東北沖地震

 心配して下さった方々からお電話をいただきましたが、私は大丈夫です。それよりも、被災なさった方には何よりもお見舞いを、不運にも命を落とされた方々には哀悼の意を捧げたいと思います。

 昨日からテレビの画像を見つづけています。映画のセットなら考えられるようなシーンが現実に次々とくりひろげられ、言葉もありませんでした。大きな家が川面にプカプカ浮かんで流れていく光景は、子供時代に茨城の那珂川の洪水で見た覚えがありますが――あのころは台風シーズンのたびに川の決壊にはよく出合った――、今度のように商店街が一瞬のうちに河川に替わり、車だけでなく船がとりどりの店の前を平然と流れていく光景や、まるで巨獣が地を這うように黒っぽい濁流がビニールハウスの並ぶ広い畑地をゆっくり呑食していく有様に、私は正直息を呑む思いでした。

 東北はまだ寒い。雪も降っている。日本では情報が早く流れ、避難も素早い方で、東南アジアの国々の例よりも被害は少いように思えますが、寒い中での避難生活は予想以上に厳しいでしょう。私ならきっと避難所で命を落とすことになると思います。寒さには弱く、意気地がないのです。

 わが家では本が書庫の棚から落ち、額が外れ、花瓶が倒れましたが、その程度です。戸棚の開き戸はみな自動的に開いてしまいました。

 大揺れの瞬間に、あちこちのドアの鍵を開け半開きにしておくことを心掛けました。閉じこめられるのを恐れたからです。けれども、同時に犬が外へ飛び出すのも恐れました。大急ぎで犬に紐をつけ、じっと抱いていました。犬ははじめオロオロしていましたが、ほどなく安心して身を任せました。

 皆さまのご無事とご健勝を祈ります。

寒中閑なし

 今私がどんな仕事に毎日励んでいるかを今日は簡単に報告しておきたい。

 「日中歴史共同研究 中国側批判」の前半部分のゲラ刷りが今日送られてきた。『WiLL』(2月26日発売)4月号に予定されている。2月5日に四人のメンバーが集まって討議を完了した。四人とは福地惇、福井雄三、柏原竜一の諸氏と私である。この1年で三氏はそれぞれ独自性を発揮し、良い仕事をしてくれたとありがたく思っている。

 1月号と2月号で「北岡伸一『日中歴史共同研究』徹底批判」を行った際に、中国側の報告内容への追及は4月号と5月号に分載すると約束しておいたので、その整理の仕事がいま舞い込んでいるのである。

 日本側報告は昨年1月に、中国側報告は8月に、各600ページを越えるどっしりと重い2冊本で刊行された。一般の人の目には届かない本である(画像参照)。

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 われわれ四人は貴重な史料の批判的研究のチャンスを与えられた立場なので、言うべきことを言っておく責務を感じている。しかし歴史叙述の内容がデタラメきわまりないので、読むのも辛い。

 私が戦時中の思想家・仲小路彰の研究をしていることはすでに知られていると思う。彼の『太平洋侵略史』(全六冊)は昨年復刻再刊されたが、今度次の三冊が出ることになった。すなわち、『世界戦争論』(昭13)全一巻と『第二次世界大戦前夜史 一九三六年』(昭16)及び『同、一九三七年』(昭17)全二巻である。いずれも国書刊行会から3月に出版される予定である(画像参照)。

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今度も昨年につづき私が推薦文を書き解説を担当した。推薦文は昨年のうちに書き上げていたが、事情があって解説は遅れている。ただし『世界戦争論』のほうだけは一昨日やっと解説を書きあげて出版社に送った。

 昨日私は月に必ず一度録画撮りに訪れる文化チャンネル桜で今月分のGHQ焚書のテレビ録画を完了した。夜の7時から10時半までかゝり2本撮った。『ハワイを繞る日米関係』(昭18)と前記仲小路彰の『世界戦争論』(昭13)を取り上げた。知らないことがたくさん書かれていて学習はしたが、何日もかけて準備し、夜集中して2本の録画をするのはやはり疲れる。夜遅くまで付き合ってくれる若い3人のスタッフもきっと疲れただろう。ありがとう。

 この日で放送は71回目と72回目を終えたことになる。別れぎわにスタッフに「そのうち100回を数えるね」と笑って話しした。徳間書店から出ている『GHQ焚書図書開封』は10回分で一冊になるけいさんですゝんでいる。とすれば7冊出来あがっていて当然なのに、いまだ4巻で止まっている。私に時間がなくて書籍づくりが追いつかないのである。すでに2冊分のプランは終了している。次のように計画している。

 『GHQ焚書図書開封 5――ハワイ、満州、支那』
 『GHQ焚書図書開封 6――日米開戦前夜』
 

上記2冊は夏までにほゞ同時に刊行する手筈が整っていて、徳間書店側の了解もすでに取りつけてある。私に時間の余裕のないのだけが唯一の問題なのだ。

 どういうわけかわが国をめぐる先の大戦ばかりが私の最近のテーマになっている。年齢を重ねてますますそうなるのは、日本の運命がいつにここにかかっているとの思いが一層募っているからである。先日報告した私の全集の第22巻の標題に「戦争史観の変革」を掲げておいたのも、最晩年のわが宿運と思い定めているからである。

 じつは今週末までに私はある種の正念場を迎える。いくつもの〆切り課題が集中していることに緊張している。まず一年もかけてまだ仕上がらない単行本『日米戦争 歴史の宿命』(新潮社)の原稿全部をいよいよ19日(土)に担当者に渡すことになっているのである。何ヶ月にもわたり何度も〆切りを延ばしてきたので、もうこれ以上は信義にもとるので延期できない。しかもこれもやはり戦争のテーマなのだ。

 そこへ先ほどの仲小路彰『一九三六』『一九三七』の解説が迫られている。加えて、私の全集の第一回配本『光と断崖――最晩年のニーチェ』のゲラ刷り約600ページ分がどっと届けられている。幸いなことに全集については、元徳間書店出版局長の松崎之貞さんが私の側の編集協力者として付き添って下さることになり、すでに同氏が作業を開始している。それでも勿論私のしなくてはならぬことはたくさんあるので、一山越えたらそちらに取りかゝらなくてはならない。

 でも、こうして多くの仲間知友に支えられて何とかやっていけるということはありがたいことである。

 だが、この一年を振り返って今が一番苦しい時期を迎えていて、ちょっとぼやいてみたくなり、「寒中閑なし」などと無駄口を叩いて、近況報告の文に替えたい。(2月13日記)

残暑お見舞い申し上げます

 「日録」の読者の皆さん、今年の夏は本当に格別に暑い夏でした。そして今も暑さはつづいています。いかゞお過ごしですか。

 私は5月~7月にかけて仲小路彰の『太平洋侵略史』全6巻を読んで解説(80枚)を書く仕事と、拙著『GHQ焚書図書開封 4』を刊行することで大わらわでした。前著『日本をここまで壊したのは誰か』の主要論文は2月から4月にかけて書きましたので、そのあとひきつづき休息がありませんでした。「日録」の更新も思うにまかせませんでした。

 その間内閣は変わり、日本経済の行方に黄ランプが灯り、気力のない国民の不甲斐のなさが八方で論じられています。菅内閣の「謝罪マニア」ぶりが気分を重くしています。そして8月の恒例の終戦をめぐるテレビ放映をみました。

 チャンネル桜の水島さんがご自身のニュース解説の時間帯に30分、以上のような日本の今の状況についてどう考えているかを語ってほしいといわれ、8月19日夜放映されました。

 ここに同社の許可を得て私の動画画面をご紹介することで、残暑お見舞いに替えさせていたゞきます。

ドイツ大使館公邸にて(六)

 最初に話ししたように、私はキルシュネライト教授とシュタンツェル大使に、文学に関する最新の自著を差し上げたいと考え、『三島由紀夫の死と私』を二冊持って行って帰りしなにお渡しした。

 教授は日本文学の専門家だし、大使も日本文学と中国文学の研究歴があり、若い頃に三島について論文を書いていることが大使館から予め送られて来ていた大使の略歴書に載っていたからである。

 公邸を辞して十日ほど経ってから、大使はご自身の二篇の論文のコピーを私に届けてくださった。その中に1981年に英文で発表された三島論があった。題してTraditional Ultra‐Nationalist Conceptions in Mishima Yukio’s ‘Manifesto’となっていた。ここで Manifesto というのは、三島が楯の会隊長の名で1970年11月25日に市ヶ谷台の自衛隊基地で切腹前に提示したあの「檄」のことである。

 「われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ」で知られる有名な文章だ。「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。」

 シュタンツェル大使は「檄」の内容をきちんと正確に捉えていた。「三島の生涯はなんらultra-nationalism に捧げられたものではなかったが、しかし彼は何を措いてもまず ultra-nationalist であった。」

 「檄」は主要な四点から成ると捉えられている。すなわち、(一)現代日本の腐敗と空虚、(二)それに対決されるべき真の日本(天皇によって支えられる)、(三)その真の日本を実現する真の人間(ここでいう man は human ではなく male 、すなわち samurai )、そして(四)としてはsamurai の孤独死ではなく共同体の同志によって達成される行為、すなわち「軍」の果す犠牲的行動がなによりも高く評価されていると、彼は解釈している。

 経済的繁栄にうつつを抜かして自分自身を失っている堕落した現代日本に対する三島の憤りを、この論文はその文脈においてとりあえず正確に捉えている。そして、天皇に体現されるところの「真の日本」の実現をこそ三島が目指していた目的であると見て、その実行の要として国軍の復活を激越に求めていたと理解している。このシュタンツェル大使の「檄」の読み方は、概して誰しもが承知している理解の仕方といえるだろう。たゞなぜそれなら、三島のあり方を ultra-nationalism と呼ぶのであろうか。

 私が面白いと思ったのは次のような強調点だった。「三島は自国の外になんらの敵のイメージをも創り出さない。自国の悲惨がその国のせいだと言い立てるスケープゴートを国外に創らない。日本がアメリカの政治的リーダーシップ に従うあまり独立を失っているのは嘆かわしいと見ているけれども、それはアメリカが日本に敵意をもつ国だからではない。しかもアメリカ以外の国はどこも言及されていない。三島が主に苦情を申し立てているのは、自国の国内の状態に対してであって、敵対感情を投げかけてくるような外部からのいかなる脅威に対してでもない。」

 三島が死んだ1970年を考えれば、日米関係は最も安定していた。ドイツ人外交官の眼に、外敵の恐怖も脅威もない時代に、苛烈なナショナリズムを燃え立たせる三島の情熱は不可解なものに見えたのではなかろうか。「真の日本」などというものは今までどこにも存在しないとか、三島のいうsamurai の概念は道徳的であっても社会的ではない、等と野次をとばしているのも、浮世離れした行動に見えたからであろう。

 けれどもシュタンツェル大使はもう少し奥深いところを見ていた。ナショナリズムは他の国に対して敵意を持ったり持たなかったりするが、それは自国に対する外の世界の反応のいかんに応じてそうなるのである。それに対し ultra-nationalism は伝統的で民族的な文化の諸要素に頼ることで市民意識の中に nation の概念を固める目的を狙いとするようなイデオロギーであって、きわめて極端な種類のナショナリズムである、という言い方をしている。そして、三島を理解するのに江戸幕末期の「国体」の概念と比較することの必要を説いているのが興味を引く。

 古代以来の神話の伝承、天照大神の子孫としての万世一系の天皇家の統治に由来する「国体」の観念が、あの righteousness(義)とか truth(真)の概念を保証してきたのであって、三島がもち出したさまざまな概念と「国体」の概念との類似性は明瞭である、と断定している。そして吉田松陰は三島が「真」の日本人として心に抱いていた人物であった、と。

 しかしここから論旨は急に一転する。物事はだからすっきり明瞭になっているわけでは決してない、と彼が言い出しているのが私には面白かった。三島の概念も、また明治から昭和にかけての各種の「国体」の概念も、どれもとらえどころがなく、把握しがたいと彼は言う。はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されていない、と。天皇といい、侍といい、義といい、真といい、どれも巾広い含蓄のあるシグナルめいた言葉であって、あらゆる種類の具体的な政治的解釈を許してしまう恐れがある、と述べている。

 「(三島の檄に出てくる)典型的に urtra-nationalist の諸概念は、日本の国粋思想の伝統から真直ぐに由来している。それらは伝統主義者のカテゴリーにさかのぼって関連している。同時に、それらは漠然とした観念連合から成る信号めいた単語を多用しているので、巾の広い異なる政策の一連のつながりを理解することを許してしまうのである。」

 三島の思想と行動に江戸幕末の志士の「国体」論を結びつけて考える人はこれまで多くはなかった。ドイツ人がこの観点を引き出したことは興味深いし、評価できる。

 三島が南朝の支持者であったことを思えば光圀の水戸学とその幕末への影響と彼とを結びつけて考えることは少しも不自然ではない。また、江戸の国体論と昭和前期の国体論はつながっていても、大使の言うように、われわれ日本人にも「はっきりした輪郭をもった一つの思想に還元されない。」

 その意味で論文は私にも納得のいく内容であった。ただ、私が一読してハッと目を射抜かれたのはこの点ではなく、三島が自国の外にいかなる hostile enemy をも見ていないというあの個所だった。

 あれほどの激烈な行動が「敵」を欠いていたのだ。内省的、自閉的、ある意味で自虐的行動だった。外国人にあらためてそういわれた。そのことがいろいろな関連事項を私に考えさせ、私の心に一つの小さくない衝撃の波紋を広げたのだった。

 たしかに三島の行動は戦後の日本人らしく内向きだったといえるかもしれない。しかしその洞察と予見の力は大きく、「自民党が最大の護憲勢力だ」と言った彼の当時の言葉は、いま深く鋭く私たちの目の前の現実を照らし出しているのである。

(了)

ドイツ大使館公邸にて(五)

 やがて話題は日本のアニメ文化がドイツにも広がっているというテーマに移っていった。これは私にはついて行けないし、どういうことか具体的イメージが湧いてこない話題だった。名前がいくつも飛び出したが、私は詳しくは知らないし、分らない世界である。

 勿論そういうニュースは前から耳にしている。フランスの子供たちが日本のマンガに夢中で、悪影響をあの国の文部省が心配しているというようなニュースを聞いたのはもうかれこれ20年も前になるだろうか。今ではそのレベルをはるかに越えているらしい。ベルリンで日本のオタク文化がはやっていて、コスプレやキャラクターの名前まですでに定着し、有名になっているんですよ、という話だった。

 そういえば過日私は上野の東京国立博物館に『土偶展』を見に行って、これに関連するある興味深い現象に出会った。縄文のヴィーナスから始まり、みみずく土偶やハート形土偶など、あのどこかおどけた古代日本のおゝらかで、明るい形象がびっしり展示されていた。

 『土偶展』はロンドンの大英博物館で開催されたのを機に日本でも開かれた帰国記念の行事らしかったが、ロンドンの会場やそれを伝えるイギリスの新聞記事が掲示されていて、そこに日本の土偶はわれわれ西洋人にたゞちにアニメの数々のキャラクターを思い起こさせた、という言葉があった。

 数千年の時間を軽々ととび越えてしまうこのような連想にはそもそも無理がある、などとこと荒立てて言うには、西洋人のこの思いつきにはなぜか微笑ましいものがあり、私はどことなく納得させられている自分に気がついて可笑しかった。少なくとも1980年代のドイツ人が日本人は自動車を「禅」の精神で作っているのか、と私に尋ねた、あの前に書いた話よりもずっと自然だし、唐突ではないように思えたのである。

 産業に「禅」を結びつけるのは、ヨーロッパでは80年代が宮本武蔵の『五輪の書』に日本企業の成功の秘密を見ると論じられていた時代だったからである。今はこんなことを言う西洋人はもういないと思うが、それでも「土偶」に日本アニメの秘密を見ているのである。

 ドイツ大使館公邸で交した対話のうち、これとやゝ似たおやっと思うドイツ人の日本観察の幾つかを忘れぬうちに挙げておきたい。

 憲法九条の改正の必要を私は敢えて話題にした。そのとき座にいた上智大ドイツ人教授は「日本が九条を改正しないことはドイツの東方政策に匹敵するんです。」と言った。東方政策が近隣諸国に対する戦後ドイツの代表的な外交上の和解政策であったことはよく知られている。私は異論があったが、言い出せばきりがなく、日独の戦争の相違論になり、テーブルマナーに反するから黙っていた。たゞドイツ人が九条問題を自国の東方政策になぞらえたことには多少とも意表を突かれた。私に言わせれば九条問題は日本の無能と怠惰の表現で、決して積極的な外交政策ではないと思われるからである。

 これに関連してシュタンツェル大使も、たとえ九条を改正しなくても日本の安全に不安はないと言った。「自分は日本に暮らしているが、北朝鮮の核はこわくない。中国が発射を北に許さないからだ。中国の核もこわくない。今の中国は経済中心だから、問題を起こさない。」

 また私が日本はアメリカから真の意味で独立していないので、日本の富がアメリカから毟り取られている、と言ったら、「毟る」という単語が面白いという話に少しなった後で、大使は「逆に日本がアメリカから富を毟り取って来たように思うけど」と仰った。これもおやっと思わせる意外な発言に私には聞こえた。

 以上日本側が遠慮のない考えを述べると、思いがけない答がもどって来て、なにかと発見のあるのは外国人との付き合い方の一つと私は心得ている。

 このことに関連してもう一つ面白い重要なことが起こった。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(四)

 シュタンツェル大使は2011年に日独交流150周年を迎えるので、その記念行事の準備にいま余念がない、という新しいニュースを披露された。

 1860年秋に訪れた「ドイツの黒船」という言い方をなさった。私はすっかり忘れていた。「黒船」といえば1853年のアメリカのぺルリ来航のそれと、大半の日本人は考えるし、私も迂闊だった。プロイセンの東方アジア遠征団が1860年に江戸にやって来て、翌年幕府と修好通商条約を結んだ。これが、日独の交流の始まりだった。

 どうやら記念行事を盛り上げるための各種の相談ごとがあってのこの夜の食事会であるらしかった。私は余計な雑談を交してきたが、大使がわれわれを集めた理由の一つはここにあったらしく、座の皆さんは色めきたった。

 キルシュネライト教授は「日本の若い層にアピールするドイツがないのです。それが頭の痛いところです。」としきりに仰った。「日本の若い人の人気度において、ドイツはイタリアにもフランスにも負けているのです。」

 成程そういうことかと私は思った。たしかにお料理やワインでも、ファッションでも、観光地でも、イタリアとフランスは日本における人気でドイツをしのいでいる。しかし、音楽があるではないか。哲学があるではないか。ベートーヴェンやカントのような巨人文化が日本の若い人にも知られている、ドイツのドイツたる所以ではないか。

 私がそう言うと、「西尾先生はドイツで演奏会にいらしたことがありますか。」「最近は行っていません。」「聴衆は老人ばっかりです。クラシック音楽を若いドイツ人は聴かなくなりました。」

 でも、日本の演奏会場が老人ばかりということは決してない。「それに」と彼女はつけ加えた。「カントは誰もいま読みません。私も読みません。」

 「日本で記念切手を出してもらいたいですね。働きかけて下さい」と大使は早大の日本人教授にしきりに訴えていた。「ドイツで記念切手を出させるのは至難の業ですが、日本ではそれほど難しくなさそうですから。」

 私は日本で先年初めて行われた世界ゲルマニスト学会の開催に際して記念切手が発行されて、絵柄が森鴎外だったことを思い出して、そう言うと、この件はみな知っていた。

 大使は「皇太子殿下ご夫妻をベルリンにお招きする計画を秘かに立てています」と仰った。私は「ヨーロッパならご夫妻はきっと喜んで行かれると思いますよ。」と観測を述べた。トンガやブラジルなら行きたがらなかったけれど・・・・・・とは余計なことなので、敢えて言わなかった。

 イタリアやフランスに負けないドイツのアピール度はたしかに大使館側の頭痛の種子らしかった。しかしなぜ若い人にばかり受けることを考えるのだろう。しかも日本人にとってドイツといえば必ずしもプロイセンがすべてではなく、バイエルンもオーストリアも含まれる。ミュンヘンとウィーンは感覚的にとても相互に近いのだ。

 私は昨秋六本木の国立新美術館でハプスブルク展が行われ、若い人で一杯だったことを告げた。毎年正月一日のヨハン・シュトラウスを聴くニューイヤーコンサートは日本では絶大な人気を博す。ウィーンの会場の楽友協会大ホールからのテレビ中継には日本人の姿も数多く映し出されている。「中国ではこんなことはないでしょうね。西洋名画の美術展は毎年日本のどこかでたえず開かれています。これも他のアジア諸国では考えられないことでしょう。」

 十九世紀のオーストリアの名宰相、ウィーン会議の立役者の浩瀚な伝記『メッテルニヒ』(塚本哲也・文藝春秋刊)は、今のヨーロッパでだって出ていないような素晴らしい業績だが、昨年11月に出版されたばかりである。西洋化された日本の文化、学術水準はともかく高いのである。「中国人は西洋文化をくぐり抜けていません。日本人は子供の頃からグリム童話とかアンデルセンに馴染んでいます。これは決定的に大きな差です。」と私は言った。つい先年まで駐中国大使だったシュタンツェル氏は「中国には中華思想があるからそれが妨げとなっている」と答えた。

 私が言いたかったのは、若い人に受けのいい流行現象でイタリアやフランスと競うのではなく、ヨーロッパ文化全体の中のドイツの魅力、EUの事実上の力の源泉であるドイツを堂々とけれんみなく訴えてほしいということだった。

 ドイツの犠牲と忍耐なくしてEUはない。フランスはそれを良く知って用心深く行動している。イタリアはEUのお荷物でしかない。そんなことは日本人はみんなよく承知しているのですよ、と私は言いたかったのだ。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(三)

 私たちは用意されていた食卓を囲んだ。私はシュタンツェル大使の右隣りに、キルシュネライト教授は大使の前に座を与えられた。席にいた方々がみな私より若いひとびとであることに気がついた。

 冒頭、大使が敢えて私に会いたかった理由は、むかし私が書いた「留学の本」が原因であると分った。『ヨーロッパ像の転換』か、あるいは『ヨーロッパの個人主義』かのどちらかだが、どちらであるかは聞き落としたものの、1969年刊のこれらの古い本の話が出てくるのをみると、私とドイツとの関係がつねに40念前のあの時代に立ち還るのを避けることはできないのだと、ことあらためて再認識したのだった。

 しかし私はあの懐しい歳月からすでにはるかに遠い処に生きていた。留学生試験官をつとめたのも1970年代末の出来事である。私は今もなおドイツの思想や歴史に研究目的の一つを置いているが、いわゆる日本のドイツ研究家(ゲルマニスト)の世界からはどんどん離れた表現世界に生きるようになって、60歳を迎えた1995年には、形骸化した関係を切って、ドイツ語学・文学の学会の会員であることも退いてしまった。だから大使館に招かれると懐しさの余りつい思い出に耽ってしまったのである。

 キルシュネライトさんは日本のある所で講演をして、とかく型にはまった文化比較がはやっていることに疑義を唱えたことがある。すなわち欧米人の個人主義と日本人の集団主義、狩猟民族の文化と農耕民族の文化といった類型的観念を歴史などの説明に持ち込むのは無意味だと彼女が語った、という話を私はインターネットを通じて知っていた。そこで、私からそれへの賛意をあえて持ち出して座を盛り立てようとした。

 「集団主義と個人主義の対比を言うのを好むのは、ドイツではなくアメリカからの見方です」と彼女は思いがけないことを言った。そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた80年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると難渋されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。

 私は1982年に日本の外務省の依頼でドイツの八つの都市を回ってわれわれの競争の公正を主張する目的の講演をして歩いたことがある。思い切って座談でその話をした。簡単な説明なので分ってもらえたかどうか不明だが、19世紀末から20世紀初頭のドイツはイギリスやフランスから同じように「集団主義」を非難されていた話をした。当時ドイツの鉄鋼生産はイギリスを追い抜き始めていた。

 「フランスの詩人ポール・ヴァレリーはいまわれわれはドイツの『集団主義』を非難しているが、ドイツの後には必ず日本が台頭し、その『集団主義』の力を示すだろう、と予言していたことがあるのですよ。日清戦争の後のことです。」と私はつけ加えた。「イギリスやフランスがドイツを恐れ、ドイツが日本を恐れた歴史の順序を踏んで『集団主義』がタームになったいきさつを考えると、キルシュネライトさんが仰るように狩猟民族は個人主義、農耕民族は集団主義というような文化類型論はたしかに成り立たないですよね。そして、今の時代はアメリカもヨーロッパも日本もみんながこぞって中国の『集団主義』を恐れ、非難する順序に立たされています。」

 するとキルシュネライトさんは、「中国への期待と恐怖は今に始まったことではなく、19世紀からあり、今お話の順序通りに歴史が流れたわけでもないでしょう」と仰った。それからこれを切っ掛けに、中国論があれこれ座を賑わせた。多くの人の関心が中国に向けられている時代にふさわしい展開だった。皆さんのそのときの話の大半をいま私は思い出せない。これらの会話の大部分は日本語で交されたことをお伝えしておく。

 八都市をめぐるドイツ講演の折に、キールの会場で手を上げ質問に立ったあるドイツ人老婆が私を叱責したエピソードを私はあえて話題にした。この老婆は外交官の夫と共に滞在した戦前の日本を知っていた。「今日のあなたの講演は日本がドイツに匹敵する国だというようなお話でしたが、私はそんな話をとうてい信じることができません。私の知る日本の都会は見すぼらしい木造の不揃いの屋並みで、夜になると提灯がぶらさがっていましたよ。いつ日本人はそんな偉そうな口がきけるようになったんですか。」伺えば彼女の記憶は1920年代、大正時代の滞日経験に基いていた。

 キルシュネライトさんは「今のドイツにはたとえお婆さんでも、そんな認識の人はもうひとりもいませんよ。」と応じた。勿論それはそうだろう。私の講演旅行は1982年で、老婆は80歳を越えた人にみえた。

 一般のドイツ人がどの程度いまの日本を認識しているかはやはり気になる処だったが、キルシュネライトさんが語った一つの小さな事柄が印象に残っている。「一般大衆も日本のことは相当知るようになっています。タクシーの運転手でも富士山の形を知っているかと聞いたら、指で正しく描いてみせたことがあって、いろんなことが広く知られるようになっていることが分ります。」

 この例話は必ずしも日本認識の発展でも深化でもなく、いぜんとしてフジヤマ・ゲイシャの類の詳細な知識の普及の一例にすぎないように思える。80年代に私にドイツのタクシーの運転手が「日本人は禅の精神で自動車を造っていると聞いたが、本当ですか」と真顔で尋ねたことを思い出させた。

つづく

ドイツ大使館公邸にて(二)

 「ドイツ大使館には今までにおいでになったことがありますか」と大使が私に尋ねた。私は若い頃必要があって大使館を訪れたことは勿論あった。たゞ今日のように「公邸」に来たことはなかった、そう申し上げた。「留学生でしたから文化部長は会ってくれましたが、大使にお目にかゝる機会はありませんでした。」

 そう言いながら私はカーテンの外の暗い庭を見つつ思い出すまゝ遠い歳月の彼方をまさぐるように往時を振り返った。そうだった。私は自分が留学生であったときには大使館にたびたびは訪れる必要がなかった。留学生ではなくなってからむしろ日参した日々があったことをふと思い出した。さりとてその場でシュタンツェル大使に詳しくお話するようなことでもなかった。

 私が最初の留学から帰国したのは1967年だった。それより10年くらい後のことになるが、ドイツ政府交換留学生(Stipendiat des DAAD)の試験官を頼まれて、数年にわたり、春になると大使館に赴いた。試験で選ばれる人々は35歳以下の日本のドイツ語学・文学関係の大学の先生たちで、上は助教授クラスから下は大学院修士在籍中の学生までが含まれていた。

 試験官はドイツ側からと日本側からとがそれぞれ数人づつ出て、受験者は30-35人くらいいただろうか。ドイツ語学・文学専攻の留学生を選ぶ厳正な試験だった。音楽や哲学や自然科学の関係の選考は私たちとは別の試験官によって日時を違えて行われていた。日本側は私より5年ほど先輩の早川東三氏(後に学習院大学学長になった)がリーダーで、他の選考委員は私のほかには東大や阪大の先輩たちだった。日欧文化比較についてなにかと考えさせられることの多い面白い体験だった。

 あの頃はドイツ語学・文学専攻の研究者志望の人は多数にのぼった。日本独文学会も3000人を超える盛況だった。ドイツに留学するのはまだまだ困難な時代だった。私が留学した60年代半ばにはドイツに来ている日本人はまだ少数で、珍しがられた。ビヤホールでドイツ人から「日本には大学がないから勉強しに来たのかね」などと言われたこともある。

 当時国立大学の私の初任給は1万5300円で、日本より早く高度経済成長をとげたドイツで留学生として暮らす月額給付金は500ドイツマルク、約5万円だった。しかも航空運賃がべら棒に高く、ヨーロッパまで片道68万円もした。月額給付金はドイツ政府が負担し、往復航空旅費は文部教官に限って日本政府がもった。私のケースはこれだった。

 よほどの財産家でもない限り、自費で留学するのは難しい時代だった。だから政府交換留学生制度のこの枠に人が殺到するのは当然だった。両政府が関係したのだから、選抜試験官も日独両サイドから出て、試験はドイツ大使館で行われたのである。そのために文化比較の面白いテーマにいくつも出会った。

 試験は日独別々の部屋で異なる方法で行われた。どちらの側でも筆記試験と口頭試問の両方が課された。日本側は筆記試験を特に重視し、ドイツ側はその逆だった。日本側の筆記試験は独文和訳で、これに70点を与えた。ドイツ側の筆記試験はドイツ語で自由に書く課題作文で、口頭試問との比は多分50点対50点ではなかったかと思う。(このあたりは少し記憶が確かではない)。

 面白いことが起こった。今日お話ししておきたかったのはこのことである。

 日本側試験官はどなたも口頭試問に点数をつけるのを迷い戸惑った。試験官ひとりに10点づつの持ち点が与えられ、各受験生に10-20分程度の応対をするのだが(それだけでも大変な時間である)、いざ採点となると、おうよそ真中あたり、5点か6点か7点かのだいたい三つに集中し、うんといい点をつける人も、うんと悪い点をつける人もいなかった。いかにも日本的な曖昧さにみえるが、会話を交しただけで人を評価することなんてできないというペシミズムが日本人にはあった。だから合計100点に換算しても、点差がつかない。

 それに対してドイツ側は0点から100点まで劇的に大きな点差を与えていたので、合否をきめる決定権はドイツ側に握られてしまう結果になる。

 筆記試験はどうかというと、日本側で出す独文和訳には大きな点差が開いた。私たちはドイツ語の難しい文章を読解する能力を最も重視していた。受験者は大学の先生でも能力はそう高くはなかった。なんでこんな語法や用法を知らないのだろう、と、私たち試験官は採点しながら口々に嘆き声をあげたものだった。(最近は当時よりもっと力が落ちているという話を聞く。)

 ドイツ側の筆記試験は与えられた課題について好きなように書く独作文だった。ある年に「貧困について」という題目が与えられた。受験生はみな知識人である。当然ながらマルクスがどうだとか、日本社会の矛盾がどうだとか、難解なことを書きたがる。当然である。それはそれでよいと思う。

 ところが最高点を取ったのはある私大の大学院修士課程の二年生の女子学生だった。彼女は東京の家賃が高いことについて書いた。世界の他の都市に比べての東京の生活困難の原因はここにある、といったレベルのテーマを、文法の誤りのない平明な長い文章で書き綴った。日本に暮らすドイツ人は身につまされる話題であって、これを喜んだ。そしてとび抜けて高い点を彼女に与えた。

 合同判定会議でこの事実を知って日本側試験官は反論した。彼女の独文和訳の点数が低かったからだ。口頭試問でも学者としての資質の片鱗をうかがわせるものに乏しい、と日本側では判定されていたからである。

 けれどもドイツ側は反論を認めなかった。議論は平行線を辿った。そして合計点により彼女は上位で選に入った。その後彼女がどういう留学生活を送り、今何をしているかを知らない。

 日本の外国語教育は昔から読む能力を最重要視していた。私たちの世代は今でもそういう考え方の人が圧倒的に多い。だから大学が使うドイツ語のテキストは昔は教養主義的だった。しかしあの頃からすっかり変質し、だんだん会話や生活説明のような文章が多くなった。私はドイツ語の文法や読本をかなりの点数出版している。私の作った大学一年生用のテキストにはゲーテやカフカやハイデッガーの文章まで取り入れている。ほとんど例外である。

 東京の家賃の話を平明なドイツ語で綴った女子学生は賢いかもしれないが、この一件は彼女を評価したドイツ側試験官とわれわれとのメンタリティーの違いを強く意識させた出来事だった。

ドイツ大使館公邸にて(一)

 雨の降る寒い夜(1月12日)、広尾にあるドイツ大使館公邸の夕食会に招待された。ベルリン自由大学日本学科のイルメラ・比地谷=キュルシュネライト教授が来日したので、引き合わせたいというシュタンツェル大使じきじきのお招きであった。お名前から分る通り、教授は日本人と結婚したご婦人である。大使は2年前まで駐中国大使を務め、本省に戻って、昨年10月に駐日大使として赴任したばかりである。やはり日本学や中国学を学んで、若いころ京都大学に留学したこともある文学博士である。

 キルシュネライトさんは日本文学研究家として関係方面では有名な方で、『私小説――自己暴露の儀式』(平凡社)という日本語訳の単行本も存在する。残念ながら私はまだ読んでいない。だが彼女の活躍は前からいくつかの論文を通じ知っていた。訳書の題名は魅力的である。私の一昨年に出した本、『三島由紀夫の死と私』とテーマが重なっている可能性もあると見て、献呈用に一冊持っていった。

 有栖川公園沿いの大使館のある辺りの風情は久し振りで懐しかった。私が公邸に着いたときには他の客人、キルシュネライトさんは勿論、早大の日本人教授と上智大のドイツ人教授がすでに来ていて、控えの広いホールで杯を傾けながら談笑していた。

 キルシュネライトさんは厚さが15センチもある赤い表紙の大型の『和独大辞典』をかかえて、その意義をしきりに説明していた。この大辞典は全3巻で、目下第1巻のみ刊行され、iudicium というミュンヘンの出版社から出ていて、一冊278ユーロもする。「日本での定価では多分3万円でしょうね」と彼女は言った。代表執筆者は Stalpf 、 Schlecht 、上田浩二、それに Hijiya-Kirschnereitの四人である。

 ドイツ語や英語を学ぶ日本人はご承知の通り『独和大辞典』や『英和大辞典』を必要とする。明治以来の一世紀半の努力があって日本におけるドイツ語や英語の辞書の世界は非常に発達している。しかし日本人の作った「和独」や「和英」は充実しているだろうか。これはやはりドイツ語文化圏の人、英語文化圏の人が担当し、日本語の世界を知ろうと研鑽を重ねてくれないと精緻なものを作るのは無理なのではないだろうか。

 私は目の前の部厚い「和独」の一冊を手に取って、パラパラめくりながら、ドイツにおける日本研究、日本語研究、日本文化研究は相当レベルが高くなり、これほどの量感のある辞書を必要とし、それの作れる段階にやっと到達したのだなと思った。勿論、これを日本人も自由に利用することができる。日本人にとってもありがたい辞書には違いない。だから赤い表紙には推薦人として岩崎英二郎氏(ドイツ語学者)、吉田秀和氏(音楽評論家)という著名人の名がのっていた。

 私は雑談のあいまに大急ぎで、和独を見るたびにいつもするある実験をした。「評論家」という文字を出した。そこには Kritiker、Rezensent、Publizistなどの語が並んでいた。しかしどうもしっくりしない。日本のマスコミが私などを「評論家」と呼ぶときのニュアンスはここにはない。だから「ぴったり一致しないんです(nicht entsprechend)」と私は言った。

 「例文を見て下さい、そこで解決できるでしょう」とキルシュネライトさんは言った。「いや、違うんです」と私は言った。私が「評論家」と自分で自分の職名を表現するのは日本のマスコミ一流の流儀、妙な習慣に合わせているからで、他に言いようがない場合に用いる微妙さがこの語の使われ方にはあり、「まぁ、そうですね、評論家というのは乞食と言っているのと同じようなことですね」とつけ加えた。

 彼女は私のアイロニーがすぐには分らなかったかもしれない。少し当惑したような、困ったような表情をなさったからである。しかし日本のマスコミの実情はきっと恐らくかなりご存知ではあるだろう。だから当惑したような表情のあとですぐに笑顔に戻った。

立春以後(三)

 2月14日(土)に黄文雄氏の六時間講演(第二回)があった。テーマは日中戦争史観。――

 ブロックは三つに分れ、「歴史捏造」「日中戦争の背景と史観」「歴史貢献」の三つである。日本に流布している日中戦争史観の完全に正反対の歴史観が確立されている。

 午前10時から昼休みを挟んで午後5時まで講義があった。そのうち1時間は「南京学会東中野修道会長の最新研究講座」であった。臨時の飛び込み講座である。

 黄氏も、東中野氏も生涯を自分の歴史の検証に捧げて見事で、胸を打つ。同時代にこういう人が存在していたことを知るのはわれわれの希有にして貴重な体験である。われわれは見逃してはならないのだ。

 世の中にはもの凄い人間がいるということだ。われわれは歴史の逸話としてそういう人間についてたくさん読んできているが、いざ目の前にいる、同時代人となると、つい見逃してしまう。自分の生きている同じ町に、同じ空気を吸って、同じような物を食べている人間に、偉大な「例外者」がいるということを理解することはなかなか難しいことなのであろう。

 東中野氏は講演中にふと自分の生きているうちに曙光を見るとは思っていないと仰った。若い人の中に後継者がほしい。今日のお集りのようなお年寄りの皆さんではもうダメなのだ(と言って皆を笑わせた)。若い後継者に語り伝えていくための考え方の正確な筋道をいま準備している、と。

 国際法に違反するような南京虐殺はいっさいなかったことを証す昭和12年のあの日に、われわれが正確にもう一度もどること――それが「歴史」である。そのための考え方の筋道をきちんと用意しておきたい。若い人にそれを遺したい。東中野氏のそういうメッセージは痛いほどに私には分った。

 私はご講演の内容をいまかいつまんでここで述べることは控えたい。それは氏のご著書を読んで各自学習していたゞきたい。たゞこの日の氏のお話は諧謔を混じえて確信に満ち、聴講していた旧友のK君がむかし学生時代に聴いた人気教授の講義のようだった、と言った。そのことからも分るように、壇上一杯にチョークを振り翳して動き回る細身の東中野先生が今日はいかに説得的で、颯爽としていたかをお伝えするに留めよう。

 黄文雄氏が同じように「もの凄い人間」のお一人であることはこのブログの「大寒の日々(一)」でもつい先日お伝えしたので、くりかえすことはしない。

 黄氏は年に数冊の本を書きつづけてこられた。中国の古典から現代書まで読みこなしての日本への情報の大量伝達は、われわれの社会の中国研究家の誰ひとりなし得なかった偉業である。その影響は量り知れない。

 そんなにたくさんの本が出せるのは氏の本が売れるからである。そして氏は家が買えるくらいのお金を毎年台湾の独立運動のために献じているらしい。誰にでもできることではない。

 さらに独立運動のために世界中を飛び回っている。氏もまた自分を超えるものの存在を信じ、生涯を捧げている人である。

 来年からは自分のために生きることを少し考えているとふと洩らしていたが、氏も東中野氏と同じように年齢の限界を感じ始めているのであろう。

 この日5時間語ったご講義の内容は大変入り組んで、清朝中国史にも及び、とても簡単に要約することができない。私はノートを取り、録音もした。今日は録音を再聴している余裕がないので、私のノートの中から後先の順不同で、印象にのこった言葉のいくつかを書き記しておこう。(文章の選択は任意で、黄先生にはご迷惑であろう。文責は私にある。)

 

「日中戦争は中国の内戦に対する日本の人道的道義的介入であった。中国のブラックホールに日本は巻き込まれたのである。米英が逃げてしまった後に巻き込まれたのが実情である。」

「清朝の時代は中国史の黄金時代だったが、それでも内乱と疫病は止まなかった。ペストなど人類の疫病の発生源は中国である。」

「自然破壊が清王朝の崩壊の因である。森の消滅、巨大水害と干魃、いなごの害で数千万人単位の餓死者が出た。」

「戦争をしなくても匪賊(強盗団のこと)が跋扈する社会だった。戦争に敗けたら匪賊になり、勝ったら軍閥になる。それが中国である。」

「日本では8万の東軍と7万の西軍が対決した関ヶ原の戦いが史上最大の内戦であるが、人類史上最大の内乱を記録した太平天国の乱は、10-15年もつづき、清朝の当時の人口4億の約10-20%、5000万人-8000万人の死者を出した。そしてひきつづき回教徒を虐殺する乱が起こり、イスラム教徒約4000万人が殺戮された。」

「辛亥革命のあと中華民国になってから以後も内乱は止まず、国民党内部も激しく戦い合い、中国共産党もまた内部で殺し合いの嵐が吹き荒れた。文化大革命も中国史に特有の内乱のひとつにほかならない。日本はこうした内乱の歴史に『過去の一時期』(と日本政府はよく言うが)、たしかにほんの一時期巻き込まれたにすぎないのである。米英はその前にうまく逃げてしまったのだ。」

(この項つづく)