西尾幹二全集第8巻『教育文明論』の刊行

 いま私の生活の最大部分を占めているのは全集の刊行と正論連載である。この二つを仕上げるために他の小さな仕事は次第に縮小せざるを得ないと思っている。

 全集は資料蒐集つまりテキストの確保にはじまり、編成、校正、関連雑務とつづく。正直、息が抜けない。

 今月20日にようやく第8巻『教育文明論』が上梓される。何のかんのと言っているうちに8巻まで来て、三分の一を過ぎた。

 月報は天野郁夫氏(東大教授)と竹内洋氏(京大教授)の二人の教育社会学者におねがいした。このご両氏と侃侃諤諤の議論をし合った往時(1980年代)が懐かしい。

 まず目次をご覧いたゞきたい。私の45歳から55歳にかけての脂ののり切った10年間の全エネルギーが「教育改革」の一点に注がれたのである。

目 次

Ⅰ 『日本の教育 ドイツの教育』を書く前に私が教育について考えていたこと

 今の教師はなぜ評点を恐れるのか
 九割を越えた高校進学率――もう一つの選別手段を考えるべきとき
 教育学者や経済学者の肝心な点が抜けたままの教育論議
 わが父への感謝
 競争回避の知恵と矛盾
 文明病としての進学熱――R・P・ドーア氏の講演を聞いて

Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育

 第一章 ドイツ教育改革論議の渦中に立たされて
 第二章 教育は万能の女神か
 第三章 フンボルト的「孤独と自由」の行方
 第四章 大学都市テュービンゲンで考えたこと
 第五章 世界的視座で見た江戸時代以降の教育
 第六章 進学競争の病理
 第七章 日本の「学歴社会」は曲り角にあるか
 第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観
 終 章 精神のエリートを志す人のために
 あとがき
 主要参考文献

Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判

 自己教育ということ――『日本の教育 智恵と矛盾』の序
 どこまで絶望できるか
 「中曽根・教育改革」への提言
 経済繁栄の代価としての病理
 矛盾が皺寄せされる中学校教育
 校内暴力の背後にあるにがい真実
 臨教審、フリードマン、イヴァン・イリッチ
 「教育の自由化」路線を批判する
 「競争」概念の再考
 教育改革は革命にあらず――臨教審よ、常識に還れ――
 再び臨教審を批判する
 臨教審第二部会に再考を求める
 臨教審第一次答申を読んで
 なぜ第一次答申は無内容に終わったか
 「自由化」論敗退の政治的理由を推理する
 文教政策に必要な戦略的思考
 「臨教審」第二次答申案を読んで
 大学間「格差」を考える
 飯島宗一氏への公開状
 臨教審最終答申を読んで

Ⅳ 第十四期中央教育審議会委員として

 講演 日本の教育の平等と効率
 西原春夫前早大総長への公開質問状
 大学審議会と対立する中教審の認識
 中教審答申を提出して
 有馬朗人東大学長への公開質問状

Ⅴ 教育と自由 中教審報告から大学改革へ

 プロローグ
 第一章 中教審委員「懺悔録」
  第一節 指導者なき国で理想の指導者像は描けず
  第二節 「教育改革」論議はなぜ人を白けさせるのか
  第三節 答申から消された文部省批判
 第二章 自由の修正と自由の回復
  第一節 「 格差」と「序列」で身動きできない日本の学校
  第二節 文部省文書のスタイルを破る
  第三節 公立学校と私立学校の宿命的対比
  第四節 入学者選抜は「大学の自治」か
  第五節 なぜ地獄の入口に蓋をするのか
 第三章 すべての鍵を握る大学改革
  第一節 混沌たる自由の嵐を引き起こすために
  第二節 私の具体的な大学改革案
  第三節 “競争の精神(アゴーン)”を忘れた日本の学問
 終 章 競争はすでに最初に終了している
  第一節 誰にでも開かれているべき真の自由
  第二節 効率から創造へ
 付 録 学校制度に関する小委員会審議経過報告(中間報告)抄録

Ⅵ 大学改革への悲願
 大学を活性化する「教育独禁法」
 講演 大学の病理
 有馬朗人第十五期中教審会長にあらためて問う

Ⅶ 文部省の愚挙「放送大学」

後 記

小暮満寿雄Art Galleryより

2013年8月16日の小暮満寿雄さんのブログより、許可を得て転載します。

「天皇と原爆」~日本人は宗教に頑固?

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西尾幹二氏の「天皇と原爆」読了しました。

あ@花さんのススメで読んでみましたが、これは大変な名著ですね。
近頃になく感銘を受けました。

西尾幹二氏はニーチェ研究でも知られるドイツ文学者ですが、文字通り知の巨人であり、本書ではその碩学を遺憾無く発揮してるばかりか、ひじょうに読みやすく書かれているます。

「海賊とよばれた男」にもあるように、先の大東亜戦争が石油による戦争だっというのは周知の事実ですが、西尾氏は、欧米の植民地時代まで時間軸を伸ばし、かの戦争はアメリカと日本の宗教戦争だったという見方をしています。

それは天皇を中心にしたわが国の多神教と、キリスト教一神教の戦争という意味であります。もちろん、それが戦争の物理的原因というのではなく、戦争の根底にあったメンタルなものという意味であります。

ここで肝要なのは、わが国の方では、かの大東亜戦争戦争が宗教戦争のつもりはさらさらないということです。
ところが米国側の方は唯一神を頑として受け入れない日本人に対して、苛立ちと憎しみを感じていたというのです。

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さて、以下は本の内容とは少々ズレるところはありますが、よろしければお付き合いのほど。

私たちは日本人というものが、宗教に無関心、無宗教だということを変に信じています。しかし口では「無宗教」と言いながら、正月には初詣に行くし、お社やお寺の前ではキチンと手を合わせる。
挙げ句の果ては結婚式を教会で行い、平気で祝福をするという、一神教の人たちから見ると悪魔の所行に等しい理解に苦しむ行動をします。

これは西洋人の視点から言えば、明らかに無宗教ではなく「多神教」であります。

あちらの無宗教はatheism、無神論であり、「神はいない」とハッキリ否定します。ドストエフスキーの小説にも出てくるような、激しい無神論者は私たちが「無宗教」というのは明らかに違います。

「天皇と原爆」の中には、ある人が米国で宗教について尋ねられたくだりがあります。「何の宗教を持ってるのかね」と聞かれ、「ありません」と答えたら悪魔でも見るような顔をされたというのです。それで、「本当に何も宗教を信じてないのかね?」と聞かれ、仕方なく「仏教です」と答えたら、相手は安心してニコニコしたというのですね。

無神論者は悪魔視されるということですが、これは日本ではありえないことで、ある意味一神教の裏返しとも言えましょう。

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フランシスコ・ザビエルが日本に布教へやってきて、およそ470年になりますが、日本におけるキリスト教徒の数は一向に増えません。

明治時代、人口の1%だったクリスチャンは今でも横ばいと言いますが、それはひとえに日本人の一神教ぎらい、原理主義ぎらいによるものであります。

インドではカーストの苦しみから逃れるために、クリスチャンに改宗した人は多いですが、フィリピンや韓国などは、そういう理由以外で比較的容易にキリスト教化が進みました。
ところがわが国ではキリスト教徒の人口は一向に増えない。

ひとえにこれは一神教に対する拒否反応に加え、日本には古来より天皇という神の存在があったからだというのですね(ただ、天皇の存在に関しては長くなるので、今回は割愛)。

これは本に書かれてないことですが、特定な宗教を信じてない人の中には、新興宗教などに勧誘されると「宗教だ」と引いてしまうのも、そんな一神教に対する拒否感かもしれません。そんな「宗教」に引いてしまう人も、墓参りには行くし、初詣には行くのですから。

ザビエルもアメリカも頑としてキリスト教一神教に染まらない日本人に、苛立ちを感じ不気味さを感じた。それが米国側の憎しみとなって、日本とアメリカが戦争するように方向づけたとありますが、なるほど腑に落ちる話であります。

なわけでこちらは、以前ボツになった仏教本の企画書に使ったマンガです。
いずれ復活させてみせますが、仏教オンリーとはいかんだろうなあ。

今回は本の一部しかご紹介できませんでしたが、「天皇と原爆」は日本人なら一読の価値があります。ぜひお読みくださいませ。

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福井雄三さんの私信「ラスコールニコフとデミアン」

 友人の福井雄三さん(東京国際大学教授)が次のような読後感想の手紙を送って下さった。ちょっとユニークな観点なのでご紹介する。

西尾幹二先生

 西尾幹二全集第七巻『ソ連知識人との対話』読了いたしました。先生が昭和55年7月に中央公論に寄稿された「ソルジェニーツィンへの手紙」を読んだとき、私の心の中で思わずうなり声が生じました。私も彼の作品は『ガン病棟』から『収容所群島』にいたるまで、あらかた読破しております。うまく表現できないけれどこれまで彼に対して抱いていたもやもやした違和感の正体が、先生の文章を読んでいて一刀両断されたのです。

 「近代社会のいわゆる西側の自由主義体制の自由とは、それを決めてくれるものが各個人の心の外にはどこにもないということに他なりません。そういう覚悟が自由ということの内容を決定するのです。人間には善をなす自由のみならず、悪をなす自由もあるからです。それを外から抑制するいかなる手段も存在しません。あなたにはここのところがどうもおわかりにならないようですが、悪をなすもなさないも、決定権は個人の責任に委ねられているのです。それが自由ということです。その結果、社会が自由の行き過ぎで破滅するような事態がかりに起こったとしたら、それはそれで仕方がない、と申す他ないでしょう。無責任のようですが、自由は原理的にはそこから考えていかなくてはならない。もともと危険を宿した概念なのです。いいかえれば、自由は常に試されているといえるでしょう」

 ソルジェニーツィンがソ連から追放亡命後、西側諸国では彼をあたかも殉教者のごとくに持ち上げ、共産主義イデオロギーに戦いを挑む、自由の闘士であるかのごとくに賛美する風潮が一般的でした。日本の多くの文化人たちも例外ではありませんでした。だがしかしハーバード大学での講演に象徴されるような彼の叫びは(それが彼の偽らざる心底からの純粋な本音だったとしても)微妙なズレがあるのです。それに気づいた人は西側にもほとんどいませんでした。西側の多くの人士が彼のその叫びに同調し、拍手喝采したくらいなのですから。彼は自由の意味をとり違えているのです。
 
 これを見ると、やはりソルジェニーツィンは、ロシア革命後のソ連共産主義イデオロギーの中で精神形成がなされてきたのだ、と思わずにはいられません。帝政ロシア自体ツァーリの圧政のもとに呻吟していたのが、革命で共産主義の恐怖政治にとって代わったのは、ただ単に極端から極端へ移行しただけのことです。西ヨーロッパとはおよそ質を異にする精神風土が、革命後も変わることなく、数百年にわたってスラブ民族を呪縛してきた、ということなのでしょうね。その意味では先生の指摘されるごとく、ロシア人の文化的深層心理は、革命の前も後も途切れずに連続しているのでしょう。ソルジェニーツィンのアメリカ亡命後のあのような言動は、彼の背後に横たわる数百年のスラブの歴史がなさしめているのです。
 
 私の母が以前「西尾先生の著書を読んでいると、数学の難問が解けたときのような爽快感がある」と申しておりました。このたびの先生の文章を読んでいて、先生がここまで真贋を剔抉されたのは、まさに神技のレベルに近いものがあります。
 
 私はいまこの手紙を書きながら、ヘッセの『デミアン』の一場面を思い浮かべずにはいられません。主人公の「ぼく」が、ゴルゴタのイエス受難についてデミアンと語っていたとき、彼はそれまで想像すらできなかったことをデミアンから指摘され、気が動顛してしまいます。それは勧善懲悪といった単純なものではなく、なにかもっと得体の知れぬ不気味な、異教的なものでした。それまで主人公の「ぼく」が、当然のこととして受け入れていた価値観を根底から揺さぶり、市民社会の道徳に懐疑を投げかけ、偶像を破壊し、新たな世界へ、すなわちアプラクサスの彼方へと駆り立てるものでした。

 「ゴルゴタの丘の上に三本の十字架が立っているのは壮大な眺めさ。ところがあの馬鹿正直な盗っ人についてのセンチメンタルな宗教訓話はどうだい。はじめ
その男は悪漢でどんなに悪事を重ねたかわからないくらいなのに、こんどはすっかり弱気になって、改心と懺悔のあわれっぽい祭典をあげるんだからね。こんな
懺悔が墓場の一歩手前でなんの意味があるんだろう。これだってまた涙っぽい味とこの上なくありがたい背景を持った、めそめそした嘘っぱちの本格的な坊主の
話というほかはないよ。もし君がこの二人の盗っ人のうちの一人を友達に選ばなければならないとしたら、または二人のうちのどちらが信頼できるかを考えなければならないとしたら、それはもちろんあのあわれっぽい転向者ではない。もう一人のほうだ。そいつは頼もしい男だし気骨がある。転向なんぞてんで問題にしない。そいつから見れば転向なんてたわごとに決まってるんだからね。そいつはわが道を最後まで歩いていく。そしてそいつに加勢していた悪魔と最後まで縁を切らないんだ。そいつはしっかり者さ。そしてしっかりした連中は、聖書の物語の中じゃ、とかく貧乏くじを引くのさ」

 ヘッセはニーチェの一世代下で、青年期に彼の死に遭遇しています。彼自身が「内面の嵐」と呼んだ多感な青春期、彼はニーチェに狂熱的に傾倒し、彼の精神
はニーチェ一色に染まった時期がありました。ヘッセの描いたデミアン像は、ニーチェの化身といってもよいでしょう。『デミアン』は西ヨーロッパのこのような精神史の伝統から生まれた作品だと思います。
 
 これがソルジェニーツィンとニーチェの、つまりラスコーリニコフとデミアンの決定的な違いなのでしょう。この相違はソルジェニーツィンには理解できないと思われます。
 
 暑い日が続きますが、この夏は軽井沢にお出かけですか。近々またお会いしたいです。お元気で。

                                  平成25年8月9日 福井雄三 

 ここにご母堂のことが書かれてあるが、福井さんは鳥取の由緒ある旧家の出で、学識のある立派な高齢のご母堂が単身家を守っておられる。先年私は山陰を旅してご母堂にお目にかかったことがある。それでここに話題をされたのである。

『憂国のリアリズム』アマゾン書評より

閑居人さんの書評です。

素晴らしい内容の書評、ありがとうございました。

「憂国」の一番の敵は、「内なる敵」との戦いである 2013/7/25

By 閑居人

西尾によれば、現在の日本は、二つの外国勢力と戦っている。一つは、言うまでもなく、「アメリカ」である。「日米安保条約」は、独立国日本を引き続きアメリカのコントロール下に置くものであり、その後、70年近く、日本は安全保障をアメリカの「従属国」のままにしている。
もう一つの外敵は、「中国」である。本来、大陸中国は、「戦勝国」ではない。中国共産党は、実質、日本軍と戦ったことはない。ただ、マーシャルらを抱き込んで、アメリカを騙して国民党を台湾に追い出しただけである。しかし、彼らは、国連常任理事国入りと国交回復を果たすと「戦勝国」のように振る舞い、戦後利権にありつこうとする。そしてそれに、第二次大戦を「大日本帝国臣民」として戦った韓国が、戦後、一転して、アメリカ、中国に媚び、日本に対して居丈高に振る舞おうとしている。そして、ときにこの三国は裏で結託して「ジャパンバッシング」をしているように見える。
だが、西尾の本当の憂鬱は、アメリカや中国、韓国といった外敵の日本攻撃だけにあるわけではない。米中が影で何を企もうとも、国際社会の中で主権国家が国益を求めて様々な戦略・戦術を駆使することは、ある意味では当然のことであり、それを止める術はないからだ。
一番の問題は、「内なる敵」なのだ。つまり、敗戦史観を唯々諾々と受け入れて、日本という国家と日本人を貶める日本人の国家意識、歴史認識の問題であり、同時に世界に対する日本という国家ビジョンの欠如、戦略のなさなのだ。
その意味で、本書の根幹を成すものは、著者自身が言うように「第三章 日本の根源的致命傷を探る」であろう。ここで、西尾が展開していることは、西尾が一人の日本人として、どうしても言わずにはいられないことである。

「旧敵国の立場から自国の歴史を書く歴史家たち」

昭和16年7月、日本は南部仏印に進駐した。前年の北部仏印進駐同様、英米の「援蒋ルート」を断ち切るためである。英米の支援の約束を蒋介石は信じすぎた。日本に徹底抗戦していくことが国民党の利益になるとは限らないのに、日本との和平交渉をサボタージュして、それを近衛政権のせいにした。そのシンボルが「援蒋ルート」だった。日本の多くの歴史家が「南部仏印進駐がアメリカの逆鱗に触れ、アメリカは対日戦争を決意した」と、日本の「暴挙」を非難する。日本が北部仏印に進駐したのは、前年9月。フランスにビシー政権が成立し、そのビシー政権と話合っての南北進駐である。欧米の史家たちは、日本の南部仏印進駐が翌年になったことに驚きを隠さない。通常、迅速に、間髪を入れず行うものである。このことは、1939年9月の独ソによるポーランド分割を見れば、明瞭である。
また、この年の5月、イギリスはデンマーク領アイスランドとグリーンランドを予防占領したが、持ちこたえられないと見ると、7月、「中立国」アメリカが、イギリスに代わって占領し、ドイツ軍を押し返した。日本の南部仏印進駐と同時期であるが、明白な中立違反である。ドイツはアメリカを非難できたが、アメリカ、FDR、ルーズベルトの挑発に乗らなかった。中立国であるはずのアメリカがイギリスと大西洋上での「パトロール」と称する軍事共同行動を行い、しきりにドイツを挑発し続けていた時期である。FDRが戦争参加への機会を執拗に伺っていたことは、戦後、CH.ビーアドが「ルーズベルトの責任」で厳しく批判した通りである。
そもそもアメリカが、日本の軍事的戦略を非難すること自体が奇妙なことなのだ。しかし、半藤一利、加藤陽子のような歴史家たちは、戦後、アメリカが一貫して流し続けてきた「日本軍国主義」対「英米民主主義」の宣伝のまま、「日本軍国主義」の愚かさを嘲ってやまない。「南部仏印進駐がアメリカの虎の尾を踏んだ」彼らは、そう言って笑う。しかし、事実は、FDRは、既に戦線参加を決意していて、モーゲンソー財務長官とともに日本に対して、まず「経済戦争」を仕掛ける切っ掛けを探していただけのことである。一体、彼らの「日本人歴史家の視点」はどこにあるのか。多分、西尾の指摘する通りなのだろう。
「日本の戦後の歴史関係のメディアが一貫して旧敵国の立場から歴史を見ているという、大局を見失った、負け犬の歴史観に立つことを意味するのである」(p150)

「戦後日本は『太平洋戦争』という新しい戦争を仕掛けられている」

西尾は、言う。「満州事変以後の『昭和史』に限定して日本の侵略を言い立てる歴史の見方には、一つの政治的意図があった。日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするというアメリカの占領政策である。自らにとって“都合のいい時代”を抜き出すことで、一方的に日本に戦争の罪を着せようと考えたのだ。」
「大東亜戦争は日本が始めた戦争では決してない。あくまで欧米諸国によるアジアに対する侵略が先にあって、日本はその脅威に対抗し、防衛出動している間に、ソ連や英米の謀略に巻き込まれたに過ぎない。」
「侵略と防衛の関係は複雑である。もしも日本が防衛しなかったら、二十世紀初頭で中国の三分の一と朝鮮半島はロシア領になっていただろう。中国が対日戦勝国だと主張するのは大きな誤りなのだ。」(p162)
そもそも、日本人310万人の英霊が生命を捧げた戦争は、「大東亜戦争」である。開戦後、昭和16年12月12日、日本政府は、シナ事変以降の戦争を一括して「大東亜戦争」と名付けた。その戦争目的の最大のものは「アジアの独立、英米仏蘭の植民地帝国主義の一掃」である。しかし、敗戦後、昭和20年12月15日、占領軍の通称「神道指令」によって「大東亜戦争」「八紘一宇」といった言葉は、使用禁止になり、徹底した言論統制が行われた。

(評者の経験したことを一つ紹介したい。ソビエト崩壊の直後だから、1991年の冬のことだろう。20人余りの高等学校「日本史」担当者に、「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」「15年戦争」の四つの名称を示し、一番、自分の実感に近い名称を選択させた。その数は統計的な有意差を示すものではないから特に記さないが、「大東亜戦争」を選択した者は一人もいなかった。「神道指令」と占領軍の検閲を知らない教師が全てだった。彼らは、いずれも世間で一流大学と目される大学の出身者である。)

問題は、戦争が終わり、国際条約によって新しい国際関係が開始されても、情報戦争は決して終わることがないということである。竹山道雄の「昭和の精神史」の本来の題は、「十年の後に」である。この題には、戦争の興奮と狂乱の時期が過ぎて、十年の後には、冷静な、多角的な視点からの議論ができるだろうという竹山の期待が込められていた。
残念ながら、公文書の公開が、30年50年というスパンであり、十年ではなかなか真実は分からない。しかし、大きな真相はいずれ明らかになり、日米開戦に際してのFDRの陰謀は、研究者にとって事実としては疑えないだろう。
西尾は、こういった日本人の歴史認識の根本を問うのである。

本書で、西尾は、「皇室」の問題を取り上げる。精神科医は不確かなことに口を挟まないから言わないが、彼等が心の中で感じている「皇太子妃殿下」の病状は「適応障害」ではなく、「人格障害」だろう。しかし、西尾は、限界ぎりぎりの表現をするだけで、皇太子殿下についても「無垢なる魂」と言うのみである。考えて見たらいい。「50歳にして、無垢なる魂」とは、一体、いかなる人格なのか。

西尾が己に律していることは、己の全ての言論表現活動は、この日本という国家の歴史と伝統、その正しきを継承していくためにあるということだろうか。であれば、西尾の禁欲とそれに反する迷い、動揺が、本書の魅力の根底にある。

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憂国のリアリズム 憂国のリアリズム
(2013/07/11)
西尾幹二

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『GHQ焚書図書開封』8の刊行ほか

 9月1日発売の『正論』10月号に連載の第四回目が出ます。既報のとおり、同誌に「戦争史観の転換」という題の連載を始めて、今回は第1章の第4節に当り、「アメリカ文明の鎖国性」と題した一文を掲げました。古代ギリシアの奴隷制に照らしてアメリカ近代史を考察した今までまだ誰も指摘していない比較歴史論の観点を打ち出したもので、これについてもコメントしていただけたらありがたい。

 8月末に『GHQ焚書図書開封』⑧が出ました。アマゾンの説明文は次の通りです。

(内容紹介) あのとき、日米戦争はもう始まっていた!
昭和18、19年という戦争がいちばん盛んな時期に書かれた「大東亜戦争調査会」叢書は、戦争を煽り立てることなく、当時の代表的知性がきわめて緻密かつ冷静に、「当時の日本人は世界をどう見ていたか」「アメリカとの戦争をどう考えていたか」分析している。そこでは、19世紀から始まる米英の覇権意志を洞察し、世界支配を目指すアメリカの戦後構想まで予見されていた。
――しかし、これらの本は戦後、GHQの命令で真っ先に没収された!

戦後、日本人の歴史観から消し去られた真実を掘り起こし、浮かび上がらせる、西尾幹二の好評シリーズ。

※「大東亜戦争調査会」とは、外交官の天羽英二や有田八郎、哲学者の高坂正顕、ジャーナリストの徳富蘇峰ら、当時を代表する知を集め、国家主義に走ることなく、冷徹に国際社会の中で日本が歩んできた道を見据えた本を刊行した。ペリー来航からワシントン会議まで、英米2大国の思惑と動向、日本の対応など、戦後の歴史書にない事実、視点を提示している。

徳間書店¥1800+税

GHQ焚書図書開封8: 日米百年戦争 ~ペリー来航からワシントン会議~ (一般書) GHQ焚書図書開封8: 日米百年戦争 ~ペリー来航からワシントン会議~ (一般書)
(2013/08/23)
西尾幹二

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「アメリカ観の新しい展開」(十五)

「不思議な魅力もある厄介な国家」(西尾)
「『のらりくらり』がアメリカには有効」(福井)

 西尾 その日本がなぜ今だらしないのか。

 福井 しかし、そのだらしない日本でも国際社会でそれなりの敬意を払われ、米中に日本警戒論が絶えないのも、「負けるに決まっている」戦いを世界最強のアメリカに対して挑み、死力を尽くしたからでしょう。だらしなくしているほうが、アメリカから目をつけられずにすむし、かつての日本とのギャップの甚だしさは、逆に不気味に見えているのではないでしょうか。そうして、アメリカが弱るのを待つ。実際、弱まる徴候が見えてきているわけですから。

 西尾 高等戦術としてはあり得るかもしれません。いま、集団的自衛権の行使を可能にすべきだということが議論されていますが、どうにもおかしなことがあります。確かに集団的自衛権の行使は認めるべきだと私も思いますが、同時に米軍基地の縮小なり、撤退なりも議論するのが筋です。ところが、そうした声はまったく上がっていない。

 国内の米軍基地をアメリカに自由使用させているのは、日米安保条約が不完全だからです。日本はアメリカに守ってもらうけれども日本はアメリカを守る必要はないという片務性ゆえに、米軍基地の無条件、半永久的使用を認めざるを得ない。もし集団的自衛権を認めて「日本はアメリカのためにも戦いますよ」と宣言するならば、米軍基地は撤廃していただいて、日本の国防自主権を確保するのが本来の姿です。勿論、中国や北朝鮮、ソ連の脅威に対応するため残ってもらうという議論はあっていい。しかし、集団的自衛権をめぐる議論に米軍基地の撤廃問題が出てこないのはおかしい。心理的対米依存の度が過ぎているのではないか。安保条約の根本に戻って考えてみる必要があると思っています。

 このままでは、日本の自衛隊がアメリカの尻馬に乗って、アメリカ軍司令官の指揮のもとに危険な場所に引っぱり出されるだけです。

 福井 既にドイツはそうなってしまいました。「テロとの戦い」で、アフガニスタンに派兵させられています。日本の、のらりくらりとした政策というか無政策のほうが巧妙かもしれません。

 西尾 海上自衛隊を給油のためだけにインド洋に派遣していたのは巧妙な作戦でした。

 福井 日本は、アメリカの押しつけた憲法の制約で集団的自衛権の行使が認められないと言い訳しています。これは極めて巧妙な政策です。認めたうえで「国益と合致しないから協力しない」というと角が立つので、今の不平等条約に基づく「永久占領」が続く限り、当面は「集団的自衛権行使を認めない勢力を無視できない」とかわし続ければいい。

 西尾 あと何年?

 福井 私が生きている間には独立した日本を見たいんですが。

 西尾 私の生きている間は無理ですか(笑い)。

 福井 それは分かりません(笑い)。

 西尾 先述したように複雑なトラウマを反映した行動原理、はた迷惑な宗教的使命感を持つアメリカですが、一方で、カウボーイ的な明るさもあります。

 大東亜戦争でアメリカと激烈に戦った日本人でしたが、終戦から二?三年が経つとアメリカ礼賛一色になってしまいました。私が中学生になった昭和二十三年、学校では「アメリカ研究」が始まりました。戦時中には「鬼畜米英」と言っていた国の素晴らしさを学ぶわけです。世の中もアメリカブームで、「ターザン」などのアメリカ映画が一世を風靡していました。青年たちが特攻隊としてアメリカの艦船に突っ込んでいったのはつい昨日のことですよ。なぜそこまで様変わりしたのか分からないほどの不思議な変化が日本にありました。

 昭和二十四年には大リーグのサンフランシスコ・シールズが来日し、戦後初のプロ野球日米親善試合を行いました。羽田空港では女優たちが出迎え、銀座ではパレードをして花吹雪が舞いました。アメリカチームはとにかく強くて、川上哲治はクルクルと三振するし、別所毅彦もボコボコに打たれた。唯一通用したのが、のちに横浜大洋やヤクルトの監督となった軟投派、下手投げの関根潤三です。  日本人はそれらを見て、こんなに強いアメリカ、明るいアメリカ、金持ちのアメリカとなんで戦ったかと、嘆くことしきりでした。そして戦争をした日本人は悪い、軍人は悪いと言い出して、特攻隊も国賊のように言った。アメリカは映画をプロパガンダの道具として使っていて、「明るく素晴らしいアメリカ」を描いた作品だけを流した。黒人や貧民街の映画は禁止して流さない。そして製作されたのが「青い山脈」(昭和二十四年)です。アメリカの民主主義なるものを賛美し、国民に「悪くて暗い封建主義の戦前日本よ、さようなら」という意識を刷り込んでしまった。

 不思議な危険と不思議な魅力をあわせ持つのがアメリカです。今でもそうです。野球の話をしましたが、現代日本のトッププレーヤーたちも大リーグを夢見て、大勢が海を渡ってプレーしています。一方で、日本が二連覇している野球の世界一決定戦「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)では、収益配分などをめぐって主催者の大リーグ側の横暴がまかり通っていて、日本プロ野球の若手選手たちが一時は二〇一三年の大会への参加を拒否するという行動をとりました。不正は絶対に許さないとがんばったあの態度は素晴らしいですが、アメリカの正体は野球にまで出てくる。厄介な相手だと思います。

 福井 やはり、関根の軟投のような「のらりくらり」戦術が有効なんですよ(笑い)。救済思想を抱えて「ワン・ワールド」オーダーを目指すアメリカへの現時点での対処法のヒントは、そこにあるのではないでしょうか。

 西尾 しかしそれは意図してうまくできるものではありません。戦術としてつねに成功するものでもありません。結果として辛うじて今まで無難ではありましたが、「のらりくらり」がイデオロギーになって硬直すると、スキを突かれて攻撃を受けるかもしれません。とにかくアメリカは、昨日の味方を今日はあっという間に敵にする危うさを持っています。アメリカの衰弱と下降は動かない大きな流れでしょうが、それだけにかえってどう変貌するか分からない未知のきわどさを感じています。

『正論』25年2月号より

(おわり)

プロフィール

 西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。第10回正論大賞受賞。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)、『GHQ焚書図書開封1?7』(徳間書店)。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第5回「ニーチェ」まで配本)。近著に『第二次尖閣戦争』(祥伝社、共著)、『女系天皇問題と脱原発』(飛鳥新社、同)。

 福井義高氏 昭和37(1962)年、京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。日本国有鉄道、東日本旅客鉄道株式会社、東北大学大学院経済学研究科助教授を経て、平成20年より青山学院大学大学院国際マネジメント研究科教授。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『鉄道は生き残れるか』『会計測定の再評価』(中央経済社)『中国がうまくいくはずがない30の理由』(徳間書店)、訳書にウィリアム・トリプレット著『悪の連結』(扶桑社)。

『正論』25年2月号より

(了)

「アメリカ観の新しい展開」(十四)

「大陸介入をことごとく邪魔した日本」(西尾)
「日本は『ワン・ワールド』を理解せず」(福井)

 西尾 太平洋を西へと拡大していったアメリカはフィリピン支配まではストレートに武力を行使しましたが、なぜ中国大陸を目前にしながら軍事侵略をしなかったのか。一つは、大陸には既にロシアやイギリスが入っていて、出遅れたということがあったでしょう。そこに割って入るために、国務長官のジョン・ヘイが「オープン・ドア(門戸開放)政策」を要求してもいます。  アメリカはここで屈折して足踏みしましたが、それでも改めて三つのコースから大陸に迫ろうとします。第一のコースは、満洲進出を手がかりとする北方コースです。アラスカ経由ですからロシアが邪魔で、日本を戦わせて抑えた。ところが、気がついてみると、満洲にはロシアの代わりに日本が居座ってしまった。それでもアメリカは満洲での投資をあきらめません。満洲をめぐる米英ソ、そしてドイツの駆け引きは、多くの史実として残されています。鉄道や橋、道路に投資をして、現地の人々から通行税をとる。これは確実に日銭が入ってきます。そして工場に投資をして、金利を吸い上げる。まさに経済侵略です。

 しかしこれも失敗に終わり、アメリカは第二のコースに乗り出します。この対談の第二回でも紹介しましたが、中国の中央部上海を中心とした文化侵略、教育侵略です。教会や学校を建て、そこを拠点に憎い日本の排撃を煽って日中離間を策しました。シナ人に日本の商品ボイコットをさせるなどし、満洲事変から支那事変に入るころには日本人が襲撃される事件も相次いでいました。

 排日にはイギリスも同調しましたが、ロシア革命後にはコミンテルンが煽動の主役になりました。そして、英米とコミンテルンは手を結んだ。私はその契機は一九三六年の西安事件だと考えています。そこで第二次世界大戦の構図が出来上がった。

 福井 確かに米英とソ連は、日本を叩きたいということで利害が一致していました。「ワン・ワールド」オーダーを目指すアメリカとしても、その邪魔になるイギリス、ドイツ、ソ連、そして日本のすべてを同時には敵にできず、順番に追い落とすことになります。まずは日独を蹴落とし、その過程でイギリス、大英帝国も没落させる。そして最後はソ連を蹴落として今がある、ということでしょう。

西尾 アメリカが第一と第二のルートで足踏みした後に目指したのが、フィリピン、グアムを拠点に、イギリスやオーストラリア、オランダと南太平洋で組んで、南から中国に入っていくという第三のルートです。いずれのルートでも最大の障害は日本であったわけですが、言うまでもなく第三のコースで日米衝突は決定的局面に至ることになります。

 だから、日本が戦争を始めたのではなく、アメリカが三つのルートから迫ってきて日本を排除しようとして大東亜戦争の開戦に至ったと私は理解しています。これも、従来の歴史学、歴史研究では言われていない視点だと思います。

 福井 ただ、アメリカが中国大陸に介入した理由として経済的動機が大きかったとよく言われますが、本当にそうでしょうか。そうした説明は当時もなされていましたが、実はアメリカにとって親中反日政策に経済的合理性はありませんでした。アメリカの実務家たちは「中国よりも日本との貿易のほうが儲かる」と主張していました。経済的には合理性のない極東政策だったわけです。

 西尾 確かにアメリカは大陸に膨大な投資をしたけれども、満足な利益を上げることができなかった。日本も、一九四〇(昭和十五)年に日米通商航海条約が廃棄されるまでは莫大な貿易量からして日米開戦はありえないと考えていました。経済的動機ではないとすると、アメリカを動かしていたのは別の使命感だということになりますね。

 福井 そうです。「ワン・ワールド」オーダーに照らせば、地域に覇権国が登場するのは困る。そこで日本を叩いたということだと思います。逆に中国が強すぎたら中国を抑えにかかる。今がそうでしょう。

 当時、日本が地域の覇権国になるのをあきらめて、アメリカのジュニアパートナーになると宣言していれば、戦争にはならなかったのかもしれませんが、第一次大戦前の欧州中心秩序の優等生「名誉白人」であった日本はそんなアメリカが理解できなかった。「ワン・ワールド」オーダーは、「バランス・オブ・パワー」、いわゆる勢力均衡による外交に対する革命ですから。

 西尾 日本の政治家や知識人には想像もできなかったでしょう。当時、わが国では「日本のモンロー主義」ということまで言われていました。「南アメリカは北アメリカのもの」というモンロー主義をアメリカが唱えるのであれば、アジアは日本が、アフリカはヨーロッパが管理するという形で棲み分けができると考えていた。しかし、実際にはアメリカはそういう棲み分けも「地域の帝国誕生は許さない」として認めなかった。

 福井 アメリカにも、国際法の泰斗ジョン・バセット・ムーアのように、極東の現状変更を否認したスティムソン・ドクトリンを批判し、日本の東アジアでの優位を黙認する識者もいました。しかし、ルーズベルト政権が日本の屈服を目的としていた以上、 それを真正面から受け止めた当時の日本人は戦わざるを得なかった。

 西尾 そうです。やるべきことをやったんです。立派だったんですよ、日本人は。  

 福井 今の日本人が「負けるに決まっていたのになぜアメリカと戦ったのか」と当時の日本人を批判するのは冒?です。例えばソ連がフィンランドを攻めたとき、フィンランドは負けるに決まっているのに戦った。しかし、そこでフィンランドは戦ったからこそバルト三国と違って戦後の独立を保った。それと同じだと思います。

『正論』25年2月号より

(つづく)

「アメリカ観の新しい展開」(十三)

「国内でも批判は高まっている」(福井)
「救済思想はニーチェも批判」(西尾)

 福井 スワードがアメリカ帝国主義の基礎固めを行ったという西尾先生の御指摘は、今年(二〇一二年)出たウォルター・スターによる本格評伝『スワード』の中心テーマになっています。 「救済する国家」論については、この対談の第一回で紹介しました。トゥーヴェソンという宗教思想史家が『リディーマー・ネイション(救済する国家)』という古典的著作で、アメリカの対外政策史は、「リデンプション・オブ・ザ・ワールド(redemption of the world)」、つまり世界を救済するというミッション、宗教的使命感に強く支えられてきた歴史であると指摘しています。

 今から半世紀前の一九五三年に初版が出た、アメリカ保守主義の古典的名著であるラッセル・カークの『保守の精神』(The Conservative Mind)にも「ニューイングランド」つまりアメリカ支配層は「他国の民を善導し、浄化するよう止まることなく誘(いざな)われてきた」とあります。

 さらに、トゥーヴェソンを高く評価し、同様の視点から第一次大戦参戦を描いたリチャード・ギャンブルの『正義のための戦争』(The War for Righteousness)がイラク戦争と前後して二〇〇三年に公刊されています。ピューリッツァー賞受賞者でもある歴史学者ウォルター・マクドゥーガルはこの本を絶賛し、こう言っています。「バンカーヒル[独立戦争時の著名な戦闘]からバグダードまで、アメリカの戦争は常に『神聖』であった。なぜなら、かつてのピューリタンから今日の世俗的リベラル、ネオコンサバティブそして福音派に至るまで、アメリカ人は自らの国を、必要ならば武力を用いてでも、世界を救済する使命を帯びた約束の地と思い込んでいるからである」。まさに西尾先生と同じ視点ですね。

 一方で、アメリカのオールド・ライトの人たちは、宗教的な救済思想や「ワン・ワールド」オーダーに対して批判的です。アメリカにも西尾先生と同じように考える勢力があるわけです。しかし、これまでのところは「浄化しようとする人々」が主導権を握り続けている。  西尾 ネオコンにみられるように、その勢力は強くなっていますね。  福井 ただ中東介入の最近の泥沼化を見て、リアリストと呼ばれる中間派の人たちからも、やりすぎだという批判が出てきています。

 西尾 批判はあっても、それを受けての抑制は戦争という手段にとどまっていて、金融という手段では逆に見境がなくなっていませんか。

 福井 金融の場合はアメリカというより、むしろ超国家的なユダヤ人ネットワークの影響も大きいのではないでしょうか。先の金融危機以降、中小商工業者を核とした一般国民を意味する「メイン・ストリート」と「ウォール・ストリート」の対立という構図での議論がアメリカでも盛んに行われています。  

  西尾 前回、全世界反ユダヤ主義監視法を紹介しましたが、彼らの影響はあらゆる分野に及んでいるように思えます。

 福井 アメリカのメディアや言論界では圧倒的な影響力を持っています。たとえユダヤ人の影響力に疑問を持っていても、私もそうですが小心者のインテリは怖くて声を上げられません。政治家として有能かどうかはともかく、人道主義者であることは確かなジミー・カーター元大統領ですら、パレスチナ人に同情的過ぎるとして、徹底的に批判されているのがアメリカの現状です。

西尾 一九六〇年代に世界を席巻した新左翼運動の教祖ともいえるヘルベルト・マルクーゼの影響を受けたリベラルたちが金融界に入り込み、現在の金融グローバリズムの原動力となっている金融工学というものを創り出した。やはりユダヤ金融資本とソーシャリズム、社会主義には親和性があるように見えます。実際、インターナショナリズムという点では同じでしょう。かつてのユダヤ人には国家がなかったから、ナショナルなものを否定する。わが日本もシングル・ネイションですから否定される。いま問題になっているTPPもそうですが、単一文化というものを認めない方向に国際情勢は動いているように思えます。

 福井 一方でユダヤ人国家イスラエルは現在、世界で最もナショナリスティックな国です。先生や私の立場は、お互いのナショナリズムを尊重し、それぞれの違いを認めてほしいという「相互主義」に尽きるのですが。

 西尾 そういうものでしょう。世界は、そもそも多様なんですからね。ところで、「ワン・ワールド」思想は、ブッシュ・ジュニア大統領のドクトリンである「プリベンティブ・ウォー」ともつながっていませんか。予防戦争、あるいは先制的自衛攻撃。

 福井 予防戦争という概念は、かつてドイツも対ソ戦で主張しました。その時は荒唐無稽な説として一蹴されたのに、アメリカならよいのですかと問いたいですね。世界赤化の意図とそれを裏付ける巨大な軍備を持ったスターリン相手でも「荒唐無稽」だとすれば、貧弱な軍隊しか持たず対米侵略など考えられない田舎独裁者サダム・フセインに対する予防戦争など実に悪い冗談です。なぜ、日本のリベラルと称する人たちは、ブッシュ政権首脳を東京裁判と同じ基準で裁けと言わないのか不思議です。  とにかくアメリカは、自分たちは常に正しく、勢力均衡が我慢できない。その点、世界赤化を究極目標としたソ連共産主義と同じです。

 西尾 そう、共産主義と精神的につながります。

 福井 一種のメシア的、千年王国的な特異な発想です。

 西尾 基本はキリスト教ですね。

 福井 ユダヤ教に先祖返りしたようなキリスト教と言えるかもしれません。その根底にあるのが救済思想です。

 西尾 それこそ、ニーチェが批判した思想ですよ。

 福井 ニーチェのキリスト教批判の対象はプロテスタントですよね。カトリックは地上で神の国を実現させようなどとは考えませんから、葬式仏教ならぬ結婚式キリスト教として、ニーチェにとっては無害だったのでしょう。

  西尾 ニーチェが救済思想を批判したのは、弱者が宗教的道徳を利用して権力者になろうとし、そこに虐げられし者が必要になるという構造があるからです。弱者は地上で満たされなかった権力遺志を天上で得ようとして救済の理念に走りますが、ニーチェは、そういう弱者を利用して強者になろうとしたり権力を得ようとしたりする人々を、最も賤しい人間、「賤民」だと厳しく批判しました。  カトリックとプロテスタントの違いは、いわば大人と子供の違いです。ヨーロッパ諸国の侵略は、動機が非常にはっきりしていました。奴隷が欲しかったのです。中世ヨーロッパは奴隷を否定していましたから、奴隷がいなかった。騎士道もありました。社会的弱者を擁護するのが騎士たちの義務であり、決闘でも相手を認め、勝者も敗者を許すのが一般的でした。それに対し、アメリカには中世がなく、奴隷を内に抱えている。騎士道もなく、勝者が敗者をとことんやり込め潰滅させるまで止めません。やり方が子供っぽいのは、プロテスタントが主流であることも影響しているかもしれません。

『正論』25年2月号より

(つづく)