小冊子紹介(八)

一部書評

入江隆則(明治大学名誉教授):【正論】 2007年03月02日 産経新聞

文明論における日本学派の成立  

■日本を地球的規模で見直す動き

《《《パリかウィーンのよう》》》

 日本の論壇も、ずいぶん国際化が進んだものである。台湾出身の黄文雄氏や韓国出身の呉善花氏、中国出身の石平氏らが、毎月のように活躍しているのを見ると、そういう感慨に誘われる。まるでひと頃のパリかウィーンの論壇を見ているようだ。しかもこの人々は一様に、日本文明論を志向している。

 黄文雄氏は、本来は日本近代史の見直しを提言した人で、日本人の歴史家のあまりの自虐趣味を見ていられなくなって、近頃のアジア人の視点から日本近代史の遺産の再評価をした人だった。それが最近では日本文明における「無常観」を論じている(拓殖大学日本文化研究所「新日本学」最新号)。また近く、日本、中国、西欧を通観した文明論を書く予定があるという。

 呉善花氏は本来日韓比較文化論から出発した人だったが、やはり最近は焦点を日本文明論に当て始めている。同じ「新日本学」誌上で、日本は「脱亜超欧」を目指すべきだという主旨の連載を書いて、今回は日本における女性の役割と、遊里における「粋」の精神を論じている。石平氏はまだ新進の評論家だが、近著『私は「毛主席の小戦士」だった』(飛鳥新社)での日本文化論は出色のものだった。背景にはやはり文明的視野が感じられる。中国人でまともな日本論を書ける人は、なぜか少ないのだが、石平氏はその数少ない例外になりそうである。

《《《日本人論者の新文明論》》》

 これらの国際勢に呼応して、日本人の論者も最近とみに日本文明論を論ずるようになった。たとえば昨年『文化力―日本の底力』(ウェッジ)を刊行した川勝平太氏は、第3の「パクス・ヤポニカ(日本の平和)」なるものを論じている。最初の「パクス・ヤポニカ」は平安時代の約400年、第2の「パクス・ヤポニカ」は江戸時代の約270年、それに対して第3の「パクス・ヤポニカ」は現在日本で進行しつつあり、これから世界に発信すべきものであり、世界を巻き込んで実現されるべきものだという、壮大な構想である。そのために川勝氏はいくつかの具体的な提言をしている。「富国有徳の美の文明」というのがそれで、海・山・森・野の4州に日本を大胆に再分割しようという提言も含まれている。

 日本文明といえば、近年もっとも新鮮なアイデアを提出した論客は、中西輝政氏だった。4年前の平成15年刊行の『国民の文明史』(扶桑社)のなかで、中西氏は、日本文明には長く忍従を続ける「縄文化の契機」があると述べ、また「瞬発適応」と「換骨奪胎」の超システムが存在すると指摘して、日本文明を見る鮮やかな視点を示した。また重層文明と更地の文明という視点から、世界の文明史の見直しも進めていた。

 もう1人ぜひここで触れておきたいのは、最近『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)という注目すべき本を書いた西尾幹二氏である。西尾氏には『国民の歴史』(扶桑社)という名著があったが、そこでは江戸と中世の記述が少ないという批判があった。本書はそれに応える形で、江戸の多彩な豊饒さを語り尽くそうとしている。日本における「近代的なるもの」は日本史の中から成熟して、しばしば西洋より早く出現しているというのがその論旨で、古代と近代の懸け橋としての江戸の重大さを語っている。しかもそれによって日本文明を地球的規模で見直そうとしている。これら3者は、いずれもその文明論的な視野とその論述において、一昔前のいわゆる「日本人論」とは、全く規模が違っている。

《《《世界の中でさらに発展》》》

 昔20世紀の初頭に、文明論におけるスペイン学派と称するものがあった。オルテガ、コラール、ウナムーノ、マリーアスといった人々が活躍して、スペインを論じながら世界を論じていた。それとの対比でいえば、現代の日本には、文明論における日本学派が出現して、すでに成立しているといえそうである。

 しかもそれは東京の論壇で、多くの外国人を巻き込む形で進んでおり、壮観というしかない。スペイン学派はオルテガの『大衆の反逆』やコラールの『ヨーロッパの略奪』などの名著は生み出したが、スペインの国力の凋落(ちょうらく)とともに萎(しぼ)んでしまった。しかし日本学派の文明論はそれとは逆に、これからの世界の中での日本の地位の向上とともに、ますます発展してゆくものと信じたい。その意味で若い人々の関心と、奮起を促したいと思う。

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念会の折に、受付で全員に配布された36ページの小冊子があります。その内容を順を追って紹介していきますが、遠藤氏によって朗読された部分等、割愛する部分もあります。

 また、この小冊子は非売品ですが、西尾先生のご好意により、多少残りがあるので、ご希望の方にはお分けしたいとのことです。希望される方はその旨を明記し、コメント欄にてご連絡ください。住所等個人情報は折り返しメールが届いたときに、メールに記述してください。

(文・長谷川)

小冊子紹介(七)

書 評

堤 堯:WiLL2007年5月号

堤堯の今月この一冊

 「本居宣長はニーチェに似ている」こんなセリフは、人も知るニーチェ学者の著者にして、はじめて言い得る。

 荻生徂徠、本居宣長、新井白石らの文献学(=歴史認識)は、日本のアイデンティティをまさぐる必死の営為だった。

 「地球上で歴史認識が誕生したのは地中海とシナと日本の三つ。そこに花開いた文献学は、単なる学問ではなく、新しい神を求める情熱と決断のドラマだった」

 と著者は断じ、江戸の思想家たちが演じたドラマを、世界史的な構図のうちに展開して見せる。

 同時期、西欧においても歴史認識の確立が図られた。カント、フィヒテ、ブルクハルト、ヘーゲル・・・・・。それらに比べて、徂徠・宣長・白石らは遜色がない。それどころか、活躍した時期をみても、彼らは西欧に先駆けていた。

 これら江戸期の先哲は、西欧に学ぶ機会もなく「明治」を準備した。すなわち一概に近代日本は西欧に倣(なら)って誕生したとするのはウソで、日本における「近代的なるもの」は、日本史の内部から熟成して出て来たのであり、西洋史とは関わりなしに、むしろ西洋史より早く姿を現している。彼ら江戸期の知的ダイナミズムこそが「明治という国家」を生む母胎となったのだ・・・・・。

 小欄の粗雑な総括だが、以上が著者の言わんとするところである。

 もとよりこれは旧来の歴史認識の「常識」に反する異説であろう。異説は、何を論じるかではなく、いかに論じるか、コトは説得力にかかってくる。その点、著者の膂力(りょりょく)たるや凄まじい。さきの先哲らにも似た壮絶な力業で、読む者は知的興奮を必ずや覚えるだろう。

 「註は構わずに、ひととおり(早足で)通読して欲しい」

 と著者は言うが、この註が滅法面白い。なんでも註の作成に二年を要したとのこと。たとえば丸山真男は徂徠を読み間違えているとして、これを駁した註などは白眉である。

 もとより著者の作業は、今日的な意味をこめている。

 「いつの世にも外来思想と日本の知識人との関係は、外を外として見るのではなく、内の都合で外を見て、あげく外も見えないし、内においても観念的遊戯に終わる」

 さきの先哲らは、そうではなかった。

 「論語に意地悪い目を向け、密(ひそ)かに孔子に対抗心を抱いていたのは、中国の儒家にはまったくなく、おそらく世界広しといえども荻生徂徠ひとりであったでしょう」

 そして著者の視線は中国儒教と日本人との関係に向かう。

 「表向きは孔子を立て、現実には韓非子の思想で統治する・・・・中国儒教の背後に法家が秘せられています。儒教は徳治という壮大なフィクションにすぎず、実験意志でしかありません。中国人はそれを半ば信じ、半ば信じていないのです。日本人は信じすぎたのがいけない、そうではないでしょうか」

 韓非子や荀子に代表される法家の思想とは、人間の本性を悪と見て、これを礼によって包み込んで秩序を維持する、つまりは人間性悪説を言う。これからの日中関係に心すべき警告と聞くべきであろう。

 壮大にして痛快、エキサイティングな挑戦の書である。

小冊子紹介(六)

書 評

知の冒険者たち(2)    文・長谷川三千子
 
 「私は思想史には関心がなく、偉大な思想家にのみ関心があります」と西尾氏は言ふ。この一言こそ、この著作の根本精神をずばりと言ひ切つた一言、と言つてよいのであるが、氏がここに「偉大な思想家」と言ふのは、そのやうにして時空をとびこえることのできる知の冒険者たちにほかならない。と同時に、そのやうな知の飛躍をうながすに足る、思想のエネルギーと透明度をもつた人たちこそが、この「偉大な思想家」の名にあたひする、とつけ足すことも許されるであらう。

 その意味では、この本に登場する人々のうちで、もつともこの「偉大な思想家」の名にふさはしいのは本居宣長である。西尾氏にとつての宣長は、単なる「ナショナリスト」でもなければ、単なる「文献学者」でもない。宣長は、まづ何よりも、のこされた言葉といふ唯一の手がかりを虚心にたぐつて、古代の人々の心の真実をつかみ取らうとした人である。そして西尾氏もまた、宣長の言葉を虚心に受けとり、その歩みを共にするうちに、江戸からさらに古代へと、知的冒険の翼をひろげることになるのである。

 当然のことながら、ここでの西尾氏の視線は、これまでになかつたほど近々と「カミ」の方へと向けられてゐる。天照大神とは、太陽のことであり、そしてカミである、と言い切つて一歩もしりぞかない宣長に、圧倒され、魅了されつつ、西尾氏は、自らもカミについて思ひめぐらし始めてゐる。

 「神話学」などといふものがすでにそれ自体神話の破壊にほかならないことを肝に銘じつつ、氏は神話を神話として受け取るといふ知的冒険のうちに踏み込まうとしてゐる。そしてこれは、きはめて当然、自然の展開と言ふべきであらう。なぜならば、「偉大な思想」とは、それがいかに冷静で理性的な精神によつて貫かれてゐても、つねにいくばくかの「神学」を含むものだからである。「私は……偉大な思想家にのみ関心があります」といふ自らの言葉を、氏は決して裏切つてゐないのである。

(ついでながら、この本の中には、つい膝を打ちたくなるやうな気のきいた至言が、あちこちにちりばめられてゐる。たとへば、文字と言葉について語るなかで、氏が「『現代かなづかい』は矛盾がありすぎ、『旧仮名』・・・・・は無理がありすぎ」る、と評してゐるのも、まさしく言ひ得て妙である。ふり返つてみれば、この文章も含めて、私はまさにこの「無理」の手ごたへを無二の友として文章を書いてきたのである。これは私自身にとつても思はぬ自己発見であつた。)

小冊子紹介(五)

 
書 評

長谷川三千子(埼玉大学教授):『諸君!』平成19年4月号
《BOOK PLAZAコーナー・REVIEWより》

知の冒険者たち(1)

 白状すると、本書が『諸君!』に連載されてゐたとき、私はあまりよい読者ではなかつた。三段組で雑誌の片隅におし込められてなんだか窮屈さうだ。といふ印象が先に立つて、あまり食指が動かなかつたのである。けれども、いまかうして一冊の本にまとめ上げられてみると、この著者は、さながら一羽のおほとりがその翼をひろげて悠々と空を舞ふのを見る、といつた気分に人をさそふ。そして、読みすすんでゆくうちに、ふと気がつくと、われわれ自身もまた、いつの間にかその飛翔を共にしてゐるのである。

 と言つても、なにもことさらに構へて読む必要はない。もともと講演の記録をもとに書き足されていつたこの本は、時としてきはめて学問的な内容にまで話が及ぶにもかかはらず、著者自身の言ふとほり、「耳で聴いて分る平明さ」が特色である。ただふらりと立ち寄つて、著者の話に耳を傾けてみれば、たちまちその生き生きとした語り口が、われわれを話のうちへと引き込んでくれるのである。

 しかしそれにしても、なぜ「江戸」なのか。たとへば、一時期「江戸ブーム」などといふものがあつた。日本がはじめて明確に日本といふものを意識しはじめた時代であると同時に、実は存外「国際的」でもあつた江戸時代、われわれが「近代」としてしか知らなかつたものが、すでにあらゆる領域において芽生えてゐた江戸時代――そんなかたちで「江戸」が人々の注目を集めるやうになつたのは記憶に新しい。西尾氏ももちろうさうした認識を共有してゐる。『江戸のダイナミズム』といふ表題もそれを前提としてゐると言へよう。

 けれども、そんな風にして「明るい江戸」に注目するとき、われわれはつい現代の自分たちの価値観をそこに投影してしまひがちである、と西尾氏は警告する。江戸は情報化がすすんでゐた、などと言つて嬉しがるのも、江戸は人権意識が低かったと言つて貶すのも、実は同じ精神態度のあらはれにすぎないのではないか、と氏は指摘するのである。『江戸のダイナミズム』が探索しようとするのは、「明るい江戸」でも「暗い江戸」でもない。その時空を、その時空のうちから眺める、といふのが西尾氏の基本姿勢である。

 そして実は、このやうな西尾氏の基本姿勢は、そのまま「なぜ江戸なのか?」といふ問ひへの答へともなってゐる。といふのも、氏を江戸時代へと惹きつけてゐるのは、単にその社会のシステムや豊かさなのではない。この時代に出現した、何人かの傑出した精神の持ち主こそが、西尾氏にとつての江戸の魅力の核心をなしてゐるのであるが、彼らに共通してゐるのが、まさにこの基本姿勢なのである。この本に取り上げられてゐるのは、荻生徂徠、富永仲基、本居宣長といつた人々であるが、これらの人々は、研究領域も思想内容も異なつてゐながら、自分たちの時代の常識を異なる時代のうちに持ち込むことを徹底して排除する、といふ点において見事に一致した人々である。そして、自分とは全く異なる時空の発想を、なんとかして生のかたちでつかみ取らうとする彼らの情熱が、西尾氏を魅了してやまないのである。「江戸のダイナミズム」とは、言ひかへれば精神のダイナミズム――時空をとびこえて精神が精神をとらへ、ひびき合ふ、そのダイナミズム――にほかならない。

つづく

小冊子紹介(四)

 書 評

佐藤雅美氏(作家):『週刊文春』平成19年2月22日号月号)
《文春図書館コーナー・今週の三冊より》

著者はニーチェやショーペンハウアーの研究・翻訳を出発点とし、文学、教育、政治、国際問題など幅広いテーマをめぐって旺盛な評論活動を展開しておられる評論家であり、ドイツ文学者である。本欄の読者には、超ベストセラー『国民の歴史』の著者と紹介したほうが分かりが早いかもしれない。

 本書は文藝春秋刊の月刊誌『諸君!』に2001年7月号から2004年9月号まで約三年余の間に、二十回にわたって断続連載されたものに若干の加筆修正をほどこされたもので、評者は、連載されているときに熟読した。そのときの感想を一言でいうなら、スケールの大きな長編推理小説を読まされているようにスリリングで、かつ知的興奮を極度に刺激されるというものだった。『国民の歴史』にも同様の感想を持ったのだが、さらにスケールアップされたものといってよく、いつになったら単行本化されるのかと心待ちにしていた。

 それがこのほどやっと刊行され、すぐさま手にとり、あのときの知的興奮がいま一度蘇るものだろうかと心をわくわくさせながら丹念にページを繰った。結果は、そう、そのとおり、そうだったと、頷きながらあっという間に満足して読み終えた。

 本書の内容や骨子は要約するのがとても難しい。奥が深く、中身が濃すぎて、どう述べても舌っ足らずになってしまうからだ。だがあえていうなら、江戸時代の大学者、おそらく現代までひっくるめて彼らにおよぶ学者は日本には現れていないと思われる大学者、荻生徂徠と本居宣長の思想・思考を軸に、著者があとがきでいわれている「『日中欧の言語文化ルネサンス』に関わるさまざまなテーマ」を「あたかも同じメロディが輻輳して絡まり合い、くりかえされるうちに異なる音色をかもし出し、新たな曲想を得て、フィナーレへ向かって響き合い高まっていく交響曲」のようなものといっていい。

 といって内容は類書にありがちな、二、三行も読むと瞼が塞がる無味乾燥なものではなく、そこには巧まずしてストーリーがあり、倦ませることなく飽きさせることなく展開していて、こういっては畏れ多いのだが文章もこなれていて読みやすく、またはっとするほど、小説家も顔負けするほど、表現や比喩に天性の上手さ巧みさがある。

 そのうえになお、契沖、富永仲基、上田秋成、ソクラテス、ニーチェ、清朝考証学者など古今東西の学者をびっくりするほど大勢登場させ、彼らの思想・思考を縦糸にあるいは横糸にして構築される世界に、わたしたちはいつの間にか引きずり込まれ、酔わせられている。ちなみに本書には人名索引に事項索引が付されているだけでなく、参考文献も挙げられていて、数えるとなんと原書も入れて380冊、全集が35にもおよんでいた。これだけの量の参考文献は買って揃えるだけでも難事といってよく、読みこなすなどとうてい常人のなしうる業とは思えないのだが、すべてに目を通しておられるというのは過度に親切なほど付されている注釈の量からも推測がつく。

 また参考文献を多用する場合、人はややもすると、援用するだけだったり頼り切ったりで終わりがちなのだが、そうでなく、むしろ遠慮なく料理して、是は是、非は非とし、名指しして批判されて容赦がなく、それが腑に落ちてまたとても気持がいい。ジャンルはあえていうなら思想・啓蒙書だろうが、類書にはない、肩の凝らない読み物としてぜひ一読をお薦めしたい。

つづく

小冊子紹介(三)

抜粋集『江戸のダイナミズム』の中から、ポイントをなす幾つかの文章を抜き出します。(出版記念会事務局)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(六)

 中国史には神話はない、あっても重要な意味を持たない、という固定観念が日本人を縛ってきました。儒教史の影響だけでなく、無文字社会日本には口頭伝承があったから神話的思考が長く続いたけれども、文字を創造した中国には古代から口承の成立する余地をなくしていたので合理的思考が早くに支配した、というような思い込みが強かったからです。

 しかしそんなばかな話はありません。中国にも文字以前の社会があり、甲骨文字は呪術祭祀用で、数も不十分です。内藤湖南の引用にもあるように盲人の口頭伝承は重要な意味を持っていました。(305ページ)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(八)

 古典はすべてそれを守る人、攻める人の後世の意志によって動いていく世界です。ただ一つの原典などは存在しません。後の世の歴史的社会的状況の制約を免れません。古典は一つの原典に絶対的な正統性を認める仕方によってではなく、神話や伝説を含むさまざまな偏向を踏まえながら、その複雑な相互の関わりの中から読みつがれ、選び取られていくべきものです。

 徂徠はそのような相対化の精神を知っていました。「學問は歴史に極まり候事に候」(『徂徠先生答問書』上)という名文句が彼にはありますが、ここでいう歴史は神話と対立する不変不動の世界ではなく、動く世界、相対化された世界のことだと私は思っています。(380ページ)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(九)

 古代世界は急速に衰退して、文化や学芸はローマ帝国の東の地域に引き継がれました。いわゆるビザンツ時代です。

 ビザンツでも高等教育は栄え、古典は尊重されました。しかし時間が経つとしだいに学校が採用した選択範囲に漏れた古典のテキストを読む人は少なくなりました。ギリシア最高の悲劇詩人アイスキュロスの劇は七編、ソフォクレスの劇も七編がわずかに残るのみで、他の劇が現代にまでひとつも伝わっていないのは、ビザンツの学校での規定図書に他の作品が選ばれなかったからだというのです。古典は永遠ではないのです。古代の写本は消滅し、ビザンツ時代には学校用以外の写本は滅多に作られませんでした。この単純な事実を知ると、私は言いようもない感慨に襲われます。

 いかに多くの優れた他の作品が古代世界の没落とともに木屑のごとく消えてしまったことでしょう。また、私の一代でさえ目に見えて分る日本の衰退は、文化や学芸にすでに反映していて、学校の選択範囲に採用されなかった古文や漢詩文、否、昭和文学ですら消えてなくなってしまう運命を示唆しているように思えてなりません。(387ページ)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(十一)

 言語と文字は別でした。言語は半ば音です。しかし半ば文字でもあります。文字には文字だけの法則があります。しかも日本語の文字は外国語の音と遠いところで交わっています。それとは関係なしに日本語の音は動かざるを得ません。日本語表記が「仮名遣い」という悩ましい宿命の難事を抱えつづけた根源はここにあるようです。

 お気づきと思いますが、これまで16章に及ぶ本書の叙述において、ことあるたびに強調したモチーフの一つは、あらゆる文明に共通する文字以前の長期にわたる音声言語の存在です。(424ページ)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(十二)

 儒仏に汚されない純粋な古代の古語を介して古代人の真実を知るという宣長の方法を、観念論というのはたやすいです。彼はそんなことは百も知っていました(中略)。

 宣長が洞察していたのは使用された外来文字の背後に、長大な時間をかけて伝わってきた日本語という音だけの言語世界の示す、21世紀にまでつづいた民族の魂の表現なのです。「清らかなる古語」は厳密には不可能でも、音は聞こえる者には聞こえるのです。それをイデオロギーという者こそ逆イデオロギーの徒にすぎません。(487~488ページ)

つづく

小冊子紹介(二)

 
 以下は『江戸のダイナミズム』からの抜粋文(一)~(十四)のうち、遠藤浩一さんにより朗読されたもの〔管理人による出版記念会報告(四) (五) 〕を省いたものです。

(文・長谷川)

 抜粋集『江戸のダイナミズム』の中から、ポイントをなす幾つかの文章を抜き出します。(出版記念会事務局)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(三)

 『大鏡』『愚管抄』『神皇正統記』・・・・これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇譜がまっすぐにつながっている歴史観の前提の上に展開されています。天皇譜と神話の神々の世界は一直線につながっている。つまり日本の天皇制度は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結しているのです。

 江戸時代の終わりまでの日本人は、他の世界の神話を知りませんでしたから、自分の神話だけを信じていればよかった。西洋的な比較神話学が導入されることによって、古伝承として神話を愛し守ってきた人々にはまったく知らない世界が目の前に突如として開かれてしまった。その結果、日本人が永年にわたって神話を信じ愛してきた観点は、新しい学問によって切り捨てられてしまった。

 神話は学問化されないなにものかであり、天皇の存在とつながった信仰の対象のはずでした。

 ここで厄介なのは、今日では神話を一所懸命尊重し、研究し、守ろうとしてくれているのは科学的な方法論をもっている神話学者たちのほかにはほとんどいないということです。しかし、これらわれわれの時代の学者たちと、『大鏡』『愚管抄』『神皇正統記』を読んで自分たちの国を「神と仏の国」と信じていた日本人、この両者が神話の中にそれぞれまったく違うものを見ているという事実ほど面倒な逆説はありません。

 西洋的神話の研究では、どんなに神話を好意的に研究しても、神話を歴史的に比較し、その神秘感を奪い、魅力を薄める動きと一つになってしまうという、とてもおかしなことが起こっているのです。神話学は西洋で生まれ、発達してきた学問です。日本でも、西洋でも、近代の学問というものは、元来破壊的な性格をもっている。学問は信仰を破壊する。(259~260ページ)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(五)

 私は伝説や神話を排除したところから歴史が始まるとは考えていません。両者の間の境界はがんらい不明確であり、文字記録による歴史が始まった後にも、口承伝達は存在し、歴史と思われるものの中にも、伝説や神話は混在しています(中略)。

 孔子が近代実証史家と同じ価値観で、「怪力乱神」を嫌ったことなどと、貝塚茂樹の言っているようなことが果たして信じられるでしょうか。

 神話と歴史の関係において孔子の果たした役割はきわめて不分明で、謎めいていて、だからこそ多くの研究家はこの点に関しては寡黙なのです。孔子の責任がどこまで問えるかは分らないからです。しかしそれにしても、彼が三皇五帝の伝説を歴史に取り入れることをせず、動機は何であれ、歴史に境い目のラインを引いたことは紛れもありません。

 もしも伝説や神話のままにしておけば真実がより保証されたのに、これを歴史化し、かえって歴史の神話性を深めてしまったといえないこともありません。(304ページ)

つづく

小冊子紹介(一)

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念会の折に、受付で全員に配布された36ページの小冊子があります。その内容を順を追って紹介していきますが、遠藤氏によって朗読された部分等、割愛する部分もあります。

 また、この小冊子は非売品ですが、西尾先生のご好意により、多少残りがあるので、ご希望の方にはお分けしたいとのことです。希望される方はその旨を明記し、コメント欄にてご連絡ください。住所等個人情報が記載されているコメントは、ネット上に表示しませんので、ご安心ください。

(文・長谷川)

sassi1.jpg

表紙絵の説明

 ニーチェの処女作である「悲劇の誕生」は1872年刊。内扉には彼の友人の画家の手になる「鎖を解かれたプロメテウス」の装飾画が描かれている。フリードリヒ・ニーチェの名の下に、バーゼル大学古典文献学科正教授と肩書きが示されている。

 出版はライプツィ書店で、初版は千部。そのうちの一冊がいま私の手許に秘蔵されている。古書店を介して50万円で落手した。前ページの写真がそれである。私の所蔵する唯一の宝物である。

 『悲劇の誕生』を私は29歳から30歳にかけて中央公論社「世界の名著」のために翻訳した。ドイツ留学の最初の歳月であった。私の二部作『ニーチェ』はこの本の周辺を回り、そして『国民の歴史』と『江戸のダイナミズム』は知らず知らずこの本の影響を受けている。私は人生の出発点で呪縛されたのかもしれない。

 それでいて『悲劇の誕生』が提出した問いと課題と本当のテーマは何であったのか、私には今でも謎で、よく分らない。 

西尾幹二

江戸のダイナミズムに寄せて(十二)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 考証学というと何となく象牙の塔のイメージがありますけれど、価値観を拒否して実証主義に徹底する精神というのも、異民族支配という「原理主義」の押し付けの危機意識の中で生まれた「自由」への志向の中で当初は生まれたものだったわけです。西尾先生の指摘される考証学者への清の血みどろの弾圧と、考証学者の側からのすさまじいレジスタンスにみられるように、「原理主義」も「自由」も、日本人の考えるような穏やかなイメージとは遠く隔たるものなわけですね。或る意味、考証学は、明の「本土決戦」の中で生まれた精神や学問方法だったように思われます。    

 これは西尾先生が繰り返し正しく指摘されてきていることなのですが、日本文化(日本文明)がオリジナルなものをもっていないという俗論は、恐ろしく間違った意見といわなければならないでしょう。しかしこの俗論がどこから生じるのか、といえば、「原理主義」と「自由」の格闘があまりにも穏やかに展開されていることを「オリジナルな思想の不在」というふうに錯誤することろから生じている、といわなければならないでしょう。錯誤は錯誤で、俗論は俗論なのですが、しかし反面、坂口や三島のような意識的な言葉の使い手にとっては、戦後民主主義の空虚な猛威を目の当たりにして、「原理主義」と「自由」の格闘の曖昧さが、どうしても「日本」の不在と同一なものに思えて、つい、本土決戦についての逆説をいわなければならないような気持ちに追い詰められたのではないでしょうか。 

 では日本人のこうしたあまりの幸運ということを、不運に裏返して考えて、日本人は中国文化やヨーロッパ文化のような激しさをもっていないか、というふうに考えるべきなのでしょうか。そうではないと私は思います。西尾先生が指摘される、日本文明の様々な先進性や優越性という結果的事象を知れば知るほど、こうしたものが「原理主義」と「自由」の格闘という普遍的プロセスと実は全然別のプロセスで生まれたのではないか、と、ひっくりかえして考えるということが、西尾先生や小林秀雄の立場ということなのではないでしょうか。

 先進性や優越性を「先進」や「優越」ということへの自足的感情でなく、「違うもの」という分析的感情においてとらえる必要、ということですね。思想においては特に然りです。早い話、血みどろの悲劇がなければ本当の思想家が生まれない、ということでしたら、江戸時代にかくも大勢の普遍的境地に到達した思想や論争が生まれた、ということ自体が説明不能になってしまいます。    

 つまり、西尾先生が「ヨーロッパの個人主義」「ヨーロッパ像の転換」の頃から「国民の歴史」の最近に至るまで一貫して主張されてきているように、ヨーロッパや中国が普遍的であるという保証は実は何処にもなく、日本が普遍的である可能性もある。あるいは「普遍的」ということ自体がフィクションなのかもしれない、ということを、文明事象的な指摘だけでなく、文明内の思想形成においてもとらえなければならない、ということがいえましょう。「江戸の先進性」ということを「江戸の独自性」というふうに読み込んでいくことが、ちょっと大袈裟な言い方ですが、「江戸のダイナミズム」の主題の絶対的スタートラインということになる、と思い、今晩もまた少し、再読を進めていくことにします。  

 手がかりはやはり「言葉にならない何か」ということを日本的精神とした宣長的な精神ということではないか、と思われます。三島も坂口も、「言葉になる何か」を日本人の精神探求において膨大に探求し、ついには、徒労感に行き着いたように思われます。しかし「江戸のダイナミズム」の読後感は、こうした三島や坂口の日本論の徒労感とは完全に別のものです。「言葉にならない何か」を穏やかに、しかし必死にとらえようとしていることを感じることができるからですね。何回の読み返しを通じて、それをますます感じていけるのではないかな、と思っています。

おわり

江戸のダイナミズムに寄せて(十一)

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
西尾 幹二 (2007/01)
文藝春秋

この商品の詳細を見る

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 西尾先生の画像説明にあわせて、再び、「江戸のダイナミズム」をゆっくり読みはじめています。読書というのは忙しく読んだ一度目に比べ、二度目、三度目と速度を落として読むと、いろんなことが思い浮かんできて、自分でも驚くくらいなのですが、主に顧炎武たち考証学者のことについて論じられている、日本人は自由すぎて「自由」を知らない、というくだりを読んでいるとき、不意に私は、三島由紀夫や坂口安吾の「本土決戦」論を思い浮かべました。

   三島や坂口は、日本は終戦の時点で、本土決戦という破滅的選択をするべきだった、というような逆説を繰り返し言っています。かつて三島や坂口の言説を読んで、私は終戦工作に奔走した鈴木貫太郎をはじめとする人達の物語を日本の政治史でもっとも美しい物語として考えているせいもあって、何をぬかすか、と感情的に反発したくなりました。しかし三島や坂口の考えというのは、私の感情的反発と別の次元で、私達が受け止めていかなければならない指摘なのだ、と最近は段々と思いを修正するに至っています。  

 原理主義の不自由があってこそ「自由」の意味を知ることができる、という意味において、日本人は「自由」を知らないのだ、という西尾先生の指摘は、異民族支配や宗教上のタブーを知らない、という別のところでの先生の指摘と同一のものです。私達は「原理主義」というと宗教や教条的学問を思い浮かべがちですが、異民族支配もまた、すさまじいほどの「原理主義」である、ということがいえましょう。  

 本土決戦を行えば、完全な焦土と完全な敗戦という「悲劇」が間違いないのは当然として、国土分割さらには皇室の存続の危機という破滅的事態の先に、少なくとも「北日本」へのソビエトの衛星国化・異民族支配という日本民族最大の「悲劇」が待ち受けていたのは明らかで、アメリカ側にしても、「南日本」への、現実の戦後日本に数倍するアメリカ化の原理主義の洗脳行為をおこなったのは間違いありません。日本人の幸運は昭和天皇の聖断や鈴木貫太郎たち賢人の奔走でそれを避けられたことにあることは間違いないのですが、しかし長所が短所に裏返るのと同様、最大の幸運は最大の不運に裏返るのですね。 

 坂口は戦後直後のなし崩しのアメリカ化を「自由」と勘違いする日本人の多くのあまりの浅さに、激しい懐疑を抱いていたに違いありません。また三島が、1960年代以降の日本人の、精神崩壊にすら意識的でなくなってしまった精神崩壊に、日本人の「自由」の認識のあまりの脆さにあきれ果てていたのは周知の通りです。だからこそ坂口や三島は、逆説的な歴史論として、「本土決戦をするべきだった」ということをいうわけで、私は「思想としての本土決戦」という主題が、日本人の「自由」の問題を考える上で存在するのではないだろうか、というふうにいつも考えています。

つづく