ヨーロッパを探す日本人(一)

 私が昭和43年(1968年)4月、ドイツ留学から帰国して半年余しか経っていない時期に、同人雑誌に書いたあるエッセーをご紹介したい。私は当時32歳で、静岡大学の専任講師だった。

 同人雑誌はドイツ文学の仲間で出していたもので、Neue Stimme(ドイツ語で「新しい声」)といい、「しんせい会」という同人会を結成していた。小説を書く者もいた。芥川賞作家も出ている。

 このエッセーは私がまだ著述家としての活動を開始していない習作期の作品である。新潮社から出してもらった最初の評論集『悲劇人の姿勢』(1971年1月刊)に収録されているので、未公開ではないが、この本自体が古書店にももうないので、同エッセーに記憶のある人は今ではほとんどいないと思う。(ただ同書の別の評論から一昨年ある大学の入試問題が出ているので、本を知っている人はまだいるのだと、嬉しかった。)

 「ヨーロッパを探す日本人」は短編小説くらいだと思って読んでいたゞきたい。読み易いと思うが、かなり長い。何度にも分載されると思う。

 途中から読まないで欲しい。面白そうだと思ったら、(一)に戻って読んでいただけたら有難い。

 このあいだ「第二の人生もまた夢」というエッセーを日録に掲示したあとで、スイスのバーゼルに住む若き友人平井康弘さんが出張で来日し、新丸ビルで落ち合い、久闊を叙した。急にバーゼルが懐かしくなって長谷川さんのお手を煩わせること容易ならずと思いつつ、ここに長文の分載をお願いした次第だ。

■ヨーロッパを探す日本人 

第一節

 しらべてから来るべきだった。アドレスがわからないのである。

 ホテルの受付の女性にまず訊ねてみた。

 ニーチェ?さあ、どこかの町角でその名前見たことがあるわ、はっきりしないけど、・・・・・・肥った中年の婦人がそう答えた。駅の案内所に問い合せてみましょう、そう言って電話をその場で掛けてくれたが、生憎日曜で、電話口にはだれも出ないらしい。

 バーゼルは観光都市としてはまことに不完全な町である。

 ベルン、ルツェルン、チューリッヒ、いずれにも、駅のなかに立派な旅行案内所があり、数人の係員が休みなく応対している。チューリッヒなどはいかにも国際空港のある都市らしく、駅構内の案内所でさえ、三方にガラスを張った宏壮な事務所だった。この三つのホテル案内と旅行案内(汽車の時刻などを教える事務も含む)とは、それぞれ別々の場所に別々の事務所をさえもっている。バーゼルの駅の構内にはそれらしきものはなにひとつなかったのである。

 駅前広場に、木製の電話ボックスのような小屋が立っていて、無愛想な女の子がひとりホテルの案内係をしている。私は昨夜、この無愛想な女の子の世話で、いま泊まっているホテルを見つけた。このときよほどニーチェの昔の下宿のことを聞こうかと思った。しかし、なにしろ百年前である。こんな年若い子が知るわけはない、そう思って聞かずに置いた。ホテルの受付の中年女性が電話を掛けようとした相手はこの女の子なのだ。

 私は受付の女性に言った。
「昨日スイスの小学校の先生と話をして、ニーチェの家はたぶんミュンスター教会のそばだろうということを聞きましたが・・・・・」
「ああ、そうそう、ボイムリ・ガッセですよ。ありました。私も見たおぼえがある。むかし哲学者が住んでいたと書いたプレートが壁に打ちつけてありました。」

 午前中、ホルバインの蒐集で名高いバーゼル美術館を見て、その足で早速ミュンスター教会の近くに行ってみた。バーゼルは小さい町である。人口20万、スイスではチューリッヒに次ぐ第二の都会だそうだが、べつに乗物に乗る必要はないのである。

 ミュンスター教会はその濃い赤茶色のゴシックの尖塔を9月末の蒼天につき立てていた。

 ボイムリ・ガッセはすぐ見つかった。左右を見ながらなだらかな坂を降りていくと、そこにあったのは、エラスムスが晩年の一年間を客人として過ごしたというプレートの打ちつけてある洒落た構えの家だった。小学生の先生も、ホテルの受付女も、ニーチェとエラスムスとを間違えていたことは確かだった。エラスムスは16世紀の人で、彼が死んでからすでに四百年以上たっている。この町におけるエラスムスとホルバインとの出会いを誇りに思っている人もいるらしく、美術館で買ったカタログにもそんなことが書かれてあるのをたったいま読んだばかりだった。

 ホルバイン筆になるエラスムスの肖像は有名である。なるほどあれはこの町で描かれたのか、私が合点がいったが、それ以上の感慨はなかった。ボイムリ・ガッセはかなり広い通りで、しかも、目抜きの繁華街とミュンスター教会前の道路とを結んでいる重要な通りだから、町のひとびとはここをたびたび通り、なにやら妙なプレートが打ちつけられてある家をなにかの折に目にし、ニーチェであったか、エラスムスであったか、そんなことまでいちいち覚えていられないというところが真相だろう。

 ヨーロッパの町には大抵、観光案内所という看板を掲げ、地図や絵などを張ったガラス張りの大きな事務所を町角にみかけるが、バーゼルにもそれらしきものは二、三あったから、昨日のうちにそこへ行って置けばすぐにでも分ったかもしれないが、なににしても今日は日曜日で、あらゆる店は扉をかたく閉めていた。どうにも仕方ない。案内所は日曜日にこそ開いているべきなのに、この古い、地味な、ドイツ風の町では、日曜はいかにも日曜らしく商店街はしんと静まりかえっている。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(八)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
(これは私が35歳のときの評論です)

“弱さ”の集団化

 私はここに掲載された福田恆存氏のロレンス論にさらにつけ加えてロレンスを解説する積りはないし、評論を評論したものをさらに評論しても仕方がない。また、ロレンスのこの『アポカリプス論』は右のごとき要約でとうていつくせないほど多様な内容に富み、とりわけ純粋自我たり得ない個人の救済を宇宙の根源に求めた壮大なコスモスへの論及は、福田論文によっても十分に触れられているとはいえない。

 読者がこの貴重な一書を自ら手にし、人生の謎の解明に役立てることを強く希望するひとりだが、ただ以上で、福田氏が日本の現実のこれまで提起してきた主題のある主要部分がロレンスの『アポカリプス論』とどう内的につながっているか、それを私自身の問題意識を通じて暗示してみたかったまでである。福田氏もまた、安易な「純粋」というものにたえず猜疑の目を向けてきた人であった。日本人のエゴの弱さというものも折りにふれ弱点として指摘してきた。受験勉強にかまけていて、デモに参加しなかったことを秘かに「罪」として意識するような心的状態は、日本の知識人の少年期を襲う、ある傾向性の「原型」をなすものである。デモに参加する、しないなどは、政治的判断の問題であって、そもそも個人の罪意識とは関係がないのだが、これはほんの一つの例であって、われわれの社会にはこの種の不可思議な愛他的集団表象が個人に無言の圧力をかけている例は無数にある。その日本的な独特なエゴのあり方に加えて、西洋近代の自由、平等、民主主義の理念がその弱点を助長するかのごとくいわば癒着してあらわれているために、混乱はいっそうひどい。人間の弱さにそのまま善意と誠実をみたがる近代人一般の感傷は本当の意味で個人の純粋とは何であるかを求めてはおらず、あらゆるエゴイズムから自由であろうとする意志の、ほとんど不可能に近い無私への苦しさを自覚した人間の弱さというものから目をむけている結果ではないだろうか。一見、強さを誇示しているかにみえる福田氏の生き方は、むしろ、弱さが集団をなして無言の、強い圧力となって個人をおびやかしている日本の湿潤な精神風土のなかで、真に人間の宿命的な弱さを見つめようとしている人間にのみ特有の強い態度なのである。

 ロレンスは次のように言っている。「民主主義はクリスト教時代のもつとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが今ではもつとも徹底した民主主義者が絶対的貴族階級になりあがらうとしている。」「強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。」「ここに問題にしてゐるのは、政治的党派のころではない。人間精神の二つの型を言ふのである。」

 弱さに甘え、それを売り物にする精神は、大衆支配の時代にはもっとも強い。それでいて自分がさほど弱くもなく、弱さに苦しんでもいないことを知りながらなお弱さを口にする。福田氏がロレンスから学び、もっとも忌避したのはそのタイプの精神であったろう。自分の真の弱さを氏っている者は自分の弱みを口にはしない。ただ、自分の弱さに耐えて立ちつくすのみである。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(七)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

近代とエゴの処理

 もとよりそれは日本の近代にのみ特有なことではない。それは自由と平等の理念の調和性を夢みたヨーロッパ近代の大きな特徴でもあった。自由の理念は、厳密に考えれば、必ずしも平等の理念と一致しはしない。自由と平等という相容れない二つの理念を同時にわがものとしようとした個人が、ために自分のエゴイズムの処理の仕方において失敗し、混乱している時代とも言えよう。ロレンスはこうした処理に対しなんらかの解決策を提示したのではない。ただ、問題の所在を明らかにしようとした。彼は個人の生き方の上での「純粋」が不可能だといっているのではない。だが、本当に純粋であるとは、他人や社会のことを自分よりつねに上位に置いてそこに良心を賭ける、というような他者への愛が、厳密にいえばイエスひとりにおいてのみなし得た人間の実現不可能事に近いのではないか、というぎりぎりの問を孕んでいることを確認したかったまでだろう。この世に純粋な個人はなく、イエスといえども、弟子の前で教えを説くときには支配し、支配されるという政治の力学、集団的自我から解放されることはなかった。われわれは純粋な個人たり得ない。われわれは他者を支配しようとする自分の内なる権力意志から自由にはなり得ない人間としての弱さを宿命的に秘めている。本当に純粋であることは、自由ということがほとんど成立不能に近いそうした個人的自我を正視していることであり、その弱さの自覚を通じてはじめて人間はなにほどかの強さを得る。現実の不公平、もしくは仮借なさに耐え得る人間としての生き方の強さの一面に触れることができる。もし最初から人間は愛他的な存在で、権力意志などからは自由な強い精神だという風に考えるとしたらそれは余りに楽天的に過ぎるだろう。また、権力に虐げられ、奪われている弱い人間にはもともと権力意志などは介在する余地はない善意の存在だと考えるとしたら、それはまったくロレンスの言っていることとは逆であって、彼はアポカリプスの「神の選民」のうちにむしろ弱者の自尊の宗教を見る。現世の保証が得られぬために、弱者の秘められた欲望はいっさいの地上権勢を拒否して、理想が満たさぬために理想がいっそう病的に純化された「呪詛の宗教」となってあらわれたのがアポカリプスの精神だと彼は見る。「奥義、大いなるバビロンの地の淫婦らと憎むべき者との母」そういう呪いの言葉は全世界に向って放たれ、黙示録として聖書のなかに忍びこんだ。中世期には、神の名による政治の力学の完璧な体系が成立していて、その歪みが表面に顕在化することはなかった。むしろ近代に入って、解放されたエゴイズムが自由、平等、博愛を掲げた近代のヒューマニズムの裏側にその姿をみせはじめるにつれ、黙示録に秘められていた人類への呪いは、しだいにあらわになる。なぜなら、自由や平等や民主主義は、エゴイズムを調節する政治の原理ではあっても、人間がエゴイズムから脱却するための原理ではなく、むしろそうした解脱をますます困難にする近代病の上に成り立っているからである。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(六)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

罪意識と被害妄想

 先日、筆者はNHKの「十代とともに」という番組に招かれ、六人の高校生と対話を交す機会をもった。いずれも高校紛争などを在学中に経験し、きまじめすぎるほどいろいろな問題について悩んでいる、いわば青春の唯中にある少年たちばかりで、そこで展開される純粋な論議に、私の高校時代とちっとも変っていない、やり切れないほどの罪意識の告白をきく思いがした。彼らは、例外なく、高校生活の間に自分のことばかりにかまけ、自分たちが共同社会への建設的な役割になんら寄与しないで終ってしまったことに独特な罪の意識をいだいている。受験にかまけ、デモに参加しなかったことへの罪意識。定時制高校生がなお少数でも存在する社会のなかで自分たちだけが受験に没頭できる特権への罪意識。私はほとんど口をはさむ余地がなかった。それは他をよせつけぬ一つの妄執のごときものであった。その罪意識はまた、独特な被害妄想と表裏一体をなしてもいる。彼らは優秀なエリート学生たちばかりだった。彼らが口にする、今はやりの「根源的」な問を、成程われわれは青春のはしかのごときものとして笑うことはできるだろう。彼らがまだ大人になっていない若さのせいに帰すこともできるだろう。事実、そういう青年たちに向かって、世間はたいてい、「君たちは若いね」というようなことばを向けるばかりであるが、そういう大人がなぜかふっきれない、後ろめたさのようなものを持ったまま成長しているのが、また日本のインテリの独特な意識構造でもあるのである。

 つまり、このときの高校生の悩みごとのようなものが個人の生き方の問題として論理的に追求されることなく、なぜか曖昧な情緒のうちに、なし崩しにごまかしたまま「大人」になっていく、というのが大方の日本の知識人のあり方ではなかろうか。さもなければ「二十億の民が飢えているいま、文学に何ができるか」というようなサルトルの問のようなものが出されるとその前に呆然と立ちつくし、いじましい後ろめたさと罪悪感に閉じこめられてしまうようなことが起る筈もないのである。「文学に何ができるか」というような問を立てておけば、実際に文学にはなにをする力はなくても、それだけで文学の社会的地位は疑われないですむといった、この種の問のいささか欺瞞めいた、不毛な性格というものに対してどうしても気がつかないのも、こうした罪悪感にいったんとらえられたひとには例外なくみられる心理の弱さなのである。きまじめな高校生が提出したあのようなごく初歩的な問は、決して無意味な、幼稚な問なのではない。ある意味ではきわめて宗教的な問ですらある。人生の探求はそこから始まるのである。だがまた、それは一個人の身をもってただちに解決不可能な問でもある。従って、ときには口に出して、議論をするのもはばかられる問である。世には、口に出すことさえ場合によっては恥かしい問というものがある。それなのに自分の罪を告白するのは、そのことがすでに自己宣伝という別の罪を犯していることになる。定時制高校生が存在する社会の中で受験勉強をしている特権への罪の自覚といったことは、それ自体は幼稚な問かもしれないが、日本ではそう言って簡単に笑ってすませられないものがある。笑ってすませられるならどうして、日本の近代文学で「転向」などがあれほど大きな問題になったりするのだろうか。戦前から戦後へかけてのマルクス主義旋風が政治的な実行力から遠く、その種のヒューマニスティックな動機の善への懐疑をもつことなしに、ただ自分の善意を歌っていれば、それだけで思想や文化の保証が得られるといった安易さに支配されているのはなぜだろうか。大方の知識階級の意識は、高校生の初歩的な問とほぼ同じものを、別の形でさまざまに提出し、それを日本的な情緒のなかに風解させて、なし崩しに大人になった人間の弱さを内に秘めていないだろうか。

 というようなことは、福田恆存氏が生涯をかけて、折にふれ、くりかえし出しつづけてきた問とも密接な関係があるのである。ごく最近にも、私はある日本のカトリック作家のキリスト教劇を見て同じ疑問にとらえられた。キリスト教徒は戦争で人を殺すということは許されるか、という問をこの戯曲は提出する。解答不可能な問である。そして、そういう疑問に悩む弱い人間の絶対肯定と、悪しき時代の圧制への呪いとが全篇を流れている。自分はつねに善である。ただ自分は弱い人間なのである。時代の圧制に抵抗できない弱さのうちにひたすら犠牲者の動機の善を見るところにこの戯曲は成り立つ。キリスト教劇とは言いながら、私には一昔前の転向劇のようにもみえた。それは定時制高校生がいる時代にのほほんと受験勉強をしているのは罪ではないか、という問を立てられ、うまく返答できない気の弱い高校生をおびやかすのとほぼ同じ脅迫的効果をこの道徳的な戯曲はもっているということでもある。それ自体としてはいくら正しくても、解答不可能な問を立て、それによって他人の存在をおびやかすのははたして正しいことだろうか。いつも正しい問を立て、他人の罪や不正をあばき立てているひとびとは自分のエゴイズムというものを見ていないのではないだろうか。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(五)

西尾――いろいろな論客がいますが、じゃまになるという意識で戦っているか、大義名分のために戦っているかで大きな違いが出てくると思われます。大義のために戦うか、それとも、大義のために戦っている相手に対して戦うかというところに違いがあると思います。ヨーロッパの場合には、いまドストィエフスキーとロレンスの例で挙げられたように、確かに実生活と彼らの頭の中の激しい戦いでは、ものすごく矛盾していて、生活と芸術はいつでも背反概念のような形をとって、芸術をいつも自分の自我の外に提出する。

福田――だから、ロレンスのように現代人は愛し得ないのではないか、ということをいっても始まらない。愛したらいいではないか、愛そうと努力したらいいのだ、ということにならざるを得ない。たとえば、マイホームというと、皆軽蔑するけれども、それならば、自分の女房、子供を、ほんとうに愛せるかということもいえると思う。なかなか愛することはできない。そこで、愛する仕事はまだ残っているといえるのです。“現代人は愛しうるか”という問題では、ぼくはロレンスに、相当影響を受けたが、もはや、そういうことをいっておどかしてもだめである。それは多くの人によってもう出しつくされてしまった。実際は、われわれがほんとうに愛し得るかどうか、一生かけてやってみることだと思う。個人が個人を愛することができるかどうかということを確かめるべきだろう。それから江戸の町人などのような過去の生き方に、学ぶということも考えられる。それが、よくはやる日本回帰かどうか知らないが、私にはある。三島君の言行一致、知行合一と一緒にされては困るけれども・・・・・。

西尾――あれは大義があるわけですね。

福田――ええ、そうではなくて、私にはやはり、生活にまだまだ課題があるという気がする。

西尾――福田さんのお考えの中に脈打っているのは生活人ということですが、こんどは、現在の状況みたいなものに、もう少し極限してお尋ねいたします。いままで述べられたことに全部つながると思いますが・・・・・。いま空虚感とか、生きがい、とかよくいわれているが、いままでは“欠乏の論理”で人生観、社会観が進んできて、何か敵があったほうが安全で、大義名分や反抗ということで何かを必ず敵視してきたが、“欠乏の論理”が近ごろだんだん成り立たなくなってきている。にもかかわらず、まだなんとなく昔の自我のままでいるふっきれぬものがあって、その穴が埋められなくて困っていることがあるのではないか。

福田――そうです。“欠乏の論理”ということは、別のことばでいえば危機感です。危機感をいつも食いものにしている。これはコラムに書いたことがあったのですが、ベトナム戦争の兵器をつくっているから死の商人というのは当然としても、ベ平連も死の商人ですよ。戦争をくいものにしているんだから。ベトナム戦争が終ったら彼らはどうしたらいいか。それをいつもくり返している。だから、危機感を食いものにするということをいわざるをえない。いろいろな危機感が皆なくなり、公害も片づきそうだとなると、いよいよ、それでは、こんどはどうしたらいいかというので、いま持ち出している危機感が西尾さんの指摘された生きがいなき空虚感というお題目です。だから、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がする。過去には戦争反対とか何とかいっているときには、むしろ反対に、人間の空虚感、マイホーム主義を指摘しました。それが、だんだんといろんな危機感がなくなって安定してきているわけですが、それをまた逆に危機感をあおるような形で持ち出されると非常に腹が立つ。あまのじゃくという人もあるかもしれないが、私は自分があまのじゃくだとは思わない。空虚感ということを、また新しい一つの危機感にし始めているところがある。それを食いものにして、また文化人なり何なりがめしのタネにしていくことになると困るなあ、ということがあるのです。

西尾――つまり、日本人が、史上初めてというと大げさかもしれないが、近代人としての自由を享受し得る結果として出てくる孤独感を、皆耐えなければならないときがきたということですね。

福田――そういうことです。

西尾――文学者の中で、私がいま興味を持つ生活は、自分の弱さを知っていてじっと忍耐している人であって、弱さを売りものにする人は、自分では弱い弱いといってピエロを演ずる役を演じているだけで、腹の底では自分の強さやずるさを売りものにしているように感じる清潔感がないところがある。

福田――それは、簡単には礼儀なんです。礼儀作法ですよ。弱さを人の前に見せないということは強がるのではない。自分の弱さを人の前に見せられること、それは、うそついて、隠しているのではなくて、その自分が苦しんでいる姿をそのまま人前に見せることになり、自分の苦しみを他人の肩に背負わせることになるから失礼なんですよ。自分の持っている荷物が重いから、重い重いというと、向うの人が持ってあげましょうと、いわざるを得なくなっちゃうんですね。そういうことと同じです。

 話はかわるが、さっきの話と矛盾するようですが、イエスは自分に対する英雄崇拝を拒否したことになるが、逆に民衆の中には、英雄崇拝の気持ちがあるんですよ。だが、それをどうするかという問題は、一つの大きな力を戦後は権力からの縦の構造として否定してきた。みな平等だ、ということになったが、それでは民衆は気がすまない。集団的自我というものは、それでは我慢しない。平等だ平等だといっていて、喜んでいるかというと、そうではなくて、彼らに崇拝する人物を与えたほうが喜ぶところがあるわけですね。ところが、文学でいえば、ちょうど純文学と大衆文学みたいなもので、純文学では英雄を全部捨て、英雄否定になる。ところが、純文学が捨てた英雄を大衆文学が拾いあげた。この大衆文学の読者は相当数いるわけです――。テレビが皆に見られているのは強い者が出てくるからで、これに対する憧れが民衆の中にある。そういうことを考えると、さっきの一人の孤独な戦いということは、やっぱり個人的自我の仕事であって、われわれの中には集団的自我もある。いくら純粋なエリートであろうと、それはある。この始末がつかない限りどうにもならない。やっぱり、一つの縦の流れが、ロレンスじみてくるけれども、太陽系の中にあって、太陽の熱によって、それから太陽系の物理学的な星の運行というもの、太陽中心に行われているという考え、絶対者への、あるいは憧れというものがある。そういうものに対する憧れは肯定しなければならない。それを全部否定してきたのがヨーロッパの近代である。それにロレンスは反撥を感じている。民衆は皆権力に対する憧れを持っている。これをどうしたらいいか、それをロレンスは“古代異郷”の世界にもっていくのだが、これは彼のフィクション、いまさら古代異郷の世界にかえってもどうにもならない。この問題が解決できない限り、どうにもならないですね。だから、個人の一人のひそかな戦いは、それしかないからといっているだけで、実際はそれで解決できるかどうか。やっぱり、集団的自我というものを何とか位置づけないと、だめではないかと思う。それを、平等、平等でいくとエリートも我慢できなくなるし、それからエリートをほしがっている一般民衆も我慢できなくなってくるという状態が起こるのではないかと思います。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(四)

西尾――近代文学は何か一つ、反権威でもいいし、反市民社会でも、反社会性といってもいいですが、芸術の核をなすものの中にいつもあった。日本も小ながら隠微な形でそういうものがあった。ところが、いま反社会性がまったく成り立たなくなっている。どんな反社会的な事件が起きても、別な価値体系から祭り上げられてしまい、いつの間にか反社会性自体が社会性を獲得する妙な状況が左でも右でも起こっている。そうすると、何もできないし、何もしないほうがいい、すること自体間違っているのではないかと言うような・・・・・。

福田――間違っているかどうか、わからないにしても、しがいがない、徒労だ、という感じがしますね。これはぼくだけでなくて、多少まじめに仕事をしようと思えば、だれも皆感じていることではないかなあと思いますね。で、さっき言いかけたことですが、日本では芸術と実行の問題、それから政治と文学の問題という対立でいつも取り上げられてきました。芸術の中には、自分の純粋自我を表現するが、実行は、そうでない、集団的自我である。だから、芸術のほうを高く評価するという行き方があった。二葉亭四迷のように、芸術と実行の矛盾に悩み、文学を捨ててしまった人もいるわけです。田山花袋のように、自分がふと書いたものが祭り上げられて、あとでどうしようもなく、身動きできず、結局、修生、芸術と実行という問題に悩み通した人もいる。芸術と実行の問題は、ロレンスの個人的自我と集団的自我に関連があると思います。その問題はいまだに日本では解決されていないのではないですか。

西尾――そうですね。

福田――ロレンスがイギリスの中で苦しんだ激しいものでないにしても、芸術と実行という問題は、まだまだ日本の文学では問題になっている。だけど、そのときに、私がいつも素人でいろ、素人を大事にするという考え方と関連があるけれども、私は芸術よりも実行を大事にしてしまうんですね。

西尾――あるいは、実行で果たされない部分を芸術で勝負しよう、と。逆にいえば、芸術の中に実行を忍び込ませるようなことはするな、と。ということは、芸術の実現不可能なことかもしれないというところに勝負をしろ、と。さっきの主題に繋がるが、それが実際にやられていなくてマス・プロ条件がますますおかしくなっている。ただ、六〇年代に起こった事象というか、文化現象に見られるように、日本にもようやく、そういうつらさが皆の中へ入ってきている。考え方によれば、ようやく、近代社会になってきたともいえる。

福田――ええ、そういうこともいえますね。だから、ロレンスに影響されたというか、ロレンスを利用した場合には、あくまで、日曜学校の牧師をやっつけるためにやっていたことだともいえる。それは知識人ともいえるし、自分だけ正しいという偽善的正義派を攻撃するときに、ロレンスのアポカリプス論くらい、便利なものはない。ほかにニーチェやドストィエフスキーがいるが、英文学ではロレンスほど便利なものはない。年代からいっても、われわれに近く、ドストィエフスキーよりも近い。だから、私はもっぱらロレンスをやるようになったといえる。

西尾――実際には、
『人間・この劇的なるもの』に展開されている主題も、この本の中に胚胎しているという印象はあるのですが、たとえば個人性と全体性、あるいは自由と宿命の問題ですね。

福田――ええ、ロレンスに影響されたものは、非常に根本的なものだが、もっと表面的にいうと『人間・この劇的なるもの』が売れる部数と、
『平和論に対する疑問』が売れる部数とは違う。表面的には『平和論に対する疑問』のほうにロレンスを多く利用している。『人間・この劇的なるもの』は利用したのではない。ロレンスがもっとはいり込んでいるというだけで、意識的に利用したわけではない。気軽に利用したのは『平和論』のようなときであって、『人間・この劇的なるもの』は書いたときには気軽にとはいかなかった。第一に、利用することを意識していないし、もっと深く入りこんでいたでしょうね。だから、ほんとうにロレンスがはいり込んでいたのは『人間・この劇的なるもの』のほうかもしれない。

西尾――その場合、先ほどの問題に戻りますが、個人の純粋自我と集団的自我の二つの対立は、福田さんが「演劇」と「政治」という二つの世界を活躍の舞台としたということで、いかにもふさわしい。演劇と政治はまさしく個人的自我と集団的自我との戦い合う場でもある。福田さんの行き方あるいは思想が、個人の在り方と、それから他者の在り方、もしくは他者を含めた広い意味の社会とを、どうかかわらせるかをたえず意識しているように思う。つまり、この本に出会うことによって、福田さんの内部にあったものが、触発されたのでしょうが、非常に運命的なものがあるといえる。小林秀雄におけるランボーに似たような性格があったと思う。ロレンス論の最初にも書いていますが、一冊の本に出会うこと、それがだんだんいまなくなってきている。文学や、生き方でも一つのものに自分がのめり込んで初めて人生の目が開かれるということがなくなってきて、水増しのようなジャーナリズムの氾濫の中でアップアップしているのが多い。強い生き方が不可能になってきている感じがある。話は戻りますが、ロレンスは、個人的純粋自我は可能かということをたえず問い続けている精神であるから、場合によっては集団的自我との妥協の仕方、つき合いの仕方、処世の仕方を教えているとも解釈できますね。

福田――ええ、だから、非常に平俗ないい方ですが、結局私がさっきいった自分の自我との折り合いのつけ方ということになる。

西尾――それは結局、自覚に繋がることだが、そういう対決をくぐり抜けていない場合は精神の弱さになる。その場合、問題になるのは集団的自我がつき合っていく外延の世界、他者もしくは集団社会、われわれのコミュニティーですが、これが現代では非常にアモールフ――不定型なものですね。日本の社会自体がもともとアモールフなものなのですが、加えて時代が六〇年代後半からますますそれを強めてきている。非常に厄介な時代をいま迎えていると思いますが、それに対する決意はいかがですか。

福田――たとえば、ロレンスについていえば、彼は最後に結局、愛とか心の温かさとかが一番大事だ、ということをいっている。ところが、実生活では、ほんとうに彼は心の温かさを持つにいたったか。それからドストィエフスキーでいえば、たとえば『罪と罰』では、ソーニャの前におごりたかぶったラスコリニコフの自我がひざまずくということを書いても、ドストィエフスキーは実際には、そういうことができない。それがなかなかできないのが西洋人ではないのか。というより、そこに西洋の近代文学の限界があるのではないか。そこに芸術と実行の問題があるが、西尾さんにいま、現代の状況に対する決意のほどといわれたが、それはあまり、いま考えておりませんね。それよりも、自分がいろいろと書いたり何かしたことが、自分の生活にどれだけのものをもたらしたかということのほうが大事で、ロレンスの影響にまだこだわっていえば、人が人を愛し得るか、という問題を提出するよりは、自分の実生活でそれをやることのほうが、私にとっては大事なことのように思うんです。中世ルネッサンス以来、問題は全部出しつくされて、これ以上、新しい問題は出せっこないと思っている。だから、それを実際自分の生活でどうしたらいいかということが残る・・・・・。

西尾――いままで福田さんは特に大義名分に従った生き方を批判されてきた。逆にいうならば、大義名分があらゆる陣営において、あらゆる思考形式において、むなしいものであることが広く自覚されつつある。大義名分は、また出てくるかもしれない。しかし、そのときはそのときで、いままでは自分の生活のじゃまになるものに対して戦ってきたわけですね。

福田――ええ、そのとおりです。

誤字訂正(11/17)

福田恆存氏との対談(昭和46年)(三)

西尾――イエス・キリストに対するそういう考え方は、ドストィエフスキー、ニーチェが似たようなことをいっていますね。ドストィエフスキーでは『白痴』にそれが感じられるし、また、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官にもある。ニーチェのアンチ・クリストにも似たような発想がありますね。大審問官と、ロレンスと、福田さんとの三者に共通していえるおもしろい現象は、純粋な自我と、集団的な自我とを分けて、一方では純粋であろうとしながら、他方では純粋であることは原理的に不可能だという自覚がつきまとっている。何人(なんびと)も、集団自我たらざるを得ない瞬間があるとするならば、集団の部分、すなわち、社会的次元における自我を是認しようとする。それを是認できない精神をむしろ弱い精神といい、悪を避けることに一義的な正義をみる精神に弱さをみている。カトリックは巨大な政治体系であるが、福田さん自身は、このカトリックの精神に親近感を持っておられ、あるところでは純粋な自我を一転するところがある。耐えられないのを貴族主義的である、といわれましたが、逆にいえば、ワンマン的なものを是認するところがあるわけで、そのへんをお伺いしたい。

福田――それはいまだに私には、自分で始末つかない問題なんでね。もし、始末がつけば福音を述べるかもしれないけれども(笑い)。

西尾――ただ、それは、背景の文化にかかわっていませんか。個我の純粋は成りたちがたい。そのような個人性は、極限を要求する。ロレンスは、そういう考え方に立ってイエスにすらなし得ないことがあることをはっきり自覚しようとした。したがって、ましていわんや凡人においてをや、と思わざるをえない。他方では大審問官の大衆侮蔑という形で、大衆にはパンでもだまして与えておけばいいのだという発想がある。ですから、個人が他者を愛することは不可能である、という実現不可能性をいつも見続けていくことになり、しかも、実現不可能を知りながら虚偽に耐えようという発想が逆に出てくる。それがカトリックの考え方のように思う。

福田――確かに私が青少年期を送った時代にはそのような背景が日本にはなかったが、私の性格や生い立ちの中にあったように思う。一番つまずくのは、人が人を愛し得るかという、愛と信頼との問題です。これは私が芝居や評論を書いても一番大きなテーマであって、結局、それと同時に実社会においても文学と生活、芸術と実行という関係のなかでいわゆる貴族主義者たちは芸術一辺倒ですましていることを、私にはどうしてもできなかった。それは下町で育つというところにも理由はあるかもしれない。私の学校の友だちは高等学校、大学を通じてほとんどが地方から出てきて寄宿舎や下宿生活をしていた。ところが、そこに成り立っているコミュニケーションは、彼らが故郷に帰れば、父や母や、兄弟とかわすものとはまったく違うわけです。大半の学生たちは大部分の青春を、家庭的なものから切り離されて、貴族的な純粋自我の世界に、あるいは理想の世界に生きていたといってもいい。ところが、私の場合、寄宿舎生活をやったことがない。浦和高校、大学も、家から通った。毎日、家に帰ると親父、お袋がいる。いまでいう庶民ですね。だから、学校で友だちと話し合ってきたことは通じないんですよね。その落差の中に、いつも悩んでいた。寄宿舎の学生みたいに、夏休みのときだけ、親戚づき合いをすればいい、というのではないのです。飽きがきたころ、またのびのびと学校に戻ればいいということは許されず、毎日、毎日その落差に悩んでいた。親戚は、お袋系も親父系も全部職人ですから、もちろん話が通じない。そういうことから純粋自我だけでは生きられない、個人的自我だけでは生きられない。集団的自我というものに目を向けずにいられない状況にはあったとは思う。そこで、個人的自我はどこからきたかというと、外国文学や、外国思想の影響でしょうね、きっと。

西尾――そうですね。だいぶはっきりしたような気がいたします。つまり、福田さんが大学時代に出会った精神的空間を一つの日本の近代化を促進したところの知識世界として象徴すると、もう一つは庶民的レベルでの生活の場という空間があり、そこには常に落差があったということですね。福田さんには前者の部分が持っているゆがみが若いころから非常に鮮明に見えていた、あるいはそれに悩んでいたことが思考の一切の基礎体系になっている。しかし、ロレンスの個人的自我、集団的自我のドラマは、西欧二千年の歴史的な背景をもったすさまじい世界から出ているのではないですか。その場合、このロレンスが福田さんの魂を触発した一面があったとしても、同時にそのままは結びつけることのできない日本の近代の弱さ、にせもの性が別にあった。時代を動かしていると言う日本の知識階級には自己過信がある。それは妄想にすぎない。実際、日本を動かしているのはそういうものでなく、現実の大きな力があるのであって、知識階級は根無し草である。そういう状況の中で、福田さんは職人的日常、もしくは江戸期の町人の生き方、という文化的な考えを措定さrせている。つまり頭脳だけ空疎に走ることに対する戒めがあるわけです。しかし、その基盤をなしている職人的部分も、怪しげになっているのが日本の近代ですね。それを両刃の剣みたいに両方切っていかなければならない。

ところが、ロレンスの場合には、一つの大きな文化体系の中で試みていたから、ロレンスは反逆児たり得た。正統思想の中で異端派可能であった。日本においては、正当なものをつくってからでなければ異端になりえないということで福田さんはシェークスピアをつくり、さらにロレンスをつくり出した。その分裂が自らの中にあったと思いますが・・・・・。ところが、いまの日本のような状況になると、どんな反逆も有効性をもたず、ますますもってロレンスでも生きられない時代になってきたんではないかという感じもしますが・・・・・。まだ、ヨーロッパも怪しげになっておりますけれども・・・・・。それで、自我の支えがうまく調和とれているのですね。

福田――ええ、いいかえれば、一種の集団的自我が成り立っている。別のことばを使えば、個性あるいは個人を放棄している。よくいえば共同体意識がある。これは時間的にも空間的にもいえる。つまり時間的にいえば伝統であり、空間的にいえばコミュニティといえる。ヨーロッパにはそれがまだある。アメリカはもう危うい。そういう意味でいえば、確かにロレンスの生きていた時代には、正統思想がまだはっきりとしていた。いまのヨーロッパでもまだまだそれがあるといえる。日本にはそれがない。いわゆる知識人もにせものなら大衆もにせものと化した。大衆もにせものというわけにはいかないが、大衆の生活をにせもの化してしまった一つの近代化があるということになる

西尾――大衆の知識人化傾向ですね。

福田――ことに日本は六〇年代にその現象がはっきりと起きている。ぼく自体にもそういう面があって、どうやってもしようがないと思わざるをえない。だから、ものを書くことがぜんぜん徒労だという感じになってきている。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(二)

 この企画は三部から成り、最初に福田氏と私の対談、次にロレンス「アポカリプス論」の福田訳のまえがき・解説「現代人は愛しうるか」、最後に西尾による解説評論「エゴイズムを克服する論理」である。

 ここには最初の対談と最後の解説評論を掲示する。

 福田訳のロレンス「アポカリプス論」は福田思想のいわば原点で、戦争の直前の昭和16年に訳出されたが、出版は昭和22年5月であった。「アポカリプス」は聖書のヨハネ黙示録のことである。ロレンス「アポカリプス論」の翻訳は筑摩叢書(絶版)、福田氏のまえがき・解説「現代人は愛しうるか」は福田全集に収められている。

 以下に掲示される福田氏と私との対談、及び私の解説評論「エゴイズムを克服する論理」は今まで何処にも再録されていない。

 なお同対談の行われたのは三島由紀夫の自決から約半年後である。

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西尾――ロレンスの「アポカリプス論」は、福田さんが人生に対する見方を教えられた書物、もし、福田さんにとっての“一冊の本”があるとすれば、『現代人は愛しうるか』があがるわけですね。この作品を拝読すると、福田さんのこれまでのいろいろな著作活動の中に出てくる発想の多くが、やはりこのときのロレンスへの傾倒と深く繋がっていることが想像できます。

 たとえば、最初のほうに「民主主義はクリスト教時代のもっとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが、今ではもっと徹底した民主主義者が絶対的貴族階級に成り上がろうとしている。(中略)強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。(中略)ここに問題にしているのは、政治的党派のことではない、人間精神の二つの型を言うのである」とあります。これはほんとうに偶然拾い出したものですけれども、さならが福田さんの文章のようです。ロレンスの場合は、彼の生きた時代の日曜学校や教会で、毎日のように繰り返されている牧師、もしくは聖職者の説教に対する反感みたいなもの、逆にいえば、宗教教義の問答みたいなものが根強くある伝統的な風土の中で、ロレンスはそれに反抗し、黙示録のうちに弱者の自尊の宗教を見ます。そういうアポカリプスの中に現われた地上の権勢というものを憎悪し、呪詛し、そして弱い人間が肌あたため合って、その中に己のエゴイズムを、復讐のルサンチマンの中に燃えあがらせる。そういう歪みが近代になって、自由・平等・博愛という美しい理念の中に忍び込むというのが、ロレンスの発想にいろいろな形ででてくるわけです。福田さんの著作活動の中で、知識人ということばでしばしばいわれているイデーが、ロレンス、ジイド、ニーチェなんかが発言したときの牧師もしくは聖職者というようなことばで排撃されている内容と、かなり酷似しているという印象を受けるわけです。

 それから、福田さんの場合には、知識人と民衆というもう一つの考え方。この民衆ということは、民衆の素直な心、民衆の生き方、あるいは生活人ということであって――福田さんの思想は、どだい生活人としての生き方を重視するということですね。ですから、いわゆる知的虚栄心を取り払って、生活人に実態をかえして、そこからものを見ていこうとされる。それが、福田さんの発言の一番の強さをなしていると思います。それは、戦前の下町(神田)の風土からくるのではないか。たとえば職人芸をいろいろ勧められたり、いつも素人の心を忘れるなと言われています。実際に職人の仕事に愛情をもっておられ、そういう生活人の側面、それと文筆ということがパラレルの関係をなしていると思われるのです。

 そこでお聞きしたいと思ったことは、いま述べたヨーロッパの現実の中で起こった大きな精神上のできごとについてなのです。強者と弱者の対立が非常に激しく、したがって、ほんとうに弱者は弱者であり、そのために、弱者の自尊の宗教というか、反逆意識というか、裏返された権力意識というか、熾烈なものがあって、そのためパラドクシカルな肉体侮蔑のキリスト教のもっている陰惨さ、そういうものがある風土で起こったロレンスの精神は日本でどう考えるべきか。日本の風土というものは、強者、弱者の対立もなく、けじめもはっきりしていない。それにもかかわらず、ロレンスの中に自画像を、読み取られる。ロレンスが日本人の問題になり得る外的条件は、戦前から戦後にかけての、昭和十年代以降、日本の近代化がある点に達して出てきたことは事実だろうと思います。そのような時代の中でロレンスの精神ドラマが自分の主題になり得たわけですね。しかし、それにも拘わらず主題になりえない部分が依然として残るように思います。つまり、日本の風土は、(『日本および日本人』の中で絶えずお書きになっているところですが)自我の対立がもともと相対的で、曖昧です。その風土性とロレンスのパラドクシカルなドラマとはどう共存しているのか。それから、福田さんの下町っ子気質からくる日本の民衆意識、にもかかわらずとかく福田さんの生き方が貴族主義的な発想だとみられているパラドックスにみられる食い違いはなぜなのか、お聞きしたいと思います。

福田――知識人と日曜学校の先生と同列に並べられたことは確かにそのとおりですが、知識人と権力者とは、明治の初めのうちだけは蜜月時代があった。それもせいぜい十年代だけで、二十年代ごろから、徐々にその分離が始まった。自由民権思想などからもきていると思うが、敗北者は善であるという考え方が、非常に強くなってきた。そういう状況で戦争を迎え、戦後は、さらに激しくなった。ジャーナリズム、あるいはマスコミュニケーションの拡大ということと繋がっていると思うが、すねていて、おれが正しいという段階から、すねる必要もないくらい知識人が強くなってきた。戦前までは弱者天国だったが< (一人一人ばらばらになれば弱者に違いないが)今の知識人などをはたして弱者といえるか疑わしい。権力対反権力、体制対反体制というとき、反体制がそのまま反体制にとどまっているのかどうか。また反権力を主張する人たちが権力なきものであるかどうかというと、すでにそうではなくなってきている。権力を持ってきているのです。これは日本だけでなく、戦後の世界状況も、だいたいその傾向を強めてきている。ヤングパワーの擡頭で権力が弱くなり、反権力がひじょうに強くなっている状況の中で、ロレンスの思想が生きてくるように思う。彼が生きていたならもっと激しく問題を追求したことでしょう。 

 私がロレンスに一番影響されたということから、さっき西尾さんが言われたように私は貴族主義的だとみなされることが少なくないが、実は、私はそうではないつもりなのです。ロレンスの中にも自我を克服する、あるいは自我を越える過程で、謙遜と同時に傲慢が出てくる逆説的な面がある。ロレンスは、人間の自我の中に集団的な自我と、孤独な、個人的な自我と、二つが必ずあるとしている。これは逆説的です。人間は孤独であって、初めてその人の本来の姿であるともいえるし、人間は絶対に孤独であり得ないともいえる。そこで個人的自我と集団的自我をどういうふうにしたら自分との折り合いがつくかという問題が出てくる。ロレンスのことばを使えば、イエスも弟子たちの英雄崇拝には答えられなかった、といえる。イエスのうちにある貴族主義が、自分を英雄扱いにし、神さま扱いにする弟子たちの態度に対して耐えられない、ということになる。それがイエスの大きなあやまちである、とロレンスはいっている。しかし、イエスが弟子たちの英雄崇拝に耐えられないのはイエスが貴族主義的だともいえますが、むしろ、それはイエスの弱さ、というより優しさによると言えるのです。つまり、イエスにはあつかましさ、図々しさがない。だから、人がよく言う貴族主義とは逆の現象です。人気や、評判や、権力というものを平気で手に握って傲然と構えていられない優しさ、この優しさというのは、見方を変えれば弱さともいえるものですが、単なる弱さとはちがう。人間の弱さに徹底しろという強さから出てきたものだし、またそういう強さを自他に要求するものです。

 普通、貴族主義を定義すれば、傲然と構えている人間を貴族主義といっていると思うのです。たとえば、ワンマンとして部下に君臨しているとか・・・・・・一般にはそれができるのが貴族主義というのですが、ロレンスはそれができないのが貴族主義だといっているわけです。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(一)


お 知 ら せ
福田恆存歿後十年記念―講演とシンポジアム

日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(開場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール
    (地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の丸公園内)
特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「福田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03-5261-2753〈午後5時~午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言
 
★ 新刊、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ


意志と表象としての世界〈1〉
10月に完結(中公クラシックス)(中央公論社)
旧「世界の名著」シリーズの再版だが、今回は解説をショーペンハウアー学会会長の鎌田康男・関西学院大学教授におねがいした。


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 しばらく愉しんでいただいた「むかし書いた随筆」は後日の再開を約して、いったん中止する。

 11月20日は福田恆存氏のご命日である。この日「福田恆存の哲学」と題した私の講演を目ざしていま勉強しているが、なかなか容易ではない。勉強の途中で、保存していた貴重な文献を発見した。時宜を得ているので、紹介する。

 季刊『日本の将来』昭和46年(1971年)5月30日発行第1号(潮出版社刊)という大型版の雑誌が保存されていた。総特集「原点からの問い――戦後日本の思想状況」と題した一冊で、扱われた思想家は竹内好、埴谷雄高、加藤周一、鶴見俊輔、小田実、福田恆存、花田清輝の七氏である。七氏の思想の原点を問うという企画である。

 七氏にそれぞれ対談相手と解説者がつく。( )内は解説者。竹内好と松本三之介(松本三之介)、埴谷雄高は対談者なし(菊地昌典)、加藤周一と西川潤(西川潤)、鶴見俊輔と本多勝一(樋口謹一)、小田実は対談者なし(前田俊彦)、福田恆存と西尾幹二(西尾幹二)、花田清輝と竹内実(磯田光一)。

 ご覧の通り、福田恆存氏と私と磯田光一氏を除いて、ことごとく左翼である。当時左翼、そして今ではすでにナンセンスと化した極左といっていい人々である。これが33年前の日本の思想界の実態だった。福田氏は当時60歳、功成り名遂げた大家で、私は36歳、自著を三冊出したばかりの新米だった。

 対談は福田思想の原点であるロレンスの
「アポカリプス論」を中心に展開されるが、対談の前に記されている二人の紹介記事を、最初に掲げておく。紹介のされ方が、あゝ、こんな時代であったのか、と感慨深く思って下さる読者もいるであろう。

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 ●ふくだ・つねあり●
大正元年(1912)東京生れ。東京大学英文科卒。卒業論文は『ディー・エッチ・ロレンスに於ける倫理の問題』中学教師、編集者などを経て日本語教育振興会に勤め、
『アポカリプス論』を訳したのは昭和十六年ころである。昭和十一年「作家精神」の同人となり、「横光利一論」「嘉村磯多論」を発表。他に『シェクスピア全集』現代語訳、

『福田恆存著作集』がある。現代演劇協会「雲の会」の推進者でもあり、広範な活動をしている。このほど戯曲「総統いまだ死せず」で日本文学大賞を受けた。

 ●にしお・かんじ●
昭和十年(1936)東京生れ。東京大学文学部ドイツ文学科卒。昭和四十年より四十二年までミュンヘン大学に客員助手として留学。現在は電気通信大学助教授。専攻はニーチェ及びドイツ精神史。著書に
『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)
『ヨーロッパ像の転換』(新潮選書)『悲劇人の姿勢』(新潮社)、訳書に
『悲劇の誕生』(中央公論社、世界の名著「ニーチェ」)などがある。

むかし書いた随筆(五)

*** ミュンヘンのホテルにて ***

 最近世界の名だたる豪華ホテルの案内書を企画したので、貴方の推薦できるホテルの名前と内容を報せてほしい、というアンケートがある出版社から舞いこんだ。そう言われてみて、私は人に紹介できる豪華ホテルに泊った覚えのないことに気がついた。一流めいたホテルになら泊った覚えもないではないが、名前も忘れてしまったほどどれも印象に残っていない。

 私の好きなホテルは小じんまりした清潔なミニホテルである。ミュンヘンにはよく行く。必ず泊るのが「オペラ座そばのホテル」という名の、裏小路ぞいの目立たぬ宿である。値段が安い。一泊百マルク前後、現在のレートで七千円弱である。安ければ通例、設備が悪い、バスが付いていない、調度が壊れたりしている、中心街から遠く、交通不便である、などの欠点のあるのが普通だ。ところがこのホテルは入口が小さく、地味なのに、内部は一流ホテルに負けない良い設備で、バス付きであり、しかも名の示す通り、バイエルン州立歌劇場横の大通りから一本奥へ入った小路にあり、じつに足の便がいい。

 オペラの前売券を買う時間の余裕がなかったときや、ふらっと今晩オペラでも見ようかと思いついたときなどに、私はAbend Kasse(当夜券前売り場)に並んで、大急ぎで、その夜の切符を手に入れる。それから開演までには大抵一時間くらい間がある。劇場の前の店でコーヒーを飲んで待つしかない。

 ところが、件(くだん)のホテルに泊ったときには、劇場から至近の距離なので、自室に戻って、一風呂浴びて、服装を整えて――ミュンヘンでは今でもオペラには男性が黒衣正装、女性が長衣正装ときまっているー―、おもむろに心の準備をして、出かけることができる。オペラを見る前のこの一寸した気持ちの調節はとても大切である。ことにワーグナーなどは腹ごしらえをしておかないと、途中で空腹になって困ることがある。私はホテルの自室にバナナやクッキーを用意しておく。まずこれを食べ、髭をそる。ワイシャツを新しくする。

 こうして気持ちを整えて、やっと開演十分前に自室を出ても、それで充分に間に合うこのホテルの便利さは、私のミュンヘン滞在にはいつも欠かすことのできない快適さの条件である。

 あるとき、フロントで、前夜舞台に見た巨体のバリトン歌手が、メイドと無駄口をきいているのに出会った。今夜ミラノへ飛んで、明後日はベルリンだと、彼は大きな声で喋っていた。そういえば、フロアで金髪長身のソプラノ歌手に出会ったこともある。ホテルの従業員は、歌手たちにとてもなれなれしい態度で接している。

 そうだったのか、ここはオペラ歌手たちの常宿だったのだな、と私は合点がいった。私にこのホテルを最初に紹介した日本人の友人が、ここは旅なれたドイツ人のいわば“ミュンヘン通”だけが知っている穴場のホテルで、外国人観光客には知られていないが、結構人気が高く、だから予約は早めに手を打つ必要がある、と教えてくれたのを思い出した。

 ドイツ人は無駄な出費を極力惜しむ。安くて、しかも内容がいい、そういう所に人気が集中する。ブランド名で商品を買ったり、見栄(みえ)で豪華ホテルを選んだり、そういうことはたしかに少ない。彼らがイタリアや南スペインへ大挙して出掛けて行くのは、南国の太陽への憧れもあるが、諸物価が安いというのがじつは最大の動機である。しかも、その安い外国に諸物持参で、バンガローで自炊してホテルに泊らない。それがドイツ流儀である。一流のオペラ歌手といえば、高収入で、どんな豪華ホテルに泊っても不思議ではない、と人は思うが、そこがさすがにドイツ人である。

 「オペラ座そばのホテル」はこのように実質本意で、ドイツ人の趣味に適う宿だが、さりとて貧弱なのではない。ホテルと同経営の附属レストランは高級料理店である。ワインも料理も超一流だし、ボーイもお仕着せをつけ、メイドも優雅で美人が多い。私は民族衣裳をつけてサービスする一人の若い娘さんに注目していた。ドイツ女性に例の少ない、溢れんばかりに笑顔をたたえた愛嬌の良さが気に入っていた。北ドイツ女性は概して突慳貪(つっけんどん)だが、南ドイツの女はやっぱりいいな、と心のなごむ思いがしていた。

 一昨年(1992年)春のことである。ドイツは交通ゼネストを経験した。もう何十年としたことのない大規模ストライキである。統一のために旧西ドイツ市民が強いられた金銭的犠牲に対する償いを求めてのストであって、旧東ドイツの各州はこのストに参加していない。ミュンヘン市街はたちまちゴミの山に埋もれた。私はフランクフルトへの旅を諦めた。空港も閉鎖されて、帰国の日程さえも脅かされかけていた。しかしオペラ劇場はなにごともないかのごとく毎晩開かれていた。ホテルの高級料理店も、毎晩客で賑わっていた。民族衣裳の美人の娘さんの笑顔にも、私は夜ごと接することができた。

 激しいストは間もなく終った。私のミュへン滞在も終わりに近づいていた。ホテルのフロントの男と激しかったストのその後の混乱について話を交わした。そして私は、かの娘さんがストの期間中、市外の村から片道三時間もかけた徒歩通勤でホテルに一日も休まずに通ったのだという話を聞かされた。郊外へ抜けるS電(バーン)が止まったからといって、ホテルの活動は止まらない、と男は言った。私は、このホテルの質実さを支えているのは、お客さんの好みだけではない、例えばこの娘さんの健脚であり、けなげさでもある。「なるほど」と、なにかが分かったような気がして、ひとり呟いた。

  初出(原題「ミュンヘンのホテル」)「小説新潮」1994年2月号