小冊子紹介(一)

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念会の折に、受付で全員に配布された36ページの小冊子があります。その内容を順を追って紹介していきますが、遠藤氏によって朗読された部分等、割愛する部分もあります。

 また、この小冊子は非売品ですが、西尾先生のご好意により、多少残りがあるので、ご希望の方にはお分けしたいとのことです。希望される方はその旨を明記し、コメント欄にてご連絡ください。住所等個人情報が記載されているコメントは、ネット上に表示しませんので、ご安心ください。

(文・長谷川)

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表紙絵の説明

 ニーチェの処女作である「悲劇の誕生」は1872年刊。内扉には彼の友人の画家の手になる「鎖を解かれたプロメテウス」の装飾画が描かれている。フリードリヒ・ニーチェの名の下に、バーゼル大学古典文献学科正教授と肩書きが示されている。

 出版はライプツィ書店で、初版は千部。そのうちの一冊がいま私の手許に秘蔵されている。古書店を介して50万円で落手した。前ページの写真がそれである。私の所蔵する唯一の宝物である。

 『悲劇の誕生』を私は29歳から30歳にかけて中央公論社「世界の名著」のために翻訳した。ドイツ留学の最初の歳月であった。私の二部作『ニーチェ』はこの本の周辺を回り、そして『国民の歴史』と『江戸のダイナミズム』は知らず知らずこの本の影響を受けている。私は人生の出発点で呪縛されたのかもしれない。

 それでいて『悲劇の誕生』が提出した問いと課題と本当のテーマは何であったのか、私には今でも謎で、よく分らない。 

西尾幹二

江戸のダイナミズムに寄せて(十二)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 考証学というと何となく象牙の塔のイメージがありますけれど、価値観を拒否して実証主義に徹底する精神というのも、異民族支配という「原理主義」の押し付けの危機意識の中で生まれた「自由」への志向の中で当初は生まれたものだったわけです。西尾先生の指摘される考証学者への清の血みどろの弾圧と、考証学者の側からのすさまじいレジスタンスにみられるように、「原理主義」も「自由」も、日本人の考えるような穏やかなイメージとは遠く隔たるものなわけですね。或る意味、考証学は、明の「本土決戦」の中で生まれた精神や学問方法だったように思われます。    

 これは西尾先生が繰り返し正しく指摘されてきていることなのですが、日本文化(日本文明)がオリジナルなものをもっていないという俗論は、恐ろしく間違った意見といわなければならないでしょう。しかしこの俗論がどこから生じるのか、といえば、「原理主義」と「自由」の格闘があまりにも穏やかに展開されていることを「オリジナルな思想の不在」というふうに錯誤することろから生じている、といわなければならないでしょう。錯誤は錯誤で、俗論は俗論なのですが、しかし反面、坂口や三島のような意識的な言葉の使い手にとっては、戦後民主主義の空虚な猛威を目の当たりにして、「原理主義」と「自由」の格闘の曖昧さが、どうしても「日本」の不在と同一なものに思えて、つい、本土決戦についての逆説をいわなければならないような気持ちに追い詰められたのではないでしょうか。 

 では日本人のこうしたあまりの幸運ということを、不運に裏返して考えて、日本人は中国文化やヨーロッパ文化のような激しさをもっていないか、というふうに考えるべきなのでしょうか。そうではないと私は思います。西尾先生が指摘される、日本文明の様々な先進性や優越性という結果的事象を知れば知るほど、こうしたものが「原理主義」と「自由」の格闘という普遍的プロセスと実は全然別のプロセスで生まれたのではないか、と、ひっくりかえして考えるということが、西尾先生や小林秀雄の立場ということなのではないでしょうか。

 先進性や優越性を「先進」や「優越」ということへの自足的感情でなく、「違うもの」という分析的感情においてとらえる必要、ということですね。思想においては特に然りです。早い話、血みどろの悲劇がなければ本当の思想家が生まれない、ということでしたら、江戸時代にかくも大勢の普遍的境地に到達した思想や論争が生まれた、ということ自体が説明不能になってしまいます。    

 つまり、西尾先生が「ヨーロッパの個人主義」「ヨーロッパ像の転換」の頃から「国民の歴史」の最近に至るまで一貫して主張されてきているように、ヨーロッパや中国が普遍的であるという保証は実は何処にもなく、日本が普遍的である可能性もある。あるいは「普遍的」ということ自体がフィクションなのかもしれない、ということを、文明事象的な指摘だけでなく、文明内の思想形成においてもとらえなければならない、ということがいえましょう。「江戸の先進性」ということを「江戸の独自性」というふうに読み込んでいくことが、ちょっと大袈裟な言い方ですが、「江戸のダイナミズム」の主題の絶対的スタートラインということになる、と思い、今晩もまた少し、再読を進めていくことにします。  

 手がかりはやはり「言葉にならない何か」ということを日本的精神とした宣長的な精神ということではないか、と思われます。三島も坂口も、「言葉になる何か」を日本人の精神探求において膨大に探求し、ついには、徒労感に行き着いたように思われます。しかし「江戸のダイナミズム」の読後感は、こうした三島や坂口の日本論の徒労感とは完全に別のものです。「言葉にならない何か」を穏やかに、しかし必死にとらえようとしていることを感じることができるからですね。何回の読み返しを通じて、それをますます感じていけるのではないかな、と思っています。

おわり

江戸のダイナミズムに寄せて(十一)

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
西尾 幹二 (2007/01)
文藝春秋

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guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 西尾先生の画像説明にあわせて、再び、「江戸のダイナミズム」をゆっくり読みはじめています。読書というのは忙しく読んだ一度目に比べ、二度目、三度目と速度を落として読むと、いろんなことが思い浮かんできて、自分でも驚くくらいなのですが、主に顧炎武たち考証学者のことについて論じられている、日本人は自由すぎて「自由」を知らない、というくだりを読んでいるとき、不意に私は、三島由紀夫や坂口安吾の「本土決戦」論を思い浮かべました。

   三島や坂口は、日本は終戦の時点で、本土決戦という破滅的選択をするべきだった、というような逆説を繰り返し言っています。かつて三島や坂口の言説を読んで、私は終戦工作に奔走した鈴木貫太郎をはじめとする人達の物語を日本の政治史でもっとも美しい物語として考えているせいもあって、何をぬかすか、と感情的に反発したくなりました。しかし三島や坂口の考えというのは、私の感情的反発と別の次元で、私達が受け止めていかなければならない指摘なのだ、と最近は段々と思いを修正するに至っています。  

 原理主義の不自由があってこそ「自由」の意味を知ることができる、という意味において、日本人は「自由」を知らないのだ、という西尾先生の指摘は、異民族支配や宗教上のタブーを知らない、という別のところでの先生の指摘と同一のものです。私達は「原理主義」というと宗教や教条的学問を思い浮かべがちですが、異民族支配もまた、すさまじいほどの「原理主義」である、ということがいえましょう。  

 本土決戦を行えば、完全な焦土と完全な敗戦という「悲劇」が間違いないのは当然として、国土分割さらには皇室の存続の危機という破滅的事態の先に、少なくとも「北日本」へのソビエトの衛星国化・異民族支配という日本民族最大の「悲劇」が待ち受けていたのは明らかで、アメリカ側にしても、「南日本」への、現実の戦後日本に数倍するアメリカ化の原理主義の洗脳行為をおこなったのは間違いありません。日本人の幸運は昭和天皇の聖断や鈴木貫太郎たち賢人の奔走でそれを避けられたことにあることは間違いないのですが、しかし長所が短所に裏返るのと同様、最大の幸運は最大の不運に裏返るのですね。 

 坂口は戦後直後のなし崩しのアメリカ化を「自由」と勘違いする日本人の多くのあまりの浅さに、激しい懐疑を抱いていたに違いありません。また三島が、1960年代以降の日本人の、精神崩壊にすら意識的でなくなってしまった精神崩壊に、日本人の「自由」の認識のあまりの脆さにあきれ果てていたのは周知の通りです。だからこそ坂口や三島は、逆説的な歴史論として、「本土決戦をするべきだった」ということをいうわけで、私は「思想としての本土決戦」という主題が、日本人の「自由」の問題を考える上で存在するのではないだろうか、というふうにいつも考えています。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(十)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 私が平川先生を拝見するのは実は初めてだったのですが、こんなことを言うと恐縮かもしれないのですが、いろんな人から伝え聞いていた「平川節」というものをそのまま感じさせるような、とても個性的なスピーチで、当日スピーチされた諸先生の中では、そのまま著作の一部になっても全然おかしくないような、一番濃い内容のスピーチだと思いました。  

 「平川節」というのは、たとえば、平川先生がこのスピーチであげられている、マードックと漱石に関する平川先生の「新潮」での論文についての西尾先生の批評の文章の中で、西尾先生の「勉強家の平川氏」という言葉に集約される学者・思想家としてのスタイル、といっていいでしょう。思いもかけない資料や文献の発見を展開しながら、野太い一つのロジックが大河のようにびっしりと隙なく悠然と流れていく。  

 平川先生の世界というのは「この人は、或る主題をきちんと据えて、徹底的に時間を使ったんだなあ」としみじみ感じさせる、重く規則正しく流れていく「勉強家」の世界です。「音楽的」でなく「大河的」なのですね。しかし「勉強家」の平川先生が実はなかなかユーモアの才能もある方だなあとも思いました。スピーチの最後の方の「丸山真男の弟子筋云々」というくだりは、丸山さんの江戸思想史の杜撰な儒教理解を西尾君(西尾先生)は遥かに超えているね、という褒め言葉のユーモラスな言い換えで、私はおかしくて、その後、飲みながら、何度も思い出し笑いばかりしていました。本当の「勉強家」というのはユーモアという余裕も体得しているんだなあと思いました。  

 平川先生のあげられている西尾先生の、平川先生のマードック・漱石論への批評文というのは、読み返してみると、ほとんど「批判」になっているとさえいえる文章です。この「批判」には、平川先生の世界の個性が、表と裏返しで伝えられていて、西尾先生と平川先生の接点という以上に面白い文章ですね。   

 平川先生の文章が載った「新潮」も西尾先生の批評文が載った「文学界」も、私が古本屋街で古本漁りしていた頃に入手したもので、今となっては懐かしい記憶の本です。西尾先生はこの文章で、平川先生が漱石が様々な面においてみせた「断念」を、漱石の西洋への劣等意識によって説明しようとする平川先生の考えは間違いで、漱石は「一般的の開化」を心得ていた人物であるということ、そして漱石は漢籍の抜群の素養を通して、異文化を理解するという「断念的」な行為、西尾先生の言葉をかりれば、「不完全を完成させるという瞬間的な決意」、そうしたギリギリの精神的ドラマが漱石にはあった、というふうに展開されています。「江戸のダイナミズム」からひけば、漱石もまた、徂徠や宣長の精神性の地点にいた、ということができるわけです。 

 もちろん平川先生の漱石理解が浅いということでは全くありません。平川先生の「和魂洋才の系譜」を紐解けば、漱石という人間が、大和魂や武士道を、劣等感の裏返しとしてのナショナリズムの一種として警戒していたことを指摘しています。「大和魂はそれ天狗の類か」という言葉が漱石にあることを、私は平川先生の著作を通じて知りました。言い換えれば漱石は、劣等感に陥るような凡庸なナショナリストではない。では平川先生の漱石理解はどういうことなのでしょうか。ここに私は実は平川先生と西尾先生の世界の相違点というものを感じます。   

 「和魂洋才の系譜」や「西欧の衝撃と日本」・小泉八雲伝やマテオ・リッチ伝をはじめとする平川先生の著作の最大の醍醐味でもあり、実は私のような人間に肌があわない面だなあと思ってしまうのは、平川先生の著作の流れは比較史という「史」的考察が優先している、と思うのです。たとえば「和魂洋才の系譜」などにに典型的に現れているのですが、日本的なものへの回帰の諸問題を扱った人間として、萩原朔太郎・西田幾多郎・阿部次郎が並列されていますが、この全く立場の異なる三者を整然と並列できるのは、比較史的考察、が優先するからではないでしょうか。

 たとえば平川先生はその少し後で、フランスにも日本と同様の回帰の問題が生じたとして、デュ・ベレーやロンサールをあげ、彼らが「詩人」であった点を重視しますが、では、萩原・西田・阿部のうち詩人でない後二者をどう考えるべきかは、論じられていない。私の素人感覚からすれば、「比較史」の「史」という必然性に解消してしまっているかのようにみえます。

 漱石にしても同じで、漱石という人間が文化的ナショナリズムを懐疑していた人間であるということと、漱石が文化的ナショナリズムの大きな根源である劣等意識を有していたことは比較史的考察の優先においては成立しますが、漱石という人間にこだわれば、それはおかしいということが前提になるはずです。しかし、漱石が漱石にしか判明しなかったことをいつまでも問題にしていたのでは比較史なんて成立しません。漱石に文化的ナショナリズムを巡る特定の思想的立場というある種の分類を施さなければ、「系譜」というものは成立しないのです。   

 私はこういう読み方はしないというか、全然できない人間なのです。比較史という安定構造に表現者がいるのではなく、全くバラバラな表現者が比較史という不安定なものを形成するというふうに考えます。比較史や文学史を読むより、何年もかかって漱石だけを読む人間です。では平川先生の世界が劣るものかというと、さにあらず、著作や表現者を巡る膨大な情報量が、大河という比較史の「史」の流れになる世界であり、その視点からしか判明しないこともたくさんあるのだ、と思います。「大河」は「音楽」ではない、といいましたが、「音楽」というのはその瞬間、そこにとどまるようでとどまらないような、個というものへの人間の拘り、と言い換えてもいいようなものです。

 西尾先生の著作というのは、どちらかといえば、「大河」的でなく、「音楽」的で、平川先生の本の魅力とは違うものだなあ、と私は思います。そういう意味で私は西尾先生の本は思想書であっても、比較史・比較思想の書では決してない、といつも考えています。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(九)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 深田祐介さんの「大東亜会議の真実」という本を私は読んで以前、深い感銘を受けたことがあります。1943年冬の東京で開催されたこの会議は、戦後左派が言うようなアジア各国の売国奴の集結であったわけではない。反面、盲目的な親日派の集会であった、ということでもないのです。 

 どの出席者も、正真正銘、日本の国力と国民文化に、深い敬意を抱いている。しかし戦局が不利になった日本の行く末も認識している。そしてこれまたどの出席者も、自分の国(民族)の独立運動に日本がどこまで利用できるかという判断も怠っていない。チャンドラ・ボースという人物は疑いようもなく偉大な人物ですが、彼の足跡を追えば、日本に依存する前はドイツを頼り、日本降伏直後、ソビエトを頼ろうとして事故死したわけです。「敵の敵は味方」ということがボースの論理だったといえば容易いですが、ボースはたとえば、東条首相からのインド国民軍への軍事援助の申し出に対して、それを「援助」でなく「貸与」にして欲しいと粘りました。  

 日本側とすればボースの拘りの意味がわからない。日本人にとって善意は善意に過ぎないからです。しかしボースの拘りの意味は、二次大戦終了後、イギリスの裁判のとき、インド国民軍の無罪ということに貢献するのです。無罪ということだけでなく、日本の協力を、日本と対等の立場で得た、ということを証しした、ということでもある、ということなのです。ここにボースの深謀遠慮があるというべきでしょう。

  ボースをはじめ、バー・モーやラウレルなど、みな同じくとてもしたたかな人間です。しかし「したたか」と「ずるい」は全く異なります。ボースの日本への賞賛は本当の気持ちだったし、バー・モーは日本軍の純粋な精神に何度も号泣し、ラウレルは敗戦直前の日本に来てまで日本という国に期待を賭けていました。つまり、「親日」は「追随」ということでは決してなく、矛盾した言い方になってしまいますが、「日本」と「親日」いうことは別個独立した一つの立場だと考えなければいけないことを、彼らの「日本」とのかかわりのドラマは示しているのではないでしょうか。戦前戦後を通じてずっと、日本人の大半は実は「親日」ということの本当の意味を理解できていないのではないか、と私は考えます。

 西尾先生がいろんなところで指摘されてきたことで、実は「江戸のダイナミズム」の最大のテーマの一つでもあるのですが、私達は西欧や中華世界に憧れることはできても「なりきる」ことはできないのですね。このことを裏返せば、いくら日本に正しく親しい弁護者でも、その人は「日本人」ではありません。当たり前のことかもしれませんが、そこらあたりのことをゴタマゼにして、アジア全域を日本共同体にしようとしたことろに、大東亜共栄圏というお人よしの情念的思想があったように思います。しかし、「日本人」と「親日」が無縁というかというと、そうではありません。やはり、「親日」を節度をもって育てるということも、日本人として、とても大切な任務だ、ということもいえるのです。それは戦略的思考の一つですらある、と思います。

  アメリカやドイツは、実に巧妙に「親」派を育てる。もちろんアメリカやドイツほど巧妙であるのはなんとなく違和感がありますが、私達が「親」派を育てる必要性ということを、「大東亜会議の真実」の読後感の一つとして、強く感じました。そしてこの読後感は、自分が日本という国家意識を実践形成していく上で、実に不可欠なことではないか、と日増しに強く思いはじめています。 

 黄文雄さんも石平さんも呉善花さんも、皆さんでなければできないようなたいへん優れた思想展開をもち、これからの日本にとってなくてはならない方だと私は思います。知識的にも見識的にも、どれだけ私の読書に貢献してくださったかわかりません。ただ皆さん、著作の写真で観たときよりも少し齢をとられたかな(笑)。私達にとって大切なことは、大東亜会議で不完全に終わらせてしまった、「親日」の節度ある育成ということを、これらの方々との付き合いで実現していくこと、そのことで、「日本」と別な意味空間に、「日本」でない「親日」という場を形成することだといえるのではないか、と当日の親日派知識人の皆さんの話を伺いながら思いました。 

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(八)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 西尾先生の「ニーチェとの対話」でモンテーニュの「私は非常に単純な歴史家か、または群を抜いた歴史家が好きだ」を引用されたくだりがあったと記憶します。モンテーニュの言いたいことは、歴史観における健全な主観主義と客観主義は、歴史家において稀少な両者にしか生まれず、歴史観を破壊してしまうのは、この三流と一流の中間にあって、客観主義を装いながら凡庸な主観主義を駆使している二流の歴史家だ、ということなのですが、大学時代の知己で、少なくない同年あるいは同年に近い出版業の人間と話すとき、私はいつも、このモンテーニュの言葉を苦々しく思い浮かべます。 

 大概の私の出版業者の知己は「こういう本もあってもいいのではないか」という私の見解を素人呼ばわりし、出版不況の現状を知らない空論だというふうに言われてしまいます。私の見解が素人なのは事実だとして、では、出版者としての彼らの職人意識に、マーケットメカニズム以外のどういう見識が存在しているのか、というと、実に情けないものしかもっていない場合がほとんどです。大体、不況といいながら、出版不況の原因が、自分達出版人であるかもしれないという謙虚さが全く感じられない。さらに不思議なのは、純粋にマーケットメカニズムに徹しているかというとそういうことでもなくて、こういう友人に限って、どう考えてもおかしな出版計画や雑誌企画を思い描いていたりするんですね。 

 もちろん、モンテーニュが言ったのは歴史認識の問題であって、出版業界の話とは全く関係ありません。しかし、認識における「主観」と「客観」の図式に拘りすぎて、「客観」主義の立場を「マーケットメカニズム」主義に一致させつつ、その内実はいろんな主観主義の悪戯をして出版界を疲労させている、というのがこの日本の言論界の現状なのではないだろうか、と私はお門違いを承知で、モンテーニュの言葉を飛躍させて考えます。歴史家と出版人において、共通点を見出してしまうくらいに、私は認識における職人意識が嫌いで仕方ないのです。

 モンテーニュが言う「単純な歴史家」は、自分達のできる範囲で読者に誠実に良書を提供しようとする地味だけれども忍耐強い出版人、「群を抜いて優れた歴史家」は、絶えず斬新で的確な出版計画や雑誌企画を有しつつ、むしろそうした斬新さがマーケットメカニズムを変えてしまうような、実は評論家としても一流な出版人、そういうふうに平行移動して私はモンテーニュの言葉を理解しています。    

 言うまでもなく文藝春秋は「群を抜いて優れた歴史家」に該当する出版社です。1930年代という難しい時代の「文藝春秋」のバックナンバーを読むとそのことがよくわかります。世論がドイツとの同盟賛成に急傾斜しているとき、「ナチスは日本に好意をもつか」という鈴木東民氏の論文を掲載し、あるいは近衛文麿に対するこれまた世論の急傾斜に対し、近衛の革新思想被れを厳しく指摘する阿部真之助氏の論文を掲載したりしています。もちろん、これらは、反体制というイデオロギー依存の形での懐疑から生じたものではなく、この日本にあって、この日本でしか生きられないという前提を決して動かさない上での懐疑主義ということであって、その良心はずっと文藝春秋において、維持されているということができるのでしょう。

 そういう意味で、乾杯の音頭を文藝春秋の社長氏がとられることは、西尾先生の今回の著書の出版元であったという以上に、西尾先生の著作の良心を象徴することに相応しいことだったように私には思われました。  

 二次会のレストランで、私の隣席だった方は、一般的にみて、あまり有名でない出版社の社長氏でした。しかしとても腰の低い見識豊富な人物で、私の知己に多いような二流の職人意識をひけらかしたりする出版人とは正反対の人物でした。「単純な歴史家(出版人)」か「群を抜いて優れた歴史家(出版人)」のいずれかはわかりませんが、モンテーニュが賞賛する人物であることは間違いないように思われました。「西尾先生の本を私のようなところでもいつか出版して、いろんな方に読んでいただきたいのですよ」と繰り返し言っていらっしゃいました。

 私は西尾先生がかつての著作で「自分の本当の姿はさほど有名でない哲学誌や文芸誌に載っていたころにこそある、とさえ思っている」という言葉を思い出して、「そのうち必ず、その機会がやってきますよ」と、だいぶ酔いのまわってしまった口で話したら、その社長氏は本当に嬉しそうな顔で頷いておられたので、ちょっとだけいいことしたかな、と当日の楽しい宴の小さな満足感の記憶になりました。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(七)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 パスカルに「人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。なぜならすべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべてを知るよりずっと美しいからである」という言葉があります。当日、西尾先生のスピーチを聞いていて、何よりもまず、パスカルのその言葉が私の頭に思い浮かびました。パスカルにはまた、「幾何学的精神」と「繊細な精神」の二者の精神の区別を通じて、いろんな意味において、後者の精神が世界の真理に近づきやすい、というくだりもあります。
 
 もちろん、「繊細な精神」というのは優しさやヒューマニズムという意味ではなく、特定の公理や専門的知識によって説明される特定の「眼」に納得できず、たえず様々な「眼」の可能性にこだわり、死にいたるその日までどんな解答にも満足できず、専門より真実を優先する精神、とでもいうべきでしょう。しかし近代とりわけ20世紀という時代は、パスカルの警句とは全く正反対の方に事態が進行してしまった時代です。

 西尾先生のかつての著書の中に「学問のためでなく、学会のためにのみ活動している学者」という実に的確な指摘の言葉があったと記憶します。つまり専門家の大半が安易な「幾何学的精神」の自足の果てに、そんなスモールポリティックスの世界に生きてしまっているのが現実で、専門家の諸氏はそれでいいでしょうが、真実というものを学問的認識に求めている一般人にとっては、この現実はたまったものではありません。
  
 「ライターとして生きてきた」という西尾先生の言葉は、自分はパスカル曰くの「繊細な精神」を自分は持ち続けたのだ、ということの言い換えであるように思えます。私の考えるところ、優れた大思想家は、皆、「ライター」ですね。しかしさらに重要なことは、ニーチェのように早々に研究者業を廃業し全面的に孤高の「ライター」人生を選択した潔癖な大思想家もいれば、その反面、「専門家」の虚しさを知りながらも、専門家と「ライター」を兼業し続けたたくさんの器用な大思想家がいる。そして西尾先生のスピーチは、ニーチェの潔癖すぎる潔癖さと、器用に専門家への軽蔑を隠し続けた大思想家の諸氏の両方ともを、私達が学ばなければならない本物の思想家と言われているように思います。
   
 おっしゃるように、専門家と一口にいっても、たいへんな専門家、優れた専門家というのもたくさんいるのですね。西尾先生は言語学の橋本先生の例を挙げられましたが、私は以前、必要があって、美濃部達吉や瀧川幸辰といった昔の法学者の著作に目を通したことがあります。その世界を極める専門家のすごさというのを感じると同時に、よく読むと、昔の専門家というのは、他分野への旺盛な好奇心が、専門分野の表現に巧みに現れている、ということがわかりました。わかりやすく専門家と「ライター」を兼業している人物より、ずっと隠れた奥深いところで、「ライター」を兼業しているのが昔の大専門家なのです。だから昔の大専門家の本は、何処か面白くて、読んでいてもなかなか眠くならないんですね(笑)。
   
 私達は専門と反専門のことを考えるとき、ニーチェの生き方に感動しますが、しかしいざ生き方の選択、という面で考えるとき、ニーチェのような専門家との潔癖な敵対は、ある意味で危険な精神行為で、「潔癖」は「潔癖すぎる」ことにつながりかねません。「繊細な精神」を静かにたたえた、巧みな大専門家というのも実はたくさんいるからです。ニーチェならそれは見抜けるでしょうが、私のような凡人がいい気になってニーチェの精神を獲得した気になったとしても、それは難しいのです。

 しかし西尾先生の著作を読んだ上で、西尾先生の当日のこのスピーチの言葉を考えると、そのわかりづらさが、わかりづらくないように思われてくる。ニーチェの在り方も、反専門と専門を使い分ける在り方も、そしてかつての大専門家の在り方も、皆、パスカル曰くの「繊細な精神」の旗のもとに集う、読むに値する人達なんだ、ということが、心から納得できるような気が私にはしました。これらすべてを正しく配慮しているからこそ、西尾先生の本は専門書であると同時に、反専門書でもあるのだ、と私は思います。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(六)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

  当日のパーティー参加者には吉田先生の読者が想像していた以上に多く、挨拶された諸先生の中で一番、読者が多いのではないだろうか、と思えるくらい、あちこちで、「今日は吉田先生が挨拶されるんだ」という声が聞こえてきました。
  
 私にとって神話解釈というのは、気にせず通り過ぎようとすると何となく気になってしまい、どうしようもなくなり、逆に集中しすぎると現実がみえなくなってしまう、まことに厄介なものでした。レヴィ・ストロースの構造主義的、あるいは記号解析的な神話解釈は私の頭が追いつかず、フロイトの神話解釈は新たな神話つくりにしか思えない、そんな私のジレンマの中で、吉田先生の本はたいへん明晰な形で私に神話解釈の世界を与えてくれるものでした。
 
 ロラン・バルトに、「神話とは語源そのものであり言葉そのものである」というくだりがあったと記憶しますが、つまり、言葉・語源と言い換えていいような、私達が生きている現実世界の根幹を、あますところなく説明してくれるものとしての神話解釈の世界が、吉田先生の著作の最大の魅力です。日本神話の造化三神から「無為の中心」を、さらにそこから日本人の和の精神を説明されたり、あるいはアマテラスの忍耐強い性格に、世界の皇室・王室でほとんど唯一とさえいえる日本の皇室の伝統的な温和な性格の起源を明らかにされる。吉田先生の神話解釈はバルトの言葉に忠実に、常に現実を説明してくれるもので、ゆえに多数の読者を獲得しえている、ということがいえるのではないでしょうか。
 
 ポストモダン思想ブーム華やかなりしころ、私は大学生になりたてでしたが、ニューアカデミズムブームに乗る学生達の多くは、中沢新一さんや山口昌男さんたち「流行」の神話解釈モデルに乗っかって、吉田先生を読む私を「地味」呼ばわりしていたことを思い出します。私は意地になってでも「吉田派」でなんだか自民党の派閥みたいでしたが(笑)、私に言わせれば、現在や自分にかかわりを持たない神話解釈学はどうでもよくて、日本人の素朴な表情を説明してくれるものはどうしても吉田先生の著作の方であり、神話と現実を橋渡しし「過去を行為」しようとする学問的精神のいったい何処が「地味」なのか、と何度も思ったことを憶えています。
 
 出版記念会の後何日かして、吉田先生の本を斜め読みしていて、「崇めることは、これはもう人間がそれなくしておそらく生きていくことができない、人間の文化が成り立ちえないような肝心なことであると思うわけです」(「神話のはなし」)、というかつて読んだ一節をみつけました。これは吉田先生の当日のスピーチの内容に、意外なほど近い内容ではないかな、と思いました。つまり、ニーチェの文献学批判や、宣長の解釈方法に近いお考え、ということです。

 今から考えれば、吉田先生の方がニーチェや宣長のある意味での激しい精神に近く、逆に流行理論をもてあそんでいた私の知己の方が、ニーチェや宣長の批判対象になるような硬直性をもっていたのではないかなと、私は思います。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(五)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

  当日、佐藤雅美先生の話を聞いていて、ながらく西尾先生に関して私が思っていたある問いが、佐藤先生なりに卒直に語られていることをとても面白く思いました。私の問いというのは、「西尾先生は作家・小説家を目指そうとされたことは果たしてあるのだろうか」ということです。
 
 それは偉大な著述家に対しての冷やかし的な関心ということでは全くありません。佐藤先生が言われるように、西尾先生の表現の各所は、文学的にもたいへん巧妙です。小説的世界の人間関係の配置の妙が、概念関係の配置の妙へとそのまま平行移動しているかのような巧みなストーリーテラーの世界が、私にとって西尾先生の著述の魅力の第一に他なりません。このストーリーテラーの世界の始まりは、いったいどこで形成されたのだろう、という関心ですね。
 
 私は大学生の頃、神田の古本屋街で文学書を読み漁り・買い漁りしていた時期があって、西尾先生が1970年代に書かれた「新潮」の二葉亭四迷論や「国文学」の小川国夫論を読んで、(その頃はまだおぼえたてだった)西尾幹二という人は何て頭のいい文芸評論家なんだろう、と驚嘆したことをおぼえています。論理的な精緻だけでなく、文学にとって最も大切な情感や愛情という、文学の大地にしっかり足がついていて、驚嘆した同時に、これほど文学を精緻に見通せる人間が、文学の実践活動、端的にいえば小説・戯曲を書こうとされたことはなかったのだろうか、ということを感じて、ずっと頭の片隅にしまっていた問いのまま十数年がすぎ、それが佐藤先生のスピーチを聞いて、不意に蘇るのを感じました。
  
 二次会、三次会と、先生が小説あるいは戯曲を書かれる人間になっていたらどんな作品を書いていたのだろう、と思いながら、つい酔いがまわり、もっと刺激的な話題に満ちて、「先生が作家になっていたら・・・」という問いを西尾先生本人にとうとう聞きそびれてしまい、すばらしいことだらけの一日で、その点だけが、ちょっと残念でした。

つづく

江戸のダイナミズムに寄せて(四)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

 4月4日の「江戸のダイナミズム」出版記念会のこの日、私は生まれてはじめて西尾先生とお会いしました。私は当日まで、お誘いを心底嬉しく思う反面、ハラハラする気持ちがないわけではありませんでした。私は普段ほとんどテレビは観ない人間で(DVDやビデオは呆れるほど観ます)、西尾先生の本はほとんど読みながら、私の中の西尾先生の「肖像画」はメディア的には十数年前、外国人労働者問題で討論番組をした番組でストップしたままになっていました。先生の最近の姿を撮影した著作もなかったわけではありませんが、なぜか、そういうある意味貴重な本は入手し落としています。
 
 私のハラハラは、西尾先生の容姿が、成熟とはいえない時間の流れを刻んでいたらどうしよう、ということでした。言い換えれば、あるべき成熟の時間軸からずれるように老いていたら・・・という危惧です。先生の最近の著作を読む限りでは、そんな心配は微塵も感じられない。思想家としての成熟を恐ろしいくらいに驀進している先生の姿が想像できます。創作家の「肖像画」というのは絵画にせよ写真にせよ実に面白いもので、たとえばトルストイは若い創作家時代も年配になった創作家時代も感動的な最後の家出間近の最晩年も、そのどの肖像画も、あるべき一人のトルストイである、という一見すると矛盾したような当たり前のような言い方ができると思います。

 つまり、生涯現役の創作家である人間は、まるで必然的であるかのような時間軸の歩みをすすめていて、それが正直に現れているのですね。歳を重ねることと老いることは全然別のことなのだ、とも言えるでしょうか。作品の成熟がそれを「肖像画」へと、忠実に反映しているのです。対照的に晩年、醜い「肖像画」に転じたのが永井荷風で、あの洒脱な荷風文学は晩年になるにつれて、年齢以外の何の理由もなく溶解し、彼の人生的時間は時間軸からみるみるずれ、そして荷風の肖像画も、虚ろな写真としてのみ残っています。壮年期までの荷風と晩年の荷風はあるべきでない一人の荷風である・・・西尾先生は、作品を読む限り、荷風のような老いを経験しているはずはない。

 しかし実際を観るまでは・・・それが私のハラハラでした。西尾先生のファンであるからこそ、そのハラハラは心底のものだった、ともいえるでしょう。

 心配はもちろん、全くの杞憂でした。十数年前のメディアで観た頃のままの、早口で、物事の本質をスピーディーとらえ続ける西尾先生の姿がありました。当日の先生もまた、若い頃の先生と同じく「西尾幹二」の肖像として後世にはっきりと残る先生の姿だったわけですね。やはり著作内容通りの成熟の時間を歩んでいる先生の「肖像画」が私に、幾つも刻まれていきました。
私が特に驚いたのは、パーティーの後の打ち上げで、私の眼前で、とある有名保守系オピニオン誌の編集長を相手に、一糸乱れぬロジックで「オピニオン誌から政治家の文章を追放せよ」とある種激しい感情をこめて主張されたことです。

 衰えるどころか、逆にますます盛んなエネルギーを発している先生を感じて、私は驚きを感動に変えていきました。かつてドイツの各地公演で、傲岸不遜なドイツ人を前に、感情的に喋り、つい大きな声で「目をさましてください!」といったという先生のエピソードを思い出しました。少し後、先生の話題が別にそれたとき、その保守系オピニオン誌の編集長に私は小声で「やはり西尾先生は二百歳まで生きますね」といったとき、私より一回り大きい年齢の彼は、満面の笑みを浮かべて肯いていて、そのことが思い出深い一晩のいろんな記憶の中で、最も大きい印象をもって私に残っています。

つづく