宮崎正弘氏を囲む――中国反日暴動の裏側(十五)

西尾:それで中国の先行きは?

宮崎:先行きは、今申し上げましたように、エネルギー投資が余りにも無謀なので、そこから破綻を来たしそうです。

 軍のエネルギー確保の発想はパラノイア的です。

 長期契約で、向こう25年間に、2000億ドルをイランに出資するといって、今700億ドルを払ったらしいんですが、今から開発するわけでしょう。開発するのに、資金切れになったらどうするのか、そんなことぜんぜん考えていません。

 ですから、中国のやることが、あんまり無謀なので、メジャーがみんなプロジェクトから撤退していくわけです。東シナ海からもユノカルなどが撤退しましたね。コスト度外視ですから。

 新疆ウイグルから上海まで持ってきているガスも、パイプラインは完成しましたが、末端の消費者にとって、国際価格の3倍もするんですよね。だれも買わないでしょ。買わないから今度は共産党が押しつける。国有企業にこれをこの値段で、買いなさいと。

西尾:日本のように、中東から輸入するというラインだけでは足りないんですか?

宮崎:中東からも石油、ガスを輸入しておりますが、足りないというよりも備蓄設備が少ない。

C:中東から輸入するだけじゃなくて、スーダンからも石油を輸入しているらしいですよ。

西尾:そこで素朴な質問ですが、なんで日本はそんなに、がつがつしないでもやっていられるのでしょうか。

C:いえいえ、過去に於て日本がやろうとした同じようなことを中国もやろうとしているんでしょう。日本は最近政府が石油公団を廃止したりしましたけれど、一時国が金を出して、石油を自分の側に抑えて、それで安定輸入先を確保しておこうということでやっていたんです。その政策があまりうまくいかなかったので、というか一部分しか成功しなかったので、そのうち堀内さんなんかが批判するもんだから、やめてしまったんです。それで今になって、石油がなくなり、天然ガスがなくなろうとしているとき、もっと日本は自分の側に抑えておくべきだったんじゃないかという議論が、今ごろまた再発しているんです。

 中国は30年前の日本と似たようなことを、わぁ~っといっぺんに金をかけてやろうとしているんです。で、今宮崎先生が言われたように、全てのプロジェクトがうまく行くとは思えませんけれども、ただ彼等としては本当に必要なのは油とガスだから・・・・・

西尾:日本はどうなの。何度もききますが、日本はのんびりしていませんか?

C:日本も同じです。石油の値段がこんなに上がったのは、中国がそうやってたくさん買おうとしているからなんですよ。ですから、影響は全世界が受けています。

西尾:中国の経済が伸びれば伸びるほど、エネルギーはより必要になるということですね。

C:宮崎先生がいっておられたように、めちゃくちゃやっているから、プロジェクトとかなんかで、おかしくなるんじゃないかというのはとおっしゃる通りではないかと思いますね。

D:アメリカの共和党は、民主党もですが、チェイニーとかラムズフェルドあたりはニクソンの時代から、ワシントンに居た人間です。彼らはマッカーサー元帥が好きなんですよ。マッカーサーが辞めた時に、議会証言の中で、彼らは朝鮮戦争の体験を心情を通して語ったんです。それはつまり、我々アメリカというのは、アジアの戦争に勝てないと言っているんですよ。そこらへんが共和党の、中国に対する考え方の根底にあるんじゃないかと私は思うのです。

 戦争しちゃいけない、封じ込めくらいはいいけれど、戦争はとにかくやっちゃいけない。今やっているのは、日本式に金持ちにして、おだやかにソフトランディングにもっていこうというのが、共和党の政策の根幹だと思います。

西尾:金持ちになるプロセスで、日本の場合は平均して金持ちになり、静かになっていった、だからよかったけれど、中国は非常にドラスティックに差ができたりするから、金持ちになったとたんに情報が過剰になって、内乱が起きる可能性は中国の場合は高いですよね。

宮崎:富の独占という意味で、中国共産党という権力だけが富を独占するわけですから、庶民のことなんか共産党はどうでもいいんです。そこで必ず不満が堆積してくるんですね。今の段階は、なんといったって飯が食えるから、まあいいのですが、これで農民が本当に食えなくなったらあちこちで一揆的な暴動を起すでしょうね。暴動が起きても、今の軍隊240万と第二軍の人民武装警察70万とで抑えられる、ただ軍がそのうち、武器を敵に渡すなどの腐敗を始めるでしょうから、そうすると昔のように、群雄割拠じゃないけれど・・・・がたがたしてくるでしょう。

西尾:中国と北朝鮮とは違いますか?そういう意味で。

宮崎:いや、かなり違いますよ。

西尾:違いますね。抑えられない。北朝鮮の軍隊、北朝鮮の民衆は抑えられるけれど、本当に餓死者が出るようになったら中国の場合は抑えられないと。

宮崎:あの半島とは違って中国のように広いところでは、山西省は山西省で何をやるかわからないし、江西省は江西省はで何をやるかわからないという状況も出ないとも限らない。ただ、この間もその議論になったんですが、かつての地方軍閥のごとくにたとえば、旧満州では張作霖が出たり、天津からは袁世凱が、山東に閻軍閥、四川に朱徳、広東に葉剣英が出て「広東覇王」をなのるというような、旧来の軍閥かといえば、それは違うと思うのです。

西尾:ということはつまり、片岡さんがさっきから言っているように、現代の国家、主権国家が武力、軍事力を持ったら、地方軍閥は手が出せないということですね。

宮崎:地方叛乱ですね。もちろんそうですが、我々が昔からイメージしていた中国の地方軍閥というのは、もう消えかけてないと思います。

 軍の近代化以来、地方軍閥を警戒してきた。

 その結果、いまあるのは、総参謀本部、総政治部、総後勤部、もう一つ。この四つの「縦の系列」があって、それぞれが地方空間を束ねている。

 軍の中の四つの「縦の系列」にそれぞれ利権があるんです。どこどこのガスはここ、たとえばどこかに労働者を派遣するのはここ、サウジアラビアのミサイル管理はここ、ホテル経営から何から全部「縦の系列」で利権を取り合っているので、それが喧嘩を始める、(ま、今も喧嘩していますけれど)そのときが大混乱の始まりでしょう。

西尾:それが流血の喧嘩になるかもしれないと?

宮崎:なる可能性はある。しかしいい部隊にはいい武器が行くわけですから。

 外国にも出している。軍は輸出で儲けていて、たとえばバングラディッシュあたりは、全部中国製の武器ですよ。90パーセント。ロシアのカラシニコフを真似た機関銃ですが。一発打ったら弾奏が壊れるので、あれみんな“チャラシニコフ”と言っている。(爆笑)

 周縁諸国は、プロチャイナの国々でも、そういうものしか持っていない。まだ、それで十分だから。一方、中国は沿岸警備を含めて、海軍の装備が格段によくなったようですね

西尾:北京オリンピックの見通しはどうでしょうか?

宮崎:オリンピックまでは強権発動で持つと思います。その前に不動産と金融の問題がどうなるかですよ。

C:さっき宮崎さんがおっしゃった、株の投機は?メタル関係は?

宮崎:これは終わりました。鉄鉱石は上がっているんですが、ただ需要がもうないんです。いままで隠していたやつを今だして、それから発注っていうことになりますでしょ。

C:アメリカでも日本でも、そういうのは起っていますけれど、上がるとみんなが買いだめして。

B:上海の土地はもう下がるとおもいます。

宮崎:石油と金が上がっています。

C:日本企業の投資の問題ですが、ちょっと感想を述べさせていただきたいのです。過去10年、15年の間に中国向けの投資については、日本の企業は揺れているんですよね。中国はカントリーリスク――リスクと言う言い方はおかしいかもしれませんが――結局中国に投資して、うまくいくかということです。日本の企業も90年代の前半なんかは、相当慎重だったんです。それは現実に、うまくいかないケースもあったし、中国の中で売ろうとすると大臣が買い占めちゃうようなケースもあった。

 さっき銀行は不良債権が多いとおっしゃっていましたが、中国人は借りた金を返さない。それで日本のやおはんという会社が投資して、つぶれちゃったんです。結局、中国の中で商売しようとして、やっていけなかったのです。日本の企業はどっちかというと、中国で作らせて、それを買ってアメリカに輸出すると、その商売だったら代金はアメリカから入るわけですから、それで向うで割に伸びているのはそうです。

 私は中小企業の仕事をしていましたけれど、日本の中小企業も中国向けの投資がむずかしいなという感じをもっていたんです。ところが、90年代の終りごろから、少し様子がかわってきて、日本の大企業もうまくやるのが出てきたし、しかも中国の中で商売するイトーヨーカ堂とかですね、そういう所も出てきて割にうまく行き始めたもんだから、中国国内をマーケットにした商売の為の、投資というのが非常に増えてきて、つい最近まではものすごいブームになっていたんです。ただ、反日暴動の事件があったのでまたカントリーリスクが出て来たと思います。

 東南アジアの方に、アセアン諸国のほうにまた若干ウェイトが移っていくんじゃないかなと思います。それは中国にとっては、非常に大きな影響があると思います。しかし経済問題ですから、これはしょうがない。

宮崎:もうひとつ、今木下先生がお触れにならなかったことで、WTOの問題があるんですね。WTOで来年、金融の自由化とか知的財産権の保護とか、いろいろあるんですけれど、やはり繊維ですよね。繊維のクォーターがなくなって、中国がラオス、カンボジアに負けるんですよ。中国企業がみんなあっちへ行っているでしょ。価格競争に勝てない分野が中国でさえ今でてきた。

B:ストが起きているでしょ。賃金ストが・・・・

宮崎:ストは年中起きている。基本的にはみんな不払いなんですよ。工場長が持ち逃げしたり、約束の半分ももらえない、これ一番多いんですよ。

B:約束した金を払わないというのは、中国人なんですか。

C:中国に投資することに、通産省がかんでいます。通産省が熱心にやったような気がするんです。

西尾:台湾の悲運がここで問題になりますね。許文龍さんが涙を飲んだ事件がありましたね。愛国者だったのに、自分の会社の人間がおそらくひどい目にあって、仕方なく台湾の独立放棄なんて心にもないことを無理して書かされたんでしょうが、日本の企業も罪もないのに、10年の刑とか、そういう人があいついで出たりすると、日本の企業もこれは大変だということになって、逃げ腰になる、そんなことおこりませんかね。

宮崎:今小林陽太郎だの、一応財界が中国の言うとおりに動いているから、今のところ嫌がらせはないと思います。ただ、たとえばトヨタの会社あたりが全然違うことを言いだすと、やりかねないですね。

西尾:困ったもんですね。常識の存在しない始末に負えない国ですから、日本の企業もちゃんと分って、不当なことをされたらどうしたらよいか、今から対応策を考えておいてほしいですね。

台湾の楊さん

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豊城和彦
 56歳、会社員。団塊の中心世代。全共闘運動真っ盛りの時期に学生時代を過ごし、三島由紀夫の自決に言い知れぬ衝撃を受けた。素材メーカーに勤務すること三十余年。進行する日本社会の劣化崩壊に、こうしてはいられない、の思いが強い。

 台湾の楊さん

 劉さんの時の台湾出張から10年ほど経った頃、また別の新製品の市場開拓で何度か台湾に出かけた。代理店の楊さんは私よりもだいぶ若い。市場打診を始めたばかりの特殊な製品を目ざとく見つけて台湾代理店に名乗りを上げた、小さな商社の経営者である。日本の大学に留学していた時のバイト先(?)で今の奥さんと恋仲になって千葉県から台湾に連れ帰ったという辣腕。奥さんは日本人だからもう少しうまい日本語を話してもいい筈なのに、性分なのかかなり雑な日本語をしゃべる。

 10歳ほども年下だし、ややがさつでさっぱりした男だから、遠慮のない話ができる。現地で一緒に市場開拓に回った時、途中で車を止めて楊さんとその部下の3人で昼食を取った。例によって絶対に食べきれないほどの種類と量を注文しようとする。

 「そんなに食べられないよ、このくらいにしようよ。」と言っても「まあまあ」とか言いながらどんどん注文する。過剰注文をして大量に余らせるのはもう2度目か3度目である。たまりかねて年の差をいいことにお説教を試みた。

 「こっちの言葉でもったいないはどう書くんだっけ?」
 「可惜。」
 「日本語の『もったいない』には単に経済的に惜しいとか、損をするという意味だけでなく、例えば食べ物だとかに対しても、そのものの本来の目的を達して上げられないような状態になる時に、そのものに対して申し訳ない、気の毒だ、と思う気持ちがこもっているんだ。その食べ物を作ってくれた人に申し訳ない、という気持ちもあるが、それだけでなく、人間が接する森羅万象にはすべて何らかのたましいがあって、それが、本来果たすべき役割を果たせていないような状況にある時、その気の毒なたましいに対す
る同情心のこもった言葉が『もったいない』なのだ。」

 大略こんな話をした。楊さんは神妙そうに聞いていたが、話は耳の穴を素通りしたのか、それともちょっとは記憶に残ってもう一回お説教されると面倒と考えたのか、その晩は台湾人の経営らしい日本料理屋に連れて行かれた。和食ならコースで出るから量が多すぎると言って文句をつけられる心配がないと考えたのかもしれない。

 そんなに安い店ではなかったろうと思うが、お皿やお椀は確かに和風なのに、料理の出し方はめちゃくちゃで順序も何もあったものでなく、ほとんど全品をいっしょくたに持ってきて、お膳の上にごちゃごちゃにおいて行った。盛り付けだってなんか洗練されてないのである。

 全体にこっちの人は大まかで、細かい事にこだわらない。(台湾人に限らず、大陸でもシンガポールでも似たような印象を受けるから、シナ人全体と言った方がいいか?)

 お膳の上のありさまにちょっとしたカルチャーショックを受けながら、和食というのは順序だとか容器のとりあわせだとか盛り付けだとか、要するに総体のものなのだなあ、ということを改めて感じた。

 『もったいない』が地球環境保全のキーワードとして使われる気配である。森羅万象に精霊が宿ると考えるアニミズムに根差しているらしい日本人の「もったいない」感覚をぜひ世界中に広めたいものだ。

鹿子木裁判長が与えた憂鬱(追記あり)

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・否定された企業防衛策

我が国初の平時導入型敵対的買収予防策が司法により否定された。
新株予約権差し止め、東京地裁・異議審・高裁・・・まだ記憶に新しいほりえもんの事件を思い出す。最初に司法判断をして強烈な牽制球を投げた裁判長も同じ鹿子木氏。
あの時はニッポン放送が買収を仕掛けられた後の「有事・事後の」新株予約券発行という防衛策が問題となって、ライブドア側の差し止め請求が通った。この事件以降、各企業ともおっとり刀で「平時・事前の(有事に発動する)」買収防衛策を作った。
経済産業省の企業価値研究会でも「論点公開~公正な企業社会のルール形成に向けた提案~」 が公表されている。この資料の126ページ、企業価値研究会 委員名簿を見ると「武井一浩 西村ときわ法律事務所 弁護士」とある。
日経新聞によると実はこのニレコのライツプランは経産省の企業価値研究会の委員をしていた事務所(西村ときわ法律事務所)によるものらしい。

ニレコの企業買収防衛策に対する新株予約権発行差止仮処分命令申立事件の決定を読んだ。東京地裁商事部の鹿子木裁判長の論旨はいたって明快、ここまでくるとあきれるほど。この判断が基準になるなら今回新株予約権スキームを実施したほとんどの企業は発行差し止め処分を食らうことだろう。

H17. 6. 9 東京地方裁判所 平成17年(モ)第6329号 保全異議申立事件
H17. 6.15 東京高等裁判所 平成17年(ラ)第942号 新株予約権発行差止仮処分決定認可決定に対する保全抗告

この判決についてはいろんな専門家がそれぞれの立場で解説するであろうから詳しくは触れない。
(異議審の市村氏、高裁の赤塚氏に比べて、鹿子木判決が一番いやらしいことだけは述べておく)
ここではあえてテクニカルな話題を避け、この判決の根底にある考え方に注目したい。
なぜなら、この東京地裁民事8部というのは今後も実質的に我が国の大多数の企業(上場会社)の管轄裁判所となるのだから。
そして、この二つの地裁決定が今後の我が国の企業買収防衛策に大きな影響を与えることになるのだろう。

しかし、これが罷り通るなら、もう、ムチャクチャだ。
一体どこまで企業の自治に司法判断が踏み込んでくるというのか。
鹿子木氏の論では理想的な経営者とは、いくつかの利害関係者(ステークホルダー)の利害を同時に考えることができる人物となる。そして、必ず一般株主の利益を忘れない人物。しかし、経営者に複数ある利害関係者に対する責任を持たせて、いろいろなことを実行させるということは、結局、経営者の裁量権が増してしまうことになり、最終的にはそれが論理破綻になってしまって、どんな利益も満たせないということにもなりかねないのだが。

本来なら、このような状態で安易に市場経済の活性化のみを目的とした練りこみの足りない新会社法を導入すべきではない。(新会社法では新株予約券の差止請求のみならず、発行無効確認訴訟もできる、そして施行1年後には合併対価の柔軟化により三角合併も可能となる)
経営者が余計なことに気を取られて、本業に没頭できなくなるとしたら本末転倒もはなはだしい。

・株主重視経営と株式市場中心経営は、似て非なるもの

あえて誰も言わない禁句を言おう。
「我が国では会社は株主のものではない」 「企業価値は株価で決まるものでもない」

皆が口には出さないものの、本当は心の底で思っていることだろう。
我が国の会社の成り立ちを考えてみれば誰でも分かることが何故言えなくなったのか。

我が国は間接金融主体の経済であったので、その成長期には銀行融資によって資金調達を行なっていた。そして、それを一所懸命返済してきた。株式市場から会社の成長に必要な資金を調達するところなど殆んど無かったはず。
つまりオーナー経営者ならずとも、会社に関わる全ての人には株式市場の力を借りずに、自分達が会社を大きくしたという自負があったはず。長年会社に勤めてきた従業員が「会社は自分達のもの」と思うのもある意味当たり前とも言えよう。特に短期投資の株主など、株式を売ってしまえばその会社と縁はなくなってしまう。

働く者の心の底では皆が「会社は株主だけのものではない」と思っているのに、いつの間にか会社は株主のものとされてしまっている。岩井克人さんの論とは別の意味で私は会社は株主のものではないと言い切る。従来は日本的産業資本主義、家族的会社制度、金融機関からの資金調達に絡む株式の持合いや系列によって磐石と思われていた日本的社会システム。ところがこれを時代遅れと批判する考え方の勢力が実権を握りだしてこれを解消させてきたことが、現在のような事態を招いたと言えよう。

・株式市場とは長期投資の人も短期投機の人も同時に存在する場所

ほりえもん達の台頭にしたところで、小泉氏や竹中氏の存在抜きには語れない。
当時低迷していた我が国の株式市場に、一般投資家の参加を呼ぶ込むとのことで、2001年の小泉政権の時に株式分割を容易にした。
恐らく株式分割は業績良好、高株価の株式の分割を想定したものだったのだとは思うが、実際にそれを利用したのは、今やほりえもんに代表される新興市場のIT企業だった。
実業の能力には乏しくとも、こういう抜け道には目ざとい彼らは株式分割制度の歪みをついて魔法の杖を手にすることになる。
ライブドアなどは2003年には公募増資して51億円を、昨年の公募増資ではいきなり382億円を手にしている。この背景には、一株を4回にわけて3万分割するという、常識外れのやり方でドーピングして時価総額を極限まで高めた手法がある。
株式を2倍に分割すれば、株価は半分になりそうなものだがここにトリックがある。
株式分割に伴う株券の交換、それにかかる一ヶ月半のタイムラグによる需給バランスの崩れによって株価が高くなるのだ。巨額の資金を持ち短期売買を繰り返す投機的投資家が動き、また、たいしたお金も持っていないくせに、自分も将来お金持ち、とバカな夢を見る自称デイトレーダーがそれに乗せられ、せっせとその手助けをして結果的に社会に対する価値破壊を行なう。そして、それによって手にした資金でこうした会社はまた企業買収を続けていくことになる。時価総額の大きさに比べ収益力が劣るこんな会社は、これを止めるわけには行かない。止めれば待つのは株価の下落しかないのだから。

鹿子木氏の基準では、生産品質や技術の向上のような地道な努力ではなくて、ほりえもんのようなサギまがいの時価総額上げのトリックが真摯な経営努力になるのだろうか。(既存株主にとって不測の損害を与えるという点では、MSCBのような資金調達を行う経営者であるほりえもんはまさにその筆頭なのだが)
このようなことができる日本の株式市場のスキームにこそ歪みがあり、これをこそ是正しなければならないのではないかという考えになぜ至らないのか。
鹿子木氏は分かっているのだろうが日本はアメリカ型の資本主義はできないのだ。
元々の金融システムが根本的に違うのだから。
それなのに、彼のような人達がそれを無視してこんな考えで司法判断を続けていくと、何をどうやってもアメリカの資本主義に負けてしまうことになる。
もっとはっきり言うと、金融力がないといくら産業が強くても、国家は必ず乗っ取られる。
つまり、日本がアメリカの「下請け国家」にならざるをえないということになる。

・株式市場中心主義におけるコーポレートガバナンスの問題

直接金融主体のアメリカ型資本主義の最大の特徴は株式市場至上主義、あるいは時価総額至上主義にある。会社の優劣は市場で判断される。どんなに立派な仕事を行っている企業でも、将来性があっても株価が低ければ価値がない。クリントン政権の労務長官を務めたロバート・B. ライシュは『勝者の代償』(東洋経済新報社)の中でこう言っている。
かつての経営者支配の時代には、労働者は限られた労働強度の中でその雇用は安定していた。底辺の労働者の賃金は上がり、経営トップの報酬は制限されて、賃金格差は縮小した。労働者の平均賃金が持続的に上昇することによって、中流階級が拡大した。
 ところが、九〇年代以降こうした状況は急変することになった。企業は、いまでは、従業員や地域社会や一般大衆に対する責任を果たさなくなった。経営者の唯一の任務は株価を最大にすることであり、そのことにより自分の報酬を高めることである。企業はコスト削減のため、リストラを繰り返し、労働者の安定した雇用は消滅した。労働者は収入を得るために以前よりもはるかに継続した努力を求められ、長く働き、家庭にも仕事を持ち込まざるを得なくなった。この求めに応じられない労働者は下層に転落して行った。こうして、不平等はおどろくほど拡大した。

アメリカ経済の帰結は、金融資本による独裁とも言える。

・むしり取りの構図

その金融資本にいく金が、結局は我が国が稼いだ金であることが一層私を苛立たせる。
アメリカは実業は下手でも、マネーゲームだけはとても上手い。株、為替、M&Aなどのゼロサムゲームになると、アングロサクソンであるアメリカは本当に強い。
ここ数年のアメリカは貿易では大赤字、ただし金融資本による富のむしりとり-海外直接投資-では受取超過となっている。アメリカの03年海外直接投資収益率は10.3%。対日投資収益率は13.9%にも達する。逆に、米国以外の国からの対米直接投資の利益率は、平均で4.2%(欧州が4.5%。日本は5%)。要するにアメリカの一人勝ち、そして、特にむしりとられ方が激しいのが日本である。アメリカ金融資本にとって日本は「おいしい植民地」なのだ。
ただし、日本は製造業中心で5%の収益を上げている。しかも、地域に根ざした雇用をつくりだしている5%である。雇用を生まないマネーゲームの13.9%とどちらが社会的価値があるだろうか。
政治力をも利用したアメリカ企業の収奪ぶりはすさまじい。しかし、我が国で同じ事を今後もやらせることを許すわけにはいかない。小泉改革がアメリカの利益を計るための方向性をもって推進される-私にはそうとしか思えない-のを止めねばならない。(数字は米国国務省「International Investment Position of the U.S.」より、参考「WEDGE」4月号10-12ページ)

日本は金融資本を欧米型にせず、土地をベ一スにした資本を産業に投下することで発展してきた。そして、一所懸命に努力し、いいものを安くつくることで成功し、資本を蓄えた。
しかし、ほりえもんや竹中氏と根っこのところでは同じ考え方の鹿子木氏のような人達が、自らの無謬性を信じて亡国の司法判断を繰り返していけば、その蓄えは、結局はアメリカの金融資本に取られ、最後には我が国の主要な全産業が「下請け」にされてしまう。
政府が巨額の税金を投入した長銀を、アメリカの投資会社リップルウッドが買い取って新生銀行になったのも、旧日債銀をソフトバンク、オリックス、東京海上火災の3社連合が買い取ったのも、みな同じ構図。
そして、この流れは、これからいっそう激しくなろうとしている。
日債銀の破綻後の一連の出来事などは、合法的に行われた一種の強奪だったとも言えよう。
本来、このようなことは政府が規制するべきものである。
しかし実際には4兆円強の公的資金、つまり税金が投入されていたにも関わらず、自分の都合のみでソフトバンクの孫氏は490億円で買ったあおぞら銀株を1011億円でサーベラスにさっさと売却した。しかし、これは彼の信ずる経済合理性に基づき、合法的に可能な限り早く多くの利益をあげただけである。小泉氏や竹中氏といった市場原理主義者がいつも言っていることを投機家として行っただけにすぎない。
旧日債銀だけでも、幼児も含め国民1人あたり3万6000円を負担した計算になるのだが。
そして、その後こういうことがあったことも見ておかねばならない。
楽天 株式会社あおぞらカードの株式譲受
ヤフー、あおぞら信託を傘下に収めてネット銀行業参入へ

完全にもてあそばれている。政治家のみならず、我が国の国民も。
従業員、顧客、地域社会のいずれも考慮されることのない資本家中心の経済理論など、アメリカのむしりとり植民地経営正当化の詭弁にすぎない。郵政民営化にしても政府機関が民営化されれば、資本家がそれを買い取り、またも同じ事が起きるのが当然の帰結になるやもしれぬことも声を大にして言う人がいない。

さて、鹿子木氏はこれらの事例を十分に承知の上で、一体どんな考えを持って訳の分からない持論で裁いてきて、今後はどうするというのか。

・アメリカの言うことは本当に正しいのか

もともと、欧米でできあがった資本主義というものは、資本家を中心としたものであり、極端に言えば金貸しの利益と権利最優先である。ただし、鵜飼の鵜がいなくなって鵜匠だけになっても困る。だから、支配者からすれば、生かさず殺さずというのが丁度良い。いまの日本はアメリカニズムとその信奉者によって、そういう状態に置かれようとしている。

日本の問題点が政財の癒着体質と情報公開不足にあるとするアメリカ政府の主張を正しいとする人に問いたい、エンロンやワールドコムの事件が示すようにアメリカの方が我が国以上に腐敗と癒着体質、情報公開不足が多かったのではないか。 アメリカの突きつける年次改革要望書は情報公開や腐敗防止策をさせることで我が国経済を脆弱にし、乗っ取りやすくすることが目的ではないのか。
そういうバカな話を真に受けてきて我が国のシステム全体が歪んでしまっているのだから、このままアメリカの要望のままに部分的に変えていっても、もうダメだということに気付くべきだ。

西尾幹ニ先生が「ライブドア騒動の役者たち」で鹿子木氏について、既に4月に彼の無国籍思想の危うさを語っておられたが、その時は買収攻防のスキームにばかり目がいってしまい、さして気にも留めなかった。これは私のみならず専門家もほとんどそうではなかったろうかと思う。確か「正論」だったかと思うが、「民族への責任」という近著に所収されている。あの時どうして誰も気付かなかったのか。そうすればこんなばかげたことの繰り返しは起こらなかったのかもしれない。

いや、今からでも遅くない。
この判決には強い意思を持って、国民世論としての異議を申し立てるべきである。このような判例を既定路線とさせて良いはずがない。
労働の対価としての賃金のみで満足し、企業が生み出す経済的付加価値は海外に流出してよいという人がいるなら別だが。
その場合には、我が国の経済は崩壊する。

企業価値の優劣すら企業へ判断をゆだねることは許されず、もっと司法判断を仰げというようなわけの分からない判決。
極論を言ってしまえば平時における買収防衛策の導入自体を否定しているのだ、鹿子木氏達は。
一体誰の損害を念頭においてこのようなことを言うのか、彼等は。

鹿子木氏はアメリカ帝国主義の走狗となりたいのだろうか。
我々日本人を下請け奴隷にしたいのか。
そういう人間を法匪と呼ぶのに私は何のためらいも覚えない。

福井雅晴
Ph. D in Economics Univ. of California,Berkeley

以下に追記あり
24,June ’05
“鹿子木裁判長が与えた憂鬱(追記あり)” の続きを読む

新刊『民族への責任』について(八)

 今度の本は私が15年ぶりに本気になって経済評論を書いた点に新しい特徴があることにはたして気がついてくれる人がいるか、エコノミストはどう考えるか、ずっと気になっていた。

 PHPの編集者の丸山孝さんは経済畑の本も出している方だが、今日、6月16日にファクスで個人的な書評を書き送って下さった。

 謹啓『民族への責任』をお送りいただき、ありがとうございます。 

 今回もたいへん面白く拝読いたしました。個人的には、特に私の興味の強い分野である第一部の「第四章 ライブドアー騒動の役者たち」から「第六章 アメリカとの経済戦争前夜に備えよ」の部分が、単行本では通読できることもあって、再読の印象は一段と切実かつ興味深い内容でした。

 タイトルの「無国籍者の群れ」や「アメリカとの経済戦争前夜に備えよ」というコピーに現われた明快な内容に、まったく賛同します。アメリカが日本を「自分に都合のいいように組み変えた後で、利益を吸引」しようとしているのは明白で、なぜエコノミストがこのことに警鐘をならさないのか、それのみならず、なぜむしろアメリカに加担しているのか、かねてより不思議でなりませんでした。

 今から書くようなことは邪推であるため、マスコミにはもちろん登場してきませんが、どうも一橋大学の経済学部、社会学部出身者(あるいは同程度の大学の出身者)に、そういった「アメリカ賛美派」が多いように感じています。その代表が竹中平蔵氏と中谷巌氏ですが、要するに国内では東大でないとワンランク低く見られるので(・・・・それもどうかとは思いますが)、一橋経済学部の人たちはアメリカに留学してドクターを取ってくるため、すっかり洗脳、あるいはトラの威を借りる、あるいは無国籍者となってリベンジ、ということになってはいないかと、かねてよりウガッています。

 もうひとつ気になっているのは、いわゆる「無自覚な内通者」とでも言うべきか、一般のビジネスマンを見ても、アメリカ流に加担することによって自分の利益を上げようとする人物が、ここ10年ほどずいぶん増えたように感じます。(特に金融とIT)。

 そういったことを思い出しつつ読み進めると、最初は『民族への責任』とはなかなか強烈なタイトルだと思っていたのですが、だんだん「なるほどその通り、実に、実に良いタイトルだなあ」と印象が変ってきたことも、付け加えておきたいと思います。

 確かに『民族への責任』という立場から本書を(私の場合特に第一部の第四章から六章を)読んでみると、日本人が真に何をなすべきかが見えてくると感じます。

 成程、そうか、そうか。やっぱり私の経済評論を評価してくれる人もいるのだ、と思うと嬉しくなり、ならばなぜ『正論』に出た段階で一般のエコノミスト諸氏がかくも完全に無視してかかるのか、ここに逆に、エコノミストの世界が今の日本で機能していない秘密があるのではないかとさえ思った。

 「グロバリゼーション」や「市場の自由化」を唱えるのでなければエコノミストの看板を張っていられないともひごろ聞いている。経済評論は日経が旗降る「大政翼賛会」になっているのかもしれない。

 

それから個人的には第二部「第五章 採択包囲網の正体」が収録されていたのも嬉しかったです。これでようやく、この論文のためだけに保管していた『諸君』を、取り出しにくくてもかまわない場所に移動できます(笑)が、やはり単行本という形で一冊にまとまってくれると、何かと重宝で、改めて本の良さを感じたりしました。ここに出てくる長谷川さんが「インターネット日録」の長谷川さんと同じ方だと今頃気がつくとは、うかつの限りでしたが(笑)。

 丸山さんは私のたゞの担当者ではなく、昔からの根っからの愛読者であることが上記の前半の文からジーンと伝わってきて、あゝ、こんな風にして読んでくれていたのか、と知って、なにか胸に迫るものがあった。

 そして、そのような彼が、つい2、3日前の日録で管理人長谷川さんのアイデンティティに初めて気がついたというのも、不思議では決してなく、人は本を読んでいるときには必要のないかぎり固有名詞を読みとばしていることを裏書きしている。

 

タイトルといえば、「第三章 皇位継承問題を考えるヒント」というよりサブタイトルの「まず天皇制度の『敵』を先に考えよ」も、たいへんに印象深い内容です。特に、奥平氏の引用があることによって、きわめて効果的に問題の本質をえぐっていると思います。そのような感想は雑誌掲載時にも申し上げたかもしれませんが、読者によっては「本書の中でこの論文に最も感銘を受けた」という人も多いのではないでしょうか。

 それに比べると、私のように第一部の第四章から六章の経済評論に最も引かれるというのは、あるいは少数派なのか・・・・この点の議論が盛んになればと思うのですが、依頼するのに適当なエコノミストの著者を思いつかない次第です。

 初歩的な印象ばかりで恐縮ですが、たいへん興味深く拝読したことが伝われば幸いです。

 「天皇制度の『敵』を先に考えよ」のアングルが効果的と言っていたゞけたのも、うれしい。というのは、皇室問題を論じる人が概して穏健な保守派で、敵の巨大さを日頃意識していない穏和しい、呑気な人が多いことに私は的確な警告を発したつもりだったからである。皇室に近い人であればあるほど、この点では迂闊である。

 なにかを論じるには論じ方ひとつで論の内容は変わってくる。よく素人っぽいもの書きで、自分は誰それと同じことを考えてきたとか同じことを言ってきた、とか簡単に口にする人がいるが、月並みな語り口で平板に語れば、同じこともじつは違った内容になる。

 結論が同じでも経過が違えば、本当は結論も違っているのかもしれない。丸山さんは永年の編集者経験から、その違いのきわどさをすでに十分に肝に銘じておられるのだ、と私は思った。

新刊『民族への責任』について (七)

 お知らせ

日本文化チャンネル桜に出演します。

6月15日(水)22:00(一時間)   「大道無門」 渡部昇一氏司会 

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新刊『民族への責任』について (七)
民族への責任
 未知の女性からの手紙に私は次のような返事を認めた。私が未知の読者への返事を書くことはこれまで滅多にないことなのに、これは例外である。

 拝復

 あなたのお手紙を拝読して、妙に納得しています。少くとも不快ではありませんでした。罵倒されている趣きもあり、腹を立てるべきでしょうが、私が「日本国と日本民族が未だ存在している」という幸せな安心感の内部に包まれてこの本を書いているのでないことは、あなただってよくお分りのところでしょう。

 「貴方様は日本国と日本民族が未だ存在していると勘違いしているようですが」と書かれてありましたが、あなたがヨーロッパの大学の学位によって自分の人生を支えられると勘違いしている程度には、私も自分の住む国の歴史と文化がまだ辛うじて存在していると勘違いしても、そう間違っているとは思いません。私はあなたの雅子様への対抗心といささかの軽蔑感を興味深く思いました。そこからあなたのご出身の階級や郷土、ご両親のご身分など――まったく書かれていないだけに――いろいろ想像し、小説家的イマジネーションを働かせています。

 思い切って日本を切り捨て、外国で研究に打ち込んで、日本への幻想など露ほども抱かずに徹底して生きてみて下さい。その揚句の果てに、やっぱり日本に立ち還らなければ自分の存在を支えられないと思うか、そうならないで済むか、それは分りませんが、いや味なくらいの外国かぶれになることも、ひとつの生き方です。

 なにごとにつけ不徹底であることは稔りをもたらしません。私は足して二で割るものの考え方をするなとあの本の中で言いつづけましたが、今まで天皇について発言しなかった私の、今度の本における唐突なまでの皇室問題への言及が、あなたを刺戟したのかなと思いました。だとしたら、皇室はやはり鍵ですね。

 あなたが書いている内容よりも、私を侮辱するような言い方で何とかして私に噛みつこうとしているその動機にむしろ興味を覚えました。しかしよく分りません。もう少し素直に、普通に書いて下されば、もっとはっきり分るのにと残念でした。ただ『民族への責任』という近著に私は雅子さんのことをほとんど書いていないので少し変だな、という気もしています。

 外国で勉強をなさって「もう日本に帰らない」と断固意気がってみてもなにか心が満たされず、不安を未来に抱いて苛立っているお嬢さんという印象でした。

 どうかご自分の人生をもっと大事にしてやっていって下さい。
                                  
                                  不一

 もう一度この無礼な手紙を読み直してみた。それなりに筋が通っているのである。今の日本に非常に多い、独立心旺盛な知的女性の一人であることは確かだろう。そして、『民族への責任』を訴えた私の危機意識、最後の拠り所としての日本への熱い思いが、彼女をいたく刺戟し、立腹させたに相違ない。

 「日本と日本民族は、もはや存在しないのです」と繰り返されるリフレインが、なぜ西尾はこんな自明なことが分らないのか、このバカヤロと叫んでいて、今のこの国の知識層に例の多い典型的な反応の一つではないかとも思える。しかしそれでいて自分を必死に守ろうとしていてどこか痛々しさを感じた。

 普通のケースとは違った意味で私の心を打つものがあったので書き留める。

新刊『民族への責任』について (六)

 鎌倉市議を長くつとめた伊藤玲子さんが今度後進に道を譲り、人生最後の課題として、地方議員に保守系の新しい女性議員を次々と送り出したいと仰言る。自分の知っている議員になるためのノウハウを有能なご婦人に教えていきたい、ついてはそういう人を紹介しれもらえまいかといわれて私がすぐに思ううかんだのは、いうまでもなく長谷川さんである。

 伊藤さんにいわせると、世に議員になりたがる女性は多いが、大半が左翼である。これでは困る。保守系女性議員が増えないと、教育も行政も良くならない、と。

 この話を長谷川さんにしたら、保守系の女性はまず自分の家庭と家族を大事にするので、なかなか議員にならない。あるいはなれない。理由は簡単です、というのである。

 長谷川さんはお嬢さま育ちで、医者の奥様である。一男三女の母親である。家族と医院を支え、つくる会の広島支部事務局長をつとめてなおかつ「インターネット日録」によく時間が割けるものと感服する。

 さて、世の中にはさまざまな女性がいて、長谷川さんのような迷いのない強靭な人もいるかと思うと、迷いを見せまいとして迷っている、強気が表に露骨に出て、しかも決して愚かな人だとは思えないが自分の知力一筋に頼むあまり危くみえる女性もいる。

 未知の女性から一通の奇妙な手紙が来た。「本を読んでの感想」と封筒の裏に書いてあるので、期待をして開いたら、のっけから私をからかう言葉で始まる。何とかして侮辱しようと苦心している風が全文にみなぎっている。が、読み終わって、私はなぜか怒りがわいてこなかった。

 案外私と同じようなことを考えてもいる。私からそれほど遠いわけでもない。しかし書き方は徹底的に私を愚弄している。これは新しいタイプの女性かもしれないと思って、この手紙を紹介することとする。

 自著を出すと一つや二つ必ず面白いこういう手紙が届くものである。

 西尾博士殿

 貴方様ほどのエリートが皇室すなわち雅子様の虚像のキャリアや日本民族に関して完全な誤解をなさっておいでなのはもったいないことで貴方様ほどのエリートならば雅子様を本気で相手にするのも滑稽です。もっと狡猾にならなければなりません。

 雅子様は田園調布双葉編入、東大中退、オックスフォード大中退、外交官試験ノンキャリア受験、ハーバード大卒と言っても米国の大学の在籍期間は3年で学位は教養学位しかもらえないこと(ドイツの大学は卒業すると日本で言うならば修士号のレベルの学位が授与されますよね、私もドイツに留学していたので知っています)は皆が知っているしインターネットの掲示板では有名です。

 日本の一流大を卒業した雅子様より若い戦前の大地主などの旧家出身の女性達は皆海外の大学で博士号まで取得し様々な国際資格や難関の国家資格を取得すれば完全に雅子さまよりもキャリアが上になることを知っているので、もう誰も雅子様を相手にしていないし、地道に日々努力して自己研鑽しています。

 雅子様がドレスを着て華やかな皇室外交をしたいならしたいだけさせてあげればいいし、それで雅子様の虚栄心が満足させられ、戦後の米国による植民地化で肥え太らされた労働者階級(それは贅沢な小作人を意味する)が自分達の成功の象徴としてピザとティファニーを愛する雅子様が欧米できらびやかに活躍するのを熱狂を持って迎え、女系天皇が誕生して日本神話から連なる歴史が完全に途絶えれば雅子様は日本プロレタリア革命の女王として永遠に歴史に偉大なる功績を残すことになるのです。

 貴方様は日本国と日本民族が未だに存在していると勘違いしているようですが、日本国なんていう国は、もうずいぶん以前から存在しなかった。この国はナポレオン帝国下のワルシャワ公国と同じであり、戦前の地主などを支持基盤とする最も保守的であるはずの自民党、行政機関、皇室こそが最もワルシャワ公国なのであり、日米安全保障条約は双子の赤字を抱える偉大なる世界の基軸通貨ドルを外貨準備に持ち、そのドル資産で世界一の外貨資産の保有者だと誇る累積債務財政赤字国家日本と米国との間の連隊保証債務と同じです。

 連帯保証人は、金を借りたひとが金を返せなくなったら代わりに金を返してあげなければならない。二つの大学中退という華麗なるエリート・キャリアを持つ米国帰国子女雅子様は双子の赤字を持つ強い米国ドルの象徴であり皇太子は円の象徴であり二人の結婚はドルと円との完全な愛の結晶を意味し、この連隊保証債務によるオーストラリア・ハンガリー帝国は力強い米国株式相場に支えられて永遠に繁栄するのです。

 私は今二つ目の学位(一つ目はドイツ哲学、そして今は経済学)を取得している最中ですが、この後修士号を取得したらスイスのロザンヌ大学で博士号取得を目指し、もう日本には戻ってこないつもりだし、私の友人達にも米国以外の海外で博士号取得を目指して真の国際人になって二度と日本に戻ってこない方がいいと勧めています。

 連帯保証人には近づかない方がいい。私は靖国の英霊達が、もう自分達の郷土と自分の生家と自分の氏神と郷土の地主神だけを守って自由に羽ばたいてくれと言っているように思えてなりません。貴方様のようなエリートが幾ら頑張っても日本国と日本民族は、もはや存在しないのです。

 日本が再び生まれ変わるとき、それは米国ドルが暴落して米国株式市場が崩壊し、米国が世界の覇権国でなくなるときです。でも、そのときの日本は、もはや古代神話から続いた日本ではなくなるのではないかと私は思っています。大和朝廷による神話が成立する以前の、その郷土、その郷土の守り神と長い歴史を土台にした新しい国が生まれる可能性はあると思います。

                                (原文改行なし・適宜改行)

新刊『民族への責任』について(五)

長谷川「例えば、国旗国歌に言及しなくては、わが国の歴史の教科書とはいえません。驚くべきことに、八社中六社までが何の記述もありません。・・・・・・・また文化の基本は国語です。日本語の起源に詳しく言及しているのも扶桑社のみです」
 
 さらに歴史上の人物について、文化史の記述について、分量、質ともに他とくらべて扶桑社版が群を抜いていることは一目瞭然である、という数字上の事実を資料で説明した。
S「国旗国歌なんて、法制化はつい最近なされたばかりだから、歴史教科書にのせる必要はない。国歌のほうはまだ異論がいっぱいあって、教科書に書くべきことではない。それに神話上の人物が挙がっているが、神話は歴史じゃないから、書くことは許されない」
K「でも、日本にはあちこちに神社があるのですから、神話上の人物を教えることも大切ではないですか」
長谷川「東郷平八郎は国際的にも高い評価を受けてきたのに、扶桑社以外の教科書には登場しません。それでいて、名前を初めて聞くような、読み方もよく分らない人物、外国にとってだけ重要かもしれない人物がたくさんとり上げられています」
K「そうですよ。東郷平八郎は教えるべきです」
K氏はときどき助けてくれるが、話が途切れて、長くはつづかない。
K「扶桑社本がいいと思いますよ。日本は自信をもって生きていかなければならないんだから、私もこの教科書でいきたいですね」

 そう言ってくれるが、それ以上の支援はない。教育長は答申尊重を何かの一つ覚えのように繰り返すのみである。教育委員長は司会進行役で、自分の意見をいっさい言わない。議論が燃えあがり、壁につき当たり、しばし沈黙が支配する。夕方までもめても、どうしても噛み合わない。

 教育長は次のように何度も同じことを言った。
「ともかく教科書は教員が使うんだから、教員がいいと思うのが一番いい」
長谷川「じゃあ、教育委員は何のためにあるのですか」
教育長「いや、教育委員は大切なお仕事です。みなさんを尊重していますよ」
長谷川「こんなお飾りでは意味がありません」

 日本のどこをみても、どの角度からみても、どうも教育長が最大の闇の役割だということがわかる。
S「長谷川さんの異論は、選定審議会に報告しておきましょう。答申の結論は変えられませんよ」

 K氏はもうここまでくると反論しない。

 夕方になり、ついに最後に採択についての議決に入った。ただし票決はしない。議決文書が卓上に出される。教科書の各一冊ずつの正否の判定ではない。小学校と中学校の分を二つに分けて、それぞれの全部を合意するかどうかが問われる。長谷川さんは、「他の教科書に関してはいいですが、中学校の歴史と公民に関しては賛成できません。そう議事録に留めて下さい」

 K氏はそのときにはもう何も言わなかった。印鑑を捺(お)すというのでもなく、肯(うなず)いて終った。
「教育の荒廃を治すのはここにあると思って頑張ってきたのに、とても残念です」と彼女は最後にひとこと言い添えた。

 当「日録」の管理人の長谷川さんがどういうお人柄の方かは読者はお分りになったであろう。一部のつくる会関係者の間ではその行動力が高く評価されている。そういう人でなければ「日録」をこつこつと支えて4年目にも及ぶということがどうして出来るであろう。

 信じることに靭く、そして生きることに熱い稀有な方である。しかも美人である。

新刊『民族への責任』について (四)

 前回につづき本からの直接の引用である。

 長谷川さんはただ一方的に押し切られそうなその場の雰囲気を恐れたのである。さっそく電話で県の教育委員会に「しぼりこみ」の意味いかんを問い合わせた。指導第一課の門田(もんでん)剛年氏は市の課長と同じような答を言うばかりだった。長谷川さんが「一位をきめて報告するのはどうですか」というと「選ぶための諮問ですから、当然どれを選んだらよいかという判断ができなくてはなりません。だからそれは構わないのです」「判断するのは教育委員ではないのですか。だから順位づけしてはいけないはずだったと思いますが」「順位づけは構いません」というような応酬だったらしい。

 しかし、同和問題対策のため旧文部省から送り込まれた、辣腕(らつわん)だった県の前教育長辰野氏がきめたルールとは真向から対立する話である。辰野氏は少し前に広島県から転出した。たちまち元のもくあみということか。

 7月20日、廿日市市の臨時教育委員会が開かれた。メンバー構成を言っておくと、教育委員関係は五人で、教育長、教育委員長、教育委員S氏(広島大学名誉教授・生物学)、K氏(元中国電力常務。会社社長)、長谷川真美氏。それから行政から市の教育部長、教育総務課長、学校教育課長、ほか事務局の担当係。

 会議の冒頭、目を剥くような驚くべき発言が学校教育課長からとび出した。
「歴史の教科書はすでに検定を通っているのですから、どれもみな同じで、歴史の内容については今日はご議論いただくことは控えていただきたい。われわれは政治的に中立でなくてはならないので、教科書の内容に踏みこんだ討議は本日は行えません」
「それなら何を論じるのですか」とある委員。
「子供にとって分り易いとか、先生たちが教え易いとかに関してです」
教育長がここでひきとった。
「つまり、歴史観で選んではいけないということです」

 あまりのことに長谷川さんは唖然として、開いた口がしばらく塞がらなかったらしい。

 地方の小役人どもが何かを恐れ、必死に難を避けようとして、歴史の教科書の内容はみな同じなのだから、挿絵がきれいだからとか、図表がわかりやすいからとか、そんなことだけで討議せよ、という。しかし実際の教科書は、内容的に極左から中間左翼まであり、扶桑社本がそれらのすべてと対決している。なぜ逃げるのか。歴史の内容を論じなくて何で歴史の本の選択ができるであろう。私はおどおどした小役人の立居振舞いを笑ったゴーゴリーの風刺小説を思い出した。広島県廿日市市は帝政末期のロシアなのだろうか。
「それはおかしい」と教育委員のS氏が怒りだした。「このあいだは選定審議会から一方的なお話を伺っただけなので、今日はわれわれの側できちんとした討議をしたい」

 朝の9時半から始まって、中学の部に移ったのは昼すぎであった。

 長谷川さんは用意していた原稿に基いて、約10分意見を述べさせてもらった。
〈教育荒廃に際し、教育委員の果すべき役割は大きい。自分は“教育委員はただのお飾りか”という文章で疑問を表明したことがある。教科書を選ぶことは教育委員にとって最も大切な仕事である。文部科学省の学習指導要領をこそ採択の基準にすべきなので、そのことを市の採択要綱の文言に入れるようにお願いしたら、それは大前提だから入れなくてよいというお話だった。けれどもわが国の国土と歴史に対する理解と愛情を深めるようにという学習指導要領の精神で、はたして廿日市市の答申は書かれているだろうか。扶桑社版では生徒はただ暗記するだけで、考える内容が非常に少ない、と答申にあるが、これはまったく逆の評価で、出来事、背景、影響というものの材料を扶桑社のようにたくさん与えて初めて、生徒に自分自身で考える力を養うことが出来るのである〉

 大略こう述べて、学習指導要領の大きな目標を掲げた一文をコピーで配り、
「この精神に添うような内容の教科書は扶桑社しかありません。私は本委員会に出された答申を差し戻したい」
教育部長が「差し戻されても困る」という大きな声をあげた。教育部長、教育総務課長、学校教育課長が立ち上がって教育長の所に集まり、こそこそと話し合った。
「差し戻しがまったく出来ないわけではありません。ただきちんとした新しい答申を出せるかどうか分りません」
と部長が困惑した顔で、とりなすように言った。

S「長谷川さんは何が問題なのか、具体的に例をあげて言ってくれ」
長谷川「自分が調査した結果を発表していいですか」
S「どうぞ」

新刊『民族への責任』について (三)

民族への責任 さて、今回の新刊については、版元の徳間書店のお許しを得て、約8ページに及ぶある部分をそっくり全文掲示することが可能になった。

 「西尾幹二のインターネット日録」の読者にとって管理人の長谷川さんのお名前は馴染みだろうが、どういう方なのか、私とどういう関係にあるか、私がなぜ彼女に全幅の信頼を置いているのか、分らないという人も少くないであろう。現にオピニオン板にそういう疑いの書き込みがあったので、信頼への由来を明らかにするよい機会と思えてここに全文8ページを掲示する。長谷川さんがドラマの主役となって登場するシーンである。

 本当はこう書いて読者の気を引いて、あとは本を買って読んでくれ、と言ったほうが有利なのだが、この本は他にもいっぱい面白い売りの部分があるので、ケチケチしない。ここは全面公開といこう。

 

 広島県廿日市(はつかいち)市は単独採択区である。県から教科書採択の委託を受けた市の教育委員会は、選定審議会(校長代表、PTA連合会長、学識者という名の元校長二名等から成る)に責任をまる投げした。さりとて選定審議会は自ら教科書を読んで、研究するわけではない。調査員と称する中学の教師に再び責任をまる投げした。調査員は各教科ごとに五人いる。彼らのみが教科書を読んで、報告書をつくる。選定審議会はその報告書の答申に黙って従い、文句をいわずに上にあげる。教科書を実際に見てもいないのだから、何かをいえるわけがない。かくて報告書の答申はそのまま教育委員会にあがってくる。教育委員たちも教科書は展示場でみる以外には接する機会がない。よほど熱心な委員以外は展示場に行かないし、行っても小中学の教科書ぜんぶ見るのは百時間かけてもできない。そこで委員会になると、答申を承認するといって、教科書を見もしない人がパチパチと賛成の手を叩く。これが前回までのやり方で、今回もほぼこの通りで行きそうだった。

 前回、教育委員長が冒頭、教育委員会は時間がなくて開けなかったので、「専決処分」したから委員のみなさま、このままどうかお認めください、という妙はことばを使った。教育委員会は開かれていなかったのに、教育長が任されて決定したという形式だけを踏もうとしたからだった。

 廿日市市教育委員の長谷川真美さん(主婦)は、市教育委員会規則の「教育長の事務委任」の条項中に「教科書採択は除く」とあるのを発見していた。そこで、今回はあらかじめ教育委員長に逃げ道を封じるべく釘をさしておいた。パチパチとみなで拍手して終り、つまり審議もせずに事後承認、というわけには今度はいかない。

 しかしあがってきた報告書の答申を見ると、総評が書かれていて、一番下の枠に、中学の歴史は東京書籍がよいと考える、と書かれてあった。教育委員会にあがってくる前に、一、二社にしぼりこんではいけない、というのが、文部科学省の指導方針だったはずだ。長谷川さんはびっくりして、「これは『しぼりこみ』ではありませんか」
と問うた。事務局側を代表して、学校教育課長が、
「いえ、これは『しぼりこみ』ではありません。『しぼりこみ』というのは、調査委員の研究段階で、あらかじめ何社かを外して、数社にしぼりこんで比較調査をすることをいいます。調査の段階では全社を扱っていますから、『しぼりこみ』ではありません」
長谷川「でも順位づけをしているではありませんか」
課長「調査の段階では順位づけもいたしておりません」
しかし現に東京書籍が一位として示されているのだから、いけしゃあしゃあとよく言えたものである。
長谷川「じゃあ、出された答申はこの委員会で変更してもかまわないのですね」
課長「委員たちの話合いによって、可能ではあります。しかし、答申は重んじられなければなりません」

 教育長がその通りだ、と口を挟んだ。彼はその後も何度も答申の尊重をくりかえし強調した。
課長「県の教育委員会から『しぼりこみ』をしてはいけないと指導されていますが、これは『しぼりこみ』ではないし、こういう研究報告の仕方をしてはいけないとは指導されておりません」
長谷川「今日のここから先の討議は延期していただけませんか。中学の歴史・公民は国際問題にもなっていて、慎重に審議したいので、7月20日に延ばして下さい」

新刊『民族への責任』について (二)

以下の3点において日録をリニューアルします。

(一)[ブログとしての日録本体]
1)西尾幹ニのコラム 
2)新人のコラム(不定期・週1回予定) 
3)海外メディア記事の紹介(不定期)
日本に関する海外メディアの記事をピックアップして日本語に翻訳して紹介

(二)[会員制サイト設置]

(三)[オピニオン掲示板について]
上記の変更により、オピニオン掲示板は日録のコンテンツから外れ一般リンクへの組み入れとなります。

*詳細はここを御覧ください。

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 新刊『民族への責任』について (二)

 もう一度目次を見ていたゞけるとありがたい。

 今度の私の本には経済問題がかなり大きくクローズアップされている。日本の未来はこの面でも危い。

 本の帯広告には次のように書かれている。出版社の編集部が考えたキャプションである。

日本をいかに衰滅から守るか――
この一冊の本が日本人の運命を決める。

皇位継承問題、会社法改正、中国のガス田開発、歴史教科書と中国・韓国の反日気運、そして少子化の不安……、内と外から日本を揺るがすこれら一連の出来事は相互に関連がないように見える。しかし、その背後には「敵を見ようとしない日本人」の姿が見え隠れしてはいないか。立ちすくむ民族の性根を鋭く見据え、戦後60年の空白を撃つ警世の書。

 第2部に教科書採択のなまなましい体験記をまとめてのせた。4年―5年前の文章だが、今までどの本にも収録しないで今日という日を待っていた。

 けれども私の問題意識が「教科書」をはるかに越えて、先を見ていることは読者もすぐにお気づきになるだろう。

 第六章「平和のままのファシズム」は現在の、未来の日本の危機を予言していたつもりだ。冷戦の崩壊後、自由が勝利して、なぜ自由はいままた不安な暗雲に閉ざされだしているのか。

 付録3に「歴史認識」に関する私の発言の全リストを掲げたが、最も古い新聞の文章は1988年5月である。リストにある題目だけ見ていても、「歴史認識」の歴史が一望できるだろう。