福田恆存氏との対談(昭和46年)(四)

西尾――近代文学は何か一つ、反権威でもいいし、反市民社会でも、反社会性といってもいいですが、芸術の核をなすものの中にいつもあった。日本も小ながら隠微な形でそういうものがあった。ところが、いま反社会性がまったく成り立たなくなっている。どんな反社会的な事件が起きても、別な価値体系から祭り上げられてしまい、いつの間にか反社会性自体が社会性を獲得する妙な状況が左でも右でも起こっている。そうすると、何もできないし、何もしないほうがいい、すること自体間違っているのではないかと言うような・・・・・。

福田――間違っているかどうか、わからないにしても、しがいがない、徒労だ、という感じがしますね。これはぼくだけでなくて、多少まじめに仕事をしようと思えば、だれも皆感じていることではないかなあと思いますね。で、さっき言いかけたことですが、日本では芸術と実行の問題、それから政治と文学の問題という対立でいつも取り上げられてきました。芸術の中には、自分の純粋自我を表現するが、実行は、そうでない、集団的自我である。だから、芸術のほうを高く評価するという行き方があった。二葉亭四迷のように、芸術と実行の矛盾に悩み、文学を捨ててしまった人もいるわけです。田山花袋のように、自分がふと書いたものが祭り上げられて、あとでどうしようもなく、身動きできず、結局、修生、芸術と実行という問題に悩み通した人もいる。芸術と実行の問題は、ロレンスの個人的自我と集団的自我に関連があると思います。その問題はいまだに日本では解決されていないのではないですか。

西尾――そうですね。

福田――ロレンスがイギリスの中で苦しんだ激しいものでないにしても、芸術と実行という問題は、まだまだ日本の文学では問題になっている。だけど、そのときに、私がいつも素人でいろ、素人を大事にするという考え方と関連があるけれども、私は芸術よりも実行を大事にしてしまうんですね。

西尾――あるいは、実行で果たされない部分を芸術で勝負しよう、と。逆にいえば、芸術の中に実行を忍び込ませるようなことはするな、と。ということは、芸術の実現不可能なことかもしれないというところに勝負をしろ、と。さっきの主題に繋がるが、それが実際にやられていなくてマス・プロ条件がますますおかしくなっている。ただ、六〇年代に起こった事象というか、文化現象に見られるように、日本にもようやく、そういうつらさが皆の中へ入ってきている。考え方によれば、ようやく、近代社会になってきたともいえる。

福田――ええ、そういうこともいえますね。だから、ロレンスに影響されたというか、ロレンスを利用した場合には、あくまで、日曜学校の牧師をやっつけるためにやっていたことだともいえる。それは知識人ともいえるし、自分だけ正しいという偽善的正義派を攻撃するときに、ロレンスのアポカリプス論くらい、便利なものはない。ほかにニーチェやドストィエフスキーがいるが、英文学ではロレンスほど便利なものはない。年代からいっても、われわれに近く、ドストィエフスキーよりも近い。だから、私はもっぱらロレンスをやるようになったといえる。

西尾――実際には、
『人間・この劇的なるもの』に展開されている主題も、この本の中に胚胎しているという印象はあるのですが、たとえば個人性と全体性、あるいは自由と宿命の問題ですね。

福田――ええ、ロレンスに影響されたものは、非常に根本的なものだが、もっと表面的にいうと『人間・この劇的なるもの』が売れる部数と、
『平和論に対する疑問』が売れる部数とは違う。表面的には『平和論に対する疑問』のほうにロレンスを多く利用している。『人間・この劇的なるもの』は利用したのではない。ロレンスがもっとはいり込んでいるというだけで、意識的に利用したわけではない。気軽に利用したのは『平和論』のようなときであって、『人間・この劇的なるもの』は書いたときには気軽にとはいかなかった。第一に、利用することを意識していないし、もっと深く入りこんでいたでしょうね。だから、ほんとうにロレンスがはいり込んでいたのは『人間・この劇的なるもの』のほうかもしれない。

西尾――その場合、先ほどの問題に戻りますが、個人の純粋自我と集団的自我の二つの対立は、福田さんが「演劇」と「政治」という二つの世界を活躍の舞台としたということで、いかにもふさわしい。演劇と政治はまさしく個人的自我と集団的自我との戦い合う場でもある。福田さんの行き方あるいは思想が、個人の在り方と、それから他者の在り方、もしくは他者を含めた広い意味の社会とを、どうかかわらせるかをたえず意識しているように思う。つまり、この本に出会うことによって、福田さんの内部にあったものが、触発されたのでしょうが、非常に運命的なものがあるといえる。小林秀雄におけるランボーに似たような性格があったと思う。ロレンス論の最初にも書いていますが、一冊の本に出会うこと、それがだんだんいまなくなってきている。文学や、生き方でも一つのものに自分がのめり込んで初めて人生の目が開かれるということがなくなってきて、水増しのようなジャーナリズムの氾濫の中でアップアップしているのが多い。強い生き方が不可能になってきている感じがある。話は戻りますが、ロレンスは、個人的純粋自我は可能かということをたえず問い続けている精神であるから、場合によっては集団的自我との妥協の仕方、つき合いの仕方、処世の仕方を教えているとも解釈できますね。

福田――ええ、だから、非常に平俗ないい方ですが、結局私がさっきいった自分の自我との折り合いのつけ方ということになる。

西尾――それは結局、自覚に繋がることだが、そういう対決をくぐり抜けていない場合は精神の弱さになる。その場合、問題になるのは集団的自我がつき合っていく外延の世界、他者もしくは集団社会、われわれのコミュニティーですが、これが現代では非常にアモールフ――不定型なものですね。日本の社会自体がもともとアモールフなものなのですが、加えて時代が六〇年代後半からますますそれを強めてきている。非常に厄介な時代をいま迎えていると思いますが、それに対する決意はいかがですか。

福田――たとえば、ロレンスについていえば、彼は最後に結局、愛とか心の温かさとかが一番大事だ、ということをいっている。ところが、実生活では、ほんとうに彼は心の温かさを持つにいたったか。それからドストィエフスキーでいえば、たとえば『罪と罰』では、ソーニャの前におごりたかぶったラスコリニコフの自我がひざまずくということを書いても、ドストィエフスキーは実際には、そういうことができない。それがなかなかできないのが西洋人ではないのか。というより、そこに西洋の近代文学の限界があるのではないか。そこに芸術と実行の問題があるが、西尾さんにいま、現代の状況に対する決意のほどといわれたが、それはあまり、いま考えておりませんね。それよりも、自分がいろいろと書いたり何かしたことが、自分の生活にどれだけのものをもたらしたかということのほうが大事で、ロレンスの影響にまだこだわっていえば、人が人を愛し得るか、という問題を提出するよりは、自分の実生活でそれをやることのほうが、私にとっては大事なことのように思うんです。中世ルネッサンス以来、問題は全部出しつくされて、これ以上、新しい問題は出せっこないと思っている。だから、それを実際自分の生活でどうしたらいいかということが残る・・・・・。

西尾――いままで福田さんは特に大義名分に従った生き方を批判されてきた。逆にいうならば、大義名分があらゆる陣営において、あらゆる思考形式において、むなしいものであることが広く自覚されつつある。大義名分は、また出てくるかもしれない。しかし、そのときはそのときで、いままでは自分の生活のじゃまになるものに対して戦ってきたわけですね。

福田――ええ、そのとおりです。

誤字訂正(11/17)

福田恆存氏との対談(昭和46年)(三)

西尾――イエス・キリストに対するそういう考え方は、ドストィエフスキー、ニーチェが似たようなことをいっていますね。ドストィエフスキーでは『白痴』にそれが感じられるし、また、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官にもある。ニーチェのアンチ・クリストにも似たような発想がありますね。大審問官と、ロレンスと、福田さんとの三者に共通していえるおもしろい現象は、純粋な自我と、集団的な自我とを分けて、一方では純粋であろうとしながら、他方では純粋であることは原理的に不可能だという自覚がつきまとっている。何人(なんびと)も、集団自我たらざるを得ない瞬間があるとするならば、集団の部分、すなわち、社会的次元における自我を是認しようとする。それを是認できない精神をむしろ弱い精神といい、悪を避けることに一義的な正義をみる精神に弱さをみている。カトリックは巨大な政治体系であるが、福田さん自身は、このカトリックの精神に親近感を持っておられ、あるところでは純粋な自我を一転するところがある。耐えられないのを貴族主義的である、といわれましたが、逆にいえば、ワンマン的なものを是認するところがあるわけで、そのへんをお伺いしたい。

福田――それはいまだに私には、自分で始末つかない問題なんでね。もし、始末がつけば福音を述べるかもしれないけれども(笑い)。

西尾――ただ、それは、背景の文化にかかわっていませんか。個我の純粋は成りたちがたい。そのような個人性は、極限を要求する。ロレンスは、そういう考え方に立ってイエスにすらなし得ないことがあることをはっきり自覚しようとした。したがって、ましていわんや凡人においてをや、と思わざるをえない。他方では大審問官の大衆侮蔑という形で、大衆にはパンでもだまして与えておけばいいのだという発想がある。ですから、個人が他者を愛することは不可能である、という実現不可能性をいつも見続けていくことになり、しかも、実現不可能を知りながら虚偽に耐えようという発想が逆に出てくる。それがカトリックの考え方のように思う。

福田――確かに私が青少年期を送った時代にはそのような背景が日本にはなかったが、私の性格や生い立ちの中にあったように思う。一番つまずくのは、人が人を愛し得るかという、愛と信頼との問題です。これは私が芝居や評論を書いても一番大きなテーマであって、結局、それと同時に実社会においても文学と生活、芸術と実行という関係のなかでいわゆる貴族主義者たちは芸術一辺倒ですましていることを、私にはどうしてもできなかった。それは下町で育つというところにも理由はあるかもしれない。私の学校の友だちは高等学校、大学を通じてほとんどが地方から出てきて寄宿舎や下宿生活をしていた。ところが、そこに成り立っているコミュニケーションは、彼らが故郷に帰れば、父や母や、兄弟とかわすものとはまったく違うわけです。大半の学生たちは大部分の青春を、家庭的なものから切り離されて、貴族的な純粋自我の世界に、あるいは理想の世界に生きていたといってもいい。ところが、私の場合、寄宿舎生活をやったことがない。浦和高校、大学も、家から通った。毎日、家に帰ると親父、お袋がいる。いまでいう庶民ですね。だから、学校で友だちと話し合ってきたことは通じないんですよね。その落差の中に、いつも悩んでいた。寄宿舎の学生みたいに、夏休みのときだけ、親戚づき合いをすればいい、というのではないのです。飽きがきたころ、またのびのびと学校に戻ればいいということは許されず、毎日、毎日その落差に悩んでいた。親戚は、お袋系も親父系も全部職人ですから、もちろん話が通じない。そういうことから純粋自我だけでは生きられない、個人的自我だけでは生きられない。集団的自我というものに目を向けずにいられない状況にはあったとは思う。そこで、個人的自我はどこからきたかというと、外国文学や、外国思想の影響でしょうね、きっと。

西尾――そうですね。だいぶはっきりしたような気がいたします。つまり、福田さんが大学時代に出会った精神的空間を一つの日本の近代化を促進したところの知識世界として象徴すると、もう一つは庶民的レベルでの生活の場という空間があり、そこには常に落差があったということですね。福田さんには前者の部分が持っているゆがみが若いころから非常に鮮明に見えていた、あるいはそれに悩んでいたことが思考の一切の基礎体系になっている。しかし、ロレンスの個人的自我、集団的自我のドラマは、西欧二千年の歴史的な背景をもったすさまじい世界から出ているのではないですか。その場合、このロレンスが福田さんの魂を触発した一面があったとしても、同時にそのままは結びつけることのできない日本の近代の弱さ、にせもの性が別にあった。時代を動かしていると言う日本の知識階級には自己過信がある。それは妄想にすぎない。実際、日本を動かしているのはそういうものでなく、現実の大きな力があるのであって、知識階級は根無し草である。そういう状況の中で、福田さんは職人的日常、もしくは江戸期の町人の生き方、という文化的な考えを措定さrせている。つまり頭脳だけ空疎に走ることに対する戒めがあるわけです。しかし、その基盤をなしている職人的部分も、怪しげになっているのが日本の近代ですね。それを両刃の剣みたいに両方切っていかなければならない。

ところが、ロレンスの場合には、一つの大きな文化体系の中で試みていたから、ロレンスは反逆児たり得た。正統思想の中で異端派可能であった。日本においては、正当なものをつくってからでなければ異端になりえないということで福田さんはシェークスピアをつくり、さらにロレンスをつくり出した。その分裂が自らの中にあったと思いますが・・・・・。ところが、いまの日本のような状況になると、どんな反逆も有効性をもたず、ますますもってロレンスでも生きられない時代になってきたんではないかという感じもしますが・・・・・。まだ、ヨーロッパも怪しげになっておりますけれども・・・・・。それで、自我の支えがうまく調和とれているのですね。

福田――ええ、いいかえれば、一種の集団的自我が成り立っている。別のことばを使えば、個性あるいは個人を放棄している。よくいえば共同体意識がある。これは時間的にも空間的にもいえる。つまり時間的にいえば伝統であり、空間的にいえばコミュニティといえる。ヨーロッパにはそれがまだある。アメリカはもう危うい。そういう意味でいえば、確かにロレンスの生きていた時代には、正統思想がまだはっきりとしていた。いまのヨーロッパでもまだまだそれがあるといえる。日本にはそれがない。いわゆる知識人もにせものなら大衆もにせものと化した。大衆もにせものというわけにはいかないが、大衆の生活をにせもの化してしまった一つの近代化があるということになる

西尾――大衆の知識人化傾向ですね。

福田――ことに日本は六〇年代にその現象がはっきりと起きている。ぼく自体にもそういう面があって、どうやってもしようがないと思わざるをえない。だから、ものを書くことがぜんぜん徒労だという感じになってきている。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(二)

 この企画は三部から成り、最初に福田氏と私の対談、次にロレンス「アポカリプス論」の福田訳のまえがき・解説「現代人は愛しうるか」、最後に西尾による解説評論「エゴイズムを克服する論理」である。

 ここには最初の対談と最後の解説評論を掲示する。

 福田訳のロレンス「アポカリプス論」は福田思想のいわば原点で、戦争の直前の昭和16年に訳出されたが、出版は昭和22年5月であった。「アポカリプス」は聖書のヨハネ黙示録のことである。ロレンス「アポカリプス論」の翻訳は筑摩叢書(絶版)、福田氏のまえがき・解説「現代人は愛しうるか」は福田全集に収められている。

 以下に掲示される福田氏と私との対談、及び私の解説評論「エゴイズムを克服する論理」は今まで何処にも再録されていない。

 なお同対談の行われたのは三島由紀夫の自決から約半年後である。

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西尾――ロレンスの「アポカリプス論」は、福田さんが人生に対する見方を教えられた書物、もし、福田さんにとっての“一冊の本”があるとすれば、『現代人は愛しうるか』があがるわけですね。この作品を拝読すると、福田さんのこれまでのいろいろな著作活動の中に出てくる発想の多くが、やはりこのときのロレンスへの傾倒と深く繋がっていることが想像できます。

 たとえば、最初のほうに「民主主義はクリスト教時代のもっとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが、今ではもっと徹底した民主主義者が絶対的貴族階級に成り上がろうとしている。(中略)強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。(中略)ここに問題にしているのは、政治的党派のことではない、人間精神の二つの型を言うのである」とあります。これはほんとうに偶然拾い出したものですけれども、さならが福田さんの文章のようです。ロレンスの場合は、彼の生きた時代の日曜学校や教会で、毎日のように繰り返されている牧師、もしくは聖職者の説教に対する反感みたいなもの、逆にいえば、宗教教義の問答みたいなものが根強くある伝統的な風土の中で、ロレンスはそれに反抗し、黙示録のうちに弱者の自尊の宗教を見ます。そういうアポカリプスの中に現われた地上の権勢というものを憎悪し、呪詛し、そして弱い人間が肌あたため合って、その中に己のエゴイズムを、復讐のルサンチマンの中に燃えあがらせる。そういう歪みが近代になって、自由・平等・博愛という美しい理念の中に忍び込むというのが、ロレンスの発想にいろいろな形ででてくるわけです。福田さんの著作活動の中で、知識人ということばでしばしばいわれているイデーが、ロレンス、ジイド、ニーチェなんかが発言したときの牧師もしくは聖職者というようなことばで排撃されている内容と、かなり酷似しているという印象を受けるわけです。

 それから、福田さんの場合には、知識人と民衆というもう一つの考え方。この民衆ということは、民衆の素直な心、民衆の生き方、あるいは生活人ということであって――福田さんの思想は、どだい生活人としての生き方を重視するということですね。ですから、いわゆる知的虚栄心を取り払って、生活人に実態をかえして、そこからものを見ていこうとされる。それが、福田さんの発言の一番の強さをなしていると思います。それは、戦前の下町(神田)の風土からくるのではないか。たとえば職人芸をいろいろ勧められたり、いつも素人の心を忘れるなと言われています。実際に職人の仕事に愛情をもっておられ、そういう生活人の側面、それと文筆ということがパラレルの関係をなしていると思われるのです。

 そこでお聞きしたいと思ったことは、いま述べたヨーロッパの現実の中で起こった大きな精神上のできごとについてなのです。強者と弱者の対立が非常に激しく、したがって、ほんとうに弱者は弱者であり、そのために、弱者の自尊の宗教というか、反逆意識というか、裏返された権力意識というか、熾烈なものがあって、そのためパラドクシカルな肉体侮蔑のキリスト教のもっている陰惨さ、そういうものがある風土で起こったロレンスの精神は日本でどう考えるべきか。日本の風土というものは、強者、弱者の対立もなく、けじめもはっきりしていない。それにもかかわらず、ロレンスの中に自画像を、読み取られる。ロレンスが日本人の問題になり得る外的条件は、戦前から戦後にかけての、昭和十年代以降、日本の近代化がある点に達して出てきたことは事実だろうと思います。そのような時代の中でロレンスの精神ドラマが自分の主題になり得たわけですね。しかし、それにも拘わらず主題になりえない部分が依然として残るように思います。つまり、日本の風土は、(『日本および日本人』の中で絶えずお書きになっているところですが)自我の対立がもともと相対的で、曖昧です。その風土性とロレンスのパラドクシカルなドラマとはどう共存しているのか。それから、福田さんの下町っ子気質からくる日本の民衆意識、にもかかわらずとかく福田さんの生き方が貴族主義的な発想だとみられているパラドックスにみられる食い違いはなぜなのか、お聞きしたいと思います。

福田――知識人と日曜学校の先生と同列に並べられたことは確かにそのとおりですが、知識人と権力者とは、明治の初めのうちだけは蜜月時代があった。それもせいぜい十年代だけで、二十年代ごろから、徐々にその分離が始まった。自由民権思想などからもきていると思うが、敗北者は善であるという考え方が、非常に強くなってきた。そういう状況で戦争を迎え、戦後は、さらに激しくなった。ジャーナリズム、あるいはマスコミュニケーションの拡大ということと繋がっていると思うが、すねていて、おれが正しいという段階から、すねる必要もないくらい知識人が強くなってきた。戦前までは弱者天国だったが< (一人一人ばらばらになれば弱者に違いないが)今の知識人などをはたして弱者といえるか疑わしい。権力対反権力、体制対反体制というとき、反体制がそのまま反体制にとどまっているのかどうか。また反権力を主張する人たちが権力なきものであるかどうかというと、すでにそうではなくなってきている。権力を持ってきているのです。これは日本だけでなく、戦後の世界状況も、だいたいその傾向を強めてきている。ヤングパワーの擡頭で権力が弱くなり、反権力がひじょうに強くなっている状況の中で、ロレンスの思想が生きてくるように思う。彼が生きていたならもっと激しく問題を追求したことでしょう。 

 私がロレンスに一番影響されたということから、さっき西尾さんが言われたように私は貴族主義的だとみなされることが少なくないが、実は、私はそうではないつもりなのです。ロレンスの中にも自我を克服する、あるいは自我を越える過程で、謙遜と同時に傲慢が出てくる逆説的な面がある。ロレンスは、人間の自我の中に集団的な自我と、孤独な、個人的な自我と、二つが必ずあるとしている。これは逆説的です。人間は孤独であって、初めてその人の本来の姿であるともいえるし、人間は絶対に孤独であり得ないともいえる。そこで個人的自我と集団的自我をどういうふうにしたら自分との折り合いがつくかという問題が出てくる。ロレンスのことばを使えば、イエスも弟子たちの英雄崇拝には答えられなかった、といえる。イエスのうちにある貴族主義が、自分を英雄扱いにし、神さま扱いにする弟子たちの態度に対して耐えられない、ということになる。それがイエスの大きなあやまちである、とロレンスはいっている。しかし、イエスが弟子たちの英雄崇拝に耐えられないのはイエスが貴族主義的だともいえますが、むしろ、それはイエスの弱さ、というより優しさによると言えるのです。つまり、イエスにはあつかましさ、図々しさがない。だから、人がよく言う貴族主義とは逆の現象です。人気や、評判や、権力というものを平気で手に握って傲然と構えていられない優しさ、この優しさというのは、見方を変えれば弱さともいえるものですが、単なる弱さとはちがう。人間の弱さに徹底しろという強さから出てきたものだし、またそういう強さを自他に要求するものです。

 普通、貴族主義を定義すれば、傲然と構えている人間を貴族主義といっていると思うのです。たとえば、ワンマンとして部下に君臨しているとか・・・・・・一般にはそれができるのが貴族主義というのですが、ロレンスはそれができないのが貴族主義だといっているわけです。

福田恆存氏との対談(昭和46年)(一)


お 知 ら せ
福田恆存歿後十年記念―講演とシンポジアム

日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(開場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール
    (地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の丸公園内)
特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「福田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03-5261-2753〈午後5時~午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』10月29日刊青春出版社330ページ ¥1600


日本人は何に躓いていたのか―勝つ国家に変わる7つの提言
 
★ 新刊、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ


意志と表象としての世界〈1〉
10月に完結(中公クラシックス)(中央公論社)
旧「世界の名著」シリーズの再版だが、今回は解説をショーペンハウアー学会会長の鎌田康男・関西学院大学教授におねがいした。


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 しばらく愉しんでいただいた「むかし書いた随筆」は後日の再開を約して、いったん中止する。

 11月20日は福田恆存氏のご命日である。この日「福田恆存の哲学」と題した私の講演を目ざしていま勉強しているが、なかなか容易ではない。勉強の途中で、保存していた貴重な文献を発見した。時宜を得ているので、紹介する。

 季刊『日本の将来』昭和46年(1971年)5月30日発行第1号(潮出版社刊)という大型版の雑誌が保存されていた。総特集「原点からの問い――戦後日本の思想状況」と題した一冊で、扱われた思想家は竹内好、埴谷雄高、加藤周一、鶴見俊輔、小田実、福田恆存、花田清輝の七氏である。七氏の思想の原点を問うという企画である。

 七氏にそれぞれ対談相手と解説者がつく。( )内は解説者。竹内好と松本三之介(松本三之介)、埴谷雄高は対談者なし(菊地昌典)、加藤周一と西川潤(西川潤)、鶴見俊輔と本多勝一(樋口謹一)、小田実は対談者なし(前田俊彦)、福田恆存と西尾幹二(西尾幹二)、花田清輝と竹内実(磯田光一)。

 ご覧の通り、福田恆存氏と私と磯田光一氏を除いて、ことごとく左翼である。当時左翼、そして今ではすでにナンセンスと化した極左といっていい人々である。これが33年前の日本の思想界の実態だった。福田氏は当時60歳、功成り名遂げた大家で、私は36歳、自著を三冊出したばかりの新米だった。

 対談は福田思想の原点であるロレンスの
「アポカリプス論」を中心に展開されるが、対談の前に記されている二人の紹介記事を、最初に掲げておく。紹介のされ方が、あゝ、こんな時代であったのか、と感慨深く思って下さる読者もいるであろう。

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 ●ふくだ・つねあり●
大正元年(1912)東京生れ。東京大学英文科卒。卒業論文は『ディー・エッチ・ロレンスに於ける倫理の問題』中学教師、編集者などを経て日本語教育振興会に勤め、
『アポカリプス論』を訳したのは昭和十六年ころである。昭和十一年「作家精神」の同人となり、「横光利一論」「嘉村磯多論」を発表。他に『シェクスピア全集』現代語訳、

『福田恆存著作集』がある。現代演劇協会「雲の会」の推進者でもあり、広範な活動をしている。このほど戯曲「総統いまだ死せず」で日本文学大賞を受けた。

 ●にしお・かんじ●
昭和十年(1936)東京生れ。東京大学文学部ドイツ文学科卒。昭和四十年より四十二年までミュンヘン大学に客員助手として留学。現在は電気通信大学助教授。専攻はニーチェ及びドイツ精神史。著書に
『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)
『ヨーロッパ像の転換』(新潮選書)『悲劇人の姿勢』(新潮社)、訳書に
『悲劇の誕生』(中央公論社、世界の名著「ニーチェ」)などがある。

むかし書いた随筆(五)

*** ミュンヘンのホテルにて ***

 最近世界の名だたる豪華ホテルの案内書を企画したので、貴方の推薦できるホテルの名前と内容を報せてほしい、というアンケートがある出版社から舞いこんだ。そう言われてみて、私は人に紹介できる豪華ホテルに泊った覚えのないことに気がついた。一流めいたホテルになら泊った覚えもないではないが、名前も忘れてしまったほどどれも印象に残っていない。

 私の好きなホテルは小じんまりした清潔なミニホテルである。ミュンヘンにはよく行く。必ず泊るのが「オペラ座そばのホテル」という名の、裏小路ぞいの目立たぬ宿である。値段が安い。一泊百マルク前後、現在のレートで七千円弱である。安ければ通例、設備が悪い、バスが付いていない、調度が壊れたりしている、中心街から遠く、交通不便である、などの欠点のあるのが普通だ。ところがこのホテルは入口が小さく、地味なのに、内部は一流ホテルに負けない良い設備で、バス付きであり、しかも名の示す通り、バイエルン州立歌劇場横の大通りから一本奥へ入った小路にあり、じつに足の便がいい。

 オペラの前売券を買う時間の余裕がなかったときや、ふらっと今晩オペラでも見ようかと思いついたときなどに、私はAbend Kasse(当夜券前売り場)に並んで、大急ぎで、その夜の切符を手に入れる。それから開演までには大抵一時間くらい間がある。劇場の前の店でコーヒーを飲んで待つしかない。

 ところが、件(くだん)のホテルに泊ったときには、劇場から至近の距離なので、自室に戻って、一風呂浴びて、服装を整えて――ミュンヘンでは今でもオペラには男性が黒衣正装、女性が長衣正装ときまっているー―、おもむろに心の準備をして、出かけることができる。オペラを見る前のこの一寸した気持ちの調節はとても大切である。ことにワーグナーなどは腹ごしらえをしておかないと、途中で空腹になって困ることがある。私はホテルの自室にバナナやクッキーを用意しておく。まずこれを食べ、髭をそる。ワイシャツを新しくする。

 こうして気持ちを整えて、やっと開演十分前に自室を出ても、それで充分に間に合うこのホテルの便利さは、私のミュンヘン滞在にはいつも欠かすことのできない快適さの条件である。

 あるとき、フロントで、前夜舞台に見た巨体のバリトン歌手が、メイドと無駄口をきいているのに出会った。今夜ミラノへ飛んで、明後日はベルリンだと、彼は大きな声で喋っていた。そういえば、フロアで金髪長身のソプラノ歌手に出会ったこともある。ホテルの従業員は、歌手たちにとてもなれなれしい態度で接している。

 そうだったのか、ここはオペラ歌手たちの常宿だったのだな、と私は合点がいった。私にこのホテルを最初に紹介した日本人の友人が、ここは旅なれたドイツ人のいわば“ミュンヘン通”だけが知っている穴場のホテルで、外国人観光客には知られていないが、結構人気が高く、だから予約は早めに手を打つ必要がある、と教えてくれたのを思い出した。

 ドイツ人は無駄な出費を極力惜しむ。安くて、しかも内容がいい、そういう所に人気が集中する。ブランド名で商品を買ったり、見栄(みえ)で豪華ホテルを選んだり、そういうことはたしかに少ない。彼らがイタリアや南スペインへ大挙して出掛けて行くのは、南国の太陽への憧れもあるが、諸物価が安いというのがじつは最大の動機である。しかも、その安い外国に諸物持参で、バンガローで自炊してホテルに泊らない。それがドイツ流儀である。一流のオペラ歌手といえば、高収入で、どんな豪華ホテルに泊っても不思議ではない、と人は思うが、そこがさすがにドイツ人である。

 「オペラ座そばのホテル」はこのように実質本意で、ドイツ人の趣味に適う宿だが、さりとて貧弱なのではない。ホテルと同経営の附属レストランは高級料理店である。ワインも料理も超一流だし、ボーイもお仕着せをつけ、メイドも優雅で美人が多い。私は民族衣裳をつけてサービスする一人の若い娘さんに注目していた。ドイツ女性に例の少ない、溢れんばかりに笑顔をたたえた愛嬌の良さが気に入っていた。北ドイツ女性は概して突慳貪(つっけんどん)だが、南ドイツの女はやっぱりいいな、と心のなごむ思いがしていた。

 一昨年(1992年)春のことである。ドイツは交通ゼネストを経験した。もう何十年としたことのない大規模ストライキである。統一のために旧西ドイツ市民が強いられた金銭的犠牲に対する償いを求めてのストであって、旧東ドイツの各州はこのストに参加していない。ミュンヘン市街はたちまちゴミの山に埋もれた。私はフランクフルトへの旅を諦めた。空港も閉鎖されて、帰国の日程さえも脅かされかけていた。しかしオペラ劇場はなにごともないかのごとく毎晩開かれていた。ホテルの高級料理店も、毎晩客で賑わっていた。民族衣裳の美人の娘さんの笑顔にも、私は夜ごと接することができた。

 激しいストは間もなく終った。私のミュへン滞在も終わりに近づいていた。ホテルのフロントの男と激しかったストのその後の混乱について話を交わした。そして私は、かの娘さんがストの期間中、市外の村から片道三時間もかけた徒歩通勤でホテルに一日も休まずに通ったのだという話を聞かされた。郊外へ抜けるS電(バーン)が止まったからといって、ホテルの活動は止まらない、と男は言った。私は、このホテルの質実さを支えているのは、お客さんの好みだけではない、例えばこの娘さんの健脚であり、けなげさでもある。「なるほど」と、なにかが分かったような気がして、ひとり呟いた。

  初出(原題「ミュンヘンのホテル」)「小説新潮」1994年2月号

むかし書いた随筆(四)

*** 子犬の奇跡 ***

 わが家には一歳二ヶ月の雌の柴犬がいる。中学生になった一人息子が犬を飼いたいと言い出したとき、私が一番反対した。世話をするのは必ず私か家内かになる。子供はすぐ飽きる。愛犬家の知人が一日に二時間は飼犬のために割いていると聞いて、忙しいわが身には不可能だと思った。しかし、一度犬を意識すると、不思議なもので、駅前通りのペットショップの前に立ち止まるようになった。立ち止まると、自然に檻の中の子犬が目に入る。私はこましゃくれた犬が好きではない。いかにも犬らしい素朴なのがいい。生後四十日の柴犬の兄妹が組んずほぐれつしているのを目にして、ほとんど衝動的に飼う決心をした。

 しかしそれでも家内はなおためらっていた。小さな座敷犬でないと持ち運びに大変だというのである。わが家では夏になると必ず軽井沢の山荘に行く。車を運転しないわが家の場合、籠に入れて、提げて運べる程度の犬でないと、成犬になってから手に負えなくなるという、いかにも女性らしい実際的な慎重意見だった。

 私は家内をペットショップに連れて行った。檻の中で一番元気のいいのは一匹の雌だった。雄をもしのぐ勢いだった。私は最近の大学に多い、男子学生をしのぐ活撥な女子学生のことを思い出しておかしかった。家内は内懐にその生きのいい雌を抱き上げた。急におどおどと怯えているその小さな生き物の仕草と手触りが彼女からためらいを取り除いた。大きくなったらどうしよう、などと言いながら、彼女は衣服の内側に包むように抱いて、家に持ち帰った。

 子犬には息子がミミという名を与えた。何だか猫の名前みたいだな、と思ったが、息子の小学校時代の好きな女の子の綽名がミミちゃんだと聞いていたから、まあいいやということになった。後でオペラ『ラ・ボエーム』の悲運のヒロインの名前もたしかミミであることに気がついた。ミミは終幕で哀れな病死を遂げたはずで、縁起でもないと思ったが、時すでに遅い。

 ミミは最初足許も覚束なく、行動範囲はわずか一平方メートルていどだった。顔が可愛いというのでもない。口許がまっ黒で、不細工である。何という珍妙な顔だろう、狸の子みたいだ、と私は言った。いつか外に出すつもりだったが、季節も寒いので、しばらく室内で飼った。やがて家中を走り回るようになるのに多くの時間を要さなかった。スリッパをくわえて廊下で暴れる。洗濯物置場から下着や靴下を引っぱり出すのには弱った。屑入れ箱は何度叱ってもひっくり返した。階段を昇りたくても、最初昇り方が分からず、恨めしそうに見上げていた。三段ほど昇って、用心している期間がわずか一、二日で、あっという間に最上段まで駆け上がれるようになった。私は犬の成長の早さに驚いた。六ヶ月で初潮を見た。最近は食べ物が良くなったので、昔の犬より早いのです、とペットショップの人が言ったのも、人間世界のことを言っているように聞こえて、おかしかった。

 予想どおり息子は犬の世話をしない。家内にはもとより、私にも相当の負担が掛かってきた。毎日の散歩は私の課題、というより義務になった。運動不足の身には決して悪いことではない。私は勤務のない日には、時間の許す限り、犬と歩く。朝起きると、必ず近所の井草八幡宮の境内から善福寺川沿いの道を約三十分歩く。犬は一回の散歩では満足しない。夕方、もう一回連れ出し、しばしば一時間歩く。

 途中で犬好きの人によく声を掛けられる。まだ子犬の頃は道往く人から可愛いと言い寄られ、私は得意だった。帰ると家内に、また今日も誉められたよ、と報告した。路上で若い女性たちに取り巻かれることもあった。彼女たちはミミの周りに群がって、なでたり、抱き上げたりした。私はもとより悪い気がしない。

 ミミはこうして誕生日を迎え、成犬になった。そして、一つの奇跡が起こった。母犬は十五キロほどの中型犬だが、ミミは一年たっても八キロを超えない。大型の猫とさして変らぬサイズである。一体どうしてこういうことになったのだろう。いかなる遺伝のなせる業であろう。ミミは今でも私の膝の上にのる。柴犬は小型の方が良いのだ、と聞いて、大満悦である。勿論、今夏も山荘には手提げ籠に入れ、汽車に乗せて連れて行く。

  初出 時事通信社『内外情勢』1994年5月号
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追記:

 「子犬の奇跡」の後日談をお伝えします。ミミはいま11歳の老犬で元気ですが、体重が8キロ超えなかったのは3歳まででした。その後妊娠し、3匹の子をもうけてから、ブクブク肥って、遺憾なことにいま13キロもあり、運ぶのは容易ではありません。仔犬はもらわれ先で「モモ」「リリ」「ヤヤ」と名づけられてそれぞれ元気です。

11/8加筆修正

むかし書いた随筆(三)

*** 私は巨人ファン ***

 私は巨人ファンである。そういうと怪訝(けげん)な顔をする人が多い。ことに大学の研究室や講師控室や出版社の編集室などでそう告白すると、呆れたという顔をする人さえなかにはいる。巨人ファンは知識人、教師、編集者の世界では少数派である。肩身が狭いのである。だから、あまり口外しないようにしている。阪神ファンや中日ファンが大学の建物の中で大口を叩いているとき、巨人ファンは鷹揚(おうよう)に構えて、にこにこ笑って、気に掛けていないというような顔をしていなくてはならない。

 巨人が優勝しそうな強いシーズンにはことにそうである。しかし、今シーズンの後半のような、負けがこんできて惨めなときでも、あまり巨人のことは話題にしない方が良い。私の口惜しさを回りの誰も分かち合ってはくれないので、精神衛生上にはなはだ良くないのである。阪神ファンなどは、チームがあんな救いようもない状態でも、ファン同士は結構気脈を通じていて、互いに同情し合い、いちゃいちゃし合っているので、救われている。これに比べ巨人ファンはつねに孤独である。

 巨人ファンの中でも、原のファンだとでも言おうものなら、驚かれるくらいでは済まない。完全に軽蔑されるであろう。幸い私は原の格別な贔屓(ひいき)筋ではない。昨年の日本シリーズで西武に敗れたのは、本塁送球を怠ったクロマティのせいだと思われているし、私もそれを否定しないが、原が打つべきときにきちんと打っていれば、否、三回のチャンスにせめて一回打っていれば、巨人の優勝だった。

 王監督時代を通じ、原と江川に頼って、肝心なところで落とした試合がいかに多かったか。巨人の四番打者は、毎年三冠王が期待されるような本物のスラッガーでなければいけないし、巨人のエースは七、八年で二百勝をクリアーする本格派速球投手でなくてはいけないのである。そういう意味で私は、今の巨人ではなく、王、長島、金田時代の巨人のイメージを守りつづけている懐古派かもしれない。

 しかし、ファン心理というのは不思議なもので、一度なると、取り替えがきかない。よくあちこち浮気するファンがいるが、ああいうのは贋物(にせもの)である。まして、巨人が負けさえすれば嬉しい。あとはどこが勝っても構わないという、いわゆる「アンチ巨人」派という人種がいるが、あれは野球ファンとは言い難い。「アンチ巨人」派はインテリと称する連中に多い。あまり深く考えずに反権力・反政府の方向を何となく「正義」と看做(みな)すあのばからしいインテリ心理と、深層においてつながっているように思える。そして、これが私の身を置く職場や交際社会に、まるでゴキブリのようにごまんといるので、衆寡(しゅうか)敵せず、私はほとんどお手上げである。

 私が巨人ファンになったのは中学生の頃だった。三番青田、四番川上の時代である。川上の赤バット、大下の青バットが子供たちを熱狂させていた時代である。

 私は中学一年のときに“少年ジャイアンツ・クラブ”というファンクラブに入って、写真集などを集めた。ラジオの中継を必死に聴いた。対南海戦で、三対零と負けていた九回裏二死満塁ツースリーで、川上がサヨナラ・ホームランを打った、あのまるで絵に描いたような有名な試合も、私はラジオで聴いていた。そして、興奮して、部屋中を飛び回ったのを覚えている。

 少年の心を燃え立たせた熱い、熱い思い出に、私は一生素直に、忠実でありたいと思っている。インテリぶってわざとお澄まし顔にひねくれてみせるなど、じつに馬鹿げている。そして、原ではなく、川上、長島、王に匹敵する不動の四番打者の出現する日を夢みつづけることにする。

    初出「NEXT」1989年1月号

むかし書いた随筆(二)

***やさしさと弱さ***

 テレビ番組で新婚カップルに、プロポーズの言葉は何でしたか、とアナウンサーが質問すると、たいてい「僕と結婚して欲しい」「僕について来て下さい」の男性主導型の答えが多く、「二人で人生を一緒に歩もう」というような男女間の対等と共同の姿勢を示した答えはめったに聞かれない、これは非常に困ったことだ、とある婦人評論家が、近頃の若いカップルに疑問を呈していた。すなおで従順な女を喜ぶ男の身勝手が、結局女を一本立ちの人間にしないで、駄目にしているのだ、と彼女は言いたいのである。

 しかし私に言わせれば、これはまったく逆に考えることもできるのではないかと思う。

 やはりテレビでよくやる若い男女の番組を見ての感想なのだが、女性はどういう夫を望むかと聞かれると、たいてい「やさしい人」「誠実な方」と答えるようである。私にはどうにもよく分からない答えである。まるで雄々しい男性像を望む若い女性はいないかのごとくに見えるからである。

 よく考えてみれば、男のやさしさなどというのは、なにか事が起こるまでは裏に隠れているのが普通なのであって、いかにも外見上やさしそうにみえる、表面的なやさしさは、人生の危難に出遭えば、たちまち女への残酷さに一変してしまわないとも限らないだろう。

 ただのやさしさ、みかけの誠実さは、人間としてのどうにも救いようのない弱さの表れかもしれないのである。男が女を駄目にしているというのなら、みかけの「やさしさ」「誠実さ」を求めたがる若い女性が、今の男を駄目にしているのだと言えないこともないだろう。男女は相関関係なのに、なんでも男のせいにするのはおかしいし、女性がとかく自分の失敗までをも男のせいにしたがるのは、女性が一本立ちの人間になっていないなによりもの証拠のように思える。

 こういう男女が結婚して、いざ子育てという段階になると、互いに都合のいいことは全部自分のせいにし、具合の悪いことはみな相手のせいにして、そういう調子で何年も経るうちに、妻はただ愚痴だけをこぼし、夫は聞かぬふりをして妻の攻撃をかわすだけの、一種独特な、あの不正直な「家庭」という城が出来あがるのである。

 子供は父親をいっこう尊敬せず、母親をできるだけ利用しようとする、「甘え」を武器としたずるい性格を手に入れるようになるであろう。お父さんがしっかりしてないから子供がこんな風になった、もっと厳しくしつけて下さい、とよく夫を責める妻がいる。しかし父親らしくさせるのは、母親の毎日の態度なのである。

 お父さんの職業や収入をいつもお母さんが口ぎたなくののしっているような家庭であれば、子供もやがていつしか父親を軽んずるようになるだろう。しつけなどできるものではない。

 そういう家庭に限って、親子の断絶だなどと大げさに言いたがる。なにか事件が起こって、急にわが子の気持ちがさっぱり分からんなどと言いだすが、両親は子供にだけ正直であることを要求して、つねひごろ自分の方は子供に対してさほど正直であろうとしなかったことに、まるで気がついていないのである。

 いけないのは、なんでも相手に責任をなすりつける、人間としての弱さである。男にも女にもこの弱さはあるが、母親は子供という愛の対象を得ると、この点救いがたい弱さを暴露しがちである。女はたしかに愛において強く、深いが、自分の愛していないものに対しては不公平になりがちである。男だって愛によって盲目にもなるが、自分の敵をも公平に評価する目は、女よりはいくらかましだと、私はつねづね考えている。

初出(現代「ずいひつ『父親たち』(5)人間としての弱さ」)『ベビーエイジ』1978年9月号

むかし書いた随筆(一)


お 知 ら せ

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』
10月29日刊 青春出版社330ページ ¥1600

★ 新刊、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ

意志と表象としての世界〈1〉
10月に完結(中公クラシックス)(中央公論社)
旧「世界の名著」シリーズの再版だが、今回は解説をショーペンハウアー学会会長の鎌田康男・関西学院大学教授におねがいした。

★ 福田恆存歿後十年記念―講演とシンポジアム

日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(会場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール(地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の 丸公園内)

 特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「福田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03-5261-2753〈午後5時~午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)

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 むかし書いた随筆(一)

 このあいだ友人とカウンターで酒を飲んでいたら、しきりと私の名を口にする人が少し離れた席にいる。気にしないでいたが、気にならないでもない。1時間ほどしたら、先方がやはり二人づれで、帰ろうと立ち上がる。その拍子に一人とひょいと目が合った。

 「西尾先生ですね。」「はい。」「いやあ、さっきからそうだと思っていました。たいてい読んでいます、先生の本は。」「ありがとうございます。もうお帰りですか。」「江東区から来ました。友人のところへ遊びに来たのです。」と、彼は相棒を指さして言った。

 それから席を代わってもらって少し話しこんだ。有名な商社――たしか日商岩井――にご勤務のかたである。そのかたが言うには、私には随筆の才能があるそうで、もっとたくさん随筆を書いてくれという。

 「そう言われても、注文がないと書けないんですよ。ジャーナリズムは私を保守論客ときめつけて、それ以外の活躍をさせてくれません。」「でも、何と言ったかなァ。お見合いのことを書いた面白い随筆がありましたよね。」「あゝ、あれね。」

 私は17年前に『婦人公論』に書いたある随筆を思い出していた。読んだかたもいるかもしれない。最近の新しい読者は知らないだろう。これからしばらく私の「むかし書いた随筆」にお付き合いいただきたい。

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*** 女の夢男の夢 ***

 私の家で一人の若い女性と一人の若い男性が出会った。女性の方は私がむかし若い男性であったとき、地方都市で知り合ったある家族のお嬢さんで、当時は十歳ほどの、快活で利発な小学生だった。私はそこの家族がもう使わない離れに下宿していた。離れは何千坪という宏壮な屋敷の一角にあり、地方の素封家の住居らしい静かな、やや鄙(ひな)びた庭が拡がっていた。私が勤めから帰って来ると、彼女は六つくらいの妹さんと一緒に離れに遊びに来て、取り留めのないお話をしたり広い庭の中で私の周りをくるくるとび跳ねたりした。まだ世に出ない鬱屈した青年の無聊を慰めてくれた彼女には、私が東京に戻って以来、もう十五年も会っていなかった。その間、女子大を卒業し、立派な婦人に成人していることは風の噂に聞いていたが、私は自分の仕事にかまけていたし、向こうもはにかんでいて、出会う機会はずっとなかった。

 ある日、まるで忘れていた思い出がふと甦ったとでもいうように、御母堂から私信があり、田舎にいるとなかなか本人の望みの人物に出会えないので、何処(どこ)かに心身ともに立派な、見識と将来性とを具えた――そう文字通りに書いて来たわけではないが、およそそういう意味になる――男性はいないものか、という依頼を受けた。私には早速一人の青年の姿が思い浮かんだ。私のところに出入りしている、真面目な、堅実な仕事に就いている一人の青年だった。礼儀を弁(わきま)えた、しかも会っているとどこか心の温かくなる、今どき珍しいタイプの青年だった。彼はどうだろうか、という私の問いに、家内も賛成したので、私は彼を口説いて段取りをつけ、事は急速に運んだ。

 私は元来、お見合いなどという他人の運命に関わることをする柄ではないし、そういうことを道楽とする年齢でもない。私も家内も他人の生活にお節介するのをできるだけ慎みたいと、つねづね自戒している。だからこの一件はまったくの例外だったし、気紛れだった。それだけに事柄が順調に動きだすと、私はにわかに落ち着かなくなった。どう考えても、私の一つの無責任な思い付きから発した選択で、賽子(さいころ)が投げられ、この先どうなるか分らないが、ともかく運命が展開し始めている。そのことが私の気を重くした。お二人ともに私の生活圏に関係のあった男女であるだけに、いわば彼らの人生の軌跡は、私という人間において交叉する、そのことだけでも大それた重大事だが、それを私が気楽にお膳立てし、演出家よろしく、面白おかしい舞台まわしをしきりにしている。何ともはや軽率な行動であった、となぜか私は後悔し始めていた。若いお二人がともに相手に好意を持った内意が伝えられると、私の気持ちは逆にはずまず、これでいいのかなァと思い直していた。

 私はこのまま話が沙汰止みになればよい、とにわかに思ったり、いやせっかく私に近寄った二人が自分の周辺からまた遠い処に行ってしまうのは面白くない、と思ったりじつに我儘な感情のたゆたいの中に揺られていた。そばで私の心の動きをじっと観察していた家内が、「あなたは嫉妬し始めているのよ」と言ってのけたので、私はまたあらためてぎくり(傍点)としたのだった。言われてみれば慥(たし)かにそうかもしれなかった。かつて十歳であった明朗な少女は、本当にいいお嬢さんに成人していた。顔立ちもいいし、気品もあり、生活に対し地味で手堅い考えを持っていた。財産家なのに、小遣いを制限されて育った、持ち物なども華美をできるだけ避けた心配りが滲み出ていた。「あれだけの方はそうはいないわよ」と家内もわけ知り顔に言った。確かにそうだった。十五年振りに再会して、私はかつての童女がこんなに美事な婦人に成長していることがにわかに信じられなかった。

 私は、まるで私自身が永年捜しつづけていたタイプの女性にようやくめぐり会えたのではないか、とさえ思え、何度か彼女がわが家に出入りするうちに、なにか陶然とする感情が胸中を包み始めるのを感じた。私はこれはいけないと思った。若い二人の動きがどうなろうとも、この際私自身は意見らしい意見は言わないのが正しい態度なのだと思った。しかし、そう思いながらも、私が推薦した男のことを力不足ではなかったか、などつい口走ってしまう自分を、私はじつに嫌味な人間だと思わずにはいられなかった。私はこのとき彼が失敗することを望んでいたのだった。

 三ヶ月ほどしてこの話は突然破談になった。女性のほうからの一方的な拒否通告だった。誰でも結婚を決める前にはあれこれ考え、最大限のエゴイズムを発揮するものである。この控え目なお嬢さんも、その点では決して控え目ではなかった。相手の学歴とか、収入とか、財産とか、そういうものに彼女は決して欲張りではなかった。ただ、多くの若い女性がそうであるように、彼女もまた、自分の期待(傍点)そのものに対して欲張りだった。見るからに男らしい人がいいと言う。それでいてやさしい人がいいとも言う。これは難しい。安定した生活を望みたいと言う。それでいて型通りの面白味を欠いた人間は厭だとも言う。これはある意味で矛盾である。男の夢も同じで、私にも覚えがあるが、結婚前に女性への要求は過大になり勝ちである。だから彼女の気持ちも分らないではなく、私の推薦した男は、要するに彼女の夢と幻想のお相手には到底なれなかったというだけのことであろう。彼が悪いわけではない。厳密に考えると、彼が失敗したわけでもない。彼女が勝手に独りで踊っていただけである。そう考えると、私は彼に同情的になった。そしてなぜ彼がもっとうまく立ち回れなかったのかと腹立たしく、私は彼の失敗を内心自分が望んでいたということなど、身勝手にも忘れてしまっていた。

 もうあれから何年経つだろう。このお嬢さんも今では二児の母である。

初出『婦人公論』1987年2月号

日記風の「日録」 ( 平成16年9月 )(七)(前の月の生活に即した所感です)

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お 知 ら せ

Voice11月号(10月10日発売)
拙論「ブッシュに見捨てられる日本」25枚

尚同誌に横山洋吉(東京都教育長)、櫻井よしこ両氏の対談「扶桑社の教科書を採択した理由」があり、注目すべき内容です。

福田恆存歿後十年記念―講演とシンポジアム
日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(会場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール(地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の 丸公園内)

 特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「福田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03-5261-2753〈午後5時~午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)

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9月18日(土)~23日(木)
 頭を切り換えて国際政治の現状分析に没頭した。『Voice』11月号に25枚の評論「ブッシュに見捨てられる日本」として発表されたが、題は書く前から編集部があらかじめつけてきていた。

 私は日高義樹氏の論文2篇と新刊本
『日本人が知らないアメリカひとり勝ち戦略』のゲラの一部、及び江畑謙介氏の新著
『日本防衛のあり方―イラクの教訓、北朝鮮の核』、さらに英文と和文の大量のインターネット検索から得た米韓情報を読んだ。A4で300枚くらいはあったろうか。

 米議会下院を7月に通過した「北朝鮮人権法」が丁度上院の審議にかかっていた。私は資料を読むために4日、書くのに2日かけた。丁度資料を読み終わったころ、法案は下院の審議に入り、私が原稿を書き上げた日に北朝鮮のミサイル発射の不気味な情報が流れた。私は同法案成立へいら立つ北朝鮮の威嚇であろうと察知したが、日本の新聞にはそもそも同法案のニュースそのものがその頃もなおほとんど出ていない。日本人は北のミサイルの威嚇意図が何であったかついに分らず仕舞いではないかと、私はマスコミの迂闊さに憤った。

 米議会上院は民主党が修正動議を出したので、いったん動きが止まった。ミサイル威嚇が停止したのも丁度そのころである。私の論文もそこで雑誌校了となった。

 米議会上院の通過は結局10月4日だった。日本のマスコミは「北朝鮮人権法」についてようやく、そして一斉に報じだした。私にいわせれば遅すぎる。

 10月7日付コラム「正論」に、次の関連論文を書いた。本当は10月1日付けでも出せるほど早く私は書き上げていたのに、産経新聞も7日付に延ばし、タイミングを逸した。それでも末尾は十分に新しい見方かと思う。

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金政権崩壊促す米国の「北朝鮮人権法」

――日本政府に求められる自助努力――

≪≪≪ミサイル威嚇のサインは≫≫≫

 北朝鮮のノドンミサイル発射の兆候を日米両政府がつかんだのは9月21日午後だった。22日夜に公表された。結局何も起こらなかったが、何かのサインであったことは間違いないだろう。

 「北朝鮮人権法」というこのうえなく重要な、中朝両国に厳しい内容の法案が7月に米国の下院を通過し、9月21日に上院に上程された。23日付『ワシントン・ポスト』は共和党議員が全員無条件で賛成、そこまで行ったが、民主党議員が法案内容をもっと詳しく知りたいといって留保した。丁度そういう日に当たっていた。

 私は同法案とミサイル威嚇の間には、なんらかの関係があったと推理している。

 同法案は中朝両国の人権侵害を弾劾し、内政干渉となろうがなるまいがお構いなく、「世界政府」的見地から、米国の法律を他国に適用するといういかにも合衆国一流の強引な内容である。

 けれども、これからの北朝鮮に対しては、拉致された日本人と韓国人の情報の全面開示、彼らの本国への全員無条件帰還が認められるのでなければいっさい経済援助の交渉には応じないものとする、というきっぱりした内容をうたっている。

 いったいどこの国の法律であろう。米国の徹底度には目を見張るものがあり、人権と民主主義の総本山としての自負心横溢(おういつ)の文書といっていい。スキあらば日朝国交正常化を行おうとする小泉内閣の姿勢は明白に否定され、退けられたに等しい。

≪≪≪腰が引けた外務省の姿勢≫≫≫

 同法案は脱北者を摘発しては北朝鮮へ強制送還する中国政府を、手厳しく批判し、脱北者を助けようとする外国人牧師などの活動を迫害する中国政府の国際法違反を問責している。

 腰が引けたこれまでの日本政府とは大違いで、日本政府の非倫理性は改めて糾弾されてしかるべきと思うとともに、やはり軍事力の支えがなければ一国の外交に正義と倫理を反映させることは不可能なのか、と改めて痛恨の思いを抱かざるを得ないのである。

 国際協力とかいっている日本政府が脱北者支援のための国家プロジェクトを一度でも考えたことがあるだろうか。

 同法案は北朝鮮の人権回復のために働く団体に年間二百万ドルの資金を提供することや、米政府系「自由アジア放送」を一日4、5時間から12時間に増やすこと、脱北者の保護を中国政府に要求することなど、具体的なプログラムを掲げているが、軍事制裁には触れていない。しかし金正日政権の「転覆」をめざす政治意志は明らかで、法案は上院で28日修正可決、4日に下院が再可決したので、今後米国は同法に従う。

 謎の爆発や相次ぐ大量脱北で末期に近づいている金政権は1988―89年の、まずハンガリー人が逃げて、全面崩壊につながった東欧の状況に似ているように思われているが、決定的に違うことが一つだけある。ハンガリーからの避難民はウィーンなど西側自由圏に直接流れ出した。

 北朝鮮の避難民は中国へ逃げるしかない。これはハンガリー人などが当時のソ連へ逃げるというあり得ないばかばかしいケースに当てはまる。中国の協力がない限り、大量脱出といえども体制崩壊につながらないことを示すが、中国政府にその意志はない。

≪≪≪海外逃避の兆候出た韓国≫≫≫

 盧武鉉が大統領になってから韓国の親米派、自由主義者、富裕層は不快な攻撃にさらされ、北朝鮮が中国化されることを思うと不安で夜も眠れない、と書いている韓国人の文章を私は最近読んでいる。韓国から海外への不法送金は前年の十倍に達し、ロサンゼルスの不動産が高騰している。『中央日報』9月7日付によると、南米型の資本流出、富をそっくり持っての海外移住が始まっているらしい。

 つまり、朝鮮半島でいま起こっていることは東欧の状況に似ていない。1975年のサイゴン陥落後のベトナムに似ている。南ベトナムの人々がボートピープルになって脱出したあの悲劇がまた起こるか否かは、米中両国の意志ひとつにかかっているが、日本の政治意志も全く無関係ではないのである。日本の目の前に迫っている日本の危機である。米政府が求めているのは自助努力である。

 6カ国協議という外交交渉の限界は見えてきた。中国の対日敵意もはっきりしてきた。日本政府は「北朝鮮人権法」に示された米国の法の精神を他人事のように扱っているわけにはもはやいかないはずである。