続・つくる会顛末記 (六)の1

続・つくる会顛末記

 

(六)の1

 コンピュータ問題(つくる会会員管理システムの保守契約不備をめぐる問題)は、坂本多加雄氏のご死去の当時に端を発します。ご死去は平成14年(2002年)10月29日で、そのころ私は会の財政に疑問を持ちだしていて、11月26日の理事会に「会の財政への疑問」(B4四枚)を単独提出しました。私は普段は議事に参加しませんが、危機信号を発するのが名誉会長の仕事だと思ったからです。

 採択運動の年でもないのに、その年と同じように気前よく予算が組まれ、私の目から見て明らかに浪費ぎみなので、私は思い切って富樫信子公認会計士に事前に質問をぶつけて、自分の目で調べました。専門会計士の計算書は素人目に複雑でスッと頭に入りません。私は大づかみな数字が必要だったのです。

 会費を主体とする会の通常収入はいくらで、家賃・人件費・通信費・支部交付金・「史」発行費などの通常経費はいくらなのか。前年の採択運動に大体いくらかかったのか。臨時収入はどれくらいあったのか。そして前年度の繰越金を含めていまいくらあるのか、等です。

 私は大雑把な分り易い数字説明を求めました。その結果、通常収入は通常経費とほゞトントンで、従って会費収入は会を維持するだけで、運動費はそこから出てこないことが判明しました。つまり、会費収入だけではただなにもしないでじっと坐っていることしかできないのです。

 このことは会員数の減った今はもっと深刻なはずです。「つくる会」に残った理事諸氏はしっかり頭に入れておいて下さい。

 しかし種子島財務担当理事が、預金残高を見て、「まだ大丈夫だ。お金を貯めるのが会の目的ではない。運動に使わなければ意味がない」といって、採択の年でもないのに、通常収入の約半分もの運動費を予算に計上するので、みんな安心しきってお金を使っていました。しかし今言ったように運動費はもう新たな出所がないのです。私はこんな有様ではやがて行き詰まり、次の採択の年に運動費ゼロということになってしまいますよ、と警告し、会は財政破綻で潰れるかもしれない、と言い添えました。

 余談ですが、この年の年末に永田町星陵会館で「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われ、関係者で会食し、終って二次会の坂本夫人もおられる席で、藤岡氏が何か思い詰めたような顔で、飛びかからんばかりの勢いで「西尾さんは破壊主義者だ!この会を潰そうとしている」と大声で言い出しました。勿論、酒に酔った放談の席です。そのときは八木さんが「破壊主義者はないでしょう。会を大切に思うから心配しておられるのであって、話は反対でしょう。」といなしてくれました。

 藤岡さんには「ジャイアンツは永遠です」の長嶋茂雄と同じく、「つくる会は永遠です」のテーゼに一寸でも抵触する言葉は禁句で、いつもおかしいくらい過剰反応します。子供っぽいとも言えますし、ほゝ笑ましいとも言えますね。

 閑話休題。会の財政資料を個人的に解説して下さった富樫監事が同じころ「先生、こんな事より、はるかに重大な財政問題が会には他にあるんですよ。」と教えてくれたのが、会員管理のコンピュータソフトの取り替えです。ろくな契約も結ばず、1700万円も請求され、おかしいと言って富樫氏がしきりに抗議と警告を重ねているという重大新事件です。

 財政を私が心配しているとき、いきなり1700万円という巨額に驚きました。この小っぽけな会の当時の預金残高の約三分の一でした。たった今、やがて財布の底がつくと心配しているのに、ほかでもない、まさにそのときこんな大きな額が流れ出してしまうというのですから、私が愕然とし、富樫女史から逐一事情を聴取したのはいうまでもありません。「先生、必ず理事会に持ち出して下さいね。」

 コンピュータは私の最も苦手の、手に負えない分野です。文学部出身者の多い、実務に乏しい当会の理事諸氏にとっても完全に未知の世界でした。つまり、彼らも私もみな無知です。宮崎事務局長も同様で、知らぬ世界のことゆえどうして良いか分らなかったという同情すべき一面があります。

 会は発足当初からK君という若いサラリーマンに委託し、ファイルメーカーのソフトを使用して、会員管理システムを作成してもらい、保守管理も委ね、毎月28万円を支払っていました。これが高いのか安いのかは私だけでなく、当時会にいた誰にも分りません。

 先述の藤岡氏のエピソードといい、K君の一件といい、お恥かしいことに会の関係者はことほどさように金のことには疎いのです。種子島氏はだから救世主でした。みなが彼に依頼し切ったのは当然ともいえます。

 問題はK君の素人芸はもうやめて、きちんとした会社に委託してシステム開発と保守を担当してもらおうと考えるようになって以来のことです。私には話してもどうせ分らないと思われていたらしく、事情は全然聞かされていませんでした。そして突然1700万円という数字を打ち明けられて、不安になったのです。

つづく

続・つくる会顛末記 (五)の3

続・つくる会顛末記

 

(五)の3

 八木、藤岡両氏が椛島有三氏を訪問したのは12月14日です。私が得たのは藤岡氏からの間接情報です。氏の記述によると、椛島氏は「どうか『つくる会』の分裂だけは絶対避けてほしい」とくりかえし言っていたそうで、また同時に、「宮崎氏は人的ネットワークの中心なので断ち切らないでほしい」といい、つまり何とか雇っておいてくれの一点張りで、穏やかな言葉の背後に、強い意志が感じられたそうです。「『つくる会』を自分たちの支部みたいに思っている」という感想を藤岡氏は漏らしていました。

 じつは彼がそう思う根拠が訪問のわずか三日前、12月11日に起こっていました。これが椛島氏サイドからの圧力の結果なのか、伊藤氏のプッシュによるのかは分りませんが、八木氏が11日(日)夜、「処分はすべて凍結、宮崎氏を事務局長に戻し、来年3月までに鈴木氏に移行する。以上の線で収拾することで会長に一任してほしい」と各副会長への緊急通達を出し、執行部管理以来八木氏の命令で自宅待機させられていた宮崎氏を事務所に戻す突然の決定が打ち出されました。

 これに平仄を合わせるかのごとく、12月11日(月)に例の四理事抗議文が出され、一読して衝撃を受けました。しかしこの抗議文と伊藤氏、椛島氏との関係性などは、その時点では、いやそれからしばらくの間もまったく分らず、どこでどうつながっているかは迂闊にも後でだんだん気がつくようになったのでした。

 今思うと八木氏を突然動かしたのは、彼を若いときから育てて来た庇護役の伊藤哲夫氏ではなかったか。八木氏は繁く伊藤氏と電話を交していたからです。これは勿論、私の推理です。しかし他方、四人の抗議文は分りません。15日に宮崎氏は「俺の首を切れば全国の神社がつくる会支援から撤退する」と事務局員たちの前で豪語したと記録にあり、彼はとつぜん強気に転じているのです。

 このときも私がすぐに椛島氏と会談しておけば、事態は少し違ったかもしれません。しかし私はニュージーランド旅行中で、帰国は13日、私だけでなく他の人も年末で忙しく、心の余裕がありませんでした。椛島氏の方からも働きかけはなく、さしたる重大事と思っていなかったのでしょう。

 私はそれから一週間以内に、小堀桂一郎君に電話をして、事情説明をしています。彼は楽天的でした。「日本会議がつくる会を制約するなんてことはないよ。それは多分、若い頃の学生運動のよしみで、古い仲間を守ろうとしているだけだよ。」多分彼の言葉の言う通りでしょう。しかし古い仲間を守るということが道理を超えていて重大なのですから(公私混同になるので)、小堀君も引き入れて、椛島氏とあのとき三者会談を設定すべきでした。私は「名誉会長」としての義務を怠ったのですが、私もじつはさしたる重大事と思っていなかったからでした。

 四理事抗議文は内田智、新田均、勝岡寛次、松浦光修の四氏連名で出されて、すでに知られた〈コンピュータ問題の再調査は「東京裁判」のごとき茶番だ〉云々といった例の告発状めいた文章のことですが、私はいきなりこれを会議の席で見て、今まで例のないなにかが始まったと直観しました。

 会の中に会派が出来て、一つの要求が出されたのは初めてでした。西部公民グループは「つくる会」の外の勢力でした。『新しい公民教科書』は外の団体への委託でした。内部に一つの囲い込みの「意志」が成立すると、何でもかんでもその「意志」に振り回されてしまいます。これは厄介なことになったと正直このとき以来会の分裂を現実的なことと考えるようになりました。

 「会中の会」が生まれると、会はそれを力で排除しない限り、方向舵を失い、「会中の会」に支配されるか、さもなければ元の会が潰れるかもしくは自爆してしまわない限り、「会中の会」を振り払うことができないものです。イデオロギー集団とはそういうものだと本能的に分っていました。

 さて、今まで隣りにいた四人がにわかに異邦人に見えたときの感覚は、時間が経つうちにますますはっきりし、分裂にいたる事件の流れの果てに、最初の予感の正しかったことが裏づけられました。

 12月の後半から1月にかけて、何が背景にあるのかを事情通に調べてもらいました。私には二人の50歳代の、昭和40年代の保守系学生運動を知る人にご教示いたゞきました。小堀君の先の「学生運動のよしみ」という言葉がヒントになったのです。一人は福田恆存の、もう一人は三島由紀夫の比較的近い所にいた人から聞いたのです。

 そして旧「生長の家」系学生運動があの頃あって、転じて今、「日本青年協議会」や「日本政策研究センター」になっていること、四理事のうち三人と宮崎氏がその運動の参加者で、宮崎氏は三人の先輩格であることを知りました。昭和47-48年くらいのことで、彼らももう若い頃の運動を離れて久しく、元の古巣はなくなっているでしょう。

 政治運動は離合集散をくりかえしますので、小会派の名前や辿った歴史を概略人に教えられましたが、あまりに入り組んでいて、書けば必ず間違える仕組みですので、関心を持たないようにしています。

 「生長の家」という名も、谷口雅春という名も知っていましたが、私はあらゆる宗教の根は同じという万教帰一を説いた世界宗教というような妙な知識しかなく、政治運動もやっていたことは全然知りませんでした。60年安保騒動に反対する積極的役割を果したと後で聴きましたが、私の20代の思い出の中にこの名はありません。皇室尊崇を強く掲げた精神復古運動といわれているようです。

 そういえば、「つくる会」四人の「言い出しっぺ」の一人の高橋史朗氏が旧「生長の家」系でしたから、「つくる会」は最初から四分の一は谷口雅春の魂を抱えていたわけです。それはそれでいっこう構いません。様々な経歴と年齢の人々が集って一つになったのですから、会の内部でお互いに限界を守り、他を犯さずに生きる限り、外で他のどんな組織に属していようが、また過去に属していたとしても、なんら咎め立てするべき性格の問題ではありません。

 しかしながら、今度という今度は少し違うのではないか、と思いだしました。旧「生長の家」を母胎とする「日本青年協議会」、そしてそこを主軸とした神社本庁その他の数多くの宗教団体・政治団体を兼ねた「日本会議」という名の大きな、きわめて漠たる集合体があり、「つくる会」の地方組織の多くが人脈的にそこと重なっているように観察されます。入り混じってはっきり区別がつきません。それだけにかえって危いのです。

 どんな組織も、どんな団体も「独立」が大切なのです。精神の独立が大切で、これをいい加減にすると、精神活動は自由を失い、結局は衰弱していきます。

 協力関係にある限りは自由を失うことにはなりません。協力関係にあることと従属関係にあることとは微妙な一線で、はっきり区別がつかないケースが多く、あるとき甘い協力関係の中で、フト気がつくと自由を失っていることがままあります。人事権が失われていて他に介入されているケースはまさにそれに当るでしょう。しかも介入し侵犯する意識が大きい組織の側にないのが普通です。介入され侵犯された側だけが自由を失った痛みを感じるのです。

 今度のケースがそれでした。1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会のはるか前すなわち12月初旬に、八木氏は旧「生長の家」系の理事たちと事務局長の側にすり寄っていて、会は事実上あのときすでに分裂していました。八木氏の行動のトータルは彼を育てた伊藤哲夫氏の背後からの強いプッシュがあってのことではなかったかと今私は推理しています。

 以上の道筋からいって、会を割って出た八木一派はもし新しい教科書の会を設立するなら、その歴史思想は当然、皇国史観と天皇親政と明治憲法復活をめざすよりラディカルに右傾化した方向に道を見出す以外に理のないことになりましょう。保守系の二つの歴史教科書が生れることは採択の場を活性化させ、悪いことではありません。「つくる会」の教科書はより中道と見なされ、採択にかえって有利になるでしょう。

 「自由と民主主義」を脅した小泉選挙の帰結として、「つくる会」の分裂が起こったことは特筆すべき点です。「つくる会」は戦前の体制を理想化し始めた近年の右傾化の価値観からやや距離を保つべきです。どこまでも「自由と民主主義」を小泉型の排他的ファナティシズムから守りつつ、従来の左翼路線をも克服する両睨み、両観念史観批判の方向に教育理念を見出していくべきでしょう。

 分裂は政治史の文脈からみて必然であったというべきなのかもしれません。

つづく

続・つくる会顛末記 (五)の2

続・つくる会顛末記

 

(五)の2

 日本政策研究センターの協力者でもあった衛藤晟一氏や城内実氏にも「刺客」が送られたあの選挙で、伊藤哲夫氏は私と同様に怒って「許せない、小泉は許せない」と当初しきりに言っていました。私は「自由と民主主義」が本当に危ない、と思いました。9月11日の投票を経て、私が応援に行った四人のうち古川禎久、松原仁の両氏が当選、衛藤氏、城内氏が落選しました。

 当選した古川禎久氏――西郷隆盛のような立派な顔をした人物――について、伊藤さんが自民党に戻そうとしているのを聞いて、私は「平沼赳夫氏のように独立独行してほしい。さもないと今回、非自民の旗の下に古川氏に投票した有権者を裏切ることになるでしょう」と反対意見を述べ立てた覚えがあります。すると伊藤さんは「大政党に入っていないと何もできない。党人でないとお金も入らない」と現実論で反論しました。

 ここいらから私と伊藤氏の考え方に微妙な差が開き始めるようになります。私は今でも私の言った方が現実論だと思っています。なぜなら古川氏は、あるいはこのとき当選した自民党無所属は、ご承知のようにひとりも党に復帰することができなかったからです。断固別の新党をつくるなどすべきだったのではないですか。

 九段下会議は夏の選挙の間休んでいましたが、10月14日に再開、11月14日には世界のインテリジェンスの歴史、12月21日には人民日報の日本報道を実際に実物で読むという体験をしました。そしてこれが最後になりました。

 その席上、伊藤哲夫氏と私たちの間で小さな論争がありました。氏はいつの間にか小泉支持派に変わっていたのです。というより、安倍政権の実現に賭けてきた氏は(私もずっと安倍支持者でしたし、いまも別に反対者ではありませんが)、小泉=安倍一体化が進行するプロセスの中で、考えを一つにまとめることが難しくならざるを得ません。

 私は郵政民営化、竹中経済政策を支持する安倍氏では困りますが、防衛・憲法・教科書・靖国のラインでは安倍さんをよしとします。けれども現実の安倍氏は小泉首相と一体です。

 伊藤氏が「いろいろ小泉さんのことを人は言うけれども、ともかく靖国に行ってくれたじゃないですか」と仰言ったことばに、私は少し失望しました。私と伊藤氏とはそれまで、靖国に行く小泉の「動機」が問題だとずっと言っていたのではないですか。

 皇室問題が次第に緊迫していた当時、私は官房長官は首相に弓を引く場合もあるべし、との考えでしたが、伊藤氏は官房長官の難しい立場をしきりと弁解し擁護する姿勢をみせ、氏への私の失望は一段と深まりました。

 私は政権と言論は別だ、政権に対し是々非々で行くのが思想家のあるべき姿だ、と言ったことがあります。するとそのとき伊藤氏は「私は思想家ではない」と軽くいなしました。

 政治は現実に妥協します。それは仕方がない。言論はできるだけ具体的で、現実的であるべきですが、しかし、どうしても譲れない場合がある。むしろそういう場合のほうが多い。現実の政治に必ずしも添い兼ねる。

 さて、「つくる会」の展開ですが、秋も深まる頃から局面が変わります。コンピュータ問題が登場したのは、オペレーターのMさんが器械の不具合を10月21日に藤岡氏に訴えて以来です。コンピュータ問題は後で区別して書きます。また、浜田実氏の事務局次長への採用の一件がこれに絡み、執行部が10月28日に事務局再建委員会を創り、事務局を執行部管理とし、コンピュータ問題の調査を決定しました。しかしその後、各事務員から個別に別の建物で事情聴取をしたやり方が、共産党の「査問」と同じだとパッと悪口を外へ広げる者がいて、誤解を招くということがありました。

 私は傍で見ていて、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤の諸氏にコンピュータのときだけ私が加わった執行部の努力は、限られた時間の中で、並大抵の労苦ではなかったと思います。けれども、世間は誤解したがるものです。

 例えば伊藤哲夫氏は11月の九段下会議で会ったとき、「つくる会」執行部は検察まがいの訊問をしている、というようなことを言って、批判的になっていました。

 10月一時的に事務局は執行部管理となりましたが、これは八木氏が中心になって取り決め、実行した措置です。八木氏はマッカーサーがコーンパイプをくわえて乗りこむようなこと、と、執行部を占領軍になぞらえるような浮かれた発言をしていました。私は11月初旬のコンピュータ問題調査委員会(八木、遠藤、藤岡、西尾、富樫)にだけは参加しましたが、事務局の運営の内容は間接的にしか聴いていません。

 3年前のコンピュータの契約の不完全――これについて当時理を尽くして警告したのは富樫公認会計士と私だけでしたが――がこのときあらためて表に出て、宮崎事務局長の立場が悪くなったのは事実です。彼は外に能動的に働きかけることに弱くても、内に事務的に勤勉であることにおいて強い、というのが執行部のそのときまでの判断でしたが、「内に事務的に」も問題があったのではないか、と、遠藤、福田、工藤氏たちの副会長もあらためて疑問を抱くようになりました。けれども事務局長更迭は、今までの記述で明らかなように、コンピュータ問題の前に審議され、裁定されていたのでした。

 ですが、やはり、どうしても世間はごちゃまぜにして理解する。世間だけでなく執行部の外にいる理事たちもよく理解していない、という状況が次第に事柄を紛糾させていきます。

 そうした誤解や事実の歪曲があり悪い噂となって外へ広がった後のことですから、不運なのですが、伊藤哲夫氏と椛島有三氏と再び宮崎問題に関して私が接点を得たのは12月に入ってからでした。伊藤氏とは私が直接電話で、椛島氏とは間接情報です。

 12月1日藤岡、福田両副会長が政策センターに伊藤氏を訪問し、2時間事務局長更迭の必要を詳しく説明したそうですが、氏は最初こわばった表情で、笑顔が見えたのは2時間経ってからだといいます。宮崎氏の期待外れをいうと、「事務局長はそういう程度でいいのではないですか。」となかなか分ってもらえず、「よく分りました」と最後に言ったのは外交辞令で、納得していない風であった、とは後日聞いた福田逸氏の弁です。

 記録によると私はこの同じ日の夜、伊藤氏に電話をしています。

 迂闊に軽いことばで話しだし、激しい反撃をくらいました。昼間の空気をあまり知らなかったせいです。今までの永い付き合いの、九段下会議の同志であるとの心安立ての思いで語った、その言葉の調子がなぜか逆鱗に触れたのかもしれません。

 本当に思ってもいない予想外の反発でした。ご自身も後で、あんなに怒ったことはないと言っているのですからますます分りません。私が雇用解雇ではないのだ、というと「給与が問題ではないでしょう。名誉が問題なのでしょう」といわれ、たゞ吃驚し、約70分もつづく言葉の応酬に、傍の家族がハラハラ心配そうにしていました。

 私たち「つくる会」の関係者が宮崎氏を見ている視線とは見ている位置が違うのだ、ということに早く気がつけばいいのですが、私もそのときは腹を立て、何と分らず屋だと思うだけで打っちゃっておきました。もしも小泉選挙がなく、自民党への姿勢において私と伊藤氏との間に考えの開きが大きくなく、度々電話をし合っていた夏までのような仲であったなら、恐らく最初からこんな衝突にはならなかったでしょう。双方に鬱積した感情の澱りがすでにありました。

つづく

続・つくる会顛末記 (五)の1

続・つくる会顛末記

 

(五)の1

 「つくる会」内紛劇はそれ自体小さな出来事ですが、平成17年(2005年)夏の郵政法案参議院否決による衆議院解散、小泉首相の劇場型選挙とその文化破壊的な帰結とは切り離せない関係にあるように私は考えています。

 いま『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』で展開した政治論をここで再論するつもりはありません。8月8日の衆議院解散、9月11日の総選挙という日付を思い出して下さい。

 8月12日杉並区で「つくる会」教科書採択、27日種子島副会長が事務局長更迭を執行部会で初めて提案、31日八木、藤岡、遠藤、西尾が浜松町会談で「事務総長案」を考える。9月1日扶桑社総括会議と理事会、9月17日採択活動者会議、この日の二次会終了後、八木、藤岡、西尾の三人で初めて宮崎氏に辞職の意向を打診する。9月25日「つくる会」定期総会。

 選挙とそれにつづく日本の政変の目を剥くドラマが進行する最中に、今思うと、もっと辛い、厄介なドラマがわれわれのすぐそばで開始され、進行していたことになります。

 あの選挙で「つくる会」と九段下会議でお世話になっていた保守系議員が相次いで反小泉に回り、周知の通り苦戦し、落選者も多数出ました。夏の日、戦後初めて私は「自由と民主主義」が危いと思いました。20年前に「民主主義への疑問」と書いて左翼大衆動員を批判していた私が、今「民主主義を守れ」と言い出したくなっている矛盾に、時代の変化のアイロニーを感じます。

 8月15日の靖国講演会で日本会議事務総長椛島有三氏に8月の解散への怒りを述べ、守りたい意中の6人の候補者の名(平沼赳夫、古屋圭司、森岡正宏、古川禎久、城内実、衛藤晟一)を挙げると、まさに二人はぴったり同じ名を考えていたということで、私の地方候補者応援演説(大分、宮崎、静岡)を日本会議が支援してくれる約束になりました。

 8月28日大分市に着くとそこに椛島氏がいて、宮崎県の都城まで一緒に旅をしました。そこで氏は講演が終ると夜行で大分へ戻り、私は翌日名古屋へ飛びました。こうして衛藤、古川、城内の三候補の応援演説を辛うじて果したのでした。

 これは私が求めて行った無償の講演でしたが、旅費と滞在費は日本会議が配慮してくれました。私は椛島氏とたっぷり談を愉しみました。私と氏、もしくは私と日本会議とは仲間なのです。ずーっと私はそう思って来て、仲間だから共通の目的に向かって、協力関係が築けると考えていました。

 日本政策研究センターの伊藤哲夫さんとも永い付き合いで、同じような仲間意識でした。「つくる会」の協力団体である「改善協」の運営委員長を伊藤さんは永年やって下さって、教科書問題に関してもいわば同志でした。

 それどころか平成16年2月に「国家解体阻止宣言」を発表し、われわれは「九段下会議」を建ち上げました。外交・防衛とジェンダー・教育問題との二つのテーマに分け、講師を呼んでレベルの高い勉強会をくりかえした揚句、どうしても政治の世界に訴えたいという思いから、志ある議員を呼んで、情報研究会を創りました。日本政治にインテリジェンスの考えを根づかせるためです。そこの議員連盟会長が衛藤晟一氏、事務局長が城内実氏でした。

 ここまで読んで読者のみなさんはわれわれの間を引き裂く地殻変動を起こしたものが何であったかお気づきになるでしょう。小泉選挙です。衛藤氏も城内氏も落選し、情報研究会も動かなくなりました。

 私は夏の候補者応援の旅(8月28日~29日)を終えて、帰ってみると「つくる会」では「事務局長問題」が起こっていました。8月に入ると、今回も採択戦はほゞ敗北と分かり、諦めと焦りと持って行き場のない怒りが渦巻いていました。案外ケロッとしていたのは宮崎氏でした。そのことが藤岡氏をまた苛立たせたのです。

 8月31日に浜松町で八木、藤岡、遠藤、西尾の四人が会談し、積極的能動的な事務局長を探すこと、富士通にいた濱田実氏は運動家としての活躍ぶりを見ているので候補に値するということ、それからじつは藤岡氏が私に、「日本会議の椛島さんに相談してみてはどうか。いい人を知っているのではないか」という提案をしたので、4日前に都城市で別れたばかりの椛島氏の顔を思い浮かべ、話し易いな、と思っていました。じつは当時はこんな空気だったのです。

 すると偶然日本会議から9月4日(土)に松原仁氏の五反田での応援講演会に西岡力氏と一緒に出て欲しいという依頼があり、そこで椛島氏と再会しました。西岡氏が先に帰った後二人きりになりました。私はいいチャンスと思い、氏に「大切な話なのでお人払いを」とお願いして、「30分ほど時間を下さい」と申し上げ、「つくる会」の現状を伝えました。

 事務局長更迭の一件を聴いて椛島氏が吃驚した表情をなさったのが印象的でした。しかし、余り余計なことを口にしない方なので、私の事情説明を聴く一方でした。私はこう申し上げました。

 「企業や労組などで活動してきた人がいいという意見も出ているのですが、なにも方針を決めているわけではなく、能動的積極的な人がほしいのです。宮崎さんはデスク業務はきちんとしているのですが、自分から運動全体の総合的なデザインを描き、具体的なアイデアを出し、攻めていくタイプではない。椛島さんはいろいろな運動家をたくさんご存知でしょう。どなたかいい人がいたら教えてほしい。いま企業にいる人で適任らしい人がひとり提案されているのですが、その人が本当に適任かどうかもまったく分りませんので」

 椛島さんはたゞ聞く一方で、質問もなく「そうですか、フーン」と唸るだけでした。そして、大分たってから「分りました。考慮させていたゞきます。」と応じました。「まだ私たちは何もきめていないのです。たゞ人捜しは早く始めないと間に合いませんから。本人には黙っていて下さい。」「はい、承知しました。」といって互いに別れました。

 私はそのとき椛島氏と宮崎氏とが旧い学生政治運動の仲間同志だなどとつゆ知らず、この二人はお互いに知り合いらしい、という程度の認識でした。そして、日本会議と私は仲間同志であり、椛島氏も「つくる会」に協力して下さる仲間である、というきわめて素朴な、心安だてな、警戒心のない意識で対応したのが現実でした。

 椛島氏との会談の一件はこれで終り、氏からその後提案はなされませんでした。9月末か10月初めのころに宮崎氏から興奮して、「二人の会談の事実を聞きました。衝撃でした」と怒りの口調で電話がかかってきたのを覚えています。椛島さんは本人に喋ってしまったようです。宮崎氏は自分の更迭に半信半疑でしたが、椛島西尾会談の存在を知って、動揺したようでした。

つづく

続・つくる会顛末記 (四)の2

続・つくる会顛末記

 

(四)の2

 さて、平成13年の第一回採択戦が敗北に終って、平成17年の第二回採択戦の後とまったく同じように、事務局の改革が自己反省の第一に取り上げられた時期に、事務局長高森氏はあらためて仕事ぶりが問われることになります。

 第一回採択戦の敗北は第二回目よりも深刻ではなく、高森氏は「リベンジ」を宣言し、種子島氏も「自分は退くつもりだったが、この敗け方ではやめられなくなった」と言い、副会長の責任まで背負うことになりました。

 敗北の原因は(一)中韓の攻勢とそれに迎合する国内マスコミ、(二)地方教育委員会の事なかれ主義、この二つにあると要約されました。あのときは誰でもこの二つを口にしました。「拉致問題」が出現して情勢が変わるのはこの後です。再生の要は事務局であり、活動の原点は事務局長であるとはまだあまり明確に自覚されていませんでした。たゞ、事務局長は留守がちでは困るという声が圧倒的でした。

 けれども藤岡氏だけは事務局長のやる気、企画力、運動力が問題だと言い出していて、高森氏のやり方にいちいち疑問をぶつけるようになっていました。

 事務局の能率化を唱えている藤岡氏と高森氏の間は間もなく険悪になります。要するに藤岡氏は仕事をテキパキ合理的に推進することを事務局に求め、だらだら無方針で、非能率にやることが許せない性格なのです。他方、私は要するに放任派で、だらしなく、藤岡さんは責任感が強く、厳格だということです。宮崎氏に対したときとまったく同じ状況が生まれました。

 私は危いと見ました。高森氏は藤岡氏の攻勢を躱せないだろう。原因は大学の勤務その他と事務局の仕事とが両立しないことにあります。高森氏には時間の余裕がない。やはり両方は無理だ。事務局長は「専従」にしなければならない。多くの理事の提言でもありました。

 思い切って高森氏に話し掛け、当然不快の表情をなさりましたが、自分が専従になれないことも明らかで、あまり大きな抵抗も反対もなく、了承を得ました。彼は会全体のことを考える大人なのです。こうして、誰かいい人はいないか。毎日務めてくれる人はいないか、と見回していると、事務局にほとんど毎日アルバイトで来ている一人の真面目そうな人物の存在にあらためて気がついたのです。それが宮崎正治さんでした。

 「つくる会」には当時外国の教科書を研究する第二部会があって、じつに熱心な勉強会が展開していました。東中野修道さんもそこに名を列ねていました。私はアメリカとイタリアの教科書研究の発表の場に立合わせてもらったことがあります。その席上で宮崎さんとはかねて顔見知りでしたが、高橋史朗氏の友人だということ以外には何も聞いていませんでした。

 高橋史朗氏が宮崎正治氏の無職に心を煩わし、どうしたものかと悩んでいて、友情に篤い人だと感心し、高橋氏のために何とかしてあげたいという動機が当然私にもありました。一説では宮崎氏は本当に困っていて、高橋氏に肉体労働でもするしか他に手はない、と訴えていたとも聞いていて、深刻だと思いました。私が5年後の今日も彼の経済生活のことを気にかけ、種子島氏の乱暴な処断に反対していたのは、最初のこの一件があったからでした。

 こういうことは本当は書きたくないのですが、書かないと、あれだけ話題になった事務局長問題の真相を、そのバックグラウンドを含めて立体的にお知らせすることがどうしても出来ないので、止むを得ないのです。

 それに、毎日来てくれる人で、老人でなく、知識人でもある人、何よりも「つくる会」の運動を精神的に理解している人――ということになると、本当に人がいないのです。

 私は宮崎氏にお願いすることを自ら決断し、本人の了承を得て、新しい事務局長の任命を理事会に諮りました。

 以上の通り宮崎氏の選定に関しては、宮崎氏と会との両方の必要条件は合っていましたが、十分条件を満たしていたわけではありません。宮崎氏が運動家として有能であるかどうかは初めから考慮の外にありました。そんなことを考える余裕が会にも宮崎氏にも、双方にありませんでした。ある意味で行き当たりばったりで大急ぎで決めてしまったのです。そのことがどんな災いをもたらすか深く考えることがなかったのは、たとえ選択条件がいかに難しかろうと私のミスであり、私が組織運動などに無知な素人だったので、会員のみなさまには幾重にも謝罪しなければなりません。

 宮崎氏はたしかに読書人で、たゞの事務員ではありませんでした。性格が温順で、各理事に気配りがあり、私などは会の出張の一人旅で、バスの乗り継ぎひとつ迷わないように地元に連絡して下さるほど心憎いほど優しい人です。私の本もよく読んでいて、書名の相談にも乗ってくれました。もし私が会を「私物化」しているのであれば、名誉会長をつづけ、宮崎事務局長を守り、彼を私の「半・秘書」のようにする道がたしかに一つあったでしょう。私はそれほど彼から厚遇されていました。

 しかし私の精神は逆に動くのです。宮崎更迭の種子島提案があって以後、しばらく考え私は自分の選定のミスを総括的に反省しました。

 宮崎氏は近代社会の中で他人の釜のめしを食った経験がない人です。その半生を保守団体の知識人運動家として、今の言葉でいえばフリーターとして過して来ました。とかく目が伝統社会、神社の神主さんその他に向かい、企業や官庁が代表する近代社会に人脈もなければ、押さえ処も分らない人です。伝統社会も大切ですが、第二回採択戦はそこに力点を置きすぎて結局失敗したのではなかったのですか。

 それも大事だが、それのみではダメだ、と私も敗北後考えるようになっていて、種子島氏はこれを「事務局長のマンネリズム」という言葉で捉えていたわけです。

 けれども最初のうちは私もそんな風に明確な判断に立っていたわけではありません。じつは今日初めて公開しますが、9月4日という早い時期に、宮崎事務局長問題を真先に私が相談し、新しい人捜しを依頼した相手は、椛島有三日本会議事務総長、日本青年協議会元代表その人だったのです。

 次にこの重要な事実からお話しなくてはなりません。

続・つくる会顛末記 (四)の1

続・つくる会顛末記

 

(四)の1

 高森明勅氏は学者として、知識人として、教科書執筆者として立派に生きてこられた方で、私は個人的にも敬愛の念を抱いています。

 会では唯一の貴重な古代史学者で、彼がいなければ教科書はできなかったし、『国民の歴史』その他の私の仕事にも協力して下さった私の恩人の一人です。

 最近、女系天皇を容認した数少い古代史学者の一人として、保守思想界の一部から非難を浴びているのは気の毒です。皇位継承をどう考えるかは人の自由です。ある人が、かつて私に女系を唱える高森氏は「つくる会」理事にふさわしくない、と語ったことがありますが、皇室問題でこうした一定の枠で他人を囲い込み、仲間社会から排除するような人を危険なファナティストというのです。

 大月隆寛氏が病気で行き詰って代りに高森氏が事務局長に選ばれたときの会代表は私でしたが、選抜したという記憶は私にありません。他に人がいなくて、みんなでがやがややっていて、ならばお前やれ、誰がやれ、という声掛け合いの中から自然に高森さんが適任者として浮かび上がったのだと思います。大月さんが選ばれたときも、そういう手順だったでしょう。理事の間は平等で、上意下達の会ではまったくありません。任意団体で、今どきそんなことが通用する会が何処にあるでしょう。

 ただ辞めてもらうとき、あるいは交替を指示するときには、厭なことばを口にするのですから、会代表の強い一声が必要です。

 高森氏は事務局長のかたわら一年かけて坂本多加雄氏と二人で教科書執筆の基礎稿をつくりました。二人は仲が良く、呼吸が合っていました。「つくる会」の講演やシンポジウムも例の歯切れのいい大きな声で、雄弁家を誇っていました。

 ではありますが、事務局長としてはどうかというと、他方でこれだけ数多くの仕事をこなしているのですから、いかんせん事務局にいる時間が少ない。それが不評を買いました。また前に種子島氏あてのメール(本稿(二)9月2日2:29AM)に述べたように、経理上有利であり過ぎるという批判が多数の事務系職員から出たのも事実です。

 事務局長が事務所にいない日が多いのは、その頃から会の活動が広がりだして、事務量も多くなったので、困惑と障害をもらすようになりました。いつからか明確に分りませんが、種子島理事が高森氏の欠席日に、週二日ていど代役を果してくれる約束が成立しました。

 さて、実業家種子島氏はどうして私たちの会に参加してくるようになったのかを語っておかねばなりません。種子島氏は日本BMWの社長も、フォードの相談役も務めあげ、自由の身でした。彼が早くから自分の後継者として育てあげ、世に送り出した人の中に、話題のダイエー会社に抜擢された林文子さんがいます。ビジネスの世界では種子島氏は有名です。自信家でもあります。

 彼は大会社のエスカレータに乗った官僚型実業家ではなく、アメリカでモーターバイクを単身で売りまくった「モーレツ社員」、高度成長期を築き上げた戦士の一人でした。アメリカ、ドイツと渡り歩き、今でも目を患って半眼がよく見えない苦労を越えて、世界を飛び歩いています。話もうまく、自分の人生を語った講演は惚れぼれするほど聴かせます。

 会社から離れて、「つくる会」の周辺で有能な英語力を生かして、南京事件関連の文書の翻訳を手伝ったりしているうちに、会のメンバーと親しくなりました。「つくる会」の理事は大半が文学部出身者で、およそ経営のセンスがありません。私が乞うて理事になってもらいました。ビジネスマンのセンスが会には必要だと考えたからです。

 彼の目に「つくる会」の世界はどんな風に映ったでしょう。詳しくは聞いていませんが、恐らく驚いて、揚句どう言っていいか分らない不審の思い、戸惑いの果ての判断ミスもやむを得ぬ困難の日々であったでありましょう。

 種子島氏は東大教養学部(駒場)時代の私の同級生でした。このことは周知と思いますが、私たちの共通の師に小池辰雄先生というドイツ語の先生がいて、この方が内村鑑三の無教会派キリスト教の流れをくむ伝道者であり、武蔵野市で「曠野の愛社」という修道の場を拓いていたことはまだ語られていません。

 Himmel(大空、天空)というドイツ語名詞がありますが、その形容詞himmlisch(大空の)を先生は一年生のわれわれに「天的」とお訳しになり、宗教的意味をこめて熱情的に語られたのでさっそく「天的先生」という綽名がつきました。それからGeist(精神)というのももう一つの綽名です。なにしろ初級文法が終るとすぐにゲーテ『ファウスト』をテキストに使い、宗教的講話が授業の半分を占めるので、このGeist、ガイストという音の響きが先生にぴったりで、私たちには忘れられない恩師、亡くなるまでお慕いしました。

 なぜこんな話をするのかというと、「キリストの幕屋」の創設者である手島郁夫師も内村鑑三の流れに棹さす無教会派で、小池辰雄先生とは生前深い交わりがあり、手島師がお亡くなりになる前に後事を託された由にて、幕屋はその後ずっと小池先生の信仰上のご指導を仰いでいたと聞いています。

 「つくる会」で「キリストの幕屋」と最初の接触を持った人は藤岡氏でした。幕屋の方からの接近で、『教科書が教えない歴史』の先生としてだと思います。そのあと私が小池先生の弟子だと聞いて私にも親愛感を抱いて下さるようになり、同じ弟子の種子島氏が聖書の集会に出席するようになって、さらに信頼が深まりました。

 種子島氏は「つくる会」の理事になって以後幕屋を通じ信仰に近づきました。私の蔵書の三分の二は何らかの意味で宗教に関係があるのですが、私自身は近代日本の知識人の宿命か、すべての宗教は相対化され、文化的知識欲の対象となるばかりで、今後のことは分りませんが、信仰への敷居を越えることはできそうにありません。ですが、もし仮りにキリスト教徒になるなら、プロテスタントは嫌い、カソリックはぎりぎり我慢できますが、多分そういう場合には無教会派を選ぶだろう、などと勝手に空想しています。

 種子島氏は週に二、三日ほど「つくる会」事務所につめて高森氏不在の日の事務局長代行をして下さるようになりました。高森氏が辞めて宮崎事務局長になってからもしばらく事務所には財務担当理事として顔を出していました。それだけに他の理事よりも事務局の実態についてよく知り、事務局長の良し悪し、指導の仕方、統率力、職員の働きぶり、部屋のムードの明暗などに対し敏感で、あまり口うるさい批判はしない人でしたが、じっと見るべき処は見ていたはずでした。

つづく

つづく

続・つくる会顛末記 (三)の2

続・つくる会顛末記

 

(三)の2

 読者によく考えていたゞきたいのは、この会は財力もなく、「この指とまれ」が理事勧誘の原則でしたから、理事には名のある人でなってくれるなら誰でもよく、それでも手を上げてくれる人を捜すのが困難なほど世間から敬遠されていた団体であった事実です。最近コメント欄に、この度の内紛の原因は「『つくる会』が一部の人に保守論壇の登竜門になっているからだ」という指摘があって、私は隔世の感を抱きました。

 大月隆寛氏と私とはたしかにあまり折り合いが良くなかったことを告白します。彼は終始西部邁氏の方を向いていて、公民教科書の執筆を西部グループに一任するか否かの一件で、伊藤隆氏と組んで、私に一方的圧力をかけて来ました。旧版公民教科書の執筆者は西部氏のほか、佐伯啓思、杉村芳美、佐藤光、宮本光晴の諸氏(『発言者』グループ)に八木秀次氏が加わっていて、新版公民教科書にいま名を留めているのは八木氏ひとりです。

 西部氏は「つくる会」をバカにして理事会に出て来たことは一度もありません。私は公民教科書の責任者に田久保忠衛氏(当時まだ理事でない)か加藤寛氏かを想定していました。伊藤隆氏と大月事務局長が西部一辺倒で、それなら西部らが真面目に相談にのるかというと、全権委任するなら書いてやってもいい、という不逞な態度で、歴史執筆グループとの合同会議すら可能ではありませんでした。「西尾が頭下げて来たら書いてやろう」と頭目が言ったとか言わないとか、手下の一人から噂が流れ、私を怒らせました。

 今でも屈辱的シーンをありありと覚えています。伊藤、西部、大月の三氏が待ち構えている部屋に、私が単身で(この件で藤岡氏も坂本氏も知らん顔でした)、無条件で公民教科書を書いていたゞくことを承諾する書類にサインするために出向きました。サインしなければ自分は「つくる会」を辞めると伊藤隆氏が私を脅迫したからです。伊藤、西部という60年安保全学連くずれに何で私が頭を下げなければならないか。

 いうまでもなく教科書検定を将来に控えて、伊藤氏の辞任は打撃だからです。というのは文部省の教科書調査官の多くが伊藤氏の東大教授時代の弟子だからで、この方面で圧倒的影響力があるという「伝説」が広がっていました。大月事務局長は悪役三羽烏の一人として、私と彼らとの間を連絡する最も憎々しい役割を演じつづけました。

 あるとき大月氏が自分の読書歴を話してくれたことがあります。網野善彦以下、左翼の著作家ばかりで、私はびっくりして、「君がつくる会にいるのは理解できないなァ」と言ったのは確かで、彼はこの件をいつまでも根にもって、思想が悪いという理由で解任されたとあちこちに書いていますが、そうではないのです。大月氏は自律神経失調症で自宅療養となり(本人が公表)、数ヶ月事務局空位時代がつづきました。会の内外から不在は困るといわれ、ついに限界と見て、お辞めいただいたのが事実です。会はその間もきちんと給与を払いつづけましたが、理事会ではボランティア団体としては精一杯のことはやった、もう仕方がないのではないか、という声があがり、高森明勅理事に交替してもらうことになったのです。

 大月氏が解任の件を記述する際、病気で会に迷惑をかけたこと、病気が肉体の病ではないので事務局長の激職に療後の身が耐えられるか否かが判定できず、理事会でみんなが迷い、憂慮したことについていっさい言及しないのは片手落ちではないですか。

 伊藤隆氏は教科書の近現代史の監修と修正に参加し、夜遅くまで熱心にやって頂き、感謝しています。また、一年かけた故坂本氏の記述部分の不採用で、傷ついた坂本氏の心のケアに人一倍気を遣って、帰りの車に黙って誘い、言葉をかけて下さった様子を後姿から拝見していました。小林氏が漫画で坂本攻撃をやりそうな危ない場面で、私が三拝九拝して止めてもらったきわどい頃でしたが、伊藤氏の坂本氏への思いやりあるやさしいケアがあのときどんなに有難かったかは口では言い表せません。

 けれども公民教科書の西部選択は決して成功ではなかったと思います。それにいまあらためて思い出すのですが、いよいよ検定の日が来て、伊藤氏の睨みのきく弟子たちの一人である調査官に威圧を与えるお役目ありがとうとわれわれは期待ひとしおだったとき、伊藤氏は初日に顔を出しただけであと放置し、聞けば調査官の前で煙草をふかして注意を受け、弟子に威圧感はおろか尊敬の念もなく、結局扶桑社の社員ががんばって何とか切り抜けたと聞きました。

 「伊藤先生は期待外れでした」が私の受けた報告です。執筆者代表である私は調査官に顔を合わせる機会はありませんでした。伊藤氏が師の威厳で検定終了の最後まで見張ってきて下さる、その方が効果的である、という方針だったからですが、そうはならなくて、私はいったい何のために西部邁氏に対するあの屈辱の叩頭に耐えることに意味があったのでしょうか。

 勿論、伊藤氏の名前が奥付にあるだけで、広い大きな意味で文部省への信頼喚起の効果はあったといわれるので、「西部公民」の評判が良ければすべて帳消しですが、しかし、実際には複雑で、いろいろな思いが重って、そば屋の二階の忘年会で、伊藤氏も西部氏も出てこない席ですが、私が思わず滂沱と涙を流したことがあります。余りにも耐え難いことの多い一年だったのを思い出してでした。

 私が感情を怺え切れなくなったのは後にも先にもあの年の反省会の夜だけでした。

 さて、大月事務局長の解任のことですが、ご病気が原因であることはいま申した通りです。大月氏は「病み上がりにようやく立ち上がろうとしたところを後からいきなり斬りつけられた」と「つくる会」解任を語っていますが、彼はあれほど忠誠を尽くした西部氏から、突如として『発言者』連載の中止を告げられたのではなかったですか。「後からいきなり斬りつけられた」人をわざと間違えて、親分には言えない憂さ晴らしを私に向けているのではありませんか。

 こんな事件がありました。真冬の会合で西部氏が私の外套を間違えて着て帰ってしまいました。私は外套なしで帰り、レストランに置き去りにした西部氏の外套を大月氏は車でその日のうちに届けました。けれども、西部宅にあった私の外套を彼は私の家へ車で持って来てくれませんでした。私は二着外套を所持していたので、翌朝の氷点下以下の寒さを辛うじてしのげましたが、彼が誰に必死に扈従し、盲目になっていたかが分るエピソードです。私は自分の外套を彼の指定する場所に翌日取りに行ったのです。平成11年(1999年)の冬のことです。

 今度の紛争で「つくる会」に集った知識人の「非常識」が、まさかそんなこととみんなに首をひねらせましたが、私は何があってもあまり驚かなくなっていました。

つづく

続・つくる会顛末記 (三)の1

 

続・つくる会顛末記

 

(三)の1

 私は今回はことの発端をお話する役目です。そうすれば末端も違って見えて来て、事柄の全体がより正体を明かにするでしょう。

 組織運動とか団体とかに何の関係もなかった私、詩人か哲学者かになりたくてなれなかった文学青年くずれの私は、「事務局長」とか「会則」とか「趣意書」とかがどうあるべきかを考えたことは一度もありません。「つくる会」創設時に藤岡さんから「記者会見」をやろう、と言われて面食らった覚えがあります。

 「記者会見」は映画スターの婚約や警視庁の捜査報告のような場面にふさわしく、自分たちが勝手に起ち上げた私的団体の開所式には似つかわしくない、と思いましたが、勢い込んでいる相棒の心意気にすべてをお任せしました。当時本が売れていた自由主義史観研究会から25万円借金して、赤坂プリンスホテルの「記者会見」を何とかやりとげましたが、真中に坐った私はこういう大袈裟なことをするのが恥しくてなりませんでした。その後も私がこの種の場面をできるだけ逃げたことは、気がつく人は気がついているでしょう。

 初代の事務局長は草野隆光さんといい、北大の助手をしていて、藤岡氏が北海道から連れて来ました。助手といっても藤岡氏より年上で、東大教授の藤岡氏を見下す態度でものを言っていましたので、いつか何かが起きそうだという予感は最初からありました。

 草野さんは左翼運動の体験者でもあるせいか、有能な事務局長でした(恐らく過去の四人のうち最も有能)。会の規約や定款づくりも彼でしたし、私は目星い財界や文化団体めぐりも彼の案内で一緒にやりました。

 忘れもしないのは「趣意書」は会長が書くべきなのに私がなかなか書かないので、彼が怒りだし、私が書いた文章をみてこんなのはダメだと彼に破り棄てられてしまったことです。私は子供にも分る平明な「趣意書」を書くなどという芸当がまったく苦手で、しかも当時重要な仕事だと全然思っていなかったのでした。

 だいたい「たかが教科書」が私の意識の中にあり、そういうと「されど教科書」と反論されるので、それもそうだな、というくらいの認識でしたから、歯の浮くようなキレイゴトを並べた「趣意書」の文章などというものは書けといわれてもなかなか筆が動きません。現行の「趣意書」は私の書いたものではないはずです。藤岡さんと草野さんの合作だと思います。

 もうひとつ草野さんに叱られたことがあります。役員列記のなにかの文書で、「事務局長」を理事・監事の後に置いたら、会長・副会長の次に位置づけるべきだ、と渋い顔で言われました。

 草野さんはプライドが高く、かつ感情的に激昂する人でした。井沢元彦氏が好きで、彼を理事に入れたいとしきりに言っていて断られ、実現しませんでしたが、談論風発の思い出も多く、懐しい一人です。

 草野さんは間もなく、私の知らない所で案の定藤岡さんと衝突し、会を去りました。草野解任に関する限り、私も狐につままれたようで、事情をまったく知りません。藤岡氏が「草野君はケシカラン」としきりに息まいていた顔だけを覚えています。本当に何があったのでしょうか。無責任といわれても、藤岡氏が北海道からつれて来た人のことですから、あの件だけは私の記憶の中は空っぽです。

 それ以後の三人、大月隆寛、高森明勅、宮崎正治諸氏の事務局長の就任と解任に関しては勿論記憶もあり、自覚もあります。

 とはいえ、大月隆寛氏は小林よしのり氏が自分の側近の仲間が欲しくて無理に乞うて理事に迎えた方でしたから、事務局長の就任も小林氏の意向が働いていたと思います。大月氏は民俗学者としてすでに一家をなし、当時大学教授でしたので、「つくる会」の勤務は不定期でした。(草野氏も北海道を往復していたので当然不定期でした。)

つづく

 
 前回のコメントの「とめ猫」さんによる大切な論説を紹介します。

 八木氏が更に中国の学者を日本に招いて,新田氏らと共に「激論」したとのことで,驚きました。一体旅費や接待の金はどこから出たのだろう。中国の学者が日本に来る用事のついでに議論したのだろうか。しかし中国の感覚からすれば,一回日本から行って議論し,また中国から来て議論した訳だから,もう一種の「関係」が出来てしまっていることになるのではないか。言ってみれば「朋友」とみなされてもおかしくはないだろう。八木氏が「一緒にお酒が飲める人はいい人」という人間観の持ち主であるなら,そういう「関係」を梃子にどんどん泥沼にはまりこんでいく可能性が十分あると思われる。

 八木氏の前回中国での意見交換の記録を見ると,どうも「あなたの立場はあなたの立場として認めますが,私にも私の立場があるので,あなたも私の立場を認めて下さい」という姿勢が一貫している。しかしこのような姿勢は何ら意味をなさないだろう。その根本的な理由は,そもそも歴史認識の議論をする際に,こうした相対主義的な立場では限界があるからである。

 歴史が仮に物語だとすると,各民族集団の数だけ歴史があって良いことになる。これが相対主義の立場である。しかし中国の公式的な立場にとって,歴史は決して物語ではなく,天下のどこでも通用する普遍的な歴史である。もっとも朝貢体制という,本音と建前をうまく並存させた国際秩序を運用してきた中国は,一々あらゆる物語を全て抹消しようとはしない。ローカルな,一部地域でのみ通用する物語も,仮にそれが中国の普遍性を認める上であれば,存立を許される。八木氏の根本的な問題は,最初に「あなたの立場はあなたの立場として認めます」という姿勢を出してしまっているところである。こういう姿勢を,向こうは中国の普遍的な歴史を認めた,と受け取るであろう。それに対して,自分の立場も認めてほしい,という申し入れは,ローカルな物語として一応存在を許してね,という程度にしか受け取られないだろう。しかしこういう申し入れも,中国の公式的立場からすれば公式には受け入れられるはずはなく,こういう腰の低い要求すらはねられるという形で,全く無様な結果に終わることになる。正に八木氏は,中国から見て既に中国の軍門に下っているのである。

 保守派の論客が中国に行って議論するのなら,本来ならばそうした中国の掲げる普遍性を動揺させることがまず目指されねばならないはずである。そのためには相対主義的立場では明らかに不足であり,日本と中国を共に包含するような,別種の普遍史をこちらから提示し,納得させるという姿勢が必要になろう(それは必ずしも「侵略」か「自衛」かという二分法には関係しないし,善悪の判断に帰着するようなものでも無いだろう)。争いは普遍的な歴史を巡って展開されるのであり,それは物語の「棲み分け」では決して有り得ないのである。

 この意味では,日本の歴史とは世界史の一部であるし,また日本の歴史は日本においてのみでなく,その世界における意味が問われねばならない。中国が普遍的な歴史として歴史を語るということは,その歴史認識を欧米でもアフリカでも,どこでも正しい歴史として語るということなのである。中国と歴史認識論争をするというのは,世界を舞台に国際競争を遂行するということである。しかし八木氏の姿勢にはその覚悟が見られず,ただ単に島国日本の中だけで,日本の日本史の物語が流通することの承認を求めているだけである。しかし日本の中だけのことなら,そもそもそれについて何で中国にお伺いを立てる必要があるのだろうか?

 以上のような八木氏の姿勢は,中国から見れば全く脅威ではない。島国のローカルな物語がいくらあったところで,国際的な普遍史は全然揺るがないからである。「小日本が相変わらず何か言ってるよ」と,欧米その他の人々と共に笑って済ませられる程度のものである。

 そもそも八木氏は,そういう戦いをしようという気はなく,理解を求めに行ったようだ。しかしそういう,うわべの配慮を得ようとする行為に何の意味があるのだろう。中国も恐らくそんなことには興味はあるまい。

 私は日本の保守派が中国に行って議論すること自体を否定しようとは思わないが,議論するなら大変な準備と覚悟が必要である。八木氏らには,国際競争の厳しさへの認識と,それへの緊張感が欠けているとしか思えない。彼等にはやはり,島国日本の内部でしか通用しないローカルな「つくる会」しか構想できないのではあるまいか。大局的に見れば,西尾・藤岡両氏の「つくる会」は戦う怒りの会で,八木・新田氏らの「つくる会」はそれに対して一種の「癒し系」(怒りと戦いに耐えられない・そうしたこととは距離を置いて,自分の世界に安住したい人々のための)ということで,ある種の役割分担は出来るのかも知れないが。

 日本が本当の危機に立たされたのは近代が初めてであろう。弱肉強食,適者生存の厳しさをくぐり,直視しているかどうかが,日本における(普遍的な意味でではない)近代保守と古代保守(?)の主要な違いの一つなのではないだろうか。八木氏らはやはりなんとも呑気で牧歌的な世界に生きているように思えてならない。まあそちらの方が幸せだろうとは思うが。
Posted by: とめ猫 at 2006年05月31日 03:20

二ヶ月会長種子島経氏が失敗した原因である三大勘違い

つくる会」FAX通信の「特別報告」が下欄に掲示されています。(5月30日)

 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)
guestbunner2.gif

        

18年5月28日・記

二ヶ月会長種子島経氏が失敗した原因である三大勘違い

福 地  惇

 混乱してしまった「つくる会」を正常化する任務を帯びて登場した種子島前会長が、志半ばで挫折せざるを得なかった三つの原因を指摘したい。三つの勘違いに基づく判断錯誤が失敗の原因である。書きたくもないが、あるブログに出た種子島氏の手記を読み一文を物するものである。

第一 「西尾院政?」を毛嫌いした不明なる勘違い

 元会長で名誉会長の称号を帯びた西尾幹二氏と種子島氏が、東大教養学部時代からの知友であることは誰もが知るところである。私は西尾、種子島両氏は気脈を通じつつ会の正常化に取り組むものと理解していた。

 西尾氏が怒って名誉会長の称号を返上した直接的原因は、宮崎事務局長処遇問題に対する八木秀次会長(当時)の身勝手な方向転換、「宮崎=四人組」の会運営攪乱工作の「全共闘的礼儀知らず」への怒りであったことは明らかだった。種子島理事も同じく激しく憤っていたと私は見ていた。ところが、八木・藤岡解任、種子島会長誕生に際して、理事会攪乱を狙った産経新聞報道の意図を見破れずにその手に乗せられた。

 「西尾院政?」と言われて種子島氏がどうしてウロタエル必要があったのだろうか。西尾氏は種子島氏を信頼して万全に支持していたのだ。会を生み育て上げた盟友から会の正常化を託されたようなものだ。西尾氏から様々な智恵を拝借し、取れる方針は取れるだけ積極的に取れば良かったのである。円満に名誉会長を辞退したのではないことは、他の誰よりも友人なる種子島氏が知っていたのではなかったのか。盟友の名誉を回復せんと頑張るものと胡乱な私などは素直に思っていた。

 だが、種子島氏は「西尾院政」と言われるのを極度に嫌った。よその誰様から「院政」だと言われて何の痛痒があるものか。西尾氏のアイデアを借りても、これは会長の俺様のアイデアだと正々堂々と言って、何の問題があったのだろうか。誰が文句を言うのか。左翼や西尾氏に敵対せんとする者だけだろう。友人と相談することと、「院政」などと言う大時代的な用語とは全く異質な次元である。友人としての信義とは何なのか。

 要するに、自意識過剰で友人の西尾氏と相談でもしたら、操縦されていると揶揄されるのではと極端に怖がり嫌悪したのであろう。そのために会務を本道に返すと言う彼に与えられた本務を蔑ろにしてしまった。外道と言う可きである。第一の勘違いから導出された重大なる失敗である。

第二 「人事を会長に一任する」が理事会で信任されたとの一人合点の勘違い
 
 青天の霹靂で中継ぎ会長に任命された時、とっさに思いついたのがこれであり、理事会の承認を得たと種子島氏は言い続けた。我々は、新任会長の社会良識を信頼していたから、何の異議もこれに差し挟まなかったのである。だが、あの時、この新会長提案に反対したかったのは、種子島氏を疑惑の目で見ていた「八木=四人組」だったはずだ。

 私が思うに、本会理事会は奉仕活動的役務を厭わぬ各界の一端の人々の集合体である。官庁や営利企業体のヒエラルヒーとは異質のフラットな集団なのだ。そこに、アメリカ流マネージメント、当節我国でも一般化しつつあるトップ・ダウン方式を実施しようと本気で思っているとは誰も思わなかったのでは、と私は思う。本理事会にトップ・ダウン方式は本来的に馴染まない。村寄合的合議形態がどうして悪いと言えるのか。それを本気で人事一任を委ねられたと思っていたならば、その不明さは如何ともし難い。日本の文化・伝統を尊重する歴史教科書を作ろうという本会の会長に相応しいかどうか、誰でも分るのではないか。

 理事各位の意向を聞きながら会務を推進するのが社会常識と言うものだ。しかも、今回は執行部と事務局トップの瓦解であるから、理事諸氏の合意が形成されるところを目指すのが種子島氏に与えられた責務であろうと私などは考えた。これが間違いだと彼は言う。世間の評価は如何なものなのであろうか。

第三 問題の核心への無知と悪魔の誘いが良く見えた勘違い

 ①執行部再建問題、②事務局長選任と事務局建直問題、③コンピューター問題の解決が、種子島氏に課せられた三大任務だった。

 彼は何を解決したか。何も解決できなかった。その原因は、第一、第二の勘違いであるが、それだけではない。寧ろ更に重大なのは、「八木=宮崎=四人組」たちの会のヘゲモニー掌握への飽くことを知らぬ謀略に乗せられた、この不明さである。

 ①も②も③も、八木派は、悪どい謀略工作を重ねて本会のヘゲモニーを固めようとした。その謀略勢力の本質を見抜こうとしなかった愚である。彼らは、西尾名誉会長、藤岡理事ら有力者を排撃する目的から「謀略工作」「謀略運動」を続けた。これは種子島氏にとっては「想定外」の新事態の出現だったのだろう。

 ところで、この「謀略工作・運動」は、名誉毀損や偽証罪や脅迫罪に限りなく近い犯罪行為を伴ってなされたのである。私は種子島さん目を覚ましてくださいと諫言した。会長補佐に任じられていたからである。友人の信義を毛嫌いしても、老会長には犯罪行為への嫌悪は当然有るだろうと信じていたからである。上記犯罪は「国際基準」でも犯罪である。この「国際基準」は、私が「国際基準」のマネージメント違反者だと種子島氏が辞表に非難を込めて書き込んだ文言である。ここに援用する。

 閑話休題。一言申し添えるが、マネージメントの達人は、平気で嘘もつく人のようだ。藤岡氏のことは知らないが、私が会長補佐を自ら求めたと虚言で中傷している。「売り込んで来られた」と記述している。彼に要請されたのだ。何をか言わんやである。序に一言、私がマネジメント不能の不良理事であるのは、彼が早寝早起きの生活習慣であるのを知りながら、傲慢にも時間も見図らずに深夜に電話で再三叩き起こされたと言う意味のことを書いている。トンでもない言いがかりだ。私は早朝に態々時間を確かめて電話していたのである。しかし、私がマネージ不能だとの証拠は、この一件だけしか書かれていない。どのようなマネージ哲学なのか理解を超える。

 さて、良識派理事の言うことを一切聞くものか、友人西尾氏のアドバイスなぞ絶対に受け容れるものかと頑なになったアメリカ流マネージメントの達人種子島会長に魔の手が及んだ。彼が、本来戦うべきであった勢力が甘い言葉と詭弁で老会長を誘ったのだろう。「西尾幹二や藤岡信勝の言うことを聞くと産経新聞はこの会を見捨てるぞ、八木はフジ産経グループの絶大な信任を得ているぞ、八木の地方支部での人気は大きい、多くの全国会員達の信任を失うぞ」などと言う詭弁で説得されたのだろう。勿論、魔の手の集団は、「八木=宮崎=四人組=産経新聞某記者」である。

 さらに、静かな理事達はもう既に殆ど八木派だ、藤岡も福地も間もなく降参して我々の軍門に下る筈だなどと掻き口説いて、種子島氏を陣営の長老に改造したのではないのだろうか、などと性悪の小生などは勘ぐってしまうのだった。その情景を見ていないから推測だが、新田ブログに大量の理事会内外関係情報が掲載されている。それらを分析したならば、或いは確証が取れる可能性もある。だが、そんなことは時間の無駄だ。

 孰れにせよ、本会理事会の構成はフラットで、人員は多士済々である。だから、アメリカ流種子島マネージメントは全く馴染まないのだ。古いそして親しい友人との信義を尊重すべきだろう。理事達の意見を公平に聞き、そこから方針を決めてゆくべきであっただろう。本理事会のようなものでは、日本伝統の寄合合議が一番なのだ。仮令それらを古いとか、前近代的だとか、おとしめ揶揄する者達が出でてきたとて、何を懼れる必要があろうか。何を恥ずることがあろうぞ。ご自分の頭で考えたことが、こんなトンでもない魔の手に乗せられることであったのだ。三省、四省すべきではないか。

 犯罪は隠蔽しても良いが、合議は恥ずべきなどと言う頓珍漢をなぜ会長に選んだのだろうか、今となっては我々理事全体の不明を恥じるのみである。

 二ヶ月会長種子島経氏は、日本の社会良識を峻拒したがために、国際基準に反して犯罪者と手を組んでしまったがために、自ら犯した犯罪行為を隠蔽せざるを得なくなってしまった。詭弁と曲筆を弄して自己正当化に余念がない恥ずべき勢力の長老になると言う、パラドキシカルな運命をたどらざるを得なかった。今や、前老会長は奸知に長けた本来の敵である「八木=宮崎=四人組」におだてられて第二つくる会を立ち上げようとのアジ文書まで撒き散らす恥ずべき立場に立ってしまった。

 ああ無情と言う外ない。     

(了)

平成18(2006)年5月29日(月)

全国支部長・評議員合同会議の結果報告
原点に立ち返って「つくる会」運動を再構築へ
『新しい歴史・公民教科書』の普及活動を積極的に展開 次期総会(7月2日)で、新体制確立へ

  「つくる会」は、5月27日、東京港区の「友愛会館」で「全国支部長・評議員合同会議」を開催し、理事会から「理事会内における一連の紛糾」の経過と「つくる会」をめぐる動向について報告が行われ、この問題をめぐって活発な論議が行われた。論議は午後1時から5時まで4時間にわたったが、「つくる会」存続の問題にも関わる危機感を共有するなかで行われたため、真摯な協議となった。最終的には、今回の「理事会内における一連の紛糾」の集結を踏まえ、「原点に立ち返って『つくる会』運動を再構築していく」方向が拍手で確認された。

 理事会はこの会議の結果を受けて、7月2日に開催される「第9回定期総会」までには新会長を選出して新役員体制を確立し、「つくる会」運動の前進に向けた新方針を提案することとする。

  なお、会議では、(1)『新しい歴史・公民教科書』の普及活動を積極的に展開する(2)教育基本法の改正に関して「つくる会」の声明を発表することが報告され確認された。

  会議は、午後1時に高池会長代行のあいさつで開会、座長に高池会長代行を選出してスタートした。報告事項として新たに選出された新理事5名と監事1名の報告が行なわれ、出席した上杉千年、小林正、石井昌浩の3理事から理事就任に当たってのあいさつと力強い決意が述べられた。

新理事(4月30日 第89回理事会選出)
小川義男 私立狭山ケ丘高校校長
小林  正 元神奈川県教組執行委員長・元参議院議員
石井昌浩 元国立市教育長・拓殖大学客員教授
上杉千年 つくる会評議員・教科書問題研究家
濱野晃吉 つくる会大阪支部長・経営コンサルタント会社社長

新監事(5月26日 第90回理事会選出)
梅沢昇平 尚美学園大学教授
※第90回理事会では、5月22日、中西輝政理事から辞表が提出されたことが報告され承認された。

  続いて・『新しい歴史・公民教科書』の普及活動を積極的に展開する・教育基本法の改正に関して「つくる会」の声明を発表することが報告され確認された。

  次いで協議事項に入り、藤岡副会長から「『つくる会』をめぐる動向と対応の方針」について資料にもとづいて詳細な説明が行われた後、出席者全員による協議となった。

  この協議は、危機感を共有するなかで行われたため真摯に進められ、多くの質問、疑問、提案が支部長、評議員、理事から出された。なかでも「理事会内の紛糾」が長引いたことへの批判と「一刻も早い事態の収拾と新たな体制の確立とつくる会運動の方針を確立すべき」との要望、提案が数多く出された。最終的には、今回の「理事会内における一連の紛糾」の集結を踏まえ、「原点に立ち返って『つくる会』運動を再構築していく」方向が拍手で確認された。

 また、執行部から、論議のなかで、八木氏の中国訪問に関する「特別報告」も行われたことを追記する。
                        
-特別報告-

理事会が真に危惧していた八木氏らのもうひとつの”暴走”
中国社会科学院の企図する日本攻略に関して

平成18年5月27日
                       新しい歴史教科書をつくる会

 
  「つくる会」が目指した教科書改善・正常化運動の妨害者は、国内の左翼勢力のみならず、これと連動した中国、韓国、北朝鮮であることはもはや説明を要しない。  

  なかでも、中国(中国共産党)は、その中心的位置にある。日本の教科書の検定で、「侵略」を「進出」に書き換えさせたという「誤報事件」から1980年代以降の教科書問題はスタートしている。誤報事件を煽ったのは「朝日新聞」をはじめとする左翼マスコミであるが、これを利用して日本政府に圧力・攻撃を加え続けてきたのが、共産党による独裁国家・中国である。とすれば、私たち教科書改善・正常化を目指す者にとって、中国が”最大の敵”であることは言うまでもない。

  中国のねらいは、単に教科書問題に留まらない。あらゆる手段、工作を通じてアジアの覇権を確立するために日本を支配しようとしている。そのためのター ゲットが「教科書問題」や「靖国問題」を貫く「歴史認識」問題なのである。
 
  そのことを理解すること無しに、執拗な教科書・靖国攻撃を理解することはできない。つまり中国は国策としてこれを行っているのであり、「話せばわかる」というレベルの問題ではない。中国はありとあらゆる手段を通じて工作してくる国なのである。中国が如何に教科書問題を重視しているかは、あの執拗な攻撃と、南京の「大屠殺記念館」に、その象徴として「つくる会」副会長の藤岡信勝氏の写真を掲出していることを見ればすでに明らかである。

  私たちが好むと好まざるとにかかわらず、「つくる会」は中国にとってそれ程「目障り」な存在であり、それゆえに「ありとあらゆる手段を通じて工作する」対象なのである。
 
  中国の最近の動向が如何に危険なものであるかは、中西輝政氏が、『正論』4月号で「中国の対日工作を予言していた米国の『防諜官』の驚愕証言に学べ」という論文を書き、『文芸春秋』6月号でも「日中戦争はもう始まっている」と題して警鐘を乱打しているとおりである。「つくる会」もこの認識を持たなければならないことはいうまでもない。
 
  このような状況のなかで、八木氏らは昨年12月中旬、「つくる会」の事務局職員有志の観光視察旅行に同行する形で中国を訪問した。盧溝橋にある「中国人民抗日記念館」や南京にある「南京大屠殺記念館」等一連の反日施設の見学がその目的であったということであるが、それに留まっているかぎり、特に問題はない。
 
  しかし、その視察旅行のなかで「つくる会」会長であった八木氏が、中国社会科学院日本研究所を訪れ、蒋立峰所長等と『新しい歴史教科書』を巡って意見交換をする機会を得」たという。ことがここに及ぶと、これは全く別次元の問題となる。八木氏は、この意見交換の内容について、『正論』3月号、4月号で公表しており彼の頭のなかに、この行為が問題であるとの認識は全くなかったようである。先に述べたとおり、中国は「つくる会」にとって「最大の敵」なのである。その中国に「つくる会」の会長が乗り込んで「意見交換」を行うとするならば、「つくる会」にとって大きな方針転換であり、当然、執行部会や理事会で慎重な協議を尽くした上で、十分な準備を行って臨まなければならない大問題である。しかし、私たちは、中国側との対話を全く無意味だと言っているのではない。八木氏は執行部会にも理事会にも全く相談することなく、「意見交換」に臨んだのである。これは、完全な「会長独断による暴走」である。このような「暴走」が、如何に危ういものであるかは、中西輝政氏の指摘するとおりである。そればかりではない。産経新聞5月18日付の報道によると、今度は「中国社会科学院の蒋立峰・日本研究所所長等研究者グループが来日し、新田均氏ら日本側研究者と激論を交わした」「両者は今後も互いの主張を戦わせる機会を設ける」とのことである。

  この日本での討論が、何処で行われ、新田氏の他にどのようなメンバーが参加していたのかは不明であるが、4月30日に、「つくる会」内部における一連の謀略等不祥事を行ったことに起因して、和解の呼びかけを振り切って理事を辞任せざるを得なかった人々と、中国の国家機関である中国社会科学院・日本研究所所長等研究者グループが再び会ったということの重大な意味を、八木氏等は認識できないのであろうか。これでは、中国が狙っていた「つくる会」の分断にやすやすと成功したということになるのである。
 
  しかも、今回の中国側の来日が、当時会長であった八木氏の手紙による提案によって行われたものであることが、その後の調査で明らかになった。八木氏は、昨年末、蒋立峰所長宛のお礼の手紙のなかで「正式に合同研究シンポジウム公開討論会のことを提案」していたのである。もちろん、執行部会や理事会に相談することなく全くの独断である。会員の皆様には、この八木氏の独断的行動が会長としてふさわしいのかどうかはご理解いただけるのではないかと思う。
 
  こう考えると、もし4月30日に八木氏と4理事が辞任していなければ、「つくる会」内部での十分な議論も準備もないまま中国との交流路線が「つくる会」の方針にされてしまった危険性が十分にあったのである。

  これは明らかに中国の国家機関が仕掛けてきた工作である。否、中国側が仕掛けたのではなく、八木氏らが「飛んで火にいる夏の虫」になったのである。中国側はこれは利用できると考えたのであろう。中国は「意見交換」などどうでもよいのである。「つくる会」会長であった八木氏との交流が明らかになれば、「つくる会」の内部に混乱が生じ、うまくいけば、会の分裂=弱体化が起こると踏んだ中国側の工作がそこから始まったのである。そして、八木氏らは、結果として中国が意図したとおり行動した。中国側の、工作がまずひとつまんまと成功したということになる。

  八木氏は、当初多くの会員の期待を集めていたが、残念ながら、その期待に応えるような人物ではなかったという結論にならざるをえない。
 
  このような報告を会員に対して行うことも、ある意味では中国側を利することになることは十分承知している。しかし、八木氏らのグループによってその後も「つくる会」つぶしの悪質な言動が続いていることを看過することはできないことから、「つくる会」を守るために敢えて公表するものである。

  桜井よしこ氏が5月21日付産経新聞紙上で「いま、中国に重宝がられる首相を選んではならない」と言っているように、「つくる会」は「いま、中国に重宝がられる会長を選んではならない」のである。八木氏には、この重大な過ちに一日も早く気づいてほしいものである。

  理事会は、このような理不尽な妨害をはねのけ、7月開催の第9回定期総会において新たな体制を確立し、教科書改善運動の一層の前進を計っていく決意である。
以上

ペテン師の文章

 種子島氏がどこかのブログを借りて書いたという「狂乱の春―『つくる会』会長職2ヶ月」を友人が読むように転送してくれた。いま私は「続・つくる会顛末記」を連載中で、すでに四節まで書き上げていて、第四節に「旧友種子島君の思い出」も記し終えた。また第六節でコンピュータ問題における種子島氏の過失と責任にも言及する予定になっている。

 連載には流れがあるので、彼の「狂乱の春」への感想を連載とは切り離して、以下簡単に箇条書きで記しておく。

、 種子島氏はコンピュータは今動いていて問題はない、というが導入に巨額の金のかかったことが問題。また今動いていても保守がなされなければ昨年のようにいつ再び不調になるか分らない。それがコンピュータというもの。3年前にきちんとした保守契約がなされなかったことが問題。というか、相見積をとるなどの、契約そのものの観念がなかったことが問題。責任は宮崎氏に3分、財務担当理事の種子島氏に7分あると私は思っている。

、 「怪メール事件」は些細な問題で、まともに取り上げるほうがおかしいと言わんばかりの口調だが、社会的にやって善いことと悪いことの自覚のない40-50歳代の前理事たちと同じスタンスでいいのか。彼らの卑劣を批判し、彼らから離れたいとむしろ思う違和感、ないし恐怖感はなかったのか。貴方の正義感はその程度のものなのか。社会人として指導者的立場にあった人の今までの道徳意識が疑わしいものに思われてくる。

 藤岡氏を批判するのと決してレベルを下げずに、八木、新田、渡辺の諸氏は厳しく批判されるべきだというバランス感覚は貴方にはまるきりなく、一方を真黒、他方を真白に描いている。私はそんな描き方はしていない。私は藤岡氏にも厳しい。70歳を越えて、黒か白か、の単純区分けでしか人間を見分けることができない種子島氏はじつに情ない。

、宮崎事務局長の能力不足、不適格の問題点にはいっさい触れられていない。そもそもこれが発端であったはずだ。しかも問題の最初の提起者が種子島氏自身であったことは前回の日録で私が実証しておいた。いま種子島氏は宮崎氏を合格と見ているが、これは氏のもともとの自説に反する。

、事務局員の八木支持、全国会員の八木支持の圧倒的優位云々、と氏は言っているが、まず事務局から反八木派二人の事務員は虐められて、追い出された。残った三人の男性は特殊な八木親衛隊である。ファクス通信の不法利用を見れば、分るだろう。全国会員の圧倒的八木支持という話は聞いていない。

、福地氏が会長補佐を売りこんだと書かれているが、福地氏は種子島氏に呼び出されて会長補佐を頼まれたのが真実という。寝ている時間に電話で起したことは、それは一度くらいあったかもしれないが、生活習慣を知らぬうちの話で、種子島氏がこういう個人的な自分の事情で他人を誹謗するのは見苦しい。

、八木氏を降ろすための宮崎更迭というような観点が西尾にあったかのごときもの言いをしているが、そもそも私の中にそのような思考はない。第一、八木氏に対して私は敵対感情などをまったく持っていなかった。私は彼を可愛がっていたのである。関係がおかしくなったのは、昨年の11月頃の八木氏の態度変更、遠藤、福田、工藤三氏が八木氏に不信感情をもつようになったときと同時期である。あのころにわかに彼はふてぶてしくなった。礼節を失った。そう思った。聞く処では過去にも八木氏は勤務先で上司に対し類似のトラブルを起こしているという。そういうタイプの人だと私は知らなかったのが不覚。

、八木氏の中国行きにまったく触れられていないのは種子島氏文書の致命的欠点である。氏は「つくる会」を社会的機能でしか見ていない。あるいは政治的機能もしくは国家的観点で見ることがない。

 種子島君、私は会長になった貴方に、少し大袈裟になるが貴方は日本政治の中枢の一部に触れているのですよ、とくれぐれも「国家」の視点を忘れないで、と言ったことを覚えていますか。

 産経新聞から見捨てられたら教科書の会はつづかない、という一点だけで問題を考えるのではなく、謀略戦相次ぐ国際政治の唯中にある産経新聞、そして「つくる会」のあり方、これを忘れてはいけないという意味である。ときにはつくる会は産経新聞に警告を発し、これをリードするくらいの気概でなければいけない。

、最後に、どうしても分らないのは、種子島氏には次期会長を誰にするかを皆に諮って決めるのが順当だったのに、どうして自分は全権を委任されていると最初から決めこんでいたのかという点である。この点の謎は前にも問うたが、今度も答えられていない。

 残念ながら「狂乱の春」は「狂乱の文」であった。自分に都合のいいことだけを拾い出して、「呪い」「天動説」などの奇抜な言葉で人を釣り、人を操り、問題の真実から目を外らさせる詐欺師の文章である。

 なによりも自分というものが批判されていない。自分の好都合を述べるだけでは、半面を知る人間からは嘲られるが落ちである。