新刊『民族への責任』について (四)

 前回につづき本からの直接の引用である。

 長谷川さんはただ一方的に押し切られそうなその場の雰囲気を恐れたのである。さっそく電話で県の教育委員会に「しぼりこみ」の意味いかんを問い合わせた。指導第一課の門田(もんでん)剛年氏は市の課長と同じような答を言うばかりだった。長谷川さんが「一位をきめて報告するのはどうですか」というと「選ぶための諮問ですから、当然どれを選んだらよいかという判断ができなくてはなりません。だからそれは構わないのです」「判断するのは教育委員ではないのですか。だから順位づけしてはいけないはずだったと思いますが」「順位づけは構いません」というような応酬だったらしい。

 しかし、同和問題対策のため旧文部省から送り込まれた、辣腕(らつわん)だった県の前教育長辰野氏がきめたルールとは真向から対立する話である。辰野氏は少し前に広島県から転出した。たちまち元のもくあみということか。

 7月20日、廿日市市の臨時教育委員会が開かれた。メンバー構成を言っておくと、教育委員関係は五人で、教育長、教育委員長、教育委員S氏(広島大学名誉教授・生物学)、K氏(元中国電力常務。会社社長)、長谷川真美氏。それから行政から市の教育部長、教育総務課長、学校教育課長、ほか事務局の担当係。

 会議の冒頭、目を剥くような驚くべき発言が学校教育課長からとび出した。
「歴史の教科書はすでに検定を通っているのですから、どれもみな同じで、歴史の内容については今日はご議論いただくことは控えていただきたい。われわれは政治的に中立でなくてはならないので、教科書の内容に踏みこんだ討議は本日は行えません」
「それなら何を論じるのですか」とある委員。
「子供にとって分り易いとか、先生たちが教え易いとかに関してです」
教育長がここでひきとった。
「つまり、歴史観で選んではいけないということです」

 あまりのことに長谷川さんは唖然として、開いた口がしばらく塞がらなかったらしい。

 地方の小役人どもが何かを恐れ、必死に難を避けようとして、歴史の教科書の内容はみな同じなのだから、挿絵がきれいだからとか、図表がわかりやすいからとか、そんなことだけで討議せよ、という。しかし実際の教科書は、内容的に極左から中間左翼まであり、扶桑社本がそれらのすべてと対決している。なぜ逃げるのか。歴史の内容を論じなくて何で歴史の本の選択ができるであろう。私はおどおどした小役人の立居振舞いを笑ったゴーゴリーの風刺小説を思い出した。広島県廿日市市は帝政末期のロシアなのだろうか。
「それはおかしい」と教育委員のS氏が怒りだした。「このあいだは選定審議会から一方的なお話を伺っただけなので、今日はわれわれの側できちんとした討議をしたい」

 朝の9時半から始まって、中学の部に移ったのは昼すぎであった。

 長谷川さんは用意していた原稿に基いて、約10分意見を述べさせてもらった。
〈教育荒廃に際し、教育委員の果すべき役割は大きい。自分は“教育委員はただのお飾りか”という文章で疑問を表明したことがある。教科書を選ぶことは教育委員にとって最も大切な仕事である。文部科学省の学習指導要領をこそ採択の基準にすべきなので、そのことを市の採択要綱の文言に入れるようにお願いしたら、それは大前提だから入れなくてよいというお話だった。けれどもわが国の国土と歴史に対する理解と愛情を深めるようにという学習指導要領の精神で、はたして廿日市市の答申は書かれているだろうか。扶桑社版では生徒はただ暗記するだけで、考える内容が非常に少ない、と答申にあるが、これはまったく逆の評価で、出来事、背景、影響というものの材料を扶桑社のようにたくさん与えて初めて、生徒に自分自身で考える力を養うことが出来るのである〉

 大略こう述べて、学習指導要領の大きな目標を掲げた一文をコピーで配り、
「この精神に添うような内容の教科書は扶桑社しかありません。私は本委員会に出された答申を差し戻したい」
教育部長が「差し戻されても困る」という大きな声をあげた。教育部長、教育総務課長、学校教育課長が立ち上がって教育長の所に集まり、こそこそと話し合った。
「差し戻しがまったく出来ないわけではありません。ただきちんとした新しい答申を出せるかどうか分りません」
と部長が困惑した顔で、とりなすように言った。

S「長谷川さんは何が問題なのか、具体的に例をあげて言ってくれ」
長谷川「自分が調査した結果を発表していいですか」
S「どうぞ」

新刊『民族への責任』について (三)

民族への責任 さて、今回の新刊については、版元の徳間書店のお許しを得て、約8ページに及ぶある部分をそっくり全文掲示することが可能になった。

 「西尾幹二のインターネット日録」の読者にとって管理人の長谷川さんのお名前は馴染みだろうが、どういう方なのか、私とどういう関係にあるか、私がなぜ彼女に全幅の信頼を置いているのか、分らないという人も少くないであろう。現にオピニオン板にそういう疑いの書き込みがあったので、信頼への由来を明らかにするよい機会と思えてここに全文8ページを掲示する。長谷川さんがドラマの主役となって登場するシーンである。

 本当はこう書いて読者の気を引いて、あとは本を買って読んでくれ、と言ったほうが有利なのだが、この本は他にもいっぱい面白い売りの部分があるので、ケチケチしない。ここは全面公開といこう。

 

 広島県廿日市(はつかいち)市は単独採択区である。県から教科書採択の委託を受けた市の教育委員会は、選定審議会(校長代表、PTA連合会長、学識者という名の元校長二名等から成る)に責任をまる投げした。さりとて選定審議会は自ら教科書を読んで、研究するわけではない。調査員と称する中学の教師に再び責任をまる投げした。調査員は各教科ごとに五人いる。彼らのみが教科書を読んで、報告書をつくる。選定審議会はその報告書の答申に黙って従い、文句をいわずに上にあげる。教科書を実際に見てもいないのだから、何かをいえるわけがない。かくて報告書の答申はそのまま教育委員会にあがってくる。教育委員たちも教科書は展示場でみる以外には接する機会がない。よほど熱心な委員以外は展示場に行かないし、行っても小中学の教科書ぜんぶ見るのは百時間かけてもできない。そこで委員会になると、答申を承認するといって、教科書を見もしない人がパチパチと賛成の手を叩く。これが前回までのやり方で、今回もほぼこの通りで行きそうだった。

 前回、教育委員長が冒頭、教育委員会は時間がなくて開けなかったので、「専決処分」したから委員のみなさま、このままどうかお認めください、という妙はことばを使った。教育委員会は開かれていなかったのに、教育長が任されて決定したという形式だけを踏もうとしたからだった。

 廿日市市教育委員の長谷川真美さん(主婦)は、市教育委員会規則の「教育長の事務委任」の条項中に「教科書採択は除く」とあるのを発見していた。そこで、今回はあらかじめ教育委員長に逃げ道を封じるべく釘をさしておいた。パチパチとみなで拍手して終り、つまり審議もせずに事後承認、というわけには今度はいかない。

 しかしあがってきた報告書の答申を見ると、総評が書かれていて、一番下の枠に、中学の歴史は東京書籍がよいと考える、と書かれてあった。教育委員会にあがってくる前に、一、二社にしぼりこんではいけない、というのが、文部科学省の指導方針だったはずだ。長谷川さんはびっくりして、「これは『しぼりこみ』ではありませんか」
と問うた。事務局側を代表して、学校教育課長が、
「いえ、これは『しぼりこみ』ではありません。『しぼりこみ』というのは、調査委員の研究段階で、あらかじめ何社かを外して、数社にしぼりこんで比較調査をすることをいいます。調査の段階では全社を扱っていますから、『しぼりこみ』ではありません」
長谷川「でも順位づけをしているではありませんか」
課長「調査の段階では順位づけもいたしておりません」
しかし現に東京書籍が一位として示されているのだから、いけしゃあしゃあとよく言えたものである。
長谷川「じゃあ、出された答申はこの委員会で変更してもかまわないのですね」
課長「委員たちの話合いによって、可能ではあります。しかし、答申は重んじられなければなりません」

 教育長がその通りだ、と口を挟んだ。彼はその後も何度も答申の尊重をくりかえし強調した。
課長「県の教育委員会から『しぼりこみ』をしてはいけないと指導されていますが、これは『しぼりこみ』ではないし、こういう研究報告の仕方をしてはいけないとは指導されておりません」
長谷川「今日のここから先の討議は延期していただけませんか。中学の歴史・公民は国際問題にもなっていて、慎重に審議したいので、7月20日に延ばして下さい」

新刊『民族への責任』について (二)

以下の3点において日録をリニューアルします。

(一)[ブログとしての日録本体]
1)西尾幹ニのコラム 
2)新人のコラム(不定期・週1回予定) 
3)海外メディア記事の紹介(不定期)
日本に関する海外メディアの記事をピックアップして日本語に翻訳して紹介

(二)[会員制サイト設置]

(三)[オピニオン掲示板について]
上記の変更により、オピニオン掲示板は日録のコンテンツから外れ一般リンクへの組み入れとなります。

*詳細はここを御覧ください。

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 新刊『民族への責任』について (二)

 もう一度目次を見ていたゞけるとありがたい。

 今度の私の本には経済問題がかなり大きくクローズアップされている。日本の未来はこの面でも危い。

 本の帯広告には次のように書かれている。出版社の編集部が考えたキャプションである。

日本をいかに衰滅から守るか――
この一冊の本が日本人の運命を決める。

皇位継承問題、会社法改正、中国のガス田開発、歴史教科書と中国・韓国の反日気運、そして少子化の不安……、内と外から日本を揺るがすこれら一連の出来事は相互に関連がないように見える。しかし、その背後には「敵を見ようとしない日本人」の姿が見え隠れしてはいないか。立ちすくむ民族の性根を鋭く見据え、戦後60年の空白を撃つ警世の書。

 第2部に教科書採択のなまなましい体験記をまとめてのせた。4年―5年前の文章だが、今までどの本にも収録しないで今日という日を待っていた。

 けれども私の問題意識が「教科書」をはるかに越えて、先を見ていることは読者もすぐにお気づきになるだろう。

 第六章「平和のままのファシズム」は現在の、未来の日本の危機を予言していたつもりだ。冷戦の崩壊後、自由が勝利して、なぜ自由はいままた不安な暗雲に閉ざされだしているのか。

 付録3に「歴史認識」に関する私の発言の全リストを掲げたが、最も古い新聞の文章は1988年5月である。リストにある題目だけ見ていても、「歴史認識」の歴史が一望できるだろう。

新刊『民族への責任』について(一)

 先日西荻窪の飲み屋「吾作」で宮崎正弘氏と、一夕歓談した『民族への責任』(徳間書店¥1600)の見本が自宅に届けられていたので、一冊持って行ってお渡しした。そうしたらもうたちどころにメルマガに書評を書いて下さった。

 自著を、自分で紹介するのは難しいので、氏の書評を掲げさせていただく。そしてその上で、目次を掲示する。

 なおご好評いただいていた「宮崎正弘氏を囲んで―中国反日暴動の裏側」はまだ終っているわけではない。あと6~7回は連載される。

<<今週の書棚>>
西尾幹二『民族への責任』(徳間書店)     宮崎正弘

民族への責任最初に本書の独特な構成に気付かれる読者が多いだろう。
 四年前に書かれた一連の雑誌論文と、最近書かれた論考が、あたかも一対になって比較できる編集上の構成は、意図的な配置であると思われる。
 過日、杉並の居酒屋でご一緒したおりに、やおら西尾さんが鞄から出されたのが、この新刊だった。かなり分厚く活字もぎっしり。通読に時間がかかりそうだった。そこで小生は講演旅行に携行し、時間をみつけてようやく通読した。
 本書が扱うのは皇位継承、会社法改正、中国のガス田開発、中国・韓国の反日デモ、さらには少子化問題と対策にまでテーマが拡がる。一見、整合性がないように見えて、じつは四年間のブランクを一挙に埋める、つまり日本人に共通する自由の不在についての批判に纏められ、その狙いは通底するのである。
 教科書問題は北京とソウルの指令によって教育委員会の現場で採択されている。現場の委員達には脅迫まがいのFAXや電話が集中し、決断を示せない。
 大事なことを多くの教育委員が決断できないのである。
大げさな表現ではない、あのやる気のない文科省の役人をみていたら、こういう結果は予想できたことだった。
 教科書以外の問題も、「いずれも待ったなしの決断を迫っているテーマ」であり、日本を衰弱から守るための「悲しいまでの裁定の条件」であると西尾氏は言う。
 だが政治はつねに問題を先送りして次代に無責任にバトンを投げ、「どこかから吹いてくる政治の風にあわせて自分の道徳を政治に合わせた」。
保身に陥り、現実の解決を逃げた。
「現実には存在しない何らかの空想を選んで、しかも道徳や思想や教育の名においてそれを実行する。そうすることで、自分が道徳や思想や教育の『基準』をつくっているのだという恐ろしさの自覚すらない」。
 これが西尾さん特有の語彙によれば「平和のままのファシズム」である。同じことをすでに四年前にも書かれていた。
しかるに状況は四年前もいまも不変であり、「政治的道徳家は群れをなし、後から後から登場する」と嘆かれる。
教科書採択の決断のシーズンが四年ぶりにやってきたのに国民の危機意識は希薄であり、「やるか、やらないか」を一日延ばしにしてきた。小泉政権はやることをやらないで、やる必要のない郵政改革、道路改革という「粗悪品法律」の濫造という政治をしている。
中国についての危機意識も鋭敏であり、日本はいかにして自分たちの衰亡を防御するかを考えるべきであるに対して「中国はいかに自己の過剰と欠乏を調和させるかが究極の課題である」。
したがって「日本人と中国人の間には生命のリズムという点での共通性はなにもない。どちらにも危機があるが、その内容と性格を異にしている。日本人と中国人の間では、深い精神的な意味での共同作業は考えられない。『東アジア共同体』などというばかなことを言うのはやめたほうがいい」
 ついでながら本書52ページには小生も登場するが、その部分ははしょって、つぎに女性天皇擁護論批判の一節。
 「皇室の『本当の『敵』がみえないままで『皇室典範』に手を加えるのは、外敵に気付かぬままに国境を自由開放するのにも似ている。中国問題で奥にいる『敵』の仕掛けが見えない不用意な外務官僚』」もまた文科省の役人同様である。要するにかれらは「開かれた社会の自由が恐ろしいのである。自由に背を向けて、『閉ざされた社会』のシンボルやイメージに取り巻かれて、自分を守っていたい」のだ。
 現代日本への痛憤、悲嘆、哀切。読んでいて未来が悲しくなる。救いがない役人たちに政治教育道徳をまかせておくのはもう止めなければ、日本は衰退を免れないだろう。

 過分のことばを数多くいたゞき、宮崎氏には心より厚く御礼を申し上げる。

 このご書評の中に出てこないテーマや内容もあるので、まだ書店でご覧になっていない方のために、目次をお示しする。

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   目  次   民族への責任

中韓の反日暴動と歴史認識――序にかえて――

第1部 平成17年(2005年)

 第一章 民族の生命力をいかにして回復させるか   
    ――性と政治の関係

 第二章 領土問題           
    ――和を尊ぶ日本的美質ではもう通らない

 第三章 皇位継承問題を考えるヒント    
    ――まず天皇制度の「敵」を先に考えよ

 第四章 ライブドア騒動の役者たち     
    ――企業、司法、官庁に乱舞する無国籍者の群れ   

 第五章 怪獣は四つの蛇頭を振り立てて立ち現れた 

 第六章 アメリカとの経済戦争前夜に備えよ   
    ――日本の資本主義はどうあるべきか

 第七章 韓国人はガリバーの小人   

 第八章 第四次世界大戦に踏みこんだアメリカ  
    ――他方、北朝鮮人権法で見せた正義

第2部 平成13年(2001年)

 第一章 歴史の矛盾     

 第二章 文部省、約束を守ってください   

 第三章 売国官庁外務省の教科書検定・不合格工作事件  

 第四章 われわれのめざしたのは常識の確立  

 第五章 『新しい歴史教科書』採択包囲網の正体

 第六章 平和のままのファシズム  

 付録1 歴史を学ぶとは――扶桑社版『新しい歴史教科書』序文  
   2 教科書検定・不合格工作事件(平成12年)の略譜  
   3 「歴史認識」問題に関する西尾幹二の全発言リスト  

 初出紙誌一覧  

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 「領土問題」には地図が、「皇位継承問題」には皇室の略系図がのせられてある。後者は所功氏のご指導もいたゞき、苦心のうえつくり上げた3ページの自信作である。

 伏見宮家が南北朝時代に始まり、戦後GHQの指令で廃された11宮家の基で、今上陛下の系譜とは別であることはよく知られていると思う。今上陛下の系譜は江戸時代に新井白石が断絶を恐れて考えだした閑院宮家の流れをくむ。つまり、このとき緊急避難的な措置がすでにとられているのである。

 こうして生まれたのが第119代光格天皇だが、今度調べていて面白いと思ったのは、置き去りにされかけた系譜から光格天皇の皇后が選ばれていることである。過去にはいろいろな工夫がなされていることが分った。

 有栖川宮、桂宮は江戸時代に絶家し、伏見宮家のみが敗戦まで宮家でありつづけた。孝明天皇の妹に皇女和宮がいることは有名だが、その姉君の淑子内親王は桂宮家を継ぎ、女性で宮家の継嗣となった珍しい例である。しかしそれゆえであろうか、ここで絶家している。女性天皇の行方のあやうさを暗示していないだろうか。

 現在、三笠宮家の宣仁親王が桂宮と呼ばれているのはなぜかと不思議に思っていたら、これは祭祀継承といって、お祭りごとだけを引き継いでおられるのだと所先生に教えてもらい、成程と合点がいった。

 皇室の系図は入り組んでいて難しい。まあざっとこれくらい頭に入っていれば、一番肝心な議論にはこと足りる。大切なことはこのままでいけば20~30年後に皇室の「敵」が巨大な姿を現わすことだ。それは現代日本の社会意識そのものに深く根を張って、巣くっている。

 天皇家も迂闊であり、不用意であったと今にして思う。もうひょっとしたら間に合わないかもしれない。

お知らせ

日本文化チャンネル桜に次の3回出演します。★

6月7日(火)  20:00(30分)
   報道ワイド日本 水島総氏、鈴木邦子氏

6月8日(水)  19:00(1時間)
   明日への選択  伊藤哲夫氏

6月15日(水)  22:00(1時間)
   大道無門  渡部昇一氏

最高裁口頭弁論 (四)

 アメリカは文明国だと果たしていえるのだろうか。しかし失われた本を回復せずに、60年も放置してきた責任は何といっても日本人自らにあるだろう。

 目録を見て、日本人の協力なしで出来る作業ではないと思った。ユダヤ人に対するナチスの犯行はユダヤ人の協力なしでは不可能だった。

 件の『没収指定図書総目録』の最初の「ア」のページから何冊か書名を書き出してみよう。

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(以下略)

 これらの書物が暗示する一つの大きな心の歴史、それがぽっくり抜けて、空洞となり、私たちは歴史の連続性を失った。

 ミラン・クンデラの言ったことば、―国民の記憶を失わせるのは簡単である、「その国民の図書、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい歴史を発明することだ。」をあらためてよく、憂悶の思いをこめて噛みしめておこう。

 話題を再び現代に戻すが、私たちの口頭弁論のあと、船橋市代理人が裁判長の質問に答えて、文書で提出した以上に新たに申し立てることは特にない、と述べた。裁判長横尾和子氏が「判決申し渡しは次回7月14日午前10時30分です」と宣言し、ただちに閉廷となった。

 法廷に私たちがいたのは全体で30分未満だった。

 外は小雨が降っていた。

最高裁口頭弁論 (三)

以下の3点において日録をリニューアルします。

(一)[ブログとしての日録本体]
1)西尾幹ニのコラム 
2)新人のコラム(不定期・週1回予定) 
3)海外メディア記事の紹介(不定期)
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(三)[オピニオン掲示板について]
上記の変更により、オピニオン掲示板は日録のコンテンツから外れ一般リンクへの組み入れとなります。

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 最高裁口頭弁論 (三)

 私にひきつづいて井沢元彦氏が意見陳述を行った。私はすぐ隣の席で聞いていたが、氏の意見を記憶だけでうまく表現する自信がない。幸い裁判所に提出されていた氏のメモのコピーが私にも渡されていたので、これを掲げさせていただく。

勿論、氏が口頭で展開された陳述内容はこのメモの何倍にも及ぶのであるが、私がへたに要約するよりは、たとえ量が少なくても、ご本人の要旨メモのほうが正確であろうと思われるので、以下に示す。

意見陳述上の趣旨について
                        原告本人 井沢元彦

○ 被告の行為は、民主主義社会への挑戦であり、文明への冒涜である「焚書」に値する行為であり、厳しく責任を問われるべきである。

○ にもかわらず、原判決は被告の「非行」に触れながら、この問題に対する認識が余りにも低いと言わざるを得ない。

○ 著作者にとって、作品は「子供」のようなものであり、それを恣意的に廃棄された苦痛は大きい。

○ このような行為に何のペナルティも課さなければ(単なる内部処罰でなく)今後も、こうした行為がくり返される恐れがある。これは、すべて著作権を持つ人に、あるいは著書を持つ人にとって、重大事であり 、もっといえば裁判官も「判例の著作者」という意味で、決して他人事ではなく、かつ、この事態を放置することは国民の「知る権利」への重大な侵害に発展する可能性もある。

                                  以上

 ひきつづいて内田弁護士より意見陳述がなされたが、一つの事実指摘が私の印象に残った。

 内田氏は言った。「船橋市は、本件事件の発覚が、一図書館利用者からの『最近、蔵書がなくなっていないか』という疑問から端を発していることを、故意に無視しているのではないか。」(氏の提出文より)

 あゝそうだったのか、と私は合点がいった。読者は敏感である。書物は世に出された瞬間に、著者の手を離れ、読者のものになっているとはよくいわれる。著者にとっては自分のものであって、自分のものではない。そのことをわれわれはとかく忘れがちである。

 関心をもつ著者の本がごっそりなくなっていることに読者の誰かが気がついたのだ。船橋市民の中にそう気がついて、不思議に思う人がいた。そのような素朴な知覚から端を発して事件へと発展したということには、ある深い意味がある。
 
 事件を起こした土橋司書のある「意図」が敏感な読者のアンテナにひっかかったのである。

 としたら、アメリカ占領軍の数千冊に及ぶ「焚書」が日本国民のデリケートな読者としてのアンテナにひっかからなかったはずはない。気がついても、読者の中の誰も何も言わなかったし、言えなかった。あるいは言えないものと思いこんで沈黙した、そういう長い、暗い歴史があるのである。

 私たちはすべての本を再発掘して、もう一度自分の歴史をとり戻すことはできるのだろうか。

最高裁口頭弁論 (二)

 チェコ出身の作家ミラン・クンデラは次のように語っています。

 「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせて新しい歴史を発明することだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう」

 とても示唆に富むことばですが、逆に一冊の本に書かれた内容がある民族に致命的であって、それへの反証、反論の本が書かれなかったために、その民族が悲運に泣くという逆の例から、歴史の記録がいかに大切か、歴史を消すことがいかに恐ろしいかをお示ししてみたいと思います。

 近代ヨーロッパの最初の覇権国スペインはなぜ進歩から取り残されたか。16-17世紀に歴史の舞台から退いた後、なぜ近代国家として二度と立ち上がることができなかったのでしょうか。

 それもたった一冊の薄っぺらい本から起こりました。一修道士バルトロメ・デ・ラス・カサスが1542年に現地報告として国王に差し出した「インディアスの破壊についての簡潔な報告」がそれです。からし粒ほどの小著ですのに、大方の国語に訳され、
世界中に広がり、深々と根を下ろし、枝を張りました。日本でも岩波文庫から出て、よく読まれてきました。書かれてある内容が凄まじい。キリスト教徒はインディオから女や子供まで奪って虐待し、食料を強奪しただけではありません。島々の王たちを火あぶり刑にし、その后に暴行を加えた、等々です。

 それ以後スペインとなると「黒の伝説」がつきまといます。中南米のインディオを大量虐殺し黄金を奪ったスペイン、狂信のスペイン、異端尋問のスペイン、文化国家の仲間入りができないスペイン、凶暴きわまりない闇の歴史を持つスペイン――そういうイメージにつきまとわれ、スペイン人自らが自分の歴史に自信を持つことができなくなりました。

 最近わが国でも歴史認識に関する「自虐」心理が話題になっていますが、自分で自分を否定し、自己嫌悪に陥り、進歩を信じる力を失った最大級の自虐国家はスペインです。

 それもたった一冊の薄っぺらな本に歴史的反証がなされなかったからです。あまつさえオランダとイギリスが銅板画をつけ、これを世界中にばらまきました。しかし近年の研究で、あの本に書かれた内容には誇張があり、疑問があるということが次第に言われるようになってきました。とはいっても、なにしろ16世紀です。ときすでに遅しです。

 じつは日本にも似た出来事があるのです。この赤い一冊の大きな本をみて下さい(私は裁判官の方に本をかゝげた)。アメリカ占領軍による『没収指定図書総目録』です。

 マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を図書館から除籍し、廃棄することを日本政府に指示しました。書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大かがりとなります。昭和23年に文部省の所管に移って、各部道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし秘密裏に行われました。没収対象の図書は数千冊に及びます。そのとき処理し易いように作成されたチェックリストがここにあるこの分厚い一冊の本なのです。

 勿論、占領軍はこの事実上の「焚書」をさながら外から見えないように、注意深く隠すように努力し、また日本政府にも隠蔽を指示していましたので、リストもただちに回収されていたのですが、昭和57年に「文部省社会教育局 編」として復刻され、こうして今私たちの目の前にあるわけです。

 戦後のWar Guilt Information Program の一環であった、私信にまで及ぶ「検閲」の実態はかなり知られていますが、数千冊の書物の公立図書館からの「焚書」の事実はほとんどまったく知られておりません。

 今となっては失われた書物の回復は容易ではないでしょう。しかし私は書名目録をみておりますと、この本がもどらない限り、日本がなぜ戦争にいたったかの究極の真実を突きとめることはできないのではないかと思いました。

 「焚書」とは歴史の抹殺です。日本人の一時代の心の現実がご覧のように消されるか、歪められるかしてしまったのです。とても悲しいことです。船橋西図書館のやったことは原理的にこれと同じような行為につながります。決して誇張して申し上げているのではありません。

 裁判所におかれましては、どうか問題の本質をご洞察下さり、これからの日本の図書館業務に再び起りかねない事柄の禍根をあらかじめ断っていただくべく、厳正にご判断、ご処置下さいますよう切に希望する次第です。

最高裁口頭弁論 (一)

 最高裁判所の建物内には初めて入った。外観は高速道路からいつも見ていた、コンクリートを打ちつけた侭の、材質を剥き出しに、飾りを省いた現代建築である。近寄ると砂岩をかためたような、ざらざらした粗い目の石材で、予想していたようなコンクリートの地肌のまゝではなかった。

 なにかに似ているなと思った。裏口から入った。雨が降っていて、吹きっさらしの幅広い戸外の石段を昇っていて、あゝそうだ、ヨーロッパの古城だと気がついた。内部に入って、広間を見て、カルカッソンヌの中世末の城を思い出した。積木を組み合わせたような石組みといい、内部の天井の高い大広間のたたずまいといい、ヨーロッパの古城の模倣であることは疑いをいれないように思えた。

 迎賓館はベルサイユ宮殿のイミテーションだし、東京都庁舎のモデルは、ノートルダム寺院だと私は秘かに信じている。現代建築家といえども、西洋の古い建造物に原像を求めているのがおかしいようでもあり、悲しいようでもあった。

 弁護士さんが主任の内田智氏のほかに、五人集っていた。みなさんいずれもみな理念のための戦いに参じた、無私の法律家のかたがたである。口頭弁論に各5分の時間を与えられているのは、私のほかに作家の井沢元彦氏、そして主任弁護士の内田氏である。

 最初上告人の控室に案内された。第一審では原告、被告の名で呼ばれる区別が、第二審では公訴人、被公訴人、最高裁では上告人、被上告人と名づけられ方が変わっていることを、このとき初めて弁護士さんの一人から教えられた。私は本当に何も知らないのだな、と思った。

 平成17年6月2日午後1時、最高裁第一小法廷は開廷された。裁判官は五人、中央の裁判長席にいる方は女性である。訴えている上告人は9人の焚書された本の執筆者と、「新しい歴史教科書をつくる会」である。訴えられている被上告人は船橋市である。傍聴席の約半分が埋まっていた。知っている人の顔もあった。

 裁判長が案件の名をあげ、上告人代表の内田弁護士が手短に応答した。そしてすぐに最初が私の口頭弁論の番である。

 数日前に原稿用紙二枚の予定の発言内容の提出が求められていたので、三点に分けて箇条書きしておいた。しかし喋ったのはその約5倍はある。文章にはしておかなかったので、メモを見ながら早口で話した。録音は許されていないので、以下、記憶とメモに基いて書く。

=====================

 

上告人の西尾幹二です。三点に分けて考える処を申し述べさせていただきます。

 日本国民の一人として、日本国の公立の図書館から、理由説明もなく一括して廃棄された本のうちに、自著が含まれたことに、私は屈辱と怒りを覚えました。私の過去の全著作活動が公的機関から、理由もなく「差別」されたという感覚、私の人権が一方的に侵されたという強い認識をもったことをまず第一に告知しておかなくてはなりません。

 第二点以下は私個人の感情ではなく、そこから離れた公的問題に絞ってお話ししたいと思います。

 廃棄の対象となった私の本の9冊のうち7冊は、歴史にも政治にもほとんど関係がありません。私が「新しい歴史教科書をつくる会」に関わるより前の文芸書や人生論のたぐいで、私が会の代表であったというそれだけの理由によって、昔の本に遡って無差別な廃棄の対象となったのであります。

 これはある集団に属していればそれだけで罪になる、という断罪の仕方であって、ユダヤ人であれば罪になるというナチスの論理、地主や資本家であれば罪になるという共産主義の理論を思わせるものがあります。「つくる会」に属していれば、それだけで、属するより前の書物までも罪になる、というこんな全体主義的な発想が許されてよいのでしょうか。

 なにかに属している者はそれだけで罪になる、という「集団の罪」Kollektivschuldの概念に立脚して、1930年代に二つのの全体主義、ナチズムとスターリニズムは無実の人々を処刑しました。尤も、この「集団の罪」の概念は被害者である場合と加害者である場合とでは意味が逆になり、必ずしも一筋縄ではいきません。ドイツ人は戦後、悪いのはヒットラー「個人」であり、ドイツ民族という「集団」には罪はない、という詭弁を弄しつづけてきたのは周知の通りです。

 ですが、本件のような被害者の立場からいえば、「集団の罪」を被せられるのは恐ろしいことで、私の本は私がなにかに属しているかいないかで判断されるべきではありません。

 当件にナチスまで持ち出しては大袈裟に思われるかもしれませんが、決してそうではありません。体制の犯罪、自由の扼殺(やくさつ)は小さな芽から始まるのです。

 図書館員の特定の思想をもったグループが団結して、しめし合わせて、歴史を消し去るということもあながちあり得ないことではないと思わせたのが本件であります。

 さて、そこで焚書とは何か、歴史の抹殺とは何か、という三点目のテーマに移ります。

宮崎正弘氏を囲む――中国反日暴動の裏側(十四)

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 宮崎正弘氏を囲む――中国反日暴動の裏側(十四)

西尾:今のような内閣のやり方だと、靖国と教科書だけが悪ものになって、総理が靖国に行かない、教科書は採択させない、なんていうのがカードになって、その分だけ教育委員がびびっちゃって、採択をしない教育委員は大人だという気分になりかねない。いままでの日本の国内の空気では、教科書はどうも中国や韓国が悪いんだから、日本人は自分達の道をまっすぐ行けばいいんだと思っていた。だけど、そこは風圧が烈しくなれ、教育委員たちも、事後責任を感じるような、心理においこまれてですね、マイナスイメージになるんじゃないかと、私はそこをしきりに心配しています。

B:小泉氏があそこでまた村山談話をいいましたね、やはり影響をちょっと心配しているんです。私は村山と、河野談話を早く廃棄してもらわなければ困ると思っているのです。なかなか、やりにくくなりましたよね。むしろ村山談話に沿っているのは他の教科書ですから。

宮崎:あの人はおかしいですね。頭が。

C:どの人?

宮崎:小泉さん。

B:ないんだからしょうがないんですからね。

A:彼のやり方は、全部そうなんだけれど、憲法は私の在任中はやりませんということでやっていてね、なんでこそこそやるのか。どうして国民に語りかけて、ふつうの国になるんだからと言ったらいいんですよ。そうしたらもっと・・・・、口を開くたんびに謝罪、哀悼。

D:宮崎さんのメールマガジンに読者の方が、バンドンの会議で謝罪の話をしたのは、何も中韓に対してではなくて、欧米諸国の、元植民地国家の前で一般論を言ったことは非常にいいという論説をのせておられる方がいたと記憶していますが。村山元総理があの談話を言ったのは、社会党だからということで許せていたんですが、政府も外務省も含めて保守の小泉総理がまたあれを繰返して踏襲したというのは困ったことで、つまり一切政府の人間は、もうこれ以上言えなくなってしまっているということになると思うんですね。以前は、せめてもの言い訳は政府が言ったといっても、あれは社会党だったわけで。

B:あの件は閣議決定をしているのです。閣議決定というのはのちのちの内閣までね、ずっと縛り付けるんですよ。だから今役人は何も言えないわけなんですよ、あれに関することはね。ただ、ですが、強いて村山談話をひっぱりだす必要はないんですよ。町村さんにしても向うに行って村山談話と変らない・・・・

西尾:先に言いましたね。町村さんが。

宮崎:あの論理はね、高坂正堯みたいな人がいるんで、なんでも是認するわけですよ。いい方に、外務省の見解をみんなプラスに変えていくでしょ。高坂正堯が甦ったかと。

 年内のことよりも、もうちょっとスパンを広げて金融危機の問題はさっき申し上げました。今度はエネルギーの問題ですが、中国が今毎日240万バーレル石油を輸入しているんですけれども、おそらく10年くらいで一日500万バーレル輸入になるでしょう。それで、早め早めというのはいいんですけれども、国内的には新疆ウイグルから上海まで、4200キロのパイプラインを引きましたね。そのパイプラインを次にカザフスタンにまで伸ばしているんですが、これが1900キロ、それから、ロシアのシベリアの途中から分捕る。とうとう中国の方が先に工事をしますから、・・・

西尾:日本はそれにお金を払うんですか?

宮崎:いえ、先にするのなら日本はそこまでお金を払わない。それからサハリンのガスも一本は中国向けです。それから、イランにですね、イランには総額2000億ドルの投資をしているんですよ、中国は。それからブラジル、インドネシア、あらゆる所に投資をするんですけれど、これは日本の大東亜戦争の資源を求める戦線の拡大と同様に、ものすごく危険じゃないかと思うのです。一つは、金銭的にもうアホができなくなるんですよ。2000億だの1000億だののプロジェクトを、ぼんぼんぼんぼんやっているわけだから。そのエネルギー投資の破綻がおそらく、三年から五年くらいで出てくるだろうと思うのです。

 もう一つは国内的に、今発電所をものすごく作っているんです。今でも発電は石炭が72パーセントです。五年以内に原子力発電を30基くらい作ると。今もさかんに作っています。水力発電もそこらじゅうにダムを作っています。ダムなんですが、今22000箇所ダムがあるんですが、実際に2000くらいは機能していないんです。水力発電が壊れているんです。山峡ダムも今2mくらい亀裂が入っています・・・・(笑い)

 山峡ダムは軍が反対したんですよ。あれ破裂したら100万くらい流域が水没します。原子力にいたっては、日本製をまだ入れていませんので、ロシア製でしょ。これはチェルノブイリの二の舞があるんじゃないでしょうか。あれぐらいの原子力のレベルでは。ですから大変なことになるんですよ。そういう意味でね、次の問題は水もさりながら、このエネルギーに対する無謀な投資がどこかで破綻をきたすような気がします。

西尾:ちょっとお伺いしますが、日本の10倍の人口があるから、そんなにエネルギーを確保する必要があるのですか。日本は中東から順調に安定した輸入があるから、賄われているんですか。日本のエネルギーの何倍くらい、中国は必要としているのですか。

宮崎:石油消費でいえば、中国は世界第二位です。日本を越しましたから。

西尾:同じくらいなんでしょ。

宮崎:人口比から言えば、よくこんなものですんでいるなという気がするんです。

西尾:でもとんとん、同じぐらいなんでしょ。なんでそんなに・・・・

宮崎:今申し上げますが、今までは国内にあったんですよ。大慶油田があったし、勝利油田があった。大慶油田が今枯渇しています。それから勝利油田も今生産を拡大できない。ですから東シナ海も日本と衝突おこしてまでしてむちゃくちゃ開発をする。ベトナム、フィリピン、マレーシアともそうで、石油からガス重視に移管しているんですよ。ガスの契約が多いですよね。石炭はだからといって、急に壊せないんですよ。廃坑、安全基準を満たしていない炭坑を次々に廃坑を命じているんですけれど、その廃坑を温州の資本が入って、また営業をやって、ひそかに石炭を取っている。

 それからこれは我々の常識では考えられないのですが、エネルギーを盗むやつがいるんです。しかもこれがまた凄い盗み方なんです。例えば石炭を、20輌の貨物列車が通りますよね、その列車ごと全部盗んじゃうんです。その規模の強盗事件がそうとう起きています。それからガスも盗むんです。途中からパイプラインを引いて。

(笑)
C:盗んでどうするんですか?

宮崎:闇で売るんです。

西尾:でもどこかにいったん貯蔵しなくちゃならんでしょ。

宮崎:それはタンクローリーを盗むんですから。何台も盗みますから。それから漏電、漏水の問題があります。水道管が悪いんですよね。40パーセント漏水だっていうんですよ。その無駄遣いがあるでしょ、電力もおそらく30パーセントくらい無駄になっているんです。それプラス電力を盗む奴がいますからね。このエネルギーをもうちょっと日本なみに締めるとですね、漏水、漏電をなくして、省エネを図ればいいんです。石炭の電力発電のところは、公害装置を取り付ける。日本はこれで成功したから、消費がこれですんでいる。中国は目先の消費と、バクチ性があるから、儲かると思ったらそっちへ入り込んでくる。収拾がとれなくなっているんでしょう。
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