今日沖縄は中国の海になった!(その四)

 私にとって今回の事件は「米中はさみ撃ちにあった日本」という悲劇なのだが、中国への反発と民主党政権への怒りばかりが保守系言論メディアを蔽っていて、本当の不安が見えてこない。いつものことである。

 日本は自力で起ち上らないといけない。背筋が寒くなるようなアメリカの冷淡さが認識できていないと、起ち上ることができない。あるいは中国の理不尽な行動がもっとエスカレートしないと今度も起ち上れないかもしれない。

 元編集者の加藤康男さん――工藤美代子さんのご夫君――が私の9月29日付の新聞記事をよんで感想を寄せて下さった。

 今朝の新聞正論を拝読、久しぶりに小気味のいい先生のお言葉で多少胸の鬱憤が晴れました。

日米安保の重要性を説く人は多くても、「安保とはその程度の約束である」と語る「正論」人はなかなかおられないので、いらつく毎日でした。

先生がおっしゃるように、まずは自衛隊が、いや、日本国民が中国と一戦交える覚悟を示さなければ、アメリカはおろか、誰も助けてはくれないのです。
自分の土地は自分で守るという覚悟が、今の日本人にはありません。おっしゃるように、占領政策にその起点はありました。日本人が初めから気概がなかったわけではありません。
今回のような事件が起きて初めて少しずつ目が覚めるのかも知れませんが、時間がかかりますね。

 レアアースの妨害が解消し、フジタ社員の4人のうち3人が解放され、中国側が折れてきた印象であるが、これは中国人船長の釈放の直接の結果とは限らない。中国がアメリカの顔を立てている面がある。国際非難も怖いのである。

 中国の海洋への膨張進出の基本政策は変わっていないから、やがてまた異常な事態が発生するだろう。沖縄内部への工作も着々と行われていると思う。沖縄のメディアの偏向は日本本土への恨みと反米感情のせいだとよくいわれるが、それだけでは決してないはずである。

 アメリカの睨みがそれなりに効いている差し当りの期間に、日本は起ち上らなければ間に合わなくなる。その思いは心ある私の知友には共通している。元自衛隊内局幹部の小川揚司さん――坦々塾会員――がやはり拙文に反応して次のように言ってきて下さった。

中国を増長させるだけでなく世界に大恥を曝した菅・仙谷政権の無様な対応に憤激が治まらぬ日々が続いておりますが、先生の日録と本日(9月29日)の産経新聞「正論」の御文章を拝読し、更に深刻に胸に迫りくるものを痛感しております。
 昨日(9月28日)の「正論」は佐々淳行氏の勇ましい文章でしたが、防衛庁の官房長や初代内閣安保室長を歴任された危機管理の第一人者にしては何とも甘い対策の提言であり、矢張り西尾先生の御洞察が最も冷厳に現実を見抜いておられるものと痛感致しております。
 
 自衛隊(軍隊)はシステムであり、そのトップに乗っかっているのが小心で蒙昧な菅某や北澤某である限りシステムは作動できません。尖閣への自衛隊の出動は訓練名目でも覚束なく、自衛隊が出るのか出ないのか中途半端にマゴマゴしていれば、それを口実に中国軍に機先を制せられて瞬く間に尖閣を占領される情景が目に浮かびます。
 日清・日露の戦役から大東亜戦争までを戦い抜き白人どもの心胆を寒からしめた日本人と、この体たらくの政権与党、その醜態にも激怒せず、まるで対岸の火事を見るような蓬けた数多の日本人と、国家観を喪失すると人間はここまで見事に劣化するものかと、悲痛な思いを反芻しております。

 昨夜は私は「路の会」で、衆議院議員の高市早苗さんをゲストにお招きした。自民党の内部の動きに期待していたが、私たちが外から見ている通り、谷垣総裁とその執行部には格段の大きな変化はないようなお話であった。

 たゞ高市さんは、大変に心強い良いことを数多くなさって下さっていることが分った。例えば「領土教育」の件。学校で領土に関する詳しい授業をする熱心な先生は職員室で孤立し、教材も少いし、困難にぶつかっている。高市議員がそういう先生の連帯を考えて、全国から呼び寄せている。東京にくる出張旅費がつくように取り計らうなど、孤立しがちな少数派の連繋に心をくだいている。

 また大変に感銘を受けたのは、議員立法を作定する能力をもつ数少ない議員のお一人である高市さんは、森林の水資源を外国人から守る法案の作成に目下精を出している。地下水はこれまでいかなる規制もされていないらしい。外国人が買ってはいけない土地を定めた古い外国人土地法のリニューアルも試みているそうである。

 ありがたいご努力である。われわれはこういう政治家と連繋していかなくてはならない。稲田朋美さん、山谷えり子さんといったわれわれがよく知る保守系三人は、互いに協力し合って戦って下さっているそうで、心強い。

 私は序でにいくつかのお願いをした。その中で高市さんが議員立法の対象になる、と言って下さったのは、神田の古本屋街から日本の古地図、清朝以来の海域の地図がなにものかに買い占められてほとんどなくなっている問題である。中国人や朝鮮人が札束をもって動いている。国立国会図書館の竹島の地図は破られてなくなっているそうだ。貴重な地図はマイクロフィルム化して、貸出し禁止にする議員立法を考えて下さるというお話に私は感銘し、勇気づけられた。本当にありがとうと申し上げたい。

 私のような人間は言葉でなにか言っても現実に反映しない。言論はむなしく、実行は遠い。高市さんのような方がいないと現実はなにひとつ変化しないのである。

 『歴史通』に出すと言っていた私の次の仕事は、『WiLL』(尖閣問題特集号10月14日発売)に掲載されることになった。25枚をすでに書き終えている。

今日沖縄は中国の海になった!(その三)

産経新聞【正論】欄より

 悲しき哉、国守る思想の未成育

 9月24日午後、中国人船長が処分保留のまま釈放される、との報を最初に聞いた日本国民は、一瞬、耳を疑うほどの驚愕(きょうがく)を覚えた人が多かったが、私も例外ではなく、耳を塞(ふさ)ぎたかった。日本政府は国内法に則(のっと)って粛々とことを進めると再三、公言していたわけだから、ここで中国の言い分を認めるのは自国の法律を否定し、自ら法治国家であるのをやめたことになる。尖閣海域は今日から中国領になるのだな、と思った。

 ≪≪≪アメリカ頼み、甘過ぎる≫≫≫

 まさか、中国もいきなり軍事侵攻してくるわけはあるまい、と大方の人が考えているが、私は、それは少し甘いのではないかと思っている。また、アメリカが日米安保条約に基づいて抑止してくれると信じている人も圧倒的に多いようだが、それは、さらに甘いのではないかと思っている。

 アメリカは常々、領土をめぐる他国の紛争には中立だとし、現状の実効支配を尊重すると言っている。だからブッシュ前政権が竹島を韓国領と認定したこともある。北方領土の範囲を最初に不明確に設定したのはアメリカで、日ソ間を永遠に不和のままに置くことが国益に適(かな)ったからだとされる。それが彼らの戦略思考である。

 クリントン米国務長官が23日の日米外相会談で尖閣に安保条約第5条が適用されると言ったのは、日本が実効支配している島だから当然で、それ以上の意味はない。侵略されれば、アメリカが直ちに武力行使するとは第5条には書かれていない。「自国の憲法上の規定及び手続に従って、共通の危険に対処するように行動する」と宣言しているだけだ。議会の承認を要するから、時間もかかるし、アメリカが「共通の危険」と思うかどうかは情勢次第である。

 だから、ジェームス・アワー元米国防総省日本部長は、日本が尖閣の主権を守る自らの決意を示さなければ、領土への正当性は得られず、竹島に対する日本の態度は悪い見本だと批判的である(9月24日付産経新聞朝刊)。

 言い換えれば、自衛隊が中国軍と一戦を交え、尖閣を死守するなら、アメリカはそれを精神的に応援し、事後承諾するだろう。しかし逆に、何もせず、中国に占領されたら、アメリカは中国の実効支配を承認することになるだけだろう。安保条約とは、その程度の約束である。日米首脳会談で、オバマ米大統領が尖閣を話題にしなかった冷淡さは、島嶼(とうしょ)部の領土争いに、米政府は関与しないという意思の再表明かもしれない。

 ≪≪≪善意に悪意でお返しされた≫≫≫

 そうであれば今回、わが国が、中国政府に対し何ら言論上の争いもせず、自国の固有領土たる理由をも世界に説明せず、さっさと白旗を揚げた対応は最悪で、第5条の適用を受ける資格が日本にないことをアメリカ政府に強く印象づける結果になっただろう。

 自分が善意で振る舞えば、他人も善意で応じてくれると信じる日本型ムラ社会の論理が国境を越えれば通用しないことは、近ごろ海外旅行をする国民には周知だ。中国に弱気の善意を示して強烈な悪意をもって報復されたことは、日本の政治家の未熟さを憐(あわ)れむだけで済むならいいが、国益を損なうこと甚大であり、許し難い。

 那覇地検が外交の領分に踏み込んだことは、多くの人が言う通り越権行為である。仙谷由人官房長官が指揮権発動をちらつかせて司法に圧力をかけた結果だ、と情報通がテレビで語っていた。それが事実なら、国家犯罪規模のスキャンダルである。検察官と官房長官を国会に証人喚問して、とことん追及することを要求する。

 
 ≪≪≪根本原因、占領政策にも≫≫≫

 日本の政治家に国家観念が乏しく、防衛と外交が三流にとどまる胸の痛むような現状は批判してもし過ぎることはないが、他方、ことここに至った根本原因は日米安保体制にあり、アメリカの、日本に攻撃能力を持たせまいとした占領以来の基本政策にある。

 講和条約作りを主導し、後に国務長官になるダレス氏は、アメリカが日本国内に基地を保持する所以(ゆえん)は、日本の自衛権に攻撃能力の発展を許さないためだ、と説明している。以来、自衛隊は専守防衛を義務づけられ、侵略に対してはアメリカの協力を待って排除に当たるとされ、独力で国を守る思想が育ってこなかった。日本に国防の独力をもっと与えようという流れと、与えまいとする流れとの2つがアメリカにはあって、日本は翻弄(ほんろう)され、方途を見失って今日に至っている体たらくを、中国にすっかり見抜かれている。

 しかし、アメリカも相当なものであり、尖閣の一件で、在日米軍の駐留経費の日本側負担(思いやり予算)を、大幅に増額させる方針を固めているという。

 日本は米中の挟み撃ちに遭っているというのが、今回の一件である。アメリカに攻撃力の開発を抑えられたまま、中国に攻撃されだしたのである。後ろ手に縛られたまま、腹を足蹴(げ)りにされているようなものだ。そして、今、痛いと言ってうずくまっている姿、それがわが祖国なのだ。嗚呼(ああ)!(にしお かんじ)2010.9.29

今日沖縄は中国の海になった!(その二)

 24日付の拙文「今日沖縄は中国の海になった!」は第一報を聞いただけで書いたもので、私は那覇地検の記者会見もまだ知らなかった。

 あれから土曜と日曜にかけて新聞・テレビ・ネット情報に接して、前後の状況はだいぶ分った。そしてそこでもう一度短い拙文を読み直したが、修正の必要は感じなかった。

 地方の一地検が口出しして外交を動かしたのは多くの人が言う通り越権行為である。仙石官房長官が指揮権発動をちらつかせて司法に圧力をかけた結果だということを情報通がテレビで語っていた。もしそれが事実なら国家犯罪規模のスキャンダルである。

 首相と外相の留守中のあわただしい決定であることに、政府の政治責任逃れの見え透いた芝居ともいえる一面がある。そんなことをしても政府の責任は末代まで免れないのだから、ばかげた子供っぽい措置といっていい。

 アメリカ政府からの暗示があったという説をなす人もいるが、本当の処は分らない。多くの人が今回の結末に怒っているし、余りに愚劣な政府なので、私の怒りも収まらない。

 差し当り三つのことを実行する。

(1) 産経新聞コラム「正論」欄に書く。
(2) 隔月刊誌『歴史通』10月9日発売号に書く。
    『WiLL』は出たばかりなので間に合わない。次の号では遅すぎる。
(3) 緊急出版『尖閣戦争――米中はさみ撃ちにあった日本』祥伝社新書(青木直人氏との対談本)11月2日刊行発売。対談は昨25日にホテルに6時間缶詰になってすでに完了。11月2日刊は精一杯のスピード出版である。

 以上はほゞ確定した予定だが、これから先のことなので、なんらかの変更ないし取り止めがあることもお含みいたゞきたい。

 以上(1)(2)(3)の仕事は全部、当日録の拙文「今日沖縄は中国の海になった!」の論旨に添うた内容であり、あの短い最初のモチーフを少しづつ拡大し、詳細にした内容となるであろう。

 新聞・テレビ・ネット情報に時間の許す範囲で当ってみたが、今後起こり得る軍事侵攻と安保条約の関係についてきちんと言及した発言はまだひとつもない。中国がこのところ肥大化した異常構造を呈していることを論じた発言は一、二存在したが、尖閣問題で日本が今度アメリカにしてやられていることを論及した発言は――軽く触れたものがほんの一、二あったが――全体としてまだまったく存在しない。

 (3) の対談本の副題が、青木さんと相談の結果、「米中はさみ撃ちにあった日本」であることに注目していたゞきたい。わが国はアメリカに攻撃力を抑えられたまゝ、中国に攻撃されているのである。後手に手足を縛られたまゝ、腹部を足蹴りされたのである。そして今、痛い!といってうずくまっている姿なのだ。

 今度も経済界がうろうろ動いて政府に圧力をかけたようだ。安倍元首相の靖国参拝阻止にも複数の経済人が手を変え品を変え働きかけていたいきさつは、拙論「トヨタバッシングの教訓」(拙著『日本をここまで毀したのは誰か』草思社所収)において初めて証拠をあげて追及している。

 経済人は外交に口出しするな。今、ファシズム化した中国という相手は甘っちょろい日本の企業家の手に負えるしろものではない。私は敢えていうが、中国は怒涛のごとくわが国にあの手この手で襲いかかってくるだろうが、その方がむしろ良いと思っている。

 日本政府も経済界もきりきり舞いするがいい。アメリカはリップサービスはするが、助けてはくれない。日本はうんと苦しむがいい。苦しみが余りにも足りなかった。初めて正念場に立たされる、そういう秋が来なくてはいけなかったのだ。

今日沖縄は中国の海になった!

 24日午後出先で聞いた。尖閣で取調べを受けていた中国人船長がなにもなしで釈放される、とのことであるが、テレビのニュースはまだ見ていない。

 ほとんど信じられない話である。中国の言い分を認めたわけだ。尖閣海域は今日から中国領になったのだ。日本政府は日本の法律に従って粛々と進めると公言していたのだから、今日、自国の法律を否定し、法治国家であることを止めたわけである。

 中国は沖縄全部が中国領だとすでに言っているので、着々と手を打つだろう。尖閣を軍事占領することはあるまいと考えているとしたら、それは甘い。アメリカが安保条約に基いて抑止すると考えているとしたら、さらに甘い。

 安保条約は、領土をめぐる他国の紛争にアメリカは中立だと言っている。実効支配を承認すると言っている。軍事力行使はアメリカ憲法に基いて議会の承認を得る必要があると言っている。

 自衛隊が中国軍と一戦を交え、尖閣を死守するなら、アメリカはそれを精神的に応援し、事後承諾するだろう。安保条約とはその程度の約束である。

 今日は沖縄が中国の海になることを日本が認めてしまった日なのだ。何をされても忍従し、何でもありの平和主義はじつは最後に戦争になるのである。

西村幸祐氏の新刊

 西村幸祐さんが新刊を出された。今日9月22日が店頭発売日だそうだ。私が推薦文を寄せている。表紙と推薦文は次の通りである。

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最近知らぬ間にある言葉が使えなくなり、魂が管理され、数年前まで普通だった「考え」が無意識のうちに統制される恐ろしさが感じられる。昔はアメリカ占領軍の、今は特定アジア(中国・韓国・北朝鮮)の工作に、NHK・朝日・日経などメディアの中枢、大手のテレビが連動し、日本国民を麻痺させている。西村氏はすぐに忘れられる日々のニュースの連続する底流から矛盾を見抜き、日本の主権侵害への国民の無関心とメディア関係者の道徳心の麻痺に憤りをにじませる。そしてメディアが構造的に現実を捉えられないことを明らかにした。この儘いけばわが国の独立は間もなく危ない。本書は現代史を書く人にとって将来、資料の宝庫と見られるに違いない。

 目次もついでに紹介しておく。

【第一章】状況としての民主党政権
●民主党政権とメディア・コントロール──菅談話への道と隠された権力維持装置
●『1Q84』でなく『一九八四』の世界を迎えた日本
●中川昭一氏の死。誰が「政治」を殺したのか?
●報道されない亡国法案――外国人参政権は氷山の一角、夫婦別姓と「国会図書館法改正法案」を見逃すな
●メディアの暴力と弁証法的民主党解党論──旧体制(アンシアン・レジーム)からの脱却と変革の時代へ

【第二章】混迷する北東アジア情勢
●捏造・改変なんでもあり! やっぱり変わらない韓国メディアの「反日無罪」
●韓国滅亡へ導く「トンマッコル症候群」
●戦後日本の鏡、「人間動物園NHK」
●かつて世界を愛した日本と、NHKの犯罪
●毒餃子テロと「媚中地球儀」。二十一世紀冊封体制の構造
●横田滋・早紀江夫妻の三千八百日の闘い──「諸君!」で読む、横田夫妻五年間の軌跡

【第三章】メディアの暴走
●情報統制と報道テロリズム
●米国製・反日映画「南京」誕生の舞台裏──日本の 〈情報力〉は反日プロパガンダに対抗できるか?
●反日スプリンクラーとして歪曲・偏向報道を世界に撒き散らす、ニューヨークタイムズ東京支局
●亡国の防大校長、五百旗頭真
●日本人に問われている国のカタチ
●なぜ、日本人は記憶喪失になったのか?

【第四章】メディア症候群
●〈慰安婦〉情報戦争の真実──反日ファシストたちの情報ロンダリング
●反日プロパガンダと日本の情報発信力
●〈いま・ここ〉 にある危機
●メディアの自殺――ネット言論の可能性と「WEB3・0
●情報戦争としての「靖国問題」 特別収録
●メディアの解体(『反日の構造』PHP研究所より)
 あとがき

 尚、この本を、アマゾンで買った人には西村さんと私との1時間の自由対談をネットで見ることのできる特典が与えられる。私はスタジオでそのために彼との1時間の対談をした。新手の売り方のようだ。こういう遣り方があるとは知らなかった。

 ネット世界の若い読者が私との対談などに興味を抱かないだろう、と私が担当編集者に言ったら、いえそんなことはありません、ネット世界の若い読者に「日録」は広く知られていて有名なんです、との答えをいたゞいた。さて果して本当だろうか。

 当「日録」の管理をして下さっている長谷川真美さんのブログ「セレブな奥様は今日もつらつら考える」9月20日付に西村さんのもうひとつ別の本が紹介されている。『歴女が学んだホントの歴史』というのだそうである。私はこの本は見ていない。

 長谷川さんはブログの中で「西村幸祐氏は日本人大好き人間達に、ネットという武器を自覚させてくれている。いい仕事していますねぇ。」と応援の弁を語っている。

 ネットはたしかに私の生活からも切り離すことができなくなっている。私にネットの手ほどきをしてくれたのが長谷川さんだが、西村氏からも教えていたゞいている。

 ネットは情報と検索の二面で私をすでにとりこにしている。しかし、そのために毎日相当に時間をとられ、本が読めなくなっているのは苦痛でもある。私はあまり器用な人間ではないのである。

メディア症候群 メディア症候群
(2010/09/22)
西村幸祐

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『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(四)

 8月24日付の本欄で、内田博人氏が各種の「国体」論の真贋を私が区別して、ひとつひとつ善し悪しを吟味して論じている、と評価して下さったことに、私が格別の感謝の念をもったと記したことを覚えていて下さるだろうか。現代の思想書を論じるのなら、個別に善し悪しを吟味するのは当り前である。だが、昭和10年代の思想書となるとこれまで必ずしもそうはならなかった。

 戦後ずっと昭和10年代の本、ことに「国体」論は全体をひっくるめて否定されてきた。その存在すら認められてこなかった。ひとつひとつを吟味する前に、どれも全部吟味に値しないものとして相手にされなかった。ところが最近少し風向きが変わってきた。

 例えば佐藤優氏が今年『日本国家の神髄』を出して、昭和12年文部省刊の『國體の本義』を、一冊をあげて紹介論及した。氏が雑誌連載でこの本のことを取り上げる前か、ほゞ同時期に、私も『國體の本義』をテレビで論及していたのだが、氏の『日本国家の神髄』の方が私の『GHQ焚書図書開封 4』より、半年ほど早く刊行された。

 佐藤氏の著書は「禁書『國體の本義』を読み解く」という副題がついていて、闇に葬られていた戦前の「禁書」をどこまでも肯定的に取り上げているのに対し、私は幾冊もの「国体」論の中の一冊として『國體の本義』を扱い、同書の善い面と悪い面、私からみて評価に値する面と一寸おかしいのではないかと批判した面、この両面を提示した。

 批判したのは同書の「和」と「まこと」の概念の甘さと、鎌倉時代と江戸時代の評価の歪みに対してであった。私の批判の内容が正当か否かは今ここでは問わない。今まで全体としてひっくるめて否定されてきた昭和10年代の「国体」論を、佐藤氏のように今度はトータルに肯定的に扱うのは、無差別、無批判という点で同じことになりはしないかと私は怪しむのである。

 今まで真っ黒だったものをこれからは真っ白に扱うことにためらいを持つべきである。さもないと扱いとして今までと同じことになりはしないか。一冊一冊の「国体」論にはいいものもあれば、バカげたものもある。代表的な国体論である『國體の本義』の内容そのものにも、納得のいく論点もあれば、異様に感じられる論点もある。それは当然であろう。われわれが現代の普通の論著を扱うときの平常心は、戦前の「禁書」を前にしても失ってはならないと私は考えるのである。

 しかしじつは単にそのことが言いたいのではない。そこから歴史に対する大切な問題が立ち現われるとみていい。私は「あとがき」にこう書いた。

「戦前が正しくて戦後が間違っているというようなことでは決してない。その逆も同様である。そういう対立や区分けがそもそもおかしい。戦前も戦後もひとつながりに、切れずに連続しているのである。」

 どうもそのことがすっかり忘れられているように思える。それは戦後の思想、戦後を肯定している戦後民主主義風の思想だけでは必ずしもなく、戦後をしきりに否定してきた保守派の戦前懐古調の思想の中にも宿っている決定的欠陥であるように思えてならないのだ。

 「あとがき」に私はこうも書いた。

「戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想家の多くは、とかくに戦後的生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前の日本に立ち還っていない。」

 小林秀雄、福田恆存、三島由紀夫は私が私の人生の門口で歩み始めたときの心の中の師範だった。この人たちを論じることで私は私の人生の起点を形づくった。

 しかし私も75歳に達し、彼らとほゞ同じ時間を生き長らえてきた。加えて、日米関係は大きく変わり、日本をとり巻く国際環境は戦前のそれに近づいてきた。上記三人は戦後的生き方を的確な言葉で批判してきたが、三人の立脚していた戦前の足場は語られることなく、今の私たちからは今ひとつ見えない。深く隠されている。

 だから必ずしも単に彼らのせいではなく、彼らの言葉は戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていないように思えることがままある。

 つまり、こうだ。「あとがき」に私はこうも書いた。

「戦争に立ち至ったときの日本の運命、国家の選択の正当さ、自己責任をもって世界を見ていたあの時代の『一等国民』の認識をもう一度蘇らせなければ、米中のはざまで立ち竦む現在のわが国の窮境を乗り切ることはできないだろう。」

 小林、福田、三島の三氏の言葉が戦後の私を導いてくれたのは紛れもないが、今となってはなにか遠いのである。「戦争に立ち至ったときの日本の運命、国家の選択の正当さ」を三氏は決して明らかにしてくれてはこなかった。明らかにしてはならなかった戦後的状況に、三氏はバランスよく合わせて、その範囲の中で、つまり「戦後的価値観」で「戦後を批評する域」にとどまっていたように思えてならないのである。

 時代は急速に動いているのである。私はそれを敏感に感じとるレーダーをまだ失ってはいない。生きている限り失いたくないと思っている。

チャンネル桜出演のお知らせ

番組名:「闘論!倒論!討論!2010 日本よ、今...」

テーマ  :「民主党代表選とこれからの日本」Part②

放送予定日:平成22年9月18日(土曜日)
       20:00~23:00
       日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
       インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)

パネリスト:(50音順敬称略)
      宇田川敬介 (国会新聞社編集次長・ジャーナリスト)
      塚本三郎  (元衆議院議員・元民社党委員長)
      土屋たかゆき(東京都議会議員)
      西尾幹二  (評論家)
      山田 宏  (日本創新党代表)
      山村明義  (ジャーナリスト)
      山本峯章  (政治評論家)
      

司 会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

講演会のお知らせ

 今年が日米安保条約改定50周年に当たることから現代文化会議を主宰し、坦々塾のメンバーでもあります佐藤松男さんが9月18日に「日本の安全保障を考へる」講演会を開催するとのことです。

 講師には、外務省国際情報局長、駐イラン大使等を歴任し、話題の書『日米同盟の正体』を著した孫崎 享氏です。

 孫崎氏は、最新刊(9月10日発売)の『日本人の為の戦略的思考入門』の中で「自ら守る事を考えず、対米協力の在り方だけは充実させる。残念ながら、これが今日の日本の防衛政策である」と、今日支配的である対米追従的防衛論を根底から批判しております。

 私はこの一文を読み、孫崎氏の考えに大変興味を持ちましたので、この講演を聴きに行こうと思っております。日時、会場等は下記の通りです。

               記

日時 平成22年9月18日(土) 午後2:30開演(会場は30分前)

会場 ホテルグランドヒル市ヶ谷(JR市ヶ谷駅 歩3分)

講師 孫崎 享

演題 「日本の安全保障を考える-日米安保条約改定50周年にあたつてー」

会費 2000円

申込み方法:電話又はメールで事前予約

      電話 03-5261-2753

      E-Mail bunnkakaigi@u01.gate01.com (住所、氏名を明記)

主催 現代文化会議(新宿区市谷砂土原町3-8-3-109

『GHQ焚書図書開封 4』の刊行(三)

 『諸君!』終刊号の編集長であった内田博人氏から贈本に対する丁寧な礼状をいたゞいた。私には嬉しい内容であったので、ご承諾を得て掲載する。

 どこが嬉しかったかというと、各種の「国体」論者の「真贋」を私が弁別して書いたという処である。「その善悪両面を公平な視点で浮き彫りにされた」とも記されている。たしかにそこがポイントである。

 また文中に319ページという指摘があったので、そこを抜き書きする。岸田秀氏との対談というのは日米の歴史について岸田氏と一冊の対談本を出すことを指す。対談は8月16日、18日に8時間かけて修了した。

謹啓
 酷暑の日々がつづきます。過日は「GHQ焚書図書開封」の第四巻をお送りいただき誠に有難うございました。夏休み中に一気に拝読。多くの示唆に満ち、シリーズ中の、もっとも重要な一巻となるのではないかと感じました。

 思想家の真贋を明快に弁じて文藝批評の本領を示される一方、大衆的な作風で知られる山岡荘八や城山三郎氏の作品を対象にえらばれたのは、意外かつ新鮮な印象でした。

 戦後社会のなかで、まったく忘れ去られていた「国体」の一語をよみがえらせ、その善悪両面を公平な視点で浮き彫りにされた、きわめて意義のふかいお仕事と存じます。

 319頁のご指摘にあるように、国体意識は戦後、正当な歴史的地位をあたえられることもないまま、日本人の無意識の底に追いやられてしまいました。憲法論議における退嬰も、対外的な弱腰も、俗耳になじみやすい網野史観の横行も、結局は、名をうしなった国体論がもたらす厄災の諸相ではないでしょうか。岸田秀氏との対談ではぜひ、このあたりを議論していただきたく存じました。

 国体意識の名誉挽回が、戦後的迷妄を乗り越える、ひとつの突破口になるのではないか、とかんがえます。

 今年後半も刊行のご予定が目白押しで、ご多忙な日々がつづくことと拝察します。何卒ご自愛ご専一にお願いいたします。

 少々涼しくなりましたら、一献、ご一緒させていただければ幸いです。

 略儀ながら書中にて御礼のみ申し上げます。 
              

敬具

平成22年8月17日      

文藝春秋 内田博人

西尾幹二先生

 敗戦を迎えて国家体制が崩壊し、国体という観念は一挙に過去のものとなってしまいました。万世一系の天皇を中心とする国体観念を疑ってはならないとするタブーも、消滅してしまった。だから「天ちゃん」「おふくろ」「セガレ」という呼称も生まれたわけですが、では、かつての日本人が当然のごとく信じていた認識はどうなってしまったのか。みんなが杉本中佐の本を買って一所懸命に読んだ当時の意識はどうなってしまったのでしょう?まったく消えうせてしまったのだろうか?それとも無意識の底に温存されているのでしょうか?

 そのあたりの問題を整理しておく必要があります。国体論のどこが良くてどこが悪かったのか。杉本中佐の思想は単純きわまりないものだったけれども、あれがなぜ広範囲に受け入れられたのか。戦後、そうした吟味はなされたでしょうか。

 徹底した自己検証も行わないまま、単純に「軍国主義」というレッテルを貼って片づけちゃったのではないでしょうか。じつは、「軍国主義」という単純な言葉で否定して後ろを見ない姿勢は城山さんの『大義の末』にも当てはまります。しかし、後ろを見ないということは、かえってたいへんな問題を残すのではないかと思います。本当の意味での克服にならないんじゃないか。「軍国主義」という言葉でばっさり片づけてしまうと、自分の国の宗教、信条、信念、天皇崇拝‥…といったものを他人の目で冷やかに眺めるだけで終わってしまいます。あの時なぜあれほどにも日本の国民が戦いに向かって真っ直ぐに進んでいくことができたのか、という動かしがたい事実がそっくりそのまま打ち捨てられてしまう。その結果として何が起こるかといえば、“別のかたちの軍国主義”が起こるかもしれません。

 国体論でもファシズムでも、これをほんとうの意味で克服するには外科医がメスを入れるような感覚で病巣を切除するだけではダメなのです。――日本人がなぜ国体論に心を動かされたのか。われらの父祖が天皇を信じて戦ったという事実に半ば感動しつつ、半ばは冷静に客観化するという心の二つの作用をしっかりもって考えていかないといけない。真の意味での芸術家のように対応しなければいけないと思います。

 簡単にいえば、ある程度病にかからなければ病は治せないということです。そうしないと問題は一向に解決しない。病は表面から消えても、歴史の裏側に回ってしまう。それは、ふたたび軍国主義がくるという意味では必ずしもなくて、たとえば「平和主義」という名における盲目的な自家中毒が起こることも考えられます。否、すでに起こっています。今度もやはり自分で自分を統御することのできないまま「平和」を狂信して、自国に有害な思想をありがたがって吹聴して歩いたり、領土が侵されても何もせず、国権を犯す相手に友好的に振る舞ったり、国際的に完全に孤立してバランスを崩し、最終的に外国のために、日本の青年が命を投げ出すようなバカバカしいことが起こらないともかぎらないのです。

 繰り返しになりますが、ある程度病にかからなければ病気は治せません。どこまでも他人事(ひとごと)であれば、ほんとうの意味での病を治療し克服することはできないのです。

『GHQ焚書図書開封 4』P319~321

残暑お見舞い申し上げます

 「日録」の読者の皆さん、今年の夏は本当に格別に暑い夏でした。そして今も暑さはつづいています。いかゞお過ごしですか。

 私は5月~7月にかけて仲小路彰の『太平洋侵略史』全6巻を読んで解説(80枚)を書く仕事と、拙著『GHQ焚書図書開封 4』を刊行することで大わらわでした。前著『日本をここまで壊したのは誰か』の主要論文は2月から4月にかけて書きましたので、そのあとひきつづき休息がありませんでした。「日録」の更新も思うにまかせませんでした。

 その間内閣は変わり、日本経済の行方に黄ランプが灯り、気力のない国民の不甲斐のなさが八方で論じられています。菅内閣の「謝罪マニア」ぶりが気分を重くしています。そして8月の恒例の終戦をめぐるテレビ放映をみました。

 チャンネル桜の水島さんがご自身のニュース解説の時間帯に30分、以上のような日本の今の状況についてどう考えているかを語ってほしいといわれ、8月19日夜放映されました。

 ここに同社の許可を得て私の動画画面をご紹介することで、残暑お見舞いに替えさせていたゞきます。