坦々塾(第十四回)報告(二)

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ゲストエッセイ 
石原隆夫
坦々塾会員

西尾先生は鈴木さんの考察を正面から受け止め、反論の形で日本文明の好ましい面として「複眼の必要/日本人への絶望を踏まえて」と題し、「國体の本義」を取り上げられた。その中で「肇国」「聖徳」「臣節」「和とまこと」の概念とそれを具現する意識として神道に通じた「明き心、浄き心、直き心」を挙げ、それが日本人の美点であることは間違いないが、残念ながらそこには「他者=他文明」が無いことを指摘された。

この事は日本人同士には通じても他者には通用しない思考であり、今迄、日本民族の長所と見做されて国民性となってきた概念が実は、他文明との摩擦の原因となるだけではなく、それを躱そうとして「和とまこと」が顔を出し、その結果が妥協と阿りとを生じるという鋭い指摘でもある。

ならば一体日本民族は今後、どう生きたら良いのか。
道徳論的には「明き心、清き心、直き心」のDNAを持った日本民族の誇りは失うべきではないと思うが、お人好しの日本民族はそろそろ卒業しないと未来はない。
国際に通用する「政治論的」な日本民族とは、「一宿一飯」の恩義に無関心になれるかどうかであるが、両方をうまく使い分ける知恵を持った日本民族になれるだろうか。

神であった天皇という絶対的存在を失ってしまった日本民族は、逆境に耐えられる心棒も失ってしまったのではないか。安易な裏切りではなく、矜持を保つ困難をこそ
選択する「明き心、浄き心、直き心」をもう一度取戻さねば未来はない。

石平さんが「日本人の歴史教科書」に書かれた「嵐山で発見した日本と祖国」を読んで
日本に帰化された時の氏の心境が手に取るように解り、興味深いものを感じた。
中国は滅ぶべしと力説する。石平さんが挙げる中国が滅ぶべき理由もよく分る。
が、滅びない中国、世界で真っ先に生き返りつつある中国が目の前にあるのも現実だ。

日本にとって中国は厄災以外の何ものでもない。
どれほどの日本人が銭や利権や女で手込めにされ、日本を裏切ってきたか、死屍累々と言っても良いほどだ。日本民族をダメにしてきた中国が一日でも早く滅びて欲しいが、私は懐疑的だ。「南巡講話」で金儲けの味を知ってしまった中国大衆が今や大国となった祖国中国を手放すわけはない。昔の中国とは違うし彼等はバカではない。

我々が今、心配しなければならないのは、中国が滅びる前に日本が滅びないように考えること。

大陸進出が日本の命取りになったついこの間の事を、国益より金の亡者になった財界に再教育することであり、「日本は日本人だけのものではない」などと言って国民を裏切る売国奴を政界から葬ることであり、お人好しの日本を喰いものにし、特権を享受しながら、いずれは日本を我が物にしようと企む特亜三国兄弟を日本から追出すことである。

「直き心」だけでは邪悪な者たちには対抗出来ないと知るべきだ。

文:石原隆夫

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坦々塾(第十四回)報告(一)

ゲストエッセイ 
石原隆夫
坦々塾会員

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 期待に違わず刺激的な坦々塾だった。

 殆ど全会員と言って良い55人の塾生が一堂に集り、講師の口から出てくる次の言葉に一喜一憂したのは久しぶりではないか。

 その講師一番バッターは、つくる会でもお馴染みの鈴木敏明さんで、4冊目の御著書、「逆境に生きた日本人」でお書きになった、日本民族の行動原理についてのお話し。
要するに日本人は逆境に追込まれると平気で國を、民族を、仲間を裏切ってきた。

 その節操のない民族がたどり着いたのは自己を裏切る「自虐史観」だと言う。「自虐史観」とは民族の資質が生み出した当然の帰結なのか・・・?

 実は、坦々塾から1週間経ったが、その折り購入した御著書を未だに読了していない。

 ハッキリ言ってもうこれ以上読みたくないというのが本音である。歳とって気弱になったせいか厭な話には拒絶反応が強い。勿論、馬鹿な左翼の本などまっぴらだが、保守の仲間の本でこんな感情が起きるのは珍しい。

 私にとって特にこたえたのは「日系アメリカ人」についての考察である。

 それには理由がある。若い頃と言っても、まだ旅客機がペンシルジェットで1ドル360円で500ドルしか持出せない頃だが、私は会社からハワイの日系の建設会社に研修生として派遣された。周りは殆どが2世で第2次大戦を経験している人ばかりで、当時ハワイでは選民としてその地位を確固たるものにしていた。InouyeとかAriyosiとか言う日系二世が上院議員や知事だった頃である。

 会社のトップやマネージャークラスから時々ホームパーティーに招待されたり、現場監督や大工さんから一杯誘われた時に出てくる話はいつも「大和魂」の精神論であり、具体的には第百大隊や442部隊のヨーロッパ戦線に於ける日系部隊の活躍振りだった。日米戦争が起ると本土の収容所に敵性人として閉じこめられたが、アメリカに生れ、平等に教育を授けてくれたアメリカには「一宿一飯」の恩があるという思いだけで、母国日本に敵対する志願兵になったのだと言う。その思いと、なにくそという気持こそが「大和魂だ!」と誇り高くビールのジョッキを挙げるのだ。

 私は母国に背を向けざるを得なかったそんな日系二世を愛おしく思い、その潔さに同じ民族として長年、誇りにも思っていたのだが、鈴木さんにかかるとそんな日系二世もカタナシになってしまう。私は二世を誇りに思う一方で、同じ収容所の中で最後まで理不尽なアメリカに抵抗し、最後には補償を勝取った二世がいた事を知ると、生理的な違和感を感じ複雑な気分になる。

 一方で、シベリア捕虜収容所で過酷な労働に従事しながらも、恥も外聞もなくソ連に迎合する日本人捕虜が、他国の捕虜や当のソ連兵から蔑まれた話は、身悶えするほど恥ずかしく悲しい。アメリカで強制収容所送りになったのは日系だけで、三国同盟のドイツ系移民もイタリア系移民もお咎めなしの人種差別むき出しの処遇だったが、もし、シベリア同様に、ドイツやイタリア民族と一緒に収容されたら、日系人はどう振舞ったのだろうか。他民族から蔑まれても、やはり「一宿一飯」の恩を感じたのだろうな、と思うのだが、そう思う自分に近年、後ろめたさを感じるようになったのも事実だ。

 その理由は中国系や韓国系アメリカ人の振舞いが頻繁に話題になってからだ。

 アメリカ人として生れ、教育を受けた彼等が、アメリカと母国との対立が起ると、無条件に母国の中国や韓国の立場にたって平気でスパイや工作に従事し、アメリカを裏切る。「一宿一飯の恩」など微塵も感じていない。必ずしも母国の強制があったからでは無く、自然とそうなる。そのような迷いのない彼等の行動規範にも一種、潔さを感じてしまうのだ。

 よく言われるように中国も韓国も血縁第一の社会であり、舞台が国際になれば、血縁第一意識が拡大されて人種的結合が何よりも優先されるのだ。冷戦崩壊後の民族主義の勃興が更にその傾向に輪をかけ、帰化手続が必ずしも国家への忠誠を担保しなくなったのである。

 日本での在日問題にも同じ事が言える。日本人の「一宿一飯」意識など、彼等には意味のない戯言に過ぎない。従って地方参政権を手に入れるまでは如何なる屈辱も堪え忍び、最後はこの日本を乗っ取ろうと真剣に考えている。

 アメリカ軍の中で最も戦死率が高かったのは日系部隊だった。第2次大戦後に日系の州議員、連邦議員やハワイ州知事を輩出して人種差別を超克し、民族の名誉を回復したが、それは名実共に日系人の血で購った結果であった。

 この日系アメリカ人と中韓系アメリカ人の相反する生き方の違いは、民族の生き方としてどちらが好ましいかという重い命題を我々に突きつける。その解は道徳論に求めるか政治論に求めるかで違ってくるのだが、いずれにしても鈴木さんの日本民族に対する冷徹な考察を正面から受け止めないと、これからの国際社会で日本はやっていけない時期に来ている。

つづく

文・石原隆夫

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〈専門家への疑問符〉考(第五回)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講 坦々塾会員

 

百科事典は宇宙的ではない
 
 『江戸のダイナミズム』の思惟の内にあった西尾先生は、前掲し引用したグンドルフがいうところの「宇宙的なるもの」のなかで呼吸をしていた、と私は感じていた。

 「宇宙的なるもの」とは最近、流行らない表現である。NASAだとか宇宙開発だとか、そっちの平板な科学に行ってしまうが、まったく違う。コスモスへの観照、民族の直観による世界探究というものに近いと思う。

 先生が「古き神を尋ね、それをときに疑い、ときに言祝ぎ、そしてときにはこれの背後に回り」と表現した言語文化ルネッサンスのドラマは、グンドルフなら「世界建立的な行為者」や「世界視観的な形成者」の情熱や衝動によって行われる仕事ということになるのだろう。人間態の全体に向かえるものは「宇宙的なるもの」だというのである。

 そして、グンドルフはこう区別している。

 「ある目的とか體系とか方法とかを一切の素材に適用することが宇宙的であるのではない。完備ということが完全ということではない。百科事典は宇宙的ではない。総じて、包括的であると言っても、それが血と魂とに於いてでなく、目的と素材とに於いてであるものは、ことごとく宇宙的ではない。組合や学会や連盟はたとえ世界を蔽うにしても部分的である。宇宙的でありうるものはひとり人間のみである」(『英雄と詩人』)

 保守系論者とされる学者が「水平思考は駄目だ、もっと垂直思考でとらえ直さないと」ということを書いたりしているが、床に広げた歴史年表の上を水平に移動し指さすようなことをして、それが垂直思考だと言っている。歴史も素材漁りをする人たちからあれこれ窮屈な扱いを受けている。

 彼らの褒める聖人や偉人は、彼らの思い出す歌や詩は、なぜこうも生命を欠いているのか。歴史の人々もわれわれも「形作りつつ形作りかえられる」(同上)という交互作用の中で生きていることを知らない人が多すぎるからであろう。「歴史は動くもの」と言われた西尾先生の言葉は平易ではあるがなかなか理解されにくい。
 
 思想家は愈々、ひとり悲壮な戦いを続けていて、専門家の多くは愈々、生活を志向しているように見えることがある。

(了)
〈専門家への疑問符〉考

文・伊藤悠可

〈専門家への疑問符〉考(第四回)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講 坦々塾会員

 


目的本位主義がついてくる

 露伴を引き合いにして語りすぎたきらいがあるようだ。西尾先生が気づいている専門家観には、もう一つ現実的次元のものがあるのかもしれない。

 例えば「狭隘」ということも、専門家にありがちな性向から来るのではなく、学府で専門家として生きるためには狭く狙いを定めて断章取義をしなくてはやっていけない。専門家も職業人である、職業的(職場的)意識を捨てての研究は成り立たない。

 平たく言うと少しでも新しい境界を拓き、周辺的偏狭的であっても、それを差別化し提出できるテーマがあればそれをものにしておかなければ、学者として評価が得られないという現実はあるのだろう。学問の府でごはんを食べたことのない筆者にはわからないが、そういうことも想像する。

 それなら企業人と同じであるが、あらゆる学問領域の学風に流れる目的本位主義というものが専門家にもついてくる。一定の論証のために必要な資料を探し出して、分析し配列すれば論文になる、という考え方である。一定の論旨を通すには、また何らかの価値を見いだして学術的に役に立たせるには、材料を集めて按配するという作業が必要になる。

 けれど、専門家はいつでもそこに逃げ込むことが可能だ。本当に興味があるかどうかが前提としては問われない。つまり本当は興味がないから小器用に業績を積み重ねては、突っ込まれないために防御するという非知的行為のほうでエネルギーを消耗することはないのだろうか。

 学術的価値如何ということを言いつつ「成果」を気にしているが、自ら研究の「姿勢」を問わないでは、冒険も意欲も想像も人間としてついえてしまうのではないだろうか。論文になる、というだけなら、人間としてこしらえものに倦んでくるはずだ。

 ここで、一つ断っておかねばならない。
 私は専門家という存在について、極めて大雑把な感想を述べてきたに過ぎないが、異論もあるだろう。専門家は、もっと多方面の分野で多様なかたちで社会に役立っている、そして、彼らは様々な人々の欲求に応えるため新しい学問を確立している、専門家の捉えかたが古くて狭すぎる、と。

 大学に新設される学科も百花繚乱らしい。マンガ学、美容心理学、スポーツイベント学等々、私が今すぐ造語すればそれがクイズの正解になるような学問がいっぱいあると聞く。しかし、それは〈商売〉ではないか。

 佐藤優氏が危惧したほどに、ポストモダン以降の乱痴気騒ぎに似た退行現象を、私は正面から受け止める気がしない。また、受け止めてはならないと思っている。同世代から出た毒は真っ先に同世代が吸引する、と私は思っているが上記のキラキラした怪光は大正期にも出現したし、明治初期にも三十五、六年のときも出現したのではないだろうか。

 この小論の探究力の不足は認めるとしても、〈新造語学問〉の専門家は全く範疇ではない。

思想家だけが「死」と「過去」に寄与する
 
 西尾先生は『江戸のダイナミズム』のあとがきで書いている。帯にもなった次の文章だ。

 「地球上で『歴史意識』というものが誕生したのは地中海域とシナ大陸と日本列島のわずか三地点です。そこで花開いた『言語ルネッサンス』は文献学の名で総括できますが、それは単なる学問ではありません。認識の科学ではありません。古き神を尋ね、それをときには疑い、ときには言祝ぎ、そしてときにはこれの背後に回り、これを廃絶し、新しき神の誕生を求めもする情熱と決断のドラマでもありました」
 
 短い文章に非常に大胆なことが書かれている。この本で単なる学問ではない、認識の科学ではないところのものに踏み込んでみたのだ、と宣言している。「学問」といえば高尚であり「科学」と言えばすばらしい、と暗黙のうちに見ている人はまず頭を叩かれる。

 その方法として時間的、空間的に大きなコンパスを取り出して、思い切って世界に図面を引いてみた、と書かれてある。専門家はたくさんいるが、いっさいそういう仕事はしないし、気がついてもくれない。だから自分は自分なりにやってみる、というふうにも読める。
 
 西尾先生がふと漏らされたに疑問に触発されて、専門家とは如何なる存在か、専門家の仕事とは何なのか、そして専門家が陥っている狭隘なる世界、時折見かける錯誤した自負はどこから生じるのか、ということをここで考えてみた。時代相を冷静にみれば、誰もかれもがいっぱしの「専門家」にならんとして、息せき切って走っていると言えるのかもしれない。
 
 相対主義、機械主義、実証主義などの弊と共に、西部氏が指摘するような方向喪失と価値喪失にゆきついたアカデミズムの世界には、門外からはわからない「知」の荒廃が横たわっていることだろう。
 
 ただ、一つこういうことが言えるのではないか。専門家は益々こんごも「生」と「生活」に寄与するであろうが、「死」と「過去」には寄与しない。そもそも「死」と「過去」のための仕事があるとは夢にも考えたことがない。よって、専門家からは専門家の根本是正は行われないだろう、というのが私の結論である。

 「死」と「過去」に寄与するのは思想家の役割だからである。専門家は〈万古の疑義〉を持たない。

飴のように延びていく未来像

 ニーチェが『悲劇の誕生』を書いたとき、ヨーロッパに流布していたギリシア像は近代主義的合理性、明るい楽天性、人文主義的晴朗さ一辺倒であった、ということを『江戸のダイナミズム』から教わった。ギリシア悲劇の作品のどこにもニーチェが直観したようなディオニュソス神という暗い衝動の神格が影響したという証拠は見つからなかった。

 が、半世紀も経たないうちに、遺跡の発掘が進んで、文明の奥の暗い非合理な神霊的側面が次々と証明され、古典研究の上で大きな影響を今も与えている、とする最終章にある「悲劇の誕生の謎」の頁を覚えている方がおられるだろう。

 「大抵の文献学者は明るい理性を前提として古代を解釈」していたし、それが「客観的」だと信じ込んでいたが、文献や証拠すら無視したニーチェの主観がむしろ客観的で、現在も大きな意味を持ち続けている、と。

 勝手な読者の理解にすぎないが、私には当時の「大抵の文献学者」が現代日本の「大抵の専門家(知識人)」と二重映しになる。しかし、日本の知識層にあるのは明るい理性を前提とした「未来」である。経済危機や環境や少子化などに取り敢えず関与して悩ましい顔をしているが、本質は軽躁である。

 「日本に流布していた〈未来像〉は近代主義的合理性、明るい楽天性、人文主義的晴朗さ一辺倒であり、そのまま飴のように延びていく〈未来〉を解釈していた」と、遠い将来に誰かに書かれるのではないだろうか。

 「思想家とは、自分自身を含めてその時代に対する、また来たるべき時代のための〈裁断者〉たるとともに〈戦士〉としての任務を進んで引き受けたもの、否むしろ否応なくそれを受諾せしめられたもののことに他ならない」と小野浩元明治大学教授はニーチェに即して語ったことがある。 
 
 この小野教授の定義を思い起こし、これに重なる存在が今なおあることに気がつく人たちは幸福と言わねばならない。

 勿論、ニーチェが生きた時代と同じく、ニーチェの脚元にまつわりついて血を吸う蛭の群れが今あることも変わらない事実である。〈引き受けたもの〉の宿命というべきだろうか。

 けれども、早合点、早とちりをしてはならないだろう。この〈裁断者〉たるとともに〈戦士〉という人は、イデオロギーの衝突の場で頑張っている活動家ではない。イデオロギーの信奉者は「自分自身を含めて」という辛い戦いはできない。

つづく

文・伊藤悠可

〈専門家への疑問符〉考(第三回)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講 坦々塾会員

 

自分以外の分野は無知でかまわない
 
 露伴を雑学家とした見方に山本健吉はこう反論している。

 「なるほどそれは今日の細かく分化した知識をそれぞれ分担している専門家たちの学問とは、いちじるしく違っている。それらの人たちから言えば、露伴の学問には雑学的ともいうべき特色があるのは事実である。雑学的というのは、端的にいえば学問としての體系・方法を缺いた、雑多な知識の集積ということだろう。だが、露伴に果たして、體系・方法が見られないと言えるかどうか」
 
 われわれが生きている技術文明の高度化、社会機構の複雑化の進行はめまいを覚えるほどである。社会は新たな課題に応じられる新たな専門家の登場を要請する。

 技術と知識の膨張速度は凄まじく、個人は細かく分断された部分知識を持つことはできるが、全体的な知能と職能を獲得することは不可能となった。分担と共有は宿命的な図式である。が、これを逆にしてみると、個人は自分以外の分野はまったく無知であってもかまわないということである。分担される知識と技術はますます細分化し、専門家はその領域内で深い知識を獲得しているかもしれないが、社会が所有する知識の総和から言えば、個々人の知識と技術は著しく狭い。

 「近代人は古代の素朴な農夫に較べてさえ、個人的な知識と技術との著しい相対的減少が見られる。言い換えれば愚昧になっているとさえ言えるのである」と、山本健吉は人生全体の知恵の喪失を指摘しているのだが、問題が深刻なのは、狭隘な知識の所有者である専門家自らが、必ずしもそうは思っていないことである。
 
 感受性のある日本人なら、一人ひとりが充足完成することのない時代に投げ込まれている現実に、多少は嘆声を漏らしいらだちを覚え寂寞を感じるものであろうし、完結した生涯を持ちえない生、断片的で過程的でしかない人間と化していくことによろこびを抱き、そうした社会に賛辞を与える気持ちは持ち合わせないはずだが、考えの機械的にして精緻なる人たちはそうではないようだ。

 まず、人生における全的人間としての知恵など時代遅れの古い人間の繰り言と蔑んでいるだろう。少なからず彼らは進歩主義者なのである。専門を担っているという自負以上に、誰もが持ちえない専門知識の保持者として社会に貢献しているという高ぶり、専門領域外への無関心、外部からのいかなる発言もゆるさない不寛容という合併症を患っているのではないか。

気にかかるゲーテの言葉

 露伴が雑学的な物知りに見えるのは、一面ではやむをえないと言えるのかもしれない。

 柳田国男は民俗学者として身を立てようとしたわけではないし、内藤湖南も泉下で「私は歴史家として生きた」とは思っていないだろう。南方熊楠となると何が専門なのかと言うことができない。「すぐれた菌糸学者」などと言おうものなら本人は大笑して「俺は革命家だ」というかも知れない。
 
 露伴はどうか。田邊元博士は今でも「博士」という二文字を付けなければ格好がつかないが、露伴は文学博士であるものの、幸田博士と呼ぶ人は皆無である。つまり、博士はよけいなのである。
 
 ちなみに、西尾先生は自分をライターと呼んでいる。物を著すときはただの評論家だ。実際は何も付いていない。西尾幹二は西尾幹二である。たくさん仕事をすると肩書が簡単になり取り払われるのは自然の理である。専門家は相変わらずの肩書主義なのである。

 露伴には雑学的というべき特色はあるが、今日の専門家がする学問に較べて、より全体人間的であり、人生万般的な知識の所有者であった。しかも、近代的細分化される以前の知識風土において、その時代が思索しておかねばならない対象をとらえ、直観力を持ち合わせ、物事の帰趨を決めつけずに限界をはみださない〈反措定〉という節持を自らに課していたといわれる。
 
 そうした節持を今日の専門家は理解しない。限界をはみださない姿勢は「自説に自信を持てないからだろう」くらいに思っている。そうではなく、露伴は問題の立て方が違うのである。学問的というべき答が出ないのは承知で広い立て方しかしていないのである。「完全さに達するのは、学ぶ者のなしうることではない」とゲーテは言葉を残しているが、これを晩年の負け惜しみととらえるほど私はひねくれていない。

徂徠が夢にも思わなかった学問の概念

 露伴が日本の古代中世ばかりか支那の文献、インドの仏典などを縦横無尽に織り込んで物語るとき、誰もがその博識に驚かされるのだが、薄められた知識をひけらかす趣味人の厭味といったものはない。物事の結末をあらかじめ見て取って筆で読者をねじふせるといった押しつけがましさはないように思える。

 卑近な人生の場面から形而上的な理念の探究――それはたとえば「運命」と呼ぶしかないようなものを含んで読者に迫る。露伴に體系や方法といったものがないのではなく、人が生きるための體系と方法が横たわっている、と山本健吉は抗議した。 
 
 「見聞広く、事実に行きわたり候を、学問と申事に候故、学問は歴史に窮まり候事に候」は荻生徂徠の有名な一節である。小林秀雄はこれを読んで次のように書いた。

 「徂徠の学問に、厳密な方法がなかったという事は、裏返して言えば、何の事はない、今日の学問より遙かに生活常識に即していたという事なのだ。(中略)今日の学問では、広大な人間的経験の領域を、合理的経験に絞るのを眼目としているから、学者は、必ずしも見聞を広める事を必要としない。いや、人情を解せず、人倫を弁えなくても、学問の正しい道は歩けるのである。徂徠等の夢にも思わなかった学問の概念である」

 徂徠の「学問は歴史に窮まり候事に候」という深淵な部分を今ここで扱うのは目的の外である。また、容易に手に負える課題でもなさそうである。小林がいう「必ずしも見聞を広める事を必要としない」今日の学者のほうに着眼点があるのは言うまでもない。見聞を広めようとすると雑学家の烙印を押されてしまう。西尾先生が以前の日録に「私は知りたがり屋なんです」と書いていたことを妙に思い出してしまう。
 
 「鴎外とか露伴といふ明治己来三代で嶄然と衆峰を抜いた大文士の作品を読んでごらん。日本だけの精神生活の高み深みがこの二人に極まってゐると思ふでせう。しかしこの外にも近代を象徴する詩文はいくらもある。おしくるめて、人めいめいその立場を妥協せずに、書いて、生きて、愛した人達のものが歴史に光って残るのです」
 日夏耿之介は露伴が逝った年(昭和二十二年)にこれを『風雪の中の對話』で書いている。

 簡潔な文章だが滲み入ってくるところがある。田邊博士の露伴評とは正反対である。オーソドックスなことをオーソドックスに表現するのはむずかしい。最後の文節は碑文のように美しいといったら嗜好に寄り過ぎるだろうか。

つづく

文・伊藤悠可

〈専門家への疑問符〉考(第二回)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講 坦々塾会員

  
露伴を雑学家と呼んだ田邊元博士

 西尾先生が「業績は尊重するが、理解できない」とした専門家への疑問符とは何かという問題である。

 専門家が専門家然として満足していられるふうに見えるが現実は不安と後退の道を歩いているではないか、研究成果を誇っているが実は自らの末技的仕事に眩惑されて嗜眠状態にあるのではないか、その耕地に留まっているが隣の山は関係がなく海も見る必要はないという視界の狭窄は気にならないのだろうか、と私なりに専門家に抱いている不服があるけれども、先生は何を衝いているのだろう。

 機械的に科学的な世界解釈で事足りているイデオローゲンというタイプが確かにある。ソフィスト風のにぎやかな専門家が蔓延していることもある。だが、直接彼らを今ここで意識しているわけではない、とすると先生が学者としての業績を一応認めながらも、なおその人たちに決定的に不足しているものを想像しなくてはならない。

 それは何であろうか。

 その昔、田邊元博士は弟子の前で幸田露伴を「結局は雑学さ」とけなしたそうである。そのことは山本健吉の露伴全集の解説などを読んで知ったのだが、つまらないことを言う先生だと思ったことがある。田邊博士の研究は何もわれわれのような書生風情を相手にしているわけではなく、世界の哲学者の目を覚まさせるために用意されたのかもしれないが、高尚な学問に比してこのセリフの落差はなんだというものだった。
 
 露伴を雑学者だというなら森鴎外も柳田國男も、それから南方熊楠も内藤湖南も皆雑学者ということになってしまう、と山本は書いた。

  哲学者は崇高な学問を相手にしていて人種が違う、知識の深さも違う、そこいらの文学者と一緒にしてくれるなと、田邊博士は言いたかったのだろうか。それも大いに考えられる、「文学的」という言葉は相手を否定するときの武器としてよく使われる。自然科学者、社会科学者がその急先鋒で、文学的ということは、すなわち「つくりもの」「想像したもの」「化粧・装飾したもの」で実証に耐えないと言いたい実証主義者が心から蔑んでいるものである。

実証というのは素朴すぎる考え

 ところが、これを昨今は歴史家と呼ばれる人間も武器にしだして、われわれは職人であって確かな実証できる事実だけを採用する、小説家や物語を書く人はおもしろおかしく事実を着飾り詩魂に花を咲かせたらいい、というような意味のことを口走っている。何をかいわんや、歴史は文学的というものでなければならず、元来、伝というものは支那でも日本でも、文学の一体であった。いわゆる客観的資料を、年次を追って配列する学問的発掘書なるものは、最近の時代の産物である。
 
 秦郁彦氏は七十年の蒙昧から抜け出し、甲羅を破り、自己過信症状から目覚めるチャンスを西尾先生にもらっていながら気がつかずに家に帰ったのである。対談をよく読めばわかることだが、西尾先生はふだんより抑制的に、ときに老婆心をもって応じている場面がたくさんある。これほど親切に西尾先生は説いているのに、秦氏は親切を迷惑に感じたという一幕であった。

 「具体的な歴史的実際に抽象的、社会学的範疇を適用したため、歴史的実際を殺してしまい、その中から心を引き抜いてしまい、歴史的宇宙をありのまま直観的に観照することを不可能にしてしまった」と言ったのはニコライ・ベルジャイエフである。秦氏は精緻な立証があると讃えられている歴史家らしいが、取り組む心がけというか、はじめの一歩がきっと間違っているのである。

 実証的とは素朴すぎる考えである。百の事実が消えて一の事実が残るということが歴史にはあるからだ。ただ、こんなことを何度言ってもこの人には分からないだろうという気がする。この人は自分が好きだけれども歴史が好きだという感じがしない。人間を軽蔑しながら歴史を扱っている。勝れた裁定者は客観的でなければならず、むしろ、歴史を好きになっては鋭い歴史眼が鈍るとでも思っていることだろう。

専門家の狭隘と倨傲

 横道にそれてしまったが、田邊博士もまた、文学や物語などを戯画のように見下し、哲学を深淵なるもの偉大なものと考え、一緒にされては困ったのであろう。
 
 多様態哲学『種の論理』をもって学界の注目を集め、西田幾太郎門下の高弟としてゆるぎない地位を築いたという自負や威権から、つい悪口を漏らしてしまったとするならそれはそれでよいし、大学者でも妬忌を行うということはままある。露伴の博識は驚嘆すべきものがあるし、その評判は博士の耳に届いていただろう。

 ただ、露伴を雑学家とした貶斥は失当だと思う。露伴をただの物知りとしてしまうところに、明治以来の学殖の偏向があらわれているようにも感じられる。つまらないエピソードにこだわるのは、専門家の狭隘と倨傲がこんなところにもベットリと付着しているのを見るからである。

 田中美智太郎風に言えば、専門家は国家社会から必要とされているが、教養は単なる必要以上のものなのである。われわれは教養のために自分の専門ではないことを素人として学ばなければいけないということになる。勿論、教養など死語である。そして何の役にも立たない。けれど役に立たないこと大事にしたいと考えるのが人間である。

 私には、露伴の例えば『努力論』一冊のほうが断然大事な本であり、全体人間的な興味から言って露伴はいてくれなければならない人だが、田邊博士は公立図書館の書庫にでも座っていてくれたらそれでよいと言いたくなる。それは私の恣意であるから別の考えもあろう。晩年に、博士は『懺悔道としての哲学』を著し日本の戦争責任を考えたらしいが、自らの学究人生に満足されたのだろうか。

つづく

文・伊藤悠可

〈専門家への疑問符〉考(第一回)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講 坦々塾会員

 

  「専門家という存在が理解できない」

 西尾幹二先生の読者は、先生が折節、専門家というものに対して疑問符をつけていることに気づいているだろう。最近では秦郁彦氏との対談(『諸君!』四月号)でも、少し前の『江戸のダイナミズム』の中でも、専門家の見識及び専門家という存在に対して疑問を呈しているところがある。
 
 先生がなぜ、専門家に大きな信頼を置くことはしないと言ったり、また、専門家であることを自負している人の専門家的所見を容赦なく裁断したりするのか、私には大変、興味のある問題であった。

 その指摘は知識人の限界や不備に通じる予感がするし、専門家を任じている人間の無自覚を衝いて、長く置かれたある風潮に警鐘を鳴らしているようにもみえる先生の態度である。勿論、専門的研究、成果そのものについて全否定するという暴論的な鉈を先生がふるっているわけではない。「尊重はするけれども、しかし」と問いなおし、それでよいのかと迫っているものである。

 専門とは無関係な私が興味を持つのは西尾先生が抱いている〈不満足の在り処〉だけである。

 現代は専門家が活躍している時代、より活躍しなければならない時代だと思われている。知識と職能は分化され、特定の領域に専門的習熟者が常住するのがあたりまえという社会のようである。専門家がいなければ、およそ複雑な世の中で信頼するに足る正確な情報、有益な分析、高度な判断というものが一般の生活者には納得したかたちで届けられないと信じられている。
 

 一方で、専門家が信頼するに足りる存在かどうかというと、これほど心もとない時代もないといえる。信頼欠如は甚だしく不安視されている。専門家と称する人々が時勢に応じていろいろな発言をしているけれども大丈夫なのか、信じてよいのかという素朴な疑いが生じている。例えば、多く言葉を費やす必要はないであろうが、経済学者のこの難局における無力、視力の弱さはひどい。
 
 的に刺さった矢を見て、俺の予想は当たっていたというような話が多すぎる。繰り出される見識の混乱、政治的視野を持たない無定見な世界解読に対して、果たしてどれほど真摯な顔で受け取ってよいものか、疑わしい。

 それなら実態予測、実態報告をやめて純粋理論の故郷に帰ればよいのにという気がするが、経済界と疎遠な場所での仕事は閑職だと見られているのかもしれない。

 政局の起伏や選挙の読みだけで暮らしている政治学者を政治学の専門家と呼べるのかどうかわからない。こちらの世界も同じである。二大政党の実現をユートピアのように語る学者を深い眠りから起こしてやるのはむずかしい。否、彼らは眠っているのではなく遊んでいるのかもしれない。かくして、いびつな専門家事情は社会科学はじめ学問領域全般に行き亘っているのかなと想像してしまう。
 
 自然科学分野では発言の逸脱をして一向にその不自然を省みない物理学者がある。ノーベル賞を受賞するとどうして、唐突に憲法九条を死守する平和主義者になりさがるのか。「科学者は最悪の哲学を選択する」という言葉があるそうだが、皇室典範を強引に変改しようとしたロボット工学博士がいたことは記憶に新しい。ここまでくると専門家の壟断としかいいようがない。

 大衆人の代表としての専門家

 だが、いったん立ち止まって考えよう。果たしてこんないわゆる専門家に向けて西尾先生は批判の矢を放ったのだろうか。彼らは先生が疑問符をつけるに値しない。先生が「私は専門家の成果を尊重しますが、専門家という存在がどうしても理解できません」(『江戸のダイナミズム』あとがき)という言い方をするとき、別の人々を意識しているのは自明である。
 
 なら、私が挙げた電波や雑誌や新聞に低調な私見をちぎっては投げている専門家とはいったい何物なのか。やはり、いわゆる専門家としておくしかないのだろう。オルテガがいち早く警告した「大衆人の典型」としての〈いわゆる知識人〉についてここで始末を付けておかなければ、先生が首をかしげた意味が遠のいてしまう。

 専門家を知識人の代表として置き換えると、知識の保有量が少ない大衆人が一方にあり、これに対しては知識の保有量とその操作術に勝れた少数の知識人が指導を与えていかなければいけない、という了解の下地がある。西部邁氏によると、こうして知識人と大衆人とを対立的にとらえ、知識人が社会の指導者であるべきとする図式は二十紀前半に提出されたのだという。

 しかし、このような図式は根本的に誤っていると指摘したのがオルテガで、「彼は、今やほとんどの知識人が『いわゆる知識人』になり果ててしまったとみる。ここで『いわゆる知識人』というのは、自分の扱っている知識を疑ってみることをしない人間、自分のもっている知識に満悦している人間のことをさしている。

 その知識が狭隘な専門知であるのは当然のことである。なぜなら、包括的な哲学知を含むような知識はかならず自己懐疑の回路を有しているのであり、知識にたいする自己満悦に耽けることなど論外だからである」(西部邁著『新・学問論』)と説明されるように、今では、知識人が知的リーダーシップを振るい大衆人のために貢献しているという考えは、〈いわゆる知識人〉の側の一方的な思い上がりというべきなのかもしれない。

 「この世界が存立して以来、言葉が今日ほど大衆的に、愚かしく、軽薄に濫用されたことは決してない。賤しい民はつねに存在していたし、また存在せねばならぬでもあろう。けれども彼が今日ほど発言権を獲得したことは曾てなかった」とフリードリヒ・グンドルフがその師シュテファン・ゲオルゲの評伝の中で嘆いたのも前世紀初期のことだが、既に〈いわゆる知識人〉の病根が宿されていた。

 〈賤しい民〉とは当然、知識人を意識しているのである。彼らこそ大衆の中の大衆という風貌をしているのだが、これを追いかけるのが小論の目的ではないので、〈いわゆる専門家〉ではない専門家の話に戻る。

つづく

文・伊藤悠可

雑誌正論西尾論文「日本の分水嶺・危機に立つ保守」を読んで

ゲストエッセイ 
石原隆夫(いしはらたかお)
坦々塾会員

 

   西尾先生が「つくる会」を辞められて久しいが、当初は創業者としてその様な決断をされた事を私は訝しく又、不満に思ったものである。だが、辞められてからの西尾先生の多くのご論考を顧みれば、つくる会の箍を外れて自由奔放であり、それは左右を問わず日本人にとって眞に刺激的であり、似非保守の正体を白日の下に晒し、正に先生の面目躍如というべきであった。

 特に昨年の皇室問題に対する「直言」は、タブーであった分野に風穴を開けただけではなく、舟と乗客の喩えでご皇室と国民の関係を改めて問い直す重い問題提起であった事は、ご皇室に関心の深い層にはパニックを、比較的無関心な層にもそれ相応の関心を呼び起した事からも覗えるのである。

 西尾先生が懸念する左翼に取込まれたご皇室など考えたくもないのだが、一連の「直言」を読みながら感じた事は、保守の油断と御皇室への盲目的な信仰の陰で、日本の根本のところに仇なそうとする勢力が、密かに何事かを起しつつあるのではないかと言う事であり、そこから唐突に憲法第1条を想起したのである。

 言うまでもなく憲法第1条では、天皇の地位は国民の総意に基づくと書かれている。

 即ち、戦争や革命を起さなくとも国民の総意が変れば天皇の地位も危うくなると憲法は規定しているのだが、もしも天皇家に下世話な庶民と同様のトラブルが起るようなことになれば、国民のご皇室への特別な感情に変化が生じ、それに乗じた勢力が憲法第1条を悪用して國体を毀損しようとする可能性を否定できないのである。
 
 西尾先生の一連の「直言」は、その危険性を世に知らしめ、良からぬ勢力に警告を発し、國体の存続の為に天皇家のご覚悟をも促されたものと私は理解している。

 雑誌「正論」6月号の西尾先生の「日本の分水嶺/危機に立つ保守」は、昨今の日本を取巻く環境の激変とその原因について縷々述べられ、その鋭い論考は国家権力と天皇のあるべき姿に到達する。

 即ち、環境の激変は凋落する米国の中国への傾斜に原因があるが、日本の問題としては、1991年に冷戦が崩壊した時点で日米安保の必要条件が消え、日本は軍事的、政治的、外交的に自立する好機であったにも関わらず、実際には更なる対米従属の方向へ進んでしまった結果、自衛隊は米軍の機構に取込まれてしまい、権力の象徴たる軍事力を失った日本は世界の奇観だという。

 なけなしの軍事力である自衛隊が米軍の機構に組込まれても平気な日本は、軍事力の統率者が国家権力の掌握者であるという観点から見れば、力の源泉をアメリカに握られた日本には権力者がいないという逆説が成立つのだ。

 更に、ご皇室と権力との関係についても、歴史的に皇室を守ってきたのは常に権力であったが、いまやその権力がアメリカに握られているとすれば、ご皇室を守っているのはアメリカか?と、際どい日本の現実を曝け出してみせる。

 たしかに、外交も金融政策もアメリカの指示がなければ動けないばかりか、北朝鮮に国民を拉致され国家主権を侵されたというのに、「宣戦布告」して被害者を取戻し主権を回復する意志も力もないのだから、もはや国家とは言えない。

 そんな1億2千万の集団は危険な存在であり、世界秩序の観点からは、意志の明確な国家権力による統率は避けようがなく、戦後体制の復活で日本を永久に封じ込めたい米中の思惑が一致して日本の再占領となる、と西尾先生は予言する。

 三段論法的に言うならば納得せざるを得ない論理であるが、その冷徹な論理にはたじたじとするばかりである。ご皇室の守護者がアメリカだとの論理的帰結は日本人としては信じたくはないが、昭和20年の昭和天皇とマッカーサーの会見で、連合国の一部の反対を押切って最終的に安堵されたとも言える天皇家の存続を考えれば、あの時期、実質的にアメリカがご皇室の守護者であったと認めざるを得ない。
 
 その事がご皇室の記憶の中にその後もずっと残っているのかどうか、或はその関係がずっと続いているのかどうか、保守は今迄、誰も触れようとはしなかったが、西尾先生はその事の重大さを我々にこのご論考で提示しているのだ。

 悪辣なアメリカは日本統治のために守護者としてご皇室を利用し、一方では昭和憲法を日本に押しつけ、国民主権のもとで天皇の地位は国民の総意によるという象徴天皇制を時限爆弾のように仕掛け、いつでもご皇室を廃棄できるようにしたのである。

 西尾先生は昭和天皇について、<昭和天皇は占領時においてアメリカを受け入れるような姿勢をお示しになると同時に、うまく日本の伝統的な考え方を手放さずに、受容しかつ拒否する対応をなさいました。そのいい例はいわゆる「人間宣言」に際して、明治天皇の五個条のご誓文をも同時に提示して、明治からこのかたわが国には独自の民主主義があったことをアメリカ人にも日本人にも等しく暗示されました。>と、敗軍の将とは言え気概を示された事に言及している。

 上記のように気概を示された一方で、終戦前後に有った御退位の問題は複雑である。国内では終戦前の昭和二十年二月に、近衛公と高松宮が敗戦必至と見て天皇のご退位を密議し、木戸幸一内大臣が終戦前に将来退位問題が起るだろうと天皇に進言している。戦後では芦田均首相が退位論者であったようだ。

 一方国外では、御退位どころか終戦前からアメリカ始め連合国側は昭和天皇の訴追を規定の事実としていた。終戦2ヶ月前のアメリカ国民の世論調査では、天皇の戦争責任について「天皇処刑」33%、「裁判にかけろ」17%、終身刑11%という結果であり、天皇訴追は避けられない状況だった。

 ところが昭和20年9月の天皇マッカーサー会談の後、本国へのマッカーサーの進言により、連合国の天皇に対する処遇は、日本統治に欠くべからざる存在として徹底的に利用する方針に変ったのである。東京裁判が終った時、日本側の退位論に対し、マッカーサーが天皇に退位はなさらないでしょうねと聞いてきたが、天皇は側近を通じて退位しない旨マッカーサーに伝え、今、退位すると言っては信義に悖ることになる、と述懐されている。(昭和45年4月24日に稲田侍従長が承った要旨による)

 昭和天皇とマッカーサーとの間でどの様な話が交されたかは未だ不明だが、御退位がマッカーサーに対して信義に悖る行為であるという昭和天皇のご認識は、国際法無視の復讐劇だった出鱈目な東京裁判が終った時点でのマッカーサーに、日本統治の上でこの上ない自信をもたらしたことは疑いない事実だと思う。

 歴史にIFは禁物だが、連合国が当初の方針に従って昭和天皇を訴追し、仮にもA級戦犯として処罰したとすれば、マッカーサーの日本統治は失敗したに違いない。

 或は、東京裁判の後、昭和天皇が御退位されていれば、マッカーサーに対する国民の感情は敵対的になり、日本統治は成功しなかっただろう。そうであれば東京裁判史観が受入れられることもなく、アメリカに従属することもない代りに経済大国にもなれないが、自前の憲法を持った気迫に溢れた国家として国際社会でそれなりの地位を占めることが出来たのではないかと思うのだ。

 戦後の日本人には、アメリカの真意はどうあれ、天皇とご皇室を戦勝国の訴追願望から守ってくれたという錯覚があり、原爆や無差別空襲などのアメリカの残虐に目をつぶってきたのではないだろうか。しかし行き場のなくなった無念さの解消は結局、自傷行為にならざるを得ず、戦前の日本を痛めつける風潮が国民に広く支持されて、未だにその錯覚から醒めていないのが我国の悲劇なのだ。

 同様にその思いがご皇室にも有るとすれば、アメリカが憲法に仕込んだ時限爆弾の恐ろしさを関知することは困難であろう。現に今上陛下は、ご成婚50周年のご会見で、日本国憲法下の天皇のあり方が、天皇の長い歴史や伝統的な天皇のあり方に沿うものである、と述べられている。今上陛下のお言葉であるだけに、アメリカに押しつけられた問題の多い昭和憲法にお墨付を与えたことになり、政治向きの話題には今迄慎重であった筈の今上陛下のご発言だけに、その政治的な発言に驚きを禁じ得ない。

 保守陣営に程度の差はあっても、現行憲法の改正は悲願であり、安倍政権では国民投票法を成立させて憲法改正の下準備は整えたのだが、今上陛下の今回のご発言は保守にとっては大きな痛手である。天皇ご自身のお考えなのかどうかも気になるところである。

 西尾先生は上記の今上陛下のご発言に対し、天皇は権威であり象徴であって、権力を握ってきたのは武家であった、という「権権二分論」を念頭に置いてのお言葉ではないかと思われるが、「権力を握ってきた武家」が昭和二十年以来アメリカであり、しかも冷戦が終わった平成の御代にその「武家」が乱調ぎみになって、近頃では相当に利己的である、という情勢の急激な変化をどうお考え下さるのか、と問い、続いて、権力が消えてしまった情ない国に今なっていればこそ、今上陛下にこの国と国民を救ってもらいたいという思いは一方において切実です、と訴える。

 敗戦以来この方、昭和天皇から今上天皇の現在まで、日本の権力者はアメリカであり、従ってご皇室を守ってきたのはアメリカであったという目まいがするような西尾先生のご皇室に対する冷徹な論考であるが、一方では、困った時の神頼みならぬご皇室に期待し、この国と国民を救って欲しいと真情を吐露するのだ。

 この国と国民を国家破綻の縁から救い出すには、軍事力に裏打された国家権力を持たない政府にはなにも期待できないが、世界唯一の万世一系である天皇家の権威だけがそれを為すことが出来るのではないかと、西尾先生はご皇室にそのご決断を迫っていると私には思えるのである。

 ご決断とは守護者たるアメリカからのご皇室の自立である。その意思表示とは、アメリカの押しつけ憲法の破棄であり、改正憲法に於いては天皇の地位を元首とし、確固たる政治的責任を内外に明確に示し、国民に範を垂れる事である。謂わば、明治天皇と昭和天皇が述べられた「五箇条のご誓文」の精神を取戻すことではないのか。

 西尾先生は最後にこう述べる。
<しかし「象徴」が古代以来の日本の歴史によりふさわしいのであれば、アメリカに権力を奪われている国家の現状が日増しに不安定を増す恐れもあるので、皇室の安泰のためには、江戸時代のように京都にお住居をお移し下さり、より一段と非政治的存在に変わっていく方針をおとり下さり、改正憲法もそのような方向で考えていくべきではないでしょうか。いずれにせよ、わが国の体制、権力機構がこの儘でいくはずはないのです。動乱から皇室をどう守るかも、いち早く考えておくべき時代になってきたように思えてなりません。>と。

 憲法に於いて天皇の規定が「象徴」か「元首」かどちらが日本とご皇室の為になるのか、厳しい洞察を伴った問い掛けである。

 元首でない象徴天皇であっても、日本に於いては依然として天皇のお言葉は重い。

 だからこそ左翼は「天皇制」を批判し、「女系天皇」に賛成して天皇制の自然消滅を謀り、「開かれた皇室」と称して下世話なトラブルで失望を誘い、「昭和憲法死守」に賛成して国民総意の下にご皇室の法律的消滅を謀るのである。
だからこの度の今上陛下による昭和憲法第1条擁護のお言葉は、アメリカや左翼からは大歓迎に違いない。もしもこのお言葉で日本が憲法改正が出来ないならば、日本の運命は最早極まったと言っても過言ではないだろう。

 天皇とご皇室に、日本の危機は同時にご皇室の危機であるとのお覚悟がなければ、西尾先生のご提案のように,政治的環境の東京から文化伝統の京都へご遷座なさるのが日本の為なのかも知れない。しかし幕末から昭和20年迄の約90年に亘ってご皇室が政治の中心に御座した時代は、天皇と国民が一体になって日本に栄光を齎した時代でもある。時代錯誤と言う批判はあるかもしれないが、自立した日本を再生するには、天皇主権は無理としても、明治憲法を基にした改正憲法の下で天皇に主権の行使を幅広く委譲し、君臣一体の國体を再構築することではないかと愚考するものである。

あとがき
 雑誌「正論」6月号の西尾先生の「日本の分水嶺/危機に立つ保守」を読んで触発され、先生のご論考を下敷にして思うところを書いてみた。

 実はNHKのJAPANデビュー第2回「天皇と憲法」についての私の感想文をお読み戴いた先生からのメールで、正論のご論考についてどう思うかとのご質問があった。この拙文はご質問へのお答でもあるが、先生の怖ろしいほどの洞察力に狼狽えながら書いたものであり、ご皇室への思いが千々に乱れ途中で何度も止めようと思いながら書いたものである。従って文章としては纏りもなくまことに読みづらいものになってしまった。素人には荷が重すぎる宿題だった。

 この度のご論考は、皇室への直言に続く西尾先生のご皇室と日本に対する深い洞察と危機感に溢れた真の愛国の書である。保守はこの先生の問いかけに答える義務があるのではないか。

文:石原隆夫

坦々塾(第十三回)報告(三)

ゲストエッセイ 
足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 
元カナダ東京三菱銀行頭取/坦々塾会員

   西尾幹二先生

 前略、過日の勉強会でのご講義について以下申し上げます。
I
 3月14日のご講義は、時間軸の中で1907年前後、1942年前後を中心に、空間軸では中国を挟んだ日本とアメリカをご考察されたお話と承りました。

 1907年はアメリカでは大統領がセオドア・ルーズベルトからタフトに代わる頃です。タフトは日露戦争の最終段階である明治38年8月に陸軍長官として訪日し、朝鮮については日本が、フィリピンについてはアメリカが、フリーハンドを持つことを相互に認め合った桂・タフト協定を結んだその人です。ですから人的に見た変化は見出し難いのです。

 仰るとおりアメリカもそれまではヨーロッパと同様強国同士のgive and takeの外交であったと思われます。石井・ランシング協定がその最後の例でしょう。然しその後は確かにアメリカの対日政策は変化していることは事実であると思います。背景、原因については残念ながら私などには分かりません。考えたことがなかったからです。

 1941年8月の大西洋宣言で植民地の解放を鮮明にした点については以下のように考えます。

* 1 第一次大戦参戦に際してウイルソン大統領が唱えた民族自決の原則の理念化、理想化。
* 2 アメリカの大衆社会への変化がもたらした人々の意識の変化。
* 3 ルーズベルト政権内のコミンテルンエージェント、シンパの影響。
* 4 ヨーロッパ諸国に比べてアメリカは植民地喪失の打撃が少なかったこと。
* 5 日本がパリ講和会議で国際連盟規約に「人種平等」を盛る提案をしたことの影響。
の5点と考えます。

*1 ウイルソン大統領の掲げた参戦の大義名分である民族の自決は、オーストリア・ハンガリー、オスマン・トルコに従属する多数の民族の自主権、独立を回復させるということでしたが、それは理想化、理念化され、植民地支配を受ける人々にも適用されるべきであるという考えに結びつくものです。時を経るに従いそういう受け止め方が強くなりました。

*2 先生が以前記された通り、第一次大戦でアメリカの産業は大発展し、戦後の社会の質を大きく変えました。大衆社会の出現です。人々の生活の仕方、生きかた、考え方は大きく変わったのです。社会評論家であるフリードリヒ・アレンが1920代のアメリカ社会を描いた「オンリー・イエスタデー」によれば、女性がコルセットをしなくなり、母親が眉をひそめるような”フラッパー”な娘たちが現れ、従来の伝統や考え方は廃れていきます。ラジオが生活に浸透し、情報や理念の伝播がより大規模に急速におこなわれていきます。

 中国に関連することではパール・バックの「大地」がベストセラーになり、麻雀が大流行します。こうしてアメリカの大衆には中国へのロマンが掻き立てられ、好意的な雰囲気が生まれたと考えられます。 こうしたことでその後、コミンテルンのエージェントであったエドガー・スノーの「中国の赤い星」やアグネス・スメドレーのプレゼンスも大きくなったと考えられます。

 こうした変化の下で、植民地保有は悪であるという考え方がアメリカ国民に浸透し、コンセンサスになっていったのではないでしょうか。

*3 ルーズベルト政権内にはコミンテルンのエージェントやシンパが影響力をもっていましたが、マルクス・レーニン主義者あるいはそのシンパは当然植民地解放へとすすめる工作を含むものでありました。

*4 アメリカの領土拡大に関しては、メキシコから奪ったテキサスからカリフォルニアにいたるまでの併合領土は、ハワイも含め直轄領としての併合であり、植民地として得たのはフィリピンだけです。ですから植民地を手放すことでの損失はヨーロッパ諸国に比べると相対的に打撃は少ないものといえたでしょう。

 時代の変化に伴い植民地の保有がアメリカの理念を損なうことになることがはっきりしてきたとき、アメリカはフィリッピンの独立を認めるわけです。アメリカ議会は戦争前にフィリピンが1946年に独立することを認める決定をしています。このことは日本との戦争の原因に係わるものではないかと思います。

*5 これは全くの私見ですが、最大の理由は第一次大戦後のパリ講和会議で国際連盟の設立に際して日本が連盟規約に「人種平等」を入れる提案を行ったことに端を発しているのではないかと考えます。アメリカの反対でこれは実現しませんでしたが、時日を経るに従いアメリカに深刻な問題をもたらすことになったのではないでしょうか。

 アメリカ独立宣言は、人は生まれながらにして神の前では平等であるとしています。これはアメリカの理念であり、アメリカ人の世界に於ける位置づけ、意味付けをなすもの、つまりidentityをなしているのです。日本の人種平等の提案は、アメリカの現実がこの理念に反しているという痛点に触れるものでした。

 この問題で日本に先行され、痛点を突かれるということはアメリカの理念を揺るがすものです。この理念を打ち砕かれればアメリカ人のidentityは揺らぎ、アメリカの団結力が崩壊する危険を孕んでいる。そこにアメリカは危険を感じた筈です。

 アメリカが自己の無謬性を確立するためには、日本に先行して植民地解放のイニシャティブを握らなければなりません。そのためにフィリピンの独立を約束し、1941年の大西洋宣言になったわけではないでしょうか。

 戦争後アメリカは組織的な検閲と焚書により日本を人権と民主主義とは無縁な国であるという虚構を日本人と世界の人々に刷り込みました。

 アメリカは自国が常に正しい、相手国が人権と民主主義に無縁な侵略国家であるとし、日本に鉄槌を加えアジアの平和を回復したという虚構を作り上げました。

 それの最大の目的は自国民を団結させる理念、identityのためであり、日本人から記憶や事実上抹殺することにあったのではないでしょうか。こう考えていくとアメリカの対日戦争の目的はベルサイユ会議で日本が提案した「人種平等」の事実を抹殺することにあったのかもしれません。

 そうだとすると大東亜戦争の発端は1919年であり、日本がどんなことをしてもアメリカの戦争への意図から逃れることは出来なかったのかもしれません。

II.「あの戦争」論者について。
 
 3月14日のお話の中で、シナの驚くべき実態についても触れられました。日本人もアメリカ人も中国の実態について余りに無知です。特に戦前の中国の地方についてはまるで知られていないのです。

 義務教育制度が整うのは日本に遅れること100年の1980年代で、90年に李鵬首相が70%強の児童が小学6年までいくようになったと実績を誇ったのですから。

 都市土地法の関係は今でも外国との関係同然です。大陸で選挙による政権は未だに存在したことがないのです。戦前は殆どの国民が文盲でしたし、形は兎も角内容は常に独裁国家なのです。

 所謂昭和史家が「あの戦争」の評価に当たり①対象期間を昭和3年から終戦までに限定しており、より長い歴史とのつながりを全くかえりみていないこと②戦争の原因を自らのみにもとめ敵国についての研究が皆無に近いことをお話しされました。その通りであると思います。

 更に言えば、先生のご研究による”焚書”がおこなわれたことが全く無視され、”焚書”された資料が全く研究されていないことです。つまり”昭和史家”達は”焚書”により掃き清められた後にわざと置いておかれた”資料”を”発掘”しては彼等の”昭和史”を構築したのです。

 正にアメリカの狙い通りになったわけです。

 1941年の大西洋宣言はその布石であったのであり、そうしたフレームワークを構築するきっかけとなったのはベルサイユ会議で日本が行なった「人種平等」提案であったと考えられるのではないでしょうか。以上独りよがりの意見ですが敢えて申し上げる次第です。早々

足立誠之拝

西尾幹二先生

 前略、一昨日お送り申し上げました掲題に係わる私見に以下追加申し上げます。

 アメリカの対日開戦の大きな原因の一つは第一次世界大戦とその後の講和会議、国際連盟樹立に係わる日本とアメリカの対立にあると考えます。
 
 第一次大戦のはじまりに際し、アメリカは中立の態度で臨みます。一方日本は開戦後暫くして対独宣戦を布告し、青島要塞を攻略しますが、それだけではなく、その後ドイツ領であったマリアナ、カロリン、マーシャルの各諸島を占領しました。そして戦後の講和会議ではこれらの島々を委任統治領にするわけです。これは アメリカにとり大きな脅威になった筈です。なぜならば米本土、ハワイと植民地であるフィリピンを結ぶ通商航海路に日本が楔を打ち込む形になったわけですから。

 アメリカが中立の立場を破棄し英仏側に立って参戦する1917年には、もう太平洋に於けるドイツの領土を得る機会は失われており、戦争の帰趨を決定する重要な役割を担いながら得られるものは殆どなくなっていました。
  
 こうした情況の中で国民を戦争に駆り立てるにはそれなりの理念、スローガンが必要であった筈です。
 
 ウイルソン大統領の唱えた民族自決はこうした理念、スローガンで、アメリカが道徳的に世界をリードする意味が包含されていた筈です。この道徳的な「世界のリーダー」たる自覚、自尊心は、日本が国際連盟規約に「人種平等」を提案したことで脅かされることになったと考えられます。

 日本はこの戦争で中国においてと西太平洋においてと両方で新たな権益をえていますが、ヨーロッパ戦線への派兵要請には応じませんでした。犠牲を払わなかったことになります。

 アメリカはヨーロッパ戦線に大軍を派遣し、犠牲を払いました。こうした情況下でアメリカが有色人種国日本に道徳的なリーダーシップを奪われることは耐え難いことであったと想像されます。
 
 アメリカはこのとき「人種平等」に反対したからです。
 
 このことはその後の世界に於けるアメリカの道徳的なリーダーとしての資格にとり致命的な打撃を与える恐れを孕むものであった筈です。

 やがて第二次大戦が終結し対日占領が始まるとアメリカは直ちに”検閲”と”焚書”の実行開始を手掛けました。”検閲”と”焚書”をあれほど極秘裏に組織的に行なうためには相当の計画性、準備が必要でしょう。
 
 ”検閲・”焚書”は連合国最高司令部(GHQ)の下で行われた形になっていますが、ポツダム宣言に違反するこうした行為がマッカーサーの発意で行われる性格のものではなく、ワシントンの指令により、ワシントンから派遣されたスタッフによって行われたことに間違いはないでしょう。ルーズベルトはアインシュタインの忠告に従い、ナチスに先行する原爆開発のためマンハッタン計画に着手します。

 ルーズベルトは対日戦争での軍事的勝利には自信を持っていたと考えられます。彼はただ単に日本に対して軍事的勝利にとどめることなく、更なる目標を定めていたのではないでしょうか。
 
 むしろ対日戦争の本当の目的は、軍事的な勝利の後に置かれていたのではないでしょうか。
 
 つまりあのベルサイユ会議で日本が「人種平等を提案した」その事実を歴史上から抹殺することです。そうでなければ、そのときに「人種平等に反対した」アメリカが世界の道徳の中心から滑り落ちる可能性を残すことになるからです。
 
 そしてそれは見事に実現しました。
 
 日本は戦後アメリカにより自由も民主主義も人権思想もあたえられたという神話が日本国民に刷り込まれ、世界中の人々にも刷り込まれ、今日に至っているのですから。
 
 昭和天皇のお言葉については今まで多くが記されていますが、殆どは第三者の記録であり、その本当の内容、陛下のお心を正確にお伝え申しあげたものは少ないと考えられます。然しはっきりしたご発言がのこされています。
 
 それは陛下が「不幸な戦争」の原因に触れられたときに、ベルサイユ会議の際に日本の「人種平等」提案が廃案されたことに言及されておられたことです。終戦のご決意を先帝陛下が下されたことで分かることは、先帝陛下が他のだれよりも卓越した洞察力をお持ちであり、俯瞰図を描いておられたことです。

 以上先帝陛下のおことばまで記すことはおそれおおいことですが、私には遠因は第一次世界大戦、ベルサイユ会議での「人種平等」問題であると思えるのです。
草々

足立誠之拝

坦々塾(第十三回)報告(一)

ゲストエッセイ 
長谷川 真美/坦々塾会員
   

 久し振りに、本当に久し振りに坦々塾に出席した。いつも東京にいる人たちはいいなぁと言っていたが、今でもそう思う。なにしろ新幹線に四時間も乗らなくてすむのだから。

 今回の坦々塾の話は西尾先生、元ウクライナ大使馬渕睦夫氏、国際ジャーナリスト山際澄夫氏の三先生で、それらの講義が終って、立食懇談会の会場で、西尾先生から今日の報告文を書いてくれないかと言われた。

 えぇ~っ・・・・と私。

 最初はメモをとりながら聞いていたが、だんだんと録らなくなっていたし、そういう気持ちで聞いていたわけじゃないので困った。「いや、貴女の言葉で、貴女の頭に残っている印象をあなた流に書いてくれればそれでいい」と言われたので、こうなったら自分のブログで書くような気軽さで書くしかないと思い、承知した。

 丁度出席していた別の方が上手にまとめてくださっているので、まずそれをご本人の承諾を得て転載する。

1.西尾先生のご講演は、日本、中国をめぐるテーマで、次のような内容だった。
 なぜアメリカは日本と戦争をしたのか? この理由いまだにわからない。
 イギリスやソ連のような、利害と支配の論理なら理解できても、アメリカは一貫性がないし、何をしでかすか読めない。
 植民地支配の放棄をいいだすようになった頃を境に理解不能になった。アメリカはいい子ちゃんに変身する。『大西洋憲章』みたいなきれいごとを言い出す。きれいごとを盾にして日本を占領した。イギリスは版図が広がりすぎて日本の助けが必要となり、日英同盟を結ぶ。GIVE&TAKEの関係が成立した。それなりにわかる。日本はアメリカがヨーロッパの亜流だと思っていたが、見誤った。
 現代の日米構造協議もそうだ。日本の消費者のためだなどときれいごとに騙され、日本の政治家も知識人も旗もちした。
 さて「昭和史」ブームだ。半藤、保坂、秦らは外の世界を見ていないし、歴史を短くしか見ていない。欧州には秩序があったが、支那、アメリカにはない。
 焚書のなかから日本に留学していた中国青年が昭和12年に帰国し、徴兵され、最前線に送られ、残虐な中国兵、逃亡ばかりを狙って、逃げると味方に撃たれるすさまじい中国軍隊の体験記を紹介する。
 『日中戦争』・・清朝以来支那は内乱続き、文化大革命然り。支那には近づかないほうが賢明だった。イギリスは止まったがアメリカは支那に関与してしまった。モンロー主義を捨て、門戸開放、領土保全、を主張した。だれも反対できないきれいごとだ。しかし支那が国家の体をなしていないことにアメリカ世論が気付かない。リットン調査団はヨーロッパだから事態を現実的にみられた。よくないのはアメリカのしかも宣教師だ。中国を助けるアメリカのイメージを振りまいた。NHKも『昭和史』も戦争は日本の主戦派が招いたというが、戦争は相手があってのもの。よく状況を調べよ。
 アメリカにとって支那は膨張するアメリカ資本主義のマーケットであった。ニューディールという社会主義的政策をとったアメリカだが、ソビエトに対する警戒心は欧州や日本とは違い、皆無だった。ルーズベルト政権は容易にソビエトと提携できた。ホワイトなどは、スパイという罪悪感もなく、共産主義とアメリカは手を組めると思いこんでいた。
 日本だって、あの林健太郎氏が、雑誌『諸君』のアンケートで、「日米開戦の知らせを聞いたときどう思ったか」と問われ、「日米という二つの帝国主義が大戦争を起こしてしめたとそのときは思ったものだ」と昔左翼の感想を正直に告白した。
 

2.馬渕睦夫さんの講演。
馬渕さんはわれわれの元々の仲間です。九段下会議からこの会に参加して下さった方には旧知の仲で、味わいのあるユニークなお話で知られる方です。あの直後ウクライナ大使になられて日本を離れました。  この度ご帰国になり、外務省を辞めて、現在防衛大学校教授をなさっています。坦々塾でのご講話は「ウクライナから見た世界」で、このたびのグルジア紛争やウクライナへのガス輸送妨害の事件などにも触れた、リアルな内容のお話をいただけました。

要点は、 ウクライナは欧州最大の国家であること。 不安定な政治体制。しかし経済は比較的安定している。政治家はみな愛国心があり、タフにロシアと渡り合っている。きわめて親日的であり、日本文化を吸収し日本に学ぶ気持ちが強い。小学生で芭蕉を、高校生で川端康成を学習している。 日本外交再生のためには、「自由と繁栄の弧」構想をさらに進め、ロシアとタフにわたりあうことだ、これまでも日本の政治家は能天気で、旧社会党委員長など人間ドックのためにソ連にやってきたり、モスクワ五輪ボイコットの最中に友好訪問などしているようでは、なめられきっている。安倍内閣の時はウクライナ政策は良かったが頓挫してしまった。

3.産経新聞社出身のジャーナリストの山際澄夫さん。 「メディアはなぜ嘘をつくのか」が演題。マスメディアの内側に関するかなりきわどいお話もうかがえると聞いています。最近の山際さんがお書きになったものでは、宮崎アニメのイデオロギー批判や防衛省内局批判などの目立つ発言がじつに印象的です。(西尾先生の前宣伝口上から)

話があっち飛びしてつかみにくかったのが率直な印象。のっけからハイテンションだ。
政治家はいい加減だが、最も悪いのはマスメディアだ。 テレビコメンテーターは事前打ち合わせを済ませ、テレビに阿っている。 マスメディアは強きに阿り、弱きに居丈高になる。志が低い!! 小沢一郎政治資金規正法違反容疑でも、メディアはだめだ。じつは政治改革の旗手として、小選挙区制導入の小沢を持ち上げてきた。メディアの幹部連がこぞって選挙制度審議会メンバーになり、翼賛体制を作ってきたから、批判できないのだ。

長くなりましたので、この辺で擱きます。 空花 より

 今回、坦々塾にはテレビカメラが入った。二年後には、インターネットとテレビが相互乗り入れをする時代となり、大手のテレビ局が電波を独占している現在の状況が変わるのだそうだ。現在のアメリカのように、視聴者が多くのチャンネルの中から選べる時代になるのだという。お笑いとクイズ番組の日本の大衆迎合路線だけがテレビ、という時代ではなくなるのは大歓迎。スカパーのシアターテレビで、西尾先生には「日本のダイナミズム」というタイトルで時間が与えられるのだそうだ。試験的かどうかは分らないが、その番組の関係者が来て撮影していた。

 2時から6時40分まで二回の休憩を挟み、学生時代の授業のように三者三様の、内容の濃厚な勉強会だった。

※西尾先生のテーマは中国とアメリカについて。

 アメリカは1942年の大西洋憲章で「植民地主義の解放」を主張した。そういった道徳的なきれいごとを言うあの態度はいったいどこから来ているのだろうか、それならアメリカはどうして戦争をしたのだろうか、という西尾先生ご自身の疑問に、いろいろと推理をされる。どうにも中途半端なアメリカ。それに対して、ヨーロッパの基準は日本には理解できるものだったとおっしゃる。

 時間が押し迫り、最後の推論をお話になる時間が足りなくて、懇親会の席で、分りやすく結論の部分をお話くださった。

 それは、おそらく、ヨーロッパは奴隷的なピラミッドの最下層の部分を補充しようとして、外に植民地を求めたが、アメリカには既に国内に黒人がいて、外にそれを求めることをしないで済んだからではないかということだった。それが、植民地侵略において一人正義漢ぶれる所以であったのではないかと。聞いていた私も、周りの人たちも大きく頷いた。

 アメリカが黒人差別を形式的にでもなくしたのは、戦争が終って大分たってからだった。

 一方中国は?

 『日中戦争』(北村稔・林思雲)というの本を紹介されながら、戦争の起こった原因を日本にだけ求めることがまずおかしい。そして、中国というまとまった国、秩序だった国が本当にあったのか?日本は中国という国家と戦争をしたのか?むしろ、中国という地域の想像を絶する内乱に巻き込まれ、足抜けが出来ないうちに、ずるずると戦争になってしまったのではないか?と話された。

 日本は、中世という封建主義を経験していない、個人主義の中国やアメリカと、価値観・原理を異にしていた。そして現代でも、価値観の異なるこの二つの国を相手にしなくてはならない。

※次にウクライナの元大使、馬渕さんのお話。

 どっさりと資料を用意され、お話を聞き逃してもちゃんと後で補強できる状態だったのは、とても今、ありがたい。

 ウクライナという国について、日本人は余り関心を持っていないようだが、実はとても大きなポジションにある国なので、もっと関心を持ってほしいと言われた。ウクライナもその中に含まれる「自由と繁栄の孤」はロシアや中国に対する対抗戦略で、外務省が作成し、麻生氏が外務大臣であったときに発表された外交戦略である。普段余りよく言われていない外務省の仕事としてはとても素晴らしいものであると話された。その証拠に通常軽くあしらわれるロシアから、急に手厚い扱いを受けるようになったことがあったそうだ。

 ウクライナは大変な親日国家だそうだ。独立後の教育で、他国を勉強することが決められており、アジアでは日本について勉強することが指導要領で決まっているという。なんと小学五年生で松尾芭蕉、中学生で川端康成を学習している。日本の美しい伝統と文化を学ぶことが、自国の伝統文化の尊重に繋がるという視点なのだそうだ。馬渕大使は学校の参観にも行かれ、生徒が書いた大変感動的な作文を発表された。

マリーナさんの感想文
「私は『千羽鶴』に感激しました。真の日本の神秘的な姿、秘密でほぼ人跡未踏の部分が目の前に現われたのです。この授業で日本の美しさに触れ、私たちヨーロッパ人かが何を見習うべきかを理解できました。私は夢の国日本が、人間をもっと人間的にし、全世界を幸福と平和に導く階段、地と天をつなぐ階段を、遅くても一歩一歩上がる可能性を与えてくれる昔からの習慣と伝統を、依然として守っていると期待しています。」
   
 外務省はいろいろ言われているが、やはり外交はとても大切なことであるから、しっかりタフに頑張って欲しい。馬渕氏のように素晴らしい外務官僚がまだまだたくさんいるはずだ。ただ、冷戦が終わり、緊張が解け、昔ほど日米安保が磐石ではない現在、日本は毅然とした外交が出来にくくなっていると話されていた。

※最後に山際澄夫氏

 産経新聞の元記者で、現在は国際ジャーナリストとして活躍されている。新聞記者であった間、その会社を背負った肩書きが大変物を言っていたということに気が付かれたのだそうだ。つまり、どんな若い新聞記者でも、「○○新聞」です・・・と言えば、かなり大物の政治家でも取材に応じてくれるという。マスコミの力は大きい。マスコミが情報を歪曲したり、無視したり、煽ったりすることのウラをよく知っておられるから、強烈にマスコミ批判をしておられる。

 今回、田母神事件があった折に、「『歴史の解釈権を取り戻そう』ということでしょ、どうしてそういう人を護らないんだ・・・・」と大きな声で言われたのが印象的だった。なぜ産経新聞一社でも、全面的に護れなかったのかと思うと、悔しくて仕方ない・・・と話された。自衛隊とはかなり良好な関係を築いている産経新聞なのに残念だった。西尾先生が田母神応援のコラム「正論」を書こうと連絡したが、あの話は「打ち切り」ですと言われ、書かせてもらえなかったという話は後で西尾先生から紹介された。産経新聞、最近ちょっと変だが、やはりなくなっては困る新聞。

 産経新聞の社会的な大きな功績が三つある、と言われた。
一、「正論」路線を作り、保守派の論客にスペースを与えたこと
二、土光キャンペーンを張ったこと
三、教科書論争に参入したこと
だそうだ。

 それなのに最後までしっかり守ろうとしないのは残念だといわれた。社内ではつくる会内紛については沈黙だった。あれは社長マターだと言って、皆が口をつぐんでいた。一方的な情報が流布し、新聞社として問題を明らかにしようとしなかったのは残念だ、とも仰った。

 アメリカのマスコミ界は不偏不党ではなく、政治色を明確にしている。その点日本の新聞やテレビは中立を装っている。不偏不党のはずが、テレビは民主党を応援しているし、明らかに片寄っている。今の日本のマスコミは「強きを挫き、弱きを助ける」の反対「強いものに阿り、弱いものをいじめる」ようになっているので、その罪は深い・・・と言われていた。インターネットでマスコミとは違った切り口の情報が流れるようになった今、新聞、テレビが斜陽になっていくのは仕方がないことかもしれないと私も思う。

文:長谷川真美