全集第16巻『沈黙する歴史』の箱の帯の文章

私は12月中ごろに全集第16巻の『沈黙する歴史』を出します。全集編集部から文中より選ばれたなにかいい言葉があったら、箱の帯に用いたいので、といわれて、以下のイからトまでの七つの短文を本文のテキストから拾い出しました。実際に用いられたのは最初の四つでしたが、ここでは七つ全部をご紹介しておきます。これらの短文集で「沈黙する」歴史という言葉の意味はお察しいただけるでしょう。

イ 今はもう終わった自分の戦争を是認することと、未来の戦争一般を忌避することとは、少しも矛盾しない。(62ページ)

ロ 終戦の日から二週間たってなお、日本の新聞は公然と「戦意」を表明していた。(69ページ)

ハ たいていのことに関し米国に調子を合わせ利益を損なうようなへまをしない戦後日本が、「謝罪問題」にだけはこだわり、抵抗するのはなぜだろうか。平成七年夏の戦後五十年国会謝罪決議に五百万人もの反対署名が集まったのはなぜだろういか。(77ページ)

ニ われわれはたしかに戦争をした。しかしなぜ戦争もしたと考えることができないのだろう。(97ページ)

ホ あらゆる国が自国の利益を第一にしている。「自存自衛」のために戦うのが戦争の第一目的であって不思議はない。さりとて他方、日本が「アジア解放」という戦争目的を心に秘め、一部にそう公言して戦ったことも紛れもない事実なのだ。そこには当然、二重性がある。戦後の日本人がおかしくなったのは、この意識の二重性を失ってしまったことである。(96ページ)

ヘ 過去の行為の間違いを正すことにおいて、現在の人間は果てしなく自由であるが、現在の行為の間違いを正すことに、それがほんの少しでも役立つと考えるのは、ほろ苦い自己錯誤であろう。(186ページ)

ト 日本人は戦闘に負けたが、戦争に負けたわけでは必ずしもない。その自覚が戦後なおつづいている間はまともだったが、戦勝国が占領政策を通じて仕掛けてきた功名で粘り強い戦後における戦争にやがて敗れることになるのである。」このほうがずっと影響は大きい。(71ページ)

目 次
序に代えて 歴史には沈黙する部分があり、沈黙しながらそこから声を発している

Ⅰ 沈黙する歴史
歴史は道徳の課題ではない
限定戦争と全体戦争
不服従の底流
日米を超越した歴史観
『青い山脈』再考
日本のルサンチマン
ニュルンベルク裁判の被告席に立たされたアメリカ
焚書、このGHQの思想的犯罪(講演)
全千島列島が日本領

Ⅱ 世界史の中に大東亜戦争を置いて見る
日本人の自尊心の試練の物語
日本人は運命の振り子を自ら動かせたか
二つの世界大戦と日本の孤独
オレンジ計画について
イラク戦争が「人道への罪」を変質させた
そもそも「世界史」は存在しない

Ⅲ 内と外からの日本の幽愁
あらためて「終戦の日」に思うこと(二〇〇〇年八月十五日)
日本人が敗戦で失ったもの
「第二占領期」に入った日本
健全な民主主義は権力の集中を必要とするワイマル時代のドイツと今の日本
日本人の自己回復(講演)
中国の無法と米国の異例な法意識
一〇〇パーセントの「反米」も一〇〇パーセントの「親米」もない
『沈黙する歴史』新版まえがき(二〇〇七年)

Ⅳ 台湾の精神的自立を信じればこそ
わたしの台湾紀行
「わたしの台湾紀行」補説

Ⅴ 公開日誌(二〇〇二年七月十五日~二〇〇三年五月十八日)私は毎日こんな事を考えている
Ⅰ ノルウェーの森と峡江フイヨルド
Ⅱ みかんの花咲く丘
Ⅲ 「小泉訪朝」終日テレビ・ウォッチング
Ⅳ 韓国人の対日観は変わるのか
Ⅴ 拉致家族五人の帰国とその後
Ⅵ 嗚呼、なぜ君は早く逝ったのか
Ⅶ 日日是憂国
Ⅷ 元旦・朝まで生テレビに意味ありや
Ⅸ アメリカ政府に問い質したきこと
Ⅹ 靖国会館シンポジウムでの私の発言
ⅩⅠ クラウトハマーとブキャナンとイラク戦争
ⅩⅡ 世界は安定を捨て次の局面に入った
あとがき

Ⅵ 「路の会」合同討議 日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか
第一章 「静かなる敗戦」の衝撃
大島陽一 井尻千男 高森明勅 遠藤浩一 尾崎 護 田中英道 西岡 力 宮崎正弘
片岡鉄哉 小浜逸郎 藤岡信勝 黄 文雄 萩野貞樹 西尾幹二
第五章 失われた「国家意識」
萩野貞樹 小浜逸郎 宮崎正弘 田中英道 藤岡信勝 東中野修道 小田村四郎 
黄 文雄 高橋史朗 西尾幹二

追補一 『沈黙する歴史』解説(徳間文庫)・西岡 力

追補二 『沈黙する歴史』解説(WAC文庫)・高山正之

追補三 富岡幸一郎・西尾幹二対談 林房雄『大東亜戦争肯定論』をめぐって

後記

お知らせ

「坦々塾 秋季特別研修会」を、11月26日(土)に、四ツ谷地域センターにおいて、下記の要領で開催することとなりました。
 皇室・宮中祭祀等に関する研究の第一人者とされ(葦津珍彦先生の没後の門人でもある)斎藤吉久先生をお招きし、「今上陛下の「譲位」の思召し、その御真意と国民の責務」と題してご講演をいただき、質疑応答・相互の意見交換をいたします。お一人でも多くの皆様のご参加をご期待申し上げます。

 また今回は、一般(非会員)聴講希望者のお席も「30席」設けて、先着順にご参加を申し受けます。是非奮ってご参加下さい。
 そして、研修会終了後に、近傍のホテルで、講師斎藤先生と西尾先生を囲んでの懇親会も開催いたします。(一般聴講者のご参加も歓迎いたします。)

 以上、会員の皆様、一般聴講者の皆様の奮ってのご参加とご高論を大いにご期待申し上げます。

1.研修会・懇親会の日時・会場
(1)研修会 日 時 : 11月26日(土)16:00~18:45 (受付: 15:30~)
  16:00~16:30 挨拶・講話(西尾幹二先生)
  16:30~18:00 講 演(斎藤吉久先生)
            18:10 ~18:45 質疑応答・相互意見交換
(2)会 場 : 四ツ谷地域センター12階 「多目的ホール」
(東京メトロ 丸の内線「新宿御苑前」下車 徒歩5分 )
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(3)懇親会 日 時 : 同日 19:00~21:00
会 場 : ホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷
(四ツ谷地域センターから 徒歩5分 アクセス 別添)

(4)会 費: 研修会 1.000円  懇親会(立食パーティー) 6.000円
 
(5)お申込み: 「研修会・懇親会ともに出席」 又は 「研修会のみ出席」をご明記の上、11月25日(金)までに、事務局(小川)(℡ : 090-4397-09087 FAX:03-6380
         -4547  E-mail : ogawa1123@kdr.biglobe.ne.jp) までお申し込み下さい。
(ただし、一般聴講者の皆様につきましては、30席受付が満員となり次第 〆切とさせていただきます。)

                       西尾幹二坦々塾事務局 小川揚司 拝

 追 伸 : 恒例の坦々塾新年会(西尾先生のご講演と懇親会)を、来年1月21日(土)午後に、水道橋の「内海」で開催する予定でおります。詳細につきましては、西尾先生の
 「年頭メッセージ」に添付させていただきますが、先ずは斯く予告申し上げます。

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オバマ広島訪問と「人類」の概念(二)

戦後を代表する評論家の嘘

 加藤周一といえばすでに他界されて久しく、死者に鞭打つつもりはありませんが、戦後を代表する最も知的な評論家として国語の教科書にも掲載され、高い評価を得ている人です。ベルリンの壁が落ち、ソ連が消滅した冷戦の終結時に、共産主義をなんとなく応援していた人はあれこれいろんなことを言ったものです。加藤氏も「資本主義が勝ち、社会主義が失敗したわけではないと弁明し、「解体しつつあるのは、スターリン型の社会主義である」と限定し、その後、とんでもない発言をしているのです。

 「政治的には政権交代の制度化において、あきらかに西欧や北米が先行し、ソ連・東欧・中国・日本がはるかに後れていた。ソ連や東欧は今その後れをとりもどそうとしているが、東北アジアの将来は、あきらかでない。1990年1月現在の日中両国には、一党支配が続いている」(連載「夕陽妄語」『朝日新聞』1990年1月22日)

 これも「体制の相違」ということがまったく分かっていないか、または分かっていないふりをして日本の政治を嘲弄しようとしているのです。私は反対意見として、次のひとことを呈しておきました。

 「日本と中国の『一党支配』が原理を異とする、別次元の性格のものであり、この点で氏のように、『ソ連・東欧・中国・日本』と並べるわけにいかないことは、加藤氏よ、13歳の中学生でも弁えている現実である。かつて知性派と目された評論家が、こういう子供っぽい出鱈目を書いてはいけない」(「ロシア革命、この大いなる無駄の罪と罰」『新潮45』1990年3月号)

 この時点で、加藤氏はもちろんご存命でした。

 加藤氏の間違いは、議会制民主主義の上に成り立つ西欧の民主社会主義と一党独裁と私有財産権否定のソ連・東欧・中国のマルクス=レーニン主義とは似て非なるものであり、」完全に原理を異とした別個の体制であって、両者の間に明確な一線を引かなくてはいけない、という最も初歩的な「体制の相違」という観点を曖昧に誤魔化していることです。

 そして、後者が完全に破産していること――すなわちロシア革命の失敗!――から目を逸らすために、西欧の民主社会主義にあくまで「本物の社会主義」を追い求めることで、マルクス=レーニン主義を救えるかのような、少なくともこれを奈落につき落とさないでも済むかのような幻想に取り縋っていたことです。

 いまの日本ではようやくそういう幻想は消えたかもしれませんが、習近平の中国が克服さるべき「スターリン型の社会主義」であることは、どこまで明敏に意識されているでしょうか。「日中両国の一党支配」を一つに見立てるというような、国民の99%が首を傾けるに違いない言葉が大新聞の文化欄に載ったのも、日本人に特有の知覚の欠陥に由来することでなくて何でありましょう。

つづく

Hanada-2016年7月号より

オバマ広島訪問と「人類」の概念(一)

(一)

わが目を疑った新聞記事

 日本人が外の世界を見る眼には、一種の知覚の欠陥に由来するような何かがあるのではないかと思うことが何度もあります。そういえば、日本人を褒めるのがやたら流行っている昨今の情勢では、何を?と目を剥いて叱られそうな雲行きです。

 で、はっきり証拠の出ている少し以前の話を致します。2002年9月の小泉首相の電撃訪朝により、同年10月15日に蓮池さん、地村さん、曽我さんが帰国され、彼らを北朝鮮にいったん戻すか否か、彼らの子供の帰国をどうするか等がしきりに論じられたときのことです。

 まずは、2002年10月末から11月にかけてのお馴染みの朝日新聞投書欄「声」からです。

「じっくり時間をかけ、両国を自由に往来できるようにして、子どもと将来について相談できる環境をつくるのが大切なのではないでしょうか。子どもたちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」(10月24日)

「彼らの日朝間の自由往来を要求してはどうか。来日したい時に来日することができれば、何回か日朝間を往復するうちにどちらを生活の本拠とするかを判断できるだろう」(同25日)

 そもそもこういうことが簡単にできない相手国だから苦労していたのではないでしょうか。日本政府が五人をもう北朝鮮には戻さないと決定した件については、次のようなオピニオンが載っていました。

 「24年の歳月で築かれた人間関係や友情を、考える間もなく突然捨てるのである。いくら故郷への帰国であれ大きな衝撃に違いない」(同26日)

「ご家族を思った時、乱暴な処置ではないでしょうか。また、北朝鮮に行かせてあげて、連日の報道疲れを休め、ご家族で話し合う時間を持っていただいてもよいと思います」(同27日)

 ことに次の一文を呼んだときに、現実からのあまりの外れ方にわが目を疑う思いでした。

「今回の政府の決定は、本人の意向を踏まえたものと言えず、明白な憲法違反だからである。・・・・憲法22条は『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない』と明記している。・・・・拉致被害者にも、この居住の自由が保障されるべきことは言うまでもない。それを『政府方針』の名の下に、勝手に奪うことがどうして許されるのか」(同29日)

 常識あるいまの読者は、朝日新聞がなぜこんなわざとらしい投書を相次いで載せたのか不思議に思うでしょう。あの国に通用しない内容であることは、おそらく新聞社側も知っているはずです。承知でレベル以下の幼い空論、編集者の作文かと疑わせる文章を毎日のように載せ続けていました。

 そこに新聞社の下心があります。やがて被害者の親子離れが問題となり、世論が割れた頃合を見計らって、投書の内容は社説となり、北朝鮮政府を同情的に理解する社論が展開されるという手筈になるのでした。朝日新聞が再三やってきたことでした。

 何かというと日本の植民地統治時代の罪を持ちだし、拉致の犯罪性を薄めようとするのも同紙のほぼ常套のやり方でした。

 それにしても、いったいどうしてこれほどまでに人を食ったような言論が、わが国では堂々と罷り通っていたのでしょうか。「体制の相違」ということをはなから無視しています。五人の拉致被害者をいったん北朝鮮へ戻すのが正しい対応だという意見は、朝日の「声」だけでなく、マスコミの至る処に存在しました。

犯罪国の言い分を認める

 

「どこでどのようにして生きるかを選ぶのは本人であって、それを自由に選べ、また変更できる状況を作り出すことこそ大事なのでは」(『毎日新聞』12月1日)

 と書いたのは、作家の高樹のぶ子氏でした。彼女は

「被害者を二カ月に一度帰国させる約束をとりつけよ」

などと、相手をまるでフランスかイギリスのような国と思っている能天気は発言をぶちあげています。彼女は

「北朝鮮から『約束を破った』と言われる一連のやり方には納得がいかない」

と、拉致という犯罪国の言い分に理を認め、五人を戻さないことで

「外から見た日本はまことに情緒的で傲慢、信用ならない子供のように見えるに違いない」

とまでのおっしゃるようであります。

 この最後の一文に毎日新聞編集委員の岸井成格氏が感動し(『毎日新聞』12月3日)、一日朝のTBS系テレビで

「被害者五人をいったん北朝鮮に戻すべきです」

と持論を主張してきたと報告します。同じ発言は評論家の木元教子さん(『読売新聞』10月31日)にもあり、民主党の石井一副代表も

「日本政府のやり方は間違っている。私なら『一度帰り、一ヵ月後に家族全部を連れて帰って来い』と言う」(『産経新聞』11月21日)

と、まるであの国が何でも許してくれる自由の国であるかのような言い方をなさっている。

 一体、どうしてこんな言い方があちこちで罷り通っていたのでしょう。五人と子供たちを切り離したのは日本政府の決定だという誤解が、以上見てきた一定方向のマスコミを蔽っています。

 「体制の相違」という初歩的認識が、彼らには完全に欠けています。

 日本を知り、北朝鮮を外から見てしまった五人は、もはや元の北朝鮮公民ではありません。北へ戻れば、二度と日本へ帰れないでしょう。強制収容所へ入れられるかもしれません。過酷な運命が待っていましょう。そのことを知って一番恐怖しているのは、ほかならぬ彼ら五人だという明白な証拠があります。

 彼らは帰国後、北にすぐ戻る素振りをみせていました。政治的に用心深い安全な発言を繰り返していたのはそのためです。日本政府は自分たちを助けないかもしれない、とずっと考えていたふしがあります。北へ送還するかもしれない、との不安に怯えていたからなのです。

 日本政府が永住帰国を決定した前後から、五人は「もう北へ戻りたくない」「日本で家族に会いたい」と言い出すようになりました。安心したからです。政府決定でようやく不安が消えたからなのでした。これが、「全体主義国家」とわれわれの側にある普通の国との間の「埋められぬ断層」の心理現実です。

 五人の親だけを帰国させたのは、子供を外交カードに使う北の最初からの謀略でした。蓮池さんや地村さんに子供を日本に連れて行ってもいい、と向こうの当局が言ったという話がありますが、彼ら両夫妻がきっぱり断ったそうです。もし連れて行きたい、と喜んで申し出を受け入れれば、その瞬間に忠誠心を疑われ、申し出を受けた夫妻の日本行きは中止となる、と彼らはそのときに直観したというのです。それほど徹底して異質な社会なのです。

 あの国の政府が何かをしてよいと言っても表と裏があり、それを安直に信じるわけにはいきません。筋金入りの朝鮮労働党の信奉者を演じきることのできる心理洞察力の持ち主だったから、彼らに帰国のチャンスがあり得たのでした。

 日本では小説家や評論家のような立場の人に、国家犯罪とか全体主義体制の悪とかについての認識があまりに低く、ナイーヴであり過ぎるのが私にはまことに不可解であります。スパイ養成を国家目的としている国の心理のウラも読めないで、よく小説家や評論家の看板をはっていられるものと思います。

 「朝日」や「毎日」がおかしいというのはたしかですが、それだけではない、ここまでくると日本人そのものがおかしいのではないか、とつい思わざるを得ません。

 これらの言葉を当時、私はむろん否定的に読んでいましたが、読者としてまともに付き合っていたのであって、狂気扱いはしていません。現実の国際的常識から外れていて変だとは思いましたが――だから念のために記録しておいたのです。しかし、いまからみれば私だけではない、「朝日」の記者だって自分たちが作っていた言葉の世界が精神的に正気でなかったと考えざるを得ないでしょう。

 日本人は自国の外を見るとき、やはりどこか知覚に欠陥があるのではないでしょうか。

月刊Hanada―2016年7月号より

つづく

阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第三十五回」

(3-1)無自覚に騙された者は、騙した者よりその罪は重い。無自覚であっただけに、救い難いのである。現在もまた騙されていないとう保証はどこにもない。無自覚に騙されたのなら、何度でも騙されることになるであろう。

(3-2)過去は、裁いたところで、幻とはならない。必要なことは、過去の悪をことごとく肯定する勇気である。さもないと、将来ふたたび反省や後悔をくりかえし、現在の自分の立場もまた悪として断罪の法廷に引き出されることになるであろう。

(3-3)先生と生徒との間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があることを誰よりもよく知っているのは子供である。先生が役割にふさわしく振舞ってさえくれれば、子供は先生を信頼し、先生に人格を感じる。子供の人格を尊重すると称して、いたずらに理解力のある態度をみせ、まるで友達同士のように話し合おうとする先生には、子供は人格を感じないばかりか、結果として子供の人格も無視されることになるのである。

(3-4)問題なのは、他愛のない政治用語を教育上のモラルとして繰返し耳に吹込まれているうちに、成人に達するころ人間が馬鹿になってしまうことである。私はそういう人達を沢山見てきた。

(3-5)教師は未完成な生徒にとって一つの規範であるべきだし、「権威」ですらなければならないと私は思う。規範のない所には模倣もない。規範や権威があるからこそ、ときにそれに納得し得ない自分というものに気づき、眼ざめる生徒の自主性も生まれるのである。それが本当の自主性というものであり、それがまた本当の民主主義を成り立たせる土台となるべきものだろう。

(3-6)昔の信仰は神話であったとぬけぬけと言える者に、今の確信が神話でないという保証はどこにあるのだろう!

(3-7)人が生きるということは目隠しされているようなことかもしれない。しかし、そういう自覚をはっきり持っていればかえって迷いなく未来に向うことができる。

(3-8)国民がこぞって平和教の念仏を唱えてみても、アメリカを含む世界のどこの国も日本のことなど露ほども大事に思っていない事実をはっきり知らなければならない。戦時中にあって戦後失われた大切な感覚をもう一度思い起こすべきである。日本の安全と利益が真に大事なのは日本人にとってだけで、大切なのは日本一国の平和であって平和一般ではないという認識である。さもないと上ずったヒステリックな平和祈願は、間接侵略の呼び水になり、意図に反して平和を破壊することにしか寄与しないであろう。

(3-9)歴史を動かすほどの誤解なら、誤解もまたそれ自体一つの「正解」ではないか。

(3-10)保守的な生き方・考え方とは、自己についても、世界についても、割り切れないものを割り切ろうとはしない態度、理論よりも理論の網目からもれたものを尊重する態度だ。楽観的な合理主義に虚偽をかぎつける本能、そういいなおしてもよい。彼らは進歩を否定しているのではない。ただ進歩を生の最高の価値、社会の究極の目的と考えるあの観念的な未来崇拝に与(くみ)しないだけである。

(3-11)ひとおもいに幾千万里と飛翔した孫悟空が、気がついてみるとまだお釈迦様の掌のなかにあったというあの寓意は、なぜか僕には、未知の国を旅する旅行者を諷刺しているように思えてならない。

(3-12)今日、民主教育という名の下に生徒の自主性を育てようと努めている善意ある教育者の考え方が、その善意にもかかわらずどこか間違っているように思えるのは、自律精神や自主性を「育てる」ことが可能だと思いこんでいることにあるようだ。「育てられた自主性」では言葉の矛盾ではないか。

(3-13)要するに完全な自由、完全な真理、完全な平和などというものはどこにもなく、われわれは相対的な善を信じて生きていくしかないというペシミズムをもっとはっきり認識すべきではないか。完全な善、絶対の善をもとめる心情は要するに心情以上のものではなく、従ってそこにはなんの実体もない。

(3-14)人生に絶望していた筈の私小説家たちが、芸術一筋に生きようとする自己の誇らかな芸術家としての生き方に絶望したことは一度もなかったことは大きな矛盾であった。

(3-15)人間はたしかに世界の悪や不正に感情をさいなまれるのが正常かもしれない。しかし悪や不正から離れて人間の生はなく、生きることは蒸留水のように生きることではないと解って、個体は一つの限界にぶつかるのである。

(3-16)若さとは、隠すべきものではないのか、

(3-17)あまりにも一方的な過去の断罪は、結局は、現在の自分の善のみを信じて疑わない自己過信に陥り、それはまた、現在の自分の立場だけを救い出そうとするエゴイズムと化する。

(3-18)制限や束縛が余りにも過剰であるときには、人はそれを不自由と感じるかもしれないが、だからといって制限や束縛を打ち破って自由になったというだけでは、人は自由にはならない。不自由な状態を脱け出て、自由の地平に出た瞬間に、人はたちどころに自由ではなくなるのである。生きている限り、人は不自由と顔をつき合せていなければならない。それが人間の生をささえる秘密でさえある。

(3-19)歴史は個人を超えている。知性は全体を把握することができない。知性が歴史全体に対し神の位置に立ったとき、歴史は姿を消す。過去に対しても、未来に対しても、個人は不自由である。不自由の自覚を通じて、個人は初めて「現在」に徹する自由への第一歩を踏み出すことを可能にするのみである。

(3-20)大学は「自治」という権利を要求するが、自分で自分を管理する能力はなく、それでいて世間にはなんの責任も負わない。

(3-21)成熟を装うのが青年の習性である。青年は青年であるとよばれることをもっとも恐怖する。だが、まことに不思議なことに、われわれの生きているこの現代社会では、未成熟を売り物にするのが青年の商品価値となった。

(3-22)青年はそんなに美しいものか?青春はそんなに語るに足るものか?冗談ではない。若さのいやらしさとは、若いということに対してさえ自分では気がつかないことなのだ。若さとは、酒がなくても、酔えることであり、酔っていることに対してさえ、自分ではその自覚がないことなのだ。

(3-23)生きるとは、蒸留水のように生きることではないと解って、個体は一つの限界にぶつかるのである。青年が自分自身への批判を深め、内省し、倫理的に成熟していくのはそのような限界意識からである。

(3-24)なにかある「物」が創られた結果が文化なのではなく、創っていくその過程や精神の運動、もしくは創られたものへの鑑賞者の主体的な関わり方や評価という行為、そういう非現実的な、流動的な不安定な人間的要素を措(お)いて、文化というものを考えることは出来ないであろう。とすれば私たちの日常の生き方、行動の仕方と別のところに文化はないし、政治的な行動も、それが人間の主体的な精神の運動である限りは、やはり広い意味で、文化の一種であると考えなければならないのではないだろうか。

(3-25)小説家は作品という「物」を残すと信じられているが、作品とはそもそも幻影であって、実体はあくまで読者の意識の運動のなかにしかない。

(3-26)唯物論的人間観は人民を意志のない善意の人形とみたて、権力の頂点にいっさいの悪を支配する黒幕的人物を想定したがるが、まさしくそういうことを考えたがる知性は紙芝居程度に貧寒な人間観によってしか支えられていない。

(3-27)醜い外貌の人間にも、美しい、高貴な精神が宿る場合があることを信ずるよりも、美しい外観の人間をそのまま率直に感嘆することの方がよほど人間的と言えるのではないか。精神とか知性とかいう正体不明のものをほとんど無自覚に過信していることの方が、近ごろの肉体上の露悪趣味よりもよほど頽廃的といえるかもしれない。

(3-28)誰しも自由を求めて生きるのではなく、何事かをなし遂げようとして生き、結果的に、ある自由感の裡(うち)に生きる、ということもあるかもしれない。人は自由を捕えるのではなく、反対に自由に捕えられるように、自由が意図せずして歩み寄ってくるように生きることが真の自由であろう。

(3-29)子どもの自主性というものは、教師が手を貸して育てるものでしょうか。教師は善導家でもなければ、社会批評家でもありません。自分の教える教科に自信をもち、そのために必要な制限や条件や課題を生徒たちに課していく、一つの「権威」であってさしつかえないものです。

(3-30)現代はなんといっても、情熱や決断にとって代わって、言葉の上の解釈や認識の圧倒的な分量に押しつぶされそうになっている時代でもある。情熱や決断にもとづくどのような行為の価値といえども、たちどころに相対化されてしまう、あの明るく開かれた、無性格な空間を前にして疲労感を覚えない者はまずいまい。

(3-31)たしかに現代は、ひとびとがみないささか利口になりすぎている時代だと言っていい。

(3-32)目の前に差し迫った試練がない時代には、試練がないということが、じつは最大の試練であろう。

(3-33)日本と西洋という対立図式が有効であるのは、客観的定義でなにかを解決するためではなく、解決できないなにかにぶつかるための、作業上の手続きとしてでしかない。

(3-34)すべての一流の思想は多面体である。時代に応じ、個人に応じ、さまざまな幻影を生む。しかし一流の思想はまたつねに単一の音色をもっている。

(3-35)理想とは目に見えないなにものかなのであって、永遠に現実とは一致しない。一致しないがゆえに、まさしくそれは理想なのである。

(3-36)理想は自分の外に求めるものではなく、その中にあって、いわばそれに包まれて、自分が生きていく過程のことである。大切なのは目的地に到達することではなく、理想という名であれ何であれ、容易に解決を生まない持続した情熱の過程をどう歩んで行くかということにつきている。

(3-37)一般の生活人が、もし本をよんだりものを考えたりするような人であれば、おおむね健全な生活の智恵に立脚することはほとんどなく、どことなく知識人的な意識に染まりはじめてきた。民衆の知識人化という現象は、戦後の教育のあり方によって、とりわけ若い世代にいっそうひろがった。大江健三郎を支える層がそこにある。

(3-38)日本では不自由や自己疎外の観念的幻想を抱いていない生活人の方が、はるかに早く、近代的な自由の孤独の重さというものに突き当っているのかもしれない

(3-39)だいたい「実用的」な言語教育をもっぱら中心におこなっていけば、言語はスムーズに伝達できるかといえば全くそんなことはない。伝達するのは言葉ではないからである。双方の言葉の背後にあるものにともに了解が成立して、はじめて伝達が可能になるのである。私は外国語教育において実用面よりも教養面を重視しろなどと言っているのではない。実用と教養とをわけることは出来ないと言っているのである。

(3-40)フランスに行けば通じる言葉はフランス語だけである。日本に来て、通じるのは日本語ばかりだと困惑する外国人がいてなぜ悪いのだろうか。一般国民にあまねく英語を聞いたりしゃべったりする能力を与えるべきだなどと考えるのは植民地根性でしかなく、自国の文化に自信をもっている民族のなすべきことではないだろう。

(3-41)外国語教育の目的は、文法の正確さと読みの深さを訓練すること、秀れた文章を暗誦させること、それを通じて、国語教育の欠を補い、言語一般に対する文化感覚のようなものを育成することにあると思う。

(3-42)言語教育はすぐ結果の出ない息の長いもので、むしろ「役に立たない」ものへの情熱によって支えられるべきものであろう。

(3-43)言葉とはけっして単なる道具ではない。言葉とは私たちの肉体の一部であり、気に入らぬ衣裳のように勝手に着たりぬいだりは出来ないものなのである。

(3-44)日常生活の中で不断に接している言語、すなわち無秩序で混乱した言語に規範を与え、格調のある立派な日本語とはこういうものだという一つの雛形を与えること、それがなんといっても国語の教科書の最大の役割ではないだろうか。

(3-45)文章がわかる、というのはなにかを感じる、ということであって、気の利いた解釈ができる、ということではない。

(3-46)すべての生徒が等しなみの能力と平均した才能しかもっていないという前提の上に成り立っている現代の教育観そのものに一番大きな問題があるのだと私は考えている。

(3-47)社会的な名士と称され、一流の肩書きをそなえた人の、知的に高級めかした理論家気取りの上品な文章にどことなくひそむ通俗的知性ほど世に有毒なものはほかにない。

(3-48)例えば日本的な無私の精神などとよくいうが、本来的な日本人、すなわち無私であることに悟達している日本人なら、無私の精神が西洋の理性より優越しているかどうかにこだわった議論をするわけがなく、そういう問題そのものに対して「無私」であるはずである。

(3-49)江戸の歌舞伎や黄表紙・洒落本では二番煎じ、三番煎じの模倣がくりかえされてなお人はそこに新しさを発見していた。現代では、他人の作をまねることは厳格に禁じられ、人々は独創と個性を競い合っているのに、どうして互いに新味のない、似たような顔をしているのだろうか。

全集第3巻 懐疑の精神
「Ⅰ 懐疑のはじまり(ドイツ留学前)」より
(3- 1)(15頁下段「私の「戦後」観」)
(3- 2)(24頁下段「私の「戦後」観」)
(3- 3)(27頁上段から下段「私の受けた戦後教育」)
(3- 4)(33頁下段「私の受けた戦後教育」)
(3- 5)(36頁上段「私の受けた戦後教育」)
(3- 6)(40頁下段「国家否定のあとにくるもの」)
(3- 7)(40頁下段「国家否定のあとにくるもの」)
(3- 8)(41頁下段「国家否定のあとにくるもの」)
(3- 9)(42頁下段「知性過信の弊(一)」)
(3-10)(46頁上段「私の保守主義観」)
(3-11)(54頁上段「一夢想家の文芸批評」)
(3-12)(65頁上段から下段「民主教育への疑問」)
「Ⅱ 懐疑の展開(ドイツからの帰国直後)」より
(3-13)(82頁下段「ヒットラー後遺症」)
(3-14)(118頁下段「大江健三郎の幻想的な自我」)
(3-15)(123頁下段「大江健三郎の幻想的な自我」)
(3-16)(130頁下段「大江健三郎の幻想的な自我」)
(3-17)(137頁上段「知性過信の弊(二)」)
(3-18)(142頁上段「知性過信の弊(二)」)
(3-19)(143頁下段「知性過信の弊(二)」)
(3-20)(147頁下段「国鉄と大学」)
(3-21)(150頁上段「喪われた畏敬と羞恥」)
(3-22)(150頁上段「喪われた畏敬と羞恥」)
(3-23)(158頁下段「喪われた畏敬と羞恥」)
(3-24)(161頁下段「文化の原理 政治の原理」)
(3-25)(162頁上段「文化の原理 政治の原理」)
(3-26)(186頁上段から下段「文化の原理 政治の原理」)
(3-27)(193頁上段「見物人の知性」)
(3-28)(207頁上段から下段「自由という悪魔」)
(3-29)(219頁下段「生徒の自主性は育てるべきものか」)
「Ⅲ 懐疑の精神(七十年代に露呈した「現代」への批判)」より
(3-30)(243頁上段「老成した時代」)
(3-31)(243頁下段「老成した時代」)
(3-32)(244頁上段から下段「老成した時代」)
(3-33)(256頁下段「老成した時代」)
(3-34)(258頁上段「老成した時代」)
(3-35)(267頁下段「老成した時代」)
(3-36)(268頁下段「老成した時代」)
(3-37)(287頁下段から288頁上段「現在の小説家の位置」)
(3-38)(292頁下段「生活人の文学」)
(3-39)(303頁上段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-40)(303頁上段から下段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-41)(303頁下段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-42)(303頁下段から304頁上段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-43)(304頁上段「実用外国語を教えざるの弁」)
(3-44)(306頁下段「わたしの理想とする国語教科書」)
(3-45)(308頁上段「わたしの理想とする国語教科書」)
(3-46)(310頁上段「わたしの理想とする国語教科書」)
(3-47)(318頁下段「帰国して日本を考える」)
(3-48)(321頁上段「帰国して日本を考える」)
(3-49)(325頁下段「帰国して日本を考える」)

『GHQ焚書図書開封』12

 久しぶりに『GHQ焚書図書開封』の第12巻を刊行した。ちょうど一年ほど前に第11巻「維新の源流としての水戸学」を出した。今度の第12巻は「日本人の生と死」と名づけた。どういう内容であるかは以下に示す「あとがき」から察していたゞきたい。

ghq12

 扱った作品は和辻哲郎「日本の臣道」「アメリカの国民性」、山中峯太郎「日本的人間」、真山青果「乃木将軍」である。講演集、歴史随筆、戯曲の三冊を対象にしている。三冊は全部いうまでもなくGHQ没収図書である。

あとがき

 本書は「名著復活」というほどの趣きで編まれた一冊である。

 GHQに昭和21年に没収廃棄された本の約7割以上はまだ手つかずで山積しているが、その中から私が手にとって読んで、すぐにこれは面白いという本を選び出すことは次第に困難になった。初めのうちは題材の新鮮さで目を奪うことができた。例えば1941年12月7日朝のホノルル市民の驚愕の声をまとめた記録(本シリーズ第1巻)にしても、マレー沖海戦に参加した航空少年兵の死を恐れぬ心と彼らの母たちの涙を誘うひたむきさをまとめた記録(第3巻)にしても、整理して紹介するだけで、読者の気持ちに適うリアリティがあった。

 昭和21年からずっとヴェールで蔽い隠されてきた日本人の心のある現実をとりあえずつかみ出して見せただけで、本シリーズは紛れもなく「歴史」の発掘だったといえるだろう。ヴェールを剥いで見せた「歴史」――歴史の事実とは過去の人間の心の現実である――が露呈した以上、今のメディアによる、いつまでも戦後の心で戦争を裁いたり、戦後批判と称して戦後の足場からしか過去を見なかったり、今もなおその辺りでウロウロしている歴史研究の大半は、粉砕されてしまっているはずなのである。

 本シリーズ「GHQ焚書図書開封」は12巻を数え、日本人の意識から消されていた紛れもなく私たちの往時の日々に起こっていた現実を再生させる役割を果たした。ただ、巻を追うごとに題材や材料の目新しさだけで読者に同じリアリティを与えることは難しい、と気づくようになった。より深く人間の心の奥に迫りたい。秀れた思想家や文学者の「焚書」された著作の中に、秘密を解く鍵があるに違いないとずっと思っていた。そうして偶然バラバラ手に取り、互いに関係のない本巻所収の三人の作品に出逢った。

 和辻哲郎『日本の巨道/アメリカの國民性』は1962年の和辻全集にも収められていて、山をなす亡失の書からの「発掘」とはいえない。しかし、昭和18年のこの二講演は、果たして正確に読まれ、了解されてきただろうか。巨匠の若き日の小さな過失として壁の向こうに囲い込み、研究の対象から外してしまえば安全、というような扱いを受けてこなかっただろうか。そのように軽く扱うには内容はあまりに深刻である。この著書らしい重ねられた歴史研究の緻密な成果でもある。

 とりわけ『アメリカの國民性』は、2016年の私たちのこの時代に本当に甦っている。アメリカは近頃追い込まれて、他の小国と同じようなナショナリズムを声高に叫ぶようになってきた。1929年の経済恐慌のあとの荒々しい自己中心主義を髣髴させる。アメリカは再び牙を剥き始めた。和辻の分析は時宜に適っていて今や本当に説得力がある。

 三人の著作の中で「新発見」に値するのは山中峯太郎の『日本的人間』であろう。インターネットで出せる山中の著作リストにもこの書の名は存在しない。すっかり忘れられた本だが、短章を並べた卓抜な歴史エッセーである。『徒然草』を思わせる書き方と思えばいい。

 山中は昭和初期の「少年倶楽部」で日露戦争に取材した『敵中横断三百里』で人気を博し、「幼年倶楽部」の『見えない飛行機』は私の生まれた年に連載され、単行本を子供の頃に愛読した。ほかに『亜細亜の曙』『大東の鐡人』など、当時よく読まれていた。陸軍士官学校卒の陸軍中尉で、子供向けの方面で小説の才を発揮したこの人の大人向けに書かれた歴史エッセーが『日本的人間』である。文字通り〝私の発掘″の名に値する一冊である。

 眞山青果は文学史に名を刻んだ大きな存在である。福田恆存も三島由紀夫も明治以来の劇作家の中では屈指の存在として評価している。福田は『眞山青果全集』の月報に寄稿して、眞山の戯曲は「本格的な構築性」を具えていて、「西洋の作劇術を日本で初めて物にした人」と述べ、「青果にはドラマがある。・・・・・人間の精神の激しいうねりや動きを形式美として見事に示してゐる」と激賞している。歌舞伎の名作といわれる『元禄忠臣蔵』や『平将門』だとか、『大石最後の一日』などたくさんの脚本が書かれていて、福田は自分の劇団で上演してみたい数点を挙げていたが、『乃木将軍』についての彼の言及はない。『乃木将軍』は余りの大作で、上演時間も並外れて長いと思われるので、戦後はもとより戦前においても上演されたかどうか私は知らない。ただ戦前の観衆ならこれを舞台で見ても十分に楽しめただろう。

 というのは乃木希典の個性への魅力、生きざまとその死をめぐる風聞やエピソードを存分に散りばめた一種の説明劇、良くいえば叙事詩的作風になっているので、戦前の観衆なら場面のひとつひとつに思い当たるふしがあり、親近感を覚えたであろうからである。戦後はそれらがいっぺんに消されてしまった。乃木希典をめぐる神話的状況が根こそぎ取り払われてしまった。演劇は大衆が支えるものだから、『乃木将軍』の上演は今ではますます難しくなっている。

 けれども、それだけに、乃木の事跡をほとんど知らない今の若い人に「読む芝居(レーゼドラマ)」としての作品の魅力や説得力がどうであるかむしろ聞いてみたい。乃木将軍の名前だけは知っているが、他は何も知らないという人に積極的に関与してもらいたい。そう思って、引用抜粋にも十分のスペースを割いた。と同時に、眞山青果の人間観、歴史観の深遠さを知ってもらいたくて、ひとつひとつの場面で司馬遼太郎の『殉死』をあえて対比的に取り上げ、批判した。福田恆存に「乃木将軍と旅順攻略戦」という優れた評論があり、これも引例し論及したが、乃木将軍に十分な関心を持っていた福田に、また眞山青果を評価していた彼に、眞山青果ドラマ『乃木将軍』についての言及がいっさい見出せないのは不思議でもあり、残念にも思える点であった。

 本書は乃木問題をめぐって、それを切っ掛けに、歴史を扱う大衆作家への疑問も一つの大きな主題とした。〝司馬遼太郎批判″が本書のモチーフのひとつでもある。

 「便利すぎる歴史観――司馬遼太郎と小田実」は今からちょうど20年前になるが、1996年6月号の文芸誌『新潮』に私が寄せた小文で、巻末付録として参考に供した。

2016年7月西尾幹二

安倍首相への直言(三)

グローバリズム=全体主義

 現在、西ヨーロッパでは、リベラリズムのソ連化とでもいうべき状況に陥っている。その代表は東ドイツ出身のメルケル首相かもしれませんが、偽善的な移民受け入れを美しいことのように言い立てて、実は自己矛盾を起こすに決まっていることが見えない愚かさ。これは、リベラリズムというか、グローバリズムの虚偽なのです。

 東ヨーロッパが唱えていた、ナチズムとスターリズムは同じだという主張を正当なものとして私は『全体主義の呪い』を書いたのですが、青山学院大学の福井吉高教授の『日本人が知らない最先端の「世界史」』(祥伝社)という新著――これは思想界に大型新人の登場を告げる画期的な本ですが――にもあるとおり、今のドイツでは、ナチズムは絶対悪で、スターリ二ズムはそうではない、並べて比較することも許されないという自己欺瞞が支配的になっている。それがドイツの、あるいはヨーロッパの精神状況なのです。

 しかし、そんなバカなことはない。ナチズムとスターリズムは巨悪同士です。しかも、両者を比べたら、スターリズムの方が巨悪に決まっています。スターリニズムを許そうとするのが習近平を認めようとする潮流とつながっている。そしてそれを日本の歴史にまで当てはめようとするのがドイツと中国の愚劣さです。

 共産主義の終焉と同時にEUの理念が生まれました。そしてグローバリズムという名の全体主義が地球上を徘徊し始めた。我が国でも、1980~90年代に「国際化」という言葉がしきりに唱えられました。それがどういう意味か、何を言おうとしていたかはよく分りませんでしたが、世界は一つ、EUのような国家を超えた共同体をつくるんだというグローバリズムのようなことだったのでしょうか。しかし、ドイツやフランスやイタリアのように国家を否定しても依拠するものがある、すなわちヨーロッパ文明が存在する地域ならまだいいのですが、日本は国家を超えたら何もない。抽象的な共同体などつくれるわけがありません。

 「人類は一つ、世界は皆兄弟」という〝夢″のような思想、私が「学級民主主義」と呼んでバカにしている思想が世界を支配する理念であると考えている我が国の法務官僚やブリュッセルのEU官僚は、頭の中を分解して調べてみたいくらい幼稚です。

「国家」の時代再び

 ところが2008年のリーマン・ショックによって、世界は大きく変わりました。それまでの経済の膨張と拡大は言うまでもなくグローバリズムです。ところがリーマン・ショックが起こり、いざそこから脱したり、その困難を克服したりしようとするには、グローバリズムはまったく役に立たないことが分かりました。経済の拡大では世界は一つだったが、経済の立て直しでは各国の能力にすべてが委ねられたのは皆さんご記憶のとおりです。言い換えれば、あの時から「国境を超えるもの」ではなく「国家」の時代が再び始まったのです。

 「国家」というものを基軸に考え直そうという空気が出てきたのがこの10年くらいの流れですから、英国のEU離脱は時代の必然です。すなわちEUというグローバリズムの否定であり、英国ナショナリズムの自己主張です。

 それをさも悪いことのように、時代に反することのように言うのが我が日本のメディアです。ナショナリズムが世界の潮流になっているのに目が半分開いていない。世界の動きに三周くらい遅れています。日本のメディアは英保守党選挙がどうなるとか、ドイツはどう対応するとか、ヨーロッパの事情を語るばかりで、この件で米国や中国を含む地球全体の話をほとんどしません。

 私は、英国のEU離脱問題は、20世紀の初めから続く米国と英国の戦いの延長にある、米国による英国つぶしの一つでもあると考えています。つまり、これで残留派のキャメロン首相と、彼の右腕で後継と目されていたオズボーン財務相を追い払うことができた。米国はパナマ文書でキャメロンを脅かしたあげく、追放しました。ですから今度の政権は親米路線をとるでしょう。そうしないと英国は生きていけません。

 英国のEU離脱で、ロンドンのシティを狙っていた中国は大損をしています。中国がシティに食い込んだり、イギリスがシティを利用して人民元で取り引きしたりするのはドル基軸通貨体制を脅かすことですから、米国が我慢できないのは当然です。だから中国は立ち行かなくなってきた。せっかく設立したAIIB(アジアインフラ投資銀行)もますますうまくいかなくなるでしょう。国内の不満をどこかで発散させるためにあからさまに尖閣を狙ってくることは十分考えられます。

 中国はしきりにドイツに秋波を送っていますが、ドイツはドイツで、例のドイツ銀行の経営難という大問題にぶつかっている。つねづね日本は物凄い借金を背負っていて、ドイツは健全財政だといわれてきたのは大嘘です。ドイツは政府が負うべき借財を銀行に押し付けていますが、日本のメガバンクは概ね無借金です。バブル崩壊時の借金を、日本のメガバンクはとうに返済して健全経営になっているのに、借金を押し付けられたドイツ銀行が背負っている借財はドイツのGDPの20倍です。ドイツはいま危機的状況にある。

 そのドイツが利用したいのは中国の人民元です。中国はいま約2200兆円のだぶついたお金をもっていますが、しかし一方で3000兆円の借金をしている。人民元が下落する前に、それを自分のところで利用しようと各国は目の色を変えているのです。

軍事的知能が落ちた

 いまから16年前の2000年8月15日、戦後55年の終戦記念日に私が書いた文章「日本人が敗戦で失ったもの」のなかから抜粋して、本稿の最後のまとめとして、以下に一部をあえて紹介させていただきます。私が16年前に怖れていたことが、いかに現実のものとなっているかがお分かりいただけると思います。

 何が敗戦で失われたか。まず第一は軍事的知能が落ちたことだと思います。例えば政治の中枢から、あるいは日本人の意識から。それは、たいへん恐ろしいことで、予想される災難をいろいろこれから申しあげていきます。

 中国のミサイルは、現に日本を主要な標的にしています。北朝鮮に関しましても同様です。

 戦後だめになってしまった日本人は、当然戦前だったらありうることとして誰しもが考えていたことを考えなくなってしまったからです。それは、たとえば次のようなことを予想していないという日本人の愚かさに現れています。

米中からの独立

 今、日本人は北朝鮮の核ミサイルを恐れていますが、まだ実用段階には達していません。いったん実践可能になると、あらためて核保有国に媚びようとする気運が、必ずや日本の国内に浮かび上がってくるだろうということですね。そしてその勢力が、平和の名において声高に叫びはじめて、政治力を形成する。

 つまり、核兵器の無言の恐怖の圧力と重なって、問題を先送りする意識が政治を次第にねじ曲げていき、そして、自らを威嚇している独裁国家に経済援助し、その軍事力にせっせと強力するというようになりかねないということです。ある意味では、日本はすでにそうなっているとさえ言えるかもしれません。

 しかし、そうこうしているうちに、頼みのアメリカが手を引くか、または当面、日本にとっての最大の威嚇の相手である中国と手を結んだらどうなるのか、こういうシミュレーションひとつしないということも、いかに日本が軍事的知能を失っているかということを示しています。

 軍事力は使われない力です。使われないけれども、軍事力の所有が政治効果を発揮します。とりわけ核兵器は、敗北意識を相手に植えつけるのが最大の目的ですから、敗北意識にとりつかれた瞬間に勝敗は蹴ってします。

 その次に起こる恐ろしいことは、友好に名を借りた日本への内政干渉です。そして、その次に、日本の国家権力が、目に見えないかたちでゆっくり解体していく。やがて外国の権力によって警察力にも目がつけられる。誰も唇寒くてものを言えない時代がやってくる。

 これは、私は中国を念頭に置いて言っているわけです。現に日本はアメリカに、そういうふうにされてきたわけですから。一度あることは二度あるということです。米中が意を通じれば、日本の工業力は他国にのみ奉仕する奴隷になります。ですから、私が何度もいま申しあげたのは、必要なのは、軍威力それ自体ではなく、軍事的知能だということです。

 アメリカと中国の両国から独立しようとする日本の軍事的意志です。

WiLL 2016 9月号より

新刊『日本、この決然たる孤独』について

 このたび、6月30日付で、『日本、この決然たる孤独――国際社会を動かす「平和」という名の脅迫――』という題の評論集を刊行しました。すでに一部の店頭には出ています。

 さしあたり「あとがき」の最初の部分と、目次をおしらせします。

 版元は徳間書店で、定価は¥1700(税別)です。

あとがき

何年も前に書いた私の予言が当たることが比較的多いのは少し恐いことである。本書の中にも、当たったら大変な事態になることが語られている。私は希望的観測に立ってものを言わないからだろうか。いま政府や関係官庁が本気になって目前の災いを取り除いてほしいと思えばこそ、きわどい真実を語るのである。私は観察し、そして恐れている未来への思いを正直に打ち明ける。外国との関係に幻想を持たない。日本の弱さにつねに立脚する。自国の優越に立ってものを考える前に、他国の劣弱をしっかり見抜くべきことを説く。歴史は自国の優位を汲み出す泉ではなく、他国の主張する諸価値のウラを読み解く鍵である。自国の歴史に自信がなければ他国は見えない。自国の特性を美化する人が多いが、自信は秘匿されていなくてはいけない。私はあらゆる意味で〝守り″の思想家なのだ。

本書は主に2014-16年(前半)に右に述べたような態度で書かれた文章から成り、それ以前に書かれた文章も若干含んでいる。一冊の表題は迷っていくつもの案があったが、「日本、この決然たる孤独」という私の好みの題をつけさせてもらった。ただ、もう少し説明がほしいといわれ、副題に「国際社会を動かす『平和』という名の脅迫」を添えた。日本の国内の平和主義の弊害をはるかに越える恐ろしい沈黙の脅迫が世界を支配している。

(『日本、この決然たる孤独』目次

Ⅰ 安倍政権の曲り角──わたしの疑問と諫言
 総理に「戦後七十五 年談話」を要望します
 日韓合意、早くも到来した悪夢 
 北朝鮮への覚悟なき経済制裁の危険 
 外国人問題で困るのはタブーの支配 

Ⅱ 中国とヨーロッパ
 歴史の古さからくる中国の優越には理由がない 
 中国、この腐肉に群がるハイエナ 
 ヨーロッパの「正義の法」は神話だった 
 人民元「国際化」のごり押しに目をつむる英仏独 

Ⅲ アメリカと日本
 「反米論」に走らずアメリカの「慎重さ」を理解したい 
 日本の防衛はアメリカからとうに見捨てられている 
 無能なオバマはウクライナで躓き、アジアでも躓く 
 「なぜわれわれはアメリカと戦争をしたのか」ではなく、
 「なぜアメリカは日本と戦争したのか」と問うてこそ
  見えてくる歴史の真実
 悲しき哉、国守る思想の未成育 

Ⅳ 韓国について
 「十七歳の狂気」韓国 
 韓国との「国交断絶」を覚悟しながら歩め
   ──世界文化遺産でまた煮え油!     

Ⅴ 朝日新聞的なるもの
 「朝日新聞的なるもの」とは何か 
 ドイツの慰安婦と比較するなら 
 朝日叩きではない、朝日問題の核心 

Ⅵ 掌篇
 本の表題 
 岡田史学と『国民の歴史』
 遺された一枚の葉書
   ──遠藤浩一氏追悼 
 文学部をこそ重視せよ
   ──国家の運命を語ってきた文学的知性 

Ⅶ 歴史の発掘
 仲小路彰論 
 仲小路彰がみたスペイン内戦からシナ事変への潮流 

あとがき

ketuzen