坦々塾(第十一回)報告

濵田 實
坦々塾会員、元大手コンピューター会社に勤務

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坦々塾の記録(感想)     

日 時 平成20年11月22日(土)14~18時半

 今回のお話は、それぞれ内容も豊富で、記録の量も、いつもの倍はあったようです。この内容が知れ渡れば、日本人もGHQの洗脳から覚めるのではないかと思うほどに濃密なものでした。以下、私の感想というかたちでお話の内容、雰囲気をお伝えします。

● お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」

        足立誠之氏(元カナダ三菱銀行頭取、元三菱銀行北京支店長)

● お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」

        西村幸祐氏(評論家・月刊『激論ムック』編集長)

● お話の3 「私の人生と思想」

        西尾幹二先生(電気通信大学名誉教授・評論家)

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お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」 足立誠之氏

 出だしは田母神論文に関し、 ①日本侵略国家論 ②文民統制論 をおかしな動きとして縷々説明、「侵略論」の裏には村山談話にさえ無い何かが隠されているのではないかと私見を述べられた。またオバマ黒人大統領誕生に関し、何よりも国際連盟で「人種平等案」を提唱したのは他ならぬ日本であったことにも触れられた。

 氏は『閉ざされた言語空間』(江藤淳氏)や『GHQ焚書図書開封』(西尾幹二氏)を読むにつけ、食糧配給などで示したアメリカの「情報操作」を思わずにはおれなかったという。アメリカによる巧みな情報操作は、当時のいろはカルタにさえ「強くてやさしいアメリカ」などという表現で巧妙に情報操作がなされた。日本人の感覚では思いも浮ばないことである。

 渡米後遭遇した地下鉄大混乱(スト騒ぎ)では、大バリケードの光景をみて、アメリカ社会の姿にハッとしたという。それは「ガラス箱の中の蟻」を思わせるものであったそうだ(ガラス箱: 国民が目に見えない壁面のガラスを通して、投影された宣伝映画を見せ付けられているというイメージ)。その他、幼児の、ベランダからの転落死事件におけるアメリカ社会の対応を観察しても、戦後の我が国における「子供を自由にのびのび」とは正反対というお話を聞き、我が国社会は「当たり前」のことを戦後「奪われた」(戦前の日本にはあった)という思いを深くした。

 また氏は渡米して、今では当たり前のPOSシステムの前身を目の当たりに見て、アメリカ社会の戦略思考をまざまざと感じたという。かなり昔、ある雑誌でヤオハンの和田社長(当時)が、同社におけるブラジル等海外進出の動機はアメリカのスーパーチェーンシステムに刺激を受けたことであると読んだ話を思い出した。アメリカ社会を観る視点は徹底してその「戦略志向」にある。外国を学ぶとは、そういうことではないだろうか。私見であるが、日本人の外国の学び方、洞察の仕方に、深い疑義を抱いている。

 その他、イランにおける米大使館人質事件とその対応や、一発の銃弾もなしに人質事件が解決した背景に何があるのか? また谷内(やち)前外務省事務次官が、文芸春秋12月号コラム「霞ヶ関コンフィデンシャル」で当時、爆弾発言をされた話など、その背景に、アメリカの日本の潜在力に対する「脅威」が彼等の心に潜んでいるという興味あるお話もあった。この報告は面白いが長くなり、またブログで詳細文が載るとも聞くので、そちらを参照いただきたい。

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■ お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」  西村幸祐氏

 ジャーナリズムのあり方については、西尾先生が『諸君11月号』で彼等の根本姿勢を批判され、佐藤優氏の感想文が本ブログでも紹介されていることは、皆さんご存知のとおり。西村氏は具体的に、戦後言語空間で覆われ反日の構造を挙げられ、戦後日本人の間で進んでいる記憶喪失や情操操作、隠蔽体質等に、メディアの質の劣化が潜んでいると批判された。

 2002年(平成14年)の小泉訪朝以来、国民意識は変わっていないという。ある知識人は、当時、『諸君』、『正論』、『Voice』などの雑誌が元気付いた傾向をして社会の右傾化と評したが、むしろ、本当は「左傾化」であると指摘された。世の中一般は、何となく右傾化、という風潮があるようだ。この説明は、社会の裏側をよく知る人たちには、ある程度気付いていたことだが(=世の中、ますます酷くなっている・・という)、あらためて新鮮は印象を抱いた。

 それは、田母神論文に関連して、マスコミの一斉批判とレッテル張り、田母神発言封じや、浜田防衛大臣が統合幕僚学校の教育のあり方を見直す(「偏り」を直す)という発言がその傾向を象徴しているというように、現職の自民党大臣がトンデモ発言をする御時世になった。まさに左傾化、政府の没落化であり、物事をみる視点が希薄になったことでなくして何であろう、という印象を持った。しかしその後、田母神氏の姿勢は止まるところを知らず、全国から講演依頼がたくさんきていると聞く。

 国民一般の田母神論文に寄せる感想は圧倒的に支持する意見が多い。田母神氏はサムライとして、内容に隠し立てする必要もなく、正々堂々と正論を貫き通せばいいだけのことだ。きちんと田母神氏をサポートしてゆけば、そのうち言論封じをした政府、マスコミの方が、不利になることは確実である。中韓両国も、田母神氏があまりに堂々としていること、及び今まで中国政府における毒餃子事件反論など、デタラメ対応をみせてきたため、自ら墓穴を掘り、へたにやると日本国民から批判を受けるとして、今回日本を正面から批判できないでいる。今までと違った空気である。

 先の谷内発言のバックに「アメリカが存在する」という暗示を指摘されたが、今後どのように日本政府が将来を切り開いてゆくのかも気になるところである。

 国籍法改正案問題についても触れられたが、某テレビ局は「女子供」をダシにした違法行為是認の偏向、歪曲報道を行い、感情を表に出して法の世界に風穴を開けようと意図的に情報操作した。自分自身が番組をみて、怒りを感じたので、恐ろしい動きがあることを実感しながらお話を聞いた。メディアもたよりにならない。然らば、インターネット(Uチューブなど)やファックスによって、風穴を開けよう(実際その効果が出ている)という西村氏の意見は、現実になりつつあることを、あらためて感じた次第である。

 最後、西村氏は「歴史(事実)情報が忘れられている。原理原則を忘れている。それが常態化していることが根本問題だ」だとして、お話を締めくくられた。

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お話の3 「私の人生と思想」  西尾幹二先生

 社会の「左傾化」はそのとおりだが、先生はある意味、楽観もしているということであった。今の合唱は「断末魔のヒステリー」として、村山談話はアジアの贖罪をアメリカに向って発したもの、それは自己処罰と、アメリカに対する恐怖感に由来すると、さらりと言ってのける先生の思考スタンスが面白い。麻生首相がいつの間にか安倍氏と同じになった・・とも言われた。

 いま、先生はGHQ焚書問題にも力を入れておられるが、その関連で、昭和40年(当時29歳)の雑誌『自由』で当選した「私の戦後感」という論文主旨が今日の言論活動と一本線でつながっていることを、私自身が発見した。さらに言えば、中学時代の先生の日記にも、今にも通じる歴史に対する思考スタンスが萌芽としてあったと感じるのは、私だけではないと思う。その歴史思考を先生は、私見ではあるが、人生の問題としても捉えているのではないかと思う。

 戦後、進歩的文化人が陥った思考の泥沼は、単純に言えば、過去を「否定」し、その後を「肯定(是)」する姿勢、自分だけ救われようという自己弁護である。そういう卑怯な自分をこそ問うべきである。そういう悪を否定する勇気、女々しさを否定する勇気が必要である。考えてみると、西尾先生の論調には、すべてこの批評精神が悠々と、一貫している、ここが真骨頂と思うが、いかがだろう。

 昭和45年の三島由紀夫事件についても、縷々面白い、微妙なお話もされたが、これは新著『三島由紀夫の死と私』(PHP/西尾幹二著)に詳しいので割愛する。

 アメリカ問題に対しても、けっこう時間を割いてお話しされたが、アメリカによって与えられた平和主義が戦後日本の生き方になり、そこに疑義も抱かず、その構造を今の日本人が忘れている。それ自体が、「日本の病理」の全てであるという指摘は、まったく同感である。先生の数ある著書、ブログ文章にも、繰り返し触れられている論点である。

 「自己決定」を避けようという姿勢が、日本人の精神、思考をして稚拙化している要因と思われてならない。その他、サブプライムローンに発するアメリカ及び世界経済の行方、80~90年代の日米関係の振り返り、村山談話をどう見るか、についてもお話をされた。

▼ 最後に一言

 3先生のお話に関して、私(濵田)自身が正直どう受け取っているのか、ごく簡単に書かせていただきます。

 基本認識は正直、殆ど同じですから違和感はありません。私自身が言論の世界で昔から違和感を懐いてきたことは、日本がこれだけ長い歴史・伝統・文化を持ちながら、外国に「位負け」し、自らを貶める言論好きの日本及び日本人に大きな違和感を懐いてきました。私なりにかなりの本を読み込んできた結果、日本の歴史・伝統・文化に強い「信」を懐いております(ミスクソ一緒ではない)。その意味で坦々塾は居心地がいいのです。最近気付かせていただいたこと、それは「真善美」に悖る保守人・・秩序、礼儀を無視する保守人といってもいいでしょう・・、『真贋の洞察』を欠いた保守人、『身近にある危機』を感じない、あるいは知らない(知らぬ振りをする)保守人の不思議な存在です。ここに保守人の劣化、稚拙化、危うさを感じています。最後に日本民族のアイデンティティを確かめるため、『古事記』の(本質的な)世界にもっと入り込んでいいのではないか・・・と個人的には思っております。                            
   以上
文:濵田 實

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「アメリカの対日観と政策 “ガラス箱の中の蟻”」

 11月22日に行われた坦々塾での足立さんのスピーチの内容を紹介する。

足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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「アメリカの対日観と政策 “ガラス箱の中の蟻”」

<はじめに>

 過日アメリカ大統領選挙でのオバマ氏の当選では、日本の地方都市、小浜市の奇妙なはしゃぎぶりが報道されました。オバマ氏は北朝鮮との対話を提唱しており、それは拉致・核・ミサイル問題での日本とは大きく対立します。加えてこの地方都市から拉致被害者がでていることは周知の事実です。それなのにそうした点にマスコミは一切触れず、馬鹿騒ぎだけの報道です。

 又、防衛省の空幕長田母神氏の論文が政府見解と異なるとして同氏が更迭されましたが、これを巡る報道も専ら日本侵略国家論、文民統制論のみが書きたてられ、論文のどこが問題なのかの検証に基づく議論は皆無でした。

 こうしたことに、何か肝腎な議論が抜けている、避けられ隠蔽すらされていると感じるのは私だけでしょうか。

 この様な違和感は、この二つだけに留まらず、我国のあらゆる問題の底辺に横たわっているように思われます。本日はこうしたことが何に由来しているのかをお話したいと思います。

 さて、今、私が身内以外で顔を合わせる人は2人のヘルパーさん、歩行訓練士さん、市の職員、ご近所などですが、皆私に関心があるらしく、何かと声をかけてきてくれます。

 先般ルーペを頼りに西尾先生の「GHQ焚書図書開封」を拝読しておりました。

 リビングのテーブルの定位置に置かれた本が皆の目に留まり、色々質問を受けました。「何と読むのですか」「どんな内容ですか」。

 そこで私は逆に質問します。

 「第一次世界大戦後ベルサイユ会議が開かれ、国際連盟が設立されます。このとき連盟規約に人種平等を盛る提案をした国がありましたが、ある国の強硬な反対で廃案になりました。提案した国はどこで反対し廃案にした国はどこであったと思いますか」「アメリカで黒人が選挙権を得たのはいつだったと思いますか」。

 本日ご出席の皆様には先刻ご承知のことでしょうが、私の答えに周りは仰天します。それはそうでしょう。人種平等を日本が提案し、アメリカがそれに反対阻止したことも、日本では既に戦前から25歳以上の男子全員に選挙権が与えられていたのに、黒人に選挙権が与えられたのは、日本で20歳以上の全国民が選挙権を得てから久しい第二次大戦後20年近くもたった1964年であったことも初めて聞くことなのですから。

 私は、こうしたことが何故日本でしられていないのかを解き明かしたのがこの本ですと言うと皆関心を示し、「GHQ焚書図書開封」が私の周りで読まれるようになりました。

 さて本題に映ります。皆さん誰でも小学生の頃、ガラスの容器に土を盛り、蟻を飼育した経験をお持ちだと思います。私は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間 」、西尾先生の「GHQ焚書図書開封」に記されたGHQの検閲、焚書の実態をこうした「ガラス箱の中の蟻の国」のイメージで捉えております。

 蟻にされた日本国民に与えられる情報は蟻の餌に相当します。その情報は勿論アメリカの意向そのものです。その様子は、国民が目に見えない壁面のガラスを通して見ていると捉えているものは実はガラスに投影された宣伝映画そのものだった。そんなイメージです。

 私がこういうイメージを抱くきっかけはアメリカ生活からです。

 その前に小学生時代の二つの思い出からはじめさせて頂きます。

 私は昭和23年に小学校に入学しました。翌年の一学期の終業式の後、進駐軍から夏休みの「おやつの配給」が児童・生徒全員に配られました。中身はパイナップルの缶詰、干したアプリコット、レーズン、ビスケット、チョコレートなどでしたが、当時は食糧難時代ですから夢のようなものばかりでした。

 でも、配られたのは我々の学校だけであったこと、そしてナゼ配られたのか、またそれ以降二度と”配給”はなかったことに疑問が残りました。

 3年後の昭和27年のある日、学校から帰り卓袱台の上に置かれていたアサヒグラフのページを開き息をのみました。初めて目にした原爆被害写真でした。それまでも原水爆実験のきのこ雲のニュース映画は見ていましたが、このような日本人の凄惨な原爆被害状況を示す写真はそれまでただの一度も目にしたことはなかったのです。何故その時まで目に触れることができなかったのかということは大きな疑問でした。然し、この二つの疑問もその他の膨大な記憶に比べればほんの僅かなものです。

 日本で溢れる巨大な情報は「日本は間違っていた」は「アメリカは素晴らしい」「アメリカに見習おう」と言うもの一色で、何事も「アメリカでは・・・」で始まるのでした。

 そうした時代に育った私は1976年11月ニューヨークに赴任しました。

<アメリカの力の源泉>

 私は郊外の小さな町のアパートに住み、7時13分発の列車でマンハッタンのグランドセントラル駅に着き、そこから地下鉄でダウンタウンのオフィスへ通う。子供は町の公立幼稚園から小学校へ進学する。そんな生活でした。

 「ガラス箱」の話に焦点を合わせましょう。

 着任したときの担当取引先の一つにTandy Corporationがありました。

 主にエレクトロニクス製品の販売を事業とし、Radio Shackという小ぶりの店舗を全米に数千店を展開する優良企業でした。

 私はフォートワースにある本社で事業内容の詳細を入手しました。大筋は、毎日各店から商品別の売り上げと在庫が報告され、それがコンピューターに入力される。

 アウトプット資料を分析して売れ筋商品へのシフトをおこなう。販売不振の地域には広告を強化することもある。などなどでした。

 その後日本でも広まるPOSシステムの先駆的なものだったわけですが全体を俯瞰し、戦略的目的に沿った枠組み、システムを構築していくわけで正にアメリカの真骨頂であると感心したものです。

<アメリカの対日統治枠組みの原型>

 さて、「ガラス箱」を目の当たりにするのはニューヨーク着任から相当後のことです。地下鉄のストがありました。

 その頃日本では春闘が始まると国鉄の組合による順法闘争で通勤客は大混乱に巻き込まれるのが常でしたから、アメリカでも同じであろうと思っていました。が実際はまるでちがいました。

 スト初日、通勤経路は要所要所に灰色のペンキを塗った木製のバリケードが配置され、大勢の通勤客は川が流れるようにスムースにながれているのです。警官は少数でした。前日までに総てが用意されていたわけです。

 それは正に「ガラス箱の中の蟻」を思わせるものでした。

 戦後のアメリカによる我が国への占領政策はこれと同じ枠組みをとてつもなく巨大なスケールにしたものでしょう。

 彼等は日本国民を、目には見えないバリケードである方向に誘導し、映画のようなにバーチャルな世界を現実・真実であると信じ込ませたと考えられます。

<真実のアメリカ>

 日本国民に真実であると刷り込まれたバーチャルな情報イメージ内容もアメリカ生活で次第に浮き彫りにされてゆきました。

 ニューヨーク赴任当時、日本企業の本社からの派遣社員夫人が警察に逮捕される事件が起きていました。

 ベビーシッターを頼まず外出中に、幼児がアパートのベランダから転落死たことで、子供の保護を怠ったとして刑事犯として逮捕されたのです。

 子供の保護責任は親にあることは日本でも戦前の常識でした。だが今日同じ事件が日本で起これば、ベランダの欠陥が云々され、アパート側の責任が追求されて、親の責任は話題にすらならないでしょう。

 先年六本木ヒルズで子供がビルの回転ドアに挟まれ死亡しました。ビルオーナーとドアメーカーは世論の非難の集中攻撃を浴び、ビルオーナーとドアメーカーが親に補償金を払ったそうです。

 この話を聞けばアメリカ人やカナダ人は仰天するでしょう。

 北米で同じ事件が起きれば、余程の事情がない限り、親が逮捕されます。

 北米では一定年齢以下の子供を連れ外出した場合、子供が事故に合い死亡すれば、親は保護責任義務違反で逮捕され処罰されることになるのです。

 ですから外出する場合、親は子供が走りまわらないように子供の手をしっかり握るなどして必死になります。

 公共の場所で子供が走りまわるのを親が放置し、挙句は微笑みながら見ているなどの光景は、世界では日本だけの、しかも戦後だけの異状な現象でしょう。

 私の子供のアメリカの公立小学校生活は更に興味深いものでした。毎日国旗掲揚とアメリカを讃える歌をみんなで歌う。

 子供が担任の女の先生にいじめにあったと相談に行くと、先生は「戦いなさい」と教えたそうです。

 子供は日本に帰った後、公立中学校でいじめに苦労します。その学校では授業中に窓ガラスが割られる荒れた学校でしたが、一部の女の先生以外放置していたそうです。

 アメリカで「不正に対しては戦え」と教えられた子供は、今でも「日本の教育の最大の欠陥は”正義ヲ貫く”信念が欠如していることだ」と言いきります。因みに月刊現代2000年2月号の対談「だから大リーガーはやめられない」で野茂英雄氏は、バッターが汚いことをした場合にはピッチャーはデッドボールをぶつけても良い、という暗黙のルールがあると述べています。それで骨が折れても構わないのだそうです。

<アメリカの拉致事件=イラン人質事件とアメリカの指導者・国民>

 アメリカ生活で最も鮮烈な記憶として残るものは、アメリカの拉致事件、在テヘランアメリカ大使館員全員人質事件(以下イラン人質事件と略称)です。私のアメリカ時代はカーター政権と重なりますが、内政、外交とも失敗の多かった政権でした。

 同政権の唱える人権外交の影響もありイランでは反王政運動が激しくなり、1978年末にはパーレビー国王一家が国外に脱出、翌79年初めパリに亡命中であったイスラム教シーア派指導者ホメイニ師が帰国、イスラム革命が成立します。

 そしてアメリカとイランの関係は悪化し、11月にイランの過激派学生によりテヘランのアメリカ大使館員全員が人質となったのです。

 イラン人質事件が起きるとアメリカ社会は一変します。

 子供の通う学校では、毎日の国への忠誠教育に加えて人質大使館員全員の解放のお祈りを指導する教育が始まります。

 テレビではニュース報道の冒頭に必ず「今日で人質事件XX日になります」と告げるようになりました。

 特殊部隊による救出作戦も砂嵐で失敗します。パーレビー国王は亡命先のエジプトで死亡しますが人質事件は続きました。

 事件が起きた翌80年はアメリカ大統領選挙の年でした。選挙戦は現職のカーター大統領と共和党のレーガン候補の間で戦われました。

 マスコミ、特に日本の新聞は鷹派のレーガン候補ではなく現職のカーター大統領が優勢と報道していました。然しアメリカで周囲から受ける印象はまるで違いました。毎朝の通勤列車で同じボックスに座る3人のアメリカ人ビジネスマンの口振りからもそれが窺えました。ABC=Anybody but Carterという言葉が広まっていることも彼等から聞きました。

 テレビに映るレーガン候補はリラックスした様子で首を少しかたむけながら柔らかい口調で「私は当たり前のことを言っているだけです。何故タカ派と言われるのか理解できません」。イラン人質事件についての質問にも、ただ、「当たり前のことをするだけです」と答えるだけでした。

 大統領選挙の結果は、一つの州を除く総てでレーガン候補が勝つという一方的なものでした。

 年が改まり1981年初、新大統領就任式が迫っていました。そんなある日、一大ニュースが飛び込んできました。人質全員が解放され既に帰国の途上にあるというものです。

 全米が歓喜に包まれたことはいうまでもありません。

 学校でのお祈りも、テレビニュース冒頭の「今日で人質事件XX日になります」も昨日で終わりました。

 イランが大統領就任式直前に人質を解放した理由は明らかでしょう。

 レーガン候補は、「当たり前のことをする」と約束し、米国民はそのレーガンに白紙委任状を与えました。

 小学校から「不正に対して戦いなさい」と教育されてきたアメリカ国民にとり「当たり前のこと」の意味は明らかでしょう。イランもそのことは分かっていました。こうしてロナルド・レーガンは大統領になるその前にそれも一発の銃弾も用いず、アメリカ史上類例を見ない難問を解決したのです。

 日本は戦争後今日に至るまで、アメリカをまぶしいほどの民主主義国のモデルとしてきました。そして戦前の日本をその対極として徹底的に一掃しようとしました。

 だが現実に見るアメリカは、日本がモデルとしてきたものとは似ても似つかぬものでした。現実のアメリカはむしろ戦前の日本と共通のものを基盤としていました。

 それが最もはっきりとしているものは、”不正”への対応です。アメリカでは小学校から「不正に対しては”戦”いなさい」と教育されそれが国民にしみこんでいます。

 日本では「どんな不正が行われようと、絶対に戦ってはならない」と60年間教えられそれが刷り込まれています。その結果が、イラン人質事件と、北朝鮮拉致事件への対応の差です。

 一週間前の15日は横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて31年目に当たります。

 然し学校でめぐみさんの無事帰国を祈る教育を児童・生徒にしているところは皆無でしょう。この様な類例を見ない不正を日本国民はわすれようとしています。

 「どんな不正が行なわれようが、絶対に戦ってはならない」ということの帰結がこれです。

 国民性は確実に劣化しています。

<谷内発言で明かされた真実>

 アメリカは自国では「当たり前のこと」であっても日本にはそれを許さない。それが今日の日米関係の真実であることを端的に示す事実が文芸春秋12月号コラム「霞ヶ関コンフィデンシャル」に記されています。

 即ち、前外務事務次官であった谷内正太郎氏が、10月23日ワシントンで開かれた戦略国際研究所(CSIS)のシンポジウムで、安倍内閣の外務政務次官時代に、アジア太平洋の主要民主主義4カ国、日本、アメリカ、インド、オーストらリアによる戦略的対話構想をアメリカに提案し、又ASEAN+3(日・中・韓)とインド、オーストラリア、ニュージーランドにアメリカの参加による東アジアサミット構想を立案しアメリカに提案した。だがいずれもアメリカに断られたとし、アメリカは常日頃民主主義は大切といいながら日本がイニシャティブで提案すると拒否する。その理由が分かりません、との爆弾発言をしたと記し、更に、この勇気ある発言に会場は一瞬凍りついた、と記されています。

 この文芸春秋の記事は二つの重要な真実を明らかにしました。一つは、この程度のこと、内容はアメリカにとってもまっとうと思われることであっても日本がいいだすことは許されない現実が存在していること。

 もう一つは、こうしたことあるいはこの程度の発言が「勇気ある発言」「爆弾発言」と認識され会場を「一瞬氷づかせる」ものであったことです。

 つまりこうした内容の発言は日本側にはタブーであるとの了解が日米間にあること。そのことはマスコミ関係者も知っていた節があるということです。

 それはつまりマスコミにもタブーであったわけです。

 こうした事実が明らかになってくると、日米関係は今もって占領時代の関係、即ちアメリカが日本「をガラス箱の蟻の国」として観察し飼育、管理する状態が変わっていないように思えてきます。

<アメリカの対日観>

 それではアメリカが何故一貫して日本が、それが自国では当たり前に行なわれることであっても、日本がおこなうことを阻むのでしょうか。そしてそのことをなぜ隠蔽するのでしょうか。

 それは日本が手強い国、国民であると考え、かつて人種平等やアジアの国々の解放を求め、貧しい国々の経済発展をたすけたような”当たり前で真っ当な”しかし彼らにとってははた迷惑なことを再び日本が行って世界の中での存在感を高めて欲しくないと思うからでしょう。

 私自身、日本は凄い国であると思います。

 ニューヨーク赴任当時、Tandy Corporationに感心したことは既述の通りです。だが、アメリカから日本に帰ると、もっと凄いことが出来上がりつつあった。それはクロネコヤマトの宅急便です。その凄さは仄聞するところ、イラク戦争に際して米軍はロジスティクの枠組み・システムをクロネコ方式に依ったそうです。

 トヨタの看板方式、在庫ゼロ方式が、世界の製造業のシステムを大転換させたことも凄いことです。

 無駄にされていた天然ガスを開発、生産、輸送し、長期契約に結びつけた天然ガスによる発電は世界に20年先行しています。原子力発電の建設技術も世界をリードしている。

 こうしたことに見られる日本国民の潜在力にアメリカは脅威を感じている。それが彼等をして戦後今日までの対日政策の底辺にあるのです。

<広がる溝>

 日本国民がようやく世界の現実に気付いたのは金正日が拉致を認めたときです。

 然しそれはまだまだ甘いものでした。米国議会のいわばシンクタンクであるUSCCは03年7月に北朝鮮核問題をテーマとする公聴会を開催しました。

 そこでの議論では、北朝鮮の核保有はアメリカへの直接的な脅威にはならない、脅威はそれがテロリストに渡ることであるとのことでした。北朝鮮から核を買うことすら示唆する意見まで出たほどです。

 証人の一人は、北朝鮮の核保有は中国や韓国にも脅威ではない。脅威を受けるのはノドン100基(当時)のターゲットである日本である、と証言しています。

 だが、議論はここまででした。委員の一人が「この公聴会は日本のためにおこなわれるものか」と反問し日本の核武装が正当化されてしまうという事実が露見しそうになったためかも知れません。

 つい先月の10月、アメリカブッシュ政権は北朝鮮に対するテロ支援国家指定を解除しました。そうした可能性は既に5年前に内包していたわけです。

 元々北朝鮮問題=拉致・核・ミサイル問題での日本の立場はアメリカよりも遥かに険しいものです。

 アメリカに丸投げしてはならない問題でした。

 今回のアメリカの決定は、平和時にさえ我国の意向がとりあげられない日米安保体制が戦時に果たして日本の防衛に機能するのかという問題です。

 そろそろ結論を申し上げ負ければなりません。冒頭に日本人の原爆被害写真の衝撃について記しました。殆どの日本人と同様私も核には強いアレルギーを持つものです。然し、核の議論さえ我が国ではタブーとしてきたことが結局は米・ロ・英・仏・中の核保有を恒久化せしめ、インドやパキスタンの核保有をもたらし、今日の北朝鮮の拉致・核・ミサイル問題でデッドロックに追い込まれている原因を生んでしまったのではないでしょうか。

 北朝鮮が核を保有するならば、日本も同様な権利を留保する旨アメリカに示唆することで、アメリカは中国を誘い北朝鮮に強烈な圧力をかけたのではないでしょうか。日本の核武装だけは何としても止めたいわけであり、どうでもよいことではなくなるからです。

 小学生時代の「進駐軍からのおやつの配給」の理由について蘇った記憶があります。我々の学区の上級生が進駐軍のトラックにはねられて死亡した事件があったことです。今となっては「おやつ」とこの事件とつながりがあったのか証明の使用はありませんが、軍隊組織が無目的、善意である小学校に一回だけ「おやつの配給」などするわけはないことは当たり前でしょう。こうして見てくると、日米戦争は昭和20年8月25日に終わったわけではないことが分かります。

 日本は降伏したが、アメリカは自らの意思を日本に強制することをやめてはいません。私は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」が世に出たとき、これで日本国民は目覚める、日本は再起するとおもいました。然しそれから四半世紀後の今日も日本国民はアメリカの作った「硝子箱の中の蟻」の状態から抜け出せていません。

 今回の西尾先生の「GHQ焚書図書開封」は日本がガラス箱から抜け出す最後の機会ではないかとおもいます。
文:足立誠之

『この世 この生 西行・良寛・明恵・道元』解説(九)

 上田三四二の『この世 この生』の文庫解説が終わった。日録の読者であまり読んでいてくださる方はいないのではないか、と思っていたが、そうでもないらしい。
  
  若い友人の渡辺望さんが私信で、上田文学に接したときのご自身の記憶をつないで、次のような感想の一文を寄せてこられた。まず上田さんの作品を知っている人が、昔の私の文学仲間以外の若い人の中にいたのがうれしかった。
  
  本人のご了解を得て、私信をそのまま掲示させてもらう。

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渡辺 望 36歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

 拝啓 西尾先生

 だいぶ涼しくなって参りましたが、お元気でしょうか。

 ここしばらく日録にてされている、先生が上田三四二さんについての過去に記された評論を中心とした文章の連載を更新の度に読んでおります。いろんな感想が湧いてきましたので、一筆執りました次第です。
 
 私は上田三四二さんについて、彼が一番高く評価されている短歌の人としての作品は残念ながらまったくといっていいほど知りません。また彼の思索の中心である、今回の連載で先生が触れられている宗教論についても、大学生の時代に、彼の吉田兼好論を斜め読みしたくらいです。

 しかし彼の小説に関しては、大学生から大学院生にかけて幾つか読み通して幾つかの印象が残っています。当時、大学の一般教養課程での国文学の授業で、「私小説」がテーマだったのですが、教授が少し変わった作家の選択をする先生で、ふつう、「私小説」というと、志賀直哉や安岡章太郎を講義することがオーソドックスなのに、上林暁のような作家を題材につかうような先生でした。その先生がよく題材に使った作家の一人に上田三四二さんもいたのです。そのことで、上田さんの小説の幾つかを知ることになりました。だから上田さんは私にとって、読んだことのない作家というわけではないのです。

 日録での先生の上田三四二論を読んで、そののち、当時、私が読んだ上田さんの本を久々にひっぱりだして再読しました。そしてこれはたまたまなのですが、私は上田さんの本を再読したその日、モンテーニュの「エセー」がふと気になって、それを再読したのです。

本当に妙なことなのですが、再読する度に私の心を惹きつけてやまなかったモンテーニュの「エセー」の説く「死の哲学」についての数々の文章が、そのときだけかもしれないのですが、何も感じられませんでした。私にとって存在論的真実に迫ったモンテーニュの言葉のどれもが、まったく色褪せたものに感じられて、自分の感じ方の変わりように、首を傾げたくなりました。これは明らかに上田さんについてのいろいろを再読してそれに惹かれたことと連鎖反応しています。

 私が上田さんとモンテーニュを比べてみて感じたことを何とか整理してみると、次のようなことになると思います。
 
 「死」の先に何もない以上、死の瞬間まで死を想わないことが実はもっとも人間的な行為であるかもしれない、ということは西尾先生の死生観の基軸で、「自由と宿命」での池田俊二さんとの対談でもそのことをおっしゃられていますね。上田さんの文学や思想が西尾先生のその死生観の支柱の一つであるということ、しかもそれが無神論者のニヒリズムのようなものでない、独自の「優しさ」にみちた主張になっている作家として上田さんをとても高く評価されていることを、日録の先生の上田論、そしてその後の上田さんの本の再読したことによってよく理解できます。

 その上で、なのですが、「死を想え」というヨーロッパ哲学の巨大な前提と、「死を想わないことがもっとも人間らしい」かもしれないという上田さんの世界からよく導き出される思想の両極について、私達はどう考えればよいのでしょうか?

 「死に親しみ、馴れ、しばしば死を念頭に置こう。いつも死を想像し、しかもあらゆる様相において思い描こう」とモンテーニュは言います。しかし、モンテーニュの言葉を逆さまに読めば、「死」は親しみ、馴れ、想像し、思い描ける可能性をどこかにもってる、ということを言っているのだ、ともいえます。
 
 どうも、「死」はそこで「不可解」というあるいは「わからないもの」という名前の、一つの意味を与えられていて、何かの作為を許容してしまうことが有り得る、ということになっているのではないでしょうか。
 
 やはり「死の哲学」の強力な主張者であったハイデガーが、死の意味をナチスに預けて、その意味の操作に身を任せたことと、モンテーニュのこの言葉は無関係ではないようにも思います。あるいは日本でも盛んになってきているホスピスケア、「死の教育」というものがどこかでもってしまういかがわしさ、ですね。性教育のいかがわしさほどでないにしても、果たして「死」は教育に値するのかどうか、それこそが実体を虚構する作為ではないか、と私は思います。
 
 こうした「死の哲学」的思考は上田さんがとらない考えなのでしょう。人生の時間を線分的に切断するものにすぎない上田さんにとっての「死」は、「不可解」という意味さえももっていない存在です。ある意味でまったく単純に意味が定まっているもの、それがゆえに、死の意味の操作もありえないもの、それが死というものなのかもしれない、私は西尾先生の上田論から、そんなふうに思いました。
 
  こう考えれば、西尾先生が言われるように、上田さんが「死」論よりも時間論に執着しそれを語ろうとするのは、ほとんど必然的なことだったといえるのですね。

 上田さんにとって、時間の切断にすぎない「死」という単純明瞭なことより、切断されても流れ続ける「時間」の方が、遥かに巨大で、本当に考えられれるべき不可解さをもっていると感じられるからです。おそらく、ヨーロッパ哲学のような「死」から「時間」へ、ではなく、「時間」から「死」へ、問いが逆転している。死が無意味なものである以上、「死への認識」ではなく、「時間への認識」が、思索にとっての最大の課題にならざるをえないのです。
 
  たとえば、「花衣」という小説、これは一読すると主人公の中年男性が、今はこの世になき女性・牧子との情事を回想する小説ですが、これらのことを承知した上で今読み返してみて、「時間」の主題がおそろしく明瞭に溢れていて、先生の上田さんの良寛論への指摘と重ね合わせて考えて、まったく驚いてしまいます。昔読んだときは一つの私小説として思われ読んだ小説群が、西尾先生の日録の上田論を読んだ後ですと、「哲学小説」にさえ思えてきました。

 美しく描写される染井吉野の散り様や、二人の情事の場面の背後に、世界を危うくする時間がひしひしと迫ってくる。「今まで堪えていた時の流れが堰を切って」というくだりもあります。特に二人の情事の後、牧子のヘアピンを抜く音が執拗に語られることに私はあっと思いました。昔読んだときはさして気にならなかった箇所です。執拗な描写ののち、「・・・・・・一つの音はそのあとの静寂に、次の音を誘う期待をこめているかと思われた」とあります。

 「線分的時間」にしか私達の人生が過ぎないのだとしたら、来世を信じるという人間に負けないように救済されるにはどうすればよいのか。このことが上田さんの世界について考える一番の大きな意味でしょう。西尾先生が上田さんの時間論が宇宙論的視点にまで拡大されて語られている、といわれますが、つまり「瞬間」と「永遠」を等価におくことのできるような精神的な認識行為が必要になります。時間を超えて際限なく広がっていく「永遠」を何かに閉じ込めなければならない、のですね。

 「茜」という作品では「時間の凍結」という言葉がありますが、つまりそれは「永遠
」を「瞬間」に閉じ込めるような激しい行為の比喩に他ならない。そして凍結を終えた後、それをささやかに楽しむ「和らぎ」も可能になる。上田さんは吉田兼好の「つれづれ」とは、そのような「和らぎ」であった、といっています。

 「時間の凍結」と「和らぎ」の行き来こそが線分的時間にしか過ぎない人生の救済たりうる。線分的時間の「線分」が時間という「永遠の線」に飲み込まれないで、枯れた滝壺の比喩を私達が受け入れることができるかもしれないのです。「花衣」での「ヘアピンを抜く音」は時間の凍結に他ならず、「次の音を誘う期待」とは、その凍結が解けた「和らぎ」に他ならないのでしょう。これはおそらく、ヨーロッパ人の書けない小説なのではないでしょうか。

 先生は上田文学の「優しさ」を言われますが、それはこの「和らぎ」なのだ、と思います。その優しさが芯のとおったものなのは、「時間の凍結」という精神的行為の段階に上田さんが徹底しているからでもある、と思います。この両者があってこそ、「枯れた滝壺」の比喩は、ニヒリズムから救い出されます。ヨーロッパ哲学でニヒリズムを主張する「死の哲学」者は、ファシズムに傾斜したり狂人になったりする人間が少なくありません。「時間の凍結」しかないからです。しかし上田さんが取りあげる日本史上の来世否定論の人物の多くはそうした狂乱には至らない。そこにはこの「和らぎ」の有無がかかわっている、私はそう思います。

 私は正直言って、日録の先生の上田さんについての文章の連載に触れるまで、上田さんという作家は比較的地味な作家だと勝手に思い込んでいました。しかし、先生の読み解きのおかげで、大袈裟な言い方になってしまうかもしれませんが、ヨーロッパ哲学の根源へのアンチテーゼということまで考えうるものが彼の作品の世界にあるのだ、と知ることができました。

 私もまた、死後の世界の意識や実存をほとんど信じることのできない人間ですから、上田さんの精神的格闘は無縁ではありません。無縁でないどころか、自分に身近な思考として、学ばなければならない対象だったようです。たとえば自分がまず生きていないで「無」になってしまう22世紀の日本や子孫のために語り考えることはどうして可能なのだろうか、ということは、私にとっていつまでも大問題です。そんな自分の考えるべき方向についてまた一つ資するところを与えてくださった先生の日録の連載に感謝の言葉と感想を言いたくて、文章をしたためました。

 長い文章になってしまったことをお詫びいたします。

 季節の変わり目、お体の方、くれぐれもご自愛くださいませ。

                                           渡辺望 拝

坦々塾報告(第十回)(二)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 71歳

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(4)
 さて、冒頭に、あえて2年前の坦々塾の発足時と、今回の「つくる会」総会とを対比したのは、2年前は、ちょうど西尾先生の「『小さな意見の違いは決定的』ということ」という文章が「日録」で進行中であり、今回の勉強会の「保守運動の再生と日本の運命」というテーマは、西尾先生のこの文章にまで遡ってみる必要がある、と筆者は考えたからである。

 西尾先生のこの文章は、60年安保時代の印象的な場面から始まって、今日の「保守主義者」の政治行動を、当時の「左翼」の政治主義になぞらえて非難するところに繋がってゆく。その論旨は、西尾先生ならではの鋭さに満ちているが、今一歩、真の病巣に論理のメスが届いていないのではないか、というような歯痒さをも心底に残してきたのである。

 それは、安倍政権成立に向けて権力にすり寄ろうとする傾向と、安倍氏の側からの教科書問題等に対する介入については、多くの批判が割かれているのに対して(ただし、そのうち後者については過大評価といわざるをえない。)、当時、西尾先生は、安倍政権を待望すること自体にも批判を向けられていたのだが、それにしては、安倍政権を積極的に形成しようとする動きそのもの(それは、権力に「すり寄る」こととは区別されるべきものである。)に対する批判が不明瞭であったことによるのではないだろうか。

 先生は、右派の「政治主義」に対しては、「もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党を作る方が、筋が通っている。」という根本的な批判をされているが、その批判は、政権獲得に類する安倍支援の活動にこそ、最も厳しく向けられるべきではなかったか、と考えるのである。

 しかし、ここで先生のこの文章の検討に立ち入ろうとしているのではない。それでは坦々塾勉強会の報告という範囲を逸脱してしまうからである。ここでは単に問題を提起しているに過ぎない。

 ただ、今までそれほど特別視することなく読んできた次の文章も、先に岩田氏の「保守主義」論を肯定的に捉えるとすれば、いやが上にも眼に突き刺さるように飛び込んできて、改めて考えざるを得なくなる。(勿論、岩田氏の「保守主義」が「政治的集団主義」を意味するものでないことは自明である。)

引用――

「どうも保守主義と称する人間にこの手の連中(引用者注:「大同団結主義者」)が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。」(「『小さな意見の違いは決定的』ということ」)

(5)
 平田氏の話の中で、日本においては、権力やシステム論が必要なときに、道徳論に入り込んでしまう傾向がある、という例として、藤原正彦「国家の品格」がベストセラーになったことを挙げていた。そこで、念のため、同書に目を通してみた。

 その結果分かったことは、「国家の品格」は、道徳論の本というより、どちらかというと、むしろシステムを論じている本なのである。近代的合理主義を批判して、論理唯一の立場を否定し、情緒の重要性を強調している。結論として、武士道・道徳論を説いているのである。

 藤原氏は、5ページ以上にわたってデリバティブを説明・批判し、今日のサブプライム問題のような金融破綻の發生を予言している。とても「天皇・靖国・大東亜戦争」の3点セット保守などの及ぶところではないのである。

 「国家の品格」に強いて難点を挙げれば、民主主義を支える「真のエリート」の必要性の説明があまりに直接的で、もっとフィクショナルな説明をすべきだ、ということを感じる。第二に、中国との戦争について、スターリン・毛沢東の策謀を認めた上になお、日本の道徳的誤り(侵略)を批判していることであろう。

 平田氏の論点を否定するものではないが、「国家の品格」が売れて読まれたことは、とてもよいことだと思う。坂東真理子「女の品格」などと比較されるべきものではない。(後者については、西尾先生の批判しか読んでいないのであるが。)

(6)
 平田氏の、昭和30年代のシステムの改革に失敗したことが、今日の大きな問題である、という指摘は、今後の最も根本的な研究課題であろう。政治的にはいわゆる55年体制ということになるが、経済的には高度成長を支えたシステムを、国民生活の向上や社会構造の変化、国際化・グローバル化などに応じて、適切に転換できなかったことが、幾多の負の遺産を抱える結果になってしまった。

 安倍内閣の成立から退陣に至る過程の総括は、保守運動にとって喫緊の課題であろう。(筆者は、安倍政権は、本質的に「期待すべき保守政権」というより、「小泉後継政権」としての意味が大きいと考えてきた。)

 「日本会議」的保守の問題は、その全貌が私にはよく分からないところがある。「つくる会」の活動にとってのみならず、平田氏の人権擁護法案反対の活動の前にも、日本会議が立ちはだかっているようであり、保守運動にとっての存在の大きさを感じるが、充分な議論と研究が必要であると思う。

 今回は、挫折した保守運動が再生に至る中間点、踊り場に相当するところに位置するのであろう。再生に向けての諸問題の坩堝とも言うべき会であって、その全体を鳥瞰することさえ、筆者には手に余る。断片的な感想に止まったことをお許し頂きたい。

 最後に、広い視野と厚い知識、豊富な情報量を基礎に、縦横に刺激的な問題提起をして下さった、平田文昭氏に、改めて感謝申し上げます。

(了)

坦々塾報告(第十回)(一)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 71歳

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坦々塾第10回勉強会報告(平成20年8月9日)
                                     
 坦々塾最初の集まりは、約2年前、平成18年9月10日だった。安倍内閣成立の前夜で、「つくる会」の騒動もほぼ大勢が決していた。八木秀次氏を会長とする、教育再生機構が発足しており、以後しばらく「つくる会」と「機構」との間の人事・組織の混乱はなお続いていたように思うが、ことの「正邪」については、既に決着していた。

 今回の勉強会の1週間前に「つくる会」の総会が終わったところで、そこでは、自由社版「新しい歴史教科書」の検定本が文科省に提出済みであり、対して「教科書改善の会」の新教科書の編集は検定に間に合わず、つまり教科書編集に関する限り、「つくる会」の「勝利」が明白になったのである。

 しかし、大会での質疑を見ても、保守運動全体における混迷はなお残ることは当然予想されるところではある。

 そのような状況下、坦々塾の勉強会のテーマと講師は次の通りであった。(敬称略)

    国家中枢の陥没      西尾 幹二
    保守概念の再考      岩田 温 (坦々塾メンバー)
    保守運動の挫折と再生  平田 文昭(外部招待講師)

(1)
 福田内閣の姿・その所作自体が、国家中枢の陥没を表しているようなものだが、西尾先生の話の中心は、保守言論の閉塞状況である。

 マスメディアの広告主・上位数千社が中国ビジネスに関わっており、従って、そこでは本質的な中国批判はできない。

 「文藝春秋」は、かつては「朝日新聞」に対抗する主要メディアだったが、知らず知らずのうちに「左方」に移動し、中性化・無性格化しているように見える。「諸君」さえもそれに引きずられている。「正論」、「WiLL」、「Voice」、「SAPIO」、「月刊日本」などが保守メディアとして存在しており、「激論ムック」のような新しいメディアも登場しているが、果たしてそれらは、ガス抜きとして許される以上のものなのだろうか。

 最大の問題は、政治家による然るべき発言が全く途絶えていることだ。北朝鮮の核武装をほとんど容認するが如き6カ国協議が進展しているにも拘わらず、わが国の安全保障や日米同盟の前途についての議論は、寂として起こらない。それは、言ってもどうにもならないと諦めているのか、何らかの圧力に屈しているのか、そもそも無関心なのか。――筆者には、その三つの全てが当たっているように思われるのだが。

(2)
 平田文昭氏は、一年ほどドバイに滞在し、帰国してみると、日本は何と情報閉鎖空間であることか、という。国内にいる我々にとって耳の痛いところだが、日本に入ってくる画像情報は、ほとんどアメリカからタイまでの空間のものであり、シンガポール以西の情報は少ない。しかも、それらはもっぱらアメリカによって提供・管理されている。

 中近東からシンガポールまでの、西アジア世界における日本の存在感は、希薄である。一方そこでのインドの存在感は巨大だが、そのような情報は日本にはほとんど伝わってこない。この地域の情報を圧えているのは、旧宗主国イギリスであり、BBCの影響力が大きい。もしお金があって、アルジャジーラの提供する画像情報をそのまま日本に流すことが出来たら、そのような情報の壁を破れるのだが、というのが、平田さんの壮大な感慨である。

(3)
 岩田温氏の話には、思わず聞き耳をたてるところがあった。

 西尾先生は、保守的態度、というものはあるが、保守主義というものはない、といわれるが、岩田氏の立場はそれに反対だ、というのである。西尾先生は、岩田氏達の発行する「澪標」に寄稿してそう述べておられるのだが、岩田氏の主宰する団体は、堂々と「日本保守主義研究会」を名乗っている。一体どうなっているのだろうと、気になっていたところではある。

 保守主義とは、たんなる現状維持ではない。それは現状維持を超えた、あるいは岩田氏は保守イデオロギーを超えた、という言葉を使っていたと思うが、そういう思想、超越的な何ものかが必要であり、保守主義とは、それによって国体を守ることである、という。

 そして続ける。――そう考えることによって、保守主義は、融通の利く、柔軟なイデオロギーとなる。――何となれば、国体についての考え方は、唯一絶対ではなく、多様だからである。

 この考え方は、筆者にとっては、極めて得心のいくものであった。

 天壌無窮の詔勅によって直接形成された国体、という考え方もあり得るが、近代的な国体論ならば、神話に淵源を持つ天皇が歴史的にその立場を確立し、またその天皇を中心として、さらに統治制度が発展してきたと考える。近代国民国家は天皇の名の下に形成され、それは立憲君主制として民主化の道を歩むが、一時期戦争によって、その歩みは停滞し後退する。しかし、占領下においては、その歴史の連続性は強制的に断絶され、戦後民主主義が導入された。――従って、歴史と伝統に立脚し、国家の意義を尊重する保守派ならば、その歴史の継続性を回復し、国体を保守することをもって、自らの任務と捉え、保守主義を名乗る。――筆者は、そのように解釈する。

 いつの時代にも通ずる、万国共通の保守主義なる概念はあり得ない。そのような概念は、具体的な歴史・伝統を尊重する保守的態度とは、相容れないからである。それに反して、上記の保守主義は、今日・現代、この日本の保守主義として、全く相応しいものと考える。

(3-2)
 たまたま、本日8月15日付「産経新聞」『正論』欄に、櫻田淳氏が、高坂正堯氏を引用して、「自分の過去の実績に基づく安らぎと自信」こそが、保守主義の基盤である、という趣旨を述べている。それは、現状維持主義とは言わないが、完全に現状肯定主義以外のものではない。

 特に、戦前を体験したことのない若い世代にとって、戦前の歴史は、それが自ら経験し達成した結果ではあり得ないから、それへの回帰を主張することは、観念論のレッテルを貼られ、否定される。すなわち、戦前の歴史との継続性を回復する経路は閉ざされてしまうことなのである。

 それは決して保守主義ではなく、ただの戦後民主主義礼賛ということになろう。

 真の保守主義者が、主権回復といった実際的課題に立ち向かう場合には、上のような自称保守の戦後民主主義者よりも、むしろ常識的な範囲での伝統や歴史を尊重する進歩主義者の方が、よりよき政治的同盟者になりうるだろう。

つづく

WiLL8月号感想

小川揚司
坦々塾会員 37年間防衛省勤務・定年退職

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 西尾幹二先生

 前二篇の御高論も勿論のことながら、「WiLL」8月号の今回の御論は、格調高く、かつ平易・簡潔に説かれた「国体論」として一入に感慨深く拝読しました。視界大いに開け、どれほど多くの心ある読者、尋常な国民が共鳴をともにしているであろうかと、感銘いたしているところです。

 西洋において現実の差別の歴史への否定から出てきたイデオロギーとしての「民主主義」や「平等」の観念(建前)や、東洋において中国の歴史に如実に繰り返されている差別支配の桎梏と較べ、吾が国の「天皇と国民、国家社会」の歴史は何と麗しいものであるのか、「公正の守り神」として無私に徹し給う天皇と、それに対する国民の宗教的信仰心が相俟って、現実のものとして築き上げ営んできた吾が国の歴史のこの真実を、東洋・西洋の諸民族、諸国民がもし正確に理解したとすれば、どれほど羨望の的となることであろうか、にもかかわらず、明治以来、吾が国の指導層を占めてきた洋魂洋才の日本人自身によって、この誇るべき国柄と歴史が如何に歪められ抹殺されてきたのか、先生のこのたびの辞立に啓発され、今あらためて深く噛みしめております。

 就中、先生の「五箇条の御誓文」に関する辞立と憲法改正の中核に関する御提言は、平成における国体論の至言であると考え敬意を表し上げる次第です。
 
 明治記念絵画館に列挙される明治天皇御生涯の絵画の中の「五箇条の御誓文」には、明治天皇が皇祖皇宗を祭り給う後ろ姿と、その背後に威儀を正し頭を垂れる百官の様子が格調高く描かれており、天皇が無私の精神によりなお慎み深く次元の高い存在に連なり、その聖徳を背後に連なる国民に及ぼし給ひ、そして百官が国民を代表してその天皇を畏敬しかつ恭慕する姿を白描したものとして印象深く心に留めておりますが、先生のこのたびの玉稿を拝読し、絵画館のあの絵画をありありとまなかいに浮かべながら、拙い感想を書かせていただいたところでございます。

   小川揚司 拝

GHQ焚書と皇室

足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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 西尾幹ニ先生

 拝啓、過日坦々塾では超ご多忙の中,目の不自由な私のためあたたかいお心配りを賜り有難く厚く御礼申し上げます。

 今回の坦々塾での先生のお話は日本の将来を左右するものと考え以下拙論を申し上げます。

 10日のお話は短い時間でしたが、100年の歴史で最重要なものだと感じました。
 
 個人的な考えですが、大東亜戦争は、開戦以前、昭和16年12月8日から昭和20年20年8月15日まで、終戦以降今日にいたるまで、と三段階に分かれると考えます。大東亜戦争、日米戦争はこの第二段階であり日本は敗れますが、第三段階でも米国は兵器を変えた戦争を継続し、それは続いている。日本は戦争に敗れて更に徹底的に洗脳され日本人のidentityは破壊されつつあり日本は崩壊しつつあります。

 こうして第三次日米戦争は最終段階を迎えつつあります。GHQの検閲の実態を研究し「閉ざされた言語空間」で明らかにしました。第三次日米戦争の反撃のチャンスでしたが、十分な反撃の成果までにはいたらなかった。

 先生の「GHQ焚書」は第三次日米戦争に日本が勝利し、日本の歴史と国の形を維持することに成功する、それは第一次から第三次日米戦争を通じての勝利につながると考えます。
 
 ローマは二回のポエニ戦争に勝利したあとカルタゴを非軍事の国としましたが、それでも安心できずに第三次ポエニ戦争で徹底的に殲滅し僅かに残るカルタゴの土地には塩をまき不毛の土地にし、カルタゴは完全に抹殺されました。

 「GHQ焚書」は第三次日米戦争勝利の最後の武器となるものです。
 
 之に敗れれば日本人の精神は塩をまかれて不毛になったカルタゴの土地と同様になります。日本人を「ガラス箱の中の蟻」の状態にし続けたものは米国だけではないでしょう。中曽根康弘始め多くの自民党政治家までが第三次日米戦争では敵に回った。独ソ戦でソ連の最大の脅威はドイツ軍に加わったソ連軍捕虜だったそうです。政府、官僚機構を含めていたるところで「米国への投降兵」「シナへの投降兵」があらゆる汚い手を使い反撃してくるでしょう。

 [GHQ焚書]が世に知れ渡れば彼等の過去は否定されるからです。彼等に最も好ましいことは「GHQ焚書」が世の中から無視され、一部保守層に留まることです。それを排除していくことで国民に「GHQ焚書」を常識として浸透させることが第三次日米戦争での勝利、第一次から第三次までの日米戦争勝利に連なります。

 阿川弘之氏は「春の城」で日米戦争の開戦に「この戦争ならば体を捧げてよい」と思ったということを主人公(阿川氏自身)の言葉として記していますが、この第三次日米戦争に私も同じ気持ちです。「GHQ焚書」で負ければ本当に後はないでしょう。

 皇室問題、皇太子妃問題については弟にWiLLの5月6月号のお説と読者の感想を読んでもらいました。

 多くの国民は週刊誌などから伝えられる断片的な情報に何が本当の問題かは判らずに、ただ「何かおかしい」と感じていただけのことだったでしょう。

 先生の論文は国民に衝撃を与えました。この問題の本質が国のあり方に係わる深刻な問題であることを示され国民は粛然とした気持ちにおそわれたのではないでしょうか。敢えて発表された勇気に多くの人が感銘を受けたのだと思います。女帝・女系問題の際には多くの議論がありましたが、今回は右翼、左翼を含めてセキとして声なしの状態がそれを物語っています。

 この世の森羅万象は合理を越えたものでそれを狭い合理や言葉の中に封じることはできません。
 
 たとえとして適当かどうかはともかく音楽は最初に曲が生まれる。楽譜はそれを何とか記号で記録するものです。

 皇室の存在は文字や合理で説明でくるものではないのでありそこに価値があるのではないでしょうか。

 東アジアで日本だけが西欧に匹敵する文明を誇るにいたったのはここにあります。これも例として適切かどうか分かりませんが、日本は「人事を尽くして天命を待つ」という国体であったのではないでしょうか。その祈りを司ってこられたのが歴代天皇であると考えます。
 
 繰り返しますが、先生の論文の前に世の中は「シーン」となりました。日本が再生した場合、この論文はその魁となったものとして残ると存じます。

 退変乱暴な議論で恐縮ですが、引き続きご指導賜りたくお願い申し上げます。 

                    敬具   足立誠之拝     

坦々塾報告(第九回)(三)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 70歳

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 最後に、田久保忠衛先生のお話となりました。

 田久保先生と言えば、小川揚司さんの言うとおり、外交・安全保障問題の権威として、常に大所高所に立って、バランスのとれた正論を、堂々と展開していらっしゃる。まさに、時宜に適したお話が期待できます。

 実は、田久保先生は、5月13日付『産経新聞』のコラム「正論」の「『胡訪日』以後」というシリーズの第一弾として、「日米同盟と中国の微妙な関係」と題する一文を寄せておられます。
 先生の演題は「最近の国際情勢と日本」ということですが、そこで語られた情勢分析の部分は、『産経新聞』のコラムと重なる部分がありますので、そこには収まらない、先生の思いや、私どもにアピールされたことを中心にまとめてみたいと思います。

 冒頭、先生は、自分は米国に対する批判は人一倍強いのだ、とおっしゃいました。
 西尾さんの対米批判を読んだりすると、すぐにでもアメリカ大使館に抗議に行きたくなる。そこを抑えて冷静になって、「外交上アメリカと対立してはならない。」と自分に言い聞かせる。外交とは、”How to survive.” だからだ、というのです
 ややもすると、(保守派の)反米主義者は、紳士的で論理的整合性のある先生の論調を誤解し、親米一辺倒・対米追随であるかのように批判します。それに対して先生は、逐一丁寧に反論なさるのですが、その反論がまた紳士的かつ論理性を重んじているために、批判者に痛痒を感じさせないということがある。
 そんなとき、悔しい思いを禁じ得ないのですが、先生の上記のお話を伺い、胸のつかえが取れた思いがします。

 先生は26年間時事通信社に勤務され、退職後、ほぼ同期間の研究生活・評論活動を続けてこられたそうです。
 時事通信社では、本土復帰前の沖縄那覇、東京、ワシントンの各支局に勤務されました。その経験を通じて得られた教訓は、アメリカの外交は全世界を通じて展開しており、アメリカを理解するためには世界中を見ている必要がある。反対に、世界を理解するためには、ワシントンに観測の軸足を置かなければならない、ということです。
 
 那覇勤務の頃、佐藤政権は沖縄の本土復帰を、ニクソン=キッシンジャー外交は中国との関係改善を(中ソ対立の中で、敵の敵は味方の論理で)、それぞれ模索していました。
 アメリカは、中国に関係改善を望むシグナルを、様々なルートを通じて北京に送っていましたが、最後の決め手は、沖縄基地からの核撤去だと考えていました。
 アメリカは、シグナルの一つとして、台湾周辺の第七艦隊のパトロールを3分の1に減らすことを声明しました。
 また、中国渡航者の現地でのドル使用の金額制限の撤廃を声明しました。その記者会見に田久保先生は出ていたのですが、隣にいた筑紫哲也氏が、「ニクソンは旅行会社から賄賂を受け取っているのだ。」といったというのです。何とも頓珍漢で独りよがりの内向き議論か、という笑い話。
 一方、佐藤政権は、核抜き本土並み返還が目標。しかし沖縄を含む日本の安全保障のためには、沖縄に核がある方が有利。その核撤去を最も喜ぶのは北京に違いない。しかし、アメリカは、中国との取引の切り札として、沖縄の核を撤去しようとしている。
 佐藤首相は、ワシントンを訪問して、沖縄の核撤去をニクソン大統領にお願いした。ニクソンはその本心はおくびにも出さず、それを拒否した。
 田久保先生曰く、ニクソンはキッシンジャーと二人で大笑いをしたことだろう。
 もし、佐藤さんが、沖縄の核は撤去しないでくれ、といったら、ニクソンは窮したに違いない。キッシンジャーに、日本が沖縄の核撤去を承知するよう説得させただろう。
 そうすれば、日本は核撤去の代償に、どれだけのものを得られたことか。

 この話は、日本の保守政権が、まだまだしっかりしていた時期におけることだけに、考え込まずにいられません。

 ブレジンスキーは、日本を「被保護国」といったことについて、日本を侮辱しているとして非難される。確かに、日本をモナコやアンゴラ並み扱っているわけだから無理もないが、しかしよく考えてみると、彼は如何に日本の現状を正確に捉えていることか。(ブレジンスキー侮るべからず。)

 モンデール大使が、尖閣列島がもし攻められたとき、アメリカは日米安保を適用しない、といった廉で非難する向きがあるが、それも、モンデール氏の言うことが当然ではないか。何となれば、尖閣列島は日本の領土、それは日本人が守るべきものであって、そのためにアメリカが血を流す筋はない。

 上記2点は、先生の何とも痛烈な逆説、しかもハッとさせられる指摘です。

 台湾問題。
 馬英九は、天安門事件を非難している。(チベット問題で北京を非難したことは周知の通り。)
 宮崎正弘さんが、馬英九はアメリカの意向に忠実に沿っている政治家であり、北京に靡くことはない、と補足。
 西尾先生から、馬英九は大丈夫、と聞いて安心した、というコメントがありました。
 馬英九に対して北京は表だった批判はしにくい関係にあるわけですから、日本としては、有力政治家・政府関係者が非公式に接触する機会を多くもち(しかも正式就任以前には出来るだけ大っぴらに接触し)、日台関係強化の既成事実を積み上げるチャンスとすべきではないだろうか。

 アメリカ大統領選挙について。
 民主党候補はオバマにほぼ決定。
 レーガン的=ブッシュ的な、善悪判断(モラル)に立つ保守派で、ストロング・ジャパン派の共和党マケイン有利、という先生の「希望的観測」は、みんなを喜ばせ力づけてくれましたが、アメリカの選挙結果の如何を問わず、ストロング・ジャパンへの歩みを強めなければならないことは、言うまでもありません。

 最後に、日米同盟といえども、それは「政略結婚」。同盟関係に「恋愛結婚」はありえない、という指摘。
 その上に立って、先生が日頃強調されている、「民主主義、人権、法の支配」という「日米共通の価値観」という考え方に、私は全面的な支持を送りたいと思います。
 日本人が命をかけるべきものは、日本の歴史と伝統、日本文明の中にあるのであって、日米共通の価値観とは、その一部・その表層に過ぎないことは当然です。しかし、表層的とはいえ、価値観における共通性の意味は重要である。
 アメリカにしても、その共通価値観にそれほど忠実であるとは限らない。その場合、日本として、逆にアメリカにその共通価値観の遵守を迫ることが重要である。(特に、アメリカの対中・対北朝鮮宥和が前面に出たり、台湾の自立を抑制しているような今日において。そうしてこそ、初めて対等な同盟になりうる。)
 その「共通価値観」の延長上にあると思われる、麻生さんの提起した「自由と繁栄の弧」といったスローガンは、その内容実体は兎も角、中華帝国正面に対峙する我が国の戦略的立場を支えるものとして、過小評価してはならないと考えます。

 順序は前後しましたが、西尾先生のお仕事について。
 「GHQによる『焚書』図書」の出版については、日録でも報じられていますので省略します。6月には出版されるそうなので、待ちたいと思います。
 それに関連して、田久保先生が、先のお話の中で江藤淳氏に触れています。
 アメリカで『閉ざされた言語空間』の執筆準備期間中のこと。GHQの憲法案起草の中心人物・ケーディスに面と向かって、言論統制について非難の言葉を浴びせた時、その場に立ち会ったのだそうです。そのときの江藤さんは本当に偉かった、尊敬している、とおっしゃいました。

 西尾先生のお仕事は、常に政治と関わりを持ってきました。これからもそうでありましょう。
 高校時代にも、哲学・文学を目指しながらも、「講和条約の欺瞞性」といったレポートを書いて、「一般社会」(社会科の一科目。)の先生にほめられた、というエピソードを、ご自分から紹介されました。
 思想と政治、その関係、西尾先生にとっても坦々塾にとっても、それは今後とも、引き続き重要問題でありましょう。

 懇親会は、初めて立食パーティ形式。アッという間の充実した2時間でした。
 ただ、私としたことが、このようなレポートを準備する立場にありながら、田久保先生にご挨拶もお話もせずにすませてしまった失礼が、心残りでありました。

 次回は8月、再会を楽しみにしております。

 おわり

文:等々力孝一

坦々塾報告(第九回)(二)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 70歳

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 次に、小川揚司さんのお話です。

 小川さんは、冒頭、正面の田久保先生に、外交・安全保障問題の権威であられる田久保先生の前で、このようなお話が出来ることの光栄を述べ、田久保先生はそれに応えて頷いておられました。

 小川さんの話のレジュメは、

 1.防衛庁・自衛隊での勤務の経歴
 2.防衛省・自衛隊が抱える根本的な問題点
 3.防衛政策(防衛構想)の根本的な問題点

 と、大項目が並んでいますが、時間の関係で、第1項・第2項は省略し、第3項の話をするとのこと。(おやおや、本当は、第1項からの、生の話を聞きたかったのですが。――これは陰の声。またの機会もありましょう。)
 
 因みに、小川さんの入庁は、三島事件の翌年。「事件」に感じて教師になる道を捨て、入庁された由、憂国忌に参加したときにチラッと聞いた覚えがあります。防衛庁の反応の冷淡さ、自衛隊は一体どうなっているんだ。小川さんの苛立ちやフラストレーションが、レジュメの簡単な文面からも伺い知ることができます。

 小川さんは、防衛政策・防衛構想の根本的問題点に入る前に、自衛隊の根本問題として、普通の主権国家の軍隊において当然とされている、法的に「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」という禁止項目(ネガティブ・リスト)を列挙して、それ以外は何をしても良い(「原則自由」)という方式(「ネガ・リスト方式」)を採用せず、「これはしても良い、あれはしても良い」という、行うべき項目(ポジティブ・リスト)を列挙し、「それ以外のことはしてはいけない」とする方式(「ポジ・リスト方式」)を採っていることを指摘しました。
 
 これは、去る4月28日、九段会館で行われた「主権回復の日を祝う会」(井尻千男・入江隆則・小堀桂一郎の三先生の呼びかけで、毎年この日に開催している。)で、田久保先生が、この場で防衛問題について、ただ一点だけ述べたいとして発言なさったことであり、小川さんはそれを引用される形で、問題点を指摘しました。

 つまり、自衛隊は、この点において「軍隊」ではなく、「警察」同然の縛りを受けている、というわけです。

 小川さんは、入庁10年目(昭和55年4月)にして、内局防衛局の計画官付計画係長に就いた時、警察予備隊から自衛隊誕生に至るまでの内部資料の原本を整理する機会に恵まれ、それが問題意識をもつ契機になった、ということです。

 その小川さんが語るには:――

 戦後、GHQの占領政策が転換、日本の再軍備が認められ、その建軍の基礎を何処に求めるか、となったとき、旧軍の幹部達はほとんど公職追放になっており、その上徹底的に旧軍を嫌っていた吉田茂の下、GHQの意向にも沿いながら、旧内務(警察)官僚を起用して警察予備隊を建設した、

というのです。

 彼らは優秀な内務官僚ではあったが、やがて旧軍幹部の追放も解除され、警察予備隊・保安隊に配属されるようになったとき、前者は内局の背広組、後者が制服組(幕僚監部・部隊など)になるという構図が形成された。そこから、我が国のシビリアン・コントロールが「文官統制」の意味に矮小化され、偏向されていく。

 
 なるほど、自衛隊を巡る宿痾は、建軍当時に遡る・極めて根の深い問題だと分かります。

 やがて、我が国の防衛構想・防衛計画の具体化が図られ、自衛隊の規模や装備の充実が求められます。

 しかし、憲法の制約があり、その制約を当然のこととして受け入れているマスコミ世論や野党から、再軍備反対や非武装中立が大声で叫ばれ、また経済的にもまだ充分な力を持っておらず、財政規模も小さかった当時において、充分満足のいく防衛計画が策定できなかったとしても、それはやむを得ないことでしょう。

 けれども、小川さんの話を聞いているうち、エッと耳を疑うような言葉が聞こえてきました。

我が国の「本当の脅威」に対処できる「所用防衛力」なんて、予算上不可能ですよ。だから、「そんな脅威」は無いことにしましょう。 

 予算上実現可能な防衛力で「対応出来る脅威」のことを「実際の脅威」といいましょうよ。

 まあ、言葉は正確ではありませんが(実際にはもっと多くの専門用語で説明されていたので)、私が率直に理解した限り、ざっとこんな理屈です。昭和50~55年頃のことのようです。
 「平時」にはそれで何事もない。「本当の脅威」が問題になるなんて滅多に起こらないことだ。(それは「政治的リスク」だ。)
 
 防衛庁と大蔵省(いずれも当時)の間で、ざっと、こんなふうに了解したというのです。

 いくら何でもこれはひどいんじゃありませんか。

 私たちは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」なんていう脳天気な憲法をもっているから、防衛計画もなかなか進まないものと思ってきた。しかし、防衛の実際の掌に当たる、その中枢の人たちがこんな考えだったら、どうにもならない。
 
 多くの国民が、「平和憲法」のお陰で平和が保たれた、と誤解し、周囲の国際情勢に眼をふさいでいるというのも、所詮、防衛所轄当事者の意向(希望?)に沿った結果ではないのか、といいたくなります
 
 「軍事的合理性」を犠牲にした「政治的妥当性」との整合を図った苦肉の策。

 一般に、こんなふうに表現されているようですが、確かにそれは言い得て妙かも知れませんが、小川さんの尊敬する元統幕議長・来栖弘臣氏の喝破しているところを、正面に据えるべきでしょう。すなわち:――

世界にも歴史的にも通用しない空論。
謂わば「日米安保」を魔法の杖と考えて、吾が方の足りないところは呪文を唱えれば幾らでもアメリカが援助してくれるという大前提での立論。
基盤的防衛力でカバーしていないところは政治的リスクであるといって逃げる無責任な議論。

 これらの話を聞いて、日本は「被保護国」だ(この言葉は、後ほど田久保先生のお話の中にも登場します。)と、よくいわれるが、初めてその本当の意味が分かったような気がします。

 小川さんには、退職されて「野に放たれた」のですから、そんな無責任防衛論に縛られることなく、歯に衣着せぬ「防衛の語り部」になって頂きたい。

 「政治的配慮」やマスコミに通用するような、オブラートに包んだ物言いではなく、リアルに率直に、防衛問題を生の言葉で語って頂きたい。

 それも一人ではなく、志を同じくする防衛問題の専門家を巻き込み、連れだって。

 数年前、民主党の前原誠二氏が中国の軍事的脅威について触れたとき、集中砲火を浴びたことがありますが、今日では、幸いにも(!?)その脅威はより明らかになっています。反対勢力も依然として強力だとしても、多くの国民の理解を得やすい状況が拡大しています。

 国防の精神を、倦まず弛まず、強力に説き続ける集団が無くては、国家主権の回復・再興などあり得ません。
 

 集団的自衛権の行使、
  武器使用基準の国際標準採用、
  主権的判断による自衛隊の国際協力に対する一般法の制定、
  非核三原則・武器輸出三原則(注)・専守防衛論等の見直し乃至は廃止等々、
   (注)「武器輸出三原則」:本来は、「共産圏諸国・国連決議により武器等の輸出が禁止されている国・国際紛争の当事国又はそのおそれのある国」に対する武器輸出を認めないという原則。
 三木内閣の時代に、上記地域以外の国に対しても、武器輸出を原則的に行わないよう拡張解釈されるようになった。
 中曽根内閣の時代に、同盟国アメリカへの武器技術供与を例外として認めることとし、現在に至る。

 これらを全て進捗させるには、専門家の技術的対応だけでは全く不足で、国民的防衛意識の昂揚が不可欠です。まして憲法改正についてはなおさらです。

 まあ、釈迦に説法みたいで恐縮ですが、これも小川さんのお話に触発された結果としてご了承下さい。

 必要防衛力整備を、予算不足を理由に怠ったり、削除したり、ましてや財政再建の犠牲にするなどとは、もってのほかです。防衛費をGDPの1%程度に抑制するなどという規制を見直し、諸外国並みの2~3%に増額することについても、決してタブー視すべきではありません。

 予算なんて、政府がお札を刷ればよいのです。いや、これは政府の貨幣発行大権(セイニアリッジ)といって、長年黙殺され、封印されてきたもので、こういう安直な言い方は絶対すまいと思ってきたことなのですが、そして、それを主張しているマクロ経済学者の方々が、気安くそのような言い方をすることが、却ってそれが黙殺され封印される原因の一つになってきたと考えるのですが、簡単に分かりやすくするために、敢えて安直な言い方をしました。

 本気で国家主権を再興しようとするならば、お金なんか後からついてくるのです。(かつて春日一幸さんが「理屈は後から列車に乗ってやってくる」とか言ったのを思い出しました。)

 いずれ別の機会に論ずべきことでありますが、今日すでに、経済・財政、保険・医療、公共事業や農林漁業、税制や地方自治、その他さまざまな国家の根本を解決するには、セイニアリッジの発動しかないところに来ていると考えますので、敢えて踏み込みました。

 さらにもう一つ、かつて西尾先生が雑誌の座談でリニアモーターカーの建設に言及したのを把らえて、財政危機を無視した経済知らず、と知ったふうな非難をする無礼かつ軽薄な輩が日録に舞い込んできたことがありましたが、そのような「反論」にあらかじめ釘を刺しておく、という意味も込めてあります。

文:等々力孝一

坦々塾報告(第九回)(一)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 70歳

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 坦々塾の勉強会も第9回を数え、間もなく発足してから2年を迎えます。不肖私は「日録」を愛読し、投稿していた関係でご案内を頂き、初回より参加して今日に至っております。この2年弱の期間は、アッという間に過ぎたには違いないのですが、坦々塾の勉強会に参加して開かれた視野の拡がりからは、もっとずっと長い時間の壁を通り抜けてきたような気が致します。
 
 今回の勉強会は、過去8回のどの会よりも熱気に満ちていたように感じられます。いや、どの会とて、熱気に欠けたことなどはないのですが、今回は特にそれが外に向かって放射していたように思われるのです。

 西尾先生のお仕事が、多かれ少なかれその時々の勉強会に影響するのは当然のことですが、このたびは雑誌『飢餓陣営』に発表された「三島由紀夫の死と私」、同じく『WILL』に連載された「皇太子殿下へのご忠言」、そして前々回の勉強会で講義頂いた萩野貞樹先生の急逝と、大きな衝撃が相次ぎました。それらについて、「日録」にも紹介され、コメントも掲載されたので、お読みになった方も多いと思います。

 さらに、3月10日、チベットにおける僧侶・市民のささやかなデモに対する中共政府の無慈悲で血腥い弾圧のニュースは全世界を駆け巡り、五輪聖火に対する抗議の嵐を巻き起こしました。

 我が国においても、善光寺が聖火の出発地点となることを辞退する一方で、長野市内には数千本の赤旗が林立するという、かつての都内におけるメーデーでさえ滅多に見られなかったような異様な光景が現出しました。

 そのような情勢下に、胡錦濤が国賓として来日したのですから、連日「フリーチベット」を叫ぶ抗議の集会・デモが繰り返されたのは当然のことでしょう。従来は、数百人程度の集会・デモならば黙殺したであろうマスメディアも、今回ばかりは、多少控えめではあっても報道せざるを得ない状況になっていました。

 第9回の勉強会は、そんな胡錦濤が離日する10日に予定され、
①、西尾先生の「徂徠の論語解釈は抜群」
②、37年の防衛省勤務を定年退職された坦々塾メンバー小川揚司さんの「吾が国の『防衛政策』変遷と根本的な問題点 ――防衛事務官37年間の勤務を通じて痛感したこと――」
③、田久保忠衛先生の「最近の国際情勢と日本」
というテーマが決められていました。どのテーマをとっても現今の情勢の直面する課題と切り結ぶものばかりで、いやが上にも10日の勉強会は待ち望まれるところでした。

 そこに、さらに決定的な一打がもたらされました。

 西尾先生の大学時代の同クラス以来のおつきあいで、坦々塾メンバーの粕谷哲夫さんが、初めての中国旅行から帰ってきて、その報告の文章が寄せられたので、先生の「徂徠」の持ち時間を粕谷さんの中国旅行の報告に回したい、というメールが配信されたのです。

 先ずは、先生の熱い言葉をお聞き下さい。
 

私は「これだ!」と叫びました。粕谷さんの文字に驚きがあり、感動があります。是非彼の生の声で生の話を聞きたいと思いました。

 宮崎(正弘)さん、桶泉(克夫)さんという二人の中国専門家、高山(正之)さんという人間通と一緒の旅で目にし耳にするものが新しく、心が震えています。

 プラトンが「驚き」(タウマゼイン)こそ知の始まりと言った、そのような新鮮な感覚の消えぬうちに、彼が専門家ではないからこそ、彼の見聞を語らせたいのです。

 願わくば、あと5日、余計なものを読んだり、見たりしないで欲しい。感じたまゝ考えたまゝ、見聞きしたまゝを語って欲しい。

 粕谷さんの「報告」というのは、

昨夜 無事 中国・湖南省の旅から帰国することが出来ました。
強行軍でいささか疲れました。
見ると聞くとは大違いというか、今まで想像だにしなかったことを いろいろ見聞したいへん有意義でした。

と書き出し、以下A4版2枚にびっしりと感嘆の言葉が記されています。(このコピーが当日の粕谷さんの話のレジュメ代わりになりましたので、以下この文書を『レジュメ』ということにします。)

 さて、10日当日は、その粕谷さんの話から始まります。50人分に近い机と椅子が教室風に整列された部屋に、皆さん心なしかいつもより緊張した面もちで着席し、粕谷さんの話に耳を傾けました。

 始まって間もなく、早くも田久保先生がお見えになり、最前列の西尾先生と並んで以後の話をともに聞かれることとなりました。

 今回の粕谷さんの旅行は、昨年から始められた一連の中国旅行企画の第2回目で、「中国歴史・愛国主義教育基地探訪」というテーマです。4月26日に東京を発ち、上海を経て武漢に入り、翌日以後、長沙から湖南省各地を回り、5月3日長沙に戻り広州に飛び、翌4日帰国という、1週間超の旅程です。
 
 スケジュールによると、毎日4~5カ所以上を汽車や車で周遊移動し、見学するという、可なりの強行軍であったことが分かります。

 世界数十カ国以上、何百回となく海外渡航をされた粕谷さんが、中国に限って初めてというのは不思議に思っていたのですが、冷戦時代の商社の仕事は、旧共産圏については「東西貿易」という特殊な機関を通じて全く別の担当者が当たっていので、中国に限らず旧共産圏には足を踏み入れる機会がなかったとのこと。――納得。

 粕谷さんが、西尾先生の希望通り5日の間、これというものを読んだり見たりせず、帰国直後の状態を保持してきた、その思いのままを、1時間にわたって語ってくれました。その迫力を、私の筆力ではとても充分に伝えることは出来ません。
 
 粕谷さんのレジュメの躍動した表現を紹介しながら、私の感想を述べることで替えさせて頂きたい。それによっていささか陳腐な表現に陥ることになるかも知れませんが、どうぞ、お許しの程を。

 レジュメの冒頭は次のとおりです。

広州の里子取引(人身売買市場)(宮崎さんも現場を見るのははじめてと)。
文化大革命の負の遺産を捨てきれない中共の悩み。
それにしても影の薄い胡錦濤。
蒋介石と国民党は中国共産党に都合よく利用されている。

 広州は旅程の最後。その高級ホテルのロビーで公然と里子取引=人身売買が行われているとのこと。引き取り手(里親)は、中国人のみならず、欧米人も含まれているらしい。必要とあれば近くの医師が健康診断?もしてくれるようになっているという。
 
 そればかりか、それ以前の移動中にも、人骨の陳列、人骨売買・死体の取引らしきものを目撃しているというのです。
 
 そのような驚くべき中国社会の現実を、粕谷さんは、中国社会の「下半身」と呼びます。勿論、下半身があるからには上半身もある。上下両方を見る必要がある、と粕谷さんは言います。
 
 上半身だけを見て「友好」を唱える有識者・マスコミ・政治家達は大甘だ、ということです。一般論として分かり切ったことであっても、現地を見て改めて実感した上では、言うことの迫力が違います。

 世界各地を広く見聞してきた粕谷さんは、中国の下半身についても相対化してみることが出来ます。
 
 例えば、中国のトイレは、汚いことは汚いが、インドネシヤはジャカルタの中心部においてさえ、高いところから海にウンコを落としているのとどっちが汚いのか、と言います。
 
 一方、インドの汚さも、衛生的な不潔の意味では中国と変わらないが、ただ、宗教的な穢れ(けがれ)を嫌うという規範があるが、中国の汚さは、衛生的に汚いことは勿論、宗教的・道徳的な規制を全く欠いた汚さだ、ということです。

 武漢の街が本当に汚いとも、嘆いています。

 再び、レジュメの一部を引用します。

人口の都市集中は 休耕田を増やしている、意外に多い休耕田。
車窓から見る武漢⇒長沙の田園風景は唐詩の情感を誘う。
毒餃子事件は中国製品輸出拡大阻止を企てる外国製造業者の妨害行為という庶民認識。
紅衛兵は毛沢東をどう見ていたか、四人組逮捕直後の紅衛兵たちの歓喜⇒市中の酒・爆竹はオール売り切れになった。
紅衛兵の熱狂狂乱とその後の冷却、そして4人組み逮捕時の興奮は、チベット/オリンピックの愛国熱狂も同じパターンならん。
紅衛兵の破壊活動はタリバンと酷似、紅衛兵は交通費タダ・食事宿泊タダ。

 中国の高速道路は立派なもの。その建設投資は海外の華僑富豪の手によっているが、決して愛国的意識で投資しているわけではない。手数料収入で30年回収ということになっているが、実際はもっと短期回収のカラクリがあるという。ちゃっかりカントリーリスクを計算しているわけです。日本人の投資とは全く違う。(台湾人の場合はどうなのだろうか。――筆者の疑問。)

 粕谷さんは、フライング・タイガーズに関する展示に特別に関心を寄せられたようです。
 
 フライング・タイガーズとは、蒋介石軍の一翼として、米国の退役軍人シェンノート将軍(支那名:陳納徳)のもと、米国製戦闘機カーチスP-40(この戦闘機の通称がフライング・タイガー)数百機で編成された空軍部隊(飛虎隊)。義勇軍ということになっているが、歩兵部隊ならいざ知らず、戦闘機百機単位の部隊が米政府の支持・承認なしに派遣できるわけがない。昭和16年4月(つまり日本の対米宣戦布告の半年前。)には、ルーズベルトが秘密裏に調印していたという。
 
 粕谷さんは、戦時中・少年の頃、P-40のことなどよく知っていた、と半ば懐かしそうに語っておられたが(緒戦の頃は、日本の零戦の方が強かったようだ。)、内心、沸々たる怒りをたぎらせていたに違いない。
 
 「真珠湾攻撃を不意打ちだのといって非難するが、これは国際法の中立義務に対する公然たる侵犯である。」
 
 米中の、このような卑劣さは一部で指摘されては来たのだが、それが「抗日戦争」の一環として堂々と展示されているとすれば、その厚顔さに呆れるよりは、日本人を舐めきっているそのことに、怒りを新たにしなければならない。

 さて、話は尽きませんが、レジュメのうち、2~3を引用してこの辺で筆者の報告を締めさせて頂きます。
 
 粕谷さんの、その人柄を通じて、このたびの体験が、きっと多くの日本人に影響を与え、拡げていくことを期待し、また確信しています。

チベットと新疆で中国政府はどうすればいいのか分からず困っている模様。
反日・抗日宣伝には 蒋介石・国民党を肯定することなくしてはありえない中国共産党の矛盾。
中国共産党員には簡単にはなれない⇒大紀元の党員脱党の過剰な報道はウソ・・・・・共産党員の特権をすてるはずがない。

 なお、このたびの旅行には、坦々塾メンバーの鵜野幸一郎さんも参加しており、その感想を述べています。その要点は、――
 ① 世界は悪意に満ちている。特に米中共同。(例:フライング・タイガーズ)
 ② 裏社会と表社会の連続体。net社会に対するウィルスばらまきの脅威。
 ③ 裕福な中国人が、自国を嫌って海外にますます出てゆこうとしている。

[追記]
 坦々塾の翌々日(一二日)、中国四川省でマグニチュード7.8大地震が発生。
 地図でみると、湖南省長沙と四川省成都とは直線距離で800キロはありますから、粕谷さんの行かれたところには被害は及んでいないでしょうが、被害の規模は見当がつきません。
 犠牲者にはご冥福を祈念し、被害者にはお見舞いを申し上げます。
 この大地震が、中国情勢をさらに複雑なものにすることは、疑いありません。

つづく

文:等々力孝一