管理人による出版記念会報告(七)

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guestbunner2.gif長谷川真美

 
 つづきまして学習院大学名誉教授の吉田敦彦(よしだ・あつひこ)先生です。

ブーバー対話論とホリスティック教育―他者・呼びかけ・応答 ブーバー対話論とホリスティック教育―他者・呼びかけ・応答
吉田 敦彦 (2007/03)
勁草書房

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面白いほどよくわかるギリシャ神話―天地創造からヘラクレスまで、壮大な神話世界のすべて 面白いほどよくわかるギリシャ神話―天地創造からヘラクレスまで、壮大な神話世界のすべて
吉田 敦彦 (2005/08)
日本文芸社

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世界神話事典 世界神話事典
大林 太良、 他 (2005/03)
角川書店

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日本神話 日本神話
吉田 敦彦 (2006/05)
PHP研究所

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 吉田先生は神話に関する研究書や一般書をたくさん書かれた、人も知る神話学の世界的な権威、日本を代表する神話学者でいらっしゃいます。お願いもうしあげます。

 吉田敦彦氏のご挨拶(一)

西尾先生、本日は本当におめでとうございます。私のような者が、お話させていただくのは、本当に僭越ですけれども、先生からのご指名ですので、しばらくお耳を汚させていただきます。

 本文だけで550ページに垂らんとする大著述の『江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋』で、西尾幹二氏は、本居宣長の『古事記伝』をその精華とする「文献学」における、わが江戸期の文化の世界にも比類の無い価値と先進性を、端倪すべからざる博識を駆使され、満腔の情熱を傾注されて、もののみごとに解明してのけられた。

 西尾氏によれば「歴史意識」と呼べるものが成立した地域は、地球上でただ地中海域と中国、日本のみだが、「文献学」は奇しくも17世紀から19世紀にかけての時期に、これらの三地域に並行して勃興した。ただ中国で、古代語の精密な解明を目指す清朝考証学が開花したのは、乾隆、嘉慶の両皇帝の時代(1725~1820年)であり、この中国の文献学には、聖典として尊尚された経書の絶対性をそもそもの前提としていたので、その聖典であるテキストへの本来的懐疑は存在のしようがなかった。

 聖典であるテキストをも相対化する文献学は、西洋と日本でだけ成立したが、西洋で近代文献学の真の端緒を開いたヴォルフの『ホメロス序説』は、1795年に刊行された。ところがわが国では、清朝考証学の全盛期より半世紀も前にすでに、荻生徂徠の儒学によって、脱孔子の道を拓こうとする野心的な模索がされており、そのあと1745年には、当時30歳だった富永仲基によって、仏教の経典を批判的に考究した主著『出定後語』が刊行されていた。

 このような「聖典」に対する批判的な態度を西尾氏は、「一つの自立した知性が聖典の背後にまわり、宗教の開祖を相対化する破壊の刃を突きつけるという危険な意識」と呼ばれ、「不思議なことにそのような意識にいちばん早く目覚めたのは、・・・・江戸時代の日本であったことに気がつきます」と、言われている。

 ところがこれらの徂徠の儒学と仲基の仏教経典研究のあとに出て、国学の基礎を確立した偉業となった『古事記伝』44巻の中で本居宣長は、言語科学的分析を、それらよりいっそう厳密なものにする一方で、それによって明らかにされる『古事記』に書かれていることに対しては、後代の知恵による懐疑や批判を加えるのを、いっさい許容せぬ立場を徹底して貫いた。『古事記』のテキストに対するこの宣長の態度は、エッカーマンとの対話の中でゲーテが「ヴォルフはホメロスを破壊してしまった」と論評したという、ホメロスの原文に対するヴォルフの取り扱い方とは、まさに正反対のもので、一見すると徂徠や仲基の文献学に世界に先駆けて見られた、先進的な批判精神をいっきょに後退させてしまったようにも見える。

 だが西尾氏はこの宣長の『古事記』の原文の扱い方が、西洋古典文献学とその方法に倣って聖書、とりわけ福音書の原文を分析しようとした聖書解釈学とが、やがて共に陥ることになる陥穽を先んじて回避していたという点で、じつは別の意味できわめて先進的で、あった所以を、鋭く指摘されている。

つづく
つづく

管理人による出版記念会報告(六)

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佐藤雅美氏

 
 
それではここで何人かのゲストの皆様からご挨拶を頂きます。

 トップバッターは発起人を代表しまして、直木賞作家の佐藤雅美(さとう・まさよし)さんでございます。

覚悟の人―小栗上野介忠順伝 覚悟の人―小栗上野介忠順伝
佐藤 雅美 (2007/03)
岩波書店

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 佐藤さんは『大君の通貨』で鮮烈のデビューをされまして、江戸時代の造詣が深く、また十日ほど前には『小栗上野介伝(おぐりこうずけのすけ)』を岩波から出版されました。五月からテレビ朝日のゴールデンアワー、午後7時より、佐藤さんの小説がテレビドラマ化されます。まさに売れっ子作家でございます。

 それでは佐藤先生、お願い申し上げます。

 佐藤雅美氏のご挨拶
 

 今ご紹介いただいた佐藤と申します。私ごときが、また畑違いのものが、こんなところでご挨拶させていただくというのは、まことに恐れ多いのですが、ご指名いただきましたので、一、二分時間をとってご挨拶させていただきたいと思います。

 この江戸のダイナミズムが『諸君!』に連載されていたときに、ふと、本当にふと目が留まりまして、一度、二度、多分三度は読んだと思います。それで、早く本にならないかなとずっと楽しみにしておりました。その間に、先生のことは私は一ファンで存知あげなかったのですが、ご紹介いただいて、先生と親しくさせていただくようになりました。それで、いつごろ本になるんですか、とずっと尻をたたいていたというか、そう催促しておりました。

 昨年の暮れ、来年の何月ごろかに出ると決まって、いくらか私も文藝春秋の方と親しくしていただいておりますから、自分で書評をやらしてくれ、というふうに売り込みました。売り込んで、なかなか返事がいただけなくて、ちょっと心配だったのですが、二ヶ月くらいたって、やっとお願いしますという電話がかかってきたときには、嬉しかったです。

 もちろんそっくり一から読み直しまして、直ぐ書き上げて、原稿を送って、それがおかげさまでここに収録されております。内容については私は門外漢ですので、あれこれ言える立場にもおりませんが、特に私が感服したというのは、ちょっとこのくだりですが、書評に書いた部分を読んでみます。

といって内容は類書にありがちな、二、三行も読むと瞼が塞がる無味乾燥なものではなく、そこには巧まずしてストーリーがあり、倦ませることなく飽きさせることなく展開していて、こういっては畏れ多いのだが文章もこなれていて読みやすく、またはっとするほど、小説家も顔負けするほど、表
現や比喩に天性の上手さ巧みさがある。

 これが私が内容もさることながら、非常に感服して言いたかった点であります。先生はご存知のように当時は超難関高校の小石川高校から、もちろん超難関大学である東京大学に進まれておられますから、当然のことながら思想というそちらの方へ進まれたと思うのですけれど、もし先生が私らのように、私らのようにと言えば失礼なのですが、私のように並みの高校から並みの大学に進んでおられたら、学問の世界に進まれるということがなく、ひょっとしたら小説でも書いてみようか、などと思われたかもしれない。挑戦しておられたら、大作家になられておられたかもしれない、という風に思ってもみます。

 そんなことで、いろいろと今度の本も改めて読ませていただいて、感服いたしました。なんでも先生によると、あと10年は仕事を続けるということです。お酒もとても強くて、がんがん飲まれる、お仕事もこれからもどんどん続けていかれて、いついつまでも何冊も何冊も本を出して、読ませていただきたいと思います。どうも失礼しました。

佐藤先生、ありがとうございました。

つづく

管理人による出版記念会報告(五)

   

小澤征爾―日本人と西洋音楽 小澤征爾―日本人と西洋音楽
遠藤 浩一 (2004/09/16)
PHP研究所

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 遠藤先生の朗読のつづき

(七)伊藤仁斎の『論語古義』はもとよりとてもいい本です。例えば孔子が鬼神や人間の死生を論じないのは、こういう問題は人おのおのが自得すべきことで、本来人に教えるといった性質のものではない、だから口に出さなかったのだ、という解釈(巻の六十一余論)など、私はハタと膝を打ち、内心深く納得します。仁斎の孔子解釈は悪くないのです。しかしこれはあくまで仁斎の孔子解釈であって、『論語古義』を読んでいると純粋なる孔子、あるいは孔子それ自体というものがあたかも実在するかのごとく、そしてそれを自分だけが知っているというがごとくであって、彼が囲いを作って孔子の言説をその中に追い込んでいくような印象を受けます。

 新井白石にも荻生徂徠にもそれは感じません。『論語』をはじめ四書がテキストとして不完全だという自覚が仁斎にはまったくないかのごとくです。孔子の残した客観的で正確なテキストなどじつは存在しないのです。門人によって纏められた現存の『論語』の外に、孔子をめぐる膨大な言説と伝承がある。それは畢竟、すべてが神話です。この自覚こそほかでもない、私が本書でくりかえし強調して来た主題でした。

 (十)北ヨーロッパ人の人文主義者エラスムスが古代復興を志して真っ先にしたことは、ヴェネチアに行ってギリシア語を学ぶことでした。不完全なギリシア語の知識で彼は新約聖書のギリシア語訳を完成させようとします。そもそも聖書の原典テキストはギリシア語で書かれていたからです(中略)。

 ヨーロッパ人が同一性を確立するのに、十五-十六世紀には異教徒の言語であったギリシア語の学習から始める――この不条理は日本人にはありません。仏教や経書といった聖典の書かれた文字の学習を千年以上にわたって断たれた不幸な歴史を、日本人は知りません。

(十三)文献学は認識を目的とします。しかし宣長やニーチェのような人にとって、認識はなにかのための手段でしかありません。二人は徹底的に文献学的ですが、また文献学の破壊者でもあります。通例の安定した客観性を目指している認識の徒には、とうてい理解の及ばない目的があるからです。

 それは一口でいえば、余り単純な言い方で気がひけるのですが、神の探求です。しかしそれは神の廃絶と同時に行われる行為で、懐疑と決断は別のものではなく、つねに一つの行為です。

 本章ではヨーロッパの文明の開始起点に不安があり、中国にはあまりそれがない、という観点をひとつ提起してみました。不安のあるなしは幸、不幸とは関係ありません。

中国には不安がない代わりに、歴史もありません。否、中国は歴史の国といわれていますが、歴史は自然と違って、変化の相を特徴とします。事実の一回性を尊重します。そういう意味での歴史がないのです。

(十四)地球上に歴史意識が成立したのは三地域しかありません。地中海域と中国と日本列島です。十七―十九世紀に、そこで文献学が同時勃興しました。江戸の儒学・国学が一番早かったといえるでしょう。古代と近代を結び合わせる言語ルネッサンスが、西洋古典文献学においても、清朝考証学においても、江戸につづいて相次いで起こりました。本書は可能な限り、三者を比較しつつ総合的に描こうと試みました。

 文献学は宗教の問題でした。私は思想史に関心がなく、偉大な思想家にのみ関心があります。

遠藤さん、有難うございました。
 

 会場は500人は入るという大広間。スクリーンに朗読中の文字を映すため、場内の照明は薄暗く落とされた。

 始まったばかりなので入り口は、人と人がぶつかるほど混雑しており、私は人混みを掻き分け、壁際の椅子が並んでいる場所に移動した。遠藤先生は、正面演台に向かって左手にある司会台に両手をつき、大きな体を少し前かがみにして、マイクに向かって朗読なさっていた。右手の大きなクリーンには、朗読されている文字が映し出されていた。

 西尾先生の文章は内容があるのに難解ではない。声に出せば心地よいリズムがあることがわかる。そのうえ、薄暗い中で遠藤先生が、ソフトでありながら力強く、メリハリの効いた口調でそれを朗読されるのだ。私はまるで芝居の世界に迷い込んだような、なんともいえないよい心地がした。その場は、背景の音楽とともに幻想的な雰囲気がかもし出されていた。宮崎さんの心憎い演出である。

 今、手許に来た朗読のテープを改めて聞いていると、つい聞きほれてしまう。音声をアップする技術が身に付いたら、是非この箇所だけでも皆さんにお聞かせしたいと思う。

 なお、上記に漢数字の番号が打ってあるのは、小冊子に抜粋してあるものと同じ便宜上のものである。

つづく

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映し出された画像
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朗読する遠藤氏

平成14年(2002年)8月から平成16年11月までの過去録はこちら

管理人による出版記念会報告(四)

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 遠藤浩一氏の発言部分  (江戸のダイナミズムからの抜粋・朗読原稿)  

 遠藤でございます。書棚に置いていたと過去形で司会者が言われましたが、今も置いておりますので、お間違いのないように。どうぞ皆さん、右手のスクリーンをご注目ください。

(一)よく考えてみると過去において日本人が シナの学問で世界像を描き出し、西洋の物指しで世界を測定して生きてきた事実はいぜんとして残り、にわかに消え去るものではありません。

 日本人は自分というものを持っていないから かような体たらくに陥っているのでしょうか。今まで私はずっとそう思いこんできました。ところが、話はじつはひょっとして逆かもしれない、と、ふとあるとき、私の心にひらめくものがありました。日本人はある意味で秘かに自分に自信をもっている。自分を偏愛してさえいる。ただそれをあらわに自己表現しないだけだ。シナからであれ、西洋からであれ、外から入って来たものは外からのものであるとずっと意識していて、忘れることがない。日本人は外と内とを区別しつづけている。逆に言えば、「内なる自分」というものを終始意識しつづけているともいえるでしょう。

 いったいこの「自分」は何であるのか。日本人は自分がないのではなく、自分があり過ぎるからといってもいいのかもしれませんが、それも詭弁とされるなら、日本人は一面では自分を主張しないですむ、何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きているがゆえに、簡単に外から借りてきた西洋史や中国史でやり過ごしてきたのではないか。

 外国から借りて自分を組み立ててもなお自信を失わないで済む背景というものが昔から日本人にはあったのではないか、「何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きている」と言ったのはその意味ですが、それはいったい何か、というこの問いに生涯かけて立ち向かった思想家が、ほかでもない、本居宣長であったと私は秘かに考えているのであります。

(二)日本には「道があるからこそ道という言葉がなく、道という言葉はないけれども、道はあったのだ」に、宣長のすべてが言い尽くされているといっていいでしょう。

 しかしこの美徳は本来外へ主張する声を持たないはずです。言挙げしないことを、 むしろ原則とします。ところが宣長は原則を破り、このような日本人の道なき道を外へ向かって主張し、言挙げしようとしたのでした。

 「皇大御國」の一語をもって『古事記傳』の序「直毘霊」を始めた理由はそこにあると思います。自己主張を必要としたという点で彼は近代人なのです。さりとて、政治的偏向をもって宣長が非難されるたぐいの固定観念は、彼にはもともとありません。日本人のおおらかさ、言葉をもたない柔軟さ、道といわれなくてもちゃんと太古から具わっている道、宇宙の中の鷹揚とした生き方、自然に開かれ、自分の個我を小さく感じる崇敬と謙虚の念――こういったものを、野蛮な外の世界のさまざまなイデオロギーから、彼は守ろうとしたにすぎません。宣長の思想は最初から最後まで守勢的であり、防衛的です。

 さて、しかしさらに考えると、戦う意思を捨てて戦うというこうしたあり方は一つの矛盾であり、論理破綻ではないでしょうか。

立場なき立場こそが日本人の無私なる本来性であるなら、これを主張する立場というものを立てるのはおかしいのではないか、という疑問が生じます。

 言挙げしないという日本人の良さをあえて言挙げする根拠はどこにあるか。我を突っ張らない日本人の自我の調和をどうやって世界に向けて突っ張るのか。

 宣長の自己表現の激越さは、この矛盾、論理破綻そのものの自覚に由来するように思えます。そして現代の日本人がじつは世界人であろうとして直面しているさまざまな問題もここに関係していることを我々は直視しなくてはなりません。宣長の矛盾、論理破綻の自覚の共有は、われわれ現代日本人の課題でもあるのです。

(四)知るということの意味が富永仲基と荻生徂徠とでは決定的に異なります。そこに問題があります。

「知る」とは仲基にあってはすべての人間に開かれていなければなりません。客観的な目に見えるしるしであると同時に、万人に公開され、受け入れられることをもってはじめて「公徴」となるのです。仲基は開明主義的合理の人でした。

それに対し徂徠はまったく違う世界観の住人でした。彼は時間的にも、空間的にもはるかかけ離れ、隔絶した中華草昧の時代に絶対の「価値」を置き、そこへの復帰の理想は復帰の不可能の認識を伴っています。「古文を知る」と言いながら、じつは言葉の裏には知り得ない絶望を湛えています。その矛盾が仲基には見えません。徂徠が亡くなった年に仲基は十四歳で、宣長と秋成の間の『呵刈葭』のような討論本が可能でなかったのはとても残念です。

本居宣長と上田秋成との間、荻生徂徠と富永仲基との間には、それぞれ決定的に深い溝があり、どちらも歩み寄りが不可能な、世界観を異とする二つの別の精神態度といえるでしょう。

 興味深いのは、秋成は宣長の古代認識を批判し、否定する際に、仲基は徂徠の古代認識を批判し、否定する際に、いずれも「私」という語を投げつけていることです。今日のことばでいえば、主観に堕している、という非難になりましょう。あるべき客観的歴史認識を怠っているという批判になるでしょう。しかし宣長も徂徠も泰然として動ぜず、主観も客観もないですよ、そういうものに捉われて遠い、高いものへの理想を失った者は、万民向きの広い世界を見るという、そういう「私」に陥っているまでですよ、と言うでありましょう。

つづく

つづく

管理人による出版記念会報告(三)

   
 

 今回、この「江戸のダイナミズム」の出版記念会をやってはどうかと最初に提案されたのは宮崎正弘先生らしい。宮崎先生が二次会で、西尾先生が犬の散歩がお好きなように、人の出版記念会を企画実行するのは私の趣味です、とおっしゃっていた。ということで、この会の裏方スタッフの中心は宮崎さんとそのお仲間の方々。その他に保守主義研究会の岩田温君を中心とする若い方々、内田さんを初めとする文藝春秋の方々、そして坦々塾という西尾先生を中心にした勉強会の何名か(私もその中の一員)である。司会は日本文化チャンネル桜の仙頭直子さん。

 それらのスタッフの方々から、写真やその日のテープ、司会原稿などの資料がようやく集まってきた。順を追ってあの会の内容を出来るだけ正確に再現していくことにする。司会の言葉は青色で、演出は緑色で表示し、途中私の感想は四角で囲み、来賓のご挨拶なども再現していきたい。

 なお、この会に出席した方の感想をコメント欄で受け付けます。

(1800)入場開始 (同時にBGMスタート)。1805頃から画像を点滅 x 2回。


 ただいま会場に流れております音楽は江戸時代とヨーロッパと中国を象徴する曲目です。モーツアルトのヴァイオリン・コンチエルト1番、長唄は「元禄花見踊り」、グレゴリオ聖歌「御身(おんみ)は羊らの牧者」、支那古典からは「紫竹調(しちくちょう)江南(こうなん)の童歌(わらべうた)」、小唄「梅は咲いたか」、そして「のりと」です。

また映し出されている画像は、『江戸のダイナミズム』の基調をなす、古代エジプトの海中に没した図書館から中国の清朝考証学関連、江戸の思想家、芸術家などの映像です。のちほど西尾先生から詳しい解説があります。
   

 < 音楽、画像中断。照明を明るく >

 まもなく会が始まります。来場の皆さまに御願いがあります。携帯電話のスイッチをお切り下さいますよう。また前の方が空いておりますので、ご参会の皆さま、できるだけ前の方へお詰め下さい。

 桜の満開はすぎたとはいえ、会場の付近には桜が咲き乱れています。

 皆さん、この嵐のような天候の中、ようこそおいで下さいました。ただいまから西尾幹二さん『江戸のダイナミズム』出版記念会を開催いたします。

 私は本日の総合司会役を仰せつかりました仙頭直子と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。有難うございます。

 本日はお忙しい中、また遠路はるばると上京されて参加いただいた方も大勢いらっしゃいます。外国からのお客様もいらっしゃいます。まさに、西尾先生の代表作のひとつ『江戸のダイナミズム』への関心の高さが伺えることと思います。

 それでは冒頭、正面の大型スクリーンにご注目下さい。

 これから西尾幹二先生の大作、『江戸のダイナミズム』の重要部分を数カ所、スクリーンに映し出します。またお手元の冊子にも同文が掲載されております。記念冊子の二ページ目からです。

 抜粋の朗読をしていただきますのは評論家、拓殖大学教授の遠藤浩一(えんどう・こういち)さんでございます。

 遠藤さんは高校二年生のときに、金沢の高校に講演にきた西尾先生のおはなしを聞いて、それ以来、交友会雑誌にのった西尾先生の講演記録をずっと大切に保存し、書棚のいつでも出せるところにおいていたそうでございます。

 それでは遠藤さん御願い申し上げます。

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右端が遠藤さん、真ん中が富岡幸一郎さんです。

つづく

会員から見た「つくる会」の今

石原隆夫
「つくる会」東京支部副支部長、1級建築士・設計事務所主宰

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 「新しい歴史教科書をつくる会」に再び暗雲が漂い始めたと知ったのは9月末の西尾日録に依ってでした。扶桑社が「つくる会」意向とは無関係に執筆者を一本釣りして新しい教科書を作り、代表執筆者に岡崎氏を据えるという情報でした。

  その後「つくる会」東京支部が独自に情報収集を重ねて判ったことは、あろうことか、自身の不行跡で「つくる会」の信用を地におとしめた八木氏の教育再生機構と「つくる会」を、扶桑社を中心に一本化して教科書を作る企みが進められていると言う事でした。その準備会議を三者協議と呼び、そこに「つくる会」の小林会長が一人だけ参加し、理事会はつんぼ桟敷に置かれているという状況です。

  9月27日に我々は会長宛に情報開示と三者協議の無効性を訴える要望書を出しましたが、何度かの催促でやっと10月24日に会長との会談が実現したのです。

 会談で判ったことは、三者協議とは「つくる会」の主体性を全く欠き、扶桑社の意図するシナリオに乗った会長の姿でした。我々は更に三者協議に加わる意図と理由を問い質していますが、未だに会長からは誠意ある回答を頂いていません。

 その様な経過の中で、今まで曖昧であった点について扶桑社が明確に意思表示をしてきたのです。

 11月21日の三者協議とやらで、扶桑社の片桐社長が「つくる会」の小林会長と教育再生機構の八木氏に申し渡したのは以下の三点でした。
 これを知って、10年の長きに亘って共に教科書作りで協力し合ってきただけに、扶桑社の変節と傲岸不遜な物言いに、怒りと共に裏切られた思いに駆られました。

①組織の一本化。
②藤岡と八木は教科書執筆者から降りること。
③教科書編集権は扶桑社にあり、それには執筆者選択権も含まれる。

 ①の組織の一本化は「小林会長と会談して判ったこと」の2番に記したように、岡崎氏の提案によるものであり、三者協議のもともとの目的であるからいわばだめ押しの発言でしょう。②も「小林会長と会談して判ったこと」にも記しているように(14番)以前から八木氏は執筆者から降りても良いと言っており、それに対して小林会長は八木氏が降りて藤岡氏が残るわけにはいかないと考える、などと我々に話していたのですから、これも三者協議で何度か話題に出て瀬踏みしたものを最終通告として出してきたものでしょう。その証拠に八木氏はその場で「降りる」と表明したそうで、いわば出来レースと言えます。八木氏が降りれば「つくる会」の宥和派や八木派の会員から、当然藤岡氏も降りるべきだと言う声が澎湃として起こるだろうとの読みでしょう。

 問題は③です。この主張が通るならば、②は蛇足であり、言わずもがなの主張です。仮に扶桑社が編集権と執筆者選択権を持った場合、扶桑社の編集者と歴史観で常にやり合ってきた代表執筆者の藤岡氏を外し、西尾氏を執筆者から外すと共に彼の執筆分をも削除し、全てを換骨奪胎して「新しい歴史教科書」とは似ても似つかぬ教科書にしてしまうことも容易に出来る権限を持つ事になります。

 そんなことはあり得ない、八木氏が黙っていない、と仰る人が出てきそうですが
八木氏は扶桑社から「引っ込め!」と言われて「YES」と答えている人ですし、前回の「つくる会」の騒動で彼が取った犯罪的な行動は左翼にとっては格好の攻撃材料となりますから、八木氏が教科書作成に係わることは難しいのではないでしょうか。その上、今の「新しい歴史教科書」は、彼が「つくる会」の会長だったときに出来たものであり、それを否定して「朝日新聞に批判されない教科書作り」などと無責任な事を平気で言う人の教科書では採択が不利になるのは目に見えています。

 「教育基本法」の改正で文科省の検定基準が変わる為、歴史教科書の書き換えに他社は躍起になっているようですが、私たちの「新しい歴史教科書」はその点、殆ど書き換える必要が無く、無用な経費を掛けなくとも良いと言う意味で企業的には有利な教科書なのです。もし経費を掛けても更に自尊史観を高める書き換えが必要と考えるならば、扶桑社は率先して「つくる会」に要請し、今までの「つくる会」+「扶桑社」の体制で改訂版を作ればよい筈です。

 しかし藤岡氏や西尾氏を外す企みから見えてくるのは、それによって相当な書き換えが必要となるのですから、少なくとも経費は問題にしていないと言えます。
そうならば扶桑社の考える教科書とは、今の教科書でもなく、更に自尊史観を高める教科書でもないとすれば、考えられるのは近隣諸国に配慮した教科書作りではないかと思わざるを得ません。

 その鍵を握っているのはフジ産経グループと岡崎氏ではないでしょうか。
そもそも、三者協議なるものは岡崎氏の一本化構想から始まっています。
岡崎氏は西尾氏の日米関係の部分をリライトしてより親米色を強めました。
西尾氏のリライトをしたことで「新しい歴史教科書」での存在感は一挙に高まりました。その岡崎氏は元外交官であり親米派であることはご承知の通りです。
彼が外交官のセンスで次期米政権を予測するのは容易だったでしょうし、日本に厳しい民主党のアメリカとは歴史問題では日米、日中間についてより慎重でなければならないと考えても不思議ではありません。彼が今夏、産経新聞の「正論」で主張し、その結果靖國神社遊就館の歴史観を書き換えさせたのもその一環です。
 
 もう一方のフジ産経グループの産経新聞ですが、「つくる会」発足時より会をバックアップしてくれ、会の発展に貢献してくれた事は誰も否定出来ません。
しかしながら昨年の採択後から今年の春に掛けて、「つくる会」を襲った八木氏を震源とする騒動に於いては、ご承知のように産経新聞は悉く反「つくる会」の立場でした。新聞記者の渡辺氏が自ら関与したと藤岡氏に告白した怪メールやFAX騒動は、記者としてあるまじき行為であり、珊瑚事件の朝日新聞記者よりもある意味その犯罪性については罪が重いと言わざるを得ません。産経新聞は当然渡辺記者の処分を行い、少なくとも「つくる会」関係者に対してはそれを公表すべきでしたが、未だにその様な事は耳にしていません。
 
 理事会には観光旅行に行くと騙し、産経新聞は中国社会科学院に歴史認識の討論の為に八木氏を連れて行きましたが、その行動は我々には唐突に写りました。
「つくる会」と「新しい歴史教科書」をあれほど敵視していた中国と「つくる会」が何らかの接触を持つならば、当然理事会や総会の決議を経て然るべき準備をして臨むべきでしょうが、一切の手続きを省いたあの行動は、「つくる会」会員のみならず心ある国民にとっても、事が歴史認識に関する以上は重大な裏切りといえます。

 「つくる会」の運動が歴史認識で日本を批判する中韓には刺激的である事は、「従軍慰安婦」の虚妄を排するために立ち上がった私たちが望んだ結果であり、それを回避するならば「つくる会」と「新しい歴史教科書」の存在意義はありません。何故、唐突にフジ産経グループは当時の八木会長を敵対する中国に差し向け、中国と宥和を計ろうとしたのか大きな疑問でしたが、去る7月半ばに産経新聞が上海支局を開設したという記事を読んで合点しました。

 産経新聞はご承知の通り中国に関しては批判的な立場を守る孤高の存在でしたから、中国にとっては煩わしいメディアでした。その産経新聞が上海支局開設を願い出れば、お人好しの日本とは異なり、宥和を条件にやんわりと色々な難問を突きつけたことは想像に難くありません。「つくる会」の支援に疑問を呈し、「新しい歴史教科書」の内容を融和的なものに替えるように圧力を掛けたと考えられます。
関係者の話では支局開設までに1年余り掛かったとのことですからその間の緊迫した折衝は大変なものだったと思いますが、八木氏による社会科学院との唐突な接触は、その圧力の手始めだったと考えられます。その後中国のネットでは「つくる会」が中国に遂に降参した、と流れたようです。

 お前の言い分は総て想像だと言われるでしょうが、中国のやり口はぼんくらでない限り、官民とも数多くの事例で実証済みであることは衆知の事実でしょう。

 先日、扶桑社が教科書関係者に配った「扶桑社通信・虹7月号」には、東京で開かれた中国社会科学院との会合の記事が載っていました。「新しい歴史教科書」に対する中国側の言い分として、日本が神の国である事を強調している、日本文化の独自性とその優れた点を強調しすぎている、日中戦争に於ける日本並びに日本軍の加害性についても何も書かれていない、日中戦争について都合の良い記述をしている、などと難癖を付けています。日本側はそれなりに事実を上げて反論はしていますが、中国の歴史教科書については何一つ疑問や抗議をすることなく、唯ひたすら相手の難癖に卑屈な言い訳をしたに過ぎません。中国側が言いたかった最大のポイントは「新しい歴史教科書」は「勇気をもって日中戦争は侵略戦争だったと書きなさい」だったそうです。将に扶桑社に対する厳命でした。締めは歴史認識の共有は困難だと言う陳腐な感想ですが、不用意な社会科学院との接触を始めてしまったフジ産経グループにはその付けは大きく、「つくる会」と「新しい歴史教科書」をつぶす為に扶桑社を前面に立てて私たちに難問を突きつけているのが今の騒動の実態なのです。

 今、「つくる会」を取り巻く環境は大きく変わろうとしています。
今回の騒動は「つくる会」内部の権力闘争のように見えますが、決してその様な内部抗争ではなく、政治や国際関係、それに付随する企業の論理が大きな圧力となり倫理観やモラルに欠け大義を忘れた者達を手先として「つくる会」を潰そうとしていると見るべきです。

 中国の対日工作は日本のあらゆる分野で着々と進んでいます。
特に歴史認識や台湾問題では、マスコミやメディアを籠絡するに手段を選ばず、露骨な介入をしているのは私たちの想像を超えているのです。台湾の帰属を巡るカイロ宣言について、産経新聞が中国に阿った明らかな誤報をした事で多くの人達から訂正を要求されましたが、遂にこれを拒否しました。私たちにとって産経新聞は一つの希望でしたが、この対応を見ると、中国に又一つ城を抜かれた思いです。更に中国が「つくる会」と「新しい歴史教科書」を潰すことが出来れば、歴史認識に於いては中国の圧勝に終わり、安倍首相の対中外交改善の成果は再び謝罪と贖罪の汚辱にまみれる事になるのでしょう。
 
 決して中韓だけが相手ではなく今やアメリカも其の戦列に加わりました。
日本の理解者と思われていたアーミテージ氏さえ、靖国神社遊就館の歴史観にクレームを付け岡崎氏を擁護しましたし、米国下院議院では従軍慰安婦問題を蒸し返して非難決議をしようしたことは記憶に新しいところです。

 「つくる会」と「新しい歴史教科書」は私たちの意に反して政治や国際の意志に巻き込まれようとしています。しかし、歴史とは過去の真実であり、そこから織りなす民族の物語が歴史教育です。その時代時代の環境や意志に左右されることのない一個の価値観であるべきです。さもなければ子供達に何を信じろと言えるのでしょうか。親米も親中も自由ですが、歴史教科書に政治を持ち込むことだけは許してはならないのです。

 我が国は幸か不幸か、國を売る自虐史観に満ちた反日の歴史教科書も、私たちの自尊史観の歴史教科書も共に出版できる自由があり、子供達に供されています。
どの教科書を選択するのも自由ですが、自尊史観の教科書だけがその存在を抹殺されるとすればそれは日本の悲劇であり、外国から見れば喜劇であります。
「新しい歴史教科書」が世に出たとき、日本は戦後60年の蒙昧から目覚めたのであり、日本そのものの覚醒であると国際は複雑な思いで受け止めました。
その意を呈して国内の反日勢力は半狂乱の反対運動を繰り広げたのです。

 私たちが國内外にその様な大きな影響力を与えた事に、何故誇りを持てないのでしょうか。保守合同の美名に惑わされて孤高を守り得ないとすれば、今までの10年の努力は水泡に帰すことに、何故気がつかないのでしょうか。
宥和を重んじて「新しい歴史教科書」を胡散臭い者達に差し出し、反日勢力が喜ぶような教科書になったならば、子供達に何と説明するのでしょうか。

 守るべきは「新しい歴史教科書」であり、不明の者達が巣くう組織ではありません。守るべきは60年の蒙昧を打ち砕いた勇気ある執筆者達であり、出版社ではありません。中国に阿り誇りある孤高を捨て企業の論理に走った産経グループとも、編集権と執筆者選定権が我に有りと主張する扶桑社とも、このまま付き合うことは危険です。

(※執筆者リストについては以下のURLをご参照下さい。東京支部掲示板です)
http://www.e-towncom.jp/iasga/sv/eBBS_Main?uid=5428&aid=2&s=1280

終わりに

 こうして実名を上げ非難することで、嫌がられ、疎まれ、恨まれる事は承知の上ですが、守るべき事の少なくなったこのご時世にあって、一つぐらい何が何でも守るべしと言い募ることも保守の側に身を置くと自負する者の勤めかと思うのですが。「新しい歴史教科書」を守りきった暁に、反日勢力から恨まれるならば、それが名もない私たちの勲章だと思っています。 

保守主義と〈スローガンの遊戯〉――(2)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 産経新聞の「正論」欄は私たちの周辺には馴染みの紙面である。しかしながら、近頃は本当に「馴染み」というだけが唯一の価値であって、書いているほうも載せているほうも、これで悲しくないのだろうか、という感想を禁じえない。

 ごく最近の論文を無造作に選ぶ。

 新保祐司さんは、「蛍の光」に千島列島の歌詞があることを初めて知り、先人の辛苦を追憶して感動したという意味のことを書き、松本健一さんは、司馬遼太郎が三島自決を「さんたんたる死」と侮蔑し、その後も〈天皇の物語〉を書かなかったのは深い意味があってのことで、司馬一流のアンチ・テーゼ提出であると書いている。

 少なくとも五十男の保守人士と胸を張るなら、「蛍の光」に千島列島の歌詞があるくらいは知っていてほしい。それよりも「今、時代は唱歌である」という保守論者が増えているらしいが、純情であっても衰弱的懐古だと私には見える。今、時代(のテーマ)は決して〈唱歌〉ではない。新保さんはこれを教育者として子どもたちに伝えたいのだろうか。土井晩翠あたりから詩論を展開すべきであって、文章からは氏の退屈しか伝わってこない。

 司馬遼太郎は朝日などが〈大思想家〉としてキャンペーンを続け、産経もまたいつまでも司馬、司馬という調子だが、司馬遼太郎は「空海の風景」だけを読んでも、皇室を疎ましく感じた人であることが読み取れる。なお、主観的直感だが、実は日本も嫌いな人だと私は思っているのである。松本さんだけではなく、多くの保守論者から反論されるだろうが。

 かつて、といってもわずか三十年の昔である。福田恆存は今月何を語るのだろう、江藤淳と本多秋五が新聞で論争をはじめたがどう決着をつけるのだろう、西尾幹二が次に書くのは東西の精神史だろうか、それとも人生についてだろうか、と私は限られた小遣いを持って論壇誌の発行を毎月心待ちにしていた。

 「碑のように堅い言葉」という表現があるが、そのような言葉を待っていた。私たちが聞きたい言葉、私たちが目に刻みつけたい言葉のために一冊何百円でも惜しくはなかったのである。論争はどちらかを贔屓するために読んだのではなかった。むしろ、福田恆存の場合などは「この人をやっつけられる人が出て来ないのは淋しい」と思いながら両者の剣の切っ先を見ていたのである。

 今はどうか。例えば、西尾幹二と論争(対決)しなければならない知識人は、すでに保守陣営に五人はいる。テーマは置き去りにされているのである。論壇もまた衰微していると言われて久しいが、小林秀雄が言うように言葉は精神である。投げかけられ応えるのは知識人の義務である。

 ベルジャイエフは『社会哲学について論敵に送る書簡』の中で、こう書いている。

 保守主義的原理の本質については、その敵だけでなく、別の味方からもよく理解されていない。ここに一つの保守主義のタイプがある。この連中はあらゆる保守主義の名誉棄損のためにいろいろなことをやっている。

 真に保存され、防衛されなければならぬものは、変貌するエネルギーである。もし、そのなかに単に惰性と停滞だけが存在するならば、それは悪であって善ではない。

 嘘の、沈滞した保守主義は過去のもつ創造的神秘と、それが未来の創造的神秘との間にもっている関連性を理解することはできない。したがって過去を滅亡させる革命(進歩)主義は、沈滞した保守主義の裏返しである。革命(進歩)主義は嘘の保守主義、創造的伝承を裏切る保守主義を待ち伏せている懲罰である。(以上、永淵一郎訳)

 まだある。ベルジャイエフの洞察は怖ろしい。「諸君は下賤にも、諸君の父祖が地中に、墓のなかに横たわっていて、自分の声を発することができないのをよいことにしている。(中略)自分の仕事をうまくやるために、また父祖らの意志を尊重することはせず、その遺産だけを利用するために、彼らが不在であることを利用している」。

 小林秀雄が言うように、「諸君が注意して周囲を見渡されたならば、眼を覆はんとしても不可能な現実の姿がある」というのっぴきならぬ事情は、平成の今でも何ら軽重を問うことはできない。私たちの国家や社会はあまりにも、戦後の手抜かりと晦渋の念と内外の悪意とに包囲されている。

 たしかに教育問題も「待ったなし」であろう。だが、教育は六十年間違ってきたなら、善くするには六十年かかる、という考え方がまず正しい発想である。愛国心教育が必要かという世論調査では、必要と答えた人が八割にのぼるといい、或る保守陣営の知識人が機は熟してきたと喜んでいた。世論調査で八割を達成したなら、それは危険な兆候ではないのかと、私などは思う。

 小林秀雄は伝統を、伝統主義によって捉えることは不可能だと言い切っている。今、私たちが見聞きしている数々の運動は、伝統主義の突出ではないと言えるだろうか。

保守主義と〈スローガンの遊戯〉――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 小林秀雄が鎌倉の丘の上に住んでいるという一点で身が引き締まり、澄みきった鋭い眼で見られているような気がしていたと、追悼文にそんな表現をした人があった。今、本が手元にはないので記憶でものを言うのだが、巷の一読者にすぎない私にも、当時その哀惜の気持ちが伝わってきてしんみりさせられたことであった。

 訃報は早春にほころんだ梅が終り、桜はまだ遠い三月一日だったことを覚えている。西暦だ元号だと混乱させられ、また自分がせわしない仕事に入り、数々の過去のエポックを昭和何年と思い出すのが下手になり、小林さんの亡くなられた正確な年も忘れていたが、今調べてみると昭和五十八年三月一日である。

 最晩年に毎日新聞で今日出海との対談が連載され、これは本にならなかったが、ヤケッパチの最期のべらんめえが放たれていて、今日出海は寂しそうで寡黙な聞き役に回っていた。これを読んだとき、日本の曲がり角を私は感じた。いや曲がり角ではなく、時代の転落を小林秀雄の言葉から感じた。あまりにも不機嫌な対談だった。それから二十余年の時が流れた。

 時代の人がいなくなると、時代もまた終るのである。そう決めつけて良いと最近は思う。自分にはそうした信仰めいたものがある。空気ががらりと変わる。何も三島由紀夫の場合のセンセーションを言っているわけではない。静かな詩魂の人、深淵な思索家こそそういうことが言える。当人が時代ごと何かを持ち去るのである。大地をずっしりと抑えていた要の石が取り払われた気がした。

 禅の世界には他宗にみられない孤高な貴族性があって、例えば道元が只管打座(しかんたざ)でひたすら岩のように日日修行をしていさえすれば、この世の中は安定している、という絶対信頼の思想が存在する。小林秀雄を同じように見ていた人がいたと思う。

 小林秀雄が鎌倉の丘の上で息をしていた。その息づかいがそのまま詩魂や思索と重なっていた。鎌倉からの視線を感じて生きた人もあったし、亡き後も、ある問題に遭遇して先生ならどう答えるだろう、と心中で対話する人があった筈だ。氏の熱烈な読者ならばそういうことであろう。だが、同じ思想の列でも運動家という種類の人にはなかなか理解しがたいことである。

 保守と呼ばれる人々は歴史の連続性だとか、伝統思想の継承だとか、先人の魂だとか、そのようなことばかり書き語り叫んでいるのだが、それがどうしたというのだろう。文字通り保守的な〈表題〉だけを連呼していたら、それすなわち保守だというつもりだろうか。

 小林秀雄は偉かったという話を書きたいのではなく、小林秀雄がいつも警鐘を鳴らしていた〈スローガンの遊戯〉が始まっていることが、最近感じられてきて厭な気分なのである。

 小林秀雄は『歴史の魂』と題する講演の最後にこう語っている。

 「今日、日本の危機に際して、諸君が注意して周囲を見渡されたならば、眼を覆はんとしても不可能な現実の姿がある一方、如何に様々なスローガンが往行し人々がこれに足をとられてゐるかがおわかりの筈だと思ふ」

 「わが国の言論界、思想界は嘗て空疎なスローガンにおどらせられ、充分に味噌をつけたのである。それが今日のジャーナリズムを見てゐると、又同じスローガンの遊戯が始まってゐるのである。さういふものと僕等は戦はねばならぬ」

 〈スローガンの遊戯〉と戦うことこそ、「それが詩人の道でもあるとともに、実践的な思想家の道であると信じます」と氏は言っている。この講演は開戦間もない昭和十七年であり、状況は今と比べるべくもないが、小林秀雄の信念が平時有事で揺れ動いたためしはあるまい。

 歩き出した安倍政権に対する疑問や評価は今ここで問題ではない。今、政治権力に傾斜して〈教育〉などで花火を打ち上げている知識人は、もともと自身の言葉を持たないという驚くべき知識人が多いのだが(知識人と呼ばせてもらって良いものかどうかわからないが)、大衆をかき集めて運動の笛を吹いている。

 どうやら政治家とタッグを組んで、という意味らしい。それは日本語では〈野合〉というもので、知識人が最もしてはならないことだと記憶している。こちらの頭がおかしいのだろうか。「安倍晋三を首相にするために」という合言葉がどこからか出始めたときに、ああ、ここも後援会事務所なのか、と思って家に帰りたくなった。

 知識人は、政治家や官僚が「文化」や「伝統」という言葉を使い出したら、あなたたちは一番それらとは遠い存在だから、「どうか口出ししないでくれ」というべきなのだ。安倍首相の「美しい国、日本」も、本来余計なことである。
 
 政治権力への傾斜というのは、時の権力者に知識人として認めてくださいという行為である。筋違いの人にハンコを押してもらう行為である。そのような人がどうして政権を批判し、審判できる立場を取り返せるのか、私にはまったくわからない。

 私たちが目撃しているのは〈スローガンの遊戯〉よりもっとグロテスクな世界なのだろうか。

つづく

北朝鮮核問題(七)

足立誠之(あだちせいじ)
トロント在住、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

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北朝鮮問題(続3):究極の「日本の課題」とは何か

 北朝鮮問題の一番の難しさは、その底知れない問題の深刻さを、余り理解していない、あるいは、ピンときていない日本人に、どう理解してもらうかと言う点にある。日本人ばかりではない。関係国も、日本の状況が他に比べ格段に危険状態にあることを、理解していない。

 その意味で、中川昭一自民党政調会長が、訪米時に、今の状態を1962年のキューバ危機になぞらえ、米要人の理解を求めたことは、極めて適切であった。だが実は、日本の今の事態の方が、はるかに危険で深刻なのである。 何故なら、あの時は、ミサイルも核もキューバに到着していなかったが、今回は既に、日本を狙うノドン200基以上が北朝鮮に配備され、核も刻一刻と増産されているからである。

 加えて、国家指導者は金正日という人物である。

 仄聞するところでは、あの時と同じキューバの指導者カストロ議長は、同じ社会主義国北朝鮮が13歳の中学生を誘拐、拉致したという話を始め信じなかったという。その後それが、真実と知り唖然としたそうである。あの時のカストロさえ信じられない非道を行う指導者が、核ミサイルの発射ボタンを支配している。だから、危険度はカストロに比較にならぬほど高い。

 そして、核ミサイル以上に深刻な、「拉致」の問題がある。キューバ危機のとき、拉致問題はなかった。それに、米国の強大な軍事力を考えれば、今の日本の状況の厳しさを、これと比較するのは所詮無理なのかもしれない。それだけではない。戦後の日本、日本人には、肝心の、気力が決定的に欠けており、規範意識は見る影もない。これが実は最も深刻な問題なのである。

 実は、アメリカも拉致事件で危機に見舞われた時期があった。だが、アメリカは、その危機を、国民の健全な規範意識と旺盛な気力、そして危機を乗り越えるにふさわしいリーダー選出で克服した。

<在イラン米大使館占拠、大使館員人質事件>

 アメリカの拉致事件は、1979 年、ホメイニ革命後のイランで起きた。同年11月、イランの過激派学生がテヘランのアメリカ大使館を占領し、大使館員全員を人質にしてしまったのである。

 当時、偶々ニューヨーク勤務時代で、郊外の町の住居から、マンハッタンへ、通勤列車で通う毎日であった。

 事件発生後、暫くした頃、日本の首相は、「アーウー首相」と揶揄された大平首相。当時の日本の石油備蓄は未だ不十分で、アメリカを支持すれば、イラン石油の輸入途絶による石油供給不足に陥る危険があった。その時「アーウー首相」がはっきりと、米国支持を表明したのである。翌朝、駅で、列車の同じボックスに同席するアメリカ人仲間全員が、「日本に石油を」の一面見出しの新聞を示しながら握手を求めてきたものである。

 人質事件発生以来、テレビのニュースは既に、毎回必ず、「今日で大使館員が人質になって何日目になります」との言葉から、その日のニュースを始める様になっていた。

 町の小学校に通う我が子によると、それまでの日課であった、国旗への敬礼と国歌斉唱の日課に、大使館員の無事帰国のお祈りが加えられたそうであった。

 特殊部隊による救出作戦が敢行されたが、砂嵐で失敗した。入院している重傷隊員を見舞ったカーター大統領は、「彼等が、もう一度やらせてくれ、と言った」と声を詰まらせ、涙を流した。事件は、膠着状態となった。

 事件が起きた翌年、1980年は、大統領選挙の年でもあり、最終段階では、民主党は現職のカーター大統領、共和党は、タカ派といわれるレーガン候補の一騎打ちになった。テレビに登場する、レーガン候補は、いつもリラックスした態度であった。タカ派との評判を問われると、首を少し右に傾けながら、「自分は当たり前のことを言っているだけなのに、何故そう言われるのか判らない」と、何時もと変わらぬ柔らかな口調で答えるのであった。選挙民の最大の焦点、大使館人質救出についても、具体的なことは言わず、ただ、「当たり前のことをする」と言っただけである。だが、それは、決意と確信に満ちた口調であった。

 日本のマスコミは現職のカーター有利を報じたが、米国民の反応は明らかに違った。毎朝の列車のボックス仲間との会話からそれが窺えた。果たして選挙結果は一つの州を除く全米総ての州での勝利という圧勝で、ロナルド・レーガンが大統領に選ばれた。TVは又も涙のカーター大統領を放映した。

 年が改まり、1981年1月、新大統領就任式の日が迫る、そんなある日、「イラン米大使館員全員の解放帰国」のニュースが伝わり全米は歓喜に包まれた。TVのニュース番組は、その日を限りに、「今日で大使館員が人質になって何日になります」との放送は終わった。学校の「お祈り」もその朝までだった。

 イランが何故、人質を解放したかは、よく判らなかった。

 ただ、ロナルド・レーガンは、「当たり前のことをする」即ち、「アメリカはこんな理不尽なことを放置してはおかない。あらゆる手段を行使して、それを排除するのだ」との決意を固めていたことは、選挙戦での彼の短い発言からも窺えた。米国民は、そんな決意のロナルド・レーガンに白紙委任状を与えた。イランは、この国民の白紙委任状を背景にした新大統領の就任前に、これ以上、人質をとり続ける危険を察知し、解放を決意したのであろう。

 ロナルド・レーガン、(その背後のアメリカ国民)は、特殊部隊の投入もなく、銃弾一発の発射もなく、就任前に、この難問を解決したのである。

 レーガン大統領の時代は米国復活の時代であるばかりでなく、米国による、東西冷戦勝利の時でもあった。(”冷戦終結”という言葉はギミックである)タカ派と非難された彼は、その非難とは正反対に、ここでも、一発の銃弾を発射することもなく、それを達成したのである。

<北朝鮮拉致事件:国家と国民は如何にあるべきか>

 当時日本は経済で、依然拡大期であり、米国を圧していた。然し、在イラン米大使館占拠・大使館員人質事件に見せた、アメリカの学校、マスコミの行動に象徴される、アメリカ国民の規範意識と気力には及ぶべくもなかった。その当時、もう北朝鮮による拉致事件は起きていたのである。日本の国家機関の一部はそれを察知していたという。然し、国家は動かなかった。国家が国民を守ると言う、最大の義務を怠る致命的な罪を犯していたのである。

(註:国がアベック失踪事件を北朝鮮による拉致と断定したのは、事件発生10年以上経過後の1988年3月梶山国家公安委員長の国会答弁が最初である。然し、政治もメディアも、国民も全く反応しなかった。拉致事件の総ては、検証され、総括されなければならない)

 横田めぐみさんが拉致されたのは、1977年11月15日、今年で29年になる。

 日本では、TVが、ニュースの前に、「横田めぐみさんが、拉致されて今日で何日になります」と全国民に継続放映することは、一度たりともなかった。学校も同じである。学校は、”こと”が起こるたびに「人の命を大切にする教育を心がける」と、言い訳をする。だが、日本全国何千何万の学校で、唯の一つとして、毎日「横田めぐみさん、他、拉致された日本人拉致被害者の一日も早い帰国」の祈願を、児童、生徒に指導する学校は存在しない。そんな状態の学校が「人の命を大切にする教育」の言辞を弄する。空々しさもここにきわまる。

 文部科学省は、最も重要な教育を忘れている。各地方の教育委員会は、どうなっているのか。

 カナダ人夫妻が横田めぐみさんの拉致事件のドキュメンタリー映画を作製し、評判になっている。文部科学省は、一方、映画の芸術作品には、文部大臣賞を与えている。文部大臣賞の前に、すべきことがあるではないか。それは、「人の命、人権、自由の大切さ」を教え、「それを蹂躙する、日本人拉致が行われている現実」を、総ての児童生徒に教え、「同胞の帰国を祈願させる」教育。それを通じ、「国と国民のあり方」を教えることではないだろうか。それは本来、文部行政の中核に据えられるべきものであろう。

 とりあえず、カナダ人夫妻の作ったドキュメンタリー映画を全国の児童、生徒全員に鑑賞させるべきである。このまま何もしなければ、国家機関(今回は文部科学省)は、二度目の不作為を犯すことになる。
国家は国民を守り、国民はその国家を支える。それがなければ国は滅びる。そんな当たり前のことを、教えないで、「人の命の大切さ」をどうやって守ろうというのか。拉致事件こそ、最も重要な教育材料ではないか。

<イラン人質事件のアメリカと戦後日本>

 ところで、先のイラン米大使館人質事件でのアメリカの学校、メディアの行動、国民の行動、指導者は、今の日本人にどう映るでのあろうか。多分、かなりの人は、否定的あるいは違和感を覚えるのではないだろうか。

 それは何故なのだろうか。

 実はこれら、アメリカ国民の行動の源泉、国民の規範意識の中身は、その殆んど総てが、戦前の日本に、違和感なしに存在していたのである。それが戦後、占領軍(アメリカ)により、「戦前日本の悪しき軍国主義に連なるもの」として、否定され、日本と日本国民から、奪われた。占領軍は、日本人インテリ、学者などを使い、戦前の規範の否定を、言論出版、教育を通じ、刷り込み、刷り込まれた世代は次の世代へと、子々孫々にまで浸透するメカニズムを埋め込んだのである。その60年後が、今日の日本の姿である。今日、日本人がアメリカ人の規範意識に感ずる違和感は、この60年に亘る「規範否定」の刷り込みによるものなのである。

 それは、一種”洗脳”の究極の形なのかもしれない。

 一方、占領軍が、「悪し戦前の軍国主義に連なる」と断じた、同じものは、アメリカ本国に根付き、育っていたのである。それがイラン米大使館人質事件の際に発揮されたのであり、日本人の私の目に鮮明に映ったのである。

 占領軍は日本が、自分達アメリカと同じような国であることを、許さなかった、それが占領政策本当の基本政策だった。今日の日米の差はそこに求められる。何故彼等はそうしたか。当然であろう。日本の脅威を再現させないためである。

 尚、今日、米国では、占領時代の自らのこの政策についての言及は殆んどない。

 米国国民は、(多くの日本人同様)戦後のアメリカの日本占領を”日本の民主結実”の美しい「成功モデル、ストーリー、」と信じている。この点が、日米間には、事実についての大きな認識ギャップが生まれる素地がある。この問題は重要であり、日本は飽くまで、客観的な研究を進め、そのベースに立ち、主張し、米国の理解を得る努力を払う必要がある。

 何故ならば、それを通じて、今日、自らの善意と正義を信じる余り、犯しがちな、思い込みと独善の過ちからアメリカを解き、世界に絶えることの無いアメリカ、アメリカ人に対する敵意の原因が奈辺にあるかを、彼等に示唆することになるからである。

 イラクでの苦戦も、この占領政策の研究が十分行われていれば、避けられたかもしれないのである。勿論、日本に対して行ったような、他国民の規範(日本のそれは、米国のものと殆んど同じだったのであるが)を破壊することなど許されるべきことではない。

 話を元に戻したい。今日、日本が、拉致、核の北朝鮮危機に見舞われていることも、偶然ではない。それは、日本が、占領政策の呪縛に捕らわれていたことに起因している。過去の出来事を一つ一つ検証すれば、証明されよう。

 北朝鮮問題の克服、は占領政策との完全な訣別から始まる。

 それは学校教育から始められるべきである。カナダ人夫妻の映画の全児童生徒の鑑賞から始まる。
政府は逃げてはならない。国が国民を放置すれば、、国民は国を支えなくなり、国は滅びる。

(註:戦後、占領政策のお先棒を担いだ、学者、インテリは、占領軍に従い、「アメリカでは」を口実にそれまでの日本の教育を総て、「軍国主義に連なる教育」として、否定し、その正反対をあたかも先進国の教育であるかのように教えた。然し、それが全くの嘘であった。このことは、個人的乍ら、十数年の北米生活からの結論である。

 当然であろう。戦前の日本の教育は、明治維新以降、欧米先進国をモデルとし、営々と作り上げてきたものである。本来、モデルである欧米のものとそれほど差があるわけはないのである。そんな占領政策が何故可能であったのかの理由は、テーマから余りに外れるのでここでは、省略したい)

日本人の「上下」について――(2)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 本居宣長の古事記伝(四十三)に次のような一節がある。

 「君のしわざの甚だ悪きを、臣として議ることなくして、為し給ふままに見過ごすは、さしあたりては愚にして不忠(まめならざ)るに似たれども、然らず」。

 臣下のものが、君の悪いおこないを見きわめず、諫めもせず、なされるままにしておくということは、臣として愚かで不忠にも似ているけれど、そうではない、というのである。

 「君の悪行は其の生涯を過ざれば、世の人の苦しむも限りありて、なほ暫(しばらく)のほどなるを、君臣の道の乱れは、永き世までに、其の弊害かぎりなし」。

 君の悪い行いが生涯を通してということになると、人々は苦しみ続けるが、それでも限りのあるもので暫くの間である。しかし、君臣の道が乱れたなら、将来永きにわたって、弊害は限りなく続いてしまう。

 「御行為悪(に)くましまししによりて藤原基経大臣の、下し奉られしは、国のため世のため賢く忠(まめ)なる如くに聞ゆれども、古への道に非ず、外つ国のしわざにして、いとも可畏く此れより(中略)漸(ようやく)に衰へ坐(まし)て、臣の勢いよいよ強く盛りになれるに非ずや」

 君の行為が憎いからと、藤原基経がやったように、天皇を下し奉るというようなことは、世のため国のために、賢明な善きことをしたというふうに聞こえるが、古へのわが国ぶりからは外れていて、これは外国の考え方である。(こんなことをしていると)世を経てますます君の道は建てられず、臣の権勢が強く盛んにのさばる世の中になるのは分かりきったことではないか、と宣長は批判したのである。

 第五十七代の陽成天皇は貞観十八年(八百六十七年)、九歳で帝位に就かれたが、少年時代からしばしば乱暴をはたらき、十五歳のときに宮中でご自身の乳母の子、源益(みなもとのすすむ)を殴殺するという事件を起こし、摂政の藤原基経に退位を命じられたという。

 見方によってはやむを得ないことともみられ、北畠親房は『神皇正統記』でも「いとめでたし」と基経の見識を讃えている。後世の歴史家もこのことを理に適った措置として、鎌足が入鹿を誅したことと並べて、藤原氏の功績とする見方が多かった。 

 しかし、宣長はまったく基経の判断と行為をさかしらごととして、痛烈に批判したのである。天皇が乱暴をはたらく、穏やかならぬ行状が多い、その他の理由でも〈人間性〉を疑い奉るという朝廷側近の観察が漏れ伝わる、というようなことは、或いは歴史の上で幾度かあったかもしれない。

 もし、それが現代であったなら、さらに困難な状況を導いていくことだろう。臣民であるなどという意識は勿論、毛頭ない。国民は週刊誌の論評どおり「女でもいいじゃないか」といって平然としていられる世の中である。皇室らしからぬ、という事件があったなら日本は沸騰するに違いない。藤原基経というのは摂政ではあったが、陽成天皇の叔父にあたる。さしづめ今の日本人なら、叔父さんの言うことなら問題はないじゃないか、という声も上がるだろう。

 この宣長が「古への道に非ず」と批判した深意をみつめていると、大変な思想であることがわかってくる。万世一系の天皇が百二十五代も続いて来たのは、国民の幸福を常に祈って来られた「徳」があったからだという保守陣営の人々がいる。一方で、男系をつないで来たというその奇跡的事実が尊いので「徳」の問題ではないという人もある。

 宣長の耳はおそらく、そんな保守陣営の見解もふらついた意見にしか聞こえないだろう。もし、天皇に「徳」がおありにならなかったとしたら、どうするのか。御自ら「徳」を傷つけるような行いが続いたらどうするのか。宣長は「どうもしない」と言っているのである。

 近衛忠房卿が明治六年に書いた「神教綱領」には「天下ナルモノハ天皇ノ天下ニシテ天下ノ天下ニ非ズ」とある。当時の激烈な王政維新のイデオロギーが背景になって生まれた語句であり、明治初期の神道主義者の言葉をもって今を語ることはできないと、古書店に押しやられるような綱領だが、これと宣長の言っていることは寸分違っていない。

 同志社大学の加地伸行教授が先頃、産経新聞の「正論」欄で、「富田メモ」事件について他の有識者とは異なる角度から批評しておられた。メモの真贋を訴求したものではなく、天皇陛下がメモにあったようなご発言を実際になさったとしたなら、「なぜ、その場でお諫め申し上げなかったのか」と、側近である宮内庁長官の傍観的行為を叱ったもので、儒教が教える「臣」の責務を果たしていないと書かれていた。

 しかし、ここで儒教の教えを持ち出しても、宣長の言う「古への道」とはだいぶ懸け離れたものである。陽成天皇の場合などは、臣下がお諫めするという限度を越えていたかもしれない。平成の先入観を取り除いて言えば、わが国では天皇が統治者であらせられたから、本来いかなる御発令も上御一人の御自由であり、天下なるものは天皇の天下にして天下の天下に非ずということは、変動なく続いて来たのである。

 では、宣長の結論はどこにあるか、というと、まったく「神教綱領」と同じで、天皇がもし過たれたならば、国民もそのまま過つのである。天皇が間違いを犯されたならば、一緒に国民も犯された間違いを受け入れるのである。そんなことをしていたら、国の理性ははたらかないで亡んでしまう、という考えがある。宣長はおそらく言挙げしないが、そのときはただ一緒に亡ぶのである、という意味で「神のまにまに」と説くのだろう。

 日本には天皇のほかに「正義」などないという思想である。

 会社や組織の上下関係ということを何気なく考えていたら、古事記伝の一節を思い出して綴った。現代社会の人間の掟と、宣長の「古への道」の思想とはおのずと別に考えなくてはならない。けれど、宣長の答は常に簡素であり普遍におよび揺るぎない。ひょっとすると、事の次元によったら別のものではないかもしれない。

(了)

     「福田恆存を語る」講演會の御案内

 毎年いまごろに行なわれる恒例の福田恆存先生の人と業績を語る講演会が今年も下記の通り催されます。

 今年は芥川賞作家で、日本芸術院会員の高井有一さんがお話になります。高井さんは私(西尾)とは旧知の間柄で、1977年にソ連作家同盟の招待で、加賀乙彦さんと三人で一ヶ月に及ぶソ連旅行をした仲間です。私の旧著『ソ連知識人との対話』の登場人物です。

 集英社の文学全集に高井文学が集録されていて、私が解説を担当しています。

 当日はどんなお話をなさるか分りませんが、福田恆存先生を深く敬愛されていた文学者のお一人です。さぞかし懐かしい思い出をも含めて、素晴らしいお話をなさってくださることでしょう。多分言葉の問題が中心だと思います。

 会場には私も参ります。久し振りに高井さんにお目にかかり、お話を伺うのをたのしみにしています。皆さんもぜひお出かけ下さい。

「福田恆存を語る」講演會の御案内

日時  平成18年11月18日(土)午後三時開演(開場は30分前)
會場  科學技術館6階第三會議室(地下鐡東西線 竹橋驛下車歩7分)
講師  高井有一
演題  「福田恆存といふ人」
参加費 1500圓(※電話またはメールで事前にお申し込み下さい。)
    電話 03-5261-2753(午後5時~午後10時まで)
    E-mail bunkakaigi@u01.gate01.com
(氏名、住所、電話番號、年齡を明記)

現代文化會議
新宿區市谷砂土原町3-8-3-109