非公開:『GHQ焚書図書開封 2』をめぐって(一)

 『GHQ焚書図書開封 2』は昨年の年末に出版された。比較的よく売れているようだが、詳しいことはまだ分らない。

 「GHQ焚書とは何か」の追及は、第1巻では章立てして論じたが、第2巻ではこれをしていない。歴史書の具体的な紹介だけにしている。そのほうが内容尊重で、今回は大切だと思ったからである。

 恐らく第3巻は再び「GHQ焚書とは何か」の理論的追及の一文を加えるだろう。第3巻は今年8月を予定している。

 草思社の会長の加瀬昌男氏は私のこの仕事に以前から注目して下さっている。昨日葉書をいただいた。

 「このようにまとめられるのは大変なお仕事だったと拝察いたします。戦前戦中の著者たちが、相当な水準にあったことが察しられました。」

とまず書かれていて、今回のバターン死の行進をめぐる冒頭の章を踏まえて、

 「バターンは米比軍の食糧供給が日ましに少なくなっている状況をかつて読んだことがあります。小学生でも歩けるS・フェルナンドまでの道を歩けなかったのは空腹以外にありません。」

と、私の分析と推理をお認め下さり、

「アメリカは自分の責任を全部日本に押しつけたという感じです。西尾さんのお仕事の完成が待たれます。」

と結ばれていた。私はこれに対し、私の焚書の開封は量的にほんの僅かで、まだ0.1パーセントくらいしか出来ていないのだから今後この仕事に「中断」はあっても「完成」ということはなく、条件が許される限り延々とつづけるだけである、と述べ、言論雑誌にほとんど反響がないのは予想していたこととはいえ残念で、夏までに自ら『諸君!』に問題提起の論文を書くつもりである、「いわば自己宣伝しながら驀進あるのみです」と認めた。

 「GHQ焚書とは何か」の理論的追及を言論雑誌に自ら載せて、世論を喚起し、それを第3巻に取り込んでいくつもりである。

 幸い、溝口郁夫氏や岩田温氏がこの仕事に関心を示して下さっているので、共同研究ができればありがたい。私ひとりの力ではもうたいした規模は切り拓けない。

 年頭に宮崎正弘氏が真先に第2巻の書評をご自身のメルマガに書いて下さったので、以下にご紹介したい。いつも素早い対応に感謝している。
  

西尾幹二『GHQ焚書図書開封2』(徳間書店)
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 △近・現代史はペリー来航から総括しなければならない

 「戦中派」の西尾幹二氏とて、林房雄の『大東亜戦争肯定論』に遭遇したとき、新鮮な驚き、しかもペリー来航から百年戦争という視野で近代史を捉えていることに共感したと後書きに吐露されている。
 戦後の偏向教育と左翼マスコミの猖獗により、「短い尺度で考える日本の近現代史のものの見方にいつしか染まっていた」が、「それを毀したのは、たしか二十八、九歳の頃に出会った林房雄の『大東亜戦争肯定論』です。林が幕末からの百年戦争を説いている(中略)、戦争の原因を長い尺度で捉える必要を悟りました」(本書378p)。

 私事にわたるが、評者(宮崎)が林房雄の『大東亜戦争肯定論』というショッキングな題名著作の新聞広告を朝日新聞で見たのは高校生時代、まったくのノンポリ文学青年だったので、この人は当時、朝日新聞で文藝評論を展開され、かつ週刊朝日に『文明開化』を連載され、毎日新聞に『西郷隆盛』を連載している、あの売れっ子作家とは同名異人だろうとおもったほどだった。
戦後派の感覚では「戦争肯定」という後節のシラブルの響きが、なんとも不気味で、後年、鎌倉の書斎に林房雄と訪ねた折、新聞広告でみた、その第一印象を言うと大いに笑われた。
林は朝日の文芸時評で「わたしはいまもあの戦争を肯定している」と二、三行かいた箇所を『中央公論』誌が、「もっと詳しく書いて欲しい」と言ってきたために長い長い連載評論の開始になったのだ。
 戦前「天皇制」とか「皇国史観」、「侵略戦争」という語彙はなかった。
 全部、左翼が戦後、政治宣伝に都合良くするために“発明”したボキャブラリーである。さらに言えば「天皇制」は国際コミンテルン用語である。あたかも東京裁判が、戦前の国際法になかった「事後法」で裁いたように、日本人は戦後、GHQの制定した『事後法』的な言葉狩り、語彙の押しつけ。これらの政治宣伝戦争においてもわれわれは左翼に敗れた。民族の記憶、歴史の記憶が消されかけ、洗脳されてしまった。GHQが重要な書物を焚書としたことに起因するのである。

 西尾氏は講演の中で次のように言う。
 「昭和3年から、昭和20年までという17年間の間に約22万点の単行本を含む刊行物が日本では出ていました。約22万点。その中から9288点をまず粗選びして、最終的に7769点、それをリストとして確定し、焚書図書として指定しました。つまり「没収図書」です。これがアメリカ側の行った大まかな行動です」(日本保守主義研究会7月講演会記録より)。

 さて本書は歴史探訪、昭和史の謎に挑むシリーズの第貳弾。戦後派にとって、GHQによって闇に葬られ、「戦後派」以後の世代にとっては、殆ど聞いたことのない本がずらりと並ぶ。
 これら焚書図書はなにゆえに、いかなる根拠で、しかも誰が選定して発禁としたのか。図書館や個人の書斎から取り上げたのか。「戦後の言語空間」の闇は果てしなく深いことがわかる。
 この第二巻では、戦後マスコミが殆ど取り上げなかった大東亜戦争のもうひとつの主力舞台、つまり太平洋の島々からインドシナ半島へといたる広大な戦線での「真実」である。
評者のような「戦後派」は、殆ど何も教わらなかったし、いや何が戦争中にアジアで起きたかを知る手だてがなかった。かろうじて大岡昇平「レイテ戦記」や阿川弘之の文学作品くらいである。
 パレンバンで日本兵(♪「見よ、落下傘」のモデル)がわずか五名で敵兵百数十を討ち取り、さらに数百を捕虜にしたなどという真実の武勇伝も、のちに山川惣治の物語の復刻で知るほどに、アジア戦線での歴史はかき消されていたのだ。
 ベトナムやインドネシアで、日本兵の活躍で彼らが独立を勝ち得たことも、いまとなっては小説の世界でしか知ることはない。

 火野葦平はフィリピンに従軍して『パタアン半島総攻撃従軍記』を書いた。米軍は食糧不足で自壊した“本当の”事実などに触れながら、所謂「パターン死の行進」の嘘の部分を、フィリピンの捕虜や「アメリカ人捕虜の安らかな夜」などを通して活写している。
 この火野葦平の力作は当然ながらGHQによって消されていた。本書はかなりの頁を割いてパターン半島の真実に迫る。
 またオランダがいかに残虐なインドネシア支配を行ったか、その収奪の反省もしない、植民地からの搾取ぶり、そしてベトナムに進駐した日本軍を、その軍律の厳しさをしったベトナムの民衆が、『日本民族は世界一道義的である』と認識したか。フランスのインドシナ侵略と植民地化の搾取のひどさと比較される。
 フランスはいまもニューカレドニア、タヒチを植民地として支配し、百回もの核実験を行っている。
 これらはすべて連合国にとって「不都合な真実」だった。ゆえにGHQの焚書対象となって、日本から消された。

 仲小路彰という人がいた。『太平洋侵略史』を6巻にまとめ、欧米の侵略歴史を表した。いま、古本ルートで一つだけ入手可能だが、一冊が三万円近い。目次を読んだだけでも、戦前の日本の知識人がいかに客観的に、適切に世界の動きを分析し把握していたかが、明らかになる。

 西尾氏は、これらの焚書図書の重要部分を丹念に拾いながら、第貳巻の最後では大川秀明の『米英東亜侵略史』について演繹され、その神髄にある大川の歴史観を紐解きながら、「ロシアから中国や朝鮮の領土をまもった日本」、「日本をおいつめた米国の尊大横暴」を縦横無尽に論証していく。
快刀乱麻をたつ傑作であり、労作である。
 「アジアを侵略したのは欧米であり、日本ではなかった」という歴史の真実が、焚書を開封することにより、これほど強烈に明らかになるのだ。
 本書はいずれ文庫入りし、国民必読の教養書となるだろうと確信している。

文:宮崎正弘  
  

  

坦々塾(第十一回)報告

濵田 實
坦々塾会員、元大手コンピューター会社に勤務

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坦々塾の記録(感想)     

日 時 平成20年11月22日(土)14~18時半

 今回のお話は、それぞれ内容も豊富で、記録の量も、いつもの倍はあったようです。この内容が知れ渡れば、日本人もGHQの洗脳から覚めるのではないかと思うほどに濃密なものでした。以下、私の感想というかたちでお話の内容、雰囲気をお伝えします。

● お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」

        足立誠之氏(元カナダ三菱銀行頭取、元三菱銀行北京支店長)

● お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」

        西村幸祐氏(評論家・月刊『激論ムック』編集長)

● お話の3 「私の人生と思想」

        西尾幹二先生(電気通信大学名誉教授・評論家)

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お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」 足立誠之氏

 出だしは田母神論文に関し、 ①日本侵略国家論 ②文民統制論 をおかしな動きとして縷々説明、「侵略論」の裏には村山談話にさえ無い何かが隠されているのではないかと私見を述べられた。またオバマ黒人大統領誕生に関し、何よりも国際連盟で「人種平等案」を提唱したのは他ならぬ日本であったことにも触れられた。

 氏は『閉ざされた言語空間』(江藤淳氏)や『GHQ焚書図書開封』(西尾幹二氏)を読むにつけ、食糧配給などで示したアメリカの「情報操作」を思わずにはおれなかったという。アメリカによる巧みな情報操作は、当時のいろはカルタにさえ「強くてやさしいアメリカ」などという表現で巧妙に情報操作がなされた。日本人の感覚では思いも浮ばないことである。

 渡米後遭遇した地下鉄大混乱(スト騒ぎ)では、大バリケードの光景をみて、アメリカ社会の姿にハッとしたという。それは「ガラス箱の中の蟻」を思わせるものであったそうだ(ガラス箱: 国民が目に見えない壁面のガラスを通して、投影された宣伝映画を見せ付けられているというイメージ)。その他、幼児の、ベランダからの転落死事件におけるアメリカ社会の対応を観察しても、戦後の我が国における「子供を自由にのびのび」とは正反対というお話を聞き、我が国社会は「当たり前」のことを戦後「奪われた」(戦前の日本にはあった)という思いを深くした。

 また氏は渡米して、今では当たり前のPOSシステムの前身を目の当たりに見て、アメリカ社会の戦略思考をまざまざと感じたという。かなり昔、ある雑誌でヤオハンの和田社長(当時)が、同社におけるブラジル等海外進出の動機はアメリカのスーパーチェーンシステムに刺激を受けたことであると読んだ話を思い出した。アメリカ社会を観る視点は徹底してその「戦略志向」にある。外国を学ぶとは、そういうことではないだろうか。私見であるが、日本人の外国の学び方、洞察の仕方に、深い疑義を抱いている。

 その他、イランにおける米大使館人質事件とその対応や、一発の銃弾もなしに人質事件が解決した背景に何があるのか? また谷内(やち)前外務省事務次官が、文芸春秋12月号コラム「霞ヶ関コンフィデンシャル」で当時、爆弾発言をされた話など、その背景に、アメリカの日本の潜在力に対する「脅威」が彼等の心に潜んでいるという興味あるお話もあった。この報告は面白いが長くなり、またブログで詳細文が載るとも聞くので、そちらを参照いただきたい。

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■ お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」  西村幸祐氏

 ジャーナリズムのあり方については、西尾先生が『諸君11月号』で彼等の根本姿勢を批判され、佐藤優氏の感想文が本ブログでも紹介されていることは、皆さんご存知のとおり。西村氏は具体的に、戦後言語空間で覆われ反日の構造を挙げられ、戦後日本人の間で進んでいる記憶喪失や情操操作、隠蔽体質等に、メディアの質の劣化が潜んでいると批判された。

 2002年(平成14年)の小泉訪朝以来、国民意識は変わっていないという。ある知識人は、当時、『諸君』、『正論』、『Voice』などの雑誌が元気付いた傾向をして社会の右傾化と評したが、むしろ、本当は「左傾化」であると指摘された。世の中一般は、何となく右傾化、という風潮があるようだ。この説明は、社会の裏側をよく知る人たちには、ある程度気付いていたことだが(=世の中、ますます酷くなっている・・という)、あらためて新鮮は印象を抱いた。

 それは、田母神論文に関連して、マスコミの一斉批判とレッテル張り、田母神発言封じや、浜田防衛大臣が統合幕僚学校の教育のあり方を見直す(「偏り」を直す)という発言がその傾向を象徴しているというように、現職の自民党大臣がトンデモ発言をする御時世になった。まさに左傾化、政府の没落化であり、物事をみる視点が希薄になったことでなくして何であろう、という印象を持った。しかしその後、田母神氏の姿勢は止まるところを知らず、全国から講演依頼がたくさんきていると聞く。

 国民一般の田母神論文に寄せる感想は圧倒的に支持する意見が多い。田母神氏はサムライとして、内容に隠し立てする必要もなく、正々堂々と正論を貫き通せばいいだけのことだ。きちんと田母神氏をサポートしてゆけば、そのうち言論封じをした政府、マスコミの方が、不利になることは確実である。中韓両国も、田母神氏があまりに堂々としていること、及び今まで中国政府における毒餃子事件反論など、デタラメ対応をみせてきたため、自ら墓穴を掘り、へたにやると日本国民から批判を受けるとして、今回日本を正面から批判できないでいる。今までと違った空気である。

 先の谷内発言のバックに「アメリカが存在する」という暗示を指摘されたが、今後どのように日本政府が将来を切り開いてゆくのかも気になるところである。

 国籍法改正案問題についても触れられたが、某テレビ局は「女子供」をダシにした違法行為是認の偏向、歪曲報道を行い、感情を表に出して法の世界に風穴を開けようと意図的に情報操作した。自分自身が番組をみて、怒りを感じたので、恐ろしい動きがあることを実感しながらお話を聞いた。メディアもたよりにならない。然らば、インターネット(Uチューブなど)やファックスによって、風穴を開けよう(実際その効果が出ている)という西村氏の意見は、現実になりつつあることを、あらためて感じた次第である。

 最後、西村氏は「歴史(事実)情報が忘れられている。原理原則を忘れている。それが常態化していることが根本問題だ」だとして、お話を締めくくられた。

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お話の3 「私の人生と思想」  西尾幹二先生

 社会の「左傾化」はそのとおりだが、先生はある意味、楽観もしているということであった。今の合唱は「断末魔のヒステリー」として、村山談話はアジアの贖罪をアメリカに向って発したもの、それは自己処罰と、アメリカに対する恐怖感に由来すると、さらりと言ってのける先生の思考スタンスが面白い。麻生首相がいつの間にか安倍氏と同じになった・・とも言われた。

 いま、先生はGHQ焚書問題にも力を入れておられるが、その関連で、昭和40年(当時29歳)の雑誌『自由』で当選した「私の戦後感」という論文主旨が今日の言論活動と一本線でつながっていることを、私自身が発見した。さらに言えば、中学時代の先生の日記にも、今にも通じる歴史に対する思考スタンスが萌芽としてあったと感じるのは、私だけではないと思う。その歴史思考を先生は、私見ではあるが、人生の問題としても捉えているのではないかと思う。

 戦後、進歩的文化人が陥った思考の泥沼は、単純に言えば、過去を「否定」し、その後を「肯定(是)」する姿勢、自分だけ救われようという自己弁護である。そういう卑怯な自分をこそ問うべきである。そういう悪を否定する勇気、女々しさを否定する勇気が必要である。考えてみると、西尾先生の論調には、すべてこの批評精神が悠々と、一貫している、ここが真骨頂と思うが、いかがだろう。

 昭和45年の三島由紀夫事件についても、縷々面白い、微妙なお話もされたが、これは新著『三島由紀夫の死と私』(PHP/西尾幹二著)に詳しいので割愛する。

 アメリカ問題に対しても、けっこう時間を割いてお話しされたが、アメリカによって与えられた平和主義が戦後日本の生き方になり、そこに疑義も抱かず、その構造を今の日本人が忘れている。それ自体が、「日本の病理」の全てであるという指摘は、まったく同感である。先生の数ある著書、ブログ文章にも、繰り返し触れられている論点である。

 「自己決定」を避けようという姿勢が、日本人の精神、思考をして稚拙化している要因と思われてならない。その他、サブプライムローンに発するアメリカ及び世界経済の行方、80~90年代の日米関係の振り返り、村山談話をどう見るか、についてもお話をされた。

▼ 最後に一言

 3先生のお話に関して、私(濵田)自身が正直どう受け取っているのか、ごく簡単に書かせていただきます。

 基本認識は正直、殆ど同じですから違和感はありません。私自身が言論の世界で昔から違和感を懐いてきたことは、日本がこれだけ長い歴史・伝統・文化を持ちながら、外国に「位負け」し、自らを貶める言論好きの日本及び日本人に大きな違和感を懐いてきました。私なりにかなりの本を読み込んできた結果、日本の歴史・伝統・文化に強い「信」を懐いております(ミスクソ一緒ではない)。その意味で坦々塾は居心地がいいのです。最近気付かせていただいたこと、それは「真善美」に悖る保守人・・秩序、礼儀を無視する保守人といってもいいでしょう・・、『真贋の洞察』を欠いた保守人、『身近にある危機』を感じない、あるいは知らない(知らぬ振りをする)保守人の不思議な存在です。ここに保守人の劣化、稚拙化、危うさを感じています。最後に日本民族のアイデンティティを確かめるため、『古事記』の(本質的な)世界にもっと入り込んでいいのではないか・・・と個人的には思っております。                            
   以上
文:濵田 實

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坦々塾平成21年新年会

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  むかし九段下会議という政策研究を主とした勉強会に参加していて、小泉郵政選挙の評価等で意見が分れ、解散した。20人くらいのメンバーだったが、解散と同時に13人がせっかく集ったのだから会はつづけたいといって、私の許に再び集まり、坦々塾をつくった。しかしもう政界や政局に直かに結びつくことはやるまい。もっと日本の歴史や時局を深く考える会、自分を磨く会にしたい。何事に対しても「坦々と」歩んでいけばよい、というくらいの気持ちで、会をつづけているうちいつしか50人を越えるメンバーとなっていた。

 1月10日坦々塾新年会が開かれた。48人が参集した。私の旧い友人や愛読者の方々も多いが、定年前後のサラリーマンの方もいるし、学生も何人かいる。集まるたびに相互に知り合いになり、親交を結んでいる。いま大変に気持ちのいい会になっている。

 私が講演をし、依嘱した外部講師の方々が講演を重ね、ときにメンバーが研究発表をすることもある。開始以来の講師と演目は次の通りである。

第一回 (平成 18年 9月 10日) 参加 22人
 ゲスト講師:宮崎 正弘先生 『中国外縁の国々で起こっていること』
 会場 四ツ谷マイスペース 

 *宮崎正弘先生はその後メンバーとして勉強会に参加してくださっています。

第二回 (平成 18年 11月 5日) 参加 24人
 ゲスト講師:高山 正之先生 『反日の世界史』
 会場 四ツ谷マイスペース

第三回 (平成 19年 1月 28日) 参加 23人
 ゲスト講師:関岡 英之先生 『奪われる日本-真の国益を擁護するために』
 会場 四ツ谷マイスペース

『江戸のダイナミズム』出版記念会 (平成 19年 4月 4日)出席 約400人
 会場 グランドパレス市ヶ谷

第四回 (平成 19年 5月 20日) 参加 22人
 ゲスト講師:黄 文雄先生 『日本の天皇・中国の皇帝』
 会場 永田町 星陵会館

第五回 (平成 19年 8月19日) 参加 27人
 ゲスト講師:東中野 修道先生 『南京占領の真実』
 会場 永田町 星陵会館

第六回 (平成 19年 11月 11日) 参加 27人
 発表者:西沢 裕彦 『中国食品の問題』
 ゲスト講師:萩野 貞樹先生 『国語について』
 会場 永田町 星陵会館

第七回 (平成 20年 1月 12日)参加 35人
 発表者:尾形 美明 『ディーリングルームの世界』
     空花 正人 『反日左翼勢力の動向』
     小池 広行 『エネルギー危機と日本の原発』
 会場 六本木 霞会館

  *この月は新年会を行いましたので、ゲスト講師の先生はお呼びしておりません。

第八回 (平成 20年 2月 24日) 参加 33人
 ゲスト講師:宮脇 淳子先生 『モンゴルから満州帝国へ』
 会場 永田町 星陵会館

萩野貞樹先生追悼会 (平成 20年 4月 22日) 109人

 会場 九段会館

* 勉強会にゲスト講師としてお話を伺った萩野先生がお亡くなりになりました。
第六回坦々塾が、萩野先生が外部で行う最後の講演になりました。

第九回 (平成 20年 5月 10日) 参加 43人
 発表者:粕谷 哲夫 『中国旅行で見た今の中国』
     小川 揚司 『吾が国の「防衛政策」の変遷と根本的な問題点』 
 ゲスト講師:田久保 忠衛先生 『最近の国際情勢と日本』
 会場 六本木 霞会館

第十回 (平成 20年 8月 9日) 参加 40人
 発表者:岩田 温   『保守概念の再考』
     早瀬 善彦
 ゲスト講師:平田 文昭先生 『保守活動の挫折と再生』
 会場 六本木 霞会館

第十一回 (平成 20年 11月 22日)参加 42人
 発表者:足立 誠之 『アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”』
 ゲスト講師:西村 幸祐先生 『ジャーナリズムの衰退とネットの可能性』
 西尾先生 『私の人生と思想』
会場 六本木 霞会館

第十二回 (平成 21年 1月 10日)
 西尾先生 『荻生徂徠と日本の儒学』

  *この月は新年会を行いますので、ゲスト講師の先生はお呼びしておりません。
 会場 六本木 霞会館

第十三回 (平成 21年 3月 14日)
ゲスト講師:山際 澄夫先生 『    』・・・・予定
 会場:六本木 霞会館

 本年の新年会では、私が江戸の儒学は日本の土着の風土といかに噛み合わないかの諸相について、1時間半ほど講義した。「鎖国」とよばれる現象は西洋に対する拒絶反応だとみられているが、そうではなく、中華に対する抵抗と自己調節の努力だったということが私の言いたかった主なテーマであった。

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 つづいて新年会ということで来て下さった飛び入りのゲストの宮崎正弘氏が、いよいよ正体が分ってきたアメリカの金融危機の現状と今後の見通しについて、また同じく飛び入りの平田文昭氏が世界のエネルギー問題の現実と各国の心理的委曲について、各15~20分ほどサービス講話を展開して下さった。ひきつづき熱心なメンバーからの質疑がなされた後、会場を移して、新年宴会が開かれた。

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 数葉の写真から新年会全体の空気を察知していただけよう。宴会からひきつづいてカラオケ店に移動し、21人が六本木のカラオケの夜をたのしんだ。

 ところで坦々塾の前回は11月であった。浜田実氏が11月例会の参加記録を寄せて下さっている。当「日録」では年末、『GHQ焚書図書開封』に関する私の夏の講演を延々と掲示した関係で、例会の報告文を皆さまにお示しするチャンスを逸したまゝに、新年を迎えてしまった。

 ここに遅滞を浜田氏にお詫びし、11月例会の様子も併せて次回にご報告する。

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謹賀新年 その二

 正月早々墓の話を掲げたのは死期を意識しているからではありません。まるきりそんなことはないのです。

 毎月一度必ず主治医に血液を採られています。そして前月の結果を知らされる。もう何年ほとんど「異常なし」です。中性脂肪もコレステロールも尿酸値も肝機能も腎機能もつねに正常の範囲内です。血糖値がやゝ境界領域にありますが、犬の散歩のおかげでこれも少しずつ改善されているようです。

 主治医はこう言います。「今は毎日のご生活が充実していることがなによりも大切です。医者はあなたの身体の逸脱を警戒し、注意を喚起するだけで、それ以上のことはできません。」

 私がそこで「大きな異常にはなにか予兆のようなものがあるのでしょうか」と問えば、「たいていドスンと来るのです。」と怖いことを言うのです。「加齢と遺伝は誰しも避けることができません。」

 私は昨年、当ブログの右側に並ぶ五冊の本を相次いで上梓し、働き過ぎでした。平成18年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」の名誉会長を退任し、拘束から解放されたことが、著作家としてのここまでの単独行動を可能にしました。今しみじみと辞めて良かったと思っています。

 「ものを書く」という仕事は団体行動にはなじまないのです。あの立場は私から言論の自由を奪うことがたびたびありました。昨年の皇室問題に対する私の発言は、あの立場にいたら会の主張と誤解されてはいけない、という思惑から出来なかったでしょう。

 事実、皇室無謬派(皇室に対してはたゞ弥栄を祈っていればよいという無条件崇敬派)がいわゆる保守言論界の一方にいるらしく、「つくる会」の元理事で分派して去った人たちが威丈高に私を叱責し、声を荒げて意趣返しをしていたのは昨年のひとつの光景でした。ですから、昔の侭のあの会にかつての立場で私が今もいれば、私は自由ではなかったでしょう。

 私がいま手にした自由はことのほか貴重だと分りましたが、しかし自由はそれ自体ではなにほどの価値もありません。むしろ物事を危うくすることがあります。皇室という環境が皇太子妃殿下の病気の原因であるという認定、主として齋藤環氏等医師たちの認定ですが、これが天皇陛下の大御心を深く傷つけている、との昨年末の宮内庁長官の公式見解は、妃殿下にもっと自由を与えよ、というリベラル・サヨク派の思想の危うい破壊性をはっきりと印象づけました。

 これから天皇・皇后になろうとする若いお二人にもっと自由を認めたらいいというのは何を考えているのかと私は思いました。皇室という環境が妃殿下を病気にした、という医師たちの認定ほどに恐ろしい天皇制度否定論はないと思います。なぜなら皇室という環境が人権侵害をしていると言っているのと同じだからです。

 正月六日の産経コラム「正論」に加地伸行氏が次のように仰っていました。

 昨年、西尾幹二氏に始まり、現在の皇室について論争があった。その詳細は十分には心得ないが、西尾氏は私より一歳年長であり、〈勝ち抜く僕ら小国民〉の心情は同じであろう。皇室への敬意に基づく主張である。

 その批判者に二傾向、(1)皇室無謬(むびゅう)派(皇室は常に正しいとするいわゆるウヨク)、(2)皇室マイホーム派(いわゆるリベラルやサヨク)がある。

 私は皇室の無謬派こそ皇室を誤らせると思っている。

 その理由として氏は、『孝経』が歴代皇族の学問初めの教科書であるが、その中に、臣下の諫言(かんげん)を受け入れることを述べる「諫争章」がある。

皇室は無謬ではない。諫言を受容してこそ安泰である。そのことを幼少より学問の初めとして『孝経』によって学ばれたのである。諫言―皇室はそれを理解されよ。

一方、皇室のありかたをわれわれ庶民の生活と同じように考え、マイホーム風に論じる派がいる。

だいたいが、皇室の尊厳と比べるならば、ミーハー的に東大卒だのハーバード大卒だのと言ってもそれは吹けば飛ぶようなものである。まして外交などというのは、下々の者のする仕事である。

にもかかわらず、そのようなことを尊重するのが問題の解決になると主張するマイホーム人権派もまた皇室を誤らせる。

 仰る通りである。私も氏と同じような考え方である。そして、皇室は「無」の世界に生きる処に本来性があり、幼少からの教育によってそれを培い、マイホーム主義と絶縁するのである、と氏は述べた後、一文を次のように結んでいます。

陛下御不例が伝聞される今日、皇太子殿下の責任―〈無〉の世界の自覚が重要である。もしそれに耐えられないとすれば、残る道は潔い一つしかない。『考経』に曰く「天下に争臣(諫言者)七人有れば・・・・天下を失わず」と。

 「もしそれに耐えられないとすれば」以下は、随分きっぱりと暗示したものです。

 じつは何を暗示しているのかは分りません。すべての人は今ここで立ち停まっています。私もそうです。天皇陛下も恐らく同じでしょう。

 『諸君!』12月号で私は雑誌ジャーナリズムのあり方を問う評論を掲げました。言論界が各種の固定観念に囚われ、透視力や洞察力を失っている諸相を分析し、指摘したのですが、そこで最後に、私が皇室発言をしてからというもの皇室無謬派=無条件崇敬派と皇室マイホーム派=リベラル・サヨクの二方向に言論が割れていることを述べて、加地氏と同様に肝心の問題はそのどちらでもない、真中にあることを示しました。

 どちらか一方は固定観念、つまりイデオロギーであって、左右ともに人をそこで安心させ、思考を停止させ、現実的でなくなり、悩みもなくなるのです。人は現実に向き合うときだけ苦悩があります。

 年末の宮内庁長官発言は、陛下の苦悩がやはりこの真中にあることを示しております。

 年末に出た『週刊文春』の記事が気になっています。皇太子殿下がご幼少からすばらしく温良に、従順に、弟君のように腕白になることもなく、いつも模範生として、周囲の期待に沿うように良い子でありつづけたことが物語られています。そこに問題がある、という危惧の念をこめてです。「潔い」ご性格、果断さは恐らくそこからは出てこないでしょう。

 すべてこれから起こることは憂愁につつまれたままである可能性がきわめて大きいように思います。

謹賀新年(平成21年元旦)

謹 賀 新 年

 私は都立小石川高校の卒業生だが、在学中に『礎』(いしづえ)というガリ版のクラス雑誌を出していた。年老いて誰いうともなく『礎』の復刊を望む声があり、年に一度、ガリ版ではなくパソコンの原稿を持ち寄って綴じて出す企てが数度に及んだ。

 平成20年(2008年)に私はここに「私の墓」と題した次のようなエッセーを寄稿したので、平成21年の年頭に際し、再録する。

私 の 墓

 自分の墓を作らなくてはいけない、となんとなく考えだしたのはもう二十年も前からだったと思う。

 私は次男なので、親の墓には入れない。残された家族に墓のことで迷惑はかけたくない。死ぬ前になんでも自分のことは自分で始末をつけておきたい、と思っていた。

 しかし、勿論急ぐことではないので、そう思っているだけで、何年もだらだらとなにもしないで放置しておいた。

 切っ掛けがつかめないのである。第一、どうやって切っ掛けをつかめばよいかが分からないのだ。

 どこでどうやって墓地を探し、墓石を作らせ、そこに戒名を彫ってもらって、兄の管理する親の墓から分骨して新しい墓に親の骨の一部を移し・・・・というようなプロセスが頭では分っていても、第一歩を踏み出すスタートの具合いが分らないのだ。

 恐らく誰でもそうだろう。お寺の関係者が身内にいる人は別だが、信心深い生活を日頃していない私のような俗人には、「建墓」は簡単に手のつけられない遠い世界の仕事なのである。

 それでも、だんだん身近な問題として意識されるようになったのは、加齢のせいもあるが、墓地の販売を電話で言ってきた業者(つまり石屋さんですね)の言葉に耳を傾けて以来だった。

 マンション業者や証券会社がよく勧誘の電話をかけてくるが、あれと同じである。マンション業者や証券業者からの電話はピシャッと切るが、墓石の商売人の言葉には耳を傾けた。私の側に関心があり、必要があるから、つい甘い誘いに乗る。

 親の墓は所沢霊園といって、西武線の奥にある。今は一般にお寺ではなくて、霊園がはやっている。私も最初そういう方向で計画していたが、遠いので私自身が墓参りをきちんと定期的にしない。私はまことに親不幸である。

 私は親のことを決して忘れることはない。思い出を文章に書いたりしているから鎮魂の祈りはそれで十分だなどと嘯いて、図々しくかまえて、あっという間に二十年以上が過ぎた。これではいけない。

分骨してもっと近い場所に親の墓を移し、私もそこを自分の終の栖とする方式に切り換えれば、親不孝も解消できるのではないか、等々と考えたりもした。妙な自己弁明である。

 電話をかけてきた石屋さんは中野区や杉並区のお寺の土地を勧誘する。小さい区画である。それでも高い。

 買う意志があるようにみせて結局は買わない。同じ石屋さんが半年ぐらいするとまた電話をかけてくる。また、はぐらかして買わない。

 次の半年が過ぎるとまたかけてくる。そういうことが何回つづいただろうか。

 電話のやり取りのうちにいろいろのことが分ってきた。墓は半永久的なものと考えていたのだが、これは私の錯覚だった。墓石は腐らないが、墓地はまた更地にされて他人に売られるのである。だから中野や杉並の寺の土地がボコボコと売り出されているのである。

 それを聞いて、私はお墓を作るのはやめようかと思った。人がよくロマンチックに夢みるように、骨を粉にして海上に散布するとか、大きな樹木の下に埋めて自然土と一体になるようにするとか、なにかそんな可能性があるのではないかとも考えた。

 けれども人骨をどこでもいい、好きな場所に捨てたり埋めたりすることは法律で禁じられているのである。ロマンチックな解決は金もかかるし、手続きも大変だし、ちっともロマンチックではない。

 事実、スタンフォード大学の政治学者片岡鉄也氏が亡くなり、遺骨は東京湾上に葬られたが、友人知人が大挙して船に乗って、容易ならざる式典であったようだ。私も行こうかと思ったが、席も限られていて、評論家の宮崎正弘さんがこちら側の友人を代表して船に乗り、たくさんの映像を届けて下さった。

 生涯をアメリカとカナダで暮らした片岡さんだからこそ似つかわしい埋葬の形式だったといえるのかもしれない。

 どうせ墓は永久ではない。墓所にこだわるのは愚かである。そう思えばどうでもよいことだと思った。

 さりとて場所だけは作っておかないと家族が困るに相違ない。親と一緒に葬られたいという思いも一方ではやはりある。なんとなく落ち着かなかった。

 しかし、急ぐことではない。そう、まったく急ぐことではない。私はそう思って、また何年かが過ぎた。

 石屋は電話をかけてこなくなった。

 転機が訪れたのは七十二歳になってからだった。昨年の秋、知人の作家が自分と自分の親の墓を作った。四谷三丁目だった。まだ墓地が残っている。いいお寺だから一緒に行って紹介してあげる、という心からの親切な誘いがあって、初めて具体的な行動に出た。石屋ではなく、知人の声はやはりききめがある。

 そこは墓地全体が半分に仕切られていて、奥の半分は普通の墓地、手前の半分は霊園方式で、なんとなく明るい。奥は古く、苔むしていて、手前は新しく、華やかで、墓石もいろいろな形態をしている。二つの区画の間に柵があって、差別されるかのごとく、奥の墓地には簡単に這入れない。

 紹介されたのは手前の霊園で、墓石には薔薇の絵が彫られていたり、五線譜上の音符が踊っていたり、平和という文字が叫んでいたりもする。

 ここはお寺の檀家にならなくて済み、面倒がないなどの利点もあるが、私は迷った。ともかく少額の手付金だけ払って、半分ぐらい心を動かされて立ち去った。知人の作家を私は好きだったし、同じ墓地に一緒に埋められるのも悪くないな、と思った。生きているうちは一緒に親の墓参をして、帰りに一杯飲むのも楽しそうである。

 私はここに決めようかと家族と話し合って帰宅した。ちょうどその同じ日に、上野の寛永寺の墓所案内の広告が自宅の郵便受けに入っていた。すべては偶然である。

 ものは試しと電話をかけてみた。勿論相手は近代的な会社形式になっているものの、別の新しい石屋さんである。

 寛永寺のケースは土地と墓石とで二千万円と聞いて、ヤーメタとなった。すると、新しい石屋さんは、これの何分の一にも満たない私の予算を問い質して、いくつもの候補を口上し、私の心を誘惑した。どこもみな都心の一等地である。しかもなんとかして買えないでもない金額である。

 私はほとんど信じなかった。間もなくファックスで一覧表が届いた。ともかく実際の場所を見て下さい。見てから断るのは自由ですよ。最もふさわしいと思われる有利な一件をお教えします・・・・。

 人間の心は不思議なもので、四谷三丁目にほぼ決めかけていて、しかもこれでいいかな、と迷っている状況下だったからこそ、次の候補地を急いで見て、二つに一つのどちらかを選ぼう、今度のが良ければ前のを断わろう、今度のが悪ければ前の友人の作家の勧めに応じることに躊躇すまい、と、二者択一を瞬時にして心に決めていた。

 土地建物やマンションを買うときなどにも、人はみなこれと同じような二者択一に自分を追いこむのではあるまいか。

 私は自分ひとりで決めるわけにもいかないので、家内を急がせて、何日も置かずに次の候補のお寺を見るプログラムに従った。

 新しい候補地は地下鉄銀座線外苑前から徒歩二分、ベル・コモンズのビルの裏側にある持法寺という法華宗の小さなお寺である。北青山二丁目である。後でだんだん分ったが、このあたりにはビルの裏側にじつにさまざまなお寺が存在するのである。

 一歩表通りを離れると、あたりはシーンと静まり返って、大きいビルに遮られ、交通の音もしない。

 墓地はそんなに小さくはないが、見渡せる範囲の広さで、伝統的な普通の墓石が並んでいて、まあいわゆる墓地らしい墓地である。常識的である。いいんじゃないかな、と私は思った。

 同じ日にご住職にお目にかかった。若くて、性格の明るい方だった。私の本を何冊も買ってお読み下さっていた。これも偶然である。

 私の一番の心配、墓地は再び更地にされ、他人に売られてしまうのではないかに関して、ご住職は笑って問題にされなかった。そんなご心配は要りません。それはよくよくのケースです。先生の場合に限ってそんなことは・・・・と。

 ご住職から境内に、井伏鱒二と吉行淳之介の墓があると教えられて、帰りしなに早速に拝見した。井伏さんの方は何代も前からの墓所である。成程これなら、私の墓も少なくとも百年くらいはもつだろう、などと考えて、ここに心が一挙に傾いた。

 私が死ぬ覚悟がまったく出来ていなくて、地上の生にいかに執着しているかがこれで分るだろう。墓を作るのは私が死に近づいた心の位置に立っているからではない。まったくその逆なのである。

 これは自嘲しても仕方がない、死後もなお精一杯見栄を張りたい凡夫の性根の証明である。見栄というより、みじめなことにだけはなりたくないという思いにすぎないが、それも見栄といえば見栄であろう。

 死ねば自分の意識は消える。同時に世界は一挙に消える。世界を滅亡させることは自分の死によって可能になる。

 しかし、そのことがどうしても分らない。私は私の死後を私の生の影としか捉えていない。だから墓探しなどをする。

 死を生の延長でしか見ていない。断絶が分らない。頭で分って、じつは何も分っていない。しかし生きている間に分るということが本当に起こるとも思えない。ひょっとして断絶はないのかもしれないが・・・・。

 ご住職に挨拶して、石屋さんと私の買う墓地の場所を確定する話合いをした。小さな区画で、間口九十センチ、奥行き百二十センチであった。所沢の両親の墓所の三分の一にも満たない面積だ。土地の価格は百二十万円。このほかに墓石代は三百十万円である。石屋と契約を交した。平成十九年十月末の出来事であった。

 それから私はもう肩の荷が下りたと思い、お墓のことはすっかり忘れてしまった。石屋さんからやいのやいのと次の課題を言われるまで放置してしまった。墓石に文字を刻む前に私と私の妻の戒名をこしらえてもらわなければならない。お寺に先代のご住職が同居されていて、その老師が作って下さるというので、その方にお目にかかった。

 しばらくして、どういう文字がお好きですか、それはどういう理由からですか、という老師の質問が現在の若い住職を介して電話で私に届けられた。

 以下は老師に宛てた私の手紙の一節である。私の自己説明である。

拝啓

  ようやく春らしくなって参りました。この間はご親切に電話でご質問を賜わり、恐縮いたしました。

  あれから私が大切に思っている好きな言葉を二、三考えてみました。

  そういえばたしか、例えば「自覚」という言葉、あるいは「宿命」という言葉が若い頃から好きです。自覚というと偉そうに聞こえますが、「気がついている」くらいの意味です。嘘を言っていることに気がついていることは大切で、気がついていれば嘘を言ってもいいのかもしれません。気がつかないで嘘を言っている、それが一番いけないことだと思います。

  宿命もむつかしい概念としてではなく、希望的観測でものを言うな、というくらいの意味です。最悪のことを考えないで、いやなこと、不快なことは伏せて、ないことにして、安易な期待からすべての考えを組み立てる人が余りにも多いように思います。政治も外交もこれですべてダメにしているのではないでしょうか。日本の宿命をつねに考えていればこの国はもっと良くなるはずです。

  それから人間として一番大切なことは道徳ではなくて「羞恥」の感情ではないかと考えています。

  「信」も大事な言葉です。すべてこれだとも思っております。

 疑うことと信じることとは同じで、疑うなら中途半端ではなく、徹底的にとことん疑うべきです。そういうかたちでの「信」です。

  私の父は穏和な性格で、クールな人柄と言われました。戒名を見たら「空」と「静」とが入っていて、成程なと思いました。

 私は穏和でも、クールな性格でもありません。

 私は我が強く、根本的にやらないと気がすまない性格で、母の気質を受けていると思いますが、ただ自分で言うのも妙ですが、「明朗」なのです。

  ジクジク悩むということはなく、子供のときからお前は竹を割ったような性格だ、カラッとしていると言われたものでした。

 このあと妻のことを少し書いて、私の自己説明は終った。知らない僧に自分のことを語るのは難しいし、気羞しい。

 老師もまたかねて私の著述の幾つかを見て下さっていたが、それでも小さな懺悔録を書いた気分だ。

 桜が咲く頃に戒名(存修法名)が届けられた。私のは、

 本覺院殿信導日幹居士

 というのだった。

 石屋さんは「いいご戒名です。『殿』という一字はお願いしても簡単につけて戴けない文字です」と言ったが、私にはその値打ちは分らない。分らないから勿論これはそういうものだと有難く押し戴く以外にない。ただ「本覺」という二字が仏教で並々ならぬ意味を持つことは知っている。いいのかな、こんな文字をつけていただいて。「自覚」が好きなことばだと言ったせいかもしれないが、「信」も入っている、成程な・・・・などと思った。

 これで死後の名は決まったが、どこまでも生き残った側の人、社会の側にいる人の便宜のための名で、死んで行く私には何の関係もない。本物の仏教徒なら何の関係もない、などとは言わないだろうが。

 隕石の落下や原爆戦争などで人類が滅亡し、地球が死の世界になると分っていたら、私に死の恐怖は起こらないだろう。種が生き残り、個体が消滅することが理解を絶しているのである。

 私はどこまでも生の論理の中にいる。考えが浅い。仏典もあまり読まないできた。すべてを一日延ばしにしている。

 六月末に石屋さんから電話があって、墓が完成したから見に来いと言ってきた。そしてその際、開眼供養(墓に入魂する)は平成二十年八月一日ときまった。

 八月一日は朝から暑い日だった。所沢霊園で兄一家と落ち合い、二十年ぶりに両親の骨壷を開けて、読経してもらって、分骨式を終えた。父の骨も母の骨も真白で、少しも変色していなかった。完全な石灰質に還っているのだから当り前だが、夏の日を浴びた純粋な白さは私に安堵感を与えた。

 その日のうちに骨壷を抱えて、北青山に赴き、まず本堂に安置してご住職にあらためて読経してもらい、新しい墓に納めてからまた礼拝と読経の儀式が行われた。

 私は私の墓と言ってきたが、まずは両親が祀られている墓である。これからお彼岸やお盆のたびにここへ来なければならない、というのが不自然な気がして、なじむまで時間がかかりそうだと思った。

 骨の一部を移動させることも(分骨といっても決して二分の一の分量ではない)、ここへ天空から霊が舞い降りて来るというのもよく分らない。所沢と北青山の二箇所に霊は平等に舞い降りてくれるのだろうか。

 墓石の横にたしかに戒名が彫ってあった。私の十文字のうちでは「日幹」の二字が朱色に塗りこまれていた。

( 了 )

GHQの思想的犯罪(十七)

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西尾 幹二

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◆おわりに~作られた言葉と消された言葉~

 最後に面白いことを一つ、二つ、この本に書いてないことをお話しましょう。この本の付録を作ってくださった溝口さんが気づいたことです。7000冊のデータが全部、溝口さんのコンピュータに入っていますね。ババーッと打ち出すと色んな面白いことが出てくるわけですが、その中でいくつかその面白いことをこのあいだ発見したと言われたんです。

 ある言葉が戦前にはないということです。たとえば「天皇制」という言葉は、本の中にも題名としてもどこにもないのです。これは戦後作られた言葉だという証拠ですね。

 『WiLL』に少し書いたと思いますけど、共産党が「君主制」(Monarchy)というコミンテルンの指令書にあった言葉を「天皇制」というふうに訳した。ということで、私はしゃくに障るから「天皇制度」という違う表現を使っています。

 それから、皇国史観という言葉もゼロですよ。皇国史観というのは、戦後に戦前の歴史観を悪く言うために作られた言葉です。皇国史観その物だったはずの戦前には全く使われてないわけです。

 さらに言えば、逆に「国体」という言葉は戦後、一切なくなりました。現在、国体という言葉は使わないじゃないですか。だから国体は昔あって今はない。皇国史観は今あって昔ないわけです。

 それから面白いですね、侵略戦争という言葉。これもゼロです。「侵略戦争」という言葉が表題になっている本が一冊も焚書されてない。「侵略戦争」という言葉は戦後作られたのです。

 しかし、侵略戦争はなくて、「侵略」はある。欧米の侵略という言葉はある。「英米の侵略」、それは何十冊とあります。侵略という言葉はこういう形でいくらでもある。しかし、「日本の侵略」という言葉はありません。

 「侵略戦争」という言葉がないのは、この言葉は戦後の歴史観で付けられた言葉だということですね。無論、「日中戦争」という言葉もありません。これは皆さん分かっていますね。

 こうした一連の発見は、溝口さんの功績です。いやーっ、と思ってびっくりしています。さらに言えば、「八路軍」がないですね、「八路軍」が(笑)。

 こういった事実が非常に面白い。概念をちょっと整理しましたら、また好評につき、次の本にでもまとめたいと思っています。

 それでは長い間、ご清聴ありがとうございました。

 了

日本保守主義研究会7月講演会記録より

GHQの思想的犯罪(十六)

◆焚書の効果

 そろそろ、まとめに入ります。重要なのは、この焚書の効果という問題ですね。私は、今ここへ来て、やはりドカンとこの国に効いているなと思います。というのも、皇室や国体、天皇、皇道とか神道、日本精神といった文字が表題になっている書物がことごとく没収されていますから。本来、占領国がやっちゃいけないことだけども、この信仰破壊ということを、アメリカは承知してやっているということですね。

 現在、日本の天皇家はどうあるべきかという問題で、私が大いに疑問を呈して書いているわけですけれども、しみじみ私はアメリカの占領政策にやられていると思います。旧皇族をなくして天皇ご一家を孤立させる政策とか、あるいは皇室財産を全部奪ってしまうとか、アメリカ人を皇太子の教育係にしたとか、等々すべてそれは先を見越したやり方だったのです。皇室の民主化という名の下で。

 そして皇室を特別なものではなくて、一般国民と同じようなレベルのものにしてしまう。それを民主化と称したわけですが、そのために皇室論、皇室、国体論、そういう関連の本がことごとく消えてしまいました。それで今、皇室に高く聳えた独自の歩み方をせよと言っても、無理かもしれないですね。多くの人はもう皇太子殿下ご夫妻とはどのような存在かということが分からなくなっているのです。歴史教育できちんと教えられていない。だからみんなあれはただのセレブだということで。ご本人たちもただのセレブのようにお振る舞いになっている。

 非常に難しい問題にぶつかっていますね、この国は。

日本保守主義研究会7月講演会記録より

つづく

GHQの思想的犯罪(十五)

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◆戦わずして戦う~思想的戦い~

 皆さんの知っている昭和16年の11月の中央公論の「世界史的立場と日本」という有名な座談会があります。京都学派の哲学者が集った座談会です。アメリカとの戦争が一ヵ月後に始まるのに、アメリカは、映画と統計の国だよといって、馬鹿にしている。それでいて、ヨーロッパ文明の克服を論じているのです。非常に観念的ですね。目の前で戦争が始まるっていうときに。

 このように、日本ではアメリカを馬鹿にしていた哲学者や歴史家がいましたが、アメリカでは日本に来たことがない文化人類学、『恥の文化日本』を書いたルース・ベネディクトが、日本人の収容所に出かけて行って多くの日本人に会って、心理調査をして、日本人とはどういうものかということを一生懸命研究した。その内容がそれほど価値があるかどうかは別問題です。私はちょっと怪しいと思いますが。ただし、少なくともそうやって、当面に敵となる日本を調べるという姿勢がある。

 あるいは有名な作家、ヘミングウェイは日米がもし戦えば日本はどんな通路で戦ってくるかというのを一生懸命考えてそういう文章を残しているわけですよ。もちろん知識人や作家だけじゃなく、アメリカ軍当局は日本の戦い方を研究しているわけです。

 でも日本の知識人で、日本の作家で、日本の文学者で、日本の学者で、一体何人が、日米が衝突すればどのような形で合理的に戦えるかということを一生懸命考えた人がいたかというと、いなかったのではないか。そういうことですね。

 まあ、上手に戦うということ、戦うということの中には、戦わずして戦うということもありますから、そういうことが日本人の知識の弱点だということは事実ですね。

日本保守主義研究会7月講演会記録より

つづく

GHQの思想的犯罪(十四)

◆奪われた歴史

 まあこういう研究をしてきたわけですが、それを通してしみじみ感じたことがひとつあります。戦意形成期の大事なこれらの本だけではなく、数多くの記録、文書類のほとんどすべてアメリカに持ち運び去られて、それっきりとなっているということです。なくなってはいないですよ。だから日本が何故戦争に立ち上がらざるをえなかったのか、ということを本格的に研究しようとするにはアメリカに行かなきゃ駄目だということになる。

 一部はすでに防衛省に戻っています。これもまあ、戻していいものだけ戻しているのでしょうけどね(笑)。

 つまり、私たちの戦意の形成の歴史というのは、占領軍にいまだに隠され、われわれは手足を縛られている。そうすると戦意形成を素直な目で理解するということはもうできなくなっているじゃないか。そういうことですよ。だからアメリカの編み出した歴史物語を頭に擦り込まれて、そこからもう脱け出せないでいるわけです。私のこの本を読んでみてください。驚くほどあっと思いますよ。

 例えば、これはおもしろいと言われたのでちょっと言っておきますが、戦争文化叢書という本がありまして、昭和14年から16年の間にかけて出た35冊のシリーズものです。

 本の題名を読んでみますと、『対英戦と被圧迫民族の解放』、『東亜とイギリス』、『東亜共同体論を撃つ』、『日英支那戦争』、『日本世界戦争』、『日本戦争経済史論』、『ファシズム教育』、『日本戦争貨幣論』、『日本史代の建設』、『ルーデンドルフの国家総力戦』、『世界航空文化闘争』云々と、そして『インド民族論』とかそういう本です。ほとんど全部イギリスですよ。アメリカは一冊しかない。いかに当時の日本人が意識していたのはイギリスかということです。イギリスが当面の敵だった。今じゃ理解できないでしょうけども、アメリカじゃなかったんです。

日本保守主義研究会7月講演会記録より

つづく

GHQの思想的犯罪(十三)

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◆アメリカの恐るべき力

 ただ、私は学生のころたくさんこの手の本は古本屋で見ましたよ。今だってあるわけだから。この手の本はあまり買う人がいなかったけど、要するにあったことは、あった。だんだん時間がたつうちに消えてなくなってしまいますけれども。

 しかし、こういう焚書という事実があったということを議論する人が長い間いなかった。何故でしょう。軍国主義の本は悪魔の本だからという宣伝に効き目があったのでしょうね。

 ここで皆さんに言っておきますが、日本に軍国主義はありません。日本にあったのは軍事体制です。軍事体制が強化されたのは間違いありません。それでも、もし日本に軍国主義があると言うなら、当時のアメリカにも軍国主義があったということになります。しかも向こうが先にやっているわけですからね。

 さて、焚書の効果、結果ということはまたお話しますが、それじゃあ約7000冊の本がそういう形になりまして、そのほか似たようなものが1万冊くらいあるようですけれども、それらの本の行方がどうなったかということをお話しましょう。これを見てください。

 焚書と検閲は別です。戦後のマスコミをチェックした検閲関係の文献はアメリカメリーランド大学のプロフェッサー、ゴードン・プランゲという人の名を挙げてアメリカのメリーランド大学を経てプランゲ文庫となっていて、メリーランド大学に全部移送されているのですが、ものすごい分量ですよ。現在、国立国会図書館はいっせいにこれのマイクロフィルム化をすすめまして、現在大部分のものはこれを見ることが出来ます。

 ところで焚書された本はどうなったかというと、勿論パルプにされてしまったものも多く、これは行方が分からなくてだいぶん苦労したわけですが、基本的にはこれはワシントンドキュメントセンターを経て、アメリカ議会図書館にあるらしいということが分かってきました。インターネットで抽出検索をしましたら、ありましたありました。だから、あの段階でアメリカ議会図書館に運ばれているのだということが分かったのです。

 しかし私はその過程で大変ショックを受けたことがあります。例えば焚書はたかが7000冊です。そのうちのある抽出してAならAという著作を、例えば武藤貞一という人の本を開いてみたら、その問題になっている本があったので、それをインターネットで開けるわけですよ、今、日本から。そのアメリカ議会図書館“Library of Congress”というところですね。

 そしたらその武藤貞一の私が目的としている焚書の一冊のみならず、武藤貞一の全著作が全部アメリカの図書館にあるのです。アメリカの収集能力はおそろしいですね。

 きっと私の本なんかみんな持っていかれている(笑)。あれは反米のとんでもない野郎だと、研究、よく検査する、調べることがあるってことでね。何かあったら私の入国はたちまち禁止ですよ。

 しかし、日本はダメですね。この前ある人から聞いたのですが、そういうことをやる国立公文書館の館員がアメリカに2000人ほどいる。そして韓国でも400人いるとのことです。では日本は何人かというと、20数人です。こういうことをやっているのに、人権擁護委員だけは2万人(笑)。何を考えているのかこの国は、と思います。

日本保守主義研究会7月講演会記録より

つづく