が世界と日本を否定するトーンを表題に選んだのも、そこに関係があるのだが、私は「自己」を否定することで自分を生かそうというこわばった意識に囚われてきた点でまだまだダメである。「憂国のリアリズム」ではまだまだ青臭い。

 けれども今の言論界には語り手の精神を問題にする空気はもはやない。情報の量や出所がきめ手になった。素人でも新しい情報さえ手に入れれば言論界の主役になれる。どう語るかよりも何が語られるかだけが中心になった。勢い、本の表題は題材主義となり、過激になるか、長たらしく説明的になるかのいずれかになりがちである。

テレビ出演のお知らせ

 10月20日(日)放送「新報道2001」に出演します。

 今週、靖国神社例大祭が催され、安倍首相は近隣諸国に配慮して、靖国参拝の自粛を検討されているようです。しかし韓国は、日本からの歩み寄りの姿勢に一向に応じる気配を見せず、日韓関係修復への道のりが長期化するのではないか、と懸念が高まっています。

 フジテレビの「新報道2001」では、「日韓関係修復への道~なぜ韓国は喧嘩を持ちかけてくるのか~」をテーマに、討論を行う由にて出演を求められました。支障のない限り、出る予定です。

 出演日時 10月20日(日)午前7時30分~午前8時25分頃まで(生放送)

宮崎正弘さんの出版記念会

 本年(平成25年)10月4日午后6時30分より、市ヶ谷ホテルグランドヒルにおいて、宮崎正弘さんの出版記念が行われました。

 発起人代表として私が僭越ながら最初に祝辞を述べさせていただき、次いで熊坂隆光産経新聞社長の祝辞があり、呉善花氏、日下公人氏と挨拶がつづき、村松英子氏の音頭で乾杯がなされました。そのあと宮崎氏自身の謝辞があり、しばらく休憩食事となりました。

 スピーチが再開され、じつに賑やかで豪華な顔触れでした。井尻千男氏、加瀬英明氏、池東旭氏、中村彰彦氏、高山正之氏、宮脇淳子氏、黄文雄氏、ベマ・ギャルボ氏、田母神俊雄氏、水島総氏、堤堯氏。ここで時間切れとなり、予定されていた各種エキジビションはとり止めとなりました。最後に花田紀凱WiLL編集長が中締めを行い、藤井厳喜氏の元気のいい三本締めで8時30分にお開きとなりました。

 しかしこれで終わらず、有志40名余が10時30分ごろまで同館内の別室で二次会を行い、カラオケ大会を開き、田母神氏の自衛隊を讃える(女性には聞かせられない)歌が拍手喝采でした。

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 さて、私の冒頭の祝辞は、次の通りの内容です(全文)。

宮崎正弘さん、おめでとうございます。

 今日は宮崎さんの現代中国研究の恩恵をこうむり、感謝し、かつ感嘆している方々がここに多数お集まりだろうと思います。私もその一人です。宮崎さんの中国研究はすべて自ら脚で歩いて、見かつ聞いた現地情報を基本とし、それに中国語、英語のメディアからの驚くほど多数の情報をもの凄いスピードで日夜読みこなし、あの有名なメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」――本日10月4日で4037号を数えますが――にほゞ毎日、旅行中以外は休むことなく、ときに同じ日に2度3度と出すこともあり、ここで確認した情報をさらに整理し、ご自身の文明観や国際政治観を書き込んで、次々と本を出され、今日ここに160冊目となる一冊「出身地を知らなければ中国人は分からない」が出て、それを記念し、祝福したく、友人知人がこの場所に相集まった次第です。

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」は主に21世紀に入ってから書かれたもので、それ以前にも中国論は書かれていますが、この15年ほど広範囲の人々、政界・言論界はもとより、メディア以外にも学者や一般読者にも、中国が日本人にとって重大になるにつれてきわめて大きな影響力を発揮してきました。何より中国の全州に足を踏み入れ、いたるところを踏破し、新幹線ができてくればこれに全線全部乗り、北京と上海しか見ていない新聞記者顔負けの行動力で、どれくらい人の目を開かせ、日本人の知見を広めたか分りません。新聞社の中国特派員が宮崎さんのメルマガを見て書いていると聞いたことがあります。さもありなんと思いました。

 宮崎さん以後、若い現代中国研究家が続々と出現しました。今日お集まりの皆様の中にもいらっしゃると思います。ある人は、世界各地にあふれ出し、欧州アメリカその他をボロボロにするほどに迷惑をかけている中国人移民の生態とその政治的なトラブルを主なテーマにしています。またある人は中国人労働者、農民工の生活の苦しい内実、ことに中国人女性の暮らしぶりやものの考え方について数多くの観察レポートを書いています。またある人は中国と日本政府、官僚、財界人の不正なつながりに光を当て、中国進出の日本企業の陥った非情なる苦境につい徹底的に追及しています。こうした多士済々な活動は、宮崎さんが一度は何らかの形で手を着け、すでに発言し、展開しているテーマのうちにありますが、しかし宮崎さんひとりでは追い切れない特殊テーマの個別的研究といった体のもので、よく考えると宮崎さんが広げた大きな展開図の中で、単身では及ばなかったテーマの個人的追究といったものであって、宮崎さんはいわば現代中国研究の総合的役割を果してきたのだなと思い至るのであります。後から来た世代は宮崎さんの仕事を横目で見て、それと重ならぬように、そこから漏れたテーマに焦点を絞って、意図的に個別の研究をすすめてきました。宮崎さんの中国ウォッチングはそれらの人々の前提であり、先駆でした。すなわち宮崎さんは黙って一つの「役割」を果していたのだな、と今にして思い至るのであります。

 私自身は中国の現場についてほとんど何も知らず、160冊のご成果のあれこれについて意見を述べるのもおこがましく、今日お集まりの方々から各著作の特質について、専門的見地からの的確なお話が伺えるものと思います。だが、それほど重要な宮崎さんの現代中国探査報告、権力の中枢から市井の人々の呼吸まで伝えているレポートの数々は宮崎さんの著作活動の最初から存在したものではありません。今日入口で皆さまにお渡しした著作リストがありますね。後から前へと制作順が逆並びになっていて、最新作がトップに来ています。

 これを見ますと1971年三島論が処女出版で、中国論が出版されたのは32冊目、1986年です。その一冊からまた飛んで、15年間中国論はなく、次は1990年の28冊目にやっと二冊目の中国論が書かれています。そういうわけで、中国論がたくさん書かれるようになったのは2001年より後です。2001年から今日までの68冊のうち45冊が中国ものとなります。私がお知り合いになったのはそれより少し後です。

 では、それ以前の宮崎さんは何をしていたのか。経済評論家であり、アメリカ論者であり、資源戦略や国際謀略などに詳しいグローバルな動機を基礎に置いた国際政治に関する著作家でした。

 私は成程と思いました。中国語の読み書きはもとより、英語の能力が高い。新聞雑誌の英語をもの凄いスピードで読む。メディアの英語は学校英語と違って、背景の広い国際知識をもたないと読めないもので、難しいのです。びっくりするのは世界の無数の政治家、経済人の名前をつねに正確にそらで覚えている。欧米人だけではありません。中東から中央アジアの政局にも詳しく、キルギスとかトルクメニスタン、あのあたりに政変があると、片仮名で書いても長くて舌を切りそうになる固有名詞をそらで覚えていて、次々と出す。パソコンを片端から叩いて、何も見ていないのでしょう。全部頭に入っている。これにはたまげます。

 宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか? いろいろな人の本を次々と書評もしている。私と同じ時期に送られてくる新刊本、整理べたの私がまだ本の封筒の袋を開けていないときに早くも宮崎さんのメルマガの書評欄にその本の書評がもう出ている。一体どうなっているのか。宮崎さんはどういう時間の使い方をしているのだろうか。ほとんど怪物だと思うこと再三でした。記憶力抜群、筆の速度の天下一、鋭い分析力と時代の動きへの洞察力――もう負けたと思うこと再三でした。

 中国論は世に多いが、経済の理法を知らなければ今の中国は論じられません。また逆に、中国の動向を正確に観察していなければ、今の世界経済は論じられません。宮崎さんの仕事は世に出るべくして出て来たのです。

 昭和前期に長野朗と内田良平という蒋介石北伐時代の中国ウォッチャーがいますが、宮崎さんはどちらが好きで、どちらが自分に似ているとお考えでしょうか。一度きいてみたいと思っています。どちらも愛国者ですが、長野朗は農本主義者で、内田良平は日本浪漫派風の国士でした。私は内田良平のほうに似ているのではないかな、などと考えています。

 宮崎さんは人情に篤い。多くの人のために出版記念会の舞台づくりをして下さいました。私もその恩恵に与った一人です。友人思いです。友人の死はもとより、その奥様が急死なさる――そういうとき彼は自分の仕事を捨てて飛んで行きます。友人のために働き、友のために気配りし、自分のスケジュールを犠牲にしてもいとわない。

 私はいつも思うのです。あの「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケズ・・・・・・東ニ病気ノ子ガアレバ行ツテ看病シテヤリ」そうなのです。本当にそうなのです。「丈夫ナカラダヲ持チ、欲ハナク、決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ツテイル」・・・・・

 本当にそうなのです。仲間で言い合いがあって、少し激しくなってくると、宮崎さんはいつも茶化すような、思いがけない方角からの茶々を入れてみんなを笑わせ、一座の興奮を鎮めてしまう人です。

 「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」・・・・・宮崎さんの場合は玄米ではなく「一日ニ焼酎四合」と言い直したらいいでしょう。そして「少シノ野菜ヲ食ベ」というのは本当で、宮崎さんは飲み出すと物を食べない。これはいけない。健康に悪い。それからもうひとつ煙草を吸いながら酒を飲む。これもいけない。われわれが止めろといくら言ってもきかないのです。

 宮崎さんの生活行動は文学者のそれで、日本浪漫派の無頼派の作家、破滅型の作家のモラルに似ている処があって、そこが心配です。最近は酒の量が少し減っているように見受けます。メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の欄外に飲み歩きの記録、消息案内があるのですが、最近その記事がいくらか減っているようで心配です。二、三年前には、西荻窪から中央線に乗って途中で降りないで眠ったまま東京駅まで行ってしまうようなことがありましたが、いくら何でももうそんな無茶はしないで、大事にしていたゞきたいと思います。

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全集7巻について、西尾先生への手紙

武田修志さんから西尾先生への手紙

 

九月にはいり、さすがの猛暑もいささか勢いの弱まった感じですが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過しでしょうか。
 
 先日は出版社から御著書『日米百年戦争』が送られてまいりました。御手配、有難うございました。この書については、次の機会に感想を述べさせていただきます。

 今日は『西尾幹二全集第7巻 ソ連知識人との対話、ドイツ再発見の旅』を読了しましたので、この大著について、ひとこと読後感を申し述べます。
 第一部『ソ連知識人との対話』は、先生がご旅行をなさっているうしろから、とぼとぼとついていくような感じで、繰り返し二度ほど読ませていただきました。先生の好奇心の旺盛さが一番印象に残りました。「この大知識人は、純真な子供のように好奇心にあふれているナ」と、足早の先生を追っかけながら、何かたいへん愉快なものを感じました。通訳官のエレナ・レジナ女史も、次から次に質問を繰り出す先生を、なんと素直な、率直な人柄だろうと、ひそかに、たいへん好感をいだかれたのではないでしょうか。先生の飽くなき知識欲はやっぱりちょっと群を抜いていますね。批評家魂といった言葉が思い浮かびました。

 この書から教えられたこと、考えさせられたことはあまたありますが、思いつくままにいくつか挙げてみますと、まず、ソ連邦の人々の不親切、傍若無人な振舞い、官僚風な対応というのが、やはり印象に残っています。第十二章で語られている、哲学者川原栄峰氏の切符切り替えを助けようとした、日本へのあこがれを持ったあのイントゥーリストの係官の振るまいは、先生が御指摘のように「非常に象徴的」です。「ある面での善良さが、別の面での優しさや思い遣りや心づかいに決して繋らない。いかにもロシア人らしい、デリカシーを欠いた愚直な善人振りである。」この係官の振る舞い方は、我々日本人には全くの驚きであり、「不思議」でもありますが、まわりの人々の反応から見て、その傍若無人な振舞いは、ロシアでは、ごく一般的に認められている・・・。ある社会が、ある「文化」が、人の意識、人の振舞いをどういうふうに形成していくものか、深く考えさせられる場面です。そして、この点で、先生が、その原因を単に「ソヴィエト型社会主義の性格」に求められているのではなく、「ロシア的東方的な非合理な人間関係に起因するのではないか」と考えられておられるところは、私の大いに同感したところです。

 同じようなことですが、作家同盟の作家や評論家諸氏が、「ほとんどまる一日乗車し、同行した場合でも、彼らは運転手にまったく目もくれない」ーこの場面もたいへん印象に残っています。どうしてそういうふうになるのか、この点についての解釈はこの書の先生の論述にゆだねるとして、このあたりを読みながら、我々日本人の人間関係やそこで働かせている意識、感性というものは、たいへん独特のものがあるのだということを改めて考えました。(皇后陛下などが、被災者をお見舞になるときに、自らも腰を低くして言葉をおかけになるーああいう場面をロシア人などが見ると、どういう感想を持つのだろうかと思ったりもしました。)

 第五章「コーカサスの麓にて」では、エドゥガールという三十歳の「優男」の姿がよく描かれていて、印象に残りました。彼がどういう人柄の人であり、どういう考えの持ち主であるかが、巧まざる描写で少しずつ分かってくるのですが、最後に次のように締めくくられていて、これはうまいと思いましたし、またたいへん説得されました。
 「それでも私には、エドゥガールさんが公爵の末裔だと知ったときに、いくつかの謎が解けるような思いがした。なぜ彼だけが私たちの感情の動きを微妙に察した、礼儀正しい会話の仕方で私たちを心服させたのか、合点がいく思いがした。」「都雅、としか言いようのないもの」がエドゥガール氏を包んでいたのは、たしかに、彼が貴族の出であったことと深く関係していたと私も同じように考えました。ーこの本のおもしろさの一つは、先生自身どこかに書き付けておられるように、先生がお会いになった人々の「姿」がうまく描かれていることではないかと思います。 

もう一つ妙に印象に残っていることがあります。何章に書いてあったのかちょっと忘れてしまいましたが、我々日本人は、たとえば鳥取という自分の位置を、海に囲まれた日本全図を思い描いて人に示すのを当然のこととしているが、ロシア人はまずボルガ河ならボルガ河という大河を一本描いて、その西とか東、こちら側とか向こう側といったふうに説明する、ソ連全土というようなイメージはないのだーあの話です。これは、私は今まで人から聞いたこともなく、本で読んだこともなかったので、文字通り目から鱗が一つ落ちました。

 さて、「ソ連知識人との対話」は一九七七年のひと月余りの先生のソ連邦旅行体験を基にして、その後二年余りのうちに書き上げられた著述であり、いうまでもなく、この時期、まだソ連邦の崩壊は、内村剛介氏のような特別な人を例外として、ほとんど誰も取りざたしていませんでした。先生も、この御旅行の時点では、ソ連邦の崩壊というようなことは、まったくお考えになっていなかったと推察できます。しかし、ソ連が崩壊して今や二十年以上が過ぎました。今回私は特に「崩壊後の今から読めば、この本から何が読み取れるか」という観点を持って読んだわけでは全くありませんが、やはり、ソ連崩壊前の時代から崩壊後まで貫く問題は何かと、無意識にも注意を向けていたようにも思います。以下のような言葉が印象に残ったのは、そのためかもしれません。 

 「人間は制作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。」(第九章)

 「個体が未来へ向けて自分を賭けて行く実験精神を殺すような世界では、学問や芸術や教育は本来の機能を発揮することは出来ないだろう。」(第九章)

これらの言葉は、社会主義社会が人間の共同体として致命的な欠陥を内部に抱えていたことの、的確な指摘となっています。
 しかし、先生の言説が今も魅力的なのは、ソ連社会の問題点を剔抉していきながら、常に我々の社会の問題点を糾問していくところでしょう。

 「しかし、他方、『全体』との深い関わりがなければ、『個』も生きてこないのである。」(九章)

 「自由とは善い自由と悪い自由を選択し区別する基準が、自分の内部以外にどこもないということに外ならない。自由とはそれゆえ危険なものなのである。」(第九章)

 「われわれのこの生にいったい究極目的は存在するのか?国家や社会の課題がわれわれの生に本来の目的や意味を与えてくれるのか?部分である我々は全体のどこに位置しているのか?個体をつつむ文化や伝統の有機的統一は今日では喪われ、世界を全体像としてとらえるパースペクティブは不可能になっているのではないか?}(第十章)

 「近代的自我は確立した瞬間からじつは解体と不安にさらされていたのだと言い換えてもよい。」(第十章)

 「二十世紀の人間が中心を喪失し、無内容になっている点においては、どちらの社会体制もほぼ同じではないかと私は考えているのである」(第十章)

 先生の読者としてはなじみの主題ですが、こういう我々の社会の抱える中心問題がソ連探訪記においても攻究されているところが、またこの本の魅力であると私には思われました。

 「ドイツ再発見の旅」の部もたいへんおもしろく拝読いたしました。しかし、ちょっとここまでの感想もだらだらとまとまりが無くなってしまいましたので、又の機会にしたいと思います。いつも尻切れトンボで誠に申し訳ありません。

 お元気で御活躍下さい。

     
    平成二十五年九月二日

                 武田修志

『天皇と原爆』書評/動画

 文芸評論家の冨岡幸一郎さんが二年も前に拙著『天皇と原爆』に対する書評をYou Yubeで流していることに気がついた。ずっと知らないでいた。遅ればせながら、ここに再現する。時間の短い寸感書評であるが、肝心なとことは捉えて下さっている。冨岡さんありがとう。

頭脳への刷り込みの恐ろしさ

 「新しい歴史教科書をつくる会」は『史』という機関紙を出していて、9月号が通巻100号記念となり、頼まれて次のような巻頭言を書いた。

 総理、歴史家に任せるとは言わないで下さい!
 
 「干天の慈雨」ということばがあるが、民主党政権下でずっと不安な思いをさせられ、いらいらしつづけた私にとって、安倍晋三政権の成立は「慈雨」にも等しいと観じられた。将来への大なる期待よりも、私などはこれで日本は危ういところを辛うじてやっと間に合った、タッチの差で奈落の渕に沈むところだったが何とか「常識」の通る社会をぎりぎり守ってくれそうだ、と、薄氷を踏む思いを新たにしているところである。

 安倍晋三氏が官房副長官であった当時が、『新しい歴史教科書』の最初の検定から採択への試練の時期であった。私は氏に何度もお目にかかり、窮境(きゅうきょう)を救っていただいた。故中川昭一氏とご一緒のところをお目にかかることも多かった。教科書問題とか歴史認識問題に一貫してご両名は関心が深かった。

 安倍氏が第二次政権の安定したパワーで再び同問題を支援して下さることを念願しているが、ひとつだけご発言で気がかりなことがある。「侵略」の概念は必ずしもまだ定まっていない、と正論を口にされたそのあとで、付け加えて自分は判断を専門家の議論に任せるという言い方をなさってきた。大平正芳氏も、竹下登氏も、あの戦争は侵略戦争かと問われて、政治家の口出しすべきことではない、歴史の専門家に判断を任せると言っていたのを覚えている。

 しかしじつはこれが一番最悪の選択なのだ。なぜなら日本の歴史の専門家は終戦以来、自国の歴史を捻じ曲げ、歪め、「歴史学会」という名の、異論を許さぬ徒弟(とてい)制度下の暗黒集団と化しているからである。文科省の教科書検定も、判断の拠り所を「歴史学会」の判定に求めているようである。だからいつまで経っても普通人の常識のラインにもどらない。「歴史学会」は若い学者に固定観念を植えつけ、ポストの配分などで抑え込んでいる。この世界では日本の「侵略」は、疑問を抱くことすら許されない絶対的真理なのである。学問というよりほとんど信仰、否、迷信の域に達している。

 日本史学会のボスの一人であったマルクス主義者永原慶二氏の『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館・平成15年刊)に、「つくる会」批判の表現がある。戦後の日本史学会は東京裁判史観という「正しい歴史認識」に恵まれ、正道を歩んできたのに、「つくる会」というとんでもない異端の説を唱える者が出て来てけしからん、という意味のことが書かれている。はからずも日本史学会は今まで東京裁判に歴史の基準を置いてきた、と言わずもがなの本音をもらしてしまったのだ。マルクス主義左翼がGHQのアメリカ占領政策を頼りにしてきた正体を明かしてしまったわけだ。

 安倍総理にお願いしたい。どうか「歴史の専門家の議論に任せる」とは仰らないでいただきたい。これでは千年一日のごとく動かない。のみならず、北岡伸一氏たちの『日中歴史共同研究』のようなあっと驚くハレンチな結果を再び引き起こすことになるばかりだろう。どうか総理には「広範囲な一般社会の公論の判断に任せる」という風にでも仰っていただけないかとお願いする。

 旧左翼(マルクス主義史観)とアメリカ占領軍(東京裁判史観)が裏でしっかり手を結んでいたことがこのところ次第にはっきりしてきた。ルーズベルトがスターリンの術中にはまっていて、アメリカは戦後すぐに東欧でもアジアでも共産主義の拡大に協力的ですらあった。今の中国はアメリカが作ったのである。

 安倍さんは日本が講和後には東京裁判に縛られる理由がないことも、侵略の概念については国際的な統一見解が存在しないことも知っておられるだろう。いつ言い出せるかが課題である。尖閣その他で緊張している間は、しばらく波風は立てられまいが、われわれはあくまで後押ししなければいけない。

 歴史に関する考え方は日本でも世界でもどんどん動いているが、戦後すぐに固定観念を刷り込まれてから、頭にこびりついて、完全に自由を失っている人は今も少なくない。