東北沖地震(二)

 十四日(日)も終日テレビを見ていました。仕事に手が着かず、落ち着かない一日でした。

 私は判断を間違えていました。犠牲者は予想外に少いように見えると書いたのは、押し寄せてくる水の前を走り逃げまどう人々の姿が初日のテレビの画面にほとんど映らなかったからです。避難はかなり成功したのかと思っていました。

 南三陸町というところの人口は1万7千人で、うち1万人が行方不明だと聞いてびっくりしました。宮城県警が宮城の犠牲者数は1万人を越えるとの予想を立てていると公表しましたので、逃げられずに家ごと水に流された人の数がおびただしく、あの粉々にされた木材の破片の山は犠牲者の隠された悲劇の証拠で、想像を絶する恐怖のドラマが展開されたことが分りました。

 公表される100人単位の犠牲者数は誤解を生みます。被害の総体はまだまったく掴めていないのだと思います。

 地震学者が1200年前の平安時代に東北でほゞ同規模の地震があったことが学会の総意で推定されていたという話は印象的でした。携帯電話が不通になったのは驚きでした。クライストチャーチから富山県に携帯が通じていたのに、今回は不通で、被害地は情報遮断を強いられました。超近代社会の無力は、原発事故でたちまち国内の電力不足が現実のものとなった点にも現われています。電話が通じないというようなことは戦争中にもなかったことで、情報化社会の盲点です。電力不足で電車が間引きされる今朝からの事態も、戦後の65年間ずっとなかったことでした。

 どういうわけか戦時中をしきりに思い出したのは、決して私だけではないでしょう。テレビは全局同じになり、BSも同じで、コマーシャルが消されて、どこのチャンネルも地震情報で画一化され、世界からその他の新ニュースを知りたいと思ってもそれはなく、ムード的に「挙国一致」があっという間に出現しました。「国難」という言葉が、普段はそんなことを言いそうもない菅総理と女性某大臣の口から出ました。

 「未曾有の大地震」と「壊滅的被害」はテレビキャスターや報道記者の常套句となりました。やむを得ぬ交代制の「計画停電」が告知され、途方もない不便が予想されますが、誰ひとり異を唱える者はなく、国民はこぞって粛々と「運命」を引き受ける様子です。急にガラっと空気が変わりました。あるキャスターは国民は今こそ落ち着いて我慢して行こうと訴え、ほとんど私はむかしの「欲シガリマセン勝カツマデハ」を思い出しました。

 管理された「停電」は私に戦時中の「ローソク送電」を連想させました。暗い夜に「懐中電灯」を用意せよ、のテレビの指示ににもなぜか私には昔の暗い夜への懐かしさを抱かせました。そういえば陸前高田という町の、壊滅した広々とひろがる大地に駅舎がポツンと残る光景は、あの懐かしい空襲後の焼跡にそっくりです。一晩中燃えつづけた気仙沼市の夜景は夜間空襲の惨劇を思い出させました。

 このような国民的記憶を喚起する事件はたしかに65年の戦後社会にはこれまでになく、阪神大震災のときとはだいぶ異なります。日本人が「国難」を本気で意識し、「復興」を叫ぶことばがメールやネットで飛び交っているのは悪いことではなく、原子力発電の重要性(なかったら大変なことになる)が広く分るのも無意味ではありません。

 自然災害の忍耐強い国民性はもともとのもので、そこに今度のような危機感、この国のもろさ、弱さ、頼りなさへの不安、いったい明日どうなるのだろうかという急激な変化に対する心もとなさが加わって、国民的緊張感が高まることは、それ自体久し振りの感覚で、国家としての「めざめ」に多少とも役立つことになるのかもしれません。

 けれども、さて、どうでしょう?いつまでつづくのでしょうか。少くともテレビの世界は遠からず元へ戻り、地震関連のニュースは激減し、本当はもっと解明されるべき悲劇のトータルな総体を地道に追及するパワーは、お笑いタレントなどのあのバカバカしい映像に席を譲ることに再び立ち戻ってしまうのではないでしょうか。

 コマーシャルを消した「挙国一致」の危機意識が地震以外の他のあらゆる方面においても一般的になって欲しいと思います。

東北沖地震

 心配して下さった方々からお電話をいただきましたが、私は大丈夫です。それよりも、被災なさった方には何よりもお見舞いを、不運にも命を落とされた方々には哀悼の意を捧げたいと思います。

 昨日からテレビの画像を見つづけています。映画のセットなら考えられるようなシーンが現実に次々とくりひろげられ、言葉もありませんでした。大きな家が川面にプカプカ浮かんで流れていく光景は、子供時代に茨城の那珂川の洪水で見た覚えがありますが――あのころは台風シーズンのたびに川の決壊にはよく出合った――、今度のように商店街が一瞬のうちに河川に替わり、車だけでなく船がとりどりの店の前を平然と流れていく光景や、まるで巨獣が地を這うように黒っぽい濁流がビニールハウスの並ぶ広い畑地をゆっくり呑食していく有様に、私は正直息を呑む思いでした。

 東北はまだ寒い。雪も降っている。日本では情報が早く流れ、避難も素早い方で、東南アジアの国々の例よりも被害は少いように思えますが、寒い中での避難生活は予想以上に厳しいでしょう。私ならきっと避難所で命を落とすことになると思います。寒さには弱く、意気地がないのです。

 わが家では本が書庫の棚から落ち、額が外れ、花瓶が倒れましたが、その程度です。戸棚の開き戸はみな自動的に開いてしまいました。

 大揺れの瞬間に、あちこちのドアの鍵を開け半開きにしておくことを心掛けました。閉じこめられるのを恐れたからです。けれども、同時に犬が外へ飛び出すのも恐れました。大急ぎで犬に紐をつけ、じっと抱いていました。犬ははじめオロオロしていましたが、ほどなく安心して身を任せました。

 皆さまのご無事とご健勝を祈ります。

西尾幹二全集の刊行について(二)

 いま私は西尾幹二全集の編集に追われている。今どんな段階かを説明する前にもう一度全巻の表題を出しておきたい。

西尾幹二全集・二十二巻構成と表題・頁数概要

第一巻   ヨーロッパの個人主義 

第二巻   悲劇人の姿勢 

第三巻   懐疑の精神 

第四巻   ニーチェ 

第五巻   光と断崖――最晩年のニーチェ 

第六巻   ショーペンハウアーの思想と人間像 

第七巻   ソ連知識人との対話 

第八巻   日本の教育 ドイツの教育 

第九巻   文学評論 

第十巻   ヨーロッパとの対決 

第十一巻  自由の悲劇 

第十二巻  日本の孤独 

第十三巻  全体主義の呪い 

第十四巻  人生の価値について 

第十五巻  わたしの昭和史 少年篇 

第十六巻  歴史を裁く愚かさ 

第十七巻  沈黙する歴史 

第十八巻  決定版 国民の歴史 

第十九巻  日本の根本問題 

第二十巻  江戸のダイナミズム 

第二十一巻 危機に立つ保守 

第二十二巻 戦争史観の革新 

 ずいぶんたくさんあるように思われるかもしれないが、これでも自分の書いたすべての評論を入れることはできない。相当カットしなければならない。今そのむつかしい作業をしている。

 5月に出る第1回目は第五巻「光と断崖――最晩年のニーチェ」で、これはすでに校正がどんどん進んでいて、初校から再校の段階に入るところである。570ページ前後になる。

 8月に出る第2回目は第一巻「ヨーロッパの個人主義」で、収録作品は確定した。11月に出る第3回目第二巻「悲劇人の姿勢」で、これも内容はほゞ確定した。そこで上記の三巻の目次をここに掲げることにする。

西尾幹二全集 第五巻 光と断崖――最晩年のニーチェ

Ⅰ 最晩年のニーチェ  
    光と断崖
    幻としての『権力への意志』
    ニーチェ『この人を見よ』西尾幹二訳
    著作を「作る」ことを排した決定版ニーチェ全集の出現
         ――イタリア人学者の実証について
    Zweifel über die Authentizität des neu ersetzten Abschnittes im ‚Ecce homo‛
der kritischen Gesamtausgabe

Ⅱ ドイツにおける同時代人のニーチェ像  
  フランツ・オーヴァーベック/フランツ・リスト/フリードリヒ・リチュル/ウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ/ハインリヒ・ハルト/フリードリヒ・マイネッケ/フーゴー・フォン・ホーフマンスタール/クリスティアン・モルゲンシュテルン/ハリー・ケッスラー伯/ゴットフリート・ケラー/フリードリヒ・パウルゼン/ヤーコプ・ブルクハルト/ハンス・フォン・ビューロー//エルヴィン・ローデ/カール・グスタフ・ユング/アルノルト・ツヴァイク/ジークムント・フロイト/ルー・アンドレーアス=サロメ/ヘルマン・ヘッセ/シュテファン・ゲオルゲ/デートレフ・フォン・リーリエンクローン/ヘルマン・バール/モーリス・バレス/アルトゥール・シュニッツラー/ローベルト・ムージル/カール・クラウス/テーオドール・フォンターネ/ブルーノ・バウアー/カール・オイゲン・デューリング/カール・ヒレブラント/ハインリヒ・フォン・シュタイン/ゲルハルト・ハウプトマン/レーヴェントロ伯爵夫人フランツィスカ/ヨハネス・ブラームス/アルフレート・デーブリン/ルードルフ・シュタイナー/リヒャルト・デーメル/マックス・ハルベ/ゲオルク・ブランデス/グスタフ・マーラー/リヒアルト・シュトラウス/マルティーン・ブーバー/アルベルト・シュヴァイツァー、ほか
 
Ⅲ 日本におけるこの九十年の研究の展開  

    一 わが国最初の論評と研究書はドイツとほぼ同時代だった
    二 姉崎嘲風のドイツ留学が果たした小さくない役割
    三 澤木梢のオスカー・エーヴァルト紹介――初の形而上学的主題の発見
    四 和辻哲郎の『ニイチェ研究』の着眼の先駆性と叙述方法の限界
    五 翻訳の展開――生田長江、金子馬治、登張竹風ほか
    六 ヒントに富む内村鑑三の片言と〝ニーチェ小説〟の流行
    七 「ニーチェと学問」が問題の核心だと初めて指摘した三木清
    八 西谷啓治の神秘主義的アプローチは戦前日本の理解の最高水準を示す 
   
Ⅳ 掌篇 
【研究余滴】
    人間ニーチェをつかまえる
    高校■ギムナジウム■教師としてのニーチェ
    手製の海賊版
    ニーチェ/ローデ往復書簡集
    「星の友情」の出典
    「バーゼル大学教会史講座をめぐる応答戯れ歌」由来
    裏面史の一こま――ボン大学紛争
【ニーチェと学問】
    私にとっての一冊の本――『悲劇の誕生』
    フロイトとニーチェの出発点
    アポロ像の謎
    「古典文献学■フィロロギー■」ということばの使われ方
    「教養」批判の背景
【方法的態度】
     ニーチェと現代
     実験と仮面――ゲーテとの相違
    批評の悲劇――ニーチェとワーグナーの一断面
    ニーチェのベートーヴェン像
    自己欺瞞としてのデカダンス
    言葉と存在との出会い
    和辻哲郎とニーチェ

後記

西尾幹二全集   第一巻 ヨーロッパの個人主義

Ⅰ ヨーロッパ像の転換  
  
   序 章   「西洋化」への疑問
   第一章  ドイツ風の秩序感覚
   第二章  西洋的自我のパラドックス
   第三章  廃墟の美
   第四章  都市とイタリア人
   第五章  庭園空間にみる文化の型
   第六章  ミュンヘンの舞台芸術
   第七章  ヨーロッパ不平等論
   第八章  内なる西洋 外なる西洋
   第九章  「留学生」の文明論的位置
   第十章  オリンポスの神々
   第十一章 ヨーロッパ背理の世界
   終章   「西洋化」の宿命
   あとがき
 
Ⅱ ヨーロッパの個人主義  
   まえがき
   第一部 進歩とニヒリズム
    < 1>封建道徳ははたして悪か
    < 2>平等思想ははたして善か
    < 3>日本人にとって「西洋の没落」とはなにか
  
   第二部 個人と社会 
    < 1>西洋への新しい姿勢
    < 2>日本人と西洋人の生き方の接点
    < 3>自分自身を見つめるための複眼
    < 4>西洋社会における「個人」の位置
    < 5>日本社会の慢性的混乱の真因
    < 6>西欧個人主義とキリスト教
  
   第三部 自由と秩序
    < 1>個人意識と近代国家の理念
    < 2>東アジア文明圏のなかの日本
    < 3>人は自由という思想に耐えられるか
    一九六八年版あとがき
  
   第四部 日本人と自我
    < 1>日本人特有の「個」とは
    < 2>現代の知性について――二〇〇〇年新版あとがきに代えて
 
Ⅲ 掌篇

【留学生活から】
    フーズムの宿
    クリスマスの孤独
    ファッシングの仮装舞踏会
    ヨーロッパの老人たち
    ヨーロッパの時間
    ヨーロッパの自然観
    教会税と信仰について
    ドイツで会ったアジア人
【ドイツの悲劇】
    確信をうしなった国
    東ドイツで会ったひとびと
【ヨーロッパ放浪】
    ヨーロッパを探す日本人
    シルス・マリーアを訪れて
    ミラノの墓地
    イベリア半島
    アムステルダムの様式美
    マダム・バタフライという象徴
【ドイツ体験回顧】
    ドイツ大使館公邸にて

後記

西尾幹二全集   第二巻 悲劇人の姿勢
Ⅰ 悲劇人の姿勢  
 アフォリズムの美学
   小林秀雄
   福田恆存
   ニーチェ
    ・ニーチェと学問
   ・ニーチェの言語観
   ・論争と言語
政治と文学の状況
文学の宿命――現代日本文学にみる終末意識
「死」から見た三島美学
不自由への情熱――三島文学の孤独

Ⅱ 続篇  
行為する思索――小林秀雄再論
福田恆存(文学全集解説)
福田恆存小論
 ・その一 現実を動かした強靭な精神、福田恆存氏を悼む
 ・その二 時代を操れると思う愚かさ
 ・その三 三十年前の自由論
高井有一さんの福田恆存論
三島由紀夫『宴のあと』
三島由紀夫『裸体と衣裳』
竹山道雄『時流に反して』
むしろ現代日本への批評――竹山道雄『ビルマの竪琴』
竹山道雄氏を悼む
田中美知太郎先生の思い出
 
Ⅲ 「素心」の思想家・福田恆存の哲学 
一 知識人の政治的言動について
二 「和魂」と「洋魂」の戦い
三 ロレンスとキリスト教
四 「生ぬるい保守」の時代
五 エピゴーネンからの離反劇
六 「眞の自由」について

Ⅳ 『三島由紀夫の死と私』
はじめに
第一章 三島事件の時代背景
第二章 一九七〇年前後の証言から
第三章 芸術と実生活の問題
第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する
あとがき

Ⅴ 憂国忌 没後四十年

三島由紀夫の自決と日本の核武装
憂国忌没後三十八年記念講演より(抜粋)

後記

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その七)

 三島が見ていた「敵」

 北朝鮮が韓国・大延坪島への砲撃を行った。その前には韓国の哨戒艦を撃沈させた。にもかかわらず、韓国は憤激もぎりぎりのところにきていながら、忍耐している。それはアメリカが忍耐させるからである。アメリカは東アジアで戦争する気がない。アメリカは逃げている。

 北朝鮮の行動は中国と組んで行われている。だから、韓国の島が攻撃された事件と尖閣の事件は全く同じで、一体化していると見たほうがいい。中国は北朝鮮に制裁を加えるどころか、韓国への攻撃以来、両国間の輸出入が増えている。中国はだんだんのさばってきて図々しいことを考えているが、もし何かが起こっても、アメリカは日本に対しても、韓国にしたように何もしない可能性が高い。

 こういう状況がきたときに、はじめて今の民主党政権に対して国民の声は「自衛隊よクーデターを起こせ」との気持ちが高まるだろう。実際にするかどうかはわからない。クーデターをするような勢いのある中心の人物、田母神空将は追い出されてしまった。

 クーデターは現実的ではないが、しかし三島由紀夫が40年前にクーデターということを自衛隊に呼びかけ、そして先程示したように、NPT体制に対する不安を明確に檄文の中で述べ、あと二年しかないと叫んでいたのを思うと、時を経て三島の絶叫はにわかにリアリティを帯びてきたようにさえ思う。

 明確な敵がいたのではないか。hostile enemyはいなかったというドイツのシュタンツェル大使の解釈はいかにもそうと思えていたが、しかし、実ははっきりと敵がいた。

 内省的、内面的、自虐的な三島では決してなかった。敵は日本をたぶらかそうとしているアメリカ。広島長崎がトラウマになって核武装後の日本の復讐に内心おびえ、日本にたしかな現実の道を歩ませることを封じ込めている。

 そして、そのアメリカに乗せられっぱなしの死んだような日本。具体的にはソ連や中国ではなく、大きな轍(わだち)の中に閉じ込められている今の日本の、そして今日まで動かないこの世界の状態、核状況の現実ということではなかったろうか。

 死をもって現実を動かす

 文学と国家のことが三島の問題であった。国家のことを先に考え、文学のことなど疑えと言い出した文学者は、三島の前に二葉亭四迷がいた。二葉亭四迷は文学を疑え、国家が先にある、文学を疑わないような文学は文学ではないというようなことを高い批評意識をもって語った人だが、二葉亭の場合には常にロシアという具体的な脅威が目の前にあった。そういえばすぐ国士、二葉亭の意気込みがわかる。

 三島と二葉亭がよく似ているのは、国家という意識が文学よりも先にあるべきだというこの自覚に加えて、小説の中に国家や国民をいれない。小説はあくまで市井のささやかな男女の心のひだを描くという点では両作家は同じであり、小説の中に政治や国家の問題をストレートに入れず、現実と美を切り離す。

 その点で非常に近代小説的で、三島と二葉亭は似ている。違うのは、二葉亭の場合は国家を語るときにロシアという具体的なものが目の前にあったのに、三島の場合は具体的なものがなく、戦後という米ソの谷間にあって、敵がはっきり見えない、まるで霞のような、あるいはまたぼんやりして正体不明なふわふわしてよく見えない現実の中で、文学は二の次だという二葉亭と同じような現実への覚醒の意識を維持するために、困難が倍化していたように思う。

 それが、三島のあがいて穴の中に入っていく形で、最後は文学が政治と一体化して錐(きり)もみのような形になっていた所以であり、シュタンツェル大使に外敵もいないのに戦ったと言われた所以である。

 そういう意味での現実が捉えにくかった時代に生きたのが、三島由紀夫の運命だった。それゆえ、多くの人があの檄文を読んで、なんだろう、なんで自決したのかわからないと言ったのであるが、非常にはっきりと彼には世界の現実が見えていたんだと、私は本論でそのことを論じたのである。

 世界と日本の中に置いてみてこのことがわかった。彼には現実がすぐには見えなかった。わからない、二葉亭のようにロシアと簡単にいえなかった時代を生きた。それでも国軍の創設ということを言い、皇室への信仰の復権という具体的な政治のテーマを掲げ、しかし実際の小説はそういうものに感情的に紛らわされることなく、しっかりした明晰(めいせき)な輪郭のある小説を書く。文学と現実を切り離していた。

 しかし現実というものはロシアのようにはっきりしていなかった。それが三島の苦しいところであったし、彼の文学を規定している背景であったと私は思うのだが、しかし三島は全く空想を現実にしていたのではない。現実に立っていた。NPT体制を見ていた。

 三島は日本の現実的な政治をしっかりと見て、それを突き破り、死をもって現実を動かそうとしたリアリストであった。


(『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その六)

 周到な受賞工作

 私は、日本の保守政権を堕落させてきたのは靖国参拝とり止めの中曽根内閣からだと言ってきたが、佐藤栄作からなのではないか。彼から国家の「第二の敗戦」は始まった。彼はノーベル平和賞をもらう代わりに、アメリカに日本国を売ったのではないか。これは決して空想を述べているのではなく、論証が可能なのである。

 ノーベル平和賞自体を佐藤本人は寝耳に水だと驚きのポーズをみせたが、周到な受賞工作の結果であった。その功労者のひとりが、前年に同賞を受賞したキッシンジャー国務長官であった。佐藤はキッシンジャーにこの点で頭が上がらない。

 1974(昭和49)年にフォード大統領が来日した際、国務長官が同行団の中にいて、佐藤栄作は日本国内に彼を訪問した。総理の座を離れて二年半経っていた。訪れた理由は、ノーベル平和賞授賞式におけるスピーチの草案について、キッシンジャー国務長官の了承を取ることであった。

 佐藤は核保有五大国(米、ソ、英、仏、中)に対し、核兵器全廃を訴えようと立案していたが、キッシンジャーの了解は得られなかった。当時西側は、通常ミサイルに関してソ連に後れをとっていたので、ソ連を牽制するには核兵器の抑止力が不可欠だった。

 「何をとぼけたことを言い出すのか」と、キッシンジャーは憮然たる面持ちだったそうだ。ノーベル平和賞をもらったとたん核廃絶論者、絶対平和主義者づらをするのが許せなかったのだろう。

 国務長官に一蹴され、佐藤は文言を削った。彼はスピーチを報じる新聞の報道を後日キッシンジャーにわざわざ送り、約束どおり核廃絶を訴えることはしなかったと、身の証を立てたそうだ。キッシンジャーは彼の前に立ち塞がるアメリカの「意志」そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具であることがここからもいえる。

 佐藤が五大国の核廃絶を訴えたのは大江健三郎の平和主義からではなく、日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない。切ない抵抗だったのかもしれない。真意は分らない。

 沖縄返還後の核再持ち込みの密約の存在、「核抜き本土並み」返還がウソだった事実が、後にアメリカの公文書公開で明らかになったように、佐藤が核廃絶論者であり得るはずはないのである。

 キッシンジャーに会った半年後、佐藤栄作は脳溢血で倒れ、この世を去った。

 以上はミシガン州にあるフォード大統領図書館の機密公文書の公開によって明らかにされた史実で、これの発見と報告は春名幹男元共同通信ワシントン市局長(現名古屋大学教授)の月刊『現代』(2008年9月号)の論文に負うている。

自壊に近づく日本

 いろいろ忖度(そんたく)してみても、佐藤栄作の核をめぐる安全保障観はどこまで合理的かつ現実的であったのかは本当のところは分らない。しかし彼の内心の思いが何であれ、日本の核開発放棄とNPT調印が評価されての平和賞受賞であり、そのとき「持たず、作らず、持ち込ませず」が平和日本の国家的標語として高らかに打ち上げられ、内外に広まり、国是になったことは疑えない。

 広島で毎年8月6日に行われる平和記念式典に登壇する総理大臣は、たとえ保守志向の総理であっても、世界の人類の永遠の核廃絶をバカの一つ覚えのように口にする。私は、安倍元総理がこの常套句(じょうとうく)を語ったときにエッと驚いた。ひとりぐらい違うことを言う人があってもいいはずだ。「北朝鮮や中国の核脅威には核でしか対抗できない。諸君!われわれは坐して死ぬわけにはいかないではないか!」と、広島の壇上で語りかける総理が出てきてもいいはずだ。

 非核三原則がいけないのは、汚いもの怖いもの臭いものは全部国の外にしめ出して、目を伏せ耳を塞いでいれば外からは何も起こらずわれらは幸せだ、自分の身を清らかに保ってさえいれば犯す者はいない、という幼稚なうずくまりの姿勢のほかには、いっさいをタブーとする迷信的信条の恐ろしさである。

 NPTに署名するに先立ち、これをためらい、唯々諾々(いいだくだく)と従っていては国が危ないと苦慮していた声がたしかにあったはずなのに、それに蓋をしたのが佐藤首相であることは紛れもない。

 それなら、国連などで核廃絶提案がたとえばスウェーデンあたりから出されたとき、日本政府は賛成案を投じるかといえば必ずしもそうではなかった。記憶に残る562件の国連決議において、日本の賛成派冷戦時代で40%、その後も平均55%となっている。

 なぜ、唯一の被爆国日本が核廃絶に関する決議に賛成できなかったのか。二hんの国連大使がネバダの核実験場にアメリカから呼ばれて、スウェーデンなどの提案に賛成するな、と説得を受けたこともあるという。

 日米安保という「核の傘」の下にあるのだから仕方ない、と日本政府はそのつご棄権と反対を繰り返し、なぜ日本が?と不思議がられた。佐藤栄作がキッシンジャーに一蹴され、文字を削ったのと同じケースである。

 それなら日本は逆にアメリカとしっかり組んで、西ドイツのような現実的な道を選べばよかったのではないだろうか。1960年代のNATOにおいて開始された「核シェアリング」のような合意が、日米間でどうして可能ではなかったのだろうか。ソ連の巨大な通常戦力の陸上での攻撃に、射程の短い核兵器の発射をアメリカから任せてもらうのである。この企てに参加したのは西ドイツのほかにイタリア、オランダ、ベルギー、およびトルコであった。

 射程の長い核兵器、砲、ミサイル、航空機の爆弾の三種はアメリカが保有している。ソ連による攻撃が核なくしては防げない事例にのみ、西ドイツの場合には150発を上限に核弾頭がアメリカから譲渡され、アメリカに頼らず自らの判断のみでこの爆弾を使用することが許されていたのである。

 核廃絶は空想である。旧社会党や大江健三郎の思想である。だから、これにアメリカが同意しないというのは十分に理に適っている。キッシンジャーが佐藤栄作の受賞のスピーチの内容に異を唱えたのは、むしろ当然であった。

 しかし、それなら日本の保守政権は60年代のNATOで始まっていたこの「核シェアリング」のような現実的な方策をなぜ取り入れようとしなかったのだろうか。なぜ空想に走るか、さもなければ不承不承のアメリカ追随に逃げるか、この二軸の間をウロウロ揺れ動いただけで、自らこうするという政策なしに終わっているのか。

 国連で他国が核廃絶の提案をすると、棄権する日本は何をやっているんだと見なされるらしい。つまり、左翼にもなりきれない。旧社会党のようなことを口では言っておきながら、それにもなりきれず、現場ではアメリカに調子を合わせる。そしてそれなら西ドイツのように「核を持ち込ませる」方針を積極的に選ぶのかといえば、そんな空気もないし、議論もしない。つまり何もしない。

 このぶざまな二分裂が今までの日本であり、今の日本でもあり、そしてその揚げ句、ついに民主党政権を誕生させてしまったのである。

 もうこれ以上待てるか。はたして大丈夫か。日本はじりじりと後退し、自壊に近づいているように思える。

 国是となった佐藤栄作の「持たず、作らず、持ち込ませず」に依る自縄自縛は、次第に自己硬直の域に達したといっていいだろう。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その五)

 核を持ち込ませた西ドイツ

 その発見を説明する前に、NHKが2010年10月3日夜「スクープドキュメント“核”を求めた日本」で報じられた、佐藤政権で密かに日本の外務省が西ドイツ外務省に、アメリカから離れ、両国共同で核開発を行うべきではないかと相談を持ちかけ、西ドイツに退けられたという話について、私の知るドイツの政治的並びに心理的実情とあまりに違うので、一言述べておく。

 番組は核開発を嫌った西ドイツ政府は平和主義で、秘密にこれを画策した日本政府を悪者のように扱っていたが、とんでもないことである。

 西ドイツは戦後NATOに加盟する際、核を開発しないことを約束させられた。しかし、核の保有を断念したわけではない。ことにアデナウアー首相が強い意志で核を持つという政策を掲げていて、圧倒的多数の国民に支持されていた。アデナウアーの流れの保守政権から社会民主党系の政権に移っても、基本の姿勢は変わらなかった。

 日本が非核三原則と言っている間に、西ドイツは核は作らなくても、持ちたい。それがダメなら、せめてアメリカの核を持ち込ませたい。切実にそう願っていた。自国の安全のためである。非常に強いリアリズムとしてドイツ人はそう考えていた。

 冷戦時に、西ドイツ国防軍には有事に際しアメリカの核弾頭が提供される仕組みになっていた。NHKの番組が取り上げた一件で西ドイツ外務省が日本提案を断ったのは、日独共同で開発することの拒否にすぎない。西ドイツが日本風の平和主義であったからでは決してない。

 ドイツ人が一貫して、何とかしてアメリカの射程の短い戦術核を持ち込ませたい、そうしなければやっていけないという危機感を抱いたのは当然である。そう考えない日本人が異常なのである。

 保守政権から交代したシュミット政権になったときに周知のとおり、ソ連が配備したSS-20という中距離核弾頭に対応してアメリカのパーシングⅡと巡航ミサイルを西ドイツが率先して受け入れ、かつヨーロッパ各国にそれを説得して配備させることで末期のソビエトと対決し、これを屈服させるという一幕があった。はらはらさせたが、しかし断固とした措置であった。これに似た対応がなければ、日本はおそらく、中国と北朝鮮の連合軍による核の威嚇をはねのけて、自由で平和な今のような祝福された国土と国民生活をこのまま維持し続けることはできなくなるだろう。その意味で60-70年代の佐藤政権が「持ち込ませず」まで宣言したのは、どう考えても大失策であった。

 原因は、単なる彼の性格的ひ弱さだろうか。唯一の被爆国というマスコミへの媚(こ)び諂(へつら)いだろうか。アメリカの政策にすり寄りたい点数稼ぎだろうか。それとも、結局は彼の頭脳も旧社会党型平和主義者のそれなのだろうか。

 日本を売った佐藤栄作

 三島由紀夫の自決は、もとより半分は文学的動機によるものであり、政治的動機であの事件のすべてを説明はできない。文学者としての思想的理想がなければ、あのような極限的行動は起こらなかった。しかし、ドイツ大使シュタンツェル氏が言ったように、国の外にhostile enemyを見ない、自閉的で幻想的な行動、世界の政治現実をいっさい映し出していない、リアリティから隔絶した自虐的な行動だったのだろうか。

 私は過日、「檄」を読み直してアッと驚いた。三島由紀夫はNPTのことを語っているのだ。今まで気がつかず読み落としていた。彼が自衛隊に蹶起(けっき)を促すのは、明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵を意識しての話なのである。このままでよいのかという切迫した問いを孕(はら)んでいる。

「この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこかへ行かうとするのか。

 繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停止条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。・・・・・・(以下略)」

 六年前に中国が核実験に成功し、核保有の五大国として「核停止条約」(NPTのこと)で特権的位置を占め、三島が死んだこの年に台湾を蹴落として国連に加盟、常任理事国となるのである。「五・五・三の不平等条約」とは、ワシントン会議における米英日の主力戦艦の保有比率であることは見易い。

 三島は、NPTに署名し核を放棄するのは「国家百年の大計にかかはる」と書いている。NPTの署名を日本政府が決断したのは1970(昭和45)年2月3日で、同じ年の11月25日に三島は腹を切った。

 そして、NPTの署名と核武装の放棄を理由に、佐藤栄作はノーベル平和賞の名誉に輝いた。佐藤は三島の最期を耳にして「狂ったか」と叫んだ。政治家の穏健な良識がそう言わせたのではなく、自らの虚偽と欺瞞と頽廃と怠惰と痴愚と自己愛とが三島の刃に刺されたがゆえに、全身を襲った恐怖が言わせた痛哭(つうこく)の叫びだったのだ。

 文中にある「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である」は、すごい一言である。私もずっとそのように認識し続け、またそのように書き続けてきた。

 親米保守に胡坐(あぐら)をかく自民党の軍隊は「村山談話」に屈服して、田母神空将を追放し、ついに民主党の軍門に下った。今の自衛隊を風水害対策班にし、別の新しい「真の日本の自主的軍隊」を創設すべき秋(とき)は近づいている。

 「あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう」の「あと二年」とは1972(昭和47)年を指す。沖縄返還が72年に実現した。その頃から準備と工作を続け、74年にノーベル平和賞である。三島の死んだとき防衛庁長官は中曽根康弘だった。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その四)

 アメリカに保護された平和

 最近の政治家、官僚、学者言論人が、いつ終わるかもしれないぬるま湯のような“アメリカに保護された平和”に馴れ、日本はIAEA(国際原子力機関)に事務局長も送り出しNPTの優等生ではないかなどと呑気な顔をしているのは愚かもいいところで、自国の置かれた最近の一段と危険な立場が見えていない証拠である。

 たしかに、その後今日までにイスラエル、インド、パキスタン、そして北朝鮮が核保有国になり、NPTは半ば壊れているかもしれないが、中国と北朝鮮が日本列島にミサイルを向けている情勢は変わっていない。それどころか、近年にわかにキナ臭くなっている。中国と北朝鮮の対日敵性国家としての連帯は次第に年ごとに露骨になってさえいる。

 三島由紀夫が自決したのは周知のとおり、1970年11月15日であった。右に見てきた諸情勢のちょうど真っ只中において起こった事件だった。

 佐藤栄作が日本に対する核攻撃に対し、必ず日本を守ると言ってほしいとジョンソン大統領に頼み、口頭の確約を得たのが先述のとおり1965(昭和40)年1月であった。この日米会談に先立って、佐藤は沖縄の本土復帰を強く意欲していた。同年8月には那覇空港で、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国の戦後は終わらない」という有名な声明を発した。

 核実験の成功から国連加盟へ向けて国家的権威を高める共産中国の動向を横目に見ながら、アメリカから不確実な「核の傘」の約束をとりつけ、沖縄の早期返還を目指した佐藤長期政権の政治的評価は、今日的意味が非常に高いと思われる。

 論評も数多くあることを私は知っているが、その詳しい跡づけをするのがここでの私の課題ではない。返還までの過程で、佐藤は例の非核三原則、有名な「持たず、作らず、持ち込ませず」を言い出した。1967(昭和42)年のことである。

 そして72年には沖縄の完全返還も達成し、7年8ヶ月に及ぶ首相の座を退いた後の1974年秋にノーベル平和賞を授与されたことはよく知られている。授賞の理由は「日本の核武装に反対し、首相在任中にNPTに調印したこと」などとされている。

 しかし、彼はもともと核武装論者であったはずである。沖縄の合意の際に、返還後の核再持ち込み密約交渉があったことは、佐藤の「密使」とされた若泉敬氏の著書の中で明らかにされている。私はこのような密約の存在は、なんら驚くに値しないことと思っている。

 民主党の岡田前外相のように、軍事問題で密約そのものの存在を追及し、暴露するなどはまったくナンセンスなことである。そうではなく、核武装の必要を知っていた佐藤が「持たず、作らず」はともかくなぜ「持ち込ませず」のような、日本を反撃力の完全な真空地帯にしてしまう愚かな宣言に走ったのか、そこが不透明で分らないと言っているのである。否、「持たず、作らず」を含め、非核三原則など自ら言い出す必要はまったくなかったはずだ。

 すべてを玉虫色にしておくのが、国家安全のための知恵である。NPTの署名から批准に至るまで、6年間もためらい続けたあのフリーハンドへの関係者のこだわりは、なぜ見捨てられ、まるで旧社会党か学生が喜ぶような単純な三原則が掲げられたのか。

 三島由紀夫が自決した報を聞いて、佐藤栄作の第一声は「狂ったか」であった。私は若い時分にそれを聞いていて、政治家が文学者の行動に理解が及ばないのは普通のことで、政治家らしい反応だと思い、深く考えることはなかった。佐藤首相を責める気持ちもなかった。責任ある立場であればそのように考えるのは当然だろうと思った。しかし、三島の「檄」を最近読み直してそうではないことに気づいた。今の時代が新しい読み方を私に教えた。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その三)

 口約束で終わる「核の傘」

 三島由紀夫が市ヶ谷台で自決した1970(昭和45)年を境に、その前後の国際情勢と日本の位置を考えてみると、アジアに急激な変化が訪れていたことがわかる。ソ連軍のチェコ侵入は1968年で、世界の眼は共産主義体制の脅威と衰弱のあせりとを見ていたが、中国が別様に動き出していた。ちょうど同時代の文化大革命のことだけを言っているのではない。核実験の成功である。

 1964(昭和39)年の東京オリンピックの開催中に、それに当てつけるかのように中国から核実験成功のニュースが飛び込んだことはわれわれの記憶に鮮やかである。やがて、1971年に北京政府は国連に加盟することにも成功した。台湾政府は追放された。これらはアジアにおけるきわめて大きな出来事である。

 核実験から3ヶ月後の1965(昭和40)年1月12日に、佐藤栄作首相はホワイトハウスで行われた日米首脳会談でリンドン・ジョンソン大統領に対し、「中国が核兵器を持つなら日本も核兵器を持つべきだと考える」(米側議事録)と述べたといわれる。

 しかし、アメリカは日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づき核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の保障を与え、日本の核武装を拒否した。日本とドイツには核兵器を持たせまいとしたのが当時のアメリカの政策だった。佐藤が日本の核武装に大統領の前でどれくらいこだわり、どれくらいその主張を現実に言葉にしたかは明らかではない。

 翌1月13日に、佐藤はマクナマラ国防長官との会談で「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えたということである。

 さりとて「核の傘」は当時も、そして今も明文の形で保証されてはいない。アメリカの要人が「核の傘」の原則を語り、その都度つねに口約束で終わって、日本に核のボタンを自ら握らせる立場には絶対につかせないという方針があったようで、1965(昭和40)年の佐藤・ジョンソン会談でそれが最初に表明されたのである。

 NPTの目的

 当時、核保有国は中国が入って五カ国になった。そしてそのころ、同時によく知られている通りNPT(核兵器不拡散条約)が進められていた。旧戦勝国の五カ国が核を独占する不平等条約である。1963(昭和38)年に国連で採択され、今でこそ190を超える国々が加盟しているが、1968年の段階では調印したのは62カ国で、1970年3月に発効している。

 日本は2月にしぶしぶやっと署名に踏み切った。西ドイツが1月に署名したのを見きわめて、ぎりぎりまでねばって滑りこんだ。しかし署名はしたものの、なお釈然としなかったといわれる。理由はNPTの目的にある。村田良平元外務事務次官がその回想録で述べているとおり、NPTの七割方の目的は、経済大国になり出した日本とドイツの二国に核武装の途を閉ざすことにあったからだ。

 当時日本はアメリカ、イギリス、ソ連だけでなく、カナダやオーストラリアなどからも、NPTにおとなしく入らなければウラン燃料を供給してやらない、つまり原子力発電をできなくさせてしまうぞと脅しをかけられていた。

 それでも日本が署名をためらったのは、将来日本独自の核戦力を必要とするときが来るかもしれないので、自らの手足を縛るべきではなく、フリーハンドを維持するのが国の未来のためであるというまっとうな考え方に立っていたからである。当時の外務事務次官はそう公言していたし、自民党内にもそういう意見が少なくなかった。

 したがって、1970(昭和45)年1月に日本はNPTに署名を済ませた後も、えんえん6年間も批准を延ばし、条約の批准を果たしたのは、やっと1976年であった。

 この6年間という逡巡と躊躇の意味は、今の日本人には忘れられている。当時の日本はまだ国家を守るという粘り強い、健全な意志があったということだ。二流国家になってはいけない、いつの日にか軍事的に蘇生しなければ将来、国家の存続も危ぶまれるというまともな常識が働いていた証拠である。今は過渡期であり、敗戦国はいつまでも敗戦国に甘んじてはいけない、という認識がはっきりあった。

 1970年2月3日のNPT署名に際しての日本国政府声明のⅠ「軍備および安全保障」第五項に、次のように記されている。

 「日本国政府は、条約第十条に、『各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認めるときは、その主権の行使として、この条約から脱退する権利を有する』と規定されていることに留意する」

 必死の思いで念を押している切ない感情が伝わってくるような条項だ。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その二)

ドイツ大使の三島由紀夫論

 ちょうど一年前になるが、2010(平成22)年の1月12日に東京広尾にあるドイツ大使館公邸の夕食会に招待された折に、フォルカー・シュタンツェル大使と私との間で、三島由紀夫のことが話題になった。

 大使は日本学を研究する哲学博士で、70年代に京都大学に留学していた経歴を持つ。大使が三島の死から11年後に書いた英文の論文Traditional Ultra-Nationalist Conceptions in Mishima Yukio’s Manifesto が後日私に送られてきた。ここでいうManifestoとは三島が自衛隊市ヶ谷基地で自決した際に、手書きで何枚も準備してバルコニーからばら撒いたあの「檄」のことである。

 論文の内容は非常に穏当な捉え方をしていて、三島の生涯はなんらultra-nationalismに捧げられたものではないけれども、しかし彼はなんといってもultra-nationalistであったということを書いている。

 全体として書かれていることは概(おおむ)ね知られていることで、現代日本の空虚と腐敗を排撃し、国軍の復活を三島は激越に求めていたと理解していて、誰しもが承知している「檄」の内容の理解の仕方だといっていいのだが、読み進めていくうちに私が面白いと思った個所があった。

「三島は自国の外になんらの敵のイメージをも創り出さない。自国の悲惨がその国のせいだと言い立てるスケープゴートを国外に見ていない。日本がアメリカの政治的リーダーシップに従うあまり独立を失っているのは嘆かわしいと見ているけれど、それはアメリカが日本に敵意を持つ国だからではない。

 しかもアメリカ以外の国はどこも言及されていない。三島が主に苦情を申し立てているのは、自国の国内の状態に対してであって、敵対感情を投げかけてくるような外部からのいかなる脅威に対してでもない」

 そういえばたしかにそうである。

 三島由紀夫は、精神的にも政治的にも国内の日本人に向かって訴えたのであって、国外の世界に向かって格別なにも主張していない。

 考えてみると、1970年前後というのは日米関係が最も安定していた時代であった。日米安保条約は自動延長されている。ドイツ人外交官の眼に、外敵の恐怖も脅威もない時代に、あのような苛烈なナショナリズムを燃え立たせる三島由紀夫の情熱はどうにも理解できない、不可解なものに見えたというのはいかにも分かり易い。

 三島の予見の正しさ

 けれども、大使は学者外交官らしく、もう少し奥深いところにも踏みこんでいる。他国に対し敵意を持ったり持たなかったりするのは普通のnationalismで、それに対し、ultra-nationalismはそういうレベルを超えて、伝統文化や民族文化に遡って歴史の奥からnationの概念をつかみ出し、これを強固にするイデオロギーであって、三島を理解するには江戸幕末期の「国体」の概念と比較することが必要であると説いている。

 三島の思想と行動に、江戸幕末の志士の「国体」論を結びつけて考える人はこれまで多くはなかった。ドイツ人がこの観点を引き出したことは興味深い。

 ただ、私が一読してハッと目を射抜かれたのは歴史の解釈ではなく、三島が自国の外にいかなるhostile enemyをも見ていないと述べたあの個所なのだった。

 そうだ、そういわれてみればたしかにそうだ、と私は思った。あれほど激越な行動が、つまるところ「敵」を欠いていた。内省的で、自閉的で、ある意味で自虐的行動にほかならなかった、そう外国人に指摘されていささか虚を突かれる思いがしたのだった。

 この指摘は、しばらく私の心の中に小さくない衝撃の波紋を投げかけていた。ひょっとすると三島事件は本当に、完全に終わったのかもしれない。文学者の個人的事件となり果てて、政治の次元での現実性はもう問われる必要はないのかもしれない。

 今年、私が三島由紀夫への新しい認識や思い出、関連する体験というのはシュタンツェル氏の論文が唯一だったので、ずっと私の心はその一点に止まっていた。

 けれども、三島の行動はたしかに戦後の日本人らしく内向きだったかもしれないが、その洞察と予見の力はつねに大変に大きく、誰しも知るとおり自由民主党が最大の護憲勢力だ、と喝破した40年前の彼の言葉は、まさに今深く鋭く私たちの目の前の現実を照らし出し、予見の正しさを証明しているのである。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

三島由紀夫の自決と日本の核武装(その一)

 昨年の憂国忌シンポジウムで四人のコメンテーター(桶谷秀昭、井尻千男、遠藤浩一、私、司会者。宮崎正弘)が交互に3回づつ没後40周年の感想を語った。ひとりの持ち時間は合わせて30分くらいだったろう。私は用意していた一つのまとまったテーマを披露した。

 それはわが国の非核三原則と佐藤栄作のノーベル平和賞と西ドイツの核戦略とに関係のあるテーマである。自決の際の「檄」に三島由紀夫がNPTについて述べていたという、私なりの新しい発見があっての内容だった。「檄」を読み返して気がついたのである。そのときは自分の眼を疑うほどに驚いた。「檄」は何度も読んでいたはずなのに読み落としていたのだった。

 何日か後に産経新聞に石川水穂氏が私のこの発言を特別に取り上げた記事を書いてくれた。反響は他からもあった。関岡英之氏がテレビと講演とで言及しYou Tubeにもなって流れた。花田紀凱氏から寄稿依頼があり、私はより詳しいデータ分析を加えて『WiLL』2月号に「三島由紀夫の死と日本の核武装」を発表したのでご存知の方も少くないだろう。

 ところが、私のこの『WiLL』論文を読んでいないある未知の方で、憂国忌の私の発言は聞いていて、それにだけ基いて、今までに私が耳にしたこともない驚くべき内容の新情報を寄せてきた方がいる。宮崎正弘氏のメルマガの読者からの通信欄に(ST生、千葉)とのみ名乗った方の投稿がそれである。私のこの「日録」にはコメント欄がないので、宮崎さんの所に投稿されたらしい。

 まずはそれを読んでいただこう。

(読者の声1)平成22年の憂国忌での西尾先生のご発言で謎が解けました。非常に信頼できる方から聴いたことではありましたがなぜか腹の底に落ちない、どこか違うという思いが頭から放れませんでした。
衝撃的な話ではありますが、話の主は誠実無比、頭脳明晰な方です。直接の関係者がすべてなくなった今、その意味することを残った我々が真摯に探究できるのでしょう。否、結論をださざるを得ない時がすぐそこにきています。
宮中では長年の習わしで、どんな方でも80歳を超えるとお勤めをやめることになっています。その例外として、真崎秀樹氏は昭和天皇の通訳を80歳を超えてからも、陛下のたってのご希望でお勤めになられていました。
ある日、部屋に陛下と真崎氏のみがいたとき、陛下は窓の方をみながら、「私がおまえをその歳になっても使っているのは、真崎大将の長男だからだ。私は今までに二つ間違ったことをした」とおっしゃられました。
私がその話を聴いたのは、真崎氏と親しい仲であり、その方自身陛下から非常に信頼された方からです。昭和40年ころ宮内庁の職員組合が宮中祭祀は公務ではないので手伝わないという決定をしたとき、民間人で手伝う人を選定することを委嘱された方です。どの程度、陛下がご信頼なさっていた方かわかると思います。
その方は、「二つの間違いの内の一つは、二・二六事件での処置である事は、陛下のお言葉から明らかである。もう一つは確かにはわからない。私はポツダム宣言を受け入れたことであると思う」といわれました。
私は、「大東亜戦争を開戦したことではありませんか」と言ったところ、「あの時は政府が既に開戦することを決めていた。政府が決めて了解を求めてきたら陛下は承認するしかなかった」とのお考えでした。
陛下を私などとは比べ物にならないほどご存知の方のいわれたことなので、ひとかけらの疑念はありましたが、そうなのであろうと思っていました。
しかし、西尾氏の発言でそうではないことに気づきました。
それは日本陸軍が研究していた原子爆弾の開発を禁止したことです。
結局、原子爆弾の惨禍にあったのは日本人だけだ。相互抑止が働いて、日本が爆撃されただけでそれ以降は使われなかった。それなら、日本が先に開発して実験だけすれば、だけも傷付かずに、あれほどの惨禍を日本人にもたらさずに終戦に持ち込めたはずだ。その想いが陛下をさいなみ続けていたのでしょう。
昭和19年の夏か秋ごろ、参謀総長が参内して陛下に「原子爆弾開発の目処がつきました」とご報告したところ、「お前たちはまだそんなものをやっていたのか」ときつくお叱りになり、開発中止となったという話が巷間にも伝わっています。
しかし一般にはそれは旧陸軍の人たちが自虐的に心の慰めのために作った嘘話であると信じられています。あの当時の日本の工業力では高純度のウラン235やプルトニウムを充分な量確保することは不可能であった、起爆装置の開発も無理だった、それに、開発した痕跡が残っていないというのが一般の認識です。
しかし私は、あの時点で日本の原爆開発は完成間近まで行っていたと確信いたしております。一つには、当時陸軍の参謀で陸軍大学優等卒業の方から以前、「昭和19年の夏に参謀長から新型爆弾が完成したので、これで戦争に勝てると聴いたが、12月にあれは陛下が使うなとおっしゃられたので使えなくなってしまった」と聴いたからです。
陸軍内のエリート人脈に属したその人には極秘情報が通常のチャネル以外から入ってくる。しかもその人は妄想や嘘話とは対極にある冷静かつ論理的な方です。
もう一つは、現在知られている2タイプの原子爆弾とは全く違うデザインの原子爆弾を作ることが可能であると私は考えています。そのデザイン自体は口外できませんが、当時の日本の工業水準でも十分開発可能であり、遥かに少ない量の純度のそれほど高くないウラン235を使って超小型の原子爆弾を作ることが可能なはずです。大規模な設備は不要なので、昭和19年の12月に開発中止になったのなら設備の痕跡を消すことは簡単であったことでしょう。
その方は、現行のウラン型原子爆弾を前提としてドイツから原子爆弾開発に十分な量のウラン235の提供を受けていたはずであると言われましたが、私は別のデザインのものであった可能性のほうが高いと考えます。
西尾さんもご指摘になられたように昭和39年の中国の原子爆弾実験後、日本政府の中でも原子爆弾開発の動きがあり、ドイツとの共同開発の協議があったことが明らかになっています。
私は、佐藤内閣の非核三原則は米国政府から強要されたものであると考えます。特に「持込ませない」は、米国政府からの、ドイツに提供するような核兵器を現実に配備しての防衛体制は日本に対してはとらないという、「防衛無責任体制」の宣言であり、米国政府から日本政府、日本国民への負の宣告です。
原潜等に積み込まないなどという幼稚な約束ではありません。そんなことはそもそも日本政府に検証不可能だからです。
佐藤総理はその意味を正確に理解していたからこそノーベル平和賞受賞演説の中で米国政府の反対を押切って「全世界の核廃絶」訴えたのでしょう。三島由紀夫もそのことを理解していた。そして佐藤首相は三島ならわかっていると知っていたからこそ、三島の自決を聞いて、「狂ったか」と叫んだのだと確信します。
昭和天皇、三島由紀夫、佐藤栄作、この三人は核拡散防止条約の持つ危険性を理解し、おそらく、この三人だけは理解していることをお互いに感じ取っていたのでしょう。当時表立って話すことのできないこのことを。
陛下は、昭和19年に開発を禁じたことを間違いであったとおもわれたのでしょうが、戦後にあるいは現時点で再度解発することを望まれていたとは私は言いません。しかし、この「昭和遺言」を知った以上なすべきことがあります。
それは昭和19年の時点でそれを使えば戦争に勝てる可能性が高いにもかかわらず、使わなければどのような惨禍が待ち受けていたかを知った上で敢えて核兵器開発を禁じたお方がいられたということです。
そしてそのお言葉を慫慂として受け入れた軍人がいたということです。日本がこれから軍備をどのようにしていくにしても、このことを核兵器を既に持っている国の国民と指導者、現在、開発中の国の国民と指導者、そして誰よりも日本国民自体が知り、心に刻み込まねばなりません。
それができない人間に平和を語る資格はありません。
  (ST生、千葉)

(宮崎正弘のコメント)驚き桃の木のお話でした。真実であるとすれば、有力雑誌のトップ記事ではありませんか。
さて今月の『WILL』の西尾幹二さんの論文は「三島由紀夫と核武装」です。これは憂国忌での西尾さんの発言をもとに大幅に加筆されたものです。

 私にも「驚き桃の木」の話なのである。本当なら一大スクープであり、政治的影響も大きい。読者の皆さんはどうお考えになるだろうか。新情報があったら、また宮崎さんのメルマガに投稿してほしい。お話の内容に憂国忌での私のコメントに関して少し誤解もあるので、『WiLL』2月号拙論を次回から分載掲示する。