大寒の日々(三)

 2月1日(日)の夜、この日録で高校時代の友人のK君として紹介してきた河内隆彌君と二人だけのお酒を飲む会を持った。

 河内君は東京銀行に入行し、ベトナム、インド、ベルギーなどにも勤務し、ことにベルギーは長かった。ベトナムはあのテト攻勢の最中のサイゴンを経験している。なぜこれらの地が活動の場となったかといえば、大学で第二外国語としてフランス語を選んだからである。

 フランス語はわれわれの若い時代に、文学部か理学部数学科でない限りあまり選択されなかった。社会科学系の河内君にしては珍しいコースだったと思う。勿論彼は英語もよくできる。英仏両刀使いのビジネスマンだった。

 彼は私たちの高校時代(昭和26-29)、クラスの誰からも信頼される、男らしい男、きっぷのいいいわゆるナイスガイだった。アメリカ映画音楽の流行った時代で、彼の歌ったHighnoonやDomino や Kiss of Fire は今でも忘れがたい。

 彼はこの夜カルカッタの話を盛んにした。インドは多民族多言語国家で統一国家ではない、と言った。中国もそうだろう、と私が言うと、中国はそれでも秦が統一した時期を経ているのでインドとは違う。インドを統一したのは英国であった。しかも英国は海から入っていったので内部に入っていない。それでいて英語が唯一の共通語だ。中国は漢字で相互理解ができるが、インドは英語以外に手がない、等々。カルカッタの底抜けの貧しさも強烈な思い出になっているようだった。

 私もそういうインドと中国が、期待される「大国」として台頭している現代は理解しがたい、と言った。しかし20世紀の前半に日本が「大国」として台頭したことも、ヨーロッパ人ことにイギリス人は理解しがたかったことと思う。

 河内君はいま Colin Smith というイギリス人の書いた Singapore Burning という本を読んでいるというので、もっぱらその話になった。まさに日本の台頭に対するイギリス人の戸惑いと恐怖の物語なのだ。

 イギリス軍ははじめ噂にきく「零戦」の出現を信じていなかったようだ。しかし目の前で次々とイギリス軍機が撃墜された。とはいえこの本は必ずしも戦闘場面だけの本ではないそうだ。

 イギリス人、オーストラリア人、日本人、インド人などが総勢550人も出てくる人間群像の物語で、辻政信も源田実もチャンドラボースも登場人物として出てくるという。勇気と献身、ためらいと逃避の両面が描かれている、まさに人間の物語だそうで、個々の人間のエピソードが綴られ、具体的な描写に満ち満ちているというから私も読みたくなった。

 何よりもいいことはイギリス人の著者の「公平さ」だという。勝利した日本軍に対する敬意、あわてふためいたイギリス軍に対する自戒と反省も書きこまれているという。たしかにあのとき以来、イギリス海軍は太平洋で二度と起ち上がることはできなかった。プリンス・オブ・ウェールスとレパルスの撃沈は17世紀以来無敵だったイギリス海軍を事実上消滅させたほどに衝撃的な出来事だった。

 もし日本がアメリカと戦争をしなかったら、歴史は大きく変わっていたろう。そんな話を二人でしていて、今の日本の言論界の空気、田母神問題で揺れている敗北者心理のことを考えた。

 Singapore Burning のような日本側が大勝利を収めた事件、それを日本人ではなく向う側の人が「公平」に書いた本ほど今のわが国の愚かな歴史意識をいっぺんに吹きとばしてくれるものはないだろう。世界は日本を公平に見ているのに、日本人が自分を歪めて見ようとするのだからどうにも話にならない。

 2月3日に同じ東京銀行にいた足立誠之さんが私の論文「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」(『諸君!』3月号)について、次のようなコメントを送ってきてくれた。

 足立さんは前にも言ったが、カナダで緑内障を悪化させ失明した。カナダ在住中に奥様を亡くされた衝撃が眼の病気に致命的に作用したと聞く。本当にお気の毒でならないのだが、力強く生きている。

 文字を音声化する機械があるそうである。私の『GHQ焚書図書開封』はそれでお読みになったそうだ。ありがたいし、申し訳ない。

 以下の文から足立さんの知性の高さ、生命力の強さがはっきり看取される。いかばかりかご不自由な生活であろう。しかし、彼の日本への愛と再生への期待はそれを乗り超えるのに余りあるほどに強烈である。

 私は私の文が評価されていることではなく、足立さんのいつも変わらぬ平静さと取り乱さない一貫した愛国心のしなやかさに心から敬意を捧げたいと思う。

西尾幹ニ先生

 「諸君」3月号掲載の先生の論文を拝読いたしました。(実は弟に読んでもらったのですが)
 
 文芸春秋、諸君、正論、Voice, WiLLの主な論文は弟が先ず見出しを読んでくれ、それの中かから興味あるものを読んでもらうわけです。目が見えていたときにも感じたのですが、この頃の論文は読む気がしません。どうも論文が自分の主張を主張するために何でもかんでも都合のよい情報をパッチワークし、論文にしたようなものが多い。
 
 そうした方法に私は嫌気がさしているようです。
 
 娘が理工系で、ある企業の研究機関で働いていますが、頭とコンピューターで仮説を立て、コンピューターを使いながら実験を重ねて仮説を検証していく、そして総ての疑問が実験と検証で満足がえられた末に理論が出来る。そこでは”多数決”は無縁です。
 
 ところが人文科学の世界ではそうではありません。ある学説が都合のよい材料をかき集めて出来上がり、それを”確立した学説”、”学会の通説”などと言う。これは科学でもなく、近代精神にも無縁な中世的現象とも言えるでしょう。

 「田母神論文」問題ではそれが村山談話に合致しているのかという観点ばかり、あるいはそれが正しい歴史認識であるのかという議論ばかりが今までの論壇誌の中心でしたが、先生はそうした議論の元となる方法論に言及され、アプローチが科学の名に値するのかという点に鋭く切り込まれています。

 これは雑誌のつまらなさの本質をつかれています。

 私は2002年以来アメリカの対中国政策のUSCCの報告書、公聴会議事録を読んできました。それを動機つけたものは、新たに見出した世界に「あやしふこそものぐるほしけれ」の喜こびが湧き上がるからでした。

 「GHQ焚書図書開封」はおなじような思いを抱かせて呉れました。歴史を考える時にはその時代に一度自分が浸らなければ話ははじまらないことは当然で、それをしない歴史家は「あやしふこそものぐるほしけれ」の心境には絶対になれず、したがって歴史とは無縁な存在になるわけです。
 
 保守を自認する人達の多くがこの点で科学とは無縁の存在でしょう。
 
 更に先生のご指摘通り、”昭和史家”なる言葉までうまれて、これは時間と空間にある一定の限界を設けることによる事実の隠蔽です。
 
 毎年夏になると、文芸春秋などには半藤一利、保阪正康、秦郁彦などの「昭和史家」による「なぜあの戦争に負けたのか」論のテーマで戦前の日本の歴史を断罪する特集が組まれます。多くの人はもうこんな雑誌には飽き飽きしています。
 
 今年こそ、こうした雑誌の安易な編集に変更がくわえられるべきでしょう。飽きられた「昭和史家」でない新しい企画の登場を雑誌の世界に希望します。生半可な感想で恐縮ですが、以上ご報告申し上げます。
                         足立誠之拝

 上記の分析と感想に心から感謝申し上げる。今日ご登場いただいた河内隆彌氏、足立誠之氏のご両名は河内氏が七歳上の同じ東京銀行入行者であると最近聞き知った。が、互いにまだ面識がない。

 お二人はともにビジネスマンであった人で、政治とも戦争とも関係がないのである。平和な時代の日本の繁栄の担い手だった。そして今、日本のことを憂えている。

 機会を得てお二人が出会い、海外任地での活躍の時代の思い出を語り合ってもらいたいと思う。

大寒の日々(二)

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 友人の粕谷哲夫君が30日にいち早く次のようなメールをくれた。私の手許にもまだ来ていない『諸君!』3月号の拙論に関する心安だてな感想である。後で聞けば予約購読者には少し早く届けられるのだそうである。

 友人だからざっくばらんに書いてきてくれる。「ページ数が足りない」というのは、40枚も書いているのだから足りないはずはない。足りなく感じられたということだろう。それは退屈しないでさっさと読めた、という意味にもなり、重ねてありがたい。

 我田引水で申し訳ないが、まずこれを掲示する。

西尾 兄

「諸君」3月号の 論文 今 読んだ。
たいへんよく出来ている。

西尾幹二論文の中でも 小生の見たてでは 率直のところ 上位の 論文です。

あえて言えば ページ数が足りない。これは貴兄の責任ではないが、大衆向きには若干舌足らず。
まだあると思ってページをめくったらそれで終わっていたのは残念、という感じがしないでもない。
その意味でも続編があっても いい。

小生は この論文の背景はなんども聞いているので 論理に飛躍はないが、初めての人には 若干理解が難しいかもしれない。

また アメリカが公文書公開を いまなお押さえている事実、NY Times など当時の新聞にあった ルーズベルト発言 など多くの 日本を打て の言説の存在の事実(ヘレン・ミアーズも多数引用しているが、まだまだたくさんあると思う)を見て いつか 日米開戦の歴史評価は 変る 可能性が大きい・・・・・ (それが歴史と言うもの)など 具体例がもう少しあればよかったかと いう感じもするが 欲張りすぎでしょう。

歴史哲学に スペースをとりすぎの感無きにしも非ずだが、これもやむをえないでしょう。
世間が無知だから。

何もかも書くと言うのであれば 大著にならざるを得ないので 雑誌論文としてはやむをえない。

「国民の歴史」のころと異なり アメリカの腰が砕け、中国は相当の重症(今まで稼いだ金はあるが、新たな収入は期待できず、民情は乱れ、・・・・)に陥り、客観情勢は一変した。それだけに この論旨をさらに肉付けした 大型企画を期待する次第。

そのほか 歴史の全体と部分 という問題ですが、小生は <歴史を鳥瞰する>視点と、  <歴史を虫瞰する>視点 ・・・・・・<鳥瞰> と<虫瞰> が 一つの切り口だとかねがね思っています。
両方含むと<大河小説>  虫瞰だけだと<私小説>。

保阪氏の言っていることは <虫瞰> 次元ではほとんど正しい。 何せ3000人ぐらいの人の話を聞いて書いているので、嘘は言っていない。しかし 3000の<虫瞰>だけでは 真実の 歴史の<鳥瞰>は 出てこない。

保阪氏は 小生知っていますが、 中西氏の言うような 外国の視点はないし、 トインビーやハンティントンの<鳥瞰する>視点もない。  森林よりも 花粉に 関心が傾斜することには間違いない。

・・・・歴史は一筋縄ではいきません。

あすは 拓大の 黄文雄6時間歴史講義を聴きに行きます。
3回で合計18時間、あの日本語を 聞くのはつらいけど、 自分は史実をしらなすぎる。歴史書では頭に入らない。

明後日には あの茂木さんが歴史の勉強会をやるというので、何をしゃべるのか聞きに行きます。あとは 東アジア近代史は小説でよむ。 おっしゃるとおり。歴史は小説がいい。

阿片戦争はイギリスが悪いのだが、あとあと 阿片は 軍の資金づくりのために必要欠くべからざる 重要物資で、蒋介石も毛沢東も これを使っているし、日本陸軍も イランから中国への阿片輸入介在による資金づくりを内密に里田甫に 懇請している。・・・・歴史とは一筋縄ではいきません。

以上雑感まで

粕谷

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 ちなみに粕谷君は商社員としてアメリカ経験が長く、親米派である。そして、そういう意味ではあえて言っておくが私も親米派である。少くとも反・反米派である。

 歴史は歴史、政治は政治である。誰かが言っていたが、政治に歴史をからめるのには「時効」があって当然である。(さもないと日本はもう一度戦争をしなければならなくなる。)

 オバマ政権にそういうおおらかさを期待してよいのではないか。白人でないことの影響は小さくないと思っている。イギリスの没落はその意味で大きい。ただし政権内にはユダヤ人が多い。

 31日に「黄文雄6時間歴史講座」を聴きに行った。前から行くつもりでいたのだが、日時を記録していなかった。粕谷君のメールで注意を喚起され、朝9時に家を出た。予約していないので心配だったが、席はあった。

 行って良かった。今しみじみそう思う。内容もさることながら、6時間語りつづける一人の人間の、しかも時間が進むにつれ次第にホットになっていく高まる情熱に打たれた。

 黄さんが情熱家であることは前から知っていたが、頭でそう知っていることと、壇上から流れ出すパトスの「気」を浴びることは別である。目の前に無私の情熱が服を着て、不動の立ち姿で音声を発しつづけている。黄さんの人生が会場に奔流している、そう思った。

 満70歳でこの知識量、この視野の広さ、この体力はそれだけで人を感動させる何かではある。黄さんがどういう切っ掛けで「6時間歴史講座」を計3回(このあと2月14日と3月28日の各土曜日に行われる)思い立ったのかは知らない。人生のある区切りを意識しての試みなのであろうが、それだけに聴講者にもある緊張を求めてくる大きな意志の力が感じられた。

 1月31日の今回は題して「日本植民地の真実」で、三部に分れ、第一部台湾、第二部朝鮮、第三部満州の順序でお話された。あまりにもたくさんの内容なので下手な要約や紹介はここではしたくない。

 一番最後の主題の整理で、「植民地主義」という概念には「社会主義」に優るとも劣らない一時代の夢と希望が托された人類解放の理念がこめられていたという説明にはあらためて目を開かされた。

 「植民地主義」といえば今では侵略や征服のイメージと結びつくが、19世紀から20世紀にかけてはユートピア思想だった。地上の人類の楽園の開拓、いいかえれば先進民族が後進民族を解放し、宗主国(主として白人の)が文明開化を地球に広めるのは義務であるという考えに立脚した解放思想であったということが今一度強く意識される必要がある、と私は話を聴きながらあらためて思った。

 今からみれば白人の植民地主義は「侵略」の別名だが、19世紀人類最大の夢、コスモポリタン的思想としての概念でもあった。だからこそ日本もまたそれに100年おくれて巻きこまれたのである。100年おくれたことに運命はあるが、夢と理想に近いことを実現したのは白人国家ではなく、日本の植民地主義の成果、台湾、朝鮮、満州であった――これが黄さんの日頃の主張でもあり、またたくさんの証拠を突きつけて語られた今回のご講演のテーマでもあった。

 私は再考三考せねばならぬ、日本の歴史を考えるうえでの貴重なヒントを数多くいたゞいたことに感謝した。

 これを読んだ人にぜひ次の2回の講演会場に足を運んで下さい、と私はお誘い申し上げる。私も聴講する。

2月14日(土)10:00~17:00「日中戦争史観」
3月28日(土)10:00~17:00「大東亜戦争の文明史的貢献」

会場は拓殖大学、2月14日がF館301号教室(80名収容)。
3月28日が同大学、C館301教室(200名収容)。
入場無料。
申し込み方法は黄文雄事務所、
FAX 03-3355-4186
E-Mail :humiozimu@hotmail.com

2月14日分はすでに予約が〆切られているので、試みてみるといい。3月28日分は3月18日が予約〆切。

拓殖大学は地下鉄丸の内線荷ヶ谷下車徒歩3分。

大寒の日々(一)

 大寒の日々だが、東京はそれほど寒くない。善福寺公園の池が例年のようには凍らない。早くも梅が咲いている。

 1月23日に「路の会」の新年会があった。集った方々は田久保忠衛、桶谷秀昭、高山正之、田中英道、黄文雄、富岡幸一郎、北村良和、桶泉克夫、石平、尾崎護、宮崎正弘、仙頭寿顕の諸氏。それに徳間書店側から力石さんと赤石さん。酒の席であり、話ははずんだ。中国論、アメリカ論、そして当然ながら金融破綻の今後の行方と日本の将来。―――

 面白い話を、いくつか拾って、別の機会に報告したいと思う。

 今日は先を急ぐ。

 1月26日にGHQ焚書図書の今月の録画を行った。15才で日本に留学した大学卒業の直前、昭和12年夏に、日本での学業を気にしながら帰国した中国人青年が徴兵され、抗日戦線に送られた。すさまじい戦争体験をして負傷し、逃亡して、体験記を日本の先生に送ってきた。翻訳出版を依頼してきたのである。昭和13年3月に日本で出版され、たちまち版を重ねた。夏までに2万5000部を売っている特異な本である。今月はこの本、『敗走千里』の紹介をした。題して「中国兵が語った中国戦線」。――

 1月28日日本文化チャンネル桜の討論会があった。今夜29日からの放送なので、まずその報告をする。

タイトル:「闘論!倒論!討論!2009 日本よ、今・・・」
テーマ :「オバマ新政権と世界の行方」
放送予定日:前半 平成21年1月29日(木曜日)19:30~20:30
      後半 平成21年1月30日(金曜日)19:30~20:30
      日本文化チャンネル桜(スカパー!216チャンネル)
      インターネット放送So-TV(http://www.so‐tv.jp/)
パネリスト:(50音順)
       潮 匡人(評論家)
       日下公人(評論家・社会貢献支援財団会長)
       石 平 (評論家)
       西尾幹二(評論家)
       宮崎正弘(作家・評論家)
       山崎明義(ジャーナリスト)

司会 :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

 この録画取りの前に、日本文化チャンネル桜の放送を支えてくれている支援者へのサービスとして、関係者がこの一年で最も印象の強かった「一冊の本」を語るCD作成に協力した。私が取り上げた「一冊の本」は渡辺浩著『近世日本社会と宋学』東京大学出版会、1985年刊がそれである。「宋学」とは朱子学のこと。江戸前期の思想界は朱子学に蔽われ、朱子学と朱子学の批判はさながら戦後日本のマルクス主義のごとき大きな事件かと思っていたが、まったく逆の事情がこの本によって裏づけられている。著者の渡辺氏は丸山眞男の弟子筋のようだが、その思想研究は恩師の逆を行き、恩師を裏切っているのが面白い。

 「オバマ新政権と世界の行方」の討論会が終った後、悪い癖ですぐに帰らず一杯やろう、ということになり、宮崎正弘さんと石平さんとで焼肉と焼酎の店に行った。

 1月26日に『WiLL』3月号が出た。拙論「『文藝春秋』の迷走――皇室問題と日本の分水嶺――」について、当「日録」の管理をしてくれている長谷川真美さんがメールで早速次のような改まった感想を送ってくれた。

 私は12月に西尾先生の講演を聞いていたし、折に触れ先生の考えを電話でも聞いていた。それに『週刊朝日』の文章も読んでいたので、今回の論文に特別に新しいことが書いてあるという驚きがあったわけではない。ただ『文藝春秋』への批判が、保阪氏の論を使ってより具体的になっていたのが目だった点だと思う。

 そして、今回の論文は、この前の講演では話きれなかったと言われていた、いろいろな分野を組み合わせながら、最後に皇室を守る権力にまで言及していて、うまく繋がって、全部纏まっているな・・・と思った。こんな風にこの前の講演でもお話されたかったのだろう。

 私も、『文藝春秋』の「秋篠宮が天皇になる日」を題名に釣られて買って読んだ。題名は衝撃的だけれど、内容は大したことがなかった。『WiLL』が皇室問題を取りあげて、よく売れたからか、柳の下の二匹目のドジョウを狙ったことだけは確かだ。論の下敷きとして、西尾先生のこれまでの仕事がある。それがあるから衝撃的な見出しで、人を引き付けることができたのだ。でも、中味は女性週刊誌と大して変わらない。西尾先生の雅子妃殿下のお振舞いに対する疑問を遠巻きに利用しながらも、全体としては西尾先生に説得されている感じがした。つまり、『文藝春秋』も今の皇太子ご夫妻にはっきり不信を抱いているといっていい。

 それにしてもこの保阪氏の論は中途半端で、西尾先生が書かれている通り、内容は全くない。

 年末の天皇陛下の健康の悪化と、宮内庁長官の発言・・・東宮大夫の発言、など重要なことが立て続けにあったのに、これらのことにはほとんど触れないで、こういう大胆な題名をつけるのは詐欺のようなものだ。

 この論文の冒頭で、西尾先生は、これまでの文藝春秋批判をもっと強めて、田母神問題など別の例を出し、より具体的に批判されている。これに対して、文藝春秋側はうまく言い逃れできるのだろうか。

 どちらにしても、きちんとした論文を掲載し続けることが、雑誌の命であるのだし、それを判断するのは、一般の読者達で、私たちもそうそう騙されはしない。昨日会った友人も「秋篠宮が天皇になる日」を読んで、私と全く同じ感想を持ったと言っていた。

 西尾先生の的をずばりと突いた批判で、『文藝春秋』まで部数が急落しなければいいが、いや、急落すれば面白いとも思う。

 天皇陛下は宮内庁長官に託したご意思が、なんとか皇太子ご夫妻に伝わってくれ、もしそれがかなわぬなら、国民よ、なんとか考えてくれ・・・と切実な思いをこめておっしゃっているのではないだろうか。その意を最も噛み砕いて応援しているのが西尾先生一人のような気がする。

 日本の皇室の危機にあって、本当に心を砕いて警鐘を鳴らそうとしている西尾先生の、ほんのちょっとでもお手伝いが出来ていることが、私の生き甲斐でもある。

 以上の文章に対し、格別に私の感想はない。いつもこんな風に応援してくれていることに感謝している。

3月号の『WiLL』と『諸君!』

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 今月の月刊誌発表の二論考について簡単に報告しておきたい。

 『WiLL』3月号の拙論には妙な題がついている。「『文藝春秋』は腹がすわっていない」(但し表紙は「迷走」)という題である。いうまでもなく先月号の同誌「秋篠宮が天皇になる日」に向けて付けられた題だが、これは私の本意ではない。『文藝春秋』の同論文について述べた部分はわずか10枚にすぎない。論文全体の五分の一である。

 拙論は雑誌で18ページをも占める大型評論だが、皇室問題がすべてではない。「皇室問題と日本の分水嶺」という副題がついている。国家の存立に対する危機意識がずっと私の中でつづいている現われである。

 論文の一番最後の数行に私はその不安な思いをこめている。そこを読み落とさないでいたゞきたい。

 『諸君!』3月号は前回切迫した時間内で二回に分けて書いたと報告したあの論文である。「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」という題である。これも私ではなく編集長が付けている。(言論誌の論文の題は編集長の裁量下にある。)

 そもそも現代史に歴史の専門家はあり得ない、否、あってはならない、それが私の今回のメッセージである。

 秦郁彦、保阪正康、北岡伸一の三氏の歴史に向かっていく姿勢を疑問とした。歴史に現在の人間のありふれた信条やドグマを当てはめている。半藤一利、五百旗頭眞、御厨貴の諸氏も同じ方向と見て名を挙げているが、こちらはまだ詳しく取り上げていない。

 現代史を扱う歴史家はなぜ歴史哲学上のイロハを知らないのだろう。歴史は見えない世界なのである。なぜなら歴史は過去の人間のそれぞれの未来像の集積だからである。今回は根源的なところから問いを立ててみた。

 それと関係しているのだが、論文の一番さいごの2ページに「江戸時代と大東亜戦争は連続している」という小見出しをつけた叙述がある。

 前回高校の友人のK君がベトナムやインドで経験した西洋文化の二重性、西洋はアジアに進歩と破壊だけでなく調和と文明をもたらした、というあのテーマに関わっている新たな問題提起である。

 私はたったいま「進歩と破壊だけでなく調和と文明をもたらした」と言ったのであって、「破壊だけでなく進歩をもたらした」と言ったのではない。「進歩」と「破壊」は私の文脈では同義語なのである。

 西洋も18世紀までは「進歩」とも「破壊」とも無関係だったのではないだろうか。もちろん日本も江戸時代まではそうだった。西洋は「調和と文明」と「進歩と破壊」の二面をもつ双面神だった。

 GHQ焚書のことをやっていてしみじみ感じたのは、欧米のアジア侵略は江戸時代にほゞ完了していることだ。戦争の歴史をとらえようとするとき、パラダイム(認識の枠組み)を思い切ってぐんと大きくとらなければいけないと思う。

 3月号の二誌の拙論はこれからの私の思考の起点になるかもしれない。

非公開:『GHQ焚書図書開封 2』をめぐって(二)

 1月11日高校の親しい友人の集まる新年会があったが、私は欠席した。

昨日は残念でしたね。19名(うち女性5名)、いつもながら、いつものように楽しく一夕過ごしました。

次回は、2010年1月17日(repeat 17)(日)16:00、同じく「吉祥日比谷店」なので、今から手帳にご記入ねがいます。
「焚書図書開封2」読みました。戦後、あの短時日でよくもまああれだけの、「的確な」本を選んでいたものと感心します。(第1巻のときもそう思ったのですが・・)第1巻に紹介があったと記憶していますが、「協力者」の知的レベルが別の意味で相当の水準だった、ということでしょうか?

 1月12日にこういう書き出しでメールを下さったのは友人のK君である。私は世話役のK君に釈明のメールを打っていた返事だった。

 10日には既報のとおり坦々塾があり、六本木でカラオケをして疲れたからといって本当は翌日酒の席を避けるほどのやわではまだない。じつは『WiLL』と『諸君!』と『撃論ムック』の〆切りが迫っていて、ギリギリ延ばして18日(日)夜がデッドラインであることが分っていた。合計100枚くらいにはなるだろう。

 私はにわかに焦っていた。坦々塾のための講演の準備で8日も9日も雑誌論文には手をつけていない。なぜこんなに急迫したかというと年賀状の処理に時間がかかることを計算していなかったのである。

 毎年のことなのに何という不始末なのだろう。パソコンで絵も文字も宛名もひとりでやるというのは初めてである。今年は100枚減らして900枚。私のパソコンの技術も上達したものだ、とひとり悦に入る。

 とはいえ講演と宴会とカラオケの疲れで11日はやはり論文の執筆は開始できず、それから10日間悪戦苦闘がつづいた。本日22日正午に最後の追い書きの校正ゲラの最終チェックを『諸君!』編集部にファクスで送って、すべてが終了した。あゝ、何という毎日だったろう。

 「追い書き」というのは次のようなやり方だ。今回は原稿用紙で約束の30枚までを20日正午に渡して、大きなテーマ展開になったのであと10枚を書いてもよいと許諾される。21日午後2時が10枚の制限時間であった。編集部からは30枚までの校正刷が午前中に届けられていたがそれを私は見ないで午後2時の時刻を守った。その後30枚までの校正刷を見て、編集部はその夕方にこれを印刷屋に送るのと同時に10枚の追い書きを合わせて印刷に回した。22日正午に私は戻ってきたその最終チェックをしてファクスで送り、終了した。ファクスと電話を用いたいわば時間の綱渡りである。

 編集部に迷惑をかけるこんな仕事の仕方はいつもやるわけではないが、緊急事態の許された処理法である。その間に調べを要する疑問が校正部から回されてくるから書きながら研究するようになる。後からふりかえると息も詰まるような時間であった。やはり三誌をいっぺんに書くのはもう無理なのかもしれない。

 三つの雑誌評論の内容については次回に少し語ろう。私の仕事の舞台裏を今日はちょっと紹介してみた。私が同窓会を欠席して自分の仕事時間を守ろうとしたいきさつを、K君をはじめ友人たちに分ってもらいたくてこんな報告をした。

 「20日正午」「21日午後2時」という時刻は絶対に揺るがせに出来ない時刻であった。いつも犬を連れて散歩に行く時間なので、ワン公は待ち切れず、書斎のドアを鼻で開けて這入ってきて、催促するようにピタリと足許にうずくまっていた。

 さて、K君の手紙だが、『GHQ焚書図書開封 2』について次のようにつづく。

インドシナのあたりの記述、大変興味深く拝読しました。
今から思うと、ベトナム戦争のあたりまでは、白人(フランスにアメリカが変わっただけ)の「侵略」の図式が続いていたように感じられます。同国の本当の?独立は、ベトナム戦勝利以後のことかも知れません。小生は、ベトナム、インドと勤務しましたが、それぞれのローカルの人たちは旧宗主国(それぞれフランス、英国)に対して、いうにいわれぬアンビヴァレントな感情を持っていました。少なくとも「文化的」にはしっかりと「刷り込み」をやったのですね。
以上新年会ご報告かたがた、簡単な読後感です。

 K君は東京銀行に勤務していて、丁度ベトナム戦争の最中の危険な時期にサイゴンにいた。当「日録」を読んでくれていて、たびたび登場する足立誠之さん(坦々塾の前回の報告文にも出てくる)は、自分より8年後に入行した東京銀行の同僚であると言っていた。東京銀行は三菱銀行と合併した。ただ面識はないらしい。

 上記の文の「アンビヴァレントな感情」が気にかゝり、私はどういうことかと質問のメールを送ったら、大変に面白い次のような返信が届けられた。

「アンビヴァレントな感情」について。
貴兄が第2巻で述べられた植民地支配の第3段階で、ベトナムはフランス式、インドはイギリス式の教育、法制その他もろもろを導入しました。(いまの若い人はどうなのかわからないが、まあ、あまり変ってはいないような気がする)小生が付き合った年頃の連中(ある程度のインテリ)は、たとえば学校教育で、むしろ宗主国の歴史の方を詳しく習っています。(ベトナムではその辺のおじさん、おばさんでも、たとえばジャンヌダルクのことなど、普通の日本人よりはるかに詳しい)宗主国の搾取?の歴史は勿論知っているが、文化的な帰属意識をかなり西欧においている。

たとえば、インドのカルカッタには、ヴィクトリア女王没後に、イギリスが「ヴィクトリア・メモリアル」という、壮大な建築物をつくったが、独立後もこれは中身もろともそのまま保存され、観光(カルカッタはよほどの物好きでないと、観光には行かないにせよ)の目玉になっています。

カルカッタは州政府がずっと共産党だったので、中央政府の援助があまりなかったり、中印紛争、バングラデシュ独立などで難民が入り込み、ご存知のようにマザー・テレサが「活躍」した、全市これスラム街のような都市であるにもかかわらず、地元市民は、このメモリアルに結構プライドを持っています。(なかの展示には、ヴィクトリア女王関係、またその時代の展示物のほか、悪代官?であった歴代の総督の肖像画なども飾ってあるのです。)

かれらは、アタマでは西欧の支配を否定していても、宗主国の文化には「胸キュン」となる場面があるような気がします。このあたりが小生のいう「いいしれぬ・・感情」というところです。

 ここで指摘されたことはかなり重大な内容である。西洋文化は調和と進歩、文明と破壊の二つをもつ双面神だったので、進歩と破壊だけが入ってきたのではない。背後にある調和と文明も同時に入ってきた。日本に対しても同様である。

 しかしそのことの区別の不明瞭が今われわれの歴史認識を惑乱させている問題の核心につながっているのである。「追い書き」で間に合わせた『諸君!』3月号の「米国覇権と東京裁判史観が崩れ去るとき」でも文明論上のこのテーマに少し触れたので、次回で考察をつづけることにしよう。

非公開:『GHQ焚書図書開封 2』をめぐって(一)

 『GHQ焚書図書開封 2』は昨年の年末に出版された。比較的よく売れているようだが、詳しいことはまだ分らない。

 「GHQ焚書とは何か」の追及は、第1巻では章立てして論じたが、第2巻ではこれをしていない。歴史書の具体的な紹介だけにしている。そのほうが内容尊重で、今回は大切だと思ったからである。

 恐らく第3巻は再び「GHQ焚書とは何か」の理論的追及の一文を加えるだろう。第3巻は今年8月を予定している。

 草思社の会長の加瀬昌男氏は私のこの仕事に以前から注目して下さっている。昨日葉書をいただいた。

 「このようにまとめられるのは大変なお仕事だったと拝察いたします。戦前戦中の著者たちが、相当な水準にあったことが察しられました。」

とまず書かれていて、今回のバターン死の行進をめぐる冒頭の章を踏まえて、

 「バターンは米比軍の食糧供給が日ましに少なくなっている状況をかつて読んだことがあります。小学生でも歩けるS・フェルナンドまでの道を歩けなかったのは空腹以外にありません。」

と、私の分析と推理をお認め下さり、

「アメリカは自分の責任を全部日本に押しつけたという感じです。西尾さんのお仕事の完成が待たれます。」

と結ばれていた。私はこれに対し、私の焚書の開封は量的にほんの僅かで、まだ0.1パーセントくらいしか出来ていないのだから今後この仕事に「中断」はあっても「完成」ということはなく、条件が許される限り延々とつづけるだけである、と述べ、言論雑誌にほとんど反響がないのは予想していたこととはいえ残念で、夏までに自ら『諸君!』に問題提起の論文を書くつもりである、「いわば自己宣伝しながら驀進あるのみです」と認めた。

 「GHQ焚書とは何か」の理論的追及を言論雑誌に自ら載せて、世論を喚起し、それを第3巻に取り込んでいくつもりである。

 幸い、溝口郁夫氏や岩田温氏がこの仕事に関心を示して下さっているので、共同研究ができればありがたい。私ひとりの力ではもうたいした規模は切り拓けない。

 年頭に宮崎正弘氏が真先に第2巻の書評をご自身のメルマガに書いて下さったので、以下にご紹介したい。いつも素早い対応に感謝している。
  

西尾幹二『GHQ焚書図書開封2』(徳間書店)
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 △近・現代史はペリー来航から総括しなければならない

 「戦中派」の西尾幹二氏とて、林房雄の『大東亜戦争肯定論』に遭遇したとき、新鮮な驚き、しかもペリー来航から百年戦争という視野で近代史を捉えていることに共感したと後書きに吐露されている。
 戦後の偏向教育と左翼マスコミの猖獗により、「短い尺度で考える日本の近現代史のものの見方にいつしか染まっていた」が、「それを毀したのは、たしか二十八、九歳の頃に出会った林房雄の『大東亜戦争肯定論』です。林が幕末からの百年戦争を説いている(中略)、戦争の原因を長い尺度で捉える必要を悟りました」(本書378p)。

 私事にわたるが、評者(宮崎)が林房雄の『大東亜戦争肯定論』というショッキングな題名著作の新聞広告を朝日新聞で見たのは高校生時代、まったくのノンポリ文学青年だったので、この人は当時、朝日新聞で文藝評論を展開され、かつ週刊朝日に『文明開化』を連載され、毎日新聞に『西郷隆盛』を連載している、あの売れっ子作家とは同名異人だろうとおもったほどだった。
戦後派の感覚では「戦争肯定」という後節のシラブルの響きが、なんとも不気味で、後年、鎌倉の書斎に林房雄と訪ねた折、新聞広告でみた、その第一印象を言うと大いに笑われた。
林は朝日の文芸時評で「わたしはいまもあの戦争を肯定している」と二、三行かいた箇所を『中央公論』誌が、「もっと詳しく書いて欲しい」と言ってきたために長い長い連載評論の開始になったのだ。
 戦前「天皇制」とか「皇国史観」、「侵略戦争」という語彙はなかった。
 全部、左翼が戦後、政治宣伝に都合良くするために“発明”したボキャブラリーである。さらに言えば「天皇制」は国際コミンテルン用語である。あたかも東京裁判が、戦前の国際法になかった「事後法」で裁いたように、日本人は戦後、GHQの制定した『事後法』的な言葉狩り、語彙の押しつけ。これらの政治宣伝戦争においてもわれわれは左翼に敗れた。民族の記憶、歴史の記憶が消されかけ、洗脳されてしまった。GHQが重要な書物を焚書としたことに起因するのである。

 西尾氏は講演の中で次のように言う。
 「昭和3年から、昭和20年までという17年間の間に約22万点の単行本を含む刊行物が日本では出ていました。約22万点。その中から9288点をまず粗選びして、最終的に7769点、それをリストとして確定し、焚書図書として指定しました。つまり「没収図書」です。これがアメリカ側の行った大まかな行動です」(日本保守主義研究会7月講演会記録より)。

 さて本書は歴史探訪、昭和史の謎に挑むシリーズの第貳弾。戦後派にとって、GHQによって闇に葬られ、「戦後派」以後の世代にとっては、殆ど聞いたことのない本がずらりと並ぶ。
 これら焚書図書はなにゆえに、いかなる根拠で、しかも誰が選定して発禁としたのか。図書館や個人の書斎から取り上げたのか。「戦後の言語空間」の闇は果てしなく深いことがわかる。
 この第二巻では、戦後マスコミが殆ど取り上げなかった大東亜戦争のもうひとつの主力舞台、つまり太平洋の島々からインドシナ半島へといたる広大な戦線での「真実」である。
評者のような「戦後派」は、殆ど何も教わらなかったし、いや何が戦争中にアジアで起きたかを知る手だてがなかった。かろうじて大岡昇平「レイテ戦記」や阿川弘之の文学作品くらいである。
 パレンバンで日本兵(♪「見よ、落下傘」のモデル)がわずか五名で敵兵百数十を討ち取り、さらに数百を捕虜にしたなどという真実の武勇伝も、のちに山川惣治の物語の復刻で知るほどに、アジア戦線での歴史はかき消されていたのだ。
 ベトナムやインドネシアで、日本兵の活躍で彼らが独立を勝ち得たことも、いまとなっては小説の世界でしか知ることはない。

 火野葦平はフィリピンに従軍して『パタアン半島総攻撃従軍記』を書いた。米軍は食糧不足で自壊した“本当の”事実などに触れながら、所謂「パターン死の行進」の嘘の部分を、フィリピンの捕虜や「アメリカ人捕虜の安らかな夜」などを通して活写している。
 この火野葦平の力作は当然ながらGHQによって消されていた。本書はかなりの頁を割いてパターン半島の真実に迫る。
 またオランダがいかに残虐なインドネシア支配を行ったか、その収奪の反省もしない、植民地からの搾取ぶり、そしてベトナムに進駐した日本軍を、その軍律の厳しさをしったベトナムの民衆が、『日本民族は世界一道義的である』と認識したか。フランスのインドシナ侵略と植民地化の搾取のひどさと比較される。
 フランスはいまもニューカレドニア、タヒチを植民地として支配し、百回もの核実験を行っている。
 これらはすべて連合国にとって「不都合な真実」だった。ゆえにGHQの焚書対象となって、日本から消された。

 仲小路彰という人がいた。『太平洋侵略史』を6巻にまとめ、欧米の侵略歴史を表した。いま、古本ルートで一つだけ入手可能だが、一冊が三万円近い。目次を読んだだけでも、戦前の日本の知識人がいかに客観的に、適切に世界の動きを分析し把握していたかが、明らかになる。

 西尾氏は、これらの焚書図書の重要部分を丹念に拾いながら、第貳巻の最後では大川秀明の『米英東亜侵略史』について演繹され、その神髄にある大川の歴史観を紐解きながら、「ロシアから中国や朝鮮の領土をまもった日本」、「日本をおいつめた米国の尊大横暴」を縦横無尽に論証していく。
快刀乱麻をたつ傑作であり、労作である。
 「アジアを侵略したのは欧米であり、日本ではなかった」という歴史の真実が、焚書を開封することにより、これほど強烈に明らかになるのだ。
 本書はいずれ文庫入りし、国民必読の教養書となるだろうと確信している。

文:宮崎正弘  
  

  

坦々塾(第十一回)報告

濵田 實
坦々塾会員、元大手コンピューター会社に勤務

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坦々塾の記録(感想)     

日 時 平成20年11月22日(土)14~18時半

 今回のお話は、それぞれ内容も豊富で、記録の量も、いつもの倍はあったようです。この内容が知れ渡れば、日本人もGHQの洗脳から覚めるのではないかと思うほどに濃密なものでした。以下、私の感想というかたちでお話の内容、雰囲気をお伝えします。

● お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」

        足立誠之氏(元カナダ三菱銀行頭取、元三菱銀行北京支店長)

● お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」

        西村幸祐氏(評論家・月刊『激論ムック』編集長)

● お話の3 「私の人生と思想」

        西尾幹二先生(電気通信大学名誉教授・評論家)

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お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」 足立誠之氏

 出だしは田母神論文に関し、 ①日本侵略国家論 ②文民統制論 をおかしな動きとして縷々説明、「侵略論」の裏には村山談話にさえ無い何かが隠されているのではないかと私見を述べられた。またオバマ黒人大統領誕生に関し、何よりも国際連盟で「人種平等案」を提唱したのは他ならぬ日本であったことにも触れられた。

 氏は『閉ざされた言語空間』(江藤淳氏)や『GHQ焚書図書開封』(西尾幹二氏)を読むにつけ、食糧配給などで示したアメリカの「情報操作」を思わずにはおれなかったという。アメリカによる巧みな情報操作は、当時のいろはカルタにさえ「強くてやさしいアメリカ」などという表現で巧妙に情報操作がなされた。日本人の感覚では思いも浮ばないことである。

 渡米後遭遇した地下鉄大混乱(スト騒ぎ)では、大バリケードの光景をみて、アメリカ社会の姿にハッとしたという。それは「ガラス箱の中の蟻」を思わせるものであったそうだ(ガラス箱: 国民が目に見えない壁面のガラスを通して、投影された宣伝映画を見せ付けられているというイメージ)。その他、幼児の、ベランダからの転落死事件におけるアメリカ社会の対応を観察しても、戦後の我が国における「子供を自由にのびのび」とは正反対というお話を聞き、我が国社会は「当たり前」のことを戦後「奪われた」(戦前の日本にはあった)という思いを深くした。

 また氏は渡米して、今では当たり前のPOSシステムの前身を目の当たりに見て、アメリカ社会の戦略思考をまざまざと感じたという。かなり昔、ある雑誌でヤオハンの和田社長(当時)が、同社におけるブラジル等海外進出の動機はアメリカのスーパーチェーンシステムに刺激を受けたことであると読んだ話を思い出した。アメリカ社会を観る視点は徹底してその「戦略志向」にある。外国を学ぶとは、そういうことではないだろうか。私見であるが、日本人の外国の学び方、洞察の仕方に、深い疑義を抱いている。

 その他、イランにおける米大使館人質事件とその対応や、一発の銃弾もなしに人質事件が解決した背景に何があるのか? また谷内(やち)前外務省事務次官が、文芸春秋12月号コラム「霞ヶ関コンフィデンシャル」で当時、爆弾発言をされた話など、その背景に、アメリカの日本の潜在力に対する「脅威」が彼等の心に潜んでいるという興味あるお話もあった。この報告は面白いが長くなり、またブログで詳細文が載るとも聞くので、そちらを参照いただきたい。

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■ お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」  西村幸祐氏

 ジャーナリズムのあり方については、西尾先生が『諸君11月号』で彼等の根本姿勢を批判され、佐藤優氏の感想文が本ブログでも紹介されていることは、皆さんご存知のとおり。西村氏は具体的に、戦後言語空間で覆われ反日の構造を挙げられ、戦後日本人の間で進んでいる記憶喪失や情操操作、隠蔽体質等に、メディアの質の劣化が潜んでいると批判された。

 2002年(平成14年)の小泉訪朝以来、国民意識は変わっていないという。ある知識人は、当時、『諸君』、『正論』、『Voice』などの雑誌が元気付いた傾向をして社会の右傾化と評したが、むしろ、本当は「左傾化」であると指摘された。世の中一般は、何となく右傾化、という風潮があるようだ。この説明は、社会の裏側をよく知る人たちには、ある程度気付いていたことだが(=世の中、ますます酷くなっている・・という)、あらためて新鮮は印象を抱いた。

 それは、田母神論文に関連して、マスコミの一斉批判とレッテル張り、田母神発言封じや、浜田防衛大臣が統合幕僚学校の教育のあり方を見直す(「偏り」を直す)という発言がその傾向を象徴しているというように、現職の自民党大臣がトンデモ発言をする御時世になった。まさに左傾化、政府の没落化であり、物事をみる視点が希薄になったことでなくして何であろう、という印象を持った。しかしその後、田母神氏の姿勢は止まるところを知らず、全国から講演依頼がたくさんきていると聞く。

 国民一般の田母神論文に寄せる感想は圧倒的に支持する意見が多い。田母神氏はサムライとして、内容に隠し立てする必要もなく、正々堂々と正論を貫き通せばいいだけのことだ。きちんと田母神氏をサポートしてゆけば、そのうち言論封じをした政府、マスコミの方が、不利になることは確実である。中韓両国も、田母神氏があまりに堂々としていること、及び今まで中国政府における毒餃子事件反論など、デタラメ対応をみせてきたため、自ら墓穴を掘り、へたにやると日本国民から批判を受けるとして、今回日本を正面から批判できないでいる。今までと違った空気である。

 先の谷内発言のバックに「アメリカが存在する」という暗示を指摘されたが、今後どのように日本政府が将来を切り開いてゆくのかも気になるところである。

 国籍法改正案問題についても触れられたが、某テレビ局は「女子供」をダシにした違法行為是認の偏向、歪曲報道を行い、感情を表に出して法の世界に風穴を開けようと意図的に情報操作した。自分自身が番組をみて、怒りを感じたので、恐ろしい動きがあることを実感しながらお話を聞いた。メディアもたよりにならない。然らば、インターネット(Uチューブなど)やファックスによって、風穴を開けよう(実際その効果が出ている)という西村氏の意見は、現実になりつつあることを、あらためて感じた次第である。

 最後、西村氏は「歴史(事実)情報が忘れられている。原理原則を忘れている。それが常態化していることが根本問題だ」だとして、お話を締めくくられた。

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お話の3 「私の人生と思想」  西尾幹二先生

 社会の「左傾化」はそのとおりだが、先生はある意味、楽観もしているということであった。今の合唱は「断末魔のヒステリー」として、村山談話はアジアの贖罪をアメリカに向って発したもの、それは自己処罰と、アメリカに対する恐怖感に由来すると、さらりと言ってのける先生の思考スタンスが面白い。麻生首相がいつの間にか安倍氏と同じになった・・とも言われた。

 いま、先生はGHQ焚書問題にも力を入れておられるが、その関連で、昭和40年(当時29歳)の雑誌『自由』で当選した「私の戦後感」という論文主旨が今日の言論活動と一本線でつながっていることを、私自身が発見した。さらに言えば、中学時代の先生の日記にも、今にも通じる歴史に対する思考スタンスが萌芽としてあったと感じるのは、私だけではないと思う。その歴史思考を先生は、私見ではあるが、人生の問題としても捉えているのではないかと思う。

 戦後、進歩的文化人が陥った思考の泥沼は、単純に言えば、過去を「否定」し、その後を「肯定(是)」する姿勢、自分だけ救われようという自己弁護である。そういう卑怯な自分をこそ問うべきである。そういう悪を否定する勇気、女々しさを否定する勇気が必要である。考えてみると、西尾先生の論調には、すべてこの批評精神が悠々と、一貫している、ここが真骨頂と思うが、いかがだろう。

 昭和45年の三島由紀夫事件についても、縷々面白い、微妙なお話もされたが、これは新著『三島由紀夫の死と私』(PHP/西尾幹二著)に詳しいので割愛する。

 アメリカ問題に対しても、けっこう時間を割いてお話しされたが、アメリカによって与えられた平和主義が戦後日本の生き方になり、そこに疑義も抱かず、その構造を今の日本人が忘れている。それ自体が、「日本の病理」の全てであるという指摘は、まったく同感である。先生の数ある著書、ブログ文章にも、繰り返し触れられている論点である。

 「自己決定」を避けようという姿勢が、日本人の精神、思考をして稚拙化している要因と思われてならない。その他、サブプライムローンに発するアメリカ及び世界経済の行方、80~90年代の日米関係の振り返り、村山談話をどう見るか、についてもお話をされた。

▼ 最後に一言

 3先生のお話に関して、私(濵田)自身が正直どう受け取っているのか、ごく簡単に書かせていただきます。

 基本認識は正直、殆ど同じですから違和感はありません。私自身が言論の世界で昔から違和感を懐いてきたことは、日本がこれだけ長い歴史・伝統・文化を持ちながら、外国に「位負け」し、自らを貶める言論好きの日本及び日本人に大きな違和感を懐いてきました。私なりにかなりの本を読み込んできた結果、日本の歴史・伝統・文化に強い「信」を懐いております(ミスクソ一緒ではない)。その意味で坦々塾は居心地がいいのです。最近気付かせていただいたこと、それは「真善美」に悖る保守人・・秩序、礼儀を無視する保守人といってもいいでしょう・・、『真贋の洞察』を欠いた保守人、『身近にある危機』を感じない、あるいは知らない(知らぬ振りをする)保守人の不思議な存在です。ここに保守人の劣化、稚拙化、危うさを感じています。最後に日本民族のアイデンティティを確かめるため、『古事記』の(本質的な)世界にもっと入り込んでいいのではないか・・・と個人的には思っております。                            
   以上
文:濵田 實

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坦々塾平成21年新年会

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  むかし九段下会議という政策研究を主とした勉強会に参加していて、小泉郵政選挙の評価等で意見が分れ、解散した。20人くらいのメンバーだったが、解散と同時に13人がせっかく集ったのだから会はつづけたいといって、私の許に再び集まり、坦々塾をつくった。しかしもう政界や政局に直かに結びつくことはやるまい。もっと日本の歴史や時局を深く考える会、自分を磨く会にしたい。何事に対しても「坦々と」歩んでいけばよい、というくらいの気持ちで、会をつづけているうちいつしか50人を越えるメンバーとなっていた。

 1月10日坦々塾新年会が開かれた。48人が参集した。私の旧い友人や愛読者の方々も多いが、定年前後のサラリーマンの方もいるし、学生も何人かいる。集まるたびに相互に知り合いになり、親交を結んでいる。いま大変に気持ちのいい会になっている。

 私が講演をし、依嘱した外部講師の方々が講演を重ね、ときにメンバーが研究発表をすることもある。開始以来の講師と演目は次の通りである。

第一回 (平成 18年 9月 10日) 参加 22人
 ゲスト講師:宮崎 正弘先生 『中国外縁の国々で起こっていること』
 会場 四ツ谷マイスペース 

 *宮崎正弘先生はその後メンバーとして勉強会に参加してくださっています。

第二回 (平成 18年 11月 5日) 参加 24人
 ゲスト講師:高山 正之先生 『反日の世界史』
 会場 四ツ谷マイスペース

第三回 (平成 19年 1月 28日) 参加 23人
 ゲスト講師:関岡 英之先生 『奪われる日本-真の国益を擁護するために』
 会場 四ツ谷マイスペース

『江戸のダイナミズム』出版記念会 (平成 19年 4月 4日)出席 約400人
 会場 グランドパレス市ヶ谷

第四回 (平成 19年 5月 20日) 参加 22人
 ゲスト講師:黄 文雄先生 『日本の天皇・中国の皇帝』
 会場 永田町 星陵会館

第五回 (平成 19年 8月19日) 参加 27人
 ゲスト講師:東中野 修道先生 『南京占領の真実』
 会場 永田町 星陵会館

第六回 (平成 19年 11月 11日) 参加 27人
 発表者:西沢 裕彦 『中国食品の問題』
 ゲスト講師:萩野 貞樹先生 『国語について』
 会場 永田町 星陵会館

第七回 (平成 20年 1月 12日)参加 35人
 発表者:尾形 美明 『ディーリングルームの世界』
     空花 正人 『反日左翼勢力の動向』
     小池 広行 『エネルギー危機と日本の原発』
 会場 六本木 霞会館

  *この月は新年会を行いましたので、ゲスト講師の先生はお呼びしておりません。

第八回 (平成 20年 2月 24日) 参加 33人
 ゲスト講師:宮脇 淳子先生 『モンゴルから満州帝国へ』
 会場 永田町 星陵会館

萩野貞樹先生追悼会 (平成 20年 4月 22日) 109人

 会場 九段会館

* 勉強会にゲスト講師としてお話を伺った萩野先生がお亡くなりになりました。
第六回坦々塾が、萩野先生が外部で行う最後の講演になりました。

第九回 (平成 20年 5月 10日) 参加 43人
 発表者:粕谷 哲夫 『中国旅行で見た今の中国』
     小川 揚司 『吾が国の「防衛政策」の変遷と根本的な問題点』 
 ゲスト講師:田久保 忠衛先生 『最近の国際情勢と日本』
 会場 六本木 霞会館

第十回 (平成 20年 8月 9日) 参加 40人
 発表者:岩田 温   『保守概念の再考』
     早瀬 善彦
 ゲスト講師:平田 文昭先生 『保守活動の挫折と再生』
 会場 六本木 霞会館

第十一回 (平成 20年 11月 22日)参加 42人
 発表者:足立 誠之 『アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”』
 ゲスト講師:西村 幸祐先生 『ジャーナリズムの衰退とネットの可能性』
 西尾先生 『私の人生と思想』
会場 六本木 霞会館

第十二回 (平成 21年 1月 10日)
 西尾先生 『荻生徂徠と日本の儒学』

  *この月は新年会を行いますので、ゲスト講師の先生はお呼びしておりません。
 会場 六本木 霞会館

第十三回 (平成 21年 3月 14日)
ゲスト講師:山際 澄夫先生 『    』・・・・予定
 会場:六本木 霞会館

 本年の新年会では、私が江戸の儒学は日本の土着の風土といかに噛み合わないかの諸相について、1時間半ほど講義した。「鎖国」とよばれる現象は西洋に対する拒絶反応だとみられているが、そうではなく、中華に対する抵抗と自己調節の努力だったということが私の言いたかった主なテーマであった。

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 つづいて新年会ということで来て下さった飛び入りのゲストの宮崎正弘氏が、いよいよ正体が分ってきたアメリカの金融危機の現状と今後の見通しについて、また同じく飛び入りの平田文昭氏が世界のエネルギー問題の現実と各国の心理的委曲について、各15~20分ほどサービス講話を展開して下さった。ひきつづき熱心なメンバーからの質疑がなされた後、会場を移して、新年宴会が開かれた。

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 数葉の写真から新年会全体の空気を察知していただけよう。宴会からひきつづいてカラオケ店に移動し、21人が六本木のカラオケの夜をたのしんだ。

 ところで坦々塾の前回は11月であった。浜田実氏が11月例会の参加記録を寄せて下さっている。当「日録」では年末、『GHQ焚書図書開封』に関する私の夏の講演を延々と掲示した関係で、例会の報告文を皆さまにお示しするチャンスを逸したまゝに、新年を迎えてしまった。

 ここに遅滞を浜田氏にお詫びし、11月例会の様子も併せて次回にご報告する。

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謹賀新年 その二

 正月早々墓の話を掲げたのは死期を意識しているからではありません。まるきりそんなことはないのです。

 毎月一度必ず主治医に血液を採られています。そして前月の結果を知らされる。もう何年ほとんど「異常なし」です。中性脂肪もコレステロールも尿酸値も肝機能も腎機能もつねに正常の範囲内です。血糖値がやゝ境界領域にありますが、犬の散歩のおかげでこれも少しずつ改善されているようです。

 主治医はこう言います。「今は毎日のご生活が充実していることがなによりも大切です。医者はあなたの身体の逸脱を警戒し、注意を喚起するだけで、それ以上のことはできません。」

 私がそこで「大きな異常にはなにか予兆のようなものがあるのでしょうか」と問えば、「たいていドスンと来るのです。」と怖いことを言うのです。「加齢と遺伝は誰しも避けることができません。」

 私は昨年、当ブログの右側に並ぶ五冊の本を相次いで上梓し、働き過ぎでした。平成18年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」の名誉会長を退任し、拘束から解放されたことが、著作家としてのここまでの単独行動を可能にしました。今しみじみと辞めて良かったと思っています。

 「ものを書く」という仕事は団体行動にはなじまないのです。あの立場は私から言論の自由を奪うことがたびたびありました。昨年の皇室問題に対する私の発言は、あの立場にいたら会の主張と誤解されてはいけない、という思惑から出来なかったでしょう。

 事実、皇室無謬派(皇室に対してはたゞ弥栄を祈っていればよいという無条件崇敬派)がいわゆる保守言論界の一方にいるらしく、「つくる会」の元理事で分派して去った人たちが威丈高に私を叱責し、声を荒げて意趣返しをしていたのは昨年のひとつの光景でした。ですから、昔の侭のあの会にかつての立場で私が今もいれば、私は自由ではなかったでしょう。

 私がいま手にした自由はことのほか貴重だと分りましたが、しかし自由はそれ自体ではなにほどの価値もありません。むしろ物事を危うくすることがあります。皇室という環境が皇太子妃殿下の病気の原因であるという認定、主として齋藤環氏等医師たちの認定ですが、これが天皇陛下の大御心を深く傷つけている、との昨年末の宮内庁長官の公式見解は、妃殿下にもっと自由を与えよ、というリベラル・サヨク派の思想の危うい破壊性をはっきりと印象づけました。

 これから天皇・皇后になろうとする若いお二人にもっと自由を認めたらいいというのは何を考えているのかと私は思いました。皇室という環境が妃殿下を病気にした、という医師たちの認定ほどに恐ろしい天皇制度否定論はないと思います。なぜなら皇室という環境が人権侵害をしていると言っているのと同じだからです。

 正月六日の産経コラム「正論」に加地伸行氏が次のように仰っていました。

 昨年、西尾幹二氏に始まり、現在の皇室について論争があった。その詳細は十分には心得ないが、西尾氏は私より一歳年長であり、〈勝ち抜く僕ら小国民〉の心情は同じであろう。皇室への敬意に基づく主張である。

 その批判者に二傾向、(1)皇室無謬(むびゅう)派(皇室は常に正しいとするいわゆるウヨク)、(2)皇室マイホーム派(いわゆるリベラルやサヨク)がある。

 私は皇室の無謬派こそ皇室を誤らせると思っている。

 その理由として氏は、『孝経』が歴代皇族の学問初めの教科書であるが、その中に、臣下の諫言(かんげん)を受け入れることを述べる「諫争章」がある。

皇室は無謬ではない。諫言を受容してこそ安泰である。そのことを幼少より学問の初めとして『孝経』によって学ばれたのである。諫言―皇室はそれを理解されよ。

一方、皇室のありかたをわれわれ庶民の生活と同じように考え、マイホーム風に論じる派がいる。

だいたいが、皇室の尊厳と比べるならば、ミーハー的に東大卒だのハーバード大卒だのと言ってもそれは吹けば飛ぶようなものである。まして外交などというのは、下々の者のする仕事である。

にもかかわらず、そのようなことを尊重するのが問題の解決になると主張するマイホーム人権派もまた皇室を誤らせる。

 仰る通りである。私も氏と同じような考え方である。そして、皇室は「無」の世界に生きる処に本来性があり、幼少からの教育によってそれを培い、マイホーム主義と絶縁するのである、と氏は述べた後、一文を次のように結んでいます。

陛下御不例が伝聞される今日、皇太子殿下の責任―〈無〉の世界の自覚が重要である。もしそれに耐えられないとすれば、残る道は潔い一つしかない。『考経』に曰く「天下に争臣(諫言者)七人有れば・・・・天下を失わず」と。

 「もしそれに耐えられないとすれば」以下は、随分きっぱりと暗示したものです。

 じつは何を暗示しているのかは分りません。すべての人は今ここで立ち停まっています。私もそうです。天皇陛下も恐らく同じでしょう。

 『諸君!』12月号で私は雑誌ジャーナリズムのあり方を問う評論を掲げました。言論界が各種の固定観念に囚われ、透視力や洞察力を失っている諸相を分析し、指摘したのですが、そこで最後に、私が皇室発言をしてからというもの皇室無謬派=無条件崇敬派と皇室マイホーム派=リベラル・サヨクの二方向に言論が割れていることを述べて、加地氏と同様に肝心の問題はそのどちらでもない、真中にあることを示しました。

 どちらか一方は固定観念、つまりイデオロギーであって、左右ともに人をそこで安心させ、思考を停止させ、現実的でなくなり、悩みもなくなるのです。人は現実に向き合うときだけ苦悩があります。

 年末の宮内庁長官発言は、陛下の苦悩がやはりこの真中にあることを示しております。

 年末に出た『週刊文春』の記事が気になっています。皇太子殿下がご幼少からすばらしく温良に、従順に、弟君のように腕白になることもなく、いつも模範生として、周囲の期待に沿うように良い子でありつづけたことが物語られています。そこに問題がある、という危惧の念をこめてです。「潔い」ご性格、果断さは恐らくそこからは出てこないでしょう。

 すべてこれから起こることは憂愁につつまれたままである可能性がきわめて大きいように思います。

謹賀新年(平成21年元旦)

謹 賀 新 年

 私は都立小石川高校の卒業生だが、在学中に『礎』(いしづえ)というガリ版のクラス雑誌を出していた。年老いて誰いうともなく『礎』の復刊を望む声があり、年に一度、ガリ版ではなくパソコンの原稿を持ち寄って綴じて出す企てが数度に及んだ。

 平成20年(2008年)に私はここに「私の墓」と題した次のようなエッセーを寄稿したので、平成21年の年頭に際し、再録する。

私 の 墓

 自分の墓を作らなくてはいけない、となんとなく考えだしたのはもう二十年も前からだったと思う。

 私は次男なので、親の墓には入れない。残された家族に墓のことで迷惑はかけたくない。死ぬ前になんでも自分のことは自分で始末をつけておきたい、と思っていた。

 しかし、勿論急ぐことではないので、そう思っているだけで、何年もだらだらとなにもしないで放置しておいた。

 切っ掛けがつかめないのである。第一、どうやって切っ掛けをつかめばよいかが分からないのだ。

 どこでどうやって墓地を探し、墓石を作らせ、そこに戒名を彫ってもらって、兄の管理する親の墓から分骨して新しい墓に親の骨の一部を移し・・・・というようなプロセスが頭では分っていても、第一歩を踏み出すスタートの具合いが分らないのだ。

 恐らく誰でもそうだろう。お寺の関係者が身内にいる人は別だが、信心深い生活を日頃していない私のような俗人には、「建墓」は簡単に手のつけられない遠い世界の仕事なのである。

 それでも、だんだん身近な問題として意識されるようになったのは、加齢のせいもあるが、墓地の販売を電話で言ってきた業者(つまり石屋さんですね)の言葉に耳を傾けて以来だった。

 マンション業者や証券会社がよく勧誘の電話をかけてくるが、あれと同じである。マンション業者や証券業者からの電話はピシャッと切るが、墓石の商売人の言葉には耳を傾けた。私の側に関心があり、必要があるから、つい甘い誘いに乗る。

 親の墓は所沢霊園といって、西武線の奥にある。今は一般にお寺ではなくて、霊園がはやっている。私も最初そういう方向で計画していたが、遠いので私自身が墓参りをきちんと定期的にしない。私はまことに親不幸である。

 私は親のことを決して忘れることはない。思い出を文章に書いたりしているから鎮魂の祈りはそれで十分だなどと嘯いて、図々しくかまえて、あっという間に二十年以上が過ぎた。これではいけない。

分骨してもっと近い場所に親の墓を移し、私もそこを自分の終の栖とする方式に切り換えれば、親不孝も解消できるのではないか、等々と考えたりもした。妙な自己弁明である。

 電話をかけてきた石屋さんは中野区や杉並区のお寺の土地を勧誘する。小さい区画である。それでも高い。

 買う意志があるようにみせて結局は買わない。同じ石屋さんが半年ぐらいするとまた電話をかけてくる。また、はぐらかして買わない。

 次の半年が過ぎるとまたかけてくる。そういうことが何回つづいただろうか。

 電話のやり取りのうちにいろいろのことが分ってきた。墓は半永久的なものと考えていたのだが、これは私の錯覚だった。墓石は腐らないが、墓地はまた更地にされて他人に売られるのである。だから中野や杉並の寺の土地がボコボコと売り出されているのである。

 それを聞いて、私はお墓を作るのはやめようかと思った。人がよくロマンチックに夢みるように、骨を粉にして海上に散布するとか、大きな樹木の下に埋めて自然土と一体になるようにするとか、なにかそんな可能性があるのではないかとも考えた。

 けれども人骨をどこでもいい、好きな場所に捨てたり埋めたりすることは法律で禁じられているのである。ロマンチックな解決は金もかかるし、手続きも大変だし、ちっともロマンチックではない。

 事実、スタンフォード大学の政治学者片岡鉄也氏が亡くなり、遺骨は東京湾上に葬られたが、友人知人が大挙して船に乗って、容易ならざる式典であったようだ。私も行こうかと思ったが、席も限られていて、評論家の宮崎正弘さんがこちら側の友人を代表して船に乗り、たくさんの映像を届けて下さった。

 生涯をアメリカとカナダで暮らした片岡さんだからこそ似つかわしい埋葬の形式だったといえるのかもしれない。

 どうせ墓は永久ではない。墓所にこだわるのは愚かである。そう思えばどうでもよいことだと思った。

 さりとて場所だけは作っておかないと家族が困るに相違ない。親と一緒に葬られたいという思いも一方ではやはりある。なんとなく落ち着かなかった。

 しかし、急ぐことではない。そう、まったく急ぐことではない。私はそう思って、また何年かが過ぎた。

 石屋は電話をかけてこなくなった。

 転機が訪れたのは七十二歳になってからだった。昨年の秋、知人の作家が自分と自分の親の墓を作った。四谷三丁目だった。まだ墓地が残っている。いいお寺だから一緒に行って紹介してあげる、という心からの親切な誘いがあって、初めて具体的な行動に出た。石屋ではなく、知人の声はやはりききめがある。

 そこは墓地全体が半分に仕切られていて、奥の半分は普通の墓地、手前の半分は霊園方式で、なんとなく明るい。奥は古く、苔むしていて、手前は新しく、華やかで、墓石もいろいろな形態をしている。二つの区画の間に柵があって、差別されるかのごとく、奥の墓地には簡単に這入れない。

 紹介されたのは手前の霊園で、墓石には薔薇の絵が彫られていたり、五線譜上の音符が踊っていたり、平和という文字が叫んでいたりもする。

 ここはお寺の檀家にならなくて済み、面倒がないなどの利点もあるが、私は迷った。ともかく少額の手付金だけ払って、半分ぐらい心を動かされて立ち去った。知人の作家を私は好きだったし、同じ墓地に一緒に埋められるのも悪くないな、と思った。生きているうちは一緒に親の墓参をして、帰りに一杯飲むのも楽しそうである。

 私はここに決めようかと家族と話し合って帰宅した。ちょうどその同じ日に、上野の寛永寺の墓所案内の広告が自宅の郵便受けに入っていた。すべては偶然である。

 ものは試しと電話をかけてみた。勿論相手は近代的な会社形式になっているものの、別の新しい石屋さんである。

 寛永寺のケースは土地と墓石とで二千万円と聞いて、ヤーメタとなった。すると、新しい石屋さんは、これの何分の一にも満たない私の予算を問い質して、いくつもの候補を口上し、私の心を誘惑した。どこもみな都心の一等地である。しかもなんとかして買えないでもない金額である。

 私はほとんど信じなかった。間もなくファックスで一覧表が届いた。ともかく実際の場所を見て下さい。見てから断るのは自由ですよ。最もふさわしいと思われる有利な一件をお教えします・・・・。

 人間の心は不思議なもので、四谷三丁目にほぼ決めかけていて、しかもこれでいいかな、と迷っている状況下だったからこそ、次の候補地を急いで見て、二つに一つのどちらかを選ぼう、今度のが良ければ前のを断わろう、今度のが悪ければ前の友人の作家の勧めに応じることに躊躇すまい、と、二者択一を瞬時にして心に決めていた。

 土地建物やマンションを買うときなどにも、人はみなこれと同じような二者択一に自分を追いこむのではあるまいか。

 私は自分ひとりで決めるわけにもいかないので、家内を急がせて、何日も置かずに次の候補のお寺を見るプログラムに従った。

 新しい候補地は地下鉄銀座線外苑前から徒歩二分、ベル・コモンズのビルの裏側にある持法寺という法華宗の小さなお寺である。北青山二丁目である。後でだんだん分ったが、このあたりにはビルの裏側にじつにさまざまなお寺が存在するのである。

 一歩表通りを離れると、あたりはシーンと静まり返って、大きいビルに遮られ、交通の音もしない。

 墓地はそんなに小さくはないが、見渡せる範囲の広さで、伝統的な普通の墓石が並んでいて、まあいわゆる墓地らしい墓地である。常識的である。いいんじゃないかな、と私は思った。

 同じ日にご住職にお目にかかった。若くて、性格の明るい方だった。私の本を何冊も買ってお読み下さっていた。これも偶然である。

 私の一番の心配、墓地は再び更地にされ、他人に売られてしまうのではないかに関して、ご住職は笑って問題にされなかった。そんなご心配は要りません。それはよくよくのケースです。先生の場合に限ってそんなことは・・・・と。

 ご住職から境内に、井伏鱒二と吉行淳之介の墓があると教えられて、帰りしなに早速に拝見した。井伏さんの方は何代も前からの墓所である。成程これなら、私の墓も少なくとも百年くらいはもつだろう、などと考えて、ここに心が一挙に傾いた。

 私が死ぬ覚悟がまったく出来ていなくて、地上の生にいかに執着しているかがこれで分るだろう。墓を作るのは私が死に近づいた心の位置に立っているからではない。まったくその逆なのである。

 これは自嘲しても仕方がない、死後もなお精一杯見栄を張りたい凡夫の性根の証明である。見栄というより、みじめなことにだけはなりたくないという思いにすぎないが、それも見栄といえば見栄であろう。

 死ねば自分の意識は消える。同時に世界は一挙に消える。世界を滅亡させることは自分の死によって可能になる。

 しかし、そのことがどうしても分らない。私は私の死後を私の生の影としか捉えていない。だから墓探しなどをする。

 死を生の延長でしか見ていない。断絶が分らない。頭で分って、じつは何も分っていない。しかし生きている間に分るということが本当に起こるとも思えない。ひょっとして断絶はないのかもしれないが・・・・。

 ご住職に挨拶して、石屋さんと私の買う墓地の場所を確定する話合いをした。小さな区画で、間口九十センチ、奥行き百二十センチであった。所沢の両親の墓所の三分の一にも満たない面積だ。土地の価格は百二十万円。このほかに墓石代は三百十万円である。石屋と契約を交した。平成十九年十月末の出来事であった。

 それから私はもう肩の荷が下りたと思い、お墓のことはすっかり忘れてしまった。石屋さんからやいのやいのと次の課題を言われるまで放置してしまった。墓石に文字を刻む前に私と私の妻の戒名をこしらえてもらわなければならない。お寺に先代のご住職が同居されていて、その老師が作って下さるというので、その方にお目にかかった。

 しばらくして、どういう文字がお好きですか、それはどういう理由からですか、という老師の質問が現在の若い住職を介して電話で私に届けられた。

 以下は老師に宛てた私の手紙の一節である。私の自己説明である。

拝啓

  ようやく春らしくなって参りました。この間はご親切に電話でご質問を賜わり、恐縮いたしました。

  あれから私が大切に思っている好きな言葉を二、三考えてみました。

  そういえばたしか、例えば「自覚」という言葉、あるいは「宿命」という言葉が若い頃から好きです。自覚というと偉そうに聞こえますが、「気がついている」くらいの意味です。嘘を言っていることに気がついていることは大切で、気がついていれば嘘を言ってもいいのかもしれません。気がつかないで嘘を言っている、それが一番いけないことだと思います。

  宿命もむつかしい概念としてではなく、希望的観測でものを言うな、というくらいの意味です。最悪のことを考えないで、いやなこと、不快なことは伏せて、ないことにして、安易な期待からすべての考えを組み立てる人が余りにも多いように思います。政治も外交もこれですべてダメにしているのではないでしょうか。日本の宿命をつねに考えていればこの国はもっと良くなるはずです。

  それから人間として一番大切なことは道徳ではなくて「羞恥」の感情ではないかと考えています。

  「信」も大事な言葉です。すべてこれだとも思っております。

 疑うことと信じることとは同じで、疑うなら中途半端ではなく、徹底的にとことん疑うべきです。そういうかたちでの「信」です。

  私の父は穏和な性格で、クールな人柄と言われました。戒名を見たら「空」と「静」とが入っていて、成程なと思いました。

 私は穏和でも、クールな性格でもありません。

 私は我が強く、根本的にやらないと気がすまない性格で、母の気質を受けていると思いますが、ただ自分で言うのも妙ですが、「明朗」なのです。

  ジクジク悩むということはなく、子供のときからお前は竹を割ったような性格だ、カラッとしていると言われたものでした。

 このあと妻のことを少し書いて、私の自己説明は終った。知らない僧に自分のことを語るのは難しいし、気羞しい。

 老師もまたかねて私の著述の幾つかを見て下さっていたが、それでも小さな懺悔録を書いた気分だ。

 桜が咲く頃に戒名(存修法名)が届けられた。私のは、

 本覺院殿信導日幹居士

 というのだった。

 石屋さんは「いいご戒名です。『殿』という一字はお願いしても簡単につけて戴けない文字です」と言ったが、私にはその値打ちは分らない。分らないから勿論これはそういうものだと有難く押し戴く以外にない。ただ「本覺」という二字が仏教で並々ならぬ意味を持つことは知っている。いいのかな、こんな文字をつけていただいて。「自覚」が好きなことばだと言ったせいかもしれないが、「信」も入っている、成程な・・・・などと思った。

 これで死後の名は決まったが、どこまでも生き残った側の人、社会の側にいる人の便宜のための名で、死んで行く私には何の関係もない。本物の仏教徒なら何の関係もない、などとは言わないだろうが。

 隕石の落下や原爆戦争などで人類が滅亡し、地球が死の世界になると分っていたら、私に死の恐怖は起こらないだろう。種が生き残り、個体が消滅することが理解を絶しているのである。

 私はどこまでも生の論理の中にいる。考えが浅い。仏典もあまり読まないできた。すべてを一日延ばしにしている。

 六月末に石屋さんから電話があって、墓が完成したから見に来いと言ってきた。そしてその際、開眼供養(墓に入魂する)は平成二十年八月一日ときまった。

 八月一日は朝から暑い日だった。所沢霊園で兄一家と落ち合い、二十年ぶりに両親の骨壷を開けて、読経してもらって、分骨式を終えた。父の骨も母の骨も真白で、少しも変色していなかった。完全な石灰質に還っているのだから当り前だが、夏の日を浴びた純粋な白さは私に安堵感を与えた。

 その日のうちに骨壷を抱えて、北青山に赴き、まず本堂に安置してご住職にあらためて読経してもらい、新しい墓に納めてからまた礼拝と読経の儀式が行われた。

 私は私の墓と言ってきたが、まずは両親が祀られている墓である。これからお彼岸やお盆のたびにここへ来なければならない、というのが不自然な気がして、なじむまで時間がかかりそうだと思った。

 骨の一部を移動させることも(分骨といっても決して二分の一の分量ではない)、ここへ天空から霊が舞い降りて来るというのもよく分らない。所沢と北青山の二箇所に霊は平等に舞い降りてくれるのだろうか。

 墓石の横にたしかに戒名が彫ってあった。私の十文字のうちでは「日幹」の二字が朱色に塗りこまれていた。

( 了 )