講演「正しい現代史の見方」帯広市・平成16年10月23日(四)

 戦争に負けるということはもう海外の権益を奪われ、資産を押さえ込まれ、賠償を取られ、領土を失い、それから不愉快きわまるいろいろなことが相次いで起こるわけですから。国家の発言力は低下するし、国益は守りにくくなる。そうやって苦しんだ揚句、やっとのことで平和条約が結ばれ、そこですべてをいったん水に流してもらって、これ以上の釈明や言い争いはもうやりませんというのが、平和条約ですから。そこで、もうこれ以上二度と謝るということはないということを前提として考えておかなくてはならないわけです。

 が、どういうわけか、日本ではおかしなことがずっと戦後行われてきたのです。平和条約のあとでは、敗者は謝ってはいけないのに、謝るべきはむしろ勝者であるのに、謝罪が後あとまで尾を曳く。こんなバカなことはないのです。敗者と勝者の関係に世界史の中で異変が起こっている現れではないでしょうか。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間では勝者の態度に異変がみられるのではないでしょうか。

 ヨーロッパの市民文明というのは、二十世紀の初頭まで上昇に上昇を重ねてきました。輝かしい一番美しいヨーロッパ文化の花開いた時代、永井荷風がパリにあそんだあの美しいヨーロッパの姿。第一次大戦でそのヨーロッパが焦土と化し、四年にわたって悲惨な戦争を行って、とうとう最後には毒ガスまで出てきた。まぁ、みなさん知っています通り、ヨーロッパ文化が一番激しく自責の念にかられたのは、第一次世界大戦の後でした。

 インドの詩人タゴールが直後のヨーロッパを訪れて、物質文明そのものの持つ自己破壊、文明がもたらす非文明、野蛮、をそこに見て、インド人の目でヨーロッパの自我拡張意識の間違いを厳しく批判しました。ヨーロッパの中からも強い反省の気持ちがわき起こり、これが言うまでもなく1928年の不戦条約になるわけですし、さらにはヨーロッパの内部で、第一次世界大戦の惨劇に、時を同じくして『西欧の没落』という本が書かれます。シュペングラーと言う人のね。もうヨーロッパ文明の末路運命がここへきてニヒリズムの極限に立って、没落していくよということで、ヨーロッパが本当にすっかりがらがらと変るのは第二次大戦ではなくて、第一次大戦であると普通の文化史にも書かれているくらいです。つまり本当につらかったのですね。ヨーロッパ人はあの時ね。今までの美しかったヨーロッパを本当に自分の手で壊してしまった。そして、それが愚かだったという反省があった。

 しかし、第二次大戦のあとで、ヨーロッパの中から反省の声が出てきたでしょうか。まったく出てこなかったんですよ。ナチスの悪口ばっかりで、ついでに日本まで巻き添えにして、敗戦国の悪口を言い続けて、大量破壊史を展開した西洋人は、自己断罪を回避しました。悲劇において勝者と敗者の区別はありません、イギリスはドレスデン爆撃で1945年2月に3万人を殺戮し、アメリカはその1ヵ月後に東京空襲で10万人の一般市民を殺害しました。その勝者が文明の破壊の一翼を大きく担ったことの反省がなくて、どこかに悪者探しをしてけりをつけた。それがナチスのドイツと、軍国主義日本ということになった。まったく天から話がちがうんですが、そういうことになった。ドイツと日本を裁いた後で、戦勝国もまた深く反省し、自己を裁くべきだったのに、裁かなかったことは後々まで祟り、歴史を歪め、今日まで文明をねじ曲げてきております。

 さて、皆さん、戦勝国はどこも、第二次世界大戦においては、謝罪はしなかった。このことは異常なことだということを、あらためて考えるべきなんですよ。戦争は終ったんですから。異常なことだということ、それがわからない人が日本にもたくさんいて、さっき例をあげた大江健三郎さんなどがその代表ですけれどもね。つまり、逆のことを言っているんだからね。敗者だけが謝るべきで、敗者が勝者の犯した罪まで全部背負わなければならないという議論じゃないですか。原爆を落とされた側が人類の罪におののいて、そして、それ以降は日本人は文学はもう書けない境地になったなんて自分を辱め、転倒したこと言ってんだから、それじゃ勝利者の罪まで全部背負って生きていかなければならないのか。あの人のノーベル文学賞の受賞演説がそういう内容なんですよ。輝かしきヨーロッパ文明に対して、暗黒の日本という話なんだから。で、悪いことをして申し訳ありません、と。アジアを犯し、搾取したのはイギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカではなかったのですか。大江さんはまったくわれわれとは異質な歴史認識を持っておられるようでした。

 そういうことを平気で言うのは日本の恥ですね、あの人は。ノーベル賞というものがくだらないものだと言うことを日本中に知らしめた功績者だと、私はかねてそう思っていますけれど。ノーベル賞ってのはおかしくなりましたね。佐藤栄作さんが貰って「え?」とびっくりして、なんで?って思って、それで大江健三郎が貰って、抱腹絶倒、ということになったのでありまして。そのあと金大中とかアラファトとか、となってますますいけません。文学賞と平和賞はやめるべきですね。無理がどうしてもあるんです。

講演「正しい現代史の見方」帯広市・平成16年10月23日(三)

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言

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帯裏:六カ国協議で、一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか。これから日本をどう泳がせ、どう扱うかということが、今のアメリカ、中国、ロシアの最大の関心事であります。北朝鮮はこれらの国々にとってどうでもいいことなのです。いかにして日本を封じ込めるかということで、中国、ロシア、韓国の利益は一致しているし、いかにして自国の利益を守るかというのがアメリカの関心事であって、核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでもいいのです。いうなれば、日本にとってだけ北朝鮮が最大の重大事であり、緊急の事態なのです。

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書評:「史」ブックエンド(11月号)より

外交・防衛・歴史・教育・社会・政治・経済の七つの分野にわたって、歪んだ日本の現状を立体的に解き明かしている。それはまるで推理小説の最終章のごとく痛快明朗だ。そこから導き出された提言は「日本人が忘れていた自信」を回復するための指針。こたつを囲んで優しく諄々と聞かされているようで、この日本の現状をどう捉えたらよいのかがだんだんクリアーになってくる。筆力ある著者ならではの説得力に富む快著。この祖国日本が二度と躓かないためにも、政治家や官僚に読んでもらいたいという著者の意向だが、国民必読の書である。

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書評:アマゾンレビューより

西尾ワールドの全貌, 2004/11/07
レビュアー: recluse (プロフィールを見る)   千葉県 Japan
西尾氏の作品は20年以上にわたって読み続けて着ましたが、今回の作品では、彼は自分の思想の全体像を簡潔な形で、整理することを目的としています。外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の順で議論を展開することにより、徐々に現象面から、より深く日本の抱える問題の根本に接近しようとしています。この手法により、彼の考えの基層に接近することが可能となるよう、構成されています。すべての論点で、彼は明確に一貫して変わることのない自分の人間観と歴史観を呈示しています。簡単なことですけど、これは稀有なことです。いったい何人の日本人が、自分が20年前に書いたことを一点の恥じらいもなく振り返り再提示できるでしょうか。また、本質を捉えたアフォリズムと西尾節も満載です。特に熟読すべきなのは、第三章の歴史の部分です。続きを読む

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講演「正しい現代史の見方」 (三)

 最初からいきなり戦争なんてことはないわけで、だから私はよく言うんです。日本人の今の平和主義の考え方は、これはいつか遠い将来戦争を醸成しているようなものだと思います。平和以外には何でもありが許される平和主義は、必ず最後には戦争になる。平和以外はなにも望まない、どんな侮辱を受けても、じっと忍耐しなさいという種類の平和主義は、必ず最後に戦争になる。戦争にならないためには、適宜な発散が必要なんですよね。それがある意味の知恵なので、今南西諸島で起こっている中国のやり方を見て、このまま日本が引き下がっていったら、いずれ遠い将来に必ず戦争になりますよ。これはもう沖縄を取ろうとしているわけですから。黙って沖縄を取られることを許せますか?日本は。

 中国は沖縄をそっくり取ろうとしているなんて信じられないと思うかもしれませんが、中国の立場に立つと近代的開国が遅れて、気がついてみると北京から上海までの大陸の東側の海上は全部日本に抑えられている。中国は核、宇宙、海という三つの開発プロジェクトをかかえたアメリカ型の国家になろうとしていますから、海では何がいったい邪魔か。沖縄を全部自由にしたいと思うのは、ある意味で力の赴く必然ですからね。そりゃかならず戦争になります、そうなれば。だからアメリカの石油会社は逃げて行っちゃったんです、危ないから。こんな海域で商売は出来ないと。トラブルは必ず拡大すると見たんですね。日本人の側に覚悟はありますか?向うは核武装国家ですよ。愈々いよいよ正念場が来たんですよ、日本にはね。

 ま、それは別といたしまして、この要するに平和以外には何でもありが許される平和というのは、今の日本みたいな考え方ですが、これはかならず戦争につながるわけですから、例えば尖閣列島に中国人が7人上陸したら、ちゃんと裁判にかけて、処罰するべきことはしておくべきなんですよね。しかも内一人はご承知のように、執行猶予中の身であったということですから、もちろん収監するのが法治国家として当然のことであります。そういうことをしていけば、相手が日本の出方を知り、日本が迂闊に手出しできない国だということが分かり、簡単に手を出せないということになるわけです。平和を愛するなら早めに断固たる手を打っておかなければいけない。

 私は南西諸島の周りに軍事境界線を引いて、そして余りに過度の侵犯が起ったら中国の艦船の一隻や二隻撃沈したらいいと、思っています。そこまでやれば戦争にはなりません。将来。そこをやらないでいたらいつか戦争になると思います。とんでもないことになるかもしれないんですよね。

 ですから、先ほどの話に戻れば、国際間の紛争で謝罪して当然のものもあれば、どうしても謝罪してはいけないもの、言い分を出し尽くした結果、双方の言い分が一致せず、双方が相手を不当と信じて突入するのが戦争ですから、そうした場合にその行為についての事後の謝罪はあり得ないと。だって謝罪する余地がないから、戦争になったわけじゃないですか。そうして、その挙句のはてに、勝者と敗者が生れたときには、敗者は腹の中に多くの不満と正当性の感情を残して苦悩に耐えたわけであり、つまり負けたものには負けたものの理があって、納得していないわけですね。不服従の感情を持っているわけですね。敗北に対して。しかし、それは力で抑えこまれるわけですから、じっと忍の一字です。

 ま、こういうことでありますから、これ以上の謝罪はもう必要ないんです。もし謝罪をしたなら、それは二重謝罪になっちゃうわけじゃないですか。

講演「正しい現代史の見方」帯広市・平成16年10月23日(二)

 あの、東京オリンピックの時に、ラストランナー、聖火に火をともした青年のことを思い出して下さい。普通の場合ですと、第一級のスポーツマンで前オリンピックの金メダルの走者などが聖火台に駆け上がるのが普通ですけれども、東京オリンピックの時は何があったかご記憶がおありでしょう。広島の原爆の日に被爆した少年、19歳の少年が、もちろんスポーツマンなんでしょうけれども、日本を代表するランナーでも何でもない少年が出て走った。被爆の少年がここまで健康に大きくなりました、というのを世界に知らせるといって聖火台に上がった。とにかくそういうことを日本はやったんですよ。

 日本は悪意でやったんでも、なんでもない。日本は平和を愛してきた、戦後平和主義であった、そのことを世界に知らしめたい、そういう善意のつもりなんでしょうけれど、アメリカが愉快なはずはないですよ。アメリカは何にも言いませんけど、つまりこれは報復主義と思われてもしょうがないんですよ。忘れてはないよ日本人は原爆を、と。世界に告知した報復主義と思われても文句が言えないような所業を、平和主義という名においてやるこの日本人の間の抜けた無自覚ぶり。日本人は薄らバカじゃないかと僕はその時思いましたよ。勿論、アメリカに対する報復心理は心中深く私の内心にも宿っていますが、それを吐き出す場所が違いますよ。オリンピックでそんな本心をさらけ出すバカはいないでしょう。

 日本人はすべて無自覚なんです。アメリカという特定の国が原爆を落としたのではなく、天災かなにかのように考えている。国際社会、世界で起こっていることが何にもわかっていない。自分が悪いといえ、世界にとおると思っているのもそれと同じです。被爆した少年がもうこんなに元気に成人したっていえば、世界のどの国もが喜んでくれる。アメリカも喜んでくれる、無邪気にそう考えるんでしょうね。日本は悪い戦争を自分が始めた、そして今は善良平和な国民になった、世界中の人見てください、そういう気持ちだったんでしょうねぇ。

 戦争という悪いことをした、日本人が。そうですか?悪いことをしたのは、アメリカでありロシアであり、イギリスであり、フランスでありオランダであり、そして中国も含めて、毛沢東は何をしましたか。日本は加害者じゃありません。全然。この歴史、19世紀から20世紀にかけて。もし加害者というなら、加害の面もあったでしょう。しかしそれは、お互い様です。お互いさまだから平和条約を結んで、そこで、ご破算で願いまして水に流すのです。後くされなしに。それが平和条約というものではありませんか。

 謝るべきことあるいは、謝っていいことがあります。国際社会も人間の社会と同じですから、謝るべきこともあるでしょう。たとえば、我々が、隣の家に車をぶつけてしまって、隣の塀を破損してしまったと。謝らなかったらこれは人間じゃありませんね。まず謝る。そして本当に誠意をしめす。そうしたところから近隣の関係が保たれてまいります。国家の間でも同様に、菓子折りを下げて謝りに行くのと似たようなことがございます。

 例えば、迂闊にも領空を侵犯してしまったような時。悪意も何もなく、それすぐ直後に謝罪するのが当然です。あるいはまた、ある物産、ある生産品を年間これだけ買うと約束したのに、その製品が暴落したために、買うことが出来なくなった。買う意味がなくなった。他の国から買った方がはるかに有利だというために、売主を代えてしまったと。これは信義に反する契約違反です。こういうことが行われた場合には、これも謝罪の対象にもちろんなるでしょう。

 クリントン大統領は沖縄で起こった少女暴行事件で、直ちに謝罪をしました。これもあって当然のことです。こういうことがあれば、国家といえども謝罪しなくちゃいけないのです。そのやり方を間違えると韓国の少女ひき逃げ事件のような大きな騒ぎになって、それが引き金で盧武鉉大統領が成立してしまうというような、予想外の、取り返しのつかないことが起きるわけですから、謝罪ということが国際社会にも重要なことは言うまでもないのであります。

 しかし、この世の中で、断じて謝罪していけないことがあるんです。それは戦争に対してなんです。軍人のみなさんを前にして、かようなことを言うのは釈迦に説法おこがましい次第ですけれども、戦争というのは、言葉の尽き果てたさいごに、謝罪したりためらったり、それまで繰返して謝罪したり、耐えたり、それから言葉でもって、言うべきことを言い尽くしたりまたいろいろな屈辱的なことをも重ねたりして、どうしようもなくなってとうとう挙句の果てに、戦火の火蓋が切られると、こういうことですね。そうじゃありませんか。

講演「正しい現代史の見方」帯広市・平成16年10月23日(一)

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言

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書評:「史」ブックエンド(11月号)より

外交・防衛・歴史・教育・社会・政治・経済の七つの分野にわたって、歪んだ日本の現状を立体的に解き明かしている。それはまるで推理小説の最終章のごとく痛快明朗だ。そこから導き出された提言は「日本人が忘れていた自信」を回復するための指針。こたつを囲んで優しく諄々と聞かされているようで、この日本の現状をどう捉えたらよいのかがだんだんクリアーになってくる。筆力ある著者ならではの説得力に富む快著。この祖国日本が二度と躓かないためにも、政治家や官僚に読んでもらいたいという著者の意向だが、国民必読の書である。

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書評:アマゾンレビューより

西尾ワールドの全貌, 2004/11/07
レビュアー: recluse (プロフィールを見る)   千葉県 Japan
西尾氏の作品は20年以上にわたって読み続けて着ましたが、今回の作品では、彼は自分の思想の全体像を簡潔な形で、整理することを目的としています。外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の順で議論を展開することにより、徐々に現象面から、より深く日本の抱える問題の根本に接近しようとしています。この手法により、彼の考えの基層に接近することが可能となるよう、構成されています。すべての論点で、彼は明確に一貫して変わることのない自分の人間観と歴史観を呈示しています。簡単なことですけど、これは稀有なことです。いったい何人の日本人が、自分が20年前に書いたことを一点の恥じらいもなく振り返り再提示できるでしょうか。また、本質を捉えたアフォリズムと西尾節も満載です。特に熟読すべきなのは、第三章の歴史の部分です。続きを読む

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講演「正しい現代史の見方」 (一)

 「正しい現代史の見方」という今日の講演のタイトルはややおこがましくて、少し説明が要るかなと思います。歴史の見方に、絶対に正しいということは、ないのですから、題のつけかたがやや際どいのです。しかし、絶対に誤った、間違った歴史の見方というのは、これはあるんですね。皆さんがたくさん経験されている。だから、間違った、正しくない見方は、正しくないと指摘ができると思うので、そういう意味での、「正しい見方」ということはいえるであろうと、そういう風に理解していただきたい。最初から正しい歴史の見方があるかのごとき絶対主義で臨んでいるわけではないということを理解していただきたいのです。

 私が書いた本や、話してきたことや、そういったことでお手紙を下さる方が非常に多くて、いちいちお返事することができないのですが、その中に善良な方で、誠意がこもっていて、分かってくれているようでいて、しかし、何かどこかわかっていないなぁ、肝心なことが分かっていないなあ、と思う手紙が、一番多いんですね。悪言罵倒を書いてくる人や批判してくる人はこれはもう問題にしませんし、そういう例は少ないんですが、わざわざ手紙を書いてくださる方は好意を持って私の本を読んで、好意をもって書いてくださる。

 しかし何か心に一物もあって、釈然としない思いがおありなのでしょう。その一つの例をここで読みあげてみますので、話の切っ掛けになろうかと思うのです。

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 私は生来の悪筆のためワープロで失礼いたします。先生の著作『国民の歴史』を興味深く拝読致しました。ひとつひとつの記述に対しコメントできるだけの学識もありませんので、全体の印象を勝手に申し上げる失礼をお許しください。先生が著作の中で述べられていることに関しまして、いちいち尤もだと思いました。特に「日本は詫びる必要はない」という言葉に非常に強い印象を受けました。(詫びるというのは戦争の罪ということです 聴衆へ説明)

 しかし、と私は考えます。確かに、事実はそのとおりでしょうが、今の時代それだけでは話は前に進まないのでは?と思います。戦争とはそんなものだと済ませては、相手の国も神経を逆なでされたような感じを抱くでしょう。まぁ日本人のための『国民の歴史』だから余計なお世話だとも言えるのでしょうが、 しかし相手がどうであれ、近隣諸国との友好関係なくしては日本は立ち行かないのは事実ですし、時代を担う若者が先の戦争(先の大戦ですね)をそれをどうであったか、何が起こったのか?事実を知らないのでは情けないと思います。日本人にとって不都合な歴史でもきちんと教えておく方が、判断の根拠を与える意味でも、親切ではないかと思っています。詫びる詫びないとは関係なく、日本に非があるのであれば、それはしっかりみとめ、その代わり自分の主張もしっかりすることも大事だと思いますが、どんなものでしょう。日本は悪くない、謝る必要はない、しかし、それを言っちゃあおしまいよ、と、私は考えるのです。

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 この他にもいろいろ書いてありますが、「決して先生の著作を悪く言うつもりではありません。」云々と。「失礼の段お許しください・・・」とこういう手紙です。

 いかがですか?いかにも典型的な手紙ではないでしょうか。私、素直な気持ちで読みまして、最初別に腹も立ちませんでしたが、時間が経つうちにだんだん腹が立ってきました。おだやかにお書きになっているし、素直な表現でありますので、そういう何か私を誹謗する意図なんかなにもないのですが、これ、今の日本人の一番悪い、ある意味で分かったような顔をしていて、根本的なことがわかっていない、という、一番悪い例ではないかと私は思ったのです。日本が加害者だと思い込んでいるんですよ。てんから。日本は加害者だから、歴史の加害者だから、詫びなきゃいけないんじゃないか、悪いことをしたなら、それも認めなきゃいけないんじゃないか。悪いことなんかなにもないよ、そんなことは、言っていいのかなぁ、と思案している。

 みなさんはどう思いますか。20世紀の歴史を振り返って、まぁ19世紀の末から21世紀の今日に至るまでですけど、誰に対しどの点で詫びる必要があるんでしょうか。日本は必ずしも加害者じゃありません。自ら戦争を始めたわけではない。20世紀の前半は地球上のいたる処で大戦争が折り重なるように相次いで起っていて、日本もその大河の中に呑み込まれていった、勿論自らの意志もあってのことですが。詫びるとか詫びないとか、そんな個人の身に起る出来事のようにして戦争を考えるということはできない。詫びるんだったらいよいよの最後に破天荒なことをした国、原爆を落としたアメリカが詫びなきゃ、まずアメリカが真先に詫びなきゃいけないんですよ。詫びる詫びないというのは、まず何のことを言っているんだろうと、私はそこがよく分らない。

 まずその私の、気持ちの中にふり切れないものがある。私も多少なりと、迷っていて、よく分らないところがある。戦争を詫びるというのはどういう事だろう。私はまぁ終戦を迎えたのは小学校の4年生でした。始まったのは小学校に入る一年前、昭和17年の入学ですから、16年12月8日はまだ幼稚園生だった。

 でも、何か若い人には、正しい歴史の知識で、いけないことをしたなら、それを正直に教えていくことが客観的な正しい歴史を教えることであって、悪いことをしたなら悪いと認めるのも大切だというような言い方がたしかにありますよね。これ、言い続けてきたじゃないですか、戦後。そして悲惨な戦災や、悲惨な満州からの引き揚げや、悲惨な数多くの戦前戦後の物語を語り続けて来たこの民族の60年間、もうそれもだんだん、今は陰が薄くなりましたが――最初の40年間くらいは映画やテレビにそういうドラマが絶え間なくありましたが――みな日本が仕掛けた戦争だったから仕方がないんだと、悪いのは日本人なんだからと、そう思い込んで無理に納得してきたんじゃないでしょうか。

 とりわけ大変に滑稽なのは大江健三郎という男で、「アウシュビッツの後に文学なし」といったドイツの思想家の言葉にならって、「広島の後に文学なし」と、こう言ったんですね。アウシュビッツと広島の惨劇を二つ並べるのは、悲惨のレベルという点で必ずしも間違った見方だと私も思いませんけれども「アウシュビッツの後に、ドイツの文学者がドイツの文学を書くことは出来ない」というのは、加害者のドイツ人が、ということですね。「広島の後にアメリカに文学なし」と言うのならば話は通りますよ、これは。「広島の後に日本人が、もはや文学を書くことはできない、文学はない、精神はない、もうないんだ」。これはおかしいんじゃないのかなと、てんでひっくり返っているんじゃないかなと、思うわけであります。原爆を落としたのはどこの誰なんですか?大江健三郎は狂っているんはないですか。こんなふうに狂った人が戦後ずっと多かったんですよ。

『日本人は何に躓いていたのか』 最新書評

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書評:「史」ブックエンド(11月号)より

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書評:アマゾンレビューより

西尾ワールドの全貌, 2004/11/07
レビュアー: recluse (プロフィールを見る)   千葉県 Japan
西尾氏の作品は20年以上にわたって読み続けて着ましたが、今回の作品では、彼は自分の思想の全体像を簡潔な形で、整理することを目的としています。外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の順で議論を展開することにより、徐々に現象面から、より深く日本の抱える問題の根本に接近しようとしています。この手法により、彼の考えの基層に接近することが可能となるよう、構成されています。すべての論点で、彼は明確に一貫して変わることのない自分の人間観と歴史観を呈示しています。簡単なことですけど、これは稀有なことです。いったい何人の日本人が、自分が20年前に書いたことを一点の恥じらいもなく振り返り再提示できるでしょうか。また、本質を捉えたアフォリズムと西尾節も満載です。特に熟読すべきなのは、第三章の歴史の部分です。続きを読む

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書評:宮崎正弘氏メルマガ

①西尾幹二著『日本人は何に躓いていたのか』(青春出版社)
 このところの西尾さんの旺盛な執筆活動、そのエネルギーには舌を巻かされ、目を瞠らされ、これほどの量産をこなしながらも文章の質を確保されているという希有の衝撃がつづく。ニーチェ研究から「新しい歴史教科書をつくる会」名誉会長としての八面六臂。そして時事問題から経済政策までの深い関心。
 ひとりの人間がいくつの仕事を同時にこなせるのか、ニーチェの果たし得なかった未踏の世界へ挑戦されているのか等とつい余計なことばかり考えてしまう。
 さて本書は時局評論を装いながら、じつは重厚な思想書なのである。
 「六カ国協議で一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか」
 「核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでも良いのです」
 こういう警句がいたるところにちりばめられている。
 本書の隠された味付けは「日本がふたたび活性化し“勝つ国家”に生まれ変わる条件」とは何かを探し求めているところにある。懸命な読者ならすぐに気がつかれるように経済の政策が対米追従であることが日本に「第二の敗戦」をもたらしたとする分析である。日本的経営を恥じたところから日本経済の転落もまた始まった。だから最近流行のアメリカ帰りの経済理論はいい加減にしてもらいたい、と示唆されている。
つまり、「国家意識の欠如、愛国心の欠落、民族文化を前提としてものを考えていく自然な感情からの離反が、教育や外交、あるいは安全保障だけではなく、経済問題にも深く関係している」(本書302ページ)
 そして「日米構造協議から日本の没落が始まった」と結論され、「前川リポートは敗北主義」と大胆に総括されている。
 前川レポートを高く評価したのは米国のボルカーFRB議長(当時)らで、つぎの平岩レポートは米国が歯牙にも掛けなかったほど、日本の独創性尊重がうたわれていた。(脱線ながら当時、小生は米国の対日要求は「日本を米国の経済植民地」「法律植民地」にする狙いがあるのか、として『拝啓ブッシュ大統領殿、日本人はNOです』とか『平岩レポートのただしい読み方』など矢継ぎ早に上梓したが、逆に日本の体制保守論壇から反論を受けた)。
あの時代、たしかに保守の分裂が起きていた経緯を思い出すのだった。
 わが経済学の師・木内信胤先生は「経済政策で重要なのは「国の個性」であり、アメリカの真似をする必要はまったくない」が持論だった。西尾先生の結論も「自己本位ということが人間が生きていく生命力の鉄則です。それこそが今の日本が抱える問題の最大の鍵ではないかと思うのであります」。
満腔の賛意をいだきながらページを閉じた。

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私信:小堀桂一郎

冠省、御新著御惠投にあづかり有難うございました。四箇月半で一氣に書下ろした、といふその筆力に驚嘆しました。いろいろとお疲れの蓄積に加へて現在進行中の用件も多々あるでせうに――而して一氣に書いた書にふさはしい、熱氣、勢、文体の統一等が感じられ、内容の説得力と併せて、又しても素晴しい警世の著作になったと感嘆しきりです。少しでも多くの人が本書を讀んで眼覺めてくれるとよいのですが。小生も、もう日本は駄目だな、といふ悲觀と、望みなきにあらず、との希望の間で動揺を續けてはゐるのですが、御新著で又一つ勵まされました。

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私信:遠藤浩一(つくる会副会長)

前略 『日本人は何に躓いていたのか』、有難く拜讀させていただきました。大変重要なことが平易に説かれてをり、多くの読者を得られますことを切に祈ります。“親米対反米”といった二項対立的な議論の不毛から抜け出た真の国家戦略論と思ひます九条を変へただけでは防衛停滞は解決しないといふ鋭い一矢、保守の側にこそ突き刺すべきと痛感いたしました。
不一
十一月十四日

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私信:種子島経(元BMW東京社長・つくる会副会長)

西尾幹二様            種子島経拝
拝啓
「日本人は何に躓いていたのか」拝読しました。

「つくる会」募金活動の一環として、ものになりそうな企業数社のトップと語ってみて、改めて衝撃を受けています。
中国との商談が内定していたのに、中国のネット上、「あの会社から買うな。あの会社は『つくる会』を支援している」という投書が溢れたのに怯えて、社長が、「つくる会」賛同者として名を連ねている先輩を呼びつけて注意した話。
これでは、中国の干渉に悪乗りして靖国参拝を攻撃する手合いと変らない。
こんなパターンの行動が、中国をつけ上がらせることがわかっていない。
もっとも、同席した元役員の会員諸君が、「あのバカ社長め」と反発し、自分たちの名前で関連会社に呼び掛けてくれています。

 株主総会での追求、株主訴訟での求償を恐れ、「透明性の原則から、今では交際費の細目まで公開させられるんだから」と寄付に応じない。
これらはすべて、ここ10年の間に、アメリカに倣う形で導入されたものです。
それが、かくも日本企業をインポテンツにしている。
経営者としての自信に欠けるからこそ、株主を恐れるのです。
貴著にあるキャノンとか、終身雇用を標榜し続けるトヨタとか、日本企業の強さを守って栄えている企業もあるけど、中国に怯え、アメリカに犯されてインポになった日本企業群を垣間見て、薄ら寒い思いをしたものです。
ポンと二百万円くれたオーナー経営者もあって、募金全体では好調に推移しているのですが。

 例によって、貴著に刺激されて思い付いたまま、記しました。

平成16年十一月十一日             千葉の寓居にて
                     敬具

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 私は「日本文化チャンネル桜」を支援しますが、私自身、視聴方法がわからなくて困りました。みなさまに次の方法をお教えします。

(株)日本文化チャンネル桜の案内書より
「日本文化チャンネル桜」をご視聴になるには「スカイパーフェクTV!」(略称:スカパー!)の受信用のアンテナと受信装置(チューナー)が必要になります。スカパー!のチューナーとアンテナをお手持ちでない方には、チャンネル桜で受付けておりますので、「日本文化チャンネル桜」チューナー・アンテナ係に、まず電話(03-6419-3900)・FAX(03-3407-2263)・郵便・Eメール(info@ch-sakura.jp)などのいずれかでお申込みください。

 西村幸祐氏が「『反日』の構造」(PHP研究所)という新刊を出され、私が推薦文をかきました。推薦文は以下の通りでしたが、本の表紙に使われたのは下線部分でした。

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推薦文「反日」の構造

                   西尾幹二

 「反日」という名の日本発のソフトファシズムが中韓などの外国に飛び火し、国内の威嚇団体の暗躍と相まって、1980年頃から日本の国家意志を真綿で首を締めるように麻痺させている、という著者の観察と警告に、私は心から同意する者である。私はこれを「第二の敗戦」と呼ぶが、本書の著者は新しい「妖怪」と名づける。官公庁、地方自治体、NHK、大新聞などの中枢に国家意志がない。国の内外の「反日」勢力にいかにこの国が日々食い亡ぼされているか、に関し、著者が私などの及ばぬ細かな情報に通じ、緻密に追求しているさまは驚嘆に値する。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(八)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
(これは私が35歳のときの評論です)

“弱さ”の集団化

 私はここに掲載された福田恆存氏のロレンス論にさらにつけ加えてロレンスを解説する積りはないし、評論を評論したものをさらに評論しても仕方がない。また、ロレンスのこの『アポカリプス論』は右のごとき要約でとうていつくせないほど多様な内容に富み、とりわけ純粋自我たり得ない個人の救済を宇宙の根源に求めた壮大なコスモスへの論及は、福田論文によっても十分に触れられているとはいえない。

 読者がこの貴重な一書を自ら手にし、人生の謎の解明に役立てることを強く希望するひとりだが、ただ以上で、福田氏が日本の現実のこれまで提起してきた主題のある主要部分がロレンスの『アポカリプス論』とどう内的につながっているか、それを私自身の問題意識を通じて暗示してみたかったまでである。福田氏もまた、安易な「純粋」というものにたえず猜疑の目を向けてきた人であった。日本人のエゴの弱さというものも折りにふれ弱点として指摘してきた。受験勉強にかまけていて、デモに参加しなかったことを秘かに「罪」として意識するような心的状態は、日本の知識人の少年期を襲う、ある傾向性の「原型」をなすものである。デモに参加する、しないなどは、政治的判断の問題であって、そもそも個人の罪意識とは関係がないのだが、これはほんの一つの例であって、われわれの社会にはこの種の不可思議な愛他的集団表象が個人に無言の圧力をかけている例は無数にある。その日本的な独特なエゴのあり方に加えて、西洋近代の自由、平等、民主主義の理念がその弱点を助長するかのごとくいわば癒着してあらわれているために、混乱はいっそうひどい。人間の弱さにそのまま善意と誠実をみたがる近代人一般の感傷は本当の意味で個人の純粋とは何であるかを求めてはおらず、あらゆるエゴイズムから自由であろうとする意志の、ほとんど不可能に近い無私への苦しさを自覚した人間の弱さというものから目をむけている結果ではないだろうか。一見、強さを誇示しているかにみえる福田氏の生き方は、むしろ、弱さが集団をなして無言の、強い圧力となって個人をおびやかしている日本の湿潤な精神風土のなかで、真に人間の宿命的な弱さを見つめようとしている人間にのみ特有の強い態度なのである。

 ロレンスは次のように言っている。「民主主義はクリスト教時代のもつとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが今ではもつとも徹底した民主主義者が絶対的貴族階級になりあがらうとしている。」「強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。」「ここに問題にしてゐるのは、政治的党派のころではない。人間精神の二つの型を言ふのである。」

 弱さに甘え、それを売り物にする精神は、大衆支配の時代にはもっとも強い。それでいて自分がさほど弱くもなく、弱さに苦しんでもいないことを知りながらなお弱さを口にする。福田氏がロレンスから学び、もっとも忌避したのはそのタイプの精神であったろう。自分の真の弱さを氏っている者は自分の弱みを口にはしない。ただ、自分の弱さに耐えて立ちつくすのみである。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(七)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

近代とエゴの処理

 もとよりそれは日本の近代にのみ特有なことではない。それは自由と平等の理念の調和性を夢みたヨーロッパ近代の大きな特徴でもあった。自由の理念は、厳密に考えれば、必ずしも平等の理念と一致しはしない。自由と平等という相容れない二つの理念を同時にわがものとしようとした個人が、ために自分のエゴイズムの処理の仕方において失敗し、混乱している時代とも言えよう。ロレンスはこうした処理に対しなんらかの解決策を提示したのではない。ただ、問題の所在を明らかにしようとした。彼は個人の生き方の上での「純粋」が不可能だといっているのではない。だが、本当に純粋であるとは、他人や社会のことを自分よりつねに上位に置いてそこに良心を賭ける、というような他者への愛が、厳密にいえばイエスひとりにおいてのみなし得た人間の実現不可能事に近いのではないか、というぎりぎりの問を孕んでいることを確認したかったまでだろう。この世に純粋な個人はなく、イエスといえども、弟子の前で教えを説くときには支配し、支配されるという政治の力学、集団的自我から解放されることはなかった。われわれは純粋な個人たり得ない。われわれは他者を支配しようとする自分の内なる権力意志から自由にはなり得ない人間としての弱さを宿命的に秘めている。本当に純粋であることは、自由ということがほとんど成立不能に近いそうした個人的自我を正視していることであり、その弱さの自覚を通じてはじめて人間はなにほどかの強さを得る。現実の不公平、もしくは仮借なさに耐え得る人間としての生き方の強さの一面に触れることができる。もし最初から人間は愛他的な存在で、権力意志などからは自由な強い精神だという風に考えるとしたらそれは余りに楽天的に過ぎるだろう。また、権力に虐げられ、奪われている弱い人間にはもともと権力意志などは介在する余地はない善意の存在だと考えるとしたら、それはまったくロレンスの言っていることとは逆であって、彼はアポカリプスの「神の選民」のうちにむしろ弱者の自尊の宗教を見る。現世の保証が得られぬために、弱者の秘められた欲望はいっさいの地上権勢を拒否して、理想が満たさぬために理想がいっそう病的に純化された「呪詛の宗教」となってあらわれたのがアポカリプスの精神だと彼は見る。「奥義、大いなるバビロンの地の淫婦らと憎むべき者との母」そういう呪いの言葉は全世界に向って放たれ、黙示録として聖書のなかに忍びこんだ。中世期には、神の名による政治の力学の完璧な体系が成立していて、その歪みが表面に顕在化することはなかった。むしろ近代に入って、解放されたエゴイズムが自由、平等、博愛を掲げた近代のヒューマニズムの裏側にその姿をみせはじめるにつれ、黙示録に秘められていた人類への呪いは、しだいにあらわになる。なぜなら、自由や平等や民主主義は、エゴイズムを調節する政治の原理ではあっても、人間がエゴイズムから脱却するための原理ではなく、むしろそうした解脱をますます困難にする近代病の上に成り立っているからである。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(六)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

罪意識と被害妄想

 先日、筆者はNHKの「十代とともに」という番組に招かれ、六人の高校生と対話を交す機会をもった。いずれも高校紛争などを在学中に経験し、きまじめすぎるほどいろいろな問題について悩んでいる、いわば青春の唯中にある少年たちばかりで、そこで展開される純粋な論議に、私の高校時代とちっとも変っていない、やり切れないほどの罪意識の告白をきく思いがした。彼らは、例外なく、高校生活の間に自分のことばかりにかまけ、自分たちが共同社会への建設的な役割になんら寄与しないで終ってしまったことに独特な罪の意識をいだいている。受験にかまけ、デモに参加しなかったことへの罪意識。定時制高校生がなお少数でも存在する社会のなかで自分たちだけが受験に没頭できる特権への罪意識。私はほとんど口をはさむ余地がなかった。それは他をよせつけぬ一つの妄執のごときものであった。その罪意識はまた、独特な被害妄想と表裏一体をなしてもいる。彼らは優秀なエリート学生たちばかりだった。彼らが口にする、今はやりの「根源的」な問を、成程われわれは青春のはしかのごときものとして笑うことはできるだろう。彼らがまだ大人になっていない若さのせいに帰すこともできるだろう。事実、そういう青年たちに向かって、世間はたいてい、「君たちは若いね」というようなことばを向けるばかりであるが、そういう大人がなぜかふっきれない、後ろめたさのようなものを持ったまま成長しているのが、また日本のインテリの独特な意識構造でもあるのである。

 つまり、このときの高校生の悩みごとのようなものが個人の生き方の問題として論理的に追求されることなく、なぜか曖昧な情緒のうちに、なし崩しにごまかしたまま「大人」になっていく、というのが大方の日本の知識人のあり方ではなかろうか。さもなければ「二十億の民が飢えているいま、文学に何ができるか」というようなサルトルの問のようなものが出されるとその前に呆然と立ちつくし、いじましい後ろめたさと罪悪感に閉じこめられてしまうようなことが起る筈もないのである。「文学に何ができるか」というような問を立てておけば、実際に文学にはなにをする力はなくても、それだけで文学の社会的地位は疑われないですむといった、この種の問のいささか欺瞞めいた、不毛な性格というものに対してどうしても気がつかないのも、こうした罪悪感にいったんとらえられたひとには例外なくみられる心理の弱さなのである。きまじめな高校生が提出したあのようなごく初歩的な問は、決して無意味な、幼稚な問なのではない。ある意味ではきわめて宗教的な問ですらある。人生の探求はそこから始まるのである。だがまた、それは一個人の身をもってただちに解決不可能な問でもある。従って、ときには口に出して、議論をするのもはばかられる問である。世には、口に出すことさえ場合によっては恥かしい問というものがある。それなのに自分の罪を告白するのは、そのことがすでに自己宣伝という別の罪を犯していることになる。定時制高校生が存在する社会の中で受験勉強をしている特権への罪の自覚といったことは、それ自体は幼稚な問かもしれないが、日本ではそう言って簡単に笑ってすませられないものがある。笑ってすませられるならどうして、日本の近代文学で「転向」などがあれほど大きな問題になったりするのだろうか。戦前から戦後へかけてのマルクス主義旋風が政治的な実行力から遠く、その種のヒューマニスティックな動機の善への懐疑をもつことなしに、ただ自分の善意を歌っていれば、それだけで思想や文化の保証が得られるといった安易さに支配されているのはなぜだろうか。大方の知識階級の意識は、高校生の初歩的な問とほぼ同じものを、別の形でさまざまに提出し、それを日本的な情緒のなかに風解させて、なし崩しに大人になった人間の弱さを内に秘めていないだろうか。

 というようなことは、福田恆存氏が生涯をかけて、折にふれ、くりかえし出しつづけてきた問とも密接な関係があるのである。ごく最近にも、私はある日本のカトリック作家のキリスト教劇を見て同じ疑問にとらえられた。キリスト教徒は戦争で人を殺すということは許されるか、という問をこの戯曲は提出する。解答不可能な問である。そして、そういう疑問に悩む弱い人間の絶対肯定と、悪しき時代の圧制への呪いとが全篇を流れている。自分はつねに善である。ただ自分は弱い人間なのである。時代の圧制に抵抗できない弱さのうちにひたすら犠牲者の動機の善を見るところにこの戯曲は成り立つ。キリスト教劇とは言いながら、私には一昔前の転向劇のようにもみえた。それは定時制高校生がいる時代にのほほんと受験勉強をしているのは罪ではないか、という問を立てられ、うまく返答できない気の弱い高校生をおびやかすのとほぼ同じ脅迫的効果をこの道徳的な戯曲はもっているということでもある。それ自体としてはいくら正しくても、解答不可能な問を立て、それによって他人の存在をおびやかすのははたして正しいことだろうか。いつも正しい問を立て、他人の罪や不正をあばき立てているひとびとは自分のエゴイズムというものを見ていないのではないだろうか。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(五)

西尾――いろいろな論客がいますが、じゃまになるという意識で戦っているか、大義名分のために戦っているかで大きな違いが出てくると思われます。大義のために戦うか、それとも、大義のために戦っている相手に対して戦うかというところに違いがあると思います。ヨーロッパの場合には、いまドストィエフスキーとロレンスの例で挙げられたように、確かに実生活と彼らの頭の中の激しい戦いでは、ものすごく矛盾していて、生活と芸術はいつでも背反概念のような形をとって、芸術をいつも自分の自我の外に提出する。

福田――だから、ロレンスのように現代人は愛し得ないのではないか、ということをいっても始まらない。愛したらいいではないか、愛そうと努力したらいいのだ、ということにならざるを得ない。たとえば、マイホームというと、皆軽蔑するけれども、それならば、自分の女房、子供を、ほんとうに愛せるかということもいえると思う。なかなか愛することはできない。そこで、愛する仕事はまだ残っているといえるのです。“現代人は愛しうるか”という問題では、ぼくはロレンスに、相当影響を受けたが、もはや、そういうことをいっておどかしてもだめである。それは多くの人によってもう出しつくされてしまった。実際は、われわれがほんとうに愛し得るかどうか、一生かけてやってみることだと思う。個人が個人を愛することができるかどうかということを確かめるべきだろう。それから江戸の町人などのような過去の生き方に、学ぶということも考えられる。それが、よくはやる日本回帰かどうか知らないが、私にはある。三島君の言行一致、知行合一と一緒にされては困るけれども・・・・・。

西尾――あれは大義があるわけですね。

福田――ええ、そうではなくて、私にはやはり、生活にまだまだ課題があるという気がする。

西尾――福田さんのお考えの中に脈打っているのは生活人ということですが、こんどは、現在の状況みたいなものに、もう少し極限してお尋ねいたします。いままで述べられたことに全部つながると思いますが・・・・・。いま空虚感とか、生きがい、とかよくいわれているが、いままでは“欠乏の論理”で人生観、社会観が進んできて、何か敵があったほうが安全で、大義名分や反抗ということで何かを必ず敵視してきたが、“欠乏の論理”が近ごろだんだん成り立たなくなってきている。にもかかわらず、まだなんとなく昔の自我のままでいるふっきれぬものがあって、その穴が埋められなくて困っていることがあるのではないか。

福田――そうです。“欠乏の論理”ということは、別のことばでいえば危機感です。危機感をいつも食いものにしている。これはコラムに書いたことがあったのですが、ベトナム戦争の兵器をつくっているから死の商人というのは当然としても、ベ平連も死の商人ですよ。戦争をくいものにしているんだから。ベトナム戦争が終ったら彼らはどうしたらいいか。それをいつもくり返している。だから、危機感を食いものにするということをいわざるをえない。いろいろな危機感が皆なくなり、公害も片づきそうだとなると、いよいよ、それでは、こんどはどうしたらいいかというので、いま持ち出している危機感が西尾さんの指摘された生きがいなき空虚感というお題目です。だから、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がする。過去には戦争反対とか何とかいっているときには、むしろ反対に、人間の空虚感、マイホーム主義を指摘しました。それが、だんだんといろんな危機感がなくなって安定してきているわけですが、それをまた逆に危機感をあおるような形で持ち出されると非常に腹が立つ。あまのじゃくという人もあるかもしれないが、私は自分があまのじゃくだとは思わない。空虚感ということを、また新しい一つの危機感にし始めているところがある。それを食いものにして、また文化人なり何なりがめしのタネにしていくことになると困るなあ、ということがあるのです。

西尾――つまり、日本人が、史上初めてというと大げさかもしれないが、近代人としての自由を享受し得る結果として出てくる孤独感を、皆耐えなければならないときがきたということですね。

福田――そういうことです。

西尾――文学者の中で、私がいま興味を持つ生活は、自分の弱さを知っていてじっと忍耐している人であって、弱さを売りものにする人は、自分では弱い弱いといってピエロを演ずる役を演じているだけで、腹の底では自分の強さやずるさを売りものにしているように感じる清潔感がないところがある。

福田――それは、簡単には礼儀なんです。礼儀作法ですよ。弱さを人の前に見せないということは強がるのではない。自分の弱さを人の前に見せられること、それは、うそついて、隠しているのではなくて、その自分が苦しんでいる姿をそのまま人前に見せることになり、自分の苦しみを他人の肩に背負わせることになるから失礼なんですよ。自分の持っている荷物が重いから、重い重いというと、向うの人が持ってあげましょうと、いわざるを得なくなっちゃうんですね。そういうことと同じです。

 話はかわるが、さっきの話と矛盾するようですが、イエスは自分に対する英雄崇拝を拒否したことになるが、逆に民衆の中には、英雄崇拝の気持ちがあるんですよ。だが、それをどうするかという問題は、一つの大きな力を戦後は権力からの縦の構造として否定してきた。みな平等だ、ということになったが、それでは民衆は気がすまない。集団的自我というものは、それでは我慢しない。平等だ平等だといっていて、喜んでいるかというと、そうではなくて、彼らに崇拝する人物を与えたほうが喜ぶところがあるわけですね。ところが、文学でいえば、ちょうど純文学と大衆文学みたいなもので、純文学では英雄を全部捨て、英雄否定になる。ところが、純文学が捨てた英雄を大衆文学が拾いあげた。この大衆文学の読者は相当数いるわけです――。テレビが皆に見られているのは強い者が出てくるからで、これに対する憧れが民衆の中にある。そういうことを考えると、さっきの一人の孤独な戦いということは、やっぱり個人的自我の仕事であって、われわれの中には集団的自我もある。いくら純粋なエリートであろうと、それはある。この始末がつかない限りどうにもならない。やっぱり、一つの縦の流れが、ロレンスじみてくるけれども、太陽系の中にあって、太陽の熱によって、それから太陽系の物理学的な星の運行というもの、太陽中心に行われているという考え、絶対者への、あるいは憧れというものがある。そういうものに対する憧れは肯定しなければならない。それを全部否定してきたのがヨーロッパの近代である。それにロレンスは反撥を感じている。民衆は皆権力に対する憧れを持っている。これをどうしたらいいか、それをロレンスは“古代異郷”の世界にもっていくのだが、これは彼のフィクション、いまさら古代異郷の世界にかえってもどうにもならない。この問題が解決できない限り、どうにもならないですね。だから、個人の一人のひそかな戦いは、それしかないからといっているだけで、実際はそれで解決できるかどうか。やっぱり、集団的自我というものを何とか位置づけないと、だめではないかと思う。それを、平等、平等でいくとエリートも我慢できなくなるし、それからエリートをほしがっている一般民衆も我慢できなくなってくるという状態が起こるのではないかと思います。

『日本は何に躓いていたのか』最初の感想

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言

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帯裏:六カ国協議で、一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか。これから日本をどう泳がせ、どう扱うかということが、今のアメリカ、中国、ロシアの最大の関心事であります。北朝鮮はこれらの国々にとってどうでもいいことなのです。いかにして日本を封じ込めるかということで、中国、ロシア、韓国の利益は一致しているし、いかにして自国の利益を守るかというのがアメリカの関心事であって、核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでもいいのです。いうなれば、日本にとってだけ北朝鮮が最大の重大事であり、緊急の事態なのです。

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 この本はようやく店頭に出たばかりだが、ぼつぼつ知人からの感想が寄せられ始めているので、その一部を紹介する。

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書評:アマゾンレビューより

西尾ワールドの全貌, 2004/11/07
レビュアー: recluse (プロフィールを見る)   千葉県 Japan
西尾氏の作品は20年以上にわたって読み続けて着ましたが、今回の作品では、彼は自分の思想の全体像を簡潔な形で、整理することを目的としています。外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の順で議論を展開することにより、徐々に現象面から、より深く日本の抱える問題の根本に接近しようとしています。この手法により、彼の考えの基層に接近することが可能となるよう、構成されています。すべての論点で、彼は明確に一貫して変わることのない自分の人間観と歴史観を呈示しています。簡単なことですけど、これは稀有なことです。いったい何人の日本人が、自分が20年前に書いたことを一点の恥じらいもなく振り返り再提示できるでしょうか。また、本質を捉えたアフォリズムと西尾節も満載です。特に熟読すべきなのは、第三章の歴史の部分です。続きを読む

書評:宮崎正弘氏のメルマガより

①西尾幹二著『日本人は何に躓いていたのか』(青春出版社)
 このところの西尾さんの旺盛な執筆活動、そのエネルギーには舌を巻かされ、目を瞠らされ、これほどの量産をこなしながらも文章の質を確保されているという希有の衝撃がつづく。ニーチェ研究から「新しい歴史教科書をつくる会」名誉会長としての八面六臂。そして時事問題から経済政策までの深い関心。
 ひとりの人間がいくつの仕事を同時にこなせるのか、ニーチェの果たし得なかった未踏の世界へ挑戦されているのか等とつい余計なことばかり考えてしまう。
 さて本書は時局評論を装いながら、じつは重厚な思想書なのである。
 「六カ国協議で一番焦点になっているのは、実は北朝鮮ではなくて日本だということを日本人は自覚しているのでしょうか」
 「核ミサイルの長距離化と輸出さえ押さえ込めば、アメリカにとって北朝鮮などはどうでも良いのです」
 こういう警句がいたるところにちりばめられている。
 本書の隠された味付けは「日本がふたたび活性化し“勝つ国家”に生まれ変わる条件」とは何かを探し求めているところにある。懸命な読者ならすぐに気がつかれるように経済の政策が対米追従であることが日本に「第二の敗戦」をもたらしたとする分析である。日本的経営を恥じたところから日本経済の転落もまた始まった。だから最近流行のアメリカ帰りの経済理論はいい加減にしてもらいたい、と示唆されている。
つまり、「国家意識の欠如、愛国心の欠落、民族文化を前提としてものを考えていく自然な感情からの離反が、教育や外交、あるいは安全保障だけではなく、経済問題にも深く関係している」(本書302ページ)
 そして「日米構造協議から日本の没落が始まった」と結論され、「前川リポートは敗北主義」と大胆に総括されている。
 前川レポートを高く評価したのは米国のボルカーFRB議長(当時)らで、つぎの平岩レポートは米国が歯牙にも掛けなかったほど、日本の独創性尊重がうたわれていた。(脱線ながら当時、小生は米国の対日要求は「日本を米国の経済植民地」「法律植民地」にする狙いがあるのか、として『拝啓ブッシュ大統領殿、日本人はNOです』とか『平岩レポートのただしい読み方』など矢継ぎ早に上梓したが、逆に日本の体制保守論壇から反論を受けた)。
あの時代、たしかに保守の分裂が起きていた経緯を思い出すのだった。
 わが経済学の師・木内信胤先生は「経済政策で重要なのは「国の個性」であり、アメリカの真似をする必要はまったくない」が持論だった。西尾先生の結論も「自己本位ということが人間が生きていく生命力の鉄則です。それこそが今の日本が抱える問題の最大の鍵ではないかと思うのであります」。
満腔の賛意をいだきながらページを閉じた。

書評:遠藤浩一(つくる会副会長)

前略 『日本人は何に躓いていたのか』、有難く拜讀させていただきました。大変重要なことが平易に説かれてをり、多くの読者を得られますことを切に祈ります。“親米対反米”といった二項対立的な議論の不毛から抜け出た真の国家戦略論と思ひます九条を変へただけでは防衛停滞は解決しないといふ鋭い一矢、保守の側にこそ突き刺すべきと痛感いたしました。
不一
十一月十四日

感想:種子島経(元BMW東京社長・つくる会副会長)

西尾幹二様            種子島経拝
拝啓
「日本人は何に躓いていたのか」拝読しました。

「つくる会」募金活動の一環として、ものになりそうな企業数社のトップと語ってみて、改めて衝撃を受けています。
中国との商談が内定していたのに、中国のネット上、「あの会社から買うな。あの会社は『つくる会』を支援している」という投書が溢れたのに怯えて、社長が、「つくる会」賛同者として名を連ねている先輩を呼びつけて注意した話。
これでは、中国の干渉に悪乗りして靖国参拝を攻撃する手合いと変らない。
こんなパターンの行動が、中国をつけ上がらせることがわかっていない。
もっとも、同席した元役員の会員諸君が、「あのバカ社長め」と反発し、自分たちの名前で関連会社に呼び掛けてくれています。

 株主総会での追求、株主訴訟での求償を恐れ、「透明性の原則から、今では交際費の細目まで公開させられるんだから」と寄付に応じない。
これらはすべて、ここ10年の間に、アメリカに倣う形で導入されたものです。
それが、かくも日本企業をインポテンツにしている。
経営者としての自信に欠けるからこそ、株主を恐れるのです。
貴著にあるキャノンとか、終身雇用を標榜し続けるトヨタとか、日本企業の強さを守って栄えている企業もあるけど、中国に怯え、アメリカに犯されてインポになった日本企業群を垣間見て、薄ら寒い思いをしたものです。
ポンと二百万円くれたオーナー経営者もあって、募金全体では好調に推移しているのですが。

 例によって、貴著に刺激されて思い付いたまま、記しました。

平成16年十一月十一日             千葉の寓居にて
                     敬具

書評:小堀桂一郎

冠省、御新著御惠投にあづかり有難うございました。四箇月半で一氣に書下ろした、といふその筆力に驚嘆しました。いろいろとお疲れの蓄積に加へて現在進行中の用件も多々あるでせうに――而して一氣に書いた書にふさはしい、熱氣、勢、文体の統一等が感じられ、内容の説得力と併せて、又しても素晴しい警世の著作になったと感嘆しきりです。少しでも多くの人が本書を讀んで眼覺めてくれるとよいのですが。小生も、もう日本は駄目だな、といふ悲觀と、望みなきにあらず、との希望の間で動揺を續けてはゐるのですが、御新著で又一つ勵まされました。

11/21(加筆)