北朝鮮問題(続3):究極の「日本の課題」とは何か
北朝鮮問題の一番の難しさは、その底知れない問題の深刻さを、余り理解していない、あるいは、ピンときていない日本人に、どう理解してもらうかと言う点にある。日本人ばかりではない。関係国も、日本の状況が他に比べ格段に危険状態にあることを、理解していない。
その意味で、中川昭一自民党政調会長が、訪米時に、今の状態を1962年のキューバ危機になぞらえ、米要人の理解を求めたことは、極めて適切であった。だが実は、日本の今の事態の方が、はるかに危険で深刻なのである。 何故なら、あの時は、ミサイルも核もキューバに到着していなかったが、今回は既に、日本を狙うノドン200基以上が北朝鮮に配備され、核も刻一刻と増産されているからである。
加えて、国家指導者は金正日という人物である。
仄聞するところでは、あの時と同じキューバの指導者カストロ議長は、同じ社会主義国北朝鮮が13歳の中学生を誘拐、拉致したという話を始め信じなかったという。その後それが、真実と知り唖然としたそうである。あの時のカストロさえ信じられない非道を行う指導者が、核ミサイルの発射ボタンを支配している。だから、危険度はカストロに比較にならぬほど高い。
そして、核ミサイル以上に深刻な、「拉致」の問題がある。キューバ危機のとき、拉致問題はなかった。それに、米国の強大な軍事力を考えれば、今の日本の状況の厳しさを、これと比較するのは所詮無理なのかもしれない。それだけではない。戦後の日本、日本人には、肝心の、気力が決定的に欠けており、規範意識は見る影もない。これが実は最も深刻な問題なのである。
実は、アメリカも拉致事件で危機に見舞われた時期があった。だが、アメリカは、その危機を、国民の健全な規範意識と旺盛な気力、そして危機を乗り越えるにふさわしいリーダー選出で克服した。
<在イラン米大使館占拠、大使館員人質事件>
アメリカの拉致事件は、1979 年、ホメイニ革命後のイランで起きた。同年11月、イランの過激派学生がテヘランのアメリカ大使館を占領し、大使館員全員を人質にしてしまったのである。
当時、偶々ニューヨーク勤務時代で、郊外の町の住居から、マンハッタンへ、通勤列車で通う毎日であった。
事件発生後、暫くした頃、日本の首相は、「アーウー首相」と揶揄された大平首相。当時の日本の石油備蓄は未だ不十分で、アメリカを支持すれば、イラン石油の輸入途絶による石油供給不足に陥る危険があった。その時「アーウー首相」がはっきりと、米国支持を表明したのである。翌朝、駅で、列車の同じボックスに同席するアメリカ人仲間全員が、「日本に石油を」の一面見出しの新聞を示しながら握手を求めてきたものである。
人質事件発生以来、テレビのニュースは既に、毎回必ず、「今日で大使館員が人質になって何日目になります」との言葉から、その日のニュースを始める様になっていた。
町の小学校に通う我が子によると、それまでの日課であった、国旗への敬礼と国歌斉唱の日課に、大使館員の無事帰国のお祈りが加えられたそうであった。
特殊部隊による救出作戦が敢行されたが、砂嵐で失敗した。入院している重傷隊員を見舞ったカーター大統領は、「彼等が、もう一度やらせてくれ、と言った」と声を詰まらせ、涙を流した。事件は、膠着状態となった。
事件が起きた翌年、1980年は、大統領選挙の年でもあり、最終段階では、民主党は現職のカーター大統領、共和党は、タカ派といわれるレーガン候補の一騎打ちになった。テレビに登場する、レーガン候補は、いつもリラックスした態度であった。タカ派との評判を問われると、首を少し右に傾けながら、「自分は当たり前のことを言っているだけなのに、何故そう言われるのか判らない」と、何時もと変わらぬ柔らかな口調で答えるのであった。選挙民の最大の焦点、大使館人質救出についても、具体的なことは言わず、ただ、「当たり前のことをする」と言っただけである。だが、それは、決意と確信に満ちた口調であった。
日本のマスコミは現職のカーター有利を報じたが、米国民の反応は明らかに違った。毎朝の列車のボックス仲間との会話からそれが窺えた。果たして選挙結果は一つの州を除く全米総ての州での勝利という圧勝で、ロナルド・レーガンが大統領に選ばれた。TVは又も涙のカーター大統領を放映した。
年が改まり、1981年1月、新大統領就任式の日が迫る、そんなある日、「イラン米大使館員全員の解放帰国」のニュースが伝わり全米は歓喜に包まれた。TVのニュース番組は、その日を限りに、「今日で大使館員が人質になって何日になります」との放送は終わった。学校の「お祈り」もその朝までだった。
イランが何故、人質を解放したかは、よく判らなかった。
ただ、ロナルド・レーガンは、「当たり前のことをする」即ち、「アメリカはこんな理不尽なことを放置してはおかない。あらゆる手段を行使して、それを排除するのだ」との決意を固めていたことは、選挙戦での彼の短い発言からも窺えた。米国民は、そんな決意のロナルド・レーガンに白紙委任状を与えた。イランは、この国民の白紙委任状を背景にした新大統領の就任前に、これ以上、人質をとり続ける危険を察知し、解放を決意したのであろう。
ロナルド・レーガン、(その背後のアメリカ国民)は、特殊部隊の投入もなく、銃弾一発の発射もなく、就任前に、この難問を解決したのである。
レーガン大統領の時代は米国復活の時代であるばかりでなく、米国による、東西冷戦勝利の時でもあった。(”冷戦終結”という言葉はギミックである)タカ派と非難された彼は、その非難とは正反対に、ここでも、一発の銃弾を発射することもなく、それを達成したのである。
<北朝鮮拉致事件:国家と国民は如何にあるべきか>
当時日本は経済で、依然拡大期であり、米国を圧していた。然し、在イラン米大使館占拠・大使館員人質事件に見せた、アメリカの学校、マスコミの行動に象徴される、アメリカ国民の規範意識と気力には及ぶべくもなかった。その当時、もう北朝鮮による拉致事件は起きていたのである。日本の国家機関の一部はそれを察知していたという。然し、国家は動かなかった。国家が国民を守ると言う、最大の義務を怠る致命的な罪を犯していたのである。
(註:国がアベック失踪事件を北朝鮮による拉致と断定したのは、事件発生10年以上経過後の1988年3月梶山国家公安委員長の国会答弁が最初である。然し、政治もメディアも、国民も全く反応しなかった。拉致事件の総ては、検証され、総括されなければならない)
横田めぐみさんが拉致されたのは、1977年11月15日、今年で29年になる。
日本では、TVが、ニュースの前に、「横田めぐみさんが、拉致されて今日で何日になります」と全国民に継続放映することは、一度たりともなかった。学校も同じである。学校は、”こと”が起こるたびに「人の命を大切にする教育を心がける」と、言い訳をする。だが、日本全国何千何万の学校で、唯の一つとして、毎日「横田めぐみさん、他、拉致された日本人拉致被害者の一日も早い帰国」の祈願を、児童、生徒に指導する学校は存在しない。そんな状態の学校が「人の命を大切にする教育」の言辞を弄する。空々しさもここにきわまる。
文部科学省は、最も重要な教育を忘れている。各地方の教育委員会は、どうなっているのか。
カナダ人夫妻が横田めぐみさんの拉致事件のドキュメンタリー映画を作製し、評判になっている。文部科学省は、一方、映画の芸術作品には、文部大臣賞を与えている。文部大臣賞の前に、すべきことがあるではないか。それは、「人の命、人権、自由の大切さ」を教え、「それを蹂躙する、日本人拉致が行われている現実」を、総ての児童生徒に教え、「同胞の帰国を祈願させる」教育。それを通じ、「国と国民のあり方」を教えることではないだろうか。それは本来、文部行政の中核に据えられるべきものであろう。
とりあえず、カナダ人夫妻の作ったドキュメンタリー映画を全国の児童、生徒全員に鑑賞させるべきである。このまま何もしなければ、国家機関(今回は文部科学省)は、二度目の不作為を犯すことになる。
国家は国民を守り、国民はその国家を支える。それがなければ国は滅びる。そんな当たり前のことを、教えないで、「人の命の大切さ」をどうやって守ろうというのか。拉致事件こそ、最も重要な教育材料ではないか。
<イラン人質事件のアメリカと戦後日本>
ところで、先のイラン米大使館人質事件でのアメリカの学校、メディアの行動、国民の行動、指導者は、今の日本人にどう映るでのあろうか。多分、かなりの人は、否定的あるいは違和感を覚えるのではないだろうか。
それは何故なのだろうか。
実はこれら、アメリカ国民の行動の源泉、国民の規範意識の中身は、その殆んど総てが、戦前の日本に、違和感なしに存在していたのである。それが戦後、占領軍(アメリカ)により、「戦前日本の悪しき軍国主義に連なるもの」として、否定され、日本と日本国民から、奪われた。占領軍は、日本人インテリ、学者などを使い、戦前の規範の否定を、言論出版、教育を通じ、刷り込み、刷り込まれた世代は次の世代へと、子々孫々にまで浸透するメカニズムを埋め込んだのである。その60年後が、今日の日本の姿である。今日、日本人がアメリカ人の規範意識に感ずる違和感は、この60年に亘る「規範否定」の刷り込みによるものなのである。
それは、一種”洗脳”の究極の形なのかもしれない。
一方、占領軍が、「悪し戦前の軍国主義に連なる」と断じた、同じものは、アメリカ本国に根付き、育っていたのである。それがイラン米大使館人質事件の際に発揮されたのであり、日本人の私の目に鮮明に映ったのである。
占領軍は日本が、自分達アメリカと同じような国であることを、許さなかった、それが占領政策本当の基本政策だった。今日の日米の差はそこに求められる。何故彼等はそうしたか。当然であろう。日本の脅威を再現させないためである。
尚、今日、米国では、占領時代の自らのこの政策についての言及は殆んどない。
米国国民は、(多くの日本人同様)戦後のアメリカの日本占領を”日本の民主結実”の美しい「成功モデル、ストーリー、」と信じている。この点が、日米間には、事実についての大きな認識ギャップが生まれる素地がある。この問題は重要であり、日本は飽くまで、客観的な研究を進め、そのベースに立ち、主張し、米国の理解を得る努力を払う必要がある。
何故ならば、それを通じて、今日、自らの善意と正義を信じる余り、犯しがちな、思い込みと独善の過ちからアメリカを解き、世界に絶えることの無いアメリカ、アメリカ人に対する敵意の原因が奈辺にあるかを、彼等に示唆することになるからである。
イラクでの苦戦も、この占領政策の研究が十分行われていれば、避けられたかもしれないのである。勿論、日本に対して行ったような、他国民の規範(日本のそれは、米国のものと殆んど同じだったのであるが)を破壊することなど許されるべきことではない。
話を元に戻したい。今日、日本が、拉致、核の北朝鮮危機に見舞われていることも、偶然ではない。それは、日本が、占領政策の呪縛に捕らわれていたことに起因している。過去の出来事を一つ一つ検証すれば、証明されよう。
北朝鮮問題の克服、は占領政策との完全な訣別から始まる。
それは学校教育から始められるべきである。カナダ人夫妻の映画の全児童生徒の鑑賞から始まる。
政府は逃げてはならない。国が国民を放置すれば、、国民は国を支えなくなり、国は滅びる。
(註:戦後、占領政策のお先棒を担いだ、学者、インテリは、占領軍に従い、「アメリカでは」を口実にそれまでの日本の教育を総て、「軍国主義に連なる教育」として、否定し、その正反対をあたかも先進国の教育であるかのように教えた。然し、それが全くの嘘であった。このことは、個人的乍ら、十数年の北米生活からの結論である。
当然であろう。戦前の日本の教育は、明治維新以降、欧米先進国をモデルとし、営々と作り上げてきたものである。本来、モデルである欧米のものとそれほど差があるわけはないのである。そんな占領政策が何故可能であったのかの理由は、テーマから余りに外れるのでここでは、省略したい)