武田修志氏の『文学評論』ご論評

 前回、全集編集でいかに苦労しているかを報告したが、いつものように武田修志さん(鳥取大教授)から次のようなご論評をいたゞくと、大変に安堵し、苦労も消し飛ぶ。最初の方に私を評し「忍耐強い」という言葉が出てくるだろう。これは誰も言ってくれなかったが、誰かがきっとそう言ってくれるだろう、と久しく期待しているうれしい言葉でもあったのだ。

前略。
『全集第九巻 文学評論』を拝読いたしましたので、いつものように、短い感想を書かせていただきます。

今回の文学評論、文芸時評の八百ページは、月刊文芸誌を読まないできた私には、ほぼすべてが初読の御文章でした。それで、これら初見の時評、論文を読んで、新たに見えてきた西尾先生の姿が何かあったかと言えば、正直に言って、格別こうと言えるものに気づくことはできませんでしたが、しかし、これまでになかったある陰影が先生の姿に加わりました。それは、時評家としての先生が、大変に穏やかで忍耐強く、無私に徹しておられるお姿です。実に丁寧に「現実」と付き合っておられますね。つまり、月々に発表されるあまたの作品を丹念に読んで、しかし、自分を主張することをできるだけ控えて、この上なく丁寧に、一作一作に対応しておられるように読めました。単に丁寧な対応というだけではなく、時代の抱えている根本的な問題に対する洞察を持っておられので、個々の作品、個々の作家に対しても、作家自身の無意識の問題を的確に指摘することがおできになったのだと思います。ひと言で言えば、先生はある時期、日本の文学界が持った最良の時評家であったのだということを、今回この全集第九巻で初めて知ったような次第です。

印象に残っている言葉、論考について、以下に少し書いてみたいと思います。
649ページ、磯田光一氏の『戦後史の空間』を高く評価する論評の終わりに、こういう言葉が読まれます、「・・一つの疑問は、氏のすべての作業が相対化のための操作、つまり歴史に対する傍観の立場にのみとどまり、未来形成のための氏自身の行動の質がこれではまったく不明だということである。」ー「未来形成のため」という言葉が、私にはたいへん印象に残りました。こういう批判を先生がなさるということは、言うまでもなく、新しい見方を教えてくれる歴史分析も、その究極の役割は、我々の未来を開く、我々の魂を救うところにあるはずだという考えを先生がお持ちだということです。そういう考えは一つの常識かと思えますが、しかし、こういう批判が出てくるためには、批判者がまず、我々の未来にたいして責任を感じているということがなければなりません。短い時評文でも、先生のもの言いには、先生の誠実、責任感がにじみ出ていて、批評された作家にも、心に響くものがあったろうと、私はこういう小さな箇所で感じ取りました。

第一部「初期批評」中の論文「観念の見取図」は、当時、『鴎外 闘う家長』の読者をあっと言わせたことでしょうね。胸のすくような見事な論考だと思います。丸谷才一氏にはそもそも関心を持ったことがないのですが、山崎正和氏の『鴎外 闘う家長』は、実は私も大学生の時に読んでたいへん感心した一人です。大学にはいる直前に江藤淳氏の『夏目漱石』に出会い、文学には評論というジャンルもあることを初めて知り、今度は大学の三年生か四年生頃、『鴎外 闘う家長』を読んで、これにも魅了されて、ちょうど配本され始めた岩波の?外全集を予約するきっかけになったように記憶しています。当時、先生のこの評論をもし読んでいれば、今度は先生に百パーセント説得されて、自分の読みの表面的であることに、さぞかしがっかりしたことでしょう。自分の観念の見取図を最初に作っておき、それに合致する具体的事実のみを拾っていくーこういうやり方は、たしかに、当時の私のように、まだろくろく鴎外を読んでおらず、自分の鴎外像の描けていない多くの読者には、きわめて理解しやすく、評判を得ることになったのでしょう。

また、山崎氏の鴎外像が理解しやすかったというのは、これも先生が御指摘の通り、この「闘う孤独な家長」という鴎外像が当時の「通年によりかかっていた」せいですね。私なども、読んで、この鴎外は「かっこいいなあ」というふうに思ったことを思い出します。 そのほか、この評論の中には、次のような批評家心得第一条と言った言葉も読むことができ、私のような者にとっては、今読んでも教えられるところの多い魅力的な論文です。「批評は、たしかに対象を創り出す作業だが、しかし、批評家の自己表現の道具として、恣意的な虚構をつくり上げればそれでいいというものではない。批評は、いってみれば、いったん自分を捨てて、どこまでも対象に拘束されてみようとする意欲によって成り立つ行為ではないだろうか。単なる認識でもなければ、単なる想像でもない。客観的にとらえることでもなければ、主観的に解釈することでもない。過去にしばられ、過去の中に感情移入し、過去の声をよみがえらせ、それによってはじめて自分を表現できるのではなかろうか。」

第Ⅵ部の作家論で、今回私にとって最も心に残ったのは「石原慎太郎」論です。これを読んで初めて、石原慎太郎を一度読んでみようかという気持ちになりました。これまで、産経新聞で何度か氏の文章に接したことはありますが、読むたびに「この人は日本語の初歩文法がわかっていないのではなかろうか」という疑念にとらえられて、全く読む気がしなかったのです。 この論文は非常によい石原文学の案内になっているのではないかと思います。「太陽の季節」すらまともに読んでいない私も、石原文学を理解するには、先生の引き合いに出しておられる初期作品が大事であろうということが分かるように書かれています。

それから、これは文学論ではありませんが、445ページにおいて、石原氏が非常に広い視野の持ち主であることに触れて、ホーキング博士の講演を、氏が聴きに行ったときのことが述べられています。その際のホーキング博士の「どんな星でも地球のように文明が進みすぎると、その星は極めて不安定になり、加速度的に自滅してしまうのです」という答に、「石原氏は・・・衝撃を受けた」と書いてあります。この場面は、石原という人は信頼するに足る人だという感じがよく出ていて、印象に残りました。(ホーキング博士の「答」は初めて聞きましたが、これは本当に「衝撃的」です。)

第Ⅱ部「日本文学管見」の諸論文はすべて二度あるいは三度読んで勉強させていただきました。「人生批評としての戯作」は特に興味深い論文でした。この論の中に「『通』はひょっとしたら無自覚ながら絶対者なき風土における絶対者の役割をはたしていたのかもしれない。」という一文があり、心に残りました。近代日本においては、これが「教養」ということになったのかもしれないと考えました。「本当に人が完全な『通』になることは可能なことなのだろうか。・・・むしろ自分は『半可通』であることをたえず意識していることが、わずかに『野暮』に落ちずにすむ最後の一線なのではないだろうか。」近代においても、いよいよ絶対者はいなくなり、わずかに教養あることが最後の価値であるかもしれないけれども、教養ある人というのは、せいぜい自分が教養がないということを自覚している人にすぎない・・・というわけです。 そのほかにも、この論文は考えさせるところの多いものでした。

全体800ページの中で、第Ⅶ部「掌編」の中の「トナカイの置物ー加賀乙彦とソ連の旅」は、ほかの文章と比べて、相当に毛色が変わっていて、とても愉快に読むことができました。ほかの文章からは思い描けない先生のお姿も、ここで看取できたように思います。 第Ⅲ部「現代文明と文学」では、「オウム真理教と現代文明」を何度も読み返しました。力作評論ですが、先生も、オウム事件をどう読み解いたらいいか、この論文執筆の時点では、あれこれ考えあぐねておられるようにも感じ取られました。私は、ハイデッガーの「退屈論」を知りませんでしたので、この紹介が最も参考になりました。

こんなふうに一つ一つ取り上げていっても切りがありません。柏原兵三氏の作品はいわゆるベルリンものを読んだことがありますが、機会があったら氏の著作集を読んでみたいと思います。先生と「親友」であった作家、それだけでも興味が持てます。
綱淵謙錠氏の『斬』は、今読みかけているところです。夜、蒲団にはいって読みかけましたが、途中で、「これは悪い夢を見る」と、いささか気味が悪くなって、しばらく放ってあります。先生の解説は、要領を得ているだけではなく、著者にも教えるところがあったのではないでしょうか。
そのほか、先生の書評を読んで読みたくなった本や作家は相当多数ありました。

いつものごとく尻切れトンボですが、今日はこれにて失礼いたします。
御健康に留意なさいまして、ますます御活躍下さいませ。

上記の中で「人生批評としての劇作」について、「通」に日本近世社会における「絶対者」の役割を見ているという私の指摘に関心を寄せて下さってありがとう、と申し上げたい。西洋の近世文学と江戸文化の比較がもっとなされるべきと思う。

それなら武田さん、拙論中の「明治初期の日本語と現代における『言文不一致』をどうお考えになっただろうか。「後記」の第3節に三論文共通のテーマとして取り上げ、帯の文としても出しておいたあの言葉と音、文字と声のテーマについてである。お考えがあればおきかせ下さい。

ともあれ拙著の内容をよく読みこんでいる、レベルの高いご論考をいただいたと認識しました。

九巻帯表

日本の現代小説が朗読になじまないこと、評論や学術論文はさらに耳で聴いて分かるようには書かれていないことに大きな問題が感じられる。言葉は半ばは音であり、声である。文学作品が与える感動は作品と作家を背後から支える何かある「声」に由来する。作家は何かに動かされて語っているのであって、その何かを自分ひとりの力で「描く」ことはできない。(「後記」より)

九巻帯裏

西尾さんと「新潮」   元「新潮」編集長 坂本忠雄氏
この決定版全集の「内容見本」で、西尾さんは「同じことを二度書かないのが私の秘かなプライド」と述べているが、実に多岐にわたる全寄稿文でもそれが実行されているのは自分の思索を行為と同次元においているためだろう。人間の行為は厳密にいえば繰り返しはないのだから。・・・・「新潮」は戦前は文壇雑誌そのものだったが、戦後の再出発に当って昭和21年の坂口安吾「堕落論」を皮切りに、文学を詩・小説・文芸評論の枠から広げ、文学の文章によってその時代の文化の精髄を読者に伝える役割も果たしてきた。西尾さんが敬愛する小林秀雄、福田恆存、田中美知太郎、竹山道雄等の後を引継ぎ、この新しい領域を次々に切り拓いたことを、私は同世代の編集者として心から感謝している。
(「月報」より) 

高橋史朗氏の本の書評

日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと 日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと
(2014/01/29)
高橋史朗

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日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと
高橋史朗著(致知出版)  評・西尾幹二

作られた対日誤解や偏見

 共産党の国際機関であるコミンテルンの歴史観は日清・日露戦争も含めて日本の近代そのものを侵略戦争の歴史だと考えていた。アメリカは戦後、そんな共産主義者を利用して占領政策を実施した。日教組をつくったのもその一つだが、ソ連のコミンテルン史観とアメリカの「太平洋戦争」史観が合体し、戦後日本の歴史教育の基本となった。日本人はいわば「義眼」をはめられ、それ以来70年も外せずに今日に至っている、と著者は言い、次々と気づかないで来た事例を挙げている。

 原爆投下に対しトルーマン大統領は「獣と接するときは相手を獣として扱わねばならない」と言ったそうだ。占領軍は欧米の帝国主義への批判は許さず、「日本人は生まれつき攻撃的・侵略的・軍国主義的な国民」であると決めつけた。たくさんの日本語の使用を禁じた。「国体」や「皇国の道」の禁止は知られているが、「国家」「国民」「わが国」が禁じられていたとは私も知らなかった。「わが国」の「わが」は愛国心に繫がるからだそうである。

 臆病なまでに占領軍に気がねし自主規制したケースとして「君が代」を音楽の教科書に載せなかった文部省の例がある。敗戦の衝撃の心理現象と見るが、アメリカでは日本人の民族的性格をフロイト流に病理学的に解釈したルース・ベネディクト『菊と刀』にみられる誤解と偏見が戦中にすでに設定されていた。日本は女性蔑視の国とか、弱者虐待の国とかいう思い込みが先にあり、それが「伝統的攻撃性」を生んだと勝手な解釈に及んでいた。

 本書が、ジェフリー・ゴーラーという社会人類学者の日本人の国民性の矛盾分析、乳幼児期の厳しい用便の躾(しつけ)(トイレット・トレーニング)に矛盾の原因があるとする、首を傾(かし)げたくなるような分析を取り上げ、ベネディクトへの影響を論究しているのは新発見である。

著者は本書を中国に起こった『菊と刀』ブームから書き始めている。欧米人の対日誤解や偏見は中国に受け継がれている。否、中国人は受け継ぎたがっている。そこに現代への本書の問いかけがある。

出展 産経新聞4月6日

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(四)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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宮崎正弘氏の書評

西尾幹二『GHQ焚書図書開封9 アメリカからの宣戦布告』(徳間書店)
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 このシリーズ、はやくも第九巻である。初巻から愛読してきた評者としては一種の感慨がある。今回、焦点が当てられるのは、GHQがまっさきに没収した『大東亜戦争調査会』叢書である。

 これが日本国民に広く読まれるとまずい、アメリカにとって不都合なことが山のようにかかれていて、戦争犯罪がどちらか、正義がどちらにあるかが判然となるので焚書扱いしたのだ。

 ところが、GHQ史観にたって戦後、アメリカの御用学者のような、歴史をねじ曲げた解釈が横行し、いまもその先頭に立って占領軍史観を代弁しているのが半藤一利、北岡伸一、加藤陽子らである、と西尾氏は言う。かれらの主張は『語るに値しない』と断言されている。

 当時のシナは「内乱」状態であり、さらにいえば「いまの中国だって、内乱状態にあるといっても言い過ぎではありません。

1960-70年代の毛沢東の文化大革命だって内乱のうちに入ります。ところが戦後に書かれた日本の歴史書は中国をまともな国家として扱っています。

中国を主権をもったひとつの国家であるがごとく扱っています。しかしシナとはそんなところではなかった。日本はなんとかしてシナを普通の国にしようと努力した」というのが歴史の真相に近いのである。

 アメリカは端から日本に戦争をしかける気で石油禁輸、在米資産凍結、パナマ運河通行禁止などと戦争とは変わらない措置を講じた。ルーズベルト大統領が狂っていたからだ。だから「悪魔的であった」と『大東亜戦争調査会』の叢書は書いた。

 同書には次の記述がある。
 「通商条約は破棄され、日米関係は無条約状態に入ったとはいえ、外交交渉は引き続き継続されていたのである。その最中において、かくも悪辣きわまる圧迫手段を実行した米国の非礼と残虐性とは、天人ともに許されざるところである」
と。

 けっきょく、アメリカの悪逆なる政治宣伝と強引な禁輸政策によって日本は立ち上がらざるを得ないところまで追い込まれた。日本は自衛のために、そしてアジア解放のために立った。

 だからアジア解放史観を絶対に認めないアメリカは、その「宿痾」に陥った。しかし「アメリカがこれを認める日がこない限り、真の意味での、すなわち両国対等の『日米同盟』は成立しない」のである。

 いま、世界中で反日プロパガンダを展開しているのは中国と韓国だが、『正しい歴史』をもってアメリカ人を説得するために、国家を挙げて日本はお金を使えと西尾氏は提言される。

 つまり「国家を挙げて外交戦略とプロパガンダを繰り広げること。いいかえれば、外務省が『戦う外務省』となること、それが必要です。これを措いては、中韓の反日宣伝に対抗する方法はない」

 事態はそこまできた。日本の主張を声高に正々堂々と世界に発信する必要があり、外務省はそのために粉骨砕身努力せよ!
         

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(三)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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アマゾンレビューより

By 真実真理

 本書は、日本を苦しめることになる1922年の9カ国条約の成立、ワシントン体制以後の史実を、第1部において、米英の東亜攪乱(毎日新聞社、昭和18年9月)、満州の過去と将来(長野朗 昭和6年10月)を参照し、第2部において、米英挑戦の真相(毎日新聞社、昭和18年6月)、米国の世界侵略(同、5月)を引用して、著者が解説した本である。

 日本は、日清戦争後のロシアの満州への領土拡張に自国防衛の危機を感じ、満州及び朝鮮からロシアを排斥する日露戦争を戦い勝利した。日本は、1905年のポーツマス講和条約により、南満州(関東州)、南満州鉄道及びその付属地に対する権益を得た。

 元来、満州は、清王朝を建国した満州民族の土地であり、清朝時代には行政権は及ばず、漢民族は万里の長城を超えて満州に入ることが禁止されていた(封禁の地)。1911年の辛亥革命により清朝が崩壊し、支那本土及び満州、内モンゴルは、各地で匪賊、軍属が支配し政府のない混沌とした状態であった。

 資源や生産物がなく、人口過剰の日本は、生命線を求めて、この満州に投資を拡大させた。1930年における投資比率は、日本70%、ソ連26%、米国1%、英国1%であった。また、1928~30年に掛けて、世界恐慌による米国の日本からの輸入品排斥のための高関税(ホーリースムート法)の実施、英国領への輸入禁止(ブロック経済)により、ブロックを持たない日本は、生きて行くため満州への投資を拡大させざるを得なかった。

 この間、1917年に、米国は満州及び内モンゴルにおける日本の特殊権益を認めるという石井-ランシング協定が米国との間で成立した。しかし、国際連盟に加入しなかった米国は、1921~22年に、日本を抑圧し、自らの海軍力を増強し要塞の整備のために、ワシントン会議を主催した。

 この会議において、米国は、満州における権益獲得のため、石井-ランシング協定を破棄し日英同盟を破棄させ、支那における機会均等、門戸開放、主権尊重を提唱する9カ国条約を成立させた(ワシントン体制)。

 しかし、このワシントン体制は、満州における権益の獲得を目指す米国が支那に加担し、これが支那を増長させ支那を条約無視(革命外交)に走らせた。これにより、ワシントン体制は1927年頃には崩壊して行くことになる。

満州は、日本人による満州鉄道及び付属地の発展、工業化により豊かになると、混乱の極みにある支那本土から豊かで平和な生活を求めて多くの漢民族が流入してきた。それにより漢民族が繁栄すると、漢民族は、満州人、蒙古人、朝鮮人、日本人を排斥し、多くの反日運動、匪賊による暴動が、支那及び満州において頻発した(この時の支那の事情は、満州事変と重光駐華公使報告書に詳しい)。

 このような混乱の中、1931年9月18日に、満州の安寧を目的として満州事変が起こるべくして起こった。その後、満州に、政治行政を至らしめるため、1932年に、5民族の共和による満州国が建国された(この時の日本人の情熱を持った公正な国造りは、見果てぬ夢 満州国外史 星野直樹 ダイヤモンド社に詳しい。)。

 この日本の行為に対して国際連盟は、リットン調査団(米国は連盟加盟国でないにもかかわらず団員が任命されている)を派遣して、満州事情を調査させた。

 報告書によると、満州は特殊な土地であり、単に日本が侵略占領したという単純な問題ではない、満州の事情に精通した者のみが適正な判断をする資格を有するとしているが、満州を国際連盟による管理とすることを結論とした。

 これに対して、日本の松岡全権は、「匪賊や不逞漢の跳梁するこの国を連盟管理で治安が維持できるとすることは、事情を熟知している日本から見ると荒唐無稽であり、有り得ないことである。人類は2000年前にナザレのイエスを十字架に懸けたが、今ではそれを後悔し世界はイエスを理解している。諸君は日本の行為を誤解し、日本をイエスと同じく十字架に懸けようとしているが、いずれ後悔し日本の行為は理解される日が来るであろう。」という各国代表に強い感銘を与えた有名な十字架演説を連盟総会で行っている。

 1937年7月7日に、支那側の挑発により支那事変が勃発したが、連盟を主導する英国は、非同盟国の米国を引きづり込むため、9カ国条約会議を開催し、日本を9ケ国条約違反として断罪するつもりであった。

 しかし、日本は、支那事変は支那側の挑発に対する自衛行動であるので、9ケ国条約の範囲外である、解決の要諦は支那が自粛自省し、日本との提携政策に転向することである、支那の事情を知らない東亜に関係の薄い諸国が会議において解決を図るのは却って有害であると、会議への参加を拒絶した。英国は米国ばかりでなくソ連も利用して日本を抑圧しようとしたが、英国と支那の連盟工作は実質上失敗に終わった、とある。

 また、本書第2部においては、米国の対日経済圧迫、対日石油圧迫、経済封鎖、資産封鎖、国際連盟の名を借りた英米の世界制覇、世界の1/3を占めた覇権国家・英米への日本の正当なる反逆について記述されている。

米国は、1939年7月26日、30年間、友好親善の礎となってきた日米通商条約の破棄を、突然、一方的に日本に通告した。これは、日本への輸出を自由に禁止できるようにするためであった。

 以後、米国は、1941年8月1日に石油の全面輸出禁止に至るまで、航空機燃料、機械、屑鉄、非鉄金属などほぼ全ての材料、商品につき、漸次、日本への輸出を禁止した。この間、米国は、自国からの輸出だけでなく、フィリピン、南米から日本への輸出を禁止させ、英国、オランダに対して東南アジアから日本へのゴム、錫などの資源の輸出を禁止させ、米の輸出を妨害した。また、米国は、日本とオランダとの石油輸入交渉を妨害し、オランダ領インドネシアからの石油の輸出を禁止させ、日本船のパナマ運河の通行を禁止した。また、支那及び米国本土において、日本製品を排斥し、第2次上海事変(1937年8月)でのプロパガンダ写真を流布するなど、反日世論の形成に手段を選ばなかった。航空機及びその部品の日本への輸出禁止は、通商条約破棄前に既に行われていた。

 遂に、米国は、1941年7月25日に在米日本資産を完全に凍結し日本の商業活動を完全に停止させ、8月1日には全面対日石油輸出禁止に踏み切きる一方、中立法を改正し武器貸与法を成立させ、資金、武器、軍人などの蒋介石への援助を増大させ、南京から日本本土への空爆を立案している(予備役、退役米軍人フライングタイガーの南京への派兵、ルーズベルトは出撃同意書に署名している)。

 このとき、米国は、日本を窒息させる政策を行えば、日本を容易に屈伏させることができると考えていた。これにより、日本は、戦力と経済力が日々低下する中、否応なしに屈伏か、決起かの決断を強要されたとある。

 最後に、経済封鎖について、次のように記述している。
 平時封鎖は、戦闘が行われていないにも係わらず、強国がその専横を欲しいままにするため牽強付会の理屈を付けて弱国を虐げる用具としたもので、本質上敵性を有していることは議論の余地がない。したがって、被封鎖国は、当然に、これを何時でも戦争原因と見做し得るのである。
 逆に、弱小国が強国の港湾を単に封鎖しただけでも、強国は、直ちに、戦争を開始するのは必定である。
 このような我が儘な慣行は、建設されるべき世界秩序において容認できない。現実に即して考えれば、かくのごとき圧迫手段のために苦痛を蒙るものは、持たざる国とその国民のみである。
 豊富な資源と強力な海軍力を有するアングロサクソンは、この種の圧迫に対して何ら痛痒をも感じることはない。

 経済封鎖は、米英が自己保持のため、帝国主義的進出のために、仮借なき経済戦争を極力普及させて、世界制覇の夢を実現する手段とするものである。
 係る利己的制度は、国際連盟そのものと共に、新秩序下においてはこれを解消せしむべきこと勿論である。と記載している。

米国が連盟加盟国と結託して、日本を完全に経済封鎖し、外国から資源、材料が日本に完全に輸入されなくなったことが戦争の原因であるとする。

 本書に記載された米英の日本への軍事、経済圧迫は、東條英機の宣誓供述書の内容と完全に一致する。

 本書は、歴史の真実を追究し、日本の自虐史観を改めるに必須の書籍である。戦後、日本は一方的に侵略戦争を仕掛けて、アジアに迷惑を掛けてきたと教育され、それを疑わないできた日本人、特に、政治家、評論家、ジャーナリスト、学者などは、本シリーズ第5巻~8巻を合わせて、必読すべきである。
 多くの日本人が是非とも読まれることを薦める。

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(二)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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アメリカは、どのように「対日宣戦布告」をしたのか?, 2014/3/25

By閑居人

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) (単行本)

「GHQ焚書図書開封」も九巻目を迎えた。日本人が二度と「白人」と「キリスト教文明」に立ち向かわないために、GHQが秘密裏に行った「日本人からの歴史の簒奪」は、本シリーズでの開示によって、隠されていた真実が静かに読者に浸透していきつつある。

本巻では、前巻に引き続き、「日米百年戦争」の一環として「ワシントン会議から始まる英米主導の第一次大戦後の国際関係の中で起きた様々な出来事」が主題とされる。「ワシントン体制と満州事変、満州国成立と国際連盟脱退、支那事変とその拡大、そして日米開戦に至るプロセス」が語られていく。
著者は、全体を二つに分け、前半では歴史的事件の概略を紹介する。後半では、昭和十八年に毎日新聞から公刊された「大東亜戦争調査會篇」叢書をもとに、アメリカが計画的に日本を追い詰め、「経済戦争」に踏み切ることによって、日本が軍事的に「先制攻撃」を仕掛けざるをえないところに、《いかに巧妙に、そしていかに執拗に》追い込んでいったかを語ろうとする。
「戦後われわれの視野から隠されてきた(或いは日本人が忘れようとして眼を塞いできた)、我が国が開戦せざるを得なかったあのときの国際情勢、気が狂ったようなアメリカの暴戻と戦争挑発、ぎりぎりまで忍耐しながらも国家の尊厳をそこまで踏みにじられては起つ以外になかった我が国の血を吐く思い」(本書まえがき)が、この「大東亜戦争調査會篇『米英挑戦の真相』」に、具体的に、冷静な筆致で描かれている。
解説を交えて、このことを語ろうとする著者の口調も冷静そのものである。それは、恐らく、著者が、「大東亜戦争の真実」について、公正で、深い洞察に充ち満ちた分析と考察を残した「大東亜戦争調査會」への敬意を禁じ得ないからだろうと思われる。

本シリーズの「第一巻」で、著者は、GHQが秘密裏に没収した「連合国軍総司令指令『没収指定図書総目録』」の存在とGHQの動機を解明している。
GHQが行っていた「検閲」については、江藤淳の一連の著作によって知られていたが、没収された図書については、つい最近まで着目されなかった。著者は、十数年前にこの事実に気づき、また、既に千数百点収集していた水島聡氏に勧められて本シリーズの刊行を決意した。
(参考までに言えば、隔月刊行雑誌「歴史通」2013,5は、七千冊以上の没収本のうち六千冊を、鎌倉の自宅の書庫に集めた澤瀧氏をグラビアと関連記事で紹介している。)
著者が書くように、この「没収図書の選定」に、法学界の長老牧野英一(刑法)、若き東大助教授尾高邦雄(社会学)、金子武蔵(哲学・倫理学) が関与していた事実は衝撃的なことだった。なぜなら、本シリーズを読めば理解できる通り、没収された書物は、いずれも当時の日本人の観察力の高さと知性と洞察力を証明するものであるからである。いわば「日本人の誇りと存在証明」というべきものを抹殺することが何を意味するか、「分からなかった」とは口が裂けても言えないことであるからである。
著者も触れているが、最近、渡辺惣樹氏が丁寧な解題をつけて翻訳した「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」(米国陸軍戦略研究所、ジェフリー・レコード)は、戦前のアメリカ政治の正当性を擁護する「歴史正統派の論理」で、「経済戦争を仕掛けたアメリカは真珠湾以前に実質的に宣戦布告をしたも同然だ」という「歴史修正派」と同じ結論を述べている。「修正派」はアメリカでは少数派であるが、戦前の日本の主張とほぼ同様の考察を示している。こういったことは注目すべきことだ。

本書は、「GHQに没収された図書」を通して「日本を取り戻そうとする試み」の一環である、と捉えることもできるだろう。

『GHQ焚書図書開封 9』の刊行(一)

GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書)
(2014/03/19)
西尾 幹二

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アマゾンのレビューより

2014/3/25 By大サダトン (埼玉県和光市)

レビュー対象商品: GHQ焚書図書開封9: アメリカからの「宣戦布告」 (一般書) (単行本)

戦前我が帝国は米国からの悪辣な策謀に良く耐えたものだと感心する。国際連盟を隠れ蓑にしする英国。この英国を裏でコントロールし日本の満州利権を狙う米国。ろくに自国の治安を維持できず、国家の体をなしていないのに一人前に日本を批判しテロを加える中国、悪質な共産主義革命を輸出し近隣国を侵略するソ連。大日本帝国が直面した脅威と先人の苦労は日教組教育や歴史教育からうかがい知ることはできない。それにしても米国の策謀は悪質の一言に尽きる。宣戦布告と同様の対日経済制裁(石油、屑鉄、鉱石類等の輸出禁止)、パナマ運河通行拒否、通商条約の一方的破棄のみにかかわらず、事実上の軍事行動である蒋介石政権に対する空軍の派遣及び日本爆撃計画、日本が受諾困難と知りながら日本の主権と米国が日露講和会議で承認した日本の満州権益を事実上否定するハルノート等悪事に事欠かない。米国はなんら国益の侵害とならないフランス政府との合意に基づく南部仏印進駐に目くじらを立て、アイスランド、グリーンランド及び中東フランス領を平気で占領するばかりでなく、バルト3国やフィンランドを侵略するソ連に膨大な軍事・経済援助を提供する。米国は悪辣な侵略者や無責任・失敗国家(当時の中国)には随分と親切である。
 中国でうそをつく宣教師、反日記事で自国民をだます作家(ちなみにパール バック(この女性作家は中国で記事を書き本国に送っていた思われているが、実は安全で治安の良い日本にいて中国の現状を知らずに書いていたということがラルフ タウンゼントの「暗黒大陸中国の真実」で明らかにされている))もいる。
 今日平気でうその歴史本で金をもうける作家(半藤一利、加藤洋子、北岡伸一等)、米国の悪の系譜は今も日本に巣くっている。
 しかし米国の戦略は成功したのだろうか。大英帝国は解体し、東ヨーロッパとアジアの大部分は共産化し、共産主義からイスラムのテロリズムまで新たな脅威に対抗しなければならず、結局自らの国力を消耗させ、世界の警察官から転げ落ちようとしている。米国の世界での軍事行動を正当化する根拠は「平和の出来で侵略者日本とナチスドイツを打倒した」という実績であるがこれも崩れ去ろうとしている。しかしこの「虚構の歴史」を否定できず、世界中で米軍将兵が血を流し続け国家は疲弊する。米国は自らの悪行にはまり抜け出せないでいる。
- 3つの主張と2つの使命 ー
 西尾氏の著作を読んで確信することができた、戦前日本(今日も)の主張は
‘一 植民地の解放 二 資源と市場の独占の廃止 三 人種差別の撤廃ではないだろうか。
 そして我が国の使命あるいは天命は
‘一 欧米勢力の拡大阻止 二 有害な中華思想の破砕ではないだろうか。
 この主張と使命に日本の原点があるように思えてならない。

amazon書評より

          西尾幹二全集刊行記念講演会のご案内

  西尾幹二全集第8巻(教育文明論) の刊行を記念し、12月8日 開戦記念日に因み、下記の要領で講演会が開催いたしますので、是非お誘い あわせの上、ご聴講下さいますようご案内申し上げ ます。
 
                       記
 
  大東亜戦争の文明論的意義を考える
- 父 祖 の 視 座 か ら - 

戦後68年を経て、ようやく吾々は「あの大東亜戦争が何だったのか」という根本的な問題の前に立てるようになってきました。これまでの「大東亜戦争論」の殆ど全ては、戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るという視点が欠けていました。
 今回の講演では、GHQによる没収図書を探究してきた講師が、民族の使命を自覚しながら戦い抜いた父祖の視座に立って、大東亜戦争の意味を問い直すと共に、唯一の超大国であるはずのアメリカが昨今権威を失い、相対化して眺められているという21世紀初頭に現われてきた変化に合わせ、新しい世界史像への予感について語り始めます。12月8日 この日にふさわしい講演会となります。

           
1.日 時: 平成25年12月8日(日) 
(1)開 場 :14:00
 (2)開 演 :14:15~17:00(途中20分 程度の休憩をはさみます。)
                       

2.会 場: グラン ドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」

3.入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

4.懇親会: 講演終了後、サイン(名刺交換)会と、西尾幹二先生を囲んでの有志懇親会がございます。ど なたでもご参加いただけます。(事前予約は不要です。)

   17:00~19:00  同 3階 「珊瑚の間」 会費 5,000円 

  お問い合わせ  国書刊行会(営業部)
     電話 03-5970-7421
AX 03-5970-7427
E-mail: sales@kokusho.co.jp
坦々塾事務局(中村) 携帯090-2568-3609
     E-mail: sp7333k9@castle.ocn.ne.jp
  

閑居人さんのアマゾン書評より

「『十七歳の狂気』韓国」西尾幹二。
韓国の新聞の主なものは、今、インターネットで日本語版が読める。だから、彼等の「夜郎自大」ぶりは、あまりに滑稽なものとして、「笑韓」と笑い飛ばすこともできる。しかし、北の核開発が進み、国内に従北勢力が蔓延し、全教祖による北を正統とする教育・教科書が学校教育で進み、昨年12月には、親北・従北派を代表する文在寅候補が当選寸前までいった。保守層、老年層の巻き返しで朴槿恵の逆転勝利にこぎつけたことは記憶に新しい。
その朴槿恵の「自滅外交」である。日韓防衛協力協定を締結一時間前にドタキャンした背景には中国の恫喝とともに朴の強い意向があったと言われる。日本の「集団防衛権」解釈変更を「右傾化」と呼んで騒ぎ立て、立ち寄る国の先々で「慰安婦問題」に火をつけてまわる姿は、北と中国の脅威に囲まれていながら味方にナイフを突きつける狂気の十七歳そのものである。
韓国人に良識がないわけではない。例えば、朴槿恵政権の立役者、知日派の趙甲斉はさすがに放っておけなくなって、「日本の集団的自衛権の解釈変更」が有事に際して、どれほど韓国の助けになるものか、8月以来諄々と諭している。ソウルに置かれた国連軍本部は、後方基地である東京横田、沖縄の支援を得ない限り十全に機能することはない。
大陸では中国・ロシアの圧迫を受け、海からは日米経済圏に取り込まれた韓国の地政学的位置付け。その人口・資源から中級国家としてしか生きようのない韓国の現実。中国と日本という二つの異なる文明圏の強い影響下に置かれた歴史。その真実の実態を韓国人自身が認識できるのは、いつの日になるのか。
怒りにあふれているように見える西尾の文章には、悲しみのかげりすらある。

秦郁彦「河野談話を突き崩した産経大スクープ」
十月十六日の産経新聞は、二十年にわたり政府が封印してきた韓国の元慰安婦十六人の聞き取り記録を掲載した。「河野談話」のいい加減さを決定づける証拠である。
1973年、千田夏光が「従軍慰安婦」という言葉を発明したとき、これに関心を抱いた人は少なかった。秦郁彦は雑誌社のもとめで千田と対談したが、そのとき秦は、「新たな視点からの戦史の掘り起こし」という観点から千田に好意的に接しているように見えた。
秦が、昭和史研究者として「慰安婦問題」で果たした最大の貢献は、1983年発行吉田清治「私の戦争犯罪」に描かれた済州島での「娘狩り」が、根も葉もない捏造であったことを実地調査で証明したことだろう。吉田清治の証言を頼りに展開された運動は、本来ならここで潰れるはずだった。しかし、中韓の策動とそれを支援する朝日新聞、研究者吉見義明、高木健一・戸塚悦朗弁護士たちの活動はどこまでも続いている。
秦は、「日本政府が一括して国際社会へ騙した責任(朝日、吉田、吉見、高木、そして河野談話を含む)を謝罪するのも一案かと思う」と述べる。しかし、これは、また、逆に利用されるだけだと思えるが、どうだろうか。

その秦郁彦の関係する「昭和史の謎」に焦点が当てられようとしている。
西尾幹二を主宰者とする「現代史研究会」による「柳条湖事件 日本軍犯行説を疑う」である。
1931年(昭和三年)9月18日、南満州鉄道の奉天(瀋陽)駅の北東7.5キロ地点にある柳条湖で中国軍による鉄道爆破事件が起きた。この事件から、「満洲事変」へと拡大するのであるが、後に、関東軍の自作自演とされた事件である。
新にこの研究会の一員となった加藤康男は「張作霖爆殺事件と同じく、柳条湖事件も関東軍の謀略によるものだとは思っていません。あとひとつハード・ファクツ(動かぬ証拠)さえ出れば、一挙にひっくりかえります。柳条湖事件がひっくりかえれば昭和史は全て書き直しです」と語る。
「東京裁判」は「関東軍の謀略」と断定したが、事件当時の関係者の直接的証言はなかった。戦後、昭和三十一年、河出書房「知性」12月号に、「花谷正論文」が掲載され「関東軍の謀略」がほぼ間違いない事実と考えられるに至った。花谷は、当時、関東軍参謀陸軍中佐として奉天に勤務していたから、信頼できる証言と思われたのである。
実は、このとき、花谷にインタビューして文章もまとめたのが当時23歳の秦郁彦である。つまり、「花谷論文」は相当程度、秦郁彦の手になるものなのである。秦は、東大に在学中からオーラル・ヒストリーに取り組んでいたが、これはその成果の一つだった。関東軍が満洲制圧計画を持っていたことは間違いないが、柳条湖事件そのものには謎も多いのである。詳しくは、本文を読んでいただくしかない。

「WILL」なのか「歴史通」なのかよく分からなくなってきてしまった。こういうときは、読者はひとまず「蒟蒻問答」でも読むに限る。

全集7巻について、西尾先生への手紙

武田修志さんから西尾先生への手紙

 

九月にはいり、さすがの猛暑もいささか勢いの弱まった感じですが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過しでしょうか。
 
 先日は出版社から御著書『日米百年戦争』が送られてまいりました。御手配、有難うございました。この書については、次の機会に感想を述べさせていただきます。

 今日は『西尾幹二全集第7巻 ソ連知識人との対話、ドイツ再発見の旅』を読了しましたので、この大著について、ひとこと読後感を申し述べます。
 第一部『ソ連知識人との対話』は、先生がご旅行をなさっているうしろから、とぼとぼとついていくような感じで、繰り返し二度ほど読ませていただきました。先生の好奇心の旺盛さが一番印象に残りました。「この大知識人は、純真な子供のように好奇心にあふれているナ」と、足早の先生を追っかけながら、何かたいへん愉快なものを感じました。通訳官のエレナ・レジナ女史も、次から次に質問を繰り出す先生を、なんと素直な、率直な人柄だろうと、ひそかに、たいへん好感をいだかれたのではないでしょうか。先生の飽くなき知識欲はやっぱりちょっと群を抜いていますね。批評家魂といった言葉が思い浮かびました。

 この書から教えられたこと、考えさせられたことはあまたありますが、思いつくままにいくつか挙げてみますと、まず、ソ連邦の人々の不親切、傍若無人な振舞い、官僚風な対応というのが、やはり印象に残っています。第十二章で語られている、哲学者川原栄峰氏の切符切り替えを助けようとした、日本へのあこがれを持ったあのイントゥーリストの係官の振るまいは、先生が御指摘のように「非常に象徴的」です。「ある面での善良さが、別の面での優しさや思い遣りや心づかいに決して繋らない。いかにもロシア人らしい、デリカシーを欠いた愚直な善人振りである。」この係官の振る舞い方は、我々日本人には全くの驚きであり、「不思議」でもありますが、まわりの人々の反応から見て、その傍若無人な振舞いは、ロシアでは、ごく一般的に認められている・・・。ある社会が、ある「文化」が、人の意識、人の振舞いをどういうふうに形成していくものか、深く考えさせられる場面です。そして、この点で、先生が、その原因を単に「ソヴィエト型社会主義の性格」に求められているのではなく、「ロシア的東方的な非合理な人間関係に起因するのではないか」と考えられておられるところは、私の大いに同感したところです。

 同じようなことですが、作家同盟の作家や評論家諸氏が、「ほとんどまる一日乗車し、同行した場合でも、彼らは運転手にまったく目もくれない」ーこの場面もたいへん印象に残っています。どうしてそういうふうになるのか、この点についての解釈はこの書の先生の論述にゆだねるとして、このあたりを読みながら、我々日本人の人間関係やそこで働かせている意識、感性というものは、たいへん独特のものがあるのだということを改めて考えました。(皇后陛下などが、被災者をお見舞になるときに、自らも腰を低くして言葉をおかけになるーああいう場面をロシア人などが見ると、どういう感想を持つのだろうかと思ったりもしました。)

 第五章「コーカサスの麓にて」では、エドゥガールという三十歳の「優男」の姿がよく描かれていて、印象に残りました。彼がどういう人柄の人であり、どういう考えの持ち主であるかが、巧まざる描写で少しずつ分かってくるのですが、最後に次のように締めくくられていて、これはうまいと思いましたし、またたいへん説得されました。
 「それでも私には、エドゥガールさんが公爵の末裔だと知ったときに、いくつかの謎が解けるような思いがした。なぜ彼だけが私たちの感情の動きを微妙に察した、礼儀正しい会話の仕方で私たちを心服させたのか、合点がいく思いがした。」「都雅、としか言いようのないもの」がエドゥガール氏を包んでいたのは、たしかに、彼が貴族の出であったことと深く関係していたと私も同じように考えました。ーこの本のおもしろさの一つは、先生自身どこかに書き付けておられるように、先生がお会いになった人々の「姿」がうまく描かれていることではないかと思います。 

もう一つ妙に印象に残っていることがあります。何章に書いてあったのかちょっと忘れてしまいましたが、我々日本人は、たとえば鳥取という自分の位置を、海に囲まれた日本全図を思い描いて人に示すのを当然のこととしているが、ロシア人はまずボルガ河ならボルガ河という大河を一本描いて、その西とか東、こちら側とか向こう側といったふうに説明する、ソ連全土というようなイメージはないのだーあの話です。これは、私は今まで人から聞いたこともなく、本で読んだこともなかったので、文字通り目から鱗が一つ落ちました。

 さて、「ソ連知識人との対話」は一九七七年のひと月余りの先生のソ連邦旅行体験を基にして、その後二年余りのうちに書き上げられた著述であり、いうまでもなく、この時期、まだソ連邦の崩壊は、内村剛介氏のような特別な人を例外として、ほとんど誰も取りざたしていませんでした。先生も、この御旅行の時点では、ソ連邦の崩壊というようなことは、まったくお考えになっていなかったと推察できます。しかし、ソ連が崩壊して今や二十年以上が過ぎました。今回私は特に「崩壊後の今から読めば、この本から何が読み取れるか」という観点を持って読んだわけでは全くありませんが、やはり、ソ連崩壊前の時代から崩壊後まで貫く問題は何かと、無意識にも注意を向けていたようにも思います。以下のような言葉が印象に残ったのは、そのためかもしれません。 

 「人間は制作し、工作する動物である。と同時に人間はなにごとかを未来に賭けて生きている存在である。社会主義社会は人間が自分の個性を試して生きようとするこの可能性を廃絶したのではないか。老舗や秘伝による伝統的職人芸ももう生かされないだけでなく、未来へ賭ける実験者としての生の形式もここでは認められない。社会主義は人間の心を尊重するというのはいったい本当だろうか。」(第九章)

 「個体が未来へ向けて自分を賭けて行く実験精神を殺すような世界では、学問や芸術や教育は本来の機能を発揮することは出来ないだろう。」(第九章)

これらの言葉は、社会主義社会が人間の共同体として致命的な欠陥を内部に抱えていたことの、的確な指摘となっています。
 しかし、先生の言説が今も魅力的なのは、ソ連社会の問題点を剔抉していきながら、常に我々の社会の問題点を糾問していくところでしょう。

 「しかし、他方、『全体』との深い関わりがなければ、『個』も生きてこないのである。」(九章)

 「自由とは善い自由と悪い自由を選択し区別する基準が、自分の内部以外にどこもないということに外ならない。自由とはそれゆえ危険なものなのである。」(第九章)

 「われわれのこの生にいったい究極目的は存在するのか?国家や社会の課題がわれわれの生に本来の目的や意味を与えてくれるのか?部分である我々は全体のどこに位置しているのか?個体をつつむ文化や伝統の有機的統一は今日では喪われ、世界を全体像としてとらえるパースペクティブは不可能になっているのではないか?}(第十章)

 「近代的自我は確立した瞬間からじつは解体と不安にさらされていたのだと言い換えてもよい。」(第十章)

 「二十世紀の人間が中心を喪失し、無内容になっている点においては、どちらの社会体制もほぼ同じではないかと私は考えているのである」(第十章)

 先生の読者としてはなじみの主題ですが、こういう我々の社会の抱える中心問題がソ連探訪記においても攻究されているところが、またこの本の魅力であると私には思われました。

 「ドイツ再発見の旅」の部もたいへんおもしろく拝読いたしました。しかし、ちょっとここまでの感想もだらだらとまとまりが無くなってしまいましたので、又の機会にしたいと思います。いつも尻切れトンボで誠に申し訳ありません。

 お元気で御活躍下さい。

     
    平成二十五年九月二日

                 武田修志

『天皇と原爆』書評/動画

 文芸評論家の冨岡幸一郎さんが二年も前に拙著『天皇と原爆』に対する書評をYou Yubeで流していることに気がついた。ずっと知らないでいた。遅ればせながら、ここに再現する。時間の短い寸感書評であるが、肝心なとことは捉えて下さっている。冨岡さんありがとう。

『憂国のリアリズム』アマゾン書評より

閑居人さんの書評です。

素晴らしい内容の書評、ありがとうございました。

「憂国」の一番の敵は、「内なる敵」との戦いである 2013/7/25

By 閑居人

西尾によれば、現在の日本は、二つの外国勢力と戦っている。一つは、言うまでもなく、「アメリカ」である。「日米安保条約」は、独立国日本を引き続きアメリカのコントロール下に置くものであり、その後、70年近く、日本は安全保障をアメリカの「従属国」のままにしている。
もう一つの外敵は、「中国」である。本来、大陸中国は、「戦勝国」ではない。中国共産党は、実質、日本軍と戦ったことはない。ただ、マーシャルらを抱き込んで、アメリカを騙して国民党を台湾に追い出しただけである。しかし、彼らは、国連常任理事国入りと国交回復を果たすと「戦勝国」のように振る舞い、戦後利権にありつこうとする。そしてそれに、第二次大戦を「大日本帝国臣民」として戦った韓国が、戦後、一転して、アメリカ、中国に媚び、日本に対して居丈高に振る舞おうとしている。そして、ときにこの三国は裏で結託して「ジャパンバッシング」をしているように見える。
だが、西尾の本当の憂鬱は、アメリカや中国、韓国といった外敵の日本攻撃だけにあるわけではない。米中が影で何を企もうとも、国際社会の中で主権国家が国益を求めて様々な戦略・戦術を駆使することは、ある意味では当然のことであり、それを止める術はないからだ。
一番の問題は、「内なる敵」なのだ。つまり、敗戦史観を唯々諾々と受け入れて、日本という国家と日本人を貶める日本人の国家意識、歴史認識の問題であり、同時に世界に対する日本という国家ビジョンの欠如、戦略のなさなのだ。
その意味で、本書の根幹を成すものは、著者自身が言うように「第三章 日本の根源的致命傷を探る」であろう。ここで、西尾が展開していることは、西尾が一人の日本人として、どうしても言わずにはいられないことである。

「旧敵国の立場から自国の歴史を書く歴史家たち」

昭和16年7月、日本は南部仏印に進駐した。前年の北部仏印進駐同様、英米の「援蒋ルート」を断ち切るためである。英米の支援の約束を蒋介石は信じすぎた。日本に徹底抗戦していくことが国民党の利益になるとは限らないのに、日本との和平交渉をサボタージュして、それを近衛政権のせいにした。そのシンボルが「援蒋ルート」だった。日本の多くの歴史家が「南部仏印進駐がアメリカの逆鱗に触れ、アメリカは対日戦争を決意した」と、日本の「暴挙」を非難する。日本が北部仏印に進駐したのは、前年9月。フランスにビシー政権が成立し、そのビシー政権と話合っての南北進駐である。欧米の史家たちは、日本の南部仏印進駐が翌年になったことに驚きを隠さない。通常、迅速に、間髪を入れず行うものである。このことは、1939年9月の独ソによるポーランド分割を見れば、明瞭である。
また、この年の5月、イギリスはデンマーク領アイスランドとグリーンランドを予防占領したが、持ちこたえられないと見ると、7月、「中立国」アメリカが、イギリスに代わって占領し、ドイツ軍を押し返した。日本の南部仏印進駐と同時期であるが、明白な中立違反である。ドイツはアメリカを非難できたが、アメリカ、FDR、ルーズベルトの挑発に乗らなかった。中立国であるはずのアメリカがイギリスと大西洋上での「パトロール」と称する軍事共同行動を行い、しきりにドイツを挑発し続けていた時期である。FDRが戦争参加への機会を執拗に伺っていたことは、戦後、CH.ビーアドが「ルーズベルトの責任」で厳しく批判した通りである。
そもそもアメリカが、日本の軍事的戦略を非難すること自体が奇妙なことなのだ。しかし、半藤一利、加藤陽子のような歴史家たちは、戦後、アメリカが一貫して流し続けてきた「日本軍国主義」対「英米民主主義」の宣伝のまま、「日本軍国主義」の愚かさを嘲ってやまない。「南部仏印進駐がアメリカの虎の尾を踏んだ」彼らは、そう言って笑う。しかし、事実は、FDRは、既に戦線参加を決意していて、モーゲンソー財務長官とともに日本に対して、まず「経済戦争」を仕掛ける切っ掛けを探していただけのことである。一体、彼らの「日本人歴史家の視点」はどこにあるのか。多分、西尾の指摘する通りなのだろう。
「日本の戦後の歴史関係のメディアが一貫して旧敵国の立場から歴史を見ているという、大局を見失った、負け犬の歴史観に立つことを意味するのである」(p150)

「戦後日本は『太平洋戦争』という新しい戦争を仕掛けられている」

西尾は、言う。「満州事変以後の『昭和史』に限定して日本の侵略を言い立てる歴史の見方には、一つの政治的意図があった。日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするというアメリカの占領政策である。自らにとって“都合のいい時代”を抜き出すことで、一方的に日本に戦争の罪を着せようと考えたのだ。」
「大東亜戦争は日本が始めた戦争では決してない。あくまで欧米諸国によるアジアに対する侵略が先にあって、日本はその脅威に対抗し、防衛出動している間に、ソ連や英米の謀略に巻き込まれたに過ぎない。」
「侵略と防衛の関係は複雑である。もしも日本が防衛しなかったら、二十世紀初頭で中国の三分の一と朝鮮半島はロシア領になっていただろう。中国が対日戦勝国だと主張するのは大きな誤りなのだ。」(p162)
そもそも、日本人310万人の英霊が生命を捧げた戦争は、「大東亜戦争」である。開戦後、昭和16年12月12日、日本政府は、シナ事変以降の戦争を一括して「大東亜戦争」と名付けた。その戦争目的の最大のものは「アジアの独立、英米仏蘭の植民地帝国主義の一掃」である。しかし、敗戦後、昭和20年12月15日、占領軍の通称「神道指令」によって「大東亜戦争」「八紘一宇」といった言葉は、使用禁止になり、徹底した言論統制が行われた。

(評者の経験したことを一つ紹介したい。ソビエト崩壊の直後だから、1991年の冬のことだろう。20人余りの高等学校「日本史」担当者に、「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」「15年戦争」の四つの名称を示し、一番、自分の実感に近い名称を選択させた。その数は統計的な有意差を示すものではないから特に記さないが、「大東亜戦争」を選択した者は一人もいなかった。「神道指令」と占領軍の検閲を知らない教師が全てだった。彼らは、いずれも世間で一流大学と目される大学の出身者である。)

問題は、戦争が終わり、国際条約によって新しい国際関係が開始されても、情報戦争は決して終わることがないということである。竹山道雄の「昭和の精神史」の本来の題は、「十年の後に」である。この題には、戦争の興奮と狂乱の時期が過ぎて、十年の後には、冷静な、多角的な視点からの議論ができるだろうという竹山の期待が込められていた。
残念ながら、公文書の公開が、30年50年というスパンであり、十年ではなかなか真実は分からない。しかし、大きな真相はいずれ明らかになり、日米開戦に際してのFDRの陰謀は、研究者にとって事実としては疑えないだろう。
西尾は、こういった日本人の歴史認識の根本を問うのである。

本書で、西尾は、「皇室」の問題を取り上げる。精神科医は不確かなことに口を挟まないから言わないが、彼等が心の中で感じている「皇太子妃殿下」の病状は「適応障害」ではなく、「人格障害」だろう。しかし、西尾は、限界ぎりぎりの表現をするだけで、皇太子殿下についても「無垢なる魂」と言うのみである。考えて見たらいい。「50歳にして、無垢なる魂」とは、一体、いかなる人格なのか。

西尾が己に律していることは、己の全ての言論表現活動は、この日本という国家の歴史と伝統、その正しきを継承していくためにあるということだろうか。であれば、西尾の禁欲とそれに反する迷い、動揺が、本書の魅力の根底にある。

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憂国のリアリズム 憂国のリアリズム
(2013/07/11)
西尾幹二

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