GHQの思想的犯罪(三)

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(2008/06)
西尾 幹二

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◆ロシアにおける権力の不在

 話を前に戻しますと、現在、権力というものがなくなっている。ところが皆さん、人は権力を求めるものなのです。それは権力がなくなると、途端に自分たちが困るからです。

 1991年にソビエトが崩壊しました。ロシアになり、そこからウズベク共和国やタジク共和国といった多くの共和国が生まれました。新興の共和国に住んでいたロシア人は悲惨な目にあいます。「叩き殺してやる」とか、「出て行け」とか、「いやここにとどまって奴隷になれ」とか。それはもうたちまち無権力状態に放り出されたわけです。つまり、ロシア人が敗戦国民になったんです。これは冷戦という第三次世界大戦の結末、即ちソビエトの崩壊、アメリカの勝利という、つい最近起こった、歴史的事件です。私たちの敗戦経験というのはもう遠い昔なので忘れてしまっているのですが、同じようなことが起こったんですよ。ロシアは敗北したのです。

 しかし、日本やドイツが蒙った敗北ほど酷くはなかったので、程々だったのですが、ロシア語の教育がいっぺんになくなり、ロシア人を否定するような歴史教育にどんどん変わっていきました。それで、ソルジェニーツィンという人が各地を歩き回って、「祖国よ甦れ、どうなっているのか」と嘆いたのでした。これは90年代の話ですが、そういう本が書かれています。ロシアも苦しんでいるんだな、と思っていました。

 そう思っていたら、あっという間にプーチンが出現した。何故プーチンのような独裁者がと皆さんは思うかもしれませんが、ロシア人はもともと体質的に独裁者が好きなんです。しかし、それだけでは説明できないですね。もう一つの理由としては、国内に豊富な石油があって、それが幸運をもたらしたということもあります。

 しかし、プーチンを中心に結集した力というのは、「甦れロシア!」という叫びだったに違いないんです。それによって、不安と絶望と屈辱を強いられたロシア人が、自らの地位と立場、つまり安全保障のためにやはり強力な権力を求めたわけです。

 ここで私、ふと思ったんですけれども、わが国は1945年の崩壊のとき、シベリアに抑留された人や満州から帰国した人が無権力状態におかれました。そして、BC級戦犯は皆、田舎に帰ってきて百姓などをしていたにもかかわらず、再びシンガポールやフィリピンに呼び出されて死刑になりました。このような悲劇を受けた人は、武装解除をされたこの国家の悲劇をもろに受けた多くの人々、全体の国民から言えば少数の人々ですが、国外にいた人たちですね。しかしこの列島の中には無権力状態はなかったんです。国家はかろうじて存続していたのです。

日本保守主義研究会7月講演会記録より

つづく

GHQの思想的犯罪(二)

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(2008/06)
西尾 幹二

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 ◆危機に立つ日本

 砂山が海辺に砂を盛り上げて、その砂に水を上から流して行くと、裾野をぞろぞろと水が崩していきます。そんな時代がずっと前から続いていて、その水が砂地の下へともぐりこんでいくのです。そして、ある時期が来るとボコっと真ん中が陥没してしまいます。

 そしてそのボコっと陥没したところへ海からワッと大きな波が来ると、あっという間に砂山はなくなってしまいます。例えるなら、今、そのボコっと陥没したところへこの国は来ているのではないか。私はそういうイメージを持っています。私は今、皇室問題の危機について発言していますが、このテーマはまさに国家の中枢にボコっと穴が開いている証拠じゃないでしょうか。

 もうひとつは、長年、この国を統治していた自由民主党の中から権力が消えてしまったということです。そう感じませんか?権力がなくなっちゃったでしょ、この国の保守政党から。中心にいるのが、あの森喜朗さんじゃどうもね(笑)。あの方が権力ですか?さまにならないですよね。権力というものがなくなると、国も組織も成立しない。権力を中心にして人が動き出し、そしていろいろな問題が解決して行くのです。権力が支配することで、とんでもない方向へ行くこともありますが、権力があるから反抗することもできるのです。しかし、権力なき今、反抗する相手がいなくなってしまいました。

 私は次のように思っています。おそらく、自由民主党の国会議員の大半が福島瑞穂みたいなものじゃないか、と。自由民主党の三分の二ぐらいの議員が学生と同じレベルの知能しか持っていないのではないか。三、四十年前、ゲバ棒を振り回していた左翼学生と同じようなレベルです。あの時代、誰もが平気で反体制みたいなことを言っていましたからね。そういう連中が次の世代の総理大臣だというから恐ろしいことです。後藤田正純とか、河野太郎とか、みんな旧社会党みたいなことを言っています。それが次の次の総理大臣候補だというふうに週刊誌で名前が出ているものですから、私はあきれ返りました。

 最近、大変驚いたことがあります。自民党の代議士が二人いて、その場で日米戦争の話が出た。その二人が、三十代か、四十代かは知らないけれど、日米戦争があったことを知らなかったというのです。高校生だったらある話ですが、腐っても代議士ですよ。今やここまできているんですね。

 それはそうでしょう。学校で習ったことしか頭になくて、お父さんが代議士だったから代議士になったという人ばっかりですから。今、独立で全くのゼロからスタートしたという人は絶滅稀種じゃないでしょうか。

 しかし、あの新しい大阪府知事などを見ていますと、世に人材はいるんですね。あの人はテレビで硬派ぶりを発揮したことで人気が出て、世の中への登竜門をくぐれたわけですが、他ではなかなか出現するチャンスがないわけですよね。才ある人に登竜していく道がない、というのがこの国の一番の危機です。こうした状況は、日本がまともな国家としてもう長くはないという証拠じゃないか。そう思わざるをえません。

日本保守主義研究会7月講演会記録より

つづく

GHQの思想的犯罪(一)

《特集》日本保守主義研究会7月講演会記録より

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(2008/06)
西尾 幹二

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◆はじめに

 お暑うございます。さっきまで何だか私の若いときが蘇ったような人が喋っていましたね。大変心強く思いました。やっぱり出てきたな、と。今までずいぶん若い論客の出現を待っていたのですが、なかなか本物には出会えませんでした。

 岩田さんには、私の言おうとしていたことをいま全部先取りしてお話されてしまいました。そのなかで例えば「憤り」という話がありましたけれども、確かに今、この国が憤りをすっかり失っている。

 アメリカによる北朝鮮のテロ支援国家指定解除の告知があって、NPT体制という核に関わる約束事のシステムが無意味になり、日米安保条約が事実上無効になりました。これらに対して、朝野を挙げて激しい論争が起って当然じゃないですか。“NO”という怒りの声があっていい。しかし何の動きもないんですよね。政界になし、言論界になし、そして新聞テレビにも全くない。

 それに比べ、あの開戦を控えた昭和16年の時代には外への恐怖や怒りが沸々とたぎっていました。あの当時の日本人の方がよほど今より上等であろうと思われます。何故ならば、戦争に勝とうが負けようがともかく自分で開戦を選択して、そしてともかく自分で負けたからです。しかし戦後、この国は「自分で」という意志の主体がなくなりました。すべて誰かにゆだねて安心という、骨の髄までそうなっている構造というのは、とてつもなく危機的なことです。

 そして、自分のことを他人ごとのように傍観して、沈黙している。ひたすら沈黙を続けるだけで、“NO”という声、あるいは「どうしたらいいか」という論争ひとつ起らない。とても不気味です。

 実は今日、こうした話を結論に持って行こうと思っていたのですが、岩田さんに刺激を受けて、結論を最初に話すことになってしまったのです。

つづく

「アメリカの対日観と政策 “ガラス箱の中の蟻”」

 11月22日に行われた坦々塾での足立さんのスピーチの内容を紹介する。

足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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「アメリカの対日観と政策 “ガラス箱の中の蟻”」

<はじめに>

 過日アメリカ大統領選挙でのオバマ氏の当選では、日本の地方都市、小浜市の奇妙なはしゃぎぶりが報道されました。オバマ氏は北朝鮮との対話を提唱しており、それは拉致・核・ミサイル問題での日本とは大きく対立します。加えてこの地方都市から拉致被害者がでていることは周知の事実です。それなのにそうした点にマスコミは一切触れず、馬鹿騒ぎだけの報道です。

 又、防衛省の空幕長田母神氏の論文が政府見解と異なるとして同氏が更迭されましたが、これを巡る報道も専ら日本侵略国家論、文民統制論のみが書きたてられ、論文のどこが問題なのかの検証に基づく議論は皆無でした。

 こうしたことに、何か肝腎な議論が抜けている、避けられ隠蔽すらされていると感じるのは私だけでしょうか。

 この様な違和感は、この二つだけに留まらず、我国のあらゆる問題の底辺に横たわっているように思われます。本日はこうしたことが何に由来しているのかをお話したいと思います。

 さて、今、私が身内以外で顔を合わせる人は2人のヘルパーさん、歩行訓練士さん、市の職員、ご近所などですが、皆私に関心があるらしく、何かと声をかけてきてくれます。

 先般ルーペを頼りに西尾先生の「GHQ焚書図書開封」を拝読しておりました。

 リビングのテーブルの定位置に置かれた本が皆の目に留まり、色々質問を受けました。「何と読むのですか」「どんな内容ですか」。

 そこで私は逆に質問します。

 「第一次世界大戦後ベルサイユ会議が開かれ、国際連盟が設立されます。このとき連盟規約に人種平等を盛る提案をした国がありましたが、ある国の強硬な反対で廃案になりました。提案した国はどこで反対し廃案にした国はどこであったと思いますか」「アメリカで黒人が選挙権を得たのはいつだったと思いますか」。

 本日ご出席の皆様には先刻ご承知のことでしょうが、私の答えに周りは仰天します。それはそうでしょう。人種平等を日本が提案し、アメリカがそれに反対阻止したことも、日本では既に戦前から25歳以上の男子全員に選挙権が与えられていたのに、黒人に選挙権が与えられたのは、日本で20歳以上の全国民が選挙権を得てから久しい第二次大戦後20年近くもたった1964年であったことも初めて聞くことなのですから。

 私は、こうしたことが何故日本でしられていないのかを解き明かしたのがこの本ですと言うと皆関心を示し、「GHQ焚書図書開封」が私の周りで読まれるようになりました。

 さて本題に映ります。皆さん誰でも小学生の頃、ガラスの容器に土を盛り、蟻を飼育した経験をお持ちだと思います。私は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間 」、西尾先生の「GHQ焚書図書開封」に記されたGHQの検閲、焚書の実態をこうした「ガラス箱の中の蟻の国」のイメージで捉えております。

 蟻にされた日本国民に与えられる情報は蟻の餌に相当します。その情報は勿論アメリカの意向そのものです。その様子は、国民が目に見えない壁面のガラスを通して見ていると捉えているものは実はガラスに投影された宣伝映画そのものだった。そんなイメージです。

 私がこういうイメージを抱くきっかけはアメリカ生活からです。

 その前に小学生時代の二つの思い出からはじめさせて頂きます。

 私は昭和23年に小学校に入学しました。翌年の一学期の終業式の後、進駐軍から夏休みの「おやつの配給」が児童・生徒全員に配られました。中身はパイナップルの缶詰、干したアプリコット、レーズン、ビスケット、チョコレートなどでしたが、当時は食糧難時代ですから夢のようなものばかりでした。

 でも、配られたのは我々の学校だけであったこと、そしてナゼ配られたのか、またそれ以降二度と”配給”はなかったことに疑問が残りました。

 3年後の昭和27年のある日、学校から帰り卓袱台の上に置かれていたアサヒグラフのページを開き息をのみました。初めて目にした原爆被害写真でした。それまでも原水爆実験のきのこ雲のニュース映画は見ていましたが、このような日本人の凄惨な原爆被害状況を示す写真はそれまでただの一度も目にしたことはなかったのです。何故その時まで目に触れることができなかったのかということは大きな疑問でした。然し、この二つの疑問もその他の膨大な記憶に比べればほんの僅かなものです。

 日本で溢れる巨大な情報は「日本は間違っていた」は「アメリカは素晴らしい」「アメリカに見習おう」と言うもの一色で、何事も「アメリカでは・・・」で始まるのでした。

 そうした時代に育った私は1976年11月ニューヨークに赴任しました。

<アメリカの力の源泉>

 私は郊外の小さな町のアパートに住み、7時13分発の列車でマンハッタンのグランドセントラル駅に着き、そこから地下鉄でダウンタウンのオフィスへ通う。子供は町の公立幼稚園から小学校へ進学する。そんな生活でした。

 「ガラス箱」の話に焦点を合わせましょう。

 着任したときの担当取引先の一つにTandy Corporationがありました。

 主にエレクトロニクス製品の販売を事業とし、Radio Shackという小ぶりの店舗を全米に数千店を展開する優良企業でした。

 私はフォートワースにある本社で事業内容の詳細を入手しました。大筋は、毎日各店から商品別の売り上げと在庫が報告され、それがコンピューターに入力される。

 アウトプット資料を分析して売れ筋商品へのシフトをおこなう。販売不振の地域には広告を強化することもある。などなどでした。

 その後日本でも広まるPOSシステムの先駆的なものだったわけですが全体を俯瞰し、戦略的目的に沿った枠組み、システムを構築していくわけで正にアメリカの真骨頂であると感心したものです。

<アメリカの対日統治枠組みの原型>

 さて、「ガラス箱」を目の当たりにするのはニューヨーク着任から相当後のことです。地下鉄のストがありました。

 その頃日本では春闘が始まると国鉄の組合による順法闘争で通勤客は大混乱に巻き込まれるのが常でしたから、アメリカでも同じであろうと思っていました。が実際はまるでちがいました。

 スト初日、通勤経路は要所要所に灰色のペンキを塗った木製のバリケードが配置され、大勢の通勤客は川が流れるようにスムースにながれているのです。警官は少数でした。前日までに総てが用意されていたわけです。

 それは正に「ガラス箱の中の蟻」を思わせるものでした。

 戦後のアメリカによる我が国への占領政策はこれと同じ枠組みをとてつもなく巨大なスケールにしたものでしょう。

 彼等は日本国民を、目には見えないバリケードである方向に誘導し、映画のようなにバーチャルな世界を現実・真実であると信じ込ませたと考えられます。

<真実のアメリカ>

 日本国民に真実であると刷り込まれたバーチャルな情報イメージ内容もアメリカ生活で次第に浮き彫りにされてゆきました。

 ニューヨーク赴任当時、日本企業の本社からの派遣社員夫人が警察に逮捕される事件が起きていました。

 ベビーシッターを頼まず外出中に、幼児がアパートのベランダから転落死たことで、子供の保護を怠ったとして刑事犯として逮捕されたのです。

 子供の保護責任は親にあることは日本でも戦前の常識でした。だが今日同じ事件が日本で起これば、ベランダの欠陥が云々され、アパート側の責任が追求されて、親の責任は話題にすらならないでしょう。

 先年六本木ヒルズで子供がビルの回転ドアに挟まれ死亡しました。ビルオーナーとドアメーカーは世論の非難の集中攻撃を浴び、ビルオーナーとドアメーカーが親に補償金を払ったそうです。

 この話を聞けばアメリカ人やカナダ人は仰天するでしょう。

 北米で同じ事件が起きれば、余程の事情がない限り、親が逮捕されます。

 北米では一定年齢以下の子供を連れ外出した場合、子供が事故に合い死亡すれば、親は保護責任義務違反で逮捕され処罰されることになるのです。

 ですから外出する場合、親は子供が走りまわらないように子供の手をしっかり握るなどして必死になります。

 公共の場所で子供が走りまわるのを親が放置し、挙句は微笑みながら見ているなどの光景は、世界では日本だけの、しかも戦後だけの異状な現象でしょう。

 私の子供のアメリカの公立小学校生活は更に興味深いものでした。毎日国旗掲揚とアメリカを讃える歌をみんなで歌う。

 子供が担任の女の先生にいじめにあったと相談に行くと、先生は「戦いなさい」と教えたそうです。

 子供は日本に帰った後、公立中学校でいじめに苦労します。その学校では授業中に窓ガラスが割られる荒れた学校でしたが、一部の女の先生以外放置していたそうです。

 アメリカで「不正に対しては戦え」と教えられた子供は、今でも「日本の教育の最大の欠陥は”正義ヲ貫く”信念が欠如していることだ」と言いきります。因みに月刊現代2000年2月号の対談「だから大リーガーはやめられない」で野茂英雄氏は、バッターが汚いことをした場合にはピッチャーはデッドボールをぶつけても良い、という暗黙のルールがあると述べています。それで骨が折れても構わないのだそうです。

<アメリカの拉致事件=イラン人質事件とアメリカの指導者・国民>

 アメリカ生活で最も鮮烈な記憶として残るものは、アメリカの拉致事件、在テヘランアメリカ大使館員全員人質事件(以下イラン人質事件と略称)です。私のアメリカ時代はカーター政権と重なりますが、内政、外交とも失敗の多かった政権でした。

 同政権の唱える人権外交の影響もありイランでは反王政運動が激しくなり、1978年末にはパーレビー国王一家が国外に脱出、翌79年初めパリに亡命中であったイスラム教シーア派指導者ホメイニ師が帰国、イスラム革命が成立します。

 そしてアメリカとイランの関係は悪化し、11月にイランの過激派学生によりテヘランのアメリカ大使館員全員が人質となったのです。

 イラン人質事件が起きるとアメリカ社会は一変します。

 子供の通う学校では、毎日の国への忠誠教育に加えて人質大使館員全員の解放のお祈りを指導する教育が始まります。

 テレビではニュース報道の冒頭に必ず「今日で人質事件XX日になります」と告げるようになりました。

 特殊部隊による救出作戦も砂嵐で失敗します。パーレビー国王は亡命先のエジプトで死亡しますが人質事件は続きました。

 事件が起きた翌80年はアメリカ大統領選挙の年でした。選挙戦は現職のカーター大統領と共和党のレーガン候補の間で戦われました。

 マスコミ、特に日本の新聞は鷹派のレーガン候補ではなく現職のカーター大統領が優勢と報道していました。然しアメリカで周囲から受ける印象はまるで違いました。毎朝の通勤列車で同じボックスに座る3人のアメリカ人ビジネスマンの口振りからもそれが窺えました。ABC=Anybody but Carterという言葉が広まっていることも彼等から聞きました。

 テレビに映るレーガン候補はリラックスした様子で首を少しかたむけながら柔らかい口調で「私は当たり前のことを言っているだけです。何故タカ派と言われるのか理解できません」。イラン人質事件についての質問にも、ただ、「当たり前のことをするだけです」と答えるだけでした。

 大統領選挙の結果は、一つの州を除く総てでレーガン候補が勝つという一方的なものでした。

 年が改まり1981年初、新大統領就任式が迫っていました。そんなある日、一大ニュースが飛び込んできました。人質全員が解放され既に帰国の途上にあるというものです。

 全米が歓喜に包まれたことはいうまでもありません。

 学校でのお祈りも、テレビニュース冒頭の「今日で人質事件XX日になります」も昨日で終わりました。

 イランが大統領就任式直前に人質を解放した理由は明らかでしょう。

 レーガン候補は、「当たり前のことをする」と約束し、米国民はそのレーガンに白紙委任状を与えました。

 小学校から「不正に対して戦いなさい」と教育されてきたアメリカ国民にとり「当たり前のこと」の意味は明らかでしょう。イランもそのことは分かっていました。こうしてロナルド・レーガンは大統領になるその前にそれも一発の銃弾も用いず、アメリカ史上類例を見ない難問を解決したのです。

 日本は戦争後今日に至るまで、アメリカをまぶしいほどの民主主義国のモデルとしてきました。そして戦前の日本をその対極として徹底的に一掃しようとしました。

 だが現実に見るアメリカは、日本がモデルとしてきたものとは似ても似つかぬものでした。現実のアメリカはむしろ戦前の日本と共通のものを基盤としていました。

 それが最もはっきりとしているものは、”不正”への対応です。アメリカでは小学校から「不正に対しては”戦”いなさい」と教育されそれが国民にしみこんでいます。

 日本では「どんな不正が行われようと、絶対に戦ってはならない」と60年間教えられそれが刷り込まれています。その結果が、イラン人質事件と、北朝鮮拉致事件への対応の差です。

 一週間前の15日は横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて31年目に当たります。

 然し学校でめぐみさんの無事帰国を祈る教育を児童・生徒にしているところは皆無でしょう。この様な類例を見ない不正を日本国民はわすれようとしています。

 「どんな不正が行なわれようが、絶対に戦ってはならない」ということの帰結がこれです。

 国民性は確実に劣化しています。

<谷内発言で明かされた真実>

 アメリカは自国では「当たり前のこと」であっても日本にはそれを許さない。それが今日の日米関係の真実であることを端的に示す事実が文芸春秋12月号コラム「霞ヶ関コンフィデンシャル」に記されています。

 即ち、前外務事務次官であった谷内正太郎氏が、10月23日ワシントンで開かれた戦略国際研究所(CSIS)のシンポジウムで、安倍内閣の外務政務次官時代に、アジア太平洋の主要民主主義4カ国、日本、アメリカ、インド、オーストらリアによる戦略的対話構想をアメリカに提案し、又ASEAN+3(日・中・韓)とインド、オーストラリア、ニュージーランドにアメリカの参加による東アジアサミット構想を立案しアメリカに提案した。だがいずれもアメリカに断られたとし、アメリカは常日頃民主主義は大切といいながら日本がイニシャティブで提案すると拒否する。その理由が分かりません、との爆弾発言をしたと記し、更に、この勇気ある発言に会場は一瞬凍りついた、と記されています。

 この文芸春秋の記事は二つの重要な真実を明らかにしました。一つは、この程度のこと、内容はアメリカにとってもまっとうと思われることであっても日本がいいだすことは許されない現実が存在していること。

 もう一つは、こうしたことあるいはこの程度の発言が「勇気ある発言」「爆弾発言」と認識され会場を「一瞬氷づかせる」ものであったことです。

 つまりこうした内容の発言は日本側にはタブーであるとの了解が日米間にあること。そのことはマスコミ関係者も知っていた節があるということです。

 それはつまりマスコミにもタブーであったわけです。

 こうした事実が明らかになってくると、日米関係は今もって占領時代の関係、即ちアメリカが日本「をガラス箱の蟻の国」として観察し飼育、管理する状態が変わっていないように思えてきます。

<アメリカの対日観>

 それではアメリカが何故一貫して日本が、それが自国では当たり前に行なわれることであっても、日本がおこなうことを阻むのでしょうか。そしてそのことをなぜ隠蔽するのでしょうか。

 それは日本が手強い国、国民であると考え、かつて人種平等やアジアの国々の解放を求め、貧しい国々の経済発展をたすけたような”当たり前で真っ当な”しかし彼らにとってははた迷惑なことを再び日本が行って世界の中での存在感を高めて欲しくないと思うからでしょう。

 私自身、日本は凄い国であると思います。

 ニューヨーク赴任当時、Tandy Corporationに感心したことは既述の通りです。だが、アメリカから日本に帰ると、もっと凄いことが出来上がりつつあった。それはクロネコヤマトの宅急便です。その凄さは仄聞するところ、イラク戦争に際して米軍はロジスティクの枠組み・システムをクロネコ方式に依ったそうです。

 トヨタの看板方式、在庫ゼロ方式が、世界の製造業のシステムを大転換させたことも凄いことです。

 無駄にされていた天然ガスを開発、生産、輸送し、長期契約に結びつけた天然ガスによる発電は世界に20年先行しています。原子力発電の建設技術も世界をリードしている。

 こうしたことに見られる日本国民の潜在力にアメリカは脅威を感じている。それが彼等をして戦後今日までの対日政策の底辺にあるのです。

<広がる溝>

 日本国民がようやく世界の現実に気付いたのは金正日が拉致を認めたときです。

 然しそれはまだまだ甘いものでした。米国議会のいわばシンクタンクであるUSCCは03年7月に北朝鮮核問題をテーマとする公聴会を開催しました。

 そこでの議論では、北朝鮮の核保有はアメリカへの直接的な脅威にはならない、脅威はそれがテロリストに渡ることであるとのことでした。北朝鮮から核を買うことすら示唆する意見まで出たほどです。

 証人の一人は、北朝鮮の核保有は中国や韓国にも脅威ではない。脅威を受けるのはノドン100基(当時)のターゲットである日本である、と証言しています。

 だが、議論はここまででした。委員の一人が「この公聴会は日本のためにおこなわれるものか」と反問し日本の核武装が正当化されてしまうという事実が露見しそうになったためかも知れません。

 つい先月の10月、アメリカブッシュ政権は北朝鮮に対するテロ支援国家指定を解除しました。そうした可能性は既に5年前に内包していたわけです。

 元々北朝鮮問題=拉致・核・ミサイル問題での日本の立場はアメリカよりも遥かに険しいものです。

 アメリカに丸投げしてはならない問題でした。

 今回のアメリカの決定は、平和時にさえ我国の意向がとりあげられない日米安保体制が戦時に果たして日本の防衛に機能するのかという問題です。

 そろそろ結論を申し上げ負ければなりません。冒頭に日本人の原爆被害写真の衝撃について記しました。殆どの日本人と同様私も核には強いアレルギーを持つものです。然し、核の議論さえ我が国ではタブーとしてきたことが結局は米・ロ・英・仏・中の核保有を恒久化せしめ、インドやパキスタンの核保有をもたらし、今日の北朝鮮の拉致・核・ミサイル問題でデッドロックに追い込まれている原因を生んでしまったのではないでしょうか。

 北朝鮮が核を保有するならば、日本も同様な権利を留保する旨アメリカに示唆することで、アメリカは中国を誘い北朝鮮に強烈な圧力をかけたのではないでしょうか。日本の核武装だけは何としても止めたいわけであり、どうでもよいことではなくなるからです。

 小学生時代の「進駐軍からのおやつの配給」の理由について蘇った記憶があります。我々の学区の上級生が進駐軍のトラックにはねられて死亡した事件があったことです。今となっては「おやつ」とこの事件とつながりがあったのか証明の使用はありませんが、軍隊組織が無目的、善意である小学校に一回だけ「おやつの配給」などするわけはないことは当たり前でしょう。こうして見てくると、日米戦争は昭和20年8月25日に終わったわけではないことが分かります。

 日本は降伏したが、アメリカは自らの意思を日本に強制することをやめてはいません。私は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」が世に出たとき、これで日本国民は目覚める、日本は再起するとおもいました。然しそれから四半世紀後の今日も日本国民はアメリカの作った「硝子箱の中の蟻」の状態から抜け出せていません。

 今回の西尾先生の「GHQ焚書図書開封」は日本がガラス箱から抜け出す最後の機会ではないかとおもいます。
文:足立誠之

師走の近況報告

 私はいま四つの会に参加ないし関与している。ひとつは私の主催する勉強会「路の会」で、毎月の例会は順調に開かれている。10月は新保祐司さんの「信時潔について」、11月はヴルピッタ・ロマノさんの「ムッソリーニについて」、そして12月はこれから開かれるが、桶谷秀昭さんの「マルクス『資本論』を読む」である。

 どれも面白いのでそのつどこの日録にレジュメを書きたいと思いつつ、果せない。来年は必ず実行しようと思う。テープ録音しているので、聞き直すことに意味がある。どうも片端から忘れていくので勿体ない。

 もうひとつは坦々塾である。これは3ヶ月に一度の割で開かれ、プロの評論家たちとは違う社会人の楽しい仲間が集う。11月の例会ではメンバーのお一人の三菱カナダ銀行元頭取の足立誠之さん、ゲスト講師として評論家の西村幸祐さん、それに私の三人が各一時間のスピーチをした。

 足立さんのスピーチは文章化されているので近くここに全文を掲示する予定である。私の話は『撃論ムック』の私の連載において評論文体に改め、正確に再現する計画である。次回の坦々塾は1月に新年会を開き、3月に次の例会を開催する。3月の会合のゲスト講師は山際澄夫さんにきまった。

 以上のほかに私は日下公人さんが座長の「一木会」、中曽根元首相を囲む箕山会(きざんかい)のメンバーに誘われ、毎月一度のペースで参加している。そこでの経験も追い追いお知らせしよう。これだけでも大変に忙しい。

 年をとると社会生活が乏しくなるとよくいわれる。だから人に会うのは大切であるとの言葉をよく耳にする。孤独が性に合っているので社交的に行動することは昔から苦手である。年をとったからどうしなければ、ということは私に限ってはない。たゞ大学勤務がもうないので、これくらいの会合に出る時間のゆとりはある。

 このほかに私が定期的にやっていることといえば、(株)日本文化チャンネル桜の「GHQ焚書図書開封」の放映である。放送日が少し間遠になっているが、毎月録画をするのが慣例である。第27回まで実行され、第23回分までが今校了直前まできている同書第二巻に採録される予定である。

 従っていま放映中のものは来年出す第三巻への集録を予定している。少し内容を変えて、第三巻は歴史を離れ、戦時中の日本人の心の秘密をさぐる、という方向の内容を模索している。

第24回放送 日本文明と「国体」
第25回放送 戦場が日常であったあの時代
        ――一等兵の死――
第26回放送 戦場の生死と「銃後」の心
第27回放送 空の少年兵と母

 考えてみると「国体」も「銃後」も死語であり、「七ツ釦は桜に錨」の予科練の「少年兵」ももう実感として知る人は少なくなっている。少年兵と母というところが肝心で、放映中文章をよみ上げながら私は思わず涙ぐんでしまった。

 以上のほかに『WiLL』や『諸君!』や『Voice』等に寄稿したり、関連の講演に出かけたりするのが私の日常だが、今年は例外的に単行本を数多く出したので、そのこともあってひどく忙しかった。

 2月号向きには『諸君!』から「わが座右の銘」アンケートをたのまれ、ニーチェのある言葉に3枚のエッセーをつけて提出した。

 12月20日には既報のとおり、『WiLL』記念四周年の講演会で話すことになっている。話題の田母神前空幕長が私の前に講演されるらしい。詳しくは『WiLL』1月号112ページを見られたい。

 『三島由紀夫の死と私』は出たばかりで、どう読まれているのかは知らない。「つき指の読書日記」で感想文がのったので、ご紹介する。また朝まで生テレビ出演に関して、友人から新しい感想文が届いたので、以下に二つをつづけて掲示し、近況報告を閉じる。

本の論説がいまの私の生きざまに迫ってくる、こんな為体(ていたらく)でよいのかと射ぬいてくるとは思わなかった。日々、読書に明け暮れし、一端(いっぱし)の読書家気取りでこうしてブログで駄文を書き散らかしている。行動とは無縁の状態にある。
 団塊の世代で、当然、全共闘にかかわった世代である。三島由紀夫の事件は、二〇歳過ぎ、東京で学生生活をし、鮮明に記憶に刻み込まれている。それこそ多くの報道や写真に、受動的に眼をとおしていた。
 東大全共闘との三島由紀夫の討論、当時、読んでいた。意外と共鳴する部分の多いのに驚かされた。しかし、同じ世界、拡がりには住んでいるとは思っていなかった。あの事件は異質な出来事、単なるアナクロニズムだとみなし、それ以上は思考を取り止めた。
 西尾幹二『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所)を、またしても吸い込まれるように読んだ。ある意味で怖ろしい書である。氏が三島由紀夫との出会いになる『ヨーロッパ像の転換』も、その訪問時の印象を書いている『行為する思索』も読んでいる。手に入らなかったのは『悲劇人の姿勢』だけで、村松剛、徳岡孝夫両氏の本も後に目をとおしている。江藤淳のその部分は読んでいない。その書籍で事件を判断しようとは思わなかった。西尾幹二のように、刃を突きつけられることはなかった。本書の強靱さで、その奥底にある深さ、理解への重い扉をはじめて開いてくれた。
 団塊の世代は全共闘運動をその後、回想することはなかった。内ゲバと浅間山荘で、一括りにできない現実だけが暗鬱に残り、語らないことを当然視しているのは、私だけではない筈である。それほどの思想ではなかった。自分を含め、教養主義の残滓だけ抱えているひとはいる。
 文学も当時とはちがい、芸術とか政治とか、あまり活字が大きくなることは嫌っている。私小説はもともと馴染めなかったし、青臭い話よりはエンタテインメントか、大人の情感に裏打ちされた直木賞を愛するようになった。三島由紀夫の小説も数多く読んでいるが、『豊饒の海』以降は止めた。
 いま西尾幹二は、日本の自立を熱く語りはじめている。現下の問題を超えた、日々の時流に流されず、先々の時流を織り込んだ、俯瞰力のある論をいずれ示してくれるだろう。問題は他国にあるのではなく、足許の日本にある。そこから思考停止せずに組み立てていくしかない、そう思って、迫真の書を置いた。

つき指の読書日記より

F
「日録」に、あの番組についての感想、ほぼ出揃つたやうですね。そのどれもまったうと存じます。
まことにお疲れさまでした。
以前は、私が先生なら、あんな番組には出てやるものかと考へてゐました。あのウジ蟲以下の連中と席を同じうすることは不愉快に決つてゐるからです。思ふだに蟲酸が走ります。この思ひは多分先生におかれても同じでせう。
けれども、最近は、さういふ感情を抑へて出演される先生のお考へが、多少なりとも分るやうになつてきました。如何に癪に觸らうと、言ふべきことを言ひ、視聽者の何%かでも啓蒙できればといふお考へでせう。
そして、これは今囘成功したと思ひます。私の場合、通つてゐる接骨院の待合室で、をばさん達の「あの西尾といふ人、なかなかしつかりしてゐて、いいことを言ふわね」といつた會話を聞いた程度で、何%といふやうなことまでは、とても分析しきれませんが。
先生が大聲を發せられたり、イライラなさる場面、はらはらしながら、痛々しく拜見したことはたしかです。しかし、結果として「きちんと説得的に」話されたことは間違ひありません。だからこそ、下町(場末?)のをばさんまで感ずるところがあつたのだと思ひます。
それにしても、ギャラ(幾らか存じませんが、大した額ではないでせう)に合はぬ、面白からざる役ですね。私なら、やはり「出てやらない」でせう。
田母神さんといふ人、日を經るにつれ、私は好意を募らせてゐます。特に、そのユーモアと生まじめさが好ましい。
そして、誰かが言った「國民の國防意識に大變革を齎すかもしれない」との説には、さうあることを切望します。しかし「まづ國民にショツクを與へること」(ヒトラー)、「民衆をして唖然たらしめること」(マキャベリ)の有效なことを思ふと、田母神さんの、あまりの靜かさ、穩やかさがマイナスになることを危惧します。
田原なぞが口モグモグで、誰も何も言へないうちに、靜かに、堂々と核武裝を進めてくれるやうな英傑の出現は、我が國に於ては望めないのでせうか。
先生によつて教へられた、ミラン・クンデラの「一國の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失はせることである」は、日本に於て既に半ば以上成功してゐませう。しかし、なんとかこれを覆したいものです。
先生の御健鬪を祈るや切です。但し、お年と御健康もお忘れなく。

田母神航空幕僚長の論文事件を考える(四)

 11月28日深夜の朝まで生テレビで私は前回の皇室問題の場合よりも発言がしにくくときおり声を荒げていたのは見ている方も気がついていたと思う。皇室問題のときに私は孤立はしていたが終始静かな口調で、他を気にしないで語ることができたと思う。すべては司会の田原さんの対応の違いなのである。

 皇室問題のときに彼は私にたっぷり時間を与え、途中でさえぎることをしなかった。私が十分に語らないと成立しない番組だったからである。一昨夜は控え時間に「西尾さん、皇室問題のときは貴方の人気はすごかったですよ。」とニヤニヤ笑っていた。今夜はそうはさせないよ、という意味である。

 案の定、田母神問題では姜尚中氏たちにはゆっくり長時間喋らせた。私の発言はたえ間なくさえぎられた。保守側に勝たせたくないのが田原さんの動機にある。私の話がある流れに入るとさっとさえぎられる。何度もそういうことがあった。そうなると大きな声を出して追加発言しなくてはならなくなる。

 この番組に保守側の言論人が出たがらない理由はこの不公平のせいである。それでも昨夜録画を見直したが、私はきちんと説得的に話していると思った。今回、ディレクターの吉成英夫さんは終った直後、「西尾さん、メッセージは全部伝わりましたよ。地図を出したのもよかったですよ。」と言ってくれた。彼はどっちの味方なのかなァー。

 1989年に私がこの番組に最初に出たとき――1993年頃まで頻繁に出た――以来の知り合いである。本当にもう長い。私は病気になって90年代の半ばに出演をやめたのである。番組自体も今は衰退気味である。昔は5時間もやったのに今は3時間である。

 たしかに保守側には公平を欠く番組である。そんなに厭なら出演をやめれば良いのである。けれども、よく考えてほしい。私が出た最近のこの二つの番組のテーマを地上波テレビの何処がいったい論議として本気で取り扱ったであろうか。

 大マスコミは沈黙である。『WiLL』が発売される26日まで活字の世界でもきちんとした論調はひとつもない。(今回『WiLL』1月号では中西輝政氏の論文が非常に良かった。)余りにもマスコミは歪んでいる。自民党政府も政権政党の体をなしていない。

 であるから、私は私や私に近い人たちの主張を伝えるためにあえて不公平を承知でこれまでにも同番組に出ていたし、今回も出演したのである。

 例えば、1941年(昭16)年の開戦時点で、地表面積の27%をイギリスが、15%をソ連が、9%をフランスが、7%をアメリカが占め、この四国で58%にもなることを今の人は全く知らないのではないだろうか。テレビのフリップで地図を見せたのは視聴者の数が数百万単位だからやはり意味があったと思っている。

 『WiLL』1月号の中西輝政氏の次の言葉は私の意にぴったり適っている。強く共感する。

 日本人の「東京裁判史観」なるものは、何によって支えられているのか。その中心点は、国際的な観点から物事を見ようとしないという点である。つねに「日本が何をやったか」だけを問題にして「他国がどうだったか」をほとんど完全に無視して、戦後60年経っても本来的な歴史の議論に蓋をする。

 端的に言えば、歴史の個々の事実をどう見るかとは関係なく、日本の行った行為しか見ようとしないのが「東京裁判史観」の真髄で、いまだに日本の大半の歴史学者、インテリ、マスコミがそこに捕らわれ、一歩も抜け出せない。なぜ比較の中で日本の近代史を論じようとしないのか。

 さらに今日、「東京裁判史観」を支える中心的な論者の中には、自らを「昭和史家」と称する人が多い。彼らはつねに昭和史しか問題にしない。しかし昭和史を論じるなら、明治・大正を無視して正しい歴史観は得られない。ここに「昭和史」と「東京裁判史観」の本質的な親和性が生まれる背景があるのである。「昭和史」という言葉自体が、すでに国際的な視野がなく、「東京裁判史観」と不即不離に融合しており、何かを根底に共有している。

 その「昭和史」についての細部の叙述のせめて半分、いや四分の一でも当時の諸外国のあり方について論じるべきで、その上で戦争観、歴史観を論じるべきだろう。当然のことながら、戦争には相手がいるのだから。このことを戦後の日本人はすっかり忘れ、「歴史」を論じてきたのである。その最たるものが「昭和史」なるものだった。

 私がこれまで言いつづけてきたこともまさにこのことだった。日本の歴史学者、言論知識人の視野の狭さにはほとほと手を焼いてきたが、朝日新聞に田母神論文への反論を書いた秦郁彦、保坂正康、北岡伸一の諸氏などは中西論文で言われている当の人々であると思う。自民党政府もおかしいが、どちらかといえば保守系と称されてきたこれら言論人の狭い歴史の見方は国の方向を過らせるものである。

 朝まで生テレビで私の前に坐っていた人々はもうほとんど相手にしなくてもよい。『文藝春秋』や『中央公論』あたりに屯ろしている上記の歴史学者、言論知識人が今はむしろ問題とされるべきである。

 朝まで生テレビではさっき言ったようにいちいち反論する間合いもないし、姜尚中氏たちの話を私はていねいに聞いてもいない。広い視聴者に向けて私の考え方を少しでも伝えるのが出演の目的だった。

 これからの本当の戦いも姜氏や九条の会相手ではなく、保守といわれてきた人々の中の敗北主義者、現状維持派、歴史瑣末主義者、一口でいえば目の前の危機が見えない人々に向けられるべきである。

田母神航空幕僚長の論文事件を考える(三)

 28日から29日へかけての深夜、例の朝まで生テレビに出て、田母神さんの論文について議論しました。ご覧になった方はいかがでしたでしょうか。
 
 知友から各種のメールをいただきました。面白いので、A さんから D さんEさんまで匿名でご紹介します。(Eさんを追加しました)

 大体同じような感想や判断であったように思います。私が気がつかず、はっと驚いたご指摘も多々ありましたので、皆様にも参考になるのではないかと思いました。

A
朝まで生テレビお疲れ様でした。
最初から最後まで拝見しました。

最後の集計結果で、まともな人が多いとわかってとりあえずほっとしました。
田原・姜・田岡・小森三氏の悔しそうな様子に、溜飲が下がりました。

たいした意見ではないですが、感想をお伝えします。
1)先生、水島さん、潮さんのお話と花岡さんのお話については、安心して聞いていました

2)防衛省と警察に近い森本さんと平沢さんには(半分予想していましたが)がっかりしました。
というより、ああいう人たちの考えが今の政府や官僚の事なかれ主義の象徴なのでしょうか?
特に森本さんは、自分への責任が来るのを嫌がっているふうにも感じられ見苦しい気持ちがしました。
この人達のようなものと今後戦っていくことになるのかなぁとも思いました。

3)先生達のお向かいの人たちはいつもと同じでしたが、今まで大嫌いだった姜さんが少し哀れに思えました。
嫌いなのはそのまま、話しもつまらないすり替えや屁理屈ばかりで全く共感できないのですが、水島社長さんが拉致問題の話しをしたときにすごく哀れに見えたのです。
この人、自分の祖国の犯罪をやはり恥じているような気がしたんです。
本当は日本人になりたいのかなぁとか、勝手に考えてしまいました。

4)田原さんは西尾先生や潮さんが大事な話をするときに、大声で制止しますね。
でもだからこそ、どこが大事かわかります。
また、今回思いがけず笑ってしまったのは、田原さんが辻元さんに「時々献金してる」ってぽろっと言った部分です。辻元のシンパなんだと改めて思いました。

B
ところで昨夜、正確には今朝まで「朝まで生テレビ」・「激論・田母神論文」がありました。姜尚中、小森両東大教授、辻元清美、共産党の議員。対するは、西尾先生、水島氏、潮正人氏、花岡氏、それに森本敏氏らでした。

 最後に発表されたアンケートの結果が印象的でした。田母神論文を指示するが60%以上、反対は33%?でした。憲法に自衛隊を明示せよ、は80%でした。

 討論の中でもどかしく感じた点は以下の諸点です。

・辻元清美の「東南アジアで大東亜戦争を評価する国々とあるが、何処ですか?」という質問に

 花岡氏は答えませんでしたが、具体的に名前を挙げた方が説得力があった、と思います
 多くの事例を挙げることは簡単なはずです。

・欧米の侵略戦争は第一大戦までのことだ、と小森などが言っていましたが、

 そうではない。欧米諸国が植民地支配を目指して東南アジア諸国の民衆と戦ったのは第二次大戦後のことだ。と答えて欲しかった。インドネシアでは4年間に80万人を殺しています。

・「(田母神氏は)政府の方針に従わなかった」ことが問題だ、という言い方。

 これには、1952年の国会決議を忘れて未だにA級戦犯などと言い続けることこそ、最高機関の決議に対する違反ではないか。日教組の国旗・国歌に対する侮辱行為こそ問題視すべきだ。
 
・シナ事変については、「日本の侵略」と森本氏までが言っていましたが、

 東京裁判でも「日本の侵略」と出来なかった事実を指摘すべきでした。連合国は取り上げたが、米国駐在武官の電文などがあって、慌てて蓋をしたのです。

・防衛大学の講師に「作る会の幹部」が呼ばれていたのは問題、と辻元が指摘しましたが

 作る会の歴史教科書は、文部科学省の検定をパスしています。その教科書を作った「作る会」が問題だということは、文科省がおかしいというのか、と反論すべきでした。
 つまり、東京書籍など他の歴史教科書の執筆者はどうするのか?ということでもあります。

などなどですが、西尾、水島、潮諸氏の活躍が光りました。森本氏の歴史観には驚きました。
平沢勝栄議員は何のために出ていたのは理解不能でした。

C
朝生テレビを見ました。
左巻きの人たちはともかく、保守側と見られた人たち(森本、平沢氏)でも、「立場上あの発言はまずかった」というスタンス、さらに、敗戦以来、自分自身が大きな洗脳という雰囲気下で影響を受けているという自覚がまるでありませんでした。この二人は、秦郁彦氏と同根と思われますが、いかがでしょう。

西尾先生が「歴史を巨視的に観る」ことの必要性を訴えていたこと、そしてGHQ焚書図書を引用しながらの具体的な発言が目立ちました。
水島氏はいつものスタンス通りで正論を述べられていましたが、ときどきチャンネル桜に出演する?森本氏に呆れていたことでしょう。
森本氏の歴史観は政府お抱えの学者という印象で、つくる会の歴史観とはまったく矛盾するもので驚きました(ある程度は予想していましたが)。

潮氏も頑張っておられましたが、花岡氏の遠慮気味発言にはがっかりしました。
もっと、はっきりおかしいことを「否定」する言動をすべきでしょう。
花岡氏はまったくディベート向きではないことが分かりました。もっとGHQ焚書に目を通して自信をつけるべきです。

平沢勝栄議員は最初からまったく期待はしていませんでしたが、森本氏と同様、一見保守の立場で発言するだろうと思わせながら、期待に応えない。両氏ともどこか、秦、保坂氏らのスタンスに近いものがある。今後そのようにみるべきでしょう。
局側もそれをにらんでの登板要請ではないでしょうか。

田母神問題は、思想の(人物の)真贋を洞察する、いいリトマス試験紙であることを確認しましょう。

                                    匆々

D
朝生を久しぶりに、何年ぶりかで見ました。
辻元が少し丸くなった印象には笑えました。
平沢、森本は一体何を考えているのか。
あくまでも日本をアメリカの保護国としてしか見ていないのではないか。
それにしても、
西尾先生は大したものです。
まず、知識の量で他の出演者を圧倒しています。
そして、発言に一点の迷いがない。
最後に、会場やFAXで田母神さんへの支持が圧倒的であったことに
安堵の表情を浮かべていたことに、私も心安らかに眠りについた次第。

 次は高校時代の友人からです。

E
「朝まで生テレビ」拝見、ご苦労さまでした。
さぞお疲れでしょう。こちらは、DVDに収録して、昼間ゆっくり見た次第で申し訳ありません。
しかし西尾節の炸裂で、3時間は長く感じませんでした。大兄発言は時々田原氏にさえぎられていましたが、おおむね持論は展開されたのではないでしょうか。フリップ(という言い方でよい?)も要領よく、うまく出来ていましたね。最後のプロ田母神、61%という数字はサムシングですね?とくに、アンチのうちの39%?は「立場上問題」と言う反対なので、なかみを問うものではないとすると、大変な数字だと思います。大兄は「当然のこと」と昂然としておられましたが、田原氏なり、テレ朝なり、営業政策上?も方針を少しずつ転換した方が良いのでしょうか?
(まあ、皮肉ですけど。)右取りあえずの感想です。どうかごゆっくりお休みください。(というわけにも行かないのでしょうが・・・。)

 

田母神航空幕僚長の論文事件を考える(二)

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朝まで生テレビ!

タイトル:~激論!田母神問題と自衛隊~
放送日時:11月28日(金)25:20~28:20
       (11月29日(土)午前 1:20~ 4:20)

 田母神俊雄航空幕僚長(当時)の論文が物議を醸しており、参議院では参考人招致が行われました。現役航空自衛隊の最高幹部が政府見解に反する論文を発表したことから、シビリアンコントロールの形骸化を指摘し、戦前回帰を危惧する声もあります。果たして田母神氏のこの確信犯的言動の原点はどこにあるのでしょうか。また海上自衛隊の暴行事件疑惑、守屋事務次官の収賄罪による実刑判決、など不祥事が相次いでいます。
 
 そこで今回の「朝まで生テレビ!」では、田母神論文の問題提起とその内容の問題点とは?今自衛隊はどうなっているのか?自衛隊に対する理解と信頼をどうすれば回復できるのかを議論したいと思います。

番組ホームページより

司会:田原総一朗
進行:長野智子・渡辺宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)

パネリスト(案)決定
○ 平沢勝栄 (自民党・衆議院議員、元防衛長官政務官)
○ 浅尾慶一郎(民主党・参議院議員・党「次の内閣」防衛大臣)
○ 井上哲士 (日本共産党・参議院議員、参院外交防衛委員)
○ 辻元清美 (社民党・衆議院議員、党政審会長代理)

○ 潮 匡人 (元防衛庁広報、帝京大学短期大学准教授、元航空自衛官)
○ 姜 尚中 (東京大学大学院教授)
○ 小森陽一 (東京大学大学院教授、「9条の会」事務局長)
○ 田岡俊次 (軍事評論家)
西尾幹二 (文芸評論家)
○ 花岡信昭 (ジャーナリスト)
○ 森本 敏 (拓殖大学海外事情研究所所長)       
○水島 総  (日本文化チャンネル桜社長) 
      

『三島由紀夫の死と私』をめぐって(六)

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 『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所)が刊行されますので、お知らせします。11月25日発売予定。この本の説明を自分でするのは難しいので、Amazonの広告文をそのまゝ掲示し、そのあと目次をお示しします。

内容紹介
1970年11月25日――日本人が忘れてはならない事件があった。
生前の三島由紀夫から「新しい日本人の代表」と評された著者が三島事件に関する当時の貴重な論考・記録・証言をもとに綴る渾身の力作。

日本が経済の高度成長を謳歌していたかにみえる1970年代前後に、文壇で確固たる地位を得ていた三島の内部に起こった文学と政治、芸術と実行の相剋のドラマを当時いわば内側から見ていた批評家こそが著者であった。

その著者が、戦後の文芸批評の世界で、小林秀雄が戦前に暗示し戦後に中村光夫、福田恆存ほかが展開し、三島由紀夫も自らにもちいた「芸術と実行」という概念のゆくえについて、40年近くもの時を経て、著者としての答を出すことを本書で試みた。

また、著者は「三島の言う『文化防衛』は西洋に対する日本の防衛である。
その中心にあるのは天皇の問題である」として、三島の自決についても当時の論考や証言を引用しつつその問題の核心に迫る。

アマゾンより

はじめに――これまで三島論をなぜまとめなかったか

第一章 三島事件の時代背景

日本を一変させた経済の高度成長
日本国内の見えざる「ベルリンの壁」
「日本文化会議」に集まった保守派知識人
スターリニズムかファシズムか
ベトナム戦争、人類の月面到着、ソルジェニーツィン
娘たちは母と同じ生き方をもうしたがらない
文壇とは何であったのか

第二章 1970年前後の証言から

日本という枠を超えるもう一つのもの
三島由紀夫の天皇(その一)
福田恆存との対談が浮かび上がらせるもの
私がお目にかかった「一度だけの思い出」
総選挙の直後から保守化する大学知識人たち
近代文学派と「政治と文学」
全共闘運動と楯の会の政治的無効性と文学表現
三島事件をめぐる江藤淳と小林秀雄の対立

第三章 芸術と実生活の問題

本書の目的を再説する
芸術と実行の二元論
私の評論「文学の宿命」に対する三島由紀夫の言及
三島の死に受けた私の恐怖
事件直後の「『死』からみた三島美学」(全文)
『豊穣の海』の破綻――国家の運命をわが身に引き寄せようとした帰結
三島の死は私自身の敗北の姿だった
文壇人と論壇人の当惑と逃げ
江藤淳の評論「『ごっこ』の世界が終ったとき」
三島由紀夫は本当に「ごっこ」だったのか
芸術(文学)と実行(政治)の激突だった
「興奮していた」のは私ではなく保守派知識人のほうだった

第四章 私小説的風土克服という流れの中で再考する

小林秀雄「文学者の思想と実生活」より
明治大正の文壇小説と戦後の近代批評
二葉亭四迷の“文学は男子一生の仕事になるのか”
私小説作家の「芸術」と「実行」の一元化
『ドン・キホーテ』や『白鯨』にある「笑い」
“西洋化の宿命”と闘う悲劇人の姿勢
三島由紀夫の天皇(その二)
割腹の現場

あとがき

〈付録〉不自由への情熱――三島文学の孤独(再録)

 尚、私はこの本と同じ題目の講演を第38回「憂国忌」で行います。

 11月25日(火)午後6時(5時半開場)九段会館3階真珠の間¥1000

非公開:佐藤優さんからのメッセージ

 佐藤優さんのご活躍には目覚しいものがあるが、私はまだお目にかかったことはない。いままでの論壇人の枠にはまらない新しいタイプの思想家として理解しているのは、佐藤さんが各方面の雑誌にとらわれなく広く健筆を振るっておられるからである。

 こういう方が登場して、言論界の既成の枠を壊してくれることを私はかねて期待しているし、佐藤さんがその役を引き受け、風を起こし、世の思考の柔軟さ回復に寄与されんことをつねずね祈っている。どうか乙に取り澄ました大家にならないで欲しい、と思っていたので、今回佐藤さんが拙論をとりあげ、いま述べた同じ趣旨のことを強調してくださったことは大変にうれしい。

 自由でありすぎる時代に生きて、自由であることはむずかしい。枠にとらわれないでいようとするだけでは自由にはなれない。枠をこわすことに意識的であることも必要である。そのために枠にはまった思考にあえてとらわれてみる実験も求められる。一筋縄ではいかない。

 いまは未来がまったく見えない時代に入ったから、かえって生き生きできるのである。間違えることを恐れる人間はかならず脱落する。精神は冒険を求めているのである。佐藤さんがそういう意味の拙論の趣旨を最大限にくんだ次のような評論をあえて新聞に書いてくださったことに感謝し、ご承諾を得て、ここに再録させていただく。

【佐藤優の地球を斬る】
雑誌ジャーナリズムの衰退 西尾幹二氏の真摯な言葉

 右派でも左派でも、論壇において論争と言えないような罵詈(ばり)雑言の応酬が行われることが多い。沖縄の集団自決問題、靖国神社への総理参拝問題、原子力発電の是非、憲法改正問題など、執筆者の名前を見るだけでどういう立場かすぐに想像がつき、実際に読んでみても、先入観を確認するだけの論文が多い。

 このような状況に突破口をあけたいと思うのだけれども、力不足でなかなか現状を変化させることができない。この問題について、最近、素晴らしい論文を読んだ。
『諸君!』12月号(文藝春秋)に掲載された評論家・西尾幹二氏(73)の「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」だ。西尾氏は現下論壇の問題をこう指摘する。

 <言論雑誌がなぜ今日のような苦境に陥ってしまったのか、本質的に、これはイデオロギーの災いであると私は見ています。

 イデオロギーといえば、だれしもかつてのマルクス主義を思い浮かべるでしょうが、私がいうのは、そんな複雑、高尚なものではありません。手っ取り早く安心を得たいがために、自分好みに固定された思考の枠組みのなかに、自ら進んで嵌(はま)り込むことです。

 イデオロギーの反対概念は、現実--リアリティです。リアリティは激しく動揺し、不安定です。たえず波立っています。その波の頂点をとらえつずけるためには、極度の精神的な緊張と触覚の敏感さが必要となります。>

 ■「不可能の可能性」に挑む
 この箇所を読んで、中世の実念論者(リアリスト)のことを思った。筆者は、世間ではロシア専門家のように思われているが、本人の自己意識では専門はチェコ神学だ。15世紀のチェコにヤン・フス(1370ごろ~から1415年)という宗教改革者がいた。最後は、カトリック教会によって火あぶりにされてしまうのであるが、マルティン・ルター(1483~1546年)らより100年も前に本格的な宗教改革を行った。

 中世神学では、実念論(リアリズム)と唯名論(ノミナリズム)が対立していた。哲学史の教科書をひもとくと、当初優勢だった実念論が唯名論に徐々に地位を譲っていったと書いてある。15世紀になるとヨーロッパ大陸の神学部はすべて唯名論を採用していたが、ただ一つだけ例外があった。カール[プラハ]大学の神学部だ。この大学の学長がフスだったのだ。実念論者は、リアルなものを人間がとらえることはできないと考える。しかし、人間はリアルなものをとらえようとしなくてはならない。いわば「不可能の可能性」に挑むことが重要と考える。

 <(リアリティの)その波の頂点をとらえつずけるためには、極度の精神的な緊張と触覚の敏感さが必要となります>という西尾氏の言葉に触れて、こういう本質的な事柄に気づき、発言するのがほんものの知識人であると思った。

 ■「言論人も実行家たれ」
 米国発金融危機について、西尾氏はこう述べる。

 <新聞や雑誌で、この件に関連する論を立てている人々には、不安の影は見いだせません。アメリカの経済はかならず復元すると思い込むにせよ、もう回復不能なところまで来ているととらえるにせよ、かれらはさしたる逡巡(しゅんじゅん)もなく易々(やすやす)といずれかの意見に与(くみ)し、とうとうと自説を述べて倦(う)むことを知りません。実行している三菱(UFJフィナンシャル・グループ)や野村(ホールディングス)の人はリアリティに触れているから未来は見えません。不安に耐えています。さも未来をわかっているかのように語る人はすべて傍観者です。見物人です。イデオローグなのです。だから不安がありません。

 私がいいたいのは、不安が必要だということです。言論人も実行家たれ、ということです。実行家は必ず何かに賭けています。賭けに打って出る用意なくして、安易な言葉を発してはいけないのです。>

 筆者も西尾氏の発言に全面的に賛成だ。率直に言うが、筆者自身も、論文を書くときは、必ず何かに賭けている。今後も知行合一(ちこうごういつ)につとめたい。西尾氏には人知の外にある超越性をつかむ力がある。それだから、現下の世界における出来事を読み解くキーワードとして「不安」をあげるのだ。

 特に、普段、西尾氏の言説に触れない朝日新聞、『世界』、『週刊金曜日』などの読者に西尾氏のこの論文を是非読んでほしいと思う。真摯(しんし)な言葉には、左右のイデオロギーを超え、人間の魂に訴える力がある。その力を是非感じてほしい。
 (作家、元外務省主任分析官 佐藤優/SANKEI EXPRESS 平成20年11月13日)